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百済文化団地

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百済文化団地
百済文化団地
1. 百済文化団地
2. 百済歴史文化館
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百済文化団地
1. 甦る百済、百済文化団地
百済文化団地へようこそ。ここは、古代王国、百済の様子を先端技術を使ってリ
アルに再現した場所です。百済は紀元前 18 年から西暦 660 年まで、韓半島の南
西部を支配していた国です。百済の他にも当時、韓半島には北部地方と中国の東
部地方を支配する「高句麗(コグリョ、こうくり)」、南東地方を支配する「新羅(シン
ラ、しらぎ)」がありました。この三国がお互いに対立したり、連合を組んだりしな
がらも、発展を続けた 700 年余りを三国時代と呼びます。4 世紀、百済は「近肖
古王(クンチョゴワン)」という強力な絶対君主の統治の下、中国に植民地を開拓し
ていくなど、次々に領土を拡大していき、一時は海上王国として名を轟かせたり
もしました。5 世紀に入り、百済には仏教が伝来し、独自の仏教文化が開花する
ようになります。実際に中国の歴史書には百済のことが「お寺や塔が多い国である」
と記録されているそうです。こうした百済の独自の仏教文化は日本古代の文化に
も大きく影響を及ぼしました。6 世紀には、僧侶や技術者たちを日本に送ったり
もしたと言います。 また、今のように交通手段が発達していなかった時期に、芸
術、宗教、学問において中国と日本を繋ぐ架け橋のような役割を果たすなど、東
北アジアの文化交流の中心的位置にいたのがこの百済でした。 ここには 10 年間
の歴史考証を経て復元された百済の宮殿、お寺、塔、お墓などが展示されてい
て、悠然とした風格のある百済文化を味わうことができるようになっています。ま
た、文化団地のすぐそばに設けられた百済歴史文化館では、百済の歴史が詳しく
紹介されています。それではさっそく、百済の魅力がぎっしり詰まったこの場所
で、当時の百済の様子を見て、聞いて、体験しながら、百済時代を思い切りご堪
能ください。
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2. 計画都市、泗沘
百済文化団地
計画都市、泗沘
これは、百済の 3 番目の首都である「扶余」の王宮跡を歴史的考
証に基づいて再現したものです。当時の「扶余」は、何もない荒れ地を一から開墾し
て造った計画都市だったと言います。百済人たちは城を建て、王宮、官庁、寺
院、道路、水路などを順番に作り、都市を整備していきました。ところで百済は
なぜ、首都をここ「扶余」に遷したのでしょうか。百済の 1 番目の首都は、今の「ソ
ウル」でした。その後、韓半島の北部を支配していた国の侵略を受け、南方の「公
州」へと逃れていきます。そこで百済は見事に存亡の危機を乗り切り、国を安定さ
せていきます。 6 世紀に入り、百済の聖王はさらなる国の発展を目指し、ここ「扶余」への遷都に
踏み切ります。「公州」は、外敵から国を守るにはもってこいの立地でしたが、その
分百済が外に進出することは非常に困難な場所でもありました。そのため、聖王
は遷都という決断を下し、広い平野と大きな川の流れる立地条件から海上からの
貿易に適している扶余に首都を遷しました。その後、百済の王と民は一致団結し
て新しい首都の建設に励みました。
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3. 天政殿
百済文化団地
天政殿 今皆さんが立っていらっしゃる場所は、国王が政治を司っていた場所を再
現した空間です。ここは、宮殿の中央に設けられていたことから、通称「中宮殿」と
呼ばれています。しかし、屋根の上の方に掲げられた扁額を見ても分かるように、
建物の実際の名前は「天政殿(チョンジョンジョン)」と言います。
天政殿という名前には、特別な意味が込められていると言います。百済には国家
の大事は天に奏上し決定するという「天政臺(チョンジョンデ」という岩がありまし
た。百済では国家の重大事を決定する際には必ずこの「天政臺」という場所で天に
祈りをささげた後、お互いの意見を出し合い決定したと言います。
また、百済では宰相を撰ぶ際に、3~4 人の候補者の名前が書かれたものを密封し
てこの岩の上に置き、天の意向を伺ったという話が伝えられています。不思議な
ことに何日か後に中を確認すると、天が示す人物の名前の上に印鑑が押されてい
たそうです。 このような風習から、王が政治を司るこの場所も、天の御心に従う
という意味から「天政臺」の名をとって「天政殿」と名付けられるようになりました。
常に天の意向を重視し、神に身を委ねていた古代の人々の姿が思い描かれるよう
ですね。さて泗沘(サビ)時代、百済政治の中心部であったこの場所をゆっくりと見
て回ることにしましょう。
- 4 -
4. 東宮
百済文化団地
東宮 [ガイド] 皆さん、それでは今度は、泗沘宮(サビグン)の東宮(トングン)を見
てみることにしましょう。東宮では、王と役人が日常的な行政業務を担当してい
た姿が再現されていて、文思殿(ムンサジョン)と延英殿(ヨンヨンジョン)という建
物から成っています。 それでは、現在の総理大臣の役割を担当していた内臣佐平
(ネシンジャピョン)が、当時王と国の重要な仕事について議論する姿を通じて、百
済の中央行政システムについて見てみましょう。
[王]
内臣佐平、来月中国から使者が訪問することになっておるが、準備はどう
なっておる?
[内臣佐平] ははぁ、問題なく順調に進んでおります。外交と使臣の接待を担当し
ている客部ですべてが完璧に進んでおりますので、ご心配には及びません。
[王] そうか、そちを信じてはおるが、今回の使臣の訪問は、国家的に非常に重要
な案件であるだけに、客部だけではなく、内官 12 部と外官 10 部が緊密に協力で
きるよう努めてくれ。
[内臣佐平] はい、仰せの通りにいたしまする。 [ガイド] このように、百済の中
央行政システムは財政、宗教、法律などを担当していた内官 12 部と、軍事、教
育、外交などを担当していた外官 10 部で構成されていましたが、お互いの仕事を
分担して国の重要な仕事を処理したそうです。
中央と地方の行政、軍事組織が
非常に体系的に組織されていた百済が発展できたのは、当然のことだったので
す。それでは、文思殿と延英殿の前に再現された物をご覧になって、当時忙しく
国のために走り回っていた役人の姿を一度想像してみてくださいね。
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5. 聖王と陵寺
百済文化団地
聖王と陵寺 [ガイド] 今皆さんがご覧になっている場所は、陵寺(ヌンサ)と呼ばれ
る場所です。百済の第 26 代王であった聖王(ソンワン)の冥福を祈るため建てられ
た王室のお寺です。現在は陵山里(ヌンサンリ)に当時のお寺の跡が残っているだけ
ですが、そこで発掘された遺跡を基に現物と同じ大きさのものが再現されまし
た。 ところで、この陵寺建設の背景には非常に悲しい伝説があると昔から言い伝
えられています。聖王の悲痛な最後に関係していると言いますが、実際にこの陵
寺を造った聖王の息子、昌(チャン)に詳しい話を聞いてみることにしましょう。
[皇太子 昌] 父上の死は、すべて私の責任だ。私が新羅を攻撃しようと父上に主
張したりさえしなければ、父上は、あのように無惨な死を遂げたりはしなかった。
[ガイド] お父様の死がどうしてあなたをそこまで苦しめるのですか?
[皇太子 昌] 父上と一緒に新羅軍を攻撃するため、管山城(クァンサンソン)という
城に向かった我が軍は、新羅軍の反撃に無惨にも敗退していった。ちょうどその
時、折り悪くも、私は新羅軍に包囲されてしまい百済軍と孤立してしまった。父
上はそんな私を救うため、危険を承知の上で新羅陣営に乗り込み、そこに潜伏し
ていた奴等に奇襲され、息を引き取った。今でもその時のことを考えると、怒り
と悲しみで震えが止らないよ。
[ガイド]お父様が自分のせいで亡くなられたと思って、自分を責めているんです
ね。
[皇太子 昌] そのとおりだ。だから私はお寺に入って修業を行ない、一生悔い改
めながら生きていこうと思っていた。けれど、父上の代わりに国と民を守らなけれ
ばならない私が、自分のすべきことをほったらかしにしたまま、修行の道を突き進
むことはできなかった。
だから、動揺する国を建て直すことが、亡くなった父上
への罪滅ぼしになると思ったんだ。そして、あなたが今立っている陵寺を建て、父
上の冥福を祈ることにしたんだよ。
[ガイド] 昌はその後、威徳王(ウィドグァン)と呼ばれる王になります。このように
当代最高の先進技術が集約された陵寺は、聖王の冥福を祈る息子の気持ちと、仏
教の力でもう一度国を再建しようとする威徳王の強い意志を垣間見ることができ
ます。
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6. 百済の木造塔、陵寺五層の塔
百済の木造塔、陵寺五層の塔 今皆さんがご覧になっている塔は、韓国で初めて再
現された百済時代の木造塔です。 これは、当時の木造塔をただ真似て作ったので
はなく、設計から制作まで、国内屈指の専門家たちが集まって造った傑作品とし
ての価値があります。
それではさっそく陵寺五層の塔を見てみることにしましょ
う。この木造の塔は釘が一切使われておらず、木材のみを使って造られていま
す。木を切り、削って磨いた後、精巧に組み立てる方法で建てられたのですが、
現在の技術でもなかなか真似できない難しい技術だと言います。 次に塔の中をご
覧ください。龍の模様が刻まれた柱が塔の上の方まで伸びているのが見えると思
います。これが、木造の塔の真柱となっている部分です。そしてその柱の下にはお
釈迦様の舎利が祀られるようになっています。 塔は仏教が始まったインドで初め
て造られました。インドの塔は大きなお皿を引っくり返した形をしている反面、韓
国をはじめとする東アジアの塔は、このように六面体を積み上げたような形をして
いるのが特徴です。東アジアでも塔の材料は国によって様々で、中国は泥や煉
瓦、日本は木、韓半島では主に石が使われていました。 韓半島の古代国家はいず
れも、石を使う前は、日本のように木で塔を造っていましたが、木造の塔は造り
方が複雑で、火に弱いという欠点がありました。そのため、徐々に石を使った石
塔が好まれるようになっていったのです。
今皆さんがご覧になっている木造の塔
は、形や建築技術が日本の木造の塔と非常に似ているそうですが、これは当時盛
んに行なわれていた百済と日本の文化交流を立証するものだと言います。
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7. 百済の古墳
百済文化団地
百済の古墳
ここは、扶余地方で発見された泗沘時代の王と貴族たちのお墓を移転、復元した
公園です。それではさっそく、ここにあるお墓を見ながら百済のお墓について調べ
てみることにしましょう。 古代から、お墓は非常に神聖な空間として重視されてきました。これは当時、現
世での生活が来世にも続いていくと信じられていたためです。そのため、死んだ人
が生前よく使っていた物や好んでいた物を一緒に埋めるのが当時の習わしでした
。 このようにお墓に一緒に埋葬された副葬品は、地域や時期によってその形や種類
が様々であったため、お墓から発見される過去の遺物は当時の社会や文化を知る
上での重要な手がかりとなりました。つまり、古代のお墓は、過去の遺物の宝庫
であると言うことができます。
それでは、まず、真ん中にあるお墓から見ていくことにしましょう。お墓に四角い
穴が空いているのが見えると思います。これは、この場所にお墓を移転復元した
際にお墓の内部が見れるよう、わざと片面だけを空けたものだそうです。
このお墓は、土を掘る時に上の方は広く、下に行けば行くほど狭く掘り下げ、砂
利や石ころなどで壁を固めたもので、遺体と副葬品を上から埋葬し、土などをか
ぶせる形のお墓です。 また、このお墓よりも後に造られたのが、その周りにある 5 つのお墓です。近くに
あるお墓をよくご覧ください。少し小さいですが、入り口が見えると思います。
ここは、お墓に入る入り口です。先ほどご覧になったお墓と外観はよく似ています
が、中の造りは随分違っています。石で四角い部屋を作り、そこに遺体を安置し
、遺体が置かれた部屋へと続く通路に当たる羨道を設けた造りとなっています。
当時、遺体が納められた玄室に入り口と通路がつけられた理由は、この場所が単
純なお墓ではなく、遺体が死んだ後生活する空間だと考えられていたためです。
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8. 百済の悲将、階伯
百済の悲将、階伯
[ガイド]
ペルシア 100 万の大軍に対抗し、300 人の兵士を率いて戦ったスパルタの将軍、
レオニダスの話をご存じでしょうか?『300(スリーハンドレッド)』というタイトルで
映画化されたりもしましたね。百済にもこのレオニダスのような将軍がいました。
一番右側に見える肖像画が百済の英雄「階伯(ケベク)」です。
階伯将軍と階伯率いる決死隊が、百済を襲撃する新羅軍と交戦した場所に向かっ
てみたいと思います。時は 660 年。階伯は 5,000 の軍隊を率いて 5 万の新羅軍
に立ち向かいました。先鋒に立った階伯は、兵士たちに向かって叫びました。
[階伯]
その昔、中国の越の国は 5,000 人の兵士で呉の国の 70 万の大軍を打ちのめした
。決死の覚悟で戦えば、新羅軍を必ず倒すことができる。おまえ達の勇気がこの
階伯と共にあるならば、5 万の新羅軍を叩きのめし、百済はこの戦争で勝利を手
にすることになるだろう。
[ガイド]
実際は、とても勝算のある戦いとは言えませんでした。階伯は戦いに挑む前、自
分の家に立ち寄りますが、彼は短刀で自分の妻と子供の胸を刺しました。国を失
い、新羅の奴隷になるくらいなら、名誉ある死を遂げた方がいいと思ったのでしょ
う。妻子の血のついた鎧を着て、階伯は戦場へと向かいます。そして韓国の歴史
の中でも名の残る熾烈を極めた戦いが繰り広げられます。
決死の抗戦で新羅軍と戦っていた百済軍は 4 度の勝利を収め、百済の士気は一気
に高まりを見せます。新羅軍では落ちていく士気を高めるため、新羅貴族の息子
だった 16 歳の幼い兵士を敵陣に一人送り込みます。これは、新羅軍の士気を高
めるための新羅側の最後の秘策でした。幼い兵士は百済軍に捕まってしまいます
。しかし、勇敢な幼い兵士の姿を見た階伯将軍は、
[階伯]
おまえのような幼い兵士をこんなむごい戦場に送りこむとは。おまえの血を神聖な
る百済の地に撒きたくはない。命は助けてやる、早く帰れ。
[ガイド]
しかし、幼い兵士は、一度は新羅軍営に帰ったものの、もう一度百済軍へ一人攻
め込んでいきました。再び捕まってしまった幼い兵士をもはや生かしておくことが
できなかった階伯は、この兵士の首を切り、新羅軍に送りつけました。16 歳の幼
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い兵士の死は、戦場の雰囲気を一変させました。
ついに熾烈な戦いが終り、階伯将軍の壮烈な死と共に、新羅は戦闘での勝利を手
にしました。「勝者は人々の脳裏に記憶されるが、忠臣は人々の心に刻まれる」とい
う言葉があります。百済の最後の忠臣であった階伯将軍。彼は敗者として記憶さ
れるのではなく、忠義と揺るぎのない信念を象徴する人物として、今も人々の心
に刻まれています。
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百済文化団地
建築家の父
9. 貴族の邸宅
皆さん、私の家へようこそ。私は百済の建築家、「阿非知(アビジ)」と
言います。私は、百済で最高の建築技術家として認められている者です。韓半島
で最高と唄われている「皇龍寺(ファンニョンサ)九層木塔」は私が造りました。 ところで、なぜ私が燐国である新羅で塔を造るようになったのかご存じですか?当
時、新羅はこのように大きな塔を建てる技術力を持っていませんでした。そこで、
新羅は百済に塔を造ってほしいとお願いをしたのです。 こうして、私は新羅に行って塔を造るようになったのですが、工事を始めてすぐ、
百済が滅亡する夢を見ました。私は不吉な予感がしたので、作業を中断して百済
に帰ろうとしました。 しかし、急に稲光が鳴ったかと思うと、目の前に高齢のお
坊さんと一人の男の人が現れ、柱を立てて行ってしまったのです。その時、私は
初めてこの塔を建てることは結局、逃れられない天が決めた運命なんだと悟りま
した。その日から私は必死になって塔の建設に取り組んでいきました。う~ん....
今でもあの時のことを考えると、まだ心が痛みます。
当時、私だけでなく、たく
さんの建築家が燐国に派遣されました。特に日本にも百済 の建築技術がたくさん
伝えられましたが、今でも日本には、百済の技術で造ったたく さんの木造の塔や
宝物が残されていると言います。
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百済文化団地
建築家の父
10. 建築家、阿非知
皆さん、私の家へようこそ。私は百済の建築家、「阿非知(アビジ)」と
言います。私は、百済で最高の建築技術家として認められている者です。韓半島
で最高と唄われている「皇龍寺(ファンニョンサ)九層木塔」は私が造りました。 ところで、なぜ私が燐国である新羅で塔を造るようになったのかご存じですか?
当時、新羅はこのように大きな塔を建てる技術力を持っていませんでした。そこ
で、新羅は百済に塔を造ってほしいとお願いをしたのです。
こうして、私は新羅に行って塔を造るようになったのですが、工事を始めてすぐ、
百済が滅亡する夢を見ました。私は不吉な予感がしたので、作業を中断して百済
に帰ろうとしました。 しかし、急に稲光が鳴ったかと思うと、目の前に高齢のお
坊さんと一人の男の人が現れ、柱を立てて行ってしまったのです。その時、私は
初めてこの塔を建てることは結局、逃れられない天が決めた運命なんだと悟りま
した。その日から私は必死になって塔の建設に取り組んでいきました。う~ん....
今でもあの時のことを考えると、まだ心が痛みます。
当時、私だけでなく、たく
さんの建築家が燐国に派遣されました。特に日本にも百済 の建築技術がたくさん
伝えられましたが、今でも日本には、百済の技術で造ったたく さんの木造の塔や
宝物が残されていると言います。
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百済文化団地
11. 医学者、王有陵陀
医学者、王有陵陀 皆さん、ようこそ。どこか具合の悪いところはありませんか?
私は医学博士の王有陵陀(ワンユヌンタ)と言います。今の医者のように、人々を
治療する仕事をしていまし た。 それではさっそく、私の家をご紹介しましょう。
正面に見えるのが私が生活していた空間で、左側にあるのが診療室です。時々、
私の家にも病人がたくさんやってきたので、家にも診療室を作って患者を治療し
たり、医術を研究したりしていました。 皆さん、私が生きていた時代には人々にどのような治療がなされていたと思います
か?戦場で傷付いた兵士たちを治療していた頃の話をしましょう。寒い冬のこと
でした。寒さのせいでたくさんの兵士たちが凍傷にかかりました。けれども、当時
は今のような治療薬はありませんでした。その代わり凍傷患者が来ると、髪の毛
と桐の木の油を混ぜて作った薬を傷口に塗ってあげました。すると一日か二日で
随分と良くなったのです。また、血みどろになった兵士には「代裏石(テジャソク)」
という鉱石の粉を出血部位に塗って止血を行なったりしました。このように私は
様々な民間療法を使って、兵士たちを治療してあげたのでした。
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百済文化団地
五経博士、段楊爾
12. 五経博士、段楊爾
いらっしゃい。私は五経博士の段楊爾(タニャンイ)と言いま
す。 私の自己紹介をしましょう。百済には早くから博士制度が設けられ、いろん
な専門分野で技術力や知識に長けた人に博士という官位を与えました。今では博
士と言ったら大学や大学院でもらう学位のことを指しますが、当時の百済では官
職を意味するものでした。 私は儒教の 5 つの経典に精通していたので、五経博士
という官職が与えられました。そして日本に渡り、儒学を初めとした様々な学問
を伝えていきました。百済は韓半島を支配していた他の国に比べて、早くから儒
学が発達していました。建国当時、北方の中国地域に隣接していたので、儒学が
比較的早く伝播されたからでしょう。そして、この儒学を政治にも取り入れ、国
家体制を体系的に整備していったのでした。 私のように日本に派遣さ
れた博士は、当時たくさんいました。ところで皆さんは、王仁(ワンイン)博士とい
う 方 を ご 存 じ で す か ? 我 々 博 士 仲 間 の 間 で は 伝 説 の よ う な 存 在 の 人 で す 。 その方は、日本の天皇の招きで私よりも先に日本に渡っていきました。その後王
仁博士は、儒学をはじめ、様々な技術を日本に伝え、日本の飛鳥文化の発展に大
きく貢献しました。 そんな大先輩を見習って、私もまた百済の文化や技術を日本
に伝えることができたことを誇りに思っています。私を含めた百済の博士たちが、
日本の文化や生活の発展に大きく貢献したことを忘れないでほしいと思います。
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百済文化団地
13. 楽士、味摩之
楽士、味摩之 こんにちは。皆さん。音楽や踊りはお好きですか?昔も今も音楽や
踊りは、人間の生活を豊かなものにしてくれると思います。あっ、紹介が遅れまし
た。私は百済の楽士「味摩之(ミマジ)」と申します。わたしは 7 世紀、日本に渡り、
百済の音楽や踊りである「伎楽」を伝えました。
皆さんは、「伎楽」という言葉を聞
いたことはありますか?伎楽はわたしが中国に行って学んできたもので、お釈迦様
を供養し、仏教を布教するために作られた仮面劇のことを言います。 私が日本に
伝えた「伎楽」は、当時、全国各地のお寺で盛んに上演され、現在にも受け継がれ
ています。そして、その時使用していたお面も、日本のお寺に保管され、百済の
音楽や舞踊を知る重要な資料となっています。 もちろん私が「伎楽」を伝える前か
ら日本には既に百済の音楽が多く伝えられていました。その代表的な例が 5 世紀
の楽士「鬼神(クィシン)」の活躍です。彼は日本に百済の弦楽器を伝え、有名な日
本人のコムンゴ演奏家を育てたりもしたそうです。
あ、そういえば、ここから近
い「国立扶余(ブヨ)博物館」に展示された「金銅大香炉」に、私のような百済の楽士が
刻まれているということは、皆さんご存じでしたか?香炉の蓋の部分に 5 人の楽
士が彫刻されているのですが、各自百済の楽器を演奏している姿が印象的です。
機会があったらぜひ確認してみてくださいね。 このように、百済の音楽は金銅大
香炉のように美しく輝きながら日本にまで伝えられていったのでした。
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14. 金属技術者、多利
金属技術者、多利 いらっしゃい。素敵な腕輪でも一つお作りしましょうか?私は
百済の金属技術者、多利(タリ)です。 当時、百済で最高の金属技術者として認め
られていた私は、光栄にも王妃様の腕輪の制作を命じられました。最近では指輪
の内側に商標や金の含有量が書かれるように、私も腕輪の内側に私の名前と腕輪
の重量を書いておきました。 さて、百済の金属技術のレベルがどの程
度であったか皆さんはご存じですか?この時期は、百済特有の独創性と優れた造
形センスが十分に発揮された時期でした。美的センスと共に技術も発展を遂げ、
金属工芸品がさらに精巧に作られるようになります。そして火花の模様、蓮華の
模様など、仏教的な色合いの濃い装飾が幅広く使われていくようになります。 また、百済では多くの金属技術者を日本に送り、金属工芸技術を伝えたりも
しました。このため、日本の王たちのお墓から発掘された遺物を見ると、我々が
作った物に似た金属工芸品を目にすることができます。
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百済文化団地
製鉄工、卓素
15. 製鉄工、卓素
皆さん、こんなに遠くまでよくおいでになったもんだ。もしかして
俺に製鉄の技でも教わりに来たのかな?俺は名は卓素(タクソ)、百済の製鉄工
だ。よろしくな。 製鉄は鉄鉱石から銑鉄を取り出して、いろんな目的に合わせた
鉄を作ることを言うんだ。だから俺のような鉄を扱う技術者を製鉄工と呼ぶん
だ。 俺は、百済にいるたくさんの製鉄工の中でもずば抜けた実力を持っていた。
だから王様の命令で日本に派遣され、鉄の生産技術を伝えたりもしたのさ。 当時の百済が、他の国に比べてどんなに鉄の扱いに長けていたか知ってるか?ま
ず、鉄でできた製品を生産しようと思ったら、製鉄の技術は絶対に欠かせない。
百済は昔から鉄鉱石から銑鉄を取り出す技術に長けていたんだ。 おまけに鉄製品
を作る技術もどんどん発達して、武器や農機具なんかもどんどん作っていったの
さ。
俺らの鉄製品は、デザインもなかなかだが、精巧さにかけては横に並ぶ者が
いなかったほどだよ。だから中国とか日本にものすごい人気でね、注文がどんどん
来るから徹夜で作り続けたりしたもんだよ。 さて、百済の製鉄技術がどんなに優
れていたかは、少しは分かってもらえたと思う。韓国の優れた鉄鋼技術が世界的
にも広く認められているのを俺もよく知っているが、その原点には俺らのような百
済の職人が築き上げていった技術があるんだということを忘れないでほしい。
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16. 瓦博士、麻奈文奴
百済文化団地
瓦博士、麻奈文奴
ようこそおいでくださいました。百済の瓦専門家、通称「瓦博
士」の麻奈文奴(マナムンノ)です。さっそく百済の瓦についてお話しすることにし
ましょう。
ここに来るまでに皆さんは、建築、医学、音楽など様々な分野の専
門家から百済の優れた技術についてお話を伺ったと思います。ここでは瓦を焼く
技術についてお話しする予定ですが、そのレベルの高さに皆さん驚かないでくださ
いよ。 皆さんは蓮華の模様が刻まれた瓦や、鬼、雲、龍のような模様で飾られた
煉瓦をご覧になったことはありますか?百済では、王宮のような重要な場所に使
用する瓦や煉瓦には、丁寧に一枚一枚このような模様を刻んでいきました。他と
は比べ物にならない優れた技術が国から重宝され、私のような瓦博士が誕生した
のです。 当時、瓦や煉瓦はとても貴重な建築材料として重用されていました。今
では誰でも家を建てる時に瓦を使えるようになりましたが、私が生きていた時代に
は、王宮や有名なお寺にしか瓦を使うことはできませんでした。 当時、瓦は権威
を表す象徴的な資材であったため、瓦は、国家の厳しい統制下で生産されていた
のですが、我々瓦博士がその生産を担当していました。 このように百済では、そ
れぞれの分野で優れた技を持つ職人を優遇していたため、他国よりも優れた技術
を保有することができたのでしょう。
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百済文化団地
17. 陶工、新漢高貴
陶工、新漢高貴 私の名は新漢高貴(シンハンゴグィ)、百済の陶工だ。私の家まで
わざわざご苦労だったな。 私の家の他にも、いろんな家に立ち寄って百済の優れ
た技術について話を聞いたと思う。ここでは、私が陶器を作る技術についてお話
ししたいと思う。 百済の陶器製作技術は、国の建国と同時に急速に発展していっ
た。すでに博物館のような場所でご覧になったかもしれないが、我々が作った陶
器は、韓半島の他の国の陶器に比べて外見はそれほど華やかではない。実用性を
重視した作りになっているからだ。 このような技術は泗沘時代に入り、様々な用
途の陶器が制作されていくことで、徐々に規格化され、さらに専門化していっ
た。
我々の技術は日本にも伝えられた。私もまた 5 世紀に日本に渡り、陶器制
作技術を伝授していった。我々の努力で日本の陶器文化はさらに発展していった
のさ。
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18. 酒造職人、仁番
百済文化団地
酒造職人、仁番
いらっしゃい。ひっく、ひっく。私はお酒を作る職人、仁番(イ
ンボン)です。どうぞよろしく。 おいしいお酒を王様に差し上げているので、何度
も味見しなきゃいけないんです。だからいっつもこんな風に酔っぱらってしまうん
ですよね。ひっくひっく。
皆さんはお酒についてどう思いますか?ここでは私が
お酒について少し説明しようと思います。今とは違って、古代ではお酒は非常に
神聖な食べ物だと考えられていました。なぜならばお酒が神と人間、人間と人間
の間を結ぶ役割を果たしていると考えられていたからです。ひっくひっく。だか
ら 、 時 と 場 合 に 制 限 さ れ ず に 、 い ろ ん な 場 所 で お 酒 が 出 さ れ ま し た 。 ひっくひっく。このように神聖な食べ物として重宝されていたお酒を日本に持って
いったのがこの私です。5 世紀、私は日本に送られ、日本の人々にお酒の作り方
を教えました。そのせいか、日本では今でも私のことを酒の神として崇めているそ
うです。 その当時、日本には、お酒を作る技術だけでなく、百済の遊びなどの文
化が一緒に伝えられました。その中でも代表的なのが、短い木のサイコロを投げ
て勝負を競う賭け遊びです。 この遊びは日本人の間で非常に流行ったのですが、
結局、博打のようなものへと変わってしまい、社会問題を起こして禁止令が出さ
れるまでとなりました。お酒も遊びもほどほどが一番ですよね?ひっくひっく。
- 20 -
百済文化団地
19. 仏像彫刻家、止利
仏像彫刻家、止利 百済が誇る仏像彫刻家、止利(トリ)の家へようこそ。なかなか
時間がとれなくて、皆さんに百済の彫刻技術を詳しく説明する時間はありません
が、かいつまんでご紹介したいと思います。 当時、百済の彫刻技術は燐国とは比
較にならないほどレベルの高いものでした。そうですね。百済の彫刻像は、調和の
とれた美しい形に柔らかいラインと洗練された美が特徴です。このような技術は
百済をはじめ、隣国「新羅」や日本にも大きな影響を与えました。 中でも私は、日
本に渡って日本の仏教文化の発展に大きく貢献しました。今日本に行くと当時、
私の影響を受けた数多くの芸術品を見ることができます。 日本人はこのような芸
術品を私の名をとって「止利様式」と名付けました。また今でも私は日本の彫刻歴
史の先駆者として称えられていると言います。 わたしは仏像彫刻家でしたが、建
築工学にもある程度の見識がありました。7 世紀、日本で初めて建てられたお
寺、飛鳥寺に金銅で造った大きな仏像を安置しようとしたのですが、仏像の背が
高すぎてお寺の建物の中にはとても入れることができませんでした。
仏像を入れ
る方法を考えあぐねたものの、人々はドアを壊す方法しか思いつかず、私のところ
へ相談にやってきました。その時、私はドアを壊さなくても仏像を金堂の中に入
れられる方法を教えてあげました。
どうやって入れるかですって?ハハハ。それ
は私だけの秘密なので申し上げるわけにはいきません。皆さんの想像力に任せてお
くことにしましょう。
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20. 機織り職人、西素
百済文化団地
機織り職人、西素 皆さま、こんにちは。わざわざ我が家にまでご足労くださりあ
りがとうございます。 私は日本に機織り技術を伝授した百済の機織り職人、西素
(ソソ)と申します。 機織りとは、布を織ることを意味しますね? 当時は、糸を紡
ぐ紡錘車と布を織る機織機を使って布を作っていました。 機織りは普通、農家の女性が担当するもので、このように作った布で服を作った
り、国家の税金を納めたりしていました。特に、高級な素材であった絹は、中国
や日本にも輸出されていました。 このような百済の機織り技術は日本にも伝えられました。 これには、百済の王様
が日本に送った絹と機織り職人が大きな働きを見せたと言えるでしょう。 そうし
て、日本の機織りと染色技術はさらに発展を見せていくことになります。
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百済文化団地
21. 貞節の象徴、都彌婦人
貞節の象徴、都彌婦人
[ガイド] その昔、漢城に都彌(トミ)とその妻が仲よく暮らしていました。特に彼
の妻は美しく礼儀も正しい上に、夫を想う気持ちが深いことで近所の人からいつ
も誉められていました。このうわさを聞いた王は都彌を呼び出しました。
[王] おまえたち夫婦のうわさはよく耳にしている。 特に、美しく貞節な妻のうわ
さをよく耳にするのだが、おまえの妻がどれほど貞節を守る人なのかを確かめては
みないか。
[都彌] 陛下、大変申し訳ございませんが、私の妻はとても貞淑な人で、確認する
までもございません。
[王] そうか。そこまで自信があるというのだな。それなら、おまえの妻を試してみ
ることにしよう。
[ガイド] 都彌を王宮に留まらさせ、王は臣下に自分の服を着せ、都彌婦人の所に
行くよう命じました。王に変装した臣下は都彌との掛けに勝ったから自分と一夜
を共にしろと強要しました。夫を愛し、貞節を守ろうとした都彌婦人は自分の侍
女を代わりに送りました。この事実を知った王は、激怒し、都彌の目を見えなく
した上、船に乗せて遠くの島に送り流してしまいました。そして家来に都彌婦人
を連れてくるように言いました。
[王]
この私をだましたおまえの罪は深いが、一度だけは許してやろう。これから
は私のそばで贅沢に暮らすがいいぞ。
[都彌婦人] 夫を失って行く宛てもない私めを拾ってくださり、何とお礼を申し上
げたらいいのか。王様の言う通りにします。でも、体がとても汚いので、お風呂に
入ってきれいにしてきてもいいでしょうか。
[ガイド]
こうして王の手を逃れた都彌婦人はやっとのことで大きな川辺まで逃げ
ましたが、川を渡ることができずに泣いていました。この時、都彌婦人の貞節が
天をも感動させたのか、小さな船が一隻上流から流されてくるではありませんか。
その船は婦人を乗せて夫のいる小さな島まで流れて行きました。こうして再会し
た二人は外国に行き末長く幸せに暮らしたと言います。 最後まで夫への貞節を守
り続けた都彌婦人のお話、いかがでしたでしょうか。 このような都彌婦人の説話
は、古代韓国文学に大きな影響を与えたと言います。
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22. 百済の家
百済文化団地
百済の家 今皆さんがご覧になっている場所は、百済人が住んでいた家を再現した
ものです。
それではさっそく百済初期の人々の家を覗いてみることにしましょ
う。 皆さんの目の前にある掘っ立て小屋のような床の高い家は高床式家屋と呼ば
れているものです。この家は床が高くなっているため、他の家に比べて湿気が少な
く、野生動物の侵入も防ぐことができるというメリットがあります。 し
かし、暖房施設がなかったため、ほとんどが倉庫として使われていたそうです。こ
のような家屋は東南アジアのように、気温が高く、湿気の多い気候が特徴の地域
でよく見られ、韓国ではあまり見られない稀な形だと言えるでしょう。けれども当
時は百済だけでなく、三国時代の他の国でも主に使われていたと言います。 それ
では、次に高床式家屋の周辺を見てみることにしましょう。アマゾンの先住民が
住んでいるような穴蔵が見えると思います。この穴蔵は百済初期の人々が住んで
いた一般的な形の家です。
それではこの穴蔵に入ってみることにしましょう。中
に入ると、家の真ん中に部屋を暖かくしたり、食事を作るための火鉢が置かれて
いるのが見えると思います。ほとんどの家の火鉢は、床を掘ってその周辺に丸く
石を敷き詰めた形をしていますが、いくつかの家では平べったい石を床に敷き詰
め 、 そ の 上 に 粘 土 を か ぶ せ た 細 長 い 形 の 火 鉢 を 置 い て い た り も し ま す 。 百済初期の家、高床式家屋と縦穴式住居を見たわけですが、今皆さんが住んでい
る家とは随分違っているでしょう?
ゆっくりと見てまわりながら、当時の人々が
どのような生活を送っていたのかを想像してみるのもいいかもしれませんね。
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百済文化団地
23.武官右輔、乙音
武官右輔、乙音 [ガイド] 今皆さんがご覧になっている建物は、紀元前 18 年に
建国された百済の始祖「温祚王(オンジョワン)」と呼ばれた王の叔父であり、武官で
あった右輔(ウボ)、乙音(ウルム)の家を再現したものです。
乙音は百済の軍事業
務を総括する「右輔」という官職についていました。彼は王の期待に応え、度重なる
敵の侵入を防ぎ、王と民の安全を守り続けました。当時の危機状況から乙音の活
躍ぶりを伺ってみることにしましょう。
[兵士] 陛下、大変です。3 千ほどの敵軍が城を包囲しています。
[温祚王] なにを!はやく乙音将軍を呼んでこい!
[乙音] 陛下、お呼びでしょうか。
[温祚王] 乙音将軍、3 千の敵軍が今、我が城を包囲しているというのだが、どう
したらいいか、将軍の考えを聞かせてほしい。
[乙音] 陛下、私に奴等を追い払う確実な方法がありますので、あまり心配なさら
ないでください。彼らは城を包囲することに急ぎすぎて、十分な食料を持ち合わ
せていません。外は気温も低く、城の周りで食料を調達するのも大変ですので、
すぐに諦めて帰っていくに違いありません。我々は城の門をしっかり閉じて彼らの
攻撃を防ぎさえすればいいのです。
[温祚王]
しかし、彼らをそのまま国へ帰したのでは、後々このようなことが、ま
た起こらないとも限らないじゃないか。
[乙音] ご心配は無用です。陛下。精鋭部隊を選んで、後退していく敵軍を打ち返
してやります。
[ガイド]
百済を攻撃した敵の兵士たちは乙音の思惑通り、10 日余りが過ぎた
後、食料がなくなり後退を余儀なくされました。乙音は、事前に準備していた精
鋭部隊を率いて彼らを追いかけ全滅させたと言います。
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百済文化団地
貴族左輔、馬黎
24.貴族左輔、馬黎
今皆さんがご覧になっている建物は、先ほどご覧になった右輔
「乙音」と同じく、百済の始祖「温祚王」の側近として百済の建国に大きく貢献した
「馬黎(マリョ)」という人物の家を再現したものです。 左輔(チャボ)「馬黎」が住んで
いた家は、大きく2つの建物に分けられます。馬黎と家族が生活していた建物と
下人たちが生活していた建物がそれです。家の中には、百済貴族の権威や趣向を
表した様々な家具や生活用品が飾られていますね。それでは、当時、このように
贅を尽くした家に住んでいた馬黎という人物についてお話しすることにしましょ
う。彼は、「温祚王」と共に韓半島の北側を支配する「高句麗」から一緒に南下し、
百済の建国に大きく貢献した人物です。そのため、「左輔」という官位が与えられた
のですが、この「左輔」という官位は今の国務総理に当たる位で、百済初期の最高
の官位であったと言います。
このように最高の官位についていた左輔「馬黎」は建
国以来、国の基盤を整え、百済が韓半島の大国として成長するために尽力した人
物だと言います。彼の家をゆっくり見回りながら、当時の百済の貴族の生活を想
像してみてください。
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百済文化団地
25. 慰礼城と百済の建国
慰礼城と百済の建国 今皆さんがご覧になっているのは、百済の最初の首都である
「慰礼城(ウィレソン)」を再現したものです。「慰礼城」は、ソウルの「漢江(ハンガン)」
という川の南側に位置していました。それではさっそく百済の建国伝説をご紹介
したいと思います。
百済を建てた「温祚」と「沸流(ピリュ)」は、韓半島の北側を支
配する「高句麗」王の養子でした。2 人の王子は隠されていた本当の息子が現れたこ
とで、王位継承が難しいと判断し、自分たちを慕う部下や民を引き連れて南下し
ていったと言います。 「漢江」流域に到着した 2 人は、お互い他の場所に都を
定めます。「温祚」は農作業に適し、敵からの攻撃を防ぎやすい漢江の南側を都と
定めました。この場所が、まさに百済の最初の都となった「慰礼城」で、現在のソウ
ル地域に当たります。一方、「沸流」は中国との貿易に有利な今の仁川(インチョン)
地域を都と定めました。ちょうど今の仁川国際空港がある場所ですね。 結局、ソ
ウルの都の方が栄えるようになり、自然と仁川地域の民を吸収していくようにな
ります。このように「高句麗」から南下してきた 2 つのグループは再び一つの国とし
て統一し、「温祚」は新しい国の名を百済と名付けました。
その後、「慰礼城」は百
済 700 年の歴史の中で実に 500 年という長い間、首都としての役割を果たしな
がら百済が韓半島の強国へと飛躍するための土台を提供しました。 このように韓
半島で初めて「ソウル」地域の開拓を押し進めた百済は、今日のソウルの輝かしい
発展の基盤を築いたと言っても過言ではないでしょう。
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1. 漢城時代
百済歴史文化館
漢城時代
ここは百済歴史文化館の
第 1 展示室で、百済の歴史を総合的
にまとめた展示室です。百済の歴史
は首都が置かれた場所によって、漢
城(ハンソン)時代、熊津(ウンジン)時
代、泗沘(サビ)時代に分けることがで
きます。 それではまず、漢
城時代から見てみることにしましょ
う。漢城時代は紀元前 1 世紀、百済が今のソウルに国を建設した時期から公州
(コンジュ)に首都を遷した紀元後 5 世紀までの時期を指します。 百済が初めてソウルに都を構えた理由は、ソウルの真ん中を漢江(ハンガン)という
大きな川が流れ、周辺には豊かで広大な平野が広がり、国の発展には申し分ない
条件を兼ね備えていたからでした。このため、百済時代に初めて首都を定めた時
から現在に至るまで、ソウルは韓半島の要所として中心的な役割を担ってきまし
た。百済は近肖古王(クンチョゴワン)が王に即位していた 4 世紀に全盛期を迎え
ます。彼は強力な軍事力を持って周辺の部落を次々と征服し、領土を広げていき
ました。また、王権を強化し、中国や日本などの周辺国家との交流を活性化さ
せ、国の内と外の両方から国力を増強させていきました。このような努力の結
果、百済は韓半島を代表する強国へと成長していったのでした。 700 年続いた百
済の歴史の中で 500 年もの間存続し続けた漢城時代!その燦然たる時代を経なが
ら、百済は国の基盤を固め、領土を広げ、強力な国家を築きあげていったのでし
た。
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2. 熊津時代
百済歴史文化館
熊津時代
それでは次に、百済の第 2
の時代である熊津時代についてお話し
しましょう。
百済の漢城時代は 5 世
紀、北部地域を支配していた高句麗
(コグリョ、こうくり)の攻撃により首
都を剥奪され、終りを迎えることにな
ります。都を追われた百済は、絶体絶
命の危機を乗り越えるため、ソウルか
ら南方へ 130km ほど離れた、現在の公州に首都を遷します。 ここは四方が山と
川という天然の要害に囲まれており、他国の侵略を防ぐにはもってこいの場所で
した。また、近くに流れる錦江(クムガン)という川を使って中国との交流を活性化
させたり、肥沃な土地で農作物を豊かに実らせたりと、交通と経済の中心地とし
て最適な場所だったと言えます。 ここで百済は立地の利点を活かして、敵の侵略
を防ぎ、国の復興を目指し国力を蓄えていきました。 百済の再建に力を注いだの
が、百済第 25 代国王の武寧王(ムリョンワン)でした。彼は才能のある人材を平等
に登用し、王族を地方に派遣することで王権を安定させました。そして周辺の高
句麗や新羅(シンラ、しらぎ)の侵略を防ぎ、中国との活発な交流を奨励しなが
ら、先進文化を幅広く受け入れていきました。 さらに、周辺の平野を次々と開墾
し、国家の経済を安定させるなど、百済の基盤づくりに努めました。このような
武寧王の働きにより、百済は国家の危機を無事克服し、もう一度強国としての仲
間入りを果たすことになります。
ソウルから公州へ都を遷した後の 63 年間は、
高句麗の侵略により首都を奪われ、不安定な状態が続いた時期でした。しかし、
これを賢明に切り抜け、もう一度強国へと成長していく基盤を整えた時期だった
とも言えます。
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3. 泗沘時代
百済歴史文化館
泗沘時代 それでは最後に、百済の復
興を夢見ながら、今の扶余(プヨ)に都
を遷した泗沘時代についてお話ししま
しょう。 6 世紀。百済第 26 代目の国
王であった聖王(ソンワン)は、国のさ
らなる発展のため、ここ扶余へ都を遷
す と い う 決 定 を 下 し ま す 。 公州は外敵から国を守るにはもってこ
いの場所でしたが、その分百済が外に浸出することは非常に困難な場所でもあり
ました。そのため、百済の王は遷都という決断を下し、広い平野と大きな川の流
れる扶余に新しい都を建設することにしたのです。 都を遷した百済は、王権を強
化し、中国や日本との交流を広げながら、政治、軍事、文化など、多方面からの
国力強化に励みました。そしてこのような国力を基盤に他国への侵略を進め、新
羅が支配する 30 ヶ所以上の城を征服し、その勢力を広げていきました。
しか
し、このような百済の動きに危機を感じた新羅は、中国に助けを求め、中国がこ
れに応え軍を起こし、百済への反撃を開始することになります。わずか 5 年前、
新羅を滅亡の危機にまで追い詰めた百済でしたが、中国と新羅の連合軍にはまっ
たく歯が立ちませんでした。結局百済は、中国と新羅の連合軍によって都を攻め
落とされ、7 世紀、百済は最後を迎えることになります。 このように泗沘時代を
最後に、約 700 年間、韓半島の盟主として名を轟かせた百済は歴史の中に消えて
いくこととなります。
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4. 百済の城郭
百済歴史文化館
百済の城郭 今皆さんがご覧になってい
る模型は、百済時代の城壁を造る工事
現場を再現したものです。百済は優れ
た建築技術を持っていました。当時、
土で造られた城壁が千年を過ぎた今で
もそのまま残っているソウルの風納土
城(プンナプトソン)と夢村土城( モン
チョントソン)と呼ばれる土で築いた城
などを見ていると、当時の人々の技術がいかに優れていたかということが分かりま
す。いったいどうやって造ったら、千年という長い月日が流れてもそのままの形を
維持することができるのでしょうか。 奥の方へ行って、城壁を造っている部分を
ご覧ください。 何人かが木の棒で土を固めているのが見えると思います。土がく
ずれてしまうのを防ぐため、柱を立てて板を挟み固定させている様子も見えます
ね。このように城壁を造る場所にしっかりと土台を立て、土を固めていく作業を
繰り返し、一段ずつ積み重ねていくと、土の密度が濃くなって、とても丈夫な城
郭が造られるのだそうです。 けれども、これだけでは千年以上持ち堪える丈夫な
城壁を造ることはできません。ここには、もう一つの秘密があるのですが、その秘
密というのが、木の葉っぱだったそうです。城壁を造る際に、土を薄く敷いて固
めた後、その上に木の葉っぱを薄く敷き詰めます。その次にもう一度土を盛り、
さらにその上から木の葉っぱを敷き詰めます。このような工程を繰り返し、城壁
を積み上げていくと、非常に強力な粘着性を持つようになり、土の凝集力がアッ
プするそうです。また、浸透圧効果で浸透した水も自然に蒸発していくので、安
定感にも優れていました。 このように、時代を先駆ける技術力と当時の人々の汗
が染み込んだ百済の城壁は、千年という長い時間が経ってもなお、当時の姿をそ
のまま残し続けているのです。
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5. 百済の工房
百済歴史文化館
百済の工房
[職人 1] おい、ここにはどんな模様を入れたらいいかな?
[職人 2]
王様の威厳が強調されなきゃならんからな。派手な龍の模様なんかはど
うだ?
[職人 1] よし、それにしよう。じゃあ、さっそく錐と金づちで模様を彫ることにす
るよ。
[職人 2] いや、それよりも君の新しい技を使ってみるのはどうかね?0.5mm にも
満たない小さな金の粒を繋げて模様を造る金鏤細工のことだよ。たぶんそれを見
たら、王様もびっくりするだろうな。そしたら君にものすごい褒美だってくれるか
もしれんぞ!
[職人 1]
それもそうだな!いよいよ俺の実力を発揮する時が来たってわけか。王
様が褒美をくださったらご馳走するよ。
[ガイド]
百済工房の忙しそうな様子が伝わってきますね?このように百済の工房
では王様の装身具から農機具、生活用品に至るまで、様々な工芸品が造られたと
言います。 皆さんは金銅大香炉という香炉をご覧になったことはありますか?百
済芸術の極みとも唄われているこの作品も、実は、このような工房で造られたそ
うです。こうしてみていると、百済の職人たちは際立った美的センスと金属細工
の技を持っていたということが分かりますよね。
それでは、百済がこのように優
れた金属工芸技術を取得できた理由はいったい何だったのでしょう。それは国の
全面的な支援によるものだったと言われています。 百済では工房を管理する官庁
を置き、技を持つ職人たちに博士という称号と官位を与えました。 このように専
門的な職人技を持った職人たちを社会的に広く認め、体系的に管理していた百済
時代の社会的風潮のおかげで、百済の金属工芸技術は発展していったのでした。
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百済歴史文化館
百済の農業
6. 百済の農業
さて、百済の工房をご覧になった後は、百済の農業を見てみること
にしましょう。
百済は首都周辺に大きな川が流れる肥沃な平野を持っていたた
め、早くから農業が盛んに行なわれていました。このように百済の農業が盛んに
なった理由は、豊かに肥えた土地という地理的条件もさることながら、鉄製の農
機具が発達していたというのも重要な理由の一つだと言えます。 百済では昔から様々な種類の鉄製農機具が使われていましたが、これらを利用す
ることで農作物の生産力はどんどんアップしていきました。
そんな中、4 世紀ご
ろになって、百済の農業は飛躍的に成長します。牛を使って畑を耕している農夫
の姿が見えると思います。そんなに力を使わなくても広い畑を耕すことができるよ
うになり、百済の農業は収穫量が急増する革新的飛躍を遂げるようになりまし
た。 この他にも、百済は農業を発展させるための様々な支援を惜しみませんでした。
中央官庁には天気を予測し、これを知らせるための「日官部(イルグァンブ)」という
気象庁のような部署が置かれ、農業を科学的にサポートしたりもしました。 また、凶年には税金を減免するなど、百姓たちが農作業に専念できる環境の整
備が押し進められました。 このように百済は、大きな川を挟んだ平野地帯という
地理的利点と、優れた鉄製農機具、科学を利用した農耕技術、さらに百済の人々
の努力により、農業を飛躍的に発展させていったのでした。
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7. 百済の織物と農家
百済歴史文化館
百済の織物と農家
今皆さんがご覧になっているのは、百済の農家の様子を再現
した模型です。 部屋の左側を見ると、機織り機で服の生地を織っている人の姿が
見えると思います。今は機械で生地を作る時代になりましたから、このような光
景はめずらしいかと思われます。ヨーロッパでも産業革命以前は、家内制手工業
でしたので家で服を作っていましたが、当時百済の人たちも家で機織り機を使っ
て糸を引き、服の生地を織っていました。 生地の生産は主に農家の女性たちの仕
事でした。こうして作られた生地は、生活に必要な服を作ったり、穀物の代わり
に税金として国に納めたりしました。 次に部屋の右側をご覧ください。一人の女
性がひしゃくのような形のアイロンでアイロンがけをしていますね。ところでアイ
ロンの形が随分変わっていませんか?当時、身分の高い貴族たちはこのような形
のアイロンでアイロンがけをしていたそうです。 百済時代の住居地の遺
跡からは、当時、生地を作る際に使用されていた様々な種類の道具が発掘されま
した。これにより、ほとんどの農家で生地を作る仕事が日常的に行なわれていた
ということが明らかになりました。
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百済歴史文化館
8. 百済の鍛冶屋
百済の鍛冶屋 今皆さんがご覧になっている模型のように、2 人 1 組になって鉄を
たたく姿は、中世時代の騎士たちの鎧や刀を作っていた鍛冶屋を思わせます。 古
代社会において鉄は、今とは比べものにならないほどの価値ある資源として重宝
されていました。石や木で作られた農機具が鉄製の農機具に変わりながら、農業
生産力がアップし、青銅で作られた様々な武器もまた、鉄製のものに変わりなが
ら、軍事力が強化されていきました。 結局、古代社会では、鉄を制した者たちが
権力を握ったと考えることができます。 鉄製品を作るためには、何よりも優れた
製鉄技術が必要となります。製鉄技術は鉄鉱石から銑鉄を作るための技術で、百
済は純度の高い鉄を生産する技術に長けていました。 また、鉄をたたいて物を作
る鍛造技術や鉄を型に流し込み、形を作る鋳造技術にも長けていました。そのた
め、武器、馬具、農機具など、様々な種類の鉄製品を自由自在に製作することが
できたのでした。 また、百済で作られた鉄製の鎧や武器は、その優れた技術を基
にした、精巧かつ美しい仕上がりで、中国からのラブコールが絶えなかったと言い
ます。
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百済歴史文化館
9. 百済の商業
百済の商業 今皆さんの前には、活気づいた百済時代の市場が見えると思います。
背中にしょいこを担いで薪を売っている木こりの姿や、買い物を終えて両手いっ
ぱいに荷物を持っている通行人の姿などが見えますね。 当時は、官庁が置かれた
都城の周りや城門近くの大きな道、そして港などに市場が設けらました。人々は
このように設けられた市場で物々交換をしながら、必要な物を手にいれたりしま
した。 百済は首都が 3 度も変わりましたが、いつも首都の近くには西海と南海に
流れ込む大きな川があり、中国や日本との交流が盛んに行なわれていました。 特
に、公州のコムナルや扶余のクドゥレナルのような大きな港があり、当時、外国の
交易の拠点として栄えました。日本では百済のことを「くだら」と呼びますが、ク
ドゥレナルの名前から由来したという説もあります。
百済で作られた絹や鉄製
品、そして陶磁器などは、美しく精巧に作られており、中国や日本で広く人気を
集めたと言います。特に明光鎧(ミョングァンゲ)と呼ばれる黄金色の鎧は、頑丈な
上に美しいラインが目を引き、中国の商人からのオーダーが絶えなかったと言いま
す。
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百済歴史文化館
10. 百済の窯業
百済の窯業
さて、かまどに薪を入れている人や陶器を乾燥させている人が見えると思います。
何人かの人が忙しそうに動きながら陶器を焼いていますね。
それでは、百済時代に瓦や陶器を作っていた職人、瓦博士についてくわしくお話
しすることにしましょう。 百済では腕のある職人を博士と呼び、官職を与えていたのですが、これは手工業
ギルドのマスターのような存在でした。当時、博士は、該当分野の専門家として
、学者や技術者などの専門家ら全てを総称するものでした。彼らは 8~9 番目に
高い官職を占めており、当時の百済では相当贅沢な待遇を受けていたことが分か
ります。 博士という階級が百済にできた理由は、手工業の発展とともに生産工程が複雑化
していったためでした。模型をご覧になると分かるように、薪を入れる人、陶器を
乾かす人とそれぞれ仕事が分担されているのが分かると思います。このように品質
と生産性を高めるため、各自の仕事を統率する瓦博士が必要だったと言います。 百済では瓦博士を日本に派遣し、優れた技術を広く伝えたと言いますが、今でも
日本のお寺の随所に、百済の模様が刻まれた瓦が多く見られるそうです。
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百済歴史文化館
計画都市、泗沘
11. 計画都市、泗沘
これは、百済の 3 番目の首都である「扶余」の王宮跡を歴史的考
証に基づいて再現したものです。当時の「扶余」は、何もない荒れ地を一から開墾し
て造った計画都市だったと言います。百済人たちは城を建て、王宮、官庁、寺
院、道路、水路などを順番に作り、都市を整備していきました。ところで百済は
なぜ、首都をここ「扶余」に遷したのでしょうか。百済の 1 番目の首都は、今の「ソ
ウル」でした。その後、韓半島の北部を支配していた国の侵略を受け、南方の「公
州」へと逃れていきます。そこで百済は見事に存亡の危機を乗り切り、国を安定さ
せていきます。 6 世紀に入り、百済の聖王はさらなる国の発展を目指し、ここ「扶
余」への遷都に踏み切ります。「公州」は、外敵から国を守るにはもってこいの立地
でしたが、その分百済が外に進出することは非常に困難な場所でもありました。
そのため、聖王は遷都という決断を下し、広い平野と大きな川の流れる立地条件
から海上からの貿易に適している扶余に首都を遷しました。その後、百済の王と
民は一致団結して新しい首都の建設に励みました。
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12. 南堂会議
百済歴史文化館
南堂会議
さて、次にご紹介するのは、百済時代最高位の貴族会議であった南堂
(ナムダン)会議です。
南堂とは政治家たちが国事を論議する現在の議会のよう
に、当時の貴族たちの会議組織またはその会議が開催された場所を指します。 百
済時代は、国に関する全てのことを王が一人で決定するのではなく、ここ南堂に
おいて貴族たちとの会議を通して決定していました。主に国事を決定する南堂会
議は王宮内で行なわれましたが、重要な決定を下さなければならない時などは、
その正当性と神聖さを強調するため、お寺のような宗教的意味を持つ場所で行な
われました。 模型をご覧になると、一番奥に紫色の服を着て椅子に座った百済王
の姿が見えると思います。それから南堂に並ぶ貴族たちをよく見ると、前方に
立っている貴族と後方に立っている貴族の服の色が違いますね。官位の高低に
よって、より位の高い貴族は赤色、低い貴族は青色の服を着ていたそうです。
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百済歴史文化館
13. 百済の建築
百済の建築 皆さんが今ご覧になっているのは、百済時代の王宮を建てている様子
を再現したものです。模型をよく観察してみてください。職人たちが瓦や木材を
運んだり、石を削ったりと建築の仕事に余念がありませんね。 それでは、百済時
代の建物はどのように造られたのかについてお話ししましょう。 頑丈な王宮を建
てるため、百済では土の上に礎石を置いて、柱を建てる建築様式が用いられてい
ました。それまでは土を掘って柱を直接土の中に打ち込むのが普通でしたが、こ
うすると、湿気のせいで柱が腐り、頑丈な建物が造れないという欠点がありまし
た。こうした欠点を補うため、丈夫な礎石を置くことで湿気を防ぎ、屋根の重量
が地面にかかる割合を均等にさせたそうです。 柱を立てた後は、屋根を載せなけ
ればなりませんが、ここで、百済建築だけの特徴を発見することができます。建築
物の上の方をご覧ください。屋根から下へと突き出た木材が見えると思います。
このように屋根から長く伸びた軒を作ると、雨が入ってくるのを防ぐことができ、
建物の寿命がさらに延びると言います。 このような百済の独特な建築様式は、古
代日本に伝えられ、現在、日本に残る様々な建築物からその特徴を見つけること
ができます。韓国では、百済文化団地内の泗沘城(サビソン)から百済建築の特徴
を見ることができます。
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百済歴史文化館
14. 武寧王と王妃の殯殿
武寧王と王妃の殯殿 今皆さんがご覧になっているのは、公州市内が一望でき、東
側に百済の山城が見晴らせる艇止山(チョンジサン)という山の山頂にある遺跡の
模型です。 武寧王と王妃の墓石には、武寧王と王妃がこの世を去った後、27 ヶ
月が過ぎてからようやく陵墓に安置されたという記録が残されています。しかし、
遺体を埋葬する前に仮安置されていた場所がどこであったかは定かでありません
でした。 そんな中、1996 年、道路工事が行なわれた際に、近隣の山から武寧王
陵と同じ蓮華の模様が刻まれた瓦が発見されました。また、百済の王宮跡からし
か発見されていなかった物と同じ模様の遺物が次々に発見されたのです。これに
より、武寧王陵との関連性がますます高くなっていきました。 そしてつい
に、決定的な証拠となった氷を貯蔵する倉が発見されたのです。遺体が腐敗した
際に出てくる臭いを押さえるため、氷を使ったのは古代から伝わる古い習慣でし
た。 ついに武寧王と王妃の遺体を 27 ヶ月間安置していた場所が発見されたので
した。こうして、一つずつパズルのピースが合わさるように証拠が発見されていく
中で、艇止山遺跡は武寧王と王妃の遺体を保管していた施設として結論づけられ
たと言います。
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15. 百済墓地の移り変わり
百済墓地の移り変わり 今皆さんがご覧になっているのは、百済時代のお墓がどの
ような移り変わりを見せたのかを再現した模型です。当時、百済の平民は、土を
掘って遺体をそのまま安置したり、木や石で小さなお墓を作り、遺体を埋めたた
め、その痕跡は十分に残されていません。しかし、王や貴族のお墓は部分的に
残っているため、当時のお墓がどのように移り変わっていったのかを伺い知ること
ができます。
まず、一番右側に見えるピラミッド型のお墓は、「トルムジ·ムドム」
と呼ばれる積石塚で、百済初期の国王と貴族が埋葬されたお墓でした。このお墓
は床に遺体を置き、その周りに石を階段のように積み上げて作るお墓です。 これ
とあまり変わらない時期に、地方では左から 2 番目に展示されている通称「ハンア
リ·ムドム」、日本語で甕棺墓というお墓が作られていました。このお墓は、大小
様々な大きさの甕や壺の中に遺体や遺骨を入れ、土に埋めたもので、エジプトで
王が死ぬと王の内蔵を壺に入れ、埋葬したのと似ています。 次に登場したのが、
一番左に展示されたお墓で、日本の竪穴式石室に当たる、「クドンシク·トルバンム
ドム」です。このお墓は現在作られているお墓のように、地面に四角い穴を掘っ
て、遺体を埋葬するお墓で、遺体を安置した後、その上に蓋石をのせる形のお墓
を言います。 最後にご紹介するお墓は、右から 2 番目に展示されている、横穴式
石室、通称「クルシク·トルバンムドム」です。石で四角い部屋を作り、そこに遺体
を安置し、遺体が置かれた部屋へと続く通路に当たる羨道を造りつけたお墓で
す。当時、遺体が納められた玄室に入り口と通路がつけられた理由は、この場所
が単純なお墓ではなく、遺体が死んだ後生活する空間だと思われていたためでし
た。
このように百済時代のお墓は、その時期と地域によって形や特徴が異なっ
ていました。百済文化団地の古墳公園に当時のお墓をそのまま移して、復元した
ものが置かれていますので、一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか
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16. 武寧王陵
百済歴史文化館
武寧王陵
これは、武寧王陵の内部を再現したものです。
武寧王陵の床を再現
し、その上に重要な遺物を配置しました。灯台のある北側と東側の壁面は比較的
精密に造られています。 まず、左側をご覧ください。ここがお墓の中へと続く入
り口です。通路に沿ってその上に並べられた遺品をご覧ください。今皆さんがご
覧になっているように、墓石やコイン、動物の形をした石像などが発掘当時、こ
のように通路に置かれていたそうです。王と王妃の棺が置かれている場所が遺体
が安置された玄室(げんしつ)で、床が一段だけ高く積み上げられているのが分かる
と思います。 壁面には蓮華模様が刻まれているほか、北側には火花模様の灯台が
置かれているのが見えると思いますが、灯台は棺を安置した後の最後の儀礼に使
われたものだと推定されています。お墓の中に火が灯った状態でお墓の入り口を
閉め、油が切れると灯台の火が自然に消え、お墓の中は真っ暗になるという仕組
みになっています。発見当時、灯台の灯した様子が 1500 年という時を越え、当
時の面影をそのまま残しているようだったと言います。
公州の松山里(ソンサン
リ)古墳群にある武寧王陵は 1996 年、壁石が崩れかけ、湿気が溜っているのを発
見され、保存のため、一般公開が中断されました。そのため、今では残念なこと
に実際のお墓の内部を見ることはできませんが、その代わり、松山里古墳群にあ
る模型展示館に行くと、実際のものと同じレプリカが置かれているので、武寧王
陵の内部を詳しく見ることができます。
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百済仏教の日本伝播
17. 百済仏教の日本伝播
今皆さんがご覧になっているのは、百済の仏教文化が日本
に伝播された時の様子を再現したものです。 百済は早くから中国から伝来した仏
教を国教とし、文化的に大きな発展を見せました。このような百済の華やかな仏
教文化が初めて日本に伝えられたのは、6 世紀ごろだったそうです。当時、韓半
島は三国による熾烈な領土争いが続いており、一寸先も見えないような状況でし
た。そのため百済は、燐国の新羅と高句麗を牽制するための勢力である日本と緊
密な関係を築くため、仏教文化を伝えていくようになりました。 百済はまず、た
くさんの僧侶と仏典、そして仏像彫刻を日本に送りました。派遣された僧侶たち
は仏教の布教と共に、生活や文化に密接した様々な先進技術を伝えました。こう
した彼らの努力により、仏教が日本中に普及していきました。さらに、百済は、
建築や彫刻、工芸などで最高位を誇る職人たちを日本に送り、日本に塔やお寺、
仏像を建てたり、技術を伝授したりしました。 このように、百済から送られた僧
侶や職人たちが日本に仏教文化や技術を伝え、6 世紀の日本では飛鳥文化と呼ば
れる仏教文化が開花するようになります。
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18. 瑞山磨崖三尊仏像
瑞山磨崖三尊仏像 今皆さんがご覧になっている仏像は、扶余から少し離れた山の
中腹に、海を見下ろしながら聳える自然の岩壁に彫刻された仏像を再現したもの
です。 れは 7 世紀ごろに造られたものだと推定されています。 仏教の祖国イン
ド、仏教が伝わったタイ、そして日本や中国でもたくさんの仏像が造られました。
しかし、各国の仏像はそれぞれ異なった特徴を持っていますね。インドの仏像はイ
ンド人に似ていて、タイの仏像はタイ人に似ています。自分たちに似せた仏像を
造ったのはとても自然なことだと言えます。ここにある磨崖仏(マエブル)と呼ばれ
る磨崖仏は、百済人の顔によく似ています。 真ん中の釈迦如来の姿をよくご覧く
ださい。まるまるとした顔に笑みを浮かべていますね。左にある菩薩像は子供のよ
うな笑顔を見せ、右側にいる菩薩像はやわらかく微笑んでいます。真ん中の仏像
からは百済の少年の顔が、両側にいる菩薩像からは百済の少女の姿が連想できま
す。そのため、韓国ではこの仏像を「百済の微笑み」と呼び親しんでいます。
実
際、岩壁に刻まれたこの三尊仏像は明るい日の光を受けると、にっこり明るい笑
みを浮かべ、夕方の日暮れ時になると静かで慈悲深い微笑みを浮かべるそうで
す。日の光が当たる角度によって顔の表情が違って見えるんですね。 時間の余裕
があれば、瑞山(ソサン)の山に行って、明るく笑ったり、静かに微笑んだりとその
表情を美しく変える「百済の微笑み」を一度ご覧になってみることをオススメしま
す。
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百済歴史文化館
弥勒寺に伝わるエピソード
19. 弥勒寺に伝わるエピソード
今皆さんがご覧になっているのは、昔の弥勒寺(ミル
クサ)の姿を再現した模型です。7 世紀、百済第 30 代国王の武王(厶ワン)によっ
て造られた弥勒寺は当時、東アジアで最も大きいお寺だったと推定されていま
す。
ところで、この弥勒寺にはその建設をめぐるある逸話が伝えられています。
ある日、王と王妃が祈りを捧げるためお寺に行く途中、龍華山(ヨンファサン)と呼
ばれる山の麓にある大きな蓮池の前を通った時のことでした。ちょうどその時、そ
の蓮池の中から弥勒菩薩が現れたのです。不思議な経験をした王は、その場所が
神聖な場所であることを悟り、国のために大きなお寺を建てることにしました。
指示を受けた職人たちが、大きな蓮の池を埋める方法を模索しましたが、なかな
か良い方法が見つからず、一人の和尚さんに助けを求めます。するとその和尚さ
んはたった一日で山を削り、蓮の池を埋めてしまいました。また、燐国からはたく
さんの人たちが送られ、お寺の建設を手伝ったと言います。「ミルク」は韓国語で、
「弥勒」の意味ですが、お寺が完成すると、王は弥勒菩薩の加護により百済の民が
平穏に暮せることを願い、弥勒寺と名付けたそうです。
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20. 金銅弥勒菩薩半跏思惟像
金銅弥勒菩薩半跏思惟像
[先生]
皆さんの左側にあるのは、金銅弥勒菩薩半跏思惟像を復元したレプリカ
で、右側にあるのは、日本でも最高と唄われている国宝、木造弥勒菩薩半跏思惟
像を復元したものです。見事な造りが目を引きますね。
[学生]
あの、先生。ところで、この 2 つの仏像、形がそっくりですね。2 つと
も、そんなに飾り立てているわけではないのですが、とても精巧に造られているの
が分かります。それに静かな微笑みを見ていると、なんだか心が和んでくるようで
す。
[先生]
そうですね。この 2 つの仏像ですが、姿や雰囲気がそっくりですね?日本
の木造弥勒菩薩半跏思惟像は、百済で造られ、日本に伝えられたものであると推
定されています。こうした事実は、とても偶然ないきさつで明らかにされたのです
が、これに関するおもしろいエピソードをお話ししましょう。
日本の木造弥勒菩
薩半跏思惟像に惚れ込んだ一人の日本人の青年が、ある日誰もいない隙を見計
らって仏像をぎゅっと抱きしめたのですが、なんとその時、弥勒菩薩の手の指が
一本折れてしまったのです。
[学生] ええっ!それでどうなったんですか?
[先生]
その青年はびっくりして指を拾って逃げたのですが、日本中が大騒ぎにな
りました。何日かして青年は指を持って自首し、仏像は修復されることになりま
した。その時、文化財の専門家たちが修理をしていると、仏像を造った木が韓国
の慶尚北道(キョンサンブクト)の奉化(ポンファ)地域にしか生息しない春陽木
(チュニャンモク)と呼ばれる紅い松の木であることが分かりました。 それまでは、
この仏像が仏教文化の伝来により、日本で造られたものだと知られていました
が、こうしたアクシデントにより、百済で造られ、日本に渡っていったものである
という事実が明らかにされたのです。
[学生] 本当にアクシデントによって新しい事実が発見されたんですね。
[先生] はい、こうした事実を通して、私たちは、日本の仏教文化の発展に百済が
大きく貢献したという事実を再確認することができたと言えます。
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21. 弥勒寺址九層木塔
上げました弥勒寺の中央に建てられていたとされる弥勒寺址(ミルクサジ)九層木
塔を縮小させた模型です。この弥勒寺址九層木塔は、百済が滅びた後に無くなっ
てしまった木造の塔ですが、歴史的考証を通してこのように再現されました。 皆
さんは当時、木造の塔をどのように造っていたかご存じですか? 当時、木造の塔
は釘を一切使わずに、木材のみを使って造られていました。 木を切り、削って磨
いた後、精巧に組み立てる方法で建てられたのですが、現在の技術でもなかなか
真似できない難しい技術だと言います。驚くべきことに、発掘調査結果による
と、この弥勒寺址九層木塔は、なんとマンション 20 階建ての高さに当たるもの
だったと言います。 それでは、こんなにも大きな弥勒寺と木造の塔を造った理由はなんだったのでしょ
うか。百済では、6 世紀以降、弥勒信仰が平民たちの間で普及し、百済の民は、
いつしか弥勒菩薩がこの世に現れて、戦争に苦しむ自分たちを救ってくださると
信じていました。これを知った当時の国王は民の心を一つにし、国を守り、繁栄
を築こうという願いから弥勒寺を建てることを決心したと言います。
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22. 三国の鴟尾
三国の鴟尾 今皆さんがご覧になっているのは一体なんだと思いますか?鳥のくち
ばしのような形をしたこれは、通称「チミ」、日本語で鴟尾と呼ばれるものです。鴟
尾は瓦屋根の両端につけられる飾りの一種で、ここには、高句麗、百済、新羅の
各国の鴟尾のレプリカが展示されています。 三国にはそれぞれ、物の怪などが家
に入ってこれないようにする厄除けとして、屋根の両端にこの鴟尾をつける風習
がありました。 ではなぜ、この鴟尾は鳥のくちばしのような形をしてい
るのでしょうか。その理由は、鳥のくちばしが邪悪なものをつついて追い払うと考
えられていたためでした。厄除けとして飾られたこの鴟尾は、その家に住む主の権
威や威厳を象徴する飾りとしての役割も果たしました。それでは、三国の鴟尾は
それぞれどのような違いがあったのかを比較してみることにしましょう。
三国の
うち、最も北方に位置していた高句麗は男性的な性格が強く、模様自体が鋭く力
強い雰囲気を醸し出しています。装飾品もまた、太く力強いラインが特徴の粗っ
ぽい仕上がりが目を引きます。
西側の百済は、高句麗の影響を受け男性的な性
格が見られますが、全体的にやわらかいラインを使用しているため、高句麗に比
べるとややおとなしい感じがします。その反面、東側に位置していた新羅は、形と
しての特徴よりは瓦の中に様々な模様が描かれており、華やかさが強調されてい
ます。 このように厄除けと主の権威を表すため作られた鴟尾は、作られた目的は
同じでも、その国特有の形や模様が施されていたということです。
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23. 金銅大香炉
金銅大香炉 金銅大香炉は、百済人の魂と芸術性を凝縮させ
た百済でも最高位を誇る工芸品です。驚くべきことに、この
美しい香炉は観光客用駐車場の工事現場で偶然発見されたの
で す 。 泥 の 中 の 蓮 華 と で も 言 い ま し ょ う か 。 1400 年ぶりに長い眠りから覚めた香炉は損傷もなく、本来
の形のままでした。発掘当時まで泥の中に密閉された状態
だったため、完璧に保存されていたのです。 香炉が発見され
た後、その周辺を追加発掘しながら、そこが百済王室のため
の寺があったことを知りました。そして、香炉が単なる装飾
品ではなく、重要な儀式があるたびに使われた一種の祭祀用
の香炉として使われたという事実も明らかになりました。 古代エジプト、西洋の多くの国でもお香を焚いて祭祀を執り行ったという記
録があります。これを見ると、東洋・西洋ともに古代社会では何かを燃やして得た
香りと煙は、非常に神聖視されていたことが分かります。 では、香炉をきちんと
見てみましょう。 香炉は、大きく 4 つの部分からなっています。鳥の柄のある一
番上の部分と、煙が出てくるふた、そして華やかな模様が刻まれた胴体、龍の形
の台です。 まず、蓋の上に毅然と佇む鳥は、古代の東洋では神聖な生き物として
崇められていた想像の中の動物で、鳳凰と呼ばれているものです。西洋の不死鳥
みたいなものですね。この鳥は、龍と共に神聖な力を持つと考えられていました。 香炉の上にある鳳凰の姿は、百済芸術の洗練さをよく見せてくれています。特
に、上に柔らかく伸びた長い尻尾は、繊細な工芸技術の集大成と言えます。
次
に、ふたの部分の山は、仙人が集まって暮らす世界を表現しています。色んな珍
しい動物や花々、そして天上の楽士が一緒に暮らす姿は、まるで天上の楽園を想
像させますね。 最後に、胴体の部分は、まるで咲き乱れる蓮のような姿をしてい
ますが、これはすべての生物は、蓮の花から誕生するという仏教の世界観を象徴
するものです。
この香炉は、仏教、自然世界、現実と理想の境界を全て調和さ
せ、当時の百済の人々が夢見た理想郷の姿を完璧に表現しています。
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24. 百済の石塔
百済の石塔 ここは、百済時代に造られたいろんな塔のレプリカが展示された場所
です。塔は釈迦牟尼の舎利を祀るための建物であり、お寺の象徴のようなもので
す。ここには仏教国家であった百済を代表する石塔がずらりと並べられていま
す。それではさっそく、百済石塔の特徴を一つずつ見てみることにしましょう。
初期の百済では主に木造の塔が造られていました。けれども木造の塔は火に弱
く、保存が難しいという理由から、石を使用するようになったと言います。 右側
から見ていきましょう。一番目の石塔は、石塔の元祖と呼ばれる弥勒寺址石塔で
す。石を使っていますが、木造の塔を造っていた建築様式がまだまだ残っている
石塔だと言えますね。2 番目に見える「定林寺址(チョンニ厶サジ)五層石塔」もま
た、木造の塔のやわらかいラインと石塔の重厚さを兼ね備えています。各層ごと
に屋根がまっすぐ伸びて、先の方だけがそっと上に跳ね上がっている姿からは、さ
りげない上品さが感じられます。それ以降の石塔の模型はどれも、先ほど説明し
た 2 つの石塔の建築用式を継承・発展させたものです。このような百済系統の石
塔は百済が滅亡した後も、南部地方を中心にその伝統が受け継がれ、子孫に残さ
れていきました。
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