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M Cー)

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M Cー)
・M・シング論
D ﹁
︵
菅
幸
で、彼の戯曲の果した意味を探究することは、近代市民社
と、同様の意義をもっている。アイルランド演劇運動の中
アイルランド演劇史の中で最も著名な役割をになったの
までもない。それはあたかも、アベイ座が今世紀の間に、
九一〇年までのわずか七年の間に集中されている。
があるのみである。そしてこの仕事は、一九〇三年から一
には二つの一幕もの﹁海へ騎りゆく人々﹂及び﹁谷の影﹂
る。 ﹁鋳掛屋の婚礼﹂は二幕の中篇戯曲であり、このほか
のみであり、この中﹁悲しみのデアドラ﹂は未改訂であ
に対するシングの態度と、目的とを、部分的にではある
一九〇七年に書かれた﹁鋳掛屋の婚礼﹂の序文は、演劇
が、文書の形にまとめて示している。そして、同じ年の
て、彼は言語についていくつかの指摘を行っている。これ
より早い時期に書かれた﹁西国の伊達男﹂の序文におい
いことにする。この小論では、直接的な文学的な評価が、
それ自らの意味と、より大なる研究への、必要な基礎的な
きの適切な材料を提供してくれるが、この小論ではふれな
が可能であるかということを、われわれが学ばんとすると
﹁聖者の泉﹂ ﹁西国の伊達男﹂ ﹁悲しみのデアドラ﹂−1
シングの戯曲は少い。それはわずかに三つの長篇戯曲ー
しぼりたいと思うo
シングの戯曲の文学的な評価ということに、問題の焦点を
雄
会が生んだ文明の中で、演劇がどういう位置を占めること
で、最も非凡な作家の一人であることは、ここで力説する
J・M・シングが、今世紀、英語を使用した劇作家の中
井
仕事であるという二つのモメントをもっていることから、
92
J
ら、さらに貴重なものとなる。第一の理由は、それがシン
らの良く知られている価値ある一節は、次の二つの理由か
劇である。それは道徳的な注意を喚起するという意味で、
が自然主義者のそれであるようにみえようとも、課刺的喜
いないものだと思うがllは、チェーホフに比較すること
えるところでは、少くともシングの戯曲中、最も成功して
が可能であり、チェーホフと同じ種類の問題を提示してい
真の自然主義者のものではない。 ﹁聖者の泉﹂ー僕の考
る。︵註1︶
という重要な点からいえるのである。この点は大多数の近
直接的に表示しているのである。第二は、︵これは第一の
代劇の本質だと考えられている点であり、シングはこれを
シングの戯曲にみられるこの多様性は、充分検討されな
グの戯曲の主成分の中に、芸術性をもって表現されている
シングについての評価を最終的に決定する際にどうしても
ければならない。非常に短期間のうちに、劇作家が新しい
理由より、より重要な理由であるが︶、 このエッセイが、
必要になるところの、ドラマと言語の、複雑な関係を明ら
ういう事情を除外しても、この多様性は考慮される必要が
方法を発見するということは大いにあり得るわけだが、そ
この三つの、分類することが可能な、シングのそれぞれ
93
かに示しているという点であるQ
たのであるし、最後の戯曲は彼が三八歳のとき制作された
ある。事実シングは、彼が三二歳のとき最初の戯曲を書い
して﹁海へ騎りゆく人々﹂ ﹁悲しみのデアドラ﹂に分類さ
の断面は、それらの言語の中に特徴を見出すことができ
のである。
れている。僕はこの分類が十分であり、われわれの研究の
んがために、死ぬふりをする年老いた夫のエピソードが中
らにとりあげられている。それは、都会に育った人々にと
ってもいいと思う。 ﹁谷の影﹂には、若い妻をワナにかけ
る。そしてこのことが、シングの戯曲の特殊性であるとい
っては、あいまい模糊としているものであるかも知れない
が、大多数の農村においては、非常に普遍的にみられると
は、連続せるファースである。 ﹁海へ騎りゆく人々﹂は根
のフランス的意味における、シリアスな戯曲であり、要素
本的要素が悲劇的断片である。 ﹁西国の伊達男﹂は、言葉
作品ども特別な種類の喜劇であり、それらの実質的要素
と﹁鋳掛屋の婚礼﹂は非常に単純な戯曲であり、そして二
道標になり得るということには同意できない。 ﹁谷の影﹂
﹁鋳掛屋の婚礼﹂ ﹁聖者の泉﹂ ﹁西国の伊達男﹂、悲劇と
、シングの戯曲は、あるときは、喜劇として﹁谷の影﹂
(皿)
ころのものであるαそしてこれはアイルランドにのみみら
れる現象ではない。われわれは、イングランドの初期の宗
教劇ω78げ①aげ℃﹁爵の中にも、同じような特徴を発見す
ることができる。このために、シングの中に密着している
ぎないという風に感じられるのである。
文章中にみられる異教徒的なユーモアは、些細な誇張にす
ノーラ︵ウイスキーを少しついでやりながら︶何でおらがおめ
皮でもむけそうになってやがうて⋮⋮
︵中略︶
ダンがはげしくくしゐ、みをする。マイクルは戸口のとこ
ろへ行こうとするが、その前に、ダンが、奇妙な白布を
まとい例の棒をにぎってベッドから飛び出し、そこへ行
って背中で戸口をふさいでしまう。
を横切ってあとずさりする︶
マイクル 神よおらたちを救いたまえ! ︵十字を切り、部屋
この部分だけをとりだしてみても、単純に民衆の笑いを
えと婚礼するだね? マイクル・ダーラ。おめえもだんだん
よ、ちよこっとするうちにア、いいだかね、おめえだって寝
年とってくだろうし、おらもだんだん年とってくだろうし
いるか、ということが分る。シングのファースは、文学と
な、歯はなくなっちまって、いうこたア荒っぽい口ききやが
アイルランド農民の話し言葉の記録の上に基礎をおいてい
彼自身もわれわれに語っている如く、シングの言語は、
発見したことが、シングの最初の業績である。
このことを可能ならしめるOo巴ヨロロ詳団ohΦ図bおωの凶8を
いっても、不十分なものに見えはしないということである。
さを包含しているときには、それは批評的観点からだけで
言語というものがテーマに即応した文学的な正確さと複雑
有機的に、作品のテーマに関連しているときには、さらに
作品が単純な形態をとっていても、作品を構成する言語が
して読むに耐えるのである。ここではっきりすることは、
獲得するだろうところの、風俗描写から、どれだけ際立って
ー顔はぶるぶるふるえるだし、歯はぬけ落ちぢまうだし、白
床の上に起きなおってさーこいつが坐ってたみてえによー
しら
が
髪ア四方八方にささくれ立って、ひつじが跳んでぬけてくや
ぶだたみみてえになっちまうだろうによ。
ダン・バークが手を顔に当てたまま音もなくシーツの下
から起きあがる。彼の白髪は頭全体にささくれ立ってい
る。
ノーラ︵気がつかずにゆっくりと続ける︶年イとってくって
な、あわれなもんだが、けどまた妙なもんでもあるだな、確
って、そいであごってったら、戸板アつくるぐれえの樫板の
かに。じじいがな、あそこでてめえの寝床に起ぎなおって
94
り、戯曲の本質に適した言葉で工夫するという、プロセス
るσしかしそれはあくまでも文学的に成就されたものであ
していることで、たとえばメアリー・バーンの次のせりふ
曲を弱めているのは、自然主義者のステLトメントが浸透
は、ノーラ・バークの場合と同じ種類である。だがこの戯
んだからね。
が落だろうが、そんな事までする因縁が、私達にはなかった
り、革紐の滑るのを、無理遣りに引張って、手を切るくらい
事をすりゃ、櫨馬を梶棒から外したり、又雨空の下を歩き廻
て本当かい?1その上指輪を嵌めるんだそうだが、そんな
いような誓いを立てたりなんかしてさ1誓いまで立てるっ
だよ。私達は教会へのこのこ上って行って、誰も本気にしな
ヘ ヨ ヨ へ
ら道中稼ぎをやってる者に、ちよっかいを出したのが間違い
も息子もその又息子も、母親も娘もその又娘も、先祖代々か
御愁傷さまだとは思ってるんだけれど、私達のように、父親
ら、そこは安心してるがいいさ、私達はお前さんを虐めて、
メアリi 私達はお前さんに怪我をさせようとは言やしないか
などはその好例であるQ
を経て出来上ったものである。それは明らかに、豊かな生
き生きとした言葉であり、その目的が再現的であるという
貴重なものである。
意味で、さらに戯曲の雰囲気と調和しているという意味で、
この戯曲における放浪者の形象はたしかに重要である。
われわれはこの放浪者の中に、自然の変化と同一の、閉鎖
ということの再表現を、見ることができる。たとえば次の
された社会に基礎づけられた人生の奇妙な満足を容認する
せりふなどはその好例である。
浮浪人 ﹁神さまのお恵みでみごとなタ方だア﹂っておめえ、い
いたくなる時もありゃ、 ﹁おっとろしい晩だ、神さまお救い
下せえ、けんどこれもどうで過ぎてかア﹂っていう時もある
だアね。
﹁鋳掛屋の婚礼﹂における、盗みを働いた鋳掛屋と傭わ
の、叙述的な暴露についての、シングの強烈な自己意識で
この例で示すように、これは言葉で強めているところ
ているのである。何故ならば、シングは彼の言語をドラマ
あり、それは強烈なあまりドラマトゥルギーからはみ出し
れものの僧侶との間の喜劇は、それが劇的にどのくらい濃
の影﹂と比較することができよう。鋳掛屋の娘の、結婚
縮されており、どのくらい緊張度が高いかという点で、﹁谷
とすばらしい若者と一緒の素敵な人生に対する複雑な欲望
95
ティックに使用するという点では十分でなかったからであ
り、むしろ彼は、劇のせりふに香り智くo霞︵註2︶を加味
することに、それを使用したのであったからである。
︵駐1︶ それは恐らく、 ﹁桜の園﹂と比較することができようしbこの比較から
われわれはシングとチェーホフとの相関性を知ることができようo
︵註2︶ シングは前述した﹁西国の伊達男﹂の序丈で、次のようにいフている。
たましい たましい
も、お恵みを垂れさせ給へ。また私の魂にも、ノーラにも、
だ。全能の神様、バートレイの霊魂にもマイケルの霊魂に
にましい
も、セエマスとパッチとスティーヴンとショーンとの霊魂に
へ。
この世に生き残った凡ゆるものの魂に、お恵みを垂れさせ給
マイケルは全能の神様のお恵みで、遠い北の方で、立派にお
︵中略︶
くって貰い、きっと深い墓穴を掘って貰うだろう。私達はそ
葬式をして貰った。バートレイは、あの白板で立派な棺をつ
つまでも生きてる訳には行かない。だから私達は諦めが大切
れ以上に、どんな願いがあるのだろう? 誰にしたって、い
なんだ。
である。しかしその犠牲の享受は、全面的ではない。ある
﹁海へ騎り行く人々﹂においては、人々は単純な犠牲者
剛昌口。o亀ooα”﹃鴇oく①蔓゜︻b①①o﹃070巳島げ⑦pロ7︻巳ぐ、、ΩくO塞マ恥“器 Ω。昌暮
O︻山や﹄¢
の、島の人々の生活の中で、彼が発見したいろいろの現象
﹁海へ騎りゆく人々﹂は、シングが住んでいたところ
から抽出した、悲劇である。それは局限された平面、すな
わち人々と海との闘争の不可避性、人々の敗亡の不可避性
という次元の上で展開される。モーリャの息子の最後の一
人が、海へ落ちて死んだとき、彼女はこうつぶやくのであ
においては、海は人間に対立するものとして、一つの登場
面からいえば、疲れはてた放棄としかみえない。この戯曲
な意味で、ナチュラルなものである。
る。
人物である。 ︵註3︶人間は、この自然存在の単純な練習
上、私にどうする事も出来やしない。
生ぎ生きとしている点で、どれほど峻捌されようとも、仕
自然主義の常識的な枠から、シングの戯曲が、その語法の
の材料にしかすぎない。悲劇はその言葉のもつ最も常識的
︵中略︶
モーリャ みんなこの世を去ってしまった。だから海はこれ以
今度はみんな一緒になってしまったから、これでもうお終い
96
(皿)
人間の生きる余地はない。すなわち、人間の闘争とその経
事を支えた情緒は、この場合には悲劇的であるよりも、悲
択という基本的設定の仕方が、彼の戯曲の本質を形成して
想の中における幸福と、事実の中における勇気との問の選
と関係があるように思われる。もしそうでないとしても幻
いる。とくに第三幕の中に強くあらわれている。しかし惜
いるとみてよい。シングのこの戯曲は、偉大な力に満ちて
愴的であったのである。島の若者たちの生活では、そこに
﹁聖者の泉﹂で、シングは﹁谷の影﹂や﹁鋳掛屋の婚
験は、すべて自然の圧力によって、抹殺されるのであるQ
われわれには十分推察のできることである。盲目の乞食マ
なり得た方法的基礎が、 ﹁西国の伊達男﹂・にあることは、
像との、二面性であり、その対立である。これがテーマと
るいは劇的環境の変化によってそれが行われたのか、とい
者に直接的訴えをするために登場して来たのだろうか、あ
いえ、悲惨に満ちたものである。しかし、彼等は観客や読
態を乞食が理解するというシーンは、予想されていたとは
シングが避けようとしたすべてではない。彼等の現実的状
しいことに、それは非常に一様でない戯曲である。センチ
ーチン・ダウルとメアリ・ダウルは、彼等自身の美と容姿
う劇的行動の困惑がここにはある。 このことと関連し
回帰している。このテーマとは、単純な誤れる幻想と、自
の良さとの幻想による喜びと自己尊厳とを維持していた。
て、シングのドラマトゥルギーが、 ﹁谷の影﹂のそれと比
礼﹂のプロットの一部分になっているところの、テーマに
彼等の視覚が、聖者の水によって直ったとき、彼等の、あ
較して、大変相違していることにわれわれは注意する必要
ころの、再現的な舞台上での盲人の処理は、僕の考えでは、
らわれた醜悪さは、彼等を破滅させるまでにいたった。
がある。そしてわれわれにとっては﹁聖者の泉﹂の方向は、
メンタリティにおぼれさすという深刻な危険を引き起すと
しかし彼等の視覚が再び閉されたとき、彼等は新しい幻想
重要な研究課題である。彼の要求し創造したような言語を
由な人間にとってはしばしば重要な役割を果すところの想
が、この幻想を生み出すのである。だから、彼等は現実世
入れ得ることによって、自然主義者が彼等の話し言葉を不
を獲得する。老年に達したときに得るであろう彼等の品位
十分にしか発展させなかったり、ドラマトゥルギーよりも、
むしろブイクションの魔力を発展させたところの、文章を
のを、恐怖をもって拒否するのである。
飾り立てるという方法は、奇妙に不必要にみえてくる。
界に対する視覚を回復するような機会が、再び与えられた
鴨﹂や﹁ジョン・ガブリエル・ボルクマン﹂で試みた方法
このリアルな劇的結末は馬恐らくは、イプセンが﹁野
97
ナンへ行く道で、お前の声を聞くと、嬉しかったし、また自
マーチン・ダウル 妙な時だったかもしれない。だが、グリ﹂
は、シングの、劇作家としての本質を決定させたところの隔
えるのではないだろうか。そしてこのことが可能になるの
いうドラマトゥルギーが、シングによって主張されたとい
訓練に依存しているのである。もっと断定的にいえば、情
るところに、そして形象化するための役に即した実際的な
動に依存しており、その行動を俳優が演技として形象化す
在するものではない。それは、戯曲全体の中を貫通する行
在するものでもなければ、それが創造する現象のうちに存
である。しかし、情緒というものは、話し言葉のうちに存
語は、民衆に直接訴える力を所有することが可能となるの
﹁民衆の話し言葉﹂である。このことの故に、彼の劇的言
慢もしたもんさ。 ︵悲しそうな、しかし力のこもった声で語
めくら
りはじめる︶お前の声はかわいそうな盲人に、多くの満足を
与えてくれるのだ。だから、俺はお前の声を聞いた日にゃ、
ほかのことはなんにも考えなかった。
︵中略︶
めくら
マーチン・ダウル ︵注意をひいた機会に乗じて︶盲目ですこ
しいたものでなけりゃこのことは分りゃしねえ。 ︵興奮し
て︶墓に腐れこんでるおいぼればばあを見るものは、誰もあ
りゃしねえ。 ︵彼女の方に身をかがめる︶お前は、舟を引き
ラマトゥルギーは、弱さをもっていたのである。
緒は戯曲のテーマの中に存在しない。この点でシングのド
98
りゃしねえよ。それかち、お前のようなものを見るものもあ
よせる灯台のように光℃輝いてる。
ヨo︻Oを参照⋮したo
︵註3︶ この点については↓き馬hミ.肋昏b鳶ミミ苛警q馬§馬鵠鴨σ矯更一写町o﹁ー
モリイ・バーン︵身をちぢこませる︶そ球へよっちゃいやよ。
マーチン・ダウル︵低い、おそろしく緊張した声で︶俺のいう
マーチン・ダウル。
てそれは又、ドラマの歴史において重要な部分を占める。
﹁西国の伊達男﹂は、非常に成功した喜劇である。そし
ことに間違いはないよ。
このような対話では、人間の不安を明確にすることは困
モリエールやセルバンテスや恐らくはラブレーにまでさか
われわれはシングのこの戯曲を研究するのに、参考として
のぼることが必要になろう。イギリス演劇の中で、たしか
に、まき込むところのドラマトゥルギーを、演技の中に表
対象が非常に不明確な副次的なものになってしまう。そう
現することができ得ないという結果を生ずる。このために
難であろう。このことから、観客を悲劇的な劇的行動の中
(IV)
恐らくはそうであったろうQ
に参考にできるのは、ベン・ジョンソンであり、シングも
ングの戯曲における最も重要な方向を測定するモメントの
イギリス喜劇の主流から明確に区別されるところの、シ
も適用されるだろうQ
とができよう・
一つとして、われわれは人間に対する彼の態度をあげるこ
ころの問題をわれわれが研究する際の参考文献になり得る
シェークスピアにおいては、劇的効果が、性格の相互の
たエッセイは、シングのこの戯曲に高く表現されていると
T.S.エリオットのべン・ジョンソンに対するすぐれ
のである。 ﹁西国の伊達男﹂はふつう誠刺劇だといわれて
対立に従っていることとすれば、ジョンソンにおいては、
マホーンの空想、という単純なものではないからである。
しかし、彼の幻想は全く同じようにつくられるものと仮定
う恐ろしい栄光を引きずっているところの、クリスティ・
この戯曲で意図したものは、 ﹁彼の父親を殺した男﹂とい
シングの方法は勿論後者である。何故ならば、シングが
劇的効果は、性格の相互の適合方法に従っている。
いる。たしかにそれは、そういわれるのにふさわしい、無
慈悲な効果を生み出している。
ジヨンソンの戯曲は、非常に偶然的な課刺である。なぜな
である。それはスイフトの作品やモリエールの作品が調刺だ
らば、それは現実世界に対する偶然的なる批判の結実だから
といわれるような意味での認刺ではない。つまり、それはい
そしてこの場合、性格は全体的な集団でよりも、むしろ個
すれ球それは、社会全体の空想だと考えることもできる。
であるQ
味でいえば、 ﹁J・M・シングの小世界﹂と呼ばれるもの
りも、重要ではない。勿論それはふつうにいおれている意
範囲内においては、おのおの個性的な存在は情緒的行動よ
性的な世界の中から把握される。彼等の世界が制限された
かなる種類の正確な情緒的態度の中にも基礎をおくものでも
ないし、現実世界の正確な批判にも基礎をおくものでもない
からである。:⋮⋮⋮・重要なことは、もしもフィクションが
創造的フィクションと批判的フィクションとに分割され得る・
としたら、ジョンソンのそれは創造的フィクションだという
ことである。
エリオットのこの定義は、そのまま﹁西国の伊達男﹂に
99
に、区別することが可能である。ジョンソンの個性の型は、
な世界であるならば、それによって芸術家も又、同じよう
れがあらゆる部分において、規準を設けることができる完全
ーは、重要性の大小で区別されるべきものではない。もしそ
しかし、この小世界−芸術家が創造したところの世昇1
的に存在する環境の中で、ある高さにまでもち上げられ、
クリスティ・マホーンの大きな幻想は、力の神話が支配
のである。
シングはアイルランド人を、それよりもより多く誠刺した
いない。
大きなへだたりが
お前はこの次のを殺すために来たのかね?
それとも今そ
ということを学ぶのである。 しかしこの行為は完了して
ある。
絞首台の物語と下等な行為の間には、
とき、このシ・ックをうけた周囲の人物は
ーが見せかけの真実の中で行動をしていたことがわかった
ーは、あわれな犠牲にと、急速に展開する。そしてヒーロ
しに来た父が、彼の後を追って来たとき、衰弱したヒーロ
育成された。すなわちクリスティー簡単に彼の父を撲殺
した男1は、審判に来た.Oω三ωである。・しかし、仕返
バーレスクやファ:スにおちこんでしまったところの演劇に
対するアンチ・テーゼとして発見されたのである。だが、あ
い。後者は、より分析的であり、より知的である。それは
らゆる点で比較して、それはモリエールのファースではな
﹁調刺﹂なる語によって定義づけられない。ジョンソンのよ
て、それを創造したが故に偉大である。だが調刺を本質的な
うな誠刺は、究極において、対象を模写したのではなくし
モメントと考えることは一面的になってしまう。調刺という
のは、単に審美的な結果を導く方法、新しい軌道の中に新し
い世界を投影するところの衝撃にすぎないのだ。
このことが﹁西国の伊達男﹂の評価についても、基準の
可能性となり得るるし、適用できると僕は思う。
れがお前を苦しめているのかね?
近代戯曲においては、.問題は再びイプセンの﹁ぺール,
シングの戯曲はいくつかの点で、イプセンと関係がある。
ギュント﹂を参考にするところからはじめられるだろう。
イプセンがノルウェ:人の民族釣空想を調刺したように、
100
とのために、彼は実行しつづけるであろう。彼は、彼の新
まだクリスティは、彼を一時的な栄光にいたらしめた行
動が全面的ではない、とい5ことを理解している。このこ
ティ﹂.をもつという意味でだけで判定されるものではな
力強い、劇的な言語というものは、︽根本的にはゴリアリ
い。この問題はシングにおいては、 ﹁香り﹂の問題よりも
しい未知の世界に行くために、この社会から去って行くの
である。しかし彼は、それが彼を形成した社会だと知覚し
重要なものである。最も高度に劇的な言語は、戯曲の本質
独自的な性格は、隠喩あるいは言葉だけのシンボリズムを
ているのである。
をそれ自体の中に内包しているような言語であり、その清
クリスティ ここの奴等に、私は一万遍もお礼を言うそ。何故
完全に排除したということであり、﹁悲しみのデアドラ﹂に
緒的構造を発見し、構成する言語である。シングの言語の
だ。今日からはこの世の中の亡びる日の夜明けまで、華やか
ってお前達のお蔭で、私はとうと5立派な若者になったん
ところの機能を言語に回帰させたというだけではない︵エ
いえば、彼はエリザベス朝演劇の戯曲において完成された
戯曲を研究する場合、大切な意味をもって来る。概括的に
いての、シングの豊かさは重要な達成であり、これは近代
であるように思う。自然主義的な言語を駆使することにつ
まで高あられた彼の戯曲を考えて行くと、この指摘は正確
な一生を巫山戯廻って暮すんだ。
変形されたものは、クリスティばかりではない。社会自
体が、かかる者たちを生産しているからである。そしてこ
てそこから離れて行くだろう。
れらのヒーローたちは、社会が創造した西国の伊達男とし
である。にもかかわらず、その後のアイルランド劇作家の
リザベス朝演劇に対する彼の言語の強固な比較は、表面的
らないだろう︶。シングの直喩は、話し言葉に﹁歓喜﹂と
単純な比較論からすれば、そんなに低い意味を与えてはな
﹁悲惨﹂とを﹁香り﹂のように与える。しかし隠愉の欠除
が、純粋な詩劇から、彼の戯曲を区別させる。−彼の言語
101
(V)
要素になっている。ところが、詩劇においては、言語その
は、すべての再現的な戯曲の如く、行動とともに平行的な
純粋性を特殊的に描き出しており、結果論になるわけだが
言したものだどいうことは分るのである。この言葉は彼の
めて不十分であるが内彼の初婚の作品の力強さの根源を宣
デアドラ﹂を書くまでは、出①噌oざ﹀σQΦには興味を示さな
明してい.る。イエーツはわれわれに、シングは ﹁悲しみの
﹁悲しみのデアドラ﹂のドラマトゥルギーの単純さをも説
ものが行動なのである。
された。このことは非常な損失である。何故ならば、この
﹁悲しみのデアドラ﹂はシングの死後、未定稿として残
戯曲においてシングは、ドラマトゥルギーを純粋に詩劇の
のドラマトゥルギーが邪魔になったということ、そしてこ
の変革は自然主義では不可能だということを考慮に入れれ
かったということを教えてくれている。この場合彼の初期
ば、 ﹁悲しみのデアドラ﹂は、われわれに、彼を形成した
方へ向けようと志していたことが認められるからである。
テンド・グデス的性質は、そのテーマに関係があるように
ところの源泉、もし彼がその後も生きていたならば、実に
この戯曲は、破綻の多い作品である。この作品のもつス
思われる。このことを立証するためには、彼の初期の評論
より,遅いということはないと思うが。
の空から雲がおおって来て暗くなってしまったから、いつも
ラバーハム まだだよ⋮⋮︵心配をおしかくしながら︶西や南
りになりませんか。
老婆 もうすっかり夜になってしまったというのに、まだお帰
している。
この戯曲の最初の言葉は、再現的な舞台を興味深く暗示
する手がかりとなり得るだろう。
偉大な劇作家たり得たであろうところのその源泉を・発見血
に次のような一節があることをあげれば十分であろう。
個別的な独創性というものは、もしそれが特別な生活や地
方的特色や、それらすぺてがふくまれる人生というものの特
徴づけをもっていないときには、それがどんなにユニークに、
い。何故ならば、すべての歴史劇、小説、詩は⋮⋮⋮相対的
豊かな仕事であっても、それで、十分というわけにはいかな
に価値のないものだからである。
これではシングのライト・モティーフを推察するのは極
これが示している如く、エリザベス朝演劇が特徴的にあ
の不可避性である。
悲劇の全体的な実質は、 美によってかもし出された破滅
やがてデアドラ自身の言葉の中に累積さ
﹁暗闇﹂という言葉と、
﹁墓場﹂という言葉をめぐつ
墓場と斗うものは誰ですか。コンチュバー。
れる。
ということは、
恐怖を感じるのです。
っしゃられたと、はっきりみんながいっていることに、私は
ラバーハム お姫様がこの世の中に破滅をもたらすためにいら
らわしているところの、自然なシンボリズムのドラマへの
適用は、シングにとっては新しい要素になったのである。
そしてここには﹁マクベス﹂の使者の言葉と関係づけら
れるものがある。たとえば第一幕第三場のロスの言葉
あなたが強いノルウェイの隊列に割って入り、ただならぬ死
の変相を作り出してそれをば恐れる気色もなかった・一::
などは適切な比較をわれわれに与える。またラバーハムの
言葉は、殺すべきもののいる城に到着したところの、ダン
カンの観察に比較されよう。
暗黒は、悲劇の進行を通じての変らざる要素である。こ
のことは、この劇の最後の言葉にもはっきりと示されてい
る、
われわれすべては、 安全で、すばらしい場所を必要としてい
る。
ラバーハム︵墓のそばで︶デァドラ様がおなくなりになった。
て、この戯曲は回転する。
それからナイシ様もおなくなりになった。もし樫の木や星
が♪悲しみのために死ぬことができるものなら、今宵エメン
は暗闇になり、醜いはだかの土地になるであろう。
アドラを説得させる場面で、いっている。しかしデァドラ
ということを、コンチュバーは波の女王にしようとしたデ
103
は、たとえ彼女が、
非常にわずかな時間しか残されていない
ということで心配しており、結末において、
では私たちは安全なのです。
森の中で私たちが選ばれた生き方をいたしました。墓場の中
ということをいわなければならないことは分っていても、
彼女はナイシのために、コンチュバーの愛を拒否するので
ある。
一番高いものをもつのは、たとえ
デアドラとナイシの最初の出合いでの会話
デァドラ 一番よいものと、
しばらくの間であっても、 すばらしいことに間違いありませ
ん。
ナイシ だが勇しがるのも、 勝ち誇って進むのも、一瞬の出来
事にしか過ぎぬことです。
ナイシ 愛し合っている二人の間を裂くのには、土を開いた新
しい墓ほどに、よいものはないだろう。
は、私たち二人を、墓は永遠に一つにしてくれることでしよ
デアドラ それほどよいものでしたら、墓がしめられる時に
5。そして私たちは、疲れることも、年を取ることも、心に
悲しみをもつことも、なくなってしまうことでしよう。
同じ予想が、第二幕の恐怖の基礎になっている。
オーウェン 三週間でも、一瞬に比べれば、長い時間です。あ
なたは、七年間もナイシやナイシの兄弟たちと一緒にいらっ 醜
デア下ラ お前には三週間でも長いかもしれません。しかしナ
しゃった。
オーウェン たとえ短い間であったにせよ、あなたのような方
イシ様や私にとっては、七年間でも短いのです。
は、そうざらにはいらっしゃいません。
デアドラ︵非常に静かに︶夜明けとともに、枝に光をふりそそ
︵中略︶
ぐ、あの同じ太陽を、七年間見て満足しております。ほんの
は、彼らの死が真近に迫っているとき、
しがっているのです。
わずかの間でも、私たちが同じものをもつのを、賢い人は悲
その死の状態を予
想させる。
デアドラの知慧のについて定義は、
探究に関連がある。
﹁知識﹂への持続的
コンチュバー︵たいそう重々しく︶お前は、お前とあれたちの
ことについて予言されたことを知ってい准がら、ナイシ兄弟
の話をしたり、絵を描いたりしているのは不思議だ。だがお
前はまだあまりものを知らない。だから、わしがそのことを
悪くいうのは、はやまっている。それに、今日からお前の面
倒を見るのはわしの務めなのじゃから。わしはお前に知識が
い荒野になり、そこにいたちや山猫が叫び廻るでしよう。そ
が見えます。私のことから、女王や軍隊のいたところが淋し
して滅びた町や、狂った王や、とこしえに若い女の話が語り
︵中略︶
伝えられるでしよう。
てしまいます。私は多くの人にうらやまれるような生活を送
私は、はき古した泥だらけの靴のように、悲しみを投げ棄て
りましたから。
あなたがナイシの青春を永遠に閉じこめた牢獄を開く小さな
︵中略︶
鍵を、私はもっております。
︵中略︶
悲しみが予言されておりましたけれど、私の運命はいつも大
めには、私はつめたいところへ行かなければなりません。ナ
きな喜びでございました。けれどもあなたと御一緒になるた
イシ様、あんなにたびたび私をあたたかく抱いて下さったあ
なたの御手は、今宵はつめたいでしよう。お聞きになれない
あなたに、お話しす,るのはなきけないことです。コンチュバ
とでございます。でも、生の終るまで、時の終るまで、喜で
ー様、エメンで今宵あなたがなさったことは、なさけないこ
あり、勝利であることが一つございます。
この言葉は純粋なドラマである。すなわちそれは劇的に
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なくて困るようなことはさせないつもりぢゃ。
コンチュバー わしのように知識のゆたかなものは、知識が重
デアドラ あなたはたしかに賢くっていらっしゃいます。
荷になって、恐しくなるときもある。
しかし彼の知識も、デアドラの最後の決断の前には、
ざめてしまうのであるQ
き裂かれるようでございます。
デアドラ︵立ってエメツの光を見る︶私は苦痛のために身をひ
︵中略︶
私には暗闇をつらぬいて、エメンの焔が燃えあがっているの
主
目
最もすぐれた環境の中で生れるものであり、彼女が女王の
衣裳を着て最初に登場したときにいうせりふ
全な、小戯曲である。 ﹁悲しみのデアドラ﹂は厳密な言語
私は悲しみのデアドラです。
という言葉の中にふくまれているのと同じ位に、彼女自身
的なテτマによってコントロールされた悲劇の印象的な実
みる、成熟した好例である。 ﹁谷の影﹂は往目に値する完
﹁西国の伊達男﹂は偉大な散文劇であり、喜劇のまれに
のドラマティックな重要性をもって、この形象が考えられ
験である。短期間において、シングのなしとげたものは、
のドラマトゥルギーがシングの中に、新しい展開となって
であった。全体としては、他の近代戯曲と同じように、こ
価することも重要である。彼の仕事は、小さな範囲でしか
る。そしてさらに、彼の劇的言語の価値と限界とを鋭く評
が存在するのだ、ということを強調することが重要であ
においては、おのおのの戯曲において非常に1ーアルな相違
演劇史上において特筆すべき事柄に属する。シングの戯曲
ている。
あらわれていることを僕は強調したいのである。言語はも
以上の点は、この戯曲の批判的な評価のために必要なの
はや﹁香り﹂にだけ固定したものではない。それは厳密な
ドラマティックな結末のために、隠喩と言葉のシンボリズ
示しているのである。
もの﹂の可能性の再発見のモメントを、シングの戯曲は暗
のをもっていたのであり、それ故に﹁ドラマティックなる
なかったが、しかしそれ自身が大部分の他の戯曲にないも
ラ﹂は成功したというわけにはいかない。しかしこの作品
ムが使用されている。にもかかわらず﹁悲しみのデアド
は、経験とすぐれた方法のみが決定することのできる言語
を駆使して、偉大な戯曲へ近接しているのである。
この覚書のなるについては、 bミ§籍、こ§專穂篭音肉ミミ⋮
︵追記︶
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(VI)
げ団胃塁ヨo昌畠≦≡貯ヨω層Oxhoaq巳く°距㊦ωω矯2①≦囑o円ぎ
お切ω゜の論文に負うところが大きい。
屋の婚礼﹂ ﹁西国の伊達男﹂は山本修二氏の訳︵岩波文庫︶
なお戯曲の課訳については、 ﹁海へ騎りゆく人々﹂ ﹁鋳掛
を、 ﹁谷の影﹂は木下順二氏の訳︵﹁新劇﹂56年6月号︶を
いては、藤江勝氏及び松村みね子氏の訳があるが、これを参
使わせていただいた。﹁聖者の泉﹂﹁悲しみのデアドラ﹂につ
考にして、相当部分書き直したものを使用した。なお引用し
た部分の明示は省略した。
帰瓢
また﹁マクベス﹂については、野上豊一郎氏の訳︵岩波文
庫︶を使わせていただいた。 ︵一九五七・一〇︶
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