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個を超える精神性についての一考察 A

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個を超える精神性についての一考察 A
 個を超える精神性についての一考察
A Consideration
of
Transpersonal
学校教育専修 角 純一郎
-1-
Spirituality
目次
要旨 3
はじめに 4
1.個を超えるとは 6
2.「自覚」を求めて 7
3.どんなことか 11
1. 知的合理性によらない認識 11
2. 苦悩からの開放、自我との関係 16
3. 気づきの内容 25
4. 終点なし 35
4.感得するための方法はあるか 37
1. 方法なし 37
2. 非二元的認識に対する「抵抗」 39
3. 行 42
4. 何のためでもない行い 47
5.いつどんなとき超えるか 55
1. 行き詰まり 55
2.或る気づき 60
3.無心 65
4.機縁 67
5.閃き 69
6.新たな気づき 72
6.各種心理療法、セラピー 77
1. ユング派分析心理学 77
2. 森田療法 81
3. ホロトロッピック・ブレスワーク 83
4. その他 88
7.人類の今後 91
1.進化の方向 91
2.合理性コンプレックス 97
8.おわりに 99
文献 101
-2-
要旨
個を超える精神性について、筆者自身がこれまで、そして現在も求め続けている
体験をもとに考察してみた。
この精神性は、知的合理性認識でない、もうひとつ別の認識の仕方を獲得する事
に よ り 得 ら れ る。 通 常 わ れ わ れ が 行 っ て いる 五 官 認 識 、 外 界 を 察 知 する 対 象 認 識 で
はなく、対象化して分断しない非二元的認識の獲得によって。
このあらゆる相対感覚が起こらない認識での世界の把握は、さまざまな苦悩から
の 開 放 と 無 限 の安 定 を も た ら す 。 生 命 の 実体 の 相 の 感 得 で あ る 。 狭 い自 己 中 心 的 判
断から脱却して、枠の無い宇宙のバランス感覚に気づく。
個を超えた自覚を得ても、自我意識がなくなる訳ではない。この自覚の内容は言
説 不 能 。 あ え て言 え ば 万 物 は 個 々 バ ラ バ ラの 存 在 で は な く 、 生 命 の 実体 と い う 共 通
したものから出ている。
これを感得するのに、合理的思考の産物である「方法」を探しているうちは達せ
られない。そして、それを求める途上の自分の合理的思考への固着は強力である。
得 る 方 法 は な く 、「 行 」 そ の も の が 、 求 め て い る 精 神 性 を 表 し て い る 。 ま た 個 々
人の夫々の精神的苦悩が、個を超える契機となる。
そ し て 、 自 分 の 合 理性 思 考 に 行 き 詰 ま っ た と き 、 は か ら い 、固 着 を 超 え て 気 づ き
がおこる。一瞬の閃き、直覚的把握によって。
個 を 超 え る と い う こと は 、 段 階 の 深 浅 は あ る も の の 、 心 理 療法 、 セ ラ ピ ー の 中 に
お い て も 起 こ り得 る も の で あ り 、 多 く の セラ ピ ー が 個 を 超 え る と い う方 向 上 に あ る
とも捉えられる。
そ し て 全 体 を 通 し て浮 き 彫 り に な っ た こ と は 、 論 理 合 理 的 な思 考 方 法 、 自 我 の 物
事 を 分 断 す る 認識 方 法 と い う 、 人 類 の 「 合理 性 コ ン プ レ ッ ク ス 」 へ の固 着 、 停 滞 し
て い る 姿 で あ った 。 そ し て 、 こ の コ ン プ レッ ク ス を 統 合 し て 新 た な 、個 を 超 え た 精
神 性 を 獲 得 し てい く こ と が 、 わ れ わ れ の 今後 の 課 題 で あ る の か も し れな い と 推 測 さ
れた。
-3-
はじめに
人 間 の 様 々 な 心 理 的 精 神 的 様 態 の 一 つ に 、「 個 を 超 え る 」 と い う こ と が あ る 。 個
を 超 え る と は どう い う こ と で あ ろ う か 。 どう い う 時 ど の よ う に 感 得 され る の だ ろ う
か。
この精神様態は古来から、一般的であったとは言えないが、人々の間で認知され
続 け て き た も ので あ る 。 こ れ は 東 洋 の 文 化的 伝 統 、 な か で も 禅 な ど によ っ て 長 年 に
渡 っ て 繰 り 返 し実 証 、 検 証 さ れ て き た も ので も あ る 。 ま た 、 過 去 の 優れ た 心 理 学 者
精 神 科 医 達 、 例え ば 分 析 心 理 学 の カ ー ル ・ユ ン グ 、 人 間 性 心 理 学 か らト ラ ン ス パ ー
ソ ナ ル 心 理 学 を 創 始 し た ア ブ ラ ハ ム ・ マ ス ロ ー 、『 夜 と 霧 』 の 著 者 で 実 存 分 析 の ヴ
ィ ク ト ー ル ・ フラ ン ク ル 、 カ ウ ン セ リ ン グの カ ー ル ・ ロ ジ ャ ー ス 、 アイ デ ン テ ィ テ
ィ ー の 研 究 で 有 名 な E.H.エ リ ク ソ ン な ど に よ っ て も 予 感 さ れ 触 れ ら れ て き て も い
る 。 ま た 現 在 では 、 チ ェ コ 出 身 の 精 神 科 医で ア メ リ カ 在 住 の ス タ ニ スラ フ ・ グ ロ フ
によって開発されたホロトロピック・ブレスワークとよばれる一種の呼吸法により、
この個を超える体験が起こることがあると報告されてもいる。
しかし、いろいろな学者、評論家、宗教家のこの精神性に関する論述にも様々な
幅 が あ る よ う であ る 。 こ の 精 神 性 の 純 粋 ない ち ば ん 元 の エ ッ セ ン ス は、 な か な か 容
易 に は 感 得 さ れる も の で は な か っ た と い う理 由 に も よ る だ ろ う が 、 核心 の 部 分 に 曖
昧 と 感 じ ら れ るも の や 、 そ の 精 神 性 の 究 極の 段 階 に つ い て で は な く 、周 辺 部 に つ い
て 論 じ ら れ て い る も の も 少 な く な い よ う に も 感 じ て い る 。( 筆 者 が 十 分 、 さ ま ざ ま
な書物に目を通した訳でないせいもあるだろうが。)
「個を超える」ということは、人間の精神において感得され得る一様態として存
在 す る こ と は 確か で あ ろ う 。 心 理 学 で 扱 われ て き た 人 間 の 精 神 の 帯 域は 、 普 段 わ れ
わ れ が 気 づ い てい る 表 層 意 識 か ら 、 個 人 的な 無 意 識 、 民 族 的 無 意 識 、人 類 に 共 通 す
る と 言 わ れ る 集合 的 無 意 識 な ど ま で 、 幅 は広 い 。 人 間 が 経 験 し 得 る 精神 性 の 様 態 は
様々なものがあるということでもあろう。
そ の 様 々 な 精 神 様 態 の 中 に 、「 個 を 超 え る 」 と い う こ と も 含 ま れ る べ き は ず で あ
る 。「 個 を 超 え る 」 精 神 様 態 自 体 に も 幅 、 深 浅 が あ り 、 多 く の 人 々 が 日 常 で も 何 気
な く 感 得 し て いる で あ ろ う も の か ら 、 お いそ れ と は 認 識 し え な い 高 次の 意 識 ま で 存
在 す る 。 高 次 にな る ほ ど 一 般 的 で な く な るこ と も 確 か で あ り 、 誰 に でも 「 あ あ 、 そ
う か 。」 と い う 理 解 を 得 る こ と は 容 易 で は な い 面 が あ ろ う し 、 い ろ い ろ な 誤 解 、 偏
-4-
見 も あ る と 思 われ る 。 そ の 一 般 的 に は 、 わか り 難 い で あ ろ う 「 個 を 超え る 」 と い う
精 神 性 に つ い て、 そ れ は ど の よ う な も の であ る か 少 し で も 明 確 に し てい く こ と は 、
心 理 学 に と っ ても 意 味 の あ る こ と で は な かろ う か と 筆 者 は 考 え る 。 だか ら 、 筆 者 の
現 時 点 で 理 解 の及 ぶ 範 囲 内 で だ が 、 こ の 「個 を 超 え る 」 精 神 性 に つ いて 、 ま と め て
みようと思った。
また「個を超える」ことによってもたらされる心理的変容は、個人が抱える苦悩
か ら 開 放 さ れ 、新 た な よ り 開 け た 人 生 観 に気 が つ く こ と が で き る も ので あ る 。 多 く
の 抜 き 差 し な らな い 問 題 が 山 積 し た 不 安 の大 き い 現 代 社 会 の な か で 、人 間 の 苦 悩 、
社 会 の 問 題 に つい て 関 心 の あ る 様 々 な 動 きの う ち 、 却 っ て そ れ 自 体 が社 会 問 題 を 引
き 起 こ し た 例 もあ る 。 こ の 論 文 で は 、 苦 悩を 超 え る 一 つ の 在 り 方 と して の 「 個 を 超
え る 」 こ と に つい て 、 そ れ が 現 実 と 遊 離 した 地 に 足 が つ か な い も の では な く 、 よ り
融 和 的 な 平 穏 なそ し て 新 鮮 な 日 常 を 送 る こと に 寄 与 し て く れ る も の であ り 、 生 き 方
に対しての真摯な哲学的取り組みでもあることを伝えたくも思う。
ここでは、筆者が20歳前半の頃よりこの精神性を求め続けての、現在も含む約
1 5 年 間 の 自 身の 歩 み を 辿 り 、 こ の 道 に おけ る わ が 師 で あ り 、 実 際 に個 を 超 え る 精
神 性 を 体 得 し てお ら れ た 、 和 田 重 正 氏 と の山 中 生 活 4 年 間 に 個 人 的 にや り と り さ れ
た 日 記 で の 問 答 の 記 録 や 、 行 動 主 義 、力 動 的 心 理 学 、 人 間 性 心 理 学 に 次 ぐ 、 心 理 学
第 4 勢 力 と い われ る ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル 心理 学 の 代 表 的 論 者 で あ り 、個 を 超 え た 高
次 の 意 識 に つ いて の 確 実 、 詳 細 な 記 述 で 他よ り 群 を 抜 い て い る と 思 われ る ケ ン ・ ウ
ィルバーの説などを参考にしながら、考察していきたいと思う。
-5-
1 .個 を 超 え る と は
個 を 超 え る と は 、「 個 人 的 意 識 を 超 え て 自 他 、 万 物 、 宇 宙 と 一 体 で あ る 自 分 を 実
感 を も っ て 認 識 す る 。」 と 一 応 言 う こ と が で き る で あ ろ う (1− 1)。 物 事 を 分 断 し
ない非二元的認識により、生命の実相を感得することである。
禅などでは、「悟り」「本来の面目」と言っている。ユング心理学では個の意識で
あ る 自 我 に 対 し て 、個 を 超 え た 全 体 性 で あ る 「 自 己 (セ ル フ )」 と 呼 び (1− 2 )、 エ リ
ク ソ ン は 「 よ り 広 い ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー 」 (1− 3 )、 ロ ジ ャ ー ス は 「 超 越 的 な 核 心 」
と 言 い (1− 4 )、 マ ス ロ ー は そ の 欲 求 階 層 説 で 自 己 実 現 の 次 の 高 次 な る も の に 「 自
己 超 越 欲 求 」 が あ り 、 そ の 体 験 を 「 至 高 体 験 」 と 名 づ け て い る (1− 5 )。 ま た 「 宇
宙意識」「正覚」「自覚」とも表現される。
人 に よ っ て 様 々 な 言い 方 を し て い て 、 そ の 意 味 す る 内 容 も いく ら か 異 な っ た 部 分
も あ る よ う で ある 。 だ が 自 他 の 区 別 を 超 えた 一 体 的 な 精 神 性 と い う 点で は 、 内 容 の
深浅、明確度の違いこそあれ同じ方向を持っているものであろう。
作家のロマン・ロランは「大洋的感情」、哲学者の西田幾多郎は「純粋経験」、宗
教 心 理 学 の ウ ィ リ ア ム ・ ジ ェ ー ム ズ は 「 意 識 の 神 秘 的 状 態 」、 医 師 兼 詩 人 の ゴ ッ ト
フ リ ー ト ・ ベ ン は 「 根 源 的 な 自 覚 」、 文 化 人 類 学 者 の カ ル ロ ス ・ カ ス タ ネ ダ は 「 非
日常的リアリティー」などと呼んでいる(1− 6)。 そして「トランスパーソナル」。
ケ ン ・ ウ ィ ル バ ー は こ の 「 ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル 」 な 精 神 を 更 に 、 心 霊 (サ イ キ ッ
ク )、 微 妙 (サ ト ル )、 元 因 (コ ー ザ ル )、 非 二 元 (ノ ン デ ュ ア ル )の 各 段 階 に 分 け て 表 現
している(1− 7)。
個を超える精神性の内容についても意味は共通しているのであろうが、表現の仕
方は人それぞれによっていろいろある。たとえば、以下のようである。
今がはじめだ、はじめに立つ 宇宙非大、人間非小
人 山を見、山 人を見る 遠いまなざし 宇宙と一枚になった
一切は不生にてととのう 永遠の生命 樽の底が抜けた
時間空間の埒外 自他不可分一体 比較のないところ
しかし、この精神性の究極のところは本当は言葉で伝えることの不可能なもので
あ り 、 自 ら 体 得 し て 「 な る ほ ど 、 そ う だ 。」 と な ら な い 限 り わ か ら な い 事 柄 だ と 言
われている。
以降、自分の体験をもとに、個を超える精神性について少しでも明確になるよう
-6-
自分なり取り組んでみる。
2 .「 自 覚 」 を 求 め て
筆 者 は 、 こ の 言 説 不 能 の 精 神 性 を 問 題 と し 、 体 得 を 求 め 続 け て き た つ も り で
い る 。 な か で も若 い 頃 の 、 丹 沢 山 中 で の 和田 重 正 先 生 か ら 受 け た 薫 陶は 、 こ の 探 求
にとって非常に大きなものであった。和田氏は個を超えた精神性を体現することを、
真実の自分に目覚めるという意味で「自覚」と呼んでおられた。
こ こ で 何 故 自 分 が 和田 氏 の 門 を 叩 い た の か 、 山 の 中 の 道 場 の様 子 、 和 田 氏 と は ど
ん な 人 な の か を、 以 前 簡 単 に ま と め て お いた も の が あ る の で こ こ に その ま ま 記 載 し
ようと思う。
【: 次 に 顕 れ て き た 悩 み : 高 校 卒 業 後 す ぐ に 、 森 田 療 法 を 受 け 神 経 症 は 一 応
乗 り 越 え 、 悩 んだ お 陰 で よ り 自 分 ら し い 創造 的 な 生 活 が で き る よ う にな っ た の で す
が、人生についてまだ、スッキリとしない疑問が残っていました。
そ れ は 、「 神 経 症 の 苦 し み に 対 し て は 整 理 が つ い た け れ ど 、 他 に も 人 生 に は 苦 し
い こ と 、 悲 惨 なこ と 不 条 理 な こ と が 世 界 中、 自 分 以 外 の と こ ろ に も いっ ぱ い あ る 。
このことをどう受け取ったらいいのだろう。」というものでした。
森 田 療 法 は 、 す べ ての 苦 し み に つ い て も 「 あ る が ま ま 」 に 受け 取 る と い う 人 生 一
般 に お い て 応 用で き る 理 論 な の で す が 、 やは り こ の 様 々 な
人生苦
ということに
対 し て 「 自 分 の納 得 の い く も の が 得 た い 、得 な け れ ば 手 放 し で こ の 世を 生 き て い く
こ と が で き な い 。」 と い っ た 心 持 ち が あ り ま し た 。 そ ん な 、 人 生 に 対 す る 実 存 的
な 悩 み を 抱 え なが ら 、 森 田 療 法 生 活 の 中 で「 ふ っ 」 と 気 づ い た よ う な、 高 次 な 精 神
的体験を再度得て人格を高めたい、といった思いも強くあり大森曹玄老師の参禅会、
奈 良 の 吉 本 伊 信先 生 の 内 観 、 念 仏 の 一 日 行や 丹 田 呼 吸 法 、 ま た 東 大 病院 精 神 科 、 慈
恵 医 大 他 、 い ろい ろ な と こ ろ へ 足 を 運 ん でみ ま し た が 、 当 時 の 自 分 には ど れ も ピ ッ
タリとはしませんでした。
わ
だ しげまさ
: 和田 重 正 先生:
そ ん な 中 、 大 学 一 年 の あ る 日 、 NHK の 教 育 テ レ ビ ス ペ シ ャ ル と い う 番 組 で 、 こ
れ ま で 『 生 活 の 発 見 』 誌 で 読 み 慕 っ て い た 精 神 科 医 の 近 藤 章 久 先 生 (ご 自 身 も か つ
て 神 経 症 で 悩 まれ 、 ま た 3 6 歳 で 精 神 医 学を 志 し ニ ュ ー ヨ ー ク の カ レン ・ ホ ー ナ イ
の と こ ろ で 研 究 、 帰 国 さ れ た )を 見 て い た ら 、 そ こ に 和 田 重 正 と い わ れ る 、 神 奈 川
の は ず れ 、 丹 沢の 山 の 中 で 生 活 道 場 を し てお ら れ る 方 が 出 ら れ ま し た。 こ の 方 も お
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若 い 頃 、 旧 制 高校 時 代 の 1 7 歳 か ら 、 東 大法 学 部 、 そ の 卒 業 後 に も わた っ て 丸 々 1
0年間、死の恐怖症から始まる様々な神経症的症状や「一番価値ある人生とは何か」
「 自 分 と は 何 か」 な ど の 人 生 観 の 問 題 で 煩悶 し 、 森 田 正 馬 先 生 か ら 直接 に 治 療 を 受
け ら れ た こ と もお あ り だ と の 事 、 し か し それ で も 解 決 せ ず 遂 に 2 7 歳の 春 、 絶 望 の
果 て に 死 を 決 意し 睡 眠 薬 を 飲 も う と さ れ た、 ま さ に そ の 時 ふ と 振 り 返っ て 目 の 中 に
入 っ て き た 鉢 植え の 桃 の 蕾 を 見 た 瞬 間 、 今ま で の 一 切 の 疑 念 が 払 わ れ、 人 生 の 真 の
姿を悟られたという体験の持ち主でありました。
こ の と き 以 降 、和 田 先 生 は 寺 子 屋 的 私 塾 を や り な が ら 在 野 の 教 育 活 動 を 続 け て こ
ら れ た 方 で 、 僕は 「 自 分 と 同 じ 性 格 傾 向 の方 な ら ウ ソ や ハ ッ タ リ は ない 、 信 頼 で き
る 方 だ ろう 。」 と 思 い 、 先生 の 数 あ る 著 書を 全 て 買 っ て 読み 、一 年 後 の 1 98 3 年 に
その山を訪れたのでした。
いっしんりょう
:一 心 寮:
こ の 山 の 寮 は 「 一 心 寮 」 と い い 、最 寄 り の 駅 か ら 6 km、 歩 い て 一 時 間 半 程 か か り
ま す 。 人が 住 む 隣 の 集落 ま で 2k mも 離 れ て い て熊 や 鹿 、 イ ノシ シ 、 ム サ サビ な ど
も いる 、下 界と は一 線 を画 した よう な場 所 です 。普 段は 和田 先 生ご 夫妻 と、2, 3
人の若者で暮らすといったとても静かな落ち着いた雰囲気のところでありました。
元 々 は 、 小 田 原 で して お ら れ た 私 塾 『 は じ め 塾 』 の 小 中 学 生の た め の 生 活 体 験 の
場 とし て始 めら れた の です が、 本、新聞 、 テレ ビ、 ラジ オ等 で 先生 を知 った 、道 を
求 め る 真 面 目 な 若 者 や 教 育 関 係 の 仕 事 に 従 事 し て い る 方 々 (教 育 心 理 学 者 の 伊 藤 隆
二 先生 、コ ラー ジュ 療 法の 杉浦 京子 先生 他 。ま た鳥 取、島根 の 臨床 心理 士で 先生 を
知 っ て い る 方 も 何 人 か あ り ま す 。 )、先 生 の 人 柄 を 慕 っ て 各 地 か ら 人 が 訪 ね 、 生 気 を
取り戻して山を下るといった場所になっていました。
こ こ は 自 分 と 他 人 、 時 間 や 空 間 、 善 悪 、 そ の 他 、 人 間 が ア タ マ で こ し ら え た あ ら ゆ
る 枠 を 取 り 払 った と こ ろ に 出 現 す る 、 本 来の 人 間 ら し さ に 焦 点 が あ てら れ て い て 、
先 生 も あ れ こ れ言 わ れ ず 、 か と い っ て 無 関心 で も な く 、 暖 か い 中 に もピ リ ッ と 張 り
つ め た 清 浄 な 空気 が 漂 う な か 、 自 然 と 共 に、 薪 で ご 飯 を 炊 い た り 畑 仕事 な ど を し な
が ら 、そ こ に い る 人 そ れ ぞ れ が 自 ら 気 づ い て い く の を 、 無 限 の 長 さ (そ の 人 の 一 生 と
い う よ り 、 生 と 死 を も 区 別 し な い 長 さ )で も っ て 「 待 つ 」 と い う 姿 勢 で あ り 、 無 為
にして化す
という表現が当てはまるような方でした。
-8-
:苦心の時代:
大 自 然 の 懐 に 抱 か れ、 宇 宙 い っ ぱ い に ま で 拡 が っ た 意 識 を もっ た 先 生 と の 暮 ら し
で し た が、自 分 は 業 が 深 いと い う か 「 ふ と気 づ く 体 験 を 得て 、人 生 苦 と い う根 本 問 題
の 解 決 を し た い」 と い う 気 が 強 過 ぎ て 却 って 無 心 で の 気 づ き と い う 事が 中 々 で き ま
せ んで した 。頭 のな か に浮 かん だ考 えや 疑 問、理屈 の堂 々巡 り を繰 り返 すの みで 前
にひとつも進まない、といった苦しい年月を重ねておりました。
そ の 「 何 と か 気 づ き た い 」「 救 わ れ た い 」 と い う も が き の 表 れ と し て 、 か な り 無
理 な 肉 体 労 働 も 我 武 者 羅 に や り ま し た し (土 の う 運 び 、 薪 割 り 、大 工 仕 事 、 草 刈 り 、
道普請など、朝早くから、時には灯火をつけて夜中までやった事もありました)、
一 週 間 の 絶 食 の真 似 の よ う な 事 や 、 夜 に 全真 堂 と い う 場 所 で 瞑 想 を し、 日 中 の 作 業
の 疲 れ か ら 寝 入っ て し ま い 気 が つ く と 朝 だっ た 、 と い っ た こ と も 少 なか ら ず あ り ま
した。】
和田氏にも自分にも当てはまるのだが、我が凄く強くしかもデリケートな繊細な
一 面 を 持 っ た 人 間 が 、 あ る き っ か け か ら 「 こ の 生 き て い る 世 界 と は ? 」「 自 分 と は
い っ た い何 だ ろ う ? 」 と いっ た 疑 念 を 起 こし 、悩 み 、「 この 苦 悩 か ら 開 放 され た い 」
とい う心 持ちに 突き 動かさ れて求 めて いかざ るを 得ない もの 。 そ れが「 個を 超え
る 」 と い う も ので は な い だ ろ う か 。 古 く は釈 迦 を は じ め 、 禅 宗 の 歴 代の 祖 師 達 、 世
界 中 の 様々 な 覚 者 な ど も 、殆 ど は 疑 念 、苦悩 、 煩 悶 を 通 って 「 悟 り 」「 個 を超 え た 気
づき」
を得ている。このことは、この精神性に関しての大きな特徴であると言えよう。
そ し て 、 そ れ を 求 めて 誰 か 指 導 者 に つ く 場 合 、 そ の 指 導 者 が本 当 の と こ ろ を 得 て
い る の で な け れ ば ダ メ で あ る 。「 お は な し に な ら な い 」 で あ る 。 わ か っ て な い 指 導
者 が 何 か ど こ かで 憶 え た 言 葉 を 発 し て も 、な に も 通 じ な い 。 場 合 は 違う が カ ウ ン セ
リ ン グ の 場 面 にお い て 、 セ ラ ピ ス ト が ク ライ エ ン ト の 語 っ た こ と に 対し て 「 あ あ 、
そうですか。」と頷いたとしても、そのセラピストの背景にある体験、人間力により、
同 じ 言 葉 で も 全く 異 な っ た も の を 面 接 場 面に も た ら す 事 と も 共 通 し てい る 。 ユ ン グ
派 が 、 分 析 家 にな る た め の ト レ ー ニ ン グ とし て 、 先 ず 自 分 自 身 を 知 って い く と い う
教育分析を重要視しているのもそのためである。
『文字やことばで表せるなら誰も苦労はしません。言いようがないのです。
か ら だ で 実 感 を 伝 え る よ り 仕 方 あ り ま せ ん 。』 ( 筆 者 の 一 心 寮 で の 生 活 時 代 に 尋
ねた日記による質問に対する和田重正氏のコメント)
-9-
幸 い に も 筆 者 は 、 和 田 重 正 と い う 本 物 の 指 導 者 に 縁 あ っ て 出 会 う 事 が で き た 、 と
思 っ て い る 。 和田 氏 と の 一 心 寮 で の 生 活 中、 個 を 超 え る こ と に 関 す る質 問 を 、 毎 日
の よ う に 書 い て出 し コ メ ン ト を も ら う 日 々が 続 い た 。 こ の 大 学 ノ ー ト8 冊 か ら 、 個
を超える精神性について幾つかの側面に分け、各々毎に次から考察してみたい。
- 10 -
3.どんなことか
問 答 の 記 載 は 概 ね 、 筆 者 の 質 問 に 対 し て 和 田 氏 が コ メ ン ト (『 』 の 部 分 ) を し
て い る の が 一 組に な っ て い る 。 そ の 場 そ の時 で の 生 き た や り と り で ある か ら 、 こ こ
に 抜 き 出 す と 真意 が 損 な わ れ が ち な 面 も あり 、 筆 者 の 質 問 に 対 し 、 場合 に よ っ て は
正 反 対 と も と れる コ メ ン ト も 日 記 中 に は あっ た 。 な る べ く 誤 解 の 生 じな い よ う に 選
んだつもりであるが、言葉は真意のすべてを表していないこともあるかも知れない。
1.知的合理性によらない認識
・
・
・
いのちの 世 界 (筆 者 注 : 和 田 氏 が 個 を 超 え た と き に 感 得 さ れ る 認 識 の 様 相 を 示 す
こ と ば )と は 「 難 し く な い 、 簡 単 な こ と な ん だ が な あ 。」 と 先 生 は 仰 い ま す が 、ど う
して、どのような点で簡単なのでしょうか。
『 理 詰 め で 理 解す る の だ っ た ら 簡 単 で は あり ま せ ん が 、 そ う で は な いか ら 簡 単 な の
です。冬に水が冷たいのはどうしてですか。』
「不可分一体」ということは真実であると、頭では完全に信じているのですが、
やはり本当には信じることは不可能だと思いました。自分で知るよりほかないと。
・
・
・
・
『 そ う で す 。 信 ず る の で は な く 実 感 す る の で す 。 信 ず る と い う よ う な よそ ごとで は
ないのです。』
理 屈 は ダ メ だ と の こと で す が 、 先 生 が 話 さ れ る 人 生 に つ い ての こ と は 、 あ れ は 理
屈ではないのでしょうか。
『 理 屈 で は 捉 え得 な い も の が あ る 。 も の ごと の 真 実 は 理 屈 の 届 か ぬ とこ ろ に あ る 、
ということです。』
・
・
・
いのちの 世 界 を 垣 間 見 る こ と は 「 意 識 の 中 で は ム リ で す 」 と あ り ま す が 、 自 覚 と
- 11 -
・
・
・
は いのちの世界を意識することではないのでしょうか。
・
・
・
『 そ の 通 り で す 。 で も 意 識 の 次 元 と いのちの 存 在 次 元 と は 全 く 異 な る の で す か ら 、
・
・
・
意識の立場に立っての いのちの説明は不可能なのです。』
・
・
・
・
『ことばで表現できるものなら、とっくに言っています。すべて もの ごとの真実は、
ことばで表現することはできません。』
言 お う と し て も 言 えな い も の 、 そ れ を 表 現 さ れ た っ て 無 駄 とも い え ま す し 、 そ れ
を聞いて知識として憶えても、真実は伝わらないのではないでしょうか。
『無駄を承知で話しています。ことばと真実とは違います。』
ことばでは表現し得ない、全く別の世界の消息のものでしょうか。
『 そ う で す 。 但し 無 関 係 で は あ り ま せ ん 。こ と ば で 表 現 し た も の は 、ガ ラ ス 戸 に う
つる外の景色とでもなりますか。』
自 覚 を 得 る (個 を 超 え た 感 得 )こ と は 、 難 し い 事 か と 思 い き や 実 は 簡 単 な 事 、 と の
こ と で あ る 。 普通 、 新 し い 何 か を 知 ろ う と思 っ た ら 、 先 ず 本 を 読 む なり 人 に 説 明 し
て も ら う な り し て 知 的 理 解 に 励 む 。 自 覚 (個 を 超 え た 体 得 )に 関 し て も 、 取 り 掛 り と
しては知的理解を否定しない。しかし知的にわかることではない。では信じるのか、
と い う と 勿 論 そう で も な い 。 自 ら 実 感 し てい な い こ と を 信 じ た と し ても 、 そ れ は 妄
像 に な る だ け だろ う 。 日 常 の 事 柄 す べ て につ い て も 、 単 に 知 る こ と と、 実 感 と し て
深くわかることとは違うのである。このことと一緒なのかもしれない。
しかし五官で捉えている通常の意識の次元とは異なる認識次元の消息のことで
あるから、ことは簡単であるが誰でもすぐに気づけるものでないのも事実であろう。
多 量 で 難 解 な こと を 複 雑 な 操 作 を 追 っ て いっ て 理 解 す る こ と で は な い、 と い う 意 味
で は 、 実 に 簡 単で あ る 。 知 的 レ ベ ル に 一 応関 係 は な く 、 誰 に で も わ かる 可 能 性 は 十
分にあると言えるのだろう。
生死を超えるような人は万人に一人いるかいないかだ、ということですが、自覚
を得る人とは、どのような点で勝っている人がそうなれるのでしょうか。
- 12 -
『そういう相対価値の世界で、勝っていても劣っていても問題ではありません。』
頭ではわからないのに、頭でわかるような気がしているからダメなのでしょうか。
『 合 理 性 を 超 えた と こ ろ に 真 実 が あ る 。 合理 性 を い く ら 追 求 し て も 超合 理 の 世 界 に
は到達しない。』
『 人 間 の 考 え る合 理 性 と い う も の は 、 も のご と の 真 実 の す が た の ホ ンの 一 面 で し か
ない。その一面をどんなに理解しても存在の実相には触れられません。』
結 局 、 理 屈 、 合 理 性と は 違 う 別 の 世 界 に 気 づ か な け れ ば な らな い の で す が 。 そ の
世界を知ってみないことには、どうにもならないのですが。
『 そ う で す 。 換言 す れ ば 、 も の ご と の 一 つ一 つ を と ら え て 、 そ れ に 即し て 理 屈 を 考
え て も ダ メ だ とい う こ と で す 。 綜 合 的 に もの ご と を 捉 え な け れ ば ダ メだ と い う こ と
です。やさしいと言えば、これほどやさしいことはありません。』
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言 葉 で 表 せ な い 、いのちの 世 界 の こ と 、 真 実 の こ と を 無 理 に も 一 言 で 、 正 真 正 銘
これが真実だ、というものを一言で表せば、先生は何と仰るでしょうか。
『そんな一語は絶対にあり得ません。』
我々が使っている言葉は、通常の意識次元のレベルで出来上がったものである。
だから次元の異なった認識レベルでの感じ方を表現する「言葉」というものがない、
と い う こ と だ ろう 。 し か し 、 い っ た ん そ の認 識 を 得 た 人 同 士 の 間 で は「 無 」 と 言 っ
て も 「 空 」 と 言っ て も そ れ が ど う い う こ とな の か 、 す ぐ に 通 じ る で あろ う 。 知 的 な
ものでは通じないのである。
ユング派の分析過程において、クライエントが当面している状況を分析家自身が
そ れ に ま つ わ る夢 を 見 て 体 験 し 、 そ の 心 理を 分 析 家 、 ク ラ イ エ ン ト 双方 で 「 共 有 」
し て 進 ん で い くこ と が あ る 。 共 有 と い う こと は 自 ら も 相 手 の 体 験 と 同様 な こ と を 、
心 理 的 に だ が 、同 時 に 一 緒 に 体 験 し た り 、そ れ を ク ラ イ エ ン ト と 保 って い く こ と で
あ る 。 わ か っ てい る 者 に は 通 じ る の で あ る。 と い う よ り 分 析 に お け るこ の レ ベ ル に
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達 す る と 、 分 析家 と か ク ラ イ エ ン ト と か の区 別 の な い 、 生 命 体 と し ての 同 士 で あ る
という感覚が一方であると思う。
心理面接では分析家は客観性も必要である。だが、それのみでは面接は成り立た
な い だ ろ う 。 分析 家 、 カ ウ ン セ ラ ー の 資 質と し て 、 共 感 や 共 有 が 可 能な よ う な 深 い
心 情 、 感 性 が 不可 欠 で あ る 。 知 的 な 専 門 的理 解 も 重 要 で あ る が 、 そ の専 門 的 知 識 で
も っ て 、 ア タ マで の み ア レ コ レ 考 え て ク ライ エ ン ト を 理 解 す る こ と はで き な い 。 そ
ん な 理 解 は 的 外れ に な る 。 分 析 家 や カ ウ ンセ ラ ー は 、 様 々 な 自 分 の 心情 を 味 わ う よ
う な 体 験 の 豊 富さ 、 深 い 心 情 を 味 わ え る 感性 が 求 め ら れ る だ ろ う 。 その 意 味 に お い
て も ユ ン グ 派 の分 析 家 は 、 そ の 資 格 取 得 のた め に 数 百 時 間 の 教 育 分 析体 験 を 必 要 と
されているのである。
教育分析の本来の考え方は、分析家自身の神経症的問題の是正などという浅い人
間 理 解 か ら の 産物 の み で は な い の で あ る 。ユ ン グ 派 の 分 析 は 、 先 ず 自分 、 人 間 の 精
神 性 、 魂 を 深 めて い き 、 こ の 世 界 に 流 れ てい る 大 い な る 生 命 力 の 中 で生 き て い る こ
と 実 感 し て い くこ と 、 自 分 の 内 な る 宇 宙 を体 験 し 、 心 の 中 の 二 元 的 対立 を 統 合 し て
い き 、 総 合 的 でか つ そ の 人 ら し い 個 性 的 な人 格 に 向 か っ て の 心 理 学 的な 修 行 の 道 な
の で あ る 。 治 療で は な い 。 ま た 分 析 過 程 で分 析 家 が こ の 共 有 体 験 を 心理 的 に 持 ち 合
わ せ な い と き 、ク ラ イ エ ン ト が 直 面 し て いる 心 情 を 味 わ わ さ れ る よ うな 現 実 で の 出
来 事 に 、 共 時 的に 遭 遇 さ せ ら れ る こ と も 起き る こ と が あ る 。 そ の と き何 故 こ ん な 共
時的現象が現実で起こったか、分析家はその意味を考えて省みる姿勢が必要だろう。
個を超えた精神性は、共感とか共有にどう関係するのだろう。結論から先に言う
と 、 人 間 の 可 能な 共 感 能 力 に お け る 最 高 の境 地 で あ る 。 人 が 個 を 超 える 認 識 を 獲 得
す る と 、 自 と 他を 分 け 、 思 考 で 作 り 出 さ れた 自 己 中 心 的 に 打 算 し て いく 自 我 の 判 断
の 他 に 、、 自 他 の 枠 の な い 開 け た 自 己 中 心 性 を 脱 し た 判 断 力 が 働 い て い る こ と に 気
がつく。
和 田 氏 は そ の 著 書 『 も う 一 つ の 人 間 観 』 (地 湧 社 )で 、 人 間 の 本 能 を 、 自 己 保 存 の
た め の 本 能 、 それ を 掩 護 す る 本 能 、 集 団 本能 に 大 別 し 、 こ の 集 団 本 能の 中 心 的 要 素
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は 仲間 感覚で あ る 、 と 言 っ て い る (3 − 1)。 個 を 超 え る と 、 思 想 に よ っ て 歪 め ら
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れ る 前 の 直 の 仲間 感覚に 触 れ る の で 、 人 と の 関 わ り に お い て も 自 己 中 心 的 カ ス の な
い 人 本 来 の 暖 かさ の あ る 、 人 に 安 ら ぎ を 与え る 雰 囲 気 が 出 る 。 和 田 氏は 一 体 感 と い
う の は 、 自 分 の周 り の 人 や 物 へ の 懐 か し いと い う よ う な 感 覚 だ と 言 い、 ま た 2 7 歳
の 気 づ き か ら 後は 一 度 も 「 自 分 の た め 」 と思 っ て 行 動 を や っ た こ と はな い 、 と 言 っ
ておられた。これは達人の域の共感性でもある。
カ ー ル ・ ロ ジ ャ ー スも 、 自 ら の エ ン カ ウ ン タ ー グ ル ー プ で の個 を 超 え た 宇 宙 意 識
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の 体 験 な ど を 契機 に 、 晩 年 は ス ピ リ チ ュ アル な 次 元 の 重 要 性 を 見 据 えて い っ た 人 で
ある。
筆者も昨年非構成的エンカウンターグループに参加した。最終日の最後のセッシ
ョンで、数日間互いの心情を語ったり聞いたりし合った参加者の人達との間に、「心
が 繋 が っ て い る」 と い う 心 情 的 な 一 体 感 を体 験 し た 。 そ の 感 じ は 平 和的 な 融 和 的 感
覚 で あ り 「 こ のい い 感 じ を こ の ま ま 味 わ って い た い 」 と い う 気 に な って い た 。 貴 重
な 体 験 で あ っ たと 思 っ て い る 。 こ れ も 個 を超 え た 体 験 の 一 種 で あ る 。た だ 心 情 レ ベ
ル で の 人 と 人 との 間 の 一 体 感 な の で ま だ 限定 的 で あ り 、 万 物 に 対 す る一 体 感 と い っ
たあらゆる相対感覚を超えた究極の非二元的認識とまでは、勿論いかなかったが。
ところで、そのロジャースは、その晩年の著書のなかで「私が、クライエントと
の 関 係 に お い て幾 分 か 変 性 意 識 状 態 に あ る時 、 そ の 時 私 が す る ど ん なこ と で も 癒 し
に 満 ち て い る よ う に 思 え る の で す 。」 (3 − 2 )と 語 っ て い る 。 変 性 意 識 状 態 と は 、
条 規 を 逸 し た 特別 な 酩 酊 状 態 の こ と で は サラ サ ラ な く 、 個 を 超 え て 自他 が 融 通 し 合
っ て い る 、 自 己中 心 性 思 考 を 脱 し た 精 神 状態 の こ と を 指 す 。 余 談 だ が、 ト ラ ン ス パ
ー ソ ナ ル 心 理 学 の ト ラ ン ス (trans)の 意 味 は 「 超 え て 」 と か 「 通 り 抜 け て 」 で あ り
文 字 通 り 個 人 性を 超 え 、 突 破 し て 自 己 中 心性 か ら 脱 し た 高 次 の 人 格 性を 対 象 と す る
ものである。綴りの違う(trance)「恍惚状態」の意味ではない。
またロジャースは「私がリラックスして、私の超越的核心に近づくことができる
時 、 私 は 奇 妙 かつ 衝 動 的 な 仕 方 で 振 る 舞 うこ と が で き る の で す 。 合 理的 に 正 当 化 す
る こ と の で き ない 仕 方 、 私 の 思 考 過 程 と はま っ た く 関 係 の な い 仕 方 で。 そ し て こ の
奇 妙 な 振 る 舞 いは 、 後 に な っ て 正 し か っ たの だ と わ か り ま す 。 私 た ちの 関 係 は そ れ
自 体 を 越 え て 、よ り 大 き な 何 も の か の 一 部と な り ま す 。 深 い 成 長 と 癒し と エ ネ ル ギ
ーとが、そこにあるのです。」(3− 3)とも述べている。
自他を隔てない自己中心性を帯びない判断力とは、自己中心的な自我でもって考
え た 合 理 性 に 基づ か な い 。 だ か ら 判 断 を 出す の に 時 間 を 要 し な い 、 ピン と く る 、 直
覚 的 な も の で ある 。 ま た は 理 由 は わ か ら ない け れ ど 、 何 と な く こ ん な気 が す る 、 と
い っ た 捉 え 方 で感 じ ら れ る も の で あ る 。 そし て 小 さ な 範 囲 に つ い て の因 果 関 係 し か
捉 え ら れ な い 自我 の 判 断 が 鎮 ま っ て 変 性 意識 状 態 に あ る と き 、 個 に 限定 さ れ な い あ
らゆるものとの関連性が視野に入っている判断になる。最高に勘が働くのである。
ユング派の夢分析においても、夢という題材からは無数の連想が可能である。分
析 家 は そ の 夢 につ い て の 感 想 を 伝 え る と き、 分 析 家 と 被 分 析 者 が 共 にい る そ の 時 空
間 に 自 ら の 精 神を 任 せ つ つ い る 。 そ ん な 態度 か ら 浮 か ん で 来 る 直 感 的な 感 想 を 伝 え
る と き 、 そ れ が的 を 得 て い る こ と が あ る 。ア タ マ の 先 っ ぽ の み で 捻 り出 し た 判 断 で
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は な い 。 そ こ らへ ん の と こ ろ が ロ ジ ャ ー スの 言 に も よ く 表 れ て い る 。こ の 意 識 状 態
にあるとき、人は最も共感的人間になっているのだと思う。
先生は僕の言ったことについて、「全くその通りです。しかし、それも所詮、知的
理 解 の 中 の こ と で す 。」 と 書 か れ て い ま す 。 こ の 、 所 詮 知 的 理 解 に 留 ま っ て い る 、
と ころ が 問題 だ と思 い ます 。 こ の
知 的 理解
のカ ベ を破 る とい い ます か 、本 当
にわからなければならない!のですが。
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『知的理解を どんな 意味 に 於いて も、相手にしている間はダメです。』
ここで、知的理解はダメだというのは、知性、理性をまったくやめにして、非合
理 な 精 神 性 に 帰る こ と を 意 味 し て い る の では な く 、 知 的 合 理 性 を 持 った ま ま 、 知 的
論 理 的 理 解 で はな い 、 超 合 理 の 精 神 性 を 直覚 的 な 把 握 に よ っ て 感 得 する こ と が 奨 め
られているのである。
2.苦悩からの開放、自我との関係
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自覚を得て苦悩の世界と次元の違う いのちの世界を知ると、その苦悩が消滅する
のではありませんが、何らかのかたちで逃れられると思っていたのですが。
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『とんでもない! しかし いやなこと、つらいことは別次元の映像に見えます。』
自覚するとはどういうことなのでしょうか。感情(屈辱、恨み、憎しみ、怒り、恐れ)
から脱却できるでしょうか。
『完全に脱却はできません。その感情を傍観できるようになるだけです。』
『感情が本当になくなったら人間でなくなる。』
世 間 で は 能 力 に 秀 で 、 加 え て 努 力 を し て た ま た ま 成 功 し た ご く 一 部 の 人 達 (ス ポ
ー ツ 界 、 学 問 の 世 界 、 政 界 、 産 業 界 な ど )が も て は や さ れ 、 評 価 さ れ ま す 。 そ し て
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ご く 平 凡 な 大 多数 の 一 般 人 は か え り み ら れま せ ん が 、 こ の 事 実 を 先 生は ど う お 考 え
でしょうか。
『 顧 み ら れ る のは 相 対 世 界 の 価 値 評 価 で す。 そ れ で 満 足 し て い る 人 はそ れ で い い の
で し ょ う が 、 一般 人 は そ の 意 識 も あ り ま せん 。 相 対 界 の 価 値 評 価 で 満足 し て い る な
らそれでいいのでしょうが、そんな評価は全く一時的なものです。』
大 脳 が あ り な が ら も理 屈 が 止 む と い う こ と は あ る 、 と の こ とで す が 、 ど う い う と
きに理屈が止むのでしょうか。
『 理 屈 は 止 み ませ ん 。 理 屈 は や ま な い ま まで 、 そ れ に 支 配 さ れ な い で生 き る 道 が あ
ります。』
『 理 屈 も 感 情 も超 え て た だ 全 体 の 中 で 生 きる 。 む ず か し い よ う で 、 こん な に 易 し く
気楽な生き方はないのだが、理屈をこねている間は気楽にはなれません。』
個 を超 えて 自覚 、悟り を得 ると 、 苦し みが 消え て 無く なる と勘 違 いし てい る人 も
いるのではないだろうか。個を超えても自我が崩壊してしまうのではない。
人間の五官を使って捉えた、自と他を分け比較、評価に慄き不安、恐怖に苛まれる
個 人 。 様 々 な 苦悩 の 元 。 こ の 気 に な る こ とを ど う に か で き な い か 、 と人 は も が く 。
筆者自身もそうであった。苦悩の根本的な解決はあるのだろうか。
人間(自分)の我とはどうしたって中々どうにかなるものではないな、と思います。
すべての苦しみは自分の我から来ていると思います。
『その通り。』
先生には今、悩み苦しみはおありになるのでしょうか。
『なくはないけれど、浮き雲のようなもので別段生活には支障ありません。』
競争をしていては、何故よくないのか。その理由をもっと深く詳しく知りたいの
ですが。
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『相手と自分のワクの競争だからバカバカしいということです。』
自己超越の高いレベルでの認識は、相対的認識による比較の起りようがないとこ
ろ の も の で あ る か ら 、 個 人 に 纏 わ り 着 い て い る 能 力 、地 位 、 名 声 他 の 価 値 評 価 か ら
個 が 滅 す る と いう 死 の 恐 怖 ま で 、 あ ら ゆ る自 我 が 抱 く 苦 悩 か ら 開 放 され る の は 確 か
で あ る 。 上 手 か下 手 か 、 勝 っ て い る か 負 けて い る か 、 満 足 か 不 満 足 か、 安 心 か 不 安
か 、 ダ メ か ダ メで な い か 、 平 安 か 苦 悩 か 、と い っ た 相 対 感 覚 の 働 く 意識 と は 別 の 種
類の認識での意識のあり方に気づくのであるから。
A.マスローは、至高経験は評価をおこなわないと述べ、通常の認識では有用性、望
ましさ、善悪、目的に対する適合性などの手段価値のための行動、評価、統制、判断、
非 難 、賛成 な ど 、 個 人 的 な発 想 法 は 、世 界か ら 解 脱 す る こと と は 正 反 対 で あり 、 至 高
経験に際して認識するとき世界全体の価値を認めることができる、と言いこれを「生
命 の 価 値 」 と 名 づ け て い る (3 − 4 )。 だ が こ の 絶 対 評 価 の 認 識 を 獲 得 し て も 、 相
対評価を感じる自我も残る。人間である限り。
先生は一刻一刻を満足して生きておられるのではないのでしょうか。
『満足と不満足の埒外に生きています。』
『幸は不幸でないこと。これはいろいろに応用できる考えです。』
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自 他 一 体 の 世 界 、いのちの 世 界 、 そ れ は 苦 悩 の な い 楽 に な る 世 界 だ と の こ と で す
が 。 そ れ を 求 める 途 上 は 、 却 っ て 自 覚 を 知ら な い こ ろ よ り も 苦 し い 、苦 悩 の な い 世
界 を 求 め て 普 通よ り 苦 し ん で い る と は 、 皮肉 な こ と の よ う に も 思 え ます 。 し か し 、
その世界の存在を知ってしまった以上、追うことはやめられませんが。
『本当は楽なのではなく、楽も苦も問題ではない世界です。』
自覚を得る、得ない、得たら安心になる、などそういうところには本当の安心は
ないのではないかと思います。
『 食 べ る も の がな く て 困 っ て い る と こ ろ に食 物 を 与 え ら れ て ホ ッ と した 、 と い う よ
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う な の は 本 当 の安 心 で は な い 。 安 心 だ か 不安 だ か 気 が つ か な い 、 振 り返 っ て み た ら
不安がない、というようなものです。』
『本当の安らぎは、条件なしです。』
″絶対自由″とはどういうことでしょうか。僕たちは生きる上で色々な制約があ
りますが。
『 説 明 し よ う があ り ま せ ん 。 相 対 感 覚 で 自由 だ と 思 っ て も 不 自 由 だ と感 じ て も 、 そ
ういうこととは全く違った完全自由のことです。それは体験すればわかります。』
『 相 対 価 値 の 埒外 の と こ ろ で 生 き る こ と 。相 対 価 値 観 に か ら ま れ て 自由 を 失 っ て い
る、そこから脱却しなければならない。』
五 官 を 通 し て 映 っ た 色 と り ど り の 個 々 バ ラ バ ラ に 感 じ ら れ る 認 識 を 超 え て 、も う
一 つ別 次元 の色 も形 も 何も ない 認識 に至 る と、こち らが 生命 の 本体 であ り、 自我 が
感じている現象的様相は本体の影のようなものだと解る。
しかし目で見、耳で聞こえている、自我が感じているこの世界は生命の本体が顕
現 し て い る の であ り 、 本 体 と 影 の 二 つ が 存在 し て い る の で は な い 。 両者 は 全 く 同 一
の も の であ る 。 た だ 、そ れを 捉 え る の に 、相 対 と 絶 対 と いう 次 元 の 異 な る 認識 方 法 が
あ る だ け な の であ る 。 悟 り の 世 界 と い う と「 何 か こ の 世 界 と は 別 に 存在 す る 物 だ 」
などと受け取ってしまうと完全に間違う。
自 我 は 意 識 性 を 発 達さ せ た 人 間 に と っ て 大 切 な も の で あ る 。本 体 の 比 較 の な い 非
二元的認識をもとにしてこの世界をよりよく生きる、という役割があると思う。
自 我感 覚の 中の み で、自我 にこ だ わり 、自 他を 分 けた 自己 中心 性 で周 囲と の調 和
を 乱 す と 、 己 れ に 苦 し み が 跳 ね 返 っ て く る 。 し か し 、一 旦 自 我 を 超 え て 自 他 を 分 か
た な い 自 己 中 心性 を 帯 び て い な い 、 枠 の ない よ り 大 き な 広 い 判 断 が ある こ と に 気 づ
く と 、 そ の 判 断で も っ て 自 我 感 覚 の 現 実 を生 き る こ と に な る 。 こ の とき 自 我 は 初 め
て 、 人 を 苦 に おと し め る 悪 者 で は な く 、 人が こ の 世 を 生 き て い く 上 での 手 助 け 、 奉
仕役になるのだと思う。
何故、自力でやっているうちは得られないのでしょうか。大脳が働いているから
で し ょ う か 。 大脳 が は た ら い て い る と は 、ど う い う こ と で し ょ う か 。大 脳 が 空 っ ぽ
になるとは、どういうことでしょうか。
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『大 脳が なく なるの でも カラッ ポに なる のでも あり ません 。 お釈 迦様で も大 脳は
働いていたに違いありません。』
自 我が 無く なり 自 と他 の区 別が つ かな くな れば 、それ は狂 人で あ る。 ある 種の 精
神 病 は 、 環 境 から 区 別 さ れ た 身 体 的 自 己 の認 識 が つ か な く 、 座 っ て いる 椅 子 と 自 分
の 身 体 の 境 が どこ な の か 区 別 が 容 易 で な いと い っ た 症 状 が あ る と い う。 こ れ に 対 し
禅 の 老 師 た ち は椅 子 と 身 体 の 区 別 は 当 然 のこ と な が ら 勿 論 あ り 、 自 我と 他 者 の 区 別
も完全についている。
個を超えた一体性の認識とは、現象界を捉えている自我の感覚そのものが変化し
て 自 分 と 周 囲 の区 別 が 希 薄 に な る と い っ た自 我 感 覚 の 病 理 と は 性 質 が異 な り 、 自 我
の 感 覚 は そ の まま で 、 自 我 の 感 覚 以 外 の 認識 に よ る 非 二 元 的 な 自 覚 を新 た に 獲 得 す
ることである。自我の中での自我感覚の変化ではないのである。
自 己 超 越 の 取 り 組 み は 、自 我 が 健 全 に 発 達 し た 人 格 が 自 我 を 壊 す の で は な く 、自
我 を 抱 え た ま ま、 よ り 包 括 的 な 認 識 を 獲 得し よ う と す る 試 み で あ る 。む し ろ 自 我 感
覚 を明 確に 持ち 合わ せ てい る人 が、その 次 のス テッ プで ある 自 己超 越に 向か うの だ
と 思 う 。 比 較 のな い 新 た な 認 識 を 得 る 方 向性 が な く 、 た だ 自 我 感 覚 をマ ヒ さ せ て 、
自我の苦しみから逃れる、自我を無くすのみでは、退行とか逃避になってしまう。
K.ウ ィ ル バ ー は 、 自 己 超 越 と は 合 理 性 を 捨 て て 無 く す の で は な く 、 自 我 の 合 理
性 を 保 っ た ま まで 、 合 理 性 を 超 え た 精 神 活動 を 感 得 す る こ と で あ り 、こ れ を 「 ト ラ
ン ス パ ー ソ ナ ル (個 を 超 え る )」 と 言 い 、 自 我 感 覚 、 自 我 の 合 理 的 思 考 を な く し て 合
理 性 を 獲 得 す る前 の 、 迷 信 が 信 じ ら れ て いた 神 話 的 段 階 に 再 び 戻 る こと を 「 プ レ パ
ー ソ ナ ル (個 の 前 段 階 )」 と 言 っ て 明 確 に 区 別 し て い る 。 そ し て 、 合 理 性 を 否 定 せ ず
合 理 性 を 含 ん で超 え た 精 神 性 へ の 試 み を 、自 と 他 の 区 別 の つ か な い 未分 化 な 未 成 熟
な 胎 児 へ の 退 行で は な い と 言 っ て 、 フ ロ イト が 示 し た 大 洋 感 情 そ の 他へ の 見 解 な ど
を精神の帯域の捉え方の狭さとして厳しく批判している(3− 5)。
心 理 学 者 の W.ジ ェ ー ム ズ が 『 宗 教 的 経 験 の 諸 相 』 を 著 し た 頃 の 一 部 の 精 神 医 学
者 が 言 っ た 、 悟り は 精 神 病 の 一 形 態 で あ ると い う よ う な 見 解 も 誤 解 であ る 。 実 際 の
非 二 元 的 認 識 を体 験 し て い な い 、 ま た は それ を 体 得 し た 人 物 と 余 り 接し て い な い 学
者 達 に よ る 自 己超 越 の 認 識 に 対 す る 不 明 瞭さ は 、 逃 れ ら れ な い 。 こ のテ ー マ に 関 係
する数多くの研究、資料の存在にも関わらず現在でもそれはあるであろう。
自己超越ということに関心を持った心理学者、精神科医達、ジェームズ、ユング、
マ ス ロ ー 、 ロ ジャ ー ス 他 、 ま た 現 代 の ト ラン ス パ ー ソ ナ ル 心 理 学 の 研究 者 達 は 認 識
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の 深 浅 の 違 い はあ れ 、 自 身 が 個 を 超 え る 体験 を し た こ と の あ る 人 達 、ま た 、 そ れ を
求 め て い る 人 達で あ る 。 知 的 探 求 の み で は自 己 を 超 え た 非 二 元 的 認 識と か 、 苦 悩 か
ら の 開 放 と か 、も う 一 つ の 判 断 力 な ど 、 見当 が つ か な い で あ ろ う 。 やは り こ の 認 識
に つ い て の 研 究は 、 研 究 す る 者 も そ の 認 識を 自 分 な り に あ る 程 度 ま でで も 獲 得 し て
いなければならない、と思う。
退行や逃避はその個人に現実での新たなる苦しみをもたらすことになってしま
う 。 ま た 個 を 超え た 非 二 元 的 認 識 を 獲 得 した 人 が そ の 認 識 の み に と どま っ て 、 非 二
元 的 実 体 の 顕 現し て い る 自 我 感 覚 の 世 界 を無 視 し た な ら 円 満 な 生 き 方に な ら な い の
で は な い か 。 生命 の 本 質 は 時 空 の 埒 外 と いっ て も 、 人 と の 約 束 の 時 間を 守 ら な い と
ど う な る だ ろ う。 生 も 死 も な い と こ ろ を 認識 し た か ら と い っ て 、 核 兵器 が 飛 ん で こ
よ う が ど う し よう が 関 係 な い と い う 姿 勢 は宇 宙 、 人 間 の 進 化 の 流 れ の方 向 に 沿 わ な
い と 思 う 。 そ れに 人 や 物 に 名 前 を つ け た り、 法 的 な 所 有 関 係 を 定 め て区 別 す る こ と
などは、一面便利なことでもある。
禅の十牛図には、しまいの方で現世に戻ってくるのが描かれているが、このこと
は 自 我 認 識 と 、分 断 さ れ て な い 総 合 的 認 識と は 同 一 の 世 界 を 見 て い るの で あ り 、 自
我と非二元的認識の両者が必要であることも表しているのかもしれないと思う。
ま た ウ ィ ル バ ー は 、よ り 高 い 意 識 を 発 見 す れ ば 、 他 の 問 題 は す べ て ひ と り で に う
ま く 解 ける だ ろ う と い う 考え は 、 変 容 に とっ て 必 須 の 行 動的 、社 会 的 、文 化的 要 素 を
無 視 し た ナ ル シ シ ズ ム 的 な 志 向 に 陥 り が ち に な る 、 と 言 っ て い る (3 − 6)。 こ の
こ と と 少 し 場 合は 違 う か も し れ な い が 、 個を 超 え る 境 涯 を 求 め る 取 り組 み に 励 む と
き、我が身を振り返ってみると、「自覚に至れば万事解決して、良くなるのだから。」
と 思 い 自 分 の 修行 に 専 心 す る あ ま り 、 そ の場 の 人 間 関 係 を 含 ん だ 全 体の 状 況 を 半 ば
無 視 し た 結 果 にな っ た こ と も あ る 。 自 分 を含 め た 全 体 を 見 渡 す こ と がで き る よ う に
なることが大切なことであろうのに。
「 修 行 」「 個 の 完 成 」 を 目 指 し て 視 野 が 狭 く な っ た と き 、 ナ ル シ シ ズ ム 的 に な る
危険性があると思う。
『 ひ と の こ と を 考 え な い 自 分 の 幸 せ 、 な ど は あ り 得 る だ ろ う か 。「 孤 立 し た 自 分 」
の幸せなどは全くの妄想です。』
自 分 の 境 涯 だ け を 問題 に し て や っ て い く の は 小 乗 的 、 修 養 主義 的 と い う こ と に は
な ら な い で し ょ う か (多 分 な ら な い と 思 い ま す が )。 自 分 の 境 涯 、 心 境 の み を 求 め て
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行ってもよいでしょうか。
『 そ れ で よ い と思 い ま す 。 自 分 の 境 涯 は 孤立 、 独 立 し て い る も の で はな く 万 物 と 絡
み合っているものだからです。』
悟っても、頭がある限り自分というものはなくならない、のでしょうか。
ま た 、 目 で 見 える も の は 悟 る 以 前 と ま っ たく 変 わ ら ず 、 や は り 別 々 に見 え る 、 の で
しょうか。
『見えるものは勿論別々です。特別に変わって見えるわけではありません。』
『 枠 で あ る 自 分と 同 時 に 枠 外 の 自 分 も 存 在し て い る わ け で し ょ う 。 その 二 面 を 生 き
ているので、それがバラバラになったら大変。』
人 間 に は 相 対 的 自 己中 心 的 判 断 を す る 自 我 の 働 き と 、 自 我 によ ら な い よ り 視 野 の
広 い、自己 中心 性を 含 まな い判 断を する 働 きの 両方 があ る。 自 己超 越を 果た した 人
にとっては、個としての自分をもとにして物事を対象化分断化して見ている働き
・
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・
と 、いのちの 元 で あ る 非 二 元 的 な 実 相 を 感 じ て い る 働 き と が 実 感 さ れ る 。 相 対 価 値
と 絶 対 価 値 の 二様 を 兼 ね 備 え て 生 き る の であ る 。 和 田 氏 は 、 人 間 の 精神 構 造 が 自 己
・
・
・
中 心 的 判 断 力 (大 脳 智 )と 、 宇 宙 的 視 野 に 立 つ 判 断 力 ( いのちの 判 断 力 )と の 二 重 に な
っていることを「精神の二重構造性」と名づけている(3− 7)。
先生も大脳、五官を持っておられるのですから、自他不可分一体感とともに、や
は り 自 他 隔 絶 感も か な り 明 確 に 持 っ て お られ る の で し ょ う か 。 人 間 であ る 限 り 自 他
隔絶感そのものを薄らげたり無くしたりはできないのでしょうか。
『そうなったら、もう人間ではない。』
『 自 分 の 経 験 から 言 う と 、 ア タ マ を 否 定 した り 無 視 し た り す る の で はな く 、 ア タ マ
・
・
・
は そ の ま ま に し て お い て 、いのちの は た ら き を 感 じ 取 っ て ゆ く よ う な 気 が し ま す 。
但し、ことばで表現したことは、なにか違うような気がします。』
自他隔絶感の出所は我だと思いますが、その無くせない我の方に目を向けて、こ
- 22 -
れをどうにかしようとするのは、全く無駄なことでしょうか。
『そうです。無駄だけではなく害があります。』
動 物 は ど こ の 環 境 にい っ て も 普 通 に 呼 吸 を し た り 、 不 満 も なし に そ の ま ま で 生 活
していると思いますが、ある面では見本にしてもよいでしょうか。
『 見 本 に し て 真似 る 必 要 は な い が 、 大 脳 の働 き を 失 わ ず に 動 物 の よ うに 生 き ら れ れ
ば最高です。』
・
・
・
「フッと気づく」ということは、大脳が体全体に蓄えられている知恵、いのちを
とらえる、ということでしょうか。
『そうです。』
自覚を得るとは、大脳、自我を持った
人間
として、大脳、自我とは異なった
精 神 活 動 を 得 てい く こ と で あ る 。 大 脳 、 自我 か ら 退 行 し て 混 沌 と し た意 識 に 戻 る こ
と で は な い 。 人間 の 意 識 が 、 自 他 不 可 分 の様 相 を 感 得 す る こ と で あ ろう 。 動 植 物 の
・
・
・
よ う に 意 識 性 の 低 い も の は 、いのちの 知 恵 の な か で 生 を 営 ん で い る が 、 自 ら 宇 宙 の
実 質 を 意 識 的 に捉 え た 自 覚 体 に は な れ な い。 大 脳 、 自 我 、 意 識 を 持 った 人 間 が 、 こ
の宇宙の本質を知るところに意義があるのではないだろうか。
個 を 超 え た 認 識 に よる 自 他 一 体 と い う 意 味 は 、 現 象 と し て 受け 取 っ て い る 個 々 の
境 の 感 覚 が 無 くな る こ と で は な い 。 自 我 感覚 を ご ま か し て 、 一 時 的 に苦 し み か ら 注
意 を そ らす 試 み も 人 は 様 々に 求 め る が 、それ は 単 な る ご まか し で あ り 、そ れが 度 を 過
ぎ れ ば 、 ま た 新た な 自 我 の 苦 し み を 抱 え 、ま た 一 つ ひ と つ の 悩 み を 建設 的 に 解 決 し
て い っ て も 、 苦し み の 種 は 自 我 認 識 が あ る限 り 尽 き な い 、 苦 悩 の 根 本的 解 決 に は な
らない。自我は人間の生活に必要なもの。その上であらたな認識を獲得することが、
自己超越という真の苦悩からの開放の方法だと思う。
人生上の疑問や苦悩に対する、幾つかの心理療法のアプローチの仕方を比喩的に
大 ま か に だ が 、 膝 に 傷 を 持 っ た 人 の 例 え で 考 え て み よ う (各 専 門 の 見 地 か ら は こ の
比喩も不正確、皮相的な理解であるかもしれないが)。
膝に傷があるのを表面のみ外科的に取り除くのは行動療法催眠療法的で、傷の場
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所 周 辺 に 軟 膏 を優 し く 丁 寧 に 塗 っ て 癒 し 、も う 大 丈 夫 と 思 っ て 貰 う のは ロ ジ ャ ー ス
派 の カ ウ ン セ リン グ 的 か 。 ま た ち ょ っ と 痛い が 、 傷 口 の 奥 を 開 き 膿 を取 り 出 し て 洗
う の は 精 神 分 析 的 、「 こ の 傷 は 本 当 に 傷 で あ ろ う か 」 と 問 う の は 認 知 療 法 的 。 傷 を
直 接 治 そ う と せず 、 傷 の 出 て き た 身 体 の 元を 探 り 身 体 全 体 に 気 づ き 、健 康 に 役 立 て
よ う と す る ユ ング 派 分 析 心 理 学 的 、 い ま ここ の 傷 を 味 わ う の は ゲ シ ュタ ル ト セ ラ ピ
ー 的 。 傷 と 勘 違い し て い た も の は 実 は 、 身体 に 栄 養 を 与 え て く れ る 有難 い も の だ っ
た の だ と 気 づ く内 観 。 傷 は 身 体 に と っ て 必要 な も の と し て 傷 は そ の まま で 、 傷 に 注
意 が 向 い て い るの を 転 じ て 、 身 体 全 体 が 持っ て い る 生 命 力 の 方 に 目 覚め さ せ る の は
森田療法的、などと言うこともできるだろうか。
では自己超越的な道はどうかといえば、傷を持っている身体から離れることだろ
う 。 傷 は 自 ら がこ し ら え た 幻 想 だ と わ か る。 そ し て 身 体 の 周 囲 に あ る素 晴 ら し く 美
し く 広 が っ た 野原 に 気 づ か せ て く れ 、 傷 がい く つ あ ろ う が 、 今 後 も 出て こ よ う が 、
傷 を 持 つ 身 体 が滅 び よ う が 大 丈 夫 、 野 原 に漂 う そ よ 風 も 花 も 虫 た ち も、 向 こ う に 見
え る 海 、 空 に 浮か ぶ 雲 、 お 日 さ ま 、 遥 か 彼方 の 星 雲 さ え も す べ て が 自分 と 共 通 す る
も の で あ る こ とを 発 見 さ せ て く れ 、 実 は こん な に 広 く て 色 々 な も の がい る よ う に 見
える世界も、人の思いこみが産んだものなのだと看破させながら、尚且つそれ故に、
こ の 見 え て い る世 界 に 生 き る こ と を 十 分 に満 喫 さ せ て く れ る も の 、 とで も 表 せ る だ
ろうか。
人間の心理、性格を知る上で心理学、性格学、精神医学などではだめでしょうか。
『 学 問 的 わ か り方 に は 常 に 歪 み や 片 寄 り があ り ま す 。 そ れ で も な い より か は ま し で
す。手がかりにはなります。』
自覚を得られた目からは、人間の心理、性格はどういう風にわかるのでしょうか。
『○は○、△は△に見えます。』
臨床を目指す者にとって、ある人格理論に自分の頭脳がとらわれて目の前のクラ
イエントを直に見ないことにならないよう、こころしておかねばなるまいと思う。
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3.気づきの内容
個 を 超 え た と き 、 どの よ う な こ と が 感 得 さ れ る の だ ろ う 。 和田 氏 の 著 書 『 よ い 教
育の場をもとめて』(柏樹社)から抜粋してみたい。
『 私 は 何 気 な く振 り 向 き ま し た 。 そ こ に は桃 の 小 枝 に ポ ッ と ま さ に 開こ う と す る 桃
色 の 蕾 が つ い てい ま す 。 そ れ を 見 た と き の私 の 驚 き よ う は 、 た だ 目 を見 張 る ば か り
でし た。 心中 には こんな 叫び が渦 巻い て起こ りま した 。 「みん な間 違い だ。 いま
ま で 見 た り 考 えた り し た こ と は 悉 く 夢 だ った の だ 。 コ レ が 本 当 な の だ。 真 実 な の は
コレなのだ。」
こ の 驚 き や 叫 び と 同時 に 明 る い 世 界 に 生 ま れ 出 た よ う な 気 がし ま し た 。 庭 の 桜 も
・
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松 も 生 き て い ま す 。 森 も 小 川 も 雲 も 大 地 も 春 の 麗 か な 光 の 中 で いのちの よ ろ こ び に
燃え上がっています。
実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あ
の世界はバラバラのものの寄り集まりだった。この世界は一の世界である。あの世
界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世
界の言葉では言い表すことができない。これが実物ならばあれは影絵にすぎない。
・
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要するにこの世界は光と、もえる いのちの活々とした行き詰まりのない世界であり
ました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。
光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた
世 界 に い る 自 分を 見 て 「 愛 さ れ て い る 」 と思 い ま し た 。 そ し て 更 に 、こ の 世 界 の 実
質 が 「 愛 」 と いう も の で あ ろ う と 思 い ま した 。 愛 の 世 界 に お い て は 自分 の 小 さ な 力
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に よ る もがきや はからいに は 拘 り な く 、 す べ て の 事 実 が あり の ままに し か し 、 必 然
性をもって存在し展開しているのだと知りました。
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自分は ありのままを求めて彼岸に到ろうとして濁流を泳いでいたのでした。そし
て 力 尽 き 果 て て濁 流 の 底 に 巻 き 込 ま れ た と観 念 し た と き 、 濁 流 と 思 った の は 実 は 自
・
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分を支え生かしてくれる いのちの流れ、光の大河であったことに気づいたのでした。
そ れ と 同 時 に 何か 大 き な 意 志 の よ う な も のを 感 ぜ ず に い ら れ ま せ ん でし た 。 す べ て
・
・
を生かさずにおかない 意力とでもいうようなものでした。
その計り知れない大きな力に生かされている自分を見たとき、今まで求めていた
人生の意義など、もしそんなものがあるとしても、それはわれわれの理解を遥かに
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超えたものであることがわかりました。もしわれわれがたとえ自分の頭で納得でき
る人生観を描き得たとしても、それはただ自己満足をかち得たにすぎず、真実の自
分の人生に何のプラスにもなり得るものではないことを知りました。
・
・
・
私はただ、ただこの量り知れない大きな い のちの流れの中で、大きな意力にはか
ら わ れ て 生 き るだ け で あ る 。 そ れ が す べ てで あ る 。 そ の 他 に 自 ら は から っ て 加 え る
べ き 何 物 が あ るだ ろ う か 。 生 き よ う と す る一 切 の 努 力 と も が き を 停 止し て も 、 ま だ
生 き て い る 自 分。 一 切 の 理 解 を 放 棄 し て も尚 明 ら か に 認 め 得 る 活 々 とし た こ の 世 界
の す が た。 と も か く、 自 分 を 含 めた す べ て の もの が 、 無 限 の愛 と 知 恵 に 護ら れ 導
か れ て い る こ とを 知 っ た 時 、 今 ま で 押 し 潰さ れ そ う な 重 圧 を 感 じ て いた 「 人 生 」 と
い う 重 荷 が 消 えて な く な っ て 、 自 分 の 体 さえ 春 風 に 溶 け 去 っ て し ま った よ う に 軽 や
かに爽やかになっていました。』(下線筆者)(3− 8)
『 目 に 見 え て いる も の は 、 バ ラ バ ラ な も のの 寄 せ 集 め み た い だ が 、 実は そ う で は な
くなにか一つの共通のものから出ている、といいたいのです。』
・
・
・
『 いのちの世界では 楽しみのなかにも 苦しみのなかにも 悦びがある』
どうして教えようがないのでしょうか。そんなに難しいものなのでしょうか。
『むずかしくはないけど教えられないのです。塩のカラサは教えられますか。』
・
・
・
いのちの 世 界 は 現 実 の 世 界 の よ う に 、 は っ き り 「 こ れ 」 と い う 実 体 と し て 感 じ ら
れるものではない、ということでしょうか。
『 感 受 性 と し ては 極 め て ハ ッ キ リ し て い ます が 、 こ と ば と し て 表 現 する こ と は 絶 対
にできないのです。』
・
・
・
いのちの 世 界 の こ と は 口 で は 表 せ な い と の こ と で す が 、 そ う い う 言 葉 に は 出 来 な
いような世界というものが厳然と存在しているのでしょうか。
『 も ち ろ ん 、 存在 し て い ま す 。 と い う よ りそ の 方 が 実 在 で 、 目 に 見 えて い る の は 影
のようなものです。』
『事物がバラバラの相対的存在だ、という目(考え)を超えて、一切の事物は総合的
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・
・
・
存在だと感じとることが必要なのです。しかしここに言う総合的全体とは、アタマ
の理解ではないのです。』
『一体感という言葉で表せる感じではなく、お互い相融通し合っているという感じ
です。』
『目で見、耳で聞く世界、バラバラの世界、そんなところにこだわっていたら真実
は見えません。この世の真実はそういうバラバラの個々のものの組み合わせの中に
はないのです。』
『世の中のものは、バラバラではない。では一つかといえば、そうでもない。』
何の罪もない猪がハンターに撃ち殺されるように、この世の中は不条理なものな
のでしょうか。
『 こ の 世 の 中 には 納 得 で き な い こ と が い っぱ い で す 。 狭 く 限 ら れ た 範囲 の 中 で は 全
・
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く 不 条 理 な も の で す 。 し か し こ の 不 条 理 は 存在 の 真実 の 相で は な い 、 と い う こ と に
気づかなければなりません。』
僕 は 善 ば か り の 人 間で は な い の で す か ら 、 悪 い と こ ろ が 出 てし ま っ て も 少 し は か
まわない、仕方がない、その方が楽だという具合にしようと思いますが。
『 善 も 悪 も 本 来な い 。 善 と か 悪 と か の 枠 に支 え ら れ て 生 き る の は 窮 屈で か な い ま せ
ん 。 善 悪 と い う枠 を 捨 て た と き 人 は 非 常 に自 由 に な り 、 生 来 の 能 力 を発 揮 し て 幸 せ
になります。そしてそれが本当の善人というものでしょう。』
いったい何が面白くて人は生きているのでしょうか。なんだか何をとってみても、
少 し は 楽 し い かも し れ ま せ ん が 、 よ く 考 えて み る と つ ま ら な い 、 む なし い 気 が し て
しまいます。
『 ど こ か 間 違 って い る の で し ょ う 。 他 人 はど う か 知 ら な い が 、 私 は 楽し く 生 き て い
るのではありません。その代り空しくもありません。毎日毎時充実感はありますが、
そんな自分の感じをアテにしたり相手にしたりして生きているのではありませ
ん。』
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幸とは優越欲、名誉欲、性欲など様々な欲望の満足ではなく、その瞬間々々、色々
や る こ と に 対 し て 感 じ る 満 た さ れ た 気 持 ち で は な い か と 思 い ま し た (こ れ も 中 途 半
端 な 幸 感 か も し れ ま せ ん が )。 最 上 の 幸 と は 自 覚 を 得 る こ と に よ っ て の み 味 わ え
る、わかるものではないかと思っていますけど。
『そうには違いないが、また、自覚とはそんな味のものではない、とも言えます。』
自 覚 と は 、 幸 、 不 幸 の 埒 外 の こ と で あ っ て 「 わ ー 、 こ の 世 は す べ て バ ラ 色 だ 。」
となるような派手なものではないということでしょうか。
『もちろんそうです。バラ色になったら、どこかがおかしいのです。』
手 足 を 動 か し て い ると き 、 正 坐 の と き の 「 不 安 で な い 感 じ 」を 安 心 と い う の だ と
先 生 か ら 教 わ って 、 自 分 で 手 足 を 動 か し て行 動 し て い る こ と を 感 じ て「 あ あ 、 こ れ
を 安 ら ぎ と い う の だ ろ う か (? )」 と 一 応 わ か っ て も 、 そ れ は 深 い わ か り 方 と は 言 え
な いの では ない だろ うか 、と も思 いま す けど 。 自分 で「 なる ほど 、こ れが 間違 い
の な い 安 ら ぎ 、 こ れ の み が 安 ら ぎ だ 。」 と い う 確 信 が 持 て な い の で は な い で し ょ う
か 。 な ぜ な ら 、自 分 が 自 覚 を 得 て そ う 思 った わ け で は な い か ら 、 真 のと こ ろ を 自 分
でおさえていないから、ではないかと思いもしますけど。
『 「 安 らぎ 」 と は そ ん な む ずか し い も の だ と は 思い ま せ ん が 。 安 ら がな い 世 界 が
あるだけで、「安らぎ」という別世界はありません。 』
『 お よ そ 自 分 の 感 覚 、 想 像 と は 違 う こ と 。「 あ あ 、 こ ん な 世 界 が あ っ た の か ぁ 」 と
いう世界があります。』
自分が自覚すれば、すべてのものが自覚したのと同じなのでしょうか。
『 同 じ で は な いが 、 自 覚 し た 者 の 眼 に は 万物 の 自 覚 の す が た が ア リ アリ と 見 え る 、
と言うことはできる。』
『自他一体感のない人間はいません。唯アタマがそれを否定しているだけです。』
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個を超えるということは、新しい認識方法を獲得することである。これまでの五
官 が 捉 え て い た映 像 の 、 も の ご と が 分 断 され た 見 方 、 感 じ 方 で な く 、互 い が 共 通 し
・
・
・
た 生 命 、いのちの 本 体 か ら出 て い る 、分 断 し て 区 切 ら れ な い 、融通 し 連 な っ た 存 在 で
・
・
・
あ る こ と が 感 じ ら れ る 。 こ の 生 命 、いのちの 本 体 そ の も の が 本 来 の 自 分 で あ っ た こ
とに気づき、自我感覚内における狭い孤立した自分というアイデンティティーから、
E.H.エリ ク ソン の言 う 「よ り 広い ア イデ ンテ ィ ティ ー (wider identity)」( 3 − 9 )
へ の 移 行 を 遂 げ る 。 K . ウ ィ ル バ ー の 言 う 「 変 容 (transformation)」 (3 − 1 0 )を
果たすのである。
『 何 か 、 自 分 の外 の も の に よ っ て は 微 動 もし な い も の が 自 分 と い う もの だ 、 と い う
ことをアタマでなくどこかで納得すれば、自由になります。』
A.マ ス ロ ー は そ の 著 『 完 全 な る 人 間 』 (誠 信 書 房 )の 中 で 「 B 認 識 で は 、 経 験 乃 至
対 象 は 、 関 係 から も 、 あ る べ き 有 用 性 か らも 、 便 宜 か ら も 、 目 的 か らも 離 れ た 全 体
と し て 、 完 全 な一 体 と し て 見 ら れ や す い 。あ た か も 宇 宙 に お け る す べて で あ る か の
よ う に 、 宇 宙 と 同 じ 意 味 の 生 命 の す べ て で あ る か の よ う に 見 ら れ る の で あ る 。」 と
述べている(3− 11)。
・
・
・
生 命 、いのちの 本 体 の 認 識 は 、 個 々 バ ラ バ ラ な 認 識 が 生 じ る と こ ろ の 、 そ の 基
の 生命 全体 の把 握 であ る。 自我 、大脳 での 自他 を 分け た認 識、 合 理性 をも たら す
認識、比較相対感が起こる認識で世界、宇宙を感得するのでなく、あらゆる比較
を絶した非二元的認識で、生命の本質をとらえる。
『 口 や 文 字 で は表 せ ま せ ん が 、 部 分 部 分 にと ら わ れ ず 、 総 合 的 に 全 宇宙 的 感 覚 の 中
で生きる、とでも言うのでしょうか。』
普段我々が感じている世界とか宇宙は、五官の働きによって対象化された二元的
認 識 の 像 で あ り、 例 え ば 無 色 光 線 が プ リ ズム を 通 過 し 分 光 さ れ て 、 スク リ ー ン に 映
っ た像 を眺 めて いる よ うな もの だか ら、 物 凄く 広大 であ った り 途方 もな い歳 月、時
間 が た っ て い ると い う 感 覚 を 持 つ の だ が 、非 二 元 的 認 識 で あ る 生 命 その も の の 把 握
に よ れ ば 、 時 間も 空 間 も な い こ と が わ か る。 宇 宙 は 広 大 で も な い し 、人 間 も 微 小 で
はない。何億万年もたっているようで、実は時間はたっていないことがわかる。「な
い 」 と い う の は「 あ る 」 の 反 対 側 で あ り 相対 観 念 で あ る 。 だ か ら 正 確に 言 う と 「 な
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い 」 の で は な く、 時 間 、 空 間 が 「 あ る 」 とか 「 な い 」 と か い う 、 相 対感 覚 で 受 け と
っている存在の埒外の認識に至るということである。
マ ス ロ ー も 、 至 高 経 験 は 時 空 を 超 越 す る と 述 べ て い る が ( 3 − 12 )、 そ の 真 の
意味は、非二元的認識は時空の感覚の埒外の認知だということであろう。
また、自我感覚の自分が吹き飛んでなくなるわけではないが、その自我は人間の
意 識 の 二 元 性 から く る 産 物 で あ り 、 い の ちの 実 体 が 本 来 の 自 分 で あ るこ と が 感 得 さ
れ た な ら 、 自 我の 自 分 の 死 、 個 体 の 滅 亡 は非 二 元 的 認 識 を 得 る 以 前 より は 大 問 題 で
な く な る 。 こ れ が 死 の 恐 怖 の 解 決 で あ る 。 自 我 の 個 体 が 不 滅 だ と か 、霊 魂 と し て 肉
体 を 離 れ て 残 る、 と か の 二 元 的 理 解 の 範 囲内 で の ま や か し で は な い ので あ る 。 和 田
氏 の 生 前 、 N HK の 『 人 生 読 本 』 と い う 番組 の な か で 「 死 ん だ ら ど こへ 行 く の で し
ょ う か 。」 と い う 金 光 ア ナウ ン サ ー の 問 いか け に 「 ど こ へも 行 き ま せ ん ね 。」 と 答 え
ら れ た こ と が ある 。 個 体 が 生 き て も 死 ん でも 、 生 命 の 実 体 そ の も の であ る こ と に 変
わりはないのである。
「 人 は ど う せ 死 ん で し ま う の だ か ら 幸 も 不 幸 も 関 係 な い で は な い か 。」 と も 思 え
てしまいますが。
『死んでも生きてもそれには無関係に生きるということです。』
「 他 者 の あ る と こ ろ、 そ こ に は 恐 れ が あ る 」 と は 、 ウ パ ニ シャ ッ ド の 中 の 言 葉 で
あ る が 、 自 他 一体 の 非 二 元 認 識 は 、 恐 怖 、不 安 、 優 劣 、 善 悪 、 満 足 不満 、 幸 不 幸 、
快 不 快 、 好 悪 他、 そ し て 生 と 死 な ど の 自 我に ま つ わ る 相 対 価 値 判 断 によ る 感 情 を 離
れ る こ と が で き、 万 物 を 存 在 さ せ て い る 生命 の 力 と 一 体 で あ る こ と を知 り 、 生 か さ
れ て い る 実 感 を持 つ 。 個 を 超 え て 、 個 体 が自 我 へ の 執 着 を 離 れ る と 、無 限 の 満 足 と
安 定 を 得 る の であ る 。 自 覚 の 内 容 を 知 る と、 人 は 長 途 の 旅 行 か ら わ が家 へ 帰 っ た よ
うな安らぎを覚えるものらしい。
先 生 は 、 人 間 が こ の世 の 中 に 生 ま れ て き て 、 人 生 の 一 番 の 生き が い は 何 だ と お 思
い に な る で し ょう か 。 自 覚 を 得 る こ と で しょ う か 。 こ れ は 何 も の に もか え が た い 、
何ものとも比較できない大きな歓びでしょうか。
『歓びではないが、無限の安定を得ることは間違いない。』
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人 間 は な ぜ 、 色 彩 (虹 、 夕 焼 け 、 水 色 の 海 な ど )に 対 し て 、 引 き つ け ら れ 感 動 す る
のでしょうか。
・
・
・
『 そ れ に 同 調 す る も の が 、 わ れ わ れ の 心 の 中 に あ る か ら で し ょ う 。いのちの 無 色 の
中には無限の美しい色彩がある。』
『 良 い 景 色 に 感動 す る と い う こ と も 貴 い こと で す 。 真 理 を 体 得 し た 人は デ リ ケ ー ト
な 感 動 を 得 る もの で す 。 こ の 世 界 に は 美 しく 、 不 思 議 な も の が 充 満 して い る こ と が
わかります。』
正 坐 の 後 や 断 食 中 に草 木 な ど が 鮮 や か に 見 え る こ と が あ り ます が 、 自 覚 を 得 る と
いつでも周りのものすべてが、こんな風に見えるようになるのでしょうか。
『そうです。』
元 来 鮮 や か な の が 本当 の 姿 な の で し ょ う か 。 何 故 普 通 の 人 の目 に は 余 り 鮮 や か で
なく映るのでしょうか。
『自己にこだわっているからです。』
山を訪れたある人が、その景色に感動して「きれいですねえ!」と感嘆したとき、
和田氏は「本当はもっときれいですよ。」と言われたそうである。
マスローは「あらゆる人間の認知は人間の産物で、ある程度人間の創造したもの
で あ る こ と は 確か で あ る が 、 至 高 経 験 の 際に は 、 直 ち に 自 然 が そ の まま 、 そ れ 自 体
の た め に 存 在 する よ う に 見 る こ と が で き 、そ こ に 人 間 の 意 図 を 投 影 させ な い よ う に
で き る 。つ ま り そ れ 自 体 の生 命 に お い て 見る こ と が で き るの で あ る 。」( 3− 1 3 )
と言っている。
個を超えた認識は、観念的なものを排し、花を見、自然を見ても、その実物を直
視することができるので、新鮮な生きる実感、悦びに満たされるのであろう。
『真実の世界では、すべての事物は連なっています。』
マ ス ロ ー は 言 う 。「 こ の よ う な 認 知 は 、 普 通 の 認 知 と は っ き り 区 別 さ れ る 。 普 通
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の 認 知 で は 対 象は 注 意 を 引 く が 、 こ の 認 知は 対 象 に 関 連 性 を も つ も のす べ て に 対 し
て も 同 時 に 注 意が お よ ぶ の で あ る 。 他 の あら ゆ る も の と の 関 係 に く み込 ま れ る 。 通
常 の 図 -地 関 係 は 保 持 さ れ 、 違 っ た 方 法 で は あ る が 、 図 と 地 は と も に 注 目 を ひ く の
である。」(3− 14)
非二元的認識は、狭い一つの独立した対象にとらわれない、広い視野になる。図
と 地 を 含 ん だ 全体 を 存 在 さ せ て い る 生 命 の力 の 感 得 だ か ら 、 そ の 生 命力 の な か で は
個 の み で 存 在 して い る こ と は あ り 得 な い こと が わ か る 。 全 宇 宙 と の 関連 に お い て 、
目 前 の 対 象 が 存在 し て い る こ と が わ か る ので あ る 。 意 味 あ る 偶 然 の 一致 で あ る シ ン
ク ロ ニ シ テ ィ とい う 出 来 事 が 起 こ る の も 、存 在 の 実 体 の と こ ろ で は 繋が っ て い る 同
一のものであるからではあるまいか。
ル ビ ン の 反 転 図 形 で 、 顔 ( face) と 壺 ( vase) を 分 か た ず 同 時 に 見 る の で あ る 。
更 に 非 二 元 的 認識 に よ る 生 命 の 実 体 の 感 得と は 、 顔 と 壺 を 映 し 出 し てい る 元 の 材 料
である紙(神)そのものを見通すことである。
図 と 地 に 共 通 の 生 命 力 と い う こ と は 、 顔 (face)と 壺 (vase)が 分 子 レ ベ ル で は 同 一
の 物 質 だ か ら 一体 な の だ と い う 意 味 で は ない 。 そ れ は 紙 そ の も の の 発見 を せ ず に 、
あ く ま で 顔 と 壺と い う 形 を 前 提 と し て 、 それ を 細 か く 観 察 し た だ け であ り 、 も の ご
と を 分 断 し て 捉え る 二 元 的 認 識 と 同 次 元 での も の で あ る 。 何 ら 非 二 元性 の 認 識 と は
関 係 の な い も ので あ る 。 精 神 世 界 で 言 わ れて い る こ と と 、 物 理 学 上 の発 見 を 安 易 に
結 び つ け て 証 明 し よ う と い う 試 み も あ る が 、 こ れ は 範 疇 錯 誤 (カ テ ゴ リ ー エ ラ ー )で
あ る と ウ ィル バ ー も 批 判 し て いる (3 − 1 5 )。 二元 的 認 識 方 法 の 中 で物 質 を ど ん
な に 詳 細 に 調 べ、 遥 か 遠 く の 天 体 を 知 り 、宇 宙 が 誕 生 し た と い わ れ るビ ッ グ バ ン の
時のことを解明しても、存在の真実の相はわからないであろう。
自覚を得れば何でもすべてわかるのでしょうか。何故、宇宙があり、この世界が
あり、人間が生まれてくるのか、などもわかるようになるでしょうか。
『科学的な意味ではないが、すべてわかるのです。』
釈迦は超能力も備えていたと本で読んだことがありますが、本当でしょうか。
『 多 分 本 当 だ ろう と 思 い ま す 。 し か し 超 能力 そ の も の は 大 し た 値 打 ちの あ る も の で
は あ り ま せ ん 。便 利 な だ け で す 。 超 能 力 の存 在 は 本 当 で し ょ う が 、 そん な こ と は 、
わ れわ れ にと っ て問 題 外で す 。 そ れよ り 普通 の 人の 日 々の 生 活を み てご ら んな さ
い。超々能力を発揮しているではありませんか。』
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個を超えた認識は、自我の起こす個体のみの有利性を目論む自己中心的判断を超
え る 。 大 い な る生 命 力 の 流 れ に 沿 っ た 、 自我 と い う 小 さ な 点 に こ だ わら な い 判 断 に
気 が つ く 。 と いっ て も 特 殊 な 何 か の 判 断 があ る わ け で は な い 。 人 は 誰で も 無 心 で い
る と き は 、 こ の判 断 で 動 い て い る 。 だ が 人は 自 我 の 判 断 で 利 己 的 行 いを 制 御 す る こ
と が あ る 。 そ れは 所 詮 、 我 が 身 に は ね 返 って く る も の か ら の 防 衛 で ある 。 少 し の こ
と な ら 我 慢 も でき よ う が 、 大 き な 欲 望 の とき に 制 御 し 切 れ る だ ろ う か。 も し で き て
も大きな禁欲の苦しみにさらされる。
・
・
・
『 いのちの判断という特殊なものがあるのではありません。無心と言えるかどうか、
と も か く 枠 の ない と こ ろ で そ の 都 度 判 断 して い ま す 。 き ま っ た 準 縄 はあ り ま せ ん 。
出たとこ勝負というべきか。』
ア タ マ で あ れ こ れ 計ら わ ず 、 無 計 画 で い き あ た り ば っ た り の方 が よ い 、 と い う こ
とでしょうか。
『 無 計 画 は 自 主性 、 い き あ た り バ ッ タ リ は無 自 主 性 の あ ら わ れ 。 本 当に 自 主 的 に 生
きられれば、これほど楽しいことはない。これは最重要で最もむずかしい問題です。
工夫を要するところ。下手な結論は出さぬこと。』
「 こ う す べ き だ 」「 こ の 場 合 は こ う し な く て は な ら な い 」 と い う 外 か ら の も の で
な く 、 自 分 の 体か ら 湧 き 上 が っ て 来 る も の、 何 と な く こ み 上 げ て 来 るも の ( そ れ は
言 葉 に は な ら ない か も し れ ま せ ん が ) に 従っ て 行 動 す る よ う に 日 々 心が け る と よ い
の では な いか 、と 思 いま し たが 。 あ あ 、こ うい う こと 、 こう い うも のに 従 って 行
動すればよいのかな、と感じられましたが。
『 そ う で す 。 素直 に 、 自 分 の 心 の 中 か ら 起っ て 来 る 感 じ を 実 行 す れ ばよ い の で す 。
その行動の価値は絶対で、評価の外です。』
殺人は何故いけないのだろう。個を超えた一体性は、殺人が刑法上、倫理、道徳
・
・
・
に 反 す る か ら 「 し な い 」 の で は な く 、いのちの 繋 が り 感 に よ り 「 で き な い 」 の で あ
る 。 個 を 超 え た覚 者 は 無 理 に 禁 欲 し て い るの で は な く 、 ひ と つ の 欲 のみ を 不 当 に 優
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遇 す る こ と な く、 自 身 の 欲 望 全 体 を 平 ら に感 じ る こ と が で き る の で 、自 ら の 欲 望 に
任せて自由に不都合なく生きてゆけるのである。
『外の規律などにでなく、内から湧いてくる人情に従えばよい。』
人 間以 外の 生物 の 命を 奪う こと に つい ては 、ど う だろ うか 。和 田 氏は 、自 分、人
間 に 近 い も の ほど 、 そ の 命 を 奪 っ て 食 す ると き 抵 抗 感 が あ る 、 い う よう な こ と を 言
っ て お ら れ た 。魚 で も 形 の は っ き り し た 大き な も の の 方 が 、 雑 魚 の よう な 小 魚 よ り
抵 抗 感 が あ り 、蚊 を 殺 す の も い い 気 持 ち では な い 、 と 。 あ る と き は 、蚊 が 氏 の 腕 に
吸 い 付 い て い るの を 、 何 も せ ず じ っ と 見 てお ら れ た こ と も あ っ た ら しい 。 こ れ は 、
頭 で 考 え た 思 想 か ら 来 る も の で は な い 。 個 を 超 え て 生 命 の 実 相 を 知 っ た 人 に 、自 然
に湧く感覚なのであろう。
K.ウ ィ ル バ ー は 、 こ の こ と を 「 基 本 的 な 道 徳 的 直 感 」 と 呼 ん で い る 。 ウ ィ ル バ
ーは「私が〈
スピリット
霊 〉をはっきり直感しているとき、私はそのかけがえのなさを自
スピリット
分自身のなかにだけでなく、私と〈 霊 〉を分かち合う他のすべての存在のなか
にも等しく直感するのです。ですから私はその〈
スピリット
霊 〉を、それを有するすべて
の 存 在 のな か で 保 護 し 、促進 し よ う と 願 いま す 。」 と 書 いて い る 。 そ し て 、よ り 全 体
性 を 含 み 高 次 に進 化 し た 内 在 的 価 値 の 深 い方 を 保 護 す る と い う 。 つ まり 「 サ ル を 蹴
飛 ば す よ り 石 を蹴 飛 ば す 方 が ま し で 、 牛 肉を 食 べ る よ り ニ ン ジ ン を 食べ る 方 が ま し
で あ り 、 哺 乳 類 よ り 穀 物 で 生 活 す る 方 が ま し で あ る こ と を 悟 る こ と が で き る 。」 と
言っている(3− 16)。
し か し 個 を 超 え る 道 は 、い い こ と 尽 く め で は な い 。 ウ ィ ル バ ー は 、 精 神 の ど の レ
ベ ル に お い て も 、 超 越 で き る 動 物 は ま た 抑 圧 で き る 、 と 述 べ て い る (3 − 1 7 )。 人
間 が 、 混 沌 と した 無 意 識 の 本 能 的 状 態 か ら意 識 を 発 展 さ せ た と き 、 本能 衝 動 を 統 合
す る の で な く 自身 か ら 分 離 さ せ 抑 圧 す れ ば、 神 経 症 的 病 理 が 発 生 す る。 こ れ と 同 じ
よ う に 、意 識 的 合 理 性 か ら、 よ り 高 度 な 、よ り そ の 中 に 多く の 要 素 を 含 む 、超 意 識 、
超 合 理 の 精 神 性に 至 っ た と き に は 、 ま た 新た に 病 理 を 抱 え 込 む 可 能 性も あ る と い う
ことである。
「一つの文化のなかにより多くの垂直的レベルの成長があるほど、おそろしくま
ち が っ た こ と も多 く な る の で す 。 社 会 の 深さ が 増 す ほ ど 、 そ れ だ け その 市 民 の 教 育
と 変 容 に 負 わ され る 重 荷 は 大 き く な る の です 。 深 さ が 増 す ほ ど 、 そ れだ け 多 く の も
の が 大 々 的 に 、悲 惨 に 、 お そ ろ し く ま ち がう 可 能 性 も 高 く な る の で す。 レ ベ ル が 増
す ほ ど 、 大 き な 嘘 (病 理 )が 生 ま れ る 機 会 も 増 え る の で す 。 私 た ち の 社 会 は 、 初 期 の
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狩 猟 民 には 想 像 さ え で き なか っ た ふ う に 病む 可 能 性 が あ るの で す 。」「 そ れぞ れ の 発
達 に お い て 異 な っ た 深 さ に い る 人 々 を 垂 直 的 に 統 合 す る 必 要 が 、社 会 に の し か か っ
てくるのです。」(3− 18)とウィルバーは言っている。
こ れ を 読 ん だ と き 、自 分 個 人 の 場 合 を と っ て み て も 、 高 次 の よ り 深 い 精 神 性 に 焦
点 を 合 わ せ て いた が 故 に 、 深 み の な い も のを 「 浅 い 」 と 捉 え て 抑 圧 して い た こ と に
気づいた。それが自分の精神生活や対人関係に反映されていた間違いに気がついた。
深 く な い も の を跳 ね 除 け 抑 圧 す る の で は なく 、 そ れ も 含 ん で 統 合 し て進 ん で 行 か ね
ば な ら な か っ たの で あ る 。 ま た 、 よ り 高 次な も の を 含 む 現 代 が そ の 分病 理 も 多 く 抱
え てい るか らと いっ て 、単 に昔 が良 かっ た とし て懐 古す るの み でな く前 向き に、高
次 に 発 達 を 遂 げて き た わ れ わ れ が 成 す べ き統 合 の 課 題 に 、 立 ち 向 か うべ き で あ る こ
とに気がついてよかったと思っている。
個を超えるといっても、個に無頓着ではいけない。個の能力を高めていく努力は
必 要 で あ る 。 個の 能 力 の 十 分 な 発 揮 が 幸 の一 つ の 尺 度 で あ ろ う 。 た だ、 欲 望 に 対 す
る こ だ わ っ た 反応 や 追 及 は 、 そ の 自 己 中 心性 、 人 間 中 心 性 の た め 、 個自 身 や 周 囲 の
人 間 に 結 果 的 に禍 を も た ら す だ ろ う 。 個 を超 え る と 自 我 で の こ だ わ りが よ く 見 え る
よ う に な る の かも し れ な い 。 個 を 超 え た 覚者 は 、 倫 理 や 道 徳 に 縛 ら れな い 、 精 神 が
一点に淀まない調和したバランス感覚で行動しているのであろう。
4.終点なし
自覚には終点がないと言いますが、ある境があり、その関門を通りぬけているか、
ま だ ぬ け な い かで 自 覚 し て い る 、 い な い が決 ま る と い う 、 何 か 大 き な一 線 が あ る の
ではないでしょうか。
『 段 階 が あ り 、一 線 も あ る と 言 え る か も 知れ ま せ ん 。 し か し 通 っ た 人だ け わ か る の
で 、 そ れ を 期 待し て も 無 意 味 で す 。 し か し一 面 、 期 待 し な い わ け に はい か な い の も
現実です。』
K.ウ ィ ル バ ー は 世 界 の 様 々 な 黙 想 的 神 秘 主 義 的 伝 統 を 調 べ て 、 個 を 超 え た ト ラ
ン ス パ ー ソ ナ ル な 意 識 を 、 心 霊 (サ イ キ ッ ク )、 微 妙 (サ ト ル )、 元 因 (コ ー ザ ル )、 非
二元(ノンデュアル)の各段階に大別している(3− 18)。
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この論文は主として、元因段階と非二元段階についての考察である。自分の体験
を 書 い た 部 分 には 、 そ れ よ り 前 段 階 の も のも あ る 。 し か し 、 特 に 和 田氏 と の や り と
り は 、 イ メ ー ジの 中 で の 何 か の 心 的 体 験 を求 め て の も の で は な く 、 その 先 の 真 実 を
直覚的に把握することに関しての問答である。
元 因 と い う の は 「 至 高 の 実 在 」「 無 形 の 知 覚 」「 純 粋 意 識 」「 ア ー ト マ ン = ブ ラ フ
マ ン 」「 顕 現 の 源 泉 」 と い っ た 表 現 を さ れ て い る 。 完 全 に 無 形 で 、 境 界 が な く 、 顕
現 さ れ て い な い、 生 命 の 実 体 の こ と で あ り「 空 」 と か 「 無 」 と 呼 ば れて い る も の で
あ る と 思 う 。 この 源 泉 、 生 命 の 実 体 は 、 自我 の 作 用 で な い 、 も の ご とを 比 較 分 断 し
な い 非 二 元 的 認識 に よ り 感 得 さ れ る も の であ る 。 こ れ を 感 得 し た 精 神性 を 元 因 段 階
と言う。
ま た 非 二 元 段 階 と は、 元 因 的 な 没 入 状 態 を 打 ち 破 っ て 全 顕 現世 界 が ふ た た び 生 起
し た 段 階 で あ る。 こ こ で は 、 無 形 の も の と顕 現 さ れ た 形 の 全 世 界 と は二 つ の も の と
し て 見 ら れ る こと は な い 。 形 の な い 生 命 の実 体 を 感 得 し て 、 も う 一 度そ こ か ら 形 の
あ る 世 界 を 見 るの で あ る 。 つ ま り 、 分 断 しな い 非 二 元 的 認 識 を 得 て 生命 の 実 体 を 確
認 し 、 そ し て 五官 で 捉 え た 自 我 的 認 識 の もの ご と は 、 生 命 の 実 体 と 全く 同 一 の も の
の 顕 現 し た 姿 であ る こ と を 認 め る こ と で ある 。 無 の 認 識 を し て 、 も う一 度 こ の 現 実
世 界 に 戻 っ て くる こ と で あ る 。 自 我 意 識 と自 己 超 越 意 識 の 両 立 、 合 理性 認 識 と 超 合
理性認識の統合である。
世の中のものごとについての常識的な判断では、何らかの行き着く先などがある
も の で あ る が 、個 を 超 え る 自 覚 へ は 、 そ ちら へ 向 か っ て の 方 向 が あ るだ け で あ り 、
ここが悟りだ、とか遂に終点に到った、などという性質のものではない。
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4.感得するための方法はあるか
1.方法なし
では、個を超えた非二元的認識に至るための方法は、あるのだろうか。
先 ず 和 田 氏 と の問 答 か ら 幾 つ か 拾 い 上 げ てみ た い 。 和 田 氏 の 一 心 寮 では 、 普 通 の 日
常 の 生 活 (山 中 な の で 薪 割 り 、農 作 業 、食 事 の 支 度 、大 工 仕 事 、 犬 や 鶏 の 世 話 、 洗 濯 、
風呂焚きなど)で手足を動かして行動することが奨励されていた。和田氏の方針は、
何か特別な
修行
を す る の で は な く 、 日常 の 食 事 か ら 勉 学 ま で あ らゆ る 生 命 活 動
そのもの、手足を動かしている行いが「行じていること」であった。
手足を動かしてやっていくことで、いつかふっと気づく、自覚に至るということ
でしょうか。
『 ◎ 手 足 を 動 かす の は 、 方 法 で は な い 。 動か し て い る 自 己 の す が た その も の が 、 求
むるもの、であります。』
お 釈 迦 様 は 禅 に よ って 悟 ら れ た と 、 禅 の 本 に よ く 書 い て あ りま す が 、 本 当 は ど う
なのでしょうか。
ぜ
ん
『 多 分 、 常 識 的 に 考 え ら れ て い る 禅 と は関 係 あ り ま せ ん 。 し か し お 釈 迦 様 は 禅那に
よって悟ったとは言えるでしょう。』
禅は結局何が一番、悟りに有効に働いているのでしょうか。足を組んで座ること
で し ょ う か 。 呼吸 で し ょ う か 。 公 案 、 作 務、 師 匠 か ら の 感 化 、 そ の 他色 々 の う ち の
どれなのでしょうか。また、念仏はどうなのでしょうか。
『 私 は 禅 で 悟 りを 開 い た 経 験 が な い の で 、な ん と も 言 い よ う が あ り ませ ん 。 門 外 漢
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か ら み る と 、 ギリ ギ リ の と こ ろ で は 禅 も 念仏 も 、 自 我 と か 我 見 と か の問 題 に な る で
しょう。』
断食はどうでしょうか。
『 断 食 が 自 覚 への 手 助 け に な る 、 つ ま り 方法 で あ る と 思 っ た ら 、 そ れは 迷 信 で す 。
そ の 迷 信 を 信 ずる 人 が 甚 だ 多 い 。 坐 禅 に つい て も 、 念 仏 に つ い て も 、そ の 他 何 々 法
と言われることもその点では同じです。』
『無我になるのには、どんなことも条件にはなりません。』
「 坐 禅 な ど し て い る人 は 沢 山 い る け れ ど 、 何 故 悟 り を 得 る 人が ほ と ん ど い な い か
と い う と 、 そ れ を 手 段 だ と 思 っ て や っ て い る か ら で す 。」 と 先 生 は 仰 い ま し た が 、
それはどうしてでしょうか。
『 悟 る と い う こと は 、 順 序 を つ く し た そ の先 に 到 達 す る と い う こ と では な い か ら で
す。』
個 を 超 え た 自 覚 を 得る と い う こ と に 関 し て も 、 何 か 方 法 が あっ て そ れ を や っ て い
け ば 得 ら れ る ので は な い か 、 と ど う し て も思 っ て し ま う も の で あ る 。自 覚 と は 合 理
性 を 超 え る と いう こ と で あ る 。 方 法 に よ って そ の 結 果 と し て ど う に かな る 、 と い う
の は 合 理 性 か ら一 歩 も 出 て い な い こ と を 意味 す る 。 合 理 的 に 何 か の 順序 を 追 っ て 行
っ て 最 後 に 到 達す る と い う 考 え の 中 に い ては ダ メ で あ る 。 大 き な 風 呂桶 に 少 し ず つ
水 が た ま っ て いき 、 最 後 に は 水 が 溢 れ る とき が く る 、 と い っ た 気 づ き方 で は な い の
である。しかしこの「方法がない」と言うことが、なかなかわからないものである。
というより、それを芯からわかったとき合理性を超えているのである。
当 時 の 自 分 も 、 な にか 少 し で も 手 が か り に は な り は し な い かと 、 断 食 の よ う な こ
と 、 あ る 種 の 呼吸 法 な ど も や っ て み た し 、瞑 想 や 日 々 の 作 業 は 特 に 熱心 に や っ た つ
も り で あ る 。 しか し い く ら や っ て も や っ ても 何 も 出 て は こ な か っ た 、気 づ き は し な
かった・・・
自覚というものは、どういう人がどういうことをやって、どういう経過をたどっ
て与えられるものなのでしょうか。
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『経過はありません。』
『 自 覚 に 関 す る限 り 、 ウ マ ク や っ て や ろ うと い う 気 で は だ め で す 。 ウマ ク も マ ヅ ク
も な い の で す 。唯 一 つ 、 比 較 を 絶 し た 道 とも 言 え ぬ 道 で す 。 そ れ よ り他 に 行 き 道 は
ありません。』
2.非二元的認識に対する「抵抗」
ケ ン ・ ウ ィ ル バ ー は 合 理 性 の み の 認 識 か ら 、個 を 超 え て 合 理 性 を 超 え る 超 合 理 の
認識を感得するような意識の次元の変化、垂直的変化のことを「変容」
(transformation)と 呼 び 、 意 識 の 同 一 次 元 で の 変 化 、 平 行 的 変 化 の こ と を 「 変 換 」
(translation)と 言 っ て い る (4 − 1)。 一 心 寮 で の 共 同 生 活 の な か で 、 色 々 な 人 々
と の 交 わり や 不 登 校 、高 校中 退 し て 来 た 子達 へ の 世 話 係 など で 一 緒 に 畑 作 業、土 木 仕
事 を す る こ と を通 し て 悩 ん で 、 考 え 方 が より 柔 軟 に な っ た り 頼 も し さが 増 し た り と
い う 成 長 し た 部分 は 少 な く な い 。 し か し この 変 化 は 主 に 変 換 で あ っ て、 自 ら 問 題 に
し て 求 め て い る 意 識 の 変 容 、苦 悩 の 根 本 的 解 決 、 人 生 観 の 大 転 換 は 容 易 に は 訪 れ て
くれなかった。
『 ま だ 自 分 の 力、 自 分 の は か ら い で 何 と かし よ う 、 な ん と か な る 、 とい う 気 が あ り
・
・
ま す ね 。 ど う し て も っと 純粋に な れ な い のだ ろ う 。 純 粋と は `自 我 `のは か ら い
のないことです。』
自覚、悟りを得るのに手段方法がないというのは、自分が本来元々そこにいるか
ら な の で あ る 。悟 り と は 、 い い 気 分 の よ うな 特 定 の 状 態 の こ と で は ない 。 自 覚 、 悟
り は 、 い い 気 分よ く な い 気 分 、 安 心 不 安 、充 実 不 充 実 、 他 の あ ら ゆ る相 対 感 覚 を 超
え た 非 二 元 的 認識 に 気 づ く こ と で あ る 。 今こ こ を 離 れ て ど こ か 別 の 世界 へ 行 こ う と
す る の で あ れ ば、 そ れ こ そ 二 元 的 認 識 に 基づ い た 思 考 の 産 物 で あ る 。し か し こ の こ
と が 、 な か な かわ か ら な い の で あ る 。 得 よう と す れ ば 非 二 元 の 認 識 から 離 れ て し ま
う 。 瞑 想 、 正 座を し て い る と き 、 こ の 得 よう と い う 自 我 の は か ら い が、 い か に 堅 固
でしつこいものであるか、徹底的に知らされる。
真実の世界が知りたい。この世の無上の生命の歓喜を味わってみたいです。
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『空気の中にいて、空気の味を知りたい、というのと同じです。』
『 あせ って もダ メで す。 悠々 とや りま しょ う。 真 理は 遠く にあ るの では なく 、
今自分がその中にいるのですから。』
ウィルバーも、個人が霊的修行の諸状態に身をおくと、自分がいつも非二元性、
総 体的 現在 から 立ち 去 ろう とし てい るこ と に気 づき はじ める 、と言 って いる 。そ し
て こ の 立 ち 去 ろう と す る 自 我 の は か ら い を、 非 二 元 的 認 識 に 対 す る 「抵 抗 」 と 呼 ん
でいる。
そしてウィルバーは「抵抗」について次のように説明している。仮面レベルを扱
う 精 神 分 析 的 アプ ロ ー チ の 場 合 は 、 影 に 関す る 自 分 の 抵 抗 に つ い て 、ど の よ う に 影
に 抵抗 して いる のか 、 なぜ そう して いる の かに 気づ いて いき 、本人 が具 体的 事実 と
し て自 分自 身の 諸側 面 に抵 抗し てい るこ と に気 づけ ば、その 抵 抗を 穏や かに 減少 さ
せ 影 に 接 触 で きる よ う に な る 。 ま た 自 我 レベ ル に お け る ゲ シ ュ タ ル ト的 ア プ ロ ー チ
では、今ここ、身体から離れ自我思考のなかに逃げこんでいる状態を理解するまで、
セ ラ ピ ス ト が 今と こ こ に 対 す る 抵 抗 や 回 避を 指 摘 し 続 け る 。 そ し て 霊的 レ ベ ル の 行
に お い て も 同 様 に 、 非 二 元 的 意 識 に 対 す る 抵 抗 の 把 握 は 、初 め て そ の 抵 抗 に 取 り 組
む こ と を 可 能 にし 、 ひ い て は そ の 脱 落 に つな が る 。 つ ま り 、 個 を 超 えて 非 二 的 認 識
に 至 る 霊 的 レ ベル の 行 の 意 義 の 一 つ と し て、 あ ら ゆ る 相 対 感 覚 を 超 えた 非 二 元 の 絶
対的認識に対する「抵抗」を意識させられることを指摘している(4− 2)。
自 分 の 場 合 に 引 き 比 べ て も 、 こ の こ と は 身 に 沁 み て よ く わ か る 。 い く ら や っ て も
何年しても、自力のはからいから出られないのである。
『一度合理的でないものがあると知って求め始めたら、絶対途中でやめられません。
自 分の 体 験か ら そう 言 えま す 。 世 の中 の 普通 の 99 % の人 は そう 思 わず 、 まあ ま
あのところでやっています。』
真実の世界を見るまでは、修行をやり続けたい、と思います。
『平静になることが何よりも重大問題です。』
何が「平静」になるのを妨げているのだろう。僕の心の持ち方のどういう点が。
そ れ は 「 空 気 の中 に い て 、 空 気 の 味 を 知 りた い 」 と い う 無 理 、 理 に 合わ な い こ と を
考えている
得た い
と い う 心 で は な い だろ う か 、 と 思 い ま し た が 。本 当 は 自 分 に
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備わって得ているのですから。
『そうです。あわてる必要はありません。落ち着いて、張り切って。』
自分と不即不離のもの、それを「得たい」としてやり始めると即刻ダメ、離れる。
得 よ う と す れ ば 離 れ る の で す か ら 、「 平 静 」 と は 、 そ う い う 「 得 た い 」 と い う 気 を
・ ・ ・
起 こ さ ず 、 無 心 で 自 分 と 自覚が 一 致 す る よ う に す る こ と な の で し ょ う か 。 (下 線 和
田氏)
『まあそうです。』
「 一致するようにする・・・」という部分の「する」というところに先生は棒
線 を ひ っ ぱ っ てお ら れ ま す が 、 ど う し て でし ょ う か 。 既 に 一 致 し て 毎日 を 生 き て い
るのに、そして、自力のはからいの匂いがするからでしょうか。
・
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『そうです。するん でなくて なって いることを知ればよいのです。』
無 心 に な る に は 方 法は な い 、 無 心 に な ろ う と す る の は 、 既 に平 静 で は な い 、 無 心
は、無心になっているときになっているのであって、ということでしょうか。
『そうです。しかし念願は持っていなければなりません。』
平 静 と は 力 ま ず 落 ち着 い て 張 り 切 る こ と 、 と い う こ と で し ょう か 。 で す け ど そ れ
がアタマでわかっても、実際の行動はその通りにはなりませんけど。
『 な ら な い 、 とき め て し ま わ な い で 、 念 願を 以 っ て 行 動 す る よ り 他 に妙 手 は あ り ま
せん。』
世 の 中 の 殆 ど の こ とは 、 や っ た ら そ の 分 成 果 が 目 に 見 え て 出ま す が 、 自 覚 を 得 る
修 行 の 場 合 は やっ て も 何 も 成 果 が な い 、 これ を や れ ば こ う い う 結 果 とし て 出 て 来 る
ということがありませんから、その点は辛いです。
『 そ の 世 界 し か 見 ら れ な け れ ば つ ら い で す 。 し か し 、「 つ ら い 」 と い く ら 言 っ て も
どうにもなりません。』
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修 行 し て 何 か に な るか な あ ? 修 行 と い う も の が 必 要 あ る か なあ 、 と も 思 い ま す 。
先 日 、 若 い と きに 多 く の 様 々 な 宗 教 的 修 行を し た お じ い さ ん が 一 心 寮に 来 ら れ た こ
と が あ り ま し たが 、 そ の 人 は 「 修 行 は し たっ て し な か っ た っ て 、 ど っち だ っ て 同 じ
こ と な ん だ が 。」 と 言 わ れ ま し た 。 修 行 を や め て み た ら ど う だ ろ う 、 修 行 と い う
意識を捨ててみたらどうだろうか、と思いましたが。
『 「修行」 を捨て てみるこ とができ るなら 捨ててみ ればよ いと思い ます。 意識
を脱却することが自由にできるかどうか。それができればもう一人前です。 』
一心寮にいた数年間、自覚することに関して自分で思いつくありとあらゆること
を 、 日 記 な ど で質 問 さ せ て 頂 い た 。 無 心 にな れ な い 自 分 。 無 心 で あ るこ と に 気 が つ
け な い 自 分 。 合理 性 思 考 の 中 で 何 か 計 ら わな い で は い ら れ な い 自 分 。非 二 元 性 、 今
こ こ か ら い つ も立 ち 去 ろ う と す る 働 き で ある 「 抵 抗 」 を 、 イ ヤ と い うほ ど 意 識 さ せ
られる。
『 本 当 の こ と を言 う と 、 角 君 の 疑 問 は 「 どっ ち で も い い 」 こ と ば か りで す 。 問 題 は
アタマのやりくりではないのです。しかしその真意を会得するのは難中の難事です。
・
・
・
でもその真意を さとる方への工夫をしなければなりません。』
『もうここまで来たら、アタマのやりくりを放棄するより他ありません。』
3.行
では、非二元的認識に対する「抵抗」を意識できることなら、どんなことでも
行
になるのだろうか。非二元的認識はこの世界の全ての事柄を包括するものであり、
生 き て も 死 ん でも 、 宇 宙 が 破 滅 し よ う が ビッ グ バ ン 以 前 で あ ろ う が 含む の で あ る か
・
・
・
ら 、 そ の 中 で の 行 為 の ど ん な こ と で あ れ 根 源 的 いのちそ の も の を 表 し て い る 。 行 住
坐 臥 当 り 前 の 日常 が 求 め る も の そ の も の であ る 。 な ら 人 間 の 自 己 中 心的 な エ ゴ そ の
も の の 行 為 や 、殺 人 の よ う な 犯 罪 で も
行
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に な る の か 。 い や 、 そ うで は な い で あ
ろう。
自 覚 を 実 感 で わ か って い な く て も 表 面 の 生 活 、 日 常 の 行 為 は、 わ か っ て い る 人 た
ち (自 覚 さ れ た 人 )と 同 じ こ と を し た い と 思 い ま す が 、 ど う い う よ う な 生 活 、 行 為 を
してゆけばよいか教えて下さい。
『 自 他 一 体 的 行動 。 他 の た め 、 と か 自 分 のた め な ど 、 ど ち ら で も よ い。 ″ 生 産 的 行
動(破壊的でない行動)″を心がければよい。』
「抵抗」を意識するとは、自分の自我のはからい、二元相対的な感覚からでる利害、
得失、計算などの合理的思考を離れられないことを徹底的に知らされることだから、
行 はその合理的思考を乗り越えたものを体現しているものでなければなるまい。
和 田 氏 が 「 坐 禅は 一 見 ひ と と こ ろ に 座 っ て何 か に 執 着 し て い る み た いだ が 、 実 は 一
番 サ ラ サ ラ と 流 れ て い る 状 態 だ 。」 と 言 っ て い た の を 憶 え て い る 。 合 理 的 思 考 、 観
念 、 は か ら い を放 っ て お い て 座 っ て い る ので あ る 。 一 心 寮 で の 手 足 を動 か し て の 生
活 も 、 個 に 閉 じ込 め ら れ た 自 己 中 心 的 判 断で な く 、 比 較 を 超 え た 直 覚的 判 断 に よ る
行 為 が 目 論 ま れて い た の で あ る 。 普 段 の 生活 の 大 半 は こ の 瞬 時 に 起 こる 直 覚 的 判 断
によって営まれているのであろうから。
あ ら ゆ る 行 は (日 常 生 活 を 含 め て )悟 り へ の 手 段 方 法 で は な く 、 や っ て い る 姿 そ の
ものが求めているもの、そのものなのである。
禅、正坐などは、どういう仕組みで悟りに至れる様になっているのでしょうか。
『自力の行き詰まりに至り易いのでしょう。』
坐禅や正坐はどんな点で自力の行き詰まりに至り易くできているのでしょうか。
『 坐 禅 や 正 坐 は、 自 分 を 捨 て た 形 で す 。 その 形 を と り な が ら 捨 て ら れな い 自 分 の 根
・
・
性の捨てにくさを イヤというほど感じさせられるからでしょうか。』
気 づ き た い と い う 強烈 な 「 念 願 」 を 持 っ て い さ え す れ ば 、 普段 は な に を し て い て
も よ い の で し ょう か 。 手 足 を 動 か す こ と 、正 坐 な ど は 自 覚 を 得 る に は大 し て 重 要 な
意味を持っていないのでしょうか。(下線和田氏)
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。
。
。
。
。
。
『それは 絶対的 重要性をもっています。』
手 足 を 動 か す こ と 、正 坐 、 坐 禅 な ど 行 為 そ の も の が 求 む る もの と の こ と で す が 、
手 足 を 動 か す 行動 に つ い て は 何 と な く わ かる 気 が す る の で す が 、 正 坐、 坐 禅 な ど は
どこがどういう点で、求むるものそのものなのでしょうか。
『 そ の こ と に 純一 に な る こ と 。 但 し 正 坐 も坐 禅 も ま と も に や っ た こ とが な い か ら 、
この答は想像にすぎません。』
手足を動かすのは、ただ動かしてさえいればよいのでしょうか。本気でなければ、
い く ら 手 足 を う ご か し て も 何 に も な ら な い で し ょ う か 。「 本 気 」 と は 、 ど う し て 重
要なのでしょうか。
・
・
・
『 本 気 と は いのちの 活 動 そ の も の だ か ら で す 。 本 気 を 出 す と は 十 分 に 生 き る と い う
ことです。生きないで、ボヤボヤしているうちに時間がたってしまっては勿体な
い。』
人はこの人生において様々な苦しみに出くわす。人間関係、身体の病、自分の性格
の こ と 、 コ ン プレ ッ ク ス 、 様 々 な 神 経 症 、死 の 恐 怖 、 思 い も し な か った 突 然 の 事 件
や災害、肉親や親しい友人との死別、貧困、他他。
これらの苦しみをきっかけに、或る人は「こんなに苦しまなければならない、こ
の 人 生 と は い った い 何 な の だ ろ う 。 」 「 この 人 生 を ど う 生 き て い く のが い い の だ ろ
う 。」「 不 条 理 な 事が 多 い こ の世 界 を ど う 捉え れ ば い いの か 。」「人 間 の 存 在 の意 味 と
は 何 だ ろう 。」「 宇 宙 の 存在 と は 確 か な もの な の だ ろ う か、 そ の 存 在 の 意 味は 何 な の
だ ろ う 。」 な ど の 精 神 的 、 実 存 的 苦 悩 、 疑 問 を 抱 く よ う に な る 。 こ の 苦 悩 が ひ っ 迫 し
て い て 、 我 が 身に と っ て 、 ど う に も な ら なく 辛 く 強 い も の で あ る と き、 ま た 、 そ の
疑 問、煩悶 、苦 悩を ど うに かし たい 、そ し て有 意義 な満 足の い く人 生を 送り たい 、
な ど を 切 に 求 める 強 い 欲 求 で 突 き 動 か さ れる と き 、 人 は 道 を 求 め る ので は な か ろ う
か。
一概には言えないのだろうが、道を求めるような人は性格学的に見ると、我や欲
望 が 強 く 向 上 心も あ る が 繊 細 で デ リ ケ ー トな 面 を 持 っ た 傾 向 の 人 、 より よ く 生 き た
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い と い う 願 望 に 加 え て 、わ が 身 を 振 り 返 る 内 向 性 、 内 省 性 の 強 い 人 、 疑 問 を 起 こ す
精 神性 、知 的能 力の あ る人 、苦 悩の 解決 に 取り 組み 続け 得る 粘 り強 い意 志、精神 力
の あ る 人 、 適 当に ご ま か せ な い 真 面 目 な 、別 の 面 か ら 言 え ば 柔 軟 的 でな い 融 通 の 利
か な い 頑 固 で こだ わ る 個 性 の 強 い 人 、 自 我へ の 執 着 性 が 強 く 且 つ 自 己内 省 性 を 備 え
た 人、他に もあ るだ ろ うが この よう な特 徴 を揚 げる こと がで き るか もし れな い。 ひ
と こ と で 言 え ば 、 そ の 人 の 「 エ ネ ル ギ ー の 強 さ 」 が 疑 問 、苦 悩 を 起 こ す 元 に な っ て
いると思う。
このエネルギーの強さは、高次の精神性を求めるような求道者だけでなく、心理
臨 床 の 場 を 訪 れる 神 経 症 レ ベ ル 他 の 人 達 にも 当 て は ま る だ ろ う 。 悩 んで い る 人 は 単
に 弱 い の み の 人で は な く 、 普 通 に ス ン ナ リ暮 ら し て い る 人 達 よ り も 、そ の 人 格 の 根
本に物凄く強いエネルギー、生命力を持っている人も多いのではないだろうか。
道 を求 めさ せる 原 動力 は、苦悩 で ある 。自 我の 合 理的 思考 では 思 い通 りに 行か な
い こと を深 く体 験し 、自分 の自 我で は捉 え 切れ ない 大い なる 自 然の 流れ を知 り、 合
理 性 の み で な い 精 神 性 、個 を 超 え た 超 合 理 の 精 神 性 に 目 覚 め て い く の で あ る 。 だ か
ら 東 洋 的 な 道 (タ オ )の 途 上 に お い て は 、全 て で は な く て も 、 あ ら ゆ る 精 神 的 苦 悩 が
悟 り の 因 に な り得 る と 思 う 。 東 洋 的 伝 統 の道 で は 、 個 々 の 苦 し み に 対処 し て そ れ を
治 す の で は な く、 苦 悩 を 抱 え て い る 自 我 を超 え て 苦 悩 の 寄 っ て 来 た る根 本 の も の 、
自 己 中 心的 、相 対 的 二 元 性の 認 識 か ら の 開放 を 志 向 す る 。個 を 超 え て 、い わば 自 我 の
苦 悩 を 距 離 を もっ て 眺 め ら れ る よ う に な る。 そ れ は 同 一 の 自 我 の 中 での 心 理 的 作 業
で は な く、明 確 に 自 我 と は別 次 元 の 認 識 を求 め る の で あ る。 様 々 な 人 生 上 の問 題 、苦
悩に対しいちどきに目が開かれるのである。自己超越の発想である。
一 方 、 西 洋 的 セ ラ ピ ー の 多 く は 、 あ る コ ン プ レ ッ ク ス の 解 消 と か 、自 己 肯 定 感 の
回 復 、 気 に な る症 状 の 解 消 な ど 個 々 の 問 題に 焦 点 を 当 て て 、 そ れ を どう に か し て い
こ う と い う 自 己治 癒 の 発 想 が あ る 。 筆 者 の間 違 い か も し れ な い が 、 精神 分 析 な ど で
そ う で は な い だ ろ う か 。 心 理 療 法 の 種 類 も 沢 山 あ り 、自 己 超 越 的 な 心 的 展 開 が 起 る
も の も 少 な く ない と 思 う し 、 分 析 心 理 学 のユ ン グ 派 で は 「 治 さ な い 。そ の 問 題 を キ
ッ カ ケ と し て 新 た な 自 分 を ど う 発 見 し て い く か 。」 と 言 う し 、 非 構 成 的 エ ン カ ウ ン
タ ー グ ル ー プ の中 で 起 こ る 参 加 者 同 士 の 個人 性 を 超 え た 心 情 レ ベ ル での 一 体 感 や 、
フ ォ ー カ シ ン グの と き の 、 気 に な る 事 を 自分 か ら 距 離 を お い た 場 所 に置 く こ と 、 東
洋 思 想 を 色 濃 く受 け た ロ ン ・ ク ル ツ の ハ コミ セ ラ ピ ー そ の 他 、 ま た 日本 で 生 ま れ 現
在 海外 から も注 目を 集 めて いる 森田 療法 、内観 もあ り、 これ も 一概 には 言え ない の
であるが。
自己治癒的アプローチも大切で有効であると思う。人や場合によっては、自己超
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越 に 取 り 組 む より も 自 己 治 癒 に 取 り 組 ん だ方 が よ い こ と も あ ろ う し 、ウ ィ ル バ ー が
言 う よ う に 、 超越 の 道 に 取 り 組 ん で い て も、 神 経 症 的 抑 圧 な ど の 問 題が エ ネ ル ギ ー
を使わせ足を引っ張ることもあるかもしれないから。
とにかく個を超える求道は自己治癒ではなく、一歩進んだ高次の次元への変容が
目指されている。
そして苦悩を通して自己超越に目が開かれるのであるが、これは苦行をすればい
い 、 苦 行 が 悟 りの 方 法 で あ る 、 と い う こ とで は な い 。 精 神 的 苦 悩 が 動因 に な る の で
あって、それなしに肉体、精神を苦しめても疲れるだけであろう。
「 行 」 と は 個 を 超 え た 、自 我 か ら 開 放 さ れ た 相 の 体 現 で あ る 。 単 に 身 体 の 形 の こ
とではなく、行をしている姿そのものが個を超えた精神性なのである。和田氏は「自
我 か ら 開 放 さ れた ら 身 体 に 出 る 反 応 と し ては 、 全 身 の 力 み が と れ て リラ ッ ク ス し た
状 態 に な る 。」 と 言 っ て い た 。 行 と は 、 ど こ か に ギ ュ ー っ と 力 を 入 れ て 緊 張 し て 頑
張るようなものではない。
「 競 争 で は な い 。 補 い 合 い 助 け 合 い 、 共 同 生 活 だ 。」 と 言 い き か せ て 生 活 し て い
ますが。そうでないとどうしても胸や肩に力が入ってきてしまいがちです。
『個体の意識は外部への反応として、部分的緊張をもたらします。』
自分が開放されるためには、自分にまつわるありとあらゆる全ての事柄を手放す、
握 り 締 め て い るも の を 放 す 、 捨 て る ほ か ない の で し ょ う か 。 そ れ に は方 法 は あ り ま
せ ん が 、 体 の 力、 特 に 上 半 身 の 力 を 抜 く こと は 非 常 に 有 効 な こ と で はな い か と 思 い
ますが。
『 ゆ っ た り 、 とす べ て の 力 か ら 開 放 さ れ る。 開 放 す る の で は な く 、 一切 か ら 開 放 さ
れることが要点です。』
自 覚 が 苦 悩 に よ っ ての み 得 ら れ る も の で し た ら 、 故 意 に 自 分か ら 苦 悩 を す る こ と
は出来ないのでしょうか。
『 そ ん な こ と をし て も 何 の 役 に も 立 ち ま せん 。 お 釈 迦 様 は 「 苦 行 は 悟り の 因 に あ ら
ず」と知って正道を得たのです。』
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禅などでは故意に苦悩できるようになっているのでしょうか。
『 そ う い う 意 味で 禅 を や る 人 が 多 い か ら 、い く ら や っ て も 悟 り に も 自覚 に も 達 し な
いのでしょう。』
自覚は、何か厳しい修行をしなければ得られない、得難いものなのでしょうか。
『そんなことは絶対にありません。』
手 足 を 動 か し て 行 動す る こ と 、 正 座 な ど 「 行 」 に と ら わ れ てい て は ダ メ だ と 、 何
でかしりませんが思いました。
『そうです。行の形にとらわれてはダメなのです。』
4.何のためでもない行い
も う ひ と つ の 大 き な 間 違 い に な る も の は 「 自 覚 を 得 る 」 こ と を 、「 自 覚 」「 悟 り 」
と い う 、 何 か 固 ま り の 様 な も の を 手 に 入 れ る よ う に 思 う こ と で あ る 。「 こ ん な の で
はないかな。こんな感じなのではないだろうか。」と見当外れを承知しながらも色々
に 想 像 し て し まう も の で あ る 。 自 覚 の 消 息や 悟 り の 世 界 を 勝 手 に イ メー ジ し て 、 そ
の 像 を 自 分 と 離れ た と こ ろ に 求 め に 出 掛 ける の で あ る 。 自 覚 の 世 界 とは 、 イ メ ー ジ
で 描け るよ うな 二元 的 認識 の像 では なく 、悟り の世 界は 、ま さ に今 ここ の全 存在 の
ことなのに。
自覚を求むるという心も捨ててもよろしいでしょうか。
『勿論そうです。その求めているつもりの自覚が違っているからです。』
僕 は 「 自 覚 」 と い う
もの
を 追 い 求 め て い る よ う で す 。 この 僕 の 態 度 は 間 違 い
だと思います。』
『そうです。自覚というのは努力して造るのでなく自然に出るものです。』
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『 「 自 覚」 の 内 容 は む ろ ん 表現 の 仕 様 が な い の です が 、 無 限 の 広 さ があ り 無 限 の
包 容 力 が あ る もの で す 。 自 覚 と い う カ タ マリ み た い な も の を 探 し て いた ら 、 と ん で
もないことです。 』
「自ら
悟り
という心に描いたものを追っていてはケリはつかない」とのこと
ですが、ではどうやっていけばよいのでしょうか。
『追 う 追わ ない 、の 枠の 外に 出れ ばよ い。 「 どう やっ て」 とい う考 えが ダメ な
のです。 手段や方法ではない、と気づかなくてはならないのです。』
恋愛をしても自覚にはまったく差し支えないでしょうか。
『差し支えるからといって避けられるようなのは、恋愛ではない。』
「方法はない」ということ。方法があると思っているうちは、絶対に行き着かな
いということである。「方法は問題外」だということを意識が承知せねばならない。
た だ 、「様 々 な 苦 悩 か ら 開放 さ れ た い 。 自己 を 超 え た い 。」 と い う 念 願 は 、出 発 点 か
ら 必要 であ ろう 。問 題 意識 を持 って いな い 線路 工夫 の人 が、何 年も 作業 で手 足を 動
か し て も 、 個 を超 え た 自 覚 に は 至 ら な い ので は な い だ ろ う か 。 純 粋 で強 烈 な 念 願 が
必要である。
「アタマで生きるのは疲れます」と書いてあります。今の僕のように疲れる生
き 方 で は な く 、少 し で も よ い で す か ら 今 より も ラ ク な 生 き 方 、 そ れ が欲 し い の で す
が。
『 そ う だ ろ う と思 い ま す 。 が 、 そ れ は 実 体験 に よ る よ り 他 に 知 る 術 はあ り ま せ ん 。
唯 そ う い う こ とが
あるんだ
と い う こ とを 知 る の と 知 ら な い の と では 大 変 な 違 い
です。99%までの人は知らないで狭い枠の中で、正邪善悪で生きています。
この自分の見る世界と別の世界があるのだと知って、それを求める気があればよ
・
・
・
いのです。その世界には 仕切りがなく、ノビノビとし、広々とした世界です。』
「 自 覚 を 得 た い 」 その 他 の 今 ま で の 念 願 の 持 ち 方 は 、 す べ て頭 の も の だ っ た の で
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はないか、頭で念願していた、頭でいくら念願しても何ともならないのではないか、
と思いました。
『よくそこに気づきました。その通りです。』
ただギリギリのところでは、この「得たい」という念願があるというのも無心で
は ない こと だか ら、「 得よ う」 とし てい る うち は得 られ ない 。 だか ら自 覚を 得る こ
と に つ い て の 手段 方 法 で は な い が 、 行 き 道と し て は 瞑 想 そ の 他 の 行 があ げ ら れ る だ
ろう。
この瞑想について誤解をしている人もあるのではないだろうか。深い瞑想状態に
な っ て 、 表 層 意識 か ら 無 意 識 の 深 層 へ ど んど ん 降 り て い き 、 何 か 無 意識 の 凄 く 奥 に
あ る 、 悟 り と いう 精 神 性 の 層 に 至 る の で はな い か と 。 こ れ は 個 を 超 えた 認 識 に 対 す
る誤解である。物事を二つに分断しない非二元的認識は、 意識
意識
に対する所謂
無
と い っ たよ う な 、 識 別 し た 認 識 法 とは 異 な る 桁 の 違 う 認 識 な ので あ る 。 桁 が
違 う と か 次 元 が異 な る と い っ た 表 現 ば か りで 理 解 し 難 い と 思 う が 。 この 認 識 を 体 験
し て み れ ば す ぐに 理 解 で き る 事 な の だ が 。兎 に 角 、 も の を 分 断 し て 現象 を 追 っ て い
る 認 識 レ ベ ル でい く ら 深 ま ろ う が 、 た と えそ の 深 ま り が 地 球 の 裏 側 まで 至 っ た と し
て も 、 悟 り に は出 会 わ な い 。 悟 り と は 深 さを も 超 え て い る か ら で あ る。 こ こ ら の 問
題は微妙さも含んでいて、筆者には今断言は出来ないのだが。
しかし悟りとは、瞑想によって意識を深めていってキャッチするものだ、といっ
た 合 理 的 理 解 をし て い る 限 り 、 い つ ま で たっ て も 非 二 元 的 世 界 に 至 らな い こ と だ け
は断言できると思う。
自覚というものは、手足を動かすこと、正坐、坐禅、念仏、その他ありとあらゆ
る や り 方 を も って し て も 、 そ れ に よ っ て 得よ う と し て も
得られない
というもの
・
・
・
で し ょ う か 。 自 覚 は 要 す る に 、 得 よ う と 思 っ て も 自 分 の は か ら い で は 絶対 にえ ら れ
るものではない、でしょうか。
『 自 覚 と い う 何か が あ る の で は な く 、 自 分の 本 来 の ス ガ タ に 気 が つ くと い う こ と で
し ょ う 。 正 坐 でも 坐 禅 で も 念 仏 で も し て わが 心 の 鎮 ま り を 待 て ば 、 ひと り で に 自 分
のすがたはわかってきます。』
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『 特 別 な 「 修 行」 と い う も の が あ る 訳 で はあ り ま せ ん 。 自 分 の 真 実 のす が た 、 も の
ご と の 断 片 で なく 総 合 的 に 存 在 の 意 味 を 捉え る こ と 、 そ れ が で き る よう に な る た め
の心掛けが、修行というものでしょう。』
また、行などしなくても、病気、その他身の回りに起こった人生の問題に深く悩み、
自 ら の は か ら いで は ど う に も な ら な い と ころ に 行 き 詰 ま っ て 、 合 理 的思 考 を 手 放 し
て、その人なりの広い世界を感得する場合も数多くあると思う。
先 生 は 「 自 覚 を 得 た い 、 と い う 念 願 を 持 っ て い た ら い つ か 必 ず わ か る 。」 と 言 わ
れます。念願を持つということも自力の操作に入るのではないかとも思いますが。
『 念 願 を 持 つ 、と い う こ と も 自 力 の は か らい で す 。 つ ま り 、 自 分 の はか ら い か ら 外
へは でら れな いのだ と知 ること が自 我の 行き詰 まり です。 本 当に 行き詰 まっ たら
次 の 瞬 間 は 、 無 我 よ り 他 に 行 き よ う が あ り ま せ ん 。「 無 我 」 は ア タ マ の 働 き の 中 の
現象ではありません。』
自 覚 を 得 る に は 自 分の は か ら い が あ っ て は ダ メ だ 、 で は 、 はか ら い を な く せ ば よ
い 、と 思っ てそ れを な くそ うと すれ ば、 こ れま た、 はか らい に なっ て、堂々 めぐ り
に な っ て し ま うの で す が 。 こ の 堂 々 め ぐ りを 突 破 す る も の は 何 な の でし ょ う か 、 何
がこのはからいの世界を打ち破るのでしょうか。
『そんな重宝なものはありません。』
・
・
『 た だ や め た の で は 何 も 得 ま せ ん 。 し っか り し た 方向を 持 っ て 、 も が く の を や め る
のが最上です。そうすれば何かが明らかになります。』
「 自 覚 を 得 よ う と 思 っ て い る う ち は 、 絶 対 に 自 覚 が 得 れ な い で し ょ う か 。」 と い
う 質 問 に 、 先 生 は 「 思 っ て い て も 、 思 わ な く て も 、 そ れ に は 関 係 あ り ま せ ん 。」 と
お書きになっていますが、何故でしょうか。
・
・
『 「思ったり、思わなかったり」と自覚とは 次元が違うからです。 』
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結局もう一度お尋ねしますが、自覚というものは得ようと思っても、そのための
手 立 て と い う もの は 全 く な く 、 ど ん な 手 段を こ う じ て も 、 そ う す る と却 っ て 益 々 自
覚 か ら 遠 ざ か る。 つ ま り 、 は か ら う 術 が ない 、 は か ら わ な い で い る より 他 な い 、 と
い うこ と だと 思 い ます が 。 「 はか ら わ ない 」 とい う 、は か らい に な って は ダメ だ
と思いますし。
『その通りです。だから一番やさしくて一番むずかしい、のです。』
自分としてはどうにもこうにも、やりようがない、結局自分の力では脱却できな
い、と思うのですが。自分の
こだわり
に対して如何とも仕様がありませんが。
『 本 当 に 「 こ だわ ら な い で い ら れ な い 自 分」 を 知 っ た と き 、 こ だ わ りな が ら 、 そ れ
から脱却している自分を知るでしょう。』
自 覚 は 手 足 を 動 か して も 何 を し て も 得 ら れ な い 。 何 か に よ って 得 ら れ る よ う な 、
そん な性 質の ものと 全く 違うも のと いう ことで しょ うか。 で は僕 は何の ため に手
足を動かしているのでしょうか。
『何のためでもないことを本当に知ったら万々歳です。』
何かのためにする、というのが人間根性である。A.マスローは「通常人々は、個
人 的 な 発 想 法 で経 験 に 応 じ 目 的 に よ っ て 世界 を 見 る 欠 乏 動 機 の 立 場 でを 認 知 を お こ
な い 、 その と き 世 界 は も はや 、 わ れ わ れ の目 的 に 対 す る 手段 に 過 ぎ な く な る。」( 4
− 3 ) と 述 べ てい る が 、 合 理 性 を 超 え て 無心 に 行 じ る こ と は 容 易 で はな い 。 し か し
振 り 返 っ て み れば 、 誰 で も 日 常 行 動 の 殆 どが 、 実 際 に は 無 心 で 行 わ れて い る の で は
な か ろ う か 。 合理 性 を 超 え て 、 も の ご と が分 断 さ れ て な い 非 二 元 的 な認 識 に 至 る と
は 、 こ の 誰 も が体 験 し て い る 「 無 心 」 の 意味 に 気 づ き 、 そ の 認 識 的 内容 を 体 得 す る
ことであろう。
自 覚 を 求 め て 行 く 上 で 、自 覚 す る と い う こ と に 関 す る 誤 っ た 認 識 点 、 気 を つ け な
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け れ ば な ら ない 点 は 、 自 覚
・
・
と い う もの、 自 覚
と い う 何 か が あ る、 と 勘 違 い し
て自分の外にそれを追い求めて行く、という思い違いをすることでしょうか。
『 む ず か し い です ね 。 自 覚 と は 自 ら 覚 る とい う こ と で す か ら 、 外 へ 求め て も そ れ は
無 駄 で し ょ う 。で は 自 分 を 点 検 し て 得 ら れる か と 言 え ば 、 そ れ も ム リで す 。 要 す る
に 自 分 を 対 象 にし て い る 限 り ケ リ は つ か ない と 言 う べ き で し ょ う か 。で は ど う し た
らよいか。』
どうにもこうにもやりようがない、のである。何かの方法があると思って取り組
ん で い る う ち は、 認 識 が 二 元 的 の ま ま で ある 。 や り よ う が な い 、 こ とを 承 知 せ ざ る
を 得 な い と こ ろに 追 い 込 ま れ る 、 行 き 着 く。 行 き 詰 ま り で あ る 。 何 がな ん だ か わ か
ら な く な り 、 困り 果 て て 何 を し よ う も な いと こ ろ で 、 静 か に 坐 っ て みる 。 し か し な
に も 出 て こ な い 。 気 づ か な い 。 気 づ け な い 。「 や り よ う が な い 」 と な っ た ら 何 か が
出 て く る と 思 って い る の で あ ろ う 。 こ れ は大 脳 の 論 理 性 、 合 理 性 の 中で の 考 え か た
である。真に行き詰まっていない、無我無心になりきっていないのであろう。
『どうにもならなくても、それでも坐っていると、どうなります。』
自 分 の 意 思 で は 自 覚は 得 れ ま せ ん 。 あ と は 阿 弥 陀 様 に お ま かせ 、 お す が り す る し
か な い と 思 っ てい ま し た が 、 で は 、 阿 弥 陀様 と い う も の が 本 当 に い るか ど う か と な
る と 、「 い な い 」 と い う こ と に な り ま し た 。 何 も 頼 れ る も の 、 あ て に で き る も の は
ない、ということになりました。
『 そ れ で も 厳 然と 存 在 し て い る の は 何 で しょ う 。 − 自 分 は ど こ ま で 行っ て も な く な
りません。』
「 自 覚 を お 与 え く だ さ い 。」 と い う 祈 り を つ ぶ や い て も 、 阿 弥 陀 様 は 「 い な い 」
となりましたから、何に向かって祈ってよいのか、祈りを向ける対象がありません。
『対象はなくても自分はある。』
観念の世界でなく実物を見れるようになっていくことが、修行の目的であろう。
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手足を動かしたり正坐をするとき、自覚の深まり、目が見えるようになる、頭が
よく働くようになる、向上する、など色々求めず、まったく何も求めないのがよい、
のでしょうか。
『 そ う で す 。 しか し 本 当 に 何 も 求 め ず に 正坐 が で き る で し ょ う か 。 この 矛 盾 が 問 題
です。この絶対矛盾をどうやって超えることができるか。』
何 も 求 め ず に 、 た だ手 足 を 動 か し た り 正 坐 を す る こ と は 、 今の 僕 に は ど う あ が い
て 気 持 ち を ご まか し て み て も 、 無 理 だ と わか り ま し た 。 立 派 に な り たい 、 人 か ら よ
く 思 わ れ る 人 間に な り た い 、 優 越 欲 、 そ の他 を 求 め ず し て 手 足 を 動 かす こ と は 今 の
自分にはできない、とわかりました。
『− そうでしょう。− 』
『純粋に自覚を求めることは誰にもできません。できたら問題解決です。』
何も求めずに手足を動かしたり正坐することが本当にできるものでしょうか。悟
った人にしか、それはできないのではないでしょうか。
『 そ う で す 。 悟っ た 人 し か そ う は な れ ま せん 。 だ か ら そ れ が で き る よう に な り た い
わけです。』
何 回 も 聞 い て 申 し 訳あ り ま せ ん が 、 自 覚 を 求 め て 、 ふ と 気 づく こ と を 求 め て 手 足
を 動 か し た り 日常 生 活 を し て い て は い け ない 、 気 づ く こ と が で き な い、 と い う こ と
でしょうか。
『そうではありません。求めながら行動すればよい。』
何 も 求 め な い こ と にこ だ わ っ て は 、 元 も 子 も な い の だ ろ う 。行 動 し た り 坐 っ た り
しているうちに、無心になっているのではないだろうか。というより行動や坐りが、
無心そのものであろう。
自覚を得るとは、何かを求めないとできない大脳、自我の合理的な判断とは別に、
宇 宙 的 視 野 で の、 自 我 の 働 き を 超 え た 精 神活 動 が あ る こ と に 気 づ く こと な の で あ る
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か ら 、 自 我 が どう 思 っ て い よ う が 関 係 の ない と こ ろ を 感 得 す る も の であ る こ と を 知
っていなければならない。
求めてしまう自我の合理性の精神活動と、合理性を超えた精神活動の両者を併せ
持 っ て 生 き て いる の が 人 間 で あ ろ う 。 こ の矛 盾 そ の ま ま で 、 そ れ を 抱え た ま ま で 。
そ れ が 「 超 え る」 と い う こ と で は な い だ ろう か 。 自 我 の 合 理 性 を 打 ち消 し て 打 破 す
る こ と で な く 、「 合 理 性 を 含 ん で 超 え る 」 こ と で あ ろ う 。 何 か を や っ て 結 果 を 得 る
というような合理性思考とは異なる精神活動に、眼が開かれなければならない。
自覚以外のものには殆ど手段方法があります。例えば、大学に入るには勉強をす
ればよいですし、野球の選手になりたければ、その練習をすればよいというように。
自覚を得るには、何故手段方法がないのでしょうか。何故でしょうか。
『全然桁の違う問題だからです。』
自覚 を得る には手 段方法 はない 、手足 を動かす ことは 手段方 法では ない。 確か
に 数 年 間 手 足 を動 か し て も 、 何 に も な っ てい ま せ ん の で そ う 思 え ま す。 で は ど う な
れ ば 得 れ る の か、 自 分 で 行 き 詰 ま る こ と を目 当 て に し て い っ て も 何 にも な ら な い 、
と 先 生 は 仰 い ます し 。 結 局 、 自 分 に は わ から な い 、 た だ 、 わ か っ て いる 人 、 得 た 方
で あ る 先 生 の もと で 、 仰 る こ と を き い て 、自 分 で は 訳 が わ か ら な い けど 一 生 懸 命 や
っているしかない、と本当に思っています。
『風に樹が揺れるのを、どうやって見ていますか。』
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5.いつどんなとき超えるか
1.行き詰まり
どんなとき個を超えるのだろう。
『 ア タ マ で 追 って 解 決 の つ く こ と は 一 つ もな い 、 と 知 っ て 手 放 し た とこ ろ に 大 き な
自由な世界が開かれます。』
『 角 君 が 「 こ れ は 何 だ 」「 こ こ は 何 処 だ 」 と 思 っ て い る の は 、 私 が 生 き て い る 世 界
と は 違 う の で す。 一 ヶ の 茶 碗 を 見 て 、 そ れに つ い て 何 十 回 で も 何 百 回で も 質 問 す る
こ と は で き ま す。 そ し て 、 そ れ に 対 し て 答え る こ と は で き ま す 。 し かし そ の 答 で 茶
碗の実質を明らかに伝えることは不可能です。答えたとしても通じません。
要 す る に 問 題 は 部 分で は な い の で す 。 無 数 の 因 果 関 係 に 対 して 一 期 に 眼 が 開 か れ
る と い う こ と です 。 一 発 で す 。 君 の 今 の 状態 は 茶 碗 の ま わ り を 堂 々 めぐ り し て い る
だ け で す 。 端 坐 瞑 目 よ り 道 は な い の だ ろ う か 、 い や 、 そ れ に 凝 っ て は そ れ も ダ
メ、どうしたらいいのだろう。』
『 自 力 の は か らい で は 、 扉 は い く ら 押 し ても 開 け ま せ ん 。 大 き な 岩 盤を 押 し て い る
よ うな も の です 。 ビク と も しま せ ん 。も し 動 いた と 思 った ら 、 自分 が 動 いた の で
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す。 裏へ廻れば扉はいつも開けっ放し。』
『本当の自覚は 何も彼もすてたところに 求めずして出てきます。』
『 自 覚 と は 今 朝話 し た よ う に 青 空 の よ う なも の で 、 と ら え よ う と し ても 捉 え ら れ る
ものではありません。 無自覚を払うより道はありません。』
無自覚を払うのにも、心がまえのようなものはあるのでしょうか。
『 あ り ま せ ん 。あ る と 思 っ て そ れ を 追 い 払お う と す る と 、 そ っ ち へ 心が 行 っ て し ま
います。』
『 月 を さ す 指 の観 察 を し て 先 方 の 風 景 を 見な い の で は 、 い く ら 手 足 を動 か し て も 役
に 立 た な い 。 自 覚 、自 覚 と 言 う け れ ど 、 自 覚 と い う 何 か が あ る の で は な く 、 さ す
指 から 離れ たと ころ の自 己の 認識 のこ と です 。 でき れば 自覚 も何 も彼 も捨 てて 大
きく呼吸してごらんなさい。 天地は広大、花が咲き 鳥は歌っています。』
非 二 元 の 認 識 に 対 する 「 抵 抗 」 を イ ヤ と い う ほ ど 味 わ っ て も味 わ っ て も 、 自 分 の
は か ら い が 尽 くし 切 ら な い 、 ど う に も 手 放せ な い の で あ る 。 ど ん な とき に 気 づ く の
か 、 ど ん な と きに 大 脳 の 合 理 性 を 手 放 す か。 ど の よ う に 五 官 で 捉 え たの み の 認 識 で
あ る 自 他 の 分 断さ れ た 見 方 か ら 、 自 も 他 もす べ て が 共 通 の も の か ら 出て い る と い っ
た 自 他 融 通 の 感じ 方 に 気 づ き 変 容 す る か 。ど の よ う に 自 他 隔 絶 の 感 じ方 か ら 起 こ る
利 害 、得失 、 打 算 を も と にし た 合 理 的 、自己 中 心 的 判 断 から 、 比 較 の 起 こ る前 の 直 感
的 総 合 的 な も う一 つ の 判 断 力 に 気 が つ く か。 つ ま り ど ん な と き に 、 個を 超 え る の だ
ろうか。
そ れ は 、「自 分 の 工 夫 で は ど うに も な ら な い 。」 とい う 自 我 の は か ら いの 行 き 詰 ま
っ た と き 。 大 脳 の な か の 論 理 的 思 考 、合 理 性 に よ っ て は 、 人 間 が 生 き て い る 意 味 、
宇 宙 の 存 在 の 意味 は わ か ら な い の だ 、 と いう 知 的 理 解 に 行 き 詰 ま っ たと き で は な い
だ ろ う か 。「 抵 抗 」 か ら 外 に は ど う し て も 出 ら れ な い 、 自 分 の は か ら い が 無 く な ら
な い 、 ど う あ がい た っ て 自 力 の 中 か ら 外 には 出 ら れ な い 、 と 降 参 し たと き で は な い
だろうか。
『 投 網 は、 一 つ の 結 び 目 を ほど く に は 次 を ほ ど かな く て は な ら な い 。そ れ を ほ ど
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く に は 次 を 、 次を と ま た 一 回 り し て 元 に 戻っ て く る 。 結 局 一 辺 に し かも 同 時 に パ ッ
とほどけなければならない。無数にある網の結び目全部を網羅することはできない。
結び 目の百や 千個な どは一部 分である 。どこ でダメだ となる かわから ない。 例え
ば 花 を 無 心 で 見る と い っ て も 無 心 で 見 れ ると い う の は な か な か 大 変 。最 高 に 難 し い
も の 。 生 易 し い こ とで は な い 。 しか し 、 そ の 生易 し く な い とこ ろ に 来 る めぐ り 合
わせになっているのだから仕様がないですね。』
行 き 詰 ま る こ と は 、ど こ で そ う な る か わ か ら な い 。 行 き 詰 まっ た と き 気 が つ く と
いうより、その逆で、気がつくときが、行き詰まっているときなのであろう。
自覚というものは手足を動かしても正坐をしても、つまり自分が得ようと思って
・
・
・
も 絶対 に得られないものということでしょうか。そのことを何度も聞いていますが、
ま だ 「 得 ら れ るの で は な い か 、 得 ら れ る 」と い う 気 持 ち が あ り ま す 。得 ら れ な い の
だとハッキリ思えません。
『思えないのが大脳の働き。』
理 屈 で 行 き 詰 ま る とい う こ と が あ り 得 る で し ょ う か 。 理 屈 はい く ら 行 き 詰 ま っ た
よ う に み え て も 必 ず そ の 時 点 で 「 イ ヤ 待 て よ 、 こ れ は こ う で は な い だ ろ う か 。」 と
いう反論の理屈をいくらでも出せるように思いますが。
『 本当に行き詰まることは容易なことではありません。 』
「 一 つ 一 つ の 事 物 を個 々 別 々 に 見 る と す べ て 行 き 詰 ま っ て いる 、 花 は 花 と し て 、
鶏 は 鶏 と し て 、同 様 に 自 分 も 行 き 詰 ま っ てい る 、 す べ て は 行 き 詰 ま って い る 。 そ の
行 き 詰 ま っ て い る と い う こ と に 気 が つ き さ え す れ ば 、 新 し い 世 界 を 体 得 で き る 。」
と い う よ う な こと を 言 わ れ ま し た 。 こ の 「行 き 詰 ま っ て い る 」 と い うこ と は ど う い
うことを言うのでしょうか。
『四方が何かで囲まれていて、その中で「行き詰まるとはどういうことを言うのか」
と問うているようなものです。囲っているものを取り除けなければなりません。』
理 屈 は す べ て 出 し 切っ て し ま わ ね ば 、 と 思 い ま す 。 理 屈 も 行も あ れ こ れ と や っ て
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「 も う 全 て や り 尽 く し て 、 後 は 何 も や る こ と は な い 。」 と い う と こ ろ ま で 至 っ た と
きに初めて、新しい世界に出ることができる、気がつける、ということでしょうか。
(下線和田氏)
『そういう想像は妄想であって、それに執われている限り自由にはなれません。』
『 客 観 的 に 「 ここ が 限 界 」 と い う よ う な 限界 は な い 。 ヤ リ ク リ を す るか し な い か も
自分のはからいで決めることはできないでしょう。』
段 階 を 踏 ん で 行 き 詰ま り 、 そ の 結 果 と し て 何 か が 得 ら れ る とい う の は 、 こ れ も ま
た や は り 、 合 理性 思 考 の 性 質 か ら 出 て い ない の で あ る 。 自 我 の 合 理 性が 人 間 の 精 神
活 動 を ど ん な に支 配 し て い る か 、 自 己 超 越に 取 り 組 ん で み て 、 は じ めて よ く 意 識 で
きる。
ふ っ と 気 づ く の は 精神 が 落 ち 着 い て い る と き で し ょ う か 、 高揚 し て い る と き で し
ょうか、弛緩しているときでしょうか、気が張っているときでしょうか。
『きまっていません。どんなときかわかりません。』
僕 の 質 問 は 結 局 「 自覚 を 得 る た め に は ど う や っ て ゆ け ば よ いか 」 と い う 点 や 「 何
故 で あ る か と いう 根 本 の 理 由 が 知 り た い 」と い う 点 な ど に 要 約 で き るの で は な い か
と思いますが。
『そのように思います。そこまで整理がついたら、もう一歩踏み込んでみたら?』
つまり「真実、本当のことが知りたい」ということではないかと思いますが。
『ことばで、何んと言ってもダメなのです。ことばでない、何かがでてこなければ。』
この日記で5冊目が終わったことになります。なかなか理屈は止みません。
『 理 屈 は 出 る だけ 出 し て し ま わ な け れ ば なり ま せ ん 。 出 し 切 っ て し まっ た ら 何 が 残
るでしょう。』
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自覚を求めて数年間懸命にやってきましたが、いったい僕はいつ気がつくのでし
ょうか。今日でしょうか、明日でしょうか。
『今日とか明日とか、そんな余裕のある世界のはなしではないのです。』
「 あ あ か な こ うか な 、 と 頭 の 先 で 考 え て いる よ う な 余 裕 は ど こ に も ない 筈 で す 。」
とのことですが、どうしてそういう余裕は「ない筈」なのでしょうか。
『人間は瞬間瞬間の一事に全力をあげて生きるより他に生きる道はないからで
す。』
僕は自覚にはまだまだでしょうか。
『 「まだ」とか「もうすぐ」という判断外の事実です。到るべきところは。 』
僕などは自覚のほんの片鱗を知るにも、長い歳月がかかるのではないでしょうか。
『そんなことはありません。一分も一秒もかかりません。』
一分も一秒もかからないのは、何故でしょうか。
『時間は相対感覚の中のこと。本当は時間と空間の埒 外 のことです。』
個を超えた認識とは、相対感覚ではない認識である。時間の経過とか空間の大小
を 認 知 し て い る感 覚 と は 違 う 、 も う 一 つ 別の 認 識 の 仕 方 を 発 見 し 獲 得す る こ と で あ
る 。 今 日 明 日 、5 年 後 1 0 年 先 、 こ っ ち かあ っ ち か 、 近 い か 遠 い か 、な ど の 相 対 感
覚 的 認 識で 考 え て い る と 、非 二 元 的 認 識 から 外 れ て し ま う。 今 こ こ の 全 存 在、自 分 か
ら離れてしまうのである。
ギリギリのところに行き詰まって、すべてを諦めてしまったときにわかるのでし
ょ う か 。 す べ て を 諦 め る と は 、「 生 き る 」 と い う こ と も 諦 め る と い う こ と で し ょ う
か。「死」を覚悟したときでしょうか。
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『 そ ん な 、 死 を覚 悟 す る と い う レ ベ ル の こと だ っ た ら 、 大 抵 の ひ と も何 と か 片 が つ
くのだが、そんいう生易しいものではありません。』
「 こ の 道 は 生 易 し い こ と で は な い 。」 と 言 わ れ ま す が 、 先 生 が お 若 い こ ろ 苦 し ま
れ た の と 同 じ 位 に 苦 し む 覚 悟 が 必 要 だ 、 と い う こ と で し ょ う か 。「 生 易 し い こ と で
は な い 」 と い うこ と は 中 々 気 づ け る も の では な い 、 も の 凄 い 重 大 事 だと い う こ と で
しょうか。
『 「真実」はそういう「考え」の埒外のところに″平穏″にあるのです。 』
自 覚 を 得 る 、 自 覚 の世 界 、 自 分 の 枠 を と る 、 枠 の な い 世 界 、そ う い う も の は 確 か
に あ る 、 と 思 って い ま す 。 し か し 、 自 分 には そ れ を 得 る こ と 、 そ の 世界 を 垣 間 見 る
こ と は 、 無 理 だと 此 の 頃 思 い つ つ あ り ま す。 力 が 抜 け る よ う な 気 が しま す 。 も う 気
張って頑張れない、という気がしています。これは望ましいことでしょうか。
『そこを通らなければならないのです。生易しいことではありません。』
2.或る気づき
やは り自分 は努力 するこ としか 出来ま せん。努 力でき るとい うこと のみし か長
所 が あ り ま せ ん。 頭 も あ ま り よ く あ り ま せん し 、 宗 教 的 な 才 能 に 特 別優 れ て い る 訳
でもありません。
し か し 、 救 わ れ よ う と し て や る 「 手 足 を 動 か す こ と 」「 正 坐 」 な ど の 努 力 は
りのまま
あ
からはなれることになりますし。
ですが努力しませんと拠がない気がします。苦しみイヤなことを感じますと救わ
れようとして一層、手足を動かして行動すること、正坐に拍車がかかります。
『 そ れ で い い です 。 と い う よ り 、 そ れ よ り他 に 道 は あ り ま せ ん 。 た だ何 ご と に も ト
ラ ワレ て はい け ま せん 。 し か し、 そ の トラ ワ レの 終 点に 到 った と き 、と ら われ か
ら開放されたことを自ら知ります。』
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筆 者は 山の 中で の 求道 の4 年間 、懸命 な取 り組 み のな か何 一つ 変 容す るこ とは な
か っ た 、と 言 っ て い い 。 と い う よ り 求 め て い る 変 容 と い う も の は 、 ち ょ っ と し た 考
え 方の 変化 とか 自我 レ ベル のセ ラピ ーで 起 こる 気づ きと は異 な って いる 。意 識、認
識 の 次 元の 変 化 で あ り 、古来 よ り 多 大 な 数に の ぼ る 修 行 者、求 道 者 が 求 め 続け て も 、
な お ご く 一 握 りの 人 し か 本 当 に は 体 得 し 得な か っ た 事 柄 と 共 通 の も ので あ る 。 そ の
点 で は 、 十 年 、二 十 年 、そ の 人 が 一 生 か か っ て 求 め 続 け て い く べ き も の 、と も 言 う こ
と がで きよ う。 また 和 田氏 は、変容 の方 向 へ向 かっ て求 めて い るこ とが 、非 二元 の
比 較 の な い 悟 りの 世 界 か ら 見 た ら 行 き 着 いた こ と と 同 じ こ と な の だ が、 と い う 意 味
のことを言っておられた。
和 田 氏 の お 陰 で 、 求め て い く こ と に つ い て の 基 本 的 姿 勢 は 身に つ い た の で 、 山 を
下 り 、 故 郷 に 帰っ て 小 さ な 塾 を し な が ら 求め 続 け て い く こ と に な っ た。 そ し て 何 年
も た っ て か ら 、あ る ひ と つ の 気 づ き が 起 こっ た 。 そ の と き の こ と を 以下 に 書 い て み
よう。
【 :ある気づき: 山中生活から数えて12年がたち、それでも何も気づきが
起 こ ら ず 「 あ ー 、 も う ダ メ だ な 。」 と い う 思 い 、 い よ い よ 諦 め た 様 な 気 持 ち に な ら
ざ る を 得 ま せ んで し た 。 あ れ 程 求 め て い た「 気 づ き 」 と い う こ と さ え忘 れ る 様 な 心
持ちになっていました。
そんなとき、普段の何げない動作をしていて、フッと閃くものがありました。
「 今 ま で い ろ んな 事 に 欲 張 っ て き た け れ ど、 自 分 の 欲 に 引 き ず り ま わさ れ て い た の
だ 。」 と い う 姿 が 見 え て き ま し た 。 も が い て も が い て 、 も が き 疲 れ た と き 、 パ ッ と
自 分 の 個 人 的 欲望 群 の 外 に 出 て 、 そ こ か ら様 々 な 欲 全 体 を 均 等 に 感 じら れ た 気 が し
ました。
こ れま で、大し て 高級 でな い欲 に とら われ がち で 人間 らし い欲 は なか なか 実行 で
き な い 自 分 だ った の で す が 、 こ の 気 づ い たこ と に よ っ て 「 人 間 に は 本能 的 、 動 物 的
欲 も あ る 。 し かし 、 自 分 を 認 め ら れ 社 会 的に も 生 か し 発 展 さ せ て い きた い 欲 、 人 と
こ こ ろ を 開 い てつ な が り 互 い に 思 い や り 合っ て 人 間 ら し く 、 安 ら か に生 き て い き た
い 欲 、 そ れ に 、真 理 を 求 め る 欲 、 精 神 的 に高 次 な る 方 へ 向 か う 欲 ま でも 確 実 に 備 わ
っ て い る 。 だ から 心 配 せ ず 、 人 間 は ″ 人 間の 欲 全 体 ″ を み て 、 そ こ で自 分 の 欲 す る
ま ま に 従 っ て い け ば 、 大 き く 自 分 を 傷 つ け る よ う な 脇 道 に は そ れ な い も の だ 。」 と
思えたのでした。
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こ れ が 人 間 ら し い 「 人 間 の 自 由 」 で あ っ て 、「 動 物 の 自 由 」 と 異 な る と こ ろ だ と
思 い ま す 。 ま た人 間 は 、 目 の 前 の あ る 一 つの 欲 に 集 中 し て し ま い 不 当に 大 切 に し が
ち で あ り 、 バ ラン ス よ く 自 分 の 中 の 全 体 の欲 を 感 じ ら れ ず 、 よ り 人 間ら し い 欲 の 方
を見失いがちになる性質を持っていることもわかりました。
それに今までは何かに気がついたらその後はなにもしなくてもラクに生きられ
る 様 に 想 像 し ても い ま し た が 、 真 の 欲 を 知る 術 を も っ た な ら そ れ を 現実 の 生 活 上 に
ど う 忠 実 に 表 して 行 く か が 課 題 と な り 、 より 注 意 を 払 っ て い く こ と が必 要 な 面 も あ
ることを知りました。
こ れ ま で あ れほ ど 自 分 を 不 安 定 に さ せ ウツ ウ ツ と し た 気 分 に 落 と し入 れ て い た 、
こ の 世 に 存 在 する 様 々 な 苦 し み 、 悲 惨 な 出来 事 、 不 条 理 な こ と に 対 して も 、 自 分 の
欲 望 を 世 の 中 の出 来 事 に か ぶ せ 投 影 さ せ て悩 ん で い た の だ 、 と わ か りま し た 。 も し
世 の 不 幸 に 対 して 本 来 の 意 味 で 気 に な る のな ら 、 そ の こ と が 自 分 に 重く の し か か っ
て 来 る 苦 し み とい う 感 じ も あ る か も し れ ませ ん が 、 ま た 、 そ の 不 幸 を負 っ て い る 人
達への願いとか祈りというのに近いものになるのでは、と思うのです。
自 分 と い う 個 体 に まつ わ る 満 た さ れ な い 欲 望 、 そ こ か ら 来 る苦 し み 悩 み に 深 刻 に
な り 、 と ら わ れて い た と こ ろ か ら 離 れ た とき 、 こ の 十 数 年 間 、 こ の 宇宙 の 存 在 、 人
間 存 在 の 意 味 を理 論 的 な 理 解 の 仕 方 で サ ッパ リ と 納 得 で き る と 思 い 、頭 の 観 念 の 中
を あ れ こ れ と 右往 左 往 し て い た だ け だ っ たこ と を 、 や っ と 自 ら 感 じ とれ る こ と が で
きました。
誰 で も 避 け て 通 る こと の 出 来 な い 大 き な 苦 し み と し て 「 死 」と い う こ と が あ り ま
す 。 こ れ は 計 り知 れ な い 恐 怖 苦 悩 で あ り 、ま た 、 割 り 切 れ る も の で はな い と 思 う の
・
・
・
で す が 、 し か し 肉 親 と の 死 別 や 自 分 自 身 の 死 に 対 す る 苦 悩 さ え も や は り 、自分 の苦
し み の ひ と つ なの だ と 思 い ま す 。 死 に 対 する 恐 怖 感 情 が 全 く な く な る訳 で は あ り ま
せ ん が 、 死 の 問 題 の 精 神 的 、根 本 的 な 解 決 は 、 個 の 意 識 を 乗 り 越 え る こ と に あ る と
感じました。
「 こ れ を 解 決 し な い と 思 い 切 り 生 き ら れ な い 。」 と 、 ず っ と つ か え て い た も の が 一
・
・
・
段 落 し 「 生 き よ う 。いのちの 力 に 催 さ れ る 間 は 、 そ れ に 従 っ て 生 き て い く 。」 と い
う気持ちになれたのでした。】
こ の 精 神 的 体 験 も 、 個 を 超 え た 精 神 性 の 一 様 態 で あ ろ う 。「 水 に 浸 か っ て い た 顔
を 洗 面 器 か ら 上 げ る 。」 と い う 例 え が あ る が 、 個 の 意 識 の み の 中 か ら 離 れ て 個 の 精
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神状 態を 眺め るよ うな感 覚、 とで も言 えるで あろ うか 。 観念を はな れる こと がで
き た 。 今 ま で 「花 」 と い う 観 念 で 見 て い たも の が 、 目 の 前 の 実 物 で ある ″ 花 ″ を 見
ら れる よ う にな っ た 。 過 去も 未 来 も観 念 のも の で あり 、 自 分が 直 面す る こ とに な
っ た 、 不 可 思 議な め ぐ り 合 わ せ で あ る 、 今こ こ の 現 実 に 力 一 杯 生 き れば い い の だ 、
と 思 え る よ う に な っ た 。 そ し て 今 ま で よ り ス ッ キ リ し た 感 じ に な っ た 。 ま た 、凄
く毛嫌いしていた人物に対しても、そのときはこだわらずスンナリと対処していた。
死 の 恐 怖 も 自 分の 個 人 的 欲 望 か ら き て い る、 と わ か っ た 。 つ ま り 自 分の 欲 望 か ら 、
個人的意識から、超え出た体験ではなかったかと思うのである。
欲 を 捨 て る と は 、 どう い う こ と な の で し ょ う か 。 人 間 に 欲 が無 く な る わ け で は あ
り ま せ ん し 。 欲を 捨 て た 状 態 と は 、 人 間 の諸 欲 に 対 し て ど う い っ た 心持 ち に な っ て
いることなのでしょうか。
・
・
『欲を「自分」ではない 現象だとして、ほっておくということです。』
人に好かれたい欲、よい彼女を得たい欲、素晴らしい人生を送りたい欲も何もか
も捨てれば、楽になるのになあ、とも思いますが。
『捨てて楽になるのは死ぬときです。捨てる必要もないし、捨てられもしません。』
先 生 は 「 人 間 は 欲 望 の 束 で あ る 。」 と 仰 い ま す 。 そ う い う 意 味 で な ら 欲 を 捨 て て
無 く す る こ と はで き ま せ ん し 、 そ れ が 出 来る に は 死 ぬ し か な い と い うこ と で し ょ う
か。
『死なないでそれを実現しなければ。それが本当の進歩というものです。』
悟るとは、欲がなくなることではない。欲を否定したり抑圧することはよくない。
欲 は 抛 っ て お く。 そ れ に と ら わ れ 執 着 し て振 り 回 さ れ な い こ と で あ る。 こ れ は 達 人
の 域 で あ り 、 なか な か 完 全 に は い か な い かも し れ な い が 。 欲 に 振 り 回さ れ な い よ う
に な れ ば 、 欲 が自 ら を 苦 境 に お と し め る 悪い も の で は な く 、 却 っ て 人生 を 充 実 さ せ
る 働 き の も と とし て 、 自 他 の 人 生 に 有 意 義に 活 用 出 来 る よ う に な れ るの で は な い だ
ろ う か 。 枯 れ た 植 物 の よ う に 無 為 に な る の で は な く 、 大 欲 に 生 き る 、と で も 言 え る
だろうか。
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・
・
・
個 を 超 え て 元 因 的 認 識 に ま で 達 す る と 、いのちの 本 体 と 繋 が っ た 満 足 、 安 ら か さ
のようなものがある。それに個我のみの中での自他を分けた相対感覚から来る恐れ、
・
・
・
不 安 、 焦 燥 、 劣 等 感 コ ン プ レ ッ ク ス 等 のス ト レ ス か ら あ る 程 度 開 放 さ れ る 。いのち
の 本 体 の 発 見 によ る 個 我 か ら の 開 放 、 安 らぎ と も い え な い 安 ら ぎ 、 つま り 積 極 的 強
烈な
やすらぎ
と い う 感 覚 で は な く 、 もう 少 し 穏 や か な も の 、 心 にガ サ ガ サ と ひ
っかかるものからの開放を感じられる。満たされるとも言えようか。
孤立分断した自我感覚の中でのみ生き、この安らかさや満たされた満足のない個
・
・
・
体 が 個 を 超 え て いのちと 繋 が る 代 わ り に 、 成 功 、 名 声 、 金 銭 な ど を 求 め る こ と を 、
ウ ィ ル バ ー は 「基 本 的 に 象 徴 的 な
代 用 品に よ る 満 足
に 駆 り 立 て られ 、 そ こ に 非
二 元 的 な 楽 園 を 見 い だ そ う と す る 。」 と 言 う 。 そ し て ま た 「 サ ン ス ク リ ッ ト で
ラーナ 、ギリシア語で
ニューマ 、アラビア語で
ルー 、中国語で
気
プ
と呼
ば れ る 有 機 体 的意 識 に 接 す る こ と に つ い て、 人 は 成 熟 し た 形 で 目 覚 めら れ る こ と 、
楽 園 に 戻 る た めに 人 間 は 退 行 す る 必 要 が ない こ と を フ ロ イ ト は 充 分 に理 解 し な か っ
た 。」 と も 述 べ て い る (5 − 1 )。 代 用 品 に よ る 満 足 の み で は 真 に 満 た さ れ る ウ マ
ミは味わえない。
非二元的認識による自覚をして満足と安定を得ると、満たされなさのゴマカシや
その補充のために懸命になって己れの欲望を使うという後ろ向きな感じではなくて、
自 他 を 分 か た ない 一 体 的 な 判 断 力 を 発 揮 して 自 分 と そ の 周 り の 事 柄 との 関 係 に お い
て ミ ニ 極 楽 (つ ま り 良 い 関 係 、 相 手 も 一 体 的 な 融 和 し た 判 断 で 返 し て く れ る よ う な
関 係 )を 作 っ て い く こ と に 力 を 注 ぐ 気 持 ち に な れ る 。 覚 者 は 建 設 的 な 欲 の 使 い 方 に
気 持 ち が 行 く ので 、 後 ろ 向 き な ご ま か し に大 き な 誘 惑 を 感 じ な く て 済む 、 そ ん な 余
計なヒマはないような気になるように思う。
A.マスローは有名な欲求階層説で人間の欲求を段階的に生理的欲求、安全性の欲
求、所属と愛情の欲求、評価と承認の欲求、自己実現の欲求、そして B 価値の欲
求 (自 己 超 越 の 欲 求 )と い っ た 基 本 的 な も の か ら 高 次 な も の ま で に 類 別 し て い る 。 こ
れ を 解 説 し た も の を 読 む と 、「 ま ず 低 次 の 欲 求 が 満 た さ れ て 初 め て 、 高 次 の 欲 求 が
生 ま れ る 。」 (5 − 2 )と い う の を よ く 目 に す る の だ が 、 こ の 部 分 に な に か ス ン ナ リ
納 得 で き な い よう な 感 じ が あ る 。 そ れ が 自分 で も ど う し て だ か よ く わか ら な い の だ
が。
筆者は、このときの気づきによって人間には様々な欲求が本能的なものからより
精 神 的 な も の まで あ り そ れ ら が 一 人 の 人 間に 同 時 に 混 在 し て い て 、 その 欲 求 全 体 を
均 等 に 眺 め ら れる 精 神 性 を 獲 得 し て い く つれ 、 意 志 に よ る 抑 制 で は なく 人 間 の 自 然
な 選 択 力 に よ り各 欲 求 の バ ラ ン ス が 取 れ てい く こ と を 直 感 し た 。 マ スロ ー の 説 も 高
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次欲求に目覚めた人は低次欲求が無くなるという意味では勿論ないのだが。
自分の求道を振り返って考えても低次の欲求の満たされなさが、人間の知能によ
って発展して高次な自己超越の欲求にまで高められるという側面もあるように思う。
自 分 の 、 個 を 超え た い と い う 欲 求 の 中 に は不 純 な も の も 入 っ て い た と思 う し 、 そ う
単純には言えないのだが。
人間が生きている限り種々様々な満たされなさに遭遇し、そこで苦悩煩悶する。
そ し て 一 つ 一 つの 満 た さ れ な さ を 個 々 に 解消 し よ う と す る の で は な く、 こ の 苦 悩 の
よ っ て 来 た る もの は 何 だ ろ う 、 と か 苦 悩 から の 根 本 的 開 放 を 求 め る よう に な る と い
う 道 筋 が あ る と思 う の だ が 。 だ か ら 低 次 の欲 求 が 満 た さ れ た か ら 、 それ で は 次 の 欲
求へという具合になっているかどうか。
こ の説 で は 、低 次 欲 求ほ ど 強力 で 優 先性 が ある と し てい る (5− 3 )。 こ の意 味
は 、 真 を 求 め て修 行 し て い て も 食 事 を と らず に は 続 け ら れ な い し 、 素晴 ら し い 演 奏
を ホ ー ル で 聞 いて い て も 地 震 が く れ ば 逃 げ出 す だ ろ う 、 と い う こ と かも し れ な い 。
自 分 の 場 合 も 色々 な 基 本 的 欲 求 は 満 た さ れて い た が 、 人 間 の 満 た さ れな さ の 姿 を 考
え 、 そ れ ら か ら自 由 に な れ た ら と い う 精 神的 な 欲 求 で あ り 、 基 本 的 欲求 か ら 離 れ 発
展したものだったのであろう。
3.無心
「もうダメだ。」と思ったとき、無心になれたのではないだろうか。 なれた
で は な く 、 ダ メだ と な っ た と き
無 心 に なっ て い た
の
の だ ろ う 。 十 数年 求 め て き た
こ と 、 そ れ さ えも 忘 れ た 心 情 に な っ て い たと き 、 あ る 気 づ き が 起 こ った の で あ る 。
こ れ は 全 く 予 期し な い 出 来 事 で あ っ た 。 それ は 当 然 の こ と か も し れ ない 。 予 期 し て
求めているのは、無心ではないのであるから。
それに加えて、この気づきの2年程前のことだが、山に入ったときから丁度10
年 し た 頃 の 朝 「 も う 質 問 は (し な く て も )い い で す 。」 と い う 気 持 ち と 言 葉 で 、 布 団
から起き上がった日があった。これまでずっと人生について「何故ですか?」と散々、
先 生 に 日 記 の 問答 で 尋 ね て 来 た 。 そ し て 知的 に サ ッ パ リ と 納 得 は で きな い も の だ と
聞 か さ れ な が ら も 、「 何 故 だ ろ う ? 」 と 理 屈 を 追 求 し て い き た い 気 持 ち が ず っ と な
く な ら な い で いた 。 し か し こ の 日 を 境 に 、人 生 の 存 在 の 意 味 を 理 屈 で追 求 す る 姿 勢
は 不 思 議 な こ とに ピ ッ タ リ と 止 ん だ 。 知 的合 理 性 で は わ か ら な い も のな の だ 、 と 自
分のアタマが自分のアタマの限界を知った、見切りをつけたのではないかとも思う。
その日の昼、師である和田重正先生が85歳で亡くなられていたことは後に知っ
た の で あ る が 、意 味 深 い 共 時 的 現 象 で あ った と 強 く 心 に 残 っ て い る 。そ れ ま で い つ
も ア タ マ 、 心 が、 疑 問 の 気 持 ち に 引 っ か かっ て ザ ワ ツ イ テ い た の が 、こ の 朝 以 後 は
- 65 -
ザ ワ ツ キ が 治 まり 平 静 に な っ て い る 状 態 が続 い て い た こ と も 、 気 づ きに は 大 き く 影
響していると考えられる。
理屈、アタマであれこれすることは止むときが来るものなのでしょうか。
『それはありません』
理屈は止まないまでも、少なくとも「理屈はダメだ」と思えるときはあるもので
しょうか。
・
・
『 理 屈 は ダ メ だ と い う と き は 必 ず あ り ます 。 何 故 か と い う と 、 そ れ が 真実だ か ら で
す。』
「理屈はダメだ」となったときに理屈は止まらないながら、それは別次元のこと
と し て 放 っ て おけ る 、 と ら わ れ な く な る 、理 屈 追 求 に 価 値 を 置 か な くな る 、 と い う
ことでしょうか。」
『そうです。その通りです。』
『 ア タ マ の な かで 色 々 ゴ チ ャ ゴ チ ャ あ っ ても 、 そ れ は そ の ま ま で 開 放さ れ 得 る ん だ
ということ。』
この自分が生きている世界は、いったい何を意味しているのでしょうか。
『別段何も意味していません。ただ存在しているだけです。』
『道理を心得て、自己の実相を究めること。』
どんなときに気づくかというと、行き詰まったときである。自我の合理性によっ
て 自 分 で な ん とか し よ う 、 で き る 、 と 思 って い た の が 自 分 の は か ら いで は ど う に も
な ら な い 、 二 進も 三 進 も い か な い と い う こと を 身 を も っ て 味 わ い つ くし た と き で は
な い だ ろ う か 。合 理 的 理 解 を 追 っ て い っ て、 知 的 追 求 で は こ の 世 界 の意 味 は わ か ら
な い、 と なっ たと き とも い える 。 何 れ にせ よ、 人 智の 合 理性 に 対す る行 き 詰ま り
をきたしたとき、ではないだろうか。
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『行き詰まりは自分で求めて来るものではなく、いやでも来てしまうものです。』
自力のはからいはやまるものなのでしょうか。
『や まる ので はない が、 その埒 外に でる ことは でき ます。 や めよ うと思 って やま
るものではありません。』
止 んだ り止 まな か った り、とい う 比較 相対 の自 我 の感 じの 中を あ れこ れ問 題に し
て 構 う の で な く、 そ の 自 我 の 感 じ の 外 に でる こ と で は な い か 。 禅 の 無念 無 想 の こ と
は よ く 知ら な い が 、お そ らく 禅 の 向 か お うと す る の は 念 が無 く な る こ と で はな く 、念
が 在 ろ う が 無 かろ う が 、 そ の こ と と は 関 係が な い 一 歩 外 の よ り 大 き な認 識 に 足 場 を
置 く こ と 、 そ の足 場 を 発 見 す る こ と で は ない か と 思 う 。 こ の 、 埒 外 に出 る 認 識 の こ
と を も メ タ 認 知 と 呼 ぶ こ と は 相 応 し い だ ろ う か 。 メ タ 認 知 、 メ タ -メ タ 認 知 、 そ の
ま た 上 の メ タ 認 知 の 働 く と こ ろ か ら 、外 へ 出 る こ と な の だ ろ う 。 認 知 の 働 か な い と
こ ろの 認識 のよ うに 思 う。 この こと はや は り、自ら が少 しな り とも 体験 しな いと 見
当のつかないものである。
こ のこ とに つ いて A.マ ス ロー は、自 己超 越が 起 こっ たと き の「 B 認 識 」に つい て
の 性 質 と し て 、 能 動 的 と い う よ り も は る か に 受 動 的 、受 容 的 で あ り 、 認 知 は 求 め る
ものでなく、求めないものであり、強いるものでなく、瞑想するものであってよい、
と 言 い こ れ を 「無 欲 意 識 」 と 名 づ け て い る。 そ し て そ れ と 同 じ こ と を、 道 教 の 「 無
碍 」 の 考 え 方 に見 出 し て い る 。 ま た イ ン ド出 身 の 世 界 的 思 想 家 で あ るク リ シ ュ ナ ム
ーティの「無選択意識」という呼び方に強い賛意を示している(5− 4)。
確かに「無選択意識」というのはいい呼び方のように感じる。選択のない、はか
ら い の 埒 外 の 、 ア レ と コ レ と い っ た 物 事 を 分 断 し て 捉 え る の で な い 、包 括 的 認 識 を
獲得していたであろう人物の言葉だからだろう。
行き詰まるとは、悟りを得たい気がなくなることではなく、いままでの認識方法
の放棄にあるのかもしれないと思う。
4.機縁
一度、行き詰まりにまで達したなら、その後必ず、誰でも自覚が得られるでしょ
うか
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『行き詰まり即 自覚の世界です』
行き詰まった時点で即、個を超えた精神性が現れるということばかりではないだ
ろう。「今、丁度行き詰まりました。」「そうですか。なら、ハイ、自覚です。」
と ば か り も い くま い 。 行 き 詰 ま り と は 、 瞬時 の 状 態 ば か り で な く 、 行き 詰 ま っ て い
る 、 と い う 時 間的 幅 の あ る 継 続 状 態 も 含 んで い る と 思 わ れ る 。 そ の 行き 詰 ま っ て い
る 状 態 に お い て、 何 か の 機 縁 に 触 れ る と いう か 、 何 か の 拍 子 に パ ッ と直 覚 的 に 浮 か
んでくるもののようである。
禅宗の僧で、悟りを開いたといわれる人のなかでも、必ずしも坐禅を組んでいる
と き に 気 づ い てい る 訳 で は な い 。 庭 を 掃 除し て い て 石 こ ろ が 灯 篭 に コツ ン と 当 た っ
た 瞬 間 と か 、 歩い て い て 何 か に つ ま ず き かけ た と き 、 ま た 、 花 を 見 た瞬 間 な ど 様 々
で あ る 。 こ の 何か の 拍 子 に 新 た な 精 神 性 が意 識 さ れ る と い う メ カ ニ ズム も 、 心 理 学
的、生理学的に追求していく興味深い題材かもしれないと感じる。
先 生 は 桃 の 蕾 を 、 盤珪 さ ん は 血 の 塊 の 痰 が 壁 か ら こ ろ げ 落 ちる の を 、 柳 さ ん は 沢
蟹 の 歩 く の を 見て 自 覚 さ れ ま し た 。 多 く の人 が 、 何 か あ る も の を 見 たり な ど し た 拍
子に気づいておられますが、これはどういう現象なのでしょうか。
『 どん な 事 象で も すべ て 真実 (自 分に 通 じ る)を 現 わし て いる と いう こ と でし ょ
う。』
「 気 が つ か な い か なあ 」 と 思 っ て い る そ の と き に は 、 ふ っ と気 が つ く こ と は な い
様に思いますが。
『 そ う で す 。 気が つ く の は 、 自 分 が カ ラ のと き で す 。 し か し 、 カ ラ ッポ に な ろ う と
しているときは、カラではありません。』
何が機縁となって、自覚するのでしょうか。
『機縁の外 です。』
自分の力の行き詰まりのことに触れてきたが、では、心理的展開を来たすものに
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は 、 こ の こ と しか な い の だ ろ う か 。 ク リ スチ ャ ン は 神 を 信 じ 、 浄 土 真宗 は 阿 弥 陀 如
来にお任せする。信じていくという所謂他力の道がある。しかし自分は超越的な
「 神 」 と い う よう な 存 在 を 信 じ る こ と は 出来 な か っ た 。 だ が 、 神 様 や如 来 様 に 自 己
中 心 的 な は か らい の あ る 自 我 を 委 ね る こ とに よ っ て 、 小 さ な 計 ら い の二 元 的 相 対 判
断 か ら 個を 超 え た 比 較 の ない お お ら か な 、大 自 然 、生 命 の働 き を 感 得 す る こと に な る
の で は な い だ ろう か 。 自 力 も 他 力 も 究 極 のと こ ろ で は 一 つ の と こ ろ に行 く 、 共 通 し
た心理状態があると思われる。
クリスチャンは、神を絶対的に信じることによって我を滅します。他力でしょう
か。 僕は自力の行き詰まりの方向です。自力でしょうか。
『 そ の へ ん の とこ ろ は 微 妙 で す 。 自 力 、 他力 は 究 極 の と こ ろ で は 一 つの と こ ろ に 行
きます。』
5.閃き
先 に 揚 げ た 、 自 身 のあ る 種 の 個 を 超 え る 体 験 か ら 1 年 位 し た頃 、 も う 一 つ 印 象 に
残る出来事があった。
【夏の夜、縁台に寝そべって星空をフッと見たとき、パッと空が広く感じられた
こ と が あ り ま した 。 次 の 日 海 で 泳 い で い ても 、 い つ も と 違 う 感 覚 が あり 空 全 体 が よ
く 見 え る 、 広 く感 じ ら れ る の で す 。 そ れ はあ た か も 空 中 か ら 海 に ポ ツン と 浮 か ん で
いる自分を見つめている様な感覚でありました。
和田 先生 が使 われた 、ど こか の先人 の言 葉に 「人、 山を 見 山、人 を見 る」 とい
う の が あ り 、 それ ま で 何 の こ と か サ ッ パ リわ か ら な い で い た の で す が、 こ の 「 山 、
人 を 見 る 」 と いう の は 、 人 間 の 意 識 が こ の枠 を 越 え て 宇 宙 に ま で 拡 がっ た 感 じ を 表
しているのではないか、ということがこのとき少々わかりました。
こ の と き の 感 覚 は 、狭 い 個 を 脱 却 し て 拡 が っ て い る の で す から 、 清 々 と し た 感 じ
があります。
こ れ ら 一 連 の 体 験 を通 し て 、 和 田 先 生 が 言 っ て お ら れ た 「 悩み 、 苦 し み 、 問 題 は
全 て が 消 え て なく な る 訳 で は な く 、 今 で もあ る け れ ど 、 そ れ は 自 分 にと っ て は 雲 か
霞 の よ う な も の で 、 気 に な ら な い 。」 と い う こ と が 、 自 分 な り に で す が 段 々 と 理 解
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できるようになってきている気がします。】
個を超える精神性にも種々の様態、レベルがある。ここまでに書いた自分の体験
も 何 ら か の 個 を超 え る 体 験 に 違 い な い と 思う が 、 究 極 の 比 較 相 対 を 超え た 自 他 一 体
の非二元性の認識を十全に感得しているとは勿論いかないのではなかろうか。
気づきと気づいてないとき、体験する前と後とが二つにわかれている、というと
こ ろ で 。 如 何 なも の で あ ろ う か 。 こ こ で は未 だ 、 も の ご と を 分 か た ない 生 命 の 実 体
・
・
・
の 感 得 と い う 、 元 因 段 階 の 認 識 に は 至 っ て い な い と 思 わ れ る 。いのちの 本 体 を 感 得
し 切 れ ず 、 そ れが い わ ば ス ク リ ー ン に 映 った 現 象 界 の 姿 を 分 か た ず ただ 眺 め る こ と
は で き て い た が、 そ の 色 形 そ の ま ま で 見 てい た の だ と 思 う 。 こ の 先 に、 こ の 色 形 に
ならないところの本体のようなものを感得する精神性の段階がある。
ウィルバーは書いている。
『師のところへ弟子が教えを求めてやってきて言った。
「驚くような体験をしました。わたしの自我が消え、万物とひとつになり、時間
も消えてなくなりました。素晴らしい体験でした!」
すると師は、こう言うだろう。
「 そ れ は 素 晴 らし い 。 だ が 、 教 え て ほ し いん だ が 、 そ の 体 験 に は 始 まり が あ っ た か
ね?」
「ええ、それは昨日起ったんです。わたしがただ座っていると、突然・・・・」
「 始 ま り が あ るも の は 、 本 物 で は な い 。 すで に 存 在 し て い る も の 、 体験 で は な い も
の 、 始 ま り の ない も の に 気 づ い た な ら 、 また 戻 っ て お い で 。 そ れ は おま え が す で に
気 づ い て い る もの の は ず な の だ 。 始 ま り のな い 状 態 を 認 識 で き る よ うに な っ た ら 、
戻っておいで。おまえが今話したのは、始まりのある体験だ。」 』(5− 5)
い
つ
ど
こ
何時と い う 時 間 、 何処と い う 空 間 、 悟 る か 悟 ら な い か 、 体 験 と い う 限 定 さ れ た も
の 、 こ れら は す べ て 分 断 的、合 理 的 認 識 のも の で あ ろ う 。こ こ に の み 留 ま る限 り 、元
因 的 な 個 を 超 えて い る こ と を 認 識 し な い 。た だ 客 観 的 に い え ば 、 個 を超 え た 認 識 が
感 得 さ れ る 前 と後 の 時 点 の 区 別 は あ る だ ろう 。 そ の 時 点 で 主 観 的 に は、 前 も 後 も な
いその埒外の認識を味わっているのではないだろうか。
し か し 、 あ の と き の 気 づ き に よ り 、「 悟 る と い っ た 一 線 を 超 え て い る の も 、 超 え
て い な い のも 、 求 め て い る と いう 方 向 に い る 者 に と って は 、 大 差 は な い もの だ な 。」
ということはわかった気がしている。
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『頭で考えるような境目、終点があるわけではありません。』
超えると言うと、一線があるように思えますが。
『 言 葉 で い う とそ う で す が 、 な っ て み て 振り 返 っ た と き 、 一 線 な ど ない と い う こ と
がわかります。』
「理屈をこねるのも一応はそこを通らなければ気が済まないので、止むを得ませ
ん 。」 と い う こ と で す が 、 気 が 済 む ま で 理 屈 を や る の は 大 変 だ ろ う な 、 と 思 い ま す
が。なかなか気が済むところには至り難いでしょうか。
『特別な条件を持った者でない人には、それはむしろ不可能であるかも知れません。
− ということをよく承知するのも一つの道でしょう。』
特別な条件とは、どういう条件でしょうか。
『ものごとの全体を直覚的にとらえる能力を具えているか否かです。』
僕 に は 不 可 能 な ら 、不 可 能 だ と ハ ッ キ リ 教 え て 下 さ い 。 お 願い し ま す 。 そ の 方 が
サッパリしますから。
『不可能な人間がいるとは思えません。』
「 そ う い う 論 理 的 構造 ば か り に 眼 が 向 か い 、 そ れ に こ だ わ って い て は 本 当 の 進 歩
は あ り ま せ ん 。」 と 書 い て お ら れ ま す が 、 と い う こ と は 日 々 、 論 理 的 な こ と を 追 求
し て ゆ こ う と する の で は な く 、 手 足 を 動 かし な が ら パ ッ と 直 覚 的 に もの を 見 よ う と
する方に心の向きを変えてやったほうがよいということなのでしょうか。
『むずかしいですね。カボチャの花を見てカボチャの花だとわかればよいのです。』
個を超えた気づきは、一瞬の閃きのようにやって来るものである。
「 こ れ は こ う だか ら 従 っ て こ う な の だ 」 とい っ た 論 理 的 理 解 に よ っ てわ か る の で は
なく、パッと閃く直覚的把握によって瞬間に気づくものである。
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論理的に積み上げ、時間をかけて解るのではなく一瞬間に閃くものである。
自 覚 は 一 度 に ド ッ と気 が つ く こ と で し か 得 ら れ な い の で し ょう か 。 手 足 を 動 か し
て い て 自 覚 と 同質 の 小 さ い も の を 少 し ず つ「 フ ッ と 気 づ く 」 こ と を 繰り 返 し て 行 っ
て自覚に到れるということはないのでしょうか。
『その方が普通です。漸悟、ということばがあります。』
い ち ど き に 気 が つ く頓 悟 は 自 分 で も 分 か り や す い が 、 あ る とき 振 り 返 っ て み て 、
「以前と大分変わってきたな。」という変化は、自分ではわかり難いものでもある。
先生 が27 歳の春 に気づ かれた 時は、 ほんのわ ずか一 瞬でわ かられ たので しょ
うか。
『 一 瞬 に 全 景 がと ら え ら れ る 、 と い う こ とで す 。 は じ め は ボ ー ッ と 、そ れ か ら だ ん
だんにハッキリと見えてきました。』
6.新たな気づき
人 間 の 五 官 の 働 き に よ る 比 較 相 対 的 認 識 か ら 、 そ の 働 き と は ま た 別 の 認 識 の
在り方に気づき、ものごとが分かたれず相対感覚の起らない、いわばこの世界
の生命のもとのようなもの、実体を感得する。生命のもと、実体といってもそ
のようなカタマリをイメージとして捉えるということではない。それでは単な
る妄像を描いたに過ぎないことになる。そのようなイメージとか心的象徴と合
体することではなく、ものごとを対象化しイメージなどが起るより前のこの世
界についての別の認識方法がある。
その認識によれば、自他を対象化していた感じ方から、お互いが同じ生命か
ら出ている、というより同じ生命そのものなのだということがわかるようにな
る 。 こ の こ と が 、「 個 を 超 え る 」 こ と な の で あ る 。 観 念 的 に 解 か る の で は な く 、
実感、実体験としてわかるのである。
個 を 超 え る 精 神 性 に は 無 数 の 段 階 が あ る の だ が 、 こ の 論 文 に お い て は 主 と し
て上述辺りの段階を問題としているつもりである。
個 を 超 え る と 、 ど う い っ た 心 的 変 化 を も た ら す の か は 前 で も 触 れ て き た 。 こ
こでは限られたものであるが、筆者の心情の変化を少し書いてこの精神性の説
明につけ加えられればと思う。
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この論文に取り掛かるにあたり、もう一度過去の和田氏との問答全体を読み返す
作 業 を 行 っ て みた 。 そ し て 、 個 を 超 え る 精神 性 と は 、 人 間 の 通 常 の 合理 性 の 中 の み
で は ど う に も なら な い 、 手 の 届 か な い 、 その 範 囲 外 の 、 言 っ て み れ ば次 元 を 異 に し
た精神活動のことなのだと改めて自分の心に刻まれた。
こんな心情、意識になっていたことによるのではと思うのだが、最近、寝床の中
で 目 が さ め た とき 朧 げ な が ら 気 づ き 、 感 得さ れ た こ と が あ る 。 そ れ は、 安 心 不 安 、
幸 せ 不 幸せ 、 優 劣 、大 小 、遠 近 な ど 様 々 に比 較 相 対 し て 分け て い る 意 識 の 別に と い う
か 元 に な っ て いる 、 な に か 、 物 事 を 分 断 して い な い 次 元 の 様 相 を 感 じた 。 そ れ は 通
常 の 、 事 柄 を 分断 し 捉 え て い る 意 識 活 動 のと こ ろ に ド ン と や っ て き た、 ハ ッ と し た
微妙な衝撃でもあった。
そ れを 暫く 感じ な がら 「あ ー、 そ うか 。先 生が 言 って おら れた 世 界、認識 とは こ
れ の こ とか も し れ な い 。」と 思 っ た 。 人 間の 五 官 に よ っ て見 え 、判 断 さ れ てい る こ の
現 象界 の映 り方 、個 々 に色 々見 え、比較 し て相 対価 値を 考え て いる のと は違 う捉 え
方 、 こ の 感 じ 方の と こ ろ に は な に も な い 、暗 黒 の よ う な ? 事 柄 を 分 ける 前 の 元 の と
ころの様相のようにも思われた。
人間の精神性は、五官というフィルターを通して、色々な世界、様々な形をして
分 け ら れ て 個 々が 存 在 し て い る と 見 え 、 種々 の 相 対 観 念 を 起 こ し て いる 。 し か し も
う 一 つ の 認 識 のと こ ろ に は 比 較 が な い 。 この 認 識 は 、 こ れ ま で 感 じ てい た 比 較 的 相
対 価 値 、 自 分 の能 力 の 世 間 か ら の 評 価 、 自分 は 幸 せ か 不 幸 せ か 、 満 足か 不 満 か 、 安
心 し て い る か して い な い か 、 な ど の 判 断 の起 ら な い 世 界 で あ る 。 様 々な 相 対 感 か ら
ある程度開放された心境を発見している。
このことこそ、我の強くて様々なことに引っかかって苦悩し、無条件の安定を求
め て 山 に も 篭 って 長 年 取 り 組 み 続 け て き た、 非 二 元 的 な 精 神 性 の 当 体で は な い だ ろ
うかとも思っている。
そして、これまでのように相対的に自他を区別して、自我の働きによる自己中心
的 な 計 算 さ れ 考え て 出 て く る 判 断 で は な く、 そ れ が 起 こ る 前 の 、 自 他を 超 え た 自 己
中 心 的 で な い パッ と 起 こ る 直 覚 的 な 、 円 満な 広 い 総 合 的 判 断 が あ る こと に 気 づ く こ
と が で き た 。 ずっ と 以 前 か ら 、 こ の も う 一つ の 判 断 力 の こ と は 何 度 も聞 か さ れ て い
た の だ が 、 ど れが ど ち ら の 判 断 な の か 自 分で は 分 か ら な い で い た 。 今は わ か る 。 無
心 で 湧 い て く る直 覚 的 判 断 の こ と で あ る 。人 々 は 大 体 日 常 生 活 の 大 半の 行 動 を 、 こ
の 無 心 で の 判 断で 行 っ て い る 。 今 後 は な るべ く こ の 、 枠 の な い と こ ろで の ピ ン と 来
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る方の直覚的判断に従っていけたらと思う。
・
・
・
僕は何故 いのちの判断が受けとれていないのでしょうか。
『受けとれているのだが、それに気がつかないだけです。』
受けとれているのに気がつかない、とはどういうことなのでしょうか。
『人間は誰でも
真実の人間
を 蔵 し て いま す 。 そ の 真 実 の 人 間 を 発見 し て い な い
だけだ、ということです。』
世の中に生きていると、自分の本質以外の外側にくっついた大雑把な経歴、肩書
き に よ り 判 断 され る こ と が 多 い 。 自 分 で はそ れ が 皮 相 的 判 断 だ と 思 って い て も 、 他
者 か ら あ さ は か な 判 断 を 受 け る と や は り 口 惜 し い 気 持 ち が あ り 、大 分 そ の こ と に 心
の ど こ か 片 隅 で引 っ か か っ て い た 面 も あ る。 し か し こ の 気 づ き に よ り、 比 較 判 断 が
・
・
・
起 こ る 前 の いのちの 実 体 の よ う な も の の 存 在 を 知 っ て 、 こ の よ う な 引 っ か か り か ら
大幅に脱却できたような感覚でいる。
自 分 が 比 較 相 対 的 な 尺 度 の 精 神 性 の 中 に い て 、「 人 は み な 差 は な い の だ 」 な ど と
考 え 方 を 変 え たと し て も 心 情 的 に な か な か開 放 さ れ な い も の だ が 、 比較 を 絶 し た も
う ひ と つ の 精 神性 に 少 し な り と も 目 覚 め ると 、 か な り ラ ク に な る 。 ひと 息 つ く 。 相
対 尺 度 の 感 覚 がな く な る 訳 で は な く 、 そ れと は 別 の 新 た な 認 識 方 法 を得 る と い う こ
と で あ る 。 個 とし て の 能 力 の 十 全 な 発 揮 に努 め る こ と は 、 よ い こ と であ り 相 対 尺 度
も 無 視 せ ず 今 後も 取 り 組 ん で 行 き た く 考 えて い る が 、 相 対 尺 度 の み でな い 、 む し ろ
実 体 は 絶 対 尺 度の 方 が 元 だ と い う こ と を 感得 で き た こ と は 、 ホ ッ と する 、 大 半 の 肩
の 荷 が 降 り た よう で 、 本 当 に 我 が 身 に と って 有 難 い こ と で あ っ た と 思っ て い る と こ
ろである。
そして五官に制約された大脳のエゴをもとにし、個の傑出のみを求め他者と競合
的 に な り 傷 つ けあ お う と す る よ う な 感 覚 の判 断 と は 別 に 、 も っ と エ ゴに 規 制 さ れ な
い 桁 の 大 き な 融和 的 な 感 覚 の 判 断 が 人 間 誰に で も 働 い て い る こ と が 明確 に わ か っ た
気 が し て い る 。自 分 が 人 と の 応 対 で 、 こ の二 種 の 判 断 の ど ち ら を 出 して い く か に よ
り 、 相 手 の 反 応も 大 脳 の 競 合 性 を 出 し て くる か 、 安 心 し て 融 和 的 仲 間感 に よ る 精 神
性 で 接 し て く れる か 違 っ て く る こ と が あ ると 思 う 。 こ れ か ら は 、 な るた け で あ る が
マイナスを稼がないよう、悪い業を積まないようにしていきたく思う。
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そ れ に 、枠 の な い 絶 対 的 な 比 較 の な い 精 神 性 に 気 づ く と 、 自 分 の 心 の 中 の 大 脳 的
比 較 判 断 を あ る程 度 放 っ て そ こ か ら 離 れ るこ と が で き る 。 そ れ が 出 来る よ う に な る
と 、 他 人 が 自 分に 対 し て 計 算 さ れ た 大 脳 的判 断 を ぶ つ け て 傷 つ け よ うと し て き て い
る か 、 本 当 に 親和 的 な 判 断 力 の 方 で 応 対 して く れ て い る か が 、 少 し 冷静 に 判 別 で き
る 。 そ し て 他 人の 自 分 に 対 す る 悪 意 の よ うな も の は 、 自 分 の 心 の 中 でし て い る 事 と
同様に、無視してからかわないでいられるようになった。
今までは、悪意に対して「相手にしない」と思っても完全に感情的にそうはなれ
な か っ た し 、 一言 こ ち ら も 応 戦 し て や ら ない と つ ま ら な い で は な い か、 と も 考 え て
い た 。 し か し 相手 と 自 分 の 大 脳 同 士 の や り合 い に は き り が な い し 、 その 事 自 体 が 地
獄 の 様 相 で あ る か ら 、 な る べ く 放 っ て お く こ と が 我 が 身 の 得 策 で あ り (法 的 理 不 尽
に 対 し て は 法 的 に 対 処 す る 、 何 で も 黙 っ て い る 訳 で は な い )、 ま た そ れ が 以 前 よ り
容 易 に で き る よう に な っ て い る こ と を 感 じて い る 。 自 分 自 身 の こ と を知 れ ば 相 手 の
こ と 、 人 間 の こと も わ か っ て く る と 和 田 氏が 言 っ て お ら れ た が 、 確 かに そ う で あ る
と今思える。
・
・
・
そ し て 、いのちと 繋 が っ て い な い 安 定 の な さ か ら く る ス ト レ ス を ご ま か す た め
の 、 生 産 的 で ない 感 覚 的 欲 望 に 過 度 に 引 きず ら れ る よ う な 無 駄 を し てい く よ り 、 比
・
・
・
・
・
・
較 を 超 え た い のちの 実 相 を 少 し な り と も 感 得 で き た の で は な い か と 思 え る 今 は 、 自
分 に と っ て 本当 にト ク に な る よ う な 行 動 、 清 々 と し た 感 覚 で 生 き ら れ る よ う な こ と
に心が向いているようである。
また前より、より自由なところを知った気がしている。大脳にひっかからないで
い ら れ る 、 と いう か 。 何 も の に も 束 縛 さ れな い 絶 対 的 な 自 由 と は 、 個、 エ ゴ に 対 す
る 制 約 が な く 勝 手 に な る こ と と は 訳 が 違 い (個 の 自 由 は 最 大 限 保 障 さ れ ね ば な ら な
い が )、 束 縛 さ れ て い る 個 の 感 覚 か ら あ る 程 度 開 放 さ れ る こ と を 言 う の だ ろ う と 思
う。
過去のいきがかり、嫌な体験などにずっと引っかかっていた。しかし今は、それ
を 割 と あ っ さ りと 捨 て ら れ る 、 思 い 切 れ る気 も し て い る 。 自 分 は 、 日々 刻 々 新 た な
自 分 な の だ と いう こ と で あ る 。 自 分 は 一 歩過 去 に ど れ ほ ど 汚 れ て い よう が 、 今 現 時
点 は そ の 過 去 を被 っ て い る の で な く 、 清 浄な 自 分 な の で あ る 。 新 鮮 な今 を 生 き ら れ
る気がしている。
『 い つ も 「 今 がは じ め 」 で す か ら 、 そ の 実感 を 得 て い つ も そ の 実 感 の中 で 生 き れ ば
いいのです。それは本当の達人の境地で、そう簡単には手に入りません。』
・
・
・
この比較を絶した非二元的な認識、生命の当体のようなもの、いのちの実体の感
- 75 -
得 は ま だ 垣 間 見た 程 度 で あ ろ う か ら 、 今 後も こ の 認 識 が よ り 確 か な もの に な る よ う
努 め て い く つ もり で あ る 。 そ れ に も し こ の感 得 が 比 較 の な い 生 命 の 大本 を 知 る 元 因
段 階 だ と す れ ば、 次 の 非 二 元 段 階 も 存 在 する の で 、 自 分 に と っ て の 進歩 に 限 り は な
い。
「非二元段階は、元因段階の非顕現性の、極度に微妙な限界からの自由を志向す
る 。 空 性 と 形 態と の 境 界 が 融 解 し 、 無 限 に形 態 と し て 終 わ り な く 覚 醒す る 。 そ れ は
元 因 段 階 の 限 界か ら の 自 由 で あ り 、 自 然 な、 あ る が ま ま の 空 性 と 形 態の 全 コ ス モ ス
へ の 自 由 で あ る。 元 因 段 階 は 、 顕 現 世 界 の幻 の よ う な 夢 か ら の 自 由 であ り 、 非 二 元
は「非情な」空性からの自由である。」(5− 6)
・
・
・
いのちの実体を感得したら、それがそのまま現象界に顕現していることを覚知し
・
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ていくことである。この世そのものが いのちの顕現であることを。
知 恵は 、脳 に蓄 えら れ てい るの でし ょう か 。蓄 えら れて いる の は、人体 のど の部 分
なのでしょうか。
『体全体です。』
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6.各種心理療法、セラピー
幾つ かの心 理療法 やセラ ピーと いわれ るものの 中での 、個を 超えた 性質の 体験
に つ い て 筆 者 自ら の 経 験 し た こ と や 知 識 の及 ぶ 範 囲 内 だ け で だ が 、 少し 考 察 し て み
たい。
1.ユング派分析心理学
ユ ン グ 心 理 学 で は 、個 人 の 心 的 内 容 を 含 む 個 人 的 無 意 識 の 、よ り 深 層 に 個 を 超 え
た 人 類 に 共 通 した 普 遍 的 な 心 的 イ メ ー ジ が存 在 す る と し て い る 。 集 合的 無 意 識 、 普
遍 的 無 意 識 と 言う 。 人 類 が 太 古 か ら 幾 世 代に も 渡 っ て 体 験 し て き た もの が 、 誰 の 心
の 底 に も 存 在 し、 そ の 心 的 内 容 に 人 は 影 響さ れ た り 、 そ れ と 交 流 し て人 生 を 豊 か に
す る な ど し て 人格 を 作 り 上 げ て い る の で ある 。 太 古 か ら 続 い て い る 遺伝 的 体 験 が 、
イメージ、象徴の形をとって睡眠中の夢にも現れる。
夢分析の手法は、この夢を題材にし、そのイメージと体ごと対話していきながら、
新 た な 心 理 的 変容 を 遂 げ て い く の で あ る 。自 分 の 意 識 で は 気 づ い て いな か っ た 様 々
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な 心 的 イ メ ー ジを 人 格 に 統 合 し て い く 。 個性 化 の 過 程 で あ る 。 統 合 とは 、 互 い に 心
の 反 対 の 傾 向 で あ る も の 、 例 え ば 男 性 性 と 女 性 性 、 外 向 性 と 内 向 性 、大 人 の 面 と 子
供 の 面 、 日 の 当た る 明 る い 面 と お ど ろ お どろ し い 影 の 面 、 聖 と 俗 、 善と 悪 、 精 神 と
肉 体 、 意 識 と 無意 識 、 生 と 死 と い っ た も のを 自 ら の 人 格 の 要 素 と な し得 た 存 在 に な
っていくことである。より高次の統合性、全体性へと向かう。自己(セルフ)である。
個 人 性 を 超 え た集 合 的 、 普 遍 的 な も の と の接 触 し て い く こ と は 、 個 を超 え た ト ラ ン
スパーソナルな体験と言えるだろう。
し か し 、 K.ウ ィ ル バ ー は 、 集 合 的 な 遺 伝 的 要 素 に 接 し た か ら と い っ て ト ラ ン ス
パ ー ソ ナ ル で はな い 、 と い う 意 見 で あ る 。遺 伝 的 な 身 体 で あ る 足 の 指、 手 、 爪 な ど
を 持 っ て い る とい っ て も 別 に 個 を 超 え て いる 訳 で は な い の だ し 、 遺 伝的 な も の の 詰
ま っ て い る 集 合的 無 意 識 に 触 れ る こ と 全 てが 、 個 を 超 え て い る こ と とは 限 ら な い 、
と言う。そしてユングの言っているものでトランスパーソナルなものは、「自己(セ
ル フ )」、 老 賢 者 、 マ ン ダ ラ な ど の み で あ る と 見 な す (6− 1 )。 ウ ィ ル バ ー の 意 見 は
一理あると思うが、そうとも言い切れない面もあるような気がする。
集 合 的 無 意 識 や 遺 伝的 要 素 そ れ 自 体 は 、 個 人 性 を 超 え 出 た トラ ン ス パ ー ソ ナ ル な
も の で あ る 。 しか し 、 た だ そ れ を 夢 で 見 たの み で は 、 個 を 超 え た 体 験に ま で は 高 め
ら れ な い 。 ト ラン ス パ ー ソ ナ ル な 要 素 が 個人 の 人 格 に 統 合 さ れ 、 そ の要 素 と も 一 緒
に 生 き ら れ る よう に な っ て 、 つ ま り 身 に つい て は じ め て 、 個 を 超 え た体 験 と 認 め ら
れるのではないだろうか。
また、ユングが指した集合的無意識というのは、単に心の深層にとどまっている、
意識でないものという限定的なもののみを指すのではなく、こころの他の万物全体、
空 気 も 石 も 川 も動 植 物 も す べ て の 我 々 を 取り 巻 く も の 、 森 羅 万 象 の こと を 指 し て い
る の で は な い だろ う か 。 こ の 森 羅 万 象 で ある 集 合 的 無 意 識 と 相 融 通 しあ っ て い く 方
向性は、トランスパーソナルである。
ユングは、超越的実体は人間の認識では捉えることが出来ず、その実体は心的象
徴 と し て の み 捉え る こ と が 可 能 で あ る 、 とい う よ う な こ と を 言 っ て いる 。 と す れ ば
生 命 の 実 体 が 備え て い る 脱 自 己 中 心 性 を 帯び た も の が 、 人 間 に 捉 え 得る 象 徴 と し て
夢 に 出 て く る 。大 き な 知 恵 を 蓄 え た 老 賢 者や 菩 薩 、 聖 母 マ リ ア 、 釈 迦、 様 々 な 神 々
な ど 、 そ し て 宇宙 的 全 体 性 、 自 己 ( セ ル フ) を 表 す マ ン ダ ラ 、 な ど との 接 触 、 融 合
はイメージ上でだが、個を脱した体験のうちに入るだろう。
和田氏は、自我を超えた自己中心的でない全体的判断は、単細胞生物の時代から
人 類 の 今 日 に 至 る ま で の 成 功 的 選 択 体 験 の 蓄 積 さ れ た も の だ と 言 う (6− 2 )。 こ の
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遺 伝 的 に 蓄 積 され て 来 た 判 断 そ の も の は 、意 味 的 に 蓄 え ら れ て い る ので 具 体 性 は な
い 。 そ れ が 夢 では 老 賢 人 な ど の 話 す 具 体 的、 示 唆 的 メ ッ セ ー ジ と な って 出 て 来 る の
で は な い か 。 し か し 夢 で 鯨 に 出 会 っ た か ら と い っ て (鯨 は グ レ ー ト マ ザ ー を 意 味 し
て い る と き が あ る )、 そ れ の み で は 前 述 し た よ う に 、 ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル な 体 験 だ
と は な ら な い であ ろ う 。 ま た 、 元 型 に も 階層 が あ り 生 命 の 実 体 で あ る全 体 的 、 包 括
的 な も の の 象 徴か ら 、 単 な る 限 定 さ れ た 一種 類 の 体 験 の 象 徴 な ど ま で違 い が あ る の
ではないだろうか。
それに神などの対象化された象徴、形として生命の実体の性質を見るという点で
は 二 元 的 認 識 をし て お り 、 こ れ は 個 を 超 える 段 階 の 始 め の 部 類 の 体 験だ ろ う 。 ウ ィ
ル バ ー の 分 類 でい う と 心 霊 、 微 妙 段 階 あ たり で あ ろ う か 。 し か し 、 遺伝 的 な も の 、
本能的なものの性質はトランスパーソナルな生命の働きであると思う。
人間をはじめ他のいかなるものも、遺伝的なものの働きによって生きている、生
か さ れ て い る 。し か し そ の こ と に 無 意 識 で気 が つ か ず に 生 き て い る 。個 を 超 え た ト
ラ ン ス パ ー ソ ナル な 体 験 と は 、 そ の 遺 伝 的要 素 が 自 ら の 生 に 働 い て いる と い う こ と
に 意 識 的 に 気 づく こ と 、 そ し て そ の 様 々 な働 き の 意 味 を 感 じ な が ら 、人 格 に 統 合 し
て生きられる様になることを指しているのではなかろうか。
筆者はここ10年間、自己をより深く知っていくための一つの試みとして、ユン
グ 派 の 教 育 分 析を 分 析 家 で あ る 船 井 哲 夫 、浜 崎 豊 医 師 か ら 受 け て き た。 こ れ は 就 寝
中に見た自分の夢を取り掛りにして、自らの心の深層と関わっていくものである。
最近見た夢を一つ紹介ようと思う。
【 2000.1.1.
『子供達の合宿。K 先生の塾の子供達だから、自分は少しこの場に違和感を抱
いている。自分も何をしていいか少し戸惑う気持ち。
小 さ な 男 の子 が 気 づ い た 。 あ る精 神 活 動 に 。「 あ あ、 そ う か 。」 と 何 かの 極 意 を 得
た 。 物 事 を 判 断す る と き に 、 色 々 ゴ チ ャ ゴチ ャ 考 え ず に 、 パ ッ と 判 断が 出 て そ の 真
相を把握できる精神活動、物の見方を会得した。
ト イ レ 。 他 の 男 の 子の 小 便 の は ね が か か る 。 米 に も か か り 、そ れ は 猫 の メ シ 用 の
場 所 へ 二 人 で 置 き に 行 く 。 そ こ で も 、そ の 子 は 汚 れ た 戸 の ガ ラ ス を す か さ ず 拭 く 。
やはり何か行動が違う。スンナリ行動しているようだ。』
そのときの感想:この精神活動の方に気づいたのは大きなことではないか。物事
の 本 質 を パ ッ と把 え ら れ る 。 打 算 他 の あ たま の 表 面 の ゴ タ ゴ タ が 働 かな い 、 気 に し
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ない、爽やかな行動。素早く判って即行動。】
この夢は印象的である。子供というのは大脳に支配されない自由な精神活動をし
ている存在であろう。ここの K 先生は、筆者にとっては大脳の計算高さを連想さ
せる人物である。自分の大脳の利害打算の働く精神活動の判断に迷っているようだ。
そこで大脳的自己中心的なものから自由なひとりの男の子が、閃きとともに個を
超えた自我中心的でない、直覚的把握で捉える判断力の存在に気づいたのである。
この夢では、男の子も K 先生も、登場しているものは全て筆者の中の精神活動
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・
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の あ る 側 面 を 表 し て い る の で あ る 。 枠 の な い 開 け た 、い のちの 本 体 か ら 湧 き 上 が っ
て来る自己中心性を脱した判断力にとってみたら、自我、大悩の細かい損得、利害、
打 算 で 時 間 を かけ て 考 え 出 し た 判 断 力 は 小便 の は ね み た い な も の で あろ う 。 た だ 人
は生きている限り大脳の自我的判断はなくならないのであるから、生命の本源の力、
判 断 力 を 象 徴 して い る と も 受 け 取 れ る 米 にも 、 は ね は か か ろ う 。 こ の世 で 生 き る と
い う の は 、 精 製さ れ た 輝 く 真 っ 白 な 米 に 、人 間 の 自 我 を 通 過 し て 出 てき た 小 便 の は
ねがかかった、その両方を食べていることであろう(精神の二重構造性)。
しかし大脳的、自己中心的判断の存在するこの世界においても、それに任せ切っ
て し ま わ な い 生き 方 が あ る 。 そ れ に の み 支配 さ れ な い 精 神 活 動 が あ るの で あ る 。 こ
の 男の 子は 、大 脳の 利 害、得失 の計 算が 働 く自 己中 心的 な判 断 、広 い視 野で みれ ば
結 果 的 に 個 人 にも 損 失 を も も た ら す 、 曇 った 判 断 を 拭 き 取 っ て い る 。自 我 の 曇 り を
通 し て し か 見 てい な い 個 々 バ ラ バ ラ な 存 在観 。 そ の 曇 り を 拭 い て 見 える ガ ラ ス 戸 の
向 こ う の 景 色 は、 分 け 隔 て の な い 全 体 が 調和 し た 美 し い ハ ー モ ニ ー を奏 で て い る 世
界ではないだろうか。
この夢は、個を超えて非二元的認識で把える生命の実体の感得、その精神性から
出 て 来 る 自 我 を超 え た 、 個 に と ら わ れ な い判 断 力 に 気 づ き 、 そ の 判 断力 で 生 き 行 動
することを発見した夢なのだろうと思う。
大脳的判断は合理的理詰めで考える。個を超えた円満な判断は、瞬時に湧き即行
動 と な っ て 表 れる 。 和 田 氏 の 一 心 寮 で の 生活 は 、 こ の 生 命 の 判 断 力 に従 っ て 停 滞 な
く 生 き る こ と が意 図 さ れ て い た の で あ ろ う。 印 象 的 な 夢 は 、 そ の 人 の心 の か な り 深
い と こ ろ で 起 こっ て い る も の で あ る 。 こ の夢 の 内 容 、 精 神 性 は 筆 者 の人 格 に 統 合 さ
れたことを意味し、現在でも筆者に影響を与えている。
ユ ン グ は 、「 一 体 に 私 は 、 無 意 識 的 心 が 、 死 の こ と で ほ と ん ど 騒 ぎ 立 て な い こ と
が わ か っ て び っく り し た 。 ま る で 死 は 比 較的 つ ま ら な い も の で あ る かの よ う に 見 え
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る の だ ろ う 、 それ と も 、 お そ ら く わ れ わ れの 心 は 個 人 に 何 が 起 き て も気 に し な い の
だ ろ う 。」 (6− 3 )と 述 べ て い る 。 そ れ に ユ ン グ の 東 洋 的 黙 想 の 道 に つ い て 書 い た も
の を 読 む と 、 やは り ユ ン グ 自 身 、 個 を 超 える 自 覚 を あ き ら か に 感 得 した 人 物 で あ っ
た の だ と 思 う 。船 井 哲 夫 氏 か ら 聞 い た こ とだ が 、 ユ ン グ は 「 様 々 な 心的 統 合 が か な
り進んでいったとき、そのとき次に、次元を異にした
超越
が 訪 れ る 。」 と 言 っ
て い た そ う で ある 。 こ れ は 、 個 を 超 え た 非二 元 的 認 識 の 感 得 と 同 種 のこ と で は な い
かと感じる。
また、自らの教育分析の体験からも言える気がするが、自分から無意識の深層へ
探索してその内容と出会っていく試みは、危険もある。
『 ユ ン グ 心 理 学 事 典 』 (創 元 社 )に よ る と 、「 人 間 の 無 意 識 的 な
自己
に相当す
る 神 話 モ チ ー フ を 「 英 雄 」 と い う 。「 英 雄 」 は 全 体 性 や 意 味 を 得 る た め に い く ど も
変 容 を 追 い 求 め経 験 す る 能 力 、 意 志 を 表 す。 英 雄 の 全 体 性 は 、 対 立 する も の の 恐 る
べ き 緊 張 に 抵 抗す る 能 力 の み な ら ず 、 意 識的 に そ の 緊 張 を 保 持 す る 能力 も 示 す 。 こ
れ が 達 成 さ れ るの は 、 退 行 の 危 険 を 冒 し 、母 性 的 な 怪 物 に 呑 み 込 ま れる 危 険 に 意 図
的 に 身 を さ ら すこ と に よ る 。 ま た こ の 元 型に 直 面 す る と き 、 ユ ー モ アと 平 衡 感 覚 が
欠 如 し や す い 。目 的 が そ の 旅 程 よ り も 優 位に 立 つ と き 、 英 雄 イ メ ー ジが 熱 烈 に 追 い
求 め ら れ 、 過 剰な 知 性 主 義 に い た り 、 目 標を 意 識 的 に 得 よ う と す る こと も う わ べ だ
け の こ と に な る。 こ の 目 標 の 実 現 は 、 無 意識 と の 対 話 を 通 じ て 段 階 的に し か 行 わ れ
ない。」(6− 4)と書かれている。
この文章を読むと筆者の場合にもいささか思い当たる部分がある。目標を意識的
に 得 よ う と し 、空 回 り の 知 性 に 偏 り ユ ー モア や 平 衡 感 覚 に 欠 け る 傾 向。 ま た 深 い 無
意 識 に 自 分 の 方か ら 意 図 的 に 接 触 を 求 め たの だ が 、 知 ら ぬ 間 に そ の 無意 識 の 強 力 な
パ ワ ー に 逆 に 圧倒 さ れ 、 そ れ に よ っ て 動 かさ れ て し ま っ た こ と も あ った 。 無 意 識 の
内 容 で あ る 女 性性 、 母 性 性 へ の 退 行 的 接 近の 行 動 化 で は な い か と 、 後に な っ て 客 観
的 に 振 り 返 っ たと き 考 え ら れ る よ う な 事 柄も 経 験 し た 。 ま た 、 無 意 識の 持 つ 能 力 の
偉 大 さ と 自 分 の自 我 と を 同 一 化 、 同 一 視 して 「 自 分 は な ん て 凄 く 大 きな 体 験 を し て
い る の だ ろ う 。」 な ど と 幾 分
自我インフレーション
気味になっていた時期もあ
っ た と 思 う 。 自己 の 全 体 性 を 知 的 に で は なく 、 わ が 身 体 ご と 体 験 し 体得 し て わ か ろ
う と す る 取 り 組み に は 、 心 の 緊 張 へ の 抵 抗や そ の 保 持 、 挫 折 し か け ても 何 度 も 何 度
も 求め 続け るこ とな ど 、膨 大な エネ ルギ ー が必 要で ある こと は 確か だと 感じ る。こ
の 試 み の た め には 、 そ れ 相 当 な 自 我 の 強 さ、 自 我 意 識 の 明 確 さ も 必 要で あ ろ う 。 筆
者は自らの変容を求める試みのために、大分、これらの危険の可能性を自ら冒して、
山中で始めた瞑想や夢分析を長年継続しているとも言えるような気がする。
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2.森田療法
筆 者 は 1 0 代 後 半 、生 き 方 や 自 分 の 性 格 傾 向 に 関 す る こ と を数 年 間 考 え 悩 ん だ 。
神 経 質 症 状 に も悩 ん だ 。 そ し て 高 校 卒 業 後す ぐ 、 1 9 8 0 年 の 春 、 東京 新 宿 に あ っ
た高良興生院というところで森田療法を受けたことがある。
【 入 院 生 活 は 、「 自 己 修 養 も し た い 。」 と い う 気 持 ち も あ り 、 あ の 憧 れ の ? 森 田 療
法を受けているということで、力いっぱい真剣に取り組みました。
院 内 は 神 経 科 医 院 とい う こ と で す が 、 大 き な 木 々 の 生 え た 広い 敷 地 の 中 で 普 通 の
当 り 前 の 生 活 をし な が ら 、 食 事 当 番 、 薪 作り 、 庭 掃 除 、 工 作 な ど 気 のつ い た こ と に
手 を 出 す こ と を通 し て 、 素 直 な 自 己 本 来 の心 の 働 き に 目 覚 め て い く とい う も の で し
た。
暖かい家庭的な雰囲気の中、先生方とのやりとりも「どう生きるか」「人間とは、
人 生 と は 」 と いっ た 哲 学 的 探 求 の 会 話 で もあ り 、 高 校 の 時 の 予 備 校 的雰 囲 気 と 比 べ
て 、 人 間 そ の もの を 見 極 め よ う と す る 生 活に 「 あ ー 、 俺 は こ ん な 雰 囲気 を 求 め て い
たんだ。」と思ったものでした。
そ し て 入 院 生 活 も 二ヶ 月 程 た ち 割 と 明 る く せ っ せ と 行 動 し てい た と き 、 歩 き な が
ら「ふっ」と気づいたことがあります。
人 の 履 物 を 揃 え る こと な ど が 自 然 に 行 わ れ て い る 生 活 の 中 で、 今 ま で の 自 分 中 心
から「人の為に尽くす、ということが大事なことなのだった。」と思ったことです。
そ し て 、 こ の と き 判っ た の は 、 人 間 と い う の は 難 し い 本 な どを 読 ん で 成 長 、 変 化
していくのではなく、 ふっとした気づき
によって高次の精神へと発展していく
ものなのだ、ということでした。
丁 度 1 0 0 日 間 の 自 分 な り に 充 実 し た 入 院 生 活 も 終 え 、 か つ て は ご 自 身 も 神 経 症
的 な 体 験 を し たこ と の あ る 高 良 武 久 先 生 、主 治 医 の 阿 部 亨 先 生 、 聖 マリ ア ン ナ 医 大
か ら 来 て お ら れた 岩 井 寛 先 生 、 そ の 他 の 先生 方 か ら 共 感 的 理 解 を 得 、受 け 入 れ ら れ
る 母 性 的 体 験 と、 そ し て 症 状 本 位 の 気 分 に流 さ れ が ち だ っ た と こ ろ から 、 症 状 は あ
る が ま ま で 、 なす べ き こ と を な し て い く こと の 大 切 さ を 父 性 的 メ ッ セー ジ と し て 与
え ら れ て 、 こ こで 初 め て 自 分 が 人 間 ら し い人 間 と な っ た こ と を 実 感 しま し た 。 そ れ
ま で の 自 分 は 海の も の と も 山 の も の と も つか ぬ 、 半 分 は 動 物 の よ う なも の で も あ っ
たな、と思いもします。
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森 田 療 法 を 受 け た こと に よ っ て 「 症 状 と 思 っ て い た も の は 実は 人 間 本 来 皆 が 持 っ
て い る 当 り 前 な自 然 な 情 で あ る 。 し か し それ を 感 じ な い よ う に と 注 意を 向 け た が た
め に 、 却 っ て 精神 交 互 作 用 に よ っ て 捉 わ れが 強 め ら れ て 行 っ た 。 こ の強 め ら れ た 気
分 は 当 分 は 続 くけ れ ど 、 そ れ は そ れ と し て置 い て お い て 、 そ の 奥 に ある 自 分 の 本 当
に や り た い こ と、 発 展 的 に 行 き た い と い う欲 に 気 づ い て 、 そ れ に 沿 って 生 き る こ と
が 出 来 る よ う に な っ た 。」 と い う 人 生 の 態 度 に な れ ま し た 。 こ の こ と は 、 そ の 後 の
自分の人生にとって最大の収穫であったと今でも思っています。】
「 人 の 為 に 尽 く す 、 と い う こ と が 大 事 な こ と な の だ っ た 。」 と い う 気 づ き も 自 己
中心性を脱した、ある段階での個を超えた体験であったろうと思う。この気づきは、
自 分 の 人 生 の 中で 憶 え て い る 限 り 最 初 の 、高 み の 境 地 を 自 覚 し た 体 験で あ っ た の で
印象が強い。 気づき
ということを通して人間は、より高いより深い人格へと成
長 で き る の だ と解 っ た こ と が 、 そ の 後 の 自分 の 人 生 の 方 向 を 決 め た とい っ て も 過 言
ではないと考えている。
自 己中 心性 を脱 し て自 己超 越へ と 向か う変 容も 、無数 の段 階が あ る。 森田 療法 も
単 な る 症 状 治 しで は な く 、 自 己 中 心 性 か ら脱 し て 、 自 己 に と ら わ れ るこ と の な い 自
然 な 流 れ る よ うな 心 、 生 活 態 度 に 目 覚 め てい く と い う 人 格 練 成 が ね らい と さ れ て い
るのである。
症 状を 治さ ず、 そ のま まで 症状 へ のと らわ れを 開 放し てい く、と いう 考え 方は 、
個 を 超 え て 苦 悩か ら 開 放 さ れ て い く 姿 勢 と同 様 の 深 い 人 間 観 、 哲 学 であ る 。 森 田 先
生 は 心 の 働 き の様 子 に つ い て 、 よ く 禅 の 中に あ る 言 葉 を 引 き 合 い に 出し て 説 明 さ れ
ていた。森田療法も自己超越の方向上にあるものである。
森田療法は、本来備わっている、よりよく生きたいという力を「生の欲望」と呼
ん で い る 。 生 の欲 望 と は 、 か く あ る べ し 、と い っ た 是 非 善 悪 の 判 断 から で な く 、 働
か ずに はお れな い、 勉 強し ない では おれ な い、親切 にし ない で はお れな い、 向上 発
展しないではおれないところの自己本来の心である(6− 5)。
ロジャースは、クライエントの成長と生成に向かっている基本的な志向性に信頼
を よ せ て い た 。 そ し て こ れ を 「 実 現 傾 向 」 (6− 6 )と 呼 ん だ が 、「 生 の 欲 望 」 と 共 通
したものであろう。
ここでは自分のことから開放されて人の為にという境涯に転換したのであり、あ
る 段 階 を 超 え たの は 間 違 い な い 。 だ が 「 人の た め 」 と い う の は 、 ま だ自 分 と 人 と が
分 か れ て お り 自他 の 差 別 が な い 境 涯 で 悠 々と 生 き る ま で に 達 し て は いな い 。 ま だ ま
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だ先の段階があったのである。
先生は僕に「人のためになることだろうが、自分のためになることだろうが、ど
っ ち だ っ て 構 わ な い 。 と に か く 目 の 前 に あ る こ と を や っ て い け ば よ い 。」 と 仰 い ま
したが。
『 他 の た め に する の は 、 自 分 の た め に ガ ツガ ツ す る よ り 上 等 で あ る こと は 誰 で も わ
か り ま す 。 し か し そ れ で は 、自 分 の た め 、 他 人 の た め と 分 か れ て い ま す 。 自 他 の 区
別なく大らかにやれば一番よい。』
3.ホロトロピック・ブレスワーク
「 ホ ロ ト ロ ピ ッ ク 」 と は ギ リ シ ャ 語 で 「 全 体 性 の 」「 全 体 を 含 む 」 と い う 意 味 で
あ る 。 チ ェ コ スロ バ キ ア で 精 神 医 学 と 精 神分 析 の ト レ ー ニ ン グ を 受 け、 米 国 に 渡 っ
て 研 究 、 臨 床 実践 を 続 け て い る ス タ ニ ス ラフ ・ グ ロ フ と そ の 妻 で ヨ ガ教 師 の ク リ ス
ティーナによって開発された呼吸法である。
こ の セ ラ ピ ー は 深 く て 速 い 呼 吸 (過 換 気 )を 、 喚 起 的 な 音 楽 の B G M の な か で 約 2
時 間 、 シ ッ タ ーと 呼 ば れ る 世 話 役 に 見 守 られ な が ら 続 け て い き 、 深 い意 識 状 態 を 体
験 する 。こ の体 験か ら は、 自身 の幼 少期 な どの 自伝 的記 憶、母 親の 胎内 での 記憶 や
産 道 通 過 、 出 生時 な ど の 周 産 期 に ま つ わ るも の 、 そ し て 個 を 超 え た 様々 な ト ラ ン ス
パ ー ソ ナ ル 的 な も の を 味 わ う 。 そ れ に よ り 自 己 治 癒 (自 我 を 癒 す )、 自 己 実 現 (自 己
を生かす)、自己超越(個を超える)などがもたらされる。
筆者はこのブレスワークを昨年、3回受けた。その記録を以下に書いてみよう。
【 第1回 1999.1.25.東京、トータル・リコールにて
呼 吸 を 始 め る と 、 普 段 の 正 常 な 意 識 状 態 も ず っ と あ り な が ら も 、身 体 に 出 生 以 前
の 自 分 の 姿 勢 が表 れ て き ま し た 。 身 体 を 縮こ ま せ な が ら 少 し ず つ 母 の産 道 を 通 過 し
て 行 く 動 き が 。私 は 帝 王 切 開 で 生 ま れ て いて 、 そ の 産 道 体 験 は 未 だ して い な か っ た
の で す 。 不 思 議で し た 。 そ し て 母 の 胎 内 とも と れ る 寝 転 ん だ 布 団 か ら、 殆 ど 身 体 は
出 た の で す が 、足 だ け は 残 っ て い て 出 切 れな い の で す 。 母 な る も の から 出 切 っ て し
ま う に は 、 何 か心 細 い 不 安 が あ る の で す 。先 の 方 に あ る 部 屋 の 壁 を 頼り に し て 触 ろ
う と し た ら 、 そ の 横 に シ ッ タ ー (男 性 、 4 5 歳 位 の 舞 踏 家 )の 太 い 足 が あ り 掴 ま せ て
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貰いました。
そ の 時 、 シ ッ タ ー が優 し く 背 中 に 手 を 当 て て く れ 、 母 か ら の出 生 体 験 の 完 了 と 共
にシッターによって父性的な力強いものを経験することが出来たように思いました。
涙 が 込 み 上 げ てき て 「 自 分 は 母 子 家 庭 で の1 人 の 男 な の で 、 し っ か りし な く て は 」
と小さい頃から頑張って来たことが思い起こされました。
そ し て 次 に 気 づ い た こ と は 、「 自 分 は 胎 児 の と き 、 そ の ま ま だ っ た ら 死 ん で い る
運 命 に あ っ た の だ (身 体 が 大 き く て 産 道 を 通 過 し な か っ た )と 初 め て 気 づ き ま し た 。
こ れ は 色 々 な 意味 で 、 自 分 に と っ て 大 き な気 づ き で し た 。 こ れ ま で の自 分 の 人 生 が
苦悩多きものであったことの理由を、納得できた気がしました。
そ れ か ら 呼 吸 を ゆ った り と さ せ て 、 し ば し の 間 寝 転 ん で い たの で す が 、 そ の と き
生 後 間 も な い 頃か ら 幼 児 位 ま で の 子 が 、 家の 陽 の あ た る 縁 側 で 、 そ の外 は 鳥 な ど が
鳴いているなか、守られ暖かく寝かされている感じを味わいました。
少 し た っ て か ら 「 あ あ 、 自 分 は 人 と 仲 良 く し た い ん だ な あ 。」 と 、 あ る 仲 の 良 く
な い 人 物 の 顔 を思 い 浮 か べ な が ら も 、 思 いま し た 。 こ の と き も 涙 が 込み 上 げ て き ま
し た 。 普 段 は 世間 的 に 色 々 突 っ 張 っ て い る心 が 薄 れ て 、 自 分 の 内 に 潜ん で い る 本 来
の心が出てきたように思います。
友 人 達 に 「 セ ラ ピ ーを 受 け て ど う 変 わ っ た ? 」 と 尋 ね ら れ まし た が 、 そ れ は 自 分
で も 分 か り ま せん 。 言 葉 で 説 明 で き る と ころ よ り 、 無 意 識 的 な 何 か が自 分 の 知 ら な
い 心 の 根 底 的 なと こ ろ で 、 何 か し ら 影 響 を受 け 動 い て い る の で は な いか 、 と い う 感
じ も し て い ま す。 若 い 頃 か ら 様 々 な 修 養 法、 精 神 療 法 を 受 け て 来 ま した が 、 こ の ブ
レスワークは短時間で強力な成果をもたらす可能性のあるものだと思いました。
セ ラ ピ ー か ら 帰 っ て 何 日 か し た 頃 、 感 じ だ し た こ と が あ り ま す 。「 安 ら ぎ を 求 め
て 海 を 眺 め た り、 庭 を 花 い っ ぱ い に し た り、 安 ら ぎ を 与 え て く れ る 母と か の 人 物 を
大 切 に す る な どし て 来 た け れ ど 、 も し か した ら 安 ら ぎ の 一 番 の 元 は 、こ の 自 分 の 中
の 奥 の 方 に あ る も の で は な い か 。」 と い う こ と で す 。 母 な る も の に 触 れ て い る よ う
な 、 何 か ち ょ っと ほ の ぼ の と し た も の 。 思考 が 働 き 過 ぎ て 、 理 屈 張 った ガ サ ガ サ し
た 、 尖 っ た も のを 主 に し て い る と 味 わ う こと が 出 来 な い も の 。 人 の 心の 本 能 の 方 に
近い、無意識的な心の様相に接することが出来ている感じです。
この感じのありありとしたものは、あれから大分時がたった現在は薄れて来てい
る か も し れ ま せ ん 。 し か し あ の 体 験 、体 感 は 今 後 も 、 自 分 の 人 生 に 影 響 を 与 え て い
くだろうと思います。】
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こ の 回 の ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル 的 な 体 験 の 主 な も の は 最 後 に 書 い た 、 安 ら ぎ の 元 と
も い う べ き も のに 接 す る こ と が 出 来 た こ とで あ ろ う 。 自 分 の 身 体 の 奥の 方 に 繋 が っ
た よ う な 感 覚 であ っ た 。 今 ま で 何 年 も ず っと 「 安 ら ぎ 」 を 求 め て い たと も 言 え る 。
自 分 の 外 の 移 ろい 易 い 不 安 定 な も の に そ れを 求 め ず し て も 、 自 分 の 中に そ れ が あ る
と 感 じ ら れ た こ と は 、 大 変 貴 重 な 大 き な 体 験 で あ っ た と 思 う 。 最 近 、瞑 想 を し て い
る とき に、この 感覚 と 同じ よう なも のを 感 じる こと があ る。 比 較の ない 、魂 の元 型
のようなものと接触しているのかもしれない、と思っている。
「自覚の内容を知ると、人は長途の旅行からわが家に帰ったような安らぎを覚え
る の で ・ ・ ・ 」と 先 生 は 書 い て お ら れ ま すが 、 そ れ は ど ん な 感 じ が する の か 、 詳 し
く 教 え て 頂 け ない で し ょ う か 。 最 高 の 安 らぎ 、 喜 び で し ょ う か 。 僕 はこ の 安 ら ぎ が
欲しいのですが。
『 そ れ は 教 え ても 伝 え よ う が あ り ま せ ん 。自 分 自 身 が 安 ら ぎ そ の も のだ 、 と 知 る よ
り他ありません。』
【 第2回 1999.3.21.伊豆、C アンド F ワークショップにて
こ の と き も 1 回 目 と同 様 な 出 生 体 験 と 、 誕 生 し て 歩 け る よ うに な り 、 そ の 後 の 幼
児 の 時 代 へ と い う 過 程 を 体 験 し ま し た 。 こ れ ら を 通 じ て 感 じ た こ と は 、「 俺 は 大 丈
夫だ。」といったものです。
そして、その夜に見た夢から印象的な洞察を得ました。
(夢)
『横断歩道を歩いている。横には A(旧友男)がいる。交差点を歩いていると人々の
いる向こう側から、誰か(中年男)が僕を殺しに来る。鋭利な刃物で向かって来る。
そしてその男と交差するのを辛うじて避けた。僕は少ししてから怒って、その男を
追って行って殴る。』
そのときのこの夢について思いついた連想は、自身の出生時のときのことです。
母 の 子 宮 の 中 にい た の に 、 帝 王 切 開 に よ りメ ス で 母 の 腹 を 切 ら れ た こと 。 夢 の 中 の
刃 物を 持っ た男 は、当 時手 術に あた った 産 婦人 科医 では ない だ ろう か。 鋭利 な刃 物
で 平 和 な 子 宮 の中 を 襲 っ て く る の だ か ら 、こ れ 以 上 の 脅 威 は な い で はな い か 。 こ の
こ と と 、 自 分 のそ の 後 の 性 格 傾 向 の 敏 感 で、 外 界 を 普 通 よ り 脅 威 に 感じ る 面 も あ る
の で は な い か と思 っ て い る こ と と は 、 結 びつ い て い る の か も し れ な い。 ま た 平 和 な
中 を 突 然 襲 わ れて 外 に 出 生 さ せ ら れ た 、 とい う 怒 り が 僕 の そ の 後 の 攻撃 的 な も の に
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関係しているのではないか、ということです。
こ の 連 想 が 適 当 な もの か ど う か は わ か り ま せ ん が 、 分 析 家 の船 井 先 生 に 報 告 し た
と こ ろ 、「 無 理 に 出 生 さ せ ら れ た こ と の 怒 り 」 と い う 部 分 は 興 味 深 い も の だ 、 と の
ことでした。とにかく印象深い連想でした。
こ の ワ ー ク か ら 帰 って き た 頃 に 感 じ て い た こ と は 、 自 分 が 人と 接 し て も の を 言 う
と き 、 ど ん な 心で 言 っ て い る か と い う こ とに 関 し て で す 。 こ れ ま で は心 の 表 面 の 方
で 人 と 対 決 し て優 位 に な る よ う な と こ ろ から 、 も の を 言 っ て い る 感 じが な か な か と
れ な か っ た の で す が 、 ワ ー ク の 影 響 が 残 っ て い る の か 、 心 の 深 い と こ ろ (融 和 的 な
感じの心)でものを言うのがいいことだといった感じになっていました。】
2 回 目 で は 、終 わ り に 書 い た 部 分 が 肝 要で あ ろ う 。 自 我 の 働 き であ る 比 較 相 対
を し た い 意 識 の奥 に 、 対 立 的 で な い 騒 が ない 落 ち 着 い た 心 が あ り 、 その 方 の 意 識 を
人 と の 応 対 で 表し て い く こ と の 大 切 さ に 気づ い た 。 知 的 に は 以 前 か らそ の 大 切 さ は
思 っ て い た が 、意 識 そ の も の が そ う な れ なか っ た の で あ る 。 自 我 の 表面 の 競 争 対 立
的 な 判 断 と は 性質 が 異 な っ た 、 も っ と 融 和的 な 気 持 ち が あ る 。 こ れ はや は り 自 己 中
心性の感覚を強く帯びたものではない、深い静かなところの心であろう。
【 第3回 1999.7.1.神戸、トランスパーソナル・SARA にて
こ の と き は 、 大 学 院 で の 人 間 関 係 に ま つ わ る 、 抑 圧 し て い た 悲 し い 淋 し い 孤 独 な
心持ちを感じて泣けてきました。
ま た 観 音 様 か 何 か の顔 を 連 想 さ せ る よ う な 、 ゆ っ た り と し た涼 や か な 感 覚 な ど を
味わいました。
こ の 回 で は シ ッ タ ーと し て の 体 験 も 貴 重 な も の で し た 。 3 0歳 前 後 の 男 性 の 呼 吸
に 付 き 合 っ た ので す が 、 こ の 男 性 は 情 動 を身 体 の 動 き に 表 す タ イ プ のよ う で 、 呼 吸
が 始 ま る と 物 凄い 激 し い 動 き を し だ し ま した 。 大 の 男 が 無 意 識 的 エ ネル ギ ー で も っ
て 暴 れ る 訳 で すか ら 、 私 も 始 め は ビ ッ ク リし ま し た 。 そ し て 布 団 を 持っ て 、 こ の 男
性 の 身 体 が 壁 にぶ つ か ら な い よ う ガ ー ド して や る の で す 。 こ こ で 学 んだ こ と は 、 大
の 男 が 思 い 切 り身 体 化 す る の を 見 た の だ から 、 今 後 も し 子 供 の 遊 戯 療法 な ど に 関 わ
る こ と が あ る とし て 、 そ こ で 攻 撃 性 の 表 出に 遭 っ た と し て も 大 概 の こと で は 怖 気 づ
かないでいられるかもしれない、と思ったことでした。】
3回の筆者自身のブレスワーク体験を通して思うことは、出生時や子宮内体験に
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ま つ わ る こ と 、幼 少 期 の も の 、 個 を 超 え た安 ら ぎ の 感 覚 、 現 在 の 生 活で の 感 情 等 、
精 神 の 帯 域 の あら ゆ る 面 が 、 こ の ワ ー ク で表 れ て い る こ と に 気 づ く 。学 派 で 言 っ て
も 日 常 で の 自 分の 本 心 に 気 づ く と こ ろ は ロジ ャ ー ス 派 的 で も あ り 、 怒り の 元 の 洞 察
は フ ロ イ ト 派 的で も あ る よ う な 体 験 か も しれ な い 。 ま た 人 に よ っ て は、 過 去 生 の 記
憶 の よ う な も のが 浮 上 し て 来 る こ と も あ るら し い が 、 こ れ は 、 そ の 人の 深 層 の 集 合
的 無 意 識 の 消 息と 出 会 っ て い る の か も し れず 、 そ の 点 で は ユ ン グ 派 的で あ る 。 そ し
て 深 い 安 ら ぎ 体験 、 個 を 超 え た 自 然 や 宇 宙と の 一 体 感 な ど は ト ラ ン スパ ー ソ ナ ル 的
な体験である。
ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル学 派 が 言 っ て い る の は 、 個 を 超 え た 東 洋的 宗 教 感 覚 と 西 洋 の
自 我 心 理学 の 両 者 を 扱 う とい う こ と で あ る。 こ れ は 「 自 己治 癒 」「 自 己 実 現」「 自 己
超越」という、あらゆる心の側面を視野に入れるということである。
K.ウ ィ ル バ ー は そ の 意 識 の ス ペ ク ト ル 論 で 、 人 間 の 意 識 状 態 を 幅 広 く 網 羅 し 、
自 我 が 仮 面 と 影に 分 裂 し て い る 「 仮 面 の レベ ル 」 か ら 仮 面 と 影 が 統 合さ れ た 「 自 我
の レ ベ ル 」 、自 我 と 身 体 の 統 合 し た 「 実 存 (ケ ン タ ウ ロ ス )の レ ベ ル 」、 そ し て 心 身 と
その環境との統合した「超個のレベル」があり、その意識の低次から高次にわたる、
それぞれのレベルに適した心理療法、セラピー、修行法が存在していると言う。
例えば、分娩病理にはブレスワークのような強い退行的セラピーが、精神病には
生 理 的 沈 静 化 が、 自 己 愛 的 境 界 例 に は 構 造構 築 技 法 が 、 ま た 精 神 神 経症 に は 精 神 分
析 的 な 暴 露 的 技法 な ど 、 そ し て 脚 本 病 理 には 脚 本 分 析 が 、 ア イ デ ン ティ テ ィ ー 神 経
症 に は 内 省 内 観法 が 、 実 存 的 病 理 に は 実 存セ ラ ピ ー 、 そ の 上 の 超 個 の帯 域 に は そ れ
ぞ れ の 神 秘 主 義的 修 行 法 が と い う よ う に であ る 。 従 っ て 個 々 の 様 々 な学 派 の セ ラ ピ
ー は 、 意 識 の 全帯 域 を 見 据 え た と き に は 対立 す る も の で は な く 、 相 補的 な も の だ と
いう考えなのである(6− 7)。
だ か ら ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル 心 理 学 の 代 表 的 セ ラ ピ ー の ひ と つ で あ る ホ ロ ト ロ
ピ ッ ク ・ ブ レ スワ ー ク も 、 自 己 超 越 の み でな く 自 我 そ の も の の 癒 し も大 切 に す る 。
意 識 の 帯 域 す べて を 、 そ し て ど の レ ベ ル にい る 人 も 包 み 込 む 。 決 し て排 除 し な い 。
自身もこのセラピーを受け、そこに集う人々に接して頷けるところである。
こ の 呼 吸 の 修 行 法 は、 意 識 の 全 て の 帯 域 を 扱 っ て い る た め 、個 を 超 え る 体 験 の レ
ベ ル の 中 で も 高低 色 々 な 段 階 の も の を 体 験し 得 る 。 そ れ か ら 、 こ の 3回 の 経 験 を 通
して、個を超える体験は何かのワークをしさえすれば得られるというものではなく、
そ れ に 取 り 組 む個 人 が 普 段 内 面 の 作 業 に どう 関 わ っ て き た か 、 ど の よう な 問 題 意 識
を持っているかが関係、影響するように思えたことは大きな収穫であった。
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4.その他
こ の 論 文 の 前 の 方 でも 少 し 触 れ た エ ン カ ウ ン タ ー グ ル ー プ 、ジ ェ ン ド リ ン の フ ォ
ー カ シ ン グ 、 そし て 内 観 な ど 筆 者 が 直 接 体験 し た こ と の あ る 他 の 心 理療 法 、 セ ラ ピ
ー に も 段 階 の 高低 は あ る け れ ど 、 自 己 中 心性 か ら 脱 す る も の 、 個 を 超え た 性 質 を 包
ん で い る も の は多 い 。 筆 者 は 昨 年 ブ レ ス ワー ク の 他 に も 、 感 覚 遮 断 の体 験 と し て の
ア イ ソ レー シ ョ ン タ ン ク 、再 誕 生 の 体 験 をす る リ バ ー シ ング 、周 産 期 の 心 的経 験 を 味
わうペリネイタル・マッサージなども定期的に受ける試みをしてきた。
様々にあるセラピーとは自我の歪みを平らにし、偏ったこころの状態を円満な方
向 へ 向 か わ せ るも の と も 言 え る で あ ろ う 。そ こ に は 必 然 的 に 脱 自 己 中心 的 な 性 質 が
含 ま れ る で あ ろう し 、 直 接 そ れ を 意 図 し てい な い よ う に 見 え る 、 確 固と し た 個 人 の
自 我 を 構 築 す る療 法 な ど も 個 を 超 え る た めに は 先 ず 個 が あ る こ と が 前提 な の で 、 結
果 的 に は 脱 自 己中 心 性 へ 向 け て 補 足 的 に 働く と も 考 え ら れ る 。 そ し て脱 自 己 中 心 性
の延長上に個を超えていく精神性が存在する。
ドラッグや、セラピーではないが臨死体験はどうであろうか。ドラッグでも様々
な 心 理 体 験 を 誘発 す る 。 自 我 の し っ か り した 人 物 が 、 き っ ち り と し た真 面 目 な 意 図
の あ る 場 の 設 定の 中 で 取 り 組 め ば ド ラ ッ グも セ ラ ピ ー に な る と 思 う 。そ れ を 使 う 方
の心掛け次第であろう。
た だ、深層 の様 々 な心 理の 浮上 に 有効 とい うこ と は、 反面 、そ の 強力 性の 故に 危
険 を 伴 う 可 能 性も あ る 。 ド ラ ッ グ 、 ブ レ スワ ー ク 等 は 強 力 な の で 一 度に 多 く の も の
に 取り 組む と、 現実 の 生活 にお いて 無意 識 的力 に影 響さ れ過 ぎ て、現実 見当 識が 薄
ら い で し ま い かね な い 。 個 を 超 え る と は 自我 を 無 く す こ と で は な い こと は 、 前 で 述
べた。意識の深層に一挙に接しても、また自我意識にも戻って来なければならない。
ド ラ ッ グ で 体 験 す る 精 神 的 内 容 と 、 個 を 超 え る 段 階 の 究 極 で あ る 非 二 元 的 認 識 の
感 得 と は 、 同 一の も の で あ ろ う か 。 筆 者 は今 の と こ ろ 否 の も の が 多 いと い う 感 じ が
し て い る が 。 ただ 非 二 元 的 認 識 よ り 少 し 低い 段 階 の 個 を 超 え る 体 験 は、 で き る と 思
っ て い る 。 そ れに 、 禅 で い う 悟 り と ド ラ ッグ で 体 験 す る 内 容 の 高 次 の部 分 が 同 一 の
も の で あ る か どう か は 、 長 年 取 り 組 ん で きた 研 究 者 達 に も 未 だ 解 明 され て い な い 、
ということである。
し か し 河 合 隼 雄 氏 の 「 グ ロ フ の 述 べ て い る こ と で 非 常 に 興 味 深 い こ と は 、 LSD
体 験 で 神 や 悪 魔な ど 色 々 な 宗 教 的 、 神 話 的イ メ ー ジ を 見 た 人 た ち が 、そ れ ら は 至 高
の 存 在 で は な いと い う 感 じ が あ り 、 至 高 の存 在 に 会 っ た と 感 じ た 人 は、 そ れ を 言 語
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化することが極めて難しく、強いて言えば
至高の無
(supreme nothingness)と
しか言いようがない、などと表現する事実である。」(6− 8)といった文章を見ると、
や は り ド ラ ッ グで イ メ ー ジ を 超 え た 、 非 二元 的 認 識 が で き る の で は ない か 、 と い う
気 も す る 。 実 際ド ラ ッ グ を 体 験 し た 人 の 言に よ る と ブ レ ス ワ ー ク な どよ り 断 然 、 直
に 究 極 の 認 識 が で き る と の こ と で あ っ た (こ の 究 極 の 認 識 と い う の が ど の よ う な も
のかは、筆者もそのとき十分には聞かなかったのだが)。
勿論誰もがそうなるとは限らないだろう。それに自身がそれによって、個を超え
た自覚を求めていくかどうかは、また別の問題である。
臨 死 体 験 の 方 は 、 国内 で は 立 花 隆 氏 の 研 究 が 知 ら れ て い る 。立 花 著 『 臨 死 体 験 ・
下 』 (文 藝 春 秋 )に よ る と 、 ア メ リ カ 、 シ ア ト ル の 小 児 科 医 メ ル ヴ ィ ン ・ モ ー ス は 脳
神 経 学 者 の ワ イル ダ ー ・ ペ ン フ ィ ー ル ド の実 験 資 料 も 参 考 に し て 、 臨死 体 験 は 側 頭
葉 に あ る シ ル ヴィ ウ ス 溝 の 刺 激 で 起 こ す こと が で き る と 言 う 。 ま た カナ ダ 、 ロ ー レ
ン シ ア ン 大 学 の神 経 学 部 長 、 マ イ ケ ル ・ バー シ ン ガ ー は 側 頭 葉 は 神 さま 体 験 、 神 さ
ま 信 仰 の 中 枢 であ る と 主 張 す る 。 神 的 存 在と の 合 一 あ る い は 直 接 の コミ ュ ニ ケ ー シ
ョ ン は 、 側 頭 葉神 経 細 胞 の 非 定 常 放 電 と いう 一 種 の 側 頭 葉 て ん か ん によ っ て も た ら
さ れ る と い う 。そ し て チ リ 大 学 神 経 科 の サヴ ァ デ ラ ・ ア ギ ラ ル ら も 臨死 体 験 は 側 頭
葉 て ん か ん で ある が 、 シ ル ヴ ィ ウ ス 溝 の みで な く 側 頭 葉 の 広 範 な 部 分と 大 脳 辺 縁 系
の部分が関わっていると言う(6− 9)。
しかし立花氏の本に出てくる臨死体験や神さま体験は、殆どのものが人の五官を
も と に し た 脳 の二 元 的 な 映 像 、 イ メ ー ジ では な い だ ろ う か 。 こ れ は 、個 を 超 え 脳 を
超 え た 、 究 極 の非 二 元 的 認 識 や 禅 な ど で 言う 悟 り と は 、 ま っ た く 次 元が 異 な る も の
だというのが筆者の意見である。
『 「 自 分が 此 処 に い る 」 と 思っ て い る 程 度 の 確 かさ で 、 神 さ ま も 居 らっ し ゃ る で
しょう。しかし、自分がここにいる、とはどの程度の確かさでしょう。 』
個 を 超 え て 元 因 段 階の 精 神 性 に 至 る と 、 も の ご と を 対 象 化 して 見 、 感 じ て い た 認
識 か ら 、生 命 の 元 と も 言 う べ き 実 体 が 感 得 さ れ る 。 こ の 感 得 に よ り 、 個 と し て の 自
分 や あ ら ゆ る 目に 映 っ て い る 現 象 は 、 い わば 人 間 の 五 官 の 働 き に よ る幻 影 で あ っ た
ことが解かる。
だ が 、 こ れ は 想 像 だ が 人 は 死 の 間 際 に な っ た と き 、自 身 の 肉 体 を 手 放 さ な け れ ば
ならないのと同時に、大脳、五官、自我の感覚も薄れ、手放すのかもしれない。自我、
五 官 で 縛 っ て いた 窮 屈 な 極 微 視 野 か ら 開 放さ れ た 非 二 元 の 世 界 を 、 瞬間 味 わ っ て 亡
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く な っ て い く のか も し れ な い 。 つ ま り 死 に行 く 人 は 皆 、 お 悟 り を 開 いて 文 字 通 り 仏
となるのではないか、という気もしている。
7.人類の今後
ここまで個を超える精神性についての側面を、筆者の個人的体験を足場としなが
ら考察を進めてきたのであるが、それを通じて何が見えて来たであろうか。
仮説の段階の話題になるが少し考えてみたい。
1.進化の方向
和田重正氏は、人類の進化の次の段階は意識の進化であり、それは個を超えた精
神 性 を 自 覚 し た意 識 体 の 出 現 で は な い か と推 測 し て い る 。 和 田 氏 は 『も う 一 つ の 人
間 観 』 の 中 で 、ダ ー ウ ィ ン の 進 化 論 に 疑 問を 抱 い た ア メ リ カ の 生 物 学者 ク ル ー チ を
引き合いにしながら自説を展開している。
和田氏は、クルーチの無脊椎動物は生存価値を、脊椎動物の目標は意識と知能そ
の も の で あ る 精神 的 価 値 を 目 指 す 、 と い う説 を 足 場 に し て 、 宇 宙 に は変 化 の 方 向 が
あ り 、 生 命 の 力が 生 物 の 進 化 と い う 現 象 を展 開 し 人 間 の 段 階 に 至 っ たの は 、 自 覚 あ
る生物の個体を地上に実現しようという意図の結果ではないか、と推測する。
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そ の 理 由 と し て ひ とつ に は 、 人 間 は 精 神 活 動 の 進 化 の 最 先 端に あ り 、 自 我 意 識 の
発 達 に よ り 「 自」 と 「 非 自 」 の 識 別 が 明 確に な る と 同 時 に 「 自 」 の 検討 に 進 む の が
自 然 の 成 り 行 きだ と 考 え ら れ る 点 を あ げ る。 も う ひ と つ の 理 由 は 、 実際 の 人 々 の 体
験 か ら の 推 測 であ る 。 自 我 意 識 が 洗 練 さ れ、 苦 悩 を 通 し て 「 自 分 と は何 か 」 と い う
疑 問 を 起 こ し た個 体 が 、 そ の 根 本 的 解 決 のた め 禅 や 瞑 想 な ど の 求 道 に取 り 組 ん で い
る とき の安 心な 姿。 そ して 個を 超え て、自 我と 生命 の力 の関 係 を自 覚し 自我 への 執
着 を 離 れ る と 、そ の 個 体 は 無 限 の 満 足 と 安定 を 得 る と い う 事 実 。 こ のこ と は 、 人 類
と い う 種 を 造 り出 し た 生 命 の 力 が 、 個 体 に期 待 し て い る 役 割 を 推 測 させ 得 る 根 拠 と
なる、と述べている(7− 1)。
個 を 超 え て こ の 宇 宙の 実 質 の 相 を 感 得 す る こ と は 、 意 識 が 発達 し た 人 間 に だ け 可
能 で あ る 。 他 の生 物 無 生 物 は 、 生 命 そ の もの の 働 き に 従 っ て 生 き 、 人間 の よ う に 自
己 中 心 性 を 過 度に 発 揮 し て 失 敗 は し な い のだ が 、 意 識 性 が 低 い た め にこ の 宇 宙 の 実
質 を 自 ら 意 識 で捉 え た 自 覚 は 持 ち 合 わ せ ない 。 個 を 超 え た 精 神 性 の 獲得 は 、 過 去 の
何 か の 段 階 に 後戻 り す る の で な く 、 地 球 上に 生 物 が 出 現 し て 以 来 我 々に 確 認 で き る
と こ ろ で の 初 めて の も の で あ る 。 ま さ し く進 化 な の で あ る と 思 う 。 和田 氏 は 、 人 類
の ホ モ ・ サ ピ エン ス に 対 し 、 自 分 と は 何 か、 宇 宙 と は 何 か と い う こ とを 知 っ た 、 つ
ま りそ の本 質、実体 を 認識 し得 た個 を超 え た自 覚体 のこ とを
ンス
ネオ・ホモ・サピエ
と名づけている(7− 2)。
次 の 進 化 の 段 階 が ネオ ・ ホ モ ・ サ ピ エ ン ス で あ る と し て も 、人 類 す べ て が 進 化 を
遂 げ る 訳 で は ない で あ ろ う 。 人 類 の 一 部 が進 化 の 次 の 段 階 に 進 む の では な い だ ろ う
か。
・
・
・
自 他 不 可 分 一 体 な も の が 、 五 官 で と ら え る と バ ラ バ ラ に な る の で し た ら 、いのち
の 世 界 を 大 脳 がそ の ま ま と ら え る
自覚
の 場 合 は 、 大 脳 が と ら え ても バ ラ バ ラ に
ならないということでしょうか。
『そうです。全くその通り。』
世 の 中 の 人 が す べ て自 覚 者 に な る 前 に 、 せ め て 六 道 の う ち の「 人 」 の 位 置 に す べ
て の 人 々 が な れば も っ と す ご く 住 み や す い世 の 中 に な る と 思 い ま す が。 や は り 先 ず
自 分 が 「 人 」 にな る こ と が 第 一 で し ょ う か。 す べ て の 人 々 が 「 人 」 にな る た め の 方
法は、考え出せないものでしょうか。
『 進 化 の 過 程 を考 え て み る と 、 サ ル の 中 から ヒ ト が で き た の で 、 サ ル全 体 が ヒ ト に
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なったのではありません。』
こ の 先 、 人 類 が ネ オ -ホ モ サ ピ エ ン ス に な っ た と き に は 、 ネ オ -ホ モ サ ピ エ ン ス の
産んだ子も、ちゃんと遺伝してネオ-ホモサピエンスが生まれてくるでしょうか。
『 進 化 の 一 段 階だ と し た ら 、 そ う な る で しょ う 。 そ れ と も 、 自 覚 を 得や す い 遺 伝 質
を 得 、 生 後 の 教 育 で ネ オ -ホ モ サ ピ エ ン ス に す す む の か 、 ど ち ら の 可 能 性 が 多 い の
でしょう。』
また K.ウィルバーは、人類の進化について、古層段階から呪術段階、神話段階、
次 に 合 理 段 階 、 そ し て 超 合 理 (ト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル )段 階 へ と い う 、意 識 、精 神 の 発 達
の 方 向 を 提 示 して い る 。 人 類 の 過 去 か ら の意 識 の 発 達 が こ れ ら の 各 段階 に お い て 家
族 中 心 的 か ら 部族 へ と 広 が り 、 部 族 中 心 から 国 家 へ 、 国 家 中 心 的 か ら世 界 中 心 的 精
神 へ と い う 範 囲の 狭 い 自 己 中 心 的 世 界 観 から 段 々 と 脱 皮 し て 、 理 性 的な 世 界 中 心 的
世 界 観 に 至 っ てき て い る こ と を 指 摘 し て いる 。 過 去 の 人 類 史 上 稀 に 現れ た 、 個 の 自
我 中 心 性 を 脱 却し 得 た 覚 者 達 の 存 在 も 参 考と し 、 個 人 の 発 達 と 系 統 発生 の パ タ ー ン
の 共 通 性 に 鑑 み、 全 体 と し て の 人 類 も 個 人と ほ ぼ 同 じ 段 階 を 経 て 進 化す る と い う ヴ
ィ ジ ョ ン を 展 開 し て い る (7 − 3 )。 そ し て こ の 流 れ の 方 向 の 次 の 段 階 は 、 理 性 、
合 理 性 を 含 ん で 超 え た 、 自 他 の 一 体 性 を 実 感 し 得 る 超 意 識 的 世 界 観 へ の 成 長 、発 達
で は な い か と 主 張 す る (7 − 4 )。 春 秋 社 の 岡 野 守 也 氏 は 「 ウ ィ ル バ ー は 、 東 洋 宗
教 (東 西 の 神 秘 主 義 )と 西 洋 の 心 理 学 を 統 合 し 、 意 識 の 構 造 論 、 個 人 の 意 識 の 発 達 論
− 人 類 の 意 識 の発 達 論 と い う 面 で 、 大 き なス ケ ー ル の 仮 説 を 提 出 し た。 人 類 は す べ
て 、 セ ラ ピ ー や 修 行 と い っ た 成 長 促 進 の 適 切 な 手 続 き さ え と れ ば 、 自 我 (社 会 適 応
は し て い る が 、 結 局 は 個 人 や 集 団 の エ ゴ イ ズ ム に し ば ら れ て い る 段 階 )を 超 え て 、
究 極 の 悟 り へ 発 達 す る 潜 在 力 を 秘 め て い る と い う 仮 説 で あ る 。」 と 書 い て い る (7 −
5)。
一 方 、 カ ール ・ ロ ジ ャ ー ス は 、「 有 機 体 生 命 の 実 現傾 向 」 と 並 ん で 、「宇 宙 全 体 の
形 成 的 傾 向 」 と い う 考 え を あ げ て い る 。 こ の 考 え は ノ ー ベ ル 賞 生 物 学 者 A.S.ジ ョ
ー ジ の 「 シ ン トロ ピ ー 」 の 概 念 と 、 思 想 史家 ワ イ ト の 「 形 成 傾 向 」 の概 念 に 影 響 を
受 け た と 言 っ てい る 。 ロ ジ ャ ー ス は 、 こ の宇 宙 に は あ る 形 成 的 な 傾 向が 存 在 し て お
り 、 人 類 に お いて こ の 傾 向 は 単 細 胞 か ら 複雑 な 生 命 機 能 へ 、 有 機 体 と外 的 世 界 に つ
い て の 意 識 的 な覚 醒 へ 、 そ し て 人 間 を 含 む宇 宙 の 体 系 は 調 和 的 で 統 一さ れ て い る こ
と へ の 超 越 的 な覚 醒 へ と 向 か っ て い く 個 人の 変 化 の う ち に 示 さ れ て いる と 述 べ て い
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る 。 そ し て 人 類が 向 か う べ き 方 向 性 が あ ると す れ ば 、 自 ら を 超 越 し てよ り ス ピ リ チ
ュ ア ル な 覚 醒 へと い う 新 し い 進 化 で あ り 、そ の 覚 醒 を 高 め る ほ ど 宇 宙の 進 化 の 方 向
と調和して生きていくことができる、と言う(7− 6)。
ロジャースは宇宙の体系は調和的だと言っている。和田氏は、宇宙はバランス感
覚 で 充 満 し 成 り立 っ て い る と 言 う 。 こ の こと は 人 間 に つ い て 見 れ ば 、ど う い う こ と
に な る だ ろ う か 。 人 間 の 精 神 は 他 の 生 物 と 違 い 、格 段 に 大 脳 が 発 達 し て い る 。 自 我
の 意 識 が 明 瞭 で 、自 と 他 を 分 け て 自 分 の み を 中 心 と し た 判 断 が で き る 。 果 て し な く
広 が っ た 宇 宙 の中 で 、 そ の 関 連 を 視 野 に 入れ な い 、 局 部 で あ る 孤 立 分断 さ れ た 自 分
に こ だ わ る こ とが 出 来 る の で あ る 。 こ の 視野 の 狭 い こ だ わ り は 、 大 きな 宇 宙 の 流 れ
の なか の淀 み、停滞 を 意味 する 。調 和的 で ない ので ある 。こ の バラ ンス を欠 いた 判
断 、 そ れ を も とに し た 行 動 は 、 結 果 的 に 自ら を 幸 で な い 不 調 和 な 状 態に 置 く こ と に
なる。
今世界で起こっている、人類を滅亡させる可能性のある様々な問題の根本原因に
は 、 人 間 が 視 野の 狭 い 判 断 に と ら わ れ て しま う 性 向 が あ る と 思 う 。 ひと つ 一 つ の 問
題 を 是 正 し て ゆく こ と も 大 事 だ が 、 ひ と つ解 決 し 、 ま た ど こ か で 新 たな 問 題 が 起 こ
る と い う こ と を永 遠 に 繰 り 返 し て い る う ちに 、 人 類 は 滅 亡 し て し ま うか 、 ま っ た く
の 無 秩 序 状 態 に陥 る か も し れ な い 。 も う 現代 の 行 き 詰 ま り 現 象 は そ れを し て い て も
間 に 合 わ な い とこ ろ に 来 て い る と 感 じ る 。個 を 超 え た 精 神 性 を 獲 得 しな け れ ば 、 人
類 は存 続で きな いか 、非常 に居 心地 の悪 い 社会 に生 きざ るを 得 ない こと にな って 行
く と 感 じ る 。 しか し 、 こ の 行 き 詰 ま っ た 人類 の 状 況 は 、 人 類 が 変 容 せざ る を 得 な い
ための、宇宙の進化の仕掛けであるのかもしれないが。
『 人 間 以 外 の 生物 は 、 皆 そ れ ぞ れ に そ の 役割 を 演 じ て い ま す 。 人 間 だけ は 、 そ の 役
割 を 捨 て て 勝 手を す る こ と が で き ま す 。 その 勝 手 の 分 だ け 自 分 に も 他人 に も 迷 惑 を
か け ま す 。 そ の勝 手 な 自 己 中 心 的 な 行 動 の震 源 地 は 大 脳 で す 。 こ の 大脳 に は そ れ な
り の存 在目 的が ある の です が、その こと は 別と して 、こ の大 脳 の働 きが ワザ ワイ し
て い ま す 。 そ の ワ ザ ワ イ を 避 け て 生 き ら れ る だ ろ う か 、 と い う の が 人 間 (自 分 )に と
っての最大の問題です。』
ネ オ ・ ホ モ ・ サ ピ エン ス の 時 代 が 来 て も 、 そ の 新 人 類 の 大 脳は な く な ら な い と の
こ と で す が 、 しか し 自 覚 を 得 る た め に 、 苦し む 仕 掛 け と し て 備 わ っ てい る と も 考 え
ら れ る 大 脳 は 、自 覚 を す で に 得 て し ま っ た新 人 類 に は 必 要 な い と い うこ と は な い の
で し ょ う か 。 新人 類 の と っ て 大 脳 は 、 何 か積 極 的 役 割 を も つ も の で しょ う か 。 大 脳
- 94 -
の存在価値はあるのでしょうか。
『大脳にはその時、その場での重要な役割があります。』
人間の大脳、合理性によって作られた文明を否定するのではない。個を超えた精
神 性 は 、 合 理 性 も 含 ん で よ り 視 野 の 広 が っ た 精 神 性 を 獲 得 す る の で 、文 明 に 使 わ れ
る の で な く 、 文明 を 使 い こ な せ る よ う に なる 。 こ れ は 、 個 人 が 欲 望 に振 り 回 さ れ る
の で な く 、 か とい っ て 無 欲 に な る の で も なく 、 自 分 の 欲 望 を 自 分 に 奉仕 さ せ る よ う
になるのと同様である。禁欲者になる必要はない。
よ い生 活と いう も のが 、禁 欲的 な 辛さ を伴 うも の であ るな ら、一 生そ のよ うな 生
活をすることはまっぴらです。自由な中で人生を送りたいと思います。
『私はこの数十年間禁欲ではなく、殆ど自由に生きています。』
こ の 物 質 が 豊 富 な 時代 で も 、 目 が 見 え 耳 が 聞 こ え る よ う な チャ ン と し た 人 間 で い
るには、どうしてゆけばよいのでしょうか。
『外部の状況に全く影響されない自己の確立ができればよい。』
宇宙に進化の方向があるのかどうか、筆者にはわからない。多分そうであろうと
は 思 う が 。 こ れは 何 か に よ っ て 証 明 で き るこ と で は な い 。 色 々 な 兆 候に よ っ て 推 測
で き る の み で ある 。 た だ 、 今 の 人 類 の 精 神性 で は 行 き 詰 ま っ て し ま う。 個 を 超 え て
自 己 中 心 性 を 越え て い く こ と が 、 生 存 価 値に お い て 、 ま た 精 神 的 価 値に お い て も 、
人類の存続のために必要な局面に立たされていることに間違いはなかろう。
自分、個人にとって本来的に一番トクになる生き方をすべきであろう。自分を大
事 にす れば よい ので あ る。 この こと は、進 化の 流れ に沿 った こ とで ある 。個 を超 え
る 、 自 己 中 心 性の 脱 却 は 、 自 分 を 滅 し て 逆に 人 の 立 場 を 重 視 す る の では な い 。 し か
し 、 あ る 程 度 個を 超 え る 精 神 性 を 獲 得 し ない と 、 本 来 の 自 分 の ト ク がス ト レ ー ト に
感じられないものでもある。
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自分が いのちの流れに沿った行動をしているということが、何よりのトクという
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ことでしょうか。
『 そ の 通 り 。 但し そ の ト ク は 絶 対 的 価 値 の世 界 に 於 い て の 話 だ か ら 、本 当 は ソ ン も
トクも無いのですが。』
そして、すべての人がそうではないが、自らの内外で行き詰まりの危機を感じ、
自 我 合 理 性 を 確立 し て い る 人 々 の あ い だ で、 目 立 た な い と こ ろ で 、 個を 超 え る 精 神
性 へ 向 か っ て の動 き が 加 速 さ れ て い る よ うに 思 う 。 し か し こ の 潮 流 は、 今 後 千 年 単
位の歳月をかけて変化していくものだとウィルバーは語っている(7− 7)。
「 五 官 で 捉 え た 世 界 は 存 在 の 真 実 で は な い 。」 と の こ と で す が 、 そ の 真 実 で は な
い、目に見えているこの宇宙というものはアテになるものなのでしょうか。
『アテにはなりません。それを捉えている五官がアテにならないものだからです。』
先生は、この目に見える宇宙というものが本当に存在するとお思いでしょうか。
『このスガタは見えているに過ぎないが、宇宙という何ものかは存在するでしょ
う。』
宇宙の方向は、自覚ある生物体を生み出すことだとのことですが、自覚ある生物
体 の 出 現 は 一 体ど う い う 意 味 、 意 義 を も って い る の で し ょ う か 。 な ぜ、 ど の よ う な
理由で、宇宙は自覚ある生物体を出現させようとしているのでしょうか。
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『 宇 宙 自 体 は そう なって いると い う だ け で 、 宇 宙 が そ ん な こ と を 意 識 し て い る の で
はありません。』
『人間個人の立場からみた意味などはありようがありません。』
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『 いのちは本来それ自体が自覚体であるからです。』
地 球 の 他 に も ど こ か他 の 惑 星 に 生 物 、 宇 宙 人 が い る 可 能 性 は大 い に あ る で し ょ う
か 。 地 球 だ け で考 え れ ば 人 間 は 進 化 の 最 先端 を 行 っ て い ま す が 、 他 の惑 星 に は も っ
と進化を遂げた自覚した生物集団もいる可能性はあるでしょうか。
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『 可 能 性 は あ るで し ょ う が 、 あ っ た と し ても わ れ わ れ に は 無 関 係 で す。 宇 宙 人 と い
う の は 他 の 天 体か ら 来 た 生 物 だ 、 と い う 話も あ り ま す が 、 本 当 か ど うか わ か り ま せ
ん。』
こ れ ま で に は 選 択 に失 敗 し て 滅 ん だ 生 物 も 沢 山 い る の で は とも 思 い ま す が 、 す べ
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て の も の が いのちを 内 包 し て い る は ず な の に ( いのちそ の も の な の に )、 な ぜ 失 敗 し
て滅ぶものがいるのでしょうか。
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『 「 滅 び る 」 と い う 現 象 が 大 き く 見 れ ば いのちの 智 恵 の は た ら き か も 知 れ な
い。 』
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自己中心性を帯びていない、いのちの判断も100%といかず、100万分の一
の割合位で間違う可能性もあるとのことですが、それはどうしてでしょうか。
『宇宙の変化はまだ終点に行っていないからです。』
人類の次の進化段階である「ネオ・ホモ・サピエンス」は人類の進化の最終段階
の も の で し ょ うか 。 そ れ と も そ れ は 進 化 の一 過 程 で あ り 、 ネ オ ・ ホ モ・ サ ピ エ ン ス
の次の段階もあるのでしょうか。あるとしたらどのような生物になるのでしょうか。
『あるか否かはわかりません』
『どうだかわかりませんが、多分あるでしょう。』
『それは今の段階では全くわかりません。』
ネオホモサピエンスの時代になったら、この世のむごい犯罪はなくなるのでしょ
うか。
『その社会には、ないでしょう。』
2.合理性コンプレックス
K.ウ ィ ル バ ー は 、 エ デ ィ プ ス ・ コ ン プ レ ッ ク ス に 勝 っ て 、 さ ら に 根 強 い コ ン プ
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レ ッ ク ス が あ る と 言 っ て い る (7 − 8 )。 そ れ は 、 論 理 的 合 理 性 に よ る 思 考 習 慣 に 固
着、停滞した「アポロン・コンプレックス」である。
村 島 義 彦 氏 (岡 山 理 科 大 )は 、 こ の ア ポ ロ ン ・ コ ン プ レ ッ ク ス に つ い て 「 神 話 上 ア
ポ ロ ン は 知 識 を司 る 神 と さ れ て い る 。 こ のコ ン プ レ ッ ク ス は 、 わ れ われ の 内 に あ る
ア ポ ロ ン 的 な もの 、 つ ま り は 第 二 の 天 性 とい っ て も よ い 論 理 的 な 思 考習 慣 へ の 固 着
現 象 を 意 味 し てい る 。 自 然 科 学 の 驚 異 的 発達 を も っ て 特 徴 づ け ら れ る現 代 、 わ れ わ
れ は 、 こ れ を 支え か つ 導 く と こ ろ の 数 学 的思 考 や 物 質 主 義 的 発 想 を 知ら 識 ら ず に 吸
収 し 、 過 去 に 数倍 し た 形 で 、 論 理 的 思 考 に第 一 の 価 値 を お く 傾 向 に ある 。 と い う よ
り は む し ろ 、 論理 的 思 考 に 強 く か ら み 取 られ て 、 そ れ を 離 れ た は ば たき に は 本 能 的
な 恐 れ を す ら 感じ 、 あ く ま で も そ の 範 囲 内に 留 ま っ て 、 そ れ 以 上 に は出 て い こ う と
し な い 傾 向 に ある 。 わ れ わ れ に お け る 論 理依 存 的 な 傾 向 の 強 さ に つ いて は 、 そ れ ゆ
え ま た 、 ア ポ ロン ・ コ ン プ レ ッ ク ス の 根 深さ に つ い て は 、 あ え て 多 言を 要 し ま い 。
(下線筆者)」(7− 9)と書いている。
ウィルバーは、このアポロン・コンプレックスの他に、個を超えた段階内の元因
か ら 非 二 元 に 至る と き の 、 禅 で 言 う 魔 境 にあ た る 障 害 を 「 ヴ ィ シ ュ ヌ・ コ ン プ レ ッ
ク ス 」 (7 − 1 0 )と 言 っ て い る が 、 こ れ は 特 殊 な 例 な の で こ こ で は 取 り 上 げ な い 。
筆 者 は 、 真 実 在の 抽 象 に 過 ぎ な い 制 度 的 で、 合 理 的 な 、 言 表 可 能 な
現実
にのみ
留まり、真実在の意味を解しないでいるアポロン的固着を「合理性コンプレックス」
と名づけようと思う。
この論文に書いた筆者の体験を振り返って見ると、自我の合理性から抜け出るた
め の、まさ に格 闘的 試 みの 表現 であ る感 じ がす る。 合理 的論 理 的思 考の とこ ろで 、
何 度 も 何 度 も 、疑 問 を 出 し 、質 問 し 、 瞑 想 を し 、 肉 体 労 働 を し 、 合 理 性 の 中 に い て は
真 実は 感得 でき ない と キリ がな い程 指摘 さ れ、自分 でも それ で はダ メだ と知 的に 知
っ て い な が ら 、尚 止 ま ら ず 十 数 年 間 も が いて 、 力 尽 き た と き に 、 直 覚的 に 閃 く も の
がある。合理性コンプレックスを超えるとは、そういう取り組みではないだろうか。
次元の異なる意識の変容へのステップなのであるから。
私 達現 代人 が直 面 させ られ てい る 問題 は、気づ い てい よう がい ま いが 、こ の「 合
理 性 コ ン プ レ ック ス 」 な の だ と 思 う 。 合 理性 に 固 着 し て 、 そ の 地 点 に停 滞 し て い る
状 態 で あ る 。 ここ か ら 次 の 個 を 超 え た 超 合理 の 発 達 段 階 に 行 く と は 、先 ず 個 の 意 識
を 十 分 育 て た 個 体 が 、 そ の 上 で 、 個 の 意 識 ・ 合 理 性 に よ る 行 き 詰 ま り 現 象 (自 ら の
苦 悩 、 世 界 の 様 々 な 諸 問 題 、 地 球 を 蔽 う 巨 大 な 苦 悩 )の 只 中 で 、 そ の 地 点 に そ の ま
ま で い た ら 我 々自 身 が 死 滅 し て し ま う 恐 怖に 曝 さ れ 、 い ま ま で と は 異な っ た 新 た な
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精 神 性 を 獲 得 せ ざ る を 得 な い 、「 変 容 」 せ ざ る を 得 な い と こ ろ を 通 過 す る こ と な の
である。
現代の人類の苦悩とは、身体的、精神的に滅亡するかどうかの瀬戸際での
シエーション
イニ
を受けているのかもしれない。
まさに、この前段階の「エディプス・コンプレックス」期において母性・神話性・
無 意 識 性 か ら 出立 し て 、 合 理 性 ・ 明 晰 な 個の 意 識 性 を 獲 得 し た よ う に、 現 代 は 個 の
意 識 ・ 合 理 性 を脱 皮 し て 、 個 を 超 え た 非 二元 性 的 精 神 性 を 獲 得 す べ き、 新 し い 時 代
への幕開けなのではないだろうか。
ウィルバーは言っている。
ハート
『恋人同士がついに結ばれるあの 心 のなかで、ゲームすべて、つまりこの進化の
悪 夢 は 元 ど お りに さ れ 、 そ し て あ な た は まさ に シ ョ ー 全 体 の 開 幕 前 にそ う だ っ た 自
分に戻るのです。まったく明白なことにはっと衝撃を受け、あなたは自分自身の〈原
初 の 顔 〉、 ビ ッ グ バ ン 以 前 に 持 っ て い た 顔 、 万 物 と し て 微 笑 し 、 全 〈 コ ス モ ス 〉 と
し て 歌 う ま っ たき 〈 空 〉 の 顔 を 認 め る 。 そし て そ れ は 、 す べ て あ の 原初 の 一 瞥 に お
い て 元 ど お り にさ れ 、 残 る の は た だ 微 笑 と、 透 み き っ た 夜 も 遅 く 静 かな 池 に 映 る 月
影だけなのです。』(7− 11)
8.おわりに
この大学院2年間に、自分の内面の必要性と自分を取り巻く外的な様々な状況が、
幾 つ も の 共 時 的現 象 と な っ て 現 れ た よ う に感 じ て い る 。 そ の ひ と つ 一つ に つ い て 詳
し く こ こ で は 語ら な い が 、 特 に こ の 正 月 8日 に 垣 間 見 た 、 現 象 と し て分 断 さ れ る そ
の元の、比較相対が起こらない生命の実体の相の感得は筆者にとって大きかった。
論 文 執 筆 の 準 備 の た め 年 末 ま で 、 K. ウ ィ ル バ ー の 著 書 の 殆 ど を 集 中 し て 読 み 、
個 を 超 え る 精 神性 に つ い て の 考 察 が 深 ま った こ と 、 和 田 重 正 先 生 と の日 記 で の 問 答
を 数 年 振 り に 全て 読 み 直 し 、 人 間 の 大 脳 知と は 異 な っ た 、 そ れ に よ って は 捉 え ら れ
な い 精 神 活 動 、認 識 が あ る こ と を 再 度 強 く心 に 留 め た こ と 、 ま た 、 母の 病 に 付 き 合
っ て 行 く 事 に よっ て 、 生 死 に つ い て 真 剣 に取 る 組 ま ざ る を 得 な い 状 況に 迫 ら れ て い
た こ と 、 そ の ため 毎 日 の 瞑 想 も 普 段 の 倍 の時 間 し て い た こ と な ど 、 筆者 を 取 り 巻 く
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事柄がこの感得のための契機になったように思っている。
大 学 院 入 学 当 初 か ら、 研 究 は 単 に 頭 脳 だ け で の 思 考 の 遊 戯 では な く 、 自 ら 体 験 、
体 得 す る 試 み を通 し て 考 察 を 進 め て い き たい と 念 願 し て い た 。 だ か ら自 分 に と っ て
院 は 修 行 の 一 環で も あ っ た 。 個 を 超 え る 精神 性 に つ い て は 、 研 究 す る者 が あ る 程 度
そ れ を 体 験 し てい な い と 考 察 が 深 ま ら な いも の で あ る 。 こ の 体 験 に よっ て 、 よ り 論
文の筆が進んだことは確かである。有難いことであった。
他 に も こ の 2 年 弱 の間 に 、 心 の 超 個 の 帯 域 の み な ら ず 、 自 身の 自 我 レ ベ ル で の 取
組 み を 促 す 現 実で の 難 問 題 が 発 生 し た り 、た ま た ま 偶 然 出 会 っ た よ うに み え る 大 学
で の 人 間 関 係 につ い て 良 か っ た と 思 え る もの 、 そ う 思 え な い も の 色 々だ が 印 象 深 い
も の が あ っ た 。こ れ ら の 運 命 の 自 分 に と って の 意 味 は 、 今 後 も 考 え 続け て い こ う と
思っている。
船 井 氏 の ユ ン グ 研 究所 卒 業 論 文 の 中 に 、 過 去 の 覚 者 や シ ャ ーマ ン 達 が 己 れ の 魂 の
世 界 、 異 界 を 旅し 、 様 々 な 地 獄 の 様 相 の 体験 の 後 に 蓮 の 植 わ っ て い る大 き な 池 に 辿
り 着 き マ ン ダ ラ的 な 魂 の 全 体 性 を 得 て 、 人格 の 変 容 を 遂 げ 巡 礼 か ら この 世 界 に 戻 っ
て く る 様 子 が 描 か れ て い る と こ ろ が あ る (8 − 1 )。 人 は 、 意 識 と 無 意 識 の は ざ 間 を
彷徨い旅して変容を遂げるのである。
振 り 返 る と 筆 者 も 院 生 の 間 に 、 現 実 で 意 識 、 無 意 識 の 狭 間 な ら ぬ 、難 し い 相 手 と
の 土 地 境 界 上 の問 題 に 引 き 込 ま れ た り 、 その 他 大 学 内 外 で 地 獄 と 極 楽を 見 さ せ て 貰
っ た 気 が し て いる 。 筆 者 に と っ て の イ ニ シエ ー シ ョ ン で あ っ た と 思 う。 そ し て 若 い
頃より希望していた心理学を学ぶことができたことに満足している。
また、心理臨床家のためのトレーニングとしてのユング派教育分析体験について、
分 析 家 で あ る 船 井 哲 夫 ・ 浜 先 豊 、両 先 生 に は 大 変 お 世 話 に な り 感 謝 を し て い る 。 そ
れ に 個 を 超 え る精 神 性 を 求 め 、 大 学 内 外 のト ラ ン ス パ ー ソ ナ ル 心 理 学に 理 解 の あ る
先 達 、 仲 間 達 の存 在 に も 励 ま さ れ た 。 そ して 労 を 惜 し む こ と な く 我 が求 道 に 付 き 合
っ て 下 さ り 、 懸命 で 適 切 な 指 導 を 頂 い た 和田 重 正 先 生 と 、 そ れ を ず っと 見 守 っ て く
れている母のお陰でこの論文ができた。
こ の 論 文 を ま と め てみ て 、 非 二 元 的 認 識 そ の 他 に つ い て 更 に考 察 を 詳 細 に し 、 明
確 に し て 行 く 必要 の あ る こ と に 気 づ い た 。ま た 、 こ こ に 書 い た こ と につ い て も 不 正
確 さ 、 理 解 の 足ら な い 面 は 多 々 あ る で あ ろう 。 そ れ ら は 今 後 の 課 題 とし て 体 験 と 考
察を続けていくつもりである。
今後も真摯に我が内面を見つめていければ、と思っている。個を超える方向へ向
かって。
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文献
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小 谷 津 孝 明 ・ 星 薫 『 認 知 心 理 学 』 放 送 大 学 教 育 振 興 会 1 9 9 6 p 2 8 8 (5 −
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ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相上・下』岩波書店
船井哲夫『INITIATION and its SYMBOLS in JAPAN』Diploma Thesis C.G.Jung
Institute 1998 (8− 1)
河合隼雄『ユング心理学入門』培風館 1993 p126
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『宗教と科学の接点』岩波書店 1994
西平直『魂のライフサイクル』東京大学出版会 1997 p82(1− 3)(3− 9)
押田成人『遠いまなざし』地湧社 1983
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