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ダウンロード - レコードショップ芽瑠璃堂
芽 瑠 璃 堂 マ ガ ジン 『 R O O T 』 # 0 0 4 ウォール・オブ・サウンド特集 ROOT SELECTION∼X’ masアルバム 芽瑠璃堂マガジンWEB 人気記事紹介 芽瑠璃道∼芽瑠璃堂の原点を辿って 葉月賢治の編集後記 4 私にとっての ウォール・オブ・サウンド 伝説の音壁アイドル 原めぐみ 復活記念 全曲解説 WALL OF SOUND 音の魔術師∼フィル・スペクター 文=葉月賢治 IN MEMORY OF PHIL SPECTOR 2011年11月現在、書店で容易に入手できて、日本語 り入手困難かつ貴重なシングル B サイドを収録したもの で読めるフィル・スペクター関連の本と言うと、真っ先に です。収録アルバムは、クリスタルズ『ザ・クリスタルズ・ 思い浮かぶのが、マーク・リボウスキーが書き、あの大瀧 ツイスト・アップタウン』 (1962 年)、クリスタルズ『ヒー 詠一が監修を務めた「フィル・スペクター 甦る伝説 増補改 ズ・ア・レベル』 (1963 年)、ボブ・B・ソックス & ザ・ブルー・ 訂版」 (白夜書房) 。さらにキングスレイ・アポットが書い ジーンズ『ジップ・ア・ディー・ドゥー・ダー』 (1963 年)、 た「音の壁の向こう側 フィル・スペクター読本」 (シンコー クリスタルズ『ザ・クリスタルズ・シング・ザ・グレイテ ミュージック)というのもあります。2011年には、別冊 スト・ヒッツ Vol.1』 (1963 年)、オムニバス盤『フィレス・ ステレオサウンド、Beat Soundの特別号として「Beat レコーズ・プレゼンツ・トゥデイズ・ヒッツ』(1963 年)、 Sound フィル・スペクター特集号」も発行されています。 ロネッツ『プレゼンティング・ザ・ファビュラス・ロネッツ・ 今回の『ROOT』ではフィル・スペクターに関する基本的 フィーチャリング・ヴェロニカ』(1964 年)、そしてボー なバイオグラフィと、日本における「音壁」にポイントを ナス・ディスクとして『フィルズ・フリップサイズ』が収 絞ってビギナー向けに進めていきたいと思いますので、 められています。 フィル・スペクターに関して何かを徹底的に知りたい方は これらの本をお読みになることを強くお勧めします。 同日にはフィル・スペクター関連の最重要アイテムで あ る、ジ ャ ッ ク・ニ ッ チ ェ の『ロ ン リ ー・サ ー フ ァ ー』 (1963 年)とパリス・シスターズの『パリス・シスターズ・ 2011 年はフィレス・レコード設立 50 周年となる記念の年 シング・エヴリシング・アンダー・ザ・サン !!!』 (1967 年) まず、2011 年後半はフィル・スペクターの創り上げて もそれぞれ発売されました。 きた音楽を愛するファンにとって、そしてポップ・ミュー ジックを好んで聴いてきた人にとって、またとない充実 グループ活動からプロデュース業へ した数ヶ月だったのではないでしょうか。11 月にはフィ フィル・スペクターは、1940 年 12 月 26 日にニュー ル・スペクターの新装ベスト盤を始め、クリスタルズ、ロ ヨーク市ブロンクスに生まれ、幼少の頃にロサンゼルス ネッツ、ダーレン・ラヴの各種ベスト盤、アメリカやイギ へ移住。10 代の頃から音楽活動を始め、テディ・ベアー リスのミュージシャンで、フィル・スペクター・サウンド ズを 1958 年頃に結成、いきなり「会ったとたんに一目 の影響を受けた楽曲の中から、優れたアイディアを基に 惚れ(To Know Him Is To Love Him)」がビルボード・ アレンジされたナンバーを収録した日本独自企画となる チャートで 1 位となる大ヒットを 3 週間に渡って記録。 オムニバス盤『テイスト・オブ・ “ウォール・オブ・サウン その後、音楽制作への興味の比重が大きくなり、プロ ド” 』 、そして忘れてはならないクリスマス・アルバムの定 デューサーへの道を歩んでいきます。1961 年にはフィ 番『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・ レス・レコードを設立。ここでロネッツやクリスタルズ スペクター』は紙ジャケット仕様で再発。これらすべて などを筆頭にヒット曲を続々と生み出していきます。ま が最新のリマスターを施されて高音質の Blu-spec 仕様で た、ビートルズとの交流も有名で 1970 年の『レット・イッ 発売されました。特に『クリスマス∼』は CD 化になって ト・ビー』ではプロデュースを務め、そこに収録されて から初めてとなるオリジナル・マスターテープからのリマ いた「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の スター音源を使用し、より一層広がりのある“ウォール・ アレンジに関するポール・マッカートニーとのいざこざ オブ・サウンド”を楽しめる仕上がりになっています。 はファンならずとも耳にした事のある有名なエピソード 2011 年 12 月 21 日には大本命である『フィル・スペ だと思います。このレコードの元となったゲット・バック・ クター・プレゼンツ∼フィレス・アルバム・コレクション』 セッションで膨大に録音されたまとまりのないテープを が輸入盤から遅れること 2 ヶ月で遂に発売されました。 ひとつの作品として短期間のうちにまとめ上げた手腕を このボックス・セットは、フィル・スペクターが 1961 年 ジョン・レノンとジョージ・ハリスンは高く評価し、それ に設立したフィレス・レコード 50 周年を記念して、アル ぞれのソロ・アルバムでプロデュースを依頼しています。 バム単体では未 CD 化となる 6 枚のアルバムと、文字通 なお、フィル・スペクターがプロデュースしたアーティ ストは数多く存在し、アイク&ティナ・ターナー、ベン・ も収録されています。この CD は土橋一夫による詳細な E・キング、ライチャス・ブラザーズ、パリス・シスターズ、 曲目解説や、すべての楽曲の歌詞なども掲載され、作り 少し意外なところでは 70 年代ニューヨーク・パンクのラ 手の愛情が手に取る様に感じられる仕上がりになってい モーンズや、カナダのシンガー・ソングライター、レナー ます。収録曲は、大瀧詠一「青空のように」 、シュガー・ ド・コーエン、さらにモダン・フォーク・カルテットなど ベイブ「雨は手のひらにいっぱい」 、松田聖子「一千一秒 もそのリストに名を連ねています。 物語」 、佐野元春「SOMEDAY」など。これらと並んで 収録されている曲のひとつが伝説の音壁アイドル、原め 日本におけるスペクター・サウンドの影響 ぐみの「涙のメモリー」でした。 そんなフィル・スペクターが作り上げたウォール・オブ・ サウンド。ここ日本では通称「音壁」として広く知られ 音壁アイドル 原めぐみ ており、その特徴と言えば真っ先に思い浮かぶのが、オー 原めぐみは 1980 年に「ボーイ・ハント」でデビュー、 ヴァー・ダビングを幾度も繰り返し、分厚く共鳴するサ 原めぐみ名義で 4 枚、原江梨子名義で 3 枚のシングルを ウンド。そして一貫してモノラルに拘ったことも挙げら リリース。TV やラジオで活躍し 1991 年に結婚、引退後 れます。例えばクリスタルズの「ハイ・ロン・ロン(Da は、輸入家具・雑貨店『Grace Note』の経営者として敏 Doo Ron Ron) 」や、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」 腕を振るっています。この「涙のメモリー」はシングル「見 などは一度聴いただけで「これがウォール・オブ・サウン つめあう恋」の B 面として 1981 年 10 月 25 日にトリオ・ ドか」と納得できるはずです。その様なフィル・スペク レコードから通算 2 枚目のシングルとして発売されまし ター・サウンドに影響を受けたアーティストは世界中に た。 「見つめあう恋」はブリティッシュ・ビート・バンド、 数多くいると思いますが、中でも代表的なのはブライア ハーマンズ・ハーミッツの 1967 年のヒット曲「There's ン・ウィルソン、日本では大瀧詠一や山下達郎が挙げら A Kind Of Hush (All Over The World)」のカバー。 「涙 れると思います。大瀧詠一がはっぴいえんど活動中の のメモリー」の作詞作曲はジューシィ・フルーツの沖山 1972 年にソロ・アルバム『大瀧詠一』を発売し、1973 優司、作詞には原めぐみ本人もクレジットされています。 年に自身のレコード・レーベル「ナイアガラ」を立ち上げ、 アレンジは藤田大士。プロデューサーは当時トリオの社 ウォール・オブ・サウンドならぬナイアガラ・サウンドが 員であった中村俊夫。氏はクリンク・レコードから 2009 生まれます。1974 年には自身の作成する原盤の管理と 年に発売された原めぐみの約 18 年振りとなる新録を収 保存を目的に「ザ・ナイアガラ・エンタープライズ」を設立。 録した『Everlasting Love』でもプロデュースを務めて ここから発売された初めての作品が山下達郎、大貫妙子、 います。この作品は、先に触れた『音壁 Japan』に収録 伊藤銀次などが在籍し、大瀧詠一がプロデュースしたシュ された事から、ファンの間で再び話題を呼び、それがきっ ガー・ベイブのシングル「DOWN TOWN」とアルバム か け と な っ て 制 作 が 実 現 し た も の。新 曲「ト ビ ラ∼ 『SONGS』でした。また、1981 年に大瀧詠一が発売し EVERLASTING LOVE∼」は原めぐみ自身が作詞を手掛 た『A LONG VACATION』は日本における音壁作品と けた意欲作で、実に 28 年振りとなる音壁作品でした。そ して最高峰に位置する名盤。 して 2011 年 12 月 24 日に前作から約 2 年振りとなる新 2008 年に発売された『音壁 Japan』というコンピレー 作『PARTY!』がクリンク・レコードより発売されること ション CD がありますが、この CD は大瀧詠一もマスタリ を記念して、原めぐみの音壁作品『Everlasting Love』 ング協力としてクレジットされ、2011 年 11 月現在、非 の全曲解説を中村俊夫自らによる熱のこもった解説でお 常に入手困難であるシリア・ポールの「夢で逢えたら」 楽しみ下さい。 伝説の音壁アイドル 原めぐみ 復活記念 中村俊夫 全曲解説 2. 涙のメモリー 81 年 10 月にリリースされた原めぐみの 2nd シングル「見 つめあう恋」のB面曲。2008 年にソニーからリリースされ たコンピレーション『音壁 JAPAN』に本曲が収録された ことにより、久々に音壁ファンたちの間で原めぐみの記憶 が甦り、それが彼女の音壁新曲発表のきっかけとなった。 まさに“伝説の音壁アイドル”復活のカギとなった作品だ。 2nd シングルのA面をハーマンズ・ハーミッツのカヴァー と決めたものの、 B面をどうしたら良いか、しばらく思案に 暮れる日々が続いたのだが、そんなある日、私が音楽雑誌 記者をしていた頃から交流があったジューシィ・フルーツの 沖山優司くんと、誰か ( 大瀧詠一さんだったような記憶が … ) のコンサート会場で遭遇。二人でお茶を飲んで雑談し ているうちに、フィル・スペクターの話で盛り上がり、彼に B面用に一曲書いてもらうことになった。沖山くんはロネッ ツの「I Wonder」を意識して書いたそうで、彼の意向は さび前の♪あなたがそばにいたなら∼♪という個所のバッ キングのリズムに反映されている。 1.トビラ∼EVERLASTING LOVE∼ 曲を貰ったものの適当な作詞者が思い当らず、それならば 91 年に芸能界から結婚引退した原めぐみ(当時の芸名は 他のアイドルとの差別化を図ろうと、原めぐみ自身に書か 原江梨子)にとって、18 年ぶりの新曲であり、原めぐみ名 せてみたわけだが、これが見事にハマり、彼女は作詞デ 義の“音壁もの”としては実に 28 年ぶりの作品。私にとっ ビューを果たすことに。そしてその後、28 年という長いイ ても彼女とのレコーディングは 28 年ぶりであるだけでなく、 ンターバルを経て、作詞第2作となった「トビラ∼」を発 2002 年 に ス プ リ ン グ ス の ス ト ー ン ズ・カヴァ ー 表するのである。 ( 「YESTERDAY’ S PAPER」「DANDELION」)を プ ロ デュースして以来、久々の新録制作だった。そのスプリン 3. 離さないで グスの渡辺博之が作曲とコーラス・アレンジ、同じくスプリ シングル「見つめあう恋」の制作終了後の 81 年9月から ングスの土屋剛がアレンジ&プログラミングを手がけ、さ スタートした三遊亭円丈さんのアルバム『リハビリテーショ らに CASH の太田シノブがエンジニア兼ギタリストとして ン』のレコーディング・セッションからは、2曲の音壁作品 参加。録音場所も彼のハウス・スタジオという、いつもの が生まれた。ひとつは円丈師匠が歌う「恋のホワン・ホワン」 。 気心の知れた面子 (“Toshiphonix Crew”) が集まって そして、もう1曲がこの「離さないで」である。両曲ともバッ のプロジェクトとなったのである。 キング・ミュージシャンは同じ顔ぶれで、当時「WEEKIDS」 実際にレコーディング作業に入るまでは、歌手として というバンドを結成していた丸尾めぐみさん(key)とその 18 年間のブランクがある原めぐみ嬢が一体どこまで歌い 仲間たちだ。 こなせるのか?現在のデジタル録音機材でどこまでアナ 新作アルバム『PARTY!』でも、コニー・フランシスのヒッ ログな音壁感を出せるのか?この2点がずうっと不安要素 ト2曲を収録しているが、初めて原めぐみ嬢の歌をスタジオ として頭にあったのだが、それは歌入れと仮ミックスの時 で聴いた時から、彼女の声質にはコニーの歌が合うのでは 点で杞憂に終わった。彼女の声は 28 年前と変わらぬ…い と感じていたこともあって、 「見つめあう恋」の次はコニー や、それにも増して艶やかで伸びやかだったし、ヴォーカ のカヴァー…それもまだ誰もカヴァーしていないマニアック ル、コーラス、アコギ、パーカッション類、ベース・ギター なヤツ…と決めていた。 「離さないで」はこの条件にピッタ 以外は生音を使っていない“打ち込み”で作られたバッ リで、日本語ヴァージョンはコニー自身によるものしかなく、 キング・トラックも、アナログ感漂う迫力ある音壁に仕上 邦人歌手によるカヴァーは原めぐみが最初である(未だ他 がったのだ。手前味噌ながら、私がこれまでに手がけた に現れてはいない) 。後年、訳詞を手がけた漣健児さん 音壁作品の最高峰と言っても良い、会心の一作であるこ (2005 年没 ) にお会いした時、本曲を聴いてもらったこと とは間違いないだろう。 があるのだが、 「この曲のカヴァーは初めて聴いた」と驚か れていた。 最終的に「離さないで」は円丈師匠のアルバム (LP)か し、あれから 30 年が経った現在も思う。 「テイク1のミッ らは外され、81 年 12 月にリリースされた同アルバムのカ クスは完璧だった…」と。残念ながらテイク1のマスター セット版のみに収録。長らく幻の原めぐみ作品として伝説 テープは現存していない。 化していくが、2004 年に私が企画・選曲したカヴァー・コ ンピレーション『フェイバリッツ!』( テイチク/クロニクル ) 5.トビラ∼EVERLASTING LOVE∼( モノラル ) で初CD化を果たした。 スペクター・サウンドはやっぱりモノでしょう…ということ で作ったのが、このモノ・ミックス。 ヴォーカルを前面に出し 4. 見つめあう恋 た他、各楽器もステレオ・ヴァージョンとは異なった調整を 80 年夏に音楽雑誌記者からレコード会社の洋楽ディレク 施している。顕著なのが転調後の「♪二人の時間をあの頃 ターへと転身した私が、約半年後に海外アーティスト作品 に∼♪」の部分だろう。ぜひステレオ版と聴き比べてほしい。 から離れて、最初に手がけた邦人歌手が原めぐみだった。 彼女は前年 11 月に「ボーイ・ハント」という曲 ( コニー・ 6. トビラ∼EVERLASTING LOVE∼( カラオケ ) フランシスとは無関係 ) でデビューしたものの鳴かず飛ば 基本的に音数の多い音壁作品なので、アナログ録音時代 ずで、やがて所属事務所も解散。レコード会社の宣伝部預 は限りのあるトラック数をいかに有効活用するかに知恵を かりとなっていた。そんな時期に、本来彼女の制作担当部 絞ってきたが、Pro Tools などデジタル機器でのレコー 署である邦楽制作部から洋楽部在籍の私に 2nd シングル ディングが主流となった現在は、トラック数の呪縛から解 制作の話が持ち込まれる。何か目先の変わったアイディア 放され、自由にトラックを増やしていける。その恩恵に甘 を求められた私は 60 年代ポップスのカヴァーを提案し、そ えて、 「トビラ∼」のレコーディングでは総トラック数が 80 れが本作誕生へと繋がって行ったのである。 を超えた。ここで聴けるカラオケは、コーラス・パートが 音壁アレンジにしたのは、以前からフィル・スペクターの オフなので全トラックではないが、約8割方の音が聴ける 音作りに興味があり、試してみたい一心から。アレンジャー はずである。 の藤田大士さん ( 彼は 70 年代にツトム・ヤマシタのバンド のベーシストだった)にロネッツのアルバムを聴いてアレ ンジ譜を作成してもらい、各楽器の動きや絡み方等を研究 したことが、私流の音壁作りの基本となったわけで、それ は現在も変わらない。 訳詞者として「水無月孔」という名前がクレジットされ ているが、これはジューシィ・フルーツのイリアのペンネー ム。前述の沖山くんとの邂逅がきっかけだ。ジューシィの メンバーの近況などを沖山くんから聞いているうちに、イ リア嬢に訳詞をお願いするアイディアがパッと閃いたので ある。実は、彼女が在籍していたガールズとアイドル・バ ンドのスロッグが映画『グリース』収録曲を日本語カヴァー した共演企画アルバムを 78 年にリリースしているのだが、 その中でイリアが訳詞を手がけた曲がなかなか良くて、そ のことが脳裏に残っていたのだろう。 初めての音壁制作ということもあって、試行錯誤(特に 録音方法、ミックスで苦労した)をくり返しながらも、な んとか満足のいくテイクが完成。さっそく新譜発売会議の 席上で披露したのだが、営業・宣伝関係の反応はイマイチ で、特に尋常ではないリヴァーブ量の多さに懸念の声が上 ライヴ・アルバム『PARTY!』について がり、作り直しを命じられるハメに…。結局、私自身も弱 原めぐみが何度かライヴで共演しているサニー多咲とバ いと感じていたヴォーカルを録り直し、不本意ながら全体 ブルジェッツをバックに、彼女のステージ・レパートリーで のリヴァーブの量を減らして作り直したテイク2が発売さ ある 60 年代ポップスの名曲ばかりを歌ったスタジオ・ライ れ、本アルバムに収録されているのも、そのテイクである。 ヴ・アルバム。極力オーヴァー・ダビングを排したプリミティ 不本意なテイクではあるが、私にとって初のプロデュース ヴなバンド・サウンドと、歌唱力では定評のある原めぐみ 作品であり、その後も続くことになる「音壁実験」の第一 のネイキッドなヴォーカルは、いつもの音壁作品とは対極 号となった記念すべき作品であることは間違いない。しか のものだが、逆に新鮮な魅力にあふれている。 ての 私にとっ 文・資料提供=上柴とおる ウォール・オブ・サウンド 中学 2 年の 3 学期、1966 年の 1 月からいきなりポッ 英 No.1 /米 No.13)。その頃はこの両者に共通項が プス(洋楽の流行歌)を聴き出した私は貪欲そのもの あるなんて全く気も付かず(そら当然でしょ)。もし試 でした。学校から帰るともう毎日 8 時間ぐらいはラジオ 験に出てたら(!?)回答書けませんでしたわ。。。そう にかじりついていたでしょうか ?(いやほんとにそれぐ なんですよね、今のご時世ならばピンと来る人もおられ らいのめりこんでいたということで。試験の時はさすが るでしょう。どちらもいわゆる‘スペクター・サウンド ' にあれでしたけど)。日曜日なんぞはそれこそもう朝か を巧みに取り入れてるんですよね。スペクターが直接携 ら晩まで。ラジオから流れて来る曲すべてが新鮮でカッ わっているのではなくともそれ風に仕上げられておりま コ良く興味シンシン。ジャンルも国籍も何も関係なく。 す。とはいえライチャス∼は前出「ソウル・アンド∼」 そんなアホほど曲を聴く日々を過ごすうちにやはり自 (Verve 移籍第 1 弾)以前はスペクターのレコード会社 分の肌に合うものというのがだんだんわかって来るもの フィルズ・レコードに在籍していたのでスペクターが直々 でして、中 3 から高校に上がる頃にかけての多感な時 に制作をしていたのですが(「ふられた気持」もスペク 期に虜になったのはザ・バーズやラヴィン・スプーンフル、 ターの制作)、移籍後も同じソング・ライター(Barry ママス &パパスらに加えてライチャス・ブラザーズや Mann&Cynthia Weil)の曲でライチャスのビル・メ ウォーカー・ブラザーズあたりにも心を奪われておりま ドレー自らがプロデュースを担当してスペクター同様の した。50 代以下の世代の人たちは「音楽性が違うのに」 音作りを受け継いで仕上げたというわけで曲風は変わら と思うかも知れませんが、いえいえ当時の私にとっては ずといったところ。区別が付きません。 そんなもん、一緒くたです(同世代の人は似たようなも ウォーカーズの方はスペクターとの関わりは全くない んかと)。サウンドや見た目が‘カッコいい ' かどうか、 んですが上手いことその‘音壁 ' 風の作りとロネッツの それが基本でしたね。最初はみなミーハーなもんです。 「ビー・マイ・ベイビー」調のビートを取り入れて。。。い 小難しいことなんぞ考えてませんよ。 わば‘模倣 'ではあるのですがその模倣が‘魔法 ' に変わっ ライチャス・ブラザーズをリアルタイムで体験したの たのがウォーカーズ(プロデューサーは John Franz)。 は 1966 年 4 月に全米 No.1(英 No.15)に達した「ソ スペクター・サウンドのおいしいとこどりをして見事に ウル・アンド・インスピレイション」が最初。ポップスを 成功した例だと思います。しかも彼らはロネッツの曲そ 聴き始めてまだ 3 か月ほどながらこの曲がその後の私 の も の も カヴァー して ます しね。ロ ネッツ 1964 年 の人生を決めてしまったと言っても過言ではありませ No.23 のヒット「恋の雨音」を 1967 年全英 No.26 に、 ん。今でも覚えてますよ、この曲を聴いた後、自宅の(狭 そしてロネッツが 1966 年 10 月に録音した「ふたりの い)庭に出て空を見上げ「これからもず∼っとポップス 太陽」を 1967 年の 3rdアルバム「イメージズ」で取 を聴いて行くぞー!」と心に誓ったことを♪(これホンマ り上げ日本でシングル・カットされてヒット。この曲なん です)。それほどまでに感銘を受けた楽曲でした。その てロネッツ自身のレコードは当時発売されないままだっ 少し後にラジオで耳にしたのがウォーカー・ブラザーズ たんですけどねぇ(ウォーカーズはえらい研究熱心 ?) 。 の最新(当時)ヒット「太陽はもう輝かない」(1966: ちなみにこの時期といえば(1966 年∼1967 年)世 の中はビートルズを旗振り役にどんどん新しく革新的に う。私の個人的な‘衝撃 ' であれしますと 1970 年代は (ロックの時代へと)進行中でして、スペクター本人は イギリスの‘ほくろ美人 'リンジー・ディ・ポールがバリー・ すでにヒット・チャートではその‘神通力 ' を失っており ブ ル ー と 共 作 し て 歌 っ た「恋 の ウ ー・ア イ・ド ゥ」 ましたがそれをライチャスやウォーカーズたちが引き継 (1974: 英 No.25)。初めて聴いた時はその‘あから いだような形で。。。とはいえ私自身、その頃はスペクター さま ' ぶりに飛び上りました♪そして 1980 年になって もロネッツも意識なんぞしてませんでしたからね。ロ 耳にした Yuki Okazaki(岡崎友紀)の「ドゥ・ユー・ ネッツ の「ビ ー・マイ・ベイビ ー」(1963 年 : 米 No.2 リメンバー・ミー」(オリコン No.18)は加藤和彦の作・ /英 No.4)は当然ながらリアルタイムではなく、日本 編曲のセンスにとろけましたね(作詞は安井かずみ)。 でキング・レコードから再発売された 1968 年秋にきち ア ル バ ム で は そ の 曲 に 続 い て シ ルヴィー・バ ル タン んと向き合ったぐらいですからライチャスもウォーカー 1964 年の「アイドルを探せ」、マリアンヌ・フェイスフ ズもスペクターと関連づけて聴くはずもなく‘何ともし ル 1964 年(&ローリング・ストーンズ 1965 年)の「ア びれるカッコいいレコード 'としてのめり込んでいただけ ズ・ティアーズ・ゴー・バイ」も‘スペクター・サウンド ' かと。ましてや‘ウォール・オブ・サウンド ' などという に包まれて。。。ときめきました。こういうのって裏方も 言葉自体、意識したのは 1970 年代以降でしょうね。 含めて一度はやってみたい憧れのサウンドなのかもなぁ 私自身は今もそうですが‘スペクター・サウンド 'と呼ぶ と。このスタイルはもうアメリカのポピュラー音楽史に 方がピンと来るんです。1976 年にビクターから各アー おける‘伝統芸能 ' になっているのかもしれません。妙 ティストの編集盤やオムニバス盤、レア音源集などが一 にアレンジされることもないですしね(というか変える 斉にリリースされたことがありましたがその際の帯の 必要もないかと)。ビリー・ジョエルが 1976 年にロネッ キャッチ・コピーが‘スペクター・ウォール・オブ・サウ ツのロニー・スペクターに捧げて作った「さよならハリ ンド・シリーズ '。その時点でようやく‘ウォール・オブ・ ウッド」やそれを当の本人ロニーが歌ったヴァージョン サウンド 'という表現を改めて認識したように思います。 (1977 年)も今だに色褪せてはおりません。いやもっ しかしそのシリーズのライナーノーツでは桜井ユタカさ と最近の誰かの作品であっても古く感じることはないと ん、八木誠さんといった先輩方がフィルズ・サウンドとか 思います。もちろん 1960 年代の‘オリジナル ' スペク スペクター・サウンドとも書いておられます。そして‘そ ター・サウンドも例えばこの先 20 年後に聴いても新鮮 のサウンドの特色としてウォール・オブ・サウンド 'とも でしょう。私にとってはもう古典落語を楽しむようなも 記しておられます。 のになっているのかも♪ いづれにせよこれはフィル・スペクターという奇才が 独自に生み出した‘発明品 ' みたいなものですので個人 2011 年 12 月 1 日 的には敬意を表して今後もその名前を冠した‘スペク ター・サウンド 'と言う呼び方を併用したいなぁと思って おります。スペクター本人が制作したレコードの全盛期 はわずか 2 年ほどだったという印象ですが彼が作りだし たサウンドは後世にまで語り継がれておりライチャスや ウォーカーズ以降も内外を問わずいろいろなアーティス トがチャレンジしています。先頃ソニー・ミュージックか ら日本独自編集で出された「テイスト・オブ・ ‘ウォール・ オブ・サウンド'」 (21 曲入り)は良き参考書になるでしょ 写真資料: ウォーカー・ブラザース『太陽はもう輝かない』(1966 年 日本ビクター FL1221)/ウォーカー・ブラザース『ふたりの太陽』(1967 年 日本 ビ ク タ ー SFL1100)/ Ronettes『Be My Baby』(1963 年 Philles 116)/ Righteous Brothers『You've Lost That Lovin' Feelin'』 (1964 年 Philles 124)/ロネッツ『ビー・マイ・ベイビー』 (1976 年 の再発シングル ビクター JET2371)/ロニー・スペクター『さよなら ハリウッド』 (1977年 CBSソニー 06SP171)/リンジー・ディ・ポール 『恋のウー・アイ・ドゥ』(1974 年 ワーナー・パイオニア P1329W)/ ライチャス・ブラザース『ソウル・アンド・インスピレーション』 (1966年 日本グラモフォン DV5001) ROOT SELECTION 定番クリスマス・アルバム10選 Phil Spector Christmas Gift for You From Phil Spector Carpenters Christmas Portrait 1963 年 に Philles から発 売 さ れ た もの。 クリスマス・アルバムの定番であり、ウォー ル・オブ・サウンドを駆使したクリスマス・ ソングのトータル・アルバムとして広く親し まれている王道的な作品。初めて聴いた 時にはお馴染みの歌の数々が、まるで一 丸となって迫ってくるようなアレンジに新 鮮な印象を覚えた。 Beach Boys Beach Boys' Christmas Album 1978 年 に A&M か ら 発 売 さ れ た も の。 1984 年には『オールド・ファッションド・ クリスマス』も発売されている。カレンの 美しく澄んだヴォーカルが、お馴染みのク リスマス・ソングを歌っていることに何度 聴いても感動してしまう。メドレー形式に よって次々と曲が繋がっていくトラックも素 晴らしい。 Ventures The Ventures' Christmas Album 1964 年に Capitol から発売されたもの。 A 面は主にオリジナル曲を収録し、B 面は 定番のクリスマス・ソングを収録している。 あまりにも美しいコーラス・ワークはクリス マスの神聖で荘厳な雰囲気にぴったりで、 思わず聞き惚れてしまうこともしばしば。 ボーナス・トラックを多数収録した完全盤 も発売されている。 Bing Crosby Merry Christmas 1965 年 に Dolton から発 売 さ れ た もの。 この年にはあの名盤『ノック・ミー・アウト!』 が発売されているが「サンタが町にやって きた」では、サム・ザ・シャム&ザ・ファラ オスの「ウーリー・ブリー」のイントロから 始まるという洒落たことをしている。この アルバムでは他にもこの様な遊びで楽しま せてくれる。 Frank Sinatra A Jolly Christmas 1955 年 に Decca から発 売 さ れ た もの。 SPレコード (78 回転盤 )として発売された 複数枚をまとめたものだが、このアルバム は何と言っても「ホワイト・クリスマス」だ。 地球上にこの曲が存在することに、そして アーヴィング・バーリンに感謝したい。アン ドリュース・シスターズとの共演も含まれ ている。 Ella Fitzgerald Ella Wishes You A Swinging Christmas 1957 年に Capitol から発売されたもの。 何と言ってもあのシナトラである。クリス マス・ソングを歌えば、その粋でダンディ な 渋 いヴォーカ ルが さらにぴったりとは まっている。お馴染みの「ジングル・ベル」 にしても普通に歌うなんてことはせず、シ ナトラ流になっている。一家に一枚の名盤 である。 Ray Charles Spirit of Christmas 1960 年に Verve から発売されたもの。 「ジ ングル・ベル」からラストの「ホワイト・ク リスマス」まで、エラの世界に引き込まれ る。お馴染みのメロディを巧みにフェイク させながら、スキャットを交えて聴かせる クリスマス・ソングの数々。バック・コーラ スも雰囲気作りに一役買っている。 Booker T. & The MG's In The Christmas Spirit 1966 年に Stax から発売されたファンキー でヒップなクリスマス・アルバム。ひとつ 間違うと単純なイージー・リスニングにな りがちだが、ブッカー・T. のオルガンがメ ロディを自由に展開していく「ジングル・ ベル」や、丁寧にメロディを紡いでいく「き よしこの夜」など、バラエティに富んだ1枚。 1985 年に Concord から発売されたもの。 「What Child Is This?」は、ゴ ス ペ ル に 始まって、テンポ・アップしたかと思うと テーマ・メロディをモチーフにジャズ・アレ ンジとなるところなど、いつ聞いてもゾク ゾクする展開。レイが歌う事によってクリ スマス・ソングが立派な R&B になってい る。 V.A. Yule Struttin' 1990 年に発売された通称「ミニスカ・サ ンタ」。ソニー・クラーク1958 年 の 名 盤 『クール・ストラッティン』をパロディにし たことからもわかる通り、Blue Note に録 音されたクリスマス・ソングを集めた編集 盤。ここに収録された中ではやはりチェッ ト・ベイカーとカウント・ベイシーの演奏が 光る。 編集後 ROOT 記 ク リ スマス・ア ルバム 漏 れ た2 枚 選に 10 芽瑠璃堂マガジン﹃ROOT﹄第4号 は い か が で し た か?巻 頭 特 集 は フ ィ ル・ スペクターということで、今回は、芽瑠 璃堂マガジンWEBでもブログをお書き 頂いている上柴とおるさんと中村俊夫さ んにそれぞれ原稿を依頼させて頂きまし た。 上柴とおるさんは、 月に発売された ロネッツのベスト盤でも解説をお書きに なっており、是非﹃ROOT﹄でもその ポップスに対するお気持ちを書き綴って 頂きたいと思い﹁私にとってのウォール・ オ ブ・サ ウ ン ド﹂と い う タ イ ト ル で ご 依 頼させて頂きました。当時の音楽シーン をリアルタイムにご体験されてきたから こそお書きになる事ができる、ポップス に対する愛情がひしひしと伝わって来る 温 か み の あ る 文 章 は、い か が で し た で しょうか。 また、中村俊夫さんは、前回の﹃RO OT﹄第3号のGS特集に引き続き参加 して頂いたのですが、今回はスペクター・ サウンドのファンにとって見逃す事ので ﹄ き な い 原 め ぐ み の﹃ Everlasting Love ︵2 0 0 9 年 / ク リ ン ク︶の 全 曲 解 説 を ご依頼させて頂きました。こちらもまさ に現場で実際にプロデュースをされてい たご本人ならではの、重みのあるお言葉 が並ぶ文章で非常に詳細な部分にも触れ られており﹃ROOT﹄でしか読む事の できない貴重な特集となりました。 私 が 初 め て フ ィ ル・ス ペ ク タ ー と い う 名前を意識したのは、ビートルズの﹃レッ ト・イット・ビー﹄に収録されていた﹁ザ・ ロング・アンド・ワインディング・ロード﹂ で の 一 件 で し た。フ ィ ル・ス ペ ク タ ー が オーケストラと 人の女声コーラスを加 14 11 え、そ れ に 不 快 感 を 示 し た ポ ー ル・マ ッ カ ー ト ニ ー。そ の 後 は、ジ ョ ン・レ ノ ン の﹃ロ ッ ク ン ロ ー ル﹄や、ジ ョ ー ジ・ハ リスンの﹃オール・シングス・マスト・パ ス﹄な ど で 名 前 を 発 見 し﹃ク リ ス マ ス・ ギフト∼﹄で大好きになったという段階 を踏んでいったと思います。そして今で はクリスマスの時期になると必ず聴いて しまう愛聴盤となっています。 そして今回は全世界に膨大に存在して い る ク リ ス マ ス・ア ル バ ム の 中 か ら 定 番 だと思われる作品を 枚選んでみました が、いかがでしたでしょうか。選んだ 枚の中で、私が一番気に入っているのは、 ヴェ ン チ ャ ー ズ の﹃ク リ ス マ ス・ア ル バ ム﹄ 。 ヴェンチャーズは、その長いキャリ アの中で、今のところ3枚のクリスマス・ アルバムを残していますが、これはその 1枚目となる作品で1965年に発売さ れています。ちなみに2枚目は﹃クリス マ ス・ク ラ シ ッ ク﹄ ︵1 9 8 9 年︶ 、3 枚 目が﹃クリスマス・ジョイ﹄ ︵2002年︶ です。この1枚目のアルバムは、ビルボー ド の ク リ ス マ ス・ア ル バ ム・チ ャ ー ト で 1965年に9位まで上がるヒットを記 録 し、そ の 後 の 3 年 間 チ ャ ー ト・イ ン し て い ま す。面 白 い の は、ク リ ス マ ス・ソ ングの中に有名な曲のリフを入れて演奏 していること。例えば﹁そりすべり﹂で は﹁急がば回れ﹂ 、 ﹁赤鼻のトナカイ﹂で は ビ ー ト ル ズ の﹁ア イ・フ ィ ー ル・フ ァ イン﹂という具合に遊びを取り入れてい るのが気に入っています。元ネタを探す のも楽しみのひとつでクリスマスの時期 になると必ず棚から引っ張り出して聴い ています。そして今回の 選に入れられ なかったもので、どうしても紹介したい アルバムがあります。それが、デヴィッ ド・グ リ ス マ ン の﹃ア コ ー ス テ ィ ッ ク・ ク リ ス マ ス﹄と、ケ イ ト&ア ン ナ・マ ク 10 10 10 ギ ャ リ グ ル﹃マ ク ギ ャ リ グ ル・ク リ ス マ ス・ア ワ ー﹄、そ し て そ れ に 関 わ っ て く る チ ー フ タ ン ズ の﹃ベ ル ズ・オ ブ・ダ ブ リン﹄です。 デヴィ ッ ド・グ リ ス マ ン の﹃ア コ ー ス テ ィ ッ ク・ク リ ス マ ス﹄は 1 9 8 3 年 に ラウンダーから発売。初めてこのアルバ ムの存在を知った時にはもう驚きまし た。何 し ろ デヴィ ッ ド・グ リ ス マ ン の ク リスマス作品なんですから。メンバーも この手の音楽好きにとっては堪らないプ レ イ ヤ ー が 揃 っ て お り、ダ ロ ー ル・ア ン ガー、ベラ・フレック、マイク・マーシャ ル、マーティン・テイラー、ロブ・ワッサー マンなどが参加しています。 世紀の有 名 な ク リ ス マ ス・キ ャ ロ ル﹁御 使 い う た い て﹂﹁世 の 人 忘 る な﹂や﹁サ ン タ が 町 に や っ て く る﹂ ﹁き よ し こ の 夜﹂な ど の 定番曲をグリスマンのきらびやかな音色 のマンドリンと、それをサポートするそ れぞれの楽器によって、ジャケットさな がらに心温まるクリスマス作品となって い ま す。な か で も ア ーヴィ ン グ・バ ー リ ン が 作 曲 し、ビ ン グ・ク ロ ス ビ ー や フ ラ ン ク・シ ナ ト ラ が 歌 っ た こ と に よ っ て ス タ ン ダ ー ド 化 し た﹁ホ ワ イ ト・ク リ ス マ ス﹂は、ここに収録された中でも一押し。 メンバーはブルーグラスのイメージが強 いと思いますが、純粋なアコースティッ ク・ミ ュ ー ジ ッ ク と し て 楽 し め る 1 枚 で す。ケイト&アンナとチーフタンズはブ ログに書いてありますので、是非ご覧下 さい。 最後に上柴とおるさん、中村俊夫さん、 お忙しい所ご協力を頂き、誠にありがと うございました。 次 回 の 発 行 は 1 月 を 予 定 し て い ま す。 詳細が決まり次第、私のブログで随時発 表していくので、こちらの方も宜しくお 願い致します。 19 編集人=葉月賢治/発行人=長野和夫 芽瑠璃堂マガジン編集部 ご意見 : [email protected] 読者の皆様のご意見を元に、 より良い 雑誌を作ることを目標に努力して参 ります。その為には、皆様の貴重なご 意見が必要です。なんでも結構ですの で、 ご意見をお寄せ下さい。 芽瑠璃堂マガジン『ROOT』第 4 号 > 編集後記 WONDERFUL CHOICE! 文=葉月賢治 芽瑠璃堂マガジンWEB 2011年11月の人気記事より(一部抜粋) ♪村上寛&ダンシング・スフィンクス ♪笠井紀美子『Tokyo Special』 前回は日米それぞれのネイティヴ・サンに ついて書きました。ぼく自身の思い入れは、 どうしても日本のネイティヴ・サンに傾きま す。人気絶頂の頃、NHK-FM で彼らのライヴの 模様が流れたことがあるのですが、LP と同じ 曲をやっていても、レコードで聴けるような 爽やかフュージョン的サウンドではなく、ア ドリブ連発でゴリゴリの音作りだったことを 昨日のことのように思い出します。彼らがオ リジナル・メンバーで演奏したのは 1981 年頃 までだったはずですが、本当にいいグループ でした。 1978 年発表の本作『ダンシング・スフィン クス』のリーダーは、ドラマーの村上寛。レ コーディング時、彼はすでに本田竹曠、峰厚 介、川端民生らとネイティヴ・サンを結成し ていました。このアルバムにも彼らが全面的 に協力しています。 ネイティヴ・サンのアルバム・デビューは翌 1979 年春ですが、それ名義のどの作品よりも、 前述したライヴの雰囲気に近いのは『ダンシ ング・スフィンクス』であると、ぼくは信じ て疑いません。 2011年11月15日(火) 原田和典 前回はドラマー、村上寛の『ダンシング・スフィ ンクス』について触れました。70年代初頭にニュー ヨークで笠井紀美子と結婚式をあげ、当時の日本 のジャズ界で大変な話題を呼んだともききます。 今回は、その笠井紀美子がジャズではなくニュー・ ミュージック(懐かしい言葉ですね)に挑んだ作 品をご紹介いたしましょう。笠井といえば 70年代 のジャズ誌の人気投票で軒並み1位を獲得した歌 姫。ギル・エヴァンス、スタン・ゲッツ、ハービー・ ハンコック等を伴奏に迎えてアルバムを作るとい う、アメリカの歌手でも容易にはなしえないであ ろう快挙を達成してもいます。しかも彼女には卓 越したポップ・センスがありました。ジャズ活動と 並行してTVコマーシャルの歌を担当したり、 「ヘア ピン・サーカス」等の映画にも(歌手ではなく、 女優として)出演。引退してもう20年が経ちます が、とにかく華やかな存在でした。 日本人作曲家の日本語ポップスを歌っても、笠 井の語り口はジャズを歌っているときそのままで す。もっとこうしたアルバムを残してほしかった、 といまさらのように思います。同時期の五輪真弓 や大貫妙子や松任谷由実の作品の横に置きたい1 枚です。 2011年11月25日(金) 原田和典 ロック黄金時代の奇跡♪ ますんで♪( やっぱり宣伝やったか。。。) そんなこんなの情報も含めてロック関係 とはいえこれだけたくさんの映像作品 の映像ばかりをあれした最新のガイド・ が出てるのに観てない ( 持ってない ) もん ブック ( ムック ) が 11/17 に毎日新聞社 ( 毎 がヤマほどあるのに改めて気ぃ付きまし 日ムック ) からリリース ( ムックの奥付け たね。まぁ CD とか音源だけならあれです 発行日は 12/21)♪題して「ロック黄金時代 が映像は観るのに時間がかかるし集中力 の奇跡」( 税込 2200 円 )。軌跡やのぅてあ も必要やし (CD やったら聴きながら他の用 えて奇跡、ですわ。ムックの趣旨からした 事は出来るけど )。音楽もんの映画とかな ら軌跡やと思うんやけどなぁ。いや懐かし らサントラ盤は持ってるけど映像作品は のあればっかりやし亡くなったお方のあれ 観てないというか。。。わりとありそうで も出て来るんで‘鬼籍’かも(いやあのね)。 すわ。今度、12/20 にクリンクから出され CHAPTER[1] 伝説のロック・フェス / コン る‘カルト映画’のサントラ 3 枚「白昼の サート [2] ロック・ジャイアントの映像< 幻想 (The Trip)」( エレクトリック・フラッ イギリス編>[3] ロック・ジャイアントの グ )「嵐 の 青 春 (Psych-out)」( ス ト ロ ベ 映像<アメリカ編>[4]+100 傑作選 [5] 必 リー・アラーム・クロック、シーズ等 )「キャ 見!ロック TV あれこれ [6] ロック・ファン ンディ」( ザ・バーズ、ステッペンウルフ等 ) が観る映画 [7] おすすめ 他ジャンル映像 はサントラを輸入盤 LP や CD では持ってる 選、てな内容ですわ。「エド・サリヴァン・ けど。。。そういうたら映画自体は観たこ ショー」は言うまでもなく「フラバルー」 とないなぁ ( 泣 )。 ( 日本では‘ゴー・ゴー・フラバルー’ 。当 (一部抜粋) 時観てましたで♪) や「ビート・クラブ」 に「T.A.M.I. ショー」などなど。。。 2011 年 11 月 16 日 ( 水 ) 上柴とおる ちなみにわたくし、わずかではありま すが全 453 枚中 9 枚だけ担当させてもろて 芽瑠璃堂マガジンWEB http://www.clinck.co.jp/merurido/magazine.php 文=芽瑠璃堂店長 ミュージックに心酔、ブルースを広く世に知らしめようと いうミッションを抱き、ブルース愛好会を 60 年代に鈴 木啓志らと結成。そのミニコミ会報誌を、書店ルートに 乗せる為「ザ・ブルース」 (現在のbmr)誌として刊行し、 ブルース・インターアクションズを高地明とともに興す。 同時に当時類例のほとんどなかった洋楽インディペンデ ント・レーベル「P-VINE」を75 年に設立。 ︶ BSDV3017 ヒューバート・サムリンのDVD。 ハウリン・ウルフとの映像や、 ﹂ のタイトルでP ーヴァインから発売。 ライ トニン・ホ プキンスの 映 像 も 観 れ る 。︵ CHICAGO BLUES あった。もう、言葉では言い表せない位の衝撃である。 本物だ。生だ。これだ。次第に僕らのバンドはプロ志 向が強くなり、仙台から公募で来たモンマちゃんが加わ り、最初は別々だった兄のフミちゃんも参加し、これで 将来の方向や渡米する決心が固まってきた。後はどう やって親を説得するか、そこが問題だった。タモちゃん と僕はまずアメリカに行ってもしゃべれなければダメだか ら英語力をつけようと考えた。まさに話せなければ話に そんな日暮さんは外国の状況にも詳しく、次第に「ブ ならないだ。結局家の近くの通訳養成 所に入学した。 ルース」と言う病魔に冒されていく僕らにとって最高の この作戦は一石二鳥となった。高校卒業後、アルバイト …レココンは僕の記憶が正しければ、確かお茶の水の 教師となっていった。何度か日暮さんの家まで押しかけ したりバンド練習してても親にとってはブラブラしてるの 古い喫茶店の2 階を貸し切り、一人 300 円位徴収され たこともある。最早レココンでは満足できなくなってい と同じ。仮に音楽の世界に進むことに同意したとしても たような憶えがある。司会者風の男が今にも壊れそうな た僕らを、日暮さんは嫌な顔一つ浮かべずに出迎えてく 成功者が出ているクラシックやポップス(歌謡曲)の世 マイクを握りしめ、地味な挨拶から始まった。場内は れた。今でもハッキリ憶えているが、僕らが行くと必ず、 界ならまだしも、よりによって黒んぼ(差別用語か?) 15 名程度、皆まじめ風の大学生。サラリーマン風の者 日暮さんのお母さんがショート・ケーキを用意してくれ の音楽だ。僕の母はよく黒人のことをそう言っていた。 もいたが、いかにも官僚もどきな顔つきだった。簡単な た。ショート・ケーキと紅茶。上級のおもてなしだ。こ たぶんアメリカの黒人もアフリカの黒人も同じに映ってい 挨拶が終わるとレコードをターンテーブルに1枚 1枚順 れが目的でないが小さな楽しみになった。外国の音楽 たのだろう。しかしある意味、奴隷時代を考えれば間違っ に載せていき、かけた曲の説明とアーティスト紹介が滑 雑誌を教えてくれたり外国から直接通販でそろえたレ ていないが母は知らない。通訳養成所に行くことでとり 舌の悪い話し方で続いていく。しかし、しかしですよ。 コード・コレクションの中から惜しみなく聞かせてくれ あえず親は安心したようだ。安心してる内にお金を貯め その内容が凄かったのだ。まったく知らないアーティス た。片や鈴木啓志さんは僕らのバンドのファンにもなっ よう。毎日しっかり練習しよう。そう思ったのだ。その トばかりが耳に飛び込んでくる。それも 45 回転のシン てくれた。この曲やればいいとかあれやこれや意見を言っ 後もいろいろな事があったが、いよいよ明日は憧れのア グル盤中心。参った、ぶったまげた。僕とタモちゃんは てくれた。カルヴィン・リーヴィの「カミンズ・プリズン・ メリカ大陸が目の前に現れるのだ。 必至で持っていった大学ノートに一語一句逃さずにメモ ファーム」なんてたぶん世界で最初にカバーしたバンド 次回はいよいよアメリカ本土での体験談の始まりである。 をとった。あれだけ大好きだったホワイト・ブルースが、 は僕らじゃないだろうか。両氏から借りた貴重なレコー 今日から消え去ってしまった瞬間でもある。レココンは ドはオープン・デッキに録音した。当時は今みたいに簡 P.S. 去る12 月4日にヒューバート・サムリンが 80 歳で 何人かの DJ が担当し、ブルース以外にもR&Bやゴスペ 単に録音できる機械がない時代。母親に英語の勉強を 亡くなった。シカゴに行った時にはとても親しくさせて ルをかけていたが、その頃の僕らにとってはさっぱりわ するからと半分嘘ついて買ってもらったオープン・デッキ もらったことを昨日のように思い出す。心よりご冥福を はその後僕の録音フェチにつながるこれまた僕の人生を お祈りしたい。 からないもので、全てが未知の世界だった。 レココンが終わると僕は日暮さんに話しかけた。面白 変えた贈り物だ。そんな訳でこの会を知って全てが変 かったことや次回のことなど、小さな会だけに僕らにも わった僕らは、バンドで必至になってその本物のブルー 登場人物 丁寧に対応してくれた。2 回目、3 回目となるといつのま スをコピーしてプレイした。もっともっと上手くなりたい 僕(芽瑠璃堂店長/ドラムス) にか僕はこの会を手伝うことになっていた。僕はバンド という思いを強く抱くようになった。高校卒業後はプロ 1974 年に兄・長野文夫と共に日本初の輸入レコード専門店 で PAを担当していたこともあって機械オタクが買われ、 のミュージシャンになるだけでは満足できない自分がい 「芽瑠璃堂」をオープン。株式会社ヴィヴィド・サウンド・コー レココンの PAを担当するはめになったのだ。日暮さんは た。レコードでは味わえない本場の本物のブルースを聴 ポレーションを設立し、ソウル、ブルースの歴史的名盤の数々 当時商社に勤める傍ら、雑誌「ザ・ブルース」を不定 きに行きたい、本物のブルースマンと一緒にプレイした をリイシュー。80 年代には自社スタジオ・エンジニアとし 期ではあるが発行していた。ここで少し日暮さんのこと いという思いが日を増して強くなっていった。 ても活躍した。2005 年オンライン・レコード・ショップ芽 瑠璃堂及び自社レーベル、クリンク・レコードを設立。 に触れておこう。日暮さんの事はご存知の方も多いと思 それを決定付けるテレビ番組が NHKで放送された。 確か「黒人の魂 ブルース…」そんなタイトルで、BBC うが、ここに簡単なプロフィールを掲載しておきたい。 フミちゃん(サイド・ギター)、タモちゃん(リード・ギター)、 制作だった記憶がある。その番組にはジュニア・ウェル モンマちゃん(ベース) 中学・高校生の頃、R&Bやブルースといったブラック・ ズとバディ・ガイが黒人クラブでプレイしている場面が ∼前回までのあらすじ 芽瑠璃堂のルーツを辿って出した結論は、1973 年の夏 に渡米したことであった。2 週間の船旅の末、ようやく アメリカ大陸が見えて来る。自然と色々な思いが頭の中 を駆け巡る。友人のタモちゃんが「ニュー・ミュージック・ マガジン」を買って来た事も思い出す。そこで日暮泰文 さんと鈴木啓志さんが主催する「ブルース愛好会」のレ コード・コンサートの告知を見つけた。僕らはそのレココ ンに行く事にした。 日暮さんに借りたレコードを録音したオープン・リール。 本 文 中 で 触 れ た﹁ 黒 人の 魂 ∼ ブル ー ス ﹂は2003 年 に M ER U R I RO A D オリー・ナイチンゲールのスウィート・サレンダーを録音。 ﹁ 芽瑠璃道 芽瑠璃堂の原点を辿って∼その4