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明治末期群馬県における私的売春営業の構造

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明治末期群馬県における私的売春営業の構造
明治末期群馬県における私的売春営業の構造
眞杉 侑里
Masugi Yuri
〈要旨〉
The structure of the unlicensed prostitution business in Gunma prefecture during
the later meiji
This paper seeks to clarify how whoremongers made prostitute operate illegally and free
from low enforcement in Gunma prefecture which abolished its licensed prostitution system
in 1893.
Unlicensed prostitution businesses in Gunma prefecture were done by employees called
Syakufu(barmaid) and Geisha girl, who worked at restaurant. These places operated as
licensed restaurants in the public eye but were, however, used as whorehouses secretly by
means of personal negotiation with customers. After the negotiation it was also possible
for them to move to other places (another restaurant, an inn for travelers, or even the
prostitute’s own house etc.).
This unlicensed prostitution had a kind of social network through the restaurants,
matchmaking their customers with prostitutes for sexual different categories in the
previous licensed prostitution system but this was a common feature of the unlicensed
prostitution system.
Keyword:私的売春(unlicensed prostitution) 、酌婦(Syakufu (barmaid)) 、芸妓
(Geisha girl) 、飲食店(restaurant)、群馬県(Gunma prefecture)
1.はじめに
1.1 問題意識と課題設定
本論文は 1894(明治 27)年に公娼制度が廃止された群馬県を素材に、非合法な売春
(私的売春)の実態を明らかにせんとするものである。
近代日本においては国家が特定の業者にのみ鑑札を与え、指定された地域でのみ営

立命館大学大学院文学研究科人文学専攻博士後期課程日本史専修 2 年次
- 177 -
業の許可を行うことにより売春の統制を行う近代公娼制度が敷かれていた。この制
度は明治初年から、1957(昭和 32)年売春防止法の施行までの長きにわたるものであり、
国家が売春を公認するという性質から、近代の売春問題を象徴するものとして層の厚
い研究蓄積がある。しかしその一方で、近代公娼制度から零れ落ちる「私」的な売春
の存在はほとんどかえりみられることはない。そもそも、規則などの拘束と引き換え
に売春営業を公許されている公娼制度に対して、私的売春は(それそのものが違法で
あるという点を除けば)法律的規定に束縛されないものであり、こうした自由な動向
を除いた公娼制度の枠組みのみで近代の売春を概観することは難しい。
そこで、本論文では公娼制度の陰ともいえる私的売春がいかに、またいかなる構造
にて行われていたのかという点を検討し、その実態を明らかにすることにより、近代
日本における売春をより相対的に捉えることを試みたい。私的売春の実態を検討する
にあたっては、公娼制度が廃止されたことによってそれまで水面下で行われてきたで
あろう私的売春が表面化した群馬県 2)を対象とする。
群馬県の公娼廃止以降の動向については、藤目ゆき氏 3)が公娼制度廃止後、1912(大
正元)年には私的売春を管理する「料理店飲食店芸妓営業取締内規」が必要となって
いたことを明らかにしている。その上で氏は、1912 年内規は料理店・飲食店を甲種料
理店、乙種料理店、飲食店の三種に分類し、乙種料理店でのみ売春を黙認するもので
あり、実質的に公娼制度と同じ構造が継続していたと述べている。しかし、ここでは、
公娼制度廃止以来 1912 年に至るまでにあった公的売春の不在時期の売春の状況につ
いては触れておらず、公的管理の手が入らない売春の様相については不明と言わざる
を得ない。あるいは、私的売春取締の立場から『群馬県警察史』4)には公的売春が不

2)
3)
4)
1872(明治 5)年の「娼妓解放令」により近世の遊郭とは分断され、1873(明治 6)年の東京府で
の施行により再編成された制度。公娼制度の施行は各府県に任されており、群馬県について
は 1875(明治 8)年に公娼制度を導入している。
公娼制度を廃止したのは群馬県が最も早く、また新たな公的売春(1912 内規)を設定するまで
の期間も長い。群馬県以降の廃娼県については埼玉県が 1930(昭和 5)年、秋田県が 1933(昭
和 8)年に廃娼県となっているが、いずれの場合も公娼制度と並存して県が設定した黙認売春
営業が設定されている。そのため、公娼廃止と同時に県独自の公認売春にスイッチしており、
公的売春の不在期間はない。
藤目ゆき(1999 年)。
群馬県警察史編さん委員会編(1978 年)。特に第 1 巻第 2 章「明治・大正期における部門別警
察活動」の第 3 節「営業警察」
、第 4 節「保安警察」の項目に詳しい。
- 178 -
在になった時期の私的売春の様相について、警察統計などを交えて記述されている。
ただし、それは取締や統計に重きをおいた記述であるがゆえに、私的売春を業種ごと
に分けて記述しており、非合法の売春が法規的な縦割り業種により区分されている点
は、不自然なものであると言わざるを得ない。そこで本稿では、群馬県下の代表的な
「魔窟」を擁し、他の地域の私的売春に対する影響力をもっていた高崎市 5)をモデル
ケースとして選定し、1904(明治 37)年 6)から 1912(大正元)年の期間を中心に、私的売
春の担い手とそれらにより行われていた売春の構造を分析する。
1.2 検討史料
前節の問題意識をもとに、本稿では私的売春の様相を明らかにする史料として群馬
県下の地方新聞、
『高崎案内』といった案内冊子、また新聞に掲載されている小説な
どを用いた。その内、主要史料となる県下地方新聞に関しては、マイクロフィルムと
して安定的に残存しているのは群馬県立文書館が所蔵している 1910(明治 43)年 9 月
25 日からの『上毛新聞』のみとなっている。そのため、それ以前については群馬県立
文書館が複製収集した文書群の中に散在している新聞史料を収集した。それらの詳細
(文書名:請求番号(簿冊番号) 『収録新聞紙名』)については以下に列記する。
・前橋市立第六中学校所蔵文書:0-105-1(1~15) 『上毛新聞』
・深沢厚吉家文書:0-134-1(4) 『上州新報』
『商業新報』
・住谷修家文書:23-8-2(1) 『上毛新聞』
『上州新報』
・森壽作家文書:2-1-1(53) 『上毛新聞』
・坂本計三家文書:8-29-1(15~24、29、30) 『上毛新聞』
『坂東日報』
『群馬新聞』
『上州新報』
『久留馬』
・櫛渕達男家文書:74-1-1(3~69、74、75) 『上毛新聞』
『両野新報』
『群馬新聞』
『坂東日報』
『上野日日新聞』
5)
6)
高崎市は柳川町を中心として九蔵町、北通町、椿町、本町裏などに広がる魔窟(私娼窟)が存
在している(早川愿次郎(1910)『高崎市案内附録 花柳の栞』上野日々新聞社:10 頁)。特に柳
川町に関しては伊香保などの地域に関して「柳川式」の私的売春の増加が指摘されている(「伊
香保温泉場 此処にも淫売婦の跋扈」1908 年 7 月 11 日:3 面)。
中心的な検討期間の上限を 1904(明治 37)年としているのは、1 章 2 節で後述する史料の残存
状況の制約によるものである。
- 179 -
・堀口吉雄家文書:65-1-1(5) 『上野日日新聞』
『関東産業新聞』
・上毛新聞マイクロ:FD9005(1~7) 『上毛新聞』
これらにより、
『上毛新聞』については 1894(明治 27)年~1903(明治 36)年分につい
ては散発的に数日から 1、2 か月分が確認できた。1904(明治 37)年については 3 か月、
1905(明治 38)年は 9 か月、1906(明治 39)年、1907(明治 40)年については 4 か月分ず
つ、1908(明治 41)年以降はほぼ 12 か月分の紙面を収集できた。その他の新聞につい
ては、数日分が散発的に残存している状況であるが、こちらからも有用な記事が採集
されている。そのため、散発的な史料を参考としつつも、検討の中心となる期間を継
続的に史料の残存する 1904(明治 37)年から 1912(大正元)年とした。
なお、本稿は上記の新聞から私的売春に関する記事を選定するにあたっては、次の
ような手順をとっている。
1.売春、性愛に関する記事を収集
2.手順 1 で収集された売春の担い手に関する記事を広範に収集
3.手順 2 の売春の担い手が関係する業種に関する記事を広範に収集
こうして、売春及び性愛に関する記事からそれらの担い手を巡る業種までの記事
(3,742 件)をデータベース化した。このうち、本稿が扱う高崎市の記事は 982 件とな
っており、実態検討にはこれらを中心として、適宜県下の他地域の事例についても参
照している。
なお、本稿で引用、注釈する際の新聞記事については、煩雑さを避けるため主要史
料である『上毛新聞』から引用した場合については、記事見出と掲載日、掲載面のみ
を表記し、新聞紙名を省略している。加えて、当該期の紙面には個人を特定しうる情
報(氏名、住所地、本籍地など)が記載されており、明らかに源氏名であると分かるも
の以外については〔某〕と置きかえている。
2.酌婦、芸妓の営業内容と売春との関係
2.1 新聞紙上にみられる売春記事および用語
- 180 -
高崎市の事例検討に入る前に、まずは新聞紙上に現れる私的売春の記事および、そ
こで使用されている語句について概観しておきたい。
新聞紙上において確認される売春記事は主に「芸妓」と「酌婦」の二業種によるも
のである 7)。ただし、これら職種に関する表記は必ずしも固定的なものではない。例
えば、酌婦については「飲食店貸席取締規則」内に婦女の雇用に際して「雇入ノ目的
(酌婦又ハ炊事ニ使役ス等ノ区別)」を届け出ることとの規定 8)があり、このうちの「酌
婦」が法律上の酌婦に当るのであるが、実際には酌婦の申請が行われていない事例、
あるいは炊事婦として届けたものを客席にだしている事例などが存在し、法律上の酌
婦と営業実態上の酌婦は同一のものではない。またその表記についても、酌婦に「だ
るま」のルビをあてるもの、酌婦を「達摩」
、
「白首」と表現するものなどが見られる。
芸妓についても、
「唄ひ女」や「不見転(芸妓)」などといった表記のされ方もしてい
る。こうした別名のいくつかは私娼を示す語彙と重複しており 9)、そうした単語が酌
婦、芸妓に転用されている点は非常に興味深い一方、非常に煩雑な印象を受ける。
さらに、その酌婦を雇用する店舗についても「達摩屋」や「曖昧屋」などの別名が
多種存在しており、同一の店舗についてもいくつかの呼称が使用されている。加えて、
飲食店と料理店の表記についても同一団体について「飲食店組合」と「料理店組合」
の語が混用されており、ここにも用語の混乱がみられる。
そこで本稿においては酌婦、芸妓、飲食店の語を以下のように定義し使用している
(ただし、引用文については原文ままとする)。
①飲食店客席にて「酌をする(接客を行う)婦女」を広範に「酌婦」と表記。
②飲食店客席にて「芸を披露する婦女」を芸妓と表記。
③酌婦を雇用又は芸妓が出入りする店舗を「飲食店」に統一。
では、こうした酌婦、芸妓による私的売春とはいかなるものであったのだろうか。
7)
この他にも「按摩」や「高等淫売」
、
「素人」などの売春記事がみられるが、これらの事例は
酌婦、芸妓に比して少数である。
8)
1905(明治 38)年群馬県令第 38 号「飲食店貸席取締規則」第 15 条。この以前に制定された
1893(明治 26)年群馬県令第 42 号「飲食店取締規則」においては雇用目的の項目はないもの
の、客席に出す場合には尊属親等の承諾書が必要とされており、炊事と酌婦の区分はなされ
ていたと考えられる。
9)
宮武外骨(1921)参照。達摩、白首、不見転は私娼の別名。酌婦の呼称が多様なのに対し、芸
妓は別名がみられるものの、
「唄ひ女(歌女)」は芸妓の別名(これ単体では売春を含意しない)、
「不見転」には芸妓と続くなど、単純に芸妓を示すものであると判断できる傾向にある。
- 181 -
2.2 高崎市における芸妓、酌婦の営業内容
2.2.1 酌婦の営業内容
その名の通り飲食店客席にて「お酌をする婦女」を意味している酌婦であるが、そ
の具体的な営業は如何なるものであったのであろうか。下記の記事からは客席外での
酌婦の様子がうかがえる。
高崎柳川町昨今の不景気と云つたらお話にならぬ程なり元来柳川町へ這込む客種は偶に羽
織着たのもあらうが多くは袢天着が九分通り宵の口から廓中を押し廻して素見し店先に並
んで白首の吸付煙子でも吸ふ内に五十銭でよし七十銭でよしの話が纏る夫れも自分の気に
入つたのと直接の談判が出来たもの[「高崎魔窟の打撃」1909 年 6 月 29 日:3 面]
このように、酌婦は店先に来た客に接触し、金銭の交渉を行い客の登楼を促す。こ
の記事では勧誘の範囲は飲食店の店先に収まっているが、場合によってはさらに街路
へと飛び出し、通行人を勧誘するケースも見られる 10)。こうした酌婦の勧誘に対し風
紀上の問題から規制がかけられた際には
素見しも女の顔が見られぬのと遊興費の妥協が出来ぬので若し意勢よくでも登楼ものな
ら目の抜ける程ぶつ奪くられる恐怖心とで詰らねえとの考へから昨今此方面に足を向け
る者がなくなり柳川町は殆んど昔日の俤はなし[前掲「高崎魔窟の打撃」]
という状況になっており、店先での客と酌婦とのやり取りがいかに重要な要素であっ
たかがわかる。こうして交渉がまとまった場合には、客をあげその客席に酌婦が侍る。
この際の客席には酒や肴などの飲食物が提供されていたことが確認できる。ただし、
こうした飲食費及び酌婦が同席する料金は、ようやく 1912(大正元)年になって
其筋の訓示に基き飲食物の定価を一定し室内に掲示する事に就て協議し結局酌料五十銭
以内日本酒一本二十銭、ビール一本四十銭、肴一品三十銭均一となすに決し不当の利益を
10)
「飲食店の告発」1906 年 4 月 27 日:3 面など、酌婦が通行人を勧誘した件で告発される記事
が散見される。
- 182 -
貪らざる事となりたり酌料十銭を五十銭に値上げしたるは従来酌婦料を飲食物にかけ来
りたるを改めて酌料とし申受くる事となり[「飲食店組合総会」1912 年 9 月 11 日:3 面]
それ以前については、酌婦料は飲食代に付加されていた 11)。そのため、店先で行われ
ている料金交渉の内容も、
「酌婦を同席させて飲食する代金」と理解される。
なお、こうした遊興費についてである
表 1 酌婦遊興費一覧(1903~1912)
金額
が、記事上から金額が確認されたものが
件数(内 高崎)
~1 円未満
23 (4)
1 円~2 円未満
26 (6)
2 円~3 円未満
20 (6)
ると 1 円未満が 4 件、1 円から 2 円未満
3 円~4 円未満
13 (6)
が 6 件、2 円から 3 円未満が 6 件、3 円
4 円~5 円未満
4 (2)
5 円~6 円未満
3 (2)
右表 112)である。全 100 件中の 31 件が高
崎市の事例となっており、その分布をみ
から 4 円未満が 6 件、以降は件数が減少
6 円~7 円未満
1 (1)
して 4 円以上は概ね 1、2 件確認できる
7 円~8 円未満
1 (1)
のみとなっている。ちなみに、10 円以上
8 円~9 円未満
0 (0)
9 円~10 円未満
1 (1)
10 円以上*
8 (2)
の金額については単発ではなく、数日間
連泊して遊興する「居続け(流連)」を行
っているものであり、こうした場合には
合計件数
100 (31)
*最高額は 80 余円(10 日間の居続け)
当然日数に比例して金額が高額になる。
単発では 7 円余(高崎市事例)が最高額。
ここから酌婦との遊興費は1回数十銭から 3 円強を要するものであり、後述する芸妓
との遊興に比べ比較的安価 13)な娯楽であったと言える。
11)
12)
13)
引用中の 1912 年の訓示とは 1912(大正元)年 8 月 30 日に敷かれた「料理店飲食店芸妓取締内
規」に関連して乙種料理店に区分される営業者の会計の明朗化を期して出されたものと推測
される。
本表は、上毛新聞ほかから筆者が作成(使用史料の詳細については 1 章 2 節を参照)。件数と
してカウントしたものは酌婦とのみ遊興した料金(居続け、単発を問わず)。飲食費自体に酌
婦料が含まれているため、祝儀などの追加金額をはぶいたものを収録。芸妓と酌婦が同席す
る事例(詳細は本文 2 章 3 節参照)は酌婦のみの料金が不明瞭であるため省いた。また、年代
は確認できた事例の上限、下限を示す。
参考までに群馬県における米価(1 石=約 180 リットル)の平均を記す。
1894 年 9.543 円、
1896
年 11.183 円、1898 年 16.135 円、1899 年 10.802 円(以上、精米)、1903 年 14.546 円、1908
年 15.633 円、1909 年 13.679 円、1911 年 16.668 円、1912 年 20.915 円(以上、玄米中)とな
っている(群馬県史編さん委員会編(1991)『群馬県史』通史編 7、近現代 1。付表「賃金・価
格の変動」:53 頁)。
- 183 -
ただし、こうした遊興費と提供物の質は釣り合っているとは言えず、以下のような
指摘がなされている。
今日其商売の現況を観るに酒肴等の代価は普通に数倍するも其高価を云為する客なく只
或る一種の目的を達すれば足れりとせり其酒の如きも劣等酒を使用するを以て(中略)是
等の飲食店の酒は大に改良せしと雖もとても普通料理店の酒に比すべき者にあらず其劣
等酒粗悪なる肴空気の流通悪き狭き座敷高き代価を払ても客の輻輳するは或る一種の目
的あればならん[早川愿次郎編(1910)『高崎案内附録 花柳の栞』上野日日新聞社:10 頁]
つまり、粗悪な飲食物や窮屈な座敷での遊興に割に合わない料金を払うのは「ある
一種の目的」のためであり、この目的こそが酌婦による接客であり、さらには売春行
為を暗示するものであると推察される。
このように、飲食店での遊興は飲食代と酌婦による接客をセットとした価格設定が
為されており、その延長線上には売春行為が想定されていた。しかしながら、こうし
た飲食店での遊興と売春は必ずしも同義であった訳ではない。
高崎市〔某〕と云ふは一昨日泥酔の上午後十一時頃仝市嘉多町飲食店〔某〕に登楼し呑み
且つ唄ひ大騒ぎをなせし後酌婦が自己の意に応ぜざりしとて乱暴を働き戸障子皿小鉢等
を破壊せしより嘉多町交番所の巡査に取押へられ本署へ引致拘留の上昨朝覚醒後懇々説
諭を取けて放還せられたり[「達摩屋で乱暴」1905 年 6 月 17 日:3 面]
上記の記事のように酌婦を口説きながらも断られて暴れるという事例が散見され
るのであるが、これらの記事に関して特に注目すべきは以下の二点である。
、、、、
①客が酌婦本人に対して性的行為を匂わせる交渉を行っている。
、、
②客の交渉に対し、酌婦が断るという選択を行っている。
この二点からは飲食店が一種売春を意図させるものであったとしても、性的行為へと
進むためには酌婦本人との交渉が必要であり―①、場合によっては売春を拒否される
可能性があること―②がわかる。つまり、飲食店での遊興と売春は一続きではなく、
売春については酌婦と客の間の交渉によって行われていたと考えられるのである。
- 184 -
こうした過程を経て客と酌婦の間での交渉が
成立した場合には売春へとすすむ訳であるが、
表 2 酌婦売春対価金額一覧
(1903~1911)
その際の対価について具体的金額が確認された
金額
ものをまとめたものが表 214)である。売春対価
10 銭
6 (1)
15 銭
1 (1)
については、10 銭、15 銭といった切りの良い額
件数(内 高崎)
20 銭
8 (4)
で構成されているのが特徴といえる。高崎市内
30 銭
4 (0)
について見ると、10 銭が 1 件、15 銭が 1 件、20
40 銭
0 (0)
50 銭
0 (0)
銭が 4 件となっている。その他に旅人宿への宿
60 銭
1* (0)
泊費を含む 1 円の事例が 1 件あるものの、売春
1円
2** (1)
の対価としてはおおよそ 10 銭から 20 銭程度が
合計件数
22 (7)
*2 日分の金額
支払われていたようである。
**いずれも宿泊代を含む
2.2.2 芸妓の営業内容
飲食店に所属する酌婦に対して、芸妓は基本的に寄留宿に所属 15)し、客からの求め
に応じて飲食店へと派遣されるかたちで営業しており、派遣された飲食店の客席にお
いては歌舞の披露を行っていた。この芸については、色を売りにする芸妓の増加に伴
いその質が低下していることが指摘されている。しかし、
江戸から新妓を抱えて来たところが芸と云つたら御座附が一つ満足に弾けぬのでイクラ
自然主義芸者にしても御座附と三下りサノサぐらゐは出来なければ玉代の手前もあるだ
らうと目下玉栄とやつ子が毎日稽古をして居るさうな[「高崎花柳便」1908 年 7 月 8 日:3 面]
との記事からわかるように、色を売りにする「自然主義芸者」16)であっても、一応の
芸の披露は行っていたようである。
14)
15)
16)
本表は上毛新聞ほかから筆者が作成(使用史料の詳細については 1 章 2 節を参照)。年代は確
認できた事例の上限、下限を示す。
寄留宿は芸妓が籍をおき身を寄せる家。山田郡大間々など一部、寄留宿ではなく飲食店に抱
えられている芸妓の存在も確認できる(「酌婦の持逃げ」1911 年 3 月 23 日:3 面)。
引用中でいう「自然主義」とは 文学運動である「自然主義」が窃視相手を強姦殺害したと
する「出歯亀事件」と結びつき猥褻行為を指すようになったもの。上毛新聞紙上では 1908(明
治 41)年~1912(大正元)年頃まで「猥褻行為」全般の隠語として盛んに使用された。
- 185 -
こうした芸妓を呼ぶ料金に関しては時間(30 分)当たりの価格が「玉代」として設定
されており 17)、飲食費などと共に飲食店が一括して客に請求、その内の玉代について
は芸妓の取扱所である見番を通じて寄留宿に支払われる仕組みとなっていた。そのた
め、新聞記事上に現れる遊興金額は玉代、飲食費をあわせた金額となっており、表 318)
がそれをまとめたものである。高崎市の事例は、5 円から 6 円未満 1 件、7 円から 8
円未満が 1 件、10 円以上が 5 件と確認できる事例が広く、薄く分布しており、傾向を
つかむのは難しい。ただし、県下の事
表 3 芸妓遊興費一覧(1905~1912)
金額
例と照らし合わせた場合、1 円から 2
円未満を最低金額として 6 円から 7 円
総件数(内 高崎)
~1 円未満
0 (0)
1 円~2 円未満
2 (0)
未満にピークがみられることから、芸
2 円~3 円未満
4 (0)
妓は最低でも 1 円強から 6、7 円と、
3 円~4 円未満
4 (0)
酌婦に比べて高額な遊興費がかかっ
4 円~5 円未満
6 (0)
5 円~6 円未満
4 (1)
6 円~7 円未満
9 (0)
なお、こうした飲食店での営業は歌
7 円~8 円未満
2 (1)
舞などの接客の場であると同時に、
8 円~9 円未満
0 (0)
9 円~10 円未満
1 (0)
10 円以上*
11 (5)
たことがわかる。
「自然主義芸妓」の指摘からも分かる
ように猥褻行為―ひいては売春を意
図させる場ともなっていた。その際の
行為の交渉については客と芸妓との
合計件数
43 (7)
*最高額は 154 円なにがし(芸妓と外出)。
単発では 19 円(高崎市事例)が最高額。
間で行われていたであろうことが以下の記事より推測される。
碓氷郡安中町あたりの五水さんとやら云ふ人は両三日前の晩〔某飲食店〕へ〔某寄留宿〕
の壽美江を聘び自然主義を振廻し過ぎてすみ江の為に扇子で頭を叩かれ男の癖に帯で両
足を縛られたを遺恨に思ひすみ江の頬に噛り付くやらお臀部へ噛り付くやら大乱痴戯を
17)
18)
高崎芸妓の玉代については 30 分を 1 本と表現。1 本当たりの金額は 1890(明治 23)年時点で
12 銭 5 厘(大川又吉編(1890 年)
『前橋花柳穴さかし』
65 頁)、
1907(明治 40)年時点で 20 銭(
「高
崎花柳便り」1907 年 10 月 25 日:3 面)、1912(大正 2)年時点で 25 銭(栗田暁湖(1913 年)『前
橋と高崎 四季の伊香保』125 頁)と変動している。
本表は上毛新聞などから筆者が作成した(使用史料の詳細は 1 章 2 節を参照)。年代は確認で
きた事例の上限、下限を示す。
- 186 -
演じた為め流石のすみ江は可愛さうに最後の武器たる涙を以て引下つたさうな[「高崎花
柳便り」1908 年 7 月 28 日:3 面]
この記事では自然主義を振回す客が登場
するのであるが、この態度に対し扇子で叩く、
表 4 芸妓売春対価金額一覧
(1903~1912)
帯で両足を縛るなどの措置をとっており、こ
金額
件数(内 高崎)
れを不満に思った客が芸妓に突っかかって
10 銭
0 (0)
15 銭
0 (0)
20 銭
0 (0)
回した」点にあり、こうした猥褻行為を迫る
30 銭
0 (0)
客を芸妓が撥ねつけているところから、芸妓
40 銭
0 (0)
50 銭
1 (1)
60 銭
1 (0)
1円
0 (0)
合計件数
2 (1)
いる。この騒動の原因は客が「自然主義を振
の売春についても客と芸妓の間にて交渉が
行われていることが窺われる。
交渉が成立した場合の対価に関しては、具
体的な金額が確認できたものを表 419)として
まとめた。芸妓の売春対価に関しては金額に言及している記事が少なく、あくまでも
参考程度にとどまるが、高崎市の 50 銭の約束で売春を行った事例、また 60 銭の県下
の事例の両事例の金額について、酌婦には付されていた「複数回分」や「宿代込み」
といった条件が付与されていないため、酌婦よりやや高額な対価を取っていた可能性
が考えられる。
2.3 私的売春における飲食店の位置
ここまで、酌婦、芸妓の営業について見てきたが、それらに付随する飲食店につい
ても、少々整理をしておきたい。売春の問題を考えたとき、酌婦・芸妓と客の「出会
いの場」である飲食店の存在は欠かすことが出来ない。しかし、ここまでで垣間見え
る飲食店について言及するのであれば、それは決して売春にのみ特化した―名目的な
飲食店 20)とは異なる点も強調しておかねばならない。飲食店においては一応の飲食物
19)
20)
本表は上毛新聞ほかから筆者が作成(使用史料の詳細は 1 章 2 節を参照)。年代は確認できた
事例の上限、下限を示す。
名目的な飲食店とは、飲食店風の外・内装で飲食店を装いながらその営業実態のないもの。
- 187 -
の提供は行われており、その質と価格の間には不一致がみられるものの、
「飲食」店
としての営業実態が確認できる。それに伴い、そこに関わる酌婦、芸妓についても給
仕や歌舞の披露といった、客席での接客が課されていたのである。そのため、飲食店
に登楼することは「性行為を意図する」としても、登楼=売春の完遂とはならず、両
者を結び付けるには酌婦、芸妓との相対交渉が必要となっていたのである。このよう
に、飲食店は「買春を意図する客」と「芸妓・酌婦」を仲介する場という役割を担っ
ていた。
なお、酌婦、芸妓の各項でみたとおり、酌婦と芸妓では遊興費に差がみられるため、
自然相手とする客層も、酌婦と芸妓の営業の場も分離することが予想されるのである
が、両者の営業の場は重複する可能性をもっていた。
洋服姿に金縁眼鏡と云ふ偽はしき男あり一昨夜七時頃同市〔高崎市―筆者註〕柳川町料理
店〔某〕へ押上り二三名の芸妓を招きて遊興したるが面白くなしとて居合せたる芸妓を引
連れ新紺屋町飲食店〔某´〕方へ至り自分は衆議院議員だとか会社長だとか大法螺を吹き
立てながら夜通し飲み続け翌三日午後五時頃まで豪遊したる上一先づ切上げんと会計金
三十五円余なりしを二十円内入れにし残金は下宿にて渡さんと同家の酌婦〔某〕を附馬に
して出でたる[「飛んだ家政学会員 酌婦と共に宿屋へ泊る」1908 年 10 月 5 日:3 面]
上記の記事では、初めに登楼した飲食店にて芸妓を呼び、その後芸妓を引連れて別
の飲食店へと移動している。遊興の部分では分かりにくいが、翌日料金支払いのため
に「酌婦〔某〕を附馬にして出でたる」との記述が見られるところから、芸妓を引き
連れて移動した先が酌婦を置く飲食店であることが分かる。
あるいは、次の事例では酌婦を置く飲食店側が芸妓を呼ぶ様子が見られる。
〔某〕と云ふは再昨日午前十一時頃同市〔高崎市―筆者註〕柳川町飲食店〔某〕に登楼し
酌婦〔某〕を相手にし更に〔某寄留宿〕の琴治〔某´寄留宿〕の當里等を聘むで大尽遊び
を極め込みたる[「人夫頭の大乱暴」1911 年 3 月 16 日:3 面]
空き瓶などで飲食店を装いながらその実は売春営業のみを行っていた「銘酒屋」がこれに該
当する。
- 188 -
このように、酌婦を擁する飲食店が芸妓を呼ぶことも可能であり、客が芸妓を連れ
出す他にもこうした方法によっても酌婦、芸妓が同席するという状態が確認できる。
このように芸妓、酌婦はその遊興費用に差がありながら、
「酌婦の所属する店舗」と
「芸妓の派遣される店舗」は重複する可能性を持っており、両者の営業の場は決して
隔絶したものではなかった。
3.性行為の場と私娼の行動範囲
3.1 酌婦の行動範囲
では、飲食店を仲介の場として売春の交渉が成立した場合、その実行―性行為を行
う場はどうなっていたのであろうか。酌婦については、そもそもが飲食店に所属して
いるため、
自己の勤務する店舗の 2 階や奥座敷を選択する場合が多い。
しかしながら、
それ以外を選択している記事も散見される。
〔高崎市―筆者註〕新紺屋町飲食店〔某〕方へ至り(中略)会計金三十五円余なりしを二十
円内入れにし残金は下宿にて渡さんと同家の酌婦〔某〕を附馬にして出でたるが道すがら
両人は如何なる契約出来しものか鞘町〔某飲食店〕へ押上りて夕餉を認たる上腕車を駆つ
て前橋へ来り手を携へて竪町旅人宿〔某〕へ〔偽名某〕と宿帳へ記入し投宿したり(中略)
〔酌婦某〕は同夜宿銭とも金一円を貰ふ約束にて出歯らせたる旨自白したれば拘留五日
[前掲「飛んだ家政学会員 酌婦と共に宿へ泊る」]
この事例からは、遊興費の不足分を受け取るために客に同行した酌婦が、店舗を離
れた前橋の旅人宿 21)にて売春を行っている様子が確認できる。この件に関しては、
「道
すがら両人は如何なる契約出来しものか」と記載されている点から、飲食店店舗にて
交渉がまとまったものではないようであるが、飲食店を客との接点として、売春の場
21)
この旅人宿については酌婦と客が偽名を宿帳へと記入している点から、客の言う「下宿」と
は何ら関係のないものであると推察される。
- 189 -
を外に求めているという点は確認できる。
なお、上記の事例においては、酌婦が「附馬」として同行することにより客との外
出が可能となっているが、こうした事務的手段以外にも外出の手段はあった。
一昨六日午後三時頃前記〔高崎市柳川町―筆者註〕
〔飲食店某〕に登楼し〔酌婦某〕を伊
香保へ連れて行くから一日貸せとて主人を欺き同人を連れ出し[「娘と酌婦を誘拐す 内縁
の妻置去らる」1911 年 6 月 8 日:3 面]
このように、行楽を目的として酌婦を店外に連れ出すことも可能であった 22)。こう
した場合その出先において売春行為が行われていたのか否かについては、取締にかか
ったもの以外が現れない新聞記事上では確定することは難しいが、その点については
利根郡沼田の飲食店酌婦に関する記事が非常に興味深い示唆を与えてくれる。
利根郡沼田町飲食店〔某〕方〔酌婦某〕と云ふは去月七日同町舞台横丁飲食店〔某´〕方
にて〔客某〕外数名に売淫したる以来毎夜の如く自宅或は他の飲食店等にて客を取り居た
る[「酌婦のお灸」1909 年 10 月 29 日:3 面]
この記事では、飲食店酌婦が自己の飲食店以外にて売春を行っていたという事が明
らかにされているのであるが、その中で特に着目すべき点はそれらが所属する飲食店
を離れた場にて行われている点、そしてその場が「他の飲食店」に及んでいるという
点である。高崎の事例でも見てきた通り、酌婦を連れて外出することが可能であり、
売春の交渉が客と酌婦の相対交渉という飲食店が介入しないかたちで行われている
以上、沼田の事例のように性行為の場を外に求めることは不自然なことではないだろ
う。その点で、高崎においても外出先にて性行為を行うことは当然想定され得るもの
であるのであるが、もう一段問題になるのは「他の飲食店」を性行為の場の選択肢に
含み得るかということである。
沼田の事例は、性行為の場の選択肢に「他の飲食店」が含まれているのであるが、
22)
引用中にて「欺き」と表現されている部分は、酌婦を連れ出したことではなく、伊香保へ行
くと言ってそのまま逃走したことを指す。
- 190 -
この点については当時の飲食店の性質を十分に勘案する必要がある。以下は、
『上毛
新聞』にて連載されていた小説の一部である。この場面はある俳優からの「料理屋へ
行かないか」との誘いを振り切って逃げてきた女性とその母親との会話部分である。
『だつてお母様、私を料理屋へ連れ込まうとするのですもの、どんな酷い目に遭ふか解り
ませんから振りきつて来たのですわ』
よく放してよこしたねえ、何かえお前……私には聞憎い事だけれど、万々一指のさきだつ
て握らせやしなかつたろうねえ』
(中略)
『イヽエお母様、私が人心地ついた時は、もうその俳優の胸に掻き抱かれて、水を口移し
にいたゞいたのですわ』
『エヽそれで料理屋へ連れ込まれるのは嫌と言ふのか、えそれは訳の解らぬ話、お前嘘を
吐くのぢやないかえ』23)[緑野女史「巷の怪談二人女(一名白菖蒲)」1906 年 7 月 5 日:3 面]
この場面では、料理屋へ連れ込まれそうになった娘に対し、母親は「一指のさきだ
つて握らせやしなかつたろうねえ」と問いただし、娘が口移しなどの方法で介抱をう
けながらも料理屋への誘いは断ったことに対して疑義をはさんでいる。この場面にお
いて母親が心配しているのは明らかに娘の貞操の問題であり、それは「料理屋へ連れ
込まれたか否か」という点に象徴されていると理解される。ここから、飲食店は一面
で男女の性行為の場―いわゆる「連込み宿」的な性質をもっていたことがわかる。高
崎の飲食店は酌婦との売春を意図させるものであったが、それらは 2 章 3 節でふれた
通り飲食物の提供実態を伴っており、そうである以上は酌婦と客を男女の客として受
け入れることも可能であったと推察され、性行為の場に他の飲食店が入る可能性が考
えられる。
3.2 芸妓の行動範囲
では、芸妓についてはどうであろうか。芸妓についても、客との接点は飲食店であ
23)
引用中 3 行目冒頭の二重鍵括弧(始)欠損は史料まま。
- 191 -
り、最初に呼ばれた飲食店にて性行為を行う事例が多い。しかし、芸妓についても酌
婦と同様にそこから外へと性行為の場を移す記事が散見される。
本町辺の〔某〕さんと云ふ議員さんは〔某寄留宿〕の安子に熱度■高め数度聘むだ挙句漸
く談判が成立したが料理店で娯しむ計りが本意でないから某寡婦さんの家へ行つてしつ
ぽり話さうと安子を欺き自宅へ連れ込み[「高崎花柳便り」1908 年 12 月 12 日:5 面]
この記事では、芸妓との「談判が成立」したため、某寡婦宅で「しつぽり話さう」
との事で(某寡婦宅と偽った)自宅に芸妓を連れ込んでいる 24)。また、その他にも客の
宿泊先へと芸妓が出入りするところを警察に押さえられた記事 25)、寄留宿にて売春を
行っている記事 26)も確認できる。これらに加え、芸妓が客に随行して飲食店を転々と
する事も可能であり、さらには次の記事のようにそのまま市外へと足を延ばすことも
あった。
高崎花柳〔某寄留宿〕のやつ子、
〔某´寄留宿〕の紅葉の両妓は過ぐる十四日の夜柳川町
の〔某飲食店〕にて葦田某山腰某の両田紳に聘ばれ雨となり風と鳴海の夏座敷で散々娯愉
快を極めた末嘉多町〔某飲食店〕に河岸を代へて(略)何物しか二人の男が姿を掻き消し続
いてやつ子紅葉が消えて失くなり(中略)翌日に至つて碓氷郡は磯部鉱泉〔某旅館〕の一室
に出歯つて居る二タ組の男女こそ正しく前夜姿を隠した連中と知れた[「磯部鉱泉へ雲隠
れ やつ子と紅葉の浮気沙汰」1908 年 6 月 19 日:3 面]
このように、芸妓は客に随行して最初に呼ばれた飲食店から他の場所(旅人宿、個
人宅、他の飲食店、市外など)へと移動することが可能であり、高崎市の事例に関し
て言えばそのうち旅人宿と個人宅、寄留宿について場所を移しての性行為が確認され
24)
本件は売春検挙の記事ではなく、花柳界全般の話題を扱った記事の一部であるため直接的に
売春を意図したものであると断言はしにくいが、
「漸く談判が成立」や「しつぽり話さう」
という表現から、猥褻行為を意識している点については疑いないと判断した。
25)
「おすゞ大目玉を頂く」1906 年 4 月 26 日:3 面。
26)
「売淫芸妓の拘留と主人の科料」1896 年 11 月 20 日:3 面。芸妓が清水観音の縁日に呼ばれた
お客に「土砂をかけその晩寄留宿へ喰込」んだもの。
- 192 -
た。
また芸妓の売春の場に関しては、上記のように場を移さない事例についても興味深
い記事が見られる。
高崎警察署に於ては一昨八日市内各所に於ける交番所詰の巡査に命じ某犯罪捜査の為料
理店旅人宿の臨検を行はしめたるが就中八島町旅人宿兼料理店〔某〕事〔経営者某〕方に
於ては不正漢又は野心家が宿泊して時に賭博を為し時に芸妓を聘むで淫売を毎になすと
の風評あり(中略)昨九日午前一時半頃同家を臨検し裏手の二階に至りしに怪しき男女が
同衾し居るを発見し取調べしに男は群馬郡某村の名誉職〔某〕と云ひ女は高崎市新町芸妓
寄留宿〔某〕の抱かほる[「かほるの大痛事 相手は某名誉職」1911 年 2 月 10 日:3 面]
この記事では、芸妓が呼ばれた先が飲食店と旅人宿を兼ねており一口に場所を移さ
ない飲食店での売春と言っても、専業、兼業などさまざまな営業形態 27)を含むもので
あり、その実態は実に複雑なものであった。
4.群馬県下の私的売春の構造―おわりにかえて
以上、群馬県高崎市における私
図 1 酌婦・芸妓の売春営業
的売春について、その担い手であ
寄留宿
る酌婦、芸妓の営業内容とそれに
(芸妓)
連なる売春の関係を見てきた。そ
売春行為の全貌
の中で酌婦・芸妓と飲食店との関
係についても述べてきたのであ
るが、そこから見えてきた私的売
春とはいかなる構造をもつもの
27)
飲食店
他の場
(酌婦)
飲食店など
交渉
行為
この他にも碓氷郡磯部においては料理店と旅館の経緯者が内縁関係にあり、実質的に提携し
ている事例なども見られる(「酌婦の拘留処分」1911 年 11 月 11 日:3 面)。
- 193 -
であろうか。
酌婦、芸妓の行っていた表向きの接客営業と売春営業を模式図化したものが右図 1
である。酌婦、芸妓は飲食店にて「酒席の給仕を行う」
「芸を披露する」といった役
割を担っており、その為に芸妓は寄留宿から呼ばれ(図 破線矢印)、酌婦は自己の所
属する店舗にてその業務を行う。この時、飲食店は表向きの接客の場であると同時に
酌婦・芸妓と客が売春の交渉を行う場ともなっていた。そうして、その交渉に端を発
する私的売春は、客と酌婦・芸妓の相対交渉、飲食店の性質を利用する形で起点から
外へと性行為の場を移す(図 破線、実線矢印)ことが可能となっていた。つまり、酌
婦・芸妓の私的売春営業は「交渉の場」と「性行為の場」の双方がそろってようやく
「売春」の全容(図 点線枠)を現すものとなっていた。
ただし、この時の「交渉」
「行為」の場の関係は常に固定化されたものではなく、
ある事例においては交渉の場であったものが、また別の事例においては性行為の場と
なることも示唆しており、決して一方通行の関係ではない。また業種をまたいだ複数
の選択肢の存在、酌婦と芸妓での遊興費の違いなど、交渉―行為の場の関係を捉える
のであれば、性行為の確認ができないものも含めた私娼の行動範囲は極めて広く考え
る必要がある。そのため、私的売春の全体的構造に言及する際には、図 1 を基礎とし
て種々の要素を加味せねばならない。その際の要となるのが交渉と行為の場を紐帯す
、、、、、
る私娼の移動である。この移動を図式化したものが図 2 となる。
酌婦は自己の所属する飲食店(図 飲食店 C~E)を起点として、他の飲食店、旅人宿
などに性行為の場を移し、芸妓は寄留宿に所属し派遣された飲食店(図 飲食店 A、B)
を起点として他の飲食店、旅人宿などへと行動範囲を広げる。これらの移動、一つ一
つで結ばれるポイント同士は図 1 における「交渉」と「行為」の場に相当するのであ
るが、複数の私娼が行動することにより飲食店 A~E は「交渉」と「行為」の両方の
性質を付与され、複数のポイントの中に位置づけられる。そして、こうした移動は飲
食店から飛び出し、個人宅、旅人宿、その他(県外、温泉地など)へも波及している。
こうして、私娼の動線はそれらの出入りする飲食店を起点として行動範囲の各ポイン
ト同士を結びつけ、一種ネットワーク状の構造を作り上げていた。
このように形成された私的売春のネットワークは、動線を描く酌婦・芸妓の遊興費
の差により一部を違う方向(図 料金の高低)にのばしつつも重なり合い展開されるも
- 194 -
図 2 私娼の移動範囲とネットワーク
寄留宿
料金 高
個人宅
飲食店 A
飲食店 B
旅人宿
旅人宿
飲食店 C
(酌婦)
県外
温泉地
屋外 など
芸妓、酌婦の
営業重複部分
飲食店 D
(酌婦)
飲食店 E
(酌婦)
料金 低
【凡例】
飲食店(枠内(酌婦)はそこに属する)
芸妓の移動
その他店舗(枠の重なりは兼業) )
酌婦の移動
のであり、両者を完全に分離することはできない。それと同時にネットワークの各ポ
イントにあたる飲食店なども複数の業態を兼ねるもの(図 飲食店 B など)が存在する
ために、場を提供しているものについてもその業者を一つに特定できない。このよう
に複数のものが癒着して形成されたネットワークは単純な連携という以上に不可分
の状態にあったのである。そしてこの構造の要である「出歩く私娼」や「業種をまた
いでの売春の場の形成」は私的売春の大きな魅力ともなっていた。
高崎市と同様に私的売春への規制を行った前橋市に関する記事には、私的売春に対
する客の態度として実に興味深い記述がみられる。
- 195 -
現在の酌婦なるものは先づ一室内に閉ぢこもりて往来を覗くことも危険なるまでに取締
らるゝ訳■なり仮りに本人共は何も営業のことゝして之れを忍ぶとするも爾来此等達摩
屋へ登楼せんとするものは先づ以て此の蒸風呂生活を甘んずるものにあらざれば不可能
の事なり[「淫売婦の取締 前橋警察稍や覚醒す併し何時迄続くやら」1908 年 7 月 12 日:3
面]
ここにおいて問題となっているのは前橋の事例であり、本稿の対象とする高崎とは
異なるのであるが、前橋においても高崎と同様に店舗内に押し込める方式の酌婦の規
制が行われており、そうした営業形態では客は満足しないであろうと予測されている。
つまり、蒸風呂生活(高崎で言うところの「空気の流通悪き狭き座敷」28)には、私的売
春を利用するメリットはなく、取締により規制された「出歩く」部分にこそ、客の支
持が存在したであろうと推察される。やや予断も含めて言及すれば、高崎の事例から
明らかになったネットワーク的な構造とは、まさにこうした客の要望に裏打ちされた
ものであり、ここには業種・区域の限定された公娼制度においては決して実現され得
ない、私的売春独特の様相をみることができる。
〈参考文献〉
・群馬県警察史編さん委員会編 (1978)『群馬県警察史』第 1 巻、群馬県警察本部。
・藤目ゆき (1999)「近代日本の公娼制度と廃娼運動」
『性の歴史学』不二出版。
・宮武外骨 (1986)「売春婦異名集」
『宮武外骨著作集』第 5 巻、河出書房新社(初出については
同(1921)『売春婦異名集』)。
眞杉 侑里 (Masugi Yuri)
:立命館大学大学院文学研究科人文学専攻博士後期課程日本史専修 2 年次
E-mail:[email protected]
論文投稿日:2012 年 10 月 31 日 / 審査開始日:2012 年 11 月 15 日
審査完了日:2012 年 12 月 25 日 / 掲載決定日:2013 年 1 月 10 日
28)
前掲『高崎案内附録 花柳の栞』上野日日新聞社:10 頁。
- 196 -
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