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やくざ映画にみる<男>の変容

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やくざ映画にみる<男>の変容
 Title
Author(s)
<男>とは何だったのか? : やくざ映画にみる<男>の変容(第1
回講演)
酒井, 隆史
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
女性学連続講演会. 2010, 14, p.1-16
2010-03
http://hdl.handle.net/10466/12692
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
第1回講演
<男>とは何だったのか?
―やくざ映画にみる<男>の変容―
酒井 隆史
今日はまさに<男>の表現の極北ともみなされているだろう、日本にお
けるやくざ映画をとおして、<男>について考えてみたいとおもいます。
まず、
私がなぜこのような表現を取り上げるのかというと、私がこのジャ
ンルに属するものに距離を感じているからではありません。その逆で、惹
かれるからなのです。とりわけ、私にとって高倉健という役者の存在は、
なにものにも代え難いものがあります。
<男>は、さまざまに批判をされ、社会的条件から物理的にももう内側
から崩壊し、形骸化し、さらに批判されるべき要素だけをさらけだしてい
るようにもみえます。しかし、私はかつて<男>に託して夢見られたもの
のなかには、大切なものがたくさんあったのではないか、とも感じていま
す。今日はそれらの視点から、全体像を描くことはとてもできませんが、
ともかくもほとんど忘れさられただろうかつての「夢」とその崩壊をみる
ことで、考えるための端緒をつかめればとおもっています。
1 身ぶりとしての<男>
1.
1 映画と身ぶり
はじめに
「身ぶり」
ということを考えてみたいとおもいます。なんといっ
1
第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
てもやくざ映画において、とりわけ1960年代に定式化され、この時代に際
限なく撮られ、また爆発的に流行した「任侠もの」において、もっとも重
要な要素とは身ぶりです。そこでは男も女も、身ぶりの存在としてまずあ
らわれる。だから映画であることが重大なのです。
ここで、ベラ・バラージュというハンガリーの批評家の古典を参照して
みましょう。バラージュによれば、映画術が発明される以前は、身ぶりの
文化はひたすら衰退する一方でした。つまり、近代における印刷術の発明
は、人間の文明を見る精神から読む精神へと移行させ、それによって、か
つては豊かだった身ぶりや表情によって意味を伝達する方法は廃れてし
まったのだといいます。ところが、それが映画によって変化するというの
です。かれは次のようにいいます。
「いまや映画は、文化にひとつの新しい転換をもたらそうとしている。少なくと
も、文化に新しいニュアンスを与えようとしている。数百万の人間が、毎夜映画
館の中に坐って、言葉に頼ることなく、もっぱら目を通して、さまざまな事件や
人物や感情や情緒に、いや思想にすら親しんでいる。
なぜなら、字幕は映像のもつ精神的内容には手が届かないし、その上、それは
まだ未発達な芸術形式の、一時的で不自由な記号にすぎないからである。人類は
身振りや動作や表情などによる素晴らしい豊富な言語をおそらくすでに所有して
おり、それをすでに学びとっている。それは…言葉の代用品としての記号言語で
はなく、直接に形象となった魂を視覚的に伝達するものである。人間は再び目に
見えるようになった」( ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫(原著出版年
1924 年)より)。
1.
2 任侠映画における身ぶり
このことを念頭におきながらまずみてもらいたいのは、『昭和残侠伝』
の一シーンです。1965年の東映映画。監督は佐伯清です。通史的にいえば、
映画産業全盛期が1950年代にやってきます。この時代に東映の屋台骨を支
えた一つのジャンルが時代劇でした。ところが時代劇は衰退する一方で、
さらにそもそも映画産業時代がどんどん傾き始めます。そのとき救世主の
2
酒井 隆史
ようにあらわれたのが、やくざ映画でした。やくざというアウトローを中
心にすえる物語はもちろん近代はじめからずっとあります。映画もそうで
すし、小説、芝居、浪曲、講談と枚挙にいとまがありません。遡ってみて
も歌舞伎でも侠客という存在はたとえば幡随院長兵衛の物語などで語られ
てきました。ここでまずみたいのは、1960年代はじめに定式化されたそれ
であり、ここでは「任侠もの」とひとまず呼んでおきましょう。
いまからみるのは、一連の60年代のこのジャンルのなかでも傑作という
わけではないのですが、一世を風靡したシリーズの第一作であり、一つの
典型的パターンを提示しているということでもってきました。まずこれは、
高倉健ら、いわば「善」を体現する一家に、いわくありげな男、池部良が
訪ねてくるシーンです。
池部良と菅原謙次のやりとりは、いわゆる「仁義をきる」という作法で
す。ここから、その作法が、一方的にまくしたてるのではなくて、とても
ややこしい相互的な儀式であることがわかりますね。一連の任侠映画だと、
旅にでたやくざがその地域の一家にやってきたとき、あるいは、同業者同
士が出逢ったときにこの仁義をきる儀式がおこなわれます。『男はつらい
よ』
の車寅次郎の仁義の口上はみなさんも聞いたことがあるとおもいます。
それにしても、この池部良の仁義はキマっているとおもいませんか?言葉
の分節、アクセント、身体の微妙な傾き方、上目遣いの角度など、すみず
みにまで神経が行き渡っている。とても美的に構成されています。やくざ
3
第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
映画の魅力のひとつはそこにあります。坐って立つといったような日常的
な身ぶりから、ひとの所作ひとつひとつに、こまやかな美意識が宿ってい
ます。
「やくざ」といっても、そこには歴史があり、近代に入ってからも、
日本社会のなかで複雑な地位をしめ、その示す意味も変わっていきます。
今回はそれを論じている時間はありません。でも、現在の「暴力団」とい
う括りでのみながめるとわからなくなるということだけは念頭においてく
ださい。そもそもそこには、戦後でいえば、博徒とてきや、そして愚連隊
という、本来、分けて考えるべきものが一緒くたにされているのです。
しかし、
「てきや」もふくめて、いわゆる「やくざ」と呼ばれるような
集団は、
「前近代的」
「封建的」として批判されてきましたが、逆にみれば、
日本社会全体がもっていた伝統的な日常的ふるまいを残していたわずかな
小社会であったということもいえます。たとえば、「仁義をきる」という
儀式も、もともと江戸期から日本を修行してまわる渡り職人の社会にも
あったものです。あとでまたふれますが長谷川伸(1884−1963)という大
衆文学作家、劇作家がいます。かれの戯曲は非常にすぐれていて、「関の
弥太っぺ」
「沓掛時次郎」
「瞼の母」
「一本刀土俵入り」などなど、その古
典のいくつかはいまでも大衆演劇や商業演劇、歌舞伎の世界で頻繁に上演
されています。かれによって「股旅もの」というジャンルが創設されたと
いわれています。要するに、長谷川伸は、近代になって山のようにつくら
れたあらゆる「やくざもの」
、ある種の「アウトローもの」のルーツにあ
る人です。長谷川によって「仁義をきる」という所作が物語のなかに取り
入れられました。しかし、かれはそれを「やくざ」からえたわけではあり
ません。長谷川伸は横浜の土木業を営む家庭で育ちました。こうした環境
から、かれは近代以前からの職人の伝統的な所作や気質、生き方をつぶさ
に観察する機会をえたのです。
「仁義をきる」という儀式も、長谷川伸が
渡り職人たちのすがたから取り入れたものでした。また、かれのえがく「や
くざ」の義理人情の世界は、この渡り職人たちのありかたや挿話をもとに
したものがたくさんあります。
4
酒井 隆史
1.
3 奇妙な逆説
おそらく高度成長の1960年代は、日本社会が伝統的に蓄積された身ぶり
が喪われる時代であったといえるようにおもいます。奇妙なことに、まさ
にこの時代、映画においてはやくざ映画というジャンルを通して身ぶりが
大々的に復活したようにみえます。近代主義への懐疑と、喪われていくも
のへの強烈なノスタルジーでしょうか。
1.
4 身ぶりとしての<男>の体現者としての任侠映画における高倉健
さて、ふたたび『昭和残侠伝』をみてもらいます。まず敵対する一家に
よるいやがらせに耐えかね抵抗した松方弘樹ですが、一家に拉致されてし
まいます。そこで、リンチされてしまうのです。それを高倉健は単独で救
出にむかいます。
丸腰で敵対する一家の事務所にでむき、敵意むきだしの男たちに囲まれ
ても、ひるむことなく堂々とわたりあい引き取っていきます。このシーン
にはまさに、
この時代に夢見られた<男>とはどのようなものだったのか、
見事に体現されているようにおもいます。発砲された弾が手をかすめ、着
流しの袖口から血が流れます。なにもなかったかのように、「それだけか
い」
、
「撃つんならここを撃て」と胸をさしてみせる。この一件で敵はひる
んでしまい、あとは健さん、場を眼だけで威圧します。殴りかかろうとす
る組員もにらむだけで、手をひっこめる。自分たちの一家、そして地域の
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第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
人々のために、語らず吠えず、みずから身を挺して、武器ももたずに乗り
込んで勝利する。このような<男>が理念とされ、それをほかならぬ高倉
健こそが体現できたのです。
2 任侠映画における高倉健
2.
1 1960年代任侠映画の基本的パターン ここで『昭和残侠伝』の説話上のパターンをみてみましょう。ここには、
任侠映画の基本的要素がすべてあらわれているようにおもいます。
1,浅草のてきや・対・新興博徒
2,新興博徒の嫌がらせ
3,てきやの親分が新興博徒に殺害
4,報復にはやる若い衆を復員してきた高倉健が押さえる
5,浅草の復興を地域の人々と担う
6,つづく嫌がらせ
7,子分の殺害
8,我慢、不安な人々を安心させることに務める
9,みなで築いたマーケットを焼き討ち
10,我慢の限界
11,殴り込み
てきやと新興博徒の紛争という設定には、てきやと博徒の差異という軸
に、新旧の対立がかぶさり、そこに前近代と近代、そして西洋と日本とい
う二項対立的な意味が付与されていることがわかります。それは新興博徒
の親分が洋装で、てきやが和服である、という服装の差異にも表現されて
いる。ただし、ここはもっと細かくみなければなりません。表面上の西洋
と日本という対立には、ひそかに国家と地域、エリートと民衆という対立
軸がひそんでいることが多いのです。すこし生硬な表現をさせてもらえれ
ば、階級的対立軸が挿入されている。それは、このジャンルの大立て者で
6
酒井 隆史
あり、たくさんの作品を撮っているマキノ雅弘監督という人物について考
えてみる必要がありますが、ここではそれはおいておきます。敵対勢力で
ある新興博徒には政治家や官僚が癒着して、一種の腐敗複合体をなしてい
ることが多いのです。この物語でも、高倉健が我慢の限界を超えてしまう
直接のきっかけも、マーケットが焼き討ちされる事件です。直接の身内で
ある一家の人間が嫌がらせにあったり殺害されることではないのです。こ
こは重要です。てきやの一家はあくまで地域の民衆のなかに溶け込み、地
域の民衆の利害とともにあるのだ、という設定がそこにあります。このよ
うな構図はとりわけ、マキノ雅弘が得意としたものだといえるでしょう。
2.
2「義理と人情をはかりにかけりゃ」
長谷川伸の
「股旅もの」
から、
このようなやくざを主役にすえた表現には、
頻繁に活用されるドラマツルギーがあります。次にみてもらうのは、先ほ
ど話にでてきたマキノ雅弘監督の『侠客列伝』
(1968年)のワンシーンです。
「どっちが死のうが後か先じゃねえか」という鶴田浩二の、苦しいなか
で出来事の重さを軽減するような声音をつくり、高倉健の罪意識の負担を
除こうとする思いやりが切実に響くせりふまわしがすばらしい。とても美
しいシーンです。ここで典型的にみてとれるのが、義理と人情という要素
をことさらに矛盾させてみせ、その矛盾の対立を激化させることで、劇的
世界を構築する方法です。
鶴田浩二と高倉健はたいしたつながりはないが、
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第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
少ない接触のなかで、
深く共感し合っています。友情を感じているのです。
ところが、いわゆる「渡世の義理」でもって、鶴田浩二はみずからの意志
に反し、高倉健を殺害しなければならなくなる。ここで義理と人情の板挟
みになるのです。そのとき、義理をとおすことが最優先されるのが任侠映
画の特徴です。高倉健も
『昭和残侠伝』
でうたってますよね。「唐獅子牡丹」
という曲です。
「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」。義
理の世界はある種の掟の世界であり、
象徴の世界です。<男らしさ>とは、
国家のような公式の世界の法は破っても、義理によって代表される、この
仲間内の世間の掟に従うことにあります。だから、掟を破ることは<男ら
しさ>を毀損してしまうことにもなりかねない。しかし、ただ掟に従い、
義理によって人情を殺すだけの人間であれば、それは非情な建前だけの人
間像にもなりかねない。このシーンは、その矛盾を和解させるための巧み
な方法をとっています。つまり、鶴田浩二を旅人の義理でもって使い、高
倉健を殺害させようとする一家の一員が、卑怯なことに陰からピストルで
高倉健を撃とうとします。それにいちはやく気づいた鶴田浩二は、みずか
ら身を挺してかれをかばい、そして死んでいくわけです。結果的に、鶴田
浩二は人情を押し通したということになります。義理という建前のゲーム
の規則違反をすることもなく、人情を押し通す。ここで、二人の友情の深
さがなおきわだつのです。
2.
3 なぜ<男>は、高倉健なのか?
高倉健と鶴田浩二は、1960年代東映任侠映画の二大男性スターといえる
でしょうが、二人を比較して、なぜとりわけ<男>とは高倉健だったのか
を考えてみましょう。ここで参照したいのが、斉藤綾子さんの「高倉健の
曖昧な肉体」
(
『男たちの絆、
アジア映画―ホモソーシャルな欲望』平凡社、
2004年)という興味深い論文です。斉藤さんは二人を比較して次のように
いいます。
「高倉健の肉体は、二枚目として活躍した鶴田浩二が持っていた、女の愛情をそ
の肉体に背負っているような官能を感じさせる肉体性ではない。鶴田浩二の精神
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酒井 隆史
と肉体はみごとにハーモニーを保っている」。
鶴田浩二はしばしば匂い立つような色気を発します。女性との関係も高倉
健に比較するならば、
禁欲的とはいいがたいものがある。それにたいして、
高倉健と女性とのあいだの関係性はいつも距離があり、緊張があります。
その論文にはまた次のような引用があります。
「長かった二枚目修行の成果として、彼ら[池部と鶴田]は「目にものを言わせ
る」ことができる…彼らの肉体には共通して、快楽を知りつくした後のようなか
すかな弛緩となだらかさがあり、それは高倉健のつねに直線的で単純な軌跡を描
く肢体と明らかな視覚的対照をつくって[いた]」(渡辺武信『ヒーローの夢と死』
思潮社、1972 年)。
このような直線性や単純さが、高倉健がとりわけ男性から圧倒的に熱狂さ
れる理由の一つなのでしょう。もう一つ引用をさせてください。
「高倉健はつねに、他の男優との関係のなかで「男が男を男として認める」とい
う図式を体現化してきた。やくざ映画を見続けた観客たちも、その高倉健が「男
になっていく」姿を目に焼き付けたのだろう。その意味で、当時の反体制の若い
観客たちにとっては、父性の代理としての鶴田浩二や二枚目的な大人の池部良に
憧れながらも、高倉健のみが自らに近い存在として同一化と共感を生む「健さん」
となりえたのであり、たとえ虚構の関係であっても、強い感情的な絆を結べる存
在であったのではないか。失われた父性と去勢された男性性を背負わされてきた
戦後の学生運動の世代にとって、任侠映画が差し出したものは、…<シンボル>
としての象徴的な男性性への郷愁だったのだろう。そのシンボルを具現化したの
が、任侠映画が持っていた様式としての倒錯した伝統であり、美であり、近代と
伝統とを抱え込んでしまった高倉健の肉体である」(斉藤綾子、前掲論文、強調引
用者)。
直線的で単純、そして不器用な健さんが、酸いも甘いも知り尽くした兄
9
第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
貴分の男性たちから見守られ、
支えられながら<男>として成熟していく。
この過程のうちに、戦後の「象徴的な男性性」を喪失した戦後の若い男性
たちが同一化し、理念とすべき象徴的次元を後ろ向きにみいだした。なる
ほど、それもたしかにいえるでしょう。それにしても、「不器用さを美学
的に昇華する」高倉健のありようは不思議なものがあります。直線的であ
ることや単純であることは、しばしばぶざまであったり、美からはかけは
なれたものであったりします。この世の多くの人たちは、日常のなかで何
度も壁にぶつかり、
「どうして自分だけこう不器用なのか」と低い声で嘆
きながら生きているでしょう。美からはほどとおいみずからの生き方のな
かでどこかに支えを求めながら危うく生きている。だから不器用さはたし
かに、
共感をさそいますし、
不器用さをさらけだして懸命に生きるスクリー
ンのスターの姿は親密さを呼ぶでしょう。しかし、それだけでは親しみや
すい庶民的スターです。そのような人はたくさんいます。高倉健はその域
を超えている。高倉健がとくにやくざ映画でみせる特異性は、この不器用
さを美学に昇華させることです。直線的であることや単純であることが、
崇高なまでに倫理的な美学になるのです。
2.
4 homosociality/homosexuality
とりわけ日本の男性の多くは、異性にたいして器用ではないといわれま
すね。高倉健の女性との「不器用」さは、決してかれが「もてない」から
ではありません。それはかれが選択したものであり、一つの生き方の美学
です。これは多くの日本の男性がもつ不器用さを肯定し、そこにある正当
性を与えてくれる。人気の理由の一つはこういうところにあるかもしれま
せん。斉藤さんはさらにおもしろい分析をされています。高倉健には女性
との距離と、それと裏腹の男性との過剰な近さがあります。実際に、『昭
和残侠伝』では、三田佳子と高倉健はほとんど眼を合わせないし、接近に
は緊張感が漂います。それにたいし、池部良とのあいだにはそのような緊
張感はありません。たとえば、次のようなシーンです。
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酒井 隆史
さっき高倉健は敵対する組事務所に拉致された仲間救済のため単身のり
こんで鉄砲で腕を撃たれましたよね。
それを池部良が治療するシーンです。
苦痛を抑えきれない高倉健が余裕をもって対処にあたる池部良を頼りきっ
ていること、信頼と親愛を表現する構図が、上から見守る池部良を下から
じっと見つめる高倉健のポジションにみられます。斉藤さんはこのシーン
に、女性嫌悪をその裏面に張り付けたホモソーシャルな世界が、ホモセク
シュアルな領域に足を踏みはずす危うい瞬間であると分析をされていま
す。そこで着目されているのは、このシーンに流れる汗と血です。汗や血
が、ある種の性的交わりの象徴であること、さらに池部良が弾丸を抜き取
る際にみせる高倉健の苦悶の表情です。ここにはきわだって、性的な含意
があるといいます。 このような分析は、<男らしさ>にひそむある穴を示唆しています。
<男らしさ>はいつもどこか破綻をしているし、その破綻によって機能す
ることもあれば、破綻によって崩壊することもある。こうしたこまやかな
視点でみると、またおもしろくなるとおもいますよ。
3 やくざ映画の1970年代―解体する<男>
3.
1 任侠ものから実録ものへ―深作欣二監督『仁義なき戦い』(1973年)
東映やくざ映画は徐々に衰退し、その没落とすれちがうように上昇して
いくのが「実録もの」といわれるあたらしいやくざ映画の様式です。その
11
第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
代表作である、
『仁義なき戦い』第一作の冒頭のシーンをみてみましょう。
主役はここでは高倉健や鶴田浩二から菅原文太にかわります。
任侠映画における美しい町並みは、一転して戦後の猥雑な闇市に変わり
ます。菅原文太の食事の仕草もみてください。様式性を欲望が圧倒してい
ますね。ぶれるカメラは、対象との距離がとれないこと、美的な均整を喪
失していることを示唆しています。仁義はここでは解体し、義理と人情と
いう二つの異質な要素を組み合わせるドラマツルギーも機能しません。な
ぜなら、義理も人情も、欲望とそれを貫徹させるための利益計算に従属し
ているからです。この世界ではもはや、ひとはだれもが平気で互いを裏切
るのです。友情も打算の上でしか成立しません。実録ものの構築する世界
はきわめてマッチョな世界ですが、しかし、高倉健の体現していたような
<男らしさ>は危機に瀕しています。
『仁義なき戦い』は、<男らしさ>
から倫理性を剥奪するのです。そこにはとりわけ脚本家笠原和夫の高倉健
にまたかつてみずからも負わせ、高倉健をとおして表現されてきた<男ら
しさ>への透徹した批評性が垣間見えます。
3.
2 様式性をとおした身ぶりの解体―市川崑監督『股旅』(1973年)
もう一つ、同時代の作品をみてみましょう。市川崑監督がATGで撮っ
た傑作やくざ映画の『股旅』です。これも「実録もの」とおなじように、
それまでの任侠映画にたいする批評性に貫かれています。任侠ものにあっ
た虚構性をある種の「リアリズム」によって相対化するのです。作品をと
おしてしつこく歴史的な注釈をつけるナレーションもそうです。また、そ
もそも小倉一郎のようななんともやくざからも<男らしさ>からもほど遠
そうな人物を主役級につけたのもそうです。かれは『仁義なき戦い』のシ
リーズにも煮え切らない若いやくざとして登場していたように記憶します
が、とにかく1970年代にはテレビドラマにも出ずっぱりの超売れっ子でし
た。この時代はかれのような人を求めていたともいえるとおもいます。と
くに注目したいのは、
冒頭におかれた仁義を切るシーンです。みてみましょ
う。
なんとも間の抜けたぐだぐだのものになっています。仁義を受ける主人
12
酒井 隆史
は、途中でめんどくさくてイヤになっています。一面では「リアル」です
よね。たとえば手拭いです。汚い手拭いを差し出したり返したり、なにを
してるんだ、とおもった方も多いでしょう。これはいわば形式化した贈与
です。手拭いを世話になる主家へのみやげというか、あるいは代価と見立
てて、それをやりとりするのです。この手拭いさえあれば、なんとか旅を
つづけられたともいいます。幕末の農村共同体の解体状況のなかで農村か
らはこうした渡世人になる若者が大量にあらわれたといいますし、ナレー
ションもそれを解説しています。一方で、三人の若い渡世人は、仁義を切
るこの儀式に憧れているようにもみえます。かれらはいわば、任侠ものに
憧れる現代の若者の姿でもあるのでしょう。しかし、かれらの口からあら
われるのは、歯切れ良い美しい口跡をとおして発せられる言葉ではなく、
訛りによって聞き取りづらいたどたどしい言葉なのです。しかも、主人は
かれらをまともに相手にはしていない様子。このかつては美的な均整の頂
点に位置づけられた儀式が、このようにぶざまで不均整なものになり、作
品の最初におかれるということが、はやくもこの作品が一世を風靡した任
侠ものにどのような立ち位置をとっているかを示しているようです。
物語も、かれらには仁義もへったくれもありません。なんとか親分に取
り入りたい一人は、それほど葛藤もなしに親を殺害します。旅の途中で三
人の一人、尾藤イサオは足のケガを悪化させて、痛い痛いとうめきながら
死んでしまう。残った二人、小倉一郎と萩原健一も、出世のために友情を
簡単に裏切りながら、でもどこかその裏切りに徹しきれない、とことんダ
メな人間として描かれます。一見、マッチョであり暴力渦巻く『仁義なき
戦い』とは異質なようにみえて、深いところで共通性をもっているとおも
います。
4 べつの系譜
4.
1 泣く男―長谷川伸=加藤泰の世界
1970年代を通して、1960年代のやくざ映画の構築した<男らしさ>の解
体していく過程をみてみました。
13
第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
最後に、この系譜のルーツの一つでありながら、その系譜において少々
周縁におかれてしまった、もう一つの脈絡があるようにおもわれます。そ
れを、みてみましょう。先ほども話にでた長谷川伸です。そもそも「股旅
もの」というジャンルを創設し、やくざといわれるアウトローの存在を主
人公にすえた物語の発展に大きく寄与したのがかれです。その代表作『瞼
の母』は幾度も舞台にかけられ(いまでも日本中のどこかでほとんど毎日
上演されているとおもいます)
、映画化も何度かされています。とりわけ
私は監督加藤泰で主演中村錦之助のもの(1962年、東映)が好きなのです。
錦之介の泣くシーンがいいのですよ。中村錦之助演じる番場の忠太郎とい
うやくざものは、幼い頃に親に捨てられて、それからぐれながらもずっと
母親を探し求めています。やっと母親を捜し当て、いさんで逢いにいくの
ですが、予想に反し、けんもほろろに扱われます。そのとき、この母親の
まえで忠太郎は泣くのです。もうあられもなく泣きます。忠太郎は母の仕
打ちのあまりのことに、突っ伏して泣き、それから手拭いをとりだし目に
あてます。この泣きっぷりは見事だとおもいます。ひとしきり泣いた後、
恨み言を投げつけ、母親のもとを去ります。ここらのセリフは長谷川伸の
戯曲のなかでもとりわけ名高いものですが、言い回しも、この美しい恨み
言に説得力をあたえるのもとてもむずかしいとおもいます。若い錦之助は
大川橋蔵ほどではないですがどこか甘いところがあり、そのほどよい甘さ
が番場の忠太郎にはふさわしかったとおもいます。加藤泰は、この悲しい
シーン全体をいつものように低い位置から捕らえます。
14
酒井 隆史
忠太郎は情におぼれて恥じることがありません。情をいつも押し殺し、
その情を抑える力に<男>という意味をあたえる高倉健の演じるやくざと
はここは大きく異なりますね。
4.
2 「原始任侠道」における義理人情
長谷川伸については、佐藤忠男さんがすぐれた著作をあらわしておられ
ます。そこでは人情と義理があれば、つねに建前において義理が優越する
標準的なやくざ映画とは異なり、むしろ人情の方が優越します。だから、
その世界にはやくざというアウトロー集団からもほとんど離脱した、二重
の離脱者である放浪者が主役としてあらわれるのです。加藤泰は中村錦之
助を主役にすえて、
長谷川伸のこれもまた有名な戯曲『沓掛時次郎』を撮っ
ています。
『沓掛時次郎 遊侠一匹』
(1966年、
東映)というタイトルです。
行きがかり上、斬ってしまった男の妻と子どもの面倒をみながら旅をし、
病におちたその妻を懸命に看病し、やがて二人は惹かれあいますが、女性
にとっては時次郎はかたきですよね。その葛藤に苦しんだ女性は子どもを
つれてみずから身を隠すのです。しかし、いずれ再会し、ふたたび時次郎
はこの病身の女性に献身します。佐藤さんは『沓掛時次郎』を取り上げな
がら、長谷川伸の世界において「忠」という観念がどのように扱われてい
るか、次のようにいわれます。
「忠という観念は、主君への忠誠とか、忠君愛国とかいう文脈の中でばかり使わ
れすぎたために、今日ではもっぱら、自分より上位の何者かに対する忠誠を意味
する観念になっているが、もともとの意味は「誠実」に近いものであり、相手が
何者であるかにかかわりなく、その相手に誠実につくす義務感を示す言葉である
と思う。/だとすれば、長谷川伸=加藤泰の世界では、その主人公は自分より弱い、
あわれな自分よりもっとあわれな女のために忠をつくすというところにモラルの
土台を持つのである。…すべての男は、すべての女に負い目があり、すべてのや
くざはすべての堅気の衆に負い目があり、すべての大人はすべての子どもに負い
目がある。ただ、それを自覚するかどうかが、良い人間と、悪い人間との違いであり、
その自覚をうながすことが彼らのドラマツルギーなのである」(佐藤忠男『長谷川
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第1回講演 <男>とは何だったのか?―やくざ映画にみる<男>の変容―
伸論』岩波現代文庫、2004 年)。
佐藤さんはさらに、
「原始任侠道」ということをいわれます。もともと
侠客のルーツをたどるならば、それは強い者に対し弱い者が集団的に抵抗
することを可能にするある種のモラルであり、あるいはある種の仲間の関
係性でした。たとえば、侠客の祖の一人は、旗本(武士)の暴虐に町衆を
代表して抗い謀殺された幡随院長兵衛です。かれは幾度も歌舞伎などで上
演され、いまにいたるまでの私たちの良き侠客のイメージを形成していま
す。おそらく原始任侠道というものがあるとしたら、必ずしもこのように
英雄的ではなく、もっと狡猾で、もっと戦略的、複雑で、もっと集団的な
ものであったとおもわれます。
「侠」あるいは「おとこぎ」はべつに現実の性的に男性に限定的に属す
るものではありません。女性にも「おとこぎ」のある人とか侠のある人と
いう言い方はしますよね。たとえば桐野夏生の小説では、「おとこぎ」の
ある女性があらわれます。彼女の小説を読んでいると、もう「おとこぎ」
は男をとおしたのでは説得力がないかのような冷酷な「見切り」すら感じ
ます。
最初にすこし述べましたが、私は高倉健をとおして描こうと試みられた
かつての<男らしさ>にも惹かれます。そこには失ってはならないものが
たくさんあるようにおもうのです。しかしそれは決して生物学上の「男」
の独占物ではない。任侠ものの解体から現在にいたるまで、「おとこ」は、
この寄り添うべき大きなものが失われた世界を生きていくために必要なな
にかであることが発見される過程であるのかもしれません。
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