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訪ねてみよう 姫治の神社・仏閣、遺跡

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訪ねてみよう 姫治の神社・仏閣、遺跡
訪ねてみよう
姫治の神社・仏閣、遺跡
姫治公民館
① 京河様(きょうかわさま)
谷迫間地区の栃洞に「京河八大竜王」の碑が建っている。昔は、うっそうと
茂る木立の中に京河池とも竜神池とも言われた小さな池があった(現在は、工
業団地造成のため埋め立てられた)。干ばつが続くと雨乞いを祈願した。それで
も慈雨が無い場合は、池さらいをすると願いが叶ったという。
京河様全景
京河八大竜王の碑
② 雲龍寺(うんりゅうじ)
祝融山雲龍寺は、臨済宗妙心寺派の寺である。寺伝によれば、武儀郡関村(現
関市)の梅龍寺三世桃雲宗源を請して寛正元年(1460)に開基した。延命地蔵
菩薩が本尊である。
二度の出火で堂宇が焼失したが、岡田将監により再興された。寺には、岡田
氏初代善同と三代善次の位牌がある。また、当寺は可児新四国七十八番札所で
ある。
雲龍寺正門
雲龍寺本堂
③北野神社(きたのじんじゃ)
北野神社は、明治三十九年に天神神社から社名改称された。創建は不詳であ
るが、寛永十八年(1641)の棟札が存在し、社殿右には天保十年(1839)銘の
石灯篭がある。
現在でも、十月三十一日に百灯を灯もしての御神送り、十一月三十日に境内
でかがり火を焚き御神迎えをする神事が残っている。
北野神社
神社本殿
谷迫間弘法堂(やばさまこうぼうどう)
谷迫間弘法堂は、老人の家に併設さ
れており、お堂の前に新四国七十八番
奥の院札所の石碑があり、二十一大師
二十番札所にもなっている。三十八体
の石仏と天保∼(判読不明)年の弘法
大師の石像がある。ご本尊の石像には、
文政五年(1822)と刻まれている。
④三明寺(さんみょうじ)
谷迫間弘法堂
定光山三明字は臨済宗妙心寺派の寺で、薬師如来が本尊である。寺伝によれ
ば、天正三年(1575)に玉軸により創建された。本尊の薬師如来坐像は市指定
重要文化財であり、台座底部の寛永十七年(1640)の銘文には、三明寺定光山
と、山号と寺名が逆になっている。現在の本堂は昭和四十五年に再建したもの
であり、本堂脇には天保年間の三十三観音の石像が祀られている。当寺は可児
新四国六十三番札所である。
弘法堂は、現在多治見市国京地内(旧姫治村)の公民館内に移転しており、
十二月の冬至弘法には、お札餅の接待などもあり、関市、美濃加茂市方面から
の参拝者もある。
三明寺
⑤太岳寺(たいがくじ)
清美山太岳寺は、臨済宗妙心寺派の
寺であった。寺院明細帳(県立図書館
蔵)によれば、天文二年(1533)に雲
龍寺二世の秀林玄俊が開山した。大正
十年に安八郡大薮町へ寺号を移し現在
地での寺は絶え、仏像などは雲龍時へ
遷移された。
⑥岡田将監屋敷跡(おかだしょうげんやしきあと)
下切の宮坂洞と井洞にはさまれた丘陵の東端に位置する。平坦地から高さ約
十メートルの山腹が東西五十メートル、南北六十メートルにわたって削平され
ており、その裏山一帯が江戸時代初期に美濃郡代であった岡田将監の屋敷跡と
言われている。この場所からは、織部釉瓦の破片が出土しており、山腹には古
井戸が現存する。
「揖斐記」によれば、岡田将監善同は、
「姫村山屋敷ニ御住居、
表門二階ニシテ矢蔵ノ如ク、白土ニテ為御壁、花麗ニ相見へ候」と記されてお
り、雲龍時の書院(2007 年取壊し)、旧山門(建替えられ現存しない)は、この
岡田屋敷から移築されたものと言われている。
岡田将監善同公の碑
岡田将監屋敷跡
⑦下切八幡宮(しもぎりはちまんぐう)
鳥居をくぐると、うっそうとした杉木立の中を階段が伸びる。途中右手に古
井戸、神留寺の山門、天満宮を見ながら五十一段を登りきると古い石灯籠、立
派な拝殿、本殿が迫る。建立年は定かではないが、典型的な社流れ造りであり、
江戸時代中期の建築物であると推測されている。
境内には馬の像のほか、地続きの弘法堂兼神留寺宝物殿、十三佛などがある。
昔は姫五ヶ村の産土(うぶすな)神であり、大祭りでは、約 80 頭の花馬が奉納
されたと言う。現在でも二頭の花馬が奉納される。祭神は応神天皇、神功皇后、
天照大神などが祭られている。隣接する神留寺が廃仏毀釈で廃寺となるまでは
神宮寺であった。
下切八幡宮
八幡宮本殿
棟の彫刻群
神留寺山門
神留寺弘法堂
本殿
十三仏
狛犬
拝殿
弘法堂兼神留寺宝物殿
馬
石灯篭
鐘撞堂
天満宮
神留寺山門
浄水
古井戸
天満宮
⑧三宮神社(さんみやじんじゃ)
神社の由来は定かではない。姫の地に三神がまつられるようになったのは室
町後期か江戸初期と推定される。祭神は、向かって右が女神下照姫(雷神、豊
穣の神)左が天若日子神(下照姫の夫、豊穣の神)中央には主神として、日売
命(ひめのみこと、下照姫の姉)がまつられていると伝えられているが、社内
には右に毘沙門天、中央に不動明王が納められており、左は空となっている。
お祭りは毎年下切八幡神社祭礼の前日に八幡神社氏子により試楽祭が行われ
ている。女神である「ひめのみこと」が治めた地であることから「姫治」と言
う名がついたのかも知れない。
三宮神社
三宮神社石柱
⑨善福寺(ぜんぷくじ)
恵開山善福寺は、下切寺洞にあった真言宗の寺である。開基不詳で明治初年
に廃寺となり、本堂は明治十年に出火焼失した。焼け跡に本尊が黒焦げで残っ
ていたため、村人が小さな祠を建てて安置した。昭和二十三年頃、山寺老人の
家に弘法堂二十一大師十八番札所として移設された。また、正徳二年(1712)
と箱書きされた涅槃像一幅がある。
善福寺跡
祠
⑩今城址(いまじょうし)
小池兵部輔家継が愛宕山に築城したといわれ、北側中腹に屋敷跡と言い伝え
られる平地があり、真中に五輪石が数基あり小池氏の墓といわれている。
現在地元有志により、公園化の計画が進められている。
愛宕山
五輪石
⑪福寿寺(ふくじゅじ)
臨済宗妙心寺派の寺で、寺伝によれば元和二年(1616)雲龍寺四世の悦山宗
喜を勧請して開山した。境内には、可児新四国六十五番の弘法堂や阿弥陀堂が
ある。弘法堂に明治二十五年の奉納額や昭和二十六年の狂俳奉納額がある。山
門脇には天保十四年(1843)の行者碑がある。
福寿寺
弘法堂
⑫今八幡宮(いまはちまんぐう)
創建年代は不明である。正徳四年(1714)より現在までの祭礼記がある。大
正元年(1868)に建立された回り舞台を持っていたが、大正末期頃に床が張り
替えられた。
境内には、天保七年(1836 年)の石灯籠一対がある。明治時代には、花馬も
出たと言うが、現在は笹踊りだけが伝わっている。
今八幡神社
社殿
回り舞台正面
⑬青木弘法堂(あおきこうぼうどう)
弘法堂は青木老人の家にある。二十一大師十九番札所となっており、石柱が
建てられている。天明三年(1783)の刻印のある石地蔵が祀られているが、来
歴は定かでなく、源左衛門何某かがどこからか受けてきて寄進したものではな
いかと言われている。
当地区では、念仏講、秋葉様お灯明番、三宮様の餅投げ、冬至弘法等の行事
が行われている。
青木弘法堂
弘法堂石柱
②雲龍寺
⑤太岳寺
③北野神社
⑥岡田将監督屋敷
①京河様
⑦下切八幡宮
⑨善福寺
④山明寺
姫
川
⑧三宮神社
公民館
下切駅
⑫今八幡神社
⑪福寿寺
⑬青木弘法堂
⑩今城址
R248
版
画
写
真
企画制作
参考文献
至多治見
河村義雄
高田義雄
姫治公民館
可児市史 他
※本資料は、第 32 回姫治公民館まつり(H20.11.2)で展示した、
「訪ねてみよう
地区の神社・仏閣、遺跡写真展」の内容を加筆・修正して作成したものです。
姫治
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