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1964 年11月21 日於チューリッヒ工科大学大学祭[PDFファイル/277KB]
Walter Traupel, Fragw rdiger Fortschrittsglaube Takashi UØno ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 経営論集 第67号(2006年3月) 151 翻 訳 ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 1964年11月21日於チューリッヒ工科大学大学祭 上 野 喬 序 「疑わしい進歩信仰」 序 以下の翻訳「疑わしい進歩信仰」Fragwürdiger Fortschrittsglaube はスイスのチューリッヒ工科大 学 Eidgenossischen Technischen Hochschule の学長ワルター・トラウペルが1964年当大学大学祭に行 なった講演であり、同校の卒業生ヴィクトール・ベグリンガーとハンス・ユルグ・ツォリンガーの 編集した「創造を前にした畏敬――ワルター・トラウペル:講演と論説」―In Ehrfurcht vor der Schöpfung―Walter Traupel : Reden und Aufsätze 1961―1984の16作品中の一つである(1)。 所謂進歩思想に対する疑義という、古くて新らしい、21世紀の現在でも決して風化していない、 文明的進歩における人間の物質と精神の課題を扱ったこの短い本講演の核心は、これの最後の一文 に凝縮されている。「私達が進歩と呼んだものは、まだ進歩ではありません。それは多くの面でよ く意図され、真面目に論じられました。しかしながら全体として、それが自主的人間の手中にある 限り益々非人間かつ悪魔的となりましょう。神のみがそれを進歩にさしむけることができるので す」。 確かにこの結論は、世間一般の進歩礼賛を疑い、キリスト教文化の中で成長した教養あるヨー ロッパ人には自明の主張なのであろう。全能の神によってこそ、宗教の介在をへてこそ「進歩」が 出現するのである。しかも第二次世界大戦後の進歩とは「人間の知識と能力の絶えざる拡大と、そ れからもたらされる私達の生活の改善」なのである。この短かい定義による進歩とは、自然科学と 技術を利用した人間の、同じく被造物である地球への働きかけ、即ち開発の別言なのである。 ワルター・トラウペルは1914年スイスのバーゼル市に生まれ、そこの高校を卒業し、1933―37年 にチューリッヒ工科大学で学び、1942年に博士学位を取得し、ヴィンタートゥールの機械製造企業 (1) V.Beglinger et H.J.Zollinger ed.,―In Ehrfurcht vor der Schöpfung―Walter Traupel : Reden und Aufsätze 1961-1984,Zurich 1990. 経営論集 第67号(2006年3月) 152 ズルツァー兄弟社に入社、1954年には母校に戻って熱学ターボ機器学科の教授に就任、1956―60年 に同校機械技術部門の理事そして1961―64年には同校学長の重責を担った。1962年には、後に3版 を数え、いくつかの外国語にも翻訳された『熱ターボ機器』を出版した。更に彼は先述のズル ツァー社そして現在は ABB アセアブラウンボベリ社になっている BBC ブラウン・ボベリ社の技 (2) 術顧問として、当国のターボ機器開発に協力した。 スイス最高の工科大学において要職を歴任したトラウペルは、彼の生徒の一人ベルリンガーによ れば、専問知識に加えた幅広い常識、更には「それ以前には聞いたことも見たこともない丁寧な語 りと芸術的とも賞賛された板書により、受講生を魅了した」。更に個人的にはその学位論文に「J・ S・バッハに捧ぐ」と献辞を附記した程の、バッハ愛好者だった。ともあれ彼は専問家としてまた 人間として大学人のみならずスイス国民にも敬愛された真面目そして誠実な人柄の持主であった。 更にトラウペルの言行を際立たせたのは、彼自身も関わった創造(製作)Schöpfung を前にして の自然・地球に対する畏敬である。これは先述の本著作表題とされたのであり、また彼の主著には 「その職業を創造の前に畏敬をもって行なう全ての技術者に献ぐ」の一文が印刷されたのである。 畏敬と創造こそ近代人必須の資質と彼は断言した。即ちこの畏敬なき状況で人間世界は狭く圧迫的 な、生きる意義を喪失した雰囲気が惹き起されるのである。進歩を、開発を自己の至上命令とみな している自然科学者と技術者にとり、畏敬とは自然に対して謙虚なれということでもあった。「現 実の世界は深奥です。私達は全く、その表面だけを知っているにすぎないのです。その深奥さにつ いて私達は殆んど感知できないのです」。教育者としてのトラウペルは「精神の高貴さを持った学 生諸君は、いつの日にか専問家になったとしても、専問家的狭さに押しこめられることはないで しょう。私達の義務とは、私達の教育の方法と精神により、これら学生諸君に、彼らが要求するも のを与えることなのです。これこそ、大学がなしうることなのです。こうした人間は人間的全体た らんと努めるのであり、彼らだけが全て我々の複雑な知識と能力とが意義喪失に沈むのを防ぐこと (3) ができるのです」と強調したのである。 トラウペルが熟知した、異常とも言える程専問・分業化した進歩の諸様相により惹き起された先 述の意義喪失・幻滅も、かつて隣国ドイツで強行された様な全体主義的要求 Totalitätsanspruche に より回復されることも絶望的なのであり、これら近代人間社会の閉塞感から脱却するには、人間以 外の生物・無生物に対応する際の慈悲(親切)心 Gnade こそ必要なのであった。この慈悲心の獲 得に必要なものは、あくまでも自己の生き方を最良最上のものとしている近代的な自主的人間のそ (2) Ibid.,189. (3) Ibid.,194f. ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 153 れではなく、自己の外部に対して謙虚であるべき人間の心理的準備なのであった。そしてこの自然 に対して畏敬の念をもって接せよとの講演は、その後世界的に大きく注目されるローマクラブ編の 『成長の限界』よりも8年前に行なわれたのであった。 ワルター・トラウペルが進歩万能信仰に疑問を提起し、それへの回答として彼が示した慈悲心獲 得のための、謙虚な心理的準備、これは仏教になじんでいる日本人の大学生諸君にも理解できるだ ろうとの確信のもとに、以下の翻訳を行なったのである。 「疑わしい進歩信仰」 もしもどこかで、都市の見なれた光景である建物が、交通再開発のためにこわされねばならず、 或いは、近代的行政機構が変ったマゲを、彼らのやり方でどうにか片づける役務を果し、或いは全 く普通なのですが、私達が大衆社会の必要に押された生活様式の変化を観察した時に、私達はしば しば残念と感じます。しかし多くの場合、この残念には、ともかくも進歩を押しとどめることはで きないとの結論が加わるのです。無意識にもらされたこうした言葉は、人間の実際の思想、彼の生 きる喜びを越えて、その言葉が真面目に受けとられねばならなくとも、彼が話したことよりも、大 変多くの情報を与えるのです。私達が今しがたのべたことは、深刻な心の中の不一致を私達にばく ろするのです。私達は発展を、有意義なつくり物よりも寧ろ変えることのできない経過として経験 するにせよ、進歩と呼ぶのです。 ここで話題の進歩とは、人間の知識と能力の絶えざる拡大と、それからもたらされる私達の生活 の改善なのです。これから、豊かさと殊に、人間存在の物質的保証とが期待されるのです。しかし ながら実際に経験が、私達の生活は益々豊かに快適になっていると教えれば、誰が心の底で、この 進歩を押しとどめることはできないのかと疑うでしょうか。――経験は私達に明らかに別のことを 教えております。 この進歩の成功についての確固たる信仰が彼から――まあ彼が口に出した信仰なのですが――失 なわれてきたこと、これが中部(大陸)ヨーロッパ人の典型的精神状態なのです。ここでも彼は ――ともあれ語り手の私にはみえるのですが――アメリカ人と少々違っているのです。この状態こ そ、近代世界の内で私達全ての立場を、一蓮托生のものにしているのです。 50 私達全てが知っております様に、第二次世界大戦終了後の発展は、修羅場から真の勝者として登 場した、合衆国とロシアの強大国により大々的に決められました。ロシアはしかしなおも、全く19 世紀の中に生きております。共産主義とは、まさしく当時において典型的な進歩思想の、不合理極 まる型態なのです。それは進歩を暴力で強制しようとします。かといってアメリカ人も亦、それか らかなり離れているとはいえ、私達とは違う、進歩がもたらす人間幸福について、手ばなしの信仰 154 経営論集 第67号(2006年3月) にはしる、暴政を行なおうとしております。第二次世界大戦終了後も、19世紀のルネサンス期とほ ぼ同じく、明らかに外観は以前のものとすっかり違ったにせよ、進歩が続いていることは驚くにあ たらないし、また私達中部ヨーロッパ人が、多くの点でそれに半信半疑であり、しかもこの発展を 担う不屈の信仰さえ、もはや私達を自由にできなくなったとて、驚くことがありましょうか。 この進歩は危険も含んでいる、との認識は私達にあって広がっており、しかもこれは、みずから その実現に積極的でなく、当然それを疑っている人ばかりではありません。技術者や自然科学者に も、これがみられ認められるのです。技術・科学的偉業がしるされた、私達の時代の唯物指向思想 に対して、均衡をみつけねばならぬとの信条表白も、珍らしくはないのです。全ての専問家会議も、 人間社会に対する技術者の責任問題に取りくんでおります。しかしそこで発表された思想や提案は、 殆んど全般的に行きづまり、実行にはいたりません。しかしそれとてやはり正しいのでしょう。明 確な処置を重要とみなす人は、初めから問題の存在を無視しております。ですから、これら全ての 所謂意見の交換や多くの善意の誓いに直面して、私達は深い幻滅に襲われるのです。こうした機会 に明らかとなった自然科学者と技術者との異状な程の基本的一致さえ、私達を決して安心させませ ん。本当は、これが私達の無力のしるしなのです。人間を全体として尊重しようとの多くの公言 ――気質・感情・芸術性更には深奥性をも含む全て――はしばしばまっとうらしい口先話しなので す。勿論まっとうですそれは、魂の空虚化を本気でとめようと求めるのですから。口先話しですと 51 もそれは、話されたことを、いかにしたら実現できるのかについて、何の考えも示さないのですから。 ―何も起らなかったかの様に、私達は毎日お世辞を、しばしばやりとりしましても、これとて私達 の不正直や怠慢を示しているからではなく、まさしく私達の無力をばくろしているのです。 これから、一つの均衡だけが必要であり、この進歩と並んで他種の進歩も現われねばならぬ、と の考えも十分ではないことが明らかとなりました。――更に道徳的高度発展の必要が好意的に言わ れても、実際には私達の助けとはなりません。――自然科学と技術とはもともと、そしてこれから も彼らに求められるものを基準としましても、簡単に補充・補填できるどころか、はるかに革命的 なものなのです。キリスト教思想がしるされている西洋で、自然科学はかの形而上的に決められた 世界像に、自然についての知識により、更なる補充をなすという目標を追及できましたか。――人 間の思想の中で、あの世での霊魂の救いが、かくも中心的意味をもった後の、今またこの世を技術 的効果により美化しかつ豊かにすることが、更に試みられるでしょうか。――こうした描写は全く 見当違いであるばかりか、全くのお笑い草なのです。 自然科学の目標は、初めから、無害の好奇心を満足させることではありませんでした。それは寧 ろ人間を、この世界について十分に基礎づけられた知識により、彼の内的安心と卓越に導びこうと し、それのために彼は千年にわたり、飽くことがなかったのです。自然科学の教えは、私達に「こ ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 155 の世界には驚きも神秘もありません、ここには理解できる関連だけがあるのです」と再三のべたこ とに真骨頂があるのです。でもその裏では「汝・人間は、目にみえぬ力にさらされるにあらず。ま た汝自身不幸にならんか、そは不可計の関わりにあらずして、機構の故なり」と聞えた様に私達は 錯覚するのです。――私達全てが毎日経験する様に、この自然科学は教えることに甘んぜず、技術 的手段を使いこの世界を強力に改造することをも行なうのです。こうして私達はいたる処で、信仰 ではなく技術こそ山をも移す、と強調される現実に取りかこまれているのです。 自然科学と技術がもたらした幻滅の進行については、すでにのべられました。それとともに、彼 らの革命的性格についても、聞き逃しえない明瞭さで語られました。幻滅という言葉の背後では全 体主義的要求が際立っておりませんか。ですから幻滅といわれるものは、若干の伝統的考えだけで なく、人文科学が固有の対象とみなした多くのものにも言われ、即ち精神的なもの全般が狙われる のも、珍らしくないのです。 52 これまで申し上げましたことは、19世紀自然科学の精神の特徴として現われました。御承知の様 に、殊に20世紀最初の10年間に、旧い考え方は物理学の情報により、大きくゆさぶられそして造り 変えられました。しかし語り手の私からみれば、この動揺は――全体として、つまり物理学の基礎 理論だけではありませんが――驚く程長続きしませんでした。しかも殊に、第二次世界大戦終了後 一般的に科学的意識と呼ばれたものの後退は、明白なのです。これはまた時代意識全体に影をおと しているのです。私はサイバネテクなる言葉についてのみ申し上げます。科学ではないとのサイバ ネテク論について、それが真にして独自の世界理解のために、漸く見つけられた鍵なのだと理解さ れない限り、当然のことながら、いかなる文句もつけられません。しかしながら私達にある筋から、 考える生き物としての人間と、遠い将来に造り出される電子的思考機械の間に、本質的区別はなく、 両者は――全ての存在物同様に――物質的構造に情報が加えられたものであることは明らかなのだ、 とのおぞましいことが持ちだされたなら、私達は疑う余地なく、19世紀へのこの回帰を認めるので す。 自然科学と人文科学――それには勿論宗教学も考えられますが――の間の争いは、今日完全に片 づけられたとの考えは、現在の実情からみる限り、余りにも楽観的です。情況は決して害がないど ころではなく、単に科学の管轄限界を示すことができるだけなのです。まさしく、どこにこの管轄 限界があるのか、一体全体その様なものがあるのかについて、同意されておりません。ここでは私 が「自然科学者の化身」の典型とみなしている具体像を描きましょう。彼にとり自然科学とは、物 質的世界を対象とし、このために適当な手段を使って研究する、認識追求のための特別な方法では ありません。寧ろ彼は、自然科学、より正確には科学全体に――即ちアングロサクソン風に単に 「サイエンス」と呼ばれるものに――とにもかくにも良識の最高型態なるものをみるのです。これ 156 経営論集 第67号(2006年3月) らの良識では当然のことながら――ともあれ彼らの見解では――客観的に観察され、或いは観察か ら必然的に推定されうるものだけが、実体なのです。この観察方法こそ、自然科学の全体主義的要 求を暗示しているのです。確かにそれは私達に、絶対的に一貫した型で、立ち向ってくることはま れでしょう。しかしながら近代的思想は、絶えずこれにより影響されているのです。 53 多くの自然科学者や技術者は、決して唯物的世界観を代表しているのではなく、人間の精神生活 の他領域に、陽があたる様に喜んで世話しようとしております。確かに技術者の中には、自然科学 と技術により専ら決められている文明の危険を自覚し、すでに申し上げました、かの調整のために 手をかそうとする方々が沢山おられます。だからといってこれには、私が今しがた自然科学者の化 身として示した人の思考様式を、本当に克服することは、決して必要ではありません。それよりも、 心の深奥にある矛盾に全く気がつかぬという、基本的問題にみられる思考性のなさこそ、しばしば 問題となるのです。或いは――そして私には、これがヨーロッパ人科学者の典型にみえるのですが ――彼は確かに矛盾に気づいておりましょうが、道徳的責任感が首尾一貫たることを妨げておりま す。何故ならこれは彼を、虚無主義に導きかねないからです。こうして彼はその思考の中に、2つ の領域をもつのです。いずれにおいても彼は真面目なのですが、でもこの2つの間には越え難い割 れ目が横たわっているのです。この不一致は彼の日々の仕事に影をおとしますが、何故なら彼は、 成功が信じられない進歩のために働いているからです。 こうした背景から、片寄った唯物・文明的進歩のため、精神的均衡を見つけようとの問題は、解 決策をもたないことが明らかとなりました。自然科学・技術的進歩思考の全体主義的要求も、他の 全てに精々副次的意味は認めます。でもそれはもう、決して均衡ではありません。しかしこの要求 を口にすることは、ある種のやりすぎから離れることを意味しておりません。寧ろそれは、自然科 学と技術は、彼らが初めから意図し、また彼らが今日私達に再び教宜している、精神と物質面での 人間本来の解放者であること、ができなくなったことを意味しているのです。 しかしながら、拒むことも恐ろしく困難なことが明らかにされた、人間個有の進歩による脅威と は、どこにあるのでしょうか。浅はかに考えれば、それは核戦争の可能性にあり、でしょう。しか しこの答は問題の核心からかなりはずれております。ところで、この危険は決して現実的でないと 私達が吹きこまれて、どうなるかは、驚くばかりです。私達は、殆んどこの可能性を考えなくなる のです。――それにも拘らず、私達が脅かされていると感ずるのは、この危険は心の奥深くにひそ み、そして戦争はただこの奥深くひそむものの結果なのだということを示しているのです。私達が すでに、個有の困難だとみなさねばならぬ不安は、私達の快的な生活の不安定にではなく、私達存 在の意義喪失にあるのです。私達自身が問題なのであり、私達の尊厳も、私達がそれに引きずられ た意義を失った行動により、奪われてしまいました。こうして私達は心の中で、私達から意義充実 ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 54 157 を取りさり、その代りにみじめな成功を与える進歩を、呪うわけです。 千を数える思慮深い議論をしながら、その解決不能故に意義の問題を無視することは、なされま せんでした。それは現実として経験されたのです。意義なき生活は空しく、間違った生活です。そ れを認める全く偽もので不正直な人は、卑劣なものにも平気なのです。意義喪失とは、意義が抽象 的でつかめずそして言葉に表わせぬことではなく、偽ものであることからでているのです。しかし 意義喪失は近代世界では、広くみられるのです。これは多くの人間にとり深刻な幻滅なのです。私 達が実生活では無視することもできるこれについての純粋に学問的問題が、ここでいかに軽ろんじ られているかは、次の指摘で明らかとなりましょう。 一人の狂信者が現われ、独自の――即ち非科学的・非技術的・非経済的――目標を決めたと仮定 します。この狂信者は異常な誘惑力を、小さくケチな利害関係しかしらない庶民にではなく、とり わけ陽気で高貴な性格の持ち主に発揮できなかったでしょうか。彼らはまさしく、ここにはともか く本当の真面目さがあろうし、ここでは本物が大切となろうし、またここには彼らがいつも求めて いた意義の充実があるはずだとして、幻滅にたやすく圧倒されなかったでしょうか。彼らこそニー チェがのべる「クヨクヨ考えるより、悪くとも行え」を試みることがなかったでしょうか。――ま さしくこれこそ約30年前のドイツで起ったことなのです。犯罪者とはとても思われぬ人間が、支配 者の悪行を許す口実をみつけようとしました。彼らは国家社会主義(ナチズム)により、近代生活 の意義喪失から脱却できると信じたのでした。意義充実の問題は、人間にとりかくも現実的なので あります。 こうして私達全ては自分の経験から、意義の充実と喪失との間には、明らかに区別があることを 知りました。何んらかの方法で労作を造りだした人は、この作業を喜々として満足しながら経験し ました。新たな情報を求める人も、これは大きな努力に価すると確信し、それが真理の探求に確か に関わっている限り、彼の時は意義なきままに費されるなど、思いもしません。実例はいくらでも ふやせます。個々の作業の場合に意義の充実を保証したのは、努力の純粋さなのです。しかしこれ から、全てが意義充実しながら行なわれるのだ、と推論することにはなりません。何故なら、この 純粋さを初めから閉め出しているものが大変多いのです。これには例えば、近代的経営が至極当然 のこととして行なう、欲望の全ての人為的創出や全ての人間管理も含まれるのです。 55 さて近代世界の生活の意義喪失について申し上げましたが、それは――幸いにもとはいいません が――凡ゆる個々の行為は、この意義喪失のしるしを、必ずもつはずだということを意味しており ません。勿論いたる処から、意義をなくした行動が私達に押しよせ、私達を意義充実のオアシスか ら追いだそうとしているのです。全体的・大局的にみて、意義充実はもはや失なわれました。この 世界ではまさしく純粋さがないのです。私達が押し進める方向への終りなき前進こそ、人間的幸福 158 経営論集 第67号(2006年3月) に導くと言っても、上っ調子でなくともそれはもはや真面目ではないのです。経験はともかくそれ を証明しません。私達は寧ろ逆に、まさしく私達のスイスで、経済的繁栄が人間の心に、いかなる 破壊をひき起したかを、認めねばならないのです。だからといって、貧乏とはそっとしておくにか ぎる状況だと、主張することはできませんが、しかし貧乏と、意義喪失のせわしさと浪費がたけり 狂っている生活の中間に、多分人間尊重の生き方があるのです。絶えざる経済成長が必要とは、経 済専問家の最高教義の様ですが、これとてそこに人間の幸福が関わっていると、大まじめに信じて いるからではなく、彼には明らかに、破局に至る唯一の変形だと思われるからです。まさしくこの 点において――しかし千の他のものも同様に――一つのことが否定できぬ程明らかとなります。即 ち自主的人間の理性を信頼することは正しくないことが明らかとなりました。これは厳しい言葉で す。しかしながら私達は、自からはこれに関わってなかったにせよ、それを認めることにためらっ てはなりません。 私達は、進歩と呼ばれたものをもはや真の進歩として経験することができません。それは私達を この空しさと不誠実さの中に、押しこめたからです。かつては予想もできぬ程、私達の知識と能力 により支配しているこの世界で、私達が人間として大変必要である何かが、失なわれてしまいまし た。この様に成功している世界で、だまされたと感じ、またそれと同じ位、偽ものに押しやられて いるのに、はてさて私達はどうすれば宜しいのでしょう。私達が無限ともいえる多くの分別をあや つり、また全てはこの様に意義豊かに整えられた、複雑かつ完全な人間世界において、私達をかく も空しくかつ脅かすとは、何がないからでしょうか。――ないもの、一言で呼びましょう。慈悲心 がないのです。私達存在に慈悲心がなくなるのに応じて、内的不誠実の手中におちいり、こうして 意義のない状態となるのです。 ここに、人間を彼の自己束縛の鎖から自由にしようとする、多くの善意の努力を駄目にする原因 があるのです。技術と自然科学は、人間が喜んで頼りたい、人間幸福に導く力を自からはもたず、 今日なおも多くの人間がしがみつきたい希望をも、それ自体もちません。同じく人間或いは人間社 会についての知識から、決定的転換を期待することも幻滅なのです。こうした状況において、私達 を心理学はどの様にして助けることができるのでしょう。ここで自主的人間は、自己の理解に努め ます。しかしながらこれはいずれにせよ、彼自身は外部環境により更には基本的に所与のものとし て、彼の性格が決められた、そして規則通りに反応するものだと理解することに、落着くのです。 このため、彼を心底から感動させたものも、相対化されてしまいます。こうした通知により、そう でなくとも慈悲心のない生活をしている人は、彼自身心静かに、またその悲惨な状態に耐えうる方 法を見つけたにせよ、なお一層深くここに押しこまれてしまいます。ですから心理学の濫用が公然 と喧伝されるのも、決して偶然ではありません。私達は新聞で、心理学的知識は、いかに営業用宣 ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 159 伝に利用できるかを私達に教えようと、やっきになっている機関の広告を読むことができるのです。 人間尊重をいたく傷つけるこの無視のやり方は、勿論心理学が悪いのではありません。しかしなが ら、この学問とて私達を非人間化から、決して守ってくれず、逆にそのために使われてしまうこと を示しているのです。 これまでの文明進歩思想がいかに説得力を失ない、いかにそれは経験により否定されましても、 だからといってこれは、自然科学と技術の絶対的否定を意味しておりません。このことが間違であ ることは、人間が全ての自然科学的情報を再び失ない、それとともに全ての精巧化された技術力を 再び失なうことを、私達が、はたして真面目に本気で、希求することができるのかを自問する時に、 たちまち明らかになりましょう。――これは最も一般的な意味で理解されるべきであり、例えば全 ての医学もそれにあてはまるのです――こうした希求は明らかに全くバカげております。分別ある 人間が、彼の幼児期の無知に戻りたいと願うのと同様、その希求はおそらく本気にされることはな いでしょう。勿論幼児の生れたままの状態或いは若々しい生命に戻りたいとあこがれるかもしれま せん。無知を理想状態として、取り戻したく望むことはできないのです。 回帰という単純な考えが、全く論外であるということには、自然科学には私達が捨てるのを望め ぬばかりか、それを捨てることも亦人間侵害である様な、精神的成果があることも明らかにされて おります。一旦自然科学の研究を始めた人間にとり、これの認識方法から離れることができる選択 57 枝はないのです。一旦手にした認識は強制力をもつのですから。自然科学的認識の強制的性格は、 技術の実験例に現われます。しかしながら、実験がそれに導くこの確証のみが、それの偉大さをな しているのではありません。それはまた、他との関わりで、誠実さの偉大な教師たりうるのです。 誇り高い人間精神により、精巧かつ壮大に築かれた思考体系の多くは、確固たる真実たらんと主張 しましたが、自然科学により打ちくだかれました。自然科学は人間思想の過大な自信、いつも私達 を体系造りへと導いたものですが、を揺さぶってしまいました。偉大な自然科学者は、ともかくも 自然科学に全体主義的要求が行なわれるのを、極力防ごうと努めました。それが非科学的であるこ とを彼は知っていたのです。この要求は良識から出たのだとしたかの人は、この良識なるものを過 信していたのです。 啓蒙された不遜さばかりでなく、啓蒙された謙虚さもございます。自然科学も亦私達をそこに導 くことができますし、多くの科学者を自然科学はそこに導きました。ここではいつも哲学を犠牲と していた、人間精神のうねぼれが捨てられました。こうして自然科学は、人間に少なくとも所定の 関わりの中で、その限界を悟らせることで、成熟することに貢献したのです。これは自然科学の他 の一面です。残念ながら――しかし納得できるのですが――最も多く望まれたのはこうした面では なく、勿論考えられただけですが、科学により支配された人ではなく、それを支配する人が考えら 160 経営論集 第67号(2006年3月) れたのです。 同じく論外なのは、高度に発展した技術を捨てようとすることです。これは多分、次の様な質問 の型で、問題を示せば殊に明らかになりましょう。即ち私達に事をうまくやる知性が与えられてい るのに、実生活での事を、面倒かつ原始的なやり方で行なうのは、はたして人間尊重なのでしょう か。――私達はそれでもって、私達の決定が間違いだとは、感じないのでしょうか。人間の知性か ら育った義務を人間が怠る処に、今日なおも所謂発展途上国で支配的な、かの名状し難い貧乏が出 現するのです。 皆様はここで私に、殊に身近にある技術者の労働の有意義の問題を、もう一度取り上げさせて下 さい。――技術者の職業とは、極めて多くの他のものを、ともかくも代行することです。――こう した製品を造りだす労働こそ、有意義だと私達はいいます。それには純粋さと誠実さがあるからで す。事物が問題となる個有の技術的課題については、問題についての誠実な分析だけはできるので す。異論も身近に、推論の中にあるのですが、ですから有意義であるかもしれぬし、自己欺瞞でも あるのです。 58 専問問題に没頭している間、技術者は確かに意義喪失感から免れておりますが、これとて彼が余 りにも没頭しているからなのです。彼は全く簡単に、彼の日常の仕事も亦、意義を失った行動の部 分であることを忘れ、仕事が彼にとり大変満足だったにせよ、全ての他のもの同様意義を失ってい るのです。――私達が労働を経験した様なやり方は、この説明と対立しております。愛と献身でな される労働は決して麻薬ではありません。それが麻薬であるなら、私達はそれを知るでしょうし、 それは私達の心底では、同じくおぞましいのです。 ではなぜ誠実な行為と考えがいつも有意義なのか、それは誠実とは全ての被造物の中で人間のみ がなしうることだからです。誠実者として認識し、創作し、助け合い、戦い、犠牲となる。これが 人間の天命なのです。これによってこそ、彼は全て他の被造物を超越しているのです。彼の天命に 生きること――そしてこれだけが――有意義であり、またこれだから有意義な経験をもするのです。 ですから、献身的に事物に取りくんだ技術者の労働も亦有意義なのだ、との主張は大変なものなの です。 しかし意義喪失もこの点からみる限り、意義なきものの最たるものです。意義喪失行為は、単に 不要なだけではありません。それが行なわれぬ限り害はありませんし、それが行なわれても何物を も傷つけません。しかし意義喪失を認めることは、私達の天命を否定することなのです。それは欺 瞞、自己欺瞞、まさしく本物の裏切りなのです。こうして全ての意義喪失者の悪魔的性質が現われ るのです。 私達に暴君的に襲いかかりそして独り占めしようとする意義のない熱心さは、私達が興味ある専 ワルター・トラウペル「疑わしい進歩信仰」 161 問問題に取りくんでいても、決して忘れられてはいないのです。それは人間尊重的で幸福な労働と 一緒になり、絶望的背景として居すわっております。こうした緊張の中に生き、それに耐えかつそ の中で私達は認められねばならぬ。これが私達の運命です。ですから、私は自分の狭い使命の範囲 内で人間尊重をつらぬき、全て他のことは殆んど気にかけませんでした、と言ったとて、それは決 して最良の解決法とはならないのです。私達の緊急性は、全体を含む解決法をさがしております。 ではどうしたらこれが見つかるでしょう。 この問への答は、私が皆様に申し上げました信条に入っております。即ち慈悲心がないのです。 このないことについて、私達自身どうすることもできません。ですから全ての心理学的研究や、と りわけ全ての組織作成案や企画さえ役に立たず、極めて善意的な素朴な道徳主義者すら、それを強 いて引きこむことはできません。確かに慈悲心は命令的に私達の準備を求めます。しかもそれは私 達を意のままにはできないのです。それは私達に、ある美しい朝、天からの贈物として労せずに手 に入るものなどと決して考えてはならないのです。私達ははっきり言いましょう。それは破局の形 59 でもって押しいってくるのです。 勿論時おりのことですが、人間の準備のしるしも認められる様に、私にみえることがあります。 私はハンガリー動乱時(1956年)に、スイス国民が自生的に出現させた国内の姿勢に思いいたすの です。また私は、他人や動物が苦しんでいる時に、うれしいことには多くの私達同時代人の、助け ようとする典型的方法に思いいたすのです。時々近代人の「アタマ心臓」が話題となります。その 時の私達の行動は、非情緒的なまさしく即物的考え、即ち「ここで人間が苦しみ、ここで動物が苦 しんでいる。他の生き物の苦しみは、実際我が身同様つらいのだ。だから助けねばならぬ」により なされます。そしてこれらの助けのために、私達の精巧な知識と能力更には才能を、合理的に組合 わせることも珍らしくないのです。これらの助けは動物にもなされましたが、全体としてみる限り、 大事だとはみられません。しかし重大であろうとなかろうと、これは意味深いしるしなのです。ま さしく動物救助においては、利己的副次目的など求められず、いわんや感謝など望外ですし、わざ と助けるなど本物ではありません。不安定、精神的未熟児である近代の人間は、彼の存在のこの面 で、精神的価値の枠内で生きた祖先をはるかに凌いでいるのです。ここに突然偉大な純粋さが現わ れましたが、この方法の行動には、なんらの形而上学的正当性もないことを明らかにしているので す。ここで近代的人間は、魂の遍歴を信ずるが故に殆んど動物を殺さなかった人に超越しているの です。ここで進歩が予告されるのです。 私達は、私達を慈悲心に到達させうる準備が、はたしてあるのだろうかに関わる問題を取り上げ るささやかな話しをいたしました。――しかし無信仰者にとり――しかもまさしく彼は私達の時代 の代表者なのですが、こうした全ての設問は全く空しいのです。つまり慈悲心こそ彼にはないので 162 経営論集 第67号(2006年3月) す。ではカレは何に望みを託すべきでしょうか。――彼が誠実で、事物をそれがともかく私達に現 われるままに受け入れ、自主的人間否定の事実を議論で片づけることはしなくとも、彼には――少 なくとも語り手の私にはみえるのですが――その名に価する望みは残されておりません。その誠実 さが行なわれている絶望状態において、彼は信仰の入口に立たづむのです。 私達が進歩と呼んだものは、まだ進歩ではありません。それは多くの面でよく意図され、真面目 に論じられました。しかしながら全体として、それが自主的人間の手中にある限り益々非人間かつ 悪魔的となりましょう。神のみがそれを進歩にさしむけることができるのです。 (2006年1月10日受理)