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第50号 - 銀座たくみ

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第50号 - 銀座たくみ
− B・リーチと芹沢銈介を中心に −
ほっと顔を見合わせたのであった。
三月十一日の東日本大震災から二カ
月半ばかりたった。この筆舌に尽くし
台所の灯りとしては、全部で三つも点
永いこと使わないでいたがリビングや
燭 を 点 け た。 仏 壇 用 に は 少 し 大 き く、
火鉢と鉄瓶の温かさ
がたい大災害は、福島第一原発の破壊
ければ充分であった。しかも四時間後
という副産物を生み、被災した多くの
に電気が点いたとき、四・五寸︵十三・五
灯りは洋ローソクが売り切れで、前
に買い置いてあった石川県七尾の和蝋
人々に故郷を失わせるという最悪の事
ていた。
センチ︶の蝋燭はまだ四割ほどが残っ
態を招いた。
六十六年前、広島、長崎に原爆の被
爆を受け、核放射線の怖さを身をもっ
て知ったはずの日本人が、経済効率と
寒かったから、わが家では大火鉢を持
地 震 か ら 間 も な く、 停 電 が 頻 繁 に
あって、そのころはまだ朝夕はかなり
のではないか、と人々は直観している。
災ではない、むしろ人災の部分が多い
ちを犯してしまった。今回の災害は天
しかし今年は真夏日には、蚊取り線香
の暑さ対策はまず﹁うちわ﹂だという。
瓶、土鍋が三月から四月にかけてどれ
蝋燭、燭台、懐中電灯、湯たんぽ、鉄
あまりなかった炭、五徳、火箸、十能、
今回の災害からはさまざまなことを
考えさせられる。拙宅でも使うことも
ち出して久しぶりに炭火を入れた。は
を焚いて窓を開けて寝るとしよう。
原 発 も、 先 端 技 術 も、 高 速 道 路 も、
システム化された流通管理も、あまり
地域開発の幻想に惑わされて大きな過
が気になったが、やがて鉄瓶のお湯も
にあっけなかったと思わされたこの二
ほど役に立ったことか。家人はこの夏
沸いて部屋に暖気がゆきわたり、とく
カ月あまりであった。
︵志賀直邦︶
じめの三十分ほどは一酸化炭素の匂い
に足元の温かさに、家族みなが暗い中
1
第50号
民藝運動の巨匠展
特集
平成23年(2011年)6月15日
たくみ第50号
一九二四年にリーチから求めている。
チは上野桜木町の新居でエッチングの
一九〇九年、来日する。その年秋、リー
にエッチングの印刷機と共にイギリス
た、リーチが一九〇九年に来日した際
シ ッ ク の 精 神 ﹄ で あ る。 こ の 作 も ま
実はこのほかにもう一点ある。それ
が今回のたくみギャラリー出品の﹃ゴ
イ ギ リ ス の 陶 芸 家 B・ リ ー チ は
一八八七︵明治二十︶年、香港で生ま
公開教授をはじめ、白樺派の武者小路
バーナード・リーチの
エッチングと初期楽焼の作品
れた。父アンドリュウ・J・リーチは
この作品のモチーフはロンドンのチ
エルシーにあるカトリックのセント・
から持参したものと推測できる。
ロンドンの美術学校時代、リーチは
自ら﹁自分の作品の中で、最良のエッ
ルカ教会で、左右の空に舞う天使の姿
実篤、志賀直哉、柳宗悦らが参加する。
チングの一つ﹂と述べている﹃ゴシッ
にはウイリアム・ブレイクの影響を思
弁護士。幼時京都や彦根で、日本にい
一 九 〇 七 年、 ロ ン ド ン 美 術 学 校 で
エッチングを学び、また留学中の高村
ク の 精 神 ﹄ を 制 作 す る。 彼 の 自 伝 的
た祖母のもとで養育された。
光 太 郎 を 知 る。 そ の こ ろ ラ フ カ デ ィ
わせるという。
と こ ろ で B・ リ ー チ は 一 九 一 一 年、
東京ではじめて楽焼を焼き、それに強
記 述︵一 九 三 三 年 ︶ に よ れ ば こ の 作
い興味を抱いた。翌年、富本憲吉とと
オ・ ハ ー ン︵小 泉 八 雲 ︶ の 日 本 に 関
に来てからで、一九一一︵明
もに六世尾形乾山に入門、二人は後に
品 が 展 覧 会 に 出 品 さ れ た の は、 日 本
治四四︶年、赤坂で開かれた
す る 著 作 を 読 ん で 日 本 に あ こ が れ、
﹁白 樺 主 催 洋 画 展 覧 会 ﹂ が 最
皆伝目録を受け七世乾山を名乗ること
年譜によればB・リーチは一九一四
︵大 正 三 ︶ 年 四 月 以 降、 三 回 ほ ど 作 品
初であった。これは一九〇八
ズ の 国 立 美 術 館 所 蔵 の 作、 更
を展観している。しかしその年の制作
を許される。
に リ ー チ の 伯 父︵カ ー チ フ
として確認されるのは桜木町窯での作
求めた。もう一点はウェール
国立美術館長だった人︶が
年の年記のある作で柳宗悦が
エッチング「ゴシックの精神」
バーナード・リーチ作
2
平成23年(2011年)6月15日
寸法がわずかに異なる。三つともリー
よれば三点あり、
全く同じ模様ながら、
時、リーチは日本で制作した作品を中
田庄司とともにイギリスに帰る。この
ろう。一九二〇年五月末にリーチは濱
と い う﹃楽 焼 葡 萄 文 壷 ﹄ だ け で あ る。
さて、リーチ所持の楽焼の蓋壷はそ
の後どのような運命をたどったのであ
の思い出から、哲学的思索、詩、エッ
て、一九一四年十月、五年間の日本で
とって愛着の深い品であったとみえ
蔵 と な っ た。 こ の 蓋 付 壷 は リ ー チ に
チ自筆の箱書で、
いずれも
〝1914・
心に、ほとんどの自作品を神田の流逸
この楽焼の蓋付壷は富本憲吉の記録に
BL〟と墨書されている。
チングをまとめ出版した冊子﹃回顧
一 九 〇 九 年 一 九 一 四 年 B・ リ ー
チ ﹄ の 表 紙 に 水 彩 画 で 描 か れ て い る。
た。三つ目はリーチ自身が所持してい
術館の所蔵
︵径二五、
高二六・五︶
となっ
本憲吉が求め、のちに国立京都近代美
センチ︶となっている。もう一つは富
示販売された。展覧会終了直後の五月
え、リーチが流逸荘に遺した作品も展
は、セント・アイヴスからの新作に加
展﹂を開催する。このさいの出品作品
この三年ほどあとの一九二三年四月
下 旬、 柳 宗 悦 は、 流 逸 荘 で﹁リ ー チ
として親交をもたれた方であった。
くなられたが、リーチさんともファン
前記の二点をはじめリーチ作品の熱
心なコレクターであったN氏はもう亡
で、 ⋮ 楽 焼 は す べ て 売 り 切
れ ば、﹁会 は 初 日 か ら 盛 況
及び﹁リーチ作陶五十年記念展出品目
和三十六年十一月号︶に、本文内写真
て、前記の﹃ゴシックの精
二 三 ︶ が 昨 年 秋、 縁 あ っ
︵志賀直邦︶
の予定であり、御期待いただきたい。
このたびの巨匠展には、このほかN
氏蒐集のリーチ作品十点あまりが出品
録﹂にN氏出品として掲載されている。
れです﹂、と書いている。
ジも﹃ゴシックの精神﹄であった。
またこの本のエッチングの最初のペー
たことが判っているが、その後の行方
五日付の柳からリーチ宛ての書簡によ
荘画廊に預けて帰ったのであった。
は不明であった。
な お N 氏 旧 蔵 の﹁ゴ シ ッ ク の 精 神 ﹂
は、雑誌﹁民藝﹂のリーチ特集号︵昭
−
神﹄とともにたくみの所
実 は こ の 三 点 目 の﹃楽
焼 葡 萄 文 壷 ﹄︵径 二 一、 高
バーナード・リーチ著
『回顧 1909-1914』表紙絵
3
一つは柳宗悦が購入、現在日本民藝
館の蔵品︵径二四、高二六、いずれも
たくみ第50号
今回、出品されるリーチさんの作品
の 内、 エ ッ チ ン グ﹁ゴ シ ッ ク の 精 神 ﹂
と﹁楽焼葡萄文壷﹂はいずれも百年ほ
ども前、もっとも初期の作品です。そ
のほか珍品から親しみ深い品までお楽
しみいただけます。また民藝運動に心
を寄せた作家たちの仕事の幅の広さを
窺うことができます。そして芹沢先生
†
彫象嵌葡萄文茶碗(B・リーチ)
の﹁法然上人絵伝﹂や﹁親鸞聖人御影﹂
も、 法 然 上 人 入 寂 か ら 八 百 年 の 今 年、
陶 磁 器、 陶 タ イ ル、 掛 け 軸︵書、 素 描、
†
たくみ特別企画
B・リーチと芹沢銈介を中心に
民藝運動の巨匠展
会
∼七月四日︵月︶
期 平成二十三年六月十八日︵土︶
会
場 銀座たくみ二階ギャラリー
六月十九日︵日︶
、二十六日︵日︶は営業。七月三日︵日︶は休業。
−
︵日曜、最終日は十七時半まで︶
営業時間
十一時から十九時まで
あらためて拝することの意味を思いま
す。どうぞご清覧のほどお待ち申し上
げます。
舩木道忠、そのほか現代工藝作家の方々
庄司、富本憲吉、棟方志功、金城次郎、
バ ー ナ ー ド・ リ ー チ、 芹 沢 銈 介、 濱 田
出品作家
†
水彩画「イタリアの椅子」(芹沢銈介)
† 出品品目
型染絵︶
、 額 装︵エ ッ チ ン グ、 型 染 絵、
水彩︶
、 屏 風、 初 期 大 津 絵、 ガ ラ ス 絵、
着 物、 着 尺︵芹 沢 銈 介、 宮 平 初 子、 吉
岡常雄︶
、そのほか
4
−
平成23年(2011年)6月15日
民藝運動の巨匠展
民藝運動の巨匠展
たくみ第50号
楽焼「葡萄文壷」高23㎝(B・リーチ)
エッチング「ゴシックの精神」
(B・リーチ)
青白磁刻線盒子(B・リーチ)
染付「刻線四つ葉文盒子」(B・リーチ)
灰釉 クリーマー(B・リーチ)
染付「魚とかもめ文皿」(B・リーチ)
ガレナ釉 マグ(B・リーチ)
5
民藝運動の巨匠展
平成23年(2011年)6月15日
肉筆画「三重塔」(B・リーチ)
中国拓本に茶碗スケッチ(B・リーチ)
ガラス絵「パリの朝」(柚木沙弥郎)
水彩画「三春人形」(芹沢銈介)
三彩釉大鉢 径40㎝(舩木研兒)
手縞紬 着尺(宮平初子)
軸装「洗濯する韓国婦人」(B・リーチ)
登窯文藍地 着尺(芹沢銈介)
6
民藝運動の巨匠展
たくみ第50号
染付飾皿(富本憲吉)
型染「はたおり模様」(芹沢銈介)
草木染 着尺(吉岡常雄)
茶壷 高42㎝(金城次郎)
糠白釉 ピッチャー
(濱田庄司)
7
初期大津絵「菩薩」
民藝運動の巨匠展
平成23年(2011年)6月15日
極楽から来た「関白忠道の行列に合う」
(芹沢銈介)
型染絵「法然上人御影」(芹沢銈介)
極楽から来た「壇ノ浦」(芹沢銈介)
法然上人絵伝「頭光踏蓮」(芹沢銈介)
法然上人絵伝「二河白道」(芹沢銈介)
型染絵「親鸞聖人御影」(芹沢銈介)
8
芹沢版・物語絵本
た。
今年は浄土宗の開祖法然上人の入滅
︵ 建 暦 二 年・ 一 二 一 二 ︶ か ら 八 百 年、
ついて述べたいと思う。
伝﹂が芹沢銈介の手で誕生した事情に
うものの性質と、新しい﹁法然上人絵
に記すが、ここではまず﹁絵伝﹂とい
志賀
直邦
沢山貼り付けたかのように見える。
あたかも絵巻物を切り取って上下より
掛ける普通の寸法よりはるかに大きく
られるようになった。これは床の間に
りから大きな画面による掛幅絵伝が作
そこで法然による念仏の教えを広く
大衆に伝えるために、鎌倉時代末あた
これを記念する﹁大遠忌﹂の法要が総
とくに法然上人絵伝について
本山の知恩院をはじめ各地のゆかりの
法然の生きた時代は平安時代末期か
ら鎌倉時代の初めごろ、貴族の世から
であった。これらの作品は文章だけで
○
平安時代は、源氏物語、枕草子や土
佐日記などの王朝における文芸が盛ん
下辺から左へ、二段目は左から右へと
この掛幅絵伝を見る順序は第一幅の右
段、画面の数も数十枚にもなる。また
寺院で行なわれている。
武士の時代へ移り変わるまさに転換期
はなく次第に詞書きの文にそえて、大
なった。また仏教の高僧、聖人の伝記、
和絵風の彩色絵巻が描かれるように
じ要領で最後の幅まで進むのである。
進み、第二幅は上から下に下りる。同
るものだから、一般の門徒の目に触れ
の道﹂を読んで柳を訪ね、仏法の真理
り、光徳時で拝見することができた。
ることはまずあり得ないことであっ
9
こ の 掛 幅 絵 伝 は 一 組 が 何 幅 も あ り、
一幅に描かれる絵の段数も六から八
であった。この時代、地震、洪水、京
都の大火、飢餓などの記録多く、地方
逸話などを描いたものとしては鎌倉時
ら開祖の一代記を学ぶのである。これ
の武士や僧兵、貧民の動揺は、体制の
代 に 入 っ て﹁ 一 遍 上 人 絵 伝 ﹂﹁ 西 行 物
は真宗でも行われ、昨年富山県南砺市
根幹を揺るがし始めていた。
語絵﹂
﹁法然上人絵伝﹂
﹁親鸞聖人絵伝﹂
﹁ 法 然 上 人 絵 伝 ﹂ は、 増 上 寺 本 や 知
恩院の四十八巻本など鎌倉時代にさか
○
などがある。
文盲の多い時代だったから詞書はな
く僧侶らによる解説で、絵伝を見なが
そのようなときに、寺院での祈祷に
依らず、自ら〝南無阿弥陀仏〟の六字
の名号をひたすら称えるという専従念
ての凡夫にも阿弥陀の慈悲が与えられ
のぼる貴重な絵巻物が多い。ただ絵巻
法然上人をこよなく崇敬し、また昭
和 二 年︵ 一 九 二 七 ︶、 柳 宗 悦 の﹁ 工 藝
で行われた日本民藝協会全国大会のお
るという教えを、法然が説いたことは
という画面形式からして机上で鑑賞す
仏によって、善人、悪人を問わずすべ
画期的なことであった。
法然の一代記や、悟りをえて一宗を
開くに至る波乱の道のりについては後
たくみ第50号
まさに天恵ともいえるものであった。
龍彦にとって、芹沢銈介との出会いは
た、兵庫県明石、無量光寺の住職小川
生や河井、濱田両翁からも相談役をお
おかつ昔から浄土宗だそうです。柳先
のです。芹沢さんは謙虚な人柄で、な
沢氏によれば大丈夫つくれると思った
﹁絵伝の完成には何よりも第一に良
き画工を求めねばなりません。私は芹
ことの意味がそこにあったのである。
川師が今の、現代の上人像を熱望した
もそのような戦乱の時代であった。小
まさにその年。法然や親鸞が生きたの
小川が﹁昭和版絵伝﹂を発願したの
は日本が武力をもって中国へ侵攻した
と美の真理が同一であることに目覚め
昭和七年四月、京都の帝室博物館で
﹁法然上人絵伝展覧会﹂が開催された。
○
引き受け戴いているので、絵の方はも
この会は知恩院の寺宝をはじめ貴重な
法 然︵ 幼 名 勢 至 丸 ︶ は 一 一 三 三 年、
美作の国︵岡山︶稲岡庄の名家、漆間
時国の子として生まれた。所領の争い
で父が明石定明の夜襲にあい命を落し
たあと勢至丸は寺に預けられ、やがて
比叡山延暦寺で修業することになる。
子・崇仏﹂の二編はまさに小川と芹沢
まず望月信亨によれば、絵伝の第一
話の﹁仏教伝来﹂と第二話の﹁聖徳太
る。その後参籠、修業を重ねるもなお
に入り法然房源空という名を許され
丸は三年の修業ののち黒谷の叡空の門
延暦寺も山法師と呼ばれていた。勢至
概略について記そう。
○
さて、ここで小川龍彦の構成、芹沢
銈介作画による﹁絵伝﹂ものがたりの
めたのであった。
各図の主題、詞書の選択への助言を求
う 安 心 で す。﹂ と 延 べ、 全 体 の 構 成 や
このおり、この会を拝観した小川師
は数ある名品の中でも、とりわけ木版
画である﹁正和版・法然上人御影﹂
︵正
和四年・一三一五︶に惹きつけられた。
︵
﹁工藝﹂九五号︶ それと共に小川は、
上人御影や絵伝の現代版、昭和の新作
の創意によるもので宗祖絵伝の導入部
そのころ、天台、華厳、真言の各宗
派 は 協 議 論 争 や 勢 力 争 い に 日 を 送 り、
彼は正和年代の木版画御影を拝する
うちに、これが上人の真影を数多く廉
として理想というべきという。
を熱望する思いにかられたという。
価に頒布する手法であることに気付
人々を救う道の遠きを悩み、興福寺か
世情はといえば、鳥羽上皇と崇徳上
皇の不和をきっかけとして保元の乱が
らさらに各地を遊行し続けるのであっ
では仏教の百済からの伝来と、聖徳太
鎌倉時代からの諸本はその多くが巻
一 の 一 段、 二 段 が﹁ 上 人 誕 生 ﹂﹁ 竹 馬
き、現代の丹縁絵本の第一人者である
芹沢銈介に白羽の矢を立てたのであろ
子の篤い仏への信仰をはじめにおいた
う。
昭和十二年八月、小川師は神戸・藤
ノ寺に畏友望月信亨を訪ね、法然上人
おこり源平争乱の幕開けとなる。時あ
た。
絵伝の新作発願への思いを次のように
ことを望月は高く評価したのである。
遊戯﹂で始まる。それに対して芹沢版
打ち明けるのであった。
10
ものを網羅した空前の展観であった。
平成23年(2011年)6月15日
たくみ第50号
庶民は貧苦の底にあった。日々の暮ら
たかも打ちつづく争乱と飢餓によって
罪に怯え、遊女、非人もまた極楽往生
党とよばれ、山人や漁師は生物殺生の
しに安寧はなく、百姓、地侍は時に悪
迎え、専従念仏の教えは次第に広まっ
姓など名もなき帰依者が各地に法然を
拝むのであった。このように漁師や百
門の各寺院で模写や新作など多く制作
より民衆的な掛幅絵伝も、このあと宗
ていった。法然上人の教えと事蹟を絵
さて、法然は十年もの彷徨、修業の
のち黒谷に戻り常座三昧の修業に入
され、伝えられていった。
と 詞 書 で 記 し た 物 語 絵 伝 の 絵 巻 物 や、
る。ある夜法然は、夢の中に唐の高僧、
の望みとてなかった。
善導が現れて、ひたすら念仏を唱える
展覧会予告
専従念仏の道こそが本願への正しい道
出雲・出西窯展
七月十日︵日︶は営業。
蕉布の和綴本、葛布帙入りの限定百部
年にかけて完成し、翌年三月、表紙芭
小川龍彦発願、芹沢銈介制作による
昭和版﹁法然上人絵伝﹂は、その全巻
法 然 に 帰 依 し て い た 後 白 河 上 皇 は、
彼が道を見出したと聞いて悦び、高倉
生︵ 治 郎 直 実 ︶ や 親 鸞 な ど が 集 ま り、
法 然 を 住 ま わ せ る。 吉 水 に は 熊 谷 連
たまま空襲で焼失したといわれる。
その内多数が神戸無量光寺に保管され
が日本民藝協会から刊行された。ただ
従念仏が旧来の仏法に反するとしてそ
しかし平家滅亡によって力を盛り返
した南都北嶺の大寺院は、法然らの専
ら刊行された。また絵伝のほか、芹沢
する芹沢本法然上人絵伝完成刊行会か
彩色の雁皮紙本百部が、小川を中心と
五 十 二 年︵ 一 九 七 七 ︶、 白 描 印 刷、 手
戦 後 に な っ て﹁ 絵 伝 ﹂ へ の 愛 惜 の
念 止 み が た い 小 川 師 に よ っ て、 昭 和
の停止を朝廷に要請したのである。そ
の自刻による﹁法然上人御影﹂や﹁親
だけでなく広く親しまれている。
鸞上人御影﹂もその後制作され、宗門
して法然は塩飽島へ配流と決まり、親
法然配流の道中の室津では、遊女た
ち ま で が 舟 を こ ぎ 寄 せ て 法 然 を 迎 え、
鸞もまた越後に流されたのであった。
た。
ともに専従念仏の道に入ったのであっ
六十四図が昭和十三年十一月から十五
天皇を受戒させ、そして東山の吉水に
であることを示される。
会期 七月八日︵金︶∼十六日︵土︶
会場 銀座たくみ二階ギャラリー
出 雲 神 話 の 里、 斐 伊 川 の ほ と り
の 出 西 窯 は、 今 年 で 創 業 六 十 四 年
を迎えます。河井寛次郎、吉田璋也、
バ ー ナ ー ド・ リ ー チ ら の よ き 薫 陶
を 受 け て、 出 雲 の 地 に 根 を 下 ろ し 、
使いやすく親しみ深い器つくりを
心 が け て き ま し た。 三 年 ぶ り の 会
に な り ま す が、 今 回 は 窯 の 二 代 目
を中心とする若手たちの新作品に
加 え て、 先 代 の 旧 作 品 も 所 蔵 家 の
好 意 を 得 て 展 示 即 売 い た し ま す。
手 仕 事 の、 伝 統 の 継 承 と、 新 し い
試 み、 発 展、 変 化 な ど お 楽 し み 下
さい。
11
歳時記
夏の風物詩・うちわ色々
初夏の風物詩といえば、昔は浴衣に
うちわ、風鈴、金魚鉢にかき氷が定番
型染で、
芹沢銈介の門下大橋秀雄の作。
花鳥、草花文はやはり芹沢門下の土手
武彦の型染紙で、加工は香川の丸亀で
す。日の出模様の小ぶりの品は越中和
紙を用い、手軽で喜ばれます。
あとがき
E-mail [email protected]
12
http://www.ginza-takumi.co.jp
でした。なかでもうちわの風はなんと
−
も肌に心地よいものです。
−
たくみでは今年も大小のうちわを取
り揃えています。
− − −
丸柄のブリキ玩具絵の品は、麻地に
−
株式会社たくみ
東京都中央区銀座八 四 二
発行責任者
志賀直邦
〇三 三五七一 二〇一七
〇三 三五七一 二一六九
〇〇一一〇 二 三五六五九
六〇円︵税込︶
﹁たくみ﹂誌は戦前、﹁月刊民藝﹂が発
刊される前の一時期、そして戦後は﹁民
藝﹂誌が再刊されるまで、合わせて五十
号余り刊行されました。小冊子ながら﹁民
藝﹂誌を補完する立場の情報誌として好
評を得ました。そして平成十四年十一月
復 刊 の、 現 行 の﹁た く み ﹂ 誌 も 今 号 で
五十号を迎え、思えばまことに感慨無量
であります。
ここまで来るのに、執筆者の方々、編
集、印刷、発行に関わって下さった多く
の方たちにお世話になり励まされまし
た。これからもたくみのお客様、民藝の
愛好者の皆様のお力をかりて楽しい、た
めになる冊子にしていきたいと思いま
す。ご寄稿のほど、お待ちいたしており
ます。
︵志賀直邦︶
発
行
電
話
FAX
振
替
定
価
− −
型染麻地うちわ
3,150円
型染紙うちわ
2,520円
型染紙うちわ
2,520円
日の出模様和紙うちわ
1本 1,050円
平成23年(2011年)6月15日
たくみ第50号
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