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SELF PORTRAIT
中西
卓也
(NAKANISHI Takuya)
早稲田大学生命医療工学研究所助教授/博士(理学)
先端科学・健康医療融合研究機構
医療計測ドメイン コアメンバー
1998 年、北海道大学大学院理学研究科にて博士(理学)取得。早稲田
大学各務記念材料技術研究所客員研究助手、日本学術振興会特別研究員
PDを経て、2004 年 9 月より本機構に所属。2005 年 4 月より現職。
SELF PORTRAIT
僕はここにいる
2005 年夏、東京。早稲田大学先端科学・健康医療融合研究機構(早大科健機構;ASMeW)の一員と
して、若手研究者と呼ばれる立場の自分がいる。今こうしてここにいるのは偶然だろうか、それとも必
然だろうか…。この「研究者の横顔」の執筆準備は、そんな自らへの問いかけからはじまった。いつか
ら研究者を志し、どのようにして現在に至ったのか。自らの「横顔」、すなわち自画像を描くには自分を
見つめなおす必要があった。ASMeW のスローガンには「明日見ゆ」とあるが、未来への一歩を踏み出
すためには、時としてこれまで歩んだ道程を振り返ることも求められるように思う。ともあれ、一人の
ASMeW 研究者(=明日見ゆ研究者、と自信を持ちたいが…)の自画像に、しばしおつきあいいただけ
れば幸いである。
小さな頃から
幼いころからいろいろと知りたがりの子供だった。出身は北海道紋別市、オホーツク海沿岸の小都市
である。冬には流氷が訪れることで知られるが、遥か沖合にわずかに姿を見せていた流氷が風向きによ
って刻々と海岸線に接近し、やがて海を白く覆いつくす光景には自然の雄大さを実感せざるを得ない。
前日は沖合にしか見えていなくても、冷え込みの厳しい朝には「あ、流氷が来たな。」と感じられ、実際
に海は一面の流氷原に変貌している。厳しい冷
え込みは、流氷が接岸することで沿岸部も内陸
と同じような気象条件となることによる(海洋
と流氷原の比熱が異なるので放射冷却の程度
が違う)。こうした経験も自然科学への関心の
きっかけだったかもしれない。一方で、さまざ
まな読み物を通して史実の歴史的背景や流れ
に興味を抱くほか、語源などいろいろな由来に
も関心があった。とにかく、興味の趣くまま調
べることが好きで、
「なぜ」
「どうして」と不思
議に思うことがあると、本棚から百科事典や書
オホーツク海から昇る太陽(左;父親が撮影)と
実家からの冬の眺め(右;弟が帰省時に撮影)
海へとつながるなだらかな丘陵にある市街地では、至るところから
雄大な空とオホーツク海を望むことができる。右の写真では沖合に
白く流氷が見えている。
籍を持ち出しては読み漁っていた。
「なぜそうなるんだろう」
「なぜそう
なったんだろう」と、自然科学にも歴史にも同じように知的好奇心を駆
り立てられていた。やがて、学校での理科の実験などから、自分の手を
動かすことで目の前で起こる変化を観察することに心惹かれるように
なった。本を読むだけではわからないことに触れることが楽しく、教科
書通りにゆかないときはなおさら「なぜ」と「なるほど」の繰り返しが
楽しかった。その単純な気持ちが今につながっているのかもしれない。
理系の研究者、科学者になりたいとおぼろげに思いはじめたのは、そう
いった「なぜ」と「なるほど」を、実験という手段を通して味わえる環
境を求めたからだったように思う。本は家でも読めるけど実験は家では
できないなー、と小学生ながら漠然と考えた記憶がある。
小学校の卒業アルバムに記載の
「しょうらいのゆめ」
二十数年を経た現在、夢が叶った
と言えるのだろうか・・・。
LAT. 43° N
1989 年、北海道大学理Ⅱ系に入学し、札幌で暮らしはじめる(同じ北海道とは言え札幌と紋別は直線
距離でも 200 km 以上あり、東京から浜松もしくは福島までの距離に相当する)。教養部の1年半は、何
かと熱い友人に恵まれたこともあり、あちこちで目に(そして耳に)する「ambitious」という言葉に感
化されつつ、大学生活を楽しみながら過ごした。2年後期からの学部移行(当時のシステム)で理学部
化学科を選んだが、その根底には純粋に、あるいは単純に「なぜ」と「なるほど」の楽しさを求める気
持ちがあったかもしれない。この化学科でもまた熱く個性的な友人に恵まれ、騒いだり語ったりしなが
ら実験の日々へと突入していった。今でも同期の友人と語らう機会があるとすぐにあの頃の青臭くも熱
くエネルギッシュな気分に戻るが、それだけパワフルな日々であった。4年生となり無機化学研究室へ
と配属されたが、のんびりとした性格もあってしばらくはペースがつかめず、元来のスロースターター
ぶりを発揮していた。が、やがて実験での徹夜や朝帰りが日常化する。数日寝ないで実験し続けるとい
う体力任せの無茶なこともした。探究心のカタマリのような先輩達に囲まれ、とにかくがむしゃらに実
験を行っているうちに修士課程の修了を迎えた。要した時間と労力が必ずしも成果に結びつかないこと
も痛感したが、研究への情熱と直向きさを学んだ時期であった。就職活動もある程度は行ったが、大学
という場でもっと多くを吸収して成長したいと思い、博士後期課程進学を決意する。修士課程修了が無
機化学研究室の教授が退官される春であり、厳しくもアクティブな印象のあった物理化学研究室に移っ
た。新たに学ぶことの多さと3年という時間に焦り
はあったが、マイペースさが顔を出しスタートダッ
シュには出遅れた感がある(結果として半年ほど長
く修行することになった)。世界を相手に高いレベル
での学術的研究を展開する研究室で、自らの未熟さ
を知り、自己を研鑽する高い志、計画性の重要さ、
とにかく多くを学んだように思う。
「なぜ」を追究す
るには恵まれた環境であったが、なかなか「なるほ
ど」と言えるほど甘くはない。明け方の帰宅は慢性
化し、厳冬期の深夜、測定装置のある建物までの凍
りついた雪道を転ばぬよう試料を抱えて何往復もし
たこともあったが、それもまた楽しかった。
札幌で過ごした日々は、冬の寒さを物ともしない
ほど熱く、かけがえのないものであった。
北大での研究室生活から
左から学部4年と修士課程、右の3枚はいずれも博士課程。
髪の色をいろいろ変えていた時期もあったが、写真として
はほとんど残っていない。どこに向かおうとしていたのか
自分でもわからない・・・。
僕が僕であるために
1998 年、早稲田大学での研究生活がはじまる。札幌から東京に引っ越し、学生ではなくなったことは
もとより、国立大学と私立大学、理学と工学、基礎研究と実用研究、といったようにさまざまな状況が
変化した。それまでは理学研究科化学専攻に在籍していたこともあり、真理の探究こそが研究の本質と
いう想いで基礎研究に取り組んでいたところがあった。それはそれで研究者を志す学生のスタンスとし
て重要であったと信じている。が、
「知ることの楽しさ」に対し「でも使えないよね」とコメントされた
とき、それまで研究というものの1/2しか見えていなかったのかもしれない、と視野の広がる思いが
した。
「基礎研究」と「応用あるいは実用研究」は、一方が他方を凌駕するものでも否定するものでもな
く、車の両輪として在るべきものである。とは言え、環境の大きな変化への適応にはそれなりのとまど
いとそれなりの葛藤が伴う。アイデンティティーや存在というと大げさではあるが、研究者としてのス
タンス、自らの描く研究者像、それこそ研究者としての自画像を模索する数年があった(むかし良く聴
いた尾崎豊が改めて心に響いた時期でもあった)。やがて、これもマイペースさの良いところかもしれな
いが、「応用を視野に入れた基礎研究」というスタンスに収束していった。以前は「いずれ繋がるもの」
と考えていた応用や実用化が「すぐその先にあるもの」という認識に変わっていった。
My Revolution
2004 年、ASMeW の発足を受け、生命医療工学研究所の
所属となる。上述のように応用を視野に試行錯誤してはいた
ものの、さらに先のビジョンを定めあぐねていたが、先端科
学と健康医療の融合を掲げる機構、それも生命医療工学研究
所の一員となることで明確な方向性を提示された。「理」か
ら「理工」、そして「医工」へと分野を拡げようとしている
ことになるが、ここでもまた自らの意識に大きな変革が求め
られるであろう。生命(いのち)のための研究は、科学が貢
献すべき最たる対象であるように思う。直接医療に関与する
近影∼国際会議にて∼
2003 年 10 月(左;ISCD-15)、2005 年 5 月(右;
ACEC2005)と、年々いろいろな意味で丸くなり
つつある。この流れにも「変革」が必要だろうか。
ことは難しいが、医科学研究に役立つ計測あるいは家庭での
健康管理のための計測といった領域を中心に、健康医療に貢献できる研究を展開してゆきたいと考えて
いる。また、ASMeW 研究者には研究実行能力だけではなくマネジメント能力を高めることが求められ
ているため、その点でも自己の変革と成長を達成しなければと感じている。科学技術理解増進活動の推
進も ASMeW が担うところであり、自らが味わった「なぜ」と「なるほど」の楽しさを伝えられればと
思っている。ASMeW 発足から1年ほど。自分自身の変革もやっと方向性が見えてきたところである。
SELF PORTRAIT
本稿のタイトルを「SELF PORTRAIT」としたが、なんだか自分の写真もいろいろ掲載しつつ、思い
つくまま書き連ねてしまった。うまく描けているかは別としても、これがいちおうの自画像である。
「な
ぜ」と「なるほど」に惹かれた知りたがりの子供は、今こうして研究者と呼ばれる立場にある。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、本稿中の見出しはいずれも歌のタイトルである(ただ
し歌の内容や雰囲気と必ずしも一致するものではない)。音楽を聴くことと歌うことが趣味といえば趣味
である。1970 年生まれなので、ティーンエイジはアイドル歌謡からユーロビートまで流れる 80 年代、
二十代はバンドブームにはじまる 90 年代に過ごした。必然的にいろいろなジャンルの音楽を聴き続け、
いつも心には音楽が流れている。最後に、今の気持ちを表す意味も込めて「SELF PORTRAIT」(槇原
敬之)の歌詞の最後と同じ言葉を記すことにする。「がんばらなくちゃ!」
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