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もし、小早川秀秋の 裏切りがなかったら歴史は どうなっていただろうか

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もし、小早川秀秋の 裏切りがなかったら歴史は どうなっていただろうか
関ヶ原の合戦 ifワールド
もし、小早川秀秋の
裏切りがなかったら歴史は
どうなっていただろうか…?〈後編〉
万 人 が 天より平 等に与えられるもの 、それは 何 であろうか ? …………… 死 である。
のが
人は誰もが 死 から逃れられないことを知りながら、それを意 識 することを避けている。出 世 欲・
おとし
名 誉 欲・打 算 や自分 本 位 の 欲 望より発 せられ た 人を欺き貶 める行 為 、その 人 が のちに自分 の
死を目前 にし たとき、自らの 歩 ん できた 生きざまをどう振り返るだろうか 。小 早 川 秀 秋 はこの
ひ きょう
おか
さいな
関ケ 原 の 合 戦 で自らの 冒し た 卑 怯な 行 為 に 対し て 、自 虐 の 念 に 苛まれ 二 年 後 狂 死し ている。
す
当 時 世 間では彼の 心に鬼 が 棲み付いていると言われていた 。しかし 、自虐の 念で苦しんだこと
には 、鬼どころか 、かえって 人 間らしささえ感じる。人 間はさまざまな欲 で 知らぬ 間に間 違った
ぼん のう
行 動をしてしまうもの 。煩 悩に惑わされることなく人 間らしく生きたいものである。
『第一部』
』
政( 直 臣 )、本 多 忠 勝( 直 臣 )、松 平 忠 吉( 家 康
家康が逃げ込んだ岐阜城の陣中
の 四 男 )、池 田 輝 政( 家 康 の 女 婿 で 岐 阜 城 を 約
五 年 支 配し て い た の で 地 理 に 詳し い )の 五 名 で
関ヶ原 の 戦 い に お い て 、小 早 川 秀 秋 を 東 軍 に
寝 返りさせ ることに 失 敗し 、関ヶ原 の 合 戦 で 大 敗
ある。
まず 、口 火を切ったのは井 伊 直 政 であった 。
かん げん
北を 喫し た 家 康 は 、直 参 の 井 伊 直 政 の 諫 言を 受
け 入 れ 、一 旦 岐 阜 城 へ の 撤 退をし た 。岐 阜 城 内
では 、家 康と側 近 の み で 今 後 の 作 戦 に つき密 談
が 行 わ れ ていた 。そ の 面 々は 、徳 川 家 康 、井 伊 直
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のが
「 殿 、一 旦 はここへ 逃 れられ たもの の 、今 後 いかに
為されまするか 」
「う∼ 、それよのう」
未だ 決めかねていた家 康は本 多 忠 勝に 、
「そちはどうしたらよいと思う。存 念を申してみい 」
「 では 、この 難 局をどうす れ ばよいのじゃ」
と振った 。
といらついた 表 情 で 家 康 は 問 いただした 。直 政 は
「はは… 。ではわたくしめの存 念を申しあげ 奉ります 。
続 けた 。
この 岐 阜 城 は 難 攻 不 落 の 要 害 でござりまするが 、
長 居は禁 物と考えまする」
「 毛 利 輝 元 の 出 陣とならば 、島 津も毛 利 秀 元も早
急な攻 撃 はいたしますまい 。輝 元 殿 の 着 陣を待 つ
「それはなぜじゃ」
ことと思いまする。それゆえ、岐 阜 城 総 攻 撃まで少々
と家 康 が 問うと、忠 勝 は 次 の 三 つ の 理 由を挙 げ た 。
時を稼 げます 。この 時こそ 岐 阜 城 主 であられ た 池
「 一 つには 、これ から冬 になり申 す 。ここで 籠 城 い
田 殿 の 土 地 勘を活か す のです 」
たしても寒さに 兵 が 耐えられませ ぬ 。また 、今 回 は
家 康は 池 田 輝 政に目をやり、
ひょう ろう
急 なことゆえ 、兵 糧 、弾 薬 等 々の 補 給 の 準 備 等 々
「よい 手 立てはあるか 」
ができておりませ ぬ 。
と尋ねた 。輝 政は 、
二 つには 、兵 力でいえば 、敵は 八 万を超えると見
「 籠 城 は 、兵 糧 等 の 準 備 があれ ば 一 年 は 耐えられ
受 けられまする。我 が 方 は 黒 田 隊 、細 川 隊 等 合 算
ましょう。しかし 、それを欠く今 の 状 況 では 、滞 在 が
して 三 万 五 千 。この 多くの 兵をここで 籠 城させる
長 引けば自滅ということにあいなりましょう」
に は 、山 の 頂 上 ゆえ 寝 場 所 の 確 保 が 難しく、また
家 康はいらいらしながら、
ふもと
西 軍と対 峙している麓 の 諸 侯との 連 絡 、軍 議 一 つ
とっても困 難を伴いまする。
「 早くそちの 存 念を申せ 」
池 田 輝 政は 、率 直に 存 念を語った 。
三 つには 、今 、間 者 の 知らせ ですと、石 田 三 成と
「 西 軍 の 弱 点は 、この 稲 葉 山 の 地 理をあまり知らな
宇 喜 多 秀 家 が 大 坂 城 へ 戦 勝 報 告に 出 向 いておる
い 事 でござりまする。けもの 道 のようなもの ではご
とのこと。大 坂 城におります 毛 利 輝 元 が 、秀 頼 公を
ざ います が 、この 山には 達目口という東 方に 抜 ける
奉じて出 陣してくることも考えねばなりませ ぬ 。そう
間 道 がございます 。
なれ ば 黒 田 、細 川 、それ に 山 内も、まず 寝 返ること
必 定と考えまする」
この 輝 政 が 城 主 時 代に 密 かに 作りました 抜 け 道
でござりますゆえ、地 元 でもまったく知られていない
「 では 、岐 阜 城を枕に戦おうぞ 」
道 でござりまする。目下 の 情 況 では 、これを抜 けて
と家 康は強 がった 。井 伊 直 政 が 続けて、
秀 忠 公 本 隊と合 流 する手し か 、策 はないと存じま
「 殿 、それは 決してなりませ ぬ 。今 、四 つある登り口
する」
( 水 の 手 口 、馬 の 背 口 、百 曲り口 、七 曲り口 )を守っ
そして直 政は 、
ております お味 方 衆 の 豊 臣 恩 顧 の 大 名は 、秀 頼 公
ご 出 馬とあいなります れ ば 、必 ず 寝 返るものと考え
「 秀 忠 公 の 軍 勢 三 万 八 千はもうすぐ岐 阜に 到 着 予
定 でござりまする。
まする。黒 田 、浅 野 、山 内 は 、豊 臣 家に 恩を感じて
また 、殿 が 率いておられる親 衛 隊 三 万 の 兵も、密
おりますゆえ、決して秀 頼 公に弓を引くことはありま
かに 達目口に 集 結させております 。敵は 今 のところ
すまい 。
( 図1参 照 )
殿 の 本 隊 の 居 場 所を掴んでいないものと思われま
か の 者たちは 、三 成 憎しと秀 頼 公 の 上 杉 討 伐 の
下 知 のもとに 、殿に 合 力いたしているもの 。主 家 は
いまだ 秀 頼 公 であり殿に 臣 従 いたしたの ではござ
らぬこと、
くれぐれもお忘れにならぬよう願い奉ります」
する」
本 多 忠 勝は 、
「 南 に 抜 ける岩 戸 口 が 、下 山 距 離 にしては 一 番よ
いのではないのか 」
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もし、小早川秀秋の
裏切りがなかったら歴史は
どうなっていただろうか…?〈後編〉
見 見 物しておったのう」
輝 政は 、
「 忠 勝 殿 の お 説もごもっともでござるが 、す でに 石
忠 勝は 思い 出した 。
さと いえ
田 三 成 の 家 老 蒲 生 郷 舎 の 二 千 の 兵 が 、岩 戸 口を
「そうそう… あの 折は光 秀 の 武 者 狩りに遭 遇 せ ぬ
固 めておりまする。また 、他 の す べ ての 道も西 軍 が
かと肝を 冷 やしまし た ぞ 。こちらは 井 伊 殿 始 め 重
陣をはり守 備を固 めておりまする」
臣 三 、四 名 の 供 廻りの みでありましたので 、武 者 狩
家 康は 、
りに 遭 遇いたしましたら、われら命はなかったことで
「 秀 忠との 連 絡は 、いか が 致 す 所 存 か 」
ござりましょう。」
と尋ねた 。直 政は 、
また 、井 伊 直 政 が 続けた 。
「 そ の 点 に 関してはご 心 配 には およびませ ぬ 。当
「 あの 時 は 、ありとあらゆる街 道を光 秀 方 に 押さえ
方 の 伝 令 やわっぱ( 忍 び の 者 )等に 秀 忠 公と常に
られ ておりました 。そこで 、仕 方 なく伊 賀 の 険しい
連 絡をとらせてござりまする」
山 道を経て 加 太 峠を越え、伊 勢 の 白 子 から海 路 で
家 康はすこし安 堵したのか 、昔の 事を言い出した 。
「 忠 勝よ、思 い 出 す のう。明 智 光 秀 が 京 の 本 能 寺
で 信 長 公を襲 い 謀 反 に 至ったとき、わしは 堺 で 物
図1 岐阜城への撤退後の布陣図
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岡 崎に 還りました 。あの 時 ば かりは 、殿も当 家 ゆか
りの 京 都 の 知 恩 院 でご自害 の 覚 悟を示されてござ
りました 。
また 、朝 倉 義 景との 金ヶ崎 の 戦 い で 、義 景 の 家
西軍の軍議
老 三 矢 飛 騨 守 率いる二 万 の 大 軍に 、殿 が 先 鋒とし
て 対 峙しておられ た 時 、背 後 で 浅 井 長 政 の 裏 切り
つい
ぶ
西 軍 の 軍 議 に 列 席した 武 将 は 、追 捕 軍 大 将 小
が ありました 。急 遽 信 長 公 の 撤 退 命 令 により数 人
しん がり
の 重 臣 の みで引き返し 、殿 軍 の 秀 吉 公に 助 けられ
早 川 秀 秋 、副 将 の 島 津 義 弘 、毛 利 秀 元 、他に 大 谷
て 無 事 、三 河に 撤 退 できました 。あの 時もお 命びろ
刑 部 吉 継 、安 国 寺 恵 瓊 、小 西 行 長 、長 宗 我 部 盛 親 、
いの 情 況 でした 」
長 束 正 家 、島 左 近 、蒲 生 郷 舎 、脇 坂 安 治 、朽 木 元 綱 、
え
な
けい
つか
ちょう そ
が
べ
さと いえ
「 そうであったな 。わしもあの 時 ば かりは 信 長 公 の
小 川 祐 忠 、立 花 宗 茂 等 岐 阜 城 攻 略 に 参 陣してい
ご 命 令 で先 鋒を承っていたゆえ、越 前 の 一 番 奥 深
る面々である。
くに 陣を 構 えてい た からのう。朝 倉と浅 井 の 挟 み
関ヶ原 の 合 戦 で勝 利しているので軍 議 は 明るい
撃ちにあったの で 、わしも『もはやこれまで』と死を
雰 囲 気 で始まった 。大 谷 吉 継 が 皆 の 前において、
覚 悟したものじゃった 」
「この たび は 、小 早 川 秀 秋 殿 のご 賢 明なるご 判 断
と家 康は 振り返った 。
により我ら西 軍 が 勝 利 いたした 。主 君 秀 頼 公をは
三 人 のよもやま話を遮るように 池 田 輝 政は 、
じ め 、淀 君 様 におか れ ては 大 層 お 喜 び のことでご
「 殿 、一 刻も早くこの 城より退 去 なされませ 。敵 の
ざりましょう。石 田 殿 は 、お 約 束 通り秀 頼 公 のご 成
総 攻 撃は必 ずしも総 大 将 毛 利 輝 元 公の 着 陣を待っ
人まで 、関 白に 小 早 川 殿を推 挙 す べく淀 君 様をご
てとは かぎりませ ぬ 。副 将 が 奇 襲を得 意とする島
説 得なさるつもりであり、我ら西 軍 の 武 将 の 面々か
津 義 弘 や 戦さ慣 れしております 毛 利 秀 元 でござ い
らも同 様に上申いたす 所 存 でござる」
ます れ ば 、如 何なる手を使ってくるか 分 かりませ ぬ
小 早 川 秀 秋は 、
ゆえ急ぐべきかと存じまする」
「 当 初 静 観しておりましたことに つきましては 、皆さ
「あいわかった 。豊 臣 家 の『 千 成 瓢 箪 』の 馬 印 でも
まに 不 信 の 念をお与えし申し 訳なく存 ずる。実 のと
掲 げられたら、浅 野 、黒 田 、山 内も主 家 豊 臣 家には
ころ家 老 の 平 岡と稲 葉 が 東 軍 の 黒 田 長 政と通じ
弓 引け ぬからのう。これは 危うい 。ただちに 退 去 す
ており、平 岡などはわしに 内 緒 で、弟 の 横 山 監 物を
あ
ない
るぞ 。輝 政 、案 内いたせ 」
そこで 本 多 忠 勝 は 重 臣 牧 野 大 膳を守 備 隊 長 に
任じ 、
勝 手 に 人 質 に 出しておった のじゃ。わし の 不 徳 の
致 すところでごさる。
し かし 、わしは 今 は 小 早 川 家 に 養 子 に 入ってお
「 牧 野よ。たいまつをもっと増 やし 、徳 川 家 の 旗 印
るが、秀吉公の親族である。家康の天下にしてしまっ
を倍に 増 や せ 。これ から殿 は 東 の 達目口に 下 山さ
ては 、秀 吉 公に 育てられたご 恩に 報いることができ
れ る 。し かし 、敵 の み でなく味 方 の 諸 侯 にも殿 の
申さず 。豊 臣の天 下を奪い取ろうとする奸 賊 家 康は 、
退 去を 悟られ ることの 無きよう、家 康 公 は 岐 阜 城
生 かしておくわ けには 出 来ませ ぬ 。ここで 誅 殺 せ
おわ
に 在 す か のように 欺くのじゃ 。よい か 、し かと申し
ね ばと考えておりまする。そこで 、皆さまにお 集まり
付 けたぞ 」
いただき、この 難 攻 不 落 の 岐 阜 城をいかに 攻 め 落
と言 い 残し 、家 康と重 臣 の 一 行 は 鼻 高 道を抜 け 達
とす か に ついてご 存 念をお 伺 いしたくご 参 集 いた
目道を通り達目口 へと下 山していった 。 だいた 次 第 でござる」
え
けい
安 国 寺 恵 瓊 が 発 言した 。
( 永く毛 利 家 の 軍 師を務
めた 策 士 )
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もし、小早川秀秋の
裏切りがなかったら歴史は
どうなっていただろうか…?〈後編〉
あなど
「 大 局 的 な 戦 略として 、兵 の 犠 牲を最 小 限 にとど
と秀 忠 隊 三 万 八 千 、合 計 六 万 八 千 の 軍 勢 は 侮 れ
ひょう ろう
めるため 長 期 戦を覚 悟 で 兵 糧 攻 め 戦 法をとるか 、
ぬ 兵 力 でござる。これと戦うには 、こちらの 兵 力 の
それとも兵 、弾 薬 、す べ てを投 入して力 攻 めを敢 行
温 存 が 必 要である。そこで孫 子 の 兵 法にあるように 、
し 、一 気に 山 頂 の 家 康を誅 殺 するかをまず 決 めね
ばならぬ 」
毛 利 秀 元( 西 軍 総 大 将 毛 利 輝 元 のいとこ)は 、
『 戦わ ずして勝 つ』方 法 がござる」
秀 元は 、
「このような有 利な情 況 で、なぜ 家 康を攻 め ぬ のか 。
おく
「 敵の戦 意は地に落ちておる。黒 田 長 政 、細 川 忠 興 、
吉 継 、臆したか!」
いど
山 内 一 豊もこれまでの 戦いで敗 残 兵の 集まりになっ
と挑 みか かる体 で責 めた 。吉 継は 、
ており、戦 意これなしの 状 態 。ここは 輝 元 殿 のご 出
「まあまあ 秀 元 殿 、そうお 怒りにならず 最 後までわ
馬を待 つまでもなく、いますぐ 総 攻 撃をか けるべき
しの 存 念を聴いていただけ ぬか のう。そもそも家 康
である 。秀 忠 の 率 いる精 鋭 部 隊 が 到 着 す る前 に
は 、豊 臣 家 の 大 老 筆 頭という立 場 で 、秀 頼 公 のご
決 着をつけ 、家 康 の 首を取るべきである」
命 令 に 従 って 上 杉 討 伐 に 出 向き、豊 臣 恩 顧 の 武
大 谷 吉 継 は 一 同 の 意 見を一 通り聴 いた 後 、自ら
の 存 念を述 べ た 。
「 力 攻 めは 二 の 手と心 得まする。今 度 の 戦 いでは
当 方 側 の 兵 力の 痛 手も大きいもの がござりまする。
家 康 はこの 一 戦 で負けたとはいえ、家 康 本 隊 三 万
将も合 力しておる。黒 田 、細 川 、山 内 等 の 武 将も主
家 秀 頼 公 に 従ったまでのことでござる。家 康 に 臣
従したわけではござらぬ 。
そこでじゃ。一 つ 策を考えついたのじゃ。大 坂 城
に 早 馬を走らせ 石 田 殿と宇 喜 多 殿を通して 、秀 頼
公 の 馬 印『 千 成 瓢 箪 』を拝 借し 、黒 田 や 細 川に 見
えるように 掲 げるの でござる。彼らは 三 成 憎しと秀
頼 公 の 上 杉 征 伐 の 御 下 命により家 康に 合 力したま
でのこと。主 家 豊 臣 家に 敵 対 する気などないは ず
でござる。秀 頼 公 がこちら側としてご 出 馬なされ た
となれ ば 、必 ず 投 降してくるものと思いまする。そう
すれば 、黒 田 長 政 、細 川 忠 興 、山 内 一 豊をはじめ豊
臣 恩 顧の 武 将は、大 義 名 分 が 無くなりすぐにでも寝
返ることとなりましょう。か れらも豊 臣 家に 対して 逆
賊 の 汚 名を着 せられたまま戦さはいたすまい 。必 ず
恭 順してまいりましょう。そして、恭 順してきたらその
証しとして岐 阜 城 攻 撃の先 鋒を務めさせるのです 」
小西行長が、
まこと
「 真 によい お 考えと思うが 、黒 田 、細 川 、山 内 殿 は
素 直に投 降 するだろうか 」
大 谷 吉 継は 、
「 必 ず 、投 降してまいりましょう。投 降させる良 い 策
がござりまする。それ は 、お 家 安 泰をちらつか せる
のでござる。関ヶ原 の 合 戦における我 が 西 軍 の 勝
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利 で 、天 下 の 覇 権 は 豊 臣 家と明 確になってござる。
の 馬 印 の『 千 成 瓢 箪 』を 掲 げ たところ 、岐 阜 城を
東 軍に 味 方した 諸 侯 は 今“お 家 取り潰し ”の 沙
家 康 の た め に 護 って い た 黒 田 、細 川 、山 内 など
汰を一 番 恐 れ ておりましょう。この 時こそ 、慈 悲を
の 主 だ った 武 将 は 、豊 臣 家 に 叛 旗 をひ るが えし
か けてやるのです 。そうす れ ば 、豊 臣 家にとってさ
た 敗 軍 の 将 家 康を 見 限り投 降してきた 。そして 、
らによい 忠 臣となることでござ ろう。各 武 将もそ の
黒 田 長 政 は 率 先し て 岐 阜 城 攻 撃 の 先 鋒 を申し
ことを見 抜 け ぬ“うつけ ”とは 思われませ ぬ 」
出 てきた 。
長 宗 我 部 盛 親は 、
小 早 川 秀 秋 は 、六 つ の 登り道( 水 の 手 口 、馬 の
「 家 康 には 以 前 岐 阜 城 主 だった 池 田 輝 政 が つい
背 口 、百 曲り口 、七 曲り口 、鼻 高 口 、岩 戸 口 )から
ております 。逃 げられる可 能 性も考えねばならぬ 」
の 一 斉 攻 撃を命じた 。
( 図1参 照 )また 、大 津 城 攻
大 谷 吉 継は 、
めで手 間 取り関ヶ原 の 合 戦に 間に 合わなかった 立
「ここで 、家 康 に 逃 げられようと構 いませ ぬ 。天 下
花 宗 茂 、毛 利 秀 包をあわ せると十 万を超える大 軍
の 形 勢 はもはや 徳 川にはありませ ぬ 。岐 阜 城を運
である。山 の 緑 が 、各 隊 の甲冑のカラフルな色にか
よく脱 出 できたにしても、高 齢 の 家 康にはもはや 何
わるほどであった 。
も出 来申さず 。
標 高 三 百 三 十 八メートルもある稲 葉 山 である。
たとえ江 戸 城 に 籠 城しても、江 戸 城 の 防 備 はい
まだ 不 完 全 でござる。長く防 備 できる城 ではござら
馬 は 使えない 上 、絶 壁も各 所にあり難 航 不 落 の 山
城と言われるだけあって攻 撃は 困 難をきわめた 。
いく
ぬ 。また 家 康は 今 回 の 戦さで孤 立しており、この 状
このような状 況 下での 一 番 乗りは黒 田 長 政であっ
況 で家 康に 味 方 する武 将 はおりますまい 。東 軍 側
た 。そして 、ここで 長 政 は 驚きを隠 せないほどの 光
に ついた 伊 達 政 宗 や 東 軍に 味 方した 武 将も、内々
景を目の 辺りに するのである。
に 家 康を見 限りご 赦 免を願う書 状を送りつ けてき
城にはもう家 康どころか 少 数 の 足 軽しか おらず 、
ておる。よって 、上 杉 景 勝を大 将に 伊 達 、佐 竹に 江
もぬけの 殻 であったのである。
戸 城を包 囲させ 、家 康 に 秀 頼 公 へ の 恭 順 の 誓 い
「 家 康 殿 、黒 田 長 政 にござりまする。どこにおい で
をさせるのじゃ。従わ ぬ 時こそ 徳 川 家 滅 亡 の 時 で
か お答えくだされ 」
ござろう」
と叫んだか 返 答 がなかった 。そこへ 家 康 重 臣 の 守
島 津 義 弘は 、
備 隊 長 牧 野 大 膳を、家 臣 が 捕らえてきた 。
「 吉 継ど の 。それ はよい 考えじゃ。わしも賛 成 でご
黒 田 長 政は 牧 野を問い 詰 めた 。
ざる。毛 利 殿 、戦うばかりが 武 将 ではなかろう。どう
「 牧 野 殿 、家 康 殿はどちらにおわ す のか 」
じゃ。ここは 、島 津 の 顔を立ててくれ ぬか 」
この 詰 問 に 対し 当 初 は 渋ってい た が 、そ のうち 薄
毛 利 秀 元も、島 津 義 弘 が 賛 成 であ れ ば 逆らえな
笑いを浮 か べ て言った 。
か った 。
「 黒 田 殿 、関ヶ原 での 戦 いお 見 事 でござりました 。
「 承 知した」
拙 者 感 服しておりまする。そ の 黒 田 殿 ゆえ申し 上
これ で軍 議はまとまったのである。
げましょう。家 康 公 は 昨日の 夜 、す でに 夜 陰に 紛 れ
てこの 稲 葉 山を下 山なされた 」
岐阜城攻撃
長 政は 、みるみるうちに自分 の 顔 色 が 怒りで赤く染
まってゆくの がわかった 。
ふもと
大 谷 吉 継 の 戦 略 は 見 事 に 成 功し た 。秀 頼 公
「 何!!麓 で家 康 殿を護ろうとしていたわれらを見 捨
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関ヶ原の合戦 ifワールド
もし、小早川秀秋の
裏切りがなかったら歴史は
どうなっていただろうか…?〈後編〉
てて逃 げたということか?」
「 物 見 の 連 絡 では 、達目口 の 家 康 本 隊は 鵜 沼 方 面
「 左 様 でござります 」
に移動中とのこと。秀忠の部隊とは半時( 約一時間 )
「 な ぜじゃ。わ れら家 康 の た め 三 成 殿と戦 い 続 け
もす れ ば 合 流 するであろう。秀 忠 の 率 いる三 万 八
てきたのでござる。この 裏 切りの 仕 儀はなんたる所
千と家 康 本 隊を合 わ せ 六 万 八 千となり、迂 闊 には
業 か 。この 長 政をこれほどまでに 愚 弄 するとは ……
手 の 出 せ ぬ 兵 力 である。さてこれ から家 康 がどう
許 せん」
出るか である」
牧 野は止むを得なかった事 情を手 短かに述 べ た 。
しかし 、
どんな 理 由 が あろうとも長 政 には 承 服 でき
かねた 。
「しかし、登り口はすべて我らが押さえているはずじゃ。
大 谷 吉 継は 、
「 家 康 は 、天 下を狙っておる。彼 は 大 変 慎 重 で 用
意 周 到な性 格 の 持 主 であるので、この 時 機に 面 子
にこだわって 再 度 開 戦に 持ち込む 程 愚 かなことは
逃 げられようものか 。家 康 め 」
致 すまい 。ここは一 旦 江 戸 へ 立ち戻り籠 城 策をとっ
牧 野は 、
て 、天 下 の 成り行きを見 定 めるであろうと思われま
「 いえ、逃 げ おお せ たと存じまする。池 田 輝 政 殿 が
する」
以 前この 岐 阜 城 主 でござりましたことは 、長 政 殿も
日ごろ口 数 の 少ない 小 西 行 長 が 、
ご 承 知 でござりましょう。そのとき池 田 殿 が つくられ
「し かし 、六 万 八 千もの 兵 力ならば 先 の 戦 い の 汚
た 間 道 がござります 。それを抜 けて 家 康 公 の 本 隊
名を晴らす べく、陣 形を整え三 河あたりで陣 構えを
に 辿り着き、ぼ つぼ つ 秀 忠 公 の 精 鋭 部 隊とす でに
して当 方と再 度 決 戦に及 ぶ 可 能 性もござろう」
合 流を果たされている頃 合いでござりましょう」
安 国 寺も大 谷 吉 継も、
いま いま
「 忌々しい 家 康 め 、牧 野その 抜 け 道はどこじゃ」
「 それ はまずなかろう。家 康 は 歴 戦 の 知 将 である。
た
「 そ れ は 達目口と申 す 。鼻 高 口をめざして 鼻 高 道
時 節を見ることは 長 けてござる。いま戦う愚 行をし
を下り、途 中 南 に 折 れ て 達目道を降り東 へ 出る抜
て 恥 の 上 塗りはい た すまい 。また 、三 河 は 徳 川 家
け 道 でござる。輝 政 殿 がご 城 主 のとき、補 給 道とし
父 祖 伝 来 の 土 地 でござる。わ れらにとっても三 河
て密 かにつくられたものと思われまする」
で戦うことは 不 利 でござる。まず 、一 番 大 切な兵 糧
黒 田 長 政は 早 速 、
の 調 達 からして地 元 の 協 力は 得られまい 。
「 西 軍 本 陣にこの 仕 儀をすぐにお伝え申せ 。わしも
ここに到っては秀 頼 公にとって家 康は敵に値 せ ず 。
すぐに 下 山 する」
江 戸に 逃 げ たくば 逃 がしてやれ ばよい 。家 康 の 監
と供 回りに 言い 渡した 。
視 に ついては 上 杉 、伊 達 、佐 竹 に 秀 頼 公より下 知
う
早 速 、西 軍 の 軍 議 が 開かれた 。毛 利 秀 元は 、
「 家 康 め!御 身 大 切 で 、味 方 の 武 将 にも何も言 わ
ず 逃 げ 出 すとは 、武 人として 言 語 道 断 、小 心 者 の
49
かつ
すれば 、四 面 楚 歌 の 今 の 家 康は迂 闊には動けまい 。
それ からじっくり家 康を料 理 す れ ばよい 」
島 津 義 弘も、
馬 脚を 現し おったわ い 。黒 田 殿も見 る目がござら
「ここは 深 追 い せ ず 大 坂 城に 凱 旋し 、戦 後 の 仕 置
ぬ のう」
きをせ ね ばなるまい 。各 々方 そ れ でよろしゅうござ
黒 田は 、
るな」
「 面目次 第もござらぬ 。戦 国 の 御 代とはいえ信 義も
島 津 義 弘 の 言 葉には 重 みがあり誰 からも異 議は出
わきまえぬとは 、家 康も落ちぶれたものよ」
なかった 。
安 国 寺 恵 瓊は 、
図2 関ヶ原合戦後の領国支配図
『第二部』
』
父 親「さぁ。どうなったと思う?」
太 郎「わかんないよ!じらさないで教えてよ」
現代のある家族の団欒
父 親は 、わざともったいぶって話しはじめた 。
この 家 は 、夫 婦と中 学 一 年 の 太 郎 、そして 小 学
父 親「 家 康 は 、再 度 豊 臣 家と戦うことは 避 け 江 戸
校 四 年 生 の 花 子 の 四 人 家 族である。太 郎は 、歴 史
城 へ の 撤 退を命じたんだ 。しかし 、ちょうど 吉
しん しん
好きの 父 親 の 歴 史 談 義に興 味 津々である。
田 宿( 現 在 の 豊 橋 )に 着 いた 所 で死んでしま
太 郎「 ねえねえ父ちゃん 、家 康 だったけな 。その 後 、
うんだよ。当 時 のことで 、正 確とは 言 い がたい
どうなったの 」
父 親はコーヒーを飲 みながら、
が 、今 で 言う心 筋 梗 塞 か 脳 梗 塞 だと言 わ れ
ているんだ 」
50
関ヶ原の合戦 ifワールド
もし、小早川秀秋の
裏切りがなかったら歴史は
どうなっていただろうか…?〈後編〉
太 郎「 家 康 が 死んじゃったらどうなるの?」
父 親「 息 子 の 秀 忠 は 、すぐに 豊 臣 方に 降 伏してき
たんだよ」
太 郎「どうして すぐ降 伏しちゃうの?六 万 八 千 の 兵
隊 がいたんでしょ。どうして?」
父 親「 父さんは 徳 川 家 康と豊 臣 秀 吉 の 生きざまの
違 い が 秀 忠 の 判 断 に 影 響を与 えた かもと考
えているんだよ」
父さんがわかりやすく家族に説明をしたことを、要点をかい摘んで簡単に述べてみよう。
[豊臣秀吉]
という人物
[徳川家康]
という人物
① 秀 吉 は 百 姓 出 身なの で 、初 め は 金も家
① 家 康 は 松 平 家という代 々続 いた 大 名 家
来も何も無くゼロからのスタートであった 。
の 嫡 男であった 。した がって 、生まれ な
従って自分 のもらった 給 金を分 け 与えた
がらの 大 名として 譜 代 の 家 臣 に 囲まれ
りして、すこしず つではあるが 協 力してく
て育った 。家 康は充 分な教 育を受けるこ
れる仲 間をつくっていった 。
とができたが 、代々の 家 臣 以 外 交 流して
② 他 の 大 名 家 のように 、先 祖 代々仕えてき
た家 来 がいなかったため 、自分 の 食い 扶
持を 削 って でも秀 吉 個 人 に 従う家 来を
育 てていった 。
( 加 藤 清 正 、福 島 正 則 、
石 田 三 成 、蜂 須 賀 小 六 、大 谷 吉 継 、小
西 行 長 等々は 、
もとは 皆 、百 姓 か 商 人 で
あり武 士ではない 。)
③ 優 秀な人 材はなんとしてでも家 来にし 大
いに 尊 重した 。
( 竹 中 半 兵 衛 、黒 田 官 兵
衛 等々)従って 家 来に「この 方 のためな
ら死んでもよい」と思わせる人 間としての
魅 力があった 。
④自分 の 育てた人をどんどん大 名に取り立
てていったの で 、取り立 てられ た 大 名 は
損 得 考えず 心 から'ご 恩に 報 いるべくご
奉 公 'の 気 持ちが 強い 。
おらず 、また 家 康 はその 人 脈 づくりの 必
要 性 すら感じていなかった 。よって 晩 年
における家 康 の 権 力は 、他 の 大 名にとっ
ては 豊 臣 家 の 権 力 基 盤 が 前 提となって
いた 。秀 吉 の 死 後 大 老 筆 頭として 権 力
を振るえたのも豊 臣 家 あっての 事 であり、
秀 吉から与えられた大 老という肩 書に他
の 武 将 が 従っていただけであって、家 康
個 人に臣 従したわけではない 。
② 関ヶ原 の 合 戦 で負けて権 力を無くしたと
共 に 皆 は 離 反した 。敗 者 である秀 忠 の
境 遇 に 合 力しなかった の は 当 然 の 成り
行きと思われる。
③ 秀 吉と比 べ 他 の 武 将 へ 施しをしていな
い の で 、直 臣 以 外 いざというときに 徳 川
恩 顧 の 大 名として自 分 の 武 門を潰して
でも、合力しようとする武将が独りもいなかっ
たと考えられる。自業自得というべきか 。
51
江 戸 へ 家 康 親 子 が 敗 走した時 点 の 勢 力をみると、
変えているんだよ。自 分 の 家 の 存 続 の ため 、
豊 臣 方 は 3 0 万 から4 0 万 人を動 員 できる力を持っ
誰 に 従 ったら自 分 の 家 の た めになるか が 判
ていた 。家 康を失った 秀 忠にとって 一 層 戦 意 が 落
断 の 基 準だったんだよ。徳 川 家 の 場 合 、家 康
ちたのではないかと思われる。
は 武 将としての 知 略 、経 験 、実 績 等々を皆 が
家 康さえ 生きてい れ ば 、家 康 は 武 将として の 戦
認 めていたので武 将を従わ せることが できた 。
績もあり、時 節 到 来とあらば 元 東 軍 武 将 の 中 から
しかし 、秀 忠にはそれ がなかった 。当 然 、関ヶ
家 康 に 味 方 する者もいたに 違 いない 。ただ 、秀 吉
原 の 合 戦 で 負けたことで 秀 頼 公 から徳 川 家
のように 有 能 な 人 材をとりたてて 大 名 領 主 にして
取り潰しの沙 汰がくることは、明らかだったしね 。
いない 。また 、譜 代 の 家 臣 は 大 切 にした が 家 康 に
そうなれ ば 徳 川 家 の 家 臣 だった 人 は 、自分を
恩 義を感じ 外 様 の 武 将を育て 、領 地を分 け 与え恩
重 んじてくれる大 名 に 仕 え 直 す の は 、ごく当
義を感じさせることが できたにもか か わらず 、それ
たり前 のことだったんだよ」
をしていない 。よって 窮 地に 立った 時 味 方してくれ
花 子「 みんな冷たいね 」
る外 様 の 武 将 が 少 ないこと、また 秀 忠 は 戦さの 経
父 親「『家に仕える』という考えが芽 生えるのは、
もっ
験 が 乏しく、ここで 戦っても勝ち目のない 事 等々充
と後 のことで 、武 士 が ある意 味 サラリー マン
分わかっていた 。
化してからなんだよ」
また 、今 回 の 戦 いで 東 軍 の 総 大 将として 秀 忠 は
責 任をとらされ 切 腹 の 上 お 家“お 取り潰し ”になる
母 親「 徳 川はどうなっちゃったの 」
父 親「 結 論を言うとね 、徳 川 家 は 取り潰しになり、
こと必 定と考えられ た 。そこで 、重 臣 たちはその 先
秀 忠は 高 野 山に 幽 閉されて一 生を終えること
手を打って 徳 川 家 の 存 続 の ためにも、ここで 武 装
になったんだ 。秀 忠 の 正 室 お 江 殿 は 淀 君 の
解 除し 恭 順 の 意を示し 、秀 忠 の 切 腹 だけは 避 けよ
妹ゆえ、大 坂 城 三 之 丸 で余 生を送った 。秀 忠
うとした 。
の 長 子 家 光 は 比 叡 山 、弟 の 忠 長 は 徳 川 家 ゆ
かりの 知 恩 院 で 、僧として 生 涯を全うしたん
父 親「 要 約 するとこういう事なんだけど 、太 郎わか
るかな?」
だよ」
母親「じゃ、
この後の支配体制はどうなったのかしら」
太 郎「う∼ん 。なんとなく」
母 親 のこの するどい 質 問に対し 、
父 親「 太 郎 がもうすこし 大きくなったらわかるよ。今
父親「ワー。おかあさんはいつも厳しい質問をするね」
はそれ でいいんだよ。ところで 、戦 国 時 代 は 、
母 親「あらそうかしら。いつもやさしくしてるでしょ!?」
主 君 の 家 に 従うの ではなく、あくまでも、主 君
個 人に 従っているという考え方 が 主 流 だった
んだよ」
花 子「 意 味わかんない 、それってどういうこと?」
父 親「 判りや すくいうと、徳 川 家 康には 従っても、そ
の 息 子 の 秀 忠 が 愚 鈍 であれ ば 必 ずしも従う
とは 限らないと云う事なんだよ。秀 吉も信 長 の
子 孫に 政 権を譲ってないよね 。
また 、藤 堂 高 虎という武 将 は 七 人も主 君を
52
関ヶ原の合戦 ifワールド
もし、小早川秀秋の
裏切りがなかったら歴史は
どうなっていただろうか…?〈後編〉
文 治 派と呼ばれていた人々だよ」
む ほん
父さんがその後の政治体制について、家族
に説明した要点をかい摘んで述べてみよう。
1 . 武 家 政 権と公 家 政 権 の 二 元 支 配を廃 止し、
摂 関 家 等 の 公 家 制 度を廃 絶 する。律 令 制
度を範とし、官制は太政官、神祇官と八省(中
務 省 、式 部 省 、治 部 省 、民 部 省 、兵 部 省 、
刑 部 省 、大 蔵 省 、宮 内 省 )で 天 下を治 める。
2 . 天 皇を国 主とし、豊 臣 家 の 当 主は天 皇を補
佐すべく関 白または摂 政 になる。
3 全 国を十 五 の 領 国 に 分 割 する。ただし東 北
の 北 部と蝦 夷は豊 臣 家 の 直 轄 地とする。
4 . 各 領 国 に 一 大 老と十 奉 行を任 命し、連 邦
政 府を大 坂 に 置く。また、各 領 国 の自 治 支
配を認める。
つかさど
5 . 国 の 政 務を掌る十 四 の 大 老 の 内 、常 に 九
名 以 上 が 大 坂 の 連 邦 政 府 に詰めることとし、
国 政 のため 大 坂 に 二 年 、国 許 に 一 年 居 住
とし、大 老 の 正 妻は 常 に 大 坂 に 在 住させる
ものとする。豊 臣 家を中 心とする大 老 の 合
議による集 団 指 導 体 制を敷く。
6 . 金 山・銀 山はすべて豊 臣 家 の 直 轄 地とする。
7 . 海 外との 貿 易 港は各 領 国 一 つとし、再 度 検
地を行って石 高を確 定させ豊 臣 家 六 百 万 石 、
大 老 は 一 律 二 百 万 石と定 める 。各 領 国 の
奉 行は主 君である大 老 が 決め、大 老から家
禄を授けることとする。
8 . 大 老 の 処 遇 の 決 定 権 は 豊 臣 家 にあるが 、
原 則として 大 老 の 合 議 で 発 案し 豊 臣 家 に
上 申 、決 裁を受ける体 制とする。
母親「もし、
大老の誰かが謀反を起こしたらどうするの?」
父 親「 いい 質 問 だね 。その 抑 止 力として 圧 倒 的な
財 力と軍 事 力を豊 臣 家 が 持 つようにしたんだ 。
豊 臣 十 五 万 騎と呼 ば れる連 邦 軍をつくり、最
新 の 装 備 で富 国 強 兵にもっとも力を注いだ 政
権 であることが 特 徴なんだ 。一 方 大 老 たちに
はきびしい 軍 備 の 制 約を設 けんだよ」
花 子「 それじゃ他 の 大 老さんたちは 、戦っても負け
るじゃない 」
父 親「 そうだね 。豊 臣 家 に 対して 逆らっても、まず
勝 てないと思 い 込むだろうね 。その 思 い が 抑
止 力になっていたんだ 」
太 郎「 武 家 政 権と公 家 政 権 の 一 元 化って 、
どうい
うことなの 。」
さかのぼ
父 親「 それ はね 、こういうことなんだ 。遡ること奈 良
時 代 、平 安 時 代 に は 、律 令 制 度 に 基 づ い た
地 方 官 吏「 国 司 」が 徴 税をしたり、治 安 維 持
をしていたんだ 。それ は 太 郎も知ってるよね 。
しかし 、
『 墾 田 永 年 私 財 法 』の 施 行 で次 第に
土 地の 私 有 化( 荘 園 )が す すんで荘 園 が 増え、
のが
国 司 の 過 酷 な 徴 税 行 為 から逃 れるた め 、地
方 の 土 豪 や 農 民 は 、自 分 の 土 地を国 司 の 力
では 対 抗 できない 中 央 の 有 力 貴 族 や 寺 社に
積 極 的に 寄 進したんだ 。そして 、その 荘 園 管
理を任された 土 豪は 、荘 園を守るため 荘 園 領
主( 有 力 貴 族 、寺 社 )に 頼まれ て 、武 器を 持
つ武 士となっていったんだ 。ここまでは、わかっ
たかな」
太 郎「 土 豪 や 農 民 からす れ ば 、荘 園に 組 み 込まれ
た 方 が 税 金 が 安 かったんだね 。そこまではわ
かったよ」
父 親「まぁ、父さんの 記 憶 は 大 雑 把 だ が 、だいたい
このように 決 められていたんだ 」
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父 親「 鎌 倉 時 代 になると、征 夷 大 将 軍 に 任じられ
た 頼 朝 は 、国 司とは 別 の 守 護 、地 頭を置き諸
太 郎「この 政 治 体 制は 、誰 の 構 想なの 」
国 の 治 安 維 持 や 徴 税 権をもった 土 地 の 支 配
父 親「 主に石 田 三 成 、小 西 行 長 、長 束 正 家 等 、当時 、
権を 、彼らに 認 め ていったん だ 。ここで 武 家
の 守 護 、地 頭と従 来 からの 国 司 の 二 重 支 配
三 成は 貿 易 立 国をめざしていたので、交 易に
が 始まったわ けなん だ 。律 令 制 は 実 質 上 崩
よる富 国 強 兵を提 唱したんだ 。従って 、文 化
壊し 、律 令 制 で 定 められ た身 分( 正 二 位とか
や 軍 備もイギリスやフランスと同じように 進 歩
従 三 位など )制 度 の み が 残り、実 権 の 伴わな
してきたんだね 」
い 権 威 づ け の み の 官 位 名 称 になっていった
んだよ」
母 親「 それを豊 臣 政 権 が 、名 実 共にある身 分 制 度
にしたの?」
太 郎「だから、
日本は植 民 地にされることもなくずっと
独 立 国として 統 治 できたんだね 。ところで 、今
の日本は18州あるんだけどどうして?」
父 親「それはね 。三 成 が 決 めた 領 国 がその 後その
父 親「 そうなんだ 。大 老 は 全 員 正 二 位 にし 、軍 事
まま1 9 世 紀 後 半に州となって、今に至っている
力をそなえた 権 力 に 従 来 からの 天 皇 制 のも
んだね 。そしてその 頃までにアメリカやフラン
つ権威を加味して、権威と権力の一元化を計っ
スの統 治 方 法を学んで取り入れたんだよ。また、
たんだ 」
天皇は国王ではなく国政に口出ししないが、人々
太 郎「じゃ。天 皇 の 権 威を利 用して 国を治 めようと
したんだね 」
に敬 愛される存 在という形になったんだ」
父 親「 花 子ちゃん 。わかったかな!」
母 親「だったら豊 臣 秀 吉 の 統 治 手 法 の 踏 襲ね 。」
花 子「ちょっとだけ … … 」
父 親「でも、天 皇 の 権 威を利 用したのは同じだけど 、
父 親「 そうだ ね 、小 学 校 四 年 生 だもんな 。でも、そ
秀 吉 の 独 裁 体 制とはだ い ぶ 違うよね 。また 、
のうちわかるよ」
筆者より
これまで、関ヶ原合戦のifシリーズ3編にわたって書いてきた。3編とも歴史書
を書いたつもりはない。あくまで小説として書かせていただいた。従っておもし
ろさを感じていただければ、
それだけで満足である。いま語られている歴史は
勝者の歴史であり、敗者の視点から語られていない。
勝者は一方的に敗者を抹殺する権限をもち、敗者の大義を永久に奪い去る
ことが出来る。
『明日を読むには歴史に学ぶべきである。』と思う次第である。
(2013.2.7)共立総合研究所 特命研究員 霊山顕彰会岐阜県支部事務局長代行
三矢 昭夫
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