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2010年度 - 新潟大学人文学部

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2010年度 - 新潟大学人文学部
新潟大学人文学部・情報文化課程
文化コミュニケーション履修コース
2010 年度 卒業論文概要
青柳
和希
廃墟ブームにおける軍艦島 ...................................
1
池田
敬祐
不良の表象 .................................................
2
石山
美菜
今敏の幻想世界 .............................................
3
井上
さとみ
ふたつの美人コンテストが提示する女性美
――ミス・ユニバースとミス・インターナショナル・クイーン ...
4
今井
あかね
雑誌『尐女の友』にみる「尐女」文化の構造 ...................
5
上田
優芽乃
伊坂幸太郎論 ..............................................
6
加藤
匠
成年コミックマークの爪痕――マルチスクリーン・バロック .....
7
小林
あゆみ
宮崎アニメにおける“食” ...................................
8
小林
芽生
京極夏彦論 .................................................
9
小柳
未来
『南総里見八犬伝』烈女考――八犬女をめぐって ............... 10
坂下
祐子
ひかわきょうこ論 ........................................... 11
菅谷
知可子
アルフォンス・ミュシャ論 ................................... 12
須藤
亮子
上遠野浩平論――“居心地の悪さ”、自意識と葛藤をめぐって .... 13
高橋
和
マンガ同人誌による作り手とジャンルの変容
――『ローゼンメイデン』が生まれるまで ..................... 14
高山
典子
人であって人でないもの――小野不由美論 ..................... 15
天渡
江里香
現代アートにおけるメディアとしての靴 ....................... 16
林
孝典
社会の中の「オタク」
――アニメーション作品『イヴの時間』に見る二次元への嫌悪の形 .. 17
廣瀬
里恵
あさのあつこ論 ............................................. 18
前田
和樹
戦後野球漫画における女性キャラクターの変遷 ................. 19
水戸
淳美
新選組復権における子母澤寛の功績 ........................... 20
宮下
陽菜
さくらももこ論――「まる子」と「ももこ」のあいだで ......... 21
山崎
真弥
岡田淳論 ................................................... 22
渡部
晃充
日本におけるラップ実践の創造力 ............................. 23
佐藤
ももよ
変装するマンガ──篠房六郎を中心に.......................... 24
山賀
美都
聴覚表現から考える三谷幸喜 ................................. 25
武者
亜理沙
細田守論 ................................................... 26
谷澤
明音
A. ロトチェンコによる視覚芸術の破壊
――新しいもののみかたと社会主義リアリズム ................... 27
向田
絵梨子
スパイク・ジョーンズ論 ..................................... 28
廃墟ブームにおける軍艦島
青柳 和希
長崎県長崎市にある軍艦島(正式名称 端島)は、19 世紀終盤から 1974(昭和 49)年
まで石炭の採掘が行われた海底炭鉱の島である。軍艦島は、製鉄用の優良炭を生産する炭
鉱として、日本の近代化に貢献した炭鉱の島であっただけでなく、他の炭鉱や島と比べ特
異な点が多く、注目された島であった。この論文では、廃墟ブームにおける軍艦島を中心
として、島の印象の変化について考察した。
第 1 章では、軍艦島の歴史と、見られ方の変化について考察した。単に炭鉱としてだけ
でなく、日本初の鉄筋コンクリート造アパートや屋上庭園の造成などの特徴から、特殊な
島として捉えられていた。このような点は、新聞などで誇張されて報道されることもあっ
た。炭鉱が閉山し、無人になって以降は、保存や活用も考えられたものの、対策はほとん
ど取られず、広告や映像、写真などを通じて棄てられた島という認識が広まった。
第 2 章では、廃墟ブームの特徴について考察した。廃墟ブームは、1990 年代後半から
インターネットの普及とともに広まっていった廃墟憧憬の流行を指す。廃墟ブームにおけ
る廃墟は、日本が繁栄した頃の遺物であり、廃墟フリークは潜入や写真撮影などを通して
廃墟に触れていた。また、それらがインターネット上で公開されることにより、ブームと
して広まっていった。
第 3 章では、第 2 章を踏まえ、廃墟ブームにおいて軍艦島がどのような存在であったか
について考察した。軍艦島は「聖地」と呼ばれていたが、それは廃墟としての規模の大き
さや潜入の難しさなど、他の廃墟には見られない点が要因となっている。また、先に挙げ
たような理由で、
炭鉱として操業していた頃から知られていたということも重要であった。
第 4 章では、近年の軍艦島を取りまく動きについて考察した。近年は世界遺産登録に向
けた取り組みが行われており、世界遺産暫定リストへの登録や上陸解禁などの成果があげ
られている。また、上陸解禁に併せ、観光という面でも注目されている。しかし、軍艦島
を廃墟として見てきた廃墟フリークにとっては複雑な心境であった。それは、歴史的な視
点から保存されるべきであるという考え方もある一方、一度人の手から離れ、自然に還ろ
うとしていたものに再び人の手が加わることで、廃墟ではなくなってしまうという意識が
あるためである。しかし、このような保存の動きは日本各地の廃鉱山で見られるようにな
り、軍艦島もまた、保存・遺産化によって歴史的重要性を再確認することになった。
以上のように、軍艦島は、その歴史の流れの中で様々な見方がされてきた。それは主に
島の内側に住む人々の見方ではなく、島の外側からの視線がその見方を決定してきたと言
える。しかし、近年になって起こった保存活動は、外側からの視線だけでなく内側の視線、
特に保存活動が始まるまではあまり注目されてこなかった故郷としての端島という考え方
が強調されている。現在は、廃墟の聖地から、未来へ残されるべき遺産あるいは故郷とし
て変わりつつある。
1
不良の表象
池田 敬祐
近年、『クローズ ZERO』(2007)、『クローズ ZEROⅡ』(2009)、『ワルボロ』(2007)、『ドロップ』
(2009)、『ROOKIES』(2008)、『ROOKIES-卒業-』(2009)、『ヤンキー君とメガネちゃん』(2010)な
ど不良少年・少女を題材にした作品の実写による映画やドラマが目立っている。また『クローズ
ZERO』、『クローズ ZEROⅡ』は、二作品合わせて興行収入が 55 億円を超えるヒットとなり、他にも
『ROOKIES-卒業-』は 84.2 憶円、『ドロップ』は 19.5 億円の興行収入を記録した。
このような不良ブームが生じているのは、今日私たちが抱く不良のイメージに大きな魅力がひそ
んでいるからであると考えられる。しかし、これらの映像作品は主に漫画を原作としたフィクション
である。つまり現実ではなく、フィクションの中で描かれる不良のイメージが、今日私たちが抱く不
良のイメージとその魅力に大きく関係していると考えられる。本論文では、不良の歴史や文化など
を踏まえた上で、不良漫画を分析することにより、作中で描かれている不良のイメージを解き明か
し、不良の魅力を考察していく。また、その際の不良漫画は、学校を舞台にして不良たちの日常
を描いた作品に限定する。具体的には以下のような手順で考察を進めていく。
まず第一章では、不良という言葉の意味を明らかにする。不良とはどのような人物で、どのよう
なことをしたら不良といわれるのかを、法的な側面をも含めて検討し、明確に定義していく。また、
戦後から 1970 年代頃までの歴史、つまりは、今日に至る典型的な不良文化が登場する以前の不
良の歴史を見ていく。
第二章では、「ヤンキー」という言葉の語源とその歴史を、今日に至る不良の典型的なイメージ
を確立した「ツッパリ」をはじめとする学生不良文化に関連付けて検証していく。そして、ヤンキー
とは誰であり、どのような人物であるのかを解き明かす。
第三章では、今日私たちが抱く不良のイメージに深く関係していると思われる、改造学生服や
改造バイクなどといったファッションやアイテムなどのうち、いくつか代表的なものを紹介し、ヤンキ
ー文化の特徴を検証する。
第四章では、不良漫画に描かれている不良を俎上に載せて、漫画における不良イメージと
その魅力を考察する。その際に、高橋ヒロシ『クローズ』(秋田書店、1990-1998)と西森博之『今日
から俺は!!』(小学館、1988-1997)の二つの不良漫画を取り上げ、その中で描かれている登場人
物のファッション、性格、そして行動に着目し、双方を比較することでフィクションとしての不良の特
徴を明らかにする。
最後の第五章では、第四章までの分析をまとめた上で、そこから不良漫画における不良の魅
力を解明して、結論とする。
2
今敏の幻想世界
石山 美菜
今敏は『PERFECTBLUE』
、『千年女優』、『東京ゴッドファーザーズ』、『パプリカ』
などの映画作品で知られる、精緻な画力や独特の演出が特徴的な日本のアニメ映画監督で
ある。今敏の作品では、現実と虚構の二項対立が描かれることが多い。虚構はすなわち幻
想でもある。本稿は、作品ごとに特徴的な映像表現などを考察し、今敏の作品の映像が作
り出す幻想性というものを論じたものである。
第 1 章では、現実と虚構の対置をモチーフに描かれた今敏監督の映画を分析していくに
あたって、アニメーションの中の現実がどのように位置づけられるのか、アニメーション
映画にとって現実とはどのようなものであるかということを、アンドレ・バザンの指摘し
た写真や実写映画の持つ現実性と比較しながら考察し、アニメーション映画は虚構性を免
れないものであるということを確認した。また、今敏のリアリティのある画風や、今敏作
品に特徴的な「ハーモニー」という表現技法などを紹介しつつ、それらが、現実と虚構の
対置、結合のための重要なファクターになっていることを説明した。
そして第 2 章では『PERFECTBLUE』や『千年女優』、
『東京ゴッドファーザーズ』、
『パ
プリカ』といった今敏作品の考察を行った。主人公の自己同一性の混乱の表現や、現実に
はありえない特殊な時間軸の表現、ストーリー展開とシンクロした看板やポスター、ビル
顔など、背景に「だまし絵」的な要素を取り入れることで可能になる観客の視線を固定さ
せない表現、現代的なインターネット表象など、観客の心をゆさぶる特徴的なストーリー
の構造や表現方法などを作品ごとに説明を交えながら紹介している。
第 3 章では今敏作品の多くの作品に共通してみられる自己言及的表現を説明し、それが
映画というものの見世物性を強調しているということをあきらかにした。架空の世界やそ
のドラマに我を忘れさせるのではなく、自己言及的な表現により、観客を傍観者、観覧者
の位置に引き戻すことで、
「見る」という行為および好奇心とその満足の興奮を意識したま
までいるように仕向け、この今敏作品に特徴的な視座が今敏監督が観客を楽しませるため
に使用する様々な表現、演出方法をより魅力的に見せているのであるとした。
最終的に、様々な特徴的な表現技法によって観客に与える驚異や錯覚、精神的混乱が今
敏の作品を幻想的なものにしており、さらにアニメーションという、虚構性をまぬがれな
い媒体によって行われる自己言及が、映画内世界と映画外世界(観客席)の意識をつなぎ、
見世物性を高めるとともに、観客にインターネットや作り物がそこかしこに溢れる現実世
界というものを認識させ、現実を巻き込んだ形で混乱させる形になっているという風に結
論付けた。
3
ふたつの美人コンテストが提示する女性美
―ミス・ユニバースとミス・インターナショナル・クイーン―
井上 さとみ
第 1 章では、ミス・ユニバースとミス・インターナショナル・クイーンの概要について
述べ、ミス・ユニバースとミス・インターナショナル・クイーンの求める女性像を明らか
にした。ミス・ユニバースが求める女性像とは、知性があり、目的達成の意欲に満ち、感
性がある女性であり、彼女たちのキャリアの前進の希望、一個人と人道主義の目標と他者
の生活を改善しようと努める女性であり、
外見に関する記述は記されていなかった。また、
ミス・インターナショナル・クイーンでは、個性的な美と聡明さを、友好的な雰囲気のな
かで披露する場所と機会を提供すると謳っており、このコンテストでは個性的な美しさと、
聡明さが求められていると言えた。
第 2 章では、実際のミス・ユニバースとミス・インターナショナル・クイーンが表しう
る女性像について言及するため、各コンテストから 2009 年の優勝者であるミス・ユニバ
ース 2009 の Stefania Fernandez と、ミス・インターナショナル・クイーン 2009 のはる
な愛の 2 人を、化粧や美容整形という外見的要素から比較した。生まれながらに女性の人
たちとトランスジェンダー/トランスセクシャルの人たちには、共通して化粧や美容整形が
施される部位があり、本来の身体から理想の身体を形成しているという点で、ミス・ユニ
バースに出場している女性も、ミス・インターナショナル・クイーンの参加者も同様に、
人工的な美しさを体現していると言うことができた。
第 3 章では、ミス・ユニバースとミス・インターナショナル・クイーンとを比較した。
両コンテストが掲げている女性像については、外見に関する要素を記しているかいないか
という点で異なっていた。しかし、実際には両コンテストの参加者たちは、外見を重視し
ているということがわかった。第 2 章で、人工的な美しさを体現しているという点で同じ
であると述べたが、ミス・ユニバースに出場している女性たちは、女性の理想とする身体
に近づくよう生まれもった性を強調し、ミス・インターナショナル・クイーンの参加者た
ちは、生まれもった性を削除していくことで、自分の理想とする身体を構築していくとい
う点において、異なっていた。
第 4 章では、第 1 章から第 3 章を踏まえ、両コンテストにおける参加者たちが表しうる
女性像について述べた。両コンテストの求めている女性像はたてまえであり、この 2 つの
コンテストの参加者たちは、他者からの外見に関する評価を得ることに力を入れていた。
ミス・ユニバースの出場者は、一律的な美しさを体現し、ミス・インターナショナル・ク
イーンの出場者は、身体を女性らしく見せるための規則的な要素の他に、個性を表してい
た。一般の女性たちの求める美しさをより体現しうるのは、ミス・ユニバースに出場して
いる女性たちよりも、ミス・インターナショナル・クイーンに出場している本来は男性で
ある人たちのほうであると言うことができた。
4
雑誌『尐女の友』にみる「尐女」文化の構造
今井 あかね
1908 年から 1955 年にかけて実業之日本社より発行されていた雑誌『尐女の友』。卒業
論文では、
『尐女の友』が尐女文化をいかに形成していたのか、その構造の解明を試みた。
特に「黄金時代」と呼ばれる昭和 10 年代に連載されていた尐女小説を主に取り扱い、
「尐
女」という表象および彼女たちにまつわる「尐女」文化のありかたと、川端康成の尐女小
説がその形成にいかに関わっていたのかを述べていった。
第一章では、
「尐女」の成立についての先行研究をまとめ直すことで、本稿における「尐
女」を定義した。
「尐女」は、良妻賢母を理想型とする学校教育と『尐女の友』に代表され
る尐女雑誌により、近代になって「つくられた」ものである。この成立過程から、「尐女」
が「選別」される存在であったことを指摘した。また、その「選別」が尐女雑誌の読者投
稿欄において反復されており、それが「尐女」の「外部」の存在を強調することを示した。
第二章以降では、尐女小説を具体的に論じていった。まず、尐女小説の祖とされる吉屋
信子『花物語』を手がかりに、本稿における尐女小説を、
「構造」よりも「表現」を希求し、
「秩序」を逸脱する契機をはらんだジャンルとして定義づけた。また、「尐女」の「外部」
としての川端康成に着目し、彼の著した尐女小説群を、戦争の影響も加味しながら時代順
に読み込んでいった。すると、中里恒子との「共作」である『乙女の港』が影響を与えて
いることを発見することができた。川端は『乙女の港』を中里と共同執筆する経験によっ
て、尐女同士の鏡像的な疑似恋愛文化「エス」をはじめとする、当時の尐女文化の詳細な
有り様を作中に組み込むことができるようになったのである。ここから川端を、尐女性を
まといながら外部的視座を持った者として位置づけた。
第三章では、前章で問題とした『乙女の港』と吉屋信子『わすれなぐさ』を比較検討し
た。特に、
「エス」関係の結ばれ方、規範の象徴でもあった「花」
、現実を逸脱する「魔法」
のような比喩表現、そして主題ともいえる女性性の描かれ方に着目した。そこから、両作
は物語構造において差異が見られ、一方で幻想的な世界観を描き出す表現面で類似してい
ることを示した。さらに、当時の尐女たちが書いた手紙の文体のなかに尐女小説の中で描
かれた世界観が流入していることから、数ある物語のパターンを読者の尐女たちが次々と
内面化することで、尐女文化が相互的に形成されていた構造を明らかにした。
終章では、以上の論考をまとめるとともに、かつて「尐女」を規定した良妻賢母規範が
有効性を失いつつある現代においても、尐女文化が無限に発展を続けていることを指摘し
た。
「エス」が「百合」として物語られていること、ファッションにみられる「尐女鏡像」、
越境性をはらむ「乙女」という語の用いられ方から、現代の尐女文化のなかに取り込まれ
た『尐女の友』時代の「尐女」文化の片鱗を探求し、結びとした。
5
伊坂幸太郎論
上田 優芽乃
伊坂幸太郎は 2000 年のデビュー以来、多くのヒット作を生み出し続けている人気作家
である。伊坂の作品はしばしばメディアミックスもなされており、その中でも映像化され
劇場公開されたものは 8 作品にのぼる。映画と文学の結びつきの強さは従来から指摘され
てきたが、自身も映画をよく観るという伊坂の作品が何作も映画化されるのは、映画とい
うメディアの影響を大きく受け、その要素を多く取りこんでいるためではないだろうか。
本論文では伊坂らしさがよく出ているいくつかの小説とそれを原作とする映画とを比較す
ることで、伊坂作品の映画性の在りかについて探っていく。そして同時に、伊坂の小説な
らではの魅力である映像化できない要素=文学性の在りかについても考察し、伊坂幸太郎
という作家の特質を総合的に捉えていきたい。
まず第 1 章では『アヒルと鴨のコインロッカー』を扱った。この小説に見られる特徴と
して、フィクションであることへの自己言及性、そしてシナリオに近い構造を挙げた。ま
たこの小説と映画化作品とを比較し、映像化するにあたって新たに組み込まれた仕掛けや
変更されている部分について言及した。第 2 章では『重力ピエロ』について分析した。特
に伊坂作品の「軽妙さ」を取り上げ、それが地の文体に由来するものであり、映画に反映
させるのは困難であることを明らかにした。またこの「軽妙さ」には伊坂がしばしば用い
る「引用」や「比喩」が関係していること、この小説においてもメタ小説視点が作用して
いることを指摘した。第 3 章では『ゴールデンスランバー』について分析した。この作品
では伊坂にとって新しいパターンの物語展開がおこなわれており、それによって細部に伊
坂らしさが目立つようになっている。また映画化にあたって尺の都合上カットされてしま
うような細部に伊坂らしさや文学性を見ることができる。加えて視点人物を介した三人称
の語りを用いながらも、物語全体では視点人物を複数置くことで、物語と読者の距離をコ
ントロールすると同時に多層的な読みを可能にしている。以上を検証した上で、伊坂作品
に特徴的な舞台背景についてこの作品と絡めて分析した。またこの作品では伊坂の「引用」
がオマージュに至ったことにも言及した。第 4 章では、短編小説である『フィッシュスト
ーリー』を扱った。この作品は、伊坂がよく用いる手法だが、故意に物語が解体された構
造を持っている。また映画化作品が小説の補完的役割も果たしており、小説と映画化作品
の関係に新しい面があることを明らかにした。
以上の分析から、伊坂の作品は映画に親和的な要素=映画性を持ちながらも、小説なら
ではの面白さ=文学性も多分に持っており、その二つがバランスをとって溶け合っている
ところに特徴のひとつがあるのではないかと結論付けた。そのために伊坂の小説は映画化
しても映えるのであり、また映画化を誘発する作品ともなっているのではないだろうか。
6
成年コミックマークの爪痕――マルチスクリーン・バロック
加藤 匠
著作物に対する規制は、それが作者たち自身が選びとったものではないという点で、負
の圧力であるといえる。それまでの表現のあり方が規制によっていびつに変化してしまう
可能性があるためである。しかし、表現は規制によるいびつさをきっかけとしてさらに洗
練されていくこともある。規制は、それがない状態での表現の進化の歩みを止めてしまう
ものかもしれないが、じつはその歩みを別の方向へと進めていくものでもある。本論文は
このような創作物への規制が表現に与える影響についてマンガを例として論じた。
第1章では、戦後マンガの表現が引き起こした主な事件とその後の経過について検証し、
戦後の規制の流れを明らかにした。マンガ規制の根拠は多くの場合、読者に悪影響を与え
るというものであり、その「読者」には子供が想定されることが多かった。
第2章では、戦後最大の弾圧事件とも評される 1990 年代初頭の有害コミック騒動の経過
と、それを受けたその後のエロマンガの変化について述べた。この騒動の結果として導入
された規制が成年コミックマークの付加である。すべての成年向けのマンガの表紙に貼ら
れることになったこのマークは、成年向けマンガとその他のマンガとのあいだに制度的・
表現的に深い断絶を生んだ。マークの影響もあって成年マンガは過激化・抜き重視化の道
を進むことになり、エロマンガは自由にセックスを描くことができなくなった。
第3章では、マルチスクリーン・バロックと呼ばれる成年コミックマーク以後のエロマ
ンガの状況が生み出した新しいマンガ表現について考察した。マルチスクリーン・バロック
という表現の特徴は、まず過剰さと非正統性にある。見開き全体で読者の性欲を高める絵
だけを過剰に詰め込むことで、コマによって担われていたマンガの読みの順序の重要性は
減退した。これによってマンガとしての物語性は弱まったが、代わりに読み手がまず見開
き全体をひとつのコマのように読むようなアイキャッチ性を獲得した。マルチスクリーン・
バロックにおいて詰め込まれているのは欲情対象キャラクターの同化を促す性的快感の記
号である。マルチスクリーン・バロックの紙面を一目見た時の迫力とは、見開きの全てのキ
ャラクターと一気に同化するため起こるものである。見開き構成が多層であるという点で、
マルチスクリーン・バロックは尐女マンガ的表現と共通しているが、尐女マンガが多重コマ
特有の時間感覚を的確に操作して表現したのに対し、マルチスクリーン・バロックは2つの
コマの関係が未来、過去、同時であるか確定できないという点で異なっている。またマル
チスクリーン・バロックは、コマ内外の空白の空間や背景などの意味の無い絵である「間」
のほとんどを削りページを圧縮し、その分性的快感の「情報」を詰め込むことで読者に思
考の暇を与えず、快感の「情報」だけを一方的に与えるエロマンガ表現である。
成年コミックマークという規制はマルチスクリーン・バロックが出現した原因の一端と
なっている。つまり規制されている状況下だからこそ生み出された表現といえる。そうで
ある以上、全面規制以外ではマンガ表現と規制の関係はイタチごっこにすぎない。
7
宮崎アニメにおける“食”
小林 あゆみ
宮崎駿が監督したアニメーション作品は宮崎アニメと呼ばれ、その作中には“食”に関
する描写が数多く存在する。本論文では、宮崎アニメにおける“食”の描写とその働きを
分析することで、
“食”に表象された宮崎の意識を考察した。以下第一章はアニメーション
技術からみた“食”の描写、第二章から第五章では“食”の物語での働きについて論じた。
まず第一章では、アニメーションの中でも手描きと言う手法の中で宮崎が“食”の描写
で注力している点を述べた。宮崎は食べ物を描く際リアルさ以上に“美味しそう”に描く
よう力を入れている。この“美味しさ”は食べ物自体だけでなく調理の過程やキャラクタ
ーの食べる仕草の描写を根拠とし、映画を観る者に“食”の疑似体験をもたらしている。
次に第二章では、キャラクターがどこで食事をしているかに注目して、
“食”によって生
まれるキャラクターと世界との関係を明らかにした。宮崎アニメの“食”は食事をした世
界への順化と呪縛と言う正負二つの側面を持つ。
特に、上空や地下など特殊な空間での“食”
は負の働きを回避しキャラクターが個を確立すると言う物語を通しての試練を象徴するも
のになっていると言える。第三章は、誰と食事をしているかに注目し、
“食”を通してキャ
ラクター同士の間に生まれる関係性を明らかにした。宮崎アニメのキャラクターは共食を
通して世界の縮図であるコミュニティを形成し、逆にコミュニティからの離脱もキャラク
ターの孤食によって描かれている。共食の働きに対する意識の薄れた現代でもそれをあり
ありと描くことで、観る者に自身の“食”を選択する自由とそれに伴う責任を見つめ直さ
せていると言える。第四章は、
“食”によって生まれる食べる者と食べられるモノの関係に
ついて論じた。キャラクターが口にするモノは、どこで、誰とという選択と関わりあいな
がら、そのキャラクターの価値観や人間性を象徴する物となっている。キャラクターは個
の確立のために選択し食べるが、これは食べられる側のモノにとっては個が消失する危険
性を持つ。そして宮崎アニメにおいてはこの食べる者と食べられるモノの表裏一体性が描
かれてもいる。これによって“食”の選択がキャラクターに与える影響が強まり、キャラ
クターが自身の“食”に無関心でいることができなくなっているのだと言える。第五章は、
宮崎アニメのキャラクターが自身の“食”また他者の“食”にどのように向き合っている
か、
“食べさせる”という行為に注目して論じた。
“食べさせる”行為は、母性的愛情を象
徴する一方、
“食”に干渉することで他者の個の確立を阻みもしている。宮崎は物語の中で
自発的な“食”の重要性を説きながらも、映画を通して観る者の“食”に干渉しているの
だという宮崎アニメの持つ矛盾性を提示した。
終章は、宮崎がアニメーション制作を“食”に例えた発言を取り上げ、宮崎自身の意識
と矛盾を含んだ実際の“食”の描写とを照らし合わせた。キャラクターの“食”を通して
観る者に食べさせることで観る者に自身の“食”を見直させ、その自発性を喚起しようと
しているのが宮崎アニメの“食”なのであると結論付けた。
8
京極夏彦論
小林 芽生
京極夏彦は作家である。1994 年にデビューして以来、ミステリや怪談など、幅広いジャ
ンルで数多くの作品を発表している。本論では彼の作品を三つの観点から分析していく。
第一章では、京極作品で重要なキーワードと思われる「眩暈」について考察する。
「眩暈」
とは京極作品で頻繁に語られる彼岸と此岸、境界で起きるものであり、
「自己の揺らぎ」を
表わしていると仮定する。まずは、
「眩暈」が作品自体の鍵となる、デビュー作百鬼夜行シ
リーズ『姑獲鳥の夏』において、このことを確認する。続いて同シリーズの『邪魅の雫』
より、
「眩暈」とは、
「自己の揺らぎ」であり、また「自己を揺らがせる」スイッチでもあ
ることを述べた。また同シリーズ『塗仏の宴』では、「立ち眩み」という言葉でも、「眩」
が共通することから、
「眩暈」と同様の意味があることに言及した。最後に百鬼夜行シリー
ズだけでなく、他の京極作品においても、
「眩暈」が「自己の揺らぎ」を表わす言葉として、
使用されているとした。
第二章では、百鬼夜行シリーズを元に、夏について考察してみた。夏が舞台となるのは
『姑獲鳥の夏』とその一年後を舞台とする『陰摩羅鬼の瑕』の二作品である。この二つは
大きな共通点を持っており、対をなすものである。まず、他の作品では夏ではないという
ことが強調されており、夏を描いたのがこの二作品だけであることを確認した。その上で、
『陰摩羅鬼の瑕』で描かれる夏とは『姑獲鳥の夏』での事件を指しており、そのために夏
という季節が特殊性を持ったのだと考えた。さらに第一章で述べた「眩暈」と「夏」の関
係、またそこで描かれるある登場人物の回復が、夏の終わりと共に描かれていることを述
べた。
第三章では、京極がこだわるレイアウトについて言及した。1996 年以降に発表された京
極作品は、文が途中で頁にまたがることや上段と下段に分かれることはなく、これは文庫
版など媒体を変える場合でも同様である。まず『厭な小説』では、七編ある短編のうち、
六編では、
終わり方に共通のレイアウトが見られる。
これは頁をめくるという動作も伴い、
読者に印象づけられる。そして最後の第七編「厭な小説」では、一度この法則をやぶった
上で再び使い、読者をより厭な気持ちにさせる細工がなされているとした。次に、
「塗仏の
宴」では、ノベルス版により見開き二頁の上段下段により生じる、四つの長方形を使った
レイアウトの効果を考察した。
作品冒頭において、
それぞれの長方形の最初の一行という、
目に見える形で分かりやすくポイントが提示される。読者はその後でそれをなぞる様にた
どることで、ポイントをより理解するのではないかと考えた。
京極夏彦作品を、以上の、眩暈、夏、レイアウトの三つの観点から分析することができ
た。それぞれに作品を理解し、もたらされる効果を自覚する上で重要な要素であったとい
えるだろう。
9
『南総里見八犬伝』烈女考
―八犬女をめぐって―
小柳 未来
曲亭馬琴『南総里見八犬伝』
(以下『八犬伝』
)は、江戸時代後期、文化十一(一八一四)
年~天保十三(一八四二)年にかけて、曲亭馬琴(瀧澤興邦)によって刊行された長編読
本である。九十八巻百六冊という日本古典文学では最長の伝奇小説(稗史小説)であり、
室町時代後期を舞台に安房国里見家の復興が描かれる。本論文では『八犬伝』に登場する
八犬女について、本文・挿絵をもとにして考察した。本論文の目的は八犬女の性質を明ら
かにすること、正体に迫ることである。
第一章では、第一節で先行研究をまとめ、第二節で八犬女それぞれについて特徴を探っ
た。まず、物語の中心である伏姫の生涯、死に方、死後の活躍を分析し、特徴をキーワー
ドにして抽出した。その後、浜路、雛衣、沼藺など伏姫と似ていると思われるキャラクタ
ーについて、具体的にどこが似ているのかをそれぞれ抽出していった。順に七烈女を見て
いった結果、どのキャラクターも伏姫に近い性質を持っていることが明らかになった。一
般的に伏姫とよく比較される浜路や雛衣、沼藺だけでなく、妙真、曳手・単節、音音も、
生と死にまつわるエピソードの共通性や、後半での活躍の仕方や、伏姫と似た形容がされ
るなどの七烈女らしい要素を見つけることができた。ここで、八犬女が選ばれた理由が「伏
姫と同じ性質を持つ」ことと、死んだ者は生まれ変わり、生きている者は関東大戦に加わ
ることで「最終的に里見家に集い、仕える」ことであると考えた。
第二章ではこれを受けて、第一節では八犬女に選ばれなかった他の賢女たちについて分
析した。結果、彼女たちは伏姫と同じ性質を持っているように見えても実は違う、犬士を
助けたとしても動機が違うところにある、最終的に里見家に仕えた者はいない、など八犬
女に選ばれなかった理由が明らかになった。第二節では、さらに八犬女の本質に迫るため、
『八犬伝』が『五代史』の「槃瓠説話」を土台にしているという説をとって、
『八犬伝』の
「八犬士と八犬女」は『五代史』の「槃瓠説話」の中の「六男六女」をなぞっているので
はないかと考え、八犬士と八犬女は対となる兄弟姉妹であり、浜路・雛衣の死と再生は信
乃・大角と結ばれるためであったと論じた。第三節では本論文を書き始めるきっかけとな
った音音について、夫の代四郎を含めさらに考察を深めた。代四郎・音音の夫婦は、伏姫・
八房の代理人であり、代四郎は八房と丶大の二人をどちらも表現していることと、音音は
その代四郎に相応しく、伏姫の性質をより強く与えられていることを述べた。
結論では、八犬女とは何かということを述べた。全体を通して指摘したとおり、八犬女
とされる女性たちは、伏姫の性質を受け継ぐ者であること、里見家に集い仕えることが条
件である。また、八犬女が「伏姫と七烈女」と示されるのは八犬士が犬江親兵衛を首として
いることと対応している。以上のことから、八犬士と対になる存在であり、さらに異腹の
兄弟姉妹としての役割も持っていることが八犬女の本質だと結論づけた。
10
ひかわきょうこ論
坂下 祐子
ひかわきょうこは 1979 年に『LaLa』
(白泉社)でデビューし、現在も活躍する尐女漫
画家である。
ひかわ作品は、
乙女ちっくマンガの影響を強く受けていると言われているが、
彼女の作品の特徴はそこだけにおさまるものではない。本論文では彼女の主要作品におい
て主人公(ヒロイン)のキャラクター性や他のキャラクターとの関係に着目しながら分析
を行い、ひかわ作品の特徴を考察した。
第 1 章では、70 年代半ばに現れた「乙女ちっくマンガ」の特徴を踏まえつつ、ひかわ作
品が作品全体を通してその流れを受け継いでいることを示した。しかし、同時にひかわ作
品には「乙女ちっく」の要素だけには収まりきらない、ズレとも言えるような部分も見ら
れた。そのズレとは、乙女ちっくマンガの、男の子からの告白によって自己を確立してい
たヒロインたちにはなかったものであり、ひかわはそれをヒロインの「強さ」として描い
ていると指摘した。
第 2 章では、一番初期のシリーズである「千津美&藤臣シリーズ」
(1979-1985)の分析
を行った。このシリーズの主人公(ヒロイン)は乙女ちっくマンガ的ヒロインでありなが
ら、相手役の男の子に対し従来の乙女ちっくマンガのヒロインたちとは逆の働きかけをす
ることができた。
それはもともと主人公にあったマイナス面の克服からくるものではなく、
これがこのシリーズにおいて、ヒロインの「強さ」として機能していた。
第 3 章では、ひかわ作品の中でもそれまでの乙女ちっくの流れからは大きく方向転換し
ている長編ファンタジー作品、
『彼方から』(1991-2003)の分析を行った。ヒロインは乙
女ちっく的ではないが、それに近い特徴をもっていた。ファンタジーに舞台を移しても依
然として尐女(ヒロイン)の「強さ」は描かれており、シーンを通しての分析から、その
「強さ」が、自身のマイナス面を自覚したうえでそれをも含めた等身大の自分で日々を生
きようとする姿勢からくるものであることを指摘した。
この「等身大であるからこその強さ」は、さまざまな形で作品中のヒロインたちに表れ
た。そのどれもが一見地味ともいえる些細な日常の中で起こっており、その日常から離れ
ても、尐女そのものは日常を生きていたころとなんら変化することはなかった。ひかわが
描こうとしたのは、乙女ちっくマンガと同じようにより読者に近い日常を生きる尐女たち
だったのだろう。しかし、同じ日常の中にあっても、ひかわの描く尐女たちは従来の乙女
ちっくマンガの一番の要素である尐女趣味がふんだんに盛り込まれた「尐女の夢」だけを
見ていたわけではない。ひかわきょうこはインタビューにおいて、特別な力なしに本来の
姿で生きることで周囲を幸せにできるのではないか、そういった尐女を描こうとしたと述
べている。これはひかわ作品のヒロインたちだけではなく、読む側にも当てはまることな
のではないかと思う。ひかわきょうこがヒロインに託して描こうとしたのは(しているの
は)誰もが内にもつ静かなる強さなのではないだろうか。
11
アルフォンス・ミュシャ論
菅谷 知可子
アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は 19 世紀末のパリで活躍したチェコ出身のポス
ター作家である。彼が描く優美な女性像と独特の画面様式は、当時「ミュシャ・スタイル」
として高い人気を誇った。デビュー作≪ジスモンダ≫をはじめとしたミュシャの作品は、
ポスターという大衆的なメディアにも関わらず、厳かで聖性を帯びているような印象を受
ける。描かれた女性たちは画面の中から、ポスターを見る者に優しく微笑むのだが、決し
て私たちのもとに降りてきてはくれない。現実とは別の視座にいて、見る者の視線を悠々
と受け止めているようである。このような印象はどこから来るのだろうか。本稿ではミュ
シャのパリ滞在時のポスターを中心に、描画技法や画面構築の特異性に注目しつつ、ミュ
シャのポスターが醸し出す「不可侵性」や「聖性」といった印象がどこから生じるものな
のかを明らかにする試みを行った。
第1章ではミュシャ・スタイルの原点となったミュシャのデビュー作≪ジスモンダ≫を
取り上げた。本作は大女優サラ・ベルナールの演劇の宣伝ポスターとして制作されたもの
である。まず時代の寵児になるまでのミュシャの生涯と、デビューにまつわる逸話の真相
を整理した。本作は斬新な構図・色彩によってパリ市民に高い評価をもって受け入れられ
たのだが、その背景には当時のビザンティン趣味の流行が関係していたことを指摘した。
第2章では、≪ジスモンダ≫に続くサラの演劇ポスターを列挙し、ミュシャがいかにし
て画面に「不可侵性」をもたらしたかを探った。作品群の特徴として、内向的な身体表現、
サラを囲み護る装飾、そしてクロワゾニスム(太い輪郭線で対象を縁取る技法)による人物
像の平面化があげられる。これらの描写によってサラの像と見る者との「距離」が生まれ
るため、われわれは触れることができないサラに「不可侵性」を感じるのだと論じた。
第3章では、ミュシャの描いた商品ポスターを取り上げ、他のアフィシストの表象と比
較しつつ、引き続きミュシャ・スタイルのポスターの特異性を探った。第2章で見たよう
なモデルの「不可侵性」が商品宣伝においても表れていること、さらにその「聖性」が商
品に転嫁され、大量生産の「俗性」を画面から巧妙に隠蔽し排除していることを述べた。
第4章では、ミュシャの画像構築に写真が関与していることをまとめた。写真の利用は
徹底した人物の平面化と動植物の抽象化に大きく寄与したが、同時に、写真に写されたモ
デルの身体は理想的に「加工」され、「個」を持たない記号として描かれた。また当時、
世界各地の装飾が蒐集されていた背景があり、ミュシャ自身も独自の装飾やモデルのポー
ズを資料集にして発行していた。この事実に注目し、彼が装飾や人物像をデータベース的
に取り扱い、適宜バランスよく合成することに長けたデザイナーだったと述べた。
終章では、それまでの議論をまとめ、ミュシャ作品の「不可侵性」には画面構築のトリ
ックが関与していたと結論付けた。そうしたトリックを暴いてもなお、ミュシャ作品に「聖
性」を感じてしまう理由は、丹念で精巧なデッサンにあると考えられる。美しい女神のよ
うな女性の姿から、かつて画家を目指したポスター作家ミュシャの、意地とも言うべき手
腕が感じ取れるのである。
12
上遠野浩平論 ~“居心地の悪さ”
、自意識と葛藤をめぐって~
須藤 亮子
本稿の主題は、1998 年に『ブギーポップは笑わない』でデビューしたライトノベル作家、
か
ど
の
上遠野浩平の著作の分析を通して、そこに表出している“居心地の悪さ”とその先にある
ものを拾い上げることである。
「何をもって価値とするか」というものを定めてくれる「大
きな物語」は、バブル崩壊とともに消えていき、信じるべきものが失われた近代以降にお
いて、上遠野の描いたキャラクターたちがどのように葛藤と向き合うのか考察した。
第 1 章では、1980~2000 年代のジュブナイル/ライトノベルを追い、上遠野が登場する
までにどのような変遷があったのかを述べた。上遠野は 1990 年代の流行であった“読みや
すさ重視の異世界ライトファンタジー”から一歩踏み込み、学園伝奇・SF の要素と抒情性
を取り入れたことで、ライトノベルの可能性を大きく広げ、現在のライトノベルへ続く流
れの基礎となっていることを述べた。また、東浩紀が上遠野サーガと表現した、キャラク
ターと時系列が空間的な広がりを持つ物語構造も、後の小説に大きく影響を与えるもので
あった。
第 2 章では、
『ブギーポップは笑わない』を中心として、日常空間・非日常空間と“居心
地の悪さ”の関係性について述べた。家庭・学校での息苦しさは、彼らを非日常空間へと
逃避させるものであった。そして、上遠野が描く大きな物語の中で重要な位置にある「世
界の敵」がどのような危険性をはらんでいるのかを述べた。ブギーポップに倒される「世
界の敵」は、自らの“居心地の悪さ”を、周囲への攻撃で解決しようとするものであり、
現状からの脱却や進化/成長への過剰な欲求によって、世界に大きく歪みをもたらすもので
あった。上遠野は、成長観念という近代の価値観と戦うために、彼らを消さねばならなか
ったのではないかと分析した。
第 3 章では、
“居心地の悪さ”の受容と克服の道筋を辿った。居心地の悪さと対をなす“居
心地がいい”状態とは、一見良い状態のように見える。しかし、コミュニケーションの摩
擦のない“居心地の良さ”は、一時的な見せかけの快楽にしかすぎない。
『私と悪魔の 100
の問答』の物語とそのキャラクターの在り方を分析し、
“居心地の悪さ”からの脱却のため
には、他人を変える特殊な能力ではなく、自らの内面の変化によってなさればならないの
だと述べた。
このように、上遠野の描くキャラクターたちは、異世界のファンタジーではなく身近な
日常生活の中で起きる異変によって、葛藤と戦いながら自己の内面に向き合う。上遠野は
現代を生きる我々が必ず抱えることになる“居心地の悪さ”と向き合う作法を表現してい
るのではないかと結論付けた。
13
マンガ同人誌による作り手とジャンルの変容――『ローゼンメイデン』が生まれるまで
髙橋 和
日本のマンガは読み手/作り手への固定化された意識が比較的強いメディアである。例
えば尐女マンガでは黎明期には男性作家が活躍したが、その後は女性作家が描くものとい
う認識が一般的だろう。だがこの状況はマンガ同人誌文化の成熟によって変化が生じてき
ている。本論文では、同人マンガ文化の成熟によって、作り手にどのような変化が生じた
か分析した。さらに作り手の変化によって、ジャンルそのものがどのように変容したのか
「魔法尐女」というジャンルを例に考察した。
第 1 章では、同人誌即売会などの特有の概念や現象についても触れながら、同人誌と商
業マンガの密接な関係についてまとめた。同人マンガでは、男性による尐女マンガの二次
創作など作品の本来のメイン支持層とは別のファンダムが形成されている。近年では同人
出身のマンガ家や、商業デビュー後も同人活動を続ける者も増えている。商業マンガとマ
ンガ同人誌は連動しながら、日本のマンガ文化全体を盛り立てているのだ。
第 2 章では、最近の「魔法尐女」作品として同人出身作家である PEACH-PIT の『ロー
ゼンメイデン』(2002~)を中心に取り上げ、武内直子『美尐女戦士セーラームーン』
(1991-1997)以降の「魔法尐女」がどう変化したか論じた。その中で見えてきたのは、同人
文化の成熟により、マンガ制作スタイルに変化が生じ、さらには尐女マンガと尐年マンガ
の融合が始まったことだった。尐年マンガのフレームに、尐女マンガの要素を多量に含む
『ローゼンメイデン』はその象徴ともいえる作品である。
第 3 章では、
『ローゼンメイデン』に内在する尐女マンガと尐年マンガ双方の要素を繋
ぎ合わせる存在として、
「裁縫をする尐年」である主人公ジュンのキャラクター像について
明らかにした。
「魔法尐女」はさらなる進化を遂げ、
「裁縫尐年」と出会った。尐女マンガ
における裁縫を行う男性キャラクターは、性を超越したような者やジェンダーの交換を課
せられた者であった。その点で、裁縫という趣味を持ちつつ男性性を失わないジュンのキ
ャラクター性は重要である。これは、はからずも尐女の世界へ近づいていってしまった男
性の姿なのだ。現在、マンガやアニメのフィールドでは、女性同士の対抗的ホモソーシャ
リティの他、尐年とも尐女とも言いがたい領域融合的作品も生まれてきている。女性作家
によって描かれる『ローゼンメイデン』の他、類例として脚本:倉田英之、作画:okama
『CLOTH ROAD』(2003~)という男性作家による作品も取り上げて分析した。
こうした領域融合的作品は男女ともに、年齢も社会的地位も異なる多様な人々が集まり、
作品を通して繋がることのできる同人文化があってこそ育まれてきたのだ。戦後の商業マ
ンガは、尐年マンガや尐女マンガのように読者層や作り手の性別によって分断しているか
のように見えた。しかし現在では地続きの状態へ近づいている。マンガ同人誌は垣根を越
えるステージとして機能しているのである。
14
人であって人でないもの――小野不由美論
高山 典子
小野不由美は、1988 年、講談社 X 文庫ティーンズハート(以下、ティーンズハート)
からデビューした作家である。小野の作品には、ほぼ一貫して「人間」と「人間以外の異
質な存在である何か」という 2 つの要素を持つキャラクター、人であって人でないものが
登場する。そこで本論文では小野の原点でもある尐女小説作品における人であって人でな
いものを分析し、このモチーフを通じて小野が何を描こうとしたのかを考察した。
第1章では、小野が活躍した現代尐女小説の成り立ちと本論文における尐女小説の定義、
尐女小説のルールについて述べた。これらを踏まえた上で小野の初期 2 作品を整理し、小
野の作風がティーンズハートというレーベルの中では、王道の純愛から外れていたことを
指摘した。
第 2 章では、悪霊シリーズとその前作『悪霊なんかこわくない』に登場する死後の人間
の魂、幽霊の分析を行った。大塚英志が整理したプロップの登場人物分類を用いて、
『悪霊
なんかこわくない』の幽霊は、主人公の目的を妨げる「敵対者」と主人公を助ける「助手」
の 2 種類であることを明らかにした。特に「助手」は怪談の幽霊にはあまり見られない珍
しいタイプであった。そして悪霊シリーズで主人公を助ける幽霊が『悪霊なんかこわくな
い』の「助手」の役割を引き継ぎながら、主人公の成長を促す役割も担っていることを指
摘し、これを「助力者」と定義した。以上のことから小野のホラー作品における人であっ
て人でないものは、ホラーでは当たり前の主人公の「敵対者」という役割とホラーでは珍
しい主人公の「助手」という役割の 2 つを持っており、
「助力者」という役割は小野作品
特有の要素であるとした。
第 3 章では、十二国記シリーズの半人半獣の分析を行った。人妖、麒麟、半獣の 3 種類
を種類ごとに分類分けし、第 2 章で指摘した人であって人でないものの持つ「敵対者」と
「助手」という役割が、十二国記シリーズにも受け継がれていることを示した。さらに小
野は、主人公が獣に変化する描写によって主人公の身体的な変化と精神的な成長を表現し
ている。この描写より、主人公の成長を促す「助力者」という存在が主人公に獣化という
形で吸収され、主人公の成長を外側ではなく内側から助けていると考察した。
終章では、第1章から第3章の内容をまとめ、小野は幽霊や半人半獣という人であって
人でないものを作品に取り入れることで、恋愛以外での尐女の成長を描いたと述べた。テ
ィーンズハートの王道から外れた存在であった小野だからこそ、恋愛以外の尐女にとって
大切なことを書けたのではないだろうか。小野は人であって人でないものという未知なる
存在を尐女小説で書くことで、尐女達が現実社会の中で未知なものに出会ったとき、それ
から逃げず正面から向き合い、自己を成長させていくことの大切さを描いたのである。
15
現代アートにおけるメディアとしての靴
天渡 江里香
アンディ・ウォーホルの作品《shoes》
(1980 年)では、暗闇に様々な色彩のハイヒー
ルの影が浮遊している。靴が置かれる場所、履く身体、そしてつくり手さえこの作品には
現れない。この靴はいったい何者なのだろうか。この作品は観る者の探求の視線を引き出
す。
靴は古くから人の生活、文化と深く関わりながら、また様々に表象されてきた。本稿は
靴の文化史を踏まえたうえで、特に絵画における表象分析において靴というものを新たに
捉えようと試みるものである。そして本稿の終着を現代アートとするのは、世界をうつし
だす絵画表象において変容を遂げてきた靴こそがこの世界における靴の姿といえ、ウォー
ホルによって表出された《shoes》は、いまある靴の本質と捉えられるからである。
第一章では靴と身体の文化史を概観した。靴は身体とは反する形状が志向されることで、
道具的作用を超えて文化を創出していった。またテクノロジーの発達とともに靴を身体か
ら断絶する視線が顕在化し、それにより魅惑の装置となること、またマクルーハンのメデ
ィア論から靴を捉え直すことによってメディアとしての側面が見出せることを指摘した。
第二章では、まず昔話と民族風習における靴をみた。これらのいわば伝統的な靴は、身
体を秩序に従わせるものとしてある。それが、大きな社会変動があった近代以後、広告や
ファッションへの意識の高まりと共に、靴は変更可能な身体を理想に近づける為のものと
見なされるようになる。
こうして靴は、身体から独立し欲望されるものへとなっていった。
第三章では芸術においても大きな変動があった近代の、靴をモチーフとした絵画作品を
扱った。マネの《オランピア》
、
《フォリー・ベルジェールの酒場》を分析し、靴は身体全
体から独立しうるモノとして描き出されたと指摘した。そして西洋絵画において、靴を、
身体を伴わずに表出したはじめての作品であるゴッホの《古い靴》
、マグリットの、靴の先
から生身の足が覗いている《赤いモデル》を分析した。近代絵画において靴のモチーフは、
身体から切り離され、靴自体が自立し記号として浮遊していったことを明らかにした。
第四章では 20 世紀のアーティスト、アンディ・ウォーホルの靴の作品を扱った。ウォ
ーホルの作品は、自身の存在を遠ざけ、複製的なものを複製的に作品化し虚無の様相をた
たえることによって観る者を誘惑するというスタイル、そして写真と手作業の組み合わせ
により実現されるカムフラージュによって、隠される何かがあるようにふるまい観る者を
向かわせる。実体がなく、客観的でも主観的でも、ネガでもポジでもない、きわめて曖昧
なところにある《shoes》は、観る者にこの世界を触知させ探求させるように引き込んで
いる。ウォーホルが表出する現代アートにおける靴は、定まることのないあらゆるものの
境界に位置し、すぐそばにあるのにつかむことができない。
《shoes》という界面は、変動
し続けるこの世界と対話するための入り口としてひらかれている。ウォーホルによってあ
らわされたのは、いまある靴の姿である。その靴は、探求のための媒介であり、わたした
ちと、わたしたちを取り囲む世界との、コミュニケーションの回路へといざなうメディア
なのだ。
16
社会の中の「オタク」
アニメーション作品『イヴの時間』に見る二次元への嫌悪の形
林 孝典
『イヴの時間』とは 2008 年 8 月よりインターネット上で公開されていたアニメーショ
ン作品の題名であり、後に映画化された同作品の名前である。近未来における人間と極め
て人間に近しいアンドロイドとの関係を描いた SF 作品であるが、作品内の造語に「ドリ
系」というものがある。それはアンドロイドを人間視してしまう人間のことを指す蔑称で
あり、作品内では生身の人間と交流できない社会的に未熟な虚弱者との認識を受けている。
これは現代日本社会におけるアニメや漫画などの二次元的キャラクターに傾倒する者、
「オ
タク」への認識と類似してはいないだろうか。本稿ではこの二つがパラレルに描かれてい
るのではないかと考え、作品内での人間とアンドロイド、そしてそれらが存在している社
会のあり方について分析した上で、そこに見ることのできる現実社会との共通性とアンド
ロイドと二次元キャラクターに向けられている認識の類似性についての考察を行った。
第 1 章ではアンドロイドの一般定義をまとめた上で、作中におけるアンドロイド描写に
ついての考察を行った。また、作中描写の中で特徴的なアンドロイドの「家電」としての
肩書について考察し、そこに見ることのできる作品内のアンドロイドへの道具としての認
識とアンドロイドに対する法的制限、規制の内容の道具性からの乖離を示した。
第 2 章では作中において描写される「人間」についての考察を行った。作品内の描写か
らアンドロイドに対する彼らの認識を分析し、アンドロイド利用の際の「家電」としての
認識を徹底しきれない態度に見るその認識の曖昧さについて言及した。また、作品内の社
会が強いるアンドロイドへの認識が現状に合った認識の成熟に影響を与えていると指摘し、
その結果、アンドロイドを自らと近しい存在、自らを取って替わることのできる存在とし
て潜在的な恐怖を人間の内に生じさせてしまっていると論じた。
第 3 章では、作品内で描写される社会についての考察を行った。社会において示される
常識と主人公らの行動への影響について分析した。また、アンドロイドの受容する物語の
結論のあり方は現代日本社会において「人間に近しいが人間ではないもの」
、つまり近年注
目を集めている二次元キャラクターへの興味の高まりが関係しているのではないかと指摘
し、それが作品における現実とのパラレルな関係を生み出していると論じた。
第 4 章では、二次元キャラクターの現代日本社会との関わりについて論じた。現在、様々
な用途で使用されるそれらは「道具」としての役割を獲得しつつあり、その影響により現
実と関連性を強めている。つまりは「アンドロイド」のように手触りを持った「像」を持
ちつつあるのではないかと指摘した。
「像」を持ち、人間と同じように利用されている二次
元キャラクターは『イヴの時間』におけるアンドロイドへの恐怖の構造と同様に、人間に
対して存在を代替可能であるとの恐怖を抱かせる。その恐怖こそが現代日本における二次
元的事物やそれに関わらんとする者への嫌悪に繋がっているのではないかと結論付けた。
17
あさのあつこ論
廣瀬 里恵
あさのあつこは 1991 年に『ほたる館物語』で児童文学作家としてデビューした。この
論文ではあさのの代表作である『バッテリー』の作品分析を中心に論じる。あさのの作品
で特徴的である登場人物の一対一の関係、地方都市という舞台、この二つを織り込んだ物
語構造を踏まえて考察する。また、
『バッテリー』において地方都市、野球、言葉がキィワ
ードであると考え、この三つの点から主人公の尐年、原田巧の変化を追うことにした。こ
れらを通して、あさのが『バッテリー』で語ろうとしたことを読み取りながら、
『バッテリ
ー』の表現する尐年という存在が持つ力を明らかにしていく。
第一章ではあさのと『バッテリー』についてまとめ、
『バッテリー』の物語構造を考察す
る。この物語構造は大きく三段階に分けられ、これに類似するあさのの他作品とも比較す
る。
『バッテリー』だけでなくこれらの他作品も共通して地方都市が舞台となっており、物
語が展開していくことから、あさのの作品において地方都市という舞台の重要性を読み取
る。実際に『バッテリー』の中で描写されている自然風景を抜き出しながら、原田巧とそ
のキャッチャー、永倉豪の教えられる・教えるの構造を考察する。
第二章では他の二つのキィワード、野球と言葉について論じる。まずあさのの小説では
野球というスポーツがどう描かれているのかを、これまでの野球小説と『バッテリー』を
はじめとするあさのの他の野球小説と比較し、あさのの野球小説の特徴を挙げた。あさの
にとって野球とはどういうものに見えているのか、巧にとって野球とは何なのか、それが
『バッテリー』における野球の在り方にどう反映されているのかを論じる。次に言葉つい
てだが、これは野球と深くつながるところがある。巧にとっての言葉とは彼が野球のみに
重きを置き、他者とのつながりを拒否していることを表すものである。巧の言葉に対する
明確な変化が、巧が豪をきっかけに地方都市の自然を受け入れ、野球との関わり方を変え
ていく表れとなる。
第三章ではあさのの作品で頻出する大人と子どもの対立構造を考察する。大人と子ども、
それぞれの描かれ方や変化の仕方などから、これまでの成長物語と異なる部分が『バッテ
リー』にはあると言える。あさのが書くのは、子どもが大人に成長する物語ではない。む
しろ、大人が子どもに成長や変化を促されるような話になっている。この小説だけではな
くあさのは子供を描くとき、その子どもが大人という完成形に成長していくという、いわ
ゆる成長物語を書こうとはしていない。
巧は周囲の人間を変質させていったが、彼は登場人物だけでなく、あさのという作者を
も巻き込んだ。あさのは類型化されない、
『バッテリー』にしか存在しないような尐年を約
十年かけて描き切ろうと試みたが、敗北したと綴っている。こうしてあさのは自身に対し
ても読者に対しても、巧という尐年の持つ力を見せつけることになったといえる。
18
戦後野球漫画における女性キャラクターの変遷
前田 和樹
本論文では戦後の尐年野球漫画に焦点をあて、そのジャンルにおいて女性キャラクター
がどのように描かれてきたかについて考察した。
第1章では尐年野球漫画の歴史を、順をおってみていった。戦前、まだ四コマ漫画など
が主流だった時代は、野球は漫画の一部分として使われることが多かった。戦後には「バ
ット君」で初めて数ページに渡って野球をテーマとした漫画が描かれた。その後、魔球と
いう設定が登場し、野球漫画はよりドラマティックな展開になっていく。
「巨人の星」など
の劇画野球漫画ともいうべきジャンルには、魔球や必殺技が多く登場し、
「死」をも伴う悲
劇的な展開もみられた。劇画野球慢画が衰退すると、その後にはコメディ、恋愛などの要
素が流れ込み、様々な表現の野球漫画がうまれた。戦後の野球漫画について研究を行った
米沢嘉博は、
バブル崩壊後には他のスポーツの台頭などによって野球人気が落ちたために、
野球漫画も過去のようなヒットを生まなくなったのだと述べている。
第2章では尐年野球漫画に登場する女性キャラクターに注目し、その描写の変遷をみて
いった。読者の年齢層の変化によって女性キャラクターの描写も様々な形がとられた。読
者層の中心が尐年だった時代には、男女の恋愛や結婚などの描写はみられなかった。劇画
野球漫画の時代には、恋愛の要素を含む作品もあったが、女性は野球に必要以上に関わる
ことを拒否されていた。また、女性キャラクターは男性選手の補助役として登場し、男女
の役割もはっきり分けられていた。バブル期に入ると徐々に女性キャラクターの担う役割
が多くなる。この時代には女性が身体的なハンディを克服し、選手として男性と同じグラ
ンドでプレーするキャラクターも登場した。また男女の恋愛、結婚、さらに出産までも描
かれるようになり、それらが男性選手の成績に直接影響を及ぼすような描写もみられた。
女性は魅力的に描かれるようになり、男性とは違う存在感を示している。以上の点からみ
て、劇画野球漫画以降の時代では、女性キャラクターの作品内における影響力が強まって
きていると考えられる。バブル崩壊後には男女の役割はさらに曖昧なものになり、男性よ
りも力強い女性の姿も描かれた。女性キャラクターは、男性の補助役としてではなく、独
立して自分の人生を形成している。
第3章ではまとめとして、劇画漫画時代には大きかった女性キャラクターと男性キャラ
クターの役割の差が、現代では小さくなり、曖昧になってきていると結論づけた。女性キ
ャラクターだけでなく男性キャラクターも女性的な性格を帯びることがあり、外見だけで
役割を判断することはできない。
19
新選組復権における子母澤寛の功績
水戸 淳美
新選組とは、幕末の京都で治安維持活動に従事した浪士集団である。彼らは、戊辰戦争
で敗者となり、彼らの敵であった新政府軍が樹立した明治政府では賊軍として扱われた。
しかし、昭和初期に子母澤寛という新聞記者が、新選組三部作と呼ばれる『新選組始末記』
『新選組異聞』
『新選組物語』において、今までの賊軍、悪役とは違う観点から新選組像を
描くと、新選組に対する世間の評価は変わり、現代では小説やテレビドラマなど、多くの
創作物において、まるでヒーローのような肯定的な扱いを受けていることが多くなった。
そこで、本論では、子母澤の新選組三部作が現代の新選組復権にどのような功績を残した
のかについて論じた。
第一章では子母澤寛が『新選組始末記』を発表する昭和 3(1928)年を基準に、それ以
前の、新選組の元隊士や遺族、関係者の手による復権活動を「子母澤新選組三部作以前」
、
昭和初期の子母澤寛の登場を経て、それ以降から現代までを「子母澤新選組三部作以降」
と分類し、新選組表象の流れをまとめた。そして、その新選組表象の歴史から、子母澤三
部作の登場以降は、新選組は関係者の復権活動にとどまらず、作家から物語の題材として
扱われるようになり、それらの作家は子母澤三部作に尐なからず影響を受けていることを
述べた。
第二章では、子母澤の生い立ちと新聞記者時代に書いた幕末回顧談を取り上げ、子母澤
と新選組の関わりについて述べた。子母澤の祖父、梅谷十次郎は、幕府の御家人として戊
辰戦争に参加し賊軍となった。子母澤はこの祖父に溺愛されて育ち、何度も幕末の回顧談
を聞いていた。このような幼尐期を過ごした子母澤は、戦争の敗者を「賊軍」呼ばわりす
ることの不当さを感じながら成長した。さらに、新聞記者になってからは、戊辰戦争 60
周年の昭和 3 年に東京日日新聞で連載された、民衆からの聞き書きによる幕末・維新回顧
談『戊辰物語』の連載で新選組の項を担当し、第三者から見た新選組を記録した。これら
の経験から、子母澤は新選組を、史実通りに的確に綴るという行為よりも、人々が興味の
持てる話の面白さを、いかにしてそのまま伝えるかという考えに至ったことを指摘した。
第三章では、新選組三部作の特徴を分析した。新選組三部作の特徴は、新選組と関係の
あった古老が、新選組の歴史的な価値を判断することもなく、淡々と記憶だけを語る「聞
き書き形式」と、新選組を部隊としてではなく、個々の人間の集団として捉えた「各隊士
の焦点化」である。子母澤は、新選組を歴史の流れでだけでは語ることの出来ない、人間
の集団として、共感したり怒りを覚えたり出来る新選組像を三部作の中で描いた。そして
このような人間群像劇としての新選組描写は、後の作家に引き継がれ、世間の新選組に対
する興味や関心を掻きたて続けていったことを指摘した。これらのことから、子母澤の新
選組三部作は現代の新選組復権に大きな功績を残したと言えるのではないか。
20
さくらももこ論――「まる子」と「ももこ」のあいだで
宮下 陽菜
本稿では、マンガ家でエッセイストのさくらももこを取り上げた。さくらはデビューか
ら「私」を題材としたエッセイ風作品を中心に描き続ける作家である。本稿では『ちびま
る子ちゃん』
(以下ちびまる子)をはじめとするエッセイ風作品を通して、さくらが描かれ
るキャラクターとしての
「私」
をどのように表現しているのかを明らかにしようと考えた。
第一章では、キャラクター化においてまずイメージされる「絵」を取り上げ、さくらが
自身の姿を視覚的にどのように描いてきたかを追った。その中でさくらの小学校三年生の
ときの姿として描かれた『ちびまる子』の登場人物であるまる子が、物語から自由に遊離
する「キャラ」であると述べた。また、
『ほのぼの劇場』
(以下ほのぼの)やエッセイ作品
では、背後にさくらの人生という固有の物語が存在する「キャラクター」な「私」が描か
れる一方で、その描画が「キャラ」であるまる子の影響を受けるという矛盾を含んだもの
であることを明らかにした。さらに、さくらは自らの自画像をまる子そっくりにすること
で、
「キャラ」と「キャラクター」の矛盾と混乱を意識的に引き起こしており、それは『ち
びまる子』がさくらにとって「私」を描く上で無視できない作品であるからだとした。
第二章では、さくらのマンガ作品の特徴である「語り」を取り上げた。さくらは尐女マ
ンガ特有のフキダシの外の台詞の技法を、自らの語りのベースとしながらも、『ほのぼの』
で作者である「わたし」が客観的に語るナレーション的用法として昇華させた。そしてそ
の用法を受け継いだ『ちびまる子』では、主語を変化させることによって語りの客観性を
さらに強化し、読者を物語外部に誘発する働きを持たせた。この語りは語られる対象(キ
ャラクター化した主人公)とそれを外部から語る「語り」とのあいだの差異や齟齬、ズレ
などのうちに「私」を浮かび上がらせようとする方法であり、さくらはまる子が「キャラ」
化する『ちびまる子』の中に、語り手という形で自身の存在感を残したのである。
第三章では「エピソード」におけるキャラ/キャラクターの関連を考察した。
『ちびまる
子』では、まる子をはじめとするキャラクターが持つ「キャラの強度」によって、さくら
自身の体験に基づく「私」のエピソードが崩されるという現象が起こっていた。一方、
『ほ
のぼの』やエッセイで描かれるのは「キャラクター」であることからエピソードの変化は
見られない。また、手塚マンガ的な記号的表現で生身の身体を描くためには、描かれるも
のが肉体的描写だけでなく心理的描写が伴う現象でなければならないとし、さくら作品に
おいては生理という現象が生身の身体をマンガで描くことのできる限界であるとした。
「私」を表現するさくらの作品は常にまる子によって混乱させられていたと同時に、ま
る子の存在がさくらの「私」という実存性を生み出すきっかけとなっていた。さくらはこ
のまる子という「キャラ」と「語り」、
「エピソード」の様々な関係のうちに、
「私」を表現
するということへの可能性を見出したのである。現在のさくらの「私」像――視覚的にも
心情的にも――は、まる子があってこそ成り立った「私」なのである。
21
岡田淳論
山﨑 真弥
1979 年にデビューした岡田淳は、現在、日本でよく読まれている児童文学作家である。
岡田の作品において繰り返し用いられている構造として「行って帰る」構造がある。本論
文では、数ある岡田淳の作品のなかでも繰り返し登場する「行って帰る」構造を持つ作品
を取り上げ、岡田作品における異世界と現実の関係の変化を分析した。そうすることで、
岡田の「行って帰る」構造をもつ作品が大きく三種類(①異世界よりも現実が確かである
作品、②異世界によって現実の混沌が明らかとなる作品、③異世界が現実を侵食している
作品)に分類することが可能であると主張した。
第一章では、児童文学者である瀬田貞二が主張した「行って帰る」構造を整理した。
「行
って帰る」構造が児童文学における最も基本的な構造であると同時に、瀬田の主張が物語
論的な分野にとどまらないことを指摘した。そして、岡田のファンタジーや作品に対する
姿勢や意識と、これまでの岡田作品に対する分析を確認した。
第二章では、現実が異世界よりも確かである作品として『二分間の冒険』
(1985)と『扉
のむこうの物語』(1987)を分析した。初期の岡田の長編作品は、異世界と現実の境界が
比較的明確にあり、
それによって異世界と現実が分断されていると明らかにした。
そして、
分断されてはいるものの、その関係は次第に接近してきていることを述べた。
第三章では、異世界によって現実の混沌が明らかとなる作品として『ようこそ、おまけ
の時間に』
(1981)と『選ばなかった冒険―光の石の伝説―』
(1997)を分析した。ここで
は異世界と現実を繰り返し往還することによって、現実が必ずしも確かなものではなくな
っているということを指摘した。同時に、境界も不明瞭となっており、その結果、異世界
と現実は分断しているとは言い切れなくなっていることも述べた。
第四章では、異世界が現実を侵食している作品として『こそあどの森の物語 6 はじま
りの樹の神話』
(2001)と『竜退治の騎士になる方法』
(2003)を分析した。ここでは実際
に異世界が現実へと登場し、異世界と現実の関係がより密接になって相互に影響を与えあ
っていることを明らかにした。同時に、境界の存在もより一層不明瞭なものとなっている
ことも示した。それによって、岡田作品における異世界と現実が混じり合い始めていると
いうことを指摘した。
岡田の作品は異世界と現実を明確に分けることが次第に困難となっている。岡田がこの
ような変化を見せたのは、作品における異世界と現実の両義性をより強調したためである
と言える。その両義性をより強調した結果として、異世界がより現実に接近せざるを得な
くなったのである。そのため、異世界と現実の距離は小さなものとなり、最終的には異世
界の根拠を現実に設定するまでに至ったのだ。そうしたことによって、岡田の作品におけ
る異世界と現実の区別は不明確なものとなっているのである。
22
日本におけるラップ実践の創造力
渡部 晃充
ラップとはアメリカで生まれたヒップホップ文化を構成する諸実践の一つである。ヒッ
プホップの社会的な影響力の高まりを受けて現地で実践されるヒップホップやラップが学
術的研究対象として盛んに取り上げられているが、日本におけるラップやヒップホップに
関するこれまでの研究の多くは表層的な分析に終始する現状にある。本稿では、日本にお
けるラップ作品の表象内容を主な分析対象に据え、日本で如何にラップが実践されてきた
か、
その中で如何に実践者たちが創造力を働かせてきたのかを明らかにする試みを行った。
第一章では、日本にヒップホップ文化が到来した 1980 年代初期から J ラップ・ブーム
が巻き起こる 1994 年頃までの日本における実践が、アメリカのヒップホップの浅薄な模
倣であると批判的な指摘を受けながらも模倣の域を脱するべく文化的真正性の獲得を志向
していたことを示した。また、日本のラップ作品の表象分析に関する先行研究がこうした
状況を正確に捉えていない表層的な分析に留まっていることを指摘した。
第二章では、文化的真正性の獲得を目指す実践者たちがそれぞれ独自の手段で自己のア
イデンティティの源泉としてラップを機能させていったことを論じた。実践者たちは新し
いラップの表現形式を創造しながら日本社会におけるマイノリティの存在を浮き彫りにす
ることでラップ及びヒップホップを日本で実践する意味の獲得を模索していた。
第三章では、実践者たちがシーンの中心を志向し日本における自己表明手段として文化
的真正性を再構築したことを示し、続く第四章では、新たな文化的真正性の獲得により日
本におけるラップ実践が多義性を帯び、その結果複雑化したシーンの内部ではもはや中心
へと向かう志向が事実上不可能になったことを明らかにした。
第五章では、中心を喪失したシーンの中で実践者たちが他者との相対関係を超えた普遍
性を持って実践の価値を表明してきたことを示した。実践者たちは各自の価値観を表明し
ながら相互にそれらを認め合うことで、日本における実践の更なる発展へ向け動き始めて
いる。終章では、これまでの議論を振り返り日本における実践者たちの創造力が時代に即
して実践の在り方を変容させてきたことを確認した。
日本におけるラップ実践は特定の地理的領域と密接に結びついた文化が他の領域内で昇
華され本質化する過程を考察する上で有用であるといえる。また、現代社会に生きる我々
は、日本社会の内包する様々な問題点を喚起し、複雑に多様化する社会の中で如何に自己
を表明するかを模索しながら常に変容を続ける彼らの実践を注視する必要があるだろう。
23
変装するマンガ ─篠房六郎を中心に─
佐藤 ももよ
しのふさろくろう
本論は、篠房六郎というマンガ家について、彼の持つ「メタ・コミック的問題意識」を
論じることを目的とした。篠房の言及するものをとらえるために、ジャンルの表現技法の
特性・限界に著しく影響される「変装」という事象をマンガにおいてとりあげ、ジャンル
の特性を検討した。その上で、篠房の作品における「変装」の表象を検討することによっ
て、篠房六郎の自己言及性を浮き彫りにすることを試みた。
序章では、篠房がいかに強い「メタ・コミック的問題意識」を持つ作家であるか述べた。
メタ構造を持つ作品が近年のサブカルチャーの作品に広範に認められることを確認しなが
ら、その中でも、自らの制作活動において一貫してメタ的な構造をマンガに取り入れ続け
ている篠房は、特に際立った存在であるとした。
第一章では、篠房の作品における「変装」表現の分析への足掛かりとして、まず「マン
ガにおける変装」そのものについて論じた。古典的なマンガの代表として手塚治虫の作品
を参照し、
「変装を認識するレベル」
、
「登場人物の見分け」、
「変装を見破る方法」、
「具体的
な身体」の節に分けて、マンガにおける「変装」の「約束事」について検討を重ねた。ま
た、マンガにおける「変装」の表現には、マンガの持つ情報の乏しさゆえに可能になるも
のがあることに触れ、ジャンルの限界は、逆にマンガならではの多様な表現への可能性を
開いてもいると述べた。
第二章では、篠房の作品における「変装」の表象について、時系列に沿って作品ごとに
分析した。
『ナツノクモ』では、変装が物語の重要な主題と深くかかわりあっており、また
逆に「変装しないこと」を描くことによって、
「変装」という表現への自己言及が行われて
いる。
『百舌谷さん逆上する』には「変装」の「約束事」に従う人物と従わない人物が共存
しており、それはマンガの読者の暗喩であると共に「約束事」自体への言及でもある。
第三章では、篠房のもつ多方面への批評的な視線を検討するために、最新作である『百
舌谷さん逆上する』の分析を行った。主人公を「ツンデレ」という属性を持った「萌えキ
ャラ」として提示しながら、その「ツンデレ」を「病気」と設定した同作には、
「キャラ萌
え」に対する強い批評的姿勢が見られる。また、
『百舌谷さん』は「萌える」には具体的な
身体を想起させすぎる線で描かれており、萌えコンテンツへの欲望を絵柄と設定の齟齬で
も批評している。さらに、人格の問題やコミュニケーションの問題といった重いテーマを
徹底的にギャグ漫画として描いてしまっていることからも、同作の持つ強い批評性が窺え
る。
篠房六郎は、マンガというジャンルに対して極めて強い問題意識を持つ点において、現
代日本のマンガ界において際立った作家であると言える。
24
聴覚表現から考える三谷幸喜
山賀 美都
三谷幸喜は東京都出身の脚本家であり、多くのテレビドラマや映画、舞台の脚本、演出
を手掛けている。三谷の作品は、音や音楽の存在と作品内容が深く関わっていることが多
い。音楽自体が作品の展開に関わるなど、作品を支える大きな要素となっている。本論で
は三谷作品の聴覚表現に注目し、映画作品とミュージカル作品を取り上げた。
第 1 章では、本論で述べていく「音」を台詞、歌、音楽、環境音の 4 種類に分類した。
また、音楽がどのように演劇や映画に付随していったのかを述べた。そして私たちの生活
と音との関わりについて、音は日常的に私たちのまわりに存在することを述べた。
第 2 章では、
『ラヂオの時間』(1997)と『みんなのいえ』(2001)の 2 作品を取り上げ、音
や音源の不在が生み出す効果を考察した。日常生活では無音の空間を生み出すことは不可
能である。つまり映画で表現される無音の空間は非日常であることを述べ、三谷は無音の
空間を生み出すこと、つまり音の不在によってその場面の非日常性を強調したのではない
かと論じた。また、音源の不在は観客に、役者の台詞に集中させる効果があること、また、
観客に対して視点を定める効果があることを述べた。
第 3 章では、
『THE 有頂天ホテル』(2006)と『ザ・マジックアワー』(2008)の 2 作品
を取り上げ、登場人物が歌うことを抑制される、あるいは自ら抑制することは、その登場
人物の感情の変化と関係があると論じた。また、人にとって歌は代理発言の機会であり、
実生活で思うように行動や発言ができないという人たちが歌を歌うことによって、発言の
機会を見出し、まわりの人に意思を伝える手段であると述べた。
第 4 章は、まとめとしてミュージカル『TALK LIKE SINGING』(2009-2010)を取り
上げた。映画とミュージカルという媒体の違いはあるが、音の不在と歌の抑制が物語の大
きなテーマになっていることから、本作品を考察し、三谷の音に対する姿勢を論じた。音
楽や歌と共に生きる主人公にとって、歌は唯一の表現手段であり、それが抑制されるとい
うことは彼のアイデンティティが失われることだと述べた。また、あえて字幕を表示しな
いことによって、役者の台詞に集中してほしいという三谷の狙いについても考察した。
以上のように、三谷作品を聴覚表現に注目して考察してきたが、三谷は常にテンポや間
に重点を置き作品を製作していることを明らかにした。つまり、音の不在によって観客に
呼吸をする間を与え、心地よいテンポを作り出したのである。また、三谷作品にとって歌
は、それぞれの人物の個性を表すものであり、映画や舞台という限られた時間の中で、そ
の人物がどのような過去を持ち、価値観を持っているのかを表すために、歌は有効な手段
として用いられるものだと述べた。また、三谷作品は環境音の製作過程を観客に提示した
り、映画製作現場の裏側をあえて見せている。これにより、三谷自身が幼尐期のころから
見てきた映画の感動や興奮を、現在の観客に伝えようとしているのだと結論づけた。
25
細田守論
武者 亜理沙
細田守は『時をかける尐女』
(2006)で国内外から注目され、
『サマーウォーズ』
(2009)
で人気を博したアニメーション監督である。細田の作品は見る者にある種の悲しみを与え
る。本論文では細田作品全体に流れるこの悲しみがどこから由来するのかを論考し、最新
作の『サマーウォーズ』に至るその悲しみの表出の様相について議論した。
第一章ではスーザン・J・ネイピアの「現代アニメの三つのモード」を批判した。ネイ
ピアは現代アニメの悲しみについて考察しているため、この概念は細田の悲しみを分析す
る上で重要である。
「三つのモード」とは「終末モード」
「祝祭モード」
「挽歌モード」であ
る。ネイピアは「三つのモード」として各モードを同等に並べているが、挽歌モードはそ
れ以外の二つよりも中心的ではないと述べている。しかし細田作品の場合、むしろ挽歌モ
ードが基調となり、その上に終末モードや祝祭モードがある構造になっていること、およ
び細田作品において土台の挽歌モードは物語に深みを与えるに留まらず、物語の軸となり、
そこに終末や祝祭といった枝が生えているようなものなのであることを指摘した。
第二章では、ネイピアが挽歌的作品の中で特に着目していた押井守監督作品の『うる星
やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』
、および同監督作品である『スカイ・クロラ』と
細田作品の比較分析を行った。両監督とも時間の喪失を描いたが、そこには相違点がある
ことを論じた。押井は物語が無限にループしており、登場人物たちはそのループから抜け
出すことはできず、このことが観客に絶望を与える。一方、細田はいつまでも物語をルー
プさせるのではなく、先に進むというゴール地点を観客に提示している。細田は、押井に
はない無常観、はかなさや人間の未熟さを表現することを可能にし、細田の挽歌ははかな
さと人間の未熟さが要素として挙げられることを論じた。
第三章では、細田最新作の『サマーウォーズ』を分析し、この作品で細田が今までの悲
しみの浄化を試みていると指摘した。細田作品の中で今まで時間を喪失してきた者たちは
人との関わりを誤ってしまっていたと言える。そこで細田はこの作品では人との繋がりや
コミュニケーションを色濃く描いた。細田は今までの作品において人との繋がりを時間の
喪失を通じて表現し、観客に悲しみを与えるというアプローチをしてきたが、今回はそれ
を封印し、現代人の有り様やコミュニケーション形態、それから構築される関係性を表現
している。
そして観客を物語の中に自然に組み込み、
物語からの疎外感を消失させている。
このようにして、細田は今までの悲しみの浄化を成功させたのである。
細田は『サマーウォーズ』を見てわかるように、
「いま」という現代社会を切り取ること
に長けており、事細かに表現する。我々は目まぐるしく移り変わる現代を生きているが、
時々その実態や進路を見失ってしまう。そんな時に「いま」という世界をわかりやすく提
示し、どのように生きていくべきかというヒントを与えてくれるのが、細田守の作品なの
である。
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Разрушение изобразительного искусства у А. Родченко
– Новая точка зрения и социалистический реализм –
Аканэ Танидзава
Предшествующие исследования фотографий Родченко утверждают, что его
фотографии сделаны согласно его теории беспредметной живописи. Однако из его
собственной статьи становится понятым, что он поставил перед собой цель:
«приучить человека видеть с новых точек» посредством фотографии. Поэтому
правомерен вопрос: возможно ли рассуждать о его фотографиях отдельно от темы
зрительного восприятия. Таким образом, в моѐм дипломе была сделана попытка
подойти к фотографиям Родченко, исходя из гипотезы о том, что его теория о
беспредметной живописи никак не повлияла на его фотографии.
В первой главе через анализ беспредметных живописей Родченко, было
подтверждено, что в них ещѐ не стоит задача зрительного восприятия. Родченко не
только не рассматривал цвет как оптические явления, но и придал более серьѐзное
значение структуре линий. Ввиду этого подчеркивается, что его беспредметная
живопись не имеет никакого отношения к зрительному восприятию.
Во второй главе были проанализированы фотомонтажи, созданные им в
период перехода от живописи к фотографии. По тому, как вырезанные обьекты,
другими словами – материалы, структурированы и расположены относительно
окружающих обьектов, можно утверждать, что в фотомонтажах Родченко
применяет свою теорию беспредметной живописи. Вследствие этого, установлено,
что в фотографиях Родченко занялся темой зрительного восприятия впервые.
В третьей главе через исследование статьи Родченко «Пути современной
фотографии» и двух других его статьей, была конкретно указана новая точка
зрения,
которую
Родченко
пытался
выразить
посредством
фотографии.
Выражение точки зрения, которая возникла в результате развития городов, и
выражение коммунистической идеи: таким образом, стало ясно, что фотографии
Родченко выражали точку зрения глядеть и узнавать общество в обществе, а кроме
того, что в основе этого общества обязательно лежал СССР.
В четвѐртой главе, которая опирается на третью, говорится о связи
фотографии Родченко с обществом. Фотографии «стройка на Беломорканале» – это
воплощение коммунистической идеи. И после этих фотографий он стал часто
изображать «положительного героя» и ход вещей. Кроме того, с учѐтом изменения
идей Родченко от конструктивизма к социалистическому реализму, было вновь
определено положение фотографий «стройка на Беломорканале» как точка
зарождения идей социалистического реализма в творчестве Родченко.
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スパイク・ジョーンズ論
向田 絵梨子
スパイク・ジョーンズはアメリカ合衆国出身の映像作家であり、1980 年代よりスケート
ボード雑誌のフォトグラファーの仕事を開始、90 年代にはスケートボード・ヴィデオ、ミ
ュージック・ヴィデオ、テレビ・コマーシャルといった映像作品を監督している人物であ
る。その後、現在までに『マルコヴィッチの穴』をはじめ、三本の劇場映画を監督してい
る。
本稿では、ジョーンズの映像作家としての起源をスケートボード・ヴィデオ作品とし、
そこに表れる映像技法がのちのジョーンズのミュージック・ヴィデオ作品や劇場映画作品
において、どのような変化をもった繋がりをみせているのかを考察した。
第一章では、ジョーンズのスケートボード・ヴィデオ監督作品である『ヴィデオ・デイ
ズ』
(1991)を取り上げ、彼のスケートボード・ヴィデオ作品に頻出する映像技法につい
て分析を試みた。そこでは、広角レンズを多用していること、カメラが人間の身体性に近
しいものを有していること、また異文化をひとつの作品に組み込んでいること、という三
点を明らかにした。
第二章では、第一章で論じたスケートボード・ヴィデオ作品におけるジョーンズの起源
的映像技法が、ミュージック・ヴィデオという異なるメディアでどのように派生している
のかという点を考察した。スケートボード・ヴィデオ作品において映像に円滑さや迫力と
いった魅力を獲得させていた広角レンズは、ミュージック・ヴィデオにおいて対象を観る
ものに明確に認識させることを可能にしていた。カメラの身体性という点においては、ミ
ュージック・ヴィデオにおいてもその人間らしさを保ちつつ、より主観的存在として機能
していた。また、異文化の組み込みという点において、スケートボード・ヴィデオではそ
れらは「混在」しているにすぎなかったが、ミュージック・ヴィデオにおいてのそれは「融
合」という段階にまで昇華されていた。
第三章では、第一章と第二章で考察してきたジョーンズの起源的映像技法の変遷を受け、
それらが彼の劇場映画作品に頻出する「異界への越境」というテーマにどのような展開を
みせているのかを論じた。その越境を観客が認識する際、身体性を重視することでその行
為をなめらかに受容することを可能にしていると指摘した。
映像作家として初期にスケートボーダーという対象を撮影してきたスパイク・ジョーン
ズからは、その対象や媒体が変わっても、その映像技法に起源からの片鱗の存在をみてと
ることが出来る。動く身体を追いかけ、自らも共に走り、そうして遊ぶことをしてきた彼
の日々から生じた、彼らしい映像の発展をわたしたちは目撃している。
28
Fly UP