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東庄町の現状と課題 - 千葉県地方自治研究センター
東庄町長を迎え 対談:東庄町の現状と課題 ─町村の今後をどうしていくのか─ 2012年7月25日収録 ゲスト 東庄町長 岩田 利雄 対談者 井下田 猛 千葉県地方自治研究センター 理事長 司 会 佐藤 晴邦 千葉県地方自治研究センター 副理事長 26 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 佐藤 本日は、お忙しい中、時間を割いていただ ども、あえて概括的にアウトライン的な思いのた きましてありがとうございます。千葉県地方自治 けを少し語っていただければ、とてもありがたい 研究センターでは、この間、情報誌「自治研ち と思います。よろしくお願いいたします。 ば」の企画として、千葉県内の首長に対するイン タビューを行っております。これまでの企画とし て、香取市の宇井市長、野田市の根本市長、千葉 市の熊谷市長に登場していただいております。 平安・鎌倉時代は“東の荘園”だった 岩田 東庄町は、知ら 本日は、岩田町長と、当センターの井下田理事 れていないと言います 長との対談という形で、 「東庄町の現状と課題」 「町 か、県内でもなかなか 村の今後をどうしていくのか」というようなテー 目立ったところがあり マを中心に、さまざまな角度からお話を伺いたい ません。まず、町名が と考えておりますので、よろしくお願いします。 非常に読みづらいです 最初に、井下田理事長から対談の口火を切ってい ね。 そのまま読むと 「と ただきたいと思います。 うしょうまち」になっ てしまいますが、 「とうのしょうまち」と読むの 井下田 私にとっては初めて東庄の町に参上でき が正しくて「の」が入ります。なぜだと聞かれる まして、とてもありがたいことだと思っておりま のですが、東は東西南北の東ということで固有名 す。岩田町長は、千葉県町村会の会長、そして関 詞です。庄というのは荘園ということで、東庄と 東の町村会の会長を担われ、また、今年4月から は、 “東の荘園”のという意味なのですね。です は全国町村会の副会長に就任されたと伺っており から本州最東端にあたることで東といいます。そ ます。言うならばスケールの大きい、全国サイド の地域に荘園があったということで、東の庄、こ に立ってのお話を、後半の部分では聞かさせてい れを短くして東庄、こういう意味があるのです。 ただけるかなと期待しております。それに先立ち 実は、平安から鎌倉にかけて、一つの形をつ まして、岩田町長は、町長として5期目、今年で くってきた町だと言われています。というのは、 17年目に入られておられます。これまでの動きや、 千葉の豪族であります千葉常胤(ちば・つねたね、 17年を振り返って、この東庄の町政の概括的な特 1118年生~1201年没)の六男の胤頼(たねより) 徴と、それからPRがございましたら、お伺いし が、ここの初代の殿様なのです。胤頼は、加領の たいと思います。積もるお話はいっぱいあって、 関係で、この一帯を与えられ、東(とう)一族の この短い時間の枠の中には納まりきれませんけれ 創始者になったということです。 “千葉”の名字 から、今度は“東”を名乗って、東 胤頼に変えました。そのことも含め て、殿様の名字も東であったという ことで、これが延々とつながるわけ です。実際にいま“東”を名乗って いる方というのは、全国に結構いま す。この地域には、まだ東一族は健 在です。それから岐阜県の郡上(ぐ じょう)、いま郡上市になっており ますけれど、かつての大和町(やま 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 27 とちょう)ですとか、郡上八幡町の東一族が、分 家に当たります。功績があったために、郡上の領 町の基幹産業は農業 地を与えられました。加領されたところに、家来 井下田 それで、5期17年を振り返って、御当地 と一緒に分家が出向いて行ったというところです。 の町政執行の模様と関連して、少しく語っていた その付き合いは、今もあります。“血縁交流”と だければありがたいのですけれども。 いうものだそうですが、先祖が同じだということ で、それが延々と今も続いているわけです。 “千葉” 岩田 東庄町は非常に年間の平均気温も安定して から“東”に苗字を変えた当主の、ここは荘園で いて、大体15度位あります。余り雪は降りません あったということになります。 し、農産物は冬でも作れるという非常に暖かい所 です。ですから、 “地の利”に非常に恵まれてい 井下田 そうですか。これまでのお話をお伺いし るという部分でしょうか。かつて水運で栄えた利 ますと、この東庄の場合には、ずいぶん由緒のあ 根川が流れておりますので、隣が銚子市で、その る、いわれのある地名なのですね。素人的には東 後はもう太平洋に流れ込むのですけれども、そう さん、東庄の東は「ひがし」とか「あずま」とい いう土地柄で農業を基幹産業にした町です。それ うのが普通でしょうけれど、ここはそうではなく をずっと長い間伝えてきました。 て、初めから「とう」と呼ぶのですね。 昭和30年7月20日に、笹川町、神代村、東城村、 橘村という4つの町村が合併して、東庄町となり 岩田 そうですね。 「ひがし」とか「あずま」と ました。 もうかれこれ、 57年ぐらいになるのでしょ いう読みなのではなくて、あくまでも「とう」と うか。 その間には人口が増えたり、 また少なくなっ 呼びます。郷土の歴史を子ども達にもわかるよう たりするのですけれども、一番のピークは住友金 にしようということで、本をつくりました。一族 属の団地を誘致したときで、約1万9,000人近い が、どのようにこの地を治めるようになったかと 人口までいきました。 いうことを、歴史漫画をつくって各家庭に配布し ています。それを見た子ども達が、郷土の歴史に 井下田 それは住金鹿島が立地して、ここに団地 興味を持ったりして、そういう人達が非常に多く がつくられたわけですね。 なったことはありがたいですね。 図 1 東庄町の位置 岩田 若者が、工場に就職して来ました。ところ が、私が町長に就任して間もないころ、企業のリ ストラがありまして、大体6,000人以上働いてい た住金鹿島が2,000人をリストラしたのです。小 さい、まだ学校へ入るか入らない子ども達も、一 緒にここに移り住んで来ました。ところが、その 子ども達が成人し、多くが違う仕事に就いてし まいますので、親を残していろいろ散り散りに なっていきました。一時1万8,000人を数えた人 口が、1万4,000人ぐらいまで減りましたが、現 在は1万5,000人です。3,000人以上…4,000人近い のでしょうか、減りました。今は、まさしく高齢 者の町になってしまった雰囲気ですね。 28 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 井下田 やっぱり御多分に漏れずに、そういう人 いう問題があります。それと、農業の形態が変 口減に変わってきているわけですね。 わってきております。今までは、田んぼで米を作 るというのが基本でしたけれども、今は機械化さ 岩田 給食も、幼稚園から始めて中学3年生の れて逆に人手が要らなくなっています。ある程度 義務教育までの約3,000食を作れる設備を作って の年配者でも、機械の操作ができれば何十人分か あったのです。今は3分の1が稼動しておりませ の労力に相当する作業がこなせます。そうします ん。それぐらい子どもが減っているということで と、親子でやるには、いわゆる労働力が余ってし す。ですから、これからの将来を考えて、非常に まうところがあります。親子二人でやるだけの面 不安は持っている町です。 積がないということです。後継者不足ではあるの だけれども、二代に渡って仕事をするという、条 井下田 この土地の雇用効果のある企業というと、 件ではないということです。 かつては住金鹿島です。それからいま一つは、茨 城県神栖(かみす)市の方に立地してきている企 井下田 加えて御承知のように、例のTPPあた 業というのは先端産業ですから、それほど大きな りの追い討ちも始まってくるでしょうから、なお 雇用効果は期待できないのでしょうけれども、そ さら農業がらみ、あるいは高齢者の部分というの のような企業に町民のかなりの方は、やっぱりい は、東庄だけではなくて、これは全国的な問題で まも通ってはいるのでしょうか。 はあるわけです。とても頭の痛い問題でしょうけ れどもね。 岩田 通っていますね。住金に通っていた人のほ とんどは、ちょうど定年を迎えています。新しく 岩田 ですから、田んぼは、圃場整備をきちっと 入居して来られた方達は、まだ定年を迎えており やります。あとは畑で特色あるものが作れるかど ません。一度に移り住んで来たのではなくて、少 うかということと、いわゆる養鶏・養豚を大きく し時間差がありました。最初に、移り住んだ方た 育てていくというものですね。養鶏業者とか養豚 ちは、ほとんどもう定年だそうです。最後の時期 業者というのは、きちっとがんばっています。規 に入ってきた人たちは、まだ勤務しておりますか 模も大きくなってきます。そういう方たちは、逆 ら、その意味ではまだまだ依存度が高いと思いま に今までの仕事を変えたもので農業後継者になっ すね。 ていく可能性があります。でも、その方たちも─ ─親から20代で継いだ養鶏業者になった方、養豚 井下田 そうしますと、町政執行にあたっては、 業者になった方も──もう60歳ぐらいになってき 基幹産業としての農業のこれからの問題と、それ ました。その子ども達は、法人化することによっ から高齢者対策に重点が置かれてきているので て、農業という職種を引き継いで行こうとしてい しょうか。 ます。というのは、規模を大きくすると働く人達 が増えます。その人達の管理を含めると、今まで 生産者から経営者へ の「ものをつくっているとか育てている」と言う ことではなくて、経営という感覚が入ってきます。 岩田 そうですね、まさにおっしゃるとおりです。 それから価格的なものも、市場価格というのは毎 やはり2つとも共通するものがあります。農業も 日インターネットを見ながら操作していきます。 後継者がいません。これだけの条件の良い土地が 野菜、エサの値段だとかの飼料関係の価格がどう あっても、後継者不足で守り切れるかどうかとか 動くか、トウモロコシの価格がどう動くか、世界 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 29 の穀類の価格がどう動いているか、そういうこと さになります。手に取ってみると、見た瞬間にど を踏まえた対応が要求されますので、年配者の方 こへ送っても驚くのです。 「イチゴって、こんな だと対応が難しくなっているのも事実です。です に大きいのか」と。イチゴの品種の中でも、アイ から、その間をうまく縫っていって、次の世代にど ベリーは非常に栽培が難しいのです。ほかのイチ う繋いでいくかというのは、農業経営の大きな課 ゴの産地で、このアイベリー品種をやめてしまっ 題になってくるのではないかと私は思っています。 て、もっと簡単にとれる品種に変えてしまうと ころもあります。この町では、 「イチゴの中でも、 井下田 農業をめぐるそういう構造的な問題を、 王様の大きさを持っているアイベリーを作ったら 御当地なりにとらえ直しをなさって、足腰の強い どうか」 と、 今この栽培に挑戦し続けているのです。 農業施策を展開されておられると見てよいので しょうか。 井下田 そういったあたりは、御当地の農業の担 い手の中から、下から営々孜々(えいえいしし) 岩田 そうですね。昨日も総会がありまして、申 として積み上がった努力でしょうか。 し上げたのですけれども、これからは“生産者” という意識から“経営者”に変わる…そういう意 岩田 そうです。イチゴの栽培を行っている年 識改革をしないと、これからの農業は生き残れ 配者というのは、いま60歳過ぎにさしかかりま ません。TPPも含めて、世界に冠たる日本人 す。この人たちが始めた仕事なのです。後継者は は、良い意味での技術者ですから、より良いもの 育っているのです。一番若いイチゴづくりの人達 を、 「付加価値がつく、より高いものとして、消 は、まだ50歳ちょっとなのですね。その子供が20 費者が買ってくれるものを作るべきだろう」とい 歳代にいます。この20歳代の子供はイチゴ作りを う話をしたのです。TPPは質の問題になってき したいということで、同じ農業でも、こういう形 ていますけれども、これは絶対にまねのできない 態の農業というのは後継者が育つのです。今度は もの、我々にしかできないこと、 「日本人でなけ ある程度、自分のやりたいようにして、いわゆる れば、ここまでの技術がない」 、そういうものを “経営”ですね。 「直売所を作るのにはどうしたら これからの農業経営の中で生かしていくべきだろ いいのか」というのをまかせて、20歳代の人達の うと思っています。 発想を入れてあげる。ある部分をまかせてあげる と、意欲的に働くわけです。直売所は直接売りま 若手が育つイチゴ栽培 井下田 そうですか。それは、より具体的には、 すので、美味しかったとか、いろいろな話が聞け ます。良いものを褒めてくれます。これがやっぱ り農業の基本じゃないですか。そう思いますね。 至近な例でいえば、イチゴ栽培などの効果を上げ ておられるようにうかがっておりますけれども。 井下田 そうですね。うれしいお話を伺いました けれども、そうすると、いまのようなお話を下敷 岩田 イチゴの場合は、非常に技術的に難しい栽 きに、東庄の町づくりの展望が描かれ始めている 培で、大きければ大きいイチゴほど非常に難しい と見ていいのでしょうか。 です。いまテレビでも紹介されたりする“アイベ 30 リー”というイチゴなのですけれども、これは子 岩田 農業のことでいろいろ申し上げましたけれ 供のこぶしぐらい大きいです。ですから箱詰めす ど、東庄町の一番主軸の農産物として、多くの農 ると8個、1箱に8個しか入らないぐらいの大き 家で栽培されているのがカブ、コカブです。この 自治研ちば 2012年10月(vol.9) コカブを、あえて商標登録をして、 “ホワイトボー 何か起きるのではないかという危惧を抱いていま ル”というネーミングで東京市場に送っています。 した。これは去年の3月11日の大震災の時もそう ですから、“ホワイトボール”という名前が箱の でした。しかし、阪神淡路大震災の時もそういう 横に書いてあると、すべて東庄産と言うことにな 大きな暴動的な問題は起きなかったし、昨年の ります。それから養豚業者はSPF──いわゆる 大震災でも起きませんでした。 「やはり日本人は、 無菌豚ということになるのでしょうか──これを、 このへんがすごいな」と思います。 いま大々的に宣伝しています。 「肉質の良いもの これはやはり、長い間培われてきたものだと思 をつくろう」ということでブランド化し、これも います。災害を受けた時にも相手のことを思える また、かなり熱を入れている一分野です。 というか、 「相手をどうにかしてあげたい」という、 そういう気持ちのあらわれだと感じました。皆さ 井下田 そうすると、イチゴや、あるいは養豚な ん助かりたいという思いがありますけれど、あの どを下敷きに、当地のブランド物として全国区的 ような場面になった時に 「自分だけ良ければいい」 に広がりそうですね。広がっているわけですよね。 という人たちが非常に少なかったと思います。今 でも、災害が起きますと、その時にはぎゅっと固 岩田 イチゴも十分遠方まで送れますので、多分、 まるというか、お互いに力を合わせるということ 北海道はともかく岩手県から佐賀県あたりまで出 が見られます。そのようなことが忘れられ、そう 回っているのではないでしょうか。イチゴを送っ いうものがなくても生きられるという風潮になっ てあげると、いただいた人達が自分の使いものと た時に、災害が往々にして起きます。阪神淡路大 して、逆発注してくれます。 「いただいたのだけど、 震災の際、意外と団結力とか、それから「自分達 あのイチゴ珍しいので、自分の知り合いにも送り でできることは何かないか」とか、そういう人々 たい」という人が、岡山の方から電話がかかって の行動が非常に感じられるように見ていました。 きます。岡山の人の名前で九州であるとか、地方 その阪神淡路大震災の後に、地震、災害に強い地 に送る、そのような広がりが出来つつあります。 域をつくらないと町民の命が守れないという思い を強くしました。 阪神淡路大震災に学ぶ 井下田 そうですか。 井下田 そうしますと、就任当初から“安全・安 心な町づくり”は、やはり基本ラインに据えられ ておられたわけですね。 岩田 私は、17年ほど前の選挙で、町長に就任し ましたが、就任した日が平成7年1月21日でした。 岩田 災害に強い町がやはり安心・安全につなが この平成7年というのは、1月17日に“阪神淡路 ると思います。基本になったのは“命を守り切れ 大震災”がありました。震災の4日後にこの仕事 るのかどうか”でした。就任当時、町の公共施設 に就任したわけです。その4日間、何をしていた がいろいろありましたが、そのほとんどが老朽化 かと言いますと、朝から晩までずっとテレビで被 していました。特に、庁舎も含めて、すべて大体 災地の状況を見ておりました。高速道路が横倒し 35年~40年という建物で、なにか手を加えないと になったり、火事が起きて大変な騒ぎになってい いけない、若しくは建て直しをしなくてはいけ る、その対応、対策をどうしているのだろうと考 ないという状況でした。小学校、中学校、幼稚 えたりもしていました。一つの地域がこのような 園、全部それを含めて100%の改修が終わったの 災害に見舞われると大変なことになって、暴動か は、一昨年の12月でした。すべて終わるまで15年 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 31 かかりました。おかげで、昨年3月11日の大震災 院、それから病院退院後のリハビリ、介護を含め でも、公共施設は何も壊れておりません。それと た関連施設をその間、ずっと国が新たな計画を発 合わせて、公共施設の中に自家発電機・ソーラー 表する機会をとらえて、いち早くそれに飛びつい 発電、水も供給できる地下水をくみ上げるポンプ ていきました。 を設置しました。自家発電が動けばポンプが動き ます。そういうことも対応してきたものですから、 井下田 そうしますと、国保の東庄病院と旭中央 近隣地域の中では一番少ない被害で済みました。 病院との連携は、初めからうまくいっていたので 好条件でしたが、2日間、避難所を設置しました しょうか。 けれど、2日で全部解散をいたしました。2日間 とも全部自前で食料を供給しました。 岩田 全然、旭中央病院との付き合いはありませ んでした。それで、旧態依然とした施設が、まだ 病気の予防に力を入れる そのままでした。病院を建てかえようとする時期 でもあったのです。ただ建てかえて、病院の施設 井下田 そうですか。そういう点でも、先見の明 を新しくしただけではだめだ、病人になった患者 を持っていたのですね。 だけを診てもらう病院を作っても駄目だと考えて いました。本来は、役所の中に病院を作りたかっ 岩田 要は、いつかは発生するだろうということ たのです。そうすると、病院と行政というのは、 は考えておりました。そういうことからスタート いろんなものがマッチングします。 しました。この町には、町立病院がありますが、 32 広島県に御調(みつぎ)という町がありました。 医者が非常に不足していました。就任した頃、こ 現在の尾道市ですが、議員さんにそこの視察をお れからは高齢化が進み、大変な時代が来るだろう 願いしました。その時期に、阪神淡路大震災があ という想定の中で、高齢者対策を国が始めようと りましたので、その被災現場の視察も行いまし した矢先でした。町でも取り組もうということで、 た。そこで町の目指すもの2つを──“震災に強 高齢化対策を含めてスタートさせました。まず病 い町”と、これからの病院の健康づくりの施策を 院を充実させることと合わせて、これからは予防 している“統括医療を目指す御調町”を──見て に力を入れることにしました。高齢化して行っ もらえば、私の中で思い描いている方向が議員さ た時に予防に勝てるものはないと思ったのですね。 んにも理解していただけるのかなと思ったわけで 病気にさせない、ならないという防御策が大切だ す。視察を行って、議員さんが、すごいショック と考えました。それでも病気になった場合のため を受けたのですね。住民の健康を守るというのは、 に、医療施設の充実したものをつくるという考え 結果的には町の出費をとりあえず抑えることに他 方にたちました。病気になった人が退院した後も ならないということ。家族にとっては、健康を維 何か手立てが必要となり、いわゆるリハビリを行 持することができるということ。病人が1人でき う、あるいは介護とかありますけれども、当時、 れば、もう1人付き添わなければならないという そういう言葉はありませんでした。病人を一人出 考えをもった時代でしたから、これは大変なこと せば、大金がかかります。健康であり続けるとい になるということが分かってもらえました。“命” うことが、一番やはり財源を軽減させることにな ということと全部つながることですけれど、これ るだろうと思います。そこで、予防、治療、病後 をやっていこうと、施策としてやっていこうと思 の対応という包括的な健康維持の体制を作らなけ いました。厚労省から現地調査に見えまして、保 れば、と思いました。医療関係の保健の施設、病 健センターを作りたいと話しましたら、 「道路を 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 作った方が、選挙には強いですよ。保健センター たのです。諸橋先生は自治体病院の全国の会長を を作っても、あまり目立つものではないし、結果 されていましたので、最初に「私が、東庄病院の が出るまで非常に時間がかかりますよ」という話 経営状況等を調査・診断します。お金がかかりま でした。そこでグラッと気持ちが揺れましたけれ すが、よろしいですか」と言われました。経営診 ど、 「いや、そのことは私も議会も承知の上です。 」 断を行ってもらいましたら、もう大変な結果が出 と言い切りました。 たのです。東庄病院の医師には、地域医療の医師 としての熱意が全く感じられないこと。それから 東庄病院の立て直しに着手 町民が医師を信頼しないということは、医療への 信頼がないということ。 「病気になっても、先生 ここまでくるのには、旭中央病院の諸橋芳夫院 のところにも行かないということなのだから、こ 長の力添えがありました。私は、病院の経営も全 れはなかなか経営の点で難しいですよ」と諸橋先 く素人ですけれども、当時は、町民が安心して病 生から言われました。 「どうしたらいいのでしょ 院にかからないのです。なぜかというと、医者が うか?」と尋ねましたら、 「一度お辞めになって よく入れ替わって、病院で診療を受けた町民から もらいなさい」と指摘されました。結果として、 は「先生が余り大事に診てくれない」というよう 先生方全員に辞めていただいくことになり、病院 なことも言われるなど、評判が良くありませんで から医師が一人もいなくなってしまいました。た した。それから、 「東庄病院に行くと死んでしまう」 だ、看護師、技師といったスタッフが残りました というようなことが言われたりもしました。 「い ね。諸橋先生からは、 「私のところの医者を送り やぁ、これは大変なことになっているな」と思い ます。1年交代になるか、 半年交代でも良いから」 ました。議員さんからは、 「毎朝玄関の戸を開け と言っていただきました。 ると、70万円が飛んでなくなっているのではない そのことに対して、病院の改革に入るというこ か」と言われました。というのは、当時の病院は とは、議会で大反対でした。というのは、議員さ 1カ月あたり2,000万円以上の赤字を出していま んの知り合いの支持者で、病院に通院している人 した。これはもう、大変なものを背負い込んでし もいますので、そのような人達が訴えるわけです。 まったという思いでした。 「町長が、医者を首にしようとしている」という 病院を立て直す良い方法が何かあるだろうとい 話が伝わりましてね。議員さんから「何をやって うことで、旭中央病院の諸橋先生を訪ねて行きま いるのだ、お前は」というような感じで、夜昼に した。そうしましたら「初めて来ましたね」と。 電話がありました。その時に、「今いる医者が辞 諸橋芳夫先生が、 「人前もあるのに、よく訪ねて めても、新しい医者がすぐ来てくれますよ」とい きてくれました」と言って、いろんな話を聞かれ うようなことを話しましたら、それでは任せると いうことになりました。諸橋先生が一回現場 を見て下さいました。その際、議員全員に集 まってもらい、諸橋先生の話を聞いていただ きました。私も含めて議員全員が、先生の話 された病院改革の方法と方向づけをきちっと 進めていけば、今の病院は再建できると感じ たと思います。それ以来、病院の改革に関し ては議員さんは応援団になってくれました。 また、それまでは、若い職員を病院事務局 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 33 に送っていましたが、病院のことに精通した、ベ 旭中央病院に送りました。来ていただいた方は、 テランの職員を事務局に送るようにしました。ベ 残っている人たちに指示を出すのが早いです。こ テラン職員は先生と五分に話をしますから。普 ちらから送った人は、あくまでも旭中央病院で教 通、若い職員ですと、ドクターと職員との間で聞 わる立場にいますから、仕事ぶりを査定されます。 き役になってしまいます。対等に話ができる職員 本人が努力をしないと、一人前として見てくれま に、権限を与えて異動させました。 その職員が、 「1 せん。そのような病院改革に乗り出しました。こ カ月統計を取らせていただきました。今月は幾ら れをずっとやっているうちに、 「このやり方は間 幾らの赤字をつくりました、スタッフの分を入れ 違っていない」と確信しました。東庄病院が旭中 ると幾らです」というようなことを医者に全部見 央病院を越えることは、まずできませんが、地域 せました。数字を見せられた先生は、いかに地域 に根差した病院をつくることが、信頼を得ること への貢献度がないかということ、これでは病院の につながると思いました。 経営は成り立たないことを見せられました。2カ 診療科目は、ある程度つくらなくてはいけませ 月ぐらいかけて、先生方にすべて辞めていただき ん。一番患者数が多いのは何かというと、内科で ました。 す。内科医だけでスタートしたのです。外科医は そして、新しい医者、若い医者を送ってもらい おりません。そのかわり1週間に1回、先生方に ました。この人たちは自治医科大学卒業で、非常 は曜日を決めて旭中央病院で診療してもらうこと に真面目に仕事をしていただきました。自治医科 にしました。なぜかといいますと、旭中央病院で 大学には、9年間の義務年限があります。義務年 は多くの患者さんを診療しますし、最新鋭の機械 限中の先生方を送ってくださいました。もうすで に接することができます。東庄病院が直接勤める に一人前になっている医者というよりは、志を 場所ですけれども、1週間に1回は、旭中央病院 持って立派な医師になろうと一生懸命に励んでい で勉強してもらいます。そのかわり、旭中央病院 る時期の先生方です。そうすると今度は患者さ からいただくものがあります。東庄病院にはない んが、「何か若いけれどもいろいろ聞いてくれて、 診療科目の整形外科医ですとか、眼科医ですとか こういう手当てをしてくれる」ということで、ど 送ってもらいます。せっかく1人を旭中央病院に んどん信頼を回復していきました。今の院長も、 送るわけですから、その1日分を「眼科の先生の 自治医科大の卒業生なのですよ。その後、自治医 日にしてください」 、 「整形外科の先生の日にして 科大の医師たちのローテーションによって、良い ください」ということで、いわゆるミニ総合病院 方向に回るようになって定着してきました。 的な役割をつくってきました。 今の自治医科大卒業の院長が三代目ですけれど 地域に根差した病院づくりへ動き出す 井下田 そうですか。 も、初代も二代も自治医科大出身なのです。今の 院長は十数年やっています。院長に「先生は何を 目指しますか」と質問しました。 「今この小さい 病院が目指すのは、専門医じゃなくて総合医です。 34 岩田 今までの病院経営を変えなくてはいけませ 何でも、とにかく来院した人達を診療します。診 んので、残っていたスタッフについては、旭中央 断結果によっては専門医のいる旭のセンターに 病院の職員の仕事の仕方などを勉強してもらうた 行ってもらう」と、院長は“センター”という言 めに、人事交流を行うことにしました。旭中央病 葉を使ったのです。 「先生、センターというのは 院から1年間、看護師長さんを含めて来ていただ 何ですか」と問いますと、 「ここの病院での治療 きました。こちらからは、管理職候補の看護師を がむずかしい時に、対応してもらう場所というよ 自治研ちば 2012年10月(vol.9) うに捉えた方が良いです。ここは出先ということ ですから、サテライトと言います。サテライトと 当初は2市6町の合併を構想 いうのは、受付をして診察を行います。その症状 井下田 改めて、東庄の町政を集約するよいお話 によってはサテライトでも済みますし、重病なら を伺いました。それで時間の制約がありますもの ばセンターへ送るというシステムが、これからの ですから、用意しました大きな2番目の部分に移 病院経営には非常に良いと私は思います」という りたいと思いますけれども。御当地の場合は、銚 院長の話でした。その話を聞いて、私は院長にす 子だとか香取、あるいは旭から、合併絡みの誘導 べてを任せることにしました。それから病院の経 策などはなかったのでしょうか、 営は軌道に乗りました。広報が出ても、東京の開 業医の息子さんが、「ぜひ、働かせてください」 岩田 やはり、国が指導をしましたから、もちろ と来るようになりました。 んありました。エリアを、私はその当時は“2市 6町”の合併を訴えました。というのは、香取・ 井下田 お伺いしていますと、東庄の医療改革は、 海匝地域を1つの市にしたらどうかという考えが まさしくキラリと光る大きな実験が根づいてきて あったのです。銚子市と旭市というのは、もとも いるのでしょうね。 と切り離せないところがあります。銚子と旭の間 に飯岡町というのがあるのですが、これはかつて 岩田 この“センターとサテライト”型の病院の 銚子との合併で悲劇を生んだところなのですね。 あり方が全国で取り上げられまして、今年の5月 それ以来、銚子と飯岡町とはうまくいきません。 に「第26回地域医療現地研究会」が東庄町で開催 仲立ちしてくれるのは、大きな合併ではないか、 されました。関係者総勢で、スタッフを入れて と思いました。旭というのは、飯岡町の商圏に入 350人もの方々にお出でをいただきました。町の ります。そうすると「旭を巻き込むことで、銚子 施設として、東庄病院、保健福祉総合センター、 とその間にあるところが救われるのではないか」 リハビリセンター、介護施設を視察してもらいま と、私は考えたわけなのですね。私の東庄町の一 した。先ほど庁舎の中に入れたいと話しましたが、 番南側は、旭市(旧干潟町<ひかたまち>・旧海 健康福祉の部門は、この建物の中に一緒に入れま 上町<うなかみまち>)に隣接しています。それ した。ですから、 「健康の里」の敷地内に、病院と から東側は銚子市に、西側は香取市(旧小見川町 保健センターと介護、 リハビリセンター、 シルバー <おみがわまち>)に隣接しています。ですから、 人材センター、それから担当課、を含めて、統括 合併議論が盛んなときは、私は“東庄・小見川・ ケアに必要なセクションを1カ所に集めました。 山田” 、それから“干潟・海上・飯岡” 、そういう ありがたかったなと思うのは、広島県の御調町 ようなエリアが一つできないかなということで構 を視察して、勉強してつくったのです。御調町の 想しておりました。 当時は院長先生、今は名誉院長ということになる しかし、この構想は、余りにも大きくて、ある のでしょうか、山口昇先生が研究会に見え、 「実 程度の時期に取りやめになりました。残されてい に良くやった。私達の病院が当初手がけて、今は るのは隣接の自治体しかありません。隣接の合併 もう完全に軌道に乗っているけれど、東庄町の施 ということで、東庄町、銚子市、旭市、飯岡町、 設をここまで持ってくるとは」と褒めてくれまし 干潟町がまとまるならば、東庄町は香取エリアだ た。ほかの先生方に、 「これは御調町を見たから けども干潟町と同じように(干潟町も香取郡でし このようになったんだ」と言ってくれましたので、 た)この中のエリアということで通そうと考えて ちょっと嬉しかったですね。 いました。それはなぜかというと、旭市と銚子市 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 35 図2 平成の大合併以前(2005年6月30日時点) の香取・海匝地域の市町 ら、慎重に協議に入りました。しかしながら、銚 子市と協議を終えて帰ってきた職員に話を聞きま すと、こちらの条件を話すと、それはできないと 言うことが多い、という報告でした。例えば、東 庄町で行っている高齢者の対策・対応などについ ても、銚子の方はそういうことはちょっと難しい というような話が多かったとのことです。 東庄町では、高齢者対策の循環バスを無料で走 らせていました。それは国の高齢者対策を取り入 れて、助成事業を利用して行っていました。かつ て、バスのドライバーで、定年退職した人たちを グループ化して、全部シルバー人材センターに委 の水道水は東庄町が供給しているのです。農業用 託をして、町内を無料で循環させました。ところ 水もそうです。 が、協議ではお金もかかるので、そのバスも合併 しかし、様々な事情の中で、先ほどの2市3町 したら廃止するということでしたが、中身の話を の合併話は流れてしまい、干潟町、飯岡町、海上 しませんでした。高齢者対策というのは、車両を 町が旭市と合併しました。結果として、東総広域 買うのも、それから維持経費に関しても、75%助 水道企業団は残された2市1町でこれを維持して 成なのです。そのことを、うちの町は余りしゃべ います。そのようなことを考えると、合併後の市 らなかったのです。助成事業に該当するところ、 が、一つの経済圏になり得るのか、それから不足 しないところが出てしまいますし、うちの町の自 するものは何か、観光なのか、工業なのか、商業 慢話になるので、余り話さなくてよいと指示して なのか、多くの地の利をいかした農業なのか、と おきました。 いうことを全部クリアできるような地域をつくり しかし、そのような助成がありますので、今で たいというのが理想でした。ところが、もう“合 も無料で走らせています。これも過渡期になって 併ありき”という状況でした。 いまして、デマンド方式も含めたものにしたらど その後、銚子市から合併協議の申し出があり、 1 うかという案が出ています。それから、高齢者に 1市1町で協議を開始しました。 ちょうど東庄 なると様々な優遇策、記念品だとか、いろいろな 町は、先ほどもお話しましたように、学校等の公 催し物があります。これらの事業も、合併協議で 共施設の耐震・改修を行ってきました。ところ は、廃止ということでした。 が、銚子市は、一つも行っていませんでした。そ の合併協議のときに、いろんな話が出てきました。 「合併すれば、東庄の言い分は何でも聞く」とい 36 合併を見送る う話もありました。しかし、お互いの言い分をき 職員が協議から帰ってきまして、 「東庄町から ちっと了解するという話し合いをしないと、ただ 要請したことが、 ひとつも取り上げられなかった」 大きいところが小さいところの言うことを何でも というようなことがありました。それで「この合 聞くということで合併しますと、悲劇を生むだろ 併は進めたほうがよいか、この時期に国が進めて うと、思いました。私にしてみれば、よりよい地 いることはどうだ」と、合併協議に出席した担当 域を町民の方たちに提供したいということですか の課長たち、 職員に聞きましたら、 「私は反対です」 1 2004年8月26日に銚子市・東庄町合併協議会が設置された。 と言う職員が多かったのです。この時、東庄町で 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 図3 現在の香取・海匝地域の市町 守ることができたと思っています。裕福になった とか貧しくなったということではなくて、住民の コミュニケーションは十分守れた、 と思っています。 合併によって東庄のまわりから町が消え、東西 南北――東が銚子市、南が旭市、西が香取市、そ れから北は茨城県の神栖市になりますから―― ちょうどこのまん真ん中に、東庄町が1町残って います。職員との話し合いの中で、教育委員会も 含めて11課あった課を5課ぐらいにしたい、とい う話をしました。 「そんなのは、できるわけがな いよ」という声も多かったのですが、小さく分か は住民投票までいこうとしていた矢先でありまし れて縦割りで仕事を行うよりは、4つ5つの課が た。2そこで、すぐに議会招集をかけて、事情説 1つの課になって仕事を進めた方がうまくいくの 明をしました。議会は満場一致で、合併は白紙撤 ではないか、ということに落ち着きました。不足 回ということになりました。住民の中には、 「住 するものは、お互いの仕事を理解して、協力し合 民投票を行って、白黒をつければいいのに」とい い、係長たちには「一番やりやすい、30代から45 う声もありましたが、私は執行体制の中が、今回 歳ぐらいの半ばの人たちが、一番仕事としてやり の合併を見送るということで方向が決まりまし やすい職場をつくろうじゃないか」と、みんなに たので、あえて住民投票はしないという決断をし、 徹底させました。職員数を20%削減しましたから、 住民投票を取りやめました。 職員には20%の負荷をかけることになりますので、 やはり大事なことは、このような経緯、状況だ 給料等の削減は一切しない、と話しました。そう から合併しなくても済むということ。 「皆さん我 しましたら、職員からは、手当の一部や日当とか 慢できますか」ということを、きちっと納得して を返上する、と言ってきました。それには私も勇 いただき決めることだと思います。町の予算規模 気づけられました。 の20%を多分、交付税も含めて削減しなければな らないだろう。では、削減される前に我々はみず から贅肉を落とそう。職員は控えめに採用してい 生活を守り続けることが大切 こう。それで削減目標を20%とし、経費も20%削 井下田 そうですか。私の理解によれば、御承知 減、私の報酬も20%削減します。議会の定数も の合併絡みの部分に少しこだわって申し上げれ 20%削減してもらいます。年間50億円の一般会計 ば、合併というのは、言うならば町村の数の減少 予算を、多分40億円にすれば、合併しなかったこ と、プラス広域行政へのまっしぐらな突進だった とによって地方交付税が削減されても、私は十分 かなと思います。お話を伺いますと、その側面が やっていけると思うということを宣言しました。 あったにしても、御当地なりに地についた“あし その通りやってきましたら、確かに削減があった た”を描きながら、合併絡みの部分は、この御当 り、増えたりしているのです。 地なら御当地なりの方向を、具体的に議員さんあ 合併しなかったことによって、私は、町民の命 るいは職員を含め、町民に示されたものの部分に を守ったのと同じように、住民の今までの生活を 大きなウエイトが置かれていたのかなと思います 2 2004年12月6日、東庄町長が提案した住民投票条例案が 町議会で可決した。 けれども…。それが今になって、プラスしてはね 返ってきているのでしょうね。 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 37 岩田 実は“良い・悪い”の判断は、まだ先のこ ます。例えば島ですと、人口何百人という島が東 とだと思っています。ただ、合併に絡んで様々な 京都にもあります。ですから、増やそうにも増え 問題があったにもかかわらず、今までの生活を守 ないのですね。それはずっと維持してきています。 り続けられるということは良かった、と思ってい そういうところでも、きちっとした自治を形態と ます。いろんな近隣の話が耳に入ってきます。 「東 して守っていますから、住む人達にとっては、や 庄町に残ってよかったね」というようなことを聞 はり良いところなのです。 くことの方が多いので、良いことだけが私の耳に 「その良い部分を、ずっと維持できるようにし 入ってきます。悪い話も入ってくればいいのです ていくためにはどうしたら良いか」と考えるのが けれども。町民が近隣の集まりに行きましたら、 多分、首長の考え方だと思います。今せっかくこ 「東庄町、小さな町でもきちっと残っているもの。 こまで、みんなが良い意味で生活を共存できるの 残っていてよかったね。うちの町は地図上から名 に、これ以上よくしてあげようという気持ちの方 前も消えちゃったし、意欲的にならなくて、何か にウエイトが強くいっているのではないか、「こ あれ以来、地域の結束力が非常になくなってし れを維持できなかったら、自分の仕事は終わりだ まったというようなことをよく言われるよ…」と、 な」と考えている首長たちが多いのではないかと、 ニコニコしながら話をします。こういうような話 感じています。それから、やはり物を考えたりす を伺うと、良かったかなと思っています。良かっ るということは、多くの人達の“話す場”をたく たかどうか、結論を出せるのはもっと先だと思い さんつくることではないのか、と思います。です ますが。 から、自分達で、 「このようにしたいとか、この ようなことをしたいんだけど、いかが」というよ 井下田 それにしても、町長さんの極めて意欲的 うな話し合いの場をつくること、全国の組織体が かつ精力的なお話を伺っていますと…割(さ)い 出てきますから、その中でお互いにいろんな話を ていただきました時間は、かなりオーバーしてお 交わすことが重要だと考えています。どちらかと ります。 いうと、これは市にあまりできることではなくて、 最終的には、いま全国の町村長会の副会長さん 町村だからできることですし、結束するのも早い のお立場などもありましょうから、それらを踏ま と思います。同じような問題をみんなで解決して えて、町や村――もちろんその場合は、漁村も含 いくということに関しては、全国町村会の存在価 みますけど――町村がどういうふうにしたら、生 値としては、大事な部分だと私は思っています。 き残っていくことがこれからできるのでしょうか。 それは、もちろんお立場もありますし、そうたや すく結論めいたお話をここで出していただかなく ても結構ですけれども。 街は住民がつくるもの 井下田 アメリカの都市学者にマンフォードとい う人がいまして、そのマンフォードに言わせれば、 38 岩田 いま実際には、町村というのは全国で932 「都市はもろく、かつ滅びる」と言うんです。と 町村。それでも、市の数(767市)よりは町村の りわけ彼の著作の中で強調しているのは、いまの 方が多いのです。市と町村は規模が全く違います 町長さんのお話のように、都市における非人間性 ので、弱小自治体が残ったということになります。 の部分が、極めて芽が大きくなってきていて、そ しかし、小さいからどうだとか、大きいからどう れで結果的には人の結びつきが弱くなり、最終的 だ、というような話というのは余り出ていません。 には、都市はもろくて滅びると言うんです。その というのは、大きくなりようがないところがあり 点では、非都市を代表する農村の地域には、この 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 時代であっても、なおかつ人と人との結びつきの い」というような話があったとしますと、いちい 部分は色濃く、強く残っていますから、その部分 ち議会で審議する必要はありません。それはもう、 はやはり、非都市である、農村部の強みだろうと 壊れてしまったものはいち早く直す。震災の教訓 は思いますけれどね。 で、すぐ実施することにしました。そういうこと で、自治会長の会議を2回ほど開催しましたが、 岩田 私は、東京で少し生活していたことがあり これは地域をつくっていく人たちの集まりですの ます。あえてなぜここに帰ってきたかというのは、 で、議会と違った熱があります。ですから、街づ 今おっしゃられたような部分が、まだ残っている くりの基本に近くなってきたと思っています。住 のですね。そういうことを大事にするということ 民がつくるべきだと、考えています。 と、高齢者の仲間入りという点では私も明日は我 議会は議会で、これは住民が選んだことなので が身なのですが、お互いに高齢者を、一人暮らし 良いのだけれど、地区を代表して選ばれた人達の の方達をどうするかという問題になると、田舎は 会議を、きちんと行政が受けますということで、 非常にそういうものには関心があります。という いわゆる自治会長会議というのを開催した。これ のは、いま県が奨励しています“地域ネットワー は、住民の声を聞いたものがストレートで出てき ク”というのがあります。自治会長を含めて、消 ますので、行政はその場で即答できるものは、明 防から民生委員から、いろんな役職の人たちが、 日でも仕事をします。というのは、 “すぐやる課” そういう話を自治会の中でします。負担にならな なのです。うちの町には“すぐやる課”はないけ い程度に、お互いに見守り役になります。ですか れども、 困っている問題は、 どこの担当課でも“す ら、関心を持つことに対しては、うるさいぐらい ぐやる課”になります、ということを言ってあっ 関心を持ちます。それで、そういう人たちを、き たのです。会議は夜間にやって、次の日にできる ちっと見守っていけるのかなと思っています。 ものは、職員が出勤してきて、その現場に朝入っ 今年から自治会長の会議というのを開催してい ていきます。 ます。それはなぜかといいますと、今までの因 習・風習の中では、いわゆる自治会長という仕事 井下田 そうですか。行政がいきいきと、具体的 というのは、議員さんの紹介で議会に陳情して、 に見える形で動いているわけですね。いまの町長 自治会のいろんな困っている問題を議会で審議し さんのお話の部分に即して申し上げれば、このと ていました。これではダメだということで、自ら ころ全国的には、 “新しい公共”という言い方が の地域を任せられた人(自治会長)が、同じ立場 あって、いまの町長さんのお話は具体的に始まっ の人達で話し合いをし、行政協力員会議というこ ているかなと思いますけれども、御当地ではその とで、自治会長会議の中で結論を出す方法にしま 部分がもう既に始まっているんですね。 した。それで自治会長がいま地域の中で、その立 場にいて困っていることを皆さんの前で発表して、 岩田 始まっていますね。はい。ただ、形どおり 他の人達の意見を聞いて、最終的に結論づけよう のものではダメだということです。議会の人達が じゃないかと。同じ悩みがある人達は、 「いまの いますね、議員さん。質問要旨だとかなんかはい は、私のところでもあります」ということで、関 らない。即答でやりましょうと言って、議会と 連ということでどんどん言ってくださいと。地域 違った雰囲気でやっています。それから、同じ立 の中で自治会長さんが自らやらなければならない 場同士の人たちが、それに対して答えにまわりま 仕事の部分は、議会を通す必要はないですと。 「こ す。 「俺のところでは、そういう問題はこういう こが壊れているのだから、明日でも直してくださ ふうにして解決しました」って、そこで出てきま 自治研ちば 2012年10月(vol.9) 39 す。今度は行政が聞き役になります。 「あっ、良 うのは、お互いがどういうような連携をとってい いことを聞いた」と。この間のテーマは、 「一人 くかということなのでしょうね。ですから、田舎 暮らしで生活をしているのだけれども、自治会費 は、ふるさとをつくってあげることも大事だと思 が払えない。寄附金みたいな形でいろいろ役員さ います。都会と、どうにか話し合う機会とか、連 んが来るけど、なかなか負担になるので、 “自治 携をするとか、そういうのをつくれたらいいなと 会を抜けさせてください” “地区を抜けさせてく 思います。いちばん、雑踏でうるさい東京都の区 ださい”という要望が最近多いけれど、皆さんい はどこでしょうか。私どもの方は、ものすごく静 かが」と。これを全体で図るわけですね。 「うち か過ぎるけども、お互いにバーターといいますか、 でもそうだ、うちでもそうだ」 。 子ども達が行ったり来たりするようなことができ ませんか。田舎の子どもは、都会に憧れています 井下田 やっぱり、御当地でもそうですかね。 から。都会の子どもは、マンネリ化して生きてい るから、これが当たり前だと思っています。 岩田 行政側も、そういう方たちに「いろんな募 都会というのは、とりわけ東京は、地方の人た 金だとか、なにかをするということが良いんだろ ちの集まりでした。田舎のある人は、今でも夏休 うか。その募金を受ける方たちのところまで入り みとか、お盆とかに、おじいちゃん・おばあちゃ 込んでいって、地域として募金を下さいというの んのところに行こうということになります。その が良いんだろうか」というのをやると、全体が考 意味で、都会と田舎のコミュニケーションが、今 えるのです、頭の中で。うちの地域も、 それがいっ も続いていると思うのです。田舎のない人はそう ぱいです。ない地域はないですよ。それをみんな はいきません。国としても、一極集中しないため で考えたと。答えはこの次に出すと。これは何年 にも、対策を強化していく必要があると思います 来、考えてきたことでしょうね。 ね。 農業体験を渋谷区の子どもにさせたりとか、そ 井下田 そうですか。それにしましても、先ほど れから今度は、植えたものが収穫期になるとどう から何度かマンフォードの話を申し上げています なっているのか、現場を見せてあげる…。そうい けれども、マンフォードに言わせれば、都市が滅 うことが、いろんな問題の解決にもなってくるよ んだり、もろいというふうに指摘していますけれ うな気がします。 ども、都市も生き残ってくれなければ困りますね。 農村の非都市の部分を同時共存にして、ともども 井下田 そうですね。さあ、時間がかなり過ぎて に生き残るような時代を、今後ともにつくり上げ しまいましたけれども、この辺でお開きにさせて ていきたいと思いますけれど、その辺の両者の融 いただきたいと思います。それにしても、実に意 合といいましょうか、その辺はどう判断したらい 欲的かつ精力的な、日本の明日にとってヒント的 いでしょうか。 なお話をたくさん伺いました。よい機会を与えて いただきまして、ありがとうございました。 岩田 これは、すごくむずかしい問題です。田舎 に住んでいて、良いか悪いかということになりま すと、利便性だとかをを考えてしまいます。もっ と便利な方が良いと思いがちです。都会を考えま すと、こんな雑踏の中で余裕もなく生きていてい いのかな…と。ですから、この部分の解消策とい 40 自治研ちば 2012年10月(vol.9)