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050910 映画づくりの裏話

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050910 映画づくりの裏話
経団連クラブ例会(2005.6)講演メモ
(講演録を引用、要約して作成’05.9.10)
映画づくり裏話 − 映画人生にかけた 50 年 −
講師: 篠田 正浩 氏
映画監督/早稲田大学特命教授
略歴 :1931 年 3 月岐阜県生まれ。53 年早稲田大学文学部卒業、松竹撮影所に入社。
60 年監督デビュー 66 年松竹退社、フリー 67 年独立プロ「表現社」を妻:岩下志麻と設立、
自主制作を開始 03 年「スパイ・ゾルゲ」を最後に監督を引退
作品、受賞歴 :「瀬戸内少年野球団」:84 年ブルーリボン賞、毎日映画コンクール大賞、日本アカデミー賞・優秀作品賞
「鑓の権三」:86 年 1986 年度ベルリン映画祭銀熊賞。
「少年時代」:90 年ブルーリボン賞、毎日映画コンクール大賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞・最優秀監督賞
「スパイ・ゾルゲ」:03 年日本アカデミー優秀作品賞 他多数
著書:私が生きたふたつの日本:五月書房 2003 年 他多数
◎ 映画の嘘や幻想に、ある種の真実が
私は 1953 年に松竹大船撮影所に入社、以来 50 年の映画人生で 36 本の作品を世に送り出した。
映画は実人生を映すリアリズム、一方で、とても幻想的な表現ができる。戦前「キングコング」というすばらし
い映画があった。南方の見知らぬ島で捕獲したキングコングがニューヨークで暴れる話でした。文明がものす
ごい野生の襲撃を受ける。エンパイヤステートビルに登ったキングコングが攻撃してくる飛行機をつかむ姿は、
まさしく 2001 年 9・11 事件が、既にあの時イメージされていた感じです。文明が築かれ、科学が発達して
いく中で、人間は現実から遊離した世界に行ってしまうのではないかと、映画で何度も繰り返してきた。
私は映画の嘘や幻想に、ある種の真実があると思う。 ドン・キホーテがすばらしい台詞を言っている。
「現実は真実の敵だ」
彼は風車という現実に向い槍をかざして突撃したのでなく、真実を得るため、
騎士道を手にするために突撃していく。 そういう意味で、私たちの仕事はドン・キホーテに近い。
私が映画の中で実現したいのは、現実の再現でなく、現実を再現するプロセスから見えてくる。
それは観客が見るもので、監督はそのために、研究や準備をしたり、そのための書類をつくり、ロケーション
場所を決め、キャスティングしたりと、プロセスを踏んでいくわけです。
◎ 司馬遼太郎氏から君の映画は暗いの言葉
私は昭和 6 年生まれ、中学 3 年の時に敗戦を迎え、痛切な思いがした。8月15日は真っ青な青空で、
私にとって神風は吹かなかった。日本の神々は全部滅んだがキリスト教にはなれないという思いが、青春
の出発点です。 最近、それは自虐史観だと言われるが、歴史的には戦争に負けて滅亡して、例えば
平家物語のようなすばらしい文学が生まれている。私は権力の交代、あるいは権力の本質はすごく
はかないことを、日本が戦争に負けた時に感じた。
このはかなさは、仏教の無常観とは違う。
ひとつの構造が崩壊する、ガバナビリティの問題に直面した昭和という時代が、私が詩人、映画作家として
育っていく歴史時間であった。
私は戦争に負けてから悲劇観に襲われ、悲劇的な映画をたくさん作った。松竹ヌーベルバーグと云われ
た私と大島渚、吉田喜重の3人は、ハッピーエンドは全然つくらないため、明るく楽しい松竹映画にとって、
許すべからざる監督たちでした。
それで 会社にいられなくなり独立プロをつくった。
私は松竹時代に、直木賞をとったばかりの司馬遼太郎さんと出会った。司馬さんは幕末の志士・清河
八郎の暗殺を一晩で、短編「奇妙なり八郎」を書上げ、それを私が「暗殺」というタイトルで映画にした。
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司馬さんは大変気に入り、その後たくさんの司馬遼太郎原作の映画やテレビドラマが世に出た。司馬さん
は私の顔を見るたび「暗殺 ほど私を満足させた映画はない」とおっしゃってくださった。
ある年、正月、司馬さんと祇園のお茶屋に行った。そこには、京都学派(京大中心の学者)が勢ぞろいし
て、司馬正月が繰広げられていた。目の前に、梅原猛、多田道太郎、奈良本辰也など、そうそうたる歴史、
哲学者がいた。そのうち舞妓、芸者が来ると、大学者達も、飲めや歌えが始まった。
私は絶対にカラオケはやらない主義を通してきたが、司馬さんが「篠田君、君も歌え」と言う。司馬さんのよ
うな自由な歴史観を持っている人が「歌え」とは、戦時中じゃあるまいしと思った。
私の不満がすぐ分かったらしく、司馬さんが耳元で「君の映画は暗い。君はこれから映画監督をやっ
ていくのだから、観客を大事にしないといけない。観客は苦しい生活でも、映画で楽しい思いをしたい
のだ。これから喜劇を撮れ」と言う。だから歌え、要するに、孤立している精神は周りに不幸をもたらす。
司馬さんはその頃は、「翔ぶが如く」「竜馬がゆく」で大作家になっていた。「暗殺」1本作っただけで、
それから私の映画を遠くからずっと見ていたことに大変な驚きを持った。同時に、そこまで考えてくださ
っていることに感動した。
でも私は歌わなかった。頑固な奴と思っていたと思います。
◎ 「瀬戸内」という言葉から考えさせられたこと
突然、作詞家の阿久悠さんから電話で、「瀬戸内少年野球団という自伝のような小説を書いて直木賞
候補になった。この映画化プロジェクトが動いたが、私は篠田さんに御願いしたい」と言う。
読む前から題名は知っていたが、私は「瀬戸内」「少年」「野球団」という3つの言葉から成る題名の、
「瀬戸内」に胸を打たれた。瀬戸内海は、壇ノ浦で沈んだ平家滅亡の世界です。平家物語は、平家滅
亡の中で孤軍奮闘する平知盛が義経の軍勢と海上戦をして、刀折れ矢尽きて自分の軍船に戻ると、
いきなり船の掃除を始めた。「今から坂東の荒武者が来る。船が取り乱されていては平家の名折れ
だ」と、きれいに掃除をして、父祖伝来の鎧、二領を重みにして、郎党と一緒に、「見るべきものは見つ」
と言って海の底に沈んでいく。 私は、これを映画でやりたいと思ったのです。
さらにいろいろ考えた。戦後、東京裁判で東条英機ら7人のA級戦犯が死刑を宣告され執行後、遺体
が日本人に渡らないために完全に灰にして空中に撒いたと言われている。A級戦犯は当時、毎日報道
されたが、後にBC級戦犯の話も出るようになり、これにすごく心を動かされた。
「私は貝になりたい」というテレビドラマで、床屋のフランキー堺が徴兵され、そこに爆撃後の米兵が落下傘
で降りてきて捕虜になる。彼は「肝試しにこの捕虜を殺せ」と言われ、何の敵意もないのに銃剣で殺し
てしまった。 残虐行為で、BC級戦犯で死刑になる。「こんな目に遭うのなら貝になりたい」という兵士の
物語でした。 私はこういう庶民のエピソードに衝撃を受けた。
南洋島の捕虜収容所の日本人将校は、非人道的な食事を捕虜に与え、捕虜虐待罪で死刑になった。
彼は本土から小豆が送られてきたのでお汁粉をつくり、日本兵ばかりで独占するのは可哀相だと、オラン
ダ軍兵士の捕虜に与えた。裁判で捕虜側の言い分は、「スープと云われて飲まされたが、甘くて拙いビー
ンズスープだった」と反論。これは戦争犯罪でなく、カルチャーギャップで、日本人にも同じく言えると思う。
日本人は魚沼のこしひかりが世界一うまいと思っている。タイ人は日本の御飯はモチモチして気持ちが
悪いと言う。 過去、日本が凶作の時、中国・タイから米を輸入したが、結局ほとんど食べなかった。それ
は、外米が日本人の口に合わなかった。捕虜収容所のお汁粉も、オランダ人は合わなかった。
このギャップが大きい。これをナショナリズムで説明するより、文化人類学的に考えた方がいいと思う。
人間は個々の行動、民族性があって、それにより文化が築かれる。文化は人間の考えることなので、
共通するところがあるが、共通点だけを議論して、世界性を掴まえるのは、安易すぎると思う。
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◎ いろんな顔をもつ歴史の真実
この人間の悲哀を「瀬戸内少年野球団」の中心に据えることにした。要するに平知盛の現代版。「見
るべきものは見つ」と言って、国際裁判にしょっ引かれる男が淡路島にやってくる。建礼門院が安徳天
皇を連れてくるように、彼は自分の娘を連れてくる。家族はもういない。島の腕白坊主達がこのヒロインを
マドンナのように敬愛しているところへ、アメリカ軍が上陸してきて、校庭で野球の練習を始め、子供達も一
緒に野球を教わる。日米親善野球大会の日に、戦犯でヒロインの父が処刑されるという報が入る。
これが私の考えた「瀬戸内少年野球団」だった。
なかなかうまくいきそうだと本屋に走り、阿久悠さんの「瀬戸内少年野球団」を読んだら、まるで違っ
た。戦争に負けたのは、阿久悠さんが小学校3年、私は中学3年、6 年間のギャップがあった。
小説は戦争に負けたころから始まり、担任の駒子先生だけが泣いて、僕らは戦争が終わってやれや
れと思ったという。そこへアメリカ軍が上陸してきて、ジープが八幡様の境内の石段をガガッと登り、子どもた
ちが後を追う。GIがキャンデイやチョコレートを投げる。初めてジープを見る、その描写が実に生き々している。
阿久悠さんはチョコレートが口の中で溶けていく喜びを初めて味わい、戦争に負けたのはパラダイスだった。
この時、しみじみと思った。 戦争の悲劇的な感情にとらわれ、ずっと悲劇的な映画を扱ってきたが、
わずか6年のギャップしかない阿久さんは、敗戦は楽しく、毎日がレジャータイムのような生活だったと言う。
歴史の真実はひとつではなくいろいろな顔を持っていることをその時初めて知らされた。
耳の底に残っていた「君の映画は暗いよ」という司馬さんの声を思い出し、阿久さんにお断りの口実を
考えたが、司馬さんの忠告と、歴史認識の違いを考え思い止まった。お汁粉をおいしいと思う日本人と、
おいしくないと思うオランダ人。戦争は悲劇だったと思う人間と、戦争も愉快だったという人間。
すごいジレンマ。 ドン・キホーテが「現実がいつも私の真実を邪魔する」気持ち。いろんなものが錯綜して、
それで「瀬戸内少年野球団」をつくることになった。
3億円で作り、13億円分のお客さんが来た。それまで、予算回収で綱渡り状態だった私が、商業監督
として信用されるようになったのは、ひとえに司馬さんの人徳、お陰だと思う。
◎ 意識としての日本の歴史時間
「瀬戸内少年野球団」で8月15日というデータを初めて映画の中に入れた。それまで映画は私の中で
イマジネーション・空想の世界で、リアリズムの映画を作っていても、その果てに見える人間の精神がもつ抽象
的な世界に漂いたいと思っていた。「瀬戸内少年野球団」は、『昭和 20年8月15日に日本は戦争に負
けた、天皇陛下のお言葉をラジオで聞いても小学校3年生の僕には分からなかった』という文章で始まる。
その瞬間から、自分の映画で、意識して、日本の歴史時間を日付で描いたことがあったろうか。
私は、漠然と、ゾルゲ事件を少年時代から知っていた。小学校5年生の真珠湾攻撃で、日本はアングロ
サクソン相手に戦い始めた。子供だった私は、12月8日に、ものすごく感動したのです。
その翌年の5月、国際諜報団検挙の新聞記事が載った。 『リヒヤルト・ゾルゲ=ドイツ人、尾崎秀実=朝
日新聞記者、近衛文麿の嘱託、出身・岐阜県』。 岐阜県出身の同郷人が真珠湾攻撃の感動に冷や
水をかける利敵行為をしたことに、大きな衝撃があった。それが戦後になると、尾崎秀実たちは平和
を求めて、死をかけて軍国日本と戦ったヒーローになり、獄中から奥さんにあてた書簡「愛情は降る星の
如く」がすごいベストセラーになる。 尾崎秀実は一高、帝大、新聞記者というエリートで、大変な文章家です。
それ以上にこの類の手紙がベストセラーになったということ自体、あの時代の日本人が「あの戦争とは何
だったのか」という強い問いかけをもっていたからだと思うのです。
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◎ 1986 年にベルリンで感じたこと
1986年、近松門左衛門の「鑓(やり)の権三」でベルリン映画祭:銀熊賞を貰い、ベルリンに呼ばれた。
そこで大きな政治事件に巻き込まれた。韓国の大監督:申相玉さん(奥さんも女優)は北朝鮮に拉致さ
れ、申さんは金正日のための映画製作所、撮影所を開発。 ジンギスカンを撮るため日本側の製作者を探
しにベルリン映画祭に来ていた。ぜひ会いたいと言われ、一緒に食事をした。
当時、ベルリンは東西に引き裂かれ、東独の中にベルリン市があって、西ベルリンは東独の中の離れ小島
で、あらゆるものを西側から大空輸していた。西独は文化や経済を支えるため、ベルリンフィルハーモニーをつ
くって、カラヤン指揮による大演奏会を何度も開く。 また、2月の最厳寒期に映画祭を開催して、世界中
の人を集めベルリンに情報を集める。 つまりベルリンは意図して人工的な文化経済都市を形成していた。
一歩外に出ればすぐ東独、東ベルリンは共産圏。申さんは、その後、ウィーンから韓国に脱出した。
ベルリンの壁、当時のチェックポイント・チャーリー(米占領軍ゲート)をくぐると大帝国の首都:東ベルリンの風景が
広がる。 そこで私は映画を撮りたいと思っていた。19世紀のプロイセンがつくった巨大な大帝国のモニュ
メント(劇場 伽藍 聖堂)が全て残っていた。森鴎外が留学したロバート・コッホの伝染病研究所も見た。
しかし共産主義下の生活の現状は実にみすぼらしく、共産主義はもうだめじゃなかと思った。
◎ ヒーローが落ちた偶像になった時真実が伝わる
当時、日本の知識人はまだ、共産主義に対する希望を捨ててなかったと思う。東京オリンピックの時期に、
まずそう感じた。ソビエトの作家連盟から招待を受けてモスクワに行った折、セルゲイ・ボンダルチュクという監督
がトルストイの「戦争と平和」を撮影していた。巨大撮影所のゲートに『映画は革命の武器である:レーニン』と
あった。文字の読めないソビエトの労働者、農民に革命思想を普及させるには映画キャンペーンが役立つ。
だから巨大撮影所が国営のすごいシステムで運営されていた。
巨大スタジオにはペテルスブルクの宮殿のセットが組まれ、舞踏会が演じられていた。セルゲイ・ボンダルチュク監
督があなたの映画はすごくきれいなカラーだが、フィルムは何を使っているのかと聞きくので、日本の国産品
と答えると、自分の所は、スターリンのおかげで、赤い色しか写らないフィルムだと言っていた。
既に、スターリンが失脚してフルシチョッフの時代でしたが、映画人は物事を正確に見抜いていると思った。
最も共産主義プロパーの映画監督が、スターリンを批判する言葉を投げかけるのだから、共産主義もおし
ましだと感じた。
そのモスクワ訪問時に、私はアゼルバイジャンのバクーまで足を延ばした。バクーはモスクワと違って、ほとんどトル
コ、アラブに似た世界でコニャックのうまさは世界一と言われる。石油が豊富で、今では石油パイプラインをアゼ
ルバイジャンからトルコへ延ばし、大きな商売をやろうとしている。そのバクーの石油技師がリヒヤルト・ゾルゲの
父だったことを私は思い出した。ゾルゲの生家がここであることは知っていたが、その頃 ゾルゲはまだソビ
エトの英雄としては全然復活していなかったので、私は生家を訪ねるチャンスはなかった。
そうしたことを思い起こしていくうちに、日本で処刑されたゾルゲのスパイ活動のディテールは、日本の資料
しか残っていないことに気づいた。外国でゾルゲの映画はつくられているが、調書が取られた日本で本
格的にゾルゲの映画をつくっていないのは許せないと考えたのです。私はもうすぐ共産主義は滅びる
に違いないという確信をもっていたから、その後ゾルゲと尾崎はどうなるのだろうかとも考えた。軍国主
義、ドイツファシズムと対抗したヒーローガ、共産主義が滅びた後、2人はヒーローで無くなる。私はここが一番映
画でおいしいところだと思った。 ヒーローがヒーローでなくなる。要するに落ちた偶像になった時、物事の
真実はその偶像によって伝えられる。
平家も、「平家にあらずんば人にあらず」と言っている時は、よく見えない。あるいは、勝ったアメリカは
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戦争の本質は見えていない。負けた日本の方が、第2次世界大戦が何であったかが分かる。
知恵は、敗者の側に残ります。勝者の側は実に傲慢無礼に、ただ時が通り過ぎていくのです。
◎ 満州事変と「スパイ・ゾルゲ」
そこから10年、私はゾルゲの脚本つくりに入った。彼らは共産主義者でありながら、人間として自由で
ありたいというジレンマが2人にとりついていった日本の日常生活を描いてみたいと思った。もう一つの大
きな理由は、ゾルゲが日本に来た1931年に自分が生まれた。1931年9月18日、関東軍は南満州鉄道
を自ら爆破、中国軍が遣ったという口実で、柳条溝(湖)を渡って中国に攻め込んだ。
現在の、中国の反日デモの原点は、1931年9月18日の満州事変で、彼らが『9・18』目指して行動を起
こし始めたのだと思う。何故か、ゾルゲが日本にやってきたのも、同じ日 9・18 です。
満州事変の後、関東軍が堂々と満鉄の中に入ってきた。満鉄は南満州鉄道会社の運営で経営権は
日本にあるが、それに軍が加わり覇権が明白になり、満州は、完全に日本の植民地となった。
中国人は領土が日本に奪われたのだからすごく怒る。その気持ちが今も変わっていない。
満州事変が起ると、ソ連国境で接触していたスターリンが敏感に反応した。当時ソ連が上海に派遣して
埋め込んでおいたスパイ、ゾルゲは赤軍第 4 本部の軍事探偵でした。赤軍第四本部はアジア方面の情報
部で、国際共産主義運動家の目ぼしい人間をスカウトして、スパイ教育を施し、活動を支援していた。
そして尾崎秀実は、兄の奥さんを奪い恋の逃亡で、朝日新聞上海支局に赴任していた。共産党員で
は無いが、心情的なコミュニスとである事は間違いない。上海にアグネス・スメドレー(米女流作家)がいた。尾崎
は共産主義ネットワークに完全にはまり、新聞記者コネクションを通じて日本の上海領事館から入る大陸の情
報を流し、スメドレーを介しそれをゾルゲが手中に収めた。そこに満州事変が起き、日本で中国問題の記
事を書く人間が必要で、尾崎は日本に召還される。ゾルゲもモスクワに呼び戻され日本行きを命じられた。
そこで司馬遼太郎さんの話に戻るが、「坂の上の雲」を読んで一番のショックは、「あとがき」でした。
司馬さんは日露戦争の記録をもとに小説を書こうとして、日本の大本営や陸軍参謀本部、海軍軍司
令部の公式の記録を見たが、日本軍の手柄話ばかりで、客観的に相手のロシアがどう行動して、対応す
る日本の重火器はどうであったか、具体的なことは全然書かれていなかった。それが書かれていた
のは、イギリスとアメリカの観戦記だったということでした。
この頃、英米は、ロシアが日本に足払いをくらって転倒する姿を見たかった訳です。日本は負けてもい
いが、その前に日本を使ってロシアを倒すのが、アングロサクソンの考えだったのです。だから、日本が戦費が
足らないといったら、アメリカは快くお金を貸してくれた。
◎ ゾルゲは冷静な戦時日本社会の観察者
満州事変直後、米コロンビア大学のニコラス・バトラー博士(ノーベル平和賞)がニューヨークで劇的なスピーチをした。
『日本の満州侵略は、アジアに大きな難民問題を引き起こす。日本をアジア大陸から絶対に追い出さなけ
れば成らない。そのため、日本に経済制裁をしなければいけない。今、アメリカ人女性ストッキングの絹輸入
を全部やめよう』日本の絹生産70%を、アメリカが輸入していた。止めると、アメリカ織物業者が失業するかも
しれないが、それ以上に日本農民300万人の首を絞めることが大事と云う。
その頃、日本の外貨獲得の40%は、絹輸出による。日本農民女性の忍耐と勤勉さとモラルによって、日
本が中国を圧倒して、生糸市場を独占し始めていた。アメリカのチャイナロビー(蒋介石夫人の宋美齢他)が、
満州事変を機に、日本の生糸輸入禁止を働きかけた。もちろん、日本農業経済に大打撃を与えた。
昭和6年(1931)は、東北に山背が吹いて大飢饉が起った年。「娘身売りは当役場に相談ください」と
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いう張り紙があちこちに出た。こんな事情をゾルゲは、ナチス機関誌「ゲオポリティックス」の昭和 10 年 8 月号
に、「日本の軍部」という論文で発表している。それを読んで司馬さんは、ものすごく感動した。
日露戦争をきちんと観察していたのは、英や独軍部と云ったが、同じように満州事変当時の日本を正
しく観察していたのはゾルゲだと、司馬さんは江崎玲於奈さんとの対談で語っている。
尾崎とゾルゲは、貧弱な組織だが、集めた情報、データから汲み上げた日本の現状分析は、歴史学者
が見落とすことができないものになっていた。農業経済の破綻に始まり、社会資本の未整備、危機を
自覚する指導者の不在、天皇陛下という絶対の存在が民間から指導者を生み出せないこと、維新の
元勲が政治の舞台から去ったこと、そして 2・26 事件の予言にまで及ぶ。
この論文を読んだ時、これをもとにゾルゲ事件の映画を再度つくろうと、思いました。
◎ 情報とその分析力の重要性
「スパイ・ゾルゲ」が封切られて半年程後(2004年5月)、ハーバード大学ライシャワー・インスティチュートに呼ばれた。
担当者は「スパイで日本の近代を描くのには驚いた。スパイの目は大変正確で時代を把握できる知性
だ。政治プロパー、経済プロパーの分析より、スパイが集めた情報・分析の方がずっとすばらしい。それを篠
田映画で発見できた。我々も歴史学の新しい方法を見つけなければならないと思う。そのディスカッション
を一緒にやりたい」という。 ハーバード大学は映画学科がある。 映画上映のプレミアムで切符は完売した。
そうしたらエール大学からも、一緒にやろう誘われ、「スパイ・ゾルゲ」を持ってアイビーリーグをうろうろした。
しかし日本の大学や歴史学界からは全くお呼びがかかりませんでした。
日本は、昭和16年12月8日、真珠湾を攻撃した。その3日前の5日、スターリンはモスクワを囲んでいたヒット
ラー軍を、シベリアから戻った戦車軍団で蹴散らして大勝利した。翌6日、赤の広場でファシズム戦争第1回
勝利のパレードをした。ゾルゲは「日本は南進をするから、シベリアに軍隊を駐留する必要ない」とスターリンに
レポートした。私の知る某商社マンは、ヒットラーが負けたと知って自社に緊急連絡を入れ、「ドイツとのビジネス
は全部やめた方がよい」と通知していた。 ところがその時、ベルリンの日本の駐独大使だった大島浩・
元陸軍武官は、「ヒットラーはこれからまだ勝ち続ける」と電報を打った。日本はその電文を背負って真
珠湾を攻撃した。この時点で、モスクワでの敗退と赤の広場のパレードをしっかりレポートしていれば、トラトラトラ
で発進するのを止められたかもしれない。 これがインテリジェンス、情報の持つすさまじさだと思う。
◎ 「スパイ・ゾルゲ」をつくって思う日本の現実
アメリカは日本と戦争をしたが、中国とは朝鮮を介した代理戦争で、直接戦わず同盟を結んでいる。
今度の国民党と共産党の第4次、第5次の国共合作は、明らかに中国がアメリカをもう一度引き込む体制
をつくるための布石であると思う。日本は日米同盟だけで安心していると、そのうちアメリカはものすごい
政治のリアリズムに戻ると思う。 日本はアジアに一つも友好国がなく、孤立している。 その孤立が深いほ
ど、対米依存度が増す。 日本外交のキャスティングが、すごく貧弱なものになっていく気がする。
日本は 1941 年にアメリカを見限って、アングロサクソンを敵に回しました。日本が降伏して沖縄も差し出して、
首の根っこを掴まえられているから、彼らはのう々としている。日本が「東アジア連盟」を考え中国と経済・
軍事の同盟を結んだら、アメリカは許さないと思う。
アメリカの日本占領はまだ100年続くというペイシェンが我々の現実でないかと、「スパイ・ゾルゲ」でしみじ
み思った。昭和日本の悲劇は、現在の、平成日本のすべての因果が全部集まっていることを、是非と
も分かっていただきたいと思って私はこの映画をつくりました。
以上
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