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「アメラジアン」という視点

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「アメラジアン」という視点
「アメラジアン」という視点
野入 直美 琉球大学 [email protected]
アメラジアンとは、アメリカ人とアジア人の両親を持つ人々であり、多くの場合、
アジアにおける米軍の派兵や駐留を背景として生まれてきた人々であることが含意
されている。 本稿では、
「アメラジアン」
、そしてアメラジアンスクールの教育実践と言説発信に
おいて象徴的な役割を担ってきた用語である
「ダブル」
を、言論空間と教育実践にお
ける模索や交渉のプロセスを経て構築され、今も構築されつつある表象として検証
する。
まず、
「ダブル」
という用語が、日本の言論空間においてどのように位置づいてきた
のかを整理する。
次いで、アメリカにおけるアメラジアン研究を概観し、
「アメラジア
ン」がどのように言説化されてきたのかを整理する。それを踏まえて、アメラジアン
スクールの
「ダブルの教育」
という教育実践と言説がはらんでいる独自性/汎用性に
ついて検討する。
そして、エスニシティという概念が、
「アメラジアン」
という視点で
濾過され、
「ダブル」
という表象をくぐりぬけることで、どのような位相を顕現させて
いくのかを考察する。
キーワード:アメラジアン、
ダブル、
多人種アイデンティティ
1 沖縄のアメラジアンをめぐる言説の推移──「基地」から「ダブル」へ
沖縄県宜野湾市の住宅街に、特定非営利活動法人アメラジアンスクール・イン・オキナワ
(以下、アメラジアンスクール)がある。
1998年にアメラジアンの母親ら5名が設立した、民間
の教育施設である。
幼稚園から中学校課程までの児童・生徒85名が、英語と日本語で学んでい
る。
アメラジアンスクールは、
「アメラジアン
(Amerasian)
」
の子どもたちを対象とする、日本で
唯一の教育施設である。
アメラジアンとは、アメリカ人とアジア人の両親を持つ人々であり、
多くの場合、アジアにおける米軍の派兵や駐留を背景として生まれてきた人々であることが
18
含意されている。
アメラジアンスクールが沖縄にあることの背景として、沖縄に在日米軍基地の約75%が集
中しており、アメリカ人の父親と日本人の母親を持つ子どもが毎年、300人近く出生している
ことが挙げられる。
アメラジアンスクールの所在地であり、
生徒の大多数が居住している宜野
湾市は、目玉焼きの黄身にあたる中心部に普天間基地を抱え、白身の部分に一般の市民が居
住している
「基地の街」
である。
「アメラジアン」
は、米軍基地の駐留という特殊な背景を持つエスニック・マイノリティとし
て特徴づけられる。
海外に視野を広げれば、ベトナムをはじめとして、フィリピン、タイ、ラオ
ス、韓国などにもアメラジアンの存在は広がっているのだが、それについては後述することと
し、
ここでは日本国内における位置づけを中心に整理しておく。
沖縄のアメラジアンをめぐって、沖縄における在日米軍基地の著しい集中という問題、さら
に、
日本
〈本土〉
による、
沖縄の政治的な周辺化という問題が論じられてきた。
「沖縄そのものが
日本におけるマイノリティである」
という論点を立てるとき、アメラジアンは、
「マイノリティ
の内なるマイノリティ」
として表象される。
アメラジアンスクールの設立にあたって中心的な
役割を果たした上里和美は、
「魂の西洋化・占領化」
という言葉を用い、基地を押しつけられ抑
圧される沖縄がアメラジアンを差別するという、マイノリティの抑圧移譲ともいうべき問題
を指摘した
[上里 1997:175]
。
また筑紫哲也は、アメラジアンの問題を初めてニュース番組の
特集という形で全国に発信するにあたって、沖縄社会における反米感情の標的となって攻撃
されるアメラジアンの子どもをフォーカスし、
「沖縄から基地の問題がなくならない限り、ア
メラジアンの問題は解決できないといえるでしょう」
という言葉で特集を締めくくった
[筑紫
1998]
。
このような言説は、
アメラジアンの教育権保障運動の萌芽期において、一定のインパクトを
もつものとして、メディアだけでなくアメラジアンスクールの内部からも発信されていた。
し
かしそこには、アメラジアンであることの剥奪の側面を強調し、アメラジアンを基地被害のシ
ンボルへとスティグマ化する危険性がはらまれていた。
アメラジアンスクールは、
設立から半年が経過しようとする頃から、
米軍基地の問題を前面
に打ち出して注目を集めようとする言説を、むしろ回避するようになった。
スクールの運営を
担ってきたセイヤーみどりを中心とするアメラジアンの母親たちは、わが子に
「ダブル」
の誇
りを持たせたいと切望していた。
彼女たちは、アメラジアンが基地の問題でなく、子どものア
イデンティティを支える教育の問題として取り上げられることを望み、発信していったので
ある
[セイヤー 2001]
。
1998年12月に沖縄タイムスが連載したコラム
「ダブルの教育を求めて」
は、この頃から、アメラジアンをめぐる言説のシンボルが、
「基地」
から
「ダブル」
へと推移して
いったことを示している
[沖縄タイムス 1998]
。
その推移に伴って、アメラジアンスクールにおける言説の主要な発信者は、人権活動家の
上里和美から、二名の大学教員へと代わっていった。
一人は、当時、琉球大学教育学部に所属
し、
現在は中京大学で教鞭をとっている照本祥敬であり、
もう一人は私である。
照本と私は、それぞれ教育学と社会学の研究者として、母親たちがオールタナティブな学
びの場をつくっていく過程や教育とアイデンティティの問題に関心を抱き、母親たちのミー
理論と動態
19
ティングに参加するようになった。アメラジアンスクールが2004年にNPO法人となった後
は、
理事を務めている。
照本は、研究者として当事者の思いを代弁するのではなく、
「サイレント・マイノリティ」
で
あったアメラジアンとその母親たちが、
〈声〉
を発信していくことを支援し、
母親たちを主な著
者とする
『アメラジアンスクール──共生の地平を沖縄から
[照本編 2001]
』
を編集した。
さら
に照本は、二重国籍を持つ子どもたちの学籍回復と
「出席扱い」
のしくみづくりを起点として、
アメラジアンの教育権保障運動において中核的な役割を果たした。照本による研究論文は、
そのような運動の記録、今後の展望を整理するプロセスとして執筆されている
[照本 2000,
2001]
。
私は、大学の学生たちに、アメラジアンスクールの総合学習の授業を企画・実施させた
[野
入 2000]
。
これは大学教育であり、同時にアメラジアンスクールで地域の人材育成を行ってい
くという、スクールの理事としての実践であった。
私もアメラジアンについて文章を書いてき
たが、
それはアメラジアンスクールの理事としての実践と不可分のものであった。
ただし本稿では、私はこれまでに自分が行ってきたような、アメラジアンについての言説の
生産と発信を繰り返そうとは思わない。
ここでは、
「アメラジアン」
、そしてアメラジアンスクールの教育実践と言説発信において
象徴的な役割を担ってきた用語である
「ダブル」
を、もともと存在する実体概念としてよりは
むしろ、言論空間と教育実践における模索や交渉のプロセスを経て構築され、今も構築され
つつある表象として検証する。
「アメラジアン」
という用語を日本で初めて用いたのは、アメラジアンスクールを設立した
母親たちであった。
一方で、
「ダブル」
という用語は、アメラジアンスクールが
「ダブルの教育」
を行う以前から、日本において用いられてきた。本稿ではまず、
「ダブル」
という用語が、日本
の言論空間においてどのように位置づいてきたのかを整理する。
次いで、アメリカにおけるア
メラジアン研究を概観し、
「アメラジアン」
がどのように言説化されてきたのかを整理する。
そ
れを踏まえて、アメラジアンスクールの
「ダブルの教育」
という教育実践と言説がはらんでい
る独自性/共通性について検討する。
そして、エスニシティという概念が、
「アメラジアン」
と
いう視点で濾過され、
「ダブル」
という表象をくぐりぬけることで、
どのような位相を顕現させ
ていくのかを考察する。
2 「ダブル」という呼称──研究における「混血」と「ダブル」
「ダブル」
という呼称は、
「二つの文化的・歴史的背景を持つ者」
という意味で、
「ポジティブ
な意味合い」
で用いられることがある
[李 2008:75]
。李洪章は、
「ダブル」
という呼称が
「差別
的意味合いを含む
『ハーフ』
や
『混血』
という用語に代わって広く用いられるようになった」
と
し、一方で、
「当事者からは、自らの置かれた抑圧・周縁化状況を表現するため、
『ハーフ』
ある
いは
『混血者』
の呼称を積極的に使用すべきという見解」
が打ち出されてきたことを述べてい
る。
ここには、従来の否定的な
〈名指し〉
に代わるものとして、肯定的な意味を込めた新しい
〈名
20
指し〉
となってきた
「ダブル」
と、当事者がそれに対抗して打ち出した
〈名乗り〉
としての
「混血」
という構図が示されている。
李自身は、自分が
「非
『ダブル』
」
であるからという理由で、これら
当事者と同じ立場で
「混血」
などの用語を使うことはできないとし、一貫して
「ダブル」
という
呼称を用いて、
「在日朝鮮人=日本人間
『ダブル』
」
の研究を行っている
[李 2008, 2009]
。
ここか
らは、
「ダブル」
という呼称が、
〈名指し〉
と
〈名乗り〉
のポジショナリティーを問うものであるこ
と、
さらに
「ダブル」
をめぐって、
センシティブな言論空間が成立していることが読み取れる。
自身が当事者であり、
敢えて
「混血」
という用語を用いて研究を行ってきた人々の中に、
島袋
まりあ、
朴秋香がいる。
アメリカ人の父親と沖縄女性の母親を持つ島袋まりあは、
「アメラジア
ン」
、
「国際児」
、
「ハーフ」
、
「ダブル」
のいずれでもなく、
「混血児」
、
「米系混血児」
などの用語を
用いる理由を、
次のように語っている。
当事者を
『異質な他者』
として差別してきた人々に、美化された異質者ではなく、差別者に
よる蔑視そのものを差別者に投げ返すためである。
『混血児』
というスティグマは、
その当事
者に孕まれている本質的な欠陥ではなく、差別者に内在している醜さに他ならないのであ
る
[島袋 2002a:46]
。
島袋は、
「混血児当事者」が不在の場で行われてきたアイデンティティ研究や言説の構築
を、
「言論空間の
『植民地』
的状況」
として批判する。
そして、
「混血児」
どうしが互いに経験を語
り合い、
「人種
(白人系/黒人系)
、生まれ育った社会
(米国育ち、基地の中育ち、沖縄育ち)
、言
語
(英語/日本語/沖縄口)
、ジェンダー、性的指向、国籍
(米国/日本/二重/無国)
といった
社会的な特権/不利を意識しながら、自らの生々しい現実を踏まえた問題提起」をすること
の重要性を主張し、
自ら実践するのである
[島袋 2002b:98]
。
島袋が述べている当事者どうしの経験の語り合いは、李洪章と朴秋香がそれぞれに研究し
てきた
「パラムの会」
の実践と重なりあっている。
「パラムの会」
とは、
「日本籍朝鮮人」
や
「ダブル」
などのさまざまな名乗りをする10数名の若
者によるサークルであり、1995年から2001年まで活動していた。
この会は、メンバーが自分自
身について語ることを主な目的としていた。
「パラムの会」
の活動の特徴は、
「在日朝鮮人」
「日
本人」
「ダブル」
などの
「一つの言葉」
に
「収斂させ」
ない、多様な
「叙述的自己表現」
である
[安田
1999; 李 2009; 倉石 2007]
。
そのような営為を通じて立ち上がり、大きな波紋を広げた論点が、
「名前を巡る自己決定権を守り育てる」
という提言であった。それまでの在日朝鮮人教育が、
在日朝鮮人の子どもたちの
「本名を呼び名乗る」
ことを主要な目的のひとつとしてきたことに
対し、
在日朝鮮人の中に存在している多様性という現実を受け止め、
表現していこうという提
言であった。
ここでは、
「名前を巡る自己決定権」
に関する議論には踏み込まないこととし、朴
がなぜ
「
『混血』
者」
という用語を選んでいるのかを整理しておく。
朴自身は、朝鮮人の祖父と日本人の祖母を持っている
[朴 2007:109]
。
朴は、当事者が敢え
て
「混血」
と名乗ることの戦略性について、島袋の主張に同意し、
「ダブル」
という呼称の持つ
ポジティブな響きに寄りかかった議論の限界性を指摘している。
そして、現実には
「血」
によっ
て
「ダブル」はカテゴリー化されているにも関わらず、言論空間においては
「血」ではなく
「文
理論と動態
21
化」
が焦点化されていることの
「誤魔化し」
を批判する。
ただし朴は、
「ダブル」
に対する異議申し立てとしての
〈名乗り〉
に終始しない。
朴は、
「混血」
にこだわる理由を次のように述べている。
私はむしろ、本人の意向にかかわらず一方的にある属性に組み込まれたり、または排除さ
れたりする構造を問題化していきたい。そのためには一度
『混血』
という概念を受け入れ、
表面化させる必要があると思うのだ
[朴 2007:111]
。
ここには、
「血」をめぐる排除と包摂のリアリティを、
「ダブル」という言説にすり替えずに
受けとめ、検証していくという研究のスタンスが鮮明に打ち出されている。
朴は、当事者によ
る戦略的な意義申し立ての
〈名乗り〉
として、
さらに、
「血」
をめぐるカテゴリー化を研究する方
法として、
「混血」
を顕在化させるのである。
3 エスニシティと「ダブル」
上述した議論には、
「ダブル」
という呼称が惹起するポジショナリティーをめぐる問題、す
なわち権力性と当事者性の論点が表出している。そこに見いだせるのは、
「ダブル」
というカ
テゴリーの持つ高度な戦略性、
構築性である。
「ダブル」
は、
「ハーフ」
に代わる呼称であるだけでなく、
自らの意思を込めて
「ダブル」
と自称
する人々ももちろん存在する。
しかしそれでも、
「ダブル」
がきわめて構築性の高い、そのよう
な意味で人為的、操作的なエスニック・カテゴリーであることは、疑いをいれないように思わ
れる。
「ダブル」において、エスニシティの一般的な定義づけを構成している原初性という特質
は、きわめて希薄である。エスニシティの原初的な特性に着目する
「原初主義アプローチ」で
は、エスニシティを構成する要素として、もともと独自な言語、文化、宗教、慣習および価値な
どが存在し、それらが家族やコミュニティを通じて継承され、人々の帰属意識を深めるという
プロセスが重視される
[Glazer, Moynihan 1975]
。
そのような原初性を前提とする本質主義的
な言説においては、人々はあらかじめ、いずれかひとつのエスニシティに属するものとしてカ
テゴライズされている。
そのとき、
「ダブル」
であることは周辺化され、あるいは不可視化され
る。
「ダブル」
の人々がお互いに出会い、
相互行為を行うのは、
生まれついた家族やコミュニティ
においてであるよりも、人為的につくりあげたネットワークにおいてである。
この文脈におい
て、
「ダブル」
には、
「そのように生まれつく」
という原初性よりも、
「そのようになる
(なってい
く)
」
という構築の過程が重要であるといえる。
そのような人為性は、しかし、もともとエスニシティの概念の中に含まれている。
「原初主義
アプローチ」に対して、
「動員主義アプローチ」あるいは
「道具論的アプローチ」と呼ばれる方
法論がある
[Glazer, Moynihan 1975]
。
そこでは、不利な立場に置かれてきたマイノリティが、
エスニシティをシンボルとして同胞の人々を動員し、結束して何らかの政治的・経済的利益を
22
追求するプロセスが重視される。
ここでエスニシティは、所与のものであるより、意識的に獲
得されたり、
用いられたりするものとして把握される。
現実には、エスニシティは、属性と獲得の両面を持っている。エスニック文化は、
「継承」だ
けでなく
「獲得」
だけでもなく、その両面から分析されることが一般的である。
エスニシティ研
究の領域で、原初的/道具論的アプローチは二項対立図式ではなく、相補関係にあるものと
して用いられてきた
[小井土 1995:128-129]
。
このようにエスニシティを把握するとき、
「ダブル」
は、エスニシティという概念の中にある
構築性、
人為性、
流動性の側面を浮かび上がらせ、
顕在化させるカテゴリーとして姿を現す。
一方で、実際に
「ダブル」
の人々が自己のあり方を模索し、構築していくプロセスは、動員主
義的なアプローチがとらえてきた従来のエスニシティのそれとは異なっている。
動員主義的アプローチにおいて把握されてきたプロセスでは、エスニック・グループがマイ
ノリティとしての同質性を武器にして、権利保障などの目的を達していく。
これに対し、島袋
まりあが言うところの
「混血児当事者たち」の
「経験の語り合い」の場においても、
「パラムの
会」
においても、そこで行われる自分自身についての語りは、共有や団結よりむしろ、細分化と
相対化の方向へと向かう。
「ダブル」
のモーメントには、従来のエスニック・ムーブメントにお
ける同質性の強調と連帯よりも、
そのような過程において周辺化されてきた個別性、
矛盾や不
一致をはらんだ多様性、
流動性をすくいあげていく営みが見いだせるのである。
李は、このような
「ダブル」
の動向を、求心力を失いつつある旧来のエスニック・ムーブメン
トである在日朝鮮人運動に対置させるのだが、同時にそれを
「新しい」
ムーブメントとして、古
い運動と
「対話」
し、つながっていく可能性のあるものとして位置づけている
[李 2009]
。
ここ
で
「ダブル」
が、
既存のエスニシティの枠組みにおいてすでに不可視ではなく、
かといって全く
別種のカテゴリーとして追加されるものでもなく、いわば地続きのものとして表象されてい
ることは、
きわめて興味深い。
4 アメリカにおける「アメラジアン」
アメリカにおける
「アメラジアン」研究は、圧倒的多数がベトナム生まれの対象者に関する
ものである。それらの研究は、1982年以降、
「アメラジアン移民法
(Amerasian Immigration
Act)
」
と
「アメラジアン帰還法
(Amerasian Homecoming Act)
」
によってアメリカに入国した
アメラジアンの若者たちの、
不適応の問題と定着支援に論点が集中している1)。
1975年にベトナム戦争が終結した後、ベトナムに残された、米兵を父親に持つ子どもたち
の存在について、最初に実態を調べ、支援を始めたのは、アメリカのキリスト教団体であった
[USCC 1985]
。
それらの団体は、アメリカ人の血を引く子どもたちがベトナムで
“泥の子ども”
と呼ばれ2)、母親ぐるみで家族・親族関係や地域社会から排除され、過酷な差別と貧困の中で
生きていることをレポートした。
そして、アメリカ人との養子縁組によるアメリカ移住を支援
した。
この支援の形は、その後、パール・バック財団などの複数の支援団体に広まり、沖縄を含
む他のアジアの地域においても踏襲されていく。
「アメラジアン」
という用語は、一説には小説家のパール・バックによってつくられたとも、
理論と動態
23
アメリカ人ジャーナリストが用い始めたとも言われているが、そのいずれであったとしても、
以下の特質をもっていることには疑いをいれない。
第一に、
「アメラジアン」
は、
当事者による
〈名乗り〉
ではなかった。
第二に、それは英語である。
すなわち、当事者の子どもたちが生きていたベトナムでつくら
れた用語ではなく、アメリカ人のために、アメリカ社会に向けて発信されるためにつくられた
呼称なのである。
第三に、
「アメラジアン」
という用語がアメリカ合衆国で広まったのは、合衆国政府が
「アメ
ラジアン移民法」
「アメラジアン帰還法」
を制定し、
ベトナム、
韓国、
タイ、
ラオス、
カンボジアか
らの
「アメラジアン」
のアメリカ入国を認めたからである。
移住者の圧倒的多数は、ベトナムか
ら渡米した。
その後、それらの若者たちは、定着に大きな困難を抱え、高い比率でうつ、自殺、
非行、犯罪といった症状および問題行動を示していることが明らかになった。
「アメラジアン」
は、
「ベトナム難民よりも適応が難しい」
マイノリティ
[McKelvey, Webb 1992:911]として、
学術研究とメディアによってその問題状況がクローズアップされる中で、アメリカ社会にお
いて認知されていったのである。
「アメラジアン」
という呼称には、その当事者が存在する背景として、一貫してアメリカを主
体とし、アジアを客体とする剥奪のプロセスが刻み込まれている。
それは、軍事化と性関係だ
けでなく、ベトナム戦争の終結から8年間に及ぶ子どもたちの放置、入国を許可する国家と難
民のサブ・カテゴリーとして入国せざるをえない個人の関係、
さらに移住後の支援−被支援関
係までも含むものである。
このような用語が、それ自体にある種のスティグマをはらむものになっていくことは、むし
ろ自然な推移であったといえる。
いくらかの研究者は、当事者の若者たちが、自分自身を、
「ア
メリカ人」
ではなく
「ベトナム系アメリカ人」
でもなく、
「アメラジアン」
だと見なしていること
を指摘している
[Mullan et al. 2002]
。
しかし、それは彼らの自発的な
〈名乗り〉
であるというよ
りも、
「アメラジアン移民法」
「同帰還法」の対象としてしかアメリカに入国できず、定着促進
事業によるサービスを受けることもできない彼らにとって、
「アメラジアン」であると申し立
てる以外の選択肢はそもそも存在しなかったとみるべきであろう。
アメリカ合衆国政府は、ベトナム戦争終結後、残された
「混血」の子どもたちへの対応を引
き延ばしにしてきた。
このことは、フランス政府が植民地化を背景とする
「混血」
の子どもたち
に、1954年に市民権を与え、移住と教育機会を保障したことと対照的である。
「アメラジアン」
は、
フランス政府が支援したこれらの子どもたち、
「ユーラジアン
(Eurasian)
」
との対比におい
て、表象されていったのである
[Bemak, Chi-Ying Chung 1997:80]
「
。アメラジアン」
という
呼称には、
ポスト・コロニアルの文脈が刻印されているといえる。
1983年から施行された
「アメラジアン移民法」
は、当事者にしかアメリカ移住を認めないも
のであった。
生まれたときからアメリカ人の父親と縁を持たず、移住によって母親ともきずな
を断たれた子どもたちは、深刻な不適応を示した
[McKelvey, Webb 1993,1996]
。そのため、
1987年の
「アメラジアン帰還法」
は、家族・親族1名に限って同行することを認めた。
この法改正
によって、ベトナム社会において、
「アメラジアン」
は
「泥の子ども」
から
「黄金の子ども」
へ、ア
メリカ入国のチケットに等しい存在へと転化した。養子縁組を高額で取引し、子どもに同行
24
した
「偽の親」たちは、アメリカ入国と同時に子どもの前から姿を消したという
[Yarborough
2005:97-103]
。
アメリカ入国後、
「アメラジアン」
の子どもたちは、フィリピン難民定住促進センターで、半
年から1年の間、英語とアメリカ文化のオリエンテーションを受けた。その後、アメリカに家
族・親族のいない子ども
(全体の75%を占めていた)
は、クラスター・サイトと呼ばれる定着セ
ンターで、第二言語としての英語教育や職業訓練を受けた。
しかし、
「アメラジアン」
の子ども
や若者たちは、それらのプログラムへの出席率が概して悪かった。
ひとつには、アジア系アメ
リカ人のコミュニティが、新参者である
「アメラジアン」
を、最も安価な単純労働力と位置づ
け、職業あっせんを行ったからであった。
もうひとつは、
「アメラジアン」
の当事者たち自身が、
ベトナムでの苦い過去から離れるために、クラスター・サイトにおける
「アメラジアン」
どうし
のつきあいを忌避したからだという
[Bemak, Chi-Ying Chung 1997:81]
。
入国法制定にあたって
「ユーラジアン」と対比された
「アメラジアン」は、定住促進のプロ
セスにおいてはベトナム難民と比較され、表象された。いくらかの研究者は、
「より定住が
困難な、新しいカテゴリーのベトナム難民」
という意味を込めて、彼らを
「アメラジアン難民
(Amerasian Refugee)
」
と呼称した。
臨床心理学、社会福祉学などの専門家たちによって構築された
「アメラジアン」
の言説にお
いて、シンボルとなった概念は、
「リスク」であった。この文脈において
「リスク」
とは、アメリ
カ社会への
「アメラジアン」
の定着を阻害する要因を意味する
[Nicassio et al. 1986; Mullan et
al. 2002]
。
そこでは、ベトナム社会における排除、教育の欠如、貧困、ベトナム側にもアメリカ
側にも家族・親族関係の支えがないことなどが指摘された
[Webb, McKelvey 1997]
。男性で
あること、アフロ系であること、失業、および英語能力の欠如がリスクを増幅しているとした
研究
[Nwadiora, McAdoo 1996]
、父親とのきずなの欠落をリスクとみなす研究
[Bemark, ChiYing Chung 1999]
、母親との関係に着目した指摘
[McKelvey, Webb 1993]
、渡米前の
「大きす
ぎる期待」
を問題視する研究
[McKelvey, Webb 1996]
などがある。
これらの研究は、
1990年代に集中して行われ、
2005年以降はほとんど途絶えている。
「アメラ
ジアン帰還法」
は、アメリカ移住を許可するアメラジアンの生年を1962年から1973年までに限
定していたため、年月の経過とともに入国者数は伸びなくなっていった。
また、移住当時には
子どもだった当事者たちは成人し、
「アメラジアン青年の不適応」
という研究の射程に収まり
きらなくなっていったのである。
潮が引くように多くの研究者たちが撤退していった後、残されたのは、メディアによって再
生産された否定的な
「アメラジアン」のイメージであった
[Majka 1990]
。一方で最近でも、ア
メリカ在住の
「アメラジアン」
の市民権保障が議会で審議されているのだが3)、
あまり国民の耳
目を集めてはいないようである。
そもそも、
「アメラジアン」
が何であるかを知らないアメリカ
人も、少なからず存在する。
アメリカの
「アメラジアン」
は、難民・定着促進から定住・市民権保
障へと論点がシフトしているといえるが、実際には、
「アメラジアン」
という用語そのものを含
めた忘却の時代が続こうとしているのかもしれない。
この間、
「アメラジアン」
であることを立証できずにベトナムに残された、
1500人から3万人
とも言われる
「泥の子ども」
たちは、ほとんど顧みられることがなかった
[Yarborough 2005]
。
理論と動態
25
アメリカ合衆国における
「アメラジアン」研究は、あくまでもアメリカ社会の問題という限定
の中で実践されてきたといえる。アメリカを主体とし、アジアを客体とする剥奪のプロセス
は、
研究、
そして言説の構築過程をも含みこんでいた。
5 「多人種アイデンティティ」というアプローチ
ここでは、
アメリカで行われてきた
「アメラジアン」
研究を、
「多人種アイデンティティ」
研究
のアプローチとして位置づけることで、
整理しておきたい。
「多人 種アイデンティティ」研 究とは、とくに2000年以降にアメリカでさまざまに試
み ら れ る よ う に な っ た、
「多 人 種 と い う 背 景 を 持 つ 人 々
(individuals with multiracial
backgrounds)
」
、
「ミックス・レイス」のアイデンティティの成り立ちについての研究である。
シーとサンチェスは、このような学問領域が成り立ってきた背景として、アメリカ社会でこ
れらの人々の数が増加してきたことと、
「多人種」
が、タイガー・ウッズに象徴されるような広
汎な社会現象となってきたことを挙げている
[Shih, Sanchez 2005:569]
。
もしこの論文があ
と4、5数年後に書かれていたなら、社会現象としての
「多人種」
を象徴する人物として、間違い
なくオバマ大統領が挙げられたであろう。
シーとサンチェスは、さらに重要なこととして、アメリカ合衆国の人口統計局が1997年以
降、人口調査において対象者が複数の人種カテゴリーを選べるようにしたことによって、
「多人種」の存在が数値化されたことを挙げている。それまでは
「白人」
、
「黒人」
、
「アジア人」
、
「アメリカン・インディアン、アラスカン・ネイティブ
(American Indian Alaskan Native :
AIAN)
」
、
「ネイティブ・ハワイアンあるいはパシフィック島嶼人
(Native Hawaiian or Pacific
Islander: NHPI)
」
、
「その他の人種
(Some Other Race: SOR)
」
という6種類で人口が測定され
ていたものが、
「ミックス・レイス」
のサブ・カテゴリーの導入によって、人種カテゴリーは19に
増えた。ちなみに、2008年現在において
「ミックス・レイス」が全人口に占める比率は、1.7パー
セントである
[U.S. Census 2008]
。
ウィリアムズとソーントンは、
「アフロ系アメラジアン
(Afro-Amerasian)
」の研究を行う
上で
「多人種アイデンティティ」研究のレビューを行い、それを
「問題アプローチ
(problem
approach)
」
、
「等価アプローチ
(equivalent approach)
」
、および
「多様性アプローチ
(variant
approach)
」
の3つに分類して整理した
[Williams, Thornton 1998:256-257]
。
この3類型は、そ
の後、
シーとサンチェスによっても用いられている
[Shih, Sanchez 2005]
。
第一の
「問題アプローチ」
は、人種的な境界を固定的なものとみなし、人種グループがそれ
ぞれ独自の態度や価値を持っているという前提のもとで、
「多人種」
の人々のメンタリティー
を、
「生まれつきの混乱」や
「耐えがたい重荷」として把握する
[Williams, Thornton 1998:
257]
。
彼らは、特定のグループに安定した帰属意識を抱くことができない、絆を欠いた存在で
あり、
「どっちつかず」
としてしばしば表象される。
第二の
「等価アプローチ」
は、
「多人種アイデンティティ」
を、
従来のマイノリティのアイデン
ティティと同様のプロセスを通じて発展するものとみなす。
「問題アプローチ」が
「人種」
を重
視するのに対して、
「等価アプローチ」
は
「文化」
を焦点化する。
しかし、このアプローチは、
「問
26
題アプローチ」
を批判的に乗り越えようとする視点を持ちつつも、
「多人種アイデンティティ
は従来のマイノリティのアイデンティティと同じ成り立ちをしている」
ということしか主張
しえなかったとして批判されている
[Shih, Sanchez 2005:570-571]
。
そして第三の
「多様性アプローチ」では、
「多人種性」は、
「新しい肯定的な現象」
として位置
づけられる
[Williams, Thornton 1998:257]
。
ウィリアムズとソーントンは、このアプローチ
を用いて
「アフロ系アメラジアン」
を分析し、
「二つの文化による社会化は、周囲の人種的な寛
容、マイノリティ文化への理解と、アメラジアンとの親密な関係によって可能になる」
と述べ
た
[Williams, Thornton 1998:257]
。ここでは、
「多人種」であることの意味は、社会的なコン
テクストによって変わってくることが重視される。
第一、第二のアプローチがパーソナル・ア
イデンティティに傾注しがちであったのに対して、第三のアプローチにはソーシャル・アイデ
ンティティへの射程が開かれている。
これらの
「多人種アイデンティティ」
研究の類型にそってこれまでの
「アメラジアン」
研究を
整理すると、
「リスク」をシンボルとした
「アメラジアン難民」の研究は、
「問題アプローチ」に
位置づけられるであろう。
アメリカにおける
「アメラジアン」
を対象とする研究の多くは、ここ
に含まれる。
自らを
「多様性アプローチ」
と位置づけるウィリアムズとソーントンの研究は、少
数派の部類に入る。
一方で、むしろアメリカ合衆国ではなく韓国や日本に居住する
「アメラジアン」をめぐっ
て、
「多様性アプローチ」
に位置づく研究がおこなわれてきた。
ムンは、1974年というきわめて
早い時期に、パール・バック財団による支援事業で得られたデータを用い、韓国の
「アメラジ
アン」
についての実証研究を行った。
そこでは、
「ハパ・クラブ
(Hapa Club)
」
という、当事者た
ちの自助グループが着目されている
[Moen 1974]
。マルゴ・オカザワ−レイは、やはり韓国の
「アメラジアン」
を、政治的、経済的、社会的なコンテクストに重点を置いて分析した
[Margo
Okazawa-Rey 1997]
。そして、スティーブン・マーフィ重松は、沖縄の
「アメラジアン」につい
て、ステレオタイプを課せられつつ、さまざまな社会関係の中でアイデンティティを模索する
プロセスを中心に分析した
[スティーブン・マーフィ重松 1994, 2002]
。
マーフィ重松の研究は、アイデンティティの社会的なコンテクストを重視していることか
ら、ここでは
「多様性アプローチ」
に含めているが、そこに収まりきらない独自性をも有してい
る。
マーフィ重松自身が
「アメラジアン」
であるのだが、彼は自分の当事者性を、
〈名乗り〉
をめ
ぐるポジショナリティーとしては扱わない。
マーフィ重松は、
「多文化間カウンセリング」
を行
うカウンセラーとして、研究者として、
「アメラジアン」
の人々に出会う。
そして、彼らとの関わ
りの中で体験した自分自身のアイデンティティ葛藤を、出会った人々のドラマと相互にから
みあい、響き合うものとして
「物語る」
のである
[マーフィ重松 2002, 2004]
「
。多人種アイデン
ティティ研究」
が
「多人種」
の人々を客体化してきたのに対して、マーフィ重松は自分自身を、
アイデンティティをめぐる相互行為のプロセスに位置づけ、
「物語
(ナラティヴ)
」
という形で
表象する。
この点で、マーフィ重松の研究は、桜井厚や山田富秋が行ってきた相互行為として
のライフストーリー研究と重なりあっている
[桜井 2002; 山田 2005]
。
ここまでの記述において、
私は
「多人種アイデンティティ」
研究を、
「アメラジアン」
研究を整
理するための類型構成として用いてきた。
しかし私は、
「多人種アイデンティティ」研究その
理論と動態
27
ものに、
それほど豊かな発展可能性があるとは考えていない。
「多人種アイデンティティ」
研究における
「問題」
/
「等価」
/
「多様性」
というアプローチの三
類型を見ていると、強い既視感を覚える。それらは、
「同化」/
「統合」/
「多文化主義」
という、
エスニシティをめぐる言説が経てきた過程を踏襲するかのような展開なのである。
エスニシティをめぐる議論において、
「多文化主義」は、それまでの
「同化」
と
「統合」を批判
的に乗り越えるものとして位置づけられてきた。社会のメインストリームへのマイノリティ
の適合や、国民統合を焦点化する従来のアプローチとは異なり、
「多文化主義」
においては、多
様な文化の存在は肯定され、
「多様性の尊重」や
「多文化共生」が目指される。しかしそれは、
「多文化」
なるものを、あたかも実体であるかのように本質化してしまうという陥穽をはらん
でいた。戴エイカは、
「多文化共生」
をすすめる運動が陥っている袋小路について記述し、
「文
化的差異の尊重や理解だけでは、排除の行為や思考はなくならない」
ことを指摘している
[戴
2003, 2005]
。
このような行き詰まりは、政策や運動の次元だけでなく、エスニシティを扱う研究に及んで
きた。
エスニシティ研究は、
「多文化主義」
をむしろ言説として批判的に分析するか、あるいは
その言説から距離を置いたところでリアリティをとらえていくことに活路を見出し、専門化、
細分化していったように思われる。
エスニシティをめぐる
「同化、統合から多文化主義へ」
という言説の推移は、そのまま
「多人
種アイデンティティ」
研究の三類型にあてはまるのではないだろうか。
「多様性」
アプローチに
は、
「多人種」
を、新種の人種グループであるかのように実体化し、本質化してとらえる表象が
含まれている。
「ミックス」
、
「マルチレイシャル」という用語は、かつての
「マルチカルチュラ
ル」
と同じように、新鮮さとポジティブな響きをもっている。
しかし、それを本質化してしまう
と、新しいはずのカテゴリーは、従来のカテゴリーを相対化していく力を失い、既存の枠組み
の中に齟齬なく納まってしまうことになる。
ただし、実際に
「多人種性」
を扱っている研究の中で、
「多人種アイデンティティ」研究とし
て自己を位置づけているものは、まれである。
「多人種」であることの現実を生き生きと切り
取り、その社会的なコンテクストを分析していくことができるのは、むしろ
「多人種アイデン
ティティ」
を固定化してとらえる言説からは距離を置く、個別具体的な事例研究であるのかも
しれない。
6 アメラジアンスクールによる「アメラジアン」と「ダブル」の表象
このように
「ダブル」
と
「アメラジアン」
をめぐる表象を見ていくと、アメラジアンスクール
が行ってきた言説の生産における独自性が浮かび上がってくる。
第一に、アメラジアンスクールは、否定的な
〈名指し〉であった
「アメラジアン」
という呼称
を、
“ダブルの誇り”
を込めた
〈名乗り〉へと取り戻すという、言説の根本的な転換を行ってい
る。
第二に、
〈名乗り〉
としての
「アメラジアン」
、そして
“ダブルの誇り”
という表象は、言論空間
における営為である以前に、母親たちが自分の子どもたちのために教育施設をつくり、
「ダブ
28
ルの教育」
を提供するという、
母親を中心とする教育実践のプロセスとして生成してきた。
第三に、
アメラジアンスクールが設立されたことで、
「アメラジアン」
の子どもたちが日常的
に集い、継続的に相互行為を交わしあう、世界でもほとんど他に例のない社会的空間が成立
した。
私が知る限り、
「アメラジアン」
の当事者たちが毎日のように時間と空間を共有する、ア
メラジアンのコミュニティと呼びうるような社会的空間は、1999年に韓国で設立されたアメ
ラジアン・クリスチャン・アカデミーを除けば、他には存在しない。
さらにアメラジアンスクー
ルは、
ダブルのコミュニティとしても、
きわめてユニークな存在であると思われる。
第四に、アメラジアンスクールは、上記の文脈において独自性をもちながら、同時に共通性
を有している。
「アメラジアン」
の子どもたちの学びのニーズは、さまざまなエスニック・マイ
ノリティの子どもたちの体験と重なりあっている。
そして、
「アメラジアン」
の教育権保障運動
は、
「多民族共生教育フォーラム」
などの全国的なエスニック・スクールのネットワークの場に
おいて発信され、
そのようなネットワークの構成要素としても位置づいている。
第一の点について、
「アメラジアン」
という用語は前述したように、アメリカ社会において、
深刻なスティグマをはらんだ
〈名指し〉
として構築されてきた。
アメラジアンスクールの中心
的な設立者であり、理事長、校長として運営を担ってきたセイヤーみどりは、この用語がネガ
ティブな意味をはらんでいることを知りつつ、
敢えて
「アメラジアン」
にこだわったという。
私たち母親は、
『国際児』
ではなく、アメラジアン
(AmerAsian)
という言葉を使うことにこ
だわった。
ふつう、国際児というと外国籍の子どもをイメージするが、私たちは日本国籍の
みのアメラジアンの子どもも含めて一つの言葉でくくりたかった。
[セイヤー 2001:82]
子どもたちが、それぞれに自己評価を高く持ち、アメラジアンとして日米の懸け橋となれる
大人になってほしいと願っている
[前掲書:110]
。
セイヤーは
「アメラジアン」を、
「国際児」という、国籍によって子どもたちをカテゴリー化
する
〈名指し〉
を乗り越えるために、意図的に採用している。
しかし、
「国際児」
という呼称もま
た、
かつては
「混血児」
というネガティブな呼称に代わるものとして、
国際福祉相談所が中心と
なって用い始めた用語であった。
波 平 によると、沖 縄 の
「混 血 児」をめぐ る 状 況 は、
(Ⅰ)戦 争 犠 牲 型 の 母 親 からの出 生
(1945-1952年)
、
(Ⅱ)
国際結婚の増加と経済的依存関係の強化
(1953-1962年)
、
(Ⅲ)
経済的依存
関係の減少
(1963-1970年)
という推移をたどってきたという
[波平 1970:109]
(
。Ⅰ)
(Ⅱ)
の時
期に、
「混血児」
を戦争の犠牲や母親の売春と結びつけるスティグマが形成された。
それは、沖
縄において徐々に女性の雇用機会が拡大し、アメリカ人男性との恋愛や結婚が多様化し、経
済的な従属を意味しなくなっていった時代においても、
払拭されつくすことはなかった。
「混血児」
という用語は、調査や研究にも用いられた。
沖縄県教育庁は、
「混血児」
の調査を行
い、母親の職業のうち
「ホステスが最も多い」
こと
(1251人中135人)
や、母子家庭が半数に及ぶ
こと
(621人)
を、
「混血児の実態」
として報告書にまとめた
[沖縄県教育振興会 1976]
。
このよう
な表象は、
「混血児」
に対するスティグマを、あたかも客観的な事実であるかのように補強し、
再生産していった。
理論と動態
29
「国際児」
という呼称を提唱した国際福祉相談所は、1958年に設立された国際社会事業団を
前身としている。
この組織は、基地内にあったアメリカ婦人福祉会が出資し、アメリカ人牧師
が初代理事長となって発足した、民間の社会福祉団体であった。沖縄が1972年に本土復帰し
た後には、社会福祉法人となり、年間およそ500件の相談事業を行ってきた。その所長であっ
た大城安隆が母親たちを支援し、1977年に
「国際児母の会」が設立された
[国際福祉相談所
1983]
。
沖縄で
「国際児」
という用語が用いられたのは、これが初めてであるという。
この呼称に
は、
「将来の国際社会で貢献できる素地を備えている」存在として、
「国際児」の子どもたちを
励まし、
育てていくという、
大城の理念が込められていた。
ここには、
「アメラジアンとして日米の懸け橋となれる大人になってほしい」というセイ
ヤーみどりの願いに通ずる要素が見いだせる。
母親たちのモーメントという点でも、
「国際児
母の会」
は萌芽的である。
しかし、それは国際福祉相談所という支援団体によって水路づけら
れた運動であった。
そして、母親たちを支援する一方で、国際福祉相談所が行っていた主要な
事業は、父親に
「遺棄」
された
「国際児」
の子どもたちにアメリカ人の養父母を見つけ、アメリカ
移住をサポートするという、
養子縁組であった。
「アメラジアン」
という
〈名乗り〉
を
「国際児」
という呼称と比較するとき、まず、母親たち自身
によって
「アメラジアン」
という言葉が選ばれ、発信されてきたことが挙げられる。
さらにそこ
には、アメリカ移住に子どもの将来展望を集約しない、
「アメリカでも日本でも生きていける
力をつける」
という母親の願いがある。
その背景としては、
「国際児母の会」
が結成された1977
年と、
アメラジアンスクールが設立された1998年の間の、
沖縄社会の変遷を見出すことができ
るだろう。
決して現代の沖縄社会で
「アメラジアン」
に対する差別や偏見が払拭されつくした
わけではないが、アメリカで生きることと日本で生きることが選択肢として語られうる時代
になってきたという意味で、
時代の推移には留意が必要である。
さらにセイヤーは、
「ダブル」
について次のように語っている。
「子どもたちが誇りを持って
生きるには、ハーフ
(半分)
ではなく、二つの言語・文化を持つ
『ダブル』
の可能性を伸ばせる場
が必要」
[
『毎日新聞』
2000.2朝刊,
全国版]
。
アメラジアンスクールは、
「ダブル」
をめぐる言説の生産を積極的に行ってきた。
第一に、
『ダブルの教育』
は二つの母語を持つ人たちのためにある。
アメラジアンにとって、
日本語も英語も等しく母語なのだ。外国語の習得を前提に二カ国語以上に通じることを目的
にするバイリンガル教育とは、まずそこが決定的に異なる。
第二に、
『ダブルの教育』
は言語教
育そのものを最終的な目的とはしていない。言語を窓口にして自らのルーツでもある二つの
文化世界に接近していくことがめざされている。
そこには、かれらが
『日本人』
でも
『米国人』
で
もなく、
『アメラジアン』
として誇りを持って生きていってほしいと願う母親たちの熱い思い
が込められている。
[照本 2001:183]
アメラジアンは、共有する祖国、出身地、国籍、
『アメラジアンの言語』
、
『アメラジアン
の民族文化』
といった、従来のエスニシティ概念を成り立たせる要素を一切持たないエス
ニック・マイノリティである。
彼らは、ネイティブ、オールドカマー、ニューカマー、定住外国
30
人等のいずれの範疇にも属さない。……
『根無し草』
に陥りかねない半面、……固定的で本
質主義的な属性によらない形でアイデンティティを育み、緩やかなネットワークで結び合
う可能性を持っていると考えられる
[野入 2004:64]
。
私はまた、沖縄で出版された共著の中では、沖縄社会に向けて、
「アメラジアン」
への共感を
醸造することを目的とした表象を行ったこともある。
「沖縄の文化はチャンプルーだ」ということは、よく言われています。つまり、さまざまな
ルーツを持っていて、多様な要素が混ざり合っていることですね。アメラジアンは、その
チャンプルーの中でもうんとチャンプルー度の高い、チャンプルーの中のチャンプルーな
のです。
沖縄文化のチャンプルー度を高めてくれる存在だといえます。
[野入 2008:96]
ここに見いだせるのは、
「ダブル」や
「アメラジアン」をめぐる表象には複数の引き出しが
あって、その時々の文脈や、さまざまな他者との相互性に応じて、選ばれて用いられていると
いうことである。
アメラジアンスクールにおける
「ダブル」
の言説の構築は、戦略的本質主義のひとつと見な
すことができる。
すなわち、
「ダブル」
という存在には、かくも豊かな可能性が備わっていると
いう
「ダブル」
の言説を戦略的に生産し、それによって否定的な
〈名指し〉
を乗り越え、子どもた
ちの学びの権利を保障していこうとするものである。
このことは、
「ダブル」の言説をめぐって、本稿の第2章で取り上げたような、当事者からの
反撃が起こっていたことと比較すると、きわめて興味深い。島袋や朴が
「ダブル」の脱構築を
試み、ポジティブな表象としての
「ダブル」
に異議申し立てを行っていたのに対し、アメラジア
ンスクールは対照的に、むしろ
「ダブル」
の積極性や創造性についての言説を構築していった
のである。
それは第二の点、アメラジアンスクールの言説生産が、言論空間に向けてのものではなく、
むしろ教育施設としてのニーズに根差して展開されてきたことと関連している。教育施設と
してのアメラジアンスクールは、子どもたちの肯定的な自尊感情を育むことを理念としてい
る。
そのためには、
「
『ダブル』
であることの豊かな可能性」
という価値が、社会的に承認される
必要があったといえるだろう。
『アメラジアンスクール10周年記念誌』
に寄せられた各界からの祝辞を一読すると、このよ
うな言説の発信は、
一定の成果を収めているように見える。
アメラジアンスクール・イン・オキナワの児童生徒が、
『宜野湾市人材育成交流センターめ
ぶき』
を学び舎として明るくのびのびと学習し、
『ダブルの教育』
という理念の下に豊かな
国際感覚を身につけ、宜野湾市そして沖縄県の将来を担う人材として逞しく成長すること
を心から願っています。
(宜野湾市長・伊波洋一)
〔アメラジアンスクール・イン・オキナワ 2008:29〕
理論と動態
31
貴校の尽力により、子どもたちはのびやかで開かれた雰囲気の中で学びを達成し、彼らの
潜在的な力を最大限に発揮できるようになっています。
(在沖縄駐日アメリカ領事・ケビン・
メア)
〔アメラジアンスクール・イン・オキナワ 2008:26〕
一方で、比嘉康則が指摘するように、
「ダブルの教育」
に象徴される
「多文化共生教育」の言
説は、実際にアメラジアンスクールが施設面などの公的支援を要請する場合、ほとんど現実
的な効力を持ってこなかった。教育権保障を求める日本政府との交渉現場において、実際に
効力を発揮するのは、
「沖縄における米軍基地の集中」
であり、
「それゆえに構造的に生まれ続
けるアメラジアンの子どもたち」
という言説なのである
[比嘉 2008:8]
。比嘉は、アメラジア
ンスクールが
「基地被害」の言説から意図的に距離を置き、にもかかわらず、政治的な交渉の
場にあっては、それを唯一の資源として用いざるを得ないという矛盾をくまなく描き出して
いる。
「ダブルの教育」
という言説は、沖縄県の教育行政との交渉においても、まったく有効性を
発揮していない。
そのことは、前述の
『アメラジアンスクール10周年記念誌』
における県教育長
からのメッセージに凝縮して見出せる。
本施設においては、開校以来10年間にわたり、不登校で通っている児童生徒の学籍校への
復帰を目指した教育を推進していることに感謝申し上げます。……県教育委員会としま
しては、当施設へ通っているすべての児童生徒が学籍校へ復帰することで、夢や希望に向
かってはばたくことができるよう、関係市町村教育委員会と連携して参りたいと考えてお
ります。
(沖縄県教育委員会教育長・仲村守和)
〔アメラジアンスクール・イン・オキナワ 2008:27〕
ここには、アメラジアンスクールの、沖縄県の教育行政における位置づけが表象されてい
る。
それによると、アメラジアンスクールはあくまでも、過渡的な支援を行う民間施設にすぎ
ない。
アメラジアンスクールが
「ダブルの教育」
の積極的な意味を発信することは、このような
位置づけからの逸脱として、
警戒をもってまなざされるのである。
他方で、
「ダブル」や
「アメラジアン」の表象については、スクール内部からも警鐘が鳴らさ
れていた。
アメラジアンとしての自己規定は─たとえそれがホスト社会から付与された
『マイノリ
ティ』としてのアイデンティティを意味づけなおすものであっても─帰属するエスニシ
ティの文化的差異の強調を前提にしている。だから、
『アメラジアン』
としての存在様式に
一面的にこだわることは、結果的に、
エスニシティによって境界線を引こうとする社会構造
をなぞることにもつながってしまう
[照本 2001:184]
。
このように見ていくと、アメラジアンスクールによる
「ダブル」
と
「アメラジアン」
の言説が、
さまざまな相互性の中で立ち上がってきたことがうかがえる。
32
アメラジアンスクールは、戦略的本質主義として位置づく表象を行ってきたのだが、同時
に、そのリスクを自覚している。
さらに、現実的な権利保障運動における
「ダブル」
の言説の無
力さも知っている。
そして、ときには
「基地」
の言説を動員し、別の状況においては
「ダブル」
を
積極的に打ち出すというように、文脈に応じたフレキシブルな言説の生産を行ってきた。
ある
いは、そのようにあることを余儀なくされてきたともいえるだろう。
このような、よく言えば
融通の利いた、別の言い方をすれば他律的な展開について、オールタナティブな教育運動と
しては脆弱であると批判されたこともある
[Suzuki 2003]
。
私はここで、アメラジアンスクールの理事として、それに反論しようとは思わない。
私はお
そらくこれからも、リスクや無力さも自覚しながら
「ダブル」
を語り、ときには
「基地」
の言説を
繰り出して、権利保障運動の交渉を実践していくことになるだろう。
教室では、子どもたちに
「二つの言葉を覚えようね」
と言ったりする。
そして、そのような自分自身を、疑問や批判のま
なざしでふりかえるのである。
7 エスニシティ研究に「アメラジアン」という視点は何をもたらすか
「アメラジアン」
が、さまざまなエスニック・カテゴリーのなかで特異な
「ダブル」
性を持って
いるというよりは、もともとエスニシティの中に
「ダブル」性というものは含まれていて、
「ア
メラジアン」
という視点を濾過させることによってそれが顕現するのではないかと私は考え
ている。
日本において、日本人と外国人の親を持つ
「ダブル」
の子どもは、2007年の1年間に、24,177人
が出生した
[厚生労働省 2008]
。
ここには、いわゆるクォーターや、国籍の異なる外国人の両親
をもつ子どもは含まれていない。
同じ2007年の調査で、
「日本語の指導を必要とする外国人児
童生徒」の数は、学齢期の合計で25,411人である
[文部科学省 2008]
「
。ダブル」の子どもたち
は、
「日本語の指導を必要とする外国人児童生徒」
の数を何倍も上回る規模で、毎年、生まれ続
けている。
結果として、外国人の子どもたちが通うエスニック・スクールでも、公立学校においても、
「ダブル」の子どもたちは増加してきている。しかしそれは、もともと
「ブラジル人」や
「朝鮮
人」
、あるいは
「日本人」
を対象としていた教育施設に、
〈結果として〉
増加してきた
「ダブル」
で
ある。
これに対して、アメラジアンスクールは、最初から
「アメラジアン」
の子どもたちを対象
として設立された。
こちらは、
〈前提として〉
の
「ダブル」
と言えるだろう。
日本には、2006年の時点で、211校の外国人学校が存在している
[月刊
『イオ』
編集部 2006]
。
そこには、ブラジル学校96校、朝鮮学校73校、インターナショナルスクール・欧米系学校26校
などが含まれる。その中でアメラジアンスクールは唯一、
「ダブル」であることを生徒の原則
的なメンバーシップとし、
さらに校則として、
「
『ダブル』
としての誇り」
をうたっている。
生徒は、
自らをアメラジアンとし、
多文化的であることの権利を持つ。
生徒は、
この権利を支
持し促進することに責任を持つ。
[アメラジアンスクール・イン・オキナワ 2008:14]
理論と動態
33
全国で沖縄だけに
「ダブル」のスクールがあるのは、沖縄に、米軍基地の駐留によって影響
された、特殊な国際恋愛と結婚の構造があるためである。
軍隊とは、若い世代の男性の人口構
成比が突出した、特異な集団である。
その駐留の結果として、沖縄における国際結婚には、ア
メリカ人男性と日本人女性のカップルが圧倒的多数を占めるという構造がある
[沖縄県男女
共同参画室 1999]
。
沖縄における
「ダブル」
の突出は、このような状況のもとで、必然性を持っ
ていたといえる。
一方で、前述したように、全国でも
「ダブル」
の子どもたちが増加しつつある。
「ダブル」
は、沖
縄の特殊な政治的文脈において焦点化されるものである一方で、より広やかな共通性をもつ
論点になりうる。
しかし、
「ブラジル人」
「アメリカ人」
「中国人」
といった既存のエスニック・カ
テゴリーと並列して
「ダブル」
というカテゴリーがあり、あるいは新たに付け加えられたりす
るというよりは、それらのエスニック・カテゴリーにすでに
「ダブル」性がはらまれていて、ど
のような言説あるいは実践の空間にあるかによって、
その
「ダブル」
性は顕在化したり、潜在化
したりするように思われる。
たとえば、
「外国にルーツを持つ子どもたち」
という呼称がある。これは、
「外国人の子ども
たち」
という呼称に代わって、日本国籍者や
「ダブル」
などの多様性を含むものとして、しばし
ば教育運動の領域で用いられるようになってきた。
しかし、そこでは
「外国」
のルーツだけが表
象され、日本につながる属性は取り上げられることがない。
現実の子どもたちが体験している
複数帰属性、人種的・文化的な
「ダブル」性は、看過される。そのことは、
「ちがうことこそすば
4)
らしい!子ども作文コンクール」
のような催しのタイトルによく表れている。あらかじめ多
様性の尊重/日本社会への同化という二項図式が前提となっており、前者を行う空間では
「ちがうこと」
だけが焦点化され、
称揚されるのである。
一方で、当事者が発信し、
「ダブル」
性を顕現させることもある。
全国外国人生徒交流会とい
う中・高校生の集い5)では、2007年の共同声明として、
「違いを押しつけずに見守ってほしい」
というメッセージが教師たちに向けて発せられた。
それに先立つ2005年には、アメラジアンの
高校生が実行委員長となって、
「ダブル」
性をはじめて鮮明に打ち出した共同声明を読み上げ
ている。それは、
「私たち外国人も人権をもっています」
、そして
「私たちは自分の祖国や民族
を愛するのと同時に、自分たちが今、暮らしている、ふるさと日本を愛します」
というもので
あった
[野入 2007:29-31]
。
この交流会に集う生徒たちの中には、血統的に
「ダブル」
であって
もそうでなくても、日本で育ってきて、自分を外国人だと言いきれない部分を持つ子どもたち
がいる。生徒による共同声明は、従来の
「ちがい」
を焦点化する教育運動が周辺化してきた境
界性、
複数帰属性をありのままに受けとめ、
発信しようとする当事者たちの存在を示唆してい
る。
「アメラジアン」
という視点は、
「日本人」性を前提とする文脈においても、異質性を焦点化
した文脈においても、多くの場合、
なぜ
「ダブル」
は潜在化されてきたのかを問いかけるもので
ある。
「ダブル」
の周辺化ということについては、公教育と、
「外国にルーツを持つ子どもたち」
を焦点化する教育は、合わせ鏡のように一致している。
そこに存在するのは、
あらかじめ
「日本
人」
と
「外国人」
を二分する、
二項対立的な図式である。
「アメラジアン」の研究は、沖縄の特殊なエスニシティを扱う領域としてだけでなく、従来
34
のエスニシティ研究の相対化と再構築をはかっていくためのひとつの視点として、可能性を
持っているように思われる。
「アメラジアン」
という視点は、従来のエスニック・カテゴリーが
はらんできた
「ダブル」性を顕現させる。そこには、
「ダブル」性の潜在化や不可視化が起こっ
てきた文脈を明らかにし、従来のエスニック・カテゴリーの側を問いなおしていくという作業
への回路がひらかれているのである。
[謝辞]
本稿は、
財団法人旭硝子財団による人文・社会科学系研究奨励
(2008年度)
「NPO教育施設ア
メラジアンスクール・イン・オキナワにおける多文化教育の成果と共生社会の発展へ向けた提
言」
の研究成果である。
旭硝子財団による手厚い研究への支援に深謝する。
[注]
1)
「アメラジアン移民法」
「アメラジアン帰還法」によって合法的にベトナムからアメリカ合衆国
に移住したアメラジアンは、1990年までに約33,000人に達し、1994年には77,032人となった
[ORR
1994]
「
。アメラジアン移民法」
は1982年から施行され、1962年1月から1976年1月までに生まれた、
アメリカ人を父親に持つアメラジアンに、ベトナム難民としてのアメリカ移住を認めた。
1988年
には同法を改正した
「アメラジアン帰還法」が施行され、移住のための要件が緩和されるととも
に、
家族・親族1名の同行が認められた。
2)
ベトナムのアメラジアンについては、
以下の文献に詳しい。
McKelvey, Robert 2000.
3)
「アメラジアン帰還法」
と
「アメラジアン国籍法」
(2003年)
を改正するものとして2007年に議会に
提出された
「アメラジアン父系ルーツ認定法
(Amerasian Paternity Recognition Act)
」
は、ベト
ナム戦争と朝鮮戦争の間に米兵の子どもとして生まれた
(1950年以降1982年10月22日までに韓
国、ベトナム、ラオス、カンボジアおよびタイで出生し、あるいは1962年1月から1976年1月までに
ベトナムで生まれた)
合衆国在住のアメラジアンに対して、市民権の自動的な付与を認めるもの
である。
4)
全関西在日外国人教育ネットワークが主催する作文コンクール。
「子どもたちの思いを受け止め
ることで、日本の社会や学校がさまざまなちがいを理解し、多文化共生社会を願って」
開催され
ている
[全関西在日外国人教育ネットワーク 2006]
。
5)
毎年、200人ほどの在日外国人の生徒たちが集い、実行委員会形式で体験を語り合う交流会であ
る。
全国在日外国人教育研究集会という、公立学校の教師たちを中心とする教育研究集会の日程
と同時進行で、夏季休暇中に一泊二日の日程で行われる。
教育研究集会の閉会式で、実行委員の
生徒たちが報告を行い、
共同声明を発表している。
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【欧文要約】
“Amerasian”as a Perspective
NOIRI, Naomi University of the Ryukyus
[email protected] Amerasians are people who have American and Asian parents. It usually has the
implication that they are people who are born with the factual background of US military
presence and/or deployment.
This research works to validate the term“Amerasian”along with the term“double”
which has undertook a symbolic role with regards to the educational practice and the
spreading of the discourse for the AmerAsian School in Okinawa. It will examine“double”
as a term that has been established though the process of finding new ways of educational
practice, space of speech, and discourse, and as a symbolic representation that is being
formulated presently.
First, the research will clarify how the term“double”has been placed within the
Japanese speech. Secondly, the research will clarify how the term“Amerasian”has been
used by reviewing Amerasian research within the United States. By taking that into
consideration, it will explore the individuality and versatility involving the educational
38
practice and the discourse of“double’
s education”in AmerAsian School.
And it will speculate on the kinds of phases that are manifested when the concept of
ethnicity gets filtered through the Amerasian perspective while slipping through the
“double”representation.
Keywords: Amerasian, double, multi-racial identity
理論と動態
39
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