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四 土地なき開拓(須田 政美)

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四 土地なき開拓(須田 政美)
地なき開拓須田政美
f
華者須田政美氏は満洲拓植公社で
何の出来ることもありはしない。ただ、そのふんい気の中に数日皆の奮
になるから後からやって来いよ、と言ってくれた。来てほやほやの私で
﹁須田さん。とうとうまた開拓にもどりましたね。﹂と喜んでくれた。私
その時、農地局の営農課長であったが、
に役所であいさつに上った。
闘ぶりを見学したわけである。その時、実に久しぶりに野田哲五郎さん
開拓指導に当たり、終戦当時は北安
満拓の開拓課長であった。終戦後大
八洲開拓団が現地を離れ流浪の末新
京に入り、十カ月の西陽地区菊水町
の難民生活の際に、西陽地区日本人
が青森の農業経営研究所にいたとき、おりにふれて、激励の手紙をいた
だいていた。この正月か、パキスタンから帰られてのち、特徴のある丹
念な細字でむこうで見直した日本農業、特に米作についての考え方と、
研究所の課題任務について意見をよせられたもので、野田さんならでは
の、真しな面目のうかがわれるものであった。
引揚げて来て私が岩手県六原農場入りをしたときも、実は松野さんが、
野田さんに依頼して、二級の国の定員一名増を青田であてこんでの話で
あったのだが、野田さんは当時︵二十二年︶随分苦心して私のためにその
席をこしらえてくれた。これも満洲での縁、ことに終戦後避難開拓民の
久方の話は、そのころI終戦後の開拓団の補導時代に及んだとき、
世話の仕事を通じての縁による好意であった。
務課長など、部でも首脳あげて上京し、議会の舞台裏において知事以下
野田さんは、大八洲が茨城県下に入植している。訪ねてあげると喜びま
局新設、現地開拓行政機構の二分割問題が起こって、瓜生部長や市川拓
知事選のさ中に発令をうけたのだが、田中知事再選と同時に例の開発
とになったのは、昭和二十六年の四月である。
青森からふたたび北海道に帰って、また開拓行政に直接たずさわるこ
ので、失礼ながら氏にこうてここに戦せさせていただく事にした。︵佐藤︶
くれた。その一節に﹁土地なき開拓﹂として大八洲の記録がおさめられている
する貴重な開拓の記録をおさめた本を出されたのを、私にも忘れないで送って
その後北海道開拓部農地課長として御活躍なされ、﹁辺境農業の記録﹂と題
代、特に終戦後の苦難の思い出を徹夜で語り合った事がある。
代、上京の折大八洲の入植地にお立ち寄りになられ、大八洲の組合員と満洲時
会の補導員としてお世話になった方で、昭和二十六年春、北海道拓務課勤務時
須田政美氏
八大八洲開拓農協の道V
、
反対運動に力を尽くしていた。市川議長は出がけに新米の私にも、勉強
−50−
四
﹁相変わらずだねえ﹂その光景に私が嘆声を発するのに、佐藤氏は、
ピョピョ遊ばされているのである。
神立からこちらにゆけば新生開協︵戸谷氏のところ︶、この支線でこの駅
﹁放牧だあ﹂と言って笑った。一服する早早、風呂が沸いているから浴
すよ。と言って、メモ紙を出して、懇切に行くコースを書いてくれた。
に降りると大八洲の団地と、.⋮:私は大八洲訪問をぜひ実行しなければ
みろという。風呂から上がって少時﹁あれから後﹂の話をきいているう
まで、政府を追いこんでいたが、参議院の合同委員会で、夜半まで交交
きな屋敷で、玄関にかけてある﹁大八洲開拓農協事務所﹂の看板が一寸
組合事務所は、菅生村の本村にあった。がっちりした二階建の古い大
くれ、組合の本部に一緒にゆくのだ、との話である。
ちに、団員が自転車を引っぱって来た。すまないが一寸自転車に乗って
ふ一つ
ならないことになった。
北海道開発法一部改正法案の審議は、社会党の懸命の阻止で会期延長
増田官房長官等との論戦攻防の経過を傍聴した翌日、私は上野から茨城
こもごも
の、その利根川くりを目ざして乗車した。
、、、、
そぐわない感じである。﹁えらいものを借家したものだね﹂と言うと、村
にはやっぱり開拓きちがいの人がいて、引揚開拓団の大八洲の苦難の経
事務室には﹁西陽地区﹂避難時代の旧知団員が五人ほどもう待ってい
取手からのローカル列車はのどかに田園の初夏の風の中を進んだ。目
墾地の方に案内してくれた。その新墾畑地の状況をみて、私はようやく
た。現在、某が経理、某が庶務ということで、皆それぞれ佐藤氏を中心
歴に同情して、その旧家所有のこの屋敷を実に格安に譲ってくれたのだ、
数年ぶりで﹁士﹂にありついた大八洲の団員たちの、希望の息づきが、
に変わりない体制で、新しい建設にあたっている。当時参謀格だった村
的の小駅について方角をきいてゆくと、ほど近いところで開拓農協の製
じかに感ぜられて胸が熱くなる思いであった。温和なこの関東平野の気
山君が、離れて北海道に入植地を求めて行ったあとは、大体もとの連中
と説明して地元の協力を感謝していた。
候、平坦な土地、たとえ地味が悪かろうとも、もう終生彼らは安心であ
に変わりなく、ソ連からも帰ってくるし、わきからも何とか入れてくれ
材所があって赤松の製材をしていたが、西陽地区にいた団員もいて、開
る。初夏の日が傾きかけたころ、渡船で鬼怒川を渡ったが、川面が斜陽
という事で引揚時からすると、大分世帯がふくれて現在八十余戸になっ
へいたん
に光って美しい光景であった。
小さな家が並んでいる。その一つに組合長佐藤孝治氏夫妻が丁度いた。
近くまで、すっかり五年前に帰って、語り陽気に歌うのをきいて、みん
﹁あんたの歓迎会をやるんだよ﹂と二階座敷に案内されてから、夜半
ている。
私の顔を見て目をまるくした。﹁誰かと思った。来るんなら知らせてくれ
なの開拓スピリットが、苦難をこえてここまで来た。その自らの内在す
本部部落に到着した。別に大きな事務所らしいものはない。二戸建の
ればいいもんになあ﹂夫人も実になつかしげに喜んで迎えてくれた。だ
る喜びを、なじみ顔の私の来訪を、一つのチャンスとして、こだわりな
だれ
が、せまいその板敷の居間に座ることも一寸できない。ヒョコが多ぜい、
−51−
く吐露流出した感じで、私も快い酔いに陶然とした。
こ息
﹁大八洲の歌が出来ているんだ。須田さん聞いて行ってくれ﹂誰かが
そう言って歌い出すと、みんなが合唱した。あとでメモして来た詞を記
圭夕○
名残りの大八洲
かげろうひばり
一、陽炎もえて雲雀なく
名ひぃソ
南の丘でわらび狩
春の大八洲ああ目に浮かぶ
鎮守の杜で見下した
二、間近に南郷宮の下
牛追うむちもいそがしく
蒔くは大豆か高梁か
雀こうりやん
もんぺ姿にああそよぐ風
︵三∼七まで省略︶
八、夢健︾垂にまぼろしに
彼方に浮かぶしんきろう
思い出深き大八洲
名残りも深きああ大八洲
ゆうび
身代り開拓
一、赤い夕陽の満洲の野辺に
死ぬも生きるも二人連れ
かたく誓ったあの開拓に
はげむまどいも今は夢
いまごろ
二、空しく消えしあのユートピア
頼るわが夫今頃は
しの
あのシベリアでさぞ寒かろと
偲ぶまぶたに灯がくもる
三、可愛い二人の坊やのいのち
ゆ
うばう避難の旅の空
征きしあなたにまことにすまぬ
過ぎし去年の秋の暮
四、今は祖国の士ふみしめて
再起を誓う村づくり
まだ帰り来ぬあなたに代り
くわ
女ながらも鍬をとる。
︵以下略︶
これはいつも無精ひげを生やして、ひ謎認喪たる野人佐藤孝治のまた
その第一の故郷にまさる郷土を満洲国三江省の野に建設した。この郷愁
いと感じて居る。それが彼自身の公的な使命の強い自覚につながってい
ともかく妻子健全で共共生きて来られた同氏として自らの幸福をすまな
一面であるが、真情は知る人の胸をうつ。仲間の者の不幸にくらべて、
は未練ではもはやない。げんに果たしつつある第三の郷土建設のエネル
る。そのように思われた。
みんなは二つもの故郷をもっている。大八洲は山形県の出身団である。
ギーの結集のために、その回顧は必要なものであるかもしれない。
−52−
﹃
社がそれまでの任地であったから、東満三江省の弥栄に接続して昭和十
の年に私は北安満拓の開拓課長であったが、西満のチチハル及び新京本
大八洲は私にとっては終戦後のつき合いとなった開拓団である。終戦
奥地から、傷つき病みつつも、ともかく生命をもって新京にたどりつい
下らなかったので、西陽地区約一万五千の避難人口の約半ばは、これら
て、かれこれ開拓団体数で三十を数え、家族を含めてその数は七千名を
が、第二次千振、四次の静岡、東北村、福島、大日向村、その他を含め
西陽地区収容の避難開拓団及びその人数は、相当出入の移動があった
四年に入ったこの弥栄縁故移民団には、終戦後長春︵新京︶避難で相会し
た組であった。大八洲はその中の一つで、他の団も同様であるが、団の
いやさか
たのであった。私は北安でソ連進駐と同時に、約十日間、武装解除をう
共同体制をとかずに、そのまま上述の空家社宅に集団合宿し、どん底生
とら
けた部隊と一緒に、飛行場の中に囚われていたが、その時は同時に家族
活に一日一日を耐えていたのである。
南下することができ、家族は新京の満拓社宅の親友生駒正位君一家の安
ちょうだい
東疎開のあとに入れてもらい、寝具を中条さん等先輩から頂戴し、生駒
家の道具を使わせてもらい、どうやら落ちつくと共に、満拓の避難開拓
い、その惨状の記述にたえるものではない。
はじめ満拓の益満開拓部長を首班とし、中条土地課長を中心とした日
戦死者、飢えにたおれ、疲労に動けなくなった者、それは現実の悪夢と
多いが、もちろん暴民の襲撃にたおれて路傍の草に高梁畑に屍となった
わがこ
開拓民の避難群がともかく奥地からたどりつく。佐藤組合長の歌詞の
文句ではないが、途中で生きながらの吾児を捨てて来たという人も随分
本人会の農民救済班にいたのであるが、南下して来た、惨たんたる姿の
して、回想にたえないものである。その生き残りの開拓民の集団で衣は
かばね
開拓団が、元軍官舎及び満鉄社宅のあった、緑園、西陽の郊外二地区に、
破れ、靴は失われた裸足のI、その姿に、在住の新京都の日本人は面を
くつはだし
他の地方からの一般避難民と共に集結収容、その数二万を越えるに至っ
そむけてゆく。満人は子供を売れと、より添ってくる。満洲開拓事業の
私は結局、西陽地区日本人会に、その補導班として、住永君︵克山出
車を独占して自らの家族のみ朝鮮に送った関東軍の、その最大の犠牲階
の命令を発して自らは、いち早く通化移動の寸法を定めており、満鉄列
終焉の姿は、惨たるものであった。﹁開拓団はあくまで現地に止まるべし一
しゆうえんとど
張所長︶、斎藤君︵徳都同︺工藤君︵樺川同︶と一緒に分駐勤務することにな
層はこの開拓農民であったのである。
り我うざんばく
の任務として、最後の世話は誠意をもってしなければならない。そうい
このどん底の開拓民に対して、ともかく出来ても出来なくても、公社
って、同地区の空き家一戸に、この顔ぶれでの梁山泊を設け、あれこれ
満拓社員が分遣されたのであった。
て、両地区日本人会に、その開拓民の連絡世話の任務をうけて、一定の
民の救済班の仕事に従事することになったのである。
こういう時期の実情は、よほどドライな心理で書かなければ、とうて
も一切サッパリとして裸一貫にされたのである。幸い九月初旬、新京に
×
開拓民たちの相談相手となり、世話をやかせてもらうことになったので
ある。
−53−
×
ばかりのメンバーで日本人会派遣の形で活動の組織をつくった。当初は、
う最も困難な任務に、公社では益満、中条の諸氏が中心になって三十名
団をその最大とする。厳しい冬の寒さと共に発疹チフスは、この難民地
のぐ、集団雑居を余儀なくされているこれらの集団避難民であり、開拓
畳にポロ着や防寒外套ぐらいをまとって雀のようにより添って寒さをし
がい少︾フ+牛,め
日本人会本部で一室をもち、長春到着の開拓団に対して、避難人名簿と
区に無惨非情の暴威をふるった。一月がもっともひどく、悪夢とも何と
あて
避難経過報告の提出を求め、避難人数に応じ一名二十円宛の応急救援金
もいえぬ﹁死の冬﹂であったのである。
私たち西陽地区補導班も、私を除いた三人は例外なくこの死神につか
をその場で交付した。避難報告等は後日のための記録としてすべての日
本人会保管としたわけである。
生きんがために何らかの労務の仕事、物売り、石炭ひろいまでを含めて
て最低限の高梁、大豆等食糧の手当てをし開拓難民自体でも、もちろん
境を坊復した。私は二人の看護役である。どうにもなるものでないが、
君が発熱、梁山泊の隣家の工藤君もたおれ、いずれも四十度線の生死の
がやられた。これは満拓寮の家族の所で坤吟し、西陽の梁山泊で住永
まれながら、幸いにして、生命だけはとりとめた。最初に斎藤徳兵衛君
しんぎんりよiさんばく
働きを求めたが、団体単位の更生授産事業をすすめ、これに対する相談
この間開拓団も軒並みに罹患し、大日向のごときは、団長堀川清躬老を
第二段階としては、ひとまず集団収容された難民たちに一般救済とし
相手となり、資金の︵これもぎりぎりの額であるが︶貸付をする。生活状
筆頭に、死亡者続出、益満さんと共に団長やほかの死亡者を弔いに訪れ
ほ・フこう
況全般を見回って、このどん底での生き方についてのアドバイスもやる。
る時も、全団中でぴんぴんして応対できる者がなかったのである。私た
ちも毎晩宿舎に帰っては、裸になって、シラミの数を数え合っていた状
りかん
就労のあっせんもする。
満拓のほかにさらに開拓総局側の人人も加わり、本部、地区を通じて、
況であるから感染は当然であろう。
仲間三人とも心臓が丈夫であったから死線を突破できたものの、私は
このような最後の開拓団補導に力をつくした。
この奉仕活動のため、とうとう職に倒れたのは、平松慶三郎氏︵満洲
かつて心臓肥大症で徴兵検査は第二乙になった人間だったから、発病し
大日向村開拓団を最大の被害者として、全団七百名以上の世帯が約二
よわい
酪農常務︶、石井哲氏︵満拓佳木斯︶、西島氏︵満拓需品部︶、すべて開拓民
たら一ころであったに違いないが、天が齢を貸して、ともかく生きて今
はつ し ん
収容の過労と発疹チフスで、いずれも頭が下がるほど真剣かつ情熱あふ
日に至った。
ていしん
れる挺身の結果であった。開拓民いな一般奥地の難民に対し、中途の損
害よりも更にはなはだしい痛撃をあたえたのは、外ならない、この発疹
りつぜん
百近くを失い、その他軒並みに一割以上の死亡者を出した。この死の冬
は思い返すさえ傑然とする。地区の保健所等もせい一杯活動しても、こ
チフスであった。
天災であるか、人災であるか。ともかく最も感染し、蔓延しやすい条
の勢いには手の施しようが無かったといえる。予防注射のワクチンが足
まんえん
件をそなえていたのは、避難行につかれ切り、栄養が失調し、表のない
−54−
ちみつ
ひょうひょうのんき
動きをつかむ事が出来る人である。瓢瓢として呑気にみえて、物事は
あった。新京本市域と鉄道本線で境する陸橋興安橋の比較的近くの元満
でに避難途次で相当の犠牲者を出し、新京I長春到着時は百二十人位で
は、そういう環境下であったのである。大八洲もむろん例外でない。す
暗黒時代をつい記しすぎたが、大八洲開拓団の、避難暮らしのその冬
が私に言ったことを思い出すが、﹁明日の事を考えて今日余り辛抱︵節約
こんな時という、その時の特殊な条件の認識が必要なことである。彼
時に、こんな餓死線上の人間多勢を引きずって行けないという事である。
家であるにちがいない。それよりも楽天家になり切らなければ、こんな
さを、時には沈診な表情にのぞかせる事もある。しかし本質的には楽天
りなかった。後の祭りというのが正しいであろう。
極く級密に考え、折衝に当たっては粘りもかけ引きもある。内面のつら
鉄社宅跡の建物四棟に居を占めたが、大日向村の北裏に当たる位置であ
1節欲のこと︶し過ぎると、明日には本尊が死んでしまうかもわからな
ちんうつ
った。団員の応召未帰還も多く、婦人を多く抱えて十人足らずの男子団
い。城内︵満人旧市街︶に働きに出た団員の女子衆が日当をもらったら、
この前記した越冬の酷烈な試練に対して、地区内のあらゆる開拓団に
まったっていうが、それでいいんだよ。﹂これは、ほんとうの意味で、明
大福が食いたくて、夢中で団に入れる金で大福を腹一杯買い食いしてし
むね
員もそれぞれ笥刎職ぎ等で奮闘して居た。
くらべて、その死亡者の率は低かった。発疹による犠牲者は数名にとど
日の生を考える本能的な衝動を重視することであろう。
きょうじん
めえたし、傷病の者も漸次むしろ減少して、奇跡的な強靭さを示した。
とするものかもしれない。が私たちは、多くの同環境の開拓民集団と比
一建物の半分二十坪︵六六平方メートル︶であったが、そこを改造して、
業をはじめた。農産加工はもとより佐藤氏の得手とするところである。
大八洲は西陽地区の開拓団のどこよりも先がけて陶峰の促醸販売の事
較して、その原因にある程度首肯し得るものを認めることが出来たので
ムロを作り電気を盗電し、かまどを設置し、周到な計算のもとにいち早
その強い生活力は、あるいは東北人I︵山形県人︶の潜在的な強さを本質
あった。それらの原因は、一言にしていえば、やはり﹁生存の技術﹂で
豆救命丸﹂と冗談に私は名づけたことがあるが、終戦後の超貧乏ぐらし
く製造をはじめた。味噌の原料購入資金は既述の更生資金を借入れした。
佐藤孝治団長は、いわゆる拓務省任命の団長指導員ではない。団員農
にあった私たち日本人は、大豆のおかげで命をつないだ事を思い出すべ
あり、その根底に見出されるものは、生存生活の仕方に就いての英知の
民仲間からえらばれた形の非常時団長であるから、他の団幹部とちがっ
きであろう。当年は豊作ではなかったはずだが、それにしても日本を養
それに大豆もやし、納豆、これは販売でなく団員に食わせるためだ。﹁大
て農民そのものとして、その気持ちを団員に零細な点まで通じてゆくよ
っていた大豆の宝庫であり、その価格は米の五分の一位であったろう。
発揮ということになると思う。
さを持っている。無口で理屈めいたことは言える方ではない。夫人も相
動物蛋白は高価であるし、私たちも皆高梁と大豆が毎食の根幹であった。
たんぱく
似たりである。がどちらもリーダーとして、壁をもたずに団員の心理の
−55−
こうりやん
難民への配給も主食として高梁、大豆、それに豆油が加えられていたが、
いずれにしても消化吸収率が、このさい重要問題であったから、高梁飯
に丸の大豆の混炊等は最も避くべき食法であった。大八洲はこういう加
■一■■■
ようはい
地区に来てからも、現地にいた時と同じように毎朝全員をそろえて遥拝、
いやさか
弥
栄の行事をやったのだから、その道路向かいの旧新京中学喝騨邨ぴて
いたソ連の兵士共もけげんな顔付きで眺めていた。
発疹チフスに対する抵抗力のいかんは、﹁食べた物そのもの﹂即体力に
対に余りに明日の事に備えすぎて、今日に辛抱し過ぎたのではなかろう
着着越冬の準備もしておった。しかし、さきの大八洲の佐藤氏の言と反
部落長、組長の連絡会議が常時もたれて有名な堀川老団長の掌握下に、
かかっていたかも知れない。蛋白と共にビタミン、脂肪がこういう時に
か。共同炊事の実質を見て私たちはそういう観察をした。︵初期でそうイ
工自給を中心に、生命維持の食設計をして十分に実行した。
大切であろう。満洲赤大根、もやし、豚臓物、がら、豆油、生存のため
ンフレにならぬ時だが、一日の標準食費四円位のコストで上げるときい
最も可哀想なのは、団長や指導員を失った義勇隊開拓団員である。指
に安いもので取ろうとすれば、そんな種類であろう。佐藤氏はこういう
品ではなかった。しかし佐藤氏は﹁安い味噌﹂の定評を確保する目標で
導者のいない、この年輩の人たちは、自らの生き方に確信をもてない節
て感心したものである。︶
作り売り出した。原料の塩、大豆、高梁、砕米も極力安く入手した。日
があった。住永君などは、特にこういう所をよく回っては蓬髪垢面の気
食設計に真剣な検討をしたのである。大八洲の味噌は促醸で決して高級
本人会に納品する塩の廉価なときは、これの分譲を申込み、何とか借金
のぬけたような少年たちに、気合いをかけていた。
は我我の食物の問題だ。﹂と豪語した。大八洲の婦人連は、豆をたき、味
そのことは死なない程度に私たちの食費を下げることだ。それは最後に
自信がある。それは私たちの労力をダダに近くまですればいい訳だから。
は味噌をつきながらも、歌を合唱する。昔の流行歌も、お国の民謡も何
れを自然に引きたててしまう。その空気を確実にもち続けた。婦人たち
大八洲は、中に一人、二人滅入りそうな気分の者がいても、大勢がこ
ほうばつこうめん
しても原料のストックを持った。﹁私は価格で競争して容易にまけない
噌をつき、製品を背負って集団で市中の配達に出た。
でも全く陰診な所もあった。こういう時期であるから意気阻喪すれば、
実情を見ては本部の企画を適切に決定させる。そういう裏の重要な役割
野田哲五郎さんも、本部と西陽・緑園両地区の間を往来して、難民の
をごちそうになる。そういう空気であった。
何の気もおく事なしに﹁無いか﹂﹁ある﹂で彼の加工の余技である濁酒
笑いがわく。佐藤氏は坑の上にあぐらをくんで一一ヤニャ笑ってみている。
かん
でも味噌つき歌になる。工藤君や住永君が行けば、その冗談に応酬して
大八洲に行くと気分がよくなる。l私たちも、その明るい生活の空気
が好ましく、よく住永君、工藤君とも立ち寄ったものであるが、同じ団
それはきりもなく落ち込んでしまう。長野分村の大日向は決して暗くも
りに努めておられたが、大八洲の実態には一つのモデル・ケースを見出
いんうつ
無かったが、余りに団の統制がとれて立派すぎたのかも知れない。その
−56−
Lろうまちやわん
したと言われ、私たちと時たま訪れては、佐藤氏の白馬を茶碗で飲みな
必要であろう。日本人会から資金を手当てして、西陽でも大八洲、大日
また春耕と共に近郊の満農のところに、婦人は炊事、男は農耕の苦力
クーリー
毎月十五日は全員の公休日にして、この日は大てい演芸会を開いた。
に就労あっせんがなされた。戸谷氏等がその中心で活動した。大八洲は
向ほか二、三の開拓団に温床経営をやらせる事になった。
これも難民地区ではみられない事であった。救済の実態調査班員で来て
在来豚の仔数頭を買って来て養豚をもはじめた。﹁なに、引揚げがきまっ
がら楽しく話し合った。
いた満拓の古川洋氏は、尺八の名手できこえた人であったから、よく引
た時には皆で食おうと思ってな・引揚げの時ぐらいは精力をつけなきゃ﹂
天行健なりで、日本人にとっては一変した満洲の天地にも、春が訪れ
された。遣送団の出発順位は難民地区が先であった。七月十日すぎ、万
再度長春の覇者は国府軍に代って、七月上旬から待望の引揚げが開始
一︸
っぱり出されて、その哀調で故国を思い出させ、皆をホロリとさせたも
佐藤氏はそう説明した。
て、この地獄のような冬から西陽地区もほっと息をついた。しばらく空
感を胸に祖国へ、祖国への、そのひたむきな希望を面にみなぎらせ難民
はしや
のであった。
を見上げることすら忘れられていたのだが、まっ青な明るい大満洲の空
たちの長い隊列は続いて行った。数日後私は、全然人気のなくなった地
の日も好天にめぐまれて、初夏の薫風かおる中を二人は自転車をふんだ。
放っているこの組合を、私はとらわれずに素直に見てゆきたい。幸いそ
開拓民が入植した中で、﹁完全協同経営﹂として四年後の今日なお異彩を
氏は、背後からそう声をかけた。戦後府県北海道を通じて約二十万近く
﹁早いね。さあ今日はゆっくりあんたに団を見てもらうべかな﹂佐藤
ら、ずっと当時の回想をたどっていた。
紫
朝、私は佐藤氏より早く目ざめて、庭のしゆるの樹を眺めおろしなが
うかなり大きくなったトマトや茄子が風に微動していたのである。
なす
区の、開拓民たちの宿舎あとを歩いてみた。雨あがりのその庭には、も
××
があった。
国、共両軍の長春攻防戦の一幕が終わって、長春の街路樹が兵火のあ
とにうっすら淡緑に彩られる。そのころは、士なき開拓民も、たまらな
きつきよ
い土への郷愁にかりたてられた。考えてみると、満洲開拓は拮据経営十
年、その成果は雲散霧消したわけであるが、国の政策のもとで経験した
ひご
その十年の開拓生活よりも、よるべき何らの力の庇護なしに、自らの生
命力で、どん底の中に生き抜いたこの半歳の生活は、日本人農民の経験
したもっとも切実きわまる最後の、生の開拓ではなかったかと思う。
いど
大八洲は典型的にこの士なき開拓に、正しく挑み力を発揮した協同体
であるといえる。
ふさ寺くう
引揚げの時期は満洲︵東北となった︶における国共両軍の戦いの帰趨も
西陽地区を七月にたったこの団が、故郷山形についたのは九月であっ
しんせき
わからぬまま、すべて見当もつかない。農民は土地がほしい。しかしこ
た・ひとまず一応はそれぞれの故郷に親元や親戚に無事な顔を見せたの
そさいなえ
れは難問題であった。市内の数十万の市民は、または中国でも蔬菜苗は
−57−
だが、かねての方針どおり、余り日が経たぬうちに、佐藤氏は再び皆を
糾合して四十戸ほどの固い結合をつくり、入植の候補地を物色したので
う午後二時ごろであった。
もっとも愉快であったのは、丁度デルタ地帯の畑では麦刈りの最中で、
その結果、茨城県にいる野を山彦錨氏、江坂弥太郎氏等の協力を得て、
を今こそ六月の太陽とすがすがしい風の中に、確実に享楽していたので
業をしている有り様であった。永く求め続けていたその土と、その実り
西陽地区にいた彼の婦人たちが明るい健康色にやけて、たのしそうに作
この菅生村の、菅生沼といわれる周辺の土地をマークしてその解放を受
ある。
けたのであった。それは東京まで、トラックの日帰りができる立地であ
る、常習水害のデルタ地帯であったからである。この解放を受けるまで
るにかかわらず、放置されていたのは、利根川と鬼怒川の合流点にあた
応じ、佐藤氏は組合の経営をかなり多角化する事によって、この共同経
堂で子供たちもみな一緒の食事をしている。協同と分業。各人の適性に
共同宿舎も四部落に十棟建設ができている。もちろん共同炊事で、食
むね
ある。
においても一方ならぬ経緯があったのだが、一同は座り込みにひとしい
営を持続発展させる能率高いものにしようという、理想をもっている。
ひよ、フ
はサイロも持ち、すでに北海道その他から入れて乳牛二十三頭飼育して
めんよううさぎ
最初に寄った部落の一戸は、相当数の敲鵬を任せられていた。畜産部
天幕生活を続け、日傭とりをし、芋を食べて飢えをしのいだという。
組合の地区は約百余ヘクタールで、一戸当たり百二十アールから百五
十アールの配当になるのであるが、高台は赤松の酸性土地帯、過半を占
何でも飼っている。乳牛を入れて山羊は不用になった。乳牛飼育は、河
やぎ
いる。緬羊は福島から入れて五十頭、役牛十三、豚、鶏、あひる、兎等
新しい水魔の試練で、入植三年目かにキテイ台風で四十ヘクタール近
川敷地である広い堤防の草地をかなり延長利用できて、いわゆる堤防酪
めるデルタのいい所は水のつかぬ年は今までなかったという。
く開墾作付した畑の収穫は全滅のうき目にもあった。大分意気もくじけ
農の好条件をもっている。
大井沢地区の高台を開墾したので、現在の畑の約半分位は水害の心配な
を受けてよく全員で頑張り通したという。二十四年から水禍の心配ない
耕作は畜力で、北海道畑作耕種と全く同じで、府県の畑作には珍しい。
いる。先先は普通耕作にも用いられる。現在約百ヘクタールの畑はその
畑の開墾には農林省から払下げを受けた三屯トラクター二台を使って
勺トン
たのであったが、さる協力者から﹁水害お目出とう﹂という激励の言葉
い所を確保できた。︵きのう来る途中眺めた新墾畑はこの部分であった。︶
農村工業の施設は一寸アンバランスに進みすぎている位にできている。
これは北満でマスターしてきた技術である。
同経営に入植希望者があり現在八十八戸になっている。畑をみ、部落の
製材事業はきのう私が駅から降りて最初に立寄った。原材はもと団地
その後シベリアの帰還者も次第にあり、ほかに全然団外から、この共
共同宿舎を見、さらにまた長駆してデルタ地帯の畑、乳牛を集中してい
の売渡し立木を供したが、現在は国有林からの払下げ等で稼動をし、団
かどう
る畜産畜舎をめぐって、昨日の佐藤氏たちの住む部落に帰ったのは、も
−58−
精穀施詮精米麦、製粉、郷騨、辮嘩繊湖醸造施設は当然自立のため
の専業農家が生まれる。そしてその三十戸がその人の創意工夫と希望と
五ヘクタール単位の耕作専業農家をつくれば百五十ヘクタールで三十戸
て耕作方法は畜力機械力を充分取り入れれば、一戸当たりの労働力を大
に必要である。外に搾油︵遊休施設を安く手に入れた︶・蹴熱瞬鵬丑場︵搾
により畜力主体の個人営農を打ち立てようと、五人なり十人なりの協同
事業として建築の請負も東京でやっている関係、それとのコンビでかな
油と併せ二三一平方メートル︶相当の資金を固定している。農村工業資
による機械化農場を経営しようと、各人の自由に伸び伸びと経営出来る
人三人と換算して二毛作地帯でも五ヘクタールの耕作能力があるので、
金の貸付は六十万円うけたというが、その倍の資金支出はしているであ
組織にして全耕地の耕作を担当させる。そうすれば耕作には必要のない
り活動している。
ろう。農産加工は佐藤氏の得手とする技術ではあるが、私には営農との
七十戸の余剰労力が生まれるので、そのうちから全耕地の地力維持に必
きゅう
要な家畜、開墾地一ヘクタール当たり大家畜三頭を目標として四百五十
調和からこの部面への初期の資金固定は問題はありはしないかと杷憂さ
れる位である。
それを如何ように合理的に経営するかは、その担当農家の創意によらし
いか
頭︵中小家畜も換算︶の飼育を担当する畜産専業農家を大体三十戸つくる。
同体の﹁根﹂である。そして﹁幹﹂は組合﹁枝﹂は部落で、その先に個
める。
しかし佐藤氏の考え方は、こういう産業施設が組合という生産生活協
人の生活経営が葉、花、実に当たるのだという。
事務系統︵庶務、経理、購阪、医療その他を担当するもの︶十戸という風
次に農畜産物の加工その他の農村工業を担当する専業農家三十戸位、
はしないかと、卒直に私も感じる。しかし彼の展望は与えられた土地の
に振り向けて行けば、各自は充分自分の仕事に専念し、個人経営と何ら
佐藤氏の考えはこの農村工業というものを、少少企業的に期待し過ぎ
規模を基底にして、一つのエムプロイメント︵雇用︶の問題として、日本
変わりなく自分の創意と工夫を取り入れて、しかも組合全体としての多
もくろ
段階としての今日、大八洲の現状は完全共同経営として、ともかく経営
かに注目すべき実験的な構想にちがいない。しかも入植第一期、第二期
これは進歩的な考え方であり、日本農村における一つの共同化の、確
角経営が合理的に営まれるものと信じている。﹂
の立地の開拓方向を考え目論んでいるところに興味が感じられる。
佐藤氏の書いた文を引用する。︵私どもの村つくり︶
﹁私どもの経営には、協同と個人の区別がないともいえるし、協同の
基礎の上に立つ分業多角形経営であるとも言える。
それではその多角経営をどういう風に組立て、どういう風に運営して
共同経営のロスは確かにある。部分的に随分目にもつく。しかし日本
の基礎条件の確保整備をある程度実現して来た。
クタール割当てられて総面積百五十ヘクタールとなる。その配分地の所
人はせっかちだから、そういう過程のロスで永い基本的な大切なプラス
行くかというと、まず百戸計画の組合として一戸当たり耕地を一・五ヘ
有権は各個人にあるようにしても、耕作権は組合に帰属しておく。そし
−59−
=
て、必ず優るものだと思う。神経質に考えずに組合員の考えの成長をま
をも否定してしまうのではないかと思う。個別的の大きなロスに比較し
だ﹂そういう話である。
て歌でも歌ってゆけるようにしたいと思ってさ。その方が仏様は喜ぶん
帰還して医師の資格をとり、今組合でこれを担当して徹底した予防治療
とずくものである。在満時代に組合から佳木斯医大に学ばせた加藤氏が
る。これは佐藤氏の自慢でもあるが、西陽難民生活からの深刻な教訓にも
中心部落である彼の部落の近くに公共用地をとってあり、診療所もあ
党の池田峯男氏が来て、まさしくこれは日本的コルホーズの雛と思った
ないし、革新でもない。それを信条にして、組合員にも強調する。共産
け込む事を根本の寸法にしてきた。政治にかかわらず、百姓は保守でも
帯ともいうべき変わり種の共同体であるから、村に入って、この村に融
彼は入植以来非常に気を使ってきているようだ。とりわけ、それは一世
大八洲はこの菅生村では、他国人の入植者であった。そういう点で、
に、全組合員の健康の防衛保全に努力し効果をあげている。診療所は今
のか、大変称揚され入党の勧めもあった、と彼は苦笑していた。村会議
つことにしている。
仮のものだがレントゲンポータブルを備えてあって、年二回位全員の写
員など開拓からすぐ出したがるから、開拓は既存の者に毛嫌いされるの
チヤムス
真診断を実施し、徴候が多少でもあれば組合で最善の努力をして治療に
だ、と彼はいう。
けぎら
ひな
憂いのないようにしている。回虫駆除、トラコーマ撲滅等、加藤医師も
昨年、団も非常に苦しかったが、入植五周年祭を盛大にやったという。
入植以来、ほんとうに謙虚に考えると、ここまでこれたのは菅生村民の
よく奮闘している。﹁病人を出さないようにする。そうなると自分も楽
になって結構な身分になれますからな。﹂加藤氏も意気投合の組で、駒辮
おかげだ。その気持ちが一つと、組合員入植以来の労苦をこの際一区切
いつかの開拓祭のとき、農林省のきも入りで歌と音楽の慰問団が来て、
る。
るのに、思い切ってやったが、予想以上に効果があった、とのことであ
りしてさっぱりと忘れさせ、明日からの前進の意欲をあらたに盛り上げ
な人だが組合長の理想にはっきり同調している。
冠婚葬祭すべて組合でやるのだから、この点は医療と共に非常に気楽
に考えることができる。
ようらん
﹁揺藍から墓場まで﹂の社会保障を、この組合は共同経営の一つの枢
軸にしている。その墓地用地に私を案内した。明るい木立を中心にして
にぎわしてくれたが、病床にいて祭典に参加出来ないでいる数人のとこ
そと玉
芝草が生え卒塔婆が立っているo何某、昭和二十年八月某日満洲現地賦
ろに行って窓下で、アコーディオンや歌を聞かせてくれたのは、何とも
開拓の建設期を、裸同志がのり切るためには、建設営農の共同化が合
きよ
去、それぞれが今までの苦難の道程に散った、かつての同志であり家族
いえずうれしい事であったという。
さん植えられており、地内には草花がとりどりに咲いている。﹁墓場と
理的であり望ましい。それも一般にはなかなか行われないのが、開拓の
めいふノ、
である。私も冥福を祈った。墓地のまわりやその道筋には既に桜がたく
いうものは普通しめっぽいものだが、墓まいりに来て、ここで一杯やつ
−60−
なき開拓時代に、経験的にしっかり形成されたものであり、人間理解の
て相当の回答を提供しつつあると考えられる。その結合の強さは、土地
現状である。大八洲はよき指導者をえて、それを中心にこの課題につい
どんな試練的問題にぶつかり、変化してゆくかは、開拓問題としても、
まい。建設段階を終え、本格的経営の段階に入るとき、この共同経営は
くとも支持し育ててゆく客観的条件が余りに乏しいことを知らねばなる
しかし日本内地の農業の中で、佐藤氏のもつような理想の実現を、少
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上にまた、﹁分かれれば倒れる﹂きびしい環境状勢の中で、裸の農民が
付
深い関心を寄せられるものである。
、
生きて行く方法を認識できたからに違いない。
五
図
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