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悪役転生だけどどうしてこうなった。(旧)

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悪役転生だけどどうしてこうなった。(旧)
悪役転生だけどどうしてこうなった。(旧)
関村イムヤ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
悪役転生だけどどうしてこうなった。︵旧︶
︻Nコード︼
N1410CJ
︻作者名︼
関村イムヤ
︻あらすじ︼
未完結ですが、第二稿の執筆と投稿をはじめましたので、これ以
上の更新はしません。
第二稿版↓http://ncode.syosetu.com/
n6613ck/
以下、あらすじ
1
ファンタジー系乙女ゲーの悪役お嬢に転生したつもりだったんだが
なにかおかしい。何で私は武勲を獲得して伯爵になっているのか。
ちなみにチート能力なんてありません。魔法も使えません。倫理観
は、生まれ変わってちょっとおかしくなったかもしれない。
2
用語・登場人物︵随時追加︶
登場人物
エリザ・カルディア
この物語の主人公。乙女ゲーの世界の悪役に転生してしまったの
だが、人生が予期せぬ方向に転がっていく。
テレジア侯爵
エリザの後見人。王宮の文官の半数を占めるテレジア家の当主で、
エリザの後見になる前は宰相を務めていた。
アルフレッド・テュール・アークシア
アークシア王国の王太子。乙女ゲーでは攻略キャラクターの一人。
グレイス・テュール・ドーヴァダイン
ドーヴァダイン大公の嫡子。乙女ゲーでは攻略キャラクターの一
人。
エリック・テュール・ドーヴァダイン
ドーヴァダイン大公の妾腹として生まれた次男。乙女ゲーでは攻
略キャラクターの一人。
ジークハルト・ローレンツォレル
ローレンツォレル侯爵の孫。乙女ゲーでは攻略キャラクターの一
人。
ゼファー・モードン
3
エリザのクラスメイト。
ローレンツォレル侯爵
アークシア王直属軍の総帥。アークシアの王国の武官の半数を占
めるローレンツォレル家の当主。ジークハルトの祖父。
ローレンツォレル伯爵
ローレンツォレル侯爵の息子でジークハルトの父。ローレンツォ
レル伯爵領を治めている。
カディーヤ
亡国ジェンハンス出身の娘。エリザの侍女。
アニタ
亡国ジェンハンス出身の娘。エリザのメイド。
ヴァルトゥーラ
亡国ジェンハンス出身の青年。エリザの護衛騎士兼従者。
ザスティン公爵
王族補佐・王宮管理の役職を持つザスティン家の当主。
カルヴァン
カルディア伯領軍の隊長団のリーダーを務める。軽装騎馬隊隊長。
アジール
カルディア伯領軍の隊長団の一人で、一番の古参。重装騎馬隊隊
長。
ギュンター
4
カルディア伯領軍の隊長団の一人。盗賊上がりでまだ年若く、口
が非常に悪い。歩兵団団長。
パウロ
カルディア伯領軍に所属する兵士。軽装騎馬隊の隊員。
イグニス
カルディア伯爵領に侵入した盗賊団の一人だった男。
エミリア・ユーリエル・ド・ラ・リンダール
リンダール大公家の娘で、アークシア王国の留学生。乙女ゲーム
でのヒロイン。
レイチェル・ザスティン
ザスティン公爵の姪。エリザの学友。
ラージアス・ザスティン
ザスティン公爵の息子。次期ザスティン家当主。
ユリア・テレジア
テレジア侯爵の孫。
用語
アークシア王国
<i130684|13190>
大陸の北西にある大国。国土は大陸の三分の一の面積を占める。
アール・クシャ教会
5
神子クシャ・フェマの子孫アハルを創始者とするクシャ教の一門。
アークシア王国の国教として定められている教会。ミソルアと神子
クシャ・フェマを崇める。
クシャ教
ミソルアを主とする一神教。
神聖アール・クシャ法王国
アール・クシャ教会が建国した、アークシア王国の前身となった
国。建国以来侵略戦争を行わず、布教と外交だけで大陸の西の覇国
となった。
リンダール連合公国
大陸の北東にある大国。デンゼル、バーミグラン、プラナテス、
ジオグラッドの四つの公国から成る。
デンゼル公国
リンダール連合公国のうち北西に位置する公国で、アークシア王
国に侵略戦争を仕掛ける。
グルジア辺境伯領
デンゼル公国の西に位置する伯爵領で、国境を挟んでカルディア
家の領地と隣あっている。
カルディア子爵領
グルジア辺境伯領の北に位置する東西に細長い領地。
6
00 Prologue.
最初の一手が家族の暗殺という時点で泣けてくるが泣いてもいら
れない。
クソ親父の煙草の吸い殻を迷いなくスープの大鍋に浸して、暫く
してから掬う。どうせ毒物の検出なぞ出来ない。
幸い、今日の夕食にはクソ親父がどこぞの悪徳商人から買い漁っ
た南方の珍味が使われている。食あたりでも起こしたと思われるの
がオチだ。
悪辣で知られたカルディア子爵一家は、その日二歳になったばか
りの末娘エリザを残し、全員が死んだ。
子爵を毒殺した罪で、これまた悪辣で知られた大商人が一人、処
刑された。
⋮⋮という訳で、私ことエリザは二歳にしてカルディア下級女子
爵を名乗る事になった訳だ。勿論二歳の子供が暗殺なんてものを考
える訳が無いので、私は必然的に容疑者にすら数えられない。
分家は全て金に浅ましいクソ親父がなんだかんだと処刑してしま
ったらしく全滅。残された私はまだ二歳、領地経営なんて仕事は出
来ない。
目論見通り私の後見人として王都からまともな奴が送り込まれる
事となる。
そうしてめでたく私の後見人となったおじいさんは、我が家の経
済状況やら子爵領内の様子を見て悲鳴を上げた。
借金まみれ、領内はガッタガタ、領民はボロボロ、さてどうやっ
てここから建て直すのかねぇ。
7
勿論二歳児の私はノータッチ。何しろ私が成人、或いは凖成人と
なるまでにこの領内を平和にしてもらわないと困る。
その為に親兄弟を皆殺しにしたのだし。
さてさて、私が二歳児でありながら人を八人ほどぶち殺したのに
は訳がある。訳が無かったら私は単なる大量殺人犯なので。
私はどうも異世界へ転生したらしい。
この国は中世盛期以降のヨーロッパに似ているが、アークシア王
国なんて国はヨーロッパ史には存在しない。
それに、アークシア王国のエリザ・カルディア子爵令嬢は、私が
生まれ変わる前に丁度クリアしたばかりだった恋愛シミュレーショ
ンゲームの登場キャラクターだ。
流行りのゲーム世界転生ですねわかりたくもねぇよ。
このキャラクター、エリザはゲームの主人公の敵として出現する。
不正がごっそり出てくるテンプレートな悪役貴族家でたっぷり甘
やかされて育ったテンプレートな敵役である。詳しい事は割愛する
としても、実家のやっていた悪事がちょっと見過ごせない程でかい
ので、最後はお決まりのように刑に処されて退場していくタイプな
のである。
そのゲームを前世で妹に借りて暇潰しに遊んでいたのは、転生し
てしまった今となっては吉と出たと考えたほうがいいか。
おぞ
当然だが、そんな悍ましい未来はフラグを立てるタイミングさえ
与えずに消滅させてしまうに限る。故に私は、誰がどう考えても疑
わないであろう二歳児のうちに家族皆殺しという行動に出たわけだ。
あれ、ゲームのエリザよりも罪が重くなってる気がしないでもな
い。子爵暗殺て。
僅か三千人弱程の人口とはいえ荒れ果てた領内を立て直す才覚も
8
私にはないので、ここは他人任せにするに限る。
まぁ派遣されてきた後見人は自分の将来の利益のためにせっせと
この地をまともな状態に戻すだろう。
ちなみに後見を努めてくれるおじいさんの名前はテレジア上級侯
爵。マリアって名前の当主が立たないといいな、不吉だから。この
国はオーストリアじゃないしフランスも存在しないので問題はない
かもしれないが。
五年を経て私が七歳になる頃には領内は落ち着いてきた。
後見人のテレジア侯爵は私に令嬢としての作法なぞよりも先に領
地経営法やら国の法律やらを叩き込んだ。
身の回りの世話をする人員はいつの間にやら整理されていて、行
儀見習いのお嬢さんばかりになっていた。
騎士爵とかそこらへんの下級貴族ではあるものの、上級侯爵の眼
鏡には適っているだけあって所作は美しく優雅だ。自然、その人達
に影響され私の立ち居振る舞いは丁寧になる。
だからこそ、そういう教育を正式にするのは後回しでも構わない
と伯爵は思ったのだろう。その通りなので構いませんけどね。
結局行儀作法、マナーの授業が始まったのは初授業に遅れて一番
最後、私が九歳になる頃だった。
最初に始まった領地経営の授業と同時に叩き込まれた軍の用法と
最低限の武芸、それと乗馬。
戦があったらこの家から兵を出すのは私なので当然といえば当然
である。
侯爵の家の同じ年頃の令嬢はマナーレッスンと国際関係論、あと
教養の授業なんかを習っているそうだが、そんなに時間を掛けてみ
っちりと習うなら将来の社交界で彼女達の話についてくことは難し
9
いかもしれない。何しろ私は別の事ばかり勉強している。
八歳になるころ、侯爵領から派遣されてきた侯領軍の副将に指導
されながら自分の部隊を初めて持つことになった。
人数は僅か二十。生まれて初めて出来た部下に非常に戸惑ったし、
年齢差や性差の為に大分揉まれもしたが、十歳になる頃には何とか
かんとか百人程を纏められるようになった。
同時に八歳から出席を許された貴族院の集会に、毎回出席しなけ
ればならなかった。うちの子爵領は一応辺境なのだが東西に細長く、
領主館がある村落は一番王都に近い為に馬を使えば三日程で辿り着
けてしまう。二、三ヶ月一度程度の定期議会を休む事は出来ない。
流石に私以外は若くても二十五を過ぎた男ばかりで、宮廷内の謀
なぞに組み込まれもしないのだけが救いだった。
今のうち、侯爵の背中に隠れていてもいい今のうちに世渡りの術
を見て盗んで身に着けなければいけない。いつまでも侯爵が丸ごと
面倒を見てくれる訳でもないので、これは仕方がない。
子爵として必要になる領地の治世に関してはきちんと勉強もして
いる事だし、部下となる文官を雇い組織を作って機能させれば将来
的には数千人ぐらいならばギリギリ手に負える筈、だろう、多分。
前世で言うところの小さな市一つくらいならなんとかなりそう⋮⋮
なっていてほしい。
十二になる頃、隣の領地に隣国の軍が侵攻してきた。
その頃には何とか形になっていた子領軍、徴兵して集めた農民合
わせて三百人を連れて、戦場に参戦した。
結果、私は初陣で敵将の首を取る事となる。
10
どうしてこうなった。
11
01
悪役お嬢転生もので本人が武勲を上げて伯爵位を賜るとか聞いた
ことないぞ。
前世でそれほどそういった娯楽小説ばかり読み漁っていた訳でも
ないが。
当たり前だが私自身が優れている訳ではない。伊達やサボりで家
族暗殺、領地経営丸投げを実行していない。単に運である。
うちの子領軍は特に優秀なわけではないし、粗悪な烏合の衆でも
ない。兵農一体制と人数の少なさから、農民混成でも戦場に出せる
くらいには練度は高いがそれだけだ。金がないので人が出て行かず、
死なない限りは殆ど人員が入れ替わらないので。死人だけはなかな
か出なさそう、それだけである。
では何故戦果が上がったのか。やはり運としか答えようが無い。
初陣の子領軍という事で私達が配置されたのは中央左だった。
中央ド真ん中を張っているのは王の直属軍で、総大将は軍総帥ロ
ーレンツォレル侯爵。
左隣は総帥の実家の保持する私軍である。
ローレンツォレル家は領民の徴兵される領軍とは別に、純粋な武
官のみで構成された軍を持っており、この軍がそれなのだ。指揮す
るのは総帥の息子、ローレンツォレル伯爵。ちなみに後方支援部隊
の指揮官は伯爵の弟で、参謀総長はその従兄弟。
お分かりの通り、アークシア王国の軍事力は殆ローレンツォレル
家に掌握されていると言っても過言ではない。
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余談だが、中央の文官としての主要な役職を多く抑えているのは
テレジア侯爵家の皆様である。
テレジア侯爵の名を冠しているのは私の後見になってくれたあの
おじいさんだけだが、その他テレジア伯爵、子爵、男爵、準男爵、
傍系の皆様や分家の方々含めると異なる苗字も出ては来るが物凄い
数の親戚が王宮に仕官しているそうだ。
閑話休題。
左右にそれぞれ二万ずつ、国家で一、二を争う精鋭舞台に挟まれ
て、半農軍人の比率半分超えである、三百程の極小子領軍は大人し
くしている筈であった。
余談その二、アークシアの東と南の国境に面した辺境伯領は前述
で触れたように兵農一体が基本である。勿論、クソ親父のせいで十
年前にはそんな制度影も形も無くなっていたが、有能なテレジア侯
爵がきちんと復活させてくれていた。余談終了。
さて、ところが。敵軍の中央軍最前列、騎馬隊の影に隠れるよう
にして配置されていた石銃隊が戦況を一気に危うくした事で、事態
は急変する。
玉詰めに時間を取らねばならない石火矢銃、それも僅か三十台と
いう極小配備ではあった。
が、隣国リンダールのうち戦争を仕掛けてきたデンゼル公の民は、
もともとは騎馬民族。馬の扱いに長けた彼等は、石火矢銃を放ち即
時撤退をやってのけたのだ。
何万という軍勢が全力前進してくる中を、逆走する石火矢兵を駆
け抜けさせるためにほんの数秒、道を作ってみせた敵軍の練度に我
が軍の士気は急速に下がった。
お陰で指揮系統が混乱し、私の子爵軍はあっという間に中央軍か
ら逸れた。気付いた時には敵中央軍と右軍の中間に進み出る形にな
13
ってしまっていた。
敵軍にも気付かれずに敵の注意の向いていない脇に進出したとい
えば聞こえは良いだろうか。意図せずしてそうなったとはいえ、気
付かれないうちにこれを活かさない手は無かった。
﹁子爵!右前方、敵中央軍内を石銃兵が前進しています!﹂
﹁こちらの中央軍は﹂
﹁後退し、敵軍との距離を取って体制を立て直そうとしています﹂
嫌なタイミングで石銃隊を再び上げるものだ。むしろ狙い通りだ
ろうか、あちらにとっては。
﹁石銃隊による狙撃を阻止する!カルヴァン、二列で隊を組み敵中
央軍の前を全力で駆け抜けろ!姿勢を低くし、胸や首を庇え!アジ
ール、お前は隊を率いて私について来い!カルヴァンで怯ませた石
銃隊を討ち取ってやる!﹂
カルヴァンは軽装騎馬隊であり、発砲による被害を最も受けにく
いと判断できた。馬が撃たれても自分で走る事ができるからだ。当
たりどころさえ悪くなければ、あの火力にあの弾の石火矢銃で死ぬ
ような事はない。重装兵の木盾で防げる程度なのだし。
アジールは重装騎馬隊で、リーチのある長槍を装備させてあった。
小剣と同じ程刃渡りのある穂先で敵前衛を薄くなら抉れるだろう。
残りの歩兵に通常ルー卜の全力後退を命じ、馬を走らせた。
結果は、そんなに上手く行くとは思わなかったほど効果的だった。
僅かカルヴァンの軽装騎馬隊に二名、アジールの重装騎馬隊に四
名の負傷者を出し、馬は七頭潰れたものの、敵軍の最前列は一時的
14
に混乱を極め、石銃隊を壊滅させたのだ。
﹁アジール、ギュンターの隊に合流せよ!カルヴァン、私に続け!﹂
崩れた敵軍の隊列をカルヴァンの軽装騎馬隊で分裂させ、ギュン
ター率いる歩兵団の元に追い込むのが目的だった。
いくら相手が騎馬民族上がりとはいえ、重装騎馬隊は鈍重なので、
混乱しているうちなら身の軽いこちらに分があると踏んでの指示だ
った。
これも、驚くほどうまく行った。
どうやら石火矢銃を打つ前に討たれた石銃兵が何人か、騎馬隊の
中で銃を暴発させたらしい。馬が背に乗せた主を忘れて暴れまわっ
ていたのだ。
﹁囲い込め!パウル、アジール・ギュンターにこの意を伝えよ!﹂
一際脚の速い馬を駆るパウルに伝令を任せ、敵中央軍の左端をご
っそり二百人分ほど分断させた。
中央軍から引き剥がし、混乱の最中にある敵兵を合流したアジー
ルとギュンターの兵とともに囲み、馬を狙って潰していく。将を得
んとすば、というやつである。
﹁卑怯な!アークシアの兵は我がリンダールの兵と剣を交わすのが
それほど恐いのか!﹂
﹁喧しい。勝てば官軍という言葉を知らないのか﹂
要するに勝てばいいのである。味方が死ななきゃ尚いい。騎士の
誇りなんてものが生まれついて子爵家の娘である私にあるわけ無か
ろう。
15
相手はなかなかに仕立てのいい鎧を着ていたので騎士爵あたりの
地位だろう、とあたりをつけ、首を刎ねた。少しぐらいは手柄を取
っておかねば戦に使った金を取り戻す事も出来ない。
囲い込んだ連中を掃討し終えた頃、両軍が一斉に退却を始めた。
﹁エリザ殿!退却である!退きゃ⋮⋮エリザ殿っ!?﹂
わざわざ本軍から私への護衛としてか、伝令も兼ねて数人の重装
騎馬兵がやってきた。隊長らしき男は私の手にある首にぎょっとし
た顔で驚きの声を上げる。
初陣の私が首を取るとは思わなかったのだろう。私もそんなこと
これっぽっちも思っていなかった。
﹁エリザ殿、それは⋮⋮っ﹂
﹁私の隊で相手の本隊から引き剥がして討ち取った部隊の長かと思
われます。準騎士爵ほどに見えましたので、一応首を﹂
﹁⋮⋮それは、敵軍の少将ですぞっ!!﹂
ぶるぶると震えて叫んだ兵に、今度は私がぎょっとさせられた。
どうしてこうなった。
16
02
敵中央軍右陣を指揮していた少将を私が討ち取ってしまった。
相手の名はグルジア辺境伯子息。戦場になった小平原の向こう、
私のお隣さん領と国境を分かつ領地の主の跡取り息子であったそう
だ。
ついでにそれの周辺にいた、私の子領軍に囲まれて掃討された部
隊は右陣の連絡兵を大量に含んでいたらしい。
石銃隊が壊滅し、中央軍右陣は指揮系統がごっそり潰れてこれも
壊滅状態に陥った。この二つによって敵軍は撤退を決行したらしい。
つまり私は此度の戦を勝利させてしまったようなのだ。
なんでそんな重要な役職のやつがあんな前線に出てきてるんだア
ホか!
武勲への見返りとして下級伯爵位と、私の東西に細長い子爵領の
東南に位置する王領の辺境地を新たな領地として賜った。報奨金は
与えられた領地の開発費も含まれているとの事で、多めの五千万ア
ルク。
あっこれ私もしかして潰されかけているかもしれない?いやかも
しれないではなくて確実にそうだ。
与えられた辺境地は魔物の領域の森林地域である。王の直轄地と
して今まで封鎖していたその地を、金を与えたのだからどうにかし
ろと言われているのだ。
後見人のテレジア侯爵にはこれ以上頼れない。テレジア家は領地
を持たない法衣貴族家であるから、私⋮⋮というかカルディア家を
17
排除しこの地をテレジア家に押し付け、領地に縛り付ける事で中央
でのテレジアの権力を弱めようとしているのだ。
はかりごと
今まで通りにテレジア侯爵に代理領主を任せていたら、王都の貴
族はこぞってテレジア侯爵を正当な領主にする為の謀を始めるだろ
う。
テレジア侯爵も同じ事に思い至ったのか、領主の裁可印を私に返
却した。
﹁エリザ殿はもう十三歳になります。凖成人でございますれば﹂
この国では十三歳で凖成人、十八歳で成人となる。
裁可印の返却時としては確かに区切りはいい。普通の貴族の子息
たちも親の余剰爵位を継いで少しずつ仕事をし始める時期だし。
私に潰れられても、逆に頼られても困るテレジア侯爵は、最後に
陪臣の三男以降等余っている人員を人出として大量に寄こし、王都
に帰っていった。
有り難い、が、それでも危機は逃れていない。全く大丈夫じゃな
い。
何故ならば、私は前述の通りもうすぐ十三歳になる。貴族の子女
は十三から十六歳迄の三年間、王都にある学習院に通うのが義務と
されているのだ。十六歳から更に二年間、これは特に義務では無い
上級学習院も存在するが、それに関しては私には縁の無い話である
として。
すげな
一応私は王宮にに領地の統治を理由に入学免除の嘆願書を送った
のだが、勿論帰ってきたのは素気無い不可の答えだった。
他の子息、子女達も貴族の一員として仕事をしながら学習院に通
うのだ。
私一人例外としては認められないとの事だったが、親の庇護下で
18
仕事という名のお手伝いをする奴等と私を躊躇い無く同等に扱うな
んてね⋮⋮溜息も出るというものだ。
仕方ない。対応するしかないだろう。
とはいえ人手として寄越された陪臣の息子達はどう使えるか分か
らないので自分で統治機構を整えるしかない。
私は各村落の名主を呼び寄せた。
﹁諸事情により私は王都の学習院に通いながらこの地を一人で統治
することになった。そこで、統治の為新たな政治体制を作る事にし
た﹂
人口約五∼七百人の村が九つ。これが私の子爵領⋮⋮じゃなかっ
た、伯爵領内の現状である。
流石はテレジア侯爵である。良くもあの状態から、たった十年で
数千人以上も人口を増やしたものだ。領主の手元に金が出来た為、
その領主である私が内政を失敗しさえしなければこれからも増加の
一途を辿るだろう。
﹁諸君には庶民院を結成してもらいたい。まず各村落で成人以上を
対象にした選挙を行い、三人を選出するんだ。その三人に加えて各
名主を加えた四人で村の代表とする。週に一度以上代表は集まって
村の状況や何が必要かを話し合え﹂
選挙方法は初仕事としてこの名主達に決めてもらうとして、とり
あえず村の状況を取り纏める組織が必要だ。
﹁月に一度名主諸君が集まって、各村で話したことを報告しあい、
解決の必要な案件については解決案を出し、全村落での情報共有を
行う。この話し合いには一人、侯爵からお借りした人員を書記とし
19
て参加させる。だが、諸君等も話した案件、それに対する解決案、
その全てを纏めてそれとは別に私に連絡するんだ﹂
村毎に暫定的な半民主制を取り入れさせるのだ。これで増える人
口に対しての柔軟性が増せばいいが。
最終的な判断は私がする予定だが、名主達に負担させる部分は大
きくなるだろう。前世の統治機構を参考にしてはいるが、時代に即
しているとは言い辛いので、実際に動かせば問題は山のように出る
だろうし。
﹁選挙は一年に一度、私が領地に戻れる春に行う。代表に選ばれた
者には任期中は特別手当を出すが、不正に関しては厳しい罰を与え
る。お前たちもだ。欲を掻くなよ﹂
それを防ぐ為に一人書記として参加させるつもりだが、どうなる
かは定かではない。脅しのつもりで言ったが、名主達は一斉に首を
振った。
﹁欲など、とんでもない事でございます。村の者達の声が殆ど直接
に領主様の元へ届くようなものではありませんか﹂
﹁ああ。私はテレジア侯爵の陪臣の家で育った者共をまだ上手く使
えはしないから、それでいいんだ。緊急の案件はお前たちで片付け
られるようにしておきたい。そういった事は事後報告で構わない。
対応が間違っていれば処罰を与えることもあるだろうが。手に余る
ようならば最速で私に伝えるように﹂
﹁ですが、その後見人の侯爵様から派遣された方々はどうするおつ
もりなのでしょうか?﹂
20
村と私の間に立つ役割を彼等ではなく名主と、村で決めた代表に
する。それでは一体彼等には何をさせるのか。
﹁テレジア侯爵様から頂いた人員は五十人程だ。彼らには学校を作
らせ、児童の指導を行わせる﹂
﹁というと?﹂
﹁五歳から十歳までの村の子供に読み書きと計算、それから武芸を
覚えさせる。労働力の低下に繋がるため一時的に税を減らすが、子
供を学校に登校させない家庭の税は上げる。十歳以上の者も入学を
許可するが、税は変えない﹂
読み書きと計算は侯爵の寄越した人出に教えさせ、武芸の方は戦
時以外に役に立たない領軍に教えさせる。
﹁ここは伯爵領になった。貰った金を元手にして民の資質を上げね
ばならない。私が学院から戻り次第広がった領地を開発せねばなら
ないからな﹂
詳しい事はこれから細々と決めるとして、とにかく識字率とイン
フラの整備で領内の水準を引き上げて豊かにしないと森になぞ構っ
てられない。
21
03
十三歳を迎え、王都の学習院に入学する春の終わりまでにしたこ
とは大きく三つ。
その一、領政を自分の都合の良いように新たに組織する事。
その二、各村に学校を作り、教師役を配置して試験運営を始める
事。
その三、魔物の森を暫定的に立入禁止区域に指定することだ。
森に誰も入れぬよう、子爵領の領境を示していた木製の柵を突貫
で強化させた。村の連中は入り込まないだろうが、冒険者が薬草の
採取などで勝手に入り込むのを防ぐ為だ。
後は効率的な連絡方法などを名主陣および新任教師諸君と話し合
って決めたり等して、あっという間に私が王都に旅立つ季節はやっ
てきた。
そうして、目の前に聳える盛大な門構えを見上げて、私は盛大に
溜め息をついた。
大変に今更のお話ではあるが。この世界が一体どのようなゲーム
として前世で知られていたのか、私はここに来るまでほとんど忘れ
ていた。
町づくりシミュレーションゲームでしたっけ?否、恋愛シミュレ
ーションゲーム、俗に言う乙女ゲーであった筈である。
どうして今更思い出したのかと言えば、話は学習院を舞台に展開
されるからだ。ゲームのスタートメニュー後ろに必ず表示される画
面、つまりこの学習院の立派な門構えを見て、ああそういえば、と
思い至ったのである。
22
新入生代表として壇上に立った目立つ貴公子殿に、これまた溜息
が出た。貴族院の集会に出席した時に何度か見た覚えがある。
王太子アルフレッド⋮⋮これも今更だが、そういえば攻略キャラ
おぐし
クターだったなと思い出す。
麗しの金の御髪と宝石のような青の瞳、王道ってやつですね解り
ます。自分の長い黒髪と紅色の瞳を思い浮かべて比較してみると、
確かに自分が邪悪の権化に見えるほどその色合いは清い物のような
気がした。
前世の学校と似たように、この学習院には成績順のクラス分けが
存在する。
領地経営の為に一足早く実践的な勉強を開始したからか、或いは
前世の記憶の賜物か、私は第一級クラス、つまり最優秀クラスに所
属する事になった。
有り難くもない。ここには殆どの攻略キャラクターがいるのであ
る。
新入生代表を務めた王太子アルフレッド・テュール・アークシア、
これから生徒会長まで上り詰める予定の大公子息グレイス・テュー
ル・ドーヴァダインとその腹違い、妾腹の生まれの弟エリック・テ
ュール・ドーヴァダイン、戦時に世話になった王直属軍総帥の孫で
あるジークハルト・ローレンツォレルとこの国の次代を担う人材が
目白押しの状態だ。もし賊でも侵入したらばと思うとぞっとする。
﹁おい、見ろ⋮⋮あれ、確かカルディア伯爵だ。黒髪に血のような
瞳、間違いない﹂
僅か十二歳、凖成人も迎えぬまま武勲によって伯爵位を賜った私
23
も有名であるらしい。クラスのどこからかざわめきに紛れて、そん
な声が幾つか聞こえてきた。
既に爵位と領地を持つ私は、このクラス内では王太子の次に身分
が高いこともあって浮いている。
﹁カルディア伯爵、久方ぶりだね﹂
攻略キャラクター
柔和な笑みを浮かべた王太子が、取り巻きたちを置いてわざわざ
挨拶をしに来たのもそういった事情からだろう。勿論貴族院では声
をかけられた事など無いので、お互い顔は知っていても初対面であ
る。
﹁殿下に置かれましては、ご機嫌麗しく。お声をかけていただき恐
悦至極に存じ奉ります﹂
臣下の礼を取ると、王太子は困り顔を微笑みの中に器用に浮かべ
た。
﹁そんなに畏まらないで欲しいな。まだ貴女は私の臣下ではなく陛
下の臣下なのだし、何より折角学習院内なのだから。友人として付
き合っていきたいのだが、駄目かな?﹂
﹁畏れ多いことで御座います。しかし、殿下のお望みのままに﹂
﹁ありがとう、カルディア伯爵。ところで、どうして男物を着てい
るの?﹂
﹁学則に爵位持つ生徒は騎士服を着用との事でしたので﹂
私の服装に戸惑う殿下に、無理もないと自分でも思う。
24
私が着込んでいるのは、カルディア伯領軍に所属する騎士の着用
する制服だ。学習院には制服の規定は無く、普通の貴族の子女達は
それぞれ私服を用意してくる。
特に令嬢であれば、他人の目があるため毎日夜会のように着飾る
のがこの学習院での通例となっている。大抵の令嬢達がここで将来
の結婚相手を見つける為だ。
だが、王太子の取り巻きたちがそれぞれの軍の騎士服を召してい
るように、私が自分の伯領軍の騎士服を着ているように、在学時点
で爵位をもつ者は自分の家が持つ軍の騎士服を着用する決まりがあ
る。
そうする事で身分あるものと他の生徒を見分けが付くようにする
のだ。
余談だが、王太子は王太子で王直属軍の騎士服を着用している。
﹁⋮⋮それは、女生徒であっても?﹂
﹁女生徒で爵位のある生徒は私が開校以来初めての例であるそうで
す。五年ほどすれば規定も変わるでしょう﹂
そんな理由であって、私は在学三年間、男装をする嵌めになって
いる。学習院の在学中は騎士服が正装なので、貴族院だろうがどこ
かの夜会だろうがこの格好で行かねばならないからだ。
﹁ドレスよりは実用的ですから、なかなか気に入っております。服
飾にかける無駄な出費が減って嬉しいくらいです。殿下が気にかけ
る必要はございません﹂
﹁それならいいんだ。それで、私の友人達を紹介させてくれる?﹂
﹁有り難き幸せに存じます﹂
25
軽い礼を取ると、王太子はこちらをじっと見守っていた⋮⋮とい
うか見張っていた取り巻き達を視線だけで呼び寄せた。流石は王太
子、人を動かすのを視線だけでやってのけるとは。
﹁皆、紹介するね。こちらはカルディア下級伯爵。カルディア伯爵、
彼等はドーヴァダイン大公家子息のグレイス上級子爵とエリック上
級男爵。それから彼はローレンツォレル侯爵家のジークハルト下級
男爵だよ﹂
﹁ご紹介賜りました、エリザ・カルディアと申します﹂
﹁ふーん、武勲で成り上がったと聞いたから、まるで女性のような
成りと名で驚いたよ﹂
﹁そうだな。騎士服よりも余程ドレスの方がにあうんじゃないか?﹂
挨拶も返さずにっこりと笑いながら毒を吐いたのはグレイスとエ
リックである。腹違いの兄弟にも関わらず、双子のようによく似て
いる。肩下程まで伸ばした赤髪を後ろで一括にし、鬱金色の瞳もま
るで鏡合わせのようだ。
そんなことより、私の名前は貴族の子女の中でも有名だが、肝心
の私についての情報は殆ど出回っていないようだ。親との交流の無
い貴族子息らしいといえばらしいか。
それに、ここで面と向かって私をコケにしようとは、どうにも頭
は軽いらしい。ゲームでは優秀だという設定だったと思ったが。
﹁私も、ドーヴァダイン家は文官の志向だったとは知らなかったよ﹂
まさか私一人で敵軍に突っ込んで将を討ち取ったと考えていたの
26
かと言葉裏で揶揄すれば、グレイスとエリックは顔を見合わせても
う一度私を見た。
﹁へえ、頭は回るんだ。見た目にそぐわず脳筋かと思っていた﹂
﹁やめろ、グレイス。アルフレッドの顔にそれ以上泥を塗る真似を
するな﹂
幼稚な切り返しを行ったグレイスに鋭い制止の声を上げたのは残
る一人、ジークハルトである。短く切り揃えた黒髪に、翡翠の瞳は
狼のように野性味を帯びて鋭い。四人の中で最も背が高く、身体付
きもしなやかだった。
﹁申し訳ない、伯爵﹂
﹁構わない。どうせ三年すれば私は領地に戻るのだし、中央の貴族
の子息が在学中に少しぐらい浮かれていても誰も咎めはしない。﹂
ふ、余裕を込めてと笑うと大公家の二人は顔を赤くして逆上した
が、二人が何か言い出す前に王太子が一つ手を打った。
﹁﹃仲良く﹄なれたみたいで良かった。これから宜しくね、エリザ﹂
にこやかに笑う王太子が一番食えない。言外に仲良くしろと命令
しているあたりが特に。
﹁殿下、私の名前はエリック殿と似ておりますから、カルディアと
呼んでいただければと思います﹂
﹁なんだよ、やっぱり女みたいな名前を気にしているのか││痛っ
27
!﹂
懲りずに揶揄るエリックに、無言でジークハルトが拳骨を落とし
た。見なかったことにして王太子に視線を戻すと、﹃友人﹄の無礼
の為にか彼は渋々頷いた。
﹁はぁ⋮⋮グレイスとエリックはちょっと話をする必要があるかな﹂
28
04︵前書き︶
主人公が大分残酷な策を使いますので、苦手な方は飛ばしてくださ
い。戦して勝つだけですので。
29
04
入学して早三日。
まだ授業どころか学習院での生活についてのオリエンテーション
すら終わってすらいないのに、またも隣国リンダールのデンゼル公
爵の命で、グルジア辺境伯を総大将に据えた軍が進撃を開始したと
いう知らせが入った。
しかも今度は私の領に向けてである。前回討ち取られた息子の弔
い合戦でも気どるつもりか。
学習院に公欠を貰い、慌てて軍議の行われているであろう貴族院
へと出席した。
﹁自領の防衛に際して何か他にあるかね、カルディア下級女伯爵?﹂
取り纏め役を務める貴族の厭味ったらしい口振りに少しだけ気分
が萎える。私の着ている騎士服をそんなに揶揄したいのか。
﹁捕虜の遺体を下さい﹂
前回の戦で生け捕った捕虜は全て処刑が決まった。
捕虜の開放と引き換えに隣国から賠償金を取る筈だった停戦調停
が破綻したのでこれ以上生かしておく理由がなくなった為だ。
さてどうやって相手の士気を殺ごうか、座った眼で考えていた私
の頭に、良案が浮かんだ。
前世のどっかの国の大公が行った、串刺し死体を並べるという頭
の可笑しい奇策をパクるのだ。
捕虜の遺体を全て引き取った私は、自分の領地のギリギリ外側に
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杭を立てさせ、それに遺体を刺して並べておくことにした。
もう一つ小細工として、それらの死体と杭の周りに深めの溝を掘
らせ、油をたっぷり引かせておく。杭と死体にも掛けさせた。
﹁入学してすぐに戻ってくるなんて、お館様も運が悪いですね﹂
﹁全くだな、カルヴァン。うまく策がいったら早く帰って寝ようと
思う﹂
﹁それにしても、お館様はよくもこんな残虐な手を思いつきますな。
ある意味では親によく似ている﹂
﹁ふん。自領の民を絞りとるようなカラカラの頭で戦など出来るか。
似てるわけ無いだろ﹂
火矢を番えたカルヴァン、アジール、ギュンターが眼前の凄惨な
光景に軽口を叩き合う。私の親が作り上げた極貧の生活はどうも領
民の倫理観を粉々に壊してしまったらしい。
私の平和な前世で培った倫理観も同時にどっかへ消えている。ふ
ぅむ、まぁ敵にかける情けや容赦が無いだけだし、問題は無いだろ
う。
今回の戦の戦場となるのは何処の国の所有地でもない不毛の地、
バンディシア高原である。僅かな台地を除けばほとんど起伏のない
砂礫の地面が広がる、そんな所だ。
私が串刺し死体を並べたのは、その僅かな台地がある一角だった。
台地にはこちら側からは登れるが、向こう側には切り立った崖とな
っていて高所を取れるという利点がある。
長い道程を行軍してきた隣国の兵士たちは、呆然と捕虜五千人の
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無残な串刺し死体を眺めていた。知らせを受けて急ぎこの仕掛けを
作って三日ほど。
広い荒野に突然出現したご馳走に、烏と蝿がたかることたかるこ
と。
そしてその向こう側、アークシアの軍勢はリンダールのそれの三
倍を用意させてもらった。後方の殆どが鍬を持った農民であろうと
も、黒い人の海は恐怖心を煽る。
相手の士気は目に見えて落ちていた。
耳を澄ますと相手の軍から揉める声が聞こえてくる。死体の中に
知り合いか、友人か、それとも世話になった上官でもあったのだろ
う。やがて陣を崩して二部隊ほどが駆け寄ってきた。
﹁アークシアの者達よ、これはあまりに酷い!あまりに!﹂
もと
﹁戦の始まる前に遺体を返してはくれぬか!人道に悖る行いである
ぞ!﹂
いぶか
それに対してこちらから出たのは私一人。高台に上り一人立った
私に、子供が何を、と訝る相手軍を、嘲笑う為に手に持つ兜を翳し
た。前回討ち取った少将のものだ。
﹁侵略者が何を言う。そもそも、これらの捕虜を見捨てたのは貴様
らだろう!﹂
言って、兜を串刺し死体の中に投げ込み、素早く矢を放って割っ
てやる。三日練習した甲斐あって、上手いこといった。
﹁侵略者は人でなく理性なき獣!幾らでも烏の餌にしてくれるわ﹂
﹁なにを!﹂
32
後ろに控えた自軍から、何頭か馬から台地へと駆け登ってやって
来た。そこから悲鳴が幾つも上がっているのに、敵軍の目が引き付
けられる。
疾駆する馬からは縄が繋がれ、捕虜の中に何人かいた子供、少年
兵たちがそれによって轢かれていた。
﹁こ、子供に何をっ﹂
﹁見捨てたのは貴様らだ!﹂
手近な少年の首を切り落とす。ゴロリと転がったそれを、馬を引
いてきた兵の一人がやはり串刺し死体をの中へ投げ捨てる。
頭に血を上らせた相手部隊の兵は指揮官の制止も聞かずに突撃を
開始した。
﹁カルヴァン、放て!﹂
馬を引きながら命ずると、カルヴァン達は火矢を串刺し死体の中
に打ち込んだ。油に引火してすぐさま燃え広がる炎に巻かれ、突っ
込んできた兵達から悲鳴が上がる。
騎馬兵は馬から投げ落とされ、歩兵は爆発的に燃え上がった炎で
焼かれ、阿鼻叫喚の地獄絵図が完成したことに思わず笑ってしまっ
た。
﹁あっはっはっ、上手く行ったぞ!騎士道がどうのと侵略者の癖し
て綺麗事を抜かすからそうなるんだ、強欲で理性無い醜い獣共め!﹂
様子を見ていた後方の相手部隊に見えるよう、残った少年兵を高
台の縁に立たせてやる。燃え盛る串刺し死体、暴れ回る人と馬の中
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に一人ずつ突き落とさせるのだ。もちろん矢が飛んでくれば少年兵
を盾にするよう、実行する兵には言い含めてある。
後は戦上手のローレンツォレル侯爵に任せておけば勝ち戦だろう。
これほどまで士気を削がれた相手軍が炎を越えてここまで来たとこ
ろで、弓に狙い撃ちされて終わりだ。
戦の褒章として上級伯爵の位を国王陛下より直々に賜る事になっ
た。なんでだ。
34
05 side:テレジア侯爵︵前書き︶
後見人のテレジア侯爵視点です。
35
05 side:テレジア侯爵
カルディア子爵という悪辣で知られた最悪な男を、儂は死ぬまで
忘れぬだろう。
何の因果か、一人生き残ったその娘の後見人になること十年。
最初はあのカルディア子爵の娘だという理由から疎んじていた子
供であったが、氏より育ちというのはどうやら真実であるらしい。
エリザは物心ついた時より聡明で、子供ながら頭の切れる娘であ
った。
いつの間にやら親のしていた事を知っており、それを厭うべき悪
と断じていた。
善悪の区別が幼い子供の癖についており、それでも自分に何一つ
おなご
親の事で下げる頭は無いと、飄々としていた。
あ奴は女子であるのが惜しい、と他人の儂ですら思う程才覚の優
れた子供である。小娘と軽んじる事が出来ぬ程文武に優れ、己の限
界を知り、何より他人を信頼して物事を任す事が上手い。
将来必要になるだろうと思って軍の指揮をさせれば、僅か数年で
百も二百も、農民の交じる兵を率いておった。
親の圧政に苦しみ、恨まれていた事などまるで無かった事のよう
に、兵に将として認められ、民に領主として受け入れられ、それを
率いていたのだ。
いくら読み書きが出来るとはいえ、三歳で最初に始めさせた勉学
が領地を経営する為に必要な知識であった等と、他の誰に言えば信
じようか。武官の家系でもあるまいに、同時に剣や槍、乗馬等を叩
き込んだなどと、誰が信じよう。それも、女であるエリザが。
36
そんな子供であったからこそ、齢十二にして初陣の戦で首級を上
げて凱旋したと聞かされても、それほど驚きはせずに済んだ。ちと
書類一枚、インク浸しにして駄目にしたくらいだ。
隣国リンダールの小賢しいデンゼル公爵は、近年開発されたばか
りの石火矢を実戦に導入したらしい。
それも一発打てば暫く役に立たなくなるという大きな欠点を、元
々騎馬民族である為に卓越した馬の扱いを用いて上手く補って使い
物にしておったそうだ。
その為敗走は確実かと思われた。そう言ったのは総大将を努めて
おったローレンツォレルであるからして、間違いはなかろう。
だが、あの賢しい小娘は、その二発目を防ぎ三発目以降を放てぬ
ようにしてしまったという。
重装騎馬兵の盾で防ぐのに精一杯であった味方軍すらあざ笑うか
の如く、いつの間にやら相手軍の横を取り、軽装の騎馬兵を駆けさ
せて石火矢の狙いを外させ、引っ込む暇も与えぬままそれらごと敵
前衛を重装騎馬兵を引き連れて蹴散らす。
見事だ。それを思いつき、すぐさま実行する果敢さも、不安を感
じさせずに兵を従えたことも、見事であるとしか言いようがあるま
い。
そうして混乱した敵陣から数百人の部隊を本隊から分裂させ、囲
い込んで討ち取った。その中に将が存在したのは本人が言うように
運が良かったのであろう。
しかし例え首級を上げずとも、我が軍の士気を大きく殺いでおっ
た石銃隊を壊滅させたその功績だけでも初陣で飾るには華々しすぎ
る功績である。
﹁カルディア子爵はあの森をどうにか出来ると思うか、ラディアン
?﹂
37
﹁テレジアの名に賭けて是、と答えましょうぞ、陛下﹂
民を苦しめるだけ苦しめた貴族の面汚し、その娘であるはずのエ
リザ。あ奴が父親の荒らし尽くした領地をどうにかする為に、儂を
使っている事に気付いたのはいつ頃であったか。
いつからか名主に手紙を送り、それらを通して村民の様子に心を
砕いておった。儂が親父と同じような事をしておらぬか見張ってお
った。
そうして浮上してきた小さな問題を、儂の教えた知識で持って予
めに解決させておった││これ程愉快な事は無い!
全く小気味良い程に優秀な餓鬼である。
陛下は儂の言葉を信じ、エリザに下級伯爵位を与え、あの森を任
せる事にしたようだった。
もうこの老いぼれもあの小娘の代役は務められまい。経験が足り
ずに手の回らぬことがあるならば、手を貸してやる事ならば出来る
だろう。だが、あの才気に敵うほどの力は既に枯れてしまっておる。
そう思って王都に戻ってきたのだが、その後聞こえてきた統治の
方法にはこれまた書類を二枚ほど駄目させられた。
領民自身に代表を決めさせ、各村に必要な物を己等で決めさせる。
問題事は予め話し合わせ、名主共に解決案まで用意させる。
儂の与えた人手は統治ではなく教育に使うときた。
何と││何という事を思いつくのだ、あの子供は!
増えゆく民への対応にも、何をするにも人材不足である事を理解
しておる。森に手を出すどころではない事を弁えているのは儂が育
てのだから当たり前として、全く足りぬ人手をどう掻き集めるのか
と思えば、なんと自領の民を育てて使うつもりでおった!
コストも時間もかかるが、確実性はある。地力を上げさえすれば
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豊かになり、将来的には人手も増える。他領から仕事と土地を求め、
勝手に人など流れ込んで来るだろう。
そうしてようやく学習院へ上がったかと思えば、再び行軍してき
たリンダールの軍勢に、小娘、今度は侵略される地の領主として相
対することとなった。
久方ぶりに貴族院で見たエリザに、儂は笑いを噛み殺すに精一杯
であった。学習院の校則を理由に騎士服に身を包んだ娘はそこらの
家の子弟などぼんくらにしか思えぬ程凛々しく、一体何人の貴族が
﹁本当に男子であれば娘を嫁がせたものを﹂と腹の底で嘆いたこと
か!
余りの事に進行役の貴族が女伯爵、女伯爵と確認するように唱え
ておったわ!
そうして、あ奴は││自国の兵さえ畏怖する程恐ろしい手で持っ
て、その戦に勝利を齎した。
捕虜の死体を使うなど、上手く敵を煽り火計を仕掛けるなど、敵
軍に従じている筈何百ものの少年兵を、同じ年頃の捕虜兵を数十人
おぞ
見せしめにする事で、使い物にならなくするなど。
いたずら
まるで悪魔のような所業であった。聞くも悍ましく、何という効
果的な策であろうか。 その優秀さ故に、親とは似ておらぬと思った。
民への思い故に、親とは似ても似つかぬと思った。
あくまでも犠牲の少ない戦をする為に策を練るあの娘は、徒に兵
を突撃させ、自分の盾にする親とは全く別物であると思った。
だが、その残虐さは││戦慄するほど似ておる。
救いは、エリザがその牙を敵にしか剥かぬ事であろうか。
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ならば何も問題は無い。清濁を併せ呑んでこそ貴族。人死にを嘆
き戦も出来ぬようであるならば、教会で神にでも縋っておればよい
のだ。
40
06
戦の後始末を終え、漸く王都の自宅に戻って来た。
自宅というのは、学習院の敷地内に存在している寮である。私は
伯爵位を持っている事もあり、一棟の屋敷を丸ごと与えられている
のだが、寮は寮でありそれ以外の何物でもない。
もと
隣国リンダールの再侵攻に対し使った作戦は思った以上に上手く
行った。相手軍から罵られた通り人道に悖る策だったのは言われな
くても自覚している。
自軍、特に軍属でない民達の精神状態に影響がないかだけが心配
だったが、何度も何度も侵略してくるリンダールには領地を荒らさ
れた恨み辛みが行軍させていた農民にまで染み渡っていたらしい。
奴らは蛮族、奴らは理性無き獣と激しく罵り力強く弓を放っていた。
勿論総大将のローレンツォレル下級侯爵の高い人心掌握術も発揮
されていた。あれ程の残虐な見せしめをして尚、士気を上げるなど
只者ではないと思う。
ただ、それが理由で││私はこれから登城して陛下に謁見しなけ
ればならないらしい。陛下に謁見って。それはどうやら私にとって
は現実離れした事態のようであり、実感はわかなければ頭も上手く
働かない。とりあえず何すればいいのやら。身支度か。
身支度⋮⋮。
ドレスを着ればいいのか、それとも騎士服を着たほうがいいのか。
迷ったのは現実逃避に近い。何故なら陛下の御前に出ても問題ない
ようなドレスなど、この寮にあるクローゼットの中には存在しない
からだ。
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髪をポニーテールにきっちり結い上げて、黒いベルベット地に真
紅の彩りの入った最高位の騎士服を着た。考えても他に装える服は
無いので。
普段私が学習院で着ているのものは騎士の中でも士官と呼ばれる
中位の騎士が正装として着用するものである。今着ているものは騎
士の中で一番上の地位である騎士長の正装だ。これにはマントがつ
く。
普通の夜会等であれば、士官長、つまり士官達を纏める地位のも
のの正装騎士服を着用するのだが。
深緋色のマントを翻した私はまだ身体に丸みがない。その為男物
の服を着ようがあまり違和感はないものの、黒尽くめの男装⋮⋮。
悪役令嬢どころか、ファンタジーに当て嵌めるなら魔王役の方が近
いかもしれない。串刺し伯爵って渾名はつくだろうかつかないだろ
うか。
登城した私を迎えてくれたのは、後見人のテレジア侯爵だった。
﹁久しいですな、エリザ殿﹂
﹁テレジア侯、お久しぶりです。お元気そうで何よりです﹂
いや、元気なのは戦に行く前の貴族院でお見掛けした時に確認し
てはいるが。
しか
おじいちゃんことテレジア侯爵は私の着ている騎士服を見て、ぎ
ゅっと顔を顰めた。何となくそれは、笑いを堪えているようにも見
えた。
学習院で定められた礼装であるとはいえ、流石に陛下に謁見する
42
には失礼だっただろうか。
﹁やはりドレスの方が良かったでしょうか⋮⋮﹂
﹁否、学習院で定められているのであればそれでよろしい。心配せ
ずとも似合っておる。エリザ殿が男であれば、尚良しであったのだ
がな﹂
それは、やっぱり似合ってないのではなかろうか。
テレジア侯爵に連れられて生まれて初めて入室した王城の謁見の
間は、恐ろしく縦にも横にも広い空間だった。
前世で言うところのゴシック様式に似た細く尖るアーチ状の壁は
百を超えて連なり、高さは建物五階建てくらいの分をぶち抜いてい
るだろう。
職人の粋を極めたのであろう装飾と、この世界の他の何処にも無
いだろうと断言できる薄いガラスで作られた大きな格子窓、部屋の
そこかしこを涼やかに彩る水の流れが華やかさと荘厳さを損なうこ
となく謁見者を圧倒する。
その最奥に鎮座する国王陛下は、この部屋の雰囲気に呑まれずに
いるだけで威厳を保つ事が出来る。身を持ってそれを実感したのて
間違いない。
﹁よく勝利を携えて戻った、カルディア下級女伯よ。面を上げよ。
此度の戦の褒章を授ける﹂
ローゼン
騎士式に片膝をついて跪いたまま背筋と首を伸ばすと、陛下が官
を一人従えて玉座からするすると降りてきた。
ローザ
﹁まずは、初陣と第二陣で立てたその武勲に対し、栄典として紅珠
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華二等勲章を授与する﹂
ローゼンローザ
なんだって。紅珠華の二等勲章⋮⋮?それって確か、平民が下級
伯爵以下の世襲貴族に任命される程の武勲を立てた時に授与される
奴じゃなかったか。一等だと上級侯爵以下の爵位を与えられるやつ。
この国で上から四番目くらいに凄い勲章だったと思ったが⋮⋮。
﹁次に、褒章として上級女伯爵の位と、エインシュバルクの氏、及
び報奨金六千万アルクを取らす﹂
﹁有り難く賜ります﹂
深々と礼をした。礼をしたものの。
勲章だけで十分すぎると思うのだが、上級伯爵位に、氏名だって
⋮⋮。何かあるのではないかと勘繰るのも仕方ないと思うのだ。
隣のテレジア侯爵をチラ見しながら謁見の間を辞したが、おじい
ちゃん、ニッと笑ったままであるため﹁これどういうことですか﹂
なんて聞ける訳もない。
さて、氏とは何か。説明しよう、この国において、名と言えば個
人、姓といえば血族を表すものであり、氏は家を表す。
つまり、私の名前で言えばエリザが名でありカルディアは姓であ
る。
もう二つ例を出して、王太子はアルフレッドが名、テュールが姓、
アークシアが氏であり、大公家の嫡子でいえば、グレイスが名、テ
ュールが姓でドーヴァダインが氏となる。
何故彼等が同じテュールの名前を持つのかといえば、グレイスの
父であるドーヴァダイン大公は王弟なので、皆同じ血族としてテュ
ールを名乗っているのだ。
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という訳で私の名前は本日この時よりエリザ・カルディア・エイ
ンシュバルクとなる。ついでに私の子々孫々は代々本家に限りなん
たら・カルディア・エインシュバルクを名乗ることになった。
久々に言わせてほしい。
どうしてこうなった。
45
07
勲章、爵位及び氏という物凄い褒章を陛下より直々に賜ってしま
った翌日。
十日振りに学習院に登校すると、いち早く出迎えてくれたのは王
太子アルフレッドだった。いつもと変わりなくキラキラしい。眩し
い上畏れ多いのでどっか行ってくれないだろうか。
﹁聞いたよ、活躍したらしいね。陞爵おめでとう。勲章も、とても
よく似合っているよ。宝玉の色がが君の瞳と合っている﹂
ほう。つまり私の目はやはり血のようであると。勲章に使われて
いるのはピジョンブラッド・ルビー。自分でも自分の虹彩の色にそ
っくりだとは思うけれども。
﹁カルディアと呼んでくれと言っていたけれど、どうしようか。氏
も賜ったんでしょう?﹂
﹁カルディアで構いません。こうなったら、学習院ではカルディア・
エインシュバルクとでも名乗る事にしますから。エリザと呼ばれる
よりは騎士服に似合っている事でしょう﹂
ドーヴァダイン大公がテュール大公とは呼ばれないように、もし
も氏を賜ったならば氏名と爵位で呼ばれるのが普通である。
今更の話、私はエリザという名前が嫌いだ。この名前、非常に胸
糞悪い由来があるのだ。クソ親父が近親相姦によって孕ませ、それ
おぞ
によって自殺してしまった長女の名前であったという、思い出すの
も悍ましい由来である。
46
それを知ってか知らずか、学習院で最も喰えない男アルフレッド
王太子はにっこりと、ますますそのキラキラを激しく煌めかせた。
うおっ眩し、とでも言えばいいのか、言えば。
学習院での勉強は基本的に教養科目である。
が、第一級クラスとなればほぼ実践に直結する、いわばマクロ経
済学のようなものだったり、心理学のようなものだったりとその専
門性が深まる。
⋮⋮今頃になって思ったのだが、テレジア侯爵はいつ代理領主を
辞しても問題無い様、私に物凄い勢いで必要な事を詰め込んだので
はないだろうか。
まだ十三歳の筈なのに、授業の内容は前世で言うところの大学の
それだ。王太子ですら苦戦するそれを、実のところ私は復習感覚で
行っている。
まあ、前世の記憶がある時点で勉強を素直に受け入れる精神年齢、
それに前世で学んだ事など、勉学に関しては他の子供と比べ一日の
長がある事は確かだ。
チートと呼ぶなら呼ぶがいい。特殊能力なんて一つも無いがな。
﹁流石、活躍目覚ましい伯爵様はこんな勉強余裕らしいね﹂
﹁優秀なんだろ。じゃなきゃ残虐なる好血伯爵が貴族を続けている
わけがない﹂
そしてグレイス・エリックの二人は相変わらず嫌味を吐くのを止
めない。
47
よくよく観察していると、こいつらは王太子以外には常に毒を吐
いている。もしかすると彼等は普通に喋っているつもりなのかもし
れない。
どんなツンデレの亜種なのか。
大変うざったいが、王太子は私とこれらが仲良くするのをご希望
である為、無視する事も反撃も出来ない。
﹁高名なテレジア侯爵に直々にご指導頂いたのでね。今日の内容は、
十に成る前にはやったかな﹂
﹁ふーん﹂
だがしかし、この通り、嫌味に自慢で返すとこの二人は途端に機
嫌が悪くなる。そうするとおざなりな返事を返して何処かへ行くの
がパターンであることは既に学習済みだ。
先に嫌味たらしい事を言いながら絡みだすのは二人なので、王太
子もこれに関しては何も言ってこない。
今回も不貞腐れたように去っていく二人に視線もやらずにいると、
するりとした身のこなしで総帥の孫が視界に入り込んでくるのもパ
ターンのうちだ。
﹁いつも悪い⋮⋮﹂
﹁君の謝ることじゃないだろう、ローレンツォレル男爵﹂
気にしていない、と私の返事もパターン化している。このやり取
りもそろそろ二十回くらいはしただろうか。
だが、いつもは軽く会釈をして二人を追う筈の総帥の孫が、何故
だが今回は去ろうとしない。
48
﹁⋮⋮他に、何か?﹂
﹁ジークハルトでいい。アルフレッドにああ言われている事だし、
その呼び方、堅苦し過ぎるだろう﹂
俺はカルディアと呼ばせてもらってる、と彼は続ける。心の中じ
ゃ総帥の孫とか呼んでるのだが、ふうん、そんなものか。
﹁なら次からジークハルトと呼ぶ。以上か?﹂
﹁いや、用事がある。今日の午後からの剣の訓練、組んでくれない
か﹂
﹁構わないが、なぜ私が⋮⋮﹂
入学以来初めて行われる剣の訓練である。女子は見学なのだが、
爵位持ちと男子生徒は必須参加なので当然私も参加しなければなら
ない。
二人組での授業の参加が定められているとはいえ、こいつは王太
子と組むとばかり思っていた私にとっては寝耳に水だ。
﹁⋮⋮アルフレッドは公務で午後からの授業は欠席なんだ﹂
﹁それは残念だな。では、授業五分前に闘技場の前で会おう﹂
言う事は言ったと思って視線を外したが、総帥の孫はまだ何か言
いたそうにこちらを見ていた。まだ何かようがあるのか。あるなら
言えばいいものを。
﹁⋮⋮後は何だ?﹂
49
ついつい溜息混じりになってしまった。
﹁あ、⋮⋮いや。勿体無いなと⋮⋮思って﹂
﹁要領を得ないな。何がだ?﹂
常ははきはきと喋る総帥の孫にしては珍しく、もごもごいう姿に
自然と眉根が寄ってしまう。双子に感化されて嫌味でも言う腹積も
りか、今日は一体何なんだ。
﹁⋮⋮いや、何でもない﹂
言うなり、渋い顔で総帥の孫は去っていった。会話の後に前を辞
する一言も無く去っていくのも、武官貴族の子息らしく礼儀正しい
総帥の孫にしては珍しい事だ。
私の親の悪評でも誰かから吹き込まれたか、それとも串刺し死体
の話でも聞いたか。
それならはっきり批判なり罵倒なりすればいいのに。クラスメイ
トの目と耳のあるここでは言いづらい、と言うなら人の居ないとこ
ろでも行ってやる。何を言われようが痛くも痒くもないのでね。
50
08
総帥の孫は総帥の孫なだけあって、剣の腕前は恐らく学年一であ
ると思われた。
﹁ならなんで勝てない⋮⋮﹂
孫が呻く。五度程試合したのだが、その全てで負けた彼は精神的
な疲労でぐったりと座り込んでいた。
﹁おそらく実践経験による差だ﹂
孫は実直なまでに美しい太刀筋を撃ち込んでくるが、私はそうで
はない。鍔迫り合いの最中に足をかけてひっくり返す等、前世でい
つかの学生時代ににやったような柔道技を使ったり、鞘やら拳を使
う等手数が多いのでより実戦的といえるだろうか。
﹁安心しろ、演習大会などではジークハルトは私に勝る。私は剣舞
の型など知らないから﹂
﹁⋮⋮っても、⋮⋮に負けるなんて⋮⋮﹂
ボソボソと喋る総帥の孫の声はほとんど聞き取れない。聞かせる
つもりは無いのだろうと判断し、無視する。
﹁もう一度やろうか。こうしてると煩い二人が寄ってくる﹂
﹁聞こえてんだよ、冷血伯爵っ!﹂
51
ほら、言わんこっちゃない。早速駆け寄ってきたエリックの罵倒
ももはや慣れたもので、右の耳から左の耳へ抜けていく。
﹁そうか。悪いが私達はもう一試合するから離れてくれないか﹂
苛立ちでか逆上せた顔で立ち止まるエリックに、警告はしたと構
わず剣を構える。ゆらりと立ち上がった総帥の孫も、息を整えて剣
を持つ腕を上げた。
﹁う、うわ!まだ俺ここにいるのにっ﹂
突っ込んできた総帥の孫に慌ててエリックが退避する。ほぼ一瞬
で私の懐に入る速さ、見事な踏み込みだと感心する。だがそれだけ
だ。
剣先を避けて肩を突き出すと、勢いを殺せずにそのまま総帥の孫
は顔から衝突する。併せて一歩引いたから怪我はしてないだろう。
つんのめった孫の足を払えば、簡単に転がる。
﹁要修行、だな﹂
﹁くそっ!剣すら交わせずに負けるのかよッ!﹂
地に付した総帥の孫が悔しそうに吠えたところで、授業終わりの
鐘が鳴る。
入学して二ヶ月が過ぎた頃には、王太子と愉快な仲間たち、とい
う名の攻略キャラクターのメイン四人以外にも話しをするような間
52
柄のクラスメイトも何人か存在するようになる。
﹁十日後に弟の凖成人祝いがあってね。もしよければ招待させて頂
きたいのだけど﹂
そんな連中の一人が、ゼファー・モードン辺境伯子息である。爵
位は無く、シルクのシャツにベルベット地のベストとトラウザーズ
という動きやすそうな服装をしている。
ファンタジーゲームでお馴染みの装飾華美なロングコートが基本
の私とは大違いである。とても涼しそうだ。羨ましい。
﹁会場はモードン邸なのか?﹂
﹁勿論。父上の街屋敷だよ﹂
ならばそれ程遠くないだろう。歩きでも行ける距離か、と考え、
出席する旨を伝えた。
私は馬車を所持していない。まさか夜会等に馬一頭駆って行く訳
にも行かず、借りる金も無い。いや、莫大な報奨金を受け取った為
あるにはあるが、あれは森の開発費、或いは領内のインフラ整備に
充てる用である。
そんな訳で、私の初の夜会参加はモードン家主催の凖成人祝いと
なった訳だが。
﹁ふうん、モードンの誘いは受けるんだ?﹂
﹁俺達の弟の誕生祝いは断ったのにな﹂
絡みに来るのは予想済みであった、大公家の二人。反射的に舌打
ちした。
53
二週間前、何故か二人が酷く遠回しに誘ってきた大公家の主催す
る舞踏会を、確かに私は断った。遠いからだ。だが、それがなんだ
というのだ。
﹁カルディア、舌打ちはちょっと行儀悪いかな﹂
穏やかに嗜める王太子は、のほほんとした顔で双子に片手づつ掴
まれて引き摺られて来ていた。王太子が居るとなると、対応が一気
に面倒になる。
﹁以後気をつけます。ところで、何か?﹂
心にもない言葉を王太子に返し、二人には用件を尋ねる。大抵嫌
味を吐きに絡むだけの二人なので、用件はと聞けばすごすごと去っ
ていくことの方が多い。
﹁何か?じゃあねえよ。スカしてんなよな﹂
ところが今日は機嫌が悪すぎたらしい。グレイスの口からはいつ
も通りの嫌味ではなく、怒りの言葉が飛び出してきた。驚いて絶句
した。王太子も同様に、珍しく驚いた様子で彼を見ている。
﹁ムカつくんだよ、お前。何なの?﹂
﹁⋮⋮何なの、とは?﹂
スカしててムカつく、などと、大公家の人間とは思えない口の悪
さは置いておくとして。一体今日の二人はどうしてしまったのか。
﹁何で怒ったり傷付いたりしない訳?無関心ってゆーの?何なんだ
54
よ、それ﹂
﹁何なんだよと言われても。どうでもいい奴に何を言われても、ど
うとも思えないしな⋮⋮﹂
ヒュ、と風を切る音がして、無意識に一歩下がると、目の前スレ
スレをエリックの平手が掠めた。
﹁ストップ!﹂
そのエリックの襟首を、王太子が掴んで引き戻す。憤りも顕わに、
呼吸すら早めたエリックは、怒りのあまりにか泣きそうになってい
た。そういう所はまだまだ子供だ、と思う。
﹁何で、アルフレッド!﹂
﹁二人が悪いよ。カルディアが無関心なのが気に入らないって?自
分達が普段、カルディアに対して何を言ってるのか自覚してないの
かな﹂
﹁餓鬼共め。家柄を傘に来ておいて好き勝手な事を言い続けている
くせに、相手に堪えた様子がないからと図に乗るなよ﹂
いつの間にかするりと現れた総帥の孫が、王太子と同じようにグ
レイスの襟首を掴まえていた。どうやら二人がグレイスとエリック
を諌めてくれるらしい。少しは大人しくなればいいが。
﹁⋮⋮カルディア﹂
﹁なんでしょうか、殿下?﹂
55
用は終わっただろう。そう考えて踵を返した瞬間に、王太子に呼
び止められた。
﹁君には確かに一つも落ち度はないけれど、君の態度は傷付くよ。
私にとってもそうだ﹂
﹁そうですか﹂
頷くと、王太子は酷く落胆したような顔をした。さて、今度こそ
帰るか。呼び止められる事はもう無かった。
56
09
陛下より賜った報奨金という安心感が存在するためか、伯爵領は
落ち着いた状態を保っている。
﹁うーん、試そうか、止めとくべきか⋮⋮﹂
考えているのは、村ごとに病院を設立するか否かという事である。
同時に保険や年金、介護の制度を立ち上げたいとも考えているのだ
が。
そちらを行うよりも先に、インフラの大規模整備を優先させるべ
きだろうか。
非常に迷う。こんな時に相談に乗ってもらえる人は、テレジア侯
爵しかいないか。
よし、テレジア侯爵を訪ねよう。
思い立ったらすぐ行動。インク壺と羊皮紙を引き寄せて、羽根ペ
ンを引っ掴んだ。会って頂けるかお伺いをたてねば。
そうして翌日訪れたテレジア侯爵邸で、どうやらそれはずっと未
来の制度であるという事を思い出す事になった。
﹁病院の設立はわかるが、その介護や年金、保険というのはどうい
うものだろうか?﹂
﹁えっ﹂
57
テレジア侯爵が胡乱気に私の顔を眺める。
そういえばその制度って近代のものだったかもしれない?
しどろもどろになりつつ、介護は老人の世話の仕事、年金は老後
の為の積立貯金のようなもの、保険は病気や怪我があった時、医療
費が貰えるよう毎月微々たる額を納める制度と説明する。
﹁それにインフラとは?﹂
﹁生活環境の事です。今回考えているのは、上下水道を整えて、集
落内の衛生状態を向上させる事と、領主館のある本集落と他集落を
繋ぐ道の舗装です﹂
上下水道を整えるとなると、同時に灌漑工事を行った方が効率的
かもしれない。畑の面積を増やせば
休耕地をおけるので、連作障害をある程度防げるだろう。
﹁インフラとやらを整えるのが先決でしょうな。ただ病院に関して
は、今より人員を確保し教育をした方がよいのではありませぬか。
その二つは人口の拡大に直結すると思いますゆえ。年金と保険につ
いては、もう少し時を見るべきでしょうぞ。面白い案ではあるが、
実行するには地力がまだまだ足りぬ事はご自分でもおわかりでしょ
う﹂
﹁ふむ、なるほど。そうですね﹂
客観的なテレジア侯爵の意見で、思考がスッキリとまとまる。よ
し、これから先行う領地改革の目処が立ったな。
﹁ありがとうございます、テレジア侯爵﹂
58
﹁いやなに、エリザ殿の革新的な案を聞けるだけこちらにも利があ
りますれば﹂
革新的なのだろうか。ちょっと考えれば誰でも思いつきそうな事
ではあるが。まあいいや、目指せ平均寿命六十歳。領民の命のため
に平均初出産年齢を十六歳から十八歳までは絶対に引き上げたい。
それから今は適当な戸籍の制度をきちんとしたものに整えて、で
きるだけ早く人頭税じゃなくて収入税に変えていかなければ⋮⋮。
そういえば、うちの領地は殆ど牧畜も行ってないな。折角広い平
原がまだまだ未開発の東側にあるし、畑にして潰すよりもそのまま
牧場として利用させたほうがいいかもしれない。肥料不足の足しに
もなりそうだし、肉類が自給できれば穀物ばかりで細っこいうちの
領民の栄養状態の改革にもなるだろう。
⋮⋮誰だ、この世界が乙女ゲーと言ったやつ。嘘つきと罵ってや
るからちょっと表に出てこい。
先日受けた招待にあずかり、手土産を用意してモードン邸を伺っ
た。格好は普段通り、学習院で着用している騎士服である。
﹁やぁ、エインシュバルク伯爵。お目見え頂けるなんて本当に光栄
だよ﹂
﹁こんばんは、ゼファー殿。お招き頂けて嬉しいよ。モードン伯爵
にご挨拶をさせて頂いても宜しいかな﹂
﹁勿論。こっちだよ﹂
59
学内ではモードンと呼んでいる彼も、今日はややこしいだろうと
名前呼びだ。何しろここにはモードンさんが何人いるかわからない。
カルディアさんは私を残して全滅したというのに。
モードン改めゼファーに連れられて会場の奥へと進むと、行儀良
く椅子にかけたゼファー似の少年を挟んでモードン辺境伯とその奥
方が招待客の応対をしていた。
モードン辺境伯は貴族院で少しばかり付き合いがある方で、お互
い顔を見知っている。伯爵は半年置きに領地に戻っているためなか
なか会えないが、私が貴族院に出席し始めた最初の頃、いろいろと
世話になった。
﹁父上、エインシュバルク伯爵をご案内させて頂きました﹂
しばら
﹁やあ、エインシュバルク伯。暫くだね。ゼファー、ご苦労﹂
ゼファーと面立ちがそっくりのモードン伯爵は、まだギリギリ二
十代ということもあって若々しい美丈夫である。すらりとした痩身
に、最高峰の銀糸と謳われる長髪が良く似合っている。親子だけあ
って話し方も似ており、歳の離れた兄弟と言われても信じてしまい
そうだ。
ゼファーもあと十年ほどすればこうなるのかと思うと感慨深いも
のがある。
﹁モードン伯に置かれましては、ますますのご健勝と耳にしており
ます。拙いものではありますが、凖成人を迎えた御子息にお祝いの
品を贈らせて頂いてもよろしいでしょうか?﹂
﹁これは有り難い。ルーシウスも喜ぶ﹂
モードン辺境伯が半歩身を引いたので、綺麗に包装した小箱を椅
60
子に掛けたゼファー弟に直接差し出す。
﹁おめでとうございます、ルーシウス殿﹂
﹁あ、ありがとうございます、エインシュバルク伯爵様っ!﹂
一つ年下であるだけだというのに未だあどけないゼファーの弟は、
顔を赤らめてプレゼントを抱き締めた。声が上ずっている。怖がら
せただろうか⋮⋮。
﹁弟は何を頂けたのかな?﹂
﹁ブローチを贈らせて頂いたよ。凖成人の装いには必要だろうから﹂
﹁ああ、ルーシウスはきっと誰からも羨ましがられるだろうね。何
しろエインシュバルク伯爵の最初の贈り物を頂けたのだし﹂
学友のフォローが心に染みる。いいさ、どうせ私は好血、冷血で
知られる残虐伯爵だもの。怖がられても仕方ない。
楽団の奏でる音楽に彩られた舞踏会本会場にゼファーと連れ立っ
て訪れると、令嬢たちが素晴らしい速さでこちらへ寄ってきた。
あっという間に包囲される。戦であれば死んでいたと思うほどそ
の勢いには迫力があった。
というか、ゼファーはこれ程までに令嬢達に人気があるのか。学
習院では王太子とその取り巻きに霞んでしまっているが、父譲りの
銀髪と、ラピスラズリのように美しい深藍の瞳に印象付けられた美
貌は、確かに令嬢達の憧れの的だろう。
﹁え、エインシュバルク伯爵様、私と⋮⋮﹂
61
﹁いえ、わ、私と一曲⋮⋮﹂
﹁バルコニーでお話でも⋮⋮﹂
あぶ
溢れてしまった令嬢たちが、仕方なくだろうか、隣の私に次々声
を掛けてくる。下手な男を誘って噂になるくらいなら私を選ぶとい
うあたり貴族令嬢らしい判断である。
震えていたり強張っていたりと私が怖いだろうに、おそらく誰か
と踊らなければ評判に関わるに違いない。
﹁私などで良ければ、喜んで﹂
同情心から手を取った。学習院で男性用のダンスの仕方を学んで
おいて良かったかもしれない。例によって爵位持ちの分類で強制的
に男子生徒に混ぜられて、ではあったが。
62
10 side:ゼファー・モードン︵前書き︶
クラスメイトのゼファー・モードン視点です。
63
10 side:ゼファー・モードン
王太子や大公の令息のいるクラスに入ってしまうなんて、いくら
優秀さの証明になるとはいえツイてないなぁ、とゼファーは思って
いた。
モードン家は王都の北西に存在する辺境を統治する伯爵家で、身
分は高いが中央との結びつきは強くない。
王都まで、馬車を使っても三週間以上は掛かるという立地的な都
合から、父親であるモードン伯爵は半年間を王都で過ごし、もう半
年を領地で過ごす生活を送っている。
その為、王都で過ごす半年間のみ貴族院に出席しているのだが、
それでは王都の有力な法衣貴族との縁をつなぐことは出来ない。
陰謀渦巻く王都の貴族関係に無関心でいられるのは楽だが、ゼフ
ァー自身はそうも言ってられない。彼はこれから三年間、上級学習
院を含めて五年の間王都で過ごすのだ。
それに、一つ下の弟、ルーシウスは上級学習院を卒業した後は王
都で士官先を見つけなければならない。貧しくも裕福でもないモー
ドン伯爵領に、ルーシウスを留めておくのは余計な家督争いを招く
火種となる可能性があるのだ。
そんな訳で、ゼファーのような田舎貴族と陰口を叩かれそうな者
達にとって、王太子とその取り巻き達はあまり歓迎できない存在で
あった。無駄な友好関係でも築いてしまえば、妬みから余計な諍い
の種になる。
唯一まだ取り繕えそうなのはローレンツォレル家のジークハルト
くらいのもので、あとの王家の血を引く三人衆にはお声を掛けられ
ることすらご遠慮願いたい、というのがゼファーの思いであった。
64
だが、捨てる神あれば拾う神あり。昨年、初陣で凄まじい武勲を
打ち立て、伯爵位を賜った神童がクラスには存在していたのだ。
その類まれなる才気によって王太子達とも付かず離れずの関係性
を築く、しかし身分としてはゼファーが仲良くしていても問題は無
さそうで、後ろ盾に出来れば非常に強力。
カルディア下級伯爵という存在は、ゼファーにとって救い以外の
何者でもなかったのである。
黒絹のように美しい髪を一つに結って、まるで自分自身に誂えさ
せたかの如きデザインの騎士服を纏う彼は、あっという間に学習院
で王太子と並ぶ地位に躍り出た。
入学直後に勃発した、二度目の戦で再び鮮やかに勝利を齎したら
しい。その功労に対して勲章と、上級伯爵位及び氏名を陛下より直
々に賜ったそうだ。
陛下の寵を受けたカルディア改めエインシュバルク伯爵。
そんな彼と最初に縁を結べた事は、ゼファーには予期せぬ幸運だ
った。
その日の講義で、伯爵の隣の席に座ったのは、本当に単なる偶然
だった。というより、先に席についていたのはゼファーで、伯爵は
空いていたそこに無造作に座っただけだったが。
今日も伯爵は恐ろしいくらい底冷えするような美貌である。
釣り上がり気味の、切れ長の瞳は身につけた勲章に嵌め込まれた
宝玉と同じ深い紅色で、白磁の肌は戦をくぐり抜けているのが信じ
られないほど滑らかだ。僅かにフェイスラインを飾るように残され
た黒絹の一房が、見事にそれらを引き立てている。
そこへ常に凛とした、静かな表情を湛えているのだから、国中の
令嬢の人気をあの王太子と二分していると言われても納得できると
65
いうものだ。まだ十三歳という事もあり、将来を楽しみにしている
クラスメイトは多い。
そんな絶世の美少年の横顔を盗み見ていたゼファーは、彼の手の
羽根ペンがぼきりと折れるのを見逃しはしなかった。
﹁⋮⋮。﹂
眉根を寄せて折れたペンを睨む伯爵に、笑いそうになったのは内
緒だ。なんだかその不機嫌そうな顔が、近付きがたい伯爵をただの
同い年の少年のように見せかけていたのが可笑しかった。
﹁失礼、エインシュバルク伯爵﹂
そっと呼び掛けると、伯爵の双眸の中に自分が映し出される。白
銀の髪に深藍の瞳の自分は、もしかすると伯爵の色味に似合いかも
しれない、などと烏滸がましいことを少しだけ考えた。
﹁どうぞ、使って下さい﹂
予備として持っていた羽根ペンを、ゼファーは出来る限りスマー
トに差し出した。今使っている羽根ペンはペン先にそろそろガタが
来ている為に、これまた偶然その日持っていたものだった。
﹁││ありがとう。助かる﹂
ぶわ、と鳥肌が立つのを感じた。
声変わりを迎えていないのか、まるで少女のように涼やかな声だ
った。鈴の音のようなそれは、王太子達と話す時とは違って、柔ら
かみを帯びていた。
66
カリスマってこういう人の事を言うんだ。
ゼファーはその瞬間を今でも鮮明に思い出せる。きっと一生忘れ
ないだろうと思っている。
まるで稲妻に打たれたような感覚だった。衝撃的な感動は、ゼフ
ァーの心に楔を穿つようにして刻みこまれた。
その出来事を切っ掛けに、ゼファーは上手く伯爵の友人と呼べる
ような関係に躍り出る事が出来た。
近付いてみて分かったことが幾つかある。
伯爵は、完璧超人なのだが、それでも気を張って過ごしていた。
ゼファーと過ごす時、あからさまに緊張を解いて過ごす様は、大
変失礼な喩えであることを承知で言うなら懐いた野良猫のようだ。
猫というより獅子なのだが。
大公の令息達に射殺されるかという勢いで睨まれるようになった
が、それは自業自得というものだ。大人になれよ、としかゼファー
が彼等に言える言葉は無い。
伯爵は立場を弁え、誠実である事を、無意識のようだがこの上無
く好んでいる。分不相応な言動や欲深い相手には容赦がない。残虐
伯爵なんて悪名も、その一切の容赦の無さを表すのにこれ以上なく
的確かもしれない。
だからゼファーは伯爵との関係に心を砕く。近過ぎず遠すぎず、
下心を匂わせず、だが純真無垢を装う事もせず。
笑われるかもしれない。
何が望みで伯爵に近付くのか、なんて。
ただ僕は、この孤高の伯爵の、心休まる親友で在りたいのだ。
67
11
前情報として、地理の話をする。
このアークシア王国の国土は広く、感覚でいえば前世で言うとこ
ろのフランス、スペインあたりと同程度の面積を保持しているだろ
う。大陸の三分の一を占める大国である。
東に存在するリンダール連合公国は、四つの公国から成る国であ
る。面積はアークシアの二回りほど小さく、ドイツと同じぐらいだ
と考えられる。北西はデンゼル、北東にはバーミグラン、南西には
プラナテス、南東にはジオグラッドという公爵がそれぞれを治めて
いるという。
大陸の残り、南側では小国が犇めき合っている。人種が多い為だ。
まるで中世ヨーロッパのように戦が絶えず、千年以上の間併合と分
裂、興亡を繰り返しているらしい。
ゲーム内では一切語られることの無かったアークシア王国の外側
の話である。
ちなみに、アークシア王国はこの六百年ほど殆ど鎖国状態で、大
陸で最も平和な地帯である。
とはいえ辺境では稀に侵略に対する防衛戦が行われるので、うま
いこと技術の停滞は起こらないようになっているそうたが。
さて、なぜこのような話を始めたのかと言えば。
隣国リンダールの南西を治めるプラナテス公国から、私の伯爵領
とその隣のジューテス伯爵領へ密入国した一団が捕縛された。
その一団がまた厄介なもので、なんとプラナテス公国の南の、過
日に戦で滅びた亡国で奴隷狩りを行った、デンゼルの奴隷商人の一
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団であったのだ。
プラナテスでは奴隷制度は厳しく禁止されているが、デンゼルで
はそうではない。
奴隷商人達はプラナテスの南国境を越えたあたりで奴隷を秘密裏
に狩り、プラナテスで捕縛されるのを避けようとアークシアへ密入
国して北上していたのだ。
ジューテス伯爵領の国境付近にある赤の森を抜けて私の領に侵入
した一団は、魔物の森を越えてデンゼルへ戻ろうとしていたという。
捕縛した商人達はすぐさま敵対国からの密入国者として処刑した
が、問題は彼等の連れていた奴隷達である。
亡国から連れ出された為返す宛も無く、かと言って停戦調停中で
あるリンダールには、プラナテスにもデンゼルにも返す事は出来ず。
馬車を走らせて半年振りに自領に帰還した。
ジューテス伯爵と話し合い、奴隷達は全て私の領で引き取る事に
したのだ。その見返りとして、ジューテス伯爵領の関税をこの先五
年程軽くしてもらったが。
今は殆ど使い道の無い領主館で一時的に保護して貰っていた奴隷
達は、その殆どが私と同年代の、見目麗しい娘達であった。中には
少年も居るようだ。
この国には存在しない、珍しい浅黒い肌と白金色の髪は、確かに
趣味の悪い道楽として飾りにするにはぴったりの美しい色彩だとい
えた。
彼等の故郷である、今は無きジェンハンス小公国の民の特徴であ
る。商人共がデンゼルまで辿り着いていたならば、さぞや高値で売
れたことだろう。
戦争で疲労しきった直後に奴隷商人共によって五百キロメートル
以上も引きずり回され、痩せ細つて怯えきった彼女等には少々同情
69
を覚えた。
﹁心配はいらない。君達は私が保護をする事になった﹂
三十人ほどの彼等をこれからどう使うか、迷いどころではある。
学習院には二週間の公欠を届け出て来た。降って湧いた人手だ。
上手く見極め、必要であれば育て、使いこなさなければならないだ
ろう。
本集落の女連中を集め、暫く彼らの為に館を運営してもらう事に
なった。
﹁秋の忙しい時に済まない。給付金は弾もう﹂
﹁あたしらは別に構いませんよ、お館様。最近は隣領から移ってき
た人手もありますし、どうせ畑仕事が一段落した昼過ぎからの仕事
ですから!﹂
朗らかに笑う妙齢の女性達は、恐るべき容量の良さでジェンハン
スの少年少女達を清め、食事を与えて世話をした。
皆子を育て、孫を育てた経験のある逞しい女達なので、この仕事
には適役だった。
村の女達のお陰で、五日もすると子供達は随分元気を取り戻した
ようだった。精神状態も徐々に落ち着いてきたように見えた。とは
いえあれだけの事があったのだし、心のケアは生涯必要だろうが。
少年少女達の中では、いつの間にやら緩やかな上下関係が構築さ
れていた。自然、私が直接話すのは、リーダー役として⋮⋮という
より、姉や兄に近い役割を担っていた、年上のカディーヤとアニタ、
ヴァルトゥーラという三人となる。
70
カディーヤは一番年上、十八歳の少女で、幼い頃は父が羽振りの
良い商人であった為読み書きが出来た。
アニタは十七歳、従軍していた父に代わって働きに出た母を支え
ていたらしく、家事に長けている。
十七歳の青年であるヴァルトゥーラは、キャラバンの護衛で生計
を立てていた父に仕込まれたらしく、剣が扱えた。
その三人と、二十一人の少女達に、六人の少年。
何日も唸り続けて頭を捻り、やっと使い道が思いついたのは王都
に戻る二日前だった。
﹁カディーヤ、アニタ、ヴァルトゥーラ。私は明後日には王都に戻
らねばならない。だが、君達をこの領に置いておくことは出来ない。
一週間かけて様子を見てきたけれど、君達だけならともかく、十歳
そこらの子達に生計が立てられるような仕事は領内には無いからな﹂
カディーヤ達は神妙な顔で、話を始めた私を見詰める。自分達の
生活がどうなるのか、子供達の代表として、あるいは保護者として
私の言葉を聞いているようだった。
﹁なので、全員一緒に王都に来てもらうことにした。君達の仕事は
私の世話だ。よろしく頼む﹂
簡単に言えば、丸ごと家臣として抱え込むことにした訳である。
きょとんとしていられるのは今のうちだけだ。私の手足となれる
よう、王都に着いたら地獄のような教育が、それが終わったら働い
てもらわねばならないのだから。
71
12
カディーヤは私の侍女、アニタは女官長、ヴァルトゥーラは護衛
兼従者を勤めてもらわねばならない。
王都に戻ってまず始めに、テレジア侯爵の屋敷を訪ねた。
カディーヤを預けて、半年で使い物になるよう教育して貰えるよ
う話をつけておいたのだ。ついでにアニタ以下二十余名の子供達の
教育係として何人か人を手配して頂いた。
﹁亡国の奴隷を陪臣に育てるなど、初めて聞きますな﹂
﹁いけませんか?﹂
﹁いや、この国の民として認められてしまえば問題は無いでしょう。
﹂
テレジア侯爵の太鼓判であれば信頼出来る。何しろテレジア侯爵
から白といえば、この国では大抵のものが白になるのだから。
﹁それではカディーヤ、しっかりやるんだよ﹂
﹁はい、エリザ様﹂
きゅっと唇を結んで、それでもしっかりと頷いたカディーヤ。こ
の娘は他の子供達を見捨てる事も、私に拾われた恩義という忠誠心
も捨てる事はできない性格だ。
折角性格は使い勝手の良さそうな駒なので、有能な手足と成長し
72
てくれることを祈る。
次に訪れたローレンツォレル侯爵邸で、同じ様にヴァルトゥーラ
を預けた。
初陣の軍議で縁が出来、その後貴族院でも何かと気に掛けて下さ
る侯爵。栄養失調気味の青年一人を半年で使えるように、という無
茶なお願いを、とある交換条件と引き換えに了承して下さった。
﹁確かに預かった。学習院に戻り次第条件を果たせよ、エインシュ
バルク伯爵﹂
﹁はい、必ず。ヴァルトゥーラ、半年後を楽しみに待っているよ﹂
﹁⋮⋮アニタ達を、頼みます﹂
﹁勿論﹂
ローレンツォレル侯爵の出してきた交換条件というのは、いつだ
かの一件より疎遠になっていた王太子とその取り巻きと、付き合い
を戻すようにいうものである。
侯爵の口振りからするに、仲良くしていて欲しいのは孫のジーク
ハルトであって、王太子や大公の息子達はついでだろう。
ジークハルトを通してその父であり侯爵自身の息子であるローレ
ンツォレル伯爵とも縁を繋げさせたいのかもしれない。つまり、ロ
ーレンツォレル家自体と私を結び付けておきたい、という事だ。
武勲によって力をつけたにも関わらず、テレジア侯爵以外と殆ど
付き合いが無いという私の現状は、そのテレジア家とアークシア王
73
国の権力を二分しているローレンツォレル家としては黙っているわ
けにもいかないのだろう。
私としては願ったり叶ったりな話だ。孤立したまま伯爵位から引
きずり降ろされるのを防ぐのに、これ以上有効な人脈関係は無い。
もともと武勲で身を立ててしまった私としては、ローレンツォレル
家の後ろ盾は歓迎すべきものである。
とはいえ総帥の孫はともかく、王太子や大公家とまで縁を結ぶの
はいささか分不相応だ。不要な妬みを買うのは避けたい。
学習院に戻ると、久々に王太子が声を掛けてきた。
ねぎら
長期で学習院を空けた後は必ず王太子に出迎えられている気がす
る。私の地位関係から、必要な事なのだろう。労いを兼ねているの
かもしれない。
﹁おかえり、カルディア。賊は大丈夫だったの?﹂
﹁ええ。賊よりも、それが連れていた奴隷の処分の方が問題になっ
て領地へ戻っていましたから﹂
﹁奴隷?﹂
王太子の眉間に皺が寄る。アークシアでも奴隷は認められていな
い。野蛮な制度として忌避されているのだ。
﹁プラナテスの南国境に面した滅亡国から拐かされてきた者達でし
た﹂
﹁なるほどね⋮⋮。リンダールはデンゼル公国の蛮行をそろそろ抑
えても良いはずなのだけれど﹂
74
﹁抑えられる力がもうないのかもしれませんし、或いは他の公国に
とって都合が良いのかもしれませんね﹂
世間話に区切りがついたところで、ジークハルトを探す。彼は大
公家の二人とは少し離れたところで、何故かゼファーと話をしなが
ら此方を窺っていた。
好都合だ。ゼファーとは挨拶を交わす以上の友好関係を築いてい
ると言っても過言ではないし、彼とジークハルトの間に王太子達の
関与しない繋がりがあるならばそれを使わない手は無い。
﹁ゼファー、戻ったよ。ジークハルトも、久々に顔を見た気分だ。
変わりないか?﹂
﹁やあ、おかえりカルディア。お疲れ様﹂
いたわ
王太子の言葉などよりも、余程労りを感じられるゼファーのそれ
に、ふと笑いが漏れる。
﹁そちらこそ、道中無事で良かった。⋮⋮機嫌がいいな、どうした
?﹂
ジークハルトの返しは、ゼファーとは打って変わって距離感を探
っているようだった。
元々剣の訓練時に何度か組んでいた事もあり、私とジークハルト
の仲は悪くはない。疎遠になった後も、何かとこちらを気にしてい
るのは知っていた。大公家の二人に遠慮してか、話し掛けてきた事
は無かったが。
﹁人員不足の我が家に、かなり良い条件の人手が降って湧いたから
75
な。教育は必要だが、きちんと仕込めばかなり使えると思う。ああ
⋮⋮そういえば。ジークハルト、ローレンツォレル侯爵に一人、護
衛を兼ねた従者にする予定の者を預かって頂いた。よろしく頼む﹂
勿論、これは単なる社交辞令の一つだ。ジークハルトも他の生徒
と同様に、学習院の寮に住んでいる。ヴァルトゥーラに関して彼自
身によろしく頼む事など一つもない。
だがこれで、私がジークハルトとは付き合いを戻したいと思って
いる事は伝わる筈だ。
﹁⋮⋮ああ、分かった。不自由はさせない。祖父に任せたのであれ
ば、予想以上に優秀な従者になるだろうな﹂
﹁そう思って侯爵を頼った。戻ってくるのが楽しみだよ。そうそう、
私が欠席していた間の講義について、聞いても構わないか?ゼファ
ーも﹂
﹁問題無い⋮⋮そうだな、紙に纏めたものを明日持ってこよう。寮
で復習代わりに書き付けていたものだが、あった方がいいだろう﹂
﹁僕も明日でいいかな。残念だけど、今日は時間が取れそうにない
んだ﹂
﹁助かる﹂
和やかに会話を始めた私達に、大公家の二人からの鋭い視線が飛
んできていたのは無視する事にした。
76
13
学習院に戻ってきて暫く経った。どうも最近、面倒そうな噂が囁
かれている。
噂の内容は、ジークハルトが王太子派からエインシュバルク伯爵
派に鞍替えしたというものだ。いつの間にそんな派閥が出来ていた
のか。
そもそも私は王太子と対立なんてしていない。
確かにジークハルトは最近私、ゼファーと共に過ごすことの方が
多い。
王太子は立場的に大公家の二人から離れられないのだろうが、伯
爵位を持つ私とのコネクションは在学中は手放したくないようだ。
ジークハルトの言葉尻から察するに、王太子に誘導されて私達と
行動を共にしているようだった。
﹁ゼファー、君は院内の派閥関係について詳しいだろうか?﹂
﹁いや、あまり。うちは普通の辺境伯だからね。でも詳しい人にア
テはいくつかあるよ﹂
ゼファーは人当たりがよく、間接的な人脈を広げるのに長けてい
る。挨拶程度で留めずに仲良くなって正解だった。
﹁王太子と私が対立している構図を撤回したい。手を考えるために
詳細な派閥関係を調べたいんだが、生憎と君しか頼れる友人はいな
い。頼めるだろうか⋮⋮?﹂
77
頼めるか、と言えば、ゼファーが断われない事など知っている。
好血伯爵を敵に回したくない、あわよくば潰されるまでは利用し
たいと思っている貴族達の思惑は百も承知だ。
ゼファーも例外ではない。彼にそういう考えが無いと言えば嘘に
なるだろう。むしろそう思っていない貴族は余程の愚鈍か、大公家
のような雲の上の身分だけだと思う。
﹁勿論。話を聴いてくるから、三日後くらいには詳細を教えるよ﹂
﹁助かる。持つべきものは友人だな﹂
そういった思惑を知っていて尚、ゼファーは好ましい性格をして
いて、友人だと呼びたい存在だった。
彼は私の足元を掬うような真似はしない、という、不思議な確信
がある。頭がキレるのか、他人と距離を掴むのが上手いのだ。
私の友人という立場を手に入れた今となっては、私の地位を脅か
しても彼の家には何一つ利が無いということも信頼の理由の一つで
はあるが。
早速話を聴きにか、ゼファーは颯爽と身を翻して行った。何故か
耳が赤い。
もしかして照れているのか、いやそんな馬鹿な。私のこれまでの
行いや腹の中を鑑みるに、そこまで好意を持たれる訳がない。
話をしたきっかり三日後ゼファーはわざわざ相関図を起して持っ
てきてくれたのだが、一瞬自分の目を疑う事になった。
私を頂点にした派閥と、王太子を頂点にした派閥で学習院内がキ
ッチリ二分されていたのだ。勿論学習院を出れば意味も無いものな
のだが、ここまで派手になると後々の禍根として残りかねない。
78
問題となっているのは王太子ではなく、大公家の二人だ。
子供地味た言動を繰り返して突っかかる彼らを私が完全無視し、
冷戦状態にあると思われているのだ。全く面倒な。
あの二人さえどうにかすれば、王太子とも最低限の付き合いは出
来るわけで、派閥対立を煽られるような危うい関係も解消できる。
さて、どこを終着点として彼等との関係を改善するべきか。そも
そもあの捻くれた性格を紐解くべきか。
本人達と青春宜しくぶつかりあって友情に目覚めるようなルート
は御免被りたい。そもそも仲良くなると都合が悪いのだし。
という事は、暗躍か⋮⋮情報を集めて、貴族院等から手を回す必
要があるだろうか。
大公家の家庭状況という、ほぼ機密のような情報は調べるのに骨
が折れた。
比喩ではない。本当に左腕の骨を折ることになった。
幼少時のグレイスに仕えていた者達のうち、既に大公家を辞した
者達から探る事にしたのだが、とある一人の元メイドが借金取りと
揉めていたのである。丁度その女が娼館に引き摺られていくところ
だったので、邪魔するような形になった。
わざと女を庇って、左腕で借金取りの振り下ろした根棒を受け止
めた。騒ぎになると面倒だったので、伯爵への暴行を理由に警備の
兵に連行させる事にしたのだ。
平民街とはいえ白昼の大通り。様子を窺っていた警備兵は、タイ
ミングを見逃さずに良い仕事をしてくれた。
79
とはいえ、その女が欲しかった情報を握っていたのだから、くた
びれ儲けにならずに済んだ。僥倖である。
子供の性格の歪みは大抵家庭に問題がある。予想通り、大公家の
内情はあまり健全とはいえない状態であった。
エリックの母であり、大公の妾だった女は、エリックを出産した
五年後に事故で死んでいる。同時にグレイスの母であり大公の正室
である女は、グレイスの出産時に子宮をダメにしたらしく、子供が
作れない身体になった。
その後大公は新たな側室を取る機会に恵まれぬまま、今に至る。
そうしてエリックとその弟は妾腹でありながらグレイスの保険と
して認められているのだが。
厄介なことに、正室とエリックの関係が拗れているのである。
エリックの母とグレイスの母の関係は良好だったらしい。同時に
大公に嫁いだそうだが、エリックの母のほうが少し年長で、姉妹の
ように仲睦まじかったという。
だが、その女が死んだ事故はエリックに起因する。幼いエリック
が誤って階段から落ちそうになったのを母親が抱え込んで庇った。
母親は運悪く首の骨を折って死んだ。
故にグレイスの母は、エリックに対して複雑な感情を抱いている。
彼女はエリックの弟はグレイス同様我が子のように扱っているにも
関わらず、エリックに関してはほぼ居ないものとして扱っている。
エリックが九歳になる頃まで、完全に無視していたらしい。その
頃からエリックは義母に対して遠回しな嫌味を吐くようになり、義
母はそれだけは我慢できなかったのか、初めてエリックを無視でき
なくなった。
口を開けば嫌味が飛び出すのは、そうする事で唯一、エリックに
80
対しグレイスの母が反応を返す為だ。
子供の浅知恵だが最初にそれを提案したのはグレイスで、彼はエ
リックに母の事で罪悪感を抱いているため行動を共にしている。そ
のうちにあの嫌味な口ぶりが定着してしまったようだが。
つまり、義母の気を引きたくての行動が、そのまま他の人間にも
当て嵌められているのだ。
エリックとグレイスは、嫌味を言えばどういう形であっても気に
なる相手の気が引けることを知っている。単純な子供同士であれば
必ず反応は帰ってきていたはずだ。
気を引いて、大公家の威光を無意識に着て反撃を封じる。むしろ
それ以外の正常なコミュニケーションを殆ど知らないようだ。王太
子との関係を他にも当てはめてくれればいいものを⋮⋮。
私に対して感情を爆発させたのは、そんな一方的なコミュニケー
ションが全く役に立たなくなった為だろう。本当に面倒くさい。何
故私が同い年の男の子守をしなければならないのだ。
大公の息子という地位もあり、二人を諌められる人間は限られて
いる。
しかし、そういった連中は大公家の事情を知っているため、大人
気ない正室の女にも、子供地味た真似を続ける二人にも、同情が勝
って何も言えないようだった。
大人気ない真似をしているとはいえ、三十を超えた女ならばまだ
話が通じるか。息子二人に関わらずに事態を好転させられそうな手
段があって助かった。
さて⋮⋮大公家が出てきそうな夜会への招待状が、都合良く手元
にあったはずだ。出席の返事を返して、馬車を借りる手配をしなけ
れば。
81
蛇足ではあるが。
腕の骨を折ったことに関しては、アニタ達に泣かれたのでもう二
度としない。
82
14
夜会には二通りのものがある。
前世にあったものはどうだか知らないが、この世界の夜会には子
供を参加させられるものとそうでないものの二種類が存在する。
子供連れで参加できないものは貴族院を通して招待状が送られて
くる。
つまり、余計な邪魔を入れずに大人の話をする場なのだ。アダル
トな意味でなく、仕事的な意味で。
というわけで凖成人、年齢で言えばここにいてはいけない筈の私
ではあるが、貴族院の紋章入りの招待状を片手に今夜の集会場、ザ
スティン公爵の居城の大広間に堂々と立っている。
ザスティン公爵家、先々代の王の兄弟から派生した一族は、前世
で言うところの宮内省に当てはまるような役職を任されている。
具体的な仕事はおそらく別物だろうが、王族の事務を補佐し、後
宮を管理し、王宮の人事権を有する。文のテレジア、武のローレン
ツォレルとは一線を画してこの国の権力を握る存在である。
ついでに大公家について説明しておくと、あれは第二の王族のよ
うなものだ。
直系王族が途絶えてしまった時の保険であり、分身の術の使えな
い王族の、まさに分身として普段は働いている。危険な辺境の地の
慰問などを代理で行う、といった具合だ。王族とて遊んでいる訳で
はない。
仕事の一つに、国家としての外交を王家と大公家で一手に引き受
けている、といえばその膨大な仕事の一端すらどれほど忙しいか理
83
解できるというものである。
さて、大人しか存在しない、言い換えれば学習院の生徒が一人も
居ないこの会場に、私は敢えてドレスを着てやって来た。薔薇のよ
うに鮮やかな紅に黒色のレースとシフォン地があしらわれたドレス
は、シンプルな造りの為悪目立ちはしないものの、まるで毒華のよ
うだ。
学習院の学則に基づけば、これは礼装ではない。かといって、無
礼と罵られるような身なりでもない。左腕は首から三角巾で吊って
はいるが。
﹁ザスティン公爵に置かれましては、ご機嫌麗しく。今宵はお招き
頂けて、まことに嬉しくおもっております﹂
﹁、⋮⋮こちらこそ、エインシュバルク伯。若く優秀な伯爵にご来
訪頂けるなど、嬉しい限りです。お怪我の方は、具合は如何ですか﹂
﹁お陰様で、順調に治っていますよ。綺麗に折れているようで、医
師の話では後遺症も残らないだろうと﹂
ザスティン公爵とは普段貴族院でも付き合いがないので、おそら
く駄目元で夜会への招待状を送ってきたに違いない。彼はは会場入
りした私の服装を一目見るなり、夜会嫌いで通っている私がどうし
て今回やって来たのかを見抜いたようだった。
公爵は二言三言挨拶を交わすと、何も聞く事無く私を大公の元へ
連れて行ってくれた。
ところで、学習院の内情は、生徒の侍従達から雇い主の親へ筒抜
けである。
子供達自身はその事を知らない者の方が多い。王太子ほど察しが
84
良ければ、何となく気付いてはいるだろうが。
基本的に、貴族の家では親は子に自分の持つ情報を公開するよう
な事は無い。利があれば別だろうが、大抵幼い子供達ではその情報
を持て余してしまうからだ。
そういった背景もあって、学院内では私の詳細な情報が未だに出
回っていなかったりする。
戦場で私が何を行ったのかに関しても、何となく残酷な策を行っ
て勝利した、ぐらいしか大抵の生徒は知らなかったりするのだ。ゼ
ファーですら、何やら有効な見せしめをしたようだ、という情報し
か持っていない。
そういう訳で、貴族院に出席する大人達は下手な生徒より余程学
習院の内情に詳しい。
私と大公家の子息達の間の事も、表立って問題視されていないだ
けで、大抵が何かしらの思惑を抱えながら見守っている筈だ。
公爵も、その役職から大公家の問題には大いに頭を抱えていた事
だろう。彼が一石を投じるタイミングを見逃すはずがない。
察しが良くて助かるのはお互い様で、貴族社会では空気を読む能
力とやらがカンストする勢いで上昇する。レベルアップしなければ
ゲームオーバーしそうなクソゲーであるのは置いておくとして。
そんな貴族社会のど真ん中で生まれ育った大公も、例に漏れず察
しの良さだけは良いらしい。一瞬で全てを理解したようだった。私
を連れたザスティン公爵を見て、私のドレスの意味を読み取り、ま
るで裁かれる罪人のような目を一瞬だけ見せた。察した空気をどう
にかする能力は、怪しいところではあるが。
貴族院に直接的な縁のない為か事態の呑み込みが遅れた妻に手早
く私を紹介して、公爵にサロンを借り頭の痛そうな様子で移動を開
始する大公。自分の家族をきちんと手に負うことが出来なかったあ
んたが一番悪い。大黒柱だろう、しっかりしろ。
85
﹁はっきり言わせていただきます。あなた方の御子息二人には大変
な迷惑をかけられています。まだ私一人であれば問題はありません
が、王太子殿下の顔に泥を塗る行いは臣下の一人として見過ごす訳
には参りません﹂
人払いをしたのは大公の方である。まどろっこしいやり取りを挟
む気は無いという意思表示として受け取った。
大公は私の言葉に黙って首を縦に振る。
﹁まだ凖成人ではありますが、大公家のご子息達ともあろう方々が
学院という公式の場であの様な振る舞い。││このまま家長として、
親としての責務を果たすおつもりがあなた方にないのであれば、次
の貴族院で問題として提起させて頂きます﹂
つまり大公家の不始末を表沙汰にするぞ、という脅しである。面
子にこだわる生き物である貴族にはこの上無く効く文句といえる。
全面的に非のあることを自覚している大公には握り潰すことなど
不可能。後ろ暗い事にはなるべく無縁でありたいという、我が国の
王族特有の高潔な精神を利用した手ではある。
大公は、これにも首を縦に振った。同情心だの何だのは捨てて、
腹を括ってきちんと責任をとってくれ。
﹁何が問題を生み出しているのかは、私などよりも奥方様自身がよ
くお解りでしょう﹂
大公の背に隠れて震える、三十路にもなって少女のような女へ直
接話を振る。
86
大公には言う事は言った。元凶にも釘を刺して金槌でしっかり打
ち込んでおかなければ、わざわざ左腕の骨を折った苦労が水の泡だ。
この女は既に全部承知の上だ。
本当は自分がエリックへ謝罪し、態度を改めればいいのも、自分
がそうしたいと願っている事も。
姉のように慕った人の産んだ子供に、自分のせいで性格を歪ませ
てしまった。それをこの女は後悔している。エリックに嫌味を吐か
れて反応を返してしまったのはその為だ。
││借金取りから守ってやった元メイドの女から聞いた話によれ
ば、この女はエリックの嫌味に顔を強張らせるという。
その存在を嫌って無視していた相手に嫌われた、そうであるなら
ばそんな反応はしない筈だ。誰かを嫌い、それを隠さず相手を傷つ
ける言動とは、普通相手にも自分への憎しみを募らせる事を目的と
するものなのだから。
だからこそ、この女は勝手だ。
先に子供の柔い心をズタズタにしておきながら、自分は悲しむだ
なんて。
そうして、今も許しを乞う勇気が出せずに、エリックを傷つけ続
けている。十三にもなって成長しないエリックに同情の余地は無い
が、どう考えても諸悪の根源はこの女だ。この女がまともな母親と
しての自覚を持って責任を果たせば、この問題は綺麗に解消される
のだ。
グレイスに関しては、エリックの問題が解消されれば勝手に名誉
を挽回するくらいの能力はあるから問題無いとして。
そもそもの話。敵に見せしめとして串刺し死体を並べるような私
だが、クラスメイトがネグレクトという虐待を受けているのを、見
過ごせるほど冷血になったつもりはない。
87
﹁私から言えることは以上です。大公閣下から何も無いのであれば、
退出をお赦しいただきたく﹂
しばら
ためら
大公閣下から、とは言ったが、私は視線を大公の正室から外さな
ようや
かった。彼女は真っ青な顔で暫く黙っていたが、大公に躊躇いがち
に促されて、漸く首を縦に振る。
了承したという事だ。上流貴族の約束事であるからには、きちん
と果たしてもらわなければならない。
結局言いたいことを一方的に言うだけで終わってしまった。大公
夫妻が自責の念に駆られて口を噤んでいたので仕方が無いが。
責任能力の無い子供でもないのだし、この問題は解決しなければ
とずっと思っていた筈だ。これを機にきっちりカタを付けてくれる
だろう。
勿論大公閣下の名誉のために、大公家は期を見ていたのだと言う
事にしておく。変に悪評を流して大公の恨みを買うなんて事態は何
が何でも回避しなければ。
88
15 side:エリック・テュール・ドーヴァダイン︵前書き
︶
エリック視点の話となります。
89
15 side:エリック・テュール・ドーヴァダイン
なんなんだよあの男。女みたいなくせして、スカしてて、本当に
ムカつく。
エインシュバルク伯爵││エリザ・カルディア。女みたいな顔と
名前で、なのに武勲で陞爵した、アルフレッドと同じくらいに遙か
上を行く存在。
最初は、俺とグレイスにすぐに言い返してきたから面白い奴だと
思ったのに。
もしかしたら仲良くなれるかもと思った。伯爵は頭が切れる。一
部で神童と囃し立てられているのも、国内の有力な貴族達に目を掛
けられているのも伊達じゃない。
だから俺とグレイスがいくら酷い言葉を言っても、話し掛けるの
にそんな言葉しか知らなくても、あいつは涼しい顔で受け流してく
れて、分かってくれているんだと思っていた。
甘えていたのは分かってる。けど、許してくれているんだと思っ
ていた。
けど、違った。あいつは俺達のことなんて、どうでも良かっただ
けだ。
いつの間にか伯爵はモードン伯爵家の長男と仲良くなっていて、
俺達は知らなかった、或いは気付かないフリをしていた現実を思い
知らされる事になった。
伯爵││あいつ、モードンと話しているとき、俺達には見せない
柔らかな表情をしていた。
90
一発で理解したさ。あれが、あいつが友人に見せる表情なんだっ
て。俺達は厄介者としてあしらわれていただけなんだって。
訳の分からない悔しさと怒りで、気付いたら俺達と伯爵は決定的
な仲違いの状態に陥っていた。
どうしよう。こんな筈じゃなかったのに。俺達が最後に言った酷
い罵倒の言葉すら、あいつにはどうでもいい事で。
どうやって謝ればいいのか、どうすればまともな友人になれるの
かも解らないまま、どんどん伯爵と仲良くなっていくモードンに焦
りと妬みと悔しさが募っていく。
グレイスも伯爵達を睨んでいたけれど、多分思っていることは少
し違う。どちらかというと、冷静な伯爵に対して憤ってるように見
えた。
そうして何ヶ月も、俺達と伯爵は一言も口を利かなかった。
冬の訪れが感じられるようになったある日、伯爵は二週間程学習
院を休んで領地に戻って行った。
家臣に任せられない問題でも発生したのだろうか。
山脈に近いカルディア伯爵領には、もう雪が降るかもしれない。
もしそうなったら、春になるまであいつはずっと戻ってこない。
やっぱりきちんと謝って、ちゃんと友達になりたいと伝えるべき
だった。
自業自得とはいえ後悔に沈んだ俺達を見かねたアルフレッドが、
カルディア伯爵領の様子を調べてくれた。雪はまだ降っていないら
しかった。
戻ってきたら言おう。今まで悪かったって。本当は、伯爵と仲良
くなりたいんだ、って。
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﹁グレイス、協力してくれ。俺、本当は伯爵と仲良くなりたいんだ。
戻ってきたら、謝りたい﹂
﹁そんな事、解ってたよ。俺はお前の兄貴なんだから﹂
グレイスは昔やったみたいに、俺の頭を軽く撫でた。グレイスが
いれば心強い。伯爵がなんて答えるか、考えるだけで今でさえ心臓
が痛いくらいに脈打つけど、グレイスが応援してくれるならきっと
やれる。
そんな風に、決意したはずなのに。
結局今でも俺は、勇気が出せないままでいる。
領地から戻ってきた伯爵は、どんな心境の変化か、ジークハルト
との関係を積極的に改善していった。
なんで、あいつ、ジークハルトだけ。
言おうと思っていた言葉は喉の奥で凍りついて、足も床にへばり
ついて、馬鹿みたいに棒立ちするしかなかった。
泣きそうなほどの悔しさと遣る瀬無さで、仲良く話をしている三
人を睨んだ。
アルフレッドがジークハルトに伯爵と出来るだけ仲良くしていて
欲しいなんて言ったから、ジークハルトは伯爵に俺の話なんて振ら
ない。折角やっと築けた友好関係を、俺の為に壊すようなリスクは
ジークハルトもアルフレッドも冒さないのは解っている。
だから俺が自分で声を掛けるしかない││この頃になると、グレ
イスは俺に付き合っているだけで、別に伯爵と仲良くなりたいと考
えているわけじゃない事はもう分りきった事だった。
グレイスはいつもそうだ。
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別に仲良くなりたいわけでもない伯爵に、俺に付き合って憎まれ
口を叩き。
別に仲違いしたい訳じゃない実の母親に、俺に付き合って憎まれ
口を叩く。
これじゃダメだ、って頭の何処かでは分かってるさ。でも、もう
やめようの一言も、いつまでも言えない俺はやっぱり甘えている。
そんな思いを抱えたまま浪費した一ヶ月半は、思わぬ所から終わ
らせられた。
﹁は⋮⋮?﹂
思わず間抜けな声を上げながら、俺は目の前に立つ執事の顔をを
見上げた。こいつは三年間寮生活をする俺とグレイスの面倒を見る
ために父上が付けた執事で、普段は俺達をなるべく避けるようにし
て働いていた。勿論俺達が吐く嫌味や暴言を聞きたくない為だろう。
そんな奴が俺を呼び止めたのも珍しい事だったのに、そいつが伝
えた話の内容が、俺には信じられなかった。
﹁⋮⋮何だって?﹂
﹁ですから、奥様がお話があるそうで、明日からの週末はお屋敷に
戻るようにとの事です﹂
奥様、って、あの人の事、だよな。
俺達の、母上。
││俺は捨てられるのかもしれない。真っ先に思ったのは、それ
だった。
ずっと憎まれ口を叩き続けた。俺の事を見もしなかったあの人が、
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そうする事で僅かにでも反応してくれたことが嬉しくて、もしかし
たら怒ってくれるかも、或いは叱ってくれるかも、なんて甘えた事
を考えていた。学園でも、伯爵に同じような事をして、挙句決裂し
て。
だけど、公爵家にはグレイスがいて、弟がいる。もしも俺さえ居
なければ、四人は普通の家族になれる。
まるで死刑宣告を受けた気分で、自室のベッドにみっともなくへ
たり込んだ。
後悔しか浮かばない。
もし伯爵が帰ってきた時に、考えていた事をいう勇気があったな
ら、母上やグレイスとの関係を変える勇気も持てただろうか。
もしもあの伯爵と俺がまともに友人になれていれば、母上が俺の
事をちゃんと見てくれるような手も、あいつなら考えてくれたかも
しれない。
グレイスだって、俺がちゃんと口に出して言っていれば。俺と一
緒に評判を落とすような真似をしなくても良かった筈だし、母上と
不仲になるような事もなかった。
俺が悪い。俺が甘ったれなのが全部悪い。
もしかすると俺は教会送りになるかもしれない。貴族社会とは一
切無縁の土地で、一生を監視されながら過ごす。破滅した貴族の末
路はそんなところだ。
冬を越すまでなんて、そんなの。
一生会えなくなる前に、伯爵に││あいつに、エリザに。言わな
きゃいけない事があっただろう、俺には。
94
16
次の週末に、エリックと話をすることにしました。ご迷惑をお掛
けして、大変申し訳ありませんでした。
ざっと要約するにそんな内容の手紙が届いた週末前の夕方。
あぶ
未だに少し要領の悪い、メイド・執事見習いの子供達の働きぶり
もと
を眺めながら、名主達こと庶民院の皆と、元テレジア家の陪臣の溢
れもの元い領立庶民学校の教員団から届いた書類を読む。
教育は一年目がそろそろ終わる為、卒業する十歳の子供達をどう
使うかを考えなければならない。
なにしろ発足させたばかりの制度であるし、実験的な要素も含ん
でいる。これから先安定した学校制度が領民全員に根付くまで毎年、
子供達の成長度合いによってその進路をどうするかを決める必要が
あるのだ。
折角ジークハルトと仲良くなったことだし、ローレンツォレル伯
爵とそろそろ直接的な繋がりを作って、交換留学でもしてみるべき
か。
こっちからは牧畜を学ばせに、あっちからは小麦の栽培を学ばせ
に。
とはいえ交換留学をするにはあちらと足並みを揃えて条件を擦り
合わせて⋮⋮来春までに纏められる案件じゃない。これは保留だ。
他に何かいい案はあるだろうか。
学校に教師役として残せばいいのか。軍に入りたい子、教師に成
りたい子、農業に戻りたい子、その他専門職の四枠で進路面談して
希望を取らせ、簡単な採用試験と適性試験を行ってもう一度進路面
談。
95
採用試験、適性試験は、それぞれ教員団・伯領軍と細かく話し合
う必要がある。だが、これなら自領内のスケールに収まる話なので、
来春までに間に合わせることが出来るだろう。
専門職希望の子は技術を磨けるように留学させるのも視野に入れ
ておこう。テレジア侯爵やゼファーに話を聞いて、アークシアの諸
領の特産物や盛んな技術のデータを頭に入れておかないと⋮⋮。
﹁エリザ様、紅茶のおかわりをお注ぎします!﹂
﹁ありがとう、シャーハティー。紅茶を淹れるのが随分うまくなっ
たね﹂
十一歳のシャーハティーは、あどけない顔を無邪気に綻ばせて、
紅茶を出来る限り丁寧に注いだ。
アニタから最近、リビーヤと二人でカチヤを取り合っていると報
告を受けたので、その成長速度には侮れないものがあるのだが。
一番年下の三人組のうちシャーハティーとリビーヤは女の子であ
るからか、他が全員年上であるという環境に釣られて少しばかりお
ませさんだ。逆に男の子のカチヤはお姉さん達に甘やかされていて、
うな
本人も甘えるのが上手いという典型的な末っ子気質に育っている。
最近は夜中に魘される事も少なくなってきたようで、酷かった隈
も薄れてきていた。このまま落ち着いてくれればいい、と切に思う。
﹁そうそう。五日後の午前中に、カディーヤが此処へ遊びに来る。
私は残念な事に講義があるから会えないが、皆でおもてなしして欲
しい。お姉さん達に伝えておいてくれるかな、シャーハティー?﹂
﹁カディーヤ姉様が?ほんと、エリザ様﹂
唯でさえ大きくて零れそうな目をさらに大きく見開いて、シャー
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ハティーは子供らしく喜んだ。本当だよ、と頷けば、堪えきれなく
なったのか小さくぴょんと飛ぶ。
﹁姉様達にお話してきますっ!﹂
興奮してはいるものの、ティーセットの載ったカートを下げるの
は忘れてないのは教育の賜物だろう。
貴族社会の常に相手の思惑を三つも四つも考える必要のあるやり
取りのせいで、確実に疲労している私の心には、あの素直な感情表
現は癒しとしか言い様がない。
シャーハティーを見守っていたアニタと二人、目配せをして和み
合う。
﹁君達の様子を見に来るだけだが、本人も慣れない環境に一人でい
るから疲れているだろう。故郷の料理を作ったりして、気を休ませ
て上げてほしい。その日の午前はそれ以外の仕事は無しだ。全員で
カディーヤをもてなしてくれ。出来るね、アニタ﹂
﹁はい、エリザ様。⋮⋮あの、ありがとうございます﹂
﹁何がかな﹂
﹁私達への労いも含んでいるのでしょう?﹂
しらを切ったがバレていた。主人の思考を読んで先回りするとい
う有能さの代名詞のような能力を、とうとうアニタは身につけたら
しい。
﹁⋮⋮それから、特別手当を出すから、前日の昼は皆で買い物をし
ておいで。貴族街から出なければ、夕方までは好きなものを見てい
97
て構わない﹂
成長は嬉しいが、簡単に思考を読まれたのはちょっと悔しかった
ので、急遽労いを上乗せすることにした。アニタは先程のシャーハ
ティーのように目を真ん丸にして、││ぎゅ、と。喜びのあまりに
抱きつかれた。
﹁エリザ様ったらエリザ様ったらエリザ様ったらもう!もうっ!﹂
どうやら感動も混じっているらしい。全く意味の読み取れない、
ただ喜んでいるのはわかる声を上げたあと、正気に戻ったのか真っ
赤になって離れた。
﹁も、申し訳ありません⋮⋮﹂
﹁いや、構わない。シャーハティーと同じように、皆に伝えておい
で﹂
早く誰かと感情を共有して盛り上がりたいだろう。女の子という
のはそういう生き物なのだし。
そう考えて許可を出すと、アニタはもう一度ぎゅむ!と私の頭を
抱き締めて、踊るように部屋を出て行った。
やはり彼女達の素直な感情の吐露は、和む。
﹁エリザ様ぁ!﹂
そこへアニタと入れ違うようにカチヤが駆け込んできた。何事だ。
手に持っていた書類を机に戻して文鎮で留め、どうした、と努めて
冷静に声を掛ける。泡を食っているように慌てたカチヤを落ち着か
98
せる為だ。
﹁お急ぎのお客様で、なんか、凄い焦ってるお兄さんが﹂
落ち着きはしたがまだ少々混乱しているのか、最近は綺麗な敬語
を話すようになっていたカチヤから地が出ている。
凄い焦っているお兄さん、に心当たりなどないが、この寮を訪ね
てきたという事は私に用がある人物には間違いないだろう。
﹁知らせてくれてありがとう、カチヤ。急いでいて疲れただろうか
ら、そこのソファーに座って休んでいなさい﹂
執務机として使っているテーブルから腰を上げ、すれ違いざまに
軽く撫でてカチヤを労う。
さて、来客とはどんな奴なのか。
││全く予想していなかった相手ではあった。
向かった先のエントランスで待っていたそいつを見て、久々にぎ
ょっとさせられた。
何でここにエリックが来る。
まさかカチヤにいつもの調子で嫌味や暴言を言ってはいないだろ
うな。
﹁││何用で来たか教えてもらえるかな、エリック・テュール・ド
ーヴァダイン殿﹂
とりあえず声を掛けながら階段を降りる。話をするにしても応接
間は一階である。
エリックはぱっと顔を上げた。人の顔をまじまじと見詰めながら
何度か口を開いたり閉じたりして、やっと話し始めた声はひどく震
99
えていた。
﹁あっ、⋮⋮あの、は、伯爵││突然来て、め、迷惑だとは、分か
ってるけど││﹂
そうして言い出した言葉は、謝罪の類である。驚いて足が止まり、
階段から降りずに見下ろすような形になった私に構いもせず、エリ
ックは切羽詰まって泣き笑いのようになった表情で、言った。
﹁││っ、どうしても、聞いて欲しいことがあるんだ。最後になる
かもしれない、から﹂
なにやら決意じみた嘆願であった。
お馴染みの言葉を今回はちょっと変えねばならないだろう。
どうしてそうなった。
100
17
﹁今まで、悪かったって思ってる。俺、本当はただ、伯爵と仲良く
なりたかった。でもあんな酷いこと言っていて、仲良くなれたらな
んて、とんだ甘えだよな。伯爵が何とも思ってない事は知ってるけ
ど、謝らせてほしい。この通りだ﹂
応接室に通すなり、エリックはそう言って頭を下げた。
それも、大罪人が処刑前に取らされる跪謝請礼という、両手を胸
の前で組んで膝と額を床につける、この国の中で最も屈辱的とされ
るポーズ付きで、だ。
そんな事をされても何が何やら⋮⋮
﹁君の言うとおり、私は何とも思ってないが、謝罪は受け入れる。
だからその仰々しい礼をすぐにやめてくれないか。大公家の子息に
大罪人の真似をさせたと、逆に私が罪人として捕らえられそうだ﹂
テレジア侯爵から借りているアニタ達の教育係の一人にでも目撃
されたら死亡フラグが一瞬で立ってしまう。
エリックはすぐに立ち上がったが、その顔にはどこか達観したよ
うな苦笑がほんのりと乗せられていた。
﹁謝罪を受け入れてくれるとは思ってなかった﹂
きょうりょう
﹁本人が楽になるための謝罪を、思う所もないのに突っ撥ねるほど
狭量になった覚えはないが⋮⋮﹂
﹁やっぱ言うね、伯爵。ああそうだ、伯爵が捕らえられるなんて有
101
り得ないから、安心してくれ。どう考えても俺は教会送りになるし。
そしたら、俺の地位は剥奪されるんだし﹂
だから、何がどう転んで捻ってすっ飛んだらそうなる。
大公家に話をつけたのは私自身だ。
きちんと責任を取り、歪みを直すようにと││待て。今回の騒動
の原因である大公家の不仲は、一体どの程度の貴族が知っている事
なのか。
テレジア侯爵は軽くであれば知っていた。彼のアドバイスに従っ
て、当時を知る元メイド達を探ったのだ。
彼女達の殆どは、時期が合わなかったり、勤めている期間が短か
ったりと、事件の全貌を知らず、話を繋ぎ合わせようにも視点が異
なり過ぎて使えなかった。
骨を折る真似をして助けたたった一人の元メイドだけが、長い年
月をかけて歪んでいった大公家の問題の全貌を知っていた。
だが、ゼファーは何も知らないようだった。彼が知らないならば
学生の殆ども同じと言っていいだろう。
ゼファーの父君にも確認させるべきだったかもしれない。貴族院
での情報収集を怠ったのも今になって手痛い失態になった。
もし、エリックと義母の不仲が露見せずにいるなら。
││家の外で問題を起こしたエリックを処分したほうが、大部分
にとって手間が掛からない。貴族としての外聞を気にするならば、
エリックを責任をもって罰し、貴族社会から離れた所で飼い殺しに
するのが最善の手だ。
﹁伯爵?どうしたんだ、突然黙り込んで⋮⋮﹂
自分の無知が招いたかもしれない、恐ろしい失態に顔が青褪める
102
のを自覚した。
そんな馬鹿な事、あってたまるか。
エリックはまだ子供││いや、この世界に子供の権利は無いし、
そもそも彼は既に准成人を迎えた自己責任の立場にある。
そんな馬鹿な事、あってたまるか。
虐待を受けた方の被害者の子供が、歪んだコミュニケーションを
発信して││つまり、外に不器用ながらに助けを求めて、恥を晒し
たと罰を受ける?
そんな馬鹿な事、あってたまるか。
そんな、馬鹿な話が、あってたまるか。
﹁⋮⋮そんな責任の取り方があってたまるものか。ふざけるなよ⋮
⋮!﹂
﹁え、伯爵、何を⋮⋮﹂
それを受け入れているエリックが、この世界の﹃常識﹄だ。
﹁エリック。事情が変わった。今夜は当家に滞在していってもらお
う。明日は大公家に付き添わせてもらう﹂
﹁えっ、どういう事、突然⋮⋮﹂
﹁何故同い年の男の面倒など見なければならないと思っていたが、
こうなれば話は別だ。くそ、私とした事が半端な事をした⋮⋮お前
が今日ここに来なければ、私は自分を恨む嵌めになったかもしれな
い。﹂
103
私と大公家の間にあった話など知りもしないエリックは、全くつ
いていけないという表情で﹁はぁ⋮⋮?﹂と気の抜けた声を上げた。
﹁気を抜いている場合か。君の正念場は私への謝罪などではなく、
母君との話し合いだろう。しゃんとしろ﹂
﹁ええ?いや、話し合いって⋮⋮何が?﹂
自分が一人全ての責を負って処断されるものと受け入れきってい
るエリックに、どうせ前世で知った児童虐待の話など理解できはし
ないだろう。
埒が明かないのでもう放っておいた方が効率的かもしれない。ど
うせ大公たちがどういうつもりでいるのか、明日になれば分かると
いうものだ。
困惑するエリックを放置して、アニタを呼んだ。
﹁客に一晩滞在して頂くことになった。急ぎで悪いが、食事と風呂
と客間を一つ、用意をしてくれ。大公家の御子息なので失礼のない
ように。それから一人、大公家に宛てられた寮に使いを出してくれ。
明日エリック殿はエインシュバルク伯爵の責任で必ず大公閣下のお
住まいまで送り届けさせて頂くと﹂
﹁はっ、はい!﹂
にわか
屋敷中が俄に騒がしくなった。客を迎えるのは初めての事の上、
急な話に皆が慌ただしく働いているに違いない。
﹁なぁ、一つだけ聞かせてもらってもいいか、伯爵﹂
104
それまでぽかんと惚けたままだったエリックは、ようやく我に返
ったようだった。
﹁何だ?﹂
﹁さっきはああ言っていたけど、何で今更、俺の面倒見る事にした
んだ?﹂
気にする所はそこなのか。まぁ、今の今まで無関心だった相手が
何故、と思うのは理解できる。確かに私の立場からするに、別にエ
リック教会送りルートでも何も問題は無い。グレイズはがっつり歪
むだろうが、それを再び表に出させる大公家ではないだろう。
﹁単なるクラスメイトのままなら放っておいたかもしれない。大公
家が既に終わらせた事をひっくり返すような力は私にはないからな﹂
﹁じゃあ、なんで?﹂
﹁君が、今日自分の意志でここに来たからだ。仲良くなりたかった、
と言ったのはそちらだと記憶している﹂
友達の面倒ならば、見るつもりはある。
⋮⋮というのは勿論建前で、今でも友人関係は御免被りたいが、
己の不始末が招いた事態だ。今回ばかりは、仕方ない。
﹁⋮⋮おい、エリック?どうした、呆けてる場合か。何で君は唐突
に固まってるんだ。窓に化け物でも見たのか、おーい﹂
105
折角喜びそうなことを言ってやったのに、なぜこいつは石になっ
ているんだ。言い損じゃないか。
106
18
馬二頭を駆って二人、ドーヴァダイン大公城を訪れた午前。美し
く手入れされた庭園の、融けた霜が露となってキラキラと輝くのが
応接室の窓越しに見える。
そんな庭園の主である大公は、何で私がやって来たのかさっぱり
意図が掴めないと大変な困惑ぶりで、その妻共々どこから話を切り
出そうかと考えあぐねているようだった。
エリックは義母と、先程から気不味そうに相手を見ては視線が合
い、慌てて顔を逸らすという行動を繰り返していた。
お見合いかなにかか。
ついつい﹁では後は若い二人で⋮⋮﹂等と口走りそうになる。
沈黙の中に時折ティーカップが微かな音を立てる空間が出来て三
十分強。
ようや
エリックにそっと袖を摘まれた。やめろ、皺が寄るだろう。
だが、その行動で漸く決心がついたらしい。エリックが強い眼差
しで義母を見据えた。
﹁⋮⋮ぅ、その、は⋮⋮母上﹂
﹁⋮⋮、はい﹂
﹁っ、││お話の、前に、話したい事が、あるんです﹂
やっと始まった元凶二人の話し合いに、内心でやれやれと溜息を
吐くくらいは許されて然るべきだろう。
107
そもそもここへ来て、夫妻の顔を見た時点で昨晩の私とエリック
の不安は全くの杞憂であった事は分かっている。
大公が息子に対してもきちんと後ろめたさを感じていてくれて良
かった⋮⋮。
それでも此処に残っているのは、面倒を見ると大見栄を切って決
めた手前、途中で放り出すのが忍びなくなったからだ。
そうして目の前で繰り広げられる、二時間スペシャルドラマで言
えば山場のあたりではなかろうかというシーンを、大公と二人で静
かに眺め続けた。
出来ればもう二度とこんな馬鹿みたいな状況が起こらないように
子供と親のコミュニケーション教本でも作って今回のエピソードを
載っけておいて欲しい。無論冗談である。
一応対外的なアピールとしてか、エリックは一ヶ月の自主自宅謹
慎になるらしい。グレイスとは明日話をするそうで、これで大公家
の二人の問題は何とか片付いただろう。
王太子とのやり取りも再開されるだろうし、グレイスは知らない
がエリックとの個人的な関係はあの様子だと勝手に深まりそうだ。
はぁ⋮⋮。
週明けからはジークハルトとの距離を開けてバランスを調整しよ
う。
﹁それでは、私は学習院に戻ります。﹂
﹁お気を付けて。⋮⋮どうも、ご迷惑をお掛けして申し訳無かった
な、エインシュバルク伯﹂
全くである。なんて、皮肉は噛み殺して呑み込んで、ただ曖昧に
微笑んでおいた。さて、帰るか。
108
﹁伯爵!││、あの、また⋮⋮学院で。﹂
﹁ああ。学院で待っている。⋮⋮一ヶ月あるのだし、母君と心ゆく
まで話をしておくと良いと思う﹂
付け加えたアドバイスに、エリックが照れ臭そうに笑う。せいぜ
い笑ってられるのも今のうちだ。この一ヶ月は甘やかされるためで
はなく、その大公家の令息とは思えない口の悪さを叩き直されるも
のなのだろうから。
大公とエリックに見送られて門を潜り出た。
春までもう、何も起こらないといいが。
普段の行いが良ければ願いが叶うというのは本当なのだなぁ⋮⋮。
つまり、私の願いは丸きり却下されたわけである。
⋮⋮先程、隣国リンダールのデンゼル公国で、再び戦の準備が始
まったという報告が入った。一足早い春休みと洒落込んで、伯領軍
に領民を加えて編成しなければならない。
それにしても懲りないな、デンゼル公爵は。
前回の戦では躊躇いなく、捕虜の子供に至るまで残虐な手でもっ
て殺してやったというのに。
戦争をするのは金がかかるのだ。
あがな
賠償金のかわりに、侵略される度それまでの戦で捕虜とした人民
の命で贖わせているが、そんな事を何度も続けているなんてよく反
乱が起きないと感心する。
私の初陣となった戦が起きるまでは十五年ほど平和だったようだ
109
が⋮⋮。クールダウン期間を使うのが上手い。そうして領民の怒り
の矛先をアークシアに向けさせ続けているのか。愚かしいが、無能
ではないあたりがうざったい。
⋮⋮そもそも相手が賠償金を払う気が無い事も、停戦協定を結ぶ
気も無いのだから、捕虜は戦後一ヶ月で殺してしまってはどうだろ
う。飼っておいても役に立たないなら、タダ飯食らいを養う必要な
んて無いのではないか。
取り敢えず、私が戦死してしまった時の為の書類をもう一度引っ
張り出さなければ。勿論後見人と国王陛下に丸投げしますよ、とい
う内容のものだが、あれが無いと領民達の苦労が増える。
ところが、必要な書類を提げて貴族院での戦前会議に出席するな
り、﹁此度の戦は参戦禁止﹂という勅命状がテレジア侯爵から手渡
された。
﹁どういう事です?﹂
﹁今死なれたら困る、という事ですな。春が過ぎたら頼まねばなら
ない用事がありますゆえ﹂
全く意味がわからない。頼まれる用事というのは学院での何かだ
ろう、それ以外に思い当たるものは無い。
とはいえ、内容はさっぱり分からないので、侯爵以上の重鎮達で
まだ秘密裏に話し合われているという事か。 爵位が上がったので、上層部としては私をそう簡単に死なせる事
が出来なくなった、というのも考えられる。
﹁お言葉ですが、⋮⋮テレジア侯爵。エインシュバルク伯爵は戦に
おいて天賦の才をお持ちのお方です。伯爵の策あればこそ、民の損
110
失を千も、万も抑えられるというもの﹂
ローグシア下級伯爵の発言に、貴族院が一斉にざわめき出す。ロ
ーグシア伯爵に同意する者、それに反論する者。勅命状に異を唱え
たのは殆どが伯爵位以下の下級貴族で、貴族院の大部分である。
ふむ⋮⋮。下級貴族達は私を戦に引き摺り出したいらしい。カル
ディアの血を蔑む者もまだ残っているだろうし、女でありながら上
級伯爵になった私はさぞや目障りだろう。前回の戦でリンダールに
私の悪名は轟いている事だろうし、今回の戦から私の戦死率はかな
り高くなっている筈だ。
逆に王家や上級貴族達、私の参戦を阻む者達は、その春過ぎに頼
む用事とやらがかなりの厄介事なのか、或いはこれ以上私に武勲を
上げられては困るのか⋮⋮まぁ、両方だろう。
﹁鎮まれ、皆の衆。﹂
大公の一言で貴族院は静まり返った。息子と妻の問題ではあんな
に情けなかったのが嘘のように、貴族で最も地位の高い男は威厳に
満ち溢れている。最大のウィークポイントが無くなったからか、寧
ろいつもより力ある声だった。
いくさごと
﹁何も陛下はエインシュバルク伯に、戦事そのものに関わるなとい
っている訳ではない。兵を率いて戦場に立たずとも、出来る事はあ
る。そうであろう、ローレンツォレル侯。﹂
﹁勿論でございます、大公閣下。エインシュバルク伯には作戦の立
案で働いて頂けばよろしいかと﹂
軍事に関しては、ローレンツォレル侯爵の人事に異を唱える者は
流石にいなかった。
111
取り敢えず今回は作戦を考えるのに専念しろという事らしい。何
をするかな⋮⋮。アイデアを出すために思索の海に沈もうとする私
の肩を、テレジア侯爵がとんとん、と叩いた。
﹁はい、なんでしょう﹂
﹁なんでしょうではありません。エインシュバルク伯、左腕の骨折
が完治していないのを忘れていたでしょう。﹂
あ⋮⋮。そういえばそうだった。ギプスは取れていたので、本当
に忘れていた。
斜向かいの席のローレンツォレル侯爵に、未熟者めと笑われた。
112
19
さて。捕虜の処分が決定したので、今回も有意義にそれを使わせ
てもらうことにした。彼らには、今まで飯を食わせて生かしてやっ
ていた分の働きをして貰う必要がある。
前回死体を飾っただけであれ程向こうの軍を動揺させる事が出来
たので、今回は生きたまま利用する。
とはいえ、奴隷の存在を認められていない我が国では、彼等に強
制労働などさせることは出来ない。
では何をするのか?
答えは単純、幾つかの情報を敢えて与えて解放してやるのだ。
進撃してくる敵軍は四万。かなりの人数となる捕虜を連れたまま
戦など出来ず、一時的に兵を引くか、或いは自分達の手で殺すか。
どちらにせよ、侵略者の分際で騎士道がどうのと気取る連中にはそ
れなりに効くだろう。
勿論ただで返してやる気は無い。
捕虜達を返し、敵軍が混乱したところで奇襲をかけて相手を削る。
国力ごと殺いでしまうのを目的に、狙うのは訓練された兵ではなく
徴兵で従軍している民だ。
そうしてあわよくば、デンゼルの中に反乱の種を撒く。デンゼル
公は領民の反応に気を使っているので、それを逆手に取ってしまえ
ば次の進軍は遠のくだろう。
国を動かすのは貴族で、軍を差し向けてくるのも貴族だが、国と
は民だ。身近な人間をごっそり亡くした民達がどうするのか。完全
な防衛戦で、あちらのお国事情などどうでもいいアークシアとして、
これを狙わない手は無い。
113
奇襲に関しては成功しようと失敗しようと、すぐに引き揚げさせ
る。
戻した捕虜に握らせた情報を使って敵軍を振り回し、奇襲を仕掛
けてその数を減らし、疲弊しきったところを叩く。
相手軍の進行ルートを特定しなければいけないが、成功すれば犠
牲は抑えられるだろう。
うまくいけばいいのだが。
というか、一つ今更な事を言わせてもらってもいいだろうか。
なんで私は臨時軍師補佐官なんてものになっているんだ?
領地に戻る支度をしたというのに、結局王都に留まることになっ
てしまったので無駄な事をした。
何事も無かったように学習に戻る。戦が始まるから領地に戻る│
│そう予め伝えておいたゼファーが、びっくりした顔で私を迎えた。
﹁あれ、カルディア?領地に戻っている筈じゃ﹂
﹁やはり、父君からは何も聞いてはいないようだな。今回は戦地に
は出ずに、臨時軍師補佐官等と大層な名の役職を頂くことになった。
貴族院での軍議が一段落したから、学院に戻るように指示されてね﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
あからさまにホッとした様子のゼファーに、四日以上貴族達に囲
まれて過ごしていたために若干荒んでいた心が安らぐ。
114
しんし
彼は私が戦死しないよう、真摯に祈ってくれていた。私が戦地に
立たずに済んだ、という知らせに安堵してくれたらしい。
﹁というか、左腕の骨折を忘れていてね。恐らくテレジア侯爵が手
を回してくれた。多分、大公閣下も噛んでいそうだが﹂
﹁あぁ、そういえばそうだったね。でも、良かった﹂
﹁良かったって、その分他の貴族が戦場に立つことには変わらない
のだが﹂
﹁僕はカルディア以外はど⋮⋮いや、うん。ちょっと不謹慎だった
ね。││でも今の僕にとっては、他の貴族より友人であるカルディ
アが大事だから﹂
にこ、と笑うゼファー。
じわじわと顔が赤くなるのを自覚する。友人という響きが、これ
ほど精神の健康に役立つとは思わなかった。まるで自分が普通の年
ひたすら
頃の少女になってしまったような気分に陥る。
貴族達の言葉の裏を只管読んで読んで読んで読んで⋮⋮蓄積され
た疲労によって枯れたようだった私の心に、彼の存在はまるで染み
入る水のようだ。
﹁ゼファー、君は本当に素晴らしい友人だ。私はこんなに短い間に、
何度も君という存在に救われている。ありがとう﹂
こんな時こそなのか、しみじみと恩を感じて普段の礼を言う。情
報を集めてもらったり、貴族達との会話に疲れ果てたところを癒や
してもらったりと、受けた恩義は枚挙に暇がない。
ゼファーの頬にもじわりと朱が差した。
115
よし。うまくやり返せたようだ。どうにも私は変な所で負けず嫌
いになってしまって、こういう時にやり返さずにはいられない。
﹁ゼファー、おはよう⋮⋮カルディア?領地防衛に戻ったんじゃ無
かったのか?﹂
﹁おはよう、ジークハルト。今回は私は不参戦が決まったので、王
都に残る事になった﹂
教室に入ると総帥の孫がまず第一声を放つ。
驚いて目を丸くする彼とは裏腹に、その隣では貴族院に出席して
いたため既に私に出された勅命を知っている王太子が、今日も一部
の隙も無い眩しい微笑みを浮かべていた。
王太子は貴族院で話された事を学習院の生徒の誰にもその内容を
洩らさない。貴族院にまだ所属してない生徒達には知らせる必要が
無いと考えているのだ。
これは他の貴族にも言えることで、彼等も不用意に貴族院の話を
妻や子供に話さない。そのため未だに広まっていない私の正確な情
報は、恐らくこれからも広まらない。
更にその奥には、特に何も思う所の無さそうなグレイスがいた。
目が合うと軽く会釈をされたが、それだけだ。
エリックの一件が終わってから、グレイスからもきちんと謝罪は
貰った。同時に彼から、個人的に嫌いだ、と告白されたのは余談と
して。
そうして、大公家の問題が片付き態度を改める時期をきちんと察
知した彼は、非常に貴族らしくその振る舞いを変貌させた。
彼は度を過ぎたブラコンだが、元から自分の事を客観的に見る術
を王太子と同じ様に身に着けている。
116
エリックに付き合う必要が無くなってから、恐ろしい速度で正し
い距離感を全ての方面で再構築したグレイスに、逆に私の好感度は
鰻登りだ。
意外と有能だし、王太子と愉快な仲間たちカルテットの中では最
も他人との関係性に気を使っている。その調子で王太子が私に軽々
しく笑い掛けたりする事や、謹慎明けの弟が私にべったりになるの
を止めてくれると有り難いのだが。
あと、それから蛇足として⋮⋮王太子と私の派閥対立構造も、じ
わじわとその存在を忘れられている。
117
20 side:アルフレッド・テュール・アークシア︵前書き
︶
王太子アルフレッド視点です。
118
20 side:アルフレッド・テュール・アークシア
﹁それで、リンダール大公家との話は纏まったの?﹂
王太子の執務室に、最高級の弦楽器のように麗しい声が響く。│
│とても冷ややかな音色で。
﹁は、はい。次の春より、殿下と同じ学年に編入される準備を整え
させております。﹂
緊張を隠し切ることもできず、威圧感に耐えながらも目の前の男
が頭を下げるのを、アルフレッド・テュール・アークシアは冷徹な
表情で見下した。
格子窓から差し込んだ日の光に、男の柔らかそうな茶色の髪が透
けている。伏せられていて見えない瞳は若草色で、令嬢達に持て囃
される優しそうな顔立ちは、今は恐らく青褪めているのだろう。
彼の名はマルク・ミレコット・テレジア。テレジア侯爵率いる一
族でいつか当主を継ぐとされている男であり、現在は学習院で教鞭
を取っている。
﹁ではこれで問題なく、一応ゲームの体裁を整える事が出来たわけ
だね。﹂
﹁あの⋮⋮問題はあるかと、思うのですが⋮⋮﹂
満足げに微笑んだ││眼は全く笑っていないので薄ら寒いもので
はあったが││アルフレッドに、マルクが恐る恐ると言った体で小
119
さく反論した。
途端に、マルクの全身がビリッと痛みを伴って痺れる。
﹁っ⋮⋮﹂
﹁口答えなんて許したつもりはないよ?マルク。それに、﹃彼女﹄
の事なら問題無い。﹃あの子﹄を使ってかき回せば、必ず彼女にも
影響が出るようにしたのだから。リンダールには上手く悪名が轟い
ている事だし、あの子がそれを放っておく筈もないからね。邪魔だ
もの﹂
ふふふ、と上品に笑ったアルフレッドは、まるで今から馬の遠乗
りに行く予定を話しているみたいに上機嫌に見えて││恐ろしく不
機嫌だ。
﹁エリックの事については少し予想外だったけど⋮⋮戻ってきたら
グレイスと共に生徒会を担ってもらうから、引き剥がす事は簡単だ
しね。ジークハルトも、彼女の方からまた距離を置き始めているの
は都合が良い。目障りなのは、モードン家の彼だけかな﹂
手の中で弄んでいるチェス駒が、かちゃりと音を立てた。アルフ
レッドの視線はそこへ落ちているのに、チェス駒を通してどこか遠
くを見ている。マルクは気づかれないよう唇を噛んだ。
﹁お前にもそろそろ動いてもらおうかな、マルク。彼女を孤立させ
ておかないと、あの子も動き辛いでしょう?エリックは、僕が抑え
ておける。だからお前はゼファーを排除するんだ。いいね?﹂
﹁⋮⋮、﹂
120
答えを躊躇った一瞬が不味かったようだ。マルクの身体に、バチ
リと音を立てて先程よりも数段強い痛みが駆け抜ける。次いでやっ
てきた痺れに、うめき声さえ上げられずにマルクは小さく痙攣した。
﹁返事はすぐに返すんだよ、わかった?﹂
まるで聞き分けの無い子供に言い聞かせるような声で、アルフレ
ッドが歌うように言葉を発する。
﹁││は、い。申し訳ありせません﹂
﹁良い返事だね。ご褒美にこれをあげる﹂
天使か女神のように微笑んで、アルフレッドは何かを机の上に置
いた。かつり、という軽い音に、びくんとマルクの肩が跳ねる。ア
ルフレッドとマルクを隔てる大きな文机の上に、小さな小瓶が日の
光を受けて輝いている。
﹁よく眠れるようになる薬だよ。前から探していて、漸く見つけら
れたんだ。最近テレジア侯爵がお疲れのようだから、使ってあげる
といい﹂
﹁は、││はい﹂
マルクが殆ど息も絶え絶えにその小瓶を取るのを、アルフレッド
は楽しげに見つめていた。
121
﹁随分と楽しげだな。何考えてる?﹂
マルクと入れ替わるように入室してきたグレイスが、珍しげにそ
う声を掛ける。アルフレッドは分からない程度に目を細めた。
﹁うん、カルディアの事を考えているんだ﹂
先程までとは打って変わり、そこに背筋が凍りそうな冷たい響き
は存在しない。ただ美しい天上の調べのような声で、アルフレッド
は囁いた。まるで小さな子供が内緒話をするような、嬉しそうな表
情だった。
﹁⋮⋮あの男の事か。﹂
そんなアルフレッドとは反対に、酷く不機嫌そうにグレイスが呟
く。苦々しく吐き捨てた、と表現しても通用するほど、彼の顔は顰
められている。
﹁君は本当にカルディアが嫌いだね﹂
グレイスの勘違いを、アルフレッドは心の中で密かに笑った。余
計な事を吹き込む奴はまだ居ないらしい。好都合だ││そう思って
いることなどおくびにも出さずにアルフレッドはただ柔らかく微笑
んだ。
﹁ああ、心底嫌いだね。あいつは狂ってる﹂
﹁狂ってる、か﹂
同意も否定もしないアルフレッドに、グレイスが口を噤む。数秒
122
躊躇うような素振りを見せた後、彼はふっと詰めていた息を吐いた。
﹁エリックをあいつから引き剥がす協力をしてくれると言っていた
な﹂
﹁うん。カルディアとまたあんな状況に陥るのも御免だしね。君と
エリックには、生徒会の椅子を用意させてもらったよ﹂
来年から忙しくなるね、と続けたアルフレッドに、グレイスはた
だ頷いた。そうして、彼はふと格子窓の外に目を向ける。
﹁お前も、早く開放されるといいな﹂
﹁それは││カルディア次第だね﹂
﹁なんであいつなんだ。胸糞悪い﹂
ふん、と鼻白むグレイスに、アルフレッドは何も答えずいつもの
ように微笑んだ。
123
21
リンダールと二十年続いた戦争が、酷くあっさりと終結した。
私の策は上手く行ったようで、相手軍は壊滅したらしい。捕虜よ
り死傷者のほうを多く出したリンダールの軍勢が引き返してすぐ、
デンゼル公爵から停戦調停の使いが出された。
農民を狙ったのが一発で見抜かれたようだ。そこまで民を気にか
けられるのなら、何故侵略戦争などしたのか⋮⋮全く理解不能だ。
停戦にまで一発で漕ぎ着けた軍略貢献への評価という形で一千万
アルクを賜った。よかった、報奨金だけならこれ以上貴族社会で余
計な妬みを買わずに済む。
その報奨金を携えて、領地へと一時帰省した春休み。
私より一日遅れでテレジア侯爵に連れられて領主館へ到着したカ
ディーヤとヴァルトゥーラに、酷く驚かされた。
﹁⋮⋮びっくりした。カディーヤ、すごく綺麗になったね。物語の
お姫様かと思ったくらいだ。それにヴァルトゥーラ⋮⋮信じられな
い程逞しくなった。後で剣を合わせよう。どれ程強くやったのか、
直接知りたい﹂
痩せ細って貧相だった半年前の彼等と、現在の彼等は本当に同一
人物なのかと我が目を疑ってしまう。
頬がふっくらと健康的に赤みを帯びて、元から秀麗だった容姿が
磨き上げられている。背筋もぴっと伸びて、そこらの下級貴族の令
嬢・令息と比較しても遜色無い程気品ある立ち居振る舞いもしこま
れていた。それが二人の美貌をよく引き立たせている。
124
半年でよくぞここまで、と思うのと同時に、テレジア侯爵並びに
ローレンツォレル侯爵の手腕には脱帽せざるをえない。
﹁中身も叩き込んでありますぞ。見た目だけ繕った飾りは、エリザ
殿には無用でしょうからの﹂
テレジア侯爵は鼻歌でも歌い出しそうなほど満足げに二人の出来
を評価した。
二人の白金の髪がサラリと揺れる。カディーヤは両膝を、ヴァル
トゥーラは片膝を床について、手を胸に当て頭を下げた。私に向か
って、である。
﹁主従の誓いというものですな﹂
戸惑いかけた私にテレジア侯爵が小さく耳打ちしてくれた。
主従の誓い⋮⋮ジェンハンスの古い儀礼だと聞いた覚えがある。
生涯仕えると決めた相手に対して、身と命を捧げるという誓の儀で
ある。その礼に応えるには、手を差し出して甲に接吻させるのだっ
たか。
﹁⋮⋮まぁ、生涯仕えてもらうつもりではいたけど⋮⋮、まさか主
従の誓いを再会直後に貰えるとは思ってなかった﹂
多少茫然としながらも右手を差し出すと、二人が恭しく甲に唇を
落とした。擽ったい。
﹁アニタ達から聞いた話だけで、エリザ様がこの身と命を捧げるに
価する方だと分かりましたので﹂
125
ふんわりと微笑むカディーヤは、上品な口振りでそう告げた。そ
うして今度はアークシア式の臣下の礼を取る。
﹁この命尽きるまでお側において下さる事、お許し頂けた事を心よ
り嬉しく思いますわ﹂
﹁主従の誓いは、死を持ってのみ終わりを迎える。側に置けないと
思えば首を刎ねるより他に無い﹂
柔らかく表情を保ってはいるものの、二人の瞳は苛烈に輝いて私
に向けられている。強い意志がそこにあった。
﹁││自分達の立場を固める為に、己の心と命を私に差し出したと
いう事か﹂
寄る辺を失った彼等が、幼いアニタ達を守りながら異国で生きて
いく為に、そうした。
⋮⋮ギブアンドテイクの関係で余程やりやすい。何をしでかすか
分からない忠誠心などよりも、動かしやすい優秀な人手だ。
﹁魂までは求めない。が、捧げた誓いを果たせるよう、それこそ死
ぬまで働いて貰うつもりなので心しておくように﹂
﹁はい﹂
真っ直ぐに向けられる視線は含みが無い分小気味良い。侍従はな
るべく気の置けない存在であってほしいので、その澄んだ目の強さ
は好印象だ。
﹁さて、二人を届け終えた事ですし儂は領地を見回ってきますな。
126
何か気づいたことがあれば、お伝えしましょうぞ﹂
テレジア侯爵が気を利かせたようにそう言って、護衛を連れて馬
車を走らせて行ってしまった。未熟な私をサポートするのに実地調
査とは畏れ入る。私が成人を迎えるまでは、後見人として毎年春に
領政の監査をするらしい。
﹁⋮⋮では、改めてよろしく頼む、二人共。アニタ達が待ってる。
行こうか﹂
二人を迎える為に料理を用意させておいた。夜はテレジア侯爵へ
のもてなしで忙しくなるので、昼のうちに二人の歓迎会を終わらせ
ておかないとスケジュール的にキツくなる。
ア
二人がアニタ達に向かえられたその瞬間の、嬉しそうな表情を忘
れないでおこうと思った。
﹁盗賊団?﹂
モンノール
﹁はい。北のゾーク伯爵領で何度か村を襲っていたようですが、黒
の山脈を通りこの伯爵領に入り込んだ可能性があるそうです。ゾー
ク伯爵から直接知らせが入りましたわ﹂
仕事着として与えたシンプルなドレスローブに身を包んだカディ
ーヤが、封蝋のされてない手紙を差し出してきた。確かにゾーク伯
爵のサインがあり、内容もカディーヤの伝えてきた通り、盗賊団の
侵入を警告するものだった。
127
﹁村落に厳戒態勢を取らせろ。それから、軍を分けて村に駐在させ
る。カルヴァンとアジール、ギュンターを呼んできて貰えるか?﹂
﹁でしたら、既に隣の部屋に控えさせてあります﹂
﹁では名主達に鳩を飛ばしてくれ。村の自警団を動かし、明日の昼
に領主館に集まるようにと﹂
﹁はい、かしこまりました﹂
実に有能な返事を返したカディーヤが優雅に退室する。扉が閉ま
ると同時に急ぎ足の靴音が遠ざかっていった。
再会して一週間程。侍女が使える人材だったのは嬉しいが、恐ら
く単なる侍女では済まされない教育を施されて戻ってきた事はそろ
そろ確信していた。彼女のやっている仕事は、普通家令と呼ばれる
者が熟すものではなかったか⋮⋮。
テレジア侯爵、やり過ぎだと思います。
128
22
アモンノール
知らせを受けて警戒させていた盗賊団は、黒の山脈に程近いシリ
ル村に姿を現した。
勿論待機していた領軍と、貴族などより余程逞しい我が領民達に
よって撃退されたが││そう、撃退した。つまり、捕縛に失敗した
という事だ。
知らせが入ってすぐ、シリル村へ護衛のヴァルトゥーラを連れて
直行した。
現場に居合わせたパウロに詳しい話を聞くと、何も奪われる前に
盗賊団は追い払えたようだが、かわりにこちらにも三名の怪我人が
出ているらしい。
思わず眉根に皺が寄る。
﹁⋮⋮火傷を負ったとはどういう事か、説明してもらえるだろうか
?﹂
盗賊たちが村の穀物庫に押し行ろうとしたのは夜明けで、松明等
を持っていたとは思えない。そもそも今までの犯行を聞く限り、襲
った後に火を放つような手合いでは無かったはずだ。
奴等は穀物庫を空にする訳ではない。
比較的平和な世であるからこそ盗賊団等と呼ばれているが、実際
にやっているのは集まった棄民が自分達の食を繋ぐ為に行う盗みに
近い。
農民を襲うことも無かった彼等だ。万が一穀物を燃やしてしまう
ような事は、恐らく避けるだろう。
なのに、怪我人の負った傷は火傷だという。
129
﹁はい、それが⋮⋮怪我をした者達の話によると、何もない空中に
突然火の手が上がったというのです﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ライターみたいなものでも開発されたのか?この世界は今のとこ
ろ火打ち石で起こす火花での着火が主流な筈だが。
或いは、⋮⋮いや、大気中の気体に反応して燃え上がる化学物質
なんてものがこの世で実用されている筈が無い。これは考えても無
駄だろう。
﹁⋮⋮エリザ様﹂
パウロと二人で首を傾げたところに、後ろから遠慮がちな声がか
かった。後ろに控えさせていたヴァルトゥーラである。
頭三つ分以上高い身長の彼を、首を最大限捻って見上げると、彼
は自分から膝を折って私の耳元に口を寄せた。
私が成長期の子供という事を差し置いても、ジェンハンスの者達
はアークシアの人間よりもかなりの高身長である。ヴァルトゥーラ
はその中でも更に背の高い方で、後ろに控える彼を見上げる事が多
くなった最近は肩こりが酷くて少し困りものだ。
﹁エリザ様、それは恐らく、魔法使いかと﹂
﹁魔法使い?﹂
衝撃のファンタジー用語が、今更過ぎるタイミングで彼の口から
おうむがえ
飛び出した。
思わず鸚鵡返しに聞き返すと、ヴァルトゥーラはこくりと首肯す
130
る。
﹁⋮⋮魔法使いって、あの?﹂
信じられずにもう一度聞き返すと、彼ははい、と迷わず返事を返
した。
魔法使いというのは、魔物という非常識な生命体がひっそり森の
奥地や山の奥地に実在しているこのファンタジーな世界においても、
物語の中の存在として認識されている。
魔法は魔物の使う術であり、人智の及ばない超自然の力である。
﹁で、その魔法使いが実在すると何故言える?﹂
﹁アークシア王国では架空の存在でしょうが、実は小王国群には少
なからず存在しているのです。近年は、リンダールの北側にも魔法
の使える子供が生まれ始めているそうです⋮⋮奴隷商人達がそう話
していたのを覚えています﹂
衝撃の事実である。
何故アークシアでは今まで存在が発覚しなかったのか、リンダー
ルの北側にのみ新たに出現しているのかは今回は置いておくとして。
原作の乙女ゲームに、魔法使いが存在したのか。
それが私にはわからない。何故なら、実は私はあの乙女ゲームを
たった一周プレイしただけなのだ。
﹁⋮⋮少し、頭を整理したい。私はここから動かないから、昼食を
131
先に食べておいで﹂
村の女連中が軍の者達の為に炊き出しを行っている筈である。シ
リル村の名主の屋敷の一部屋を借りている今、何も不穏な事はない
だろう。万が一の事があっても、私は剣もまともに持てない深窓の
令嬢ではない。
思索の海に沈んで不用意な事を呟いてしまっても問題ないように
ヴァルトゥーラを追い出してから、部屋の奥のソファに身体を沈ま
せた。
魔法使い。前世でやった乙女ゲームで、そんな単語は登場した覚
えは無い。という事は、アークシア王国の中枢部には今のところは
殆ど関係の無い存在なのか。
確かに魔法を使ってくる魔物と、その生息地である東端の森の存
在は言及されていたが、それも乙女ゲームのヒロイン視点ではあま
り重要度の低そうな単語であった。
久々に前世の朧な記憶を引っ張り出す。
││暇潰しとしてたまたま妹に借りた、前世でたった一つだけプ
レイした、とある乙女ゲームについて。
ヒロインはアークシアの隣国の大公の娘である。
彼女は外交政策の一つの手段として、十四歳の春からアークシア
にやってくる。
アークシア王家の客分として滞在しながら、学習院に留学生とし
て通い、将来の嫁ぎ先として王太子、大公家の二人、総帥の孫の中
から相手に婚約の同意を漕ぎ着けるためにやってくるのだが││プ
レイヤーにはその情報は最後の最後まで公開されない。
ヒロインはそれなりに高い身分を持つ単なる留学生として学習院
に入学してくる。嫁ぎ先を決めさせられるなどと全く知りもしない
132
まま。
私がプレイした事があるルートは、ヒロインが誰とも懇意になら
ないままに学習院を卒業する、通称ノーマルエンドである。このエ
ンディングでは彼女は適当な公爵家に将来的に嫁ぐ、という事だけ
を匂わされて終了した。
余談だが、妹の情報によると実家の悪事がどうやっても見過ごせ
る規模ではない悪役令嬢エリザ・カルディアはどんなルートに入っ
ても家族と共に何かしらの処罰を受けて消えるそうだ。実家の悪事
なんてものは既にテレジア侯爵に何とかしてもらった私にはもう関
・ ・
係ない話だが⋮⋮。
ゲームの期間は通常二年間。一周目は王太子とその取り巻き三人
しか攻略できるキャラクターが出てこない。
ところが、妹が私にこのゲームを薦めた理由に、二周目以降の要
素が大きいという点が挙げられる。
二周目以降に登場する攻略キャラクターと、何やら条件を満たす
と出現する上級学習院のシナリオ。最初からいる四人のキャラクタ
ーについても、上級学習院へ進まなければ分からないエピソードが
存在しているという。
もしかすると上級学習院のシナリオで、魔法使いに関するエピソ
ードが出てくるのかもしれない。ちなみに魔物の森は学習院シナリ
オで攻略キャラクター達が学院を留守にする時期があり、その理由
として登場していた。
アークシア王国以外の国については、乙女ゲームという事もあっ
て固有名詞すら出てこなければ、南に存在する小王国群の存在すら
出てこないのだが⋮⋮。
133
⋮⋮今更役に立ちそうな情報は、たった一周ノーマルエンドへの
ルートをプレイしただけの私には思い浮かべられなかった。
もっとやっておけば良かった、というのは今更である。
まあ単なる乙女ゲームのシナリオで、国を揺るがす大事は起こり
はしないだろう。卒業するまでの二年間で、王太子達とよろしくや
っている隣国の大公息女とやらを尻目に大人しくしておけば問題は
無い筈だ。
これ以上は無駄だな、と前世の記憶を掘り返すのを辞めると、丁
度窓の外で日の光を返して煌めく白金が視界の端を掠めた。
護衛となった青年は、食事を取るのがかなり速いようだ。
134
23
魔法なんていう最大のチート能力になりそうなものの存在が露見
したが、魔法使いは生まれながらに魔法が使えるらしいので、やは
り私はチート能力とは無縁らしい。
人生がベリーハードモードなのに何も手助けが無くて辛い。
﹁取り敢えず、盗賊団にいる魔法使いは一人だけか﹂
﹁そうです。そうそう魔法使いは生まれませんので⋮⋮ここがアー
クシア王国ということも鑑みて、二人以上いるという事はまず無い
でしょう﹂
アークシア王国は鎖国状態で、何故か魔法使いは生まれずその存
在はお伽話の登場人物扱いされている⋮⋮その発生には遺伝子的な
事か関係してたりするのだろうか?
他国の統計なんて私が生きているうちには絶対に実現しないだろ
うから、考えても無駄な話だが。
そんな国で生まれ育った私より余程魔法使いに詳しいヴァルトゥ
ーラに、盗賊団を捕縛する為の作戦会議で発言を促す。
神妙な顔でカルヴァン、アジール、ギュンターもその話を大人し
く聞いていた。一応魔物と魔法の存在だけはこの国でも通用する常
識なので、魔法の使える人間も、受け入れ難くはあっても有り得な
くはないかもしれない⋮⋮というような状態である。
﹁が、肝心の魔法の威力は目くらまし程度か﹂
135
私の問いかけに、はい、とヴァルトゥーラは頷いた。
怪我人の火傷は顔面という事で騒がれたが、見舞いを兼ねて直接
見に行った所、あまり酷いものでは無かった。本人達もほんの小さ
な火玉が一瞬燃えただけだった、と言う。
どうやら魔法はそんなに大した技能ではないようだ。大抵は一種
類、多くても二種類の魔法しか使えないというヴァルトゥーラの説
明に、少しだけホッとした。
﹁鎧は着ないほうがよろしいでしょうかねぇ﹂
半信半疑だが一応魔法対策としてか、アジールが意見を上げる。
金属鎧の熱伝導を気にした発言に、カルヴァンがすぐに反論を返す。
﹁いや⋮一瞬だけしか火は出ないそうだし、大丈夫ではないか?﹂
﹁ボケ爺。楽観視してんじゃねえぞ。そいつが火の魔法とやらを長
いこと出せねえ証拠が何処にある﹂
ギュンターの辛辣で粗野な物言いはいつもの事で、カルヴァンは
慣れきったそれに怒ることもせずそれもそうだな、と自分の意見を
翻した。
辺境の田舎村にはちょっと珍しいほど精悍な顔立ちのギュンター
の、開けた口からどっと流れでる悪態混じりの言葉に驚くのは、新
参のヴァルトゥーラだけである。
﹁⋮⋮いや。そんなに強力な魔法使いであれば、こそこそと盗みを
働く盗賊団にはいる筈が無い。その力で幾らでも食べていけるでし
ょうから﹂
﹁そりゃお前みてぇに魔法使いが当たり前の国に生まれたらそうだ
136
ろうが、ここはアークシアだぜ。雇ってもらえるなんて発想がまず
出てこねぇよ﹂
寧ろ本人の性格によっては、教会からの弾圧を恐れて人から離れ
││盗賊に身をやつしていても可笑しくはない。
口は悪いが頭の回るギュンターの意見に首肯して同意を示すと、
四人は話を戻す為にすぐに口を噤んだ。
﹁ヴァルトゥーラ、魔法使いの魔法に関して、他に何か知っている
か?﹂
﹁魔法は使う者の視界内にしか発動させられない。それから、魔法
の行使には集中力がいるそうで、一瞬で発動するのは難しい。知っ
ているのはこのくらいです﹂
﹁魔法の発動に関しては魔物と同じなのか⋮⋮。分かった﹂
範囲は相手の視界内で、発動にはタイムラグがある。それさえ判
れば幾らでもやりようはある。
﹁そいつは必ず捕縛したい。今回の事は陛下に報告しなければなら
ないかもしれない﹂
報告したとして、証拠が無ければ眉唾物でしかない。しかしリン
ダールの北側で魔法使いが生まれている今、盗賊団を殺してしまっ
て魔法使いの存在を隠蔽しておくのは愚挙になりかねない。存在す
るだけで厄介な面倒事が転がり込んで来るなんて、どこまで私は運
が無いのか。
137
盗賊団はシリル村から二つ離れた村に、二日後の夜に再び姿を表
した。
前回何一つ食糧を手に入れることが出来なかった彼等だ。徒歩で
身を隠しながら移動する以上領内から立ち去る事も出来ず、もう一
度近隣の村に入り込もうとする事は予測していた事だった。
一応私がいなくとも大丈夫なように作戦を練ったが、運良く││
本当に私は悪運が強い││居合わせたので指揮を直接取ることにし
た。
魔法使いは、ひょろりと痩せた鮮やかな赤髪の男。火傷を負った
者達が追っていた奴で、距離を取った後逃げずに敢えて振り向き、
睨みつけきたという話からそいつだと一応の判断を下した。
盗賊団の人数は八人。一応、他の奴が魔法使いである可能性も注
意しておく。
﹁領民の生活を脅かす者共を捉えろ。殺さずに私の前に引きずり出
せ﹂
穀物庫に忍び込もうとする盗賊団をひっそりと包囲し、その範囲
を狭め。
私の一言を引き金に、最初の部隊が走り出す。
﹁⋮⋮っ!見つかった、逃げろ!﹂
見張りが気づいたがもう遅い。いつか使うかもしれないと戦に備
えて夜襲の訓練をさせていたのがこんな所で役立つとは思いもしな
かったが⋮⋮。
穀物庫を中心に八人の男達が走るが、残念ながらこの村には六十
人の兵力がある。
138
﹁く、くそっ⋮⋮囲まれてるぞ!﹂
﹁イグニスだ、イグニスを中心に一点突破するしかないっ!﹂
訓練に従ってほぼ無言で物陰を縫いながら迫る兵士と自警団の者
達の中で、逃げ惑う盗賊団の慌てた声が響き渡る。
﹁固まったところを潰せ。全員必ずの気絶させるか顔を布で覆うよ
うに﹂
﹁了解です、お館様﹂
第二陣のカルヴァン率いる兵たちが、静かに第一陣に加わる。や
がて荒事の音が夜の中に響き、一瞬だけ火の明かりが輝いた後、一
切の物音がしなくなった。
迅速に盗賊団を捕縛して戻ってきたカルヴァンに、怪我人はとだ
け尋ねる。
﹁いません。魔法を使われましたが、視界の中心を避けさせたのと、
水を被らせていたお陰で火傷を負った者もありません。盗賊団は全
員目隠しをさせております﹂
﹁そうか。よくやった﹂
第一陣は盗賊団を追い込む為の部隊で、カルヴァンの報告した通
り、水を被らせて、盗賊団の者に目を向けられたら左右に避けるよ
うに言っておいた。
魔法の話を聞いていくと、その練度の低さから、恐らく魔法使い
は視界の中心にしか火を出さないと考えられたからだ。
139
視界は目隠しで塞がせたので、もしも魔法を発動させたら自動的
に目が焼ける。情報さえあれば、案外封じるのは簡単で良かった。
﹁領主館の地下牢に連れて行け。無能の先代が拡張していたおかげ
で、一人ずつ別の房にぶち込めるだろう。ご苦労だった。私は村の
自警団の者を労ってから戻る﹂
にわか
こうして、日常に代わり映えの無い領内を俄にざわめかせた盗賊
団は全員が領主館の地下へと繋がれる事になった。
クソ親父がたっぷり血を吸わせた曰く付きの地下牢に、幽霊とか
そういう別系統のファンタジーが存在するのか、奴等に聞く時が楽
しみだ。
140
24
大捕物とは言えないまでも、それなりの人員を投入して捕えた盗
賊団は約三日間ほど放置させて頂いた。
水と食べ物は与えてある。目隠しをさせている為にギュンター達
ごっつい兵士諸君に手ずから食べさせてやったのだが、盗賊達は﹃
何故か﹄食欲を無くしてしまったらしい。
別に、何の理由もなしに放置していた訳ではない。第二回・カル
ディア伯爵領庶民院議員選挙を行っていたので、生憎とそいつらに
割く時間が取れなかっただけである。
幾つかの村で歳嵩の者達が若い者と交替したようだが、選挙自体
は恙無く終わりを迎えた。
さて、お楽しみの盗賊団尋問タイムである。地下牢から一人ずつ
カルヴァンに引きずってこさせた。赤髪の男だけは一番最後に取っ
ておく。
﹁気分はどうかな?栄養状態を鑑みて、量は少ないがきちんとした
食事を出した筈だが、どうも食欲と聞いた﹂
﹁⋮⋮そりゃ、目隠しも取ってもらえねえままむさい男に毎食飯を
食わされたらな⋮⋮﹂
男の声は酷く憔悴したものだったが、減らず口を叩ける気力はま
だ残っているらしい。視界を封じた状態は予想以上に彼等の神経を
擦り減らしてはいたが、それも今日で終わらせるつもりなので問題
は無いだろう。
141
﹁処刑を引き伸ばしたいなら正直に質問に答える事だ。名はなんと
いう?どこの生まれで、どういう経緯で盗賊団に入った?﹂
ギュンター達監視の兵によると、彼等は私にすぐに処刑されると
考えていたらしい。半年前の密入国者の情報を何処からか聞いてい
たようだ。
彼等の末路とこいつらの処分が同じになる可能性は大きいが、今
回は私にも考えが一応ある。
﹁⋮⋮俺はセイン。他の奴らの名も言うのか?﹂
﹁聞いておこう。﹂
﹁テッド、ニック、マーカス、ギルベルト、ブランク、ネロと、イ
グニスだ。生まれはイグニス以外全員、ここの領だよ﹂
男の話を聞いて、やっぱりかと舌打ちしたくなった。六百年もの
間国内に目を向けている平和なアークシア王国で、盗賊団はそもそ
も存在が珍しい。
そんなものを発生させるほど治安の悪い領など、十二年前までの
カルディア子爵領くらいしか思い浮かばない。
テレジア侯爵の尽力によって当時発生した盗賊たちは殆どが捕え
アモン
られ、情状酌量によってだいぶ軽くなった罪を償い農民に戻ってい
るのだが。
ノール
﹁二十年近く前、領主の重い税と苦役に耐えきれなくなって、黒の
山脈に逃げ込んだんだ⋮⋮ずっと山沿いに北の領を訪ねたが、どこ
でも難民扱いされて居場所がなく、仕方なく盗賊に⋮⋮﹂
142
恐らく彼等は最もこの領から離れ、地味に地味に只管食糧を盗ん
で山脈沿いに領を移動しながら、今の今まで捕まらずにいたのだ。
﹁イグニスとやらは何処から来た?﹂
﹁⋮⋮あいつは十五年くらい前に高原で拾ったんだ。リンダールで
生まれたそうだが、あの変な力のせいで疎まれて、逃げてきたらし
い。俺達は当時何処かの領の軍隊に追われてて、高原の真ん中ぐら
いまで逃げてた⋮⋮﹂
やはりイグニス、あの赤髪の男が魔法使いらしい。リンダールの
生まれ⋮⋮ということは、リンダールの北地で生まれ始めた魔法使
いのうちの一人か。魔法の力が疎まれていたということは、十五年
前にはまだ魔法使いは殆ど生まれてなかったと考えればいいのだろ
うか?
他の連中にも同じ事を尋ねたが、大抵は同じ答えが帰ってきた。
中には盗賊になった元凶であるクソ親父の子供である事を盛大に
罵ってくれた奴もいたが、盗賊団なんてもので二十年近く糧を得て
いたにしては、軒並み気の弱い者ばかりだった。彼等の犯行手口を
考えればそれも当たり前の話か。
﹁と言う訳で、お前を飼う事にした。イグニス﹂
﹁⋮⋮何がと言う訳で、なんだ﹂
赤髪の男が訝しがるように吐き捨てる。そいつが目隠しをしてい
て何も見えないことをいい事に、少しだけ声を出さずに笑った。
﹁お前は人質だ。そして、他の者達はお前に対する人質となる。お
143
互いが大事なら、大人しく飼われているがいい﹂
﹁性悪⋮⋮噂に聞いた父親と同じで根性がひん曲がってるな﹂
﹁私の性根がどうであろうが、アークシアと私の領地が平和なら構
いはしない。全員に人としてまともな生活を用意してやるんだ、悪
い話ではないだろう?﹂
﹁⋮⋮クソガキめ﹂
﹁淑女に向かって酷い物言いだな。躾が必要か?﹂
淡々と吐き捨てると、赤毛の男はゆっくりと顔を上げた。
﹁女かよ⋮⋮貴族の癖になんつう口のきき方してんだ﹂
腹に爪先をめり込ませてやって漸く減らず口を閉じるあたり、イ
グニスには長期的な躾が要るようだ。
新学期の始まる一週間前に王都へと戻ってきた。
色々と支度もあるし、それに王城への召喚状が来ている。前にテ
レジア侯爵が言っていた頼みたい用事とやらについての話しだろう
か?
領主館でも動きやすさについつい男物を着用していたので、久々
に袖を通した騎士服に新鮮さは微塵も無かった。
﹁へぇ⋮⋮これが王都か﹂
144
後ろからカディーヤとヴァルトゥーラに連れられたイグニスの呑
気な声がする。無駄口をきくなと普段から言ってはいるが、人生の
殆どを山で過ごしてきた人間が初めて王都に来た感動くらいは見逃
す。
﹁なぁ、俺はここでどう飼われるんだ?あんたの家にずっと閉じ込
められるのか?﹂
﹁馬鹿な事を聞くな。逃げないと分かってる者を閉じ込めておいて
何の利がある?馬車馬のように使ってやるから安心しろ﹂
﹁クソガキ⋮⋮﹂
二十は超えているというのに、子供のような言動の絶えない男で
ある。閉鎖した環境の中で生きてきて、精神がまともに成長してい
ないのかもしれない。
﹁ヴァルトゥーラ、倉庫に放り込んでおいてくれ﹂
﹁了解﹂
春休みの間にすっかり頼れる従者兼護衛であると証明したヴァル
トゥーラは、私の呟くような命令を聞き漏らすことなく手早くイグ
ニスをふん縛った。目隠しも忘れずにつけて、あっという間に出来
上がった蓑虫状の成人男性を重さを感じさせずにひょいと肩に担ぐ。
﹁そこまでの事したかよっ!﹂
﹁余計な口を叩くなという簡単な事も覚えられないようだからな。
ヴァルトゥーラ、連れて行ってくれ﹂
145
イグニスを片付けたのには、屋敷を留守にする上奴を一人で残し
ておく必要があったからという理由がある。どうにもまだ躾の甘い
イグニスは初めての王都に浮かれて何をしでかすか分かったもので
はない。
さて、王城に登らなければ。
カディーヤとヴァルトゥーラを連れての登城は初めての事で、二
人は珍しく緊張しているようだった。気持ちは分かるが、その緊張
をほぐしてやれる余裕は無い。
城の衛士に召喚状を見せ、文官の案内で国王陛下の元へ向かう。
﹁国王陛下、エインシュバルク伯爵がお見えになりました!﹂
扉に控えた近衛兵の宣言と共に、久々に入室した謁見の間。
国王陛下の座る王座の段の下に、テレジア侯爵と大公が控えてい
る。この面子からの頼み事⋮⋮考えただけでも気が重くなる。
とにかく広間の中程まで進み出て、臣下の礼を取った。後ろ二人
も侍従として完璧な礼をしている。テレジア侯爵が満足気に破顔し
た。
﹁エリザ・カルディア・エインシュバルク、陛下の召喚に応え只今
御前に参上致しました﹂
﹁よく来た。面を上げよエインシュバルク伯。そなたに頼まねばな
らぬ事がある﹂
許しを得て顔を上げた。そうして、王の横にいつの間にか進み出
ていた存在への動揺を必死に取り繕わねばならなくなった。
146
乙女ゲームのヒロインが何故国王と一緒に私を待ち構えているん
だ。
﹁紹介しよう。隣国リンダール連合公国の大公家より、此度我が国
に留学生として滞在することになったエミリア・ユーリエル・ド・
ラ・リンダール殿だ。そなたには、エミリア殿が学習院の中で不自
由の無いよう頼みたい﹂
その子
えっと⋮⋮それって、ヒロインの面倒を見てほしいという事か。
でもその役目って、ゲームだとあの四人が務めていなかったっけ⋮
⋮?
ざっくりと決めていた平和なこれからの二年間の未来像が音を立
てて砕けていく。
⋮⋮どうしてこうなった。
147
25 side:ゼファー・モードン
﹁顔がにやけているね、ゼファー。学院はそんなに楽しいかい﹂
春の休みもそろそろ終わる、そんな頃。
意地悪くニヤニヤ笑った父親に緩みきった表情を指摘されたゼフ
ァーは、慌てて自分の顔面の筋肉に力を込めた。
﹁に、にやけてなんかいません。大体、二週間ぶりに顔を合わせた
息子に最初に言う言葉がそれですか﹂
﹁大丈夫、私はちゃんと分かっている。三ヶ月ぶりの伯爵に合うの
が楽しみで仕方ないんだろう?﹂
﹁父上⋮⋮﹂
気恥ずかしさに思わず声が地を這う。睨みつけるゼファーの鋭い
視線を意にも介さず、モードン伯爵は飄々とポケットから何かを取
り出す。
﹁それにしても、お前が意中の相手に贈り物とはねぇ﹂
それは、小さな白い袋││シャリン、と涼やかな音を立てて二粒
の紅い石が父の手の平に転がされるのを、ゼファーはほぼ呆然と見
つめるしかなかった。
﹁へぇ、ピアスか。なかなか趣味がいいね、我が息子よ﹂
148
繊細な金の細工に嵌め込まれたルビーの耳飾り。シンプルだから
こそ上品な趣のデザインであるそれをそっと摘み上げながら、実に
楽しげに伯爵は息子で遊ぶ。
﹁ち、父上││﹂
﹁なにかな、ゼファー?﹂
﹁あの││あの、カ、カルディアにそんな邪な思いは抱いてません
っ!それより、僕の私物を勝手に開けないでください!どうやって
見つけてきたんですか、それ!絶対に見つからないような所に入れ
ておいたのにっ!﹂
真っ赤になって叫んだゼファーに、モードン伯爵は一拍固まり│
│心の中で、それはそれは盛大に大爆笑した。
もしもこの場に彼一人きりだったら、床を転げてばしばしと遠慮
なく叩きまわりひいひい言っていたと事だろう。もしかすると笑い
死にしたかもしれない。
どう考えても彼女に贈るための装飾品なぞを用意しておきながら、
邪な思いはありません。言うに事欠いてそれである。我が息子なが
ら、父親である私を呼吸困難で殺すつもりとは恐れ入る!
﹁││どこからって、勿論衣装箱の一番上の上着の右ポケットの中。
親子だねぇ、私もよく恋文など見られたくないものを入れておいた
覚えがある﹂
そんな心中をおくびにも出さず、彼は息子に向かってにっこりと
優雅に微笑んでみせた。
今年めでたく齢三十を迎えたばかりの父親の顔はゼファーから見
ても麗しい。母が亡くなって三年、まだまだ父に再婚の申し込みが
149
絶えないのは、彼もよく知る所だった。
世紀の美術品と謳われる王太子殿下とも、最高の人形師が丹精込
めて作り上げた傑作みたいな自分の親友とも趣の異なる、大人の余
裕を含んで熟成した父親の顔。
社交界の華と評されるそれに異論はないが、まだ准成人の為に夜
会は父と参加せねばならないゼファーとしては少々複雑な気分にさ
せられる。
父親そっくりの顔であるゼファーは必ず下位互換として見られて
しまい、夜会で声を掛けてくれる女性は決まって﹁貴方のお父様と
お話したいわ﹂と言うのだ。
いつまで経っても追いついた気のしない父は少しだけゼファーの
コンプレックスになりつつある。
﹁え、父上と同じ事を、僕が?﹂
﹁そう。お前の母さんに初めて贈ったネックレスも、こうして白い
紙袋に入れて、衣装箱の一番上の上着の右ポケットの中に忍ばせて
おいた覚えがある﹂
﹁⋮⋮もう二度としない﹂
一転して表情をげんなりとさせた息子に、モードン伯爵の鋼の外
面に一瞬罅が入りそうになった。
駄目だこのまま話していると本当に笑い死にする。
そう判断した彼は息子の大切な贈り物を袋に戻して返してやり、
それじゃあまた夕食時にと声を掛けてその場を颯爽と去って行った。
残されたゼファーは、一度だけ深く溜息を吐く。昔から忙しく、
ゼファーが学園に入ってからというもの片手で足りる程しか会った
150
覚えのない父親は、暇こそあれば彼の事をいつも盛大におちょくっ
て遊んでいる。
なかなか話す機会の無い息子との、父親なりのコミュニケーショ
ンだとはゼファーも理解しているのだが││振り回されるだけ振り
回されて、父が去って行った後には必ず物凄い疲労感が残される。
﹁いつか絶対ギャフンと言わせる⋮⋮っていうかカルディアは親友
だし⋮⋮男だし⋮⋮﹂
何を言おうと涼しい顔の父親が、その分厚い微笑みの仮面の裏側
でとんでもない勢いで笑い転げているのを知らぬまま、ゼファーは
そう呟く。
そこへ、ヒョコリと銀色の頭が一つ現れた。
﹁兄様?﹂
﹁やぁ、どうしたんだいルーシウス﹂
一つ年下の弟、ルーシウスである。一年前、親友の伯爵と出会っ
た頃の自分と比べると、同じ歳になったとは思えない程幼い少女の
ような顔立ちの弟は、﹁お客様が来ているんです﹂と若干不思議そ
うな表情でゼファーに用件を伝えた。
﹁お客様⋮⋮って、僕に?﹂
﹁はい。マルク・テレジア様という大人の方です。父様ではなく、
兄様にご用件があるとの事で⋮⋮﹂
﹁え、先生が?﹂
151
流石に予想外だった名前に、ゼファーは瞳を丸くさせた。
そもそも、学習院が春休みである今、ゼファーは王都から馬車で
三週間、宿場町で馬を乗り継いで単騎駆けしても一週間かかるよう
な辺境の実家にいるのである。
そんな距離をわざわざ、学習院の教師と生徒という関係性でしか
ない男が、ゼファーにどんな用件があって訪ねてきたというのか。
﹁応接間にお通ししてあります﹂
﹁わかった。ありがとうルーシウス。ちょっといってくるよ﹂
首を傾げながらも応接間に向かったゼファーに、女性徒にコアな
ファンが存在しているという美青年教師・マルクが爽やかに挨拶を
した。
﹁今日は、モードン。久しぶりだね﹂
﹁ええ、テレジア先生。遥々遠いこの地へお越しい頂きありがとう
ございます﹂
﹁いや、いいんだ。そんな事より、君に伝えなきゃいけないことが
あってね﹂
どうやらこの教師は何かしらの連絡事項の為にこんな所まで越さ
せられたらしい。少しだけ不憫に思いつつ、ゼファーは取り敢えず
着席する事にした。
控えていたメイドに自分用の紅茶を用意してもらい、今テーブル
に置かれている一般来客用の茶菓子ではなくもっと上等なものを出
152
させる為に指示を告げる。
目の前に上品に腰掛けた教師の男は、一連が終わるまで静かに紅
茶を嗜んでいた。
││そういえば、カルディアの後見人はテレジア侯爵だったな。
﹁どこから話をしよう。まず、私の大伯父が君の友人であるエイン
シュバルク伯爵の後見を務めているところからかな﹂
ふと思い出した事と、目の前の男が言い出したことが重なって、
ゼファーは少々どきりとした。
﹁大伯父様は息子に恵まれなくてね。私が将来はテレジアの名を継
ぐことになる﹂
﹁はぁ⋮⋮そうなんですか﹂
ゼファーは男の語り始めた話の内容がどう自分に関わってくるの
か全くわからず、曖昧に相槌を打つことしか出来ない。
男は何を考えているか全く読めない若草色の瞳でゼファーを見据
え、にこりと笑ってみせて、そして衝撃的な一言を放った。
﹁端的に言うとね、君にはエインシュバルク伯爵と距離をおいて貰
いたいんだ。彼女の婿取りに、少々君の存在は邪魔でね﹂
﹁││はい?﹂
何を言われたか分からずに、ゼファーの口から間抜けな声が勝手
に溢れる。
153
ポケットの中にしまった彼の瞳と同じ色の耳飾りが、チャリ、と
小さく鳴ったような気がした││
154
26
今日から二年生である。長いように見せかけて結局恐ろしい短さ
だった春休みは終わった。イベントちょっと過多気味じゃないか?
とうとう死亡フラグが立ったのだろうか。そんな馬鹿な。
乙女ゲーヒロイン
それはさておき、取り敢えず後ろの少女を教室へ案内しなければ
ならない。彼女を意識する度自分の目が遠くなっているような気が
する⋮⋮。
隣国のリンダール連合公国は、領地を持たない大公の元に纏まっ
ている。とはいえ一つ一つの公国はほぼ独立した存在であり、それ
ぞれの領地は王政を摂るアークシアよりもバラついた統治となって
いる。
アークシア王国も領によって治世は異なるが、規範は一つのもの
を元にしているのでそれほど差異は存在しない。クソ親父のように
領主がどうしようもない屑であれば話は異なる⋮⋮話が逸れた。
﹁エミリア様、こちらの通路から右側は教職員の棟でございます﹂
﹁あっ、はい!﹂
教室に向かうまでに、院内の構造を簡単に説明していく。ヒロイ
ンは乙女ゲームのヒロインらしく、可愛らしい返事を返してきた。
﹁⋮⋮それほど緊張せずとも、学習院では私が着いておりますから。
今無理して全てを覚えずとも問題はありません﹂
155
努めて柔らかい声を出し、仏頂面に見えると評判の顔も出来る限
り上品に微笑を浮かべてフォローを入れた。
建前だ。微塵も表に出さなかった本音は、アークシアで言う王家
と同格の大公家の娘にしては気品の欠片も無いなぁ、である。
乙女ゲームのヒロインだからなのか、それとも何かリアルな要因
が絡んでるのか?
ゲームでは少々物言いのキツい双子ポジションであったグレイス
とエリックの例があるように、生きた人間である彼らは様々な人生
を重ねている。
さだめ
重ねた上でゲームと同様の性格に結局落ち着いたのか、それとも
ゲームでその性格だったからそうなる運命だったのか、私には区別
がつけられない。
結局エリザ・カルディアは広い目で見れば外道の悪人である事に
は変わり無く。もしかすると私のこの十四年間は無駄な足掻きで、
ゲームのシナリオという自分の運命から逃れられてはいないのでは
ないか、とふと不安になる。
時間を巻き戻す事は出来ない。今まで以上に周囲に鋭敏にならな
ければ。いつ足を掬われるか判らない。
﹁カルディア様、ありがとうございます⋮⋮﹂
緊張で上気したヒロインが愛らしい表情ではにかむ。
幼子のように無垢で、邪気の無いその笑顔が私に対して向けられ
ている。その事実だけが、エリザとして生きてきた年月を肯定して
いる気がした。
振る舞いがどうであれ、ヒロインが第一級クラスに問題無く所属
156
出来る学力を有しているには変わりないらしい。
エリザ
王太子、大公家の二人、総帥の孫、ヒロイン。ゲームの登場人物
達が綺麗に揃っている。一つだけ異様な点を上げるとすれば、私が
そこに存在している事だ。
陛下から頼まれている以上、授業以外はかなりの時間をヒロイン
に割かねばならない。クラスが離れなかったのは単純に都合が良い
か。
ゲームにおいて、エリザ・カルディアは第二級クラスの生徒であ
る。
領民から絞り取った金を湯水のようにつぎ込まれて一級の教育を
施されていたようだが、それでいて尚第二級クラスに在席していた
という事は、どうしようもなく頭の弱い女であったのだろう。そう
でなければ、必ず破滅を迎えるような放蕩を享受し続けられる筈も
無い。
﹁エミリア殿、城で一度会って以来ですね﹂
﹁あ、アルフレッド様﹂
序列的な問題か、やはりヒロインに最初に声を掛けて来たのは王
太子である。どうやら王城に滞在していた間に王太子とは引き合わ
されていたようだ。
ゲームでも、王太子は攻略難易度が高めの割に初期好感度が高く、
学習院でヒロインに何かと親切に接する立ち位置のキャラクターで
あったことを思い出す。
ヒロインのパッと綻んだ顔が王太子に向けられる。顔見知りに会
えてホッとしたのだろうが、どこか嬉しそうにも見える表情。前世
であれば、確実に異性に誤解を招きそうなそれである。
157
﹁御機嫌ようカルディア。また同じクラスになれて光栄だよ。勿論、
貴女ほど優秀な人が第二級クラスに行くとは思っていなかったけれ
どもね﹂
﹁畏れ入ります。殿下におかれましては、おかわりの無いようで何
よりです﹂
常のように私にも挨拶する王太子は、やはり変わらずキラキラし
い笑顔を浮かべている。素晴らしい表情筋だと心の中でこっそり賞
賛を贈った。
身分の為に礼儀として交わさねばならない一言の挨拶はこれで十
分の筈だ。一礼して一歩後ろに下がり、まるで侍従のようにヒロイ
ンの傍に立つ。
あとはゲーム通りなりなんなり、ヒロインと王太子の二人で話を
すればいい。
そう思ったのだが。
﹁相変わらず堅苦しいままだね。もう一年以上の付き合いになるの
に。在学中はまだ臣下ではないのだから、と言ったよね﹂
﹁⋮⋮申し訳ございません。殿下は、我が主君である国王陛下のご
子息であらせられますので﹂
ヒロイン
王太子は私との会話を継続させた。他国の公女の前である事を考
慮するならば、二言目は私に掛けるべきではない。
彼であれば、それを理解している筈なのだが⋮⋮?
﹁その忠義が将来私に向けられるのは嬉しい事ではあるけれどもね。
ああ、引き止めてしまって悪かったかな。エミリア殿を宜しくね、
158
カルディア﹂
﹁ええ、それでは﹂ 乙女ゲームのシナリオが開始したから気が立っているだけなのか
もしれない。小さなことなのだろうが、どうしてか新学期は様々な
事に違和感が拭えない。
なんとなく座りが悪いような、肌の上を得体の知れないものが撫
でていくような気分だった。
159
27
エリザ
拭えない違和感は放っておくと命取りになる。
私に関する事以外、乙女ゲームと同じ体裁が整ってしまっている。
警戒するに越した事はないだろう。
乙女ゲームのシナリオはさておき、現実的な話をする。隣国の公
女エミリアが何故アークシアに留学できたか、という事に関してだ。
表向きの理由は簡単に分かる。リンダール、正確にはデンゼルと
の戦が再び始まらないよう、人質としてエミリアはこの国に来た。
だが、それだけでない事は確かだ。
六百年近く侵略戦争の防衛と、潜り込ませた間者の齎す情報以外
他国との関わりを断ってきたアークシアが、たかだか二十年、それ
も単なる名目上続いただけの戦争の為に敵国の女を引き入れる訳が
ない。
それにリンダールにしても、態々支配層の最頂点に立つ大公が娘
を差し出す理由が無いだろう。デンゼル公を他の三公と必ず抑えて
おくという意思表示のつもり、とは考え難い。
今までデンゼル公を止めずに放っておいたのだ。リンダール側に
も思惑があると見て間違いは無い。
つまり私は、両国の外交という水面下の戦争に巻き込まれたとい
う訳だ。思わず頬が引きつるくらいは許されると思うのだが。
⋮⋮手持ちの情報が少なすぎる。
悪いことに、関わっている人間の殆どが私よりも格上の老獪であ
り、誰がどんな思惑を持っているか簡単には調べることが出来なけ
れば、判断もつかない。
160
自分自身を含め、盤上でお偉方の手駒となっている子供達の動き
から探りを入れるしかないか。
学習院は基本的に貴族の子供の社交場として存在する。しかし、
実はそれだけに利用するには勿体無い程の価値がある。
立場と身分と状況を冷静に鑑みた結果、ゼファー他数人と適度な
友好関係を築き、王太子とその取り巻き共とは慎重に距離を置く以
外は、人間関係に払わなければいけない注意はほぼ無かった。
そもそも必要なパイプは親の方に直接繋げてある。代替わりはま
だまだ先であり、子供側と学院の中で戯れる必要性は感じられない。
以上のような理由から、学院主催の社交会にはほぼ出席する事が
無い私は、普段時間を持て余し気味だ。
そこで役立つのが、学院の有する施設や蔵書である。特に蔵書の
質と量に関しては、右に出る存在はこの世界に三つも無いだろう。
おご
教育の内容に関しても申し分無い。テレジア侯爵に一通りのこと
はご教授頂いてあるものの、傲る余裕は私には無い。親の庇護をそ
の悪行ごと切り捨てた私は、同年代の先を行き、彼等の親と渡り合
うだけの力をつけなければならない。さもなくば死ぬ。
とはいえ既に習ったものには変わりない。手間取る事は無く、課
外学習に奮闘するような事も無い。
そうして他の生徒より格段に余った時間を、希少な学院の蔵書に
充てているのだが。
一年の年月を掛けて思い知ったのは、魔物に関する情報の絶望的
な少なさだ。
161
人語を解する、魔法を使う、人の手の入らない原自然の中に生き
る。魔物と一口に言っても鳥のようなものから獣のようなものまで
多種多様な生態が存在する。それらの数少ない共通点であり、魔物
であると判断される基準がこの三つ。
⋮⋮それで、他には。分布体系やその多様である生態系について
の情報は何故無い。どれもこれも化物退治の英雄伝ばかりで、詳細
な魔物の記載が無いので役にも立たない。
頭を掻き毟りたいほど苛立たしい。滅ぼし終えた魔物に興味は無
し、後世の事は考えませんとでも?
これに関しては情報通のゼファーでもどうにもならないだろう。
自分で調べるしかない。が、世界で三本指に入る蔵書を利用してこ
の状況である。実施調査から始めなければならないのか⋮⋮。
﹁⋮⋮ゼファー﹂
そういえば、とぽつりとその名前が自分の口から零れた。
春休みがあけてから、ゼファーの様子がおかしい。
具体的に言えば、距離を空けられて壁を作られている。私が友人
であると認めたゼファーは対人能力に優れた資質を有していて、最
初は正体不明の違和感でしか無かったのだが。
挨拶はする。二言三言で終わるような世間話もする。だが、それ
だけだ。当たり障りの無いよう、表面上を撫でるような会話だけ。
とうとう私の外道さでも吹き込まれたか。
自嘲さえ出てこない。予想はできていたのだから。
一つ息を深く吸って、吐く。そんな単純な動作だけで、鈍い痛み
162
を押さえ込んだ。
傷付く権利なんてものは、スープの鍋に吸い殻を放り込んだあの
瞬間に捨てた筈だ。
読み終えた本を棚に戻した。今日はそろそろ帰らないと、書類の
整理が終わらなくなる。
薄暗い廊下の窓の外に、煌々と明かりの灯る今夜の夜会の場が見
えた。舞踏の要素を含んだ夜会には一切出ていない。ドレスを着て
いけない私は、女子生徒にも男子生徒に扱い難い存在だと解ってい
るからだ。
学舎を出るとヴァルトゥーラが控えて待っていた。毎日の事で、
そろそろ慣れた光景だ。
﹁出迎えご苦労、ヴァルトゥーラ﹂
言葉を返さずに静かに頭を下げたヴァルトゥーラに、何とも言え
ない苦々しさを感じた。
彼は私にどんな感情を抱こうと、ゼファーのように離れていく事
は出来ない。カディーヤも、アニタも、まだ幼いシャーハティーや
カチヤに至ってもそうだ。
そんな事は解った上でそのように差し向けたのは自分だ。なのに、
今はただ煩わしいだけの道徳心││前世で身に染み込ませた倫理観
念が馬鹿みたいに騒いで自虐を促してくる。
﹁⋮⋮エリザ様。何かありましたか﹂
気遣わしげなヴァルトゥーラの声には、いや、という簡素な一言
を返した。
163
﹁何もない。帰ろうか﹂
﹁はい﹂
帰途は、まるで一人で歩いているように感じられた。
164
28
狂ったように伝書鳩達が窓の外で蠢いている。
﹁⋮⋮流石に早いな﹂
鳩を送ってきた相手の有能さに笑みが漏れる。カディーヤがそっ
と窓を押し上げると、どっと雪崩込んでくる白い鳥達。
足に括りつけてある手紙を外すと、ヴァルトゥーラの用意したパ
ン屑を啄んで、次々に主人の元へ飛び立っていく。
学院が新学期を迎えて一週間と少し。
私の周囲の子供達に関する情報が書き込まれた手紙の海が、我が
寮宅の一室に広がった。
違和感を感じてすぐ、学院内で繋いでいた友好関係を総動員させ
た。何かが私の周りで思惑を持って動いているのは確かで、渦中に
ヒロイン
いるからには自分の手足を動かす事は赦されない。
投じられた石はエミリア、そしてゼファーの態度の変化。私は揺
らぐ水の方で、つまり私を揺らがそうと画策する存在があるという
事だ。
エミリア、王太子、大公家、総帥の孫、それにテレジア一族と、
ザスティン公爵家を洗わせた。
子供であろうと、必要な者を切ってはいない。使える物まで捨て
て置くほど愚かしい事は無い。
盤上の駒からプレイヤーの企みを読まねばならない。だが、私は
駒でもあるが、プレイヤーでもある。駒を潜ませていないなどと、
165
言った覚えは無い。
﹁ヴァルトゥーラ、カディーヤ﹂
﹁はい、エリザ様﹂
﹁リンダールに潜り込み、デンゼル公の動きを詳しく調べて来て欲
しい。セイン達の中から使える者は自由に選んで使え。恐らく役立
つ﹂
行儀悪く立てた片膝に乗せた手の先で、サイン入りの許可証を揺
らす。
今回の外交の発端はデンゼル公だ。何時までも不透明のままにさ
せてはおけない。
﹁手段は問わないが、身体と命を売る事だけは禁じる。それは私に
捧げられたものだからな﹂
﹁仰せのままに﹂
頷いた彼等に緩く笑みが零れる。アニタ達が手の内にある以上、
この二人は逃げない。裏切る事も万が一には無い。
手足は動かせないが、手足の代わりは遠慮無く動かせて貰う。
﹁⋮⋮ああ、悪いがその前に一つ、仕事をこなして欲しい。夜会へ
出る支度を整えてくれ。取るべき駒が一つある﹂
﹁今宵はご招待頂けて感謝している、ローレンツォレル男爵││ジ
166
ークハルト。本日齢十五を迎えられた事、心よりお祝い申し上げる﹂
唖然とする総帥の孫に、ふと笑いが堪えられずに滲む。
ローレンツォレル家の直系嫡子の十五歳の誕生日。出欠を問わず、
返信を求めず、招待状を送ったのはそちらだ。
﹁││カ、ルディア。来てくれたのか﹂
﹁そんなに驚く事だろうか?私が学友の誕生日を祝うというのは﹂
心にも無いことだったが、総帥の孫は真に受けたのか気不味そう
に視線を逸らした。
無論、今日の夜会にわざわざ参加したのは、こいつの誕生日を祝
う為などではない。
﹁い、いや⋮⋮ありがとう。父上と祖父にはもう挨拶を?﹂
﹁いいや。まずは主役にお祝いを申し上げたかったのでね。案内を
頼んでもいいだろうか﹂
﹁ああ、勿論だ。祖父も父も顔を見たがっている﹂
それは何よりだ。なにしろ、私は彼等が目的でここに立っている
のだから。
││ローレンツォレル家は武官の一族である。此度の外交は彼等
にとって薄利であり、今回の件で積極的な動きは見られない。
新学期が始まってからのジークハルトの言動、親達がふと漏らし
たローレンツォレル家との遣り取りの一端。関わりの有りそうな他
家の動き。掻き集めた情報は膨大な数に及びんだが、ローレンツォ
167
レル家が何も望んでいないと確信を持てた事は、私にとっては大き
な益となった。
﹁エインシュバルク伯か。冬の最後の貴族院以来だな。ヴァルトゥ
ーラはどうだ?﹂
﹁御機嫌ようございます、ローレンツォレル侯爵。お陰様で、非常
に優秀な従者として使わせて頂いております﹂
ふん、と満足気に鼻を鳴らした侯爵に、二人を届けた時のテレジ
ア侯爵が被る。前々から思ってはいたが、どうも二人は似通った点
が多い気がする。性格的な部分で、だが。
﹁エインシュバルク伯、愚息の誕生祝いに来てくれてどうもありが
とう。君の顔を見るのは久々だな。戦以来か﹂
侯爵と私の会話が始まる前に、ローレンツォレル伯爵がスマート
に割り込んだ。
彼の親と子に比べて余程気さくそうな表情と声に、話し方。武官
の一族の中で変わり者とされる彼は、貴族間のやりとりに非常に鋭
いと噂されている。
普段王都や貴族院での遣り取りは父である侯爵に殆ど押し付けた
まま領地に篭っている伯爵。彼が王都に滞在しているを逃す手は無
い。
恐らくは私の目的も殆ど予想されている筈だ。それを確信させる
かのように、ローレンツォレル伯爵はにこりと微笑んだ。
﹁はい。その節はお世話になりました﹂
﹁いやいや。侯爵はともかく、私は何も出来てないよ。もっと話し
168
ておけばよかったとはずっと思っていたのだけどね。だから、今日
来て頂けたのはありがたい﹂
伯爵は無造作に後ろのテーブルに置いてあったグラスにワインを
注いだ。なみなみと赤い液体で満たしたそれを、はい、と差し出さ
れる。礼を言って受け取ると、遣り取りを見ていた総帥の孫が慌て
た様に軽く私の上着の裾を引いた。
﹁おい⋮⋮っ、酒だぞ、それ!﹂
﹁知っているが﹂
﹁ジーク、貴族院で配られる飲み物は酒だぞ。エインシュバルク伯
爵はとうに飲み慣れておる﹂
何を今更、とやや呆れた様な顔で侯爵が孫を見遣る。どうやら伯
爵と話しをする間、孫の面倒を見ていてくれるらしい。
私を気にしてはいるものの﹁そうなんですか﹂と祖父に返さずに
はいられない総帥の孫に、侯爵が一銭の価値にもならなそうな貴族
院とアルコールに纏わる話を始めた。
﹁それで、エインシュベルク伯爵殿。わざわざ私に会いに来たとい
うことは、欲しいものがあるのだろう。何を差し出す?﹂
﹁それを聞くということは、伯爵にも私に求めるものがおありにな
るのでしょう﹂
﹁そうだな。当ててみてごらん﹂
ふ、と意地悪く笑った伯爵に、下品にならない程度に笑みを返す。
169
﹁これから先五年間の小麦の輸出を、ローレンツォレル伯領を第一
優先とさせて頂きます。それから畜産物の輸入関税の撤廃。二十人
の留学生を二年間受け入れる用意も出来ています﹂
﹁それだけ?﹂
﹁いいえ。もう一つあります。││後見人の後任をローレンツォレ
ル伯爵に、と次の貴族院で議題に挙げようと思うのですが、いかが
でしょうか?﹂
テレジア侯爵はもう歳だ。貴族であっても六十を迎えればいつ死
んでもおかしくないという中、侯爵は今年六十八歳を迎えようとし
ている。いつ彼が亡くなってもおかしくないよう、数年前からひっ
そりとささやかれている私の後見の後釜について。准成人である私
がそこへ、自分の意思を表明しようというのだ。
﹁⋮⋮おいしい話過ぎて裏を勘繰ってしまうな﹂
﹁私も後ろ盾が欲しいのですよ﹂
よし。上手くいったと小さく拳を握った。
││一つだけ不安があった。私の後見という地位に何の旨みも無
い状況に既になっているのではないか、という事だ。
侯爵位以上の方々の秘密裏な話は、どうやったって伯爵以下の貴
族たちまで勝手に降りてきたりはしない。その唯一の例外が目の前
に立つローレンツォレル伯爵だ。彼には父である侯爵がいて、侯爵
の齎す情報を上手く扱える力が伯爵にはある。学習院の子供とは違
うのだ。
つまり、彼ならば知っているという確信があった。外交という大
170
事の裏で私に圧力をかけているのが、宮中の総意であるか否かと言
う事を。
答えは否。そうなれば、誰が黒幕かを絞り込むのは容易い。
何を考えているのか聞かせて貰うのが今から楽しみだよ、王太子
殿下。
171
29
貴族社会には、大きく分けて五つの社会が内包されている。
一つは貴族院。成人した爵位ある貴族を中心に形成される男性の
社会だ。
次に、学習院。十三歳を迎えた貴族の子女の閉鎖された社交の場。
三つ目はミセス達の友好関係。貴族の既婚女性達の間には、茶会
やサロンによって独自の関係が作られている。
それから、﹁宮中﹂と呼称されている侯爵以上の貴族と王族から
成る、この国の最高権力者達の集まり。
最後の一つは、それらの貴族に仕える者達の繋がりだ。ここから
得られる情報は一見些細なものだが、不透明になりがちな家の中の
様子が判る。
貴族院の情報は自分で手に入れる事が出来る。学習院のものは、
学友から手に入る。ミセス達の井戸端会議は、その娘達がそこそこ
知っていたりして、それも学友から手に入れられる。宮中について
もローレンツォレル伯爵という情報源を手に入れた。
﹁情報網を作るのが本当にお上手ですわね、エリザ様?﹂
﹁私が?まさか。運良く有力な情報網を持つ友人に恵まれただけだ
よ。貴女みたいなね、レイチェル﹂
シンプル過ぎて無骨な印象になっている寮宅の応接間に、全く似
合わない少女がくすくすと笑う。
彼女の名はレイチェル・ザスティン。あのザスティン公爵の姪で
172
ある。
﹁お褒め頂けて光栄ですわ﹂
隣国の大公息女などよりもよっぽど優雅に笑った彼女は、先日利
用した情報網のうちの一つだ。
去年から付かず離れずの距離を保って付き合ってきた、学習院の
友人達。関係性はゼファーとのそれと比るとかなりビジネスライク
なものだが、そのお陰で彼のように排除されずに済んだ。
他にも城仕えや大公家で行儀見習いをしている兄姉がいる者、重
鎮達の家臣の家族と親しい者等、情報を集めるのに結んだ友好関係
はあるが、その中ではこのレイチェル嬢が最も大きな情報源であっ
た。
﹁そうそう。貴女の性別の件ですけれども、学習院内の女子生徒
にはきちんと情報を行き渡らせましたわよ﹂
﹁貴女のその有能さ、本当に助かるよ。それにしても、一年もの間
男だと思い込まれていたなんてね﹂
﹁エリザ様が令嬢らしく振る舞わないのが原因でしてよ。爵位を持
つのは普通男性なのですし、貴女ったら、学則だからとそんな服を
着て男子生徒と同じ授業に参加しているんですもの。女は鋭いです
から、気づいていた者の方が多かったようですけど﹂
前世の記憶があるエリザからすれば、騎士服で済ませられるので
あれば毎日ドレスをとっかえひっかえするより余程良い。
言っても理解されず白い目で見られる事は明らかなので、黙って
肩をすくめるに留めたが。
173
﹁まあ良いですわ⋮⋮。それで、状況はハッキリとしてきましたけ
れど、それぞれがどういった理由で動いているかはまだ分かりませ
んの?﹂
﹁宮中は大公息女殿を泳がせて、向こうの権力者達のことを探りた
いようだ。デンゼル公と他の公爵達、大公が繋がっている事は彼女
がここにやって来た時点で明らかだしな。だが、彼女に引っ掻き回
されては元も子も無い。そこで万が一に備えて私をつけたらしい。
意外と信頼されていたようだな﹂
冗談めかして皮肉気に笑うと、レイチェルが広げた扇越しに呆れ
た視線を寄越してきた。
﹁テレジア候爵の影響力を甘く見てはいけませんわ。彼は貴女の酷
薄さを承知の上で推してますもの。そして、他の方々も同じく承知
の上で貴女を動かしていますのよ﹂
﹁信が篤くなければわざわざ大事に対して用いたりはしない、か﹂
﹁そういう事ですわね。まぁ、貴女にちょっかいをかけた間抜けの
炙り出しが楽で良かったではありませんか。宮中の信頼を得たエイ
ンシュバルク伯爵にわざわざ手を出すなんて下策、あの方々は行い
ません。││未熟な王太子殿下を除いて﹂
レイチェルが愉快そうにころころと笑う。まるで鈴を転がすよう
だ。笑い声がどうやったら鈴の音に聞こえるのかと前世よりの疑問
だったが、彼女の笑い方はそう評するのがぴったりだった。
﹁ゼファー・モードンを引き剥がしたのは嫉妬からかしら?本当に、
何を考えているのか聞く時が楽しみですわね。ふふふっ⋮⋮それに
174
してもあの教師、まさか王太子の手の物だったなんて。貴女どうや
ってそれを知りましたの?﹂
﹁ゼファーの弟君に話を聞いただけだよ。春休み中にゼファーに客
が来て、様子が少しおかしくなった。客は学習院の教師だった。前
に贈ったブローチの礼に教えて頂いた。⋮⋮間抜けだね、定期的に
王太子殿下の寮宅を訪ねているとこちらに筒抜けだとも知らずに﹂
付近の寮宅に勤める使用人やメイドから情報がバレている、なん
て考えてもいないようだ。
﹁大公家の二人が生徒会を始めたのも、殿下の手の一つかな?﹂
﹁まあ、エリックを引き剥がすのが目的かしら?﹂
﹁多分ね。こちらとしては都合が良い。休みに入る前に少し距離を
取る姿勢を見せたからか、ジークハルトには手を打ってないようだ
しね。ツメが甘いな。それともジークハルトは殿下と繋がっている
のかな?﹂
勿論、それは無いだろう。
王太子は彼に対して手を打たなかった。そして、恐らく目的であ
る私の孤立に失敗したのだ。孤立させて何をさせたかったのかは理
解不能だが。
ぬる
温まってしまった紅茶を嚥下して、ふっと息をついた。
情報の共有はレイチェルへの対価の一つ。どうやら彼女も欲しい
ものがあるらしい。そうでなければ、彼女は動かない。
その有能さを上手く隠して王太子からも警戒されていない彼女は、
将来が怖いほど強かだ。私を狙っている王太子は、彼女に横から食
175
い荒らされるに違いない。
駆け引き事は女の方が強いと、昔から決まっている。
176
30 side:グレイス・テュール・ドーヴァダイン︵前書き
︶
大公嫡子、グレイスの視点の話です。
177
30 side:グレイス・テュール・ドーヴァダイン
耳の奥で煩いほど自分の心臓の音が聞こえる。
グレイスは足元に転がる女を、指一本動かせないままに見下ろし
ていた。
女の不規則な喘息音が掠れるように響く。
女の首がおかしな方向に曲がっている。その腕の中に抱き込まれ
た小さな子供は、気を失っているのかものひとつ言わない。
死んではいない筈だ。その子供が女に抱き込まれる前に、己の魔
力がその子供を覆ったのを確かにグレイスは感じた。
グレイスは、女の口から泡立った唾液が溢れる様を凝視する。
まるで凍りついたように全身が動かない。
こんな時に限って誰も周りに居ない。だから、自分が誰かを呼ん
でこなければならない。女が完全に死ぬ前に。
そう思っている筈なのに、足の裏に根が生えたかのようだ。
女の身体はぴくぴくと、潰された虫のように小さく痙攣している。
グレイスの息が上がる。苦しい程に心臓が脈打ち、身体が燃え盛
る火のように熱い。
誰か、呼ばないと││声を上げないと。
叫び声となるはずだった吐息は、喉の奥に絡み付いて無様に上が
った呼吸音にしかならない。
178
どうして自分は、ここに立ち尽くしているのか。女の腕の中の子
供が無事である保証はない。脳震盪を起こしているかもしれない。
女だって、ここで痛みにもがき苦しみながら一人で死んでしまうだ
ろう。
││だが、この女が死ねば。
この女さえ死ねば、エリックが手に入る。
仄暗い感情はグレイスの四肢を強張らせ、女の死にゆく様を見詰
めさせていた。
この女が、死ねば。死ねば││あの部屋にもう戻る事は二度と無
い。いつそこへまた入らなければならないか、怯えながら過ごす日
々は消えるのだ。
人を呼ばなければ。助けを求めなければ。
いや駄目だ。万が一この女が生き残ったらどうする。
耳の奥で煩いほど自分の心臓の音が聞こえる。
﹁││っ!!﹂
声にならない引き攣った叫びとともに、グレイスは寝台の上で跳
ね起きた。
夢の中と同じ様に、心臓が痛いほどに脈打っている。全力で走っ
た後の様な苦しさに息も上がっている。
脂汗がこめかみから頬に伝う。
179
﹁グレイスー?起きた?﹂
﹁⋮⋮あ、ああ。今起きた﹂
扉の外からエリックの声がして、漸くグレイスは滴り落ちてきた
汗を乱暴に袖で拭った。意識して深くゆっくりと呼吸を行い、興奮
した自分を落ち着ける。
部屋は薄暗い。朝を迎えている筈なのに、いつもは部屋を照らし
ている窓からの光が今日は無い。
王都には珍しく、激しい雨の音がする。
エリックの母親が死んだ日も、こんな雨の音に包まれていた。外
の石畳を打つ水音と、強い風の音。
だからあんな夢を見たのか、と、グレイスは舌打ちした。
﹁グレイス?どうかした?﹂
扉の向こうから、エリックが不審そうに再び声を掛けてくる。グ
レイスは慌てて寝台から降りると、扉の鍵を開けた。
﹁おはよう、エリック﹂
﹁おはようグレイス。どうしたんだよ?具合悪いのか?﹂
﹁い、いや。違う。ちょっと夢見が悪くて⋮⋮﹂
一ヶ月間もの間、家で再教育を受けたくせにエリックの粗暴な口
調は変わらないままだ。何年もかけて変化したそれは、やはり何年
かしないと戻らないのかもしれない。
180
それでも戻るものはいい。
グレイスがどれだけ望もうと、あの雨の日には戻れないのだから。
﹁まあ、こんな天気だもんな。悪い夢だって見るよ﹂
そう言って窓の外、灰色に濁った景色を見るエリックも、あの日
の事を思い出しているのだろうか。グレイスの背に冷たいものが伝
う。粟立った肌を宥めるよう、彼は自分の二の腕のあたりを擦った。
まだまだ夏の遠い、春先の雨の日。気温は低い。まるで冬の再来
のようだ。
﹁⋮⋮グレイス?具合悪いのか?﹂
訝しんだようにエリックが顔を覗き込んでくる。グレイスは青白
い顔色をしていて、目線もどこか覚束無いようだ。
﹁大丈夫だ。寒いだけだから⋮⋮﹂
﹁いや、やっぱり具合悪いだろ。最近生徒会の仕事で忙しいしさ、
疲れてるんじゃねえの?﹂
そう言いながらエリックはグレイスを寝台に向かわせる。
乱れたシーツを見て、これは後でメイドに直させないとダメだな、
とエリックは口に出さずに判断した。寝汗をかいたらしい。もしか
したら熱が出ていたのかもしれない、と兄の体調を気遣って、とっ
とと寝かせる事にする。
﹁エリック、俺は大丈夫だから⋮⋮﹂
﹁いいから、寝とけよ。どうせ外は雨だし、今日は休みなんだから﹂
181
宥めるようにエリックの手がグレイスの肩を叩いた。そのまま寝
台に押しこまれてシーツで包まれると、あっという間に起き上がれ
ないほど身体が重くなったのを感じた。
﹁⋮⋮訂正する。なんか、怠い﹂
﹁やっぱりな。メイドたちを呼んでくるよ﹂
やれやれと苦笑しながらエリックが離れていく。
思わず腕を伸ばそうとして、しかし倦怠感に負けて指先一つ動か
せない。グレイスは部屋を出ていくエリックを黙って見送るしかな
かった。
何だか頭がぼうっとする。熱が出ているのかもしれない事に漸く
思い至り、舌打ちしたい気分に駆られた。体調を崩すなんて自分ら
しくもない。
一人で部屋に残されると、窓の外から雨の音が嫌でも一色の中に
滑り込んで来る。眠ってしまえば良いのだろうが、あんな夢を見た
後では眠る事に抵抗感がある。
あまり良くない形で気分が昂ぶっている。泣きたいような、哄笑
したいような。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。エリックは部屋にいないだけ
で、ちゃんと自分の側にいる。
││ふと、思考の片隅で紅い瞳が閃いた。
気に食わないそれを思い出してしまい、グレイスの眉間に皺が寄
る。
狂人め。とっとと大好きな戦の中で、討ち死になりなんなりすれ
ばいいものを。
182
グレイスはその面差しを振り払うように、枕に顔を埋めた。雨の
音は、煩わしくも彼を苛む事をやめたりしなかった。
183
31
王太子が何を下らない事を企んでいるのかはともかくとして││
そもそも総帥の孫に手を打っていなかったり、レイチェル以下水面
下で付き合いのある学友達に気づけてないあたり本当にツメが甘い
つつがな
││外交という国と国同士のリアルな喰い争いの表面では、覚えて
いる通りの乙女ゲームのシナリオが恙無く進行している。
エミリア
王太子を通して大公家の二人や総帥の孫と面識を持ったヒロイン。
ゲームの通り天真爛漫で屈託の無い彼女は、敵国からやって来た
大公女という厳しい視線の中、健気な態度を崩さずに日々の生活に
勤しんでいた。
四人のキャラクターとのルートが始まるのに必要な最初のイベン
エリザ
トもしっかりと回収されている。
私は色々と事情がすっ転がったお陰で、学習院内ではヒロインの
付き人のような立場を国王陛下から賜っている。そういう訳で、そ
れらのシーンは全て横から生暖かく見守らせてもらった。
ゲームの中では、お約束通り四人がそれぞれ抱えている問題をヒ
ロインが解決して親しくなっていくというシナリオが描かれていた。
古今東西、人の信用を分かりやすく得られる方法は変わらないらし
い。
こんな貴族社会で生きていれば問題なんて大なり小なり山ほど出
てくる。特に彼等のような子供はまだまだ思春期特有のあれやこれ
やをたんまりと抱えているという訳だ。
基本的には、王太子はその地位から来る孤独⋮⋮これは立場上他
184
のキャラクターにも当て嵌まってくるのだが、その地位的に仕方の
ない孤独感を埋めるような言動が攻略のカギとなる、らしい。
攻略こそしなかったが、好感度の上がる選択肢の傾向は私が居ま
すだとか、臣下の礼をとっていても友人には変わりないだとかそう
いった台詞だった。
大公家の二人は殆ど同時進行で攻略する必要がある。これは妹情
報だ。この二人はお互いから引き剥がされる事を極端に拒絶する。
特にグレイスは、エリックルートで彼の好感度を低いままにすると
バッドエンドになるという徹底振りだそうだ。
そんなグレイスの攻略は比較的単純で、弟とずっと一緒に生きて
いくという望みを肯定していけばいい。対外的に二人が離れずに済
む環境を作るアドバイスと、エリックと一心同体であるというグレ
イスを許容する姿勢が攻略のコツだ。
一方のエリックは彼の自立心を支えてやるのが後略の糸口となる。
何をするにもグレイスに頼りがちな彼を導き、兄弟として助け合う
関係まで引き上げてやる。その中でブラコンのグレイスの好感度も
調整しつつ信頼関係を築いていくのだという。
そして残る総帥の孫は、コイツは意外と攻略が面倒であると世間
から評価を受けていた。武人キャラクターのテンプレに則り、色恋
沙汰に鈍い⋮⋮というか、そもそも女性に疎いのだ。
そんな彼には女性的な精神力の強さを只管魅せつける選択肢が求
められる。悪役令嬢エリザ・カルディアが最も活躍するルートであ
り、仕掛けられた嫌がらせや虐めに真っ向から耐える必要がある。
正直に言って一番嫌いなシナリオで、もしも前世で二周目や三周
目をプレイしていたとしても、総帥の孫だけは攻略しなかっただろ
う。
前世から今に至るまで、私の辞書に﹃健気な態度で逆境に耐える﹄
という言葉は無い。
185
エミリアは、流石ヒロインと言うべきか、それとも大国リンダー
ルの頂点に構える大公の息女と言うべきか、思春期の少女とは思え
ない程懐が深い。言い換えて、許容範囲が非常に広い。
年頃の少女特有の、同年代の少年達と比べて精神的に一つ大人で
ある事を武器として、聖母の如き優しげな物言いを撒き餌として恐
るべき一つの魅力を形成するのである。
これが例えばレイチェルのようなタイプであれば、その容赦の無
い言葉が刃と化して少年達の柔い心をずったずたにしてトラウマを
植えつけまくるに違いない。喩え同じ事を言ったにせよ、言い方と
態度によって全く異なる結果を齎すのである。少年達には恐らく悪
魔に見えることだろう。
勿論実際のレイチェルは、その爪を隠して獲物を獲る、言わば能
ある鷹なのだが⋮⋮。
今のところ、ヒロインは一通りのイベントをこなしている。誰か
のルートに入るのか、それともルートに入らぬまま終わるノーマル
エンド、通称﹃見知らぬ公爵エンド﹄になるのか⋮⋮。
ちなみに、誰のルートにも入らない場合でも、ノーマルエンドと
バッドエンドの二種類が存在する。
バッドエンドの通称は﹃国交悪化エンド﹄であり、エリザの仕掛
けた罠に嵌り、ヒロインに実害が出て隣国との関係が激化の一途を
辿るというものだ。
エンディングまでは確認しなかったが、クイックセーブを使って
少しだけその内容は見た覚えがある。
﹁カルディア様、見てください!すごい綺麗なお花⋮⋮っ!﹂
186
﹁ああ、あれは紫涙草ですね。花弁の表面に特殊な凹凸があって、
見る角度によって色が異なって見えるそうです。王都から西ではよ
く見られる花だそうですよ﹂
昼の茶会に出席するというヒロインを送る途中。
リンダールでは知られていなさそうな、特徴的な紫の花を見ては
しゃぐ彼女に、そこにいた庭師に一輪摘んで貰う。
今のところ、ヒロインとの関係は良好そのものだ。
勿論、ゲームのような事にはエリザが私である限り有り得ない。
危惧しているのは私の隣国での悪評が、良くも悪くもお綺麗すぎる
性格のこの娘に伝わる事だ。純粋培養のお嬢様は作為的な教育によ
って政治的な話に疎く、私の悪行も今のところは知られていないよ
うだが。
﹁どうぞ﹂
﹁わぁ⋮⋮ありがとうございます﹂
﹁いえ。そうだ、ちょっといいですか﹂
ふと思いついて彼女の耳元にその一輪を差し込んでやる。桃色掛
かったブラウンの髪に、日の光を受けて青と赤の幻想的なコントラ
ストを写す紫はとてもよく映えた。想像通りだ。
﹁あ、あの⋮⋮カ、カルディア様?﹂
私よりも身長の低いヒロインは、真っ赤な顔で見上げてくる。
そういえば大公家に生まれた彼女は他人との不用意な接触に弱い
という設定がゲームにあった。所謂赤面症であり、ゲーム中でのヒ
187
ロイン側のコンプレックスとなっている要素だ。今更思い出した。
﹁突然失礼しました。でも、良く似合っている﹂
安心させて落ち着かせようと微笑んだが、逆効果だった。⋮⋮人
から褒められることにも慣れていないんだったか。聖母のように他
人への許容範囲が広いくせに、自分へ向けられる感情にはコミュ障
の如き対人能力という設定を、これまた今更思い出した。
折角戦争の収まったリンダールとの諍いが再発するのは御免であ
る私としては、絶対に﹃国交悪化エンド﹄だけは回避したい。
そんなわけでエリザ・カルディアとしてせっせとヒロインの好感
度を上げているという訳だ。
そもそも隣国の大公息女なんて美味しい獲物、そう簡単に逃す気
も元から無い。折角国王陛下から直々に頂いたのだ。存分に骨の髄
までしゃぶり尽くさせてもらう。
188
32
先日の貴族院で、ザスティン公爵が次代の当主を発表した。
彼の息子であり、レイチェルの従兄にあたる青年、ラージアス・
ザスティン。まだ上級学習院を出て二年も経っていないが、なかな
か優秀らしい。
ザスティン公爵家の当主業を早くから補佐し学び始める事で、こ
れから台頭してくる王太子や大公家の跡継ぎ達を十分に支えること
が出来るよう経験を積むそうだ。
﹁エインシュバルク伯爵。愚息を紹介させて頂いても宜しいでしょ
うか?﹂
﹁光栄です、猊下﹂
次期当主の宣言と共に、ザスティン公爵は息子ラージアスに王宮
管理の権利を半分ほど移譲した。そして同時に、国王陛下から新た
な役職を賜っている。
教会の最高司祭職である。
アークシア王国では、クシャ教と呼称される宗教のうち、聖アー
ル・クシャ教会の説く教えが国教として認定されている。
今でこそ立場が逆転して教会は王の元にあるが、このアークシア
王国は元々この教会によって建国された神聖アール・クシャ法王国
が前身となって成立した歴史を持つ。
どの世界でも宗教は民草を纏めるために発展し、利用される為に
189
存在するらしい。
目に見えない自然の力を崇拝する原始宗教に始まり、狩りをする
ようになれば力の神を作り上げ、農耕が始まれば土壌と食物の稔り
に感謝して大地を母なる神とし、人が集まり社会が力を持つにあた
ましま
り神は地から天へ、母から父へと移り、法と裁きを司る。そしてや
がて、天に坐す父なる神は唯一無二の神となり、他の神々の名は忘
れ去られる。
人間の営みに沿って宗教は変化し、人の世に即した倫理を教義と
して説いて人々の社会の安寧を図る法となる。
さ
クシャ教の創始者は余程の天才だったのか、あるいは教会の立ち
なか
回りが恐ろしく上手いのかは定かではないが、この宗教は戦乱の最
中にあった大陸の三分の一を平定し、六百年に渡る平穏をこの国に
齎している。
その教えの主たる部分は、やはり社会の為に我を殺す禁欲と、そ
れに宗教的な正当性を持たせるための厳かな理由、及び戒律を破る
者に与えられる神罰についてだ。
最も忌避すべき欲求は、自分の手の外にあるの物への欲だそうで
ある。ここの理念からアークシアは鎖国状態を貫いていると言って
も過言ではない。
ザスティン公爵家は王家の血筋に連なるものであり、クシャ教の
神の系譜の末裔にあたる。クシャ教の創始者である神子クシャ・フ
ェマの直系子孫の男アハルが神聖アール・クシャ法王国の偉大なる
創立者にして初代法王であり、現在の王家は脈々と千年の間その血
を継いできているのだ。
法王、というのが歴史的に見てこのアハルという男の巧みな点で
ある。彼らは力で侵さず、先進的な法によって群雄割拠で混沌とし
た国々をまとめ合わせた。そうして得た領土と国民が、長い年月を
かけてアークシア王国になっている。
190
そんな訳で、教会の影響力は未だに大きく残っている。
今回ザスティン公爵が王宮の管理という重大な仕事の他、国教の
最高司祭という権力を握ったのは大事である。貴族のパワーバラン
スがかなり動く事は間違い無いだろう。宮中でどのような話し合い
があったかは知らないが。
﹁エインシュバルク伯、私の息子、ラージアスです。ラージアス、
こちらはエインシュバルク女伯爵だ﹂
﹁はじめまして、エインシュバルク伯。卿の武勇伝はよく聞いてい
る。ずっと会ってみたいと思っていた﹂
ラージアス・ザスティンはレイチェルに似た鋭い面差しの青年だ
った。モードン伯爵ほど美形でも無く、王太子ほど麗しくもないが
整った顔立ちをしており、ザスティン家の特徴なのだろうか、目に
力があって印象に残る。
﹁ご丁寧にありがとうございます。エリザ・カルディア・エインシ
ュバルクと申します﹂
﹁必要以上には畏まらないで構わない。どうせ長い付き合いになる。
⋮⋮学習院を出たら、お守りに参加する。それまでは悪いが任せた﹂
淡々とあけすけな言葉を放つ彼は、やはり血族なのか、レイチェ
ルと良く似ている。
﹁⋮⋮卿のことは信用している。何しろ、あのレイチェルと交友が
あるらしいからな。あいつは見つけるのも至難の業だが、動かすの
はさらに難しい﹂
191
ふん、と彼が愉快気に鼻を鳴らすのを、私は表情を崩さずに見上
げるしかない。遠目から王太子がこちらを見ている。
流石にここまで力を持った公爵家の嫡男、それも次期跡取りとし
て公表されたお墨付きに手を出されたら堪ったものではない。
﹁レイチェル嬢は、友好関係で動いた訳ではありませんよ。今回は
欲しいものがあるそうなので﹂
そもそも彼女との友好関係は学習院内では無いという事になって
いる。自分に利が無ければ動かないのは重々承知でパイプを繋いだ
が、彼女は先日まで、私に厄介事の匂いがするたびに姿をくらまし
続けていた。恐ろしい程の情報管理能力である。
﹁あいつは一人で大抵の事はやってのける。今回お前の為に動いた
という事は、そういう事だ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
ただ、ラージアスの言う通り、今回は私の持つ何かを借りる必要
があったのだろう。春休みが終わり、違和感の為に周囲を観察して
いた私の元をふらりと訪れて、今回はちょっと混ぜてくださる?と
しゃあしゃあと言い放ったのがレイチェルという少女なのだ。
ちなみにこの公爵家の重大発表により、私の後見人についての話
は次回に持ち越しになった。
何しろ宮中の勢力図にかなりの変更が加えられる事になったのだ。
ローレンツォレル伯爵も、少し情勢を見極める必要があるらしい。
192
33
学習院主催の夜会の中で、絶対に参加しなければいけないものと
いうのは幾つか存在する。
そのうちの一つが降臨祭である。
クシャ教の唯一神ミソルアが世に秩序を齎すため、地上に降臨し
聖母シャナクと契った日を祝すものであり、この日だけは全生徒が
集まって神子クシャ・フェマを遣わしてくれた事に感謝を捧げるの
だ。
去年は戦争の後処理で参加を免れたが、今年はそうもいかない。
ヒロインに付き添ってやらねばならない勅令があるのだ。
降臨祭の日は夏の最初の満月と定られている。アークシア王国は
太陰暦という、月の満ち欠けに合わせた暦が使われているためであ
る。
この日ばかりは常の騎士服ではなく、学習院側が指定した服を着
ることになる。
爵位持ちは全員、かつて存在した神殿騎士の正装着に、爵位に合
わせた色を差したもの。爵位を持たない男子生徒は法衣、女子生徒
は聖衣で、これも、それぞれ家柄の爵位に合わせた色を差す。
最下位の騎士爵は黒、準男爵は深緑に男爵は白緑、子爵は薄水色
で伯爵は赤、侯爵は紫、公爵は青で、大公家は瑠璃群青、王家は金
色である。
アークシアには前世で言うところの禁色のような慣習があり、金
は王家のみ、瑠璃群青、青、紫、赤は子爵以下には着用を許されて
いない。ちなみに、私の領の騎士服は私の陞爵に合わせて黒地に白
193
の装飾だったものが紅に変更されている。上下の位のある爵位は、
上位貴族が家紋のブローチをつける事により区別される。
例によって例の如く騎士正装な私はリンダール大公女の接待係、
特例として男性側のエスコートを行う許可なるものが下されている。
いらんわ。
哀しいかな、一年も授業を受けていれば男性役のエスコートも板
についてしまう。もちろんヒロインも私が女性であるのは十分承知
の上。
隣国の大公家を舐め腐っているのかと憤慨されないか首を捻った
が、学院内限定では二番目に高い地位を持つ私であり、ヒロイン本
人にはウケが良いようなのでこの無茶が罷り通ってしまっている。
⋮⋮最近ようやく分かってきた事と言えば、意外と私は女性達に
人気があるらしいという事だ。半年以上前、初の夜会参加となった
モードン邸での頓珍漢な勘違いをしたのは、今思い出しても顔から
火が出そうな程。
アークシアが男性優位社会となって四百年余。たおやかな良妻賢
母の仮面の裏側で腑抜けだ男達の尻を蹴って裏から社会を回してき
た女性達には、どうにも真っ向から男性社会に斬り込んでいく私が
小気味良いらしい。そんな女達の娘も、また然り。
今は亡き南国の男陽女陰の思想さえ入り込まなければ、アークシ
アは今も女王を戴く国であったに違いない。聖アハルが次代として
定めた法王は、女性だったのだから。
﹁わぁ⋮⋮、これがアークシアの夜会、凄いです!キラキラしてる
⋮⋮﹂
そんな訳で、衣装に恥じぬよう背筋を伸ばして隣国の姫君のエス
194
コートを仕っている私である。
リンダールの宗教はアークシアのものとは異なり、レヴァ教と呼
ばれる多神教を国教としている。多神教というよりは、ひとつの神
が全てに遍在するという少し特殊な宗教観と言った方が正しいよう
だが。
そういった宗教事情を鑑みて、ヒロインはシンプル且つ厳かなデ
ザインのドレスに身を包んでいる。聖衣はクシャ教の徒にのみ許さ
れるもので、無理に他教徒に着せても意味が無い。
信じぬ者にも従属を欲する事なかれ。私が思うに、クシャ教の説
く中で最も素晴らしい教えだ。是非前世で布教してほしい。無駄な
石油の高騰が無くなるかもしれない。
﹁貴国のものとは異なりますか?﹂
﹁あの⋮⋮はい。やはりアークシアは偉大なる覇国であると痛感し
ます﹂
アークシア王国六百年、神聖アール・クシャ法王国時代を含めて
千年の歴史を持つこの国は、洗練された独自の宮廷文化が華とばか
りに誇っている。今のところ財政に難の無いあたり、前世の国々の
ような轍は踏んでいないようだが。
平和欲しくば欲する事なかれという偉大な国教は意外と根深くこ
の国を支えているのかもしれない。
対してリンダールは、そもそもが異なる四つの公爵領だったもの
が手を組んで王政を廃し新たに建国された連合国という成り立ちを
持つ。
成立は五百年程前の事で、そのころはまだリンダールとアークシ
アの間にいくつかの小国が存在していた。今の私の領土のあたりは、
その頃リンダールの勢いを恐れた国がアークシアと併合してこの国
195
のものとなった経緯が存在したりする。
﹁あ、舞踏もあるのですね﹂
﹁ええ。会は会食を目的としていますが、生徒会が取り仕切って一
応舞踏会を併設している状態になっているそうです﹂
﹁聖衣も法衣もあんなに丈が長いのに、皆様凄く優雅に踊っていら
っしゃいますね⋮⋮﹂
ほぅ⋮⋮と見惚れたように息をついたヒロインが、ちろ、とこち
らを見上げるのを、なぜ私は見逃す事が出来なかったのか。
﹁あっ⋮⋮ごめんなさいっ!﹂
真っ赤になって目を逸らすコミュ障娘は、それでも舞踏会の様子
が見えるこの場所から離れようとしない。
﹁⋮⋮踊りたいですか?﹂
仕方なく、仕方なく尋ねた。大事な事なので二回言ったぞ。だっ
て本当に仕方ない、私は接待係なのである。
実は会食の終わった後に攻略キャラクターのうち今最も好感度の
高いキャラとダンスを行うテンプレイベントが存在するのだが⋮⋮
まあ、一曲くらい踊っても今なら特に支障も無いだろう。
﹁えっ、あのっ⋮⋮その⋮⋮﹂
眉をへの字に下げて真っ赤な顔であわあわ言う美少女。可愛らし
いのには太鼓判を押してやるのでそういう表情は攻略キャラクター
196
の前でどうぞ。
﹁私などで良ければ、一曲踊って頂けませんか、エミリア様﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい!﹂
余りにも清らかな笑顔を向けられて食欲が失せた。そういうのは
王太子とやってくれ、お似合いだから。
197
34
無邪気も過ぎると、清濁併せ呑んで生きる貴族社会にどっぷり浸
かった私にはキツイものがある。
あの会心の笑顔でヒロインは攻撃を止めたりしなかった。ダンス
の間中真っ赤な顔で嬉しそうににへにへされ、終わった後にさらに
眩しい笑顔で礼を述べ、上機嫌で私の腕に手を回して会場を歩きま
くり。
会食の席に送り届けて漸く解放された。なんというか、精神的に
ごっそりと何かが持っていかれている気がする。
そこへ現れたのはルーシウス・モードン。父親譲りの色彩と母に
似たという繊細秀麗な顔立ちで、一部では﹃姫王子﹄なんて渾名さ
れている彼は、タイ留めとして誇らしげに私の贈ったブローチを付
けてやってきた。
﹁エインシュバルク伯爵、お会い出来て嬉しいですっ!﹂
﹁やあ、ルーシウス。一月ぶりかな⋮⋮﹂
まだ身長の低い彼は目を輝かせ、上目遣いに私に挨拶する。そこ
に邪な下心は見えないので、嫌らしさを感じない。が、ヒロインか
ら多大なダメージを喰らわせられた今の私にはこれもキツかったり
する。
﹁学院にはもう慣れただろうか?﹂
198
﹁はい。皆良くしてくれて⋮⋮﹂
沢山友達出来ました、と照れ笑う彼にゼファーが重なる。対人ス
キルの高さは一家揃ってなのか。
﹁⋮⋮兄様は、まだ様子が変です﹂
いろいろと思い出すうちに兄の異変について思い至ったのだろう。
しゅん、と肩を竦めたルーシウスは、ゆったりとしたドレスのよう
な法衣が相まってやはり少女のように見える。
﹁伯爵、あの、兄様は⋮⋮﹂
﹁心配しなくていいよ、ルーシウス。君の兄上には私も随分助けて
もらったから。恩は必ず返す。﹂
かんばせ
暗に裏から手を回している、と伝えれば、美少年は花の如くにそ
の顔を綻ばせた。
今の所、不審人物がゼファーに近寄っていないか情報を探らせた
り、春に彼を訪ねたマルク教授が何を彼に吹き込んだのかを調べて
いる。ゼファー本人は、何やら鳩を飛ばしまくっているようだが⋮
⋮。
ルーシウスは友人に呼ばれ、何度も頭を下げながら一年生に充て
られた席へ戻って行った。
それと入れ違いに、今度はやたらとテンションの高い少女がやっ
てくる。
﹁カルディア様っ!﹂
199
﹁ユリア⋮⋮侯爵家の令嬢にしては慎みが足りない。言動には気を
つけなさい﹂
﹁も、申し訳ありません⋮⋮﹂
ぱたぱたと駆けて来た彼女はユリア・テレジア。かつて私がテレ
ジア侯爵に聞かされていた、同じ年頃のご令嬢である。テレジア侯
爵の三人いる娘のうち、真ん中が母だそうだ。
﹁あの、カルディア様。先程姫君と共に優美なダンスをされていた
というのは、本当なんですの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。優美かどうかは知らないが、リンダールの大公息女殿
と一曲踊ったのは事実だよ﹂
何だか頭が痛くなってきた。周囲の令嬢達の視線がどうしてか突
き刺さってくる⋮⋮。
もっと王太子とか、大公家の二人とか、そこらへんの人をダンス
のパートナーには狙いなさい。男装の麗人で盛り上がっているのは
理解しているけど、将来をよく考えて。好きだろうそういうロマン
ス。
﹁国賓とはいえ、狡いですわっ!﹂
成程、ユリアは女子生徒達の代弁者なのか。扇をギリギリと握る
のは止めなさい。怖いから。
﹁国賓だからこそだよ。戦争を防ぐ為、国を守る為なら私は幾らで
もダンス程度なら踊るし、男の真似事もしてみせる﹂
200
﹁で、ではカルディア様が踊って下さらなければ私、クーデターを
起こしますわ!﹂
⋮⋮この、阿呆娘が⋮⋮。思わず頭を抑えた。溜息はなんとか飲
み込んだ。馬鹿な事を言い出すが、この少女は意外と私が身内に甘
いことを知っている。テレジア侯爵の孫娘、無碍に出来る訳が無い
⋮⋮。
﹁会食が終わったら、少しだけなら時間がある。それでいいか、ユ
リア?﹂
﹁え、ええ!勿論ですわ!ありがとうございます、カルディア様っ
!﹂
だから、その邪気の無い笑顔はやめて欲しい。
三連星の如く輝かしい笑顔で私の精神的な何かをごっそり削って
いった子供達に、私は疲れ切って眉間を揉むのだった。
会食は和やかに終わり。
生徒達は思い思いに周囲の友人と話をしたり、舞踏会場へ向かっ
たり、大胆なカップルなんかはバルコニーやバラ園の方へ消えてい
く姿もちらほら見える。
食後の紅茶で口の中をスッキリとさせながら、私はただぼんやり
とそこへ座っていた。ユリアと約束した手前、彼女が迎えに来るま
ではここに残らねばならない。
それに、ヒロインのイベントも確認しておきたい。今一番好感度
の高いキャラクターにダンスに誘われるという、ゲームの法則に従
ってイベントが起こるなら、これからどのルートに入って行くのか
201
が絞りやすいだろう。
勿論ここは残念ながらプログラムによって組み立てられたゲーム
の世界ではなく現実なので、眉唾物だが取り敢えず見ておくかとい
う程度の話だ。
それにしても、ユリアは来ないしヒロインも攻略キャラクター共
も動かない。紅茶を啜って暇を紛らわすにも限界がある。
││一年生のテーブルがどうにもざわめいている気がする。視線
を向けると、丁度ユリアが立ち上がって誰かと揉めているような場
面が飛び込んでくる。
何に対してもソツの無いユリアが揉め事とは珍しい。何だろう。
訝しんで見ていると、彼女はちらりと此方に視線を向けた。目が合
う。申し訳なさそうにその頭が軽く下げられる。
そうして、言い争っていた相手と、周囲を取り囲んでいた連中を
ゾロゾロと連れ立ってユリアはバルコニーへと出て行った。
﹁カルディア?﹂
突然声を掛けられて、ハッとして振り向く。
王太子がそこに立っていた。
﹁珍しいね、貴女がぼうっとしているなんて﹂
﹁いえ⋮⋮申し訳ございません。何か御用でしょうか?﹂
﹁エミリア殿をダンスに誘いたくて来たんだけれど、連れていくに
はカルディアに声を掛けてからでないと駄目かな、と思ってね﹂
よく見れば王太子の背に隠れて真っ赤な顔のヒロインが泡を食っ
202
ている。ゲーム的に見るなら王太子が最もヒロインに対して好意的
⋮⋮なのか?
なにやらキナ臭い尻尾をチョロつかせている王太子だが、かとい
って彼が隣国の姫君とダンスするのを止める権限は私には無い。何
を企んでいるのかは知らないが、流石にヒロインを人質に取ってテ
ロを仕掛けるような事は無いだろう。王太子にメリットが無い。
﹁わかりました。私は控えていますので、エミリア様をよろしくお
願いいたします﹂
﹁うん、じゃあ行ってくるよ﹂
﹁あ、あぅ⋮⋮カ、カルディア様、行ってきます⋮⋮﹂
もごもご言いながら手を取られてホールに引かれていくヒロイン
を見送った。⋮⋮ああ、しまった。今面倒そうな事を思い出した。
シナリオ通りに進むなら、ヒロインはあと少しで踊りきるという
ところで、何らかの要因で逃げ出す筈なのだ。あの人だかりの中を
突っ切ってくるのであれば、怪我や事故が起きるかもしれない。
そうなってからではいろいろと遅い。億劫さを忘却の彼方に押し
やって、二人の後を追ってホールに向かった。まるでやれやれ系主
人公とかいうものになった気分だ。
弦楽器の音が軽やかに鳴り響いて、白い布の洪水がうねる。ゆっ
たりとしたテンポに合わせて御伽噺の主役のような二人はホールの
中心で揺れていた。
遠目から見ても王太子は煌く笑顔をヒロインに向けており、ヒロ
インの方は真っ赤な顔で視線を彷徨わせている。かちこちなのがこ
こからでもわかるほどなのに、ステップは優雅に踏んでいるあたり
流石と賞すべきか。
203
ゲームでは、王太子が相手だった場合少しばかり情熱的なことを
囁かれて恥ずかしさの余り逃亡するといった流れだったと思う。現
実でも同じような事が起こるのだろうか?
その答えを示すかのように、王太子は曲の終盤に差し掛かったあ
たりでヒロインの耳元にすこし顔を寄せた。
その秀麗な顔が甘く蕩ける様な笑みを見せ、⋮⋮?
ヒロインが、目を見開いて完全に硬直する。
王太子は蜜のような笑顔を変える事なく、ヒロインの肩を叩き、
そうして真っ直ぐに私を指差した。
何だこれは?あいつはヒロインに何をさせようとしている?
真っ白な顔をヒロインが私に向ける。唇を戦慄かせて、私を見つ
めて、そして││
王太子を引き剥がすと、私目掛けて走り寄った。
そうして、目の前に立つ彼女は、震える声で私に問う。
﹁カ、ルディア様⋮⋮嘘、ですよね?あ、あなたが、あの串刺しを
行ったなんて⋮⋮、こ、子供の首を、刎ねた、なんて⋮⋮っ、う、
嘘なんですよね⋮⋮っ!?﹂
204
35 side:アルフレッド・テュール・アークシア︵前書き
︶
王太子アルフレッド視点の話になります。
205
35 side:アルフレッド・テュール・アークシア
アルフレッドは、珍しく緊張を隠せないでいた。
顔に浮かべた麗しい微笑はいつもよりほんの少し硬く強張り、膝
の上に乗せた拳は握り締められている。
しかし、王太子として育てられた彼がこれほど緊張するのも、今
日ばかりは仕方の無い事だと言える。
彼と机を挟んで対面する男は、隣国リンダールの大公ヨシュア・
ユーリエル・ド・レーヌ・リンダールその人なのだから。
隣で頭を下げたままのグレイスには、取引とはいえ悪いことをし
たかもしれない。彼にとって││自分にとっても似たようなものだ
が││悪夢そのものでしかない﹃力﹄を使わせたのだから。だが、
彼のその﹃力﹄の存在が無ければ、アルフレッドがここに今居るこ
とは無かったであろう事は事実だ。
だから彼は、喩え幼馴染の従弟が苦しんだとしても、その力を行
使させる事に躊躇いはしなかった。自分の為に。
自分の望みを叶える為に。
アークシア王国王太子アルフレッド・テュール・アークシアは、
拳の震えを押さえつけて、毅然と顔を上げた。リンダール大公城の、
貴賓室の中で。
﹁この度は、このような席に応じて頂き、誠にありがとうございま
す﹂
﹁││ふ。気概だけは、一人前か﹂
206
アルフレッドはぐっと息が詰まりそうになるのを何とか堪えた。
精一杯取り繕った余裕は全て見抜かれている。分かっていたことだ
が、一筋縄ではいかないらしい。
﹁まどろっこしいのは好かん。訪れた目的をはよう語るがいい﹂
大公からは、恐ろしい程の重圧が放たれている。閉鎖国としてま
ともな外交の機会など無く、故に平和な王宮で感じる重圧など虚仮
脅しのようなものでしかなかったアルフレッドにとって、それはと
ても鋭く、重苦しい。
﹁⋮⋮私には、欲しいものがあるのです﹂
それでも彼は、視線すら外さぬままそれを答えて見せた。大公ヨ
シュアの唇が、愉快そうに歪む。
﹁そして、リンダールが何を欲しているのかを、知っています﹂
﹁ほう⋮⋮?﹂
﹁何故それを欲しているのかも、知っています。﹂
ビリ、と肌に痛いほどの緊張が走る。まるで水の中に居るかのよ
うだ。気を抜けば息が出来なくなりそうな、攻撃的な威圧感。
だが、ここで潰れる訳にはいかない。ぐっと今以上に背筋を伸ば
し、胸を張る。真っ直ぐに大公ヨシュアの紫色の瞳を見据えて、ア
ルフレッドは宣言した。
﹁なぜなら私は、人の心を見ることが出来る魔法使いだからです﹂
207
大公の浮かべる笑みに怜悧なものが乗った。良し││アルフレッ
ドは一先ず心中で頷く。自分の話は、確かに相手に響いている。
﹁馬鹿な。先触れの小僧は、お前は雷を操る魔法使いと述べたぞ。
余を謀ったのは、どちらだ?﹂
うっそりと口の端を吊り上げる大公に、アルフレッドは艶然と笑
い返して見せた。
﹁クシャ教の神、ミソルアについてご存知ないのですか?﹂
ミソルア神。元は、大陸全土に広がっていた名も無き神話の天空
父神として祀られた神。
その司る性分は、法と裁き。つまり、罪を見る為に心を覗き、罪
を裁く為に天罰として雷を降らせる。
﹁⋮⋮言ってみろ。アークシア王太子、アルフレッドよ。お前が何
を欲し、我々が何を欲しているのか、言うがいい﹂
酷く力のある、酷薄な声だった。
アルフレッドの頬に、脂汗が伝って落ちる。ペースを渡してしま
うと危険だ。アルフレッドの頭の中ではずっと、目の前の男が如何
に危険か訴える警鐘がガンガンと鳴り響いている。
一つ息を吐いて、吸って、アークシアの王太子として出来うる限
り最上級の笑顔を浮かべて。
﹁私は、エリザ・カルディアが欲しい﹂
次の一呼吸を置いて、ここで使える最大級の武器を放った。
208
﹁リンダールは、彼女の持つ魔物の森が欲しい。そうですよね?あ
なた方の神の眠る、神聖な森なのですから﹂
その瞬間、大公の放っていた重圧が霧散した。
隣のグレイスの頭がぐらりと傾ぐ。慌ててそれを受け止めたアル
フレッドは、彼の顔が青を通り越して白くなっている事に気がつき、
歯噛みした。部屋の中に留めたのは失敗だった。
﹁王太子、ソファを使って構わんから横にしてやれ。帰りもそいつ
を使うのであろう?﹂
﹁あ、お心遣い、感謝致します⋮⋮﹂
大公ヨシュアはまるで親しい小父のような口ぶりで、ソファを顎
で差した。その落差の大きさに戸惑いを感じつつ、アルフレッドも
倒れそうなほど自分の精神が磨耗しているのを自覚する。
たったあれだけの短い遣り取りで、こんな⋮⋮。
﹁ほれ、手拭を貸してやる。お前も顔を拭うがいい。酷い汗だ。﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
投げ渡された手拭いで、全力で走り終えた後のように流れる汗を
遠慮無く拭う。アルフレッドが落ち着きを取り戻したの頃合いを見
計らい、大公はまるで世間話でもするかのように話を再開させた。
209
﹁で、具体的には何をどうしたいのか決まっているのか。まあ、こ
こまで乗り込んでくる度胸と頭があるところを見ると案があるので
あろうが﹂
﹁ええ、勿論です。父上には、話だけは既にしてあります。何しろ
エリザ・カルディアを手に入れることは、王家全体の問題⋮⋮ひい
てはアークシア全土に関わる話となりますので﹂
﹁であろうな。魔法とはよう言うたものだわ。己の欲した一人を自
分に縛りつけねば暴走するなどという話は、真実であるという事だ
な﹂
アルフレッドの脳裏に、自分がその人生の大半を過ごしてきた部
屋情景が閃いた。
冷たく重い手枷と足枷、魔法の暴走を防ぐ為に与えられ微量の毒
と、それにのたうつことも出来ずに耐える苦しみ、自分と外界を閉
ざす鉄格子と、気が狂いそうなほどの孤独││
頭を軽く振ってそれらを打ち払い、彼はいつもと同じ笑顔を浮か
べる。
﹁ええ。アークシア六百年の歴史にかけて、その事は保証出来ます
よ﹂
それには、ふん、と大公ヨシュアが鼻を鳴らして返した。
学習院春の休暇の最後の日の、夜のことであった││。
210
36
視界がぐらりと揺れたような気がした。
ヒロインがたかだか辺境伯である私について、詳しい情報を持っ
ていないことは予想していた事だった。何しろ飾り駒にする気まん
まんで教育された姫君だ。
アークシア王国として六百年の前例の無かった国賓の女性留学生、
その接待役として、肩書き上私以上の適役が居なかったのはわかる。
レイチェルは王家に連なる公爵家の娘だがの分家の者で、その父
は爵位を持たない⋮⋮つまり爵無し貴族。ユリアは今年入学で、学
習院内の事情に明るくない。今年は他には、下級伯爵家の女子生徒
しか在席していない⋮⋮。
エ
それでリンダールから見れば憎むべき敵である私を使うしか無か
った。
ミリア
エ
そしておそらく、リンダール側もそれは承知の筈だ。関係上、大
公女をアークシアに捩じ込むのに頭を下げたのは向こう。
ミリア
つまり、私の悪名に関しては両国の上層部が足並みをそろえて大
公女に対しシャットアウトしていたという事になる。
それを何故、王太子がバラす?
あまりの事の衝撃で頭がうまく回らない。一瞬でも呆ける暇など、
無かったのに。
﹁⋮⋮串刺しって、え?﹂
ぽつり、と誰かが零した小さな声。ハッとした時にはもう遅い。
211
波のようにその伝言ゲームは一瞬にして広がった。好血伯爵と影
で言っていた者達が有頂天になって周りに喧伝し始める。
今の今まで口さがない貴族のでっち上げ、眉唾物だと思われてい
たその外道の極みのような行いが、真実としてあっという間に全校
生徒に伝わってゆく。そうだ、今日は降臨祭だ。全校生徒にがここ
に集まっている⋮⋮。
今更誤魔化すのも取り繕うのも出来ない。許される一瞬を逃して
しまった。
﹁突然どうしましたか、エミリア様?﹂
ざわめくホールのギャラリー達にはお構い無しに王太子が此方へ
来る。音楽はいつの間にか止んでおり、気付けば周囲を取り囲む目
の全てが私達を注視していた。
﹁││王太子殿下?﹂
流石の事に、声が震えた。さめざめと泣き崩れたヒロインに構う
事すら出来ずに、立ち尽くしたまま。
﹁エミリア様に、何を仰ったのですか?﹂
駄目だ、冷静じゃない。今度は自分の唇が戦慄くのを感じる。
﹁特に何も。エインシュバルク伯爵はその氏を一年前の防衛戦争で
活躍し、賜ったのだとお話しただけだよ?﹂
王太子は綺麗に笑った。邪気をこれでもかというくらいに塗り込
めた笑顔だった。
何か企んでいる、動いている、それが分かっていたのに、今夜の
212
事が全く予想できなかった。
侮っていたのか。いや、かなり巧妙に情報が隠蔽されたのかもし
れない。態とどうでも良さそうな情報を此方に握らせて││?
﹁何故、そんな⋮⋮っ﹂
﹁カルディア様ッ!﹂
たまらず叫びそうになった、そのタイミングで。甲高く誰かが私
の名を呼んだ。
ホールに駆け込んできたのはユリア。酷く慌てた様子で、血相が
青く変わっている。
﹁ユリア?﹂
﹁大変ですわ。お祖父様が││お倒れになりました﹂
ガン、と頭を打ち付けられたような気がした。
テレジア侯爵が?倒れたって、この前まであんなに元気そうにし
ていたのに⋮⋮!
﹁そうだ。言いそびれていた﹂
嘯くように王太子が笑う。ユリアが私の手を引こうとするのを留
めて、その何処までも楽しそうな表情を見る。
﹁エミリア・リンダール大公女閣下。ザスティン公爵嫡男、ラージ
アス・ザスティンとのご婚約、心よりお祝い申し上げます﹂
﹁││え?﹂
213
ヒロインが呆然と訊き返した。
矢継ぎ早に入ってくる膨大な情報に頭の処理能力の限界を超え、
私もそれを呆然と眺めるしか出来ずにいた。
﹁こ、婚約?﹂
﹁ええ。本日の昼に、必要な書類が整ったそうですよ﹂
﹁そ、そんな││お、お父様は何も⋮⋮﹂
シ、と王太子が唇に指を立てて、ヒロインが慌てて口を噤む。
彼が視線を滑らせて示すのは、周りを取り囲む目、目、目。
﹁グレイス、エミリア殿を寮まで送り届けて差し上げて。具合が悪
いようだから﹂
王子の影から、表情の削げたグレイスがふらりと現れた。たった
一瞬だけ視線が絡む。そこに嫌悪の色が浮かぶのを、はっきりと見
た。
﹁失礼致します、エミリア様﹂
グレイスがエミリアの手を取って、きちんと立ち上がらせる。そ
うして││
その輪郭がブレるように、二人は消えた。
﹁え││﹂
今のは、何だ⋮⋮?
214
脳裏に鮮やかな赤色がちらつく。だがそれが何か、今の私には思
い出せない。許容量がとっくにオーバーしているのだ。
焦れたようなユリアがぐいと私の手を引く。よろけるようにして
踏み出した足を止める間も今度は無い。
﹁ユ、ユリア?何処へ││﹂
﹁お祖父様の事と、あと一点お伝えしなければならない事がありま
すの。ああ、もう!ちょっと、退いてくださるっ?﹂
人混みを掻き分けて彼女は先程のバルコニーに出た。人影は無い。
人に聞かれたら不味い話なのだろうか││でも、何を?
﹁落ち着いてお聞き下さいね。後見人であるお祖父様に対して、王
室からカルディア様への、王太子殿下とのご婚姻が申し込まれてお
りますの﹂
ぐわん、と世界が歪んだ。
215
37
完全に王太子にしてやられたらしい。
あからさまに暗躍しているという情報を撒かれていた。それに喰
らいついて、高みの見物だと笑っていた私が馬鹿だ。
そもそも、動きは見えていた││いや、表面の動きのみ見せつけ
られていだけか││のに、その目的は今でさえ、何処にあるかが不
透明なままだ。
向こうの手を読んだつもりで、こちらの情報網や手の内が読まれ
ている。
王太子が国家を揺るがしかねない手を打ってくるとは思っていな
かった。そういった中途半端な信用や、印象、それらを逆手に取ら
れた。
やってくれる。
狙いは私の孤立なんて稚拙なものではなかったらしい。よく考え
れば当たり前だ。王太子にメリットが無い。
﹃未熟﹄だから悪手を打ったのだと、そこで思考を停止させてし
まったせいで後手に回っている。ヴァルトゥーラとカディーヤをデ
ンゼルに向かわせたのは間違いだったようだ。
王室からテレジア侯爵に王太子と私の政略婚││身分的な釣り合
いから言えば、側への入室││を申し込まれたと言う事は、少なく
とも国王は王太子側で動いている。
それにヒロインとラージアスの婚約。王太子め、いつの間にリン
ダールを抱き込んでいた?
216
婚約が認められたという事は、リンダールの上層部も今回の王太
子の策に乗っている。
さらに衝撃的だったのは、グレイスの魔法だ。何故グレイスが?
あれを今公開したのにはどんな意味がある?魔法についてのアーク
シア王国の認識が、予想と大幅に食い違っている。
テレジア侯爵が倒れた事にも王太子が手を回しているのか?それ
とも偶然か?
偶然にしてはタイミングが良すぎる。私の婚約に関して、後見人
が伏せているのであれば是も否も返す事が出来ない。前回の貴族院
でローレンツォレル伯爵に次期後見を任すと表明していればなんと
かなったのかもしれないが││いや、待て。
ヒロインと婚約したのはザスティン家だ。という事は公爵も噛ん
でいたのか?仕組んだのは王太子か?それとも王家か?⋮⋮っ、教
会すらも絡んでいる可能性があるのか?
誰が黒幕で、誰が王太子側なのか全く分からない。
ローレンツォレル伯爵から宮中の動きとして報告されてもいない
⋮⋮まさか、伯爵が裏切った可能性もあるのか?
思考が纏まらない。情報が圧倒的に足りない⋮⋮っ!
落ち着け。頭を冷やせエリザ・カルディア。
王太子はとんだ曲者だった。冷静にならなければ勝てない。唯で
さえ後手に回っている上、相手の最終的な狙いが不明瞭なままだ。
打ってきた手だけが明確に見えているのに、その全てが悪手にし
か見えなくて気味が悪い。手玉に取られて良いように転がされてい
る気分だ。
レイチェルの動きも、ザスティン公爵家とヒロインの婚姻準備に
217
よって抑えられている。いや、王太子が予想外の方向に大きく動い
た今、彼女の策もかなり無駄になったに違い無い。彼女の狙いを訊
き出して置かなかったのも痛い。これから先利用できるかすら⋮⋮。
取り巻いている状況も見えてこない上、敵味方の区別も、敵の狙
いも分からない。どうやったら盤をひっくり返せる?
王太子があのタイミングでヒロインに私の情報を公開したこと。
得られた効果はヒロインと私の関係の決裂と、学習院内の私への
評価を下げる事。ヒロインに関しては、外交問題には発展しないと
思われる。王太子、或いは王家、最悪宮中全体がリンダール側と繋
がっている事が分かっているのだから。
つまり、あれは出来芝居だ。
では狙いは学習院の生徒達の方か。私への悪印象を膨らませる│
│だが、それをどこに繋ぐのかが分からない。普通に考えれば、王
家の一員に召し上げようとしている女に打つ手としては最悪手だ。
くそ、打つ手が見つからない。
完全に後手に回った!
焦りに、掌が汗で滑る。考えろ。思考を最大限に絞らなければ自
分が危ない。今どこに私は立っているんだ?崖の途切れる場所すら
見えない。
休日の空けた学習院は、その状況が一変していた。
子供達から一斉に向けられる悪感情と好奇の目線。私を面白く思
っていない貴族とその子女が今とばかりに燃料を注ぎ込んでいるら
しい。
218
狭い貴族社会は動くとなると恐るべき早さで動く。
心情的には痛くも痒くもないが、王太子の狙い通り完全に孤立し
た訳だ。酷く不愉快で、ここから繋がるかもしれない次の手への不
安と焦りが不必要に加速する。
学友達が歯痒そうな表情で遠巻きに私に視線を送ってくる。レイ
チェルと同じように何らかの方法で動きを押さえつけられたか、こ
の状況に従わなければ自分の家が漬け込まれるのか。
その中にはユリアの姿も在る。顔を真っ赤にしながら、今にも扇
を折り曲げそうだ。
王家から申し込まれた婚姻の話は、まだ内密なものであったから
か広まってはいない。その状況が良いのか悪いのかも分からない。
だが、賽は投げられた。
王太子にエスコートされて此方へ向かってくるヒロイン。その後
ろに控えるように従うグレイス。
人混みの向こうにそれらを認めて、一つ大きく息を吸った。
屈する気は更々無い。
が、一つだけ言わせてほしい。私は心より王家と王国に忠誠を捧
げていた筈だ。
どうしてこうなった。
219
38
王太子にエスコートされて私と対峙したヒロインは、疲労の影が
濃く、憔悴しているように見えた。
人の上に立つ者として生まれていても、彼女はまだ十四歳の少女。
ロボットや、それこそゲームのキャラクターではないのだから、
さぞやこの休日は様々な葛藤や他人への思う所に悩まされた事だろ
う。
その柔い心が壊れそうになった楔が自分なのだと思うと、開いて
はいけない扉が少しだけ開きそうになる。外道に堕ちたい訳では無
いのでこれからもしっかり閉じておこう⋮⋮。
﹁やあ、おはようカルディア﹂
王太子は何事も無かったかのようにキラキラしい笑顔で挨拶をし
てくる。
ヒロインもぽそぽそと挨拶を口にした。
そういえば、ゲームの﹃見知らぬ公爵エンド﹄ってザスティン公
爵かその息子の事だったのだろうか。アークシアのリアルなお貴族
様事情としては、他に大公女の嫁ぎ先として適した公爵家は無い。
﹁おはようございます、王太子殿下、エミリア様﹂
此方も務めて平静に返事を返した。
後ろのグレイスが目に見えて苛立つ。この子供は、私のこういう
部分が大嫌いなのだ。自分に向けられる感情に無関心で、相手が傷
つこうと構わないという所が。
220
今までは出来る限り優しく表情を繕っていたからか、記憶との落
差にヒロインがびくりと肩を揺らす。別に構いはしない。愛想を尽
くして喜ばせてやる必要はもう無い。
この娘が何を思おうと、最早何処にも影響を及ぼす事は無い。全
てはもっと上の人間の掌の上で転がされているのだから。
降臨祭の夜。時間にすればたった三分にも満たない時間で、私を
取り巻く環境を一変させた王太子。そいつが何がおかしいのか、楽
しそうに笑う。
﹁如何なされましたか﹂
思ったより冷えた声が出た。何を企んでいるのかは知らないが、
国家を滅茶苦茶に引っ掻き回しかねない事を行っているこの子供に、
予想以上に私は怒りを抱いているようだ。
﹁嬉しいな、と思ってね。貴女が無関心でいられなくなった事が。
そしてそれを、この手で引き起こせた事が﹂
││何を言っているんだこいつ。気持ち悪い。
思わず目が座ったのを自覚する。
グレイスが苛立たしげに顔を伏せた。当たり前だ。王太子は言外
にエリックの事も揶揄している。
﹁いい顔になったね、カルディア。やはり、貴女は刃のようでなく
ては﹂
王太子が笑う。嬉しそうに、楽しそうに。
お前が私の何を知っていると言うんだと、身分差や周りの目さえ
221
無ければ言ってやれるのに。
﹁そうそう。ジェンハンスを下したフェブナンドが、戦争難民にな
ってしまった者達を呼び戻し始めた。今まで﹃難民の保護﹄御苦労
だったね﹂
やはり、アニタ達にも手を打つのか。薄々予想はついていた事だ
ったが。
王太子は何かの為に、私の完全な孤立を狙っている。これで確定
した。では、何の為に?孤立の先には何が待っている?
ただ、私から何かを奪おうとしている事は分かる。
テレジア侯爵が手塩にかけて豊かにした領地か、それとも地位か。
子供達に広まっていた名声は、その未熟な精神と一部の貴族を利
用して既に奪われつつある。国王が認めた為、今まで栄光であった
筈のもの。その王が私を切り捨てるつもりならば、それは一瞬にし
て単なる残虐行為と化す。
それを同じく認めていた貴族達の存在について、王太子はどんな
手を打つのか。
だが、分からないことが一つ残る。私をアークシアから排除する
つもりなら、あの婚姻の申し込みの意図が全く読めないのだ。
王家が私をどうしたいのか。
││グレイスの魔法が、恐らくそれを解く鍵だ。
魔法。何となくスケールの大きい問題が絡んでくる気がするのは、
前世で剣と魔法のファンタジー物語に慣れ親しんだせいか。
大公家と魔法。アークシアでは生まれない筈の魔法使いが、国の
頂点に潜んでいた。王太子がそれを知っていたという事は、少なく
222
とも王族関係は魔法使いの存在を把握している筈。
王族と魔法。リンダールの狙い。その二つが王太子の目的と密接
に絡んでいる気がする。確証を取る術は、今の私には無い。
⋮⋮それら全てを明らかにする為、敢えて飛び込むと腹を括った。
最低でも、断片だけは掴めそうだ。
既に予想できる限り、最悪の状況を回避する為の手だけは何とか
頭を捻って考え出し、この二日で打った。
王太子がこの国をどうしようとしているのか。それを思考から排
除し、身にかかる火の粉の熱さに耐え、自分が火だるまになる事だ
けを防ぐならば、まだ対処法は存在する。
はらわた
大人しくお前の罠に掛かってやろう、王太子。飲まれた後に腸を
食い破って腹の中から出てやる。
二人共用意した策がどう転がるか、あとは眺めるだけ。そうだろ
う?
その日の午後、臨時の貴族院集会が開かれた。
そこで話された内容は、四つ。
魔法の存在と、王族に度々魔法使いが生まれる事実を王族が公表
した事。
病床についたままのテレジア侯爵の代理として、その孫であるマ
ルク・テレジアが貴族院への参加を認められた事。
リンダール大公女であるエミリアと、ラージアス・ザスティンの
婚約について。
予定されていた議題はこの三つだったが、急遽そこへ齎された知
223
らせが貴族院を騒然とさせた。
大公女エミリアが誘拐された。大公嫡男グレイスが一早くそれに
気付き、大公女を奪還。
捕らえられた賊は、取り調べにエリザ・カルディアの名を出した
という。
随分お粗末なマッチポンプだな。
が、これで貴族連中を黙らせるのに必要な種は撒かれたという訳
だ。
それで、次はどうするんだ?
策が完成して企みが透けるまで黙ってみていてやる。早く終わら
せろ、時間の無駄だ。
224
39︵前書き︶
今から決着つけるために、エリザ様がちとセンチメンタル。別にな
よっている訳ではなく。
225
39
アニタ達が泣いている。
元ジェンハンスだった地へ送還される事になり、彼女達はただた
だ泣いた。
﹁アークシアの硬貨は貴金属で出来ている。ジェンハンスでも使え
る筈だ。今までご苦労だった。ありがとう﹂
﹁エリザさまぁ⋮⋮﹂
﹁ほら、アニタ。君が泣いていると、小さい子達も泣き止まないよ。
大丈夫、また会えるように何とかする﹂
アニタはアークシアの法が国内外への出入りを禁じている事を知
っている。収まりかけていた涙が何とかするという言葉で再びぼろ
ぼろと落ち始めた。
逆効果じゃないか。
言葉で幾ら寂しいです、とか言われるよりも、ただ泣かれるのは
もっと直情的に心を打たれた。短い間だったのに、こんな私を好い
ていてくれたのだな、と。否が応でも解るというものだ。
物言わずに涙を流すのは、ここで何かを言えば私に迷惑がかかる
と分かっているからか。
﹁カディーヤとヴァルトゥーラは、後からそちらに向かう﹂
﹁⋮⋮はい﹂
226
貴族中で騒がれている私の立場の揺らぎは、彼女達には伝えなか
った。
屋敷の中で外界との接触を断っていた彼女達は、恐らく何も知ら
ない。それでいい。国に戻れば彼女達は自分達のことで手一杯にな
る筈で、余計な心配を掛けるのは酷だと思うから。
﹁エリザ様っ⋮⋮ありがとうございました!﹂
勢い良く下げられた頭に、少しだけ笑みが漏れる。
素直な彼女達に随分癒された。精神を摩耗する一方だった生活で、
それがどれだけ助けとなったか、彼女達は知らないだろうが。
﹁こちらこそ、本当にありがとう﹂
深く頭を下げた。
去っていく馬車を見送って、人の居なくなった寮宅を見上げる。
炊事洗濯掃除⋮⋮十年以上振りのそれを、問題無く出来るだろう
か。人は雇わない。どう転んでも迷惑が掛かると知りながらそんな
事をする程面の皮が厚い訳じゃない。
夕暮れの赤い世界に影が落ちる。
﹁⋮⋮何しに来た、エリック・テュール・ドーヴァダイン﹂
背後の木の裏に背を預けた少年は、何も答えない。
風に乗せて、赤く透けた影が揺れる。
227
﹁用がないなら、帰れ﹂
地に映る黒い影はただ沈黙したままだ。
静寂を風の立てる木々のそよぐ音だけが飾る。
そうして、幾つ呼吸を数えたか。
﹁││助けてって、言えよ﹂
ぽつりと零すように小さく吐き出された言葉。
今更だ。皮肉気に自分の唇の端が吊り上がるのが解る。彼への揶
揄ではなく、自分への。
﹁お前に言ってどうする、エリック。何も出来ないだろう。グレイ
スと違って、何も知らない。何の力も無い。違うか?﹂
何かを知っているなら、もっと早くに伝えてきた筈だ。
自分が無力であることをエリックは自覚している。私の立場がこ
れ以上悪くなる事を懸念して、ただじっと物言いたげにしていた眼
を、私はちゃんと覚えている。
﹁⋮⋮そう、だな。ああ、そうだよ。でも⋮⋮俺がお前の味方だっ
て、それだけは知ってて欲しかった﹂
泣きそうな声に、音を殺して笑った。
何も手出しの出来ない、どう足掻いても荷物にしか成れない子供。
﹁知っているよ。見ていたから﹂
﹁違う!俺は⋮⋮っ﹂
228
﹁友達として、心配していてくれたんだろう?﹂
出来る限り柔らかな声を出した。こうも立て続けに自分へ寄せら
れる好意を思い知らされると、少しだけセンチな気分になる。
今くらい、張り付くくらいに被った冷徹の仮面を脱いでも許され
るだろう。誰に許して貰いたいのかは知らないが。
やりきれない思いにか、エリックが寄り掛かっていた木の幹に拳
を振り下ろしたのが影の動きで解る。ミシリ、という音が小さく聞
こえたが、木はぴくりとも動かない。
エリックの行動は単なる自己満足だ。彼はそれを知っていて尚、
ここへ来た。
馬鹿な子供だ。だが、以前のように氷のように冷たい気分にはな
らなかった。自分でも少し不思議だ。
自己満足、大いに結構。その気持ちが嘘でないだけで。
﹁││十分だよ。ありがとう、エリック﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁もう帰れ。見つかると面倒だ﹂
吐き捨てて、地面に落としていた顔を上げた。
﹁お前の助力は必要ない。私は一人でいい﹂
﹁⋮⋮勝てるか分からないから、巻き込みたくないだけだろ﹂
﹁何だ、わかってるじゃないか﹂
229
ざり、と土を踏みしめる音が響いた。徐々に遠ざかるそれに、そ
れでいいと薄く笑う。
役に立たない奴を傍に置いて、狙い撃ちにされたら元も子もない
からな。
自分の立てる呼吸音と衣擦れの音以外、何も聞こえてこない執務
室へ上がる。家族を皆殺しにしたあの頃以来、こんな空間とは無縁
だったなと頭の片隅で思う。
テレジア侯爵が派遣されるまでの間、無感動なメイドが一人、世
話をしてくれていた。親を亡くしたのはクソ親父のせいだというの
に、あのメイドはよくも私を殺そうと思わなかったものだ。
そのお陰で、今も私は完全な外道になるのを忌避しているという
のは、笑えばいいのか泣けばいいのか。自分の為だけにエリックを
人質にグレイスを抱え込む等といった考えを、実行出来ずにいるの
はその為だ。酷いダブルスタンダードだとは、自分でも分かってい
る。
そのメイドはもう居ない。肺を患っていて、テレジア侯爵が赴任
するとほぼ時を同じくして死んだ。
出来る限り人の死を少なくしようと考えて、家族を殺し、子供や
従軍の民を殺し、晒しまでして、そこに躊躇いは無かった。
それは所詮は単なる虐殺でしかなかったのだろうか?
自問に自嘲が漏れる。
答えは否。何度問うても変わらない。最高に効果的な手段だった
と心から思っている。揺らぎもしない。
こつり、と窓を鳩が嘴で叩いた。
王の封蝋が、鳩の提げている手紙に見えた。
230
40 追憶︵前書き︶
根っこの話
231
40 追憶
そばかす以外に目立つ所の無い女だった。
やつ
歳は15。発育不良で、小枝のように折れそうなほど細い体付き
で、12歳の姉より小さく。それでいて窶れて疲れ切った顔は、凪
いだ湖面みたいに静かで、見ただけでは年齢を測ることは出来なか
った。
口数の少ない女だった。
あまりにも口を開かない女だったから、喋れないのかとすら思っ
ていた。
他の者はこちらが何も返しもしないのに、お構い無しでべらべら
と話しかけてくる。だが、女は唯一、一言も私に口をきかなかった。
女の親は、領主に税を軽くしてくれと嘆願し、不敬と反逆の罪に
問われて首を落とされたと聞いた。
よくも親を殺した相手の家で働いていられるものだと感心した覚
えがある。
それを知った後三ヶ月ばかり女の様子を見ていたが、女は只管静
かだった。眈々と復讐を狙っている訳ではないと分かり、驚くより
前に疑問が浮かんだ。問い掛ける気は、何故か起きなかった。
へつら
領主が死んだ時、それに媚び諂う事で安寧を得ていた従者共は一
斉にどこかへ散っていった。その女だけが一人残った。
そうして、初めて女は私に語りかけた。 ﹁あなたは正しい事をした﹂
232
女の遺した一つ目の言葉だった。
女は淡々と私の世話をした。
殺したいとか苦しめたいとか、そういう事を思わないのだろうか
と、再び純粋な疑問が浮かんだ。
この女にはそれをする権利があると思っていた。
様々な事を考えて、だが深く根付いていたお綺麗な道徳観念が二
年ほど私を迷わせた。
迷ううちに荒れ果て、疲れ、乾ききった領地と領民、それから私
の精神。引き裂かれるような思いを感じなくなるまでに二年掛かっ
たと言い換えてもいい。
そのうちに何人飢えて死んだのだろう。そのうちに何人処刑され
たのだろう。
領民の命を憂いていたのは事実。
そのまま捨て置けば私の未来には当然断罪が待っているのだと、
生まれた時から知っていた。
最初は、話をすれば解ってくれるだろうかと、良い人に変わって
罪を反省してくれるだろうかと、夢物語のような事を何処かで考え
ていた。
そうなるまでに何人死ぬのかと思った時、説得すれば解ってくれ
るなどと甘ったるい事を考えるのはやめた。それに、手遅れなのだ
と何処かで理解していた。
自分の命を憂いていたのも、事実。
知っていた未来を覆す為、つまり私の命を救うのに必要だった事、
それから領民という大勢の命を救うのに必要だった事。同時にこれ
233
以上失望したくないという少しの思い。他、様々な感情。
二年間で積もりに積もったそれらの思いをないまぜにして、スー
プ鍋に沈めた。
自分が将来生き残る事も織り交ぜて、人間八人の命を奪った。
反面、女には殺されても良いと思っていた。
それでいいと思っていて、どうして女がそうしないのかと疑問に
思っていた。
﹁あなたは正しい。罪は償われている﹂
女の遺した二つ目の言葉だった。
女は肺を患っていた。
後見人が王都から来ると、役目は終わったとでもいうように病床
に着いた。
死の恐怖は、いつまで経っても女の顔に浮かんでは来なかった。
女の横たわる寝台の横で一日の殆どを過ごした。
そうするのが正しいように思えた。
女が既に一人で部屋から出る力も残っていないのだと、何となく
察していた。だから、女が私を殺したくなったら殺せるよう、女の
手の届く場所にいようと考えていた。
女の枕元に、自分の手でナイフを置いてやった。
女はそれで腐りかけた林檎を剥いていた。
女はみるみるうちに弱っていった。
ある日林檎すら剥かなくなって、もう腕も上げられないのだと気
234
付いた。
女の手にナイフを握らせて、喉を突き出してやった。少し動かす
だけで私を殺せるように。
その時初めて私は女に触れた。
女は、ナイフを動かそうとはしなかった。
﹁どうしてころさないの?﹂
私からの、最初で最後の問い掛けだった。
女に話しかけたのもそれが最初で最後になった。
﹁││あなたは、私の事が好きね。殺されてもいいくらい。私も、
あなたが好きよ。殺したくないくらい。﹂
女が力無く笑った。
彼女はそのまま、薄く微笑んで死んだ。
女の遺した三つ目の言葉に、訳も分からず泣く自分がいた。
女の事はそれ以外、今でも分からない。
女の名前を、私は知らないままだ。
女は、私が名前を聞く前に死んでしまった。
ただ、女は私が最初に愛した存在だという事だけ、今ならわかる。
そうして女の遺した全てが、今の私を作り上げ、生かしている。
235
41
アークシアの王族の住む宮殿は、小さな村一つ分の広さがある。
その様は群立する城、という表現が最も端的かつ的確だろう。
国政を行うアレクトリア城が最も大きく、貴族院の集会所や、恐
ろしく大きなホールに、百以上ある資料室と執務室等が内包されて
いる。王と正妃、それから嫡子達がが住まうファルダール城は中央
奥。王の政務室や、謁見の間はこの城に位置する。
その奥にあるのが、王の側妃達と庶子の住まうグレン城。それを
囲む様に左手に聳えるのは数万人規模になる王宮の労働者の住むア
ヴァル。
グレン城の右奥には、巨大な人口湖が広がっている。これは、今
となってはどうやって作ったのかすら分からない、所謂ロストテク
ノロジー。
その広大な湖のほぼ中央に、ぽつんと建つ離宮がある。ヴェルメ
ール城と呼ばれるそれは、アークシア最後の女王ヴェルメールを幽
閉するために作られた。
そこに今、私は立っている。
﹁貴女は他人を信じてはいけなかったんだ。高潔なほど冷徹な、二
年前の貴女のままなら、私に不様に捕まることも無かった﹂
着せ付けられた豪奢なドレスは重く、まるで枷のようだ。きつく
締められたコルセットに、立っているだけで息が上がる。
﹁それが、ゼファー・モードンなんかに絆されて腑抜けるなんてね。
236
あれは見てられなかったなぁ。だから今回、真っ先に遠ざけさせて
貰ったんだけどね﹂
王太子の楽しそうな戯言に、言葉を返す気すら起きない。鳥肌が
立ちそうな程気持ちの悪い持論を延々と述べるこいつは、私の体力
を削る目的でそれをしているのだから始末に負えない。
王の寄越した手紙には、エリザ・カルディアの王太子との婚姻へ
の祝いが書かれていた。
アークシアでは婚姻の誓約時に、女の署名は必要ではない。夫な
る者と、その父或いは後見人と、妻となるものの父或いは後見人の
サインだけで事足りるのだ。
私の婚姻誓約書には、テレジア侯爵の全権代理を行う事が認めら
れたマルク・テレジアのサインが記されていた。
それと同時に封入されていた二枚の書類。
一つは、マルク・テレジアへのカルディア伯領の全権委任の為の
書類。私のサインさえあれば、領地は全て取り上げ││いや、﹃委
任﹄されるという訳だ。
もう一つが、王城への召喚状。召喚の理由は、リンダール大公女
誘拐事件に関する申し開きをせよ、というもの。
馬鹿馬鹿しい。司法はザスティン家以外の三公爵家のものだ。王
に対して申し開きもなにもあるか。呆れ返ったが、ほぼ連行に近い
形で通された謁見の間には一応その三公爵が控えてはいた。
結局碌に喋る事も許されぬまま、三公爵はただ一言を述べた。
﹁エインシュバルク女伯爵は、リンダール大公女エミリア殿下誘拐
の件とは無関係と認める﹂
次の瞬間には兵に囲まれ、有罪判決を受けた罪人のように引っ立
237
てられた。無罪を言い渡されたのは聞き間違えだったのかと思うよ
うな勢いだった。
そうして連れてこられたのが、このヴェルメール城。高位貴族の
牢屋と名高い城を宛てがわれる身分になったとは、私も出世したも
のだ。
﹁貴女が諦めてここへ大人しく入ってくれて良かったよ。好血と名
高い残虐な伯爵が、ヴェルメールへ入るまでに何を仕出かすかと貴
族達が不安がっていたからね。貴女自身は、ただの華奢な少女に過
ぎないのに﹂
一部の貴族を煽り、騒がせている張本人がよくもそんな事を言え
る。その面の皮が厚さは尊敬に値する。
﹁貴女みたいな人が、人に心を許すなんておかしいと自分でも分か
ってるでしょう?だからグレイスに狂っていると言われるんだよ。﹂
信頼した人間を次の瞬間には殺せる。裏切られたら普通の人のよ
うに傷つき動揺する癖に、同時にその人間の始末をつける算段を冷
静にしている。
自分でも自覚している、異様過ぎる二面性。狂人という蔑称を受
け入れるのに躊躇いは無い。
││或いは。あの女さえ私の人生に存在しなければ、完全に冷血
な人間になれたのか。
﹁その弱さに付け込んで貴女をここに閉じ込める事が出来たのだか
ら、文句は無いのだけどね。領民を反逆罪で皆殺しにされたくなけ
れば、大人しくしていてね?﹂
238
安っぽい脅し文句を最後に吐いて、王太子は意気揚々と部屋から
出ていく。扉が閉まるほんの直前に、隙間からグレイスの哀れんだ
目が見えた。
狂人と忌み嫌う相手を哀れむのか。正常な人間としての精神を保
ち続けるお前が、一番可哀想だと私は思うが。
ソファに沈み込み、重苦しい飾りを毟り取る。最も煩わしいコル
セットは、複雑に編み上げられた留紐を自力で解くことが出来ない
為放置するしかない。
﹁ご機嫌斜め、かな?相変わらず人形のように表情が無いから、何
を考えてるのかわからないね、エリザ﹂
笑いを含んだ声が室内に響いた。音も無く開けられた扉から、滑
るように入り込んできた男は、薄く透ける茶色の髪をさらりと揺ら
す。
﹁何の用だ。王太子ならもう出ていったが﹂
﹁君に用があって来たんだよ、エリザ。そんなつれない事を言わな
いでくれる?君とは初めてこうして会話するのだし。いつ話しかけ
て来てくれるかと学習院ではわくわくしてたのに、君という人は、
ずっと私を避けてるんだもの﹂
へらりと笑う新緑のような瞳を睨んだ。
﹁今更だな、マルク兄様。最近は手紙も送らなかった癖にな﹂
﹁ごめんね。アルフレッド様のゲームに夢中だったものだから﹂
239
そう言って、マルク・テレジアは悠然と部屋の中を進んでくる。
私の正面に膝をつき、恭しく礼をすると、場違いなほど無邪気に微
笑んだ。血の繋がりがしっかりと判るほど、ユリアに似た笑みだっ
た。
﹁さあ、答え合わせを始めようか。君も気になって仕方ないでしょ
う?﹂
240
42
まずは何処から話を始めようか。
やっぱり、自己紹介からかな?
私の名前はご存知の通り、マルク・テレジア。君の後見人の孫甥
で、君の昔からの文通相手だね。
マルクは道化のような調子で話を始めた。冷めた目でそれを見て
いると、にんまりとそいつの顔が歪む。どいつもこいつも、最近は
皆して人生愉快そうではないか。巫山戯やがって。
﹁下らないことをのたくるだけなら出ていけ﹂
﹁まあまあ、そう怖い顔しないで。真面目にやるから﹂
マルクは両手を広げてくるりと回る。踊るようなそれは、台詞と
一致しているようには見えず、思わず眉根に皺が寄った。
﹁エリザは、私がアルフレッド様の手下地味た事をしていたのは知
ってるよね。狙って見せていたし﹂
顎でしゃくって続きを促す。コルセットで肺が締められていて、
喋るのも億劫だ。
﹁でも実は私が、王太子のお目付け役だった事は知らないよね﹂
﹁そんなもの、予想済みだ﹂
241
﹁あ、やっぱり?まあ、アルフレッド様の周りで該当しそうなの、
私とラージアスくらいしかいなかったものね。聡いエリザならそう
なるよね﹂
特に気にしたようでもなく、マルクはあっさりと頷いた。大の大
人が子供のように無邪気にはしゃいでいる様な印象を受け、その不
気味さに喉が詰まる。
﹁じゃあ、これは知ってる?私にはね、前世の記憶があるんだ﹂
﹁││、⋮⋮は?﹂
たっぷりひと呼吸分おいて、私の口からやっと出てきたのは、そ
んな間抜けな一文字だった。
前世も合わせて、最も衝撃を受けたのではないかと思えた。一瞬
何を言われたのか、頭が理解するのを拒絶した程だ。
﹁あぁー、やっぱり驚くよねぇ。ねえエリザ、君、上級学院編はプ
レイしてないでしょう﹂
やけに断定的な口調でマルクは話を続ける。悪戯が成功した子供
のような表情で。
ちょっと待て、と口走りそうになるのを堪え、唇を引き結んで話
の続きを黙って聞く姿勢を取った。マルクは再びにんまりと笑う。
﹁プレイしてたら、知ってただろうからね。アルフレッド様にはエ
リザ・カルディアが必要だという事が﹂
そうしてマルクが語ったのは、この世界を舞台にした乙女ゲーム
の、二周目以降で明かされる世界観の話だった。
242
││アークシア王家がミソルア神の末裔であるというのは、単に
王権の正当性を示すための伝承ではない。
ミソルアの司る法と裁き、つまり人の心を読み、神罰として雷を
操る魔法を持って、王家には二、三代に一人程の割合で魔法使いが
誕生する。
そして、それに呼応するように、王族に何人かの魔法使いが同時
期に生まれてくる。
王太子アルフレッドと、大公嫡男グレイスのように。
ミソルアと同じ力を持って生まれた子供は﹃神子﹄である。アー
ル・クシャ教会の禁書として秘された経典には、神子を必ず王座に
据えよという一文があり、ゲームではそれが登場する事で王家の秘
密が明かされるらしい。
実際には、何百年もの間にその禁書の内容は無視される事となり、
女王の廃位を切っ掛けに多くの神子が王位を外れるようになった。
問題は、アークシアの王族の魔法は、強過ぎて制御不能な点にあ
る。
その中でも王太子アルフレッドは特に魔力の多さが尋常では無く、
それが悲劇としてシナリオを飾る一要素になるという。神子を王位
に据えるという﹃祭祀﹄を数百年の間怠ってきた因果だと、ゲーム
では説明されている。
魔法使いの魔力は年齢と共に増加し、老化と共に衰える。魔法の
制御を身に着けるまでの間、彼等は魔封じの部屋に幽閉されて過ご
す。必要であれば毒を煽り、あえて体を弱らせてその回復に魔力を
消費させる事もあるという。
243
魔法の制御を完全に身に着けるのが八歳から十歳頃、魔力の増加
により再び制御を失うのが十八歳から二十歳頃。彼等はその地位や、
力の神聖視により殺される事は絶対に無いものの、その人生の殆ど
を魔封じの部屋に閉じ込められて終える。
神子が王位から退けられた理由の一つがこれだ。部屋に篭ったま
まの王では仕事にならない。
だが、都合の良い事に魔力を抑える方法が一つだけ存在する。
運命の相手とも呼べるたった一人を傍においておけばいい。その
相手がなぜ魔力を抑えられるのかは、ゲームにおいても、この世界
においても解き明かされてはいない。
﹁そしてアルフレッド様の運命の相手が、何の悲劇か、それとも喜
劇か、君なんだよね。エリザ・カルディア。君本人には、可哀想な
事としか言いようがないけれど﹂
アルフレッドは、かつて無いほど強大な魔力を持って生まれた。
彼の存在は爆弾に等しい。その魔力は簡単にアークシア全土を焦
土と化す程の雷を降らせる事が出来る程。
魔法使いの魔力は、死とともに解放される。中でも神の血を引く
アークシア王族の魔力は、暴発する魔力という形で解放されるとい
う。
故にアルフレッドを処分する事は、出来ず。
だが、彼を王座に据えねば、彼以上の魔力を持った子供が産まれ
てくるのではという懸念から、幽閉して飼い殺す事も出来ずにいる。
エリザ
﹁成る程、私は神の化身を抑える生贄だったのか﹂
﹁そういう事。下手をするとリアルにソドムとゴモラになるからね。
だから国王や、大公といった重鎮達がこんな横暴を許しているんだ
244
よ。許すしか無かった、とも言う﹂
それに、とマルクは続ける。
﹁私は部屋にいた頃のアルフレッド様を見た事があるけれど、あの
部屋に戻りたくないのが心から理解できるよ。魔力量の事もあって、
飲んでいた毒もほぼ劇薬なんだって。死ぬほど苦しいけど、死ねな
い。よく廃人にならなかったと思うよ。むしろ廃人になってしまっ
た方が良かったんだろうけどね﹂
だから王太子と王家は、なりふり構わず私をここへ閉じ込めた。
恐らく、宮中には事情が説明される。彼等が意義を挟まないなら
ば、貴族達も不安はあれど諾するだろう。
宗教色が薄くとも教義は根付いているアークシア王国では、王家
の血は重要視されている。もしも貴族達が王家に反旗を翻すならば、
それは公家が王家に取って代わる時だけだ。
駄目押しとばかりに表向き私をここへ繋ぐ理由も用意されている。
殺してしまうには勿体無いが、折角関係が改善したリンダールと
の間に残る軛、それが私だ。持て余したそれを、王太子の側妃とし
て幽閉しておく。保管場所としては最適だろう。
﹁⋮⋮理解出来た。結局クソみたいな擬似恋愛ゲームの頭の悪い設
定に振り回されるんだ、という事がな﹂
胸糞が悪い。
話を聞いただけでどっと疲れた気がする。
245
﹁で?お前は何故わざわざそれを私に説明したんだ﹂
このタイミングで明かすには、何の効果も利点も無い。
転生者という枠外の存在で、全くその意図が分からないその男は、
私の問いに何故か頬を赤らめた。
なんだその反応?
﹁ええとねぇ⋮⋮。エリザはもうここへ入ってしまったし、ゲーム
セットで、話しても問題無いでしょう?﹂
﹁そんな理由で王家の重要機密を明かすのか?﹂
﹁いやいや。うーん。言ってもいいけど引かないでね。あのねぇ、
多分エリザに種明かしを勝手にしたら、アルフレッド様がお仕置き
してくれるんだろうなぁって⋮⋮﹂
そう言って恍惚とした表情を浮かべたマルクを、思わず蹴り飛ば
したのは仕方が無い事だと思う。
やめろ喜ぶな。
246
43
気色悪い、と思うのをぐっと我慢して、蹴られた部分を押さえて
嬉しそうにしているマルクの手を踵で踏みしだく。
﹁あっそんな!私はショタ専なのに!﹂
﹁喧しい。種明かしついでに教えてもらおうか。リンダール側は何
を考えている?それから、ゲームのエリザはどうなっていた?幽閉
はともかく、死刑もあっただろう﹂
﹁ゲ、ゲームはヒロイン視点だからエリザについては明かされなか
ったよ。多分死刑に見せかけて幽閉とかじゃないかな?﹂
﹁リンダールについては?﹂
這い蹲る男がゴミのように見えてきた。
唾棄しそうになるのを堪えて質問の答えを促す。
﹁えっと⋮⋮ごめんね。私もあのゲームを完全攻略した訳じゃない
し、そもそも隣国の話は出てこなかったと思う。一侯爵の孫である
マルクにはそんな重要な話まで伝わってこないからリンダールにつ
いては分からないんだ。嘘じゃないよ。嘘じゃないからもう一回蹴
ってもらってもいい?﹂
﹁黙れ﹂
﹁はい﹂
247
王太子側の事情の馬鹿らしさに吐き気すら覚える。いや、国家焦
土化の危機は判るが。
ただ一つだけ、まだ引っ掛かる点が残る。
﹁⋮⋮わざわざこれ程までに回りくどい手を使ったのは何故だ?﹂
正面切って事情を話されれば、何十万もの人間のためにこの身く
らい捧げても良いと思えたかもしれない。わざと追い詰めるような
真似をした理由が分からない。
﹁あー⋮⋮それは、﹂
﹁││それはね、私が貴女を信用していないからだよ﹂
突然耳元に王太子の囁きが吹き込まれた。
思わず飛び退ると、見た事もないほど凄味を笑顔に浮かべた王太
子がマルクの頭を勢い良く踏み下ろす。
﹁ほら、欲しかったんだよね、お仕置き﹂
死ぬんじゃないかというような勢いで足を振り下ろす王太子を、
恐らくその魔法で連れてきたのであろうグレイスが慌てて止めた。
成る程、これが本性か。随分と凶悪な一面を隠していたものだ。
天使か女神のようだって?冗談言うな。
﹁⋮⋮さっき帰ったと思ったらこんな短時間で引き返してくるとは。
王太子殿下は余程暇なようだな﹂
248
﹁飼い犬の不始末をつけにね。堅苦しい敬語をやっと辞めてくれて
嬉しいよ。それで、カルディア││エリザ。私の身の上の不幸話は、
気に入ってもらえたかな?﹂
﹁ああ、とても下らないお伽話だったな﹂ ふ、と鼻で笑うと、王太子が片腕を上げた。怒り狂うグレイスへ
の制止だ。
悪いがもう遅い。ここまでの真似をしておいて、お前たちの悲劇
に同情してやる気は起きない。
﹁貴女ならそう言うと思った。寧ろそうでなくてはね﹂
﹁こんな悪趣味な手を打って、不幸自慢で女を口説いたつもりかな、
殿下は﹂
﹁言ったでしょう?信用してないと。貴女は求心力が有り過ぎる。
こうして孤立無援に追い込んで仕舞い込まなければ何をするか判ら
ないものだから﹂
王太子の笑顔に、狂気が滲む。幼少期の影響でまともな精神はし
てないだろうとは思っていたが。
だが王太子の指摘は合っている。
今でさえ、大人しくするつもりは無い。
﹁別にね、私は貴女に愛されたいとかそんな事を欲している訳では
ないんだよ。私という存在を刻みつけて、手許においておければそ
れで十分なんだ。グレイスみたいに優しくしてあげるのは、無理だ
ったみたい﹂
249
﹁テレジア侯爵はどうした?﹂
﹁心配しなくていいよ。最近疲れ気味だったから、ちょっと特殊な
回復薬を差し入れただけ。まだ死なれたら困るからね。貴女が閉じ
込められて不安がる末端を宥めないといけないから﹂
そんな薬が存在するのか。何処までも頭の軽い乙女ゲームの世界
観を示されているようでイライラする。
﹁そういえば、心が読めるんじゃなかったのか?それを使えばもっ
とスマートに立ち回れただろう﹂
﹁エリザは私を廃人にしたいのかな?他人の精神を覗き見るような
真似はしないほうがいいよ。気が触れたくなければね。将来的には
勝手に発動するようになるから、そこも含めて貴女が必要というわ
け﹂
確かに、生きた爆弾の気が触れたらそれはそれは大変な事になる
だろう。
﹁それから、ここへ来たのはもう一つ、理由があるんだ。マルクへ
の領地の全権委任状にサイン、貰える?子供が生まれたら女でも構
わずにすぐ継がせるつもりだから、カルディア家の事は心配しなく
ていいよ﹂
それにサインをすれば王太子の目論見は全て果たされた事になる。
これから先五十年、王家に対して危機感を抱いた貴族達を宥めなが
ら騒ぎを沈めていけばアークシアは安泰だろう。そう思っているに
違いない。
溜息を吐いて、立ち上がる。
250
││馬鹿が。何もかももう遅いんだよ。
部屋の入り口から火の手が上がる。
中空で突然燃えだした炎は、ヴェルメールの古い木造扉とカーペ
ットを舐めるように広がった。
﹁え、﹂
﹁ここまでご苦労、イグニス。随分と魔法の腕が上がったようだ
な。炎のコントロールまで出来るのか﹂
焼け崩れた部屋の扉から、赤い髪の男が不機嫌な顔で入室してく
る。まるでモーセの有名な場面のように炎が割れて道を作る様は、
こんな状況である事を忘れる程幻想的だった。 251
44
﹁よう、クソガキ。ドレス似合わねえなぁ﹂
相変わらず無駄口を叩くのを辞めない奴だ。だが、躾はもう必要
無いだろう。
背後を飾るように廊下の向こうはいつの間にか火の海と化してい
る。いつか王に見せるかもしれないと考え魔法の制御を上げろと訓
練を命じてはいたが、拾ってからの短期間でこれほどスキルアップ
するものなのだろうか?
予想外の事態に呆然とする王太子とグレイスを尻目に、イグニス
は私の目の前までやってきて短刀を差し出した。受け取ったそれで
ドレスの裾を手早く引き裂き、コルセットの紐を切る。
﹁指示した事はどうなった?﹂
﹁万事恙無く、と言いたい所だが、ちっとばかし予定外の事があっ
たな。クソガキ様の邪魔にはならないみたいだけど﹂
﹁そうか。では行こうか﹂
重く嵩張るパニエも切り落としてしまえば、随分と楽になる。見
るも無残な姿ではあるが、構いはしない。
が、王太子も何時までも呆けていてくれる訳ではないようだった。
ハッとした表情を浮かべたと思ったら、皮肉げな笑みに顔を歪めて
腰に佩いたレイピアを抜き、突きつけてくる。
252
﹁⋮⋮っ、やってくれるね、エリザ﹂
﹁退け。⋮⋮まさか自分に刃が向けられないとは思っていないだろ
うな?殺さずとも地に沈める方法など幾らでもある﹂
肩を狙って突き出されたレイピアの切っ先を短剣で絡め取って反
らし、踏み込む。刃の擦れる金属音が耳障りなほど高く鳴った。
肉薄した私に王太子が目を見張る。優雅な王宮剣術ばかりやって
いたお坊ちゃんが、ちょっとした脅し程度で剣を振るうのなんざ怖
くもない。
こっちはお前を少なくとも戦闘不能にするつもりで剣を構えてい
るのだ。殺すくらいの気概を持ってくれなくては。
﹁││っ!!﹂
鈍い衝動が短刀の先から手へ伝わってくる。王太子の右肘を内側
から貫いた刃を躊躇いもなく離し、その襟首を掴んで渾身の力で引
き倒してやった。痛みで力の抜けた体は簡単に床へ沈む。脳を揺ら
したからか、王太子は呻き声すら上げずに動きを止めた。
﹁グレイス、焼け死んだ王太子の魔力で国家心中したくなければマ
リクとこいつを連れて早くここから出るんだな﹂
動けずにいたグレイスに一応声を掛けてやる。脱出までに王太子
に死なれても困る。
﹁⋮⋮お前っ、自分が何してるのか、分かってるのか!?﹂
戸惑いと怒りと憤り。そんな色が、睨みつけてくるグレイスの瞳
253
の中で揺れていた。
﹁喚いている暇があるのか?﹂
﹁黙れよ!お前が逃げれば、数年もすればアークシアは滅ぶかも知
れないんだぞ!﹂
﹁知るか。子々孫々まで魔封じの部屋とやらに幽閉されて毒飲んで
のたうち回ればいいだろう﹂
王太子を王に据えなければ、もっと恐ろしい爆弾が生まれるかも
知れないだって?そんな事に怯えて、いきなり人一人の人生を踏み
潰そうだなんて、よくもそんな巫山戯た事を考えられる。
王太子が予想よりも私の思考を理解していたのは分かったが、そ
れとこれとは話が別だ。
イグニスが炎を操り、陽炎の揺らめく道が開く。
グレイスが邪魔をしないよう火で取り囲んだのは良い判断だと後
で褒めてやらないとな。
燃え盛る炎で無残にも崩壊しつつある廊下を走り、最も近いバル
コニーを目指す。幸いにも周りは湖、飛び降りても死にはしない。
宮廷で育てられたヴェルメール女王は溺れ死んだかも知れないが。
湖に突き出すような形の石造りの広いバルコニーは、場内の炎獄
が嘘のように静寂を保っている。
その傍らに、華のように鮮やかな色彩が三つ。
﹁遅かったですわね﹂
254
﹁││何故ここにいる、レイチェル。王城はどうした?﹂
﹁思っていたよりも簡単に事が運びましたの。それにしても酷い格
好ですわね﹂
場違いな程に優雅に微笑み、レイチェルが手に持ったロングコー
トを私の肩へと掛ける。
﹁光栄に思って頂いてよろしくてよ。アークシアの次期王妃が直々
にコートを掛けて差し上げたのですから﹂
﹁それはそれは。で、何故ここにいる?﹂
﹁勿論、貴女を脱出させる為ですわね。まさか本気で湖に飛び込む
つもりでしたの?﹂
小馬鹿にしたような口調でレイチェルは笑った。どういう事だと
イグニスに視線を向けると、﹁だから、予定外の事があったって言
っただろ﹂と口を尖らせてすねた声を出す。
﹁レイチェル、いつからイグニスの事を⋮⋮﹂
﹁あら、私の情報網を利用していた方は何方だったかしら?﹂
﹁⋮⋮やっぱ、気づいてなかったか。その女狐だぞ、俺に魔力の制
御を叩き込みやがったのは﹂
ぼそりと呟くイグニスに、信じられない思いでレイチェルの顔を
まじまじと見つめてしまった。レイチェルは貴族令嬢らしく扇で口
元を隠し、にやりと笑う。
255
﹁そんなに私が魔力を持っている事が不思議でして?﹂
﹁⋮⋮いや﹂
魔女という渾名がピッタリだな、と思った事は、言わない方が賢
明だろう。
﹁脱出前にもう一つ聞いておこう。何故ゼファーがここにいる?﹂
緊張を孕んだ表情を隠しもせず、銀の髪を風に遊ばせてそこに親
友が立っているのは、レイチェルの恐ろしい情報網と違って見逃す
事は出来ない。
王太子に脅されて私から離れていった筈のそいつが、ぎこちなく
微笑んだ。
256
45 反逆の火
反逆の火は燃える。
春季三月二十日、及び二十一日。
その翆週から緑玉週にかかる休日の二日間に、赤い髪の男がエイ
ンシュバルク伯の使いを名乗って何人かの貴族の邸を訪ねて回った。
内容は、警告。王家が隣国と密約を交わし、貴族の権威を取り上
げ、国家を私物化する危険性がある事。
何を馬鹿な、と一笑に帰す事は出来なかった。休末の明けた春季
三月二十二日、緑玉週の二日目に、臨時の貴族院が開かれた。
そこでまるで茶番劇のように起こった事件。
リンダール大公女の誘拐と、ドーヴァダイン大公家嫡男による救
出劇、実行犯によって出されたというエインシュバルク伯の名前。
そして、権力のあるものが煽っているのだと判るほど、あまりに
も急に高まったエインシュバルク伯爵への危険視を声高に叫ぶ者達
の勢い。
魔法使いというものの存在と、それを王家が所有しているという
﹃王家の力﹄の誇示。学習院内で火がつけられたように広まったエ
インシュバルク伯爵のかつての作戦内容と、リンダール大公女との
不仲を疑われる噂。
警告を受け取った者達の中で半信半疑だった王家の陰謀論が、殆
ど確信に変わった。
257
警告と王家に対する危機感は、紙につけた火の如くに広がってい
った。
赤い髪の男は実に巧妙に知らせを撒いた。
一見それらの家には何の繋がりも見い出せないが、見るものから
見ればある共通点が存在した。エインシュバルク伯爵の危険性と有
用性を同時に理解している、他国に対してかなりの危機感を抱いて
いる、そして、信仰心の薄いという点である。
彼等は様子見に徹した。徹さざるをえなかったという方が正しい
だろうか。
アークシア王国はその特異な成立により、教会の教えが深く根付
いている。様々な国がクシャ教の旗の元に集まった神聖アール・ク
シャ法王国を前身とするだけに、王家の存在意義が強く、建国当初
よりアハルの血族が代々王座についてきた。家名は何度か変わった
事はあるが、王家の血を引かぬ者、また王家より離れて三代以上を
経た血族が王に立った事は無い。重要な神事を執り行うのは、王の
血筋のみとされているからだ。つまり。王権神授説に基づいて国が
成り立っているのである。
また、今日まで続く貴族の系譜というものは、大抵教会の神官が
その祖となっている。今でこそ政治に直接関わらない教会ではある
が、その影響力は大きいのだ。
教会は神事を、貴族院は行政を、貴族に関する司法の行使はザス
ティン、エレイン、ヴェルナーズ、フェウトラ四公爵家のうちザス
ティン公爵家を除く三公が執り行ってはいるものの、それらはその
権利をそのまま王より与えられている訳ではない。長年大きな問題
も無く続けられたため忘れられがちではあるが、正確にはそれらは
258
全て代理権限とされており、その実権は全て王が持つこととなって
いる。
そして、このアークシア王国では王権神授によって王は国政に関
する権利を握っている。領地を任されている領主貴族とて、領主と
しての地位の世襲を許されてはいても、その領土統治を王の代理と
して行っていることに変わりは無い。実感こそ薄く、権力は時と共
にうつろいゆけども、その事実は変わらないのだ。
故に知らせを齎された貴族達は、焦燥感を抱きつつも動く事が出
来ずにいた。王家の血と権利はこの国においては絶対のもの。だが、
そうであっても王家が一貴族の全財産を一方的に押収していい訳で
はない。
これもまた、この国の成り立ちに起因するものだが、アークシア
では平民に至るまで個人の財産と身柄の権利という概念が認められ
ているのである。領主としての権利が正確には代理権であり、それ
を王が一方的に取り上げる事は容易くとも、エインシュバルク女伯
爵のように一方的な婚姻によりその全財産を押収され、身柄を拘束
されるようなことが許されてしまっては、この国は一気に傾ぐ事に
なってしまう。
いくら神によって証明された王であっても、統治する民を持たな
いならば何の意味も無い。
赤い髪の男が警告を齎した貴族達は、ある意味では、王の権利は
民により成り立つという、マルクやエリザの言葉を借りるならば社
会契約論的な思想を持つ者たちであった。
だが、現在のアークシアにおいて王の権利は神より与えられた物
というのは絶対である。特に国の支配層である貴族のほぼ全てが教
会と王によってその特権を保証されているのだ。だからこそ、全て
の根本たる王家の血、それ無しには王に対して貴族が動く事すら出
来ないというのが、貴族達の現状であった。
259
そんな折に、彼らの元へと一羽の鳩が訪れる。届けられた手紙は、
王家に連なる一族にのみ赦された紋が薄っすらと透けるもの。差出
人はR.Zとイニシャルのみを記していた。内容は、現王家の増長
に対する苦慮と、それを止めるための計画。
アハルの血を引くものが動くのであれば、貴族達も大義を掲げて
それに続く事が出来る。
貴族達の動きは、迅速だった。
全てはエインシュバルク伯爵の身柄が押さえられると同時に始め
られた。
夏季一月二日、紅玉週の四日目。
エインシュバルク伯爵の、学習院の寮宅より、馬車が何台か出発
した。
王家に翻意を抱く貴族達には、その旗頭となった者からその馬車
に乗る者たちがエインシュバルク伯爵の家臣団であったことが知ら
された。一度難民として保護し、エインシュバルク伯領の住民とし
て認可していたその者たちを、王家が難民返還を命じて取り上げた
のだ。理由なき簒奪ではない。だが、その理由となるものを王家が
自ら捻り出しているこの暴挙を、いよいよもって日和見であった貴
族達さえも見過ごす事は出来なくなった。
夏季一月三日、紅玉週の五日目。
王城へと召喚されたエインシュバルク伯爵が、リンダール大公女
誘拐に関して無罪を言い渡されたにも関わらずヴェルメール城へと
幽閉された瞬間より、貴族達の翻意は日の下に晒される事になる。
近衛兵が動く間も殆ど与えぬまま、謁見の間は制圧された。
260
反逆の徒となった者たちを従えていたのは、大公家庶子エリック・
テュール・ドーヴァダイン。その傍らにあったのは、王の寵を得て
教会の管理を任されたはずのザスティン家の子供達、ラージアスと
レイチェルの姿。そしてその後ろに控えるように、ジークハルト・
ローレンツォレルが続く。
王城の兵力は王のものではあれど、その指揮権はローレンツォレ
ル公爵が持つ。これも名目では代理権ではあるが、撤回しない限り
はそれは公爵のものだ。
故に王城の警備は、この日ばかりは満足に機能せぬままその反逆
は遂げられた。
﹁⋮⋮誰が、これを率いた?﹂
捕らえられた王は、疲労を隠しもせずにそう一言聞いた。そこに
は少し前までは確かにあった筈の威厳はその残滓さえも見出せなか
った。
261
46
自分という一点を守る事、それに絞って手を打った。
どうやら私の中では、王への忠義よりも自分の矜持の方が大事だ
ったようだ。
死刑ならば王都の中央広場。幽閉ならばヴェルメール城。これは
予想がついていた。
もしも私を死刑とするならば、それは貴族達に対する圧力として
しか機能しない。であれば、見世物としての死が必要となる。この
国で公開処刑が行われる場所はただ一つ、中央広場だけだ。
逆に幽閉││婚姻の申し込みがあった時点で九割がたこちらだと
考えてはいたが││の場合は、ヴェルメール城以外に条件に合う場
所は存在しない。広大な人口湖の中にポツリとひとつだけ存在する、
貴人の幽閉そのものの為に作られた城。
場所さえ絞れるならば、話は早い。
どちらの場合にせよ駒は一つ、仕掛けは二つだった。
まだ誰にも露見していないイグニスの存在が、最後の命綱になる
とは案外追い詰められたものだ。
仕掛けの一つは、イグニスを使い王への翻意を芽吹かせる事。こ
れで私がアークシアを去った後もこの国の壊滅を防ぐ可能性は大い
に残る、筈だ。
二つ目は単なるイグニスによる私の救出の作戦だ。当日の朝から
王宮にイグニスを潜ませ、近衛の兵士の一人に成り代わらせる。こ
れは⋮⋮点検のために武器庫の一つである狭い密室に入った兵の一
人を、イグニスの魔法の火を不完全燃焼させて一酸化炭素中毒にさ
せた。相手が昏倒してすぐに救助するようイグニスには言いつけて
262
あったが、もしかすると後遺症は残るかもしれないな。何せ一時間
近くは濃い一酸化炭素の中にいたのだ。
その後は謁見の間の近辺に待機。私が兵士によって連行されるの
に同行し、ヴェルメール城ならば船渡しにでも成り代われと言って
おいた。
育ちの悪さのわりに背筋の伸びたイグニスは、数ヶ月の間私に飼
われていただけあって身奇麗で、見ただけでは平民には見えない。
本人の資質も元からあったのだろうが、一連の行動は愉快なほど上
手くいった。
だが、ヴェルメール城に押し込められた私を待っていたのは、笑
うしか無いような知らせだった。
城ではまず、どれほどの言葉で私について吹き込まれたのかとい
うほど侮蔑と畏怖の顔を浮かべたレディス・コンパニオンが、六人
ほどの侍女を使って私を事実上の囚人服であるドレスに押し込めた。
侍女たちも大概似たような表情だったが、着付けの終わって彼女達
が王城へと戻っていった頃、漸く手袋の内側に感じた違和感があっ
た。
誰がそれを差し込んだのかは気がつかなかったが、確かに私の筆
跡の走る紙の切れ端の裏側に、﹁王権を取る。素敵な種をありがと
う﹂などというふざけた走り書きがあった。どうみてもレイチェル
の筆跡だった。
私の撒いた芽は、どうやらレイチェルによって随分な速度で開花
させられたようだった。
私の芽を利用したということは、どう考えても私が反逆の徒の重
役として認識されていることは確実。レイチェルと私の間のライン
が実は繋がっていなかったとは誰も考えたりはしないだろう。
263
さて。バルコニーで待っていた、場違いなほど優雅な三つの色彩。
一人はレイチェル。一人は知らない顔だが、彼らが此処に居ること
から察するに何か移動系の魔法使いだと判断する。そして、久々に
こんな近くでまみえる事となった、ゼファー。マリクに脅されて、
私から離れていた筈の存在。
手を打った当初には、どうなっても私はこの国を捨てて逃げるの
だと思っていた。だから、ゼファーを傍に戻そうとは微塵も思わな
くなっていた。
それが何故、ここにいるのか。
内心の動揺を押し殺して、それを問いたら恐ろしいほど冷たい声
になった気がした。
ゼファーは、酷く穏やかに笑った。ただそれだけを返した。
﹁あらあら、今回の立役者の一人である彼に、随分な言いようです
わね﹂
そこへ、少々非難の音を込めたレイチェルのツンと澄ました声が
飛ぶ。立役者とはどういうことか。思わず眉根を寄せて彼女に視線
を戻したが、レイチェルの鋭い視線と絡む事は無かった。
﹁あの⋮⋮取り敢えず、移動しないのです?﹂
ずっと黙っていたもう一人、白い聖衣を纏う少女がそう声を上げ
たからだ。
奇妙な訛りの混じった喋り方。アークシアの者にしては濃い肌の
色。
264
﹁⋮⋮南方国家の方の娘か。珍しいな﹂
﹁後にしてくださる?それと、黙ってないと舌を噛みますわよ。カ
プシャ、頼みますわ﹂
思わず呟いた以外に意味の無かった独り言がばっさりと切られる。
舌を噛む、とはどういうことか。疑問を考える暇は一瞬だった。カ
プシャと呼ばれた娘が両手の揃えた指先を重ねて口元を隠す。儀礼
地味たポーズだ、そう思った瞬間、体は宙に浮いていた。
唐突に、前世のとある記憶を思い出した。エレベーターが上の階
へと動き出したあの感覚である。地に足のついていない状況に、流
石に頭から血の気が引いた。
265
47
生身で空を飛ぶという、ショッキングな事象を体験した後。
レイチェルは王の凱旋といわんばかりの、堂々とした足取りで謁
見の間へと踏み込んだ。
伴われて彼女の後ろを歩いていた私にか、その間に控えていた貴
族達がざわめく。身に纏っているのは焦げたストッキングにロング
コート、全身煤塗れという酷い身成りであるのは自分でもわかって
はいるのだが、レイチェルは着替える暇どころか顔を拭う時間すら
与えてくれなかったのだ。
﹁静まりなさい﹂
列の先頭を優雅に進んでいたレイチェルの静かな声が、対した声
量も無いのに響き渡った、気がした。その一言に貴族達がぴたりと
口を噤む。││なんだ?レイチェル側の動きが全くわからないまま
であったために、その光景には違和感のみを感じることしか出来な
かった。誰からともなく、貴族達がレイチェルに向かって膝を着く。
波のように次々と頭を下げる大人達に、喉に何かが絡まるような、
奇異な感触を覚える。
何故レイチェルに貴族達が礼を取るのか。その意図を理解しそこ
ねて、思わず足が止まった。
反響していた靴音が止まった事がわかったのだろう、目の前の少
女が鋭い瞳の奥に炎のようなゆらめきを灯して振り向く。
﹁あら、どうしましたの﹂
266
﹁⋮⋮レイチェル。まだ、君の目的を聞いていないままだったな﹂
﹁お教えするには、まずは見て貰う方が早いかと思っておりますの﹂
﹁何を⋮⋮﹂
言いかけた言葉を遮る様に、レイチェルの扇がするりと風も起こ
さないようなしなやかな動きである一点を指した。
その方向を辿って、視線を向けた先は段の上の玉座。ローレンツ
ォレルの紋を纏う兵士達が隠すようにして立っている。玉座に何が
あるのか。レイチェルの扇がひらひらと視界の端で動くと共に、兵
士達が横に逸れる。
そうして見えたものに、思わず息を飲むことになった。
最後に見た時には物言わぬほどにくたびれた顔をした王が着いて
いた玉座には、今は失血のせいでか青白い顔色の王太子が身を投げ
出すようにして座っていた。
罪人のようにその首と手足首には枷が嵌められており、それぞれ
にはびっしりと紙札のようなものが貼り付けられている。何らかの
文様と文字が複雑に組み合わせられたデザインが書き込まれている
ようだが、生憎と全く見覚えが無いものだった。おそらくは、魔封
じのためのものだろうが。
だが、何故王太子がそこへ座っているのか。まだ成長途中の彼の
頭に無造作に置かれたような豪奢な王冠は、サイズもその造りも煤
に汚れて死に掛けたような王太子には酷くミスマッチで、どういう
ことかと訝しがるより先に戸惑いが浮かんでくる。
その足元に力なく転がされているマリクとグレイスも、その空間
の異様さを引き立てていた。
267
どういうことだ。
絶句する私に構いもせず、レイチェルはドレスの裾を裁いて段を
登った。そして、全く躊躇う事無く王太子の座る玉座の隣の椅子へ
と腰を下ろす。││王妃の椅子へと。
﹁⋮⋮そういう、事か。よく貴族達を黙らせる事が出来たな﹂
﹁あら、私を誰だと思っておりますの?﹂
にんまりと赤い唇を吊り上げた少女に、やはり魔女のようだと思
ったのは、墓の下に入るまでは口に出さないほうが賢明だろう。
その時だった。王太子が急に激しく咳き込んだ。頭に単に引っ掛
けていたようだった王冠が、落ちて床に叩き付けられる前に、その
隣に控えていた兵士の手によって取り上げられる。
咳の音の中に、明らかにごぽりという粘る水の音が混じっていた。
暗い赤色が吐き出され、ぱたぱたと音を立てて手枷に落ちる。
やけにおとなしいと思ったら、毒も飲まされているのか。血の気
の失せた肌は失血だけが原因では無いらしい。
哀れみは感じなかった。結局王太子は回避しようとしていた未来
を迎える時期を早めただけとなったが、それも自業自得というもの
だ。
毒を煽って膨大な魔力をその回復に当てる苦痛の中、王座に縛り
付けられる事。或いは、何もかもを取り上げられて魔封じの部屋へ
と幽閉される事。
リンダールとの戦争さえ続いていれば、或いは彼はその膨大な魔
力によって英雄にでも成ったのかもしれないが。
││それか、他人を信用することさえ知っていれば。
268
王家としての矜持を捨てずにいてくれたなら、人柱になどなって
やる事は厭わなかっただろうに。
アルフレッド
レイチェルが他に誰を動かしたのかは、私はまだ知らないが。
端的な結果のみで言えば、王太子は見ての通り王と成り、レイチ
ェルは王妃の座に収まったらしい。その発端となったのが、立役者
という言葉から察するにゼファー、或いはレイチェルとゼファーの
二人共か。
最初の頃、王太子の情報を集めた際にレイチェルに情報を操作さ
れた可能性がかなり大きくなった。いくつかの情報を隠匿して私の
事を躍らせたのではなかろうか、この魔女は。結果だけを鑑みれば、
何もかもがレイチェルに都合良く収まっているようにしか見えない。
﹁そんなに王妃になりたがっているようには、見えなかったが﹂
﹁気になりますの?うふふ、ではそれについては貴女が侯爵と成れ
た暁にでも教えて差し上げますわ││成れるならば、ですけれど﹂
意味深な言葉を残して、レイチェルは扇を払った。どう見ても下
がれ、というような身振りであった。
今日はこれ以上の事を話すつもりは無いらしい。王位の簒奪に成
功したからには、やる事も多いのだろう。
だが、もう一つ聞かねばならない事はある。
﹁ゼファーの事をまだ聞いていない﹂
﹁本人にお聞きした方が良いのではなくて?﹂
素気無い返事と共に、レイチェルはさっさと王妃の座を立ってし
まう。それに合わせて伏せていた貴族達が一斉に立ち上がった。個
269
人的な質問が許されるのはここまでと、言外に宣告されてしまった。
270
ver2の投稿を始めました。
47︵後書き︶
12/11
この話はここで止めさせていただきます。
271
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n1410cj/
悪役転生だけどどうしてこうなった。(旧)
2016年7月13日22時12分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
272
Fly UP