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№100 2016.3.7 『完了した』 酒匂キリスト教会 牧師 勝俣慶信 <聖書のみ

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№100 2016.3.7 『完了した』 酒匂キリスト教会 牧師 勝俣慶信 <聖書のみ
№100
『完了した』
2016.3.7
酒匂キリスト教会
牧師 勝俣慶信
<聖書のみことば>
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、
「わ
たしは渇く」と言われた。
(ヨハネの福音書 19:28)
ヨハネの福音書 19 章は、イエス様が十字架につけられてしまう場面です。その場にいた
らいたたまれません。
しかしここで、三度四度と繰り返されるみことばがあります。それは、
「聖書が成就する
ためであった」というみことばです。24 節、28 節、36 節、37 節に出てきます。
イエス様が十字架につけられた時、十字架の下で兵士達が安い酒を飲み、イエス様の衣服
を分け合って大喜びをしている。四人の兵士に、四枚の服がそれぞれ分けられ、五つ目の衣
服として最後、下着が残っています。その下着は、縫い目がない織り物で高価なものです。
伝承によれば、十字架処刑の直前、母マリヤが手織りしたこの下着を差し入れたとさえ言わ
れます。そんな大切なものを、兵士たちはくじ引きで分け合っているのです。
でもそれさえも、聖書が成就するためだった。と書かれています。
確かに、そのようになることが、詩篇 22 篇 18 節に書かれています。でも、神様は何もか
も全部お見通しで、イエス様と言えども、その決定に抗うことはできなかったということで
しょうか。筆者は、
「聖書が成就するため」というみことばに、何か運命論的な虚しさを感
じ、神様の愛はどう働いておられるのか?と問いたくなるのでした。
しかし、ヨハネはこの福音書を創世記を意識して記していることを思い出しました。ヨハ
ネの福音書 1 章 1 節~5 節は、
創世記 1 章 1 節~4 節とそっくりです。
つまり著者ヨハネは、
神が天地万物を創造し、この地に神の御国エデンを置き、拡げて行こうとされたように、イ
エス・キリストの十字架のみわざを通し、神の御国の再創造をされていめということ。そし
て、イエス様の死と復活により人間の罪は赦され、除かれ、神様の愛と霊が再び人間のうち
に注がれて、神様と心と心で繋がり、愛と愛で応答していく神の御国が始まったことを伝え
ようとしているのです。
十字架の下で衣服を分け合って喜ぶ、人間の神に対する無関心、自己中心、欲の塊の姿は
決して他人事ではなく私自身の姿なのではないでしょうか。聖書を読み、十字架の記事を見
ても胸を痛めることのない私は、兵士と同じ神への無関心の罪をもっています。しかしイエ
ス様は、その罪を背負い、赦し、死の先に復活される御自身と出会わせてくださるため十字
架にかかってくださいました。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人もローマ人も、全ての人間
の罪を背負い、取り除き、神の愛と霊とを注ぎ直すため、十字架にかかってくださいました。
十字架の足元に、四人の兵士と対照的に四人の女性がおりました。母マリヤをはじめとす
るイエス様につき従った女性達です。そして、もう一人「愛する弟子」と称されるヨハネ自
身がいます。イエス様の五枚目の衣服である下着はくじ引きにされました。しかし、イエス
様は今十字架の上から、五人面の登場人物であるヨハネを選ばれました。偶然とか運命とか
によってでなく、イエス様がヨハネとマリヤと女性達、つまりイエス様のもとに留まった
人々に、一つの使命を託しました。それは、イエス様の愛によって愛し合う、本当の家族の
再創造です。
アダムとエバが、神様に信頼しなかったことをきっかけに、最初の御国エデンは壊れてし
まいました。夫婦関係は、神の御国の最小単位です。そこが壊れた結果、この地上には憎し
み、妬み、疑い、殺人、争いなど罪が見える形をとって支配するようになりました。
しかし、イエス様は息を引き取られる直前に、
「女の方。そこに、あなたの息子がいます。
」
「そこに、あなたの母がいます」
。とイエス様の愛を通して愛し合う、愛の縦軸と横軸が交
差し合う神の御国の再創造を、彼らに託しました。
それ故に、イエス様の最後のことばは「完了した」
「完成した」で、それは創世記におい
て天地万物が「完成した」に通じることばです。
つまり聖書は、すばらしい福音として、神の御国はイエス・キリストと共に、すでに来て
始まっていることを私たちに伝えています。
「神の御国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここに
ある』とか、
『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国
は、あなたがたのただ中にあるのです。
」(ルカの福音書 17:20-21)。
イエス様の十字架により、神様との愛の交わりの中に連れ戻していただけた私たちは、こ
の世の現実を超えて、神様に愛されているから愛し合う、赦し合う、とりなし合って祈り合
うことを使命として託されました。
そして、それができるために、神様からの聖霊を注がれて、いつも私たちの心に神の愛が
満ち、みことばと祈りを通して、神様と心と心の対話ができる者に造り変えてくださいまし
た。
私たちは、問題多きこの世で、死んだ後に来る完成された天国の平安を待ち望んでいるの
ではありません。壊れているかのように見えるこの世にあって、神様の愛が御支配くださる
喜びと平安の世界を築き合い、味わい合い、周囲の人々に伝えるために選ばれ、用いられ合
っていくのです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの
戒めです。(ヨハネの福音書 15:12)
イエス様が、御自分の衣服を分け合う兵士達を責めたり裁いたりせず、その者のためにも
十字架にかかってくださり、新しい創造をなしてくださったように、私たちも責めたり裁い
たりすることをやめましょう。
むしろ、神様に赦され、愛され、十字架のもとに集められた者なのです。
「ここに、あなたの母がいます。ここにあなたの息子がいます。
」と言われる主は、生活
の中で、具体的な愛の実践を望んでおられます。
神様の愛に満たされ、神様の愛に突き動かされ、分かち合っていく者とされていきましょ
う。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書 5:16
)
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