...

新潟自然研だよりH28.7

by user

on
Category: Documents
23

views

Report

Comments

Transcript

新潟自然研だよりH28.7
響を受
新潟自然研たより
竹石佐忠次先生追悼号
平成 28 年 8 月
http://shizenyaku.com/
Password: 6ra3ki
E-mail/[email protected]
新潟自然薬研究会を長らく牽引していただいた、竹石佐忠次先生が 6 月 13
日ご逝去されました。ここに自然研たより臨時号を発行し、追悼の意を表
します。
竹石佐忠次先生の思い出
●竹石佐忠次先生は新潟県薬剤師会の理事とし
て、昭和 46 年(1971)から昭和 58(1983)年ま
で勤められた。近藤大雅会長の下で誠実で地味
なまとめ役をされた。
●同じ時、新潟県自然薬研究会を創設され、平
成 20 年まで会の指導に当たられた。カポニー産
業の創業者横手一二会長の時代から今日まで、
全国で一番長い期間の活躍であった。
●私が最初にお会いした時、竹石先生は眉間に
しわを寄せて難しい顔をして居られた。そのお
顔から突然ユーモアを発信されて参加者を和ま
せた。明るいユーモアであった。自然研の研修
会はいつも大勢の参加者があった。新大病院近
くにあった平安閣での研修会には、竹石先生、
高橋登良太先生(県薬副会長)、錫村春海先生(県
薬専務理事)遠藤正雄先生(県薬理事)をはじ
め錚々たる顔ぶれも、私の様な若輩も集まって
いた。活気ある経済成長期で、大衆薬の沢山の
メーカーが輩出した。その中でも、松寿仙のカ
ポニー産業は地味で誠実な学術追求をしていた。
和漢薬研究所は医師学会に毎年研究発表を行っ
ていた。竹石先生のお人柄に合っていたのだろ
うと思う。
●私は、昭和 45 年自然薬研究会に入会した。会
場まで魚沼から 100kmあり、今より不便であっ
たが、新潟市をずっと近くに感じていた。
●昭和 58 年 10 月 8 日、県薬会長を近藤先生か
ら私は継いだ。昭和 60 年 11 月早朝、竹石先生
は飛騨高山へ1泊旅行を行った。カポニー川合
さんの運転するマイクロバスで目的地高山市下
一之町の中野シオン様の前に到着した。竹石先
生が優しい声で「みなさあ~ん、シオンさんの
薬局に到着しましたよお~お」と、歌うように、
全員の旅の疲れを労われた。中野広近先生(全
国自然薬研究会会長)、和田幸也先生(カポニー
産業顧問)に初めてお目にかかった。お二人の
講話を、中野シオン 3Fの講堂で聞いて大きな影
けた。この時、自然薬を我が店の柱にしようと
思った。
●私は竹石先生に感謝している。私を自由に世
間に出してくれた。県薬の責任者になろうが、
自然薬の理事になろうが、にこにこと「大変だ
ねえ」という態度で、県の自然薬の運営を続け
て下さった。だから私は新潟県自然薬研究会の
会合には、出席した。先生の熱意に触れたかっ
たからである。
●第二次世界大戦では中国に従軍薬剤師として
派遣された。職務上の成功談、失敗談を遠慮が
ちに、リアルに話されるのであった。戦争は生
死をかけた悲惨な体験である。苦労話を苦労と
も感じさせないで、尊い置き手紙のような話で
あった。何時までも胸の奥に残る。竹石先生の
良き人生の技を見る思いであった。
●ご長男秀明先生が「薬屋さんの薬品棚の薬は
可哀想だ。昔は必要とする人々に愛されて輝い
ていた。」という趣旨の巻頭言を専門誌にお書き
になった。薬局薬店は地域社会の健康の核であ
った。佐忠次先生は核として自負を持ち続けた。
医師に協力して医療の一面をこの国の人々に提
供するのだ。日本の医療は変わる。幅広い医療
が人々の健康に役立つ。そう考えて居られた。
●塵一つ落ちていない芝生に大勢の観光客が集
まっていた。人々が広大な風景の、余りの美し
さにため息をついていた。広い湖の奥の氷河の
山が朝日に光っていた。氷河山だけに光が当た
り、周りの山々は陰となって青い水と氷の白と
を引き立てていた。カナダの景勝地バンフにあ
る「レーク ルイーズ」に行った。竹石ご夫妻
が湖を背景にして腕を組んだ。恥ずかしそうに、
誇らしそうに背筋を伸ばした。私はお二人の写
真を撮った。ご夫妻は湖の美観に負けない笑顔
で旅を続けて居られた。もう難しいお顔を卒業
されて、幸せな人生を楽しんで居られるのであ
った。2016.7.30.
会長
宮正伻
竹石佐忠次先生、謹んでご逝去を悼み、
生前の温かいご縁に対し、
あらためてお礼申し上げます。
竹 石 先 生 と の ご 縁 は 、も う 4 0 年 以 上 前 に な り ま す 。私 が 新 潟 に 帰 っ て き て 、
自 然 薬 の 取 り 扱 い の お 願 い に 金 衛 町 の お 店 に お 伺 い し た と こ ろ 、快 く お 話 さ れ
た事が懐かしく思い出されます。
本当は間接的にそれ以前からご縁があったのですが・・・。
竹 石 先 生 は 、会 長 と し て 自 然 薬 研 究 会 で の 真 摯 な お 話 の 中 で も 、ユ ー モ ア の
あ る お 話 で 、研 究 会 は 笑 い が 溢 れ て い ま し た 。当 初 研 究 会 に 慣 れ な い 私 で し た
が 、竹 石 先 生 の 穏 や か な ご 指 導 の お か げ で 研 究 会 に も 楽 し く 出 ら れ る よ う に な
って来ました。
ま た 、自 然 薬 研 究 会 で の 佐 渡 や 高 山 で の 楽 し い 、有 益 な 研 修 会 に 続 い て 、海
外 で の 研 修 会 で は 先 頭 に 立 っ て 会 を 引 っ 張 っ て い た 先 生 の お 姿 が 、深 く 心 に 焼
き付いています。
そ の 後 、自 然 薬 研 究 会 の 役 員 の 末 席 に 加 え て い た だ き 、い ろ い ろ と 教 え て い
た だ き ま し た 。竹 石 先 生 の ア ド バ イ ス の お 陰 を も ち ま し て 、今 で も 私 は 自 然 薬
研究会の一員として自然薬と共に店頭で向き合う日々を過ごしております。
数 年 前 の 新 潟 駅 前 で の 自 然 薬 研 究 会 の 懇 親 会 で 、ご 一 緒 さ せ て い た だ い た の
が 最 後 に な っ て し ま い ま し た 。竹 石 先 生 が 私 に 教 え て く だ さ っ た「 自 然 薬 の 心 」
を忘れることなく、日々店頭で伝えてまいりたいと思います。
竹 石 先 生 の こ れ ま で の お 導 き に 心 よ り 感 謝 し 、安 ら か に 永 遠 の 眠 り に つ か れ る
事をお祈りいたします。
副会長
一心堂アベ薬品
阿部五男
感謝
竹石佐忠次先生の思い出
いつもにこやかで、おやじギャグを連発されておられた佐忠
次先生、訃報をお聞きしてびっくり致しました。新潟自然薬
研究会会長を永らくお勤め頂き、大変有難う御座いました。
新潟自然研は佐忠次先生が居られなければ存続しませんでし
た。私の先代からの色々な会合でお世話になり、引き継いだ
私も色々と教えて頂き大変感謝しております。
愛妻家の先生は種々の会で奥様と同伴出席されて、羨ましく
思っておりました。
後継者も立派にお育てになり、心配無くあの世にお帰りにな
られたと存じます。
どうぞ、あの世から、新潟自然薬研究会をお守り、お導き下
さい。有難う御座いました。
理事
タカハシ薬局
高橋
義教
竹石佐忠次先生を偲んで
竹石佐忠次先生は、主人の亡父の学生時代からの親
しい友人でした。ある日の夜、佐忠次先生と奥様の節
子先生が、当時健在だった父の誕生日のお祝いに大き
なケーキを持って訪ねて来られて、中学生だった主人
はびっくりしたそうです。
主人の父が癌で亡くなり、葬儀のとき佐忠次先生が
涙ながらに弔辞を述べて下さった事が、今も印象深く
心に残っているそうです。私が主人に嫁いだ半年後に
は、義妹の美雪さんが竹石家の長男秀明先生と結婚し
ましたので、もっと近い親戚になりました。
佐忠次先生は機知に富んでいらして、天性とも言う
べきユーモアでいつもその場を和やかにして下さいま
した。今頃は義父と再会されていることでしょう。
先駆的な立場で自然薬を拡げて下さった事に感謝し
つつ、私たちも頑張ってまいりますので、天国から私
たちを見守り導いて下さいませ。
会計・むらさき会代表世話人
錫村薬局
錫村君子
Fly UP