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江戸時代における光琳像の変遷について (下ー一)

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江戸時代における光琳像の変遷について (下ー一)
承
安田
上旱和・文化-
篤生美術教育講座(美術史)
表する絵師と光琳を位置づけたのは酒井抱一が初めてで、光琳が没して百年後の
半斎、一七二八 一八〇三)の序文や編者である鳥羽石隠(別号・台麓、一七三
光琳の印影が収録されている。寛政一一年(一七九九)に記された細合方明(号・
まず、享和二年(一八〇二)三月に大坂の書肆から版行された﹃措印補遜﹄に
言及できなかった資料を通して、同時期の京坂の状況について一瞥しておきたい。
間(一八〇四 一八)までを扱うが、それに先立ち、紙数の関係等により前稿で
本稿では江戸の地で抱一によって新たな光琳像が形成されることになる文化年
江戸時代における光琳像の変遷について(下︱一)
前
として取り上げるのが定着している。しかし、﹁琳派(尾形流)﹂という流派を代
ことである。一方、抱一以前から諸書において光琳について言及されており、前
れた﹃和漢印盡﹄の欠を補い書画の真贋を定めるために、石隠が中心になって﹁和
漢古今ノ書画収蔵ノ家二索メ鑒賞ノ人二訪ネテ廣ク集メ遍ク録シテ眞跡ノ尤モ眞
九 一八二三)が記す凡例によると、﹃印補正﹄二巻二冊は、万治年間に刊行さ
これまでの考察において、光琳の晩年に当たる正徳年間(一七一一 一六)か
ナルモノニツイテー是ヲ改正﹂(凡例)したものという。上巻に日本の、下巻に
二稿では、それら江戸時代文献を通して窺える光琳に対する認識、すなわち江戸
ら抱一による光琳像が形成される以前の享和年間(一八〇一 ○四)に至る京坂
﹁緒方光琳︿名方祝一名道崇/叙法橋﹀﹂と名号を挙げた後、﹁道崇﹂(白文方印)、
中国の書画家の印影を収録するが、日本の画家は﹁土佐画家﹂、﹁狩野画家﹂、﹁逸
﹁方祝﹂(白文方印)、﹁緒方﹂(白文方印)、﹁光琳﹂(白文方印)、﹁方祝﹂(末文円
の資料を中心に検討した。具体的には、第一章で光琳の子孫に伝えられた小西家
諸道具落札﹂、第三章では大岡春トの画譜類、第四章で﹃翁草﹄、﹃装劔音賞﹄、﹃新
印)、﹁伊亮﹂(朱文円印)の六顆を載せている。
人画家﹂に分類されている・光琳の印影は﹁逸人画家﹂の部に収められてお卵ヽ
坂で編述された上記の文献からJ﹁家業﹂ではないが世に絵師として認められてい
された﹃措印補遺﹄にも光琳の印影が収録されて印同書の﹁本邦稗道及逸人書
さらに、﹃措印補正﹄から漏れた印影を集めて文化七年(一八一〇)五月に刊行
自の画風を形成した名高い絵師で、蒔絵も得意にするという光琳像が一般に定着
れ、茶事を嗜むとともに作庭も手掛けたとして、﹁スベテ其為所天機二觸発シテ、
﹁寂明﹂(朱文方印)、﹁寂明﹂(白文方印)、﹁法橋光琳﹂(自文長方印)、﹁澗声﹂(末
(朱文円印)、﹁光琳﹂(白文長方印)、﹁澗声﹂(白文方印)、﹁光琳﹂(朱文円印)、
画﹂の部に﹁光琳︿尾形氏名寂明号青々堂/又号長江軒京師人﹀﹂とあり、﹁道崇﹂
舊套ヲ脱シテ益竒也﹂と結論付けていた。
画論にみる光琳像を探求した。そこに共通していたのは、光琳が狩野派や土佐派
えられないが、天明年間頃から京坂で始まったとみられる書画会にも光琳画が出
物語っている。勿論、そこで流通していた光琳画のすべてが真跡であったとは考
以上のことは、当時の書画鑑賞や収蔵において光琳画の人気が高かったことを
などの流派に属さず、草花図や人物図に秀でた絵師であるとする点である。これ
巻三冊の巻之二に収録されている﹁姻花城書画展覧の目録﹂である。これは、﹁寛
一月に刊行された曲亭馬琴﹃蓑笠雨談﹄三
政十二年九月廿五日、東山双林寺において展覧する所の姻花書画の目録﹂であり。
その一つは、享和四年(一八〇四)
陳されていたことが、わずかに知られる展示品目録から判明する。
拙ヲ以テ旨トシ﹂、﹁簡略奇態ヲ為ス﹂点に南宗的特色を見出し、竹洞は﹁俗﹂病
の画風を南宗的要素と結びつけて解釈する点にある。即ち、玉洲は光琳画の﹁古
だけでは、同時代の一般的な光琳像の域を出ない。文人画論の特色は、、光琳独自
続いて、第五章で中山高陽、桑山玉洲、中林竹洞によって著された文人(南宗)
文円印)、﹁青々﹂(朱文円印)の九顆の印影が採録されているのである。
く流布していた﹃新撰和漢書画一覧﹄では、狩野安信に学んだとする画系が示さ
していたことが確かめられた。また、天明六年に刊行され、版も重ねることで広
るという認識を光琳自身や家族が持っていたことが明らかになった。さらに、独
撰和漢書画一覧﹄について検討を加えた。天明年間(一七八一 八九)までに京
文書、第二章では京都の銀座年寄・中村内蔵助らが閥所を命じられた時の﹁銀座
時代における光琳像(イメージ)の変遷についてたどってきた。
尾形光琳(一六五八 一七一六)について語る場合、現在では、﹁琳派﹂の絵師
50, March, 2005
から逃れて風韻を備えていると、光琳画に南宗的要素を看取したのである。
一
50-
pp.41
54 (芸術・保健体育・家政・技術科学・創作編).
愛知教育大学研究報告,
が見出せる。さらに、これも賀楽狂夫が所蔵する﹁和州家隆両筆腰屏風﹂が河津
花街所画宝船﹂(画軸)と某生が所蔵する﹁遊女某之桂衣︿光琳画松竹梅﹀﹂(衣裳)
計六十三品﹂が掲げられているが、その中に賀楽狂夫が所蔵する﹁光琳節分夜於
は、﹁書軸︿凡十九品﹀﹂﹁画輪︿十五品﹀﹂﹁屏風︿三品﹀﹂﹁衣裳︿三品﹀﹂など﹁通
な会である点に惹かれた馬琴が、﹁京師の友人より借抄﹂したものである。そこに
覧会を聞ず﹂というように、姻花、すなわち妓女に関する書画のみを集めた特殊
﹁えどにもかゝる物蔵たる家多しといへども、(中略)いまだ姻花にかぎりたる展
りを示すと考えて良いだろう。
このような作品が存在するということは、光琳画に対する高い評価と受容の広が
作品に対する評価を損なうことがないと光貞も認識していたのであろう。従って、
想定される。また、光琳画を範例としたことを明記しても、光貞自身、あるいは
注文通りに描かせることができる階層に光琳画風の愛好者が存在していたことが
らく注文主の意向に従って制作されたのであろうが、土佐家の当主である光貞に
華館に所蔵される﹁扇面貼交手箱﹂の﹁富士図扇面﹂に近似している。本作は恐
なり此枕屏の裏に尾形光琳の桔梗濃彩之扇面と自菊と枯蘆と淡彩の團扇を粘す﹂
山自編﹃睡余小録﹄附録にも記載されており、そこには﹁和州家隆寛文中の名妓
を加えることにしたい。
してきた。以下、同時期の江戸における光琳や光琳画に対する認識について検討
いささか長くなったが、一八〇〇年を前後する時期の京坂の状況について確認
六、一八〇〇年前後の江戸における光琳-抱一前夜の江戸-
江戸在住の人が著した書物で光琳を取り上げたのは、享保一九年(一七三四)
に刊行された菊岡沾涼編﹃本朝世事談綺﹄が最初であろう。本書は器物等の考証
翌年刊行された野々村忠兵衛編﹃光林繪本道知邊﹄と同じく、いわゆる光琳模様
けを見てかきいたせしと也びと記している。これは、既に指摘されているように、
ハ呉服所也一流を書出し衣類器物等に近年此風を書︿此流はしやうしにうつるか
を、五月からは正覺精舎を会場に行われた。多い月で三六件、少ない月で二〇件、
これは浦井南臺が主催して毎月和漢の書画を展示したもので、四月までは茨城亭
可亭展観品目﹄にも光琳画を見出すことができる・頼山陽が記す序文によれ回
また、文化こ一年(一八一五)に京都で行われた書画会の目録である﹃平安南
とあることを、玉蟲敏子氏が明らかにされてい樋。
大黒天﹂(十一
を中心としているが、その巻四・文房門﹁画図﹂の中で、﹁︹光琳絵︺京尾形光琳
秋色圖﹂(九月)、﹁光琳
短冊﹂にも﹁短さくかけ梅の画光琳﹂と注されている。江戸時
蹇叔圖﹂﹁光琳 月梅﹂(十二月)の四件を認めることができ、十二
巻物︿四季艸花﹀﹂(五月)、﹁光琳
総計三三七件が展示された内、約七〇件が江戸時代の絵画である。その中に、﹁光
琳
月)、﹁光琳
た石野広通(一七一八∼一八〇〇)がその著﹃繪そらごと﹄で﹁光琳乾山などは
について述べたものと考えられる。伊勢貞丈に故実を学んだ幕臣で歌人でもあっ
月の﹁後水尾院
の八件、松花堂の六件、尚信の五件である。その他、常信と始興が三件で、応挙
に西村源六に対し江戸での売出し許可され範などヽ出版物を通して光琳や光琳画
明六年(一七八六)に刊行された﹃新撰和漢書画一覧﹄も天明八年六月二十四日
一方、大岡春トが編纂した画譜類も次第に江戸にもたらされたであろうし、天
もやう畫なれば﹂というのも、同様の認識によるものだろう。
代の絵師で光琳より多数収録されているのは、大雅の一二件、蕪村の九件、探幽
や鶴亭、山口雪渓や土佐光起、若冲の名も見えるものの、いずれも二件以下であ
村の名は第四章で検討した﹃翁草﹄にも見え、尚信や松花堂も含めて、前代以来
に関する情報が江戸の地に流布していったと考えられる。当時の江戸を代表する
る。この史料からだけで即断することはできないものの、探幽や常信、大雅、蕪
の評価を引き継いでいることが窺える。光琳の名もまた﹃翁草﹄に見え、引き続
六月の見聞を記録したとされる﹃一話一言﹄巻九に、次のように記してい樋。
知識人の一人である大田南畝(一七四九 一八二三)も、天明七年八月から翌年
き高い人気を保持していたと見なして良いだろう。
さらに、光琳画そのものだけではなく、光琳画風を好み、求める人が多かった
ことを窺わせる作品もある。それは、兵庫県川西市の満願寺に所蔵される土佐光
緒方香琳、円印に方祝といふ字あり。画に名あり。其の弟、緒方深省、逃禅
貞筆﹁一富士二鷹三茄子図屏風﹂六曲一双であ研右隻に富士山をヽ左隻に鷹と
茄子を描くこの作品には﹁光琳筆意/書所預従五位下土佐守藤原光貞﹂という款
﹁香琳﹂と誤記するものの、光琳について﹁画に名あり﹂といい、乾山につい
嵯峨に住居せしよし。兄弟ともに奇士といふべし。
といふ円印あり。別号乾山、世に所謂乾山焼といへる陶器は此人の製なり。
一月二十日の間に制作されたことが判明す
記があり、光貞(一七三八 一八〇六)が従五位下にあった明和五年(一七六八)
十月二十日から安永四年(一七七五)
る。より重要なのは、絵所預である光貞が﹁光琳筆意﹂に倣って描いたことを自
ら明示している点であり、既に指摘されているように、富士山の描写は、大和文
二
-49-
生
篤
田
安
江戸時代における光琳像の変遷について(下一一)
(一)﹁光琳画噌﹂
なわち近江屋典兵衛から出版されむ。既に周知のことに属するが、本書は光琳画
て﹁其の弟、緒方深省﹂﹁別号乾山、世に所謂乾山焼といへる。陶器は此人の製なり。
を板刻したものではない。版下絵を描いたのは、款記に﹁享和壬戌のとし/東都
﹃光琳画譜﹄二冊は、享和二年(一八〇二)暮に江戸の書肆・金華堂守黒、す
覧﹄などの書物によるとみられ樋。一方、光琳や乾山の使用印についても言及し
旅館の/煌邊にて
嵯峨に住居せしよし。兄弟ともに奇士といふべし﹂というのは、﹃新撰和漢書画一
ているが、この時点では前述した﹃措印補正﹄や﹃措印補遺﹄はまだ刊行されて
附属図書館に所蔵される﹃住吉家古画留帖﹄六冊がある。本書は寛政一〇年(一
あ邨従って、芳中や芳中画、さらには﹁光琳画譜﹂の内容についての詳細はそ
木村重圭氏をはじめとする近年の精力的な研究により次第に明らかになりつつ
芳中の伝記や画業については従来あまり明確ではなかったが、多治比郁夫氏や
芳中寫之﹂とあるように、江戸に滞在中の大坂の俳人で絵師
おらず、作品を実見して記録したものとみられる。既に江戸の絵画鑑賞や収集の
でもある中村芳中(? 一八一九)であった。
七九八)七月から幕末に至る古画鑑定の手控で、住吉家には琳派以外のやまと絵
れら先行研究に譲り、ここでは序文と駄文を中心に検討を加えることにしたい。
江戸における光琳画受容を示す資料として知られているものに、東京芸術大学
場で、光琳画が享受されていたことを、この記事は示唆しているのである。
系の古画も鑑定のために持ち込まれていた。その中にあって、光琳画の占める割
まず、和学者で歌人としても名高い加藤千蔭(一七三五 一八〇八)が寄せた
なにはの芳中画をこのみて、光琳か筆のすさひをまなへり、こたひ其画をし
序文は、次のように記されてい樋。
合が文化年間(一八〇四 一八)に急増し、それ以降数量的に一定していること
を西本周子氏が既に明らかにされてい邨従ってヽ江戸における光琳画受容が本
格化するのはやや後年のことであろうが、一部の識者の間ではより早くから光琳
画が享受されていたのである。
もいたにゑるひとあり、それかはしにI言書てょとこふ、おのれゑかくこと
をしらねは、名におふ浦のよしあしをはいかてわいためっへき、たこ殴める
また、南畝の友人で京坂に遊んだこともある津村正恭(号・漂庵、一七三六 一
千蔭
八〇六)は、寛政七年(一七九五)の自敵をもつ﹃譚海﹄第十二巻で、光琳に関
ほゆれは、かくなむ
月のあし間の水にうっろふことくぉほっかなきか、なかくにあはれにもお
また、本書が刊行される以前から芳中画に着賛していた江戸千家の祖・川上不
かくなる浦人まて眼をよろこはしめ、こゝろをなくさめすといふ事なし、亦
土佐の丹青の精密なる、狩野の溌墨の瓢格ある、雲の上やことなきより藻屑
白(一七一九∼一八〇七)が記した駄文にも次のようにある。
ぬれぬれて、杖にすがり、漸にしていり来れば、八郎右衛門衣裳のぬるゝに、
その中よりして光琳氏か一風の洒落は画中の画にして、おかしきふしく多、
-48-
する次のような逸話を紹介してい誕。
○光琳といへるは、乾山の兄なり、兄弟ともに諸襲に達したる者なり、京都
所住のころ、三井八郎右衛門と同道にて、加茂祭拝見に行たりしが、光琳其
日は金さらさの羽おりを著しけるが、蹄路に堤の邊にて夕立に逢しかば、八
など早くおはさぬといひし時、光琳笑って、我等八十に及たれば、いそぎて
郎右衛門はいそぎ人家にはしり人て、雨を凌ぎ居たりしに、光琳羽織ながら
っまづきなどせば、病気にならんも無益なるゆゑ、静にあるきたり、阿房な
其流をつたへたる難波人の草子の末に予か筆をこふ、其事のなにはともあれ、
蓮華庵主/八十五翁不飽
た。その時、芳中を出迎えた俳人の一人である夏目成美が知人に宛てた書簡の中
て旅立ったのは寛政一一年九月十三日のことであり、同年十一月末近くに到着し
寛政初年頃から大坂で画家として知られるようになっていた芳中が江戸に向け
又芳中たるものか
たヽ其道をたふとむの心うちにかうはしけれは、よしくとめてっゝ書るも、
こといふ人かなといへりしとぞ、
何らかの他本の記述に基づいたものか、耳にした伝聞を記録したものかは不明
ながら、江戸の識者の間で光琳が関心を持たれ、関連情報を書き残そうとする動
きがあったことは確かであろう。このように、光琳や光琳画に対する関心が次第
に高まる中で﹃光琳画譜﹄が出版されたのである。
で﹁芳中子下着にて、御様子もいさゐ承り、草庵へも両度ばかり過訪ニて画も出
一
一
一
未申候、扨々雅人にて、画図の筆韻殊に多く、みなく驚目申蛎﹂と記すように、
光琳画巻蹟
巻に関する次のような記事を見出すことが出来る
にしてぃたのは指頭画など文人画風が中心であった。江戸へ下向する前後の寛政
右画本者同苗長江軒青々光琳模二俵屋宗達真筆一令二臨書一処、不い可い渉二疑論一
到着早々芳中画は評判を博したという。但し、芳中が大坂にいた寛政年間に得意
一〇・一一年頃にはある程度光琳画風の作品も描いてぃたとされているものの、
元文戊午秋九月重陽前一日紫野老人緒方深省誌
者也、為二後証之一記い之、与二親明高医比林立徳丈一云爾
光琳筆乾山ヨリ譲り候、宗鎌所持、扇面宗達之絵、光琳写、外二巻末雪
一方、﹃光琳画譜﹄の画風が、書名通り光琳画風であると認識されていたことは、
江戸到着時に評判を呼んだ芳中画がいかなる画風であったのかは判然としない。
序文や駄文より明らかである。そこで強調されてぃるのは、芳中にっいて千蔭が
山手本継入
ち、序文に﹁こたひ其画をしもいたにゑるひとあり、それかはしにI言書てょと
の企画が版元主導であったとされることと関連付けて考えることが出来よう。即
二年に酒井抱一が光琳百年忌を記念して展観を開催するが、その時出品された光
書物から抜き書きしたものであ琴南畝がこの記事を書き写した七年後ヽ文化一
琳画巻駄﹂を見て筆記したのではなく、竹垣氏が著した﹃筆のまにく﹄という
氏筆のまにく書﹀とあるのを受けている。従って、この記事は南畝自身が﹁光
まず、末尾に︿同前﹀と記されてぃるのは、この前にある記事の末尾に︿竹垣
検討を加えることにしたい。
従来から知られている史料であるが、興味深い内容を伝えてぃるので、改めて
白井宗鎌医師光琳弟子立徳︿同前﹀
﹁光琳か筆のすさひをまなへり﹂といい、不白が﹁其(光琳の)流をつたへたる
難波人﹂であると記すように、本書が光琳画風を伝えているという点である。そ
れに対して、光琳画自体に対する評価は、不白の駄文に﹁光琳氏か一風の洒落は
画中の画にして、おかしきふしく多﹂とあるに留まる。
以上のように、本書が芳中による版下絵を板刻したものであるにも関わらず、
こふ﹂とあるように、千蔭に執筆を依頼したのは版元である近江屋具兵衛であり、
琳作品の中にある﹁宗達筆光琳うつし乾山へ譲の巻伽﹂がこの駄文を持つ﹁光琳
光琳画風を伝える﹃光琳画譜﹄として出版されるに至った経緯にっいては、本書
江戸の鑑賞界における光琳画に対する関心の高まりに呼応して、光琳画風の画譜
画巻﹂であろう。さらに、この作品は、文政九年(一八二六)に刊行された抱一
四
光琳写宗達之
なったものであったことは、多くの後印本が報告されていることからも明らかで
描かれた画巻が掲載され、末尾には次のような駄文が写されている。
圖處也乾山是を傅て又門人立徳何帛遺一巻也﹂と記されたのに続けて扇面三面が
後編﹄上に収録されている。そこには、﹁扇面三枚
を出版することに主眼があったと考えられるのである。その目論見が時宜にか
のに同道した俳人の梅夫により﹁光琳風画家大坂芳栃﹂と呼ばれているように、
光琳画風をよくする画家として評価を得ることになっ加。
右書本者同苗長江軒青々/光琳摸俵屋宗達真筆令/臨書処不可渉疑論者也/
紫翠老人/緒方深省誌□□
田といへる古き家あり、其祖欺、光琳門人にして、能く書を書たりと云距﹂とあ
元文戊午秋九月重陽/前一日
為後証之記之與親朋高瞥北林立徳丈云爾
本来の駄文より分かるのは、この作品は光琳が宗遠の扇面画を模写したもので、
光琳の弟である乾山(深省)が﹁書本﹂、すなわち絵手本として所持していたが、
に学んでいたことを明示する最初のものである点である。第四章で検討を加えた
したことである。ここで重要なのは、管見に入った文字史料の中で、光琳が宗達
元文三年(一七三八)九月八日に﹁親朋﹂(親友)である﹁高瞥北林立徳﹂に譲渡
(ニ)大田南畝﹁一話一言﹂
﹃新撰和漢書画一覧﹄でも、一見したところでは宗達から光琳へとつながりがあ
大田南畝著﹃一話一言﹄については前に触れたが、文化五年の四月から九月に
いて、大田南畝や彼と交遊していた人々が著した資料に目を向けることにしたい。
き交い、光琳や光琳画に対するどのような認識が形成されていたのだろうか。続
増するが、この時期には光琳に関する如何なる情報が江戸の知識人たちの間で行
たように、文化年間に入ると住古家に鑑定依頼のために持ち込まれる光琳画も急
るように、江戸で光琳門人や光琳画風が話題になっていた様子が窺える。前述し
続く文化年間にも、加藤曳尾庵著﹃我衣﹄巻三に﹁横山町か馬口努町邊に、富
・編﹃光琳百聞
篤
ある。その結果、芳中自身もまた、享和三年正月に大坂へ向けて江戸を出立する
田
かけて見聞した事項を収録する巻二十八の中に、宗遠画を模写したという光琳画
-47-
生
安
江戸時代における光琳像の変遷について(下一一)
した文化年間、あるいはそれをやや遡る頃から、書画をただ鑑賞するだけではな
るかのように配列されていたが、ここまで明瞭ではない。南畝がこの駄文を筆写
のような記事を見出すことが出来樋。
代順の風俗随筆であるが、その巻六で文化七年のこととして筆録している中に次
な琴そのような時代背景を考えると、光琳の宗達学習ヽ及びその模写が﹁書本﹂
近来の物にては蕪村、大雅堂也。月仙も行れしが、ちと寝入たり。唐草も同
土佐も古きは少く、光起以来也。あまり高直にはあらず。光琳、尤價高し。
和の書書にて高直なるもの、守景、主馬なり。探幽、常信、安信、是につぐ。
く、より厳密に鑑定を行い、作者等について文献史料の裏付けを求めるように
として乾山、﹁北林立徳﹂へと引き継がれたことを明示するこの駄文の重要性は、
雪舟
但し同じ位の直打にて、古法眼を専一とす。
直段定まらず。
春、是につぐ。其外枚學するにいとま非ず。
晃典主、高けれ共、すくなし。菱川の浮世給、専流行す。西川裕信、宮川長
雪村
﹁ 古法眼、松柴、古永徳、啓書記、秋月、小栗宗丹。此六筆は往々ありて
じ。(中略)只々高きは宋元の名書。書は曾てなし。
改めて指摘されて良い。
また、﹃一話一言﹄の記事の内、﹁光琳筆乾山ヨリ譲り候﹂以下は竹垣氏か南畝
。が付記したこの作品に関する伝聞、あるいは考証である。ここでは、﹁北林立徳﹂
の別名が﹁白井宗鎌﹂であり、﹁光琳弟子﹂であるとされている。この人物につい
﹁光林︹琳︺門人何閑、北林立徳、瞥師也。往々見。後、白井宗謙と云、鎌倉に
て、次節で述べる加藤曳尾庵は文化五年春の事項を記したその著﹃我衣﹄巻三で、
も住すと云説もあり・鶴岡逸民と云書も有9﹂と記しておりヽ現在三立林何閉と
この画巻が現存するか否か不明であり、作品の真偽について云々することは出
からも予想されたことであるが、南畝や京伝と交友があった幕府代官・竹垣直清
めて高く評価されていたのである。このことは、既に触れた﹃住吉家古画留帖﹄
﹁光琳、尤價高し﹂とあるように、江戸の書画鑑賞・収集において光琳画は極
して知られている絵師であることが分かる。
来ない。しかしながら、後に見るように、文化一〇年に抱一が刊行した﹃緒方流
の日翫には、書画をはじめとする道具類が商品として流通していた様が生々しく
いたが、﹁竹垣直清日記﹂として公刊されている文化一三年から文政元年にかけて
直清(号・柳塘)は幕臣としての役務の傍ら書画骨董の売買や仲介に携わって
(一七七五一一八三二)が残した日胆にも窺える。
暑印譜﹄(一枚摺)でも、﹁緒方光琳時を隔て宗達の風を慕ふ﹂、あるいは﹁何帛ハ
立林立徳加州侯の医官也のち忘名して白井宗謙と呼ぶ乾山直弟にて賓に光琳三世
年六月には抱一はこの作品を実見しており、特に何帛に関しては、抱一もこの画
記録されている。但し、個々の作品に関する記載は簡略で、類似の作品名が複数
の画なり宝暦年間の人なり﹂と記している。前述したように、遅くとも文化二一
巻駄文の内容、あるいはそれに基づく南畝周辺の人々の認識を踏まえていること
れているわけで、狩野派を除けば多い部類に属す。ここでは、絵画とほぼ同じ数
印龍﹂などの光琳作品が記録されてい邨絵画四件と漆工品四件あまりが記録さ
﹁光琳襖﹂、﹁光琳芙蓉﹂、﹁光琳鷺﹂、﹁光琳重箱﹂、﹁光琳福禄寿﹂と数点の﹁光琳
を引き、古法眼(元信)も四件見ることが出来る。そうした中に、﹁光琳すツメ﹂、
いる他、室町時代の画家では、啓書記(祥啓)がこ一件、雪村が八件あるのが目
の引用部分に見える画家では、大雅や蕪村、応挙、光起も二件以上が記録されて
される永真(安信)、尚信、常信であり、周信、守景もI〇件以上に上る。﹃我衣﹄
件と一蝶の六〇件が抜きん出て多い。狩野派でそれに続くのは、二〇件以上記録
算出するのは不可能である。あくまでも概数で示さざるを得ないが、探幽の七〇
回出てきた時に同一のものか否か判断するのは困難で、各絵師の作品数を正確に
は明らかである。
(三)﹁我衣﹂・﹁竹垣直清日記﹂・﹁図画考﹂
さて、光琳画風や光琳に関する情報に偏ってしまったが、ここで文化年間に光
琳の絵画作品がどのように評価されていたのかを、改めて見ておくことにしたい。
(三-一)加藤曳尾庵﹃我衣﹄と﹃竹垣直清日記﹄
まず、ここまでに数度引用している史料であるが、加藤曳尾庵が著した﹃我衣﹄
に目を向けることにする。
文化一三年から文政二年にかけては田原藩医になっている。俳諧もよくし、大田
の漆工品が見られることにも注意しておきたい。
加藤曳尾庵(一七六三 ?)は医名を玄亀という江戸を中心に活動した医師で、
南畝や山東京伝、谷文晃や菅原洞斎、渡辺峯山らと交遊した。前述した、﹁睡余小
﹃竹垣直清日記﹄には、当時の書画鑑定のあり方についても興味深い記載を見
録﹂の編者である河津山白も曳尾庵の友人で、文化元年に江戸に出た時にはその
店子となった。﹃我衣﹄全一九巻の内、巻二以下は文化元年から文政八年に至る年
五
-46-
依頼するヶIスが見られることである。これは、前述した﹃住吉家古画留帖﹄の
は英派の観嵩月へというよう向、古画を描いた各絵師の後継者たちの所へ鑑定を
ることが出来る。それは、探幽画や守景画は木挽町狩野家の伊川栄信へ、一蝶画
て、次のように記対。
である。一徳など光吉の門人を六名、広通と広澄の門人を各二名挙げたのに続け
置之法﹂の一節を引いて終わる。光琳の名が見えるのは末尾に近い﹁門人﹂の中
女、門人の順で絵事に秀でた人名を挙げ、末尾に﹁本朝画史﹂巻四から﹁倭画布
符合する。その住吉家に、文化年間以降、多量の光琳画が持ち込まれたというこ
西川祐信
六
︿光琳弟﹀
︿光茂門﹀岩佐又兵衛︿二
︿慶長中﹀勝以
︿廣澄門﹀尾形光琳
空中斉光甫︿学宗達﹀
(下略)
本書には文化五年(一八〇八)の自序があるものの、土佐・住吉系図の末尾に、
乾山
代目又平﹀
︿廣通門俵屋﹀伊年宗達
場合、住吉家には専らやまと絵系の古画が鑑定のために持ち込まれていた事実と
とは、光琳がやまと絵系の絵師であるという認識が広がって心たことを意味する。
このことを念頭に置くと、﹃我衣﹄の記述も、やや不分明ながら、安信までを江
戸時代の狩野派にあて、﹁近来の物にては﹂の前までを同じくやまと絵系にあてて
いると読むことも出来よう。それが正しいとすると、ここでも光琳はやまと絵系
の絵師として捉えられていることになる。
光琳を和画の上下品に位置づけていた。しかし、ここでいう和画とはやまと絵で
竹洞は﹃画道金剛杵﹄(享和二年刊)の末尾に付載した﹁古今書人品評﹂において、
ヲ狩野安信二学テ﹂と記していた。また、第五章で検討した文人画論の内、中林
日﹂として、住吉弘貫かと思われる人物の言葉を引用しているが、光琳を広澄門
形になったのが何時の時点なのか不明である。また、巨勢金岡の項に﹁住吉弘賢
坦斎編﹃皇朝名書拾彙﹄を引用するなど、光琳に関する記載も含めて、現在見る
また、巨勢有久や飛騨守惟久の項では、文政二年(一八一九)に刊行された檜山
住吉弘貫(一七九ご了一八六三)、さらに﹁廣︹緊︺﹂(一八三五 八三)を掲げる。
はなく、中国画の規矩を離れていることを意味していた。即ち、ここまで検討を
光琳の画系については、第四章で見た﹁新撰和漢書画一覧﹂(天明六年刊)が﹁画
加えてきた諸資料に照らして、江戸で文化年間に入る頃から初めて、光琳はやま
のかも不明である。
人とするのに住吉家の判断が関わっているのか、あるいは何か別の根拠に基づく
は、一三歳の時に江戸に出て伊勢貞丈に有職故実を学ぶなどした。二八歳で斎藤
画考﹄でも、光琳はやまと絵系の画家とされている。三河国岡崎で生まれた彦麿
文化年間の江戸で光琳画の評価が高かったことを示す史料として従来からよく
(四)﹁文具童談﹂と谷文晃周辺
に留まらず、住吉広澄の門人と明記する点は注目される。
以上のように、いくつかの問題をはらむものの、光琳を単にやまと絵系という
と絵系の作品を描く絵師として認識されるようになったのである。但し、この新
しい光琳像が何によって形成されたのか、その根拠は不明である。
三-ニ)斎藤彦麿﹃図画考﹄
家を相続した後、石見国浜田藩士として松平康任に仕え、当時、江戸藩邸に住ん
﹃文晁書談﹄は、谷文晃(一七六三 一八四〇)の談話のみを集めたものでは
知られているものに、﹃文晁書談﹄に収録されている﹁光琳の鶴﹂の一節がある。
同じ文化年間に国学者の斎藤彦麿(一七六八一一八五四)が自序を著した﹃図
でいた。国学関係では、加藤千蔭や賀茂季鷹と交遊し、本居宣長の門人を自認し
なく、既に勝盛典子氏が推定されているよう回、文晃の妹の夫であり、鑑定家と
代弘賢らの書画に関する言説や考証等を記録したものである。この会は文化三年
た。千蔭や宣長の師である賀茂真淵は古歌の解釈にやまと絵を重んじたとさ邨
十月頃から始まり、初めは毎月十日を定例としていたが、文化六年九月から同十
しても知られていた画家・菅原洞斎(玩塘、一七七二 一八二こが主催した古
その大略は、安徳天皇から後嵯峨天皇に至る各代の画事を最初にまとめ、金岡
年二月までの間に開催日を十六日に変更してい砂
その流れを汲んでか、あるいは貞丈に学んだ故実研究の一環としてか、古代以来
に始まる巨勢氏と為成に始まる託摩氏、琳賢以来の芝氏の画事を各絵師ごとに掲
書画展観の会における、文晃や洞斎、山崎宗周(宗脩)、石川大浪、檜山坦斎、屋
げる。それに続けて、春日基光から行長、さらに、経隆から光則、住吉広通(如
六日である。年まで明らかなものを抄出すると、文化八年四月十日、同年十一月
話者とともに年紀を付記するものがかなり見られ、月日だけの場合ほとんどが十
のやまと絵の歴史を史料に基づいて考証しようとしたのが﹃図画考﹄である。
慶)、土佐光起、住吉広澄(具慶)に至る土佐家及び住吉家の絵師とその作品を列
十六日、文化一〇年四月十六日、同年七月十六日、同年十一月十六日、文化一一
﹃文晁書談﹄の記事には、発
挙し、基光以降の系図を掲出する。その後、十数人の絵師を補遺し、以上の記載
から漏れた現存作品を列挙したのに続けて、天皇宮家、堂上、武家、釈門、上古、
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-
生
篤
田
安
江戸時代における光琳像の変遷について(下一一)
う。また、この日付は上記の開催日と合致するとともに、開催日の変更は文化八
年三月十六日となり、年紀のない記事もほぼこの期間のものと考えて大過なかろ
や宗達に関する注目すべき内容を含んでおり、少し検討を加えることにしたい。
す証左として、これまでもしばしば言及されている。しかし、それ以外にも光琳
この項目は、光琳画に対する一般の人気が高く宗達画を凌駕していたことを示
を摸す﹂と記すが、光琳が始め永真(安信)に学んだというのは、既に見たよう
まず、光琳にっいて、﹁尾形氏はしめ永眞に學ひ、後宗達の風を慕ひて、其畫様
年五月から同年十月までの間に行われたことを示している。
問題の﹁光琳の鶴﹂の項目には付記がなく、何時の会で誰が語ったのかは明ら
かでない。これまでに既に紹介されており、しかもかなり長文ではあるが、重要
に﹃新撰和漢書画一覧﹄(天明六年刊)にあり、恐らくそれに従ったのであろう。
一昨日の鶴畫双幅、所持主をはじめ諸家みな光琳の絶品と稱美せり、僕書事
﹃筆のまにく﹄の著者である竹垣直清は文晃に鑑定を依頼したり、洞斎とも書
話一言﹄巻二十八﹁光琳画巻跋﹂の内容と近似する。南畝がそこで引用していた
‘
をなさゝれとも、近年殊に古繪を玩ひ、僻論をもつぶやけり、今の世光琳を
簡をやりとりする仲であっ幼ので、宗達筆扇面画を光琳が模写したこの画巻を実
な内容を含むので煩を厭わず全文を示すことにしたい・
賞する人多きによりて、贋作尤甚し、尾形氏はしめ永眞に學ひ、後宗達の風
次に﹁後宗遠の風を慕ひて、其畫様を摸す﹂というのは、先にみた大田南畝﹃一
を慕ひて、其畫様を摸す、今に至りては光琳に鑑すれは持主悦ひ、宗達なり
さらに、﹁光琳は天性風流の質にて、書圖洒落を極めたりといへとも、書法の修
見したか、少なくともその駄文の内容に基づいている可能性が高い。
りもあり、いかにといふに、宗達昔大に行はれしゆへ、伊年の印を押したる
文で川上不白が﹁光琳氏か一風の洒落は画中の画にして、おかしきふしく多﹂
行よりは、才気をもてゑがきたる﹂というのも、先に検討した﹃光琳画譜﹄の跋
と申せは、持主不満の気色顛はる、是流弊といふへし、志かれとも其内に理
偽筆の屏風の草花、夥しく世に傅はれり、其中には二百年にもちかきものあ
二鯛発シテ、舊套ヲ脱シテ益竒也﹂と光琳を評するのとも、その趣旨を一致させ
と記すのと類似する。また遡っては、﹃新撰和漢書画一覧﹄が﹁スベテ其為所天機
ている。
るか故に、漸く古色にして眞物に似たるあり、元来贋作の手きは故、拙なき
の宗達なり、はしめ古永徳
所あるを正筆と心得、宗達は光琳に不及事はるかなりと思へり、いまたまこ
との宗達を見さる故なり、此鶴の双幅は、全く1
屏風ゆへ常に出し置てふるびたるといはんなれども、いかほど古くすゝけた
し、光琳とは時代よほど隔りて、自然に時代の古きもいはずして志るきなり、
は∼古鶴の書にある酢漿草の筆意を見るへし、いさゝか永徳にたがふ事な
る故、中々後世此風を書くものゝ及ぶ所に非す、先つはやく知りやすきをい
士なり(中略)印籠ハ光悦好のかたちなるよし﹂と光悦蒔絵を学んだことも指摘
賞﹄(天明元年刊)巻之六﹁印籠工名譜﹂ではさらに、﹁光悦門人にして風流の好
にも﹁又漆器ヲ作、描金ヲヨクス﹂というが、第四章で見た稲葉通龍編﹃装剱音
る漆器制作にも秀でてぃたとする。光琳の蒔絵につぃては﹃新撰和漢書画一覧﹄
人多し、漆器は光悦の形に依りて製したるものなり﹂と、光琳が蒔絵を始めとす
また、﹁畫のみにかぎらず、光悦このみの蒔繪硯箱類、今は光琳とのみ心得たる
りとも、一杯に新古の境は明らかに備りある事なり、光琳は天性風流の質に
に學ひ、後に一愛して古土佐の筆意を以て自己の新意を加へ、一流を顯した
て、書圏洒落を極めたりといへとも、書法の修行よりは、才気をもてゑがき
あり、落款なきもの、宗達か光琳にまぎるべき事なり、此あたりの畫御考へ
宗達のみにかぎらず、光琳より以前に、長谷川左近なといへる、此流の名畫
用ひ傅ふれとも、其時代に流行せし故、まなひ作りし類は、皆光琳となれり、
りて製したるものなり、たゝし今とても光悦の椿山吹等の硯箱は、光悦にて
このみの蒔繪硯箱類、今は光琳とのみ心得たる人多し、漆器は光悦の形に依
学んでいた渡辺崋山は﹁終日摸光琳画幅﹂というように文化一二年の一時期しき
明らかである。一方、文晃が光琳画に無関心であったわけではなく、文晃の下で
本文中に﹁僕畫事をなさゝれとも﹂とあるので、文晃や洞斎、大浪でないことは
れるが、先に記したように、この項目が誰の談話を筆録したものか不明である。
閉じられている。やや謙遜の意を込めて個人的意見として表明されたとも受け取
故、愚意を述候て、尊慮をも伺ひ奉らんために、かりそめにしるし奉り畢ぬ﹂と
さて、﹁光琳の鶴﹂の項目は、﹁近頃は鑒書の精審より古書をも鑒んがみ給ふか
していた。
の補にも成かね候へとも、近頃は?書の精審より古畫をも鑒んがみ給ふか故、
りに光琳画を模写してた。また、この会の参加者であった檜山坦斎は文政二年
たる故、宗達とは畫迹さらに混するものにあらす、書のみにかぎらず、光悦
愚意を述候て、尊慮をも伺ひ奉らんために、かりそめにしるし奉り畢ぬ、
に刊行した﹃皇朝名畫拾彙﹄の巻五で、﹁俵屋宗達、字伊年、號二對青軒一叙二法橋一。
七
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セ人
ツニ
寫山樓︿ノ
谷氏﹀説賀州
ノニシテノノムラト
メトシ
ヲ
テ
ノ
野之村氏云々、始師二永徳一、後學二本邦古画一別焉二家一
︿所い画最似二光悦・其師受先後未い得い詳矣﹀今傅い世者多是偽倣、1
巻圖一、有二光廣卿題詠一殊爲二真跡一﹂と記している。﹁寫山攘︿谷氏﹀説﹂という
のがどこまでを指すのか不分明ながら、宗達の師を永徳とする点や、﹁今傅い世者
恥ハ是偽倣﹂という点など、'文晃書談﹄の゜光琳の鶴﹂で指摘されている内容と
極﹁めて類似している。従って、光琳に関して先行する諸書に示されていた光琳像
の多くを摂取した観のあるこの﹁光琳の鶴﹂の項目、さらには﹃文晃書談﹄全般
の内容は、個人の認識に留まるものではなく、少なくともこの会の参加者に広く
結
共有されていたと考えて良いだろう。
小
当初、全三編でまとめる予定でいたが、酒井抱一が編纂した諸資料を扱う前に、
誠に心苦しい限りであるが、続きは次稿に託すことにしたい。
このまま書き進んだのでは定められた紙数を大幅に超過するのが確実になった。
さて、本稿で一八〇〇年前後の江戸における光琳像を検証した結果、以下のこ
とが明らかになった。まず、一部の識者の間のことであろうが、天明年間頃には
年間にかけて、江戸の鑑賞界における光琳画に対する関心は次第に高まり、それ
光琳画が鑑賞され、光琳に関する情報の収集が図られていた。続く寛政から享和
に呼応して、光琳画風を伝える﹃光琳画譜﹄が出版された。文化年間に入ると光
琳画受容が本格化するとともに、各種資料を探索して光琳像が再構築されるよう
になり、京坂では見られなかった新しい認識も付け加えられた。その一つは、光
琳が宗達画を模写しており、それが﹁畫本﹂として弟の乾山へ、さらに何帛へと
伝えられていたことで、大田南畝や抱一などに知られるようになっていた。また、
何に基づいてのことかは不明ながら、より広範囲の人々の間で、光琳がやまと絵
系の作品を描く絵師であると捉えられるようになっていたことも確認された。
抱一は、以上のような状況の下に、新たな光琳像を描き出したのである。
タ
ニ
見二源語開屋
ヲ
-43-
生
田
篤
安
八
江戸時代における光琳像の変遷について(下一一)
九
-42-
安
田
篤
生
一〇
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