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子どもの権利の再考

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子どもの権利の再考
子どもの権利の再考
―賀川豊彦の子どもへのまなざしから―
加 納 史 章 *
(平成23年 6 月14日受付,平成23年12月 8 日受理)
The reconsideration of the right of the child:
From a look to the child of Toyohiko Kagawa
KANOU Fumiaki *
I discuss the characteristic of the right of the child of Toyohiko Kagawa after having surveyed the history of the right of the child of
our country by this report. I "live" in the right that he advocated, and four thought of the "protection" "development / growth" "intention"
and a message to the society led by the child are contained and arrive at an ideal and a child image of "the education" of "the life" of "the
Bible" of "the character" that I did from various experience such as Kobe slum or Great Kanto Earthquake relief more. Posture to the
child of Kagawa who lighted up the light to children has a glimpse and, there, gets it in the middle of the Taisho era, Showa and abject
poverty and thinks that I may learn it even today when the poverty of the child is demanded.
Key words:Toyohiko Kagawa,Child's Right,Child's Poverty
1. はじめに
「個の否定としてのジェンダー文化の浸透」「あきらめの
(1) 問題の所在
文化」が存在し,貧困が貧困だけで終わらないことを示
2008(平成20)年のOECD調査で,我が国の「子どもの
唆している(3)。
貧困率」は14.2%と参加三十ヶ国中十九位(平均12.4%)
これらの問題に対して,政府は様々な対策を打ち立て
であり,さらにひとり親世帯の貧困率に至っては最下位
ているが,あまり効果は出ていない。それは,我が国に
(58.7%)と子どもの「貧困」(注1)が深刻な問題であること
相対的貧困という考えが十分浸透していないこと,そし
が窺える (1)。
て貧困を戦後間もない時代や発展途上国のことであり,
阿部の調査によると「母子世帯の子ども,〇歳から二
「衣食住を最低限度満たすことができない」といった絶
歳の乳幼児,若い父親をもつ子ども,多子世帯の子ども
対的貧困と捉えがちであるからである。
の貧困率が非常に高い。憂慮しなければならないのは,
さらに,昨今では経済的・物質的に豊かでも,人間関
これらの世帯における貧困率が,日本の中でもっとも早
係の希薄さなど,心の貧しさ,精神的貧困も社会問題と
(2)
いペースで上昇している」という 。
して浮き彫りになりつつある。
子どもの貧困の背景の一つに保護者の所得が挙げられ
そこで,本稿では貧困の連鎖を断つために必要な「子
る。非正規雇用等の就業状況悪化が貧困をより深刻化さ
ども対策」の大前提となる子どもが持つべき権利につい
せ,子どもの「ウィルビーイング(well-being)
」の低下や
て着目していきたい。
不平等を生じさせているのである。保護者の所得によっ
子 ど も の 権 利 と い え ば, 今 日『 子 ど も の 権 利 条 約
て,「子どもの生活の質(quality of children’
s lives)」が左
(Convention on the Rights of the Child)
( 以 下: 権 利 条
右される,つまり社会が子どもを疲弊させていると言い
約)』が挙げられよう。そこには,「生きる権利(生存)」
換えることができよう。
「守られる権利(保護)」「育つ権利(発達)」「参加する
浅井は「子どもの貧困」を「『経済的貧困』から,『貧
権利(参加)」の四つの支柱が描かれている(4)。しかし,
困の文化』を介して『発達・人格形成の貧困』へと連動
現状,この条約に記載されている項目すべてが本当に行
していく貧困の再生産のプロセスがある」と論じてい
われているかは定かでない。
る。とくに「貧困の文化」には三つの柱,「暴力の文化」
子どもの権利の歴史を遡ると,1989(昭和64)年,国
* 兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科研究生(Doctoral researcher of the Joint Graduate School in Science of School
Education, Hyogo University of Teacher Education)
- 113 -
際連合総会によって採択された権利条約を日本が批准し
考えるうえで「子供とは何か」(10)という問いが生じてく
たのは1994(平成6)年のことである。しかし,それ以前
る。よって,賀川の子どもに関する著作を読み解き,彼
から子どもの権利は主張されており,ルソー(Jean-Jacques
がどのような子ども像を描いていたのかを導き出してい
Rousseau,1712-1778)(注2)やケイ(Ellen Karolina Sofia Key,
くことも大切なプロセスであるといえよう。
1849-1926)(注3),ワロン(Henri Wallon,1879-1962)(注4)らが挙
そして,何より絶対的貧困の中で導き出された賀川の
げられる。加えて,1924(大正13)年にはコルチャック
子どもへの姿勢について学ぶことが本稿の目的であると
(5)
(Janusz Korczak,1878-1942) の子どもの権利思想が大
考える。
きく関係しているジュネーブ宣言(The Geneva Declaration
on the Rights of the Child of 1924)が国際連盟によって採択
2. 賀川豊彦とその時代
され,これは現在の権利条約の礎となるものであった。
(1) 大正から昭和前期の子ども観の変遷
世界で子どもの権利の兆しが見え始めていた頃,日本で
賀川の子どもの権利を考察するにあたって,子どもへ
はどうであったのだろうか。日本でも新渡戸稲造(1862-
の関わりの出発点にして到達点である子ども観を探って
1933)がジュネーブ宣言を伝えようと尽力したが,「二大
いく必要があるといえよう。賀川が生きた時代,大正か
勢力,すなわち軍部と教育界が押し黙りながら非認の眼
ら昭和前期にかけて,我が国の子ども観は大きな転換期
差を投げていることである。前者にあっては,目下軍
を迎える。
部組織は一般に不人気なので,公然直接の反対は行われ
大正時代(1912年 7 月30日‐1926年12月25日)は十五
ていない。後者については,教育体制が国家絶対主権説
年と短いが,日本の子どもの歴史を紐解く中で重要な時
と皇位の尊厳とに全面的に基づいているので,教育当局
期である。明治維新以降,政府主導の富国強兵,殖産興
は,この神聖な教義に抵触しでもしそうな説や意見に
業政策のもと,近代化・西欧化が推進され,さらには資
は,なんでも極端に用心している」(6)という二つの弊害に
本主義の発展に拍車がかかり,子どもの「人格」重視・
よって国民の関心を引くことができずにいた(注5)。
尊重へと進展していったのである。
一方で,1900年代以降,田村直臣(1858-1934)や西山
また,大正期は子どもの教育と文化に大きな衝撃を与
哲治(1883-1937),生江孝之(1867-1957)らがそれぞれ
えた時代でもあり,欧米のいわゆる新教育運動の影響を
の思想・哲学による子どもの権利の主張を行っている。
受け,今までの教師中心から子ども中心主義による自
(注6)
は1924(大正13)
由主義教育の必要性が叫ばれるようになった。加えて,
年に六つ,1927(昭和 2 年)には九つと二度にわたって
その流れに連動して,童心主義を主張する鈴木三重吉
子どもの権利を提言している。彼が示した子どもの権利
(1882-1936)らの童話雑誌『赤い鳥』をはじめとする自
は神戸スラムや関東大震災被災地での児童保護の必要性
由文学が花開いたことも見逃せない。
を強く感じた経験が表現されており,その根底には揺る
こうした子ども文化高揚の背景には,第一次世界大戦
その中でも,賀川豊彦(1888-1960)
(注7)
がない子どもへのまなざし
が存在していたといえよう。
による日本経済の好況を挙げることができる。しかし,
(2) 本稿の目的
大戦終結後は戦後恐慌期に入り,それをきっかけに金融
第一次世界大戦後の好景気から一転,スラム化した神
恐慌,世界恐慌へと急降下していくこととなる。恐慌か
戸の町で自己犠牲的な「救貧」活動,アメリカ留学後は
ら資本主義を維持するため,日本はアジア諸国に侵略戦
「防貧」的視点から導き出した「組合」運動等,
「社会
争への道を辿ったが,その煽りが社会的弱者である女性
(7)
悪」 の具体的問題である「貧困」に対して果敢に挑ん
や子どもに顕著に現れ始める。とくに低層である経済的
でいた賀川について,本間は「世界的な経済危機で『貧
困難な階層の人たちに至っては,「大学は出たけれど」(注9)
困』が大きな問題となっている現代は,実は賀川豊彦の
という流行語のように働き口がなく,スラムに落ち込む
(8)
生きた時代によく似ている」 と述べ,小南も「賀川の時
者も少なくなかった。そんなスラムでは,捨て子や貰い
代と現在とでは貧困の質や状況等は異なるが,貧困解決
子殺しが頻繁に行われ,わが子であれ人の子であれ明日
に生涯をかけた彼の思想や理念から学ぶものは多い」(9)と
を生きるためには子どもを切り捨てなければならない,
考察している。
または人生を諦めた上での親子心中などの悲惨な現状で
また,先行研究を見ても,賀川の子どもの権利につい
(注8)
あった。
。それは,賀川
さらに追い討ちをかけるかのように満州事変が始ま
という人物の多分野での活躍故のジレンマでもある。そ
り,十五年戦争による民衆の生活の弾圧と窮乏,人間的
こで,本稿は我が国の子どもの権利の歴史を概観したう
幸福はひとかけらもない状況が繰り広げられることにな
えで,彼の子どもの権利のその特徴について論じていく
る。子どもに至っては,その人格や権利などは保障され
こととする。
るはずもなく,反対に「幼い戦力」「未来の戦力」など
さらに,堀尾も指摘しているように,子どもの権利を
人的資源と見なされるようになっていく。それは,皮肉
て詳細に論じられているものは少ない
- 114 -
にも大正期に花開いた彼らの教育や文化が戦争イデオロ
「けれども私の最も感じたのは貰い子殺しの多いことで
ギーによるものへと変貌していった結果であった。
した。…中略…私は最初の年に,葬式をした十四の死体
自由主義教育と児童文化ルネッサンスが謳歌され,日
中,七つ八つ以上はこの種類のもので有ったと思いま
本児童史上子どもの最も恵まれた時期から,一転わずか
す。…中略…これと云うのも現金が欲しいからで,貧民
十年で,子どもたちは第二次世界大戦に巻き込まれ,戦
が,今日でこそ金の五円,十円と云えば余り珍しくもあ
争のありとあらゆる災害をその小さな心身に受けること
りませんが,その当時には,実に大切なものでありまし
となる。児童文化研究家の上は,この時期の特徴を日本
て,金五円で結婚も離婚も出来たのであります。…中略
児童史上子どもの生活と命運が最も急激に変動した季節
…それから乞食に行くにも痩せ衰えた嬰児を背負って行
であり,「天国より地獄への急行」「小春日和から一足飛
くと,同情が多く集まるからでありましょう。乞食の間
びに厳冬へ」という比喩的表現が適切であると述べてい
に,最も露骨に,この嬰児の貸借があります。」 (16)
る (11)。
「ただもしや幸にして,子供が一歳の時を経過して飯で
(2) スラムによる子どもらしさの喪失
大きくなる様になれば,それから先どうでもなると考え
のスラムで路傍伝道を開始し
るのが一つでありましょう」(17)とあるように,大人たち
たのは1909(明治42)年 9 月のことであった。そして,
は当時の“子どもを子ども”としてという風潮からかけ
賀川が神戸の葺合新川
(注10)
同年12月に転居してから,二年余りのプリンストン大学
離れた,言い換えれば,子どもを将来への展望や配慮よ
留学を除くと,1923(大正12)年の関東大震災救援で東
りも,ただ日銭を稼ぐための人的資源と捉えていたと考
京へと移住するまでの約十年の間,この地を中心に活動
えられる。
を行っていく。彼は以前から当時,死を約束された病で
さらに,第三者の視点で神戸スラムの子どもたちの様
あった結核を患っており,「どうせ死ぬのなら貧民窟で」
子を映し出している武内勝(1892-1966)(注11)の証言を参
(12)
考にしながら,子どもたちの実情に迫っていきたい。
題を通じて,イエスの精神を発揮して見たいと思って居る
荒廃した生活環境,そして子どもへの待遇を考慮すれ
こと‐その為めに貧民窟で一生送ると云ふ聖き野心を遂
ば,彼らの行末は自ずと窺えよう。子どもたちは教育を
と考え,また「神が彼に依託した或事業‐それは貧民問
(13)
げ得るまでは,死なぬと云ふ確信を持って居た」 との宗
受けていない。正確に言えば,教育を受けられなかっ
教的理由,さらには「小野の聖者」青木まつ(1877-1959)
た。義務教育であれ,夜間学校であれ,「大半の子供は,
(14)
1852-1883)やバー
の感化 ,トインビー(Arnold Toynbee,
小さくても,母親と共にマッチ工場に行き,賃仕事をす
ネ ッ ト(Samuel Augustus Barnett,1844-1913)
,アダムス
る。また親がもの拾いに行くとその手伝いについて行
(Jane Addams,1860-1935),ウエスレー(John Wesley,
く」(18)とあるように,常に彼らの隣には貧困があり,満
1703-1791)などのセツルメント活動に憧れを抱き,その
足に教育を受けることなど不可能であったのである。
影響を受けていたとされる。
そうした子どもたちは,自らの力で物事の正否を判断
しかし,彼を待ちうけていたのは壮絶な日常であっ
することができなかった。ましてや,大人たちがそれを
た。狭き地域に約二千戸,八千人前後の人々がひしめき
教えていたとも考えられない。武内の証言のなかに,「あ
合って住んでおり,潰れかかった長屋が軒を連ね,路地
る子供が他の子供のものを盗むので,これが盗癖になっ
にはドブが走り,悪臭が立ち込めていた。そこには,貧
てはいけないと憂慮して,母親と相談しようと思って呼
困,病気,犯罪が渦巻いていた。大人は自分たちが生き
びましたところ,母親は即座に,「他人のものを盗むの
ることで精一杯であり,子どものことなど考える余裕も
は,うちの子の甲斐性だ。ほっといてんか」とどなられ
なかった。当時の神戸スラムの家族は未だ家父長制であ
ました。これには開いた口がふさがりませんでした。何
り,夫にとって「家」=所帯を形成・維持することが
をかいわんやであります。」(19)と,親が子どもの犯罪を黙
「名誉」と見なされていたが,夫一人で養えるほどの収
認している場面もあった。元来,子どもには物事の正否
入は得られず,結果,多くの家庭で妻や子ども等も出稼
がわからない。大人によって躾られたり,大人の言動を
ぎへと出なければならなかったのである(15)。
模倣したり,無意識にそれらを取り込みながら,社会化
彼の著書で当時の子どもたちの姿を把握できるものが
していくのである。したがって,大人の堕落,怠惰,不
ある。詩集『涙の二等分』や自伝的小説『死線を越え
道徳にたやすく染まり,その結果,子どもが不良化して
て』等である。痛ましい貰い子殺しや遊女屋に売り飛ば
いくのは当然の帰結であった。それと同時に,子どもた
される女児,スリになるしかない男児の話など,衣食住
ちが本来備えていたであろう“子どもらしさ”が欠落,
すべてにわたって,教育どころではない子どもたちの厳
喪失していったと考えられる。
しい現実が鮮明に描かれている。以下は「貧民窟十年の
“子どもらしさ”の喪失は,子どもたちの言動からも窺
経験」にて賀川が抱いたスラム生活の最初の印象であっ
うことができる。どの時代の子どもも自らの将来につい
た。
て,何かしらの夢を持っている。大正期,子どもが子ど
- 115 -
もとして認められた時期,加えて,児童文化も発展した
① 人格者としての子ども
ことから,彼らは様々な情報を入手するとともに,ファ
第一子純基の誕生(1922(大正11)年)を機に,賀川は
ンタジーの世界を遊んだのである。しかし,神戸スラム
「人格」としての子ども観を再認識することとなる。そ
の子どもたちの視野はあまりにも狭く,現実は厳しかっ
れは,時代の流れに共感し身を任せたものではなく,神
た。彼らの夢は大半が「下駄直し」や「拾いや」,そして
戸スラム撤廃が失敗に終わり米国留学(1914年-1917年)
(20)
を境に,救貧ではなく,防貧へと方向転換したこと(注13),
「電車の踏み切り番の旗振り」であった 。
また,当時の子どもの遊びといえば,和楽(注12)から近
そして何より人の親となったことで,再度「人格」の重
代スポーツ的な遊びへと移り変わり,高価な用具がない
要性を問い直していったのである。
庶民の子どもたちの間でも,伝承的な遊びを軸に近代ス
そこで,賀川は「人格」の構成要素として「自由」「秩
ポーツの要素である,激しい身体的活動と熾烈な競争
序」「成長」の三つを定義している(22)。「自由」は自らの
意識,さらに緊密なチームワークを要する遊びが発案さ
偏った欲望のみの「横の自由」でなく,向上心としての
れ,盛んであった。それに対して,神戸スラムの子ども
「縦の自由」を指す。また,その自由を享有するために
たちは,“淫売ごっこ”や“泥棒ごっこ”,あるいは博打
は「秩序」が必要であり,「法」に沿った行動の必要性を
をするなど,どう見ても子どもには似つかわしくない遊
説いている。さらに,「成長」とは「新らしさ」であり,
びばかりが挙がってくる現状であった。彼らは,子ども
「自由」と「秩序」を土台とし,さらなる己の可能性の
らしい遊びを知らない,教えてもらえなかったのであろ
幅を広げることを意味している。
う。さらに,遊ぶ場所さえないとなれば,行き着く先と
「人格」としての子どもとは,どのようなものか。それ
してこのような遊びになってしまったと考えられる。ま
は,賀川の我が子への関わり方が物語っている。
た,こうした遊びを先導する子がいて,その波及の結
「私は,沈黙して居る我が子に対して,何時も人格者と
果,不良化への道を辿ってしまうのである。
して取扱って来ました。我が子の傍で,赤ン坊だからと
神戸スラムの子どもたちは発育不全であった。それは
云って,調子を下した様な言葉は決して使はない様にし
大人自身が今日,明日を行き抜くことで精一杯であり,
ました。…中略…私は,赤ン坊でも,よく大人の云ふこ
自分たちよりもさらに弱者である子どもにまで手が回ら
とを理解するものだと考へて居ます。私の子供は,まだ
なかったことからも明らかである。子どもも生きるため
発音が充分出来ない時でも,つとめて,なすべきことの
なら犯罪に手を染めようと気にも留めなかった。そこに
理由を,叮嚀に説明してやりました。さうすると,不思
は心の葛藤,抵抗があったのかも知れない。しかし,そ
議によく,云ふ事を聞きました。」 (23)
れらは「生きる」という生存本能によって抑えられてし
賀川の「人格」としての視点は胎児から既に始まって
まうのである。そんな子どもたちが大人になったとして
おり,赤ん坊にも赤ん坊なりの意識が存在し,大人の行
も,この貧民窟の悪循環が解消されることは到底不可能
動を理解しようしていると考えていたのである。
であったのである。
また,この視点は,これまでの家族観を解体する意図
(3) 賀川の子どもたちとの出会い
も含んでいる。当時の家族は,父権が子どもに限らず,
大正期から昭和期にかけて,子どもをめぐる新たな価
家庭の全てを掌握し,血縁関係を重視するものであっ
値意識が生まれ,子どもを一人の人格として大切に扱う
た。しかし,賀川は子どもの誕生を宗教的観点から捉
風潮が世間に浸透し始めていた。しかし,神戸スラムで
えなおした際,子どもという存在が独立した「不思議
はそのような兆しは一向に見えてこない。逆に多くの子
な実在」(24)であることを理解し,現存の家族制度を疑問
どもたちが虐待の対象となり,子どもとしての存在が受
視するようになる。そして,従来の血縁関係を「ファ
け入れられていなかった。そうした現状を危惧したのが
ミリー」,そして親子の愛情による関係を「ホーム(家
賀川であった。彼の言葉を借りれば,スラムでの子ども
庭)」と区別し,自身と子どもの関係を血縁とは異なる
たちの生活は様々な「社会悪」の犠牲のうえで成り立っ
「社会改造」の理想形,個々が尊厳を持った対等な関係
ていた。彼は子どもが子どもとして,さらには人間とし
へと築こうとしていく(25)。
て十分な生活が送れていない状態に警鐘を鳴らしていた
こうした「人格」としての子ども観を基盤としつつ,
のである。そこで,自身が掲げるスラム撤廃の「社会改
賀川はさらにスラム生活や関東大震災救済の経験を活か
(21)
造」 のため,保育に関心を抱き,精力的に活動を行っ
し,独自の子ども観を唱えている。賀川の子ども観の代
ていった。そこには,スラムの子どもたちに保護と教育
表的研究としては,黒田(26)や服部(27),福元(28)らの業績を
を行い,悲惨な運命の輪から開放したいという賀川の切
挙げることができる。彼の子ども観をめぐる研究者の
なる願いが込められていた。では,賀川自身は子どもを
見解は次の三つのカテゴリーに大別することが可能であ
どう捉えていたのだろうか。
る。それは,聖書的子ども観,生活的子ども観,教育的
子ども観である。
- 116 -
② 聖書的子ども観
強く感じていたと指摘し,だからこそ,彼はキリスト教
賀川は「子供の心は,大理石のやうなもので,教師は
精神「贖罪者イエスの弟子」(35)故に子どもたちを「社会
その上に彫刻していく芸術家である」(29)と,子どもが将
悪」から救済する使命感を持っていたと考察している。
来素晴らしい芸術品となる可能性を秘めた存在であると
さらに,彼の「優越的な自意識」(注14)が偶像化を防ぎ,よ
見なしていた。彼のテキストには子どもに対する宗教的
り客観的な視点で子どもたちを捉えることを可能にした
畏敬ともいえる心情が充ち満ちている。さらに,彼は聖
と論じている。
書に基づいて,子どもを「神の子」として捉えていたこ
両者が主張する賀川の子ども観からは,彼が子どもの
とが窺える。
目線を持ち合わせていたと考察することができる。その
賀川の著書に表された子どもへのまなざしを概観した
裏づけとして,武内は不良化してしまった子どもたちへ
とき,子どもは“汚れなきもの”というイメージが強く
の賀川の対応について,次のように述懐している。
浮かび上がってくる。それは大正期の童心主義が連想さ
「賀川先生はこれらの(不良化してしまった)子供を
れ,現実性に欠けるとの指摘もあるが,「…彼はルソーの
どう扱うかについて,いろいろ思案しておいでになって
『エミール』や『ソフィア』の教育‐それは恋愛教育ま
いたようでありますが,一番大切なことは子供の友達に
でも含んだものであらねばならぬ‐のことを思うて日本
なってやり,一緒に遊んでやることだとお考えになって
の教育を呪うた」
(30)
とあるように,ルソーの思想が重要
おられました。」(36)
であると認識していたことからも,性善説の立場から子
子どもと友達になる。その方法は賀川の中に幾らでも
どもを受け止めていたと考察することができる。
あり,彼にとって貧困窟での勝利以上のもの,「誇り」
さらに,賀川は子どもとの関係において,スラム生活
「大いなる栄誉」であった。そんな行動をしている賀
で自らが直面していた孤独を潤すオアシス,または自分
川を神戸スラムの大人たちには到底理解できなかったこ
の居場所と見出し,子どもを安らぎ,癒しの対象と捉え
とであろう。しかし,子どもたちはそうではなかった。
ていた。そのことは次の文章からも窺える。
彼らにとって賀川は心を許す存在へとなっていった。ま
「貧困窟の子供ほど,自由の愛で私を愛して呉れる者は
た,賀川自身も「児童と遊ぶ時でも私本位の遊び方はし
ありません。…中略…その後私は子供等に愛せられたい
ない,子供が可愛いからとて,子供本位であることを忘
計りに髭も生やさず,善い着物も着ず,貧困窟を徘徊つ
れ,自分のために子供を道具に使うようなことはしな
く病気が出来ました。…中略…心配があるとき,悲しみ
い」(37)と述べており,「私は実はまだ子供です。子どもと
のあるとき,刑事に尾行されたとき,野心の有るとき,
少し位の悪戯は何時でもしたいのです」(38)と自らを子ど
淋しいとき,慰められたい時,いつでも捨てずに愛して
もと表現し,少しでも子どもたちの心に近づこうとして
呉れるのは貧困窟の子供等である。」 (31)
いたことが窺える。このように,賀川は子どもと接する
また,賀川は「絹のように柔かい赤ん坊の頬ぺたに接
(32)
なかで,子どもと同じ目線を育み,磨きをかけていった
吻する私は,甦り心を以って,生命の清水に汲む」 と
と考えられる。
述べており,「親が子をもつという事は即ち親が子供の事
④ 教育的子ども観
を体験する」(33)とあるように,子どもとの関わりが大人
賀川が掲げる「社会改造」は,暴力や革命を否定し,無
に与える影響について論じている。これは,彼がフレー
抵抗の抵抗主義であり,労働者の主体性の回復と連帯意
ベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel,1782-1852)の思想
識の養成を行う知識革命と精神革命であった。彼は「三
に共感,また参考にしていたことからも,「無垢なる子ど
つの宝を捧げて,嬰児を跪拝せよ。嬰児こそ,真の革命
もの生が,大人の生を淳化し若返らせる」(34)というフレー
者である。革命者は永遠に若い。星に導かれて嬰児を礼
ベルの考えと同様であるといえる。
讃せよ。嬰児こそ「次」の時代の世継ぎである」(39)と述
③ 生活的子ども観
べ,「社会改造」の担い手として,大人はすでに自分の思
服部は,賀川が大正デモクラシー期の理想に満ちた多
想や価値観を持ち,意識改革が困難であることから,子
くの児童運動が権力による弾圧や社会変動の中で変節や
どもに着目し,次の世代への大きな期待を寄せていた。
開放を余儀なくされていったにもかかわらず,子どもた
洗内も同様に,賀川の自伝的小説であり,史実に基づい
ちの生活状況をしっかりと見据え,子どもの生理的・心
た作品である『死線を越えて』を分析する中で「貧困窟
理的条件も踏まえて,子どもをめぐる問題に粘り強く取
改良事業は先ず子供から!」(40)「栄一(賀川自身)は貧
り組んでいたとし,彼の子ども観は,大正デモクラシー
困窟を救う道はただ一つしかないことを固く信ずるよう
の影響を受けていたことを指摘しながらも,極めて現実
になった‐それは子供と共に成長すると云うことであっ
主義的であったと述べている。
た。」(41)「そして新しい芽‐それは理想と光明に目醒めて,
福元は,賀川が自らと子どもを同一と捉え,彼らの立
古い汚い腐ったドン底を生活厭うて逃げ出すやうな新し
場になったときの考えられない苦しみや悲しみ,恐怖を
い力が,子供の心の衷に湧いてくるのをみたのである」(42)
- 117 -
とあるように,賀川が貧困を無くす,又は改善のために
(43)
族主義国家から反するという理由から両者の子どもの権
子どもへの教育の必要性を唱えていたと述べている 。
利思想が浸透することはなかった。
これは,賀川が子どもは守られるだけではなく,形成・
一方で,別の視点から子どもの権利思想普及が加速す
発達していく存在であると捉えていたことを裏付けるも
ることになる。それはキリスト教によるものであった。
のであるといえよう。
巌本善治(1863-1942)とその妻若松賤子(1864-1896)は
さ ら に, 福 元 は 賀 川 が 主 張 す る「 人 格 」 の 要 素 に
信仰に基づき,女性や子どもにも立派な人格があると主
「愛」が存在すると考察し,その「愛」にも二つの意味
張,従来の家族制度がそれを弊害していると捉え,近代
があり,一つは個人の対他的な営みを支える感情であ
家族の建設こそ,女性・子ども,さらには男性の解放に
り,もう一つは人と人の相互扶助を支持する感情である
も繋がるとしていた。
という。彼女は賀川の「幼児自然教案」を分析するなか
さらに,その流れを受け継いだのが田村直臣である。
で,キリスト教の「隣人愛」を原理とする相互扶助関係
彼は「子どもの権利」という言葉・概念を日本で初めて
を構築するため,教育による宗教道徳の普及定着を目指
用いたとされる。その内容は,彼が実践として行ってい
し,幼児に宗教的「愛」で結ばれた人間関係を編む社
た日曜学校から反映されたものが中心であり,とくに,
(44)
会化の基礎を自覚させようとしたと論じている 。つま
(45)
「個人差を認めてもらう権利」や「意思を尊重してもら
り,この「愛」は賀川の「人間建築」 を論じる上で欠
う権利」,「子どもとして取り扱われる権利」は当時の公
かすことのできない観点である。彼は我が子の教育につ
教育に対する批判とみてとれる (47)。
いて,次のように述べている。
1915(大正4)年,子どもの権利思想に大きな転機が訪
「私は,悪に打ち勝つ工夫を,我が子に教へてやりた
れる。それはケイの著書『児童の世紀』が雑誌『青踏』
い ので す。 貧乏 に, 病 気 に, 心配 に, 生存 競 争に, 老
の山田わか(1879-1957)訳で日本に紹介されたことであ
衰に,災厄に,死に,不完全に,醜に,罪悪に,我が子
る。この“子どもの権利のバイブル”は忽ち人々の心を
が打ち破られ,絶望の生活を送らない様に,私は,哲学
掴み,児童主体尊重の自由な教育・文化を現実化させ,
や倫理の領域を離れて,此等の凡てに打ち勝って行く工
大正期の風潮である民主主義思潮と相まっていく(注16)。
夫を教へてやらなければなりません。これもまた,宇宙
自由主義学校である帝国小学校を創立した西山哲治も
生命の中に秘められたる再生の工夫を教へるにしか,過
当時の公教育批判と児童中心主義尊重を目的とし,子ど
ぎないのでありますが,我々人間が,表面的に見ている
もの権利の必要性を学校や家庭における教育の方法と
生命の奥に,なほ隠されたる愛の法則であって,凡ての
して捉えていた。そして,「子供の三大権利(天与の権
悲哀以上に,宇宙生命の衷に隠されたる愛の方が,更に
利)」である「善良に産んで貰ふ権利」「善良に養育され
強いものであることを教へなければならないのでありま
る権利」「よく教育される権利」を中心に食物や睡眠,遊
す。」 (46)
び場等のより具体性を持たせた権利へと細分化を行い,
賀川の「愛」という言葉には様々な意味が込められて
悪癖矯正・低能児病治療等についても主張している(48)。
いる。そうした「愛」を子どもたちに教えることで,子
既述したように,1924(大正13)年国際連盟によって,
どもを自身が掲げる「愛」の実現者として捉えていたと
ジュネーブ宣言が採択されたが,採択当初十分な評価は
考察することができる。
得られなかった。そうした中で,社会事業家である生江
孝之はその宣言にいち早く注目・評価していたという。
3.
賀川豊彦が掲げる「子供の権利」
彼は児童には生まれながらにして少なくとも三つの権利
(1) 我が国における子どもの権利の曙
「立派に生んで貰ふ事」「立派に養育して貰ふ事」「立派
我が国の子どもの権利の歩みは,近代から始まったと
に教育して貰ふ事」があると述べており,その権利を父
(注15)
いっても過言ではない
。その一端を担ったのが自由
母(家庭),さらには,父母が無理な場合,国家社会が補
民権運動である。中でも,植木枝盛(1857-1892)は同郷
完するという点を特徴(社会権的性質)としている。こ
で「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民(1847-1901)の
れは現在の児童福祉法と通ずるものがあり,加えて,こ
影響を受け,ルソーの思想を反映しつつ,「親子論」(『土
の権利は子どもを限定せず,全ての子どもを対象として
陽新聞』1886(明治19)年)の中で親に対する子の権利
いることから予防的視点を有していることも窺える(49)。
(「親権過大,子権過小の陋習」削除)の主張を行ってい
(2) 賀川の子どもの権利の特徴
る。さらに,民法編纂として,第一次草案を提出したボ
賀 川 の 子 ど も の 権 利 は 関 東 大 震 災(1923( 大 正12)
アソナード(Gustave Emile Boissonade de Fontarabie,1825-
年),金融恐慌(1927(昭和 2 )年)と社会が不安定で児
1910)は親権規定の際,「一切ノ権利ハ子ニ属シ,父母
童保護の必要性が叫ばれている最中,そのニーズに応じ
ハ,只義務ヲ有スルニ過ギズ」と明確に子どもの権利を
て主張を行ったと見受けられる。加えて,当時の風潮か
宣言している。しかし,当時の政府の方針,天皇制的家
ら影響を受けていたことも彼の著書や先行研究から読み
- 118 -
取ることができる(注17)。さらに独自の特色として,セツル
考えられる。さらに,子どもが安心して生活が送れるよ
メントを通して,神戸スラムでの生活という実体験等か
う家庭への忠告など,子どもの「環境」を整備すること
ら学び得た子どもたちの日常生活に重点をおいたもので
の重要性も内包されているといえる。
あることが窺えよう。そんな彼の子どもの権利の特徴に
福田は賀川が「子どもの問題は往々にして親子という
ついて,『子どもの権利論のてびき』には次のように記さ
上下関係において生じるのではなく,むしろ夫婦間など
(50)
れている 。
大人社会の中で生じていることを看破しているかのよう
確かな体験に裏打ちされた,先見性を感じさせる,子
である」(52)と述べているが,正しくその通りである。
どもの権利には四つの特徴がある。
賀川の権利は,子どもだけでなく,子どもを中心とし
1 スラムでの救済活動を通じた子どもの人権の代弁者
た社会へも多くのメッセージを発信している。それは既
2 ジュネーブ宣言直前の子どもの権利へのすばやい反応
述した社会権的性質や子どもの環境とも大きく関係して
3 生活に立脚した基本的な六つと九つの 5 種類の子ど
おり,加えて夫婦喧嘩や禁酒等,ユニークな着眼点であ
ると同時に日常生活からの共感も得る狙いがあったと考
もの権利論
4 子ども達に対して常に暖かなまなざしを注ぎ,子ど
えられよう。
また,賀川は子どもには悪いことは悪い,良いことは
もの側に立った基本的権利を説いた
つまり,賀川が掲げた子どもの権利は,子どもの側に
良いと認められる権利がある一方で,それをわからせる
立った権利であると同時に,自らの社会運動で闘い取ろ
手段として,保護者に叱る権利があるとも主張してい
うとしていた人間としての生きていくための基本的権利
る。ここで叱ることと怒ることは明確に区別しており,
と深く絡めて主張されたものであった。
叱ることとは「子供のためを思ひ,之を愛して立派なも
次に,賀川の子どもの権利が掲載されている著書等か
のに仕上げんとするが故に,自分は少しも怒ってはいな
ら,権利内容について一つずつ迫っていきたい。
いが,子供のために,其悪を正し,不義を正す」こと,
① 『賀川豊彦氏大講演集』
怒ることはただ保護者自身が「感情が制し切れずに爆
「子供には種々の権利がある。権利といへば非常に堅苦
発」ことであるという。そして,怒ることの先に親の身
しい様であるが,今私の云ふ権利といふのは,学者達が
勝手な暴力があるとし,その行為を強く非難している。
いふ六ヶ敷い意味での権利ではない。または法律上の明
このように,賀川は子どもだけでなく,保護者を含め
文で明かに認められたものではないのである。然しなが
社会全体が子どもにとってより良い方向へと導いていく
ら我々が社会生活を為すにつけては大きな意義のある重
権利を考案したと考えられる。
要なものである」
(51)
② 『社会事業研究』・『児童保護』
賀川の子どもの権利の最初の文章である。1924(大正
1924(大正13)年に発表された権利から「喰ふ権利」
13)年 6 月 9 日 東京深川猿江裏児童保護講和会講演で発
「眠る権利」の二つは,言葉の意味を強調する等の変更
表されたこの権利には,学者が考えた,法律の明記され
が見られるものの,その内容については引き継いでいる。
た以外の子どもの「社会生活を為す」ための権利が描か
さらに「生きる権利」「指導して貰ふ権利」「教育を受
れている。
ける権利」「虐待されない権利」「親を選ぶ権利」「人格と
しての待遇を受ける権利」と新たに六つの権利を主張し
ている。これは,国際連盟によるジュネーブ宣言が採択
第一 子供は食ふ権利がある
されたことで,賀川自身,強く触発され,自分の主張を
第二 子供は遊ぶ権利がある
より明確に整理したのではと推測する(注18)。
第三 子供は寝る権利がある
第四 子供には叱られる権利がある
第五 子供は親に夫婦喧嘩を止めて乞ふ権利がある
第一 生きる権利(生存権)(注19)
第六 子供は禁酒を要求する権利がある
第二 喰ふ権利
第三 眠る権利
表1 1924(大正13)年 子供の権利項目
第四 遊ぶ権利
第五 指導して貰ふ権利
賀川はまず生きるために食べること,そして健全な成
第六 教育を受ける権利
長・発達のために遊ぶことと寝ることの重要性を主張し
第七 虐待されない権利
ている。また,子どもが虐待されたり,餓えたりするこ
第八 親を選ぶ権利
とは,不自然であり,「幸福に,安全に,健全に,成長発
第九 人格としての待遇を受ける権利
達すべき」ための保護を保護者やそれに代わる第三者の
義務とし,生江と同様,社会権的性質が備わっていると
- 119 -
表2 1927(昭和2)年 子供の権利項目
「喰ふ権利」「眠る権利」と違い,「遊ぶ権利」は『社会
出少年の取り扱い等も含めた広い意味で捉えていた。そ
事業研究』で「遊びを指導する人」という言葉が追記さ
して,悲惨な虐待の事例を次のように挙げている(57)。
れている。これは関東大震災の際,本所基督教産業青年
会の青年たちが中心になって,子どもたちへの遊戯指導
A. 蒲団の足らぬ家庭の惨状
や日曜学校が開始され,遊戯と教育の活動の拠点,言い
B. 酒呑の家庭の子供
換えれば,子どもたちの“たまり場”として天幕託児所
C. 博徒の家庭に育つ子供
「光の園」(本所横綱町旧安田邸1924)の土台が形成され
D. 多産の家庭の児童
ていった経緯によるものであると考察する。また福元は
E. 工場法の産んだ児童虐待
遊戯指導を通じて,「大人との教育的関係の拡張,拡充」
F. 売られて行く娘等
という意図もあったと論じており(53),賀川が遊びの重要
G. 変質児童の虐待
性を再認識したと考えられよう。
H. 病児に対する虐待
さらに新しく加わった権利を論考していくと,賀川は
I. 児童心理の無理解より起る虐待
(54)
当時の乳児死亡率 の高率を嘆いており,雑誌『社会事
表3 虐待事例
業研究』で,その原因に家庭の収入不足による母親の
労働や,農村等の過疎地,関東大震災での栄養問題での
加えて,虐待の観点から,賀川は子どもに「親を選
赤ん坊の死亡率が高いことを例として挙げている。そし
ぶ権利(『社会事業研究』では「子供は親に折檻する権
て,自らが掲げる「社会改造」の根本原理「人間の生命
利」,「子供は親を諌める権利」とも記載)」があると唱
の尊重」に基づき,「生命が完全に育ち保たれるやうな
え,当時の悪習であった「貰ひ子殺し」との関連を述べ
社会を造りたい」という信念から子どもの生きる権利は
ている。多くの親は自分の立場,または偶然によって出
尊重されなければならないと唱えている。また,この権
来てしまったことから,子どもを邪魔者扱いする。ま
利は「ジュネーブ宣言」の生存権又は発達権によって,
た,親自身の不衛生から生じる子どもへの障害について
その必要性を再確認したことから主張されたものと考え
も悲観している。子どもは生まれるまで,親が誰だかわ
られる。一方で,この権利の中に優性思想による産児制
からない。だからこそ,生まれてくる子どもたちがより
限賛成という内容も書かれているが,三原は賀川が「遺
良く成長していくためにも,親自身の変革を行わなけれ
伝」に触れていることを取り上げ,当時の優生学の盛行
ばならないのである。そして,親にとって,子どもとは
による影響を受けていたと考察している
(55)
何か。その意識の再確認を促しているといえる。この権
「指導して貰ふ権利」「教育を受ける権利」は1924(大
利の裏には1934(昭和 9 )年に起きた東北地方での凶作
正13)年の「叱られる権利」を分割し,より子どもへの
による「親類運動」 (58)や,失敗に終わった神戸スラムで
指導・教育を強調したものであると考えられる。ここで
の一時里親(59)など,家庭の養育機能が不十分な場合,社
は何よりもまず,「子供の心理」を理解しなくては本当の
会が請け負う必要性を主張していたとも考えられる。
指導ではないと述べており,「子供の心理」,つまり「子
そして,賀川は子どもを保護の対象だけではなく,独
供の心を持つ」(56)こと,大人の目線だけで子どもを見る
立した人格として捉えており,それは,子どもだからと
のではなく,子どもと同じ目線を持ち得ることであると
いって軽くあしらうのではなく,一人の人格として尊
いう。また,不就学児のなかでも障害を持った子どもに
ばれなくてはならないことを訴えているのである。彼は
着目し,障害が個人の問題ではないこと,そして「社会
子どもという存在を「第二の国民」と表現していること
改造」のためにも,彼らに教育を受ける権利があること
は,現在においても等閑視することができない「国民」
を主張している点も興味深い。
という意味であったと考察する。
「虐待」は,今尚我が国でも大きな社会問題である。当
以上,賀川の子どもの権利を考察していくと,次の四
時の日本では偏った家制度によって妾の子や私生児の理
つのキーワード「生存」「保護」「発達・成長」「意思」が
不尽な扱いを受けており,賀川はそれを強く非難してい
浮かび上がってくる。
る。加えて,「親に夫婦喧嘩を止めて乞ふ権利」と「禁酒
「生存」は人々の意識や姿勢が「子どもも人間であり,
を要求する権利」もこの権利のなかに含まれていると考
生きている存在」へと変わらなければ,どんなに声を張
えられる。
り上げても意味がないとしている。「保護」は言い換えれ
そもそも,彼らには何等罪はない。あるとすれば,そ
ば,「子どもは子ども」であるということ。つまり,「小
れはその保護者による身勝手さである。賀川は1933(昭
さな大人」などの子ども観とは異なり,子ども故の弱さ
和8)年の児童虐待防止法制定以前から,イギリスを見
から保護は必要であることを示す。「発達・成長」は「食
習って,児童保護の特別な法律の必要性を主張してお
(喰)ふ権利」「寝(眠)る権利」の身体面に加え,「遊
り,虐待を貰い子殺しや捨て子,年少労働,障害児,家
ぶ権利」「指導を受ける権利」「教育を受ける権利」など
- 120 -
の精神面でも子どもの成長・発達を促すことを主張して
る。
いる。「意志」は子どもにも自分の意見が存在しており,
それを表明すること,社会がしっかりと聴く耳を持たな
4. おわりに
ければならないことを意味している。
子どもの権利を問い直して行く中で,主体は当然子ど
また,賀川が子どもの権利論を発表した当時,大正デ
もであるが,一方で彼らに権利があっても行使できな
モクラシーが後退し始めた時期であり,こうした主張や
い,権利の限界が存在することを再認識した。つまり,
運動がファシズム政権から抑圧や弾圧の対象になってい
子どもの権利は子ども,そして保護者や社会によって成
たことを知りながら,あえてこの権利を発表したこと自
り立っているものなのである。
体,彼の子どもへの情熱を窺い知ることができよう。
ここで今一度,我が国が抱えている問題へと立ち返る
(3) 賀川からの問いかけ
と,「子どもの貧困」が騒がれ始めている昨今,保護者や
既述したように,賀川の子どもの権利には保護者への
社会が子どもの如何なる心情までも尊重して,子ども階
助言・忠告が内包されていることが窺える。その背景に
層の意思や自由を社会的に確保して行く段階まで高めて
は彼の生い立ちや宗教的理由もさることながら,神戸ス
いく必要があるといえよう。
ラムでの“貰い子殺しのおいし”との出会い等,彼の経
絶対的貧困と闘っていた賀川の唱えた子どもの権利は
験によるところが大きいと思われる。
正しく子どものより鮮明な現状が理解できる権利内容で
彼は当時の母親を二種類に分けている。一つは母親と
あったと考察する。そこには「チルドレン・ファースト」
娘の狭間で揺れ動いている人である。母親でありたいと
(子どもたちの課題を最優先に)や「マイノリティの視
いう気持ちがありながら,自分のやりたいことを優先し
線(底辺に沈む子どもに焦点をあてる)」(64),保護者,社
てしまい,子どもが邪魔な存在とみなしている。また,
会の正しきあり方までもが内包されており,今日我々が
「近代の女性が陥っているジレンマ」として,良人のた
見失いつつある子どもへのまなざしを再度問い直す良き
めに良き妻であるか,それとも子のために良き母とな
導き手となってくれるのではないだろうか。
るかという悩みを抱えている者もいる。さらに,もう一
つは育児に対して,神経質過ぎる人である。言い換えれ
-謝 辞-
ば,「過保護」であり,こうした母親たちは自分=子ども
本稿を執筆するにあたり,ご指導頂きました兵庫教育
と捉えている(60)。これらは現代にも通じるものがある。
大学名須川知子教授に深く感謝申し上げます。
例えば,母親同士でのズレや世間の目を気にするあま
り,本来の子どもの姿を見失い,または子どもを自分の
-注-
映し鏡か何かと勘違いし,無理な早期教育に走る母親等
1 岩田は貧困と格差の違いの基準として,貧困は「許
がそうである。
容できないもの」と位置づけている。つまり,格差は
そんな母親たちに賀川は「私共は何も世間に見せるた
我が国が資本主義社会である限り,多少なりとも生活
めに子供を育てなくともよい,子供の自然,子供の世
水準に差が生まれる。一方で,貧困は格差とは関係な
界,子供の独自性を認め,お母さんは子供を尊敬して,
く,社会として許すことができない生活水準を示して
幼稚園にも一人でやるがよい,お母さんはついてゆく必
いる。当然,これは人々の「社会のあるべき姿をどう
要はない,それを危いからといって世話を焼くと却て子
思うか」という価値判断によって異なってくるもので
(61)
供を殺すのである」 と「我子の発見」を促している。
ある。(岩田正美『現代の貧困‐ワーキングプア/ホーム
多くの母親は多忙を理由に,「子供の子供らしい特殊の偉
レス/生活保護』,ちくま新書,2006)
。
大さ」を見逃しがちである。子どもには四つの観点「第
2 ルソーの著書『社会契約論』で「子供たちは,人間
一,可能性即ち将来性」「第二,成長性」「第三,不思議
として,または自由なものとして,生まれる。彼らの
(62)
性,神秘性」「第四,至純性」がある 。とくに第四の至
自由は,彼らのものであって,彼ら以外の何びとも,
純性では「型に嵌ったものを考へないで,ほんとうに子
それを勝手に処分する権利はもたない」と子どもの権
供が持ってゐるもの」,つまり「子供の独自の世界」があ
利を明言している。(桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契
り,それを見極め引き出す必要があると主張している。
約論』,岩波文庫,1954)
加えて,母親の態度も問題視しており,「(一)親の短
3 ケイの著書『児童の世紀』では第一章「子供のその
気を直すこと,(二)親の無智を恥ずかしく思ふこと,
親を選択する権利」のなかで「子供はよく産んでもら
(三)親が修養すること,(四)親が子供になること,
うこと」「育てられる権利」について触れ,第三章「教
(五)親が真実の子供の友になること,(六)親は親らし
育」で家庭教育・体罰禁止・教育上の差別撤回・教育
くすること,(七)親は神の子の資格を有することが大切
の機会均等を主張している。(小野寺信・小野寺百合子
である」(63)と,母親自身が態度を見直すことを促してい
訳『児童の世紀』,冨山房,1979)
- 121 -
4 新教育運動の指導者であるワロンは「ファシズムは
員会,pp.151-166,2003)だけである。さらに,本稿は,
子どもの権利の敵」とし,「新教育はおとなに対する
子どもの権利が掲載されている5冊の雑誌を網羅してお
子どもの権利を宣言してきたのであります」と主張し
り,そこが他の論文との決定的な違いであるといえよ
ている。また,「子どもの権利とは何か?それは子ども
う。
の本性を尊重させ,子どものなかにある固有の諸資質
9 1929(昭和4)年,小津安二郎監督の映画作品
を尊重させ,子どもは大人でないこと,大人ではない
10 現在,新川という呼び方は使われていないが,ここ
から子どもには大人とちがった扱いが必要なこと,大
では原資料から転載したので,そのまま使用する。
人は子どもに自分の感じ方や考え方や規律をおしつけ
11 武内は賀川の最初の弟子でありかつ第一の理解で
る権利をもっていないことを承認させる権利のことで
あった。賀川が神戸イエス団の生みの親なら,武内は
あります」と述べている。(ワロン「一般教養と職業
育ての親である。(浜田直也「解説-『賀川豊彦とボラ
指導」竹内良和訳『ワロン・ピアジェ教育論』,明治図
ンティア』」『賀川豊彦とボランティア』,神戸新聞総合
書,1963)
出版センター,pp.324-331,2009)
5 ジ ュ ネ ー ブ 宣 言 全 文 は4年 後 日 本 で 菊 池 俊 諦(1875-
12 本来,日本古来の伝統的な音楽の意であるが,上は
1967)によって翻訳・紹介(児童保護協会機関誌『児童
手毬やお手玉,羽根つきなどの遊びとして使ってい
保護』第3巻10号1928)された。(中野光「戦間期にお
る。その由来を大和生まれであること,そして,和し
ける「子どもの権利」論」『教育学論集』(34),中央大
て楽しむ性質を有していることを挙げている。(上笙一
学教育学研究会,p.50,1992)
郎『日本子どもの歴史(6)-激動期の子ども-』,第一法
6 賀川豊彦は近代化に伴う日本社会の大変動のただ中
規出版,pp.54-55,1977)
で活躍した人物である。彼は近代日本のキリスト者を
13 神戸スラムでの慈善事業の失敗は,貧困者の賀川へ
代表する1人であり,大正・昭和期の様々な社会運動の
の依存が強く,彼ら自身が変わろうとする意思がな
先駆者であった。また「スラム」「関東大震災救済活
かったことが原因として挙げられる。そこで,スラム
動」「昭和初期の教育不信」の三つを背景に多くの幼稚
撤廃の「社会改造」のためにも,まず根底である人間
園・保育所を設置し,子ども家庭支援事業を展開,さ
形成を重視するようになる。そして,「防貧」という考
らに,保育に関する講演・著作活動を行い,子どもた
えによって,「救貧」よりも前に新たな貧困者の出現を
ちに対して常に暖かなまなざしを注ぎ愛に基づいた実
防ぐ方法に着目し,行動するようになる。(賀川豊彦
践を行ってきた。1999(平成11)年には,ユニセフ国
「精神運動と社会運動」『賀川豊彦全集』第8巻,キリ
連児童基金の世界児童白書(ベラミー(Carol Bellamy,
スト新聞社,pp.468-469,1962)
1995-2005)『世界子供白書』,日本ユニセフ協会,pp.62-
14 賀川批判の一つに「貧民心理の研究」(『賀川豊彦全
63,
2000)にて,
「子どもの最善の利益を守るリーダー」
集』第8巻,キリスト新聞社,1962)で表現されている
として,世界の52 人の一人にも選ばれており,また彼
「優越的な自意識」が,被差別部落問題として取り上
の事業等は現在においても広範囲に渡って継続されて
げられた。しかし,一方で,松尾は現在と当時の知的
いる。
水準を指摘し,原著の削除ではなく,歴史の一資料と
7 副題でもある子どもへのまなざしについて,佐々木
しての解説が必要であると述べている。(松尊允尾「書
は「教育とか育てるということは,私は待つことだと
評『賀川豊彦』隅谷三喜男著」『歴史と神戸』47(2)
237,神戸史学会,pp.4-7,2008)
思うのです。“ゆっくり待っていてあげるから,心配し
なくていいよ”というメッセージを,相手にどう伝え
15 古来より,日本には子どもをかけがえのない宝と
てあげるかです」と述べている(佐々木正美『子ども
する風潮「子宝思想」があった(『万葉集』山上億良
へのまなざし』,福音館書店,1998)。つまり,子ども
(660-733)の詩等に子どもは宝と見なす表現が散見さ
へのまなざしとは子ども理解であり,受け止め方や接
れる)。だが,その一方で伝統的な生命観と高い乳幼
し方を指していると考える。
児死亡率が相まって7歳未満の幼児は不安定な存在で
8 賀川の子どもの権利に関する記述がある著書・論文
あり,人としてみなされていなかったことも事実であ
は,筆者が調べた限りで15本あり,そのうち,詳細な
る。それは「七つ前は神のうち」「七つ前は神の子」と
記載が行われているのは中野(中野光「戦間期におけ
いう諺からも窺い知ることできよう。加えて,「間引
る「子どもの権利」論」『教育学論集』(34)中央大学
き」「子返し」の理由としても使われ,自らの生存とい
教育学研究会,pp.47-68,1992)と宮盛(宮盛邦友「戦
う大人の事情によるものが大きいといえよう。近代以
間期日本における子どもの権利思想-平塚らいてう・下
前まではこの大人の事情がさらに拍車をかけ,「家門の
中弥三郎・賀川豊彦の思想と実践を中心に」『中央大学
存続」が当時の子どもの価値であり,長子相続制(一
大学院研究年報』(33),中央大学大学院研究年報編集委
姫二太郎風習)によって,子ども間での差別はあたり
- 122 -
(6) 新 渡 戸 稲 造『 新 渡 戸 稲 造 全 集 』 第21巻, 教 文 館,
まえに生じていた。
16 安 部 磯 雄(1865-1949) 著『 子 供 本 位 の 家 庭 』( 実
業之日本社 1917)は近代家庭論の基礎を,稲毛詛風
p.504,1986
(7) 賀川豊彦「精神運動と社会運動」『賀川豊彦全集』第
8 巻,キリスト新聞社,p.271,1962
(1887-1946)著『父と子』(大同館書店 1917)は子育
てによる父親の役割や責任を強調・批判している。さ
(8) 本間照光「「貧困の時代」に甦る賀川豊彦の思想」
『エコノミスト』,毎日新聞社,p.52,2009
らに,平塚らいてう(1886-1971)は『婦人と子供の権
利』(天佑社 1919)で女性と子どもの権利を同時に保障
(9) 小南浩一『賀川豊彦研究序説』,緑蔭書房,p.3,2010
するという考えを打ち出している。その他にも,西宮
(10) 堀尾輝久「『子ども』の発見と子どもの権利」三上昭
藤朝(1891-1960)著『子供の感情教育』(実業之日本
彦・林量俶・小笠原彩子『子どもの権利条約実践ハン
社 1919),西村伊作(1884-1963)著『我子の教育』(文
ドブック』,労働旬報社,pp.10-17,1995
化生活研究会 1923)等,大正期以降,子どもだけに捉
(11) 上笙一郎『日本子どもの歴史(6)-激動期の子ども
-』,第一法規出版,pp.15-26,1977
われず,様々な視点で子ども思想が論じ,表現されて
(12) 賀川豊彦「地殻を破って」『賀川豊彦全集』第21巻,
いる。
17 エレン・ケイについては「子も親を選ぶ権利がある
とエレン・カイが云ふ。生きて居ること之から文明を
キリスト新聞社,p.192,1962
(13) 賀川豊彦「死線を越えて」『賀川豊彦全集』第14巻,
キリスト新聞社,p.181,1964
形造る使命に於ては親子平等の権利を持って居る筈
だ。今の子供は次の代の親なのだ。」(賀川豊彦「人間
(14) 神戸市保育園連盟編『神戸の保育園史』
,p.34,1977
平等」『労働者新聞 復刻版』第1巻,日新書房,p.4,
(15) 布川弘「日露戦後における賀川豊彦の救貧事業:「人
1919)とある。また,伊ヶ崎は賀川と西山の権利内容
格」を認めるということ」『日本研究 』(12),日本研究
の類似性に着目し,賀川が西山から影響を受けたと論
研究会,pp.1-21,1998
じている。(伊ヶ崎暁生「子どもの権利の先駆的思想-
(16) 賀川豊彦「貧民窟十年の経験」『雲の柱』第 6 巻,賀
川豊彦記念・松沢資料館,pp.8-10,1987
賀川豊彦の「子供の権利」」『国民教育』(42),pp.132-
(17) 賀川,同上,p.10
137,1979)
18 1924( 大 正13) 年 の「 子 供 の 権 利 」 は ジ ュ ネ ー ブ
(18) 武内勝口述,村山盛嗣編集『賀川豊彦とボランティ
ア』,神戸新聞総合出版センター,pp.30-31,2009
宣言が発表される3 ヵ月前に発表された。その後,賀
川が如何にして,ジュネーブ宣言を知り得たかについ
(19) 武内,同上,p.31
て,中野は賀川の従兄弟で,ジュネーブに在籍してい
(20) 武内,同上,pp.32-33
た天羽英二や杉浦陽太郎との接触があったのではと推
(21) 賀川豊彦「社会改造の精神的動機」『賀川豊彦全集』
第10巻,キリスト新聞社,p.69,1965
測している。(中野光「戦間期における「子どもの権
利」論」『教育学論集』(34),中央大学教育学研究会,
(22) 賀川豊彦「新時代と新理想主義」『賀川豊彦個人雑
誌:雲の柱復刻版』第 5 巻 6 月号,緑蔭書房,pp.37-
pp.64-65,1992)
46,1926
19 賀川の論文の中に「子供の生存権を主張せよ」(『婦
人運動』第 5 巻第 7 号,職業婦人社,pp.26-27,1927)
(23) 賀川豊彦「魂の彫刻」『賀川豊彦全集』第 6 巻,キリ
とあるが,これは「子供の権利」(『社会事業研究』第
15巻第 6 号,大阪社会事業連盟)の「第一 生きる権
スト新聞社,pp.155-156,1962
(24) 賀川豊彦「地球を墳墓として」『賀川豊彦全集』第21
巻,キリスト新聞社,p.275,1962
利」と同文である。
(25) 賀川豊彦「イエスと人類愛の内容」『賀川豊彦全集』
第 1 巻,キリスト新聞社,pp.232-233,1963
-文 献-
(1) 厚生労働省
(26) 黒田四郎『私の賀川豊彦研究』,キリスト新聞社,
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/10/h1020-3.html
pp.315-346,1983
(2) 阿部彩『子どもの貧困‐日本の不公平を考える』,岩
(27) 服部栄「賀川豊彦の児童観」『賀川豊彦研究』(10),
波新書,pp.70-71,2008
本所賀川記念館,pp.18-22
(3) 浅野春夫「人生はじめにおける貧困・格差の拡大」
(28) 福元真由美「賀川豊彦の保育思想とその実践-「組合
『教育と医学』第58号第 2 巻,慶応義塾大学出版会,
社会」における教育」『東京大学大学院教育学研究科修
pp.67-68,2010
士論文』,東京大学,pp.11-38,1996
(4) 日本ユニセフ協会
(29) 賀川豊彦「愛の科学」『賀川豊彦全集』第 7 巻,キリ
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig.html
(5) 近藤次郎『コルチャック先生』,平凡社,2005
スト新聞社,p.173,1962
(30) 賀川「死線を越えて」,p.74
- 123 -
(31) 賀川,「地殻を破って」,p.14
に関する真相』賀川豊彦記念・松沢資料館所蔵,1935
(32) 賀川豊彦「赤ん坊の頬ぺた」『雲の柱』(4),賀川豊
(59) 武内,pp.117-118
(60) 賀川豊彦「我子の発見」『子供の教養』第 8 巻第12
彦記念・松沢資料館,p.1,1985
(33) 賀川,「イエスと人類愛の内容」,pp.223-316
号,子どもの教養社,pp.15-16,1936
(34) 矢野智司『子どもという思想』,玉川大学出版部,
(61) 賀川,同上,p.22
(62) 賀川,
「子供に學ぶ」,p.34
1995
(35) 賀川豊彦「涙の二等分」『賀川豊彦全集』第20巻,キ
(63) 賀川豊彦「子供の叱り方と叱らずに育てる工夫」『賀
川豊彦全集』第 6 巻,キリスト新聞社,pp.479-480,
リスト新聞社,p.3,1963
1963
(36) 武内,同上,pp.113-116
(64) 小松隆二「賀川豊彦と子どもたち‐子ども学の先駆
(37) 賀川,「愛の科学」,p.175
(38) 賀川,「地殻を破って」,p.14
者たち(3)(子ども学を考える)」『地域と子ども学』(4),
(39) 賀川,「赤ん坊の頬ぺた」p.5
白梅学園大学,pp.32-55,2011
(40) 賀川豊彦「太陽を射るもの」『賀川豊彦全集』第14
巻,キリスト新聞社,p.277,1964
(41) 賀川,同上,p.297
(42) 賀川,同上,p.325
(43) 荒内直子「賀川豊彦の『死線を越えて』の保育学的
分析-スラムの子どもを中心に-」
『乳幼児教育学研究』
(10),日本乳幼児教育学会,pp.65-72,2001
(44) 福元真由美「賀川豊彦の自然による幼児教育‐『幼児
自然教案』の分析を中心に‐」『東京大学大学院教育学
研究科紀要』第37巻,東京大学,pp.261-270,1997
(45) 賀川豊彦「人間苦と人間建築」『賀川豊彦全集』第 9
巻,キリスト新聞社,1964
(46) 賀川,「魂の彫刻」,p.149
(47) 田村直臣『児童の権利』,警醒社,1911(1926(大正
15)年に大正幼稚園出版部より再版)
(48) 西山哲治『教育問題・子供の権利』,南光社,1918
(49) 生江孝之『社会事業綱要』「児童と社会」,厳松堂,
1923
(50) 賀川豊彦『子どもの権利論のてびき』,賀川豊彦記
念・松沢資料館,p.2,1993
(51) 賀川豊彦『賀川豊彦氏大講演集』,講談社,p.282,
1926
(52) 福田いずみ「現代によみがえる賀川豊彦の「子ども
の権利論」」『共済総研レポート』(110),農協共済総合
研究所,pp.26-35,2010
(53) 福元,「賀川豊彦の保育思想とその実践-「組合社会」
における教育」,p.46,1996
(54) 賀川豊彦「乳児死亡率の研究」『救済研究』第 6 巻 3
号,文京出版,pp.73-89,1918
(55) 三原容子『『雲の柱』解読・総目次・索引』,緑蔭書
房,pp.43-45,1990
(56) 賀川豊彦「子供に學ぶ」『賀川豊彦個人雑誌:雲の柱 復刻版』第19巻第 4 号,緑蔭書房,p.34,1940
(57) 賀川豊彦「児童虐待防止論」『救済研究』第 7 巻第 9
号・第10号,1919
(58) 北川信芳『「東北」に誤報された賀川氏東北児童救護
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