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テモテへの手紙第一 「苦しみを共にする証し」 1A 憐れみの挨拶 1-2
テモテへの手紙第一 「苦しみを共にする証し」 1A 憐れみの挨拶 1-2 2A 力の御霊 3-7 1B 純粋な信仰 3-5 2B 神の賜物 6-7 3A 恵みのご計画 8-12 1B 恥ずべきではない主の証し 8 2B イエス・キリストの命を現れ 9-12 4A 健全な教えの保持 13-18 1B 信仰と愛、聖霊 13-14 2B 離れる者たちと、慰める者 15-18 本文 テモテへの手紙第二は、パウロが書いた最後の手紙です。なぜなら、パウロは間もなく皇帝ネロ によって死刑に定められるからです。使徒の働きの最後の部分 28 章には、ローマで、自費で家を 借りて、ローマの看守によって鎖につながれていました。彼は、エルサレムにおいて、主イエスが 自分を異邦人に遣わすと言ったときにユダヤ人が半狂乱状態となり、それがきっかけで、囚人とな りました。ローマまで来て、そして彼はこの家の中で神の国を宣べ伝えました。ローマで、パウロは ネロの前で弁明しました。この時は、彼は釈放されたようです。 しかし、皇帝ネロは、この時ぐらいを境に、クリスチャンに対する迫害を始めました。パウロは、 言い伝えによれば釈放されてのち、再びまた捕らえられます。今は自費の家ではなく、牢獄の中 にいます。初めに弁明したときにそれがうまく行かず、死刑宣告が出ることがはっきりとしました。 その時に、パウロとともに労していた人が、1 章 15 節や 4 章を読みますと、アジヤからの人は全 員、彼を離れてしまったのです。クリスチャンに対する迫害が酷くなったからでしょう。パウロは、4 章 16 節で、「どうか彼らがそのためにさばかれることのありませんように。」と言っています。苦し みに遭う時に、私たちの信仰は試されます。信仰によって苦しむ時に、それが恥とさえ感じる時に それでもその信仰にしたがって動くことができるのか、という試しがあります。この手紙には、しっ かりと教えられたこと、主からゆだねられた良き物を守っていくという責任について、教えています。 1A 憐れみの挨拶 1-2 1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒とな ったパウロから、2 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあ われみと平安がありますように。 テモテへの手紙第一にあったのと同じような挨拶をしています。まず、「神のみこころにより」とあ りますが、彼がキリスト・イエスの使徒となったのは、自分の意志ではなく神の意志による、という ことです。このような召し、召命観が、キリスト者の生活全般で必要であるし、何らかの奉仕の務 めにあずかる時にも必要です。そして第二の手紙で特徴的なのは、「キリスト・イエスにあるいのち の約束によって」という言葉です。パウロは、自分が死ぬことも近づいていることを知っている中で、 この方にある命の約束を信じていました。 そして、「愛する子テモテへ。」とあります。これが第二の手紙に滲み渡っています。パウロとって、 信仰による子となったテモテです。それから、恵みと平安のほかに「あわれみ」があります。これは 第一の手紙で学びましたが、牧者にとって必要なのは神の憐れみです。自分はさばかれるに当 然の人間であるけれども、さばかれずに今ここにいる、という立場です。スポルジョンも同じことを 話しました、彼は、会衆にいる皆さんよりも私たちのほうが神の憐れみが必要なのです、自分の欠 け、弱さ、失敗にも関わらず、奉仕の働きをすることができるのは、神の憐れみによるのですから、 ということを話しています。 2A 力の御霊 3-7 1B 純粋な信仰 3-5 3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕 えている神に感謝しています。 パウロは、牢獄にいる時に夜昼と祈っていました。そして、絶えずテモテのことを思い起こしては、 神に感謝していました。それは神がテモテを救ってくださったこと、そしてテモテを通しての神の働 きのことを感謝していたのでしょう。そして彼は、「先祖以来きよい良心をもって仕えている」と言っ ています。これは、母親がユダヤ人であるテモテが、その信仰の継承を聖書から受けていたよう に、ユダヤ人の先祖たちが信じていた神に、自分自身も仕えているということを言い表しています。 パウロは、使徒 24 章で総督の前に連れて来られた時も弁明しているなかで、「私たちの先祖の神 に仕えている(14 節)」と言っています。旧約時代の聖徒たちの信仰から、今のキリスト者の信仰 は連続していることを表しています。彼らの信じていた神とキリストがイエスにあって現れたのです。 そして、「きよい良心をもって仕えている」と言っていますね。この「良心」は、テモテの第一の手 紙にもたくさん出てきました。1 章 18-19 節には、「それは、あなたがあの預言によって、信仰と正 しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会 いました。」とあります。4 章 2 節には、「彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食 物を断つことを命じたりします。」とあります。信仰によって与えられる良心を清く保つのです。それ は、パリサイ派のような自分の義を立てることではなく、恵みによる信仰によって支えられた良心 です。 4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。 今テモテはエペソにいますが、最後にパウロと離れるときに、涙を流していたのでしょう。けれど も、今、パウロは 4 章においてテモテを呼んで、ローマに来てほしいと願っています。多くの働き人 が、パウロが牢獄に入れられてから、離れていきました。偉大な信仰の人、強そうにみえる働き人 も、孤独や悲しみ、不安などから無縁ではありません。一人一人の同労者が、宝のように尊いの であります。 5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイス と、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は 確信しています。 「あなたの純粋な信仰」と言っています。パウロの周りにいた多くの人々には、何か他の要素が あったり、自分のしたいことがあったりして、それでパウロが苦しみの中に入れられると、自分がそ こにいるのは不利になると考えて、離れていった訳です。しかし、テモテはそのような計算を働か せることはできませんでした。信仰が純粋だったからです。 そして、どのように信仰が純粋だったかと言いますと、祖母から、また母から幼い時から聖書に よって教えられていたことでした。使徒 16 章によると、ルステラ出身です。パウロとバルナバがル ステラに訪れて福音を第一次宣教旅行に行きましたが、第二次宣教旅行の時にテモテがその宣 教旅行に同行しました。テモテは、母がユダヤ人で父がギリシヤ人の両親を持っていました。父が ユダヤ人の時のみ子がユダヤ人なので、テモテは異邦人でした。けれども、ユダヤ人にも福音を 伝えるので、パウロは同行させる際に彼に割礼を受けさせました。そして父は信者にはなっていな かったのでしょう、祖母と母が、テモテが幼いころから聖書を教えていました。 2B 神の賜物 6-7 6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神 の賜物を、再び燃え立たせてください。 テモテには、預言のことばが与えられていました。長老たちが手を置いていたとき、預言のことば があり、その時に聖霊の賜物が与えられていました。パウロは、テモテへの手紙第一で、「あなた がたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません(4:14)」と言いました。けれども、今は、「再 び燃え立たせてください」と言っています。テモテは、牧会の他に伝道者としての賜物が与えられ ていました。第二の手紙 4 章には、「伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」とパウ ロはテモテに言っています(5 節)。神のみことばを宣べ伝え、教え、勧めていくのが、彼の務めで した。その賜物が、長老たちに按手を受けていたときに与えられていたのです。 テモテは、若くおとなしい性格の持ち主だったかもしれません。今、彼に会ったら、とても優しく愛 のある牧師で、皆が慕うような人かもしれません。けれども、いざとなった時、問題が起こったりす る時にその間違いをはっきりと指摘することができなかったのでしょう。パウロは、愛の持ち主であ り、かつはっきりと福音にあって偽教師に対峙しました。ガラテヤ書 2 章には、なんとペテロに対し て皆の前ではっきりとその過ちを指摘しました。割礼派の人たちがエルサレムから来たということ で、異邦人の食事の席から離れて、偽りの行動を取ってしまったのです。 テモテについては、エペソの教会で年長の者たちから軽んじられて、また違ったことを教えてい る者たちがいるのに、牧者としての権限によって、はっきり責めることに困難を感じていたことでし ょう。人々は彼を利用していたのでしょう。そして今、皇帝によるクリスチャン迫害が始まっており、 みことばを宣べ伝えるものなら、パウロのように命を落とすかもしれません。そして、アジヤにいる 人々はみな、パウロを離れています。その中でテモテは、その内が疲れ、おびえ、もう自分にはこ の務めを果たすことに消極的になっていたに違いありません。けれどもパウロは、「神の賜物を、 再び燃え立たせてください」と言っています。困難があって、もう用いるのをやめてしまった賜物は ありませんか?再び奮い立たせてください。 ですから、5 節でテモテに、ユダヤ人の母と祖母から聖書の教えを受けていたことも言及したの ではないかと思います。おそらくユダヤ人ではないということで、彼を軽んじ、反対する者がいたか もしれません。しかし、テモテは、使徒パウロと同じように、母親と祖母からしっかりとユダヤ人の 聖書を教えられており、みことばを教える素地ができているのです。そして預言によって、聖霊の 賜物が与えられていました。 7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。 これは、大きな励ましの言葉です。臆病なテモテに対して、「神が私たちに与えてくださったもの は、おくびょうの霊ではな」いと言います。私たちは、とかく間違いを指摘したりすることなく、何でも 受け入れることが優しさだと思ってしまいます。けれども、それは聖書の話している柔和さや優しさ ではありません。真理に立てば、その真理にかなう報いよりも、むしろ失望させられてしまうような ことが起こってしまいますから、真理に立つことを避けがちです。それが、「臆病」から来ているか らです。そういった恐れについては、聖書では信仰と相容れないことを教えています。「ヘブル 10:38-39「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばな い。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」そして、そういった恐 れは愛とも相容れないことを教えています。「1ヨハネ 4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐 れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとな っていないのです。」 しかし、神の下さった聖霊は、「力と愛と慎みとの霊」であるとします。ここが大事ですね、基本的 に日本人は、おくびょうの霊に縛られています。集団の中から外されること、自分が拒まれること、 そうした恐れによって自分を縛っている部分があります。しかし、聖霊は基本的に、「力」の霊なの です。福音とは何か?「ローマ 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギ リシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」そしてこうも言っています。 「1コリント 2:4-5 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわ れたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵 にささえられず、神の力にささえられるためでした。」力があり、権威があるんですね。説得するも のではありません。しかし、福音を語れば、聞いた者たちが神の前に出るかどうかの選択が迫ら れる力を持っています。 そしてその力については、これだけ強いことをパウロは話しています。「2コリント 10:4 私たちの 戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」これだけ 力があります。けれども知らなければいけないのは、それは自分の力ではなく、むしろ自分の弱さ の中に働く恵みの力です。「2コリント 12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですか ら、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」 そして、次に「愛」の霊です。神の力の現われは、私たちの考える力は、他の人々を従属させる ような否定的なものに捉えられますが、イエス様に働かれた聖霊は違いました。愛のうちに仕える 中で神の力が現れました。「ガラテヤ 5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召さ れたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」ここには 「力」という言葉は使われていませんが、自由の中に大胆に、力をもって動くことが含まれています。 しかし、それは自分の益のために用いるのではなく、愛をもって互いに仕えるために用います。 そして、「慎み」の霊ですね。これは、ある意味で抑制していく働きです。いざという時にこそ、信 仰によって大胆に踏み出す慎重さ、賢さのことを言うでしょう。教会においては、それぞれがキリス トの体の器官であること、私たちが一つになっていることを考える慎み深さが必要であることを教 えています。「ローマ 12:3-5 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言 います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのお のに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多 くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリス トにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 3A 恵みのご計画 8-12 1B 恥ずべきではない主の証し 8 8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけ ません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。 「主をあかしする」ということは、単に不信者に対して福音を語ることだけに留まりません。教会と して、キリストが主であることを告白していこと。また生活のあらゆる面で、この方を主としていくこ とも含まれます。それをすると、報われるよりも、かえって試みを受けたり、苦しみを受けたりしま す。そうした失望感も含めた「恥」であります。しかし、それを恥としないでくださいとお願します。 さらに、「主の囚人」とパウロが言っています。これは大事です、自分がそのような苦しみにあっ たことは、何か主の働きから退けられたかのような錯覚をしてしまいます。けれども、そうではあり ません。むしろ、そうした苦しみを受けるように主がしてくださったのです。パウロは、エペソの人た ちにも同じように、「主の囚人」という言葉を使いました(4:1)。そしてこうも言っています。「3:13 で すから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。 私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」 そして、「福音のために私と苦しみをともにしてください。」と言っています。私たちが福音の働き に加わっていて、困難を覚えます。その時にそれを共にするのです。そこから逃げたり、離れたり、 自分の今の世界を愛していなくなるのではなく、共にします。そこで大事なのは、御霊の力です。 自分ではできないのです、「神の力によって」と言っています。 2B イエス・キリストの命の現れ 9-12 9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによ るのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私た ちに永遠の昔に与えられたものであって、10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現わ れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに 示されました。 ここは深い慰めが与えられます。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召して」くださっ たというところが、始まりです。私たちは主によってこの働きをしていると思っていても、まるでこの 働きが悪いことをしているかのように、みなされ、責められます。しかし、これは「聖なる招き」なの だということです。それから、さらに大事なのは、「私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と 恵みとによる」ということです。自分の働きが妨げられているように感じる、その逆の力が感じる、 そのような時に思い出す必要があるのは、これは自分の働きではなく、神のご計画の中にあるも のなのだ、ということであります。そしてもう一つ大事なのは、「恵みとによる」ということです。自分 が神の恵みによって救われた。罪人のかしらである私が、この上もない寛容をもって救われ、そし て神の福音を伝える働きに入れられている。この恵みの真理から離れないということであります。 そうすれば、何かうまく行かないことが起こっても、それでもそこには神がおられるという信仰に立 つことができます。 そして、神の恵みの計画については、「キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ た」とありますね。このことによって、私たちは永遠の神に仕えていることを知ります。時間を超え たところにある神の恵みの計画が立てられています。ですから、自分自身がそのことを知るのはこ の世においてはできないかもしれません。この時間に制限されたところに、永遠の神が働かれて おり、その中に私たちが組み込まれたのです。 けれども、現れがあります。「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明ら かにされた」とありますね。私たちには、イエス・キリストの生きた証しを見ることができます。特に、 「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」とあるように、そ の復活によってこの地上に表してくださっています。私たちは、キリストの復活の証しを見ていく恵 みにあずかっています。人が復活の力によって新たに生きることを目撃できます。そして、復活は 将来の希望でもあり、パウロが死刑が近づいてもそれでも希望をもって生きることのできる、終わ りの日の復活です。 1:11 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。 パウロは大胆に、今、牢獄の中に入れられていても、神の恵みによる召しの自負を忘れていま せんでした。ところで、この牢獄は、ここではないかと思われているものがローマにあります。岩を くりぬいた穴、貯水槽の跡であり、かつては死体を投げ込むようなところであり、そして、穴から食 べ物を吊るされてくる、暗く、冷たく、閉鎖的な所でした。 1 「宣教者」というのは、福音を宣べ伝える、宣言する者という意味で使われています。福音は、基 本的に宣言するものです。説得するものではなく、福音はそのまま語るものであります。それから、 「使徒」は、あらゆる人々に福音を伝えるために神から遣わされた者です。十二使徒のように、イ エス・キリストの特別な権威が与えられ、そのまま神の言葉の権威を持っていた使徒職もあり、パ 1 マメルティヌスの牢獄 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%8 3%8C%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%89%A2%E7%8D%84 ウロはその一人でした。けれども、そうではなくて単に賜物として与えられたものもあります。それ から、「教師」ですね。主の教えを教えることです。これについては、この前の子供礼拝の教師会 で分かち合ったばかりです。神の真理について自分が知っているだろうか、という問いかけがまず 必要です。それから、相手の理解段階を見極めて、そこから話していく説明の力が必要です。 12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていませ ん。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたもの を、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。 これも励まされ、慰められる言葉です。苦しみに遭えば、失望します。けれども、パウロはこれは 神の優しい御心によってそうなっているのであって、決して恥じることではないと言っています。そ の信頼は、彼がこの方をよく知っているところから来ています。「その方は私のお任せしたものを、 かの日のために守ってくださることができる」と言っていますが、これは、自分の命そのもののこと でしょう。主に自分の命も明け渡したので、主が終わりの日に自分を復活させてくださることを知っ ていたのです。 4A 健全な教えの保持 13-18 そしてパウロは、テモテに対して第一の手紙と同じように、「ゆだねられた健全な教えを守りなさ い」という勧めを行ないます。 1B 信仰と愛、聖霊 13-14 13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさ い。14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。 第一の手紙にも、「ゆだねる」という言葉がありました。最後に、「テモテよ。ゆだねられたものを 守りなさい。(20 節)」とあります。「手本にしなさい」と言っていますが、そのままそのことばを真似 して保っていきなさい、ということです。これは、とても挑戦を受ける言葉です。自分の教えているこ とを見せていかないといけません。この教えは、一体どういうものなのかを自分の生活のあり方で 見せていかないといけないのです。そしてそれを受け取った人が今度は新しい人々に教えていき ます。そしてもちろん、出所は聖書です。主イエス・キリストのお姿、そして数々の聖徒たちを見て いき、そこにある健全な教えを手本にしていきます。 そしてここで大事なのは、「キリスト・イエスにある信仰と愛をもって」ということです。教条的に、 その教えを守っていけばよいものではありません。現実の生活の中で、目に見えなくともそれでも 信じるという信仰、生きた神学が必要なのです。事実、こうやって私たちが学んでいることが、生き て信仰の中で働いていくのかどうかを見ていく必要があります。それから、「愛」が必要ですね。信 じて生きていく時には、必ず愛という動機が働いていかないといけません。コリント第一 13 章です。 そしてヨハネ第一です、イエス様が言われたように、私たちを愛されたように、互いに愛します。 そしてパウロは、「あなたにゆだねられた良いもの」と言っています。自分にゆだねられたものが、 何か悪いものであるかのように、人々はみなします。自分の信じていることが、まるで良くないもの であるかのように、人々は中傷します。自分に気に入るものを提供してくれない時に、なんと愛が ないことか、なんと偏狭であるかと責め立てます。しかし、これらは良いものなのです。パウロは確 認しているのですね。そしてパウロは強調しています。「私たちのうちに宿る聖霊によって」と言っ ています。自分自身ではそれを守ることはできないのです、聖霊の助けによって初めて守ることが できます。だから、いつも聖霊の力を受ける必要があります。 2B 離れる者たちと、慰める者 15-18 15 あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フ ゲロとヘルモゲネがいます。 先ほどから話しているように、アジヤにいる人々はみな、パウロを離れていきました。人々は魅 力を感じなかったのでしょう。またあからさまに反対した人々もいました。パウロは名をあげていま すね。「フゲロとヘルモゲネ」と言っています。福音の働きをしている中で、不都合なことが起こって いる時に、自分たちの都合に合わせてくれないために去っていきます。そして去るだけでなく、そ れを一種の教えにして、いかにパウロの働きが間違っているかを説き、反対していきます。この手 紙の最後にも、「4:14 銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて 主が彼に報いられます。」と言っているんですね。こう言ったところに、果たしてそれぞれの人々が 信じていることが純粋だったのかどうかが、試されているのです。 16 オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また 私が鎖につながれていることを恥とも思わず、17 ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見 つけ出してくれたのです。18 ・・かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。・・彼 がエペソで、どれほど私に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。 オネシポロが彼のところにやってきました。おそらくエペソにいる執事でありました。パウロがエ ペソで働いていた時も、仕えてくれた人です。ローマにおいて、熱心にパウロの居場所を探しまし た。これは大変勇気のあることです。自分のいのちさえも危うくなります。それでも見つけてくれた のです。そして、このことがこの地上で報われなくても、かの日には報われますように、主が憐れ みを示してくださいますようにと祈っています。 このような形で、私たちは福音の中に生きる時に、困難なことがあっても、それでも苦しみを共に 分かち合うことの重要性を学びました。