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衣類の贈答品としての意義

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衣類の贈答品としての意義
衣類の贈答品としての意義
−民俗学における贈答研究ノート−
竹 本 康 博
1
わが国では、「つきあい」関係にあるもの、またはそれを結ぼうとするものが、品物を
贈り、受けたものが返礼に品物を贈ることとしての贈答の習俗が広く認められる。贈
答は年中の節日や、冠婚葬祭の祝儀不祝儀などに際して行われて来た。またその際
に使用される品物を見ると、赤飯・餅などの食物であったり、衣類であったりあるいは
金銭であったりと、それはさまざまである。祝儀の場合、それらの贈り物には水引をか
け、熨斗(のし)を添えることが多いが、それはもと細い注連縄(しめなわ)をかけ、あ
わびを添えた名残りであったといわれている。また贈り物をする容器はホカイ、ハンダ
イなどと呼ばれて、特別のものが使用されるところもある。そして贈り物を受ければ、
そのお返しをするというのも普通であり、マッチや豆などを返礼のしるしとして容器に
残すことも広く行われてきた。お返しをしないことは「つきあい」が悪いことと非難され
ることもあった。贈答は、訪問・挨拶とともに「つきあい」の表現となっている。
こうしたわが国における「つきあい」や贈答の習俗を最初に研究し、その意義を明ら
かにしたのは柳田国男である。柳田は、「つきあい」の一つの表現である贈答の習俗
を丹念に比較したうえで、贈答が食物を基本としていることに注目し、それが神への
供物であり、また、神と人々とが共食(共同飲食)することに贈答本来の意義があると
考えた(1)。この考えをうけて、民俗学者による贈答に関する資料の収集(2)や、特定
の機会についての贈答品などの検討が行われてきた。例えば倉田一郎は、各地の年
玉(3)や香奠(4)を比較検討して、それらはいずれも本来、共食すべき米であったと説
いている。また有賀喜左衛門は、近世からの家の忘備録に記載されている結婚式と
葬式の贈答品を分析して、それが米や野菜などの自家生産品から金銭へと変遷した
ことを明らかにした(5)。あるいは井之口章次のように、共食が贈答習俗の一つの母
体であることを認めながらも、「すべての贈答が共食から出たとは考えにくい。」として、
「霊的・呪的立場」から贈答の意義を①霊の奉献、②霊の分割分与、⑧喜捨、④霊の
補強、⑤共食、⑥交換条件のそれぞれとして理解しようとする試みもみられる(6)。し
かし贈答ないし交際を問題としている多くの民俗学者は、その基盤となっている社会
関係(7)や村落構造(8)に論及する者はあっても、贈答に関しては基本的に柳田の考
えに依拠している。柳田の考えは通説化し、「民俗学の常識」となっているのである。
この通説は、福田アジオも指摘している(9)ように、必ずしも充分に検証された訳で
はない。本稿の課題とする贈答品の問題一つとり上げてみても、先に少し触れたよう
に従来の研究はおおむね共食すべき食物に限られていた。実際には、古くより食物
以外のさまざまな品物も広く贈答に使用されてきたと思われる。あるいはまた今日の
贈答品の多種多様性は、時代の推移にともなう商品化、簡略化の結果生じたとする
解釈(10)が行われている。このことは歴史的事実として認められる場合もあったようだ
が、むしろ贈答品は共食すべき食物であったとする柳田の一義的見解に固執し、また
その点から推察された場合であるといえる。そして多くの者は、直接に論述しないま
でもその解釈にほぼ同意しているかのようである(11)。
さて本稿では、さまざまな贈答の機会について、その贈答品を各地の資料に基づき、
まず明らかにする。そこではこれまで取り上げられることの少なかった食物以外の贈
答品に注目したい。そのうえで、食物以外の贈答品の性格や、それが贈答に使用さ
れることの意義を若干考えてみたい。ところでこれまでの民俗学で、食物を主とする
贈答品に関して収集・整理された資料に比べれば、食物以外の資料は量において少
なく、そのうえ断片的である。そのことは、通説に固執する限り当然といえる。しかし現
時点では、そのような資料に少なからず基づかざるを得ない。その点において本稿は、
幾分制約される。また紙幅の都合上、日本各地の資料を多数載せることができない
ことをあらかじめ断っておきたい。
2
ここでは贈答習俗に関するいくつかの事例を紹介する。各事例は、主として贈答の
機会ごとに贈答品や贈与者を列記するかたちで記述した。
<事例 1> 神奈川県大和市(12)及び東京都町田市(13)
大和市と町田市は隣接した市であって、贈答慣行に類似がみられる。ここでは、両
市の贈答慣行をあわせて紹介する。
1 帯祝−妊娠して五力月目の戌の日に、妊婦が腹に帯を巻く。このとき双方(聟方・嫁
方)のオヤブンとジルイからは紅白のさらし帯、オヤモト(嫁の実家)からは紅・白・黄
の三種の帯が贈られてくる。帯は七尺三寸五分の長さであり、円形に巻いて水引を
かけ、スルメ1しばりとカツブシ1箱とシラガと呼ぶ白い麻を半紙に包んだものを贈っ
てくる(町田)。
2 ションべンギモノ−生児が初めて着る物をションべンギモノ(小便着物)と呼び、オヤ
モトから贈ってきたふだん着である(町田)。
3 力米−嫁のオヤモトでは、娘が出産したと聞くとすぐに、チカラゴメと称して二升の米
とカツブシをそえて届けにいく。米袋はちがった柄模様の布を縦に縫いあわせて作っ
た新しいものを用いる(町田)。
4 ミツメの祝い−児が生まれて三日目の祝いをミツメの祝いとよぶ。オハギは必ず作
る。オハギは嫁の実家、両仲人、トリアゲバアサン、ジシンルイなどに配る。贈物を受
けた家では、お返しの重箱の中にウブイワイといって小豆を入れる(町田)。
5 産見舞−出産後二∼三日目に、近所や組合の人達が、砂糖、菓子、干瓢(かんぴょ
う)、カツブシなどを持って産見舞に来る。またミツメの祝いが過ぎてオビアケまでの間
に、嫁の里の親と仲人とが、ネネダキとかボコダキといって生児を見に訪れる。このと
き産着として麻の葉柄の着物、袖なし、じばん、おむつを持ってくる。家によってはオ
ビアケのときに生児が着る紋付の着物とか、ふだん着るヒックルミなどを贈ってくる
(町田)。
6 お七夜−出産後の七日目の夜をオヒチヤとよび祝宴が開かれる。嫁の里の親、双
方の仲人、トリアゲバアサン、ジシンルイなどが招かれる。招かれた人は米 1 升にナ
マグサ代として少々の金銭を包んでくる(町田)。
7 産忌明け−男児の場合は 31 日目、女児の場合は 33 日目で、この日をオビアケ、
ウブイミアケなどとよぶ。この日には生児が盛装して氏神などに参る.生児にとっては
氏子入りを意味している。子供が生まれると、嫁の実家、仲人、嫁ぎ先の本・分家な
どからはカケギモン(掛着物)という晴着が贈られてくるが、これをオビアケの祝いとい
う。男児にはノシメといって羽二重の紋付、女児には縮緬(ちりめん)の重ね模様の着
物である。その他、仲人その他からも贈られてくるので、多い家では五枚を越えること
があるが、生児が着ける以外の着物は、隣近所の子供の肩にかけてもらって神様へ
参る。宮参りが終わると着物を贈ってくれた人々を招いてごちそうし、おみやげとして
赤飯、そば、スルメ、カツブシを贈る(町田)。
8 初正月−子供が初めての正月を迎えると、初生児の場合は初正月の祝いをする。
嫁の里、仲人、ジシンルイから男子には破魔弓、女子には羽子板を贈ってくる(町田)。
9 初節供(3 月)−女の子の初節供には嫁の里から内裏雛を贈ってくる。仲人や親類
からも贈ってくる。贈物の返しとしては菱餅や赤飯、そばであった(町田)。
10 初節供(5 月)−男の子の初節供には嫁の里から鯉のぼりとか吹き流しを贈ってき
た。このお返しとしては赤飯、かしわ餅、干し鱈(たら)、そばなどである(町田)。
11 初誕生祝−初誕生日をムカエヅキという。嫁の実家の親や仲人、ジシンルイを招
いて祝いをする。招かれた者は、ダイといって半紙二帖を一締として、その上に祝儀
袋をのせて出す(町田)。
12 疱瘡祝−生まれて一年ぐらいたった子供には疱瘡(ほうそう)をうえていた。一週間
か 10 日後にホウソウイワイをした。初生児のときには、ほうそう見舞いといって嫁の
実家からは赤い菓子折り、隣近所からは五銭ぐらいを見舞いとしてくれた。もらった家
ではクジブタといって大豆をいって皮をむき、粳米とともにふかしたものを配った(町
田)。
13 捨て児−父親が 42 歳の厄年に生まれた児はシジュウニノフタツゴといい、母親が
19 歳か 33 歳の厄年に生まれた児をヤクッコ(厄っ児)という。いずれも育ちが悪いと
いうので、捨て児をして他人に拾ってもらうまじないがあった。あらかじめ近隣の人な
どに頼んでおいて拾ってもらうのであるが、その拾った人をヒロイオヤという。児の親
は児を拾ってくれたヒロイオヤにコクミ(穀箕)を贈る(町田)。
14 帯解き祝−三歳の祝いには嫁の実家より三つ身の着物を贈ってきた。七歳の祝い
はナナツノイワイとかオビトキイワイという。これまでヒトッコ帯といって一本の付け紐
の着物をつけていたのを、サンジャクといって三尺帯をしめることになる。戦前には、
嫁の実家からは木綿の柄物の着物が贈られてきた。仲人からも麻草履・駒下駄が贈
られてきたし、親類の者は金銭とか反物を贈ってきた。お返しとしては餅に赤飯、神酒、
そばなどであった(町田)。
以上は町田市における妊娠から七歳の帯解き祝までの贈答慣行である。大和市に
おけるそれらについては、p12・表 1(14)に見る通りである。
次に産育以外の機会における両市の贈答慣行を列記しよう。
15 クチガタメ−結婚話に賛同したときに行われる儀祝である。ハシカケによって双方
の承諾をとったとき、ハシカケが酒・肴をたずさえて娘方にいき、そこで結婚の約束の
できたことを確認する意味の飲食をする(大和・町田)。
16 タルイレ−イイノウともいう。この日には、オヤブン夫婦、ハシカケ、ジルイの代表
が嫁方へいく。聟側より持参する結納品はヤナギダル、コンブ、スルメ、カツブシ、シ
ラガ(麻)、ナガノシ、帯代、結納金である。嫁方では聟方へ袴代と称する金銭を贈る
(大和・町田)。
17 ハナビキ・ツギメ−祝言の日か翌日に花嫁がジミョウの代表の主婦につれられて
講中・組合・親類などをあいさつにまわる。このとき少量の茶と半紙を持参する。聟の
場合には、扇子代として少量の金銭である(大和・町田)。
18 アトザシキ−祝言のときに招くことのできなかった人や、隣組などで手伝ってくれた
人を、祝言の後日招いてごちそうする。お礼としてクチトリとよぶ品を贈るが、それは
折箱に羊かん、きんとんなどを入れたもので、カツブシをそえる(町田)。
19 里帰り−祝言から 3 日目ないしは 5 日目に、嫁・聟・聟の両親とオヤブンまたはハ
シカケが連れ立って嫁の実家に行く。赤餅、樽代、カツブシなどを持参する。このとき
に、オヤブンにお礼の金銭を贈る(町田)。
20 嫁の初節供−結婚後最初の節供である。3 月の初節供には嫁の実家から雛人形、
嫁の小袖が贈られる。5 月の初節供にはカヤと嫁・聟のショウブ着が嫁の実家より贈
られる(大和)。3 月の初節供には嫁は菱形の餅と蛤を持って実家に行く。このとき双
方のオヤブンやハシカケのところへも餅をもって行く(町田)。
21 ナノカビ−嫁入後のはじめての盆の 8 月 7 日に、嫁は聟とともに実家に帰る。ソウ
メンを土産とする。またヨメカタビラといって単衣の着物や浴衣 1 枚かを、姑が買って
縫ってくれるので、それを持って里帰りする(町田)。
22 ナツアガリ・アキアガリ−嫁は 7 月 15 日のナツアガリと 11 月 15 日のアキアガリに
里帰りする。聟方では赤飯に砂糖をそえて持ち帰らせる(町田)。
23 香奠(こうでん)−香奠は講中とか組合の者では金銭と米をあわせて持っていく。
香奠帳をみると明治初年には金 10 銭に米 2 升ときまっていたようだが、親類からはム
シモノといって赤飯を 1 駄、つまり米二升分をハンダイに盛り車にのせて贈った(町
田)。子供や世話になった人が、おこわをハンダイに入れて贈る(大和)。
24 四十九日−死亡後の 49 日目にはイハイワケ(位牌分け)とか形見分けを行う。49
日目に死者と関係ある親子、兄弟、おじ、おばなどに 1 人ずつ紙の位牌を配る。この
とき、死者の着物 1 枚が形見として分けられる。戦後はさらしとか反物にする家が多く
なった。また、シジュウクノモチといって餅をつき、4 とか 6 とかの偶数の餅をいっしょに
贈る(町田)。
25 新盆−死者のはじめての盆には、ソウメンなどとともに親戚がカケブクロを贈る(大
和)。
26 餅つき−暮の餅つきのときに、アンコモチといって最後の臼でついた餅にあんをま
ぶして食べるが、これは近所へも贈ったりした(町田)。
27 年始回り−年始の挨拶に親類を回った。菓子折、手拭、半紙などをお年玉とした
(町田)。
28 ヤブイリ−1 月と 8 月の 16 日がヤブイリであった。サクオトコ(作男)などの奉公人
がいる家では、それに新しい着物をつけさせ、小遣銭を与え、実家へ帰らせた(町田)。
29 出替り−3 月 2 日は奉公人が年季奉公を終えて家に帰る日で、デガワリという。主
人は奉公人に袷(あわせ)の着物を新調してやり、小遣銭を与える(町田)。
30 セイトヤキ−1 月 14 日の夕方にセイト焼きを行う。楢(なら)の木の枝に団子を 3 個
さしてもって行き、他の人々と交換して食べる(大和)。
31 ススハライ−暮に家の掃除をする。このとき神棚には麻の手拭鮭を吊り下げた。そ
れらの品は嫁に行った者が贈ってくる(大和)。
32 フシン見舞−家屋の屋根替にはジルイや組合が手伝った。そのとき縄を贈る。豆
腐、酒、こんにゃくなども贈られた(大和・町田)。
33 病気見舞−病人を見舞うときには、卵や菓子をもっていった。近年では金銭も多い
(大和)。
以上、大和市と町田市におけるさまざまな贈答の機会、贈答品などを列記してきた。
それらをみると、従来指摘されてきた様に、米、赤飯、餅などの食物が贈答品として
用いられていることがわかる(3、4、5、6、7、9、10、12、14、15、16、17、18、20、21、22、
23、24、25、26、27、30、31、32、33)。食物は贈答のほとんどの機会に利用されている
といえる。しかし食物以外の贈答品もみられる。それは金銭、雛人形、鯉のぼり、破
魔弓、羽子板、コクミ、半紙、紙の位牌、縄、下駄、帯、着物などである。なかでも下駄、
帯、着物などの身につける物は、食物と同様、多くの機会において贈答品として利用
されている(1、2、5、7、14、16、20、21、24、28、29)。そしてその機会は、帯祝、生児の
初めての着服(ションべンギモノ)、産見舞、産忌明け、3 歳の帯解き祝、結婚、嫁の
初節供、葬式の形見分け、ヤブイリである。
<事例 2> 滋賀県野洲郡野洲町南桜(15)
南桜における贈答の慣行を整理したものがp13・表 2(16)である。
表 2 によると、南桜でもやはりさまざまな機会において米や餅などの食物が贈答品と
して広く用いられている。しかし妊娠、出産、十酒、オバフンドシ、十三酒、入学祝、元
服、結婚、ホンケ祝い、マスカケ祝いなどの通過儀礼として分類される機会には、子
供の衣類、赤ふんどし、下着、紋付、赤コシマキ、赤デンチ(肩かけのような衣類)など
の身につける物、衣類が贈答品として利用されていることがわかる。そしてそれらの
贈答者は、嫁の実家や母方のオバ、シンルイなどいわば身近な者である。
<事例 1>・<事例 2>の検討の結果、さまざまな品物が贈答品として利用されてきてい
るということが示されたが、なかでも衣類の贈答は食物と同様多くの機会で行われて
いる。この点をさらに明らかにするため、わが国各地で、衣類が贈答品として利用さ
れている例を<事例 3>としていくつか紹介してみよう。
<事例 3>各地の事例(17)
オビモライー初産の 5 力月目に、嫁の里方へ帯を貰いに行く。通知の為らしく使者は
多く姑で、饗応があって、媒酌人をも招く。紅白の岩田帯は吉日を見て里方から持参
する(安房)。
オビイハヒ−嫁の里、近親から白と赤、又は黄と赤の布を 7 尺 5 寸 3 分に、米 1 升を
添えて送り、妊婦を祝う(信濃上伊那郡)。
テヌキ−出産後 3 日目に初めて赤子に着物を着せる作法があって、これをテヌキとい
う。初めて着物に手を通させる祝いの意である。又里で産をすると婚家から、その反
対だと里方からその日餅と共に肌着を贈る(肥後南関地方)。
テトホシ−里方から贈って来る産着をテトホシといい、袵(おくみ)がない衣のことであ
る(摂州飾磨郡)。初産の場合には七夜までに、里方から生児の襦袢から羽織に至る
まで一揃いの衣装を贈る風習であるが、此の内テトホシというのは襦袢と上衣のこと
であって、最下の贈物の場合でもこれだけは必ず贈る(石見)。
ミツカイシャウ−産れてから二日目に鉄漿付(かねつけ)親から着物を贈る。これを三
日衣裳といい、又手トホシともいう。此日初めて袖に手を通す(信濃上伊那郡)。
カンタレ−男子は 5 日目、女子は 7 日目にカンタレといって親戚を招き饗応する。招か
れた客は産衣、金銭などを贈る(肥前五島奥浦)。同島の日の島では「髪垂」とも又
「名付祝」ともいわれ、男児は 3 日日、女児は 5 日目に村一般から襁褓(むつき)を祝う
を例とする。
モライオヤ−産後 7 日目に「寺参」といって、早朝に母以外の人が子を抱いて寺に参
るが、その途中で、最初に行逢った人が男であっても、又は女であっても、イキエーゴ
(行逢児)として仮親にならなければならなかった。そして此の行逢児の親は、衣服を
こしらえてやらねばならない(薩摩下甑嶋)。
ショウブヒトエ−初児の場合五月節供に母の里から贈って来る着物をかくいう(駿河
志田郡)。
モモタテ−誕生日前の吉日に髪を刈るのであるが、其時中央に径 2、3 寸位の部分を
円く残す。これをムムタテという(沖縄八重山)。
ヒモオトシ−生児 4 歳の時帯を用い始める。母の里方から四つ身の着物を贈って来る
(播州加東郡)。男女児 3 歳の年の 10 月 15 日に母の里から贈られたる晴衣を着て、
産土神に詣でる。その後で親類を回る(岡山)。
カミオキイハヒ−3 歳の 11 月 15 日に「髪置祝」とて氏神に詣り、小豆飯を炊いて祝宴
を行う。布切、下駄などを贈物とする(肥後宇土郡)。
ナナツゴ−「紐解子」ともいって昔はこれを「帯直しの祝」ともいったという。多くは 11
月 15 日に行う。7 歳になる児を正座として式を行う。紐の無い衣を着せる(上総夷隅
郡)。
ヘコイハヒ−年に定めはないが、時機を見て実親以外にヘコ親を定める。ヘコ親は男
児にはふんどしを、女児にはへコ(腰巻)を祝ってくる(肥前鷹島)。
フンドシイワイ−男児 9 歳になると母の里からふんどしを祝ってくる(岡山地方)。
イモジイハイ−女児の場合は、7 歳の時に里から湯モジを贈って祝宴を張る(岡山地
方)。
ヲバクレフンドシ−15 歳の正月年始の時、母方の叔母からふんどしを祝ってくれる
(信濃上伊那北部)。
オチャオビ−朝聟入、即ち嫁入当日の聟入の際、聟の方から帯地を持って来る。そ
れを直ぐに仕立てて其夕の輿八れに着用することになっている(福岡県久留米地方)。
ヨメムスビ−嫁迎えには、御持物と称して男女の衣服をたたんだものを柳行李に入れ
て来る風がある。嫁方でも再びこれを心得ある者がたたみ直して持たせてやる(陸中
海岸地方)。
ムカヘゲタ−迎えに行く仲人夫婦が、下駄又は草履と足駄とを一足ずつ携えて行くが
それを「迎え下駄」という。
ヤクゴ−厄年祝に親類から米などとともに贈ってくる着物。祝宴の当夜に着て出るこ
とになっている(讃岐)。
イハヒコ−イハヒコは今は年祝いの時の着物をいい(備中)、特に還暦の祝いに近親
から贈るものに限るがごとく考えられているが(因幡)、それは此際の祝いが最も盛ん
であった為である。豊かな家では多くは普通の着用とせず、形見分けの用に残して置
くという。
イシャウヌヒ−亡者に着せる白経帷子や脚絆等や足袋等は、親族・親友が集まって
仕立てるのであって、これを衣裳縫いと称し、斎を饗し菓子を贈るという(会津若松)。
イロヌヒ−死者の白衣はいろ縫いと称して近所の女達が縫うのである(肥後玉名郡南
関町)
トヨモメン−凶事に際して嫁の生家や娘の嫁入先などから贈って来る白木綿。これで
死衣やゼンノ綱などを作るのである(讃岐三豊郡)。
以上、日本各地で、布や衣類などが贈答品として用いられる機会、あるいはその贈
答品の名称をいくつかみてきた。それらの事例の他にも、多くの例をあげることはでき
るが、本縞では紙幅の都合上割愛せざるをえない。ところで、これら衣類の贈答をみ
てみると<事例 1>・<事例 2>でも一部みられたように、妊娠の腹帯、出産前後の初着、
7 日目の衣類、氏子入りの宮参り着、15 歳前後の腰巻及びふんどし、結婚の帯や下
駄、年祝の着物と帽子、あるいは死者の白衣など、いわば人生の節々における儀礼
(通過儀礼)にともなって下駄なども含め衣類が贈られていることが明らかである。
3
2 のいくつかの事例で示されたように贈答品には、米、餅、赤飯、酒などの食物の
ほかに、布も含めて産着、ふんどし、赤い帽子などの衣類が盛んに利用されている。
そうして衣類が贈り物として利用される機会は、妊娠祝、出産祝、15 歳前後の成人祝、
結婚式、年忌祝あるいは葬式などの通過儀礼においてである。通過儀礼は、生理的
なこととは全く別に、例えば成人式を行うことによってそれまで子供と見なされていた
者が大人として社会的に認められるというような、ある範疇から別の範疇へ人が移行
することに伴う一連の儀礼である。衣類の贈答は通過儀礼に深く関連している。
ただ、事例でもみたように通過儀礼においても衣類以外に食物が多く贈答品として
使用されていることはある。しかし食物の贈答は、通過儀礼よりもむしろ生業段階に
対応した年中の神祭、年中行事に深く関連していたのではなかろうか。この点の検討
は本稿の課題ではないが、一応そのことも含めて贈答品を贈答の機会との関連とし
て整理しておくならば、次のようになろう。
次に衣類が、贈答品として使用される意義を少し考えてみよう。結論的に示せば、
一つには着用する者の社会的地位を示す代表的な表示物(18)である衣類を贈ること
によって、新しい地位や身分、あるいは状態に移行する者を社会的に承認することで
ある。この点に、衣類の贈答が通過儀礼に関連している意味がある。普通衣類の区
別は、男女の区別、幼年・少年・青年・壮年・老年、あるいはさまざまな地位・身分・役
職等の区別と対応している。このことは衣類が単に防寒・防護などの実用的な機能を
備えているだけではなく、非実用的な象徴的特性をも備えていることを示す。その衣
類が贈られるということは、同時に象徴的特性をも含めて贈るということにほかならな
い。例えばオバクレフンドシの例を検討してみよう。オバクレフンドシは、男子が 15 歳
ぐらいになると、そのオバがフンドシを贈る儀礼である。フンドシは確かに防寒・防護
の機能も備えているが、わが国ではそれは大人の印にも考えられている。他者によっ
て大人の印が贈られることは、それを受けとる者が大人として社会的に承認されるこ
とである。こうした贈答の意義は、単に衣類だけではなく、広く身につけるものとしての
オハグロやイレズミなどの身体装飾あるいは装身具の意義についても考慮されよう。
今一つは、衣類の贈答についての霊的・呪的意義である。それは、友好的な他者、
もしくは霊的優位にある他者の霊魂のついた衣類を着用することによって、異なる範
疇に移行しようとする、過渡的段階での不安定な人の霊魂を鎮めることである。未開
社会の例(19)をもってするまでもなく、他者によって作られた衣類や他者の衣類には、
その人の霊がついているとする観念は、わが国においても認められる。また沖縄諸
島にみられるオナリ神信仰(20)は、霊的優位にある姉妹(オナリ)が航海や旅行など
にある兄弟を、姉妹みずからが織った布、ことに手拭、あるいはその毛髪を贈ること
によって守護するという信仰である。それらの観念や信仰は、衣類の贈答の霊的・呪
的意義を考えるうえで示唆的である。すなわち親族などの身近な者が衣類を贈ること
は、衣類に自己の優位した霊、健全な霊をつけて「分割分与」(21)することであり、そ
のことによって過渡的段階にある相手の不安定な霊は守護され「補強」される。そして
人は安定した状態に入ることができる。
以上、衣類が贈答品として使用される意義を少し考えてみた。それは社会的承認と
鎮魂とであった。これらの点は、今後も具体的な資料に則して、さらに検討したいと思
う。
注(参考文献)
(1)柳田国男『食物と心臓』1940。
(2)山口貞夫「贈答」(柳田編『山村生活の研究』1937、所収)、橋浦泰雄「贈答」(柳
田編『海村生活の研究』1949、所収)等。
(3)倉田一郎「年玉考」(民間伝承 8-9、1943)。
(4)倉田一郎「香典の今昔」(民間伝承 10-8、1944)
(5)有賀喜左衛門「不幸音信帳から見た村の生活−信州上伊那郡朝日村を中心として−」
(『村落生活』1948)。
(6)井之口章次「贈答の意義」(西効民俗 29、30、1939)。その要点は『日本の俗信』
1975 に紹介されている。本稿は後者によった。
(7)和歌森太郎『日本人の交際』1953、23∼53 頁。和歌森にはほぼ同様の内容の論文が
他にもいくつかある。例えば「村の制度と倫理」(『郷土研究講座 5 社会生活』1968、
所収)である。河上一雄「贈与の社会的性格−特に葬儀をめぐって−」(西効民俗 29、30、
1939)等。
(8)坪井(郷田)洋文「交際と贈答」(『日本民俗学大系』4、1959、所収)。坪井は交
際の諸形態を同族制村落と非同族制村落で明らかにしている。
(9)福田アジオ「村落組織」(福田他編『民俗研究ハンドブック』1978)58 頁。
(10)和歌森太郎前掲『日本人の交際』55∼56 頁。
(11)坪井洋文前掲論文、有賀喜左衛門前掲論文等。あるいは、最上孝敬は、葬礼の贈り
物を 葬儀執行のため必要な様々な物の調達を扶けるための贈り物−死者の衣料、火葬のた
めの燃料など、 死者あるいは葬家の人々との協力関係を強めるための共同飲食の資料を供
するもの、 単なる葬儀執行の必要以上に葬儀を盛大にし、葬家の勢力の盛んなことを誇示
しようとするものの 3 タイプに分けているにもかかわらず、 の点に関しては、特別説明を
要しない、ただこの際の贈与が種々雑多な目的をもっていることを注意すればよいとだけ
述べている。「葬礼と贈答」(西効民俗 29、30、1939)。このように贈り物の多様性を示
しながら、その意義を明らかにしていない場合もある。
(12)筆者の参加した共同調査、1980。
(13)坪井洋文「民俗」(『町田市史』下)1976。事例は本書より引用させていただいた。
(14)野村みつる「赤飯と贈答−神奈川県大和市の事例−」(女性と経験 5、1980)。赤
飯の贈答について興味深い報告である。
(15)南桜の贈答慣行については、その贈答の基礎となる社会関係の分析も含め、筆者は
いくつか報告している。拙稿「贈答と社会組織−南桜の K 家の事例−」、「南桜の贈答慣
行」、
「南桜の家屋建築をめぐる交際」
(近江村落社会の研究 2、3、4、1977、1978、1979)。
(16)拙稿「南桜の贈答慣行」(近江村落社会の研究 3、1978)55∼56 頁。
(17)柳田国男編『服装習俗語彙』1940、柳田国男・橋浦泰堆『産育習俗語彙』1935、柳
田国男・大間知篤三『婚姻習俗語彙』1937、柳田国男『葬送習俗語彙』1937、柳田国男『族
制語彙』1943。
(18)清水昭俊「生活の諸相」(石川栄吉編『現代文化人類学』)1978、68 頁。
(19)大給近達「衣」(祖父江孝男・米山俊直・野口武徳編『文化人類学事典』)1977、
51 頁等。
(20)馬淵東一「姉妹の霊的優越」等(『馬淵東一著作集』3)1974。
(21)井之口章次、前掲書、123 頁。
表1
産育と贈答
表2
南桜の贈答慣行
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