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Pursuing the possibilities of multi
国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Presenter Interview
2012.9.28
プレゼンター・インタビュー
Pursuing the possibilities of multi-genre “dawon arts”
Festival Bo:m
多元芸術の可能性を追求する
フェスティバル・ボム
Profile
キム・ソンヒ氏
Ms. Kim Seong-Hee
(社)フェスティバル・ボム代表、桂園芸術
大学助教授、GANESA PRODUCTION 芸術
監督、多元芸術刊行物「Ob_scene」共同代表。
このほか、光州アジア文化開発院理事、韓国
舞踏記録学会理事、芸術経営支援センター委
員。
梨花大学舞踊科を経て、ニューヨーク大学芸
術経営学修士、慶熙大学経営学博士。02 年
から 05 年まで MODAFE のディレクターと
して活動し、07 年に「スプリング・ウェーブ・
フェスティバル」を立ち上げ。08 年からは
「フェスティバル・ボム」の総監督。
共書に『芸術経営』
(02 年/テハク社)
、
『文
2000 年代に入り、韓国では “ 多元(ダウォン)芸術 ” という言葉が俄に注目さ
れるようになった。多元芸術とは、ダンス、演劇、美術、音楽、映画など、現代
芸術の全ジャンルを横断する、韓国におけるクロスオーバー・パフォーマンスを指
す。そのシーンをリードし、現代芸術のあり方を問い直して若い観客層からの支持
を広げているのが、2007 年にスタートした「フェスティバル・ボム(Festival
Bo:m)
」である。このフェスティバルを主導している総監督キム・ソンヒさんに、
韓国舞台芸術界の新しいキーワード “ 多元芸術 ” とそれを具現化しているフェスティ
バル・ボムについて聞いた。
聞き手:木村典子[舞台芸術コーディネーター・翻訳者、在ソウル]
写真提供:
(社)フェスティバル・ボム
化芸術経営の理論と実際』
(02 年/考える木)
があり、2012 年に『未来芸術』を出版予定。
フェスティバル・ボム
Festival Bo:m
Address:
ソウル特別市鍾路区貫鉄洞 12-2
エンジェルビルディング 6F
festivalbom[a]gmail.com
http://www.festivalbom.org/
■
──まず最初に、ここ数年韓国の文化芸術界のキーワードになっている “ 多元芸術 ”
についてお聞きしたいと思います。この言葉は、フェスティバル・ボムが “ 多元芸術
フェスティバル ” というタイトルを掲げたことによって一気に知られるようになりま
した。“ 多元芸術 ” とは、どのようなものですか。
よく外国の方に “ 多元芸術とは何? ” という質問を受けます。日本の方からもずい
ぶんと尋ねられましたね。実は私たちも関係者が集まると、この言葉の定義を討論
することがあるほど、固定された定義や概念がありません。異なるジャンルを組み
合わせて新たに創造するクロスオーバーなアートと言えるとは思いますが、美学的・
形式的な定義もありません。実は、アートの現場から生れたカテゴリーではなく、
行政的便宜のために人為的につくられたカテゴリーなんです。
故盧武鉉大統領(03 ~ 09 年)は、社会全般にわたりヘゲモニーを解体して分散
させる政策をとりました。それは文化政策にも適用されました。元来、韓国の文化
芸術界はどのジャンルもトラディショナルなものが強固で、インターディシプリナ
リー、フリンジ、アンダーグラウンド、インディペンデントなど、オルタナティブ
なものは疎外される傾向にありました。公共の助成システムにおいてもそれは顕著
でした。これらオルタナティブなアートを助成の対象にしようとしたのですが、往々
にしてジャンルが混在していることが多く、演劇でもなければダンスでもない、美
術でもないし、音楽でもないと、カテゴリー分けができなかったのです。そこで誕
生したのが “ 多元芸術 ” という言葉です。
既存のカテゴリーに該当しないものは、この多元芸術に分類されるので、実態が
わかりづらいのだと思います。私は助成金の審査に参加することもあるのですが、
審査員によってその考え方や見方が異なり、議論になることも多々あります。面白
いですよ。
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──多元芸術は文化政策のためのカテゴリーだったんですね。
行政的便宜で生れたカテゴリーではありますが、逆に定義づけがなかったがため
に自由な発想で解釈し創造するアーティストも出てきて、多様な広がりをみせてい
ます。また、これまで社会的にはアートと認識されずにいた活動や作品も価値をも
ち始めました。トラディショナルが根強い韓国の文化芸術界において、この多様性
はとても重要です。
──言葉が先行したものの、いろいろな試みが生まれていて、今後がとても楽しみ
になってきました。キムさんはフェスティバル・ボムによってそのシーンをリード
されているわけですが、そもそも舞台芸術の世界に入られたきっかけは?
私は 5 歳から伝統舞踊を習い、母の勧めでリトルエンジェルス舞踊団(The Little
Angels)に入りました。ここで舞踊はもちろん音楽も習い、アメリカやヨーロッパ、
世界各国での公演ツアーに参加しました。幼い頃から芸事に親しんでいたので、芸
術専攻の中・高校に進学し、梨花大学体育学科舞踊科に進みました。大学では現代
舞踊を専攻し、卒業後は同窓生だけが入団できる韓国現代舞踊団に入り、ダンサー
ナム・ファヨン (Nam Hwa-Yeon)
『A Garden in Italy』(2012)
として活動をしていました。私にとっては舞台芸術は日常のもので、何か契機があっ
たわけではありません。当然のこととして、舞台芸術界に身を置いていました。
──ダンサーとして活躍されていたわけですが、ディレクターに転向したのは?
95 年にコンテンポラリーダンスを学びたいとニューヨークに渡りました。1 年ほ
どダンスを学びましたが、すでに 30 歳近くになっていて、ダンサーとして、振付家
として、今後の自分の道はこれだろうか?と迷いが生じました。そんな時、芸術経
営に関心を持ち、1 年ほど英語の勉強をして、ニューヨーク大学芸術経営科に入学
しました。
アメリカでは言葉の壁もあり、アジア人ですから社会的マイノリティーでもあり、
外国に来て初めて自分の生き方を考えることになりました。韓国の社会システム、
舞踊界という世界に籠もっていたので、そのロールモデルが強固にあって、それ以
ヒョン・シウォン (Hyum See-won)
『Cheonsoo Mart 2nd Floor』(2012)
外の自分の生き方など思いもよらなかった。何の疑いもなく、その道を歩んできた
わけです。それが、外から韓国の舞台芸術界と自分の位置を見たら、今後、韓国に
必要なのはダンサーとしての私ではなく、芸術と現場と経営をトータルな視点で担
う人材だと気づきました。
──ニューヨーク、もしくは海外で活動するという選択もあったと思います。
私は早く韓国に戻りたかったです。学んだことを持ち帰って、実践する役割を果
たしたいと思いました。
実は、ニューヨークにいた頃から、LG アートセンター開設準備のための基本計画
づくりやプログラミング、マーケティングなどに参加していました。一時帰国して
いた時に演劇の博士号を取得する準備をしていて、2000 年のソウル演劇祭でロバー
ト・ウィルソンが『海の夫人(The Lady from the Sea)』を公演すると聞き、ボラ
ンティアでもいいから仕事をしたいとお願いしました。それで、当時の芸術監督だっ
たソン・ジンチェク先生に同行して企画チームに参加したのですが、これが韓国に
足場を築くきっかけになりました。
──帰国後はどのような活動をなさったのですか。
国際現代舞踊祭(Modern Dance Festival)のディレクターとして 2001 年から
2005 年まで仕事をしました。国際現代舞踊祭は、韓国現代舞踊協会が 1982 年か
ら開催しているものですが、私が参加する前は、アメリカの現代舞踊やモダンダン
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スが主流でしたし、観客もほとんどが舞踊専攻の学生でした。国際舞踊祭と銘打ち
ながらも、システム、プログラム、すべての面が国内中心で国際水準には至ってい
なかった。このような基本的な問題を専門家の視点で改善し、プログラムのスペク
トラムを広げるとともに、観客を開発するのが、私の目標でした。現在は MODAFE
の愛称で韓国を代表するダンスフェスティバルのひとつになりましたが、この名称
は私がつけたんですよ。
舞踊は身体を媒体とする芸術ですが、現代においてはヴィジュアルアーツやマル
チメディア、映像など、多様なジャンルが身体に接近しています。このような作品
を数多く韓国に紹介しました。観客層も一般の人々へと少しずつ広がりはじめ、文
化観光部調査の「外国人が好む韓国の文化行事」1 位にも選ばれました。
このほか、韓国舞踊界でも独特な世界をもつアン・ウンミ先生のカンパニーとベ
ルリン世界文化の家との共同制作作品『Let's me change your name』(05 年)
、
ピナ・バウシュとの共同制作作品『Let's go』(05 年)、同じくピナ・バウシュと
LG アートセンターとの共同制作作品『Rough cut』(05 年)、芸術の殿堂とヤン・
ファーブルとの共同制作作品『涙の歴史』(06 年)にも関わりました。
ホン・ソンミン (Hong Sung-min)
『The Movie』(2012)
──世界を代表するアーティストたちとの共同制作は韓国にとって画期的なこと
だったと思います。その後、フェスティバル・ボムを立ち上げた経緯を教えてくだ
さい。
MODAFE 事務局を退職し、自分で現代アートの取り組みを始めたいと思うように
なりました。韓国文化体育観光部が MODAFE での実績を評価してくれて、シード
マネーを助成してくれることになり、2007 年に「スプリング・ウェーブ・フェスティ
バル 2007」を組織しました。
今年、旧ソウル駅が文化空間「文化駅ソウル 284」としてリニューアルオープン
しましたが、現在この施設の芸術監督をされているキュレーターのキム・ソンウォ
ンさんが共同ディレクターとして協力してくださいました。キムさんとはジャンル
は異なるものの、価値観が似ており、共感することも多く、公演芸術と視覚芸術、
チャン・ヒョンジュン (Chang Hyun-joon)
『The Occurrence of a Theater』(2012)
デザインや建築の出会いなど、境界的な仕事をしているアーティストを一緒にセレ
クトし、ウィリアム・フォーサイス、ロメオ・カステルッチ、ジェローム・ベルを
含め 15 作品ほど公演しました。
これまで韓国にはなかった新たなフェスティバルを組織するにあたり、「国内外の
公演芸術と視覚芸術を合わせた国際多元芸術フェスティバル」「新しい形式と姿勢、
そして固有の芸術的ビジョンを提示する国内外の若手アーティストの作品作りを制
作」
「国内外の革新的な作品を紹介」
「実験精神を促進させ、新人発掘に重点を置く」
「多
様な文化的背景、特にアジアのアーティストを発掘し紹介」をキーワードに、ダイ
ナミックな同時代的芸術フェスティバルとして、アジアの文化芸術のハブステーショ
ンの役割を担うことを目標に掲げました。この基本ビジョンは現在も変わっていま
せん。
フェスティバル運営は想像以上に大変で、キムさんが共同ディレクターを降り、
私ひとりの総監督体制になった時に名称を「フェスティバル・ボム」に変えました。
ボムは韓国語で “ 春 ” と “ 見る ” という意味をもっています。
──作品選定はどのように行っているのですか。また、毎年テーマを立てて選ぶの
ですか。
基本的には、総監督である私が直接作品を見て決めています。作品を選定するに
あたり、可能な限り直接見て決めるのが原則ですし、そのために最大限努力してい
ます。韓国では芸術監督は名誉職みたいなところがあり、実務は他の人が担当して
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いることがほとんどです。芸術監督として、キュレーション、プログラミング、製
作から実務までトータルなシステムを作るのは時間も予算も必要なのでなかなか大
変ですが、名称はどうあれ、このような仕事が芸術監督だと思っています。
フェスティバルの根幹をなすのは絶対に作品です。アジア全般に言えることでしょ
うが、韓国は近代西洋の枠組みの中で文化芸術が語られ、創造され、システムがつ
くられています。まだ、そこから抜け出していないと思います。同時代アートを国
際的な視点で見て、韓国の文化芸術シーンを動かすことのできる作品を選定してい
ます。
また、世界各地のフェスティバルなどを回っていると、自然とキュレーター間の
ネットワークができて、情報が集まってきます。情報をもらって見に出かけること
もありますし、自分の好きなアーティストの作品を見に出かけることもあります。
アーティストや作品に手応えを感じてもすぐには招聘を決めず、見続けることがあ
ります。アーティストとコンタクトしながら、もっともベストと思われる時に一緒
に仕事をする。アーティストを、作品を、待つ。クオリティーに対して妥協はしま
せん。
ソ・ヨンラン (Suh Yeong-Ran)
『I Confess My Faith』(2012)
多様性を追求したいのでテーマは立てていません。今年は、「アジアのコンテンポ
ラリー」
「ポストドラマ演劇の地図」「日本のテン(10)年世代」「西洋から非西洋へ
の中心移動」という 5 つの観点から作品を提示しました。ただ、毎年フェスティバ
ルを通して学ぶことも、感じることも多く、私自身の思考の変化が翌年の作品やプ
ログラミングに反映されているようなところがありますね。
──プログラミングはどのように変わりましたか。
第 1 回は多元芸術の概念を紹介しフェスティバルの枠組みを構築、第 2 回は西欧
中心から非西欧中心にプログラムのフォーカスを移動させ、第 3 回はポストドラマ
演劇・ノンダンス(Non Danse)・遂行性などの新たな多元芸術の形式を紹介、第 4
回はフェスティバルの規模拡大・多元芸術を代表する世界的なアーティストをライ
ンナップし、第 5 回は国内新人作家の発掘にフォーカスを当てるとともに場所を特
定した作品作りに集中、第 6 回はアジア・コンテンポラリーの定義と形式、そして
談論(Discourse)をテーマにプログラミングしてきました。フェスティバルが終
わると、反省点がいろいろ出てくるのですが、その反省と現場で感じた観客の欲求、
私の思考の流れが、フェスティバル毎にあらわれた結果だと思います。
一番大きかったのは、私の視点が西洋の同時代の紹介から、「アジアの同時代とは
何か」
「アジアの可能性とは」というアジアへの問いかけに変わったことです。アジ
アにどういう作家がいるのか、どう制作に関われるかといった、国内とアジアの作
家発掘に変わりつつあります。この間、韓国で国際的なコンテンポラリーのシーン
を紹介することに重点を置いたなら、これからはアジア/ローカルの作家を発掘し、
制作・支援することにディレクションを変えました。加えて、ビックネームが集ま
る華やかなものより、小さくともやりたいことをやる、作品をきちんとやるフェス
ティバルでありたいと思います。
──予算規模は?
とても低予算で外部には恥ずかしくて話したことがありません。予算を聞いたら、
“ それで本当にあの規模のフェスティバルをやっているの? ” と首を傾げられると思
います。正直にお話しすると、国庫からの助成金は 1 億 5,000 万ウォン(約 1,000
万円強)です。少ないでしょう?
この予算では到底無理なので、国立劇団、西江大学メリーホール、アルコ芸術劇場、
ドゥサンアートセンターなどの劇場や機関とパートナーシップを組み、ファンドレ
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イジングに力を入れています。特に劇場は、実験的な公演をやりたくても観客が見
込めないのでなかなか手を出せずにいます。私たちの方は予算は厳しいけれど、コ
ンテンツと一定の観客がいます。両者が互いを補完できる関係になっています。こ
のようなパートナーシップを積極的に取り入れながら、財源を確保をしているのが
現状です。
── 1 年を通じて事務局は活動する必要があると思いますし、フェスティバル期間
中は同事多発的にソウル市内で公演が行われるのでスタッフも必要です。どのよう
な体制でフェスティバルを運営しているのですか。
専従スタッフは私を含め 3 人です。これ以外に 6 カ月前にチームを組織して、10
人のスタッフを雇用しています。スタッフの少なさもよく驚かれますね。
スタッフは雇用条件がいいわけではないのに競争率がかなり高いんです。これま
でのプログラムの力が大きいと思うのですが、作品がいいから、フェスティバルが
面白いからと申し込んでくる若い人たちが大勢います。アルバイトスタッフのうち
5 ~ 6 人はリピーターで、半年間他のアルバイトをしながらフェスティバルに合わ
せて事務局に参加するメンバーもいます。当日のチケットもぎりや会場整理などは、
芸術学校の学生たちがボランティアで参加してくれています。彼らもプログラムが
面白いから、関わってみたいと思ってくれているのでしょうね。
──観客層は?
当初は 300 席の劇場で 2 回公演をやっても集客は 100 人以下という同時代に関
心を持つマニア層が中心でした。今年は 8 カ国参加、22 作品 49 回公演で、約 2 万
人を動員しました。ヴィジュアルアーツ系が 40%、人文学系が 20%、その他が舞
台芸術やアーティストに関心をもつ層です。また、学生が多く、ひとつ作品を見る
と次は必ず友人を連れて見に来てくれます。彼らは作品から、自分たちの言葉で語
り表現する、自分たちが生きる同時代の問題を感じてくれているのでしょうね。未
来を一緒につくる観客とともにいると思うと、本当に嬉しくなります。
私は資本主義社会におけるマーケティングを学んだわけですが、マーケティング
とは異なる観客とのコミュニケーションとは何かを考えています。その大切な要素
のひとつがプログラムの同時代性とクオリティーです。それによって若い観客と作
品を通じてコミュニケートすることが、次の集客へとつながっていくことも嬉しい
ことです。
──最近注目しているアーティストは?
タイのアピチャートポン・ウィーラセータクン(Apichatpong Weerasethakul)
監督です。2010 年に『ブンミおじさんの森』(Uncle Boonmee Who Can Recall
His Past Lives)をフェスティバルで上映しました。以前から注目していた映画監
督ですが、このフィルムを見た時に私が今考えているものがここにあると思いまし
た。私たちアジアは近代西洋の形式・思考・思索の影響下にあり、神話とか、シャー
マニズムなど、西洋の枠の外にあるものは排除されがちです。これを見事に見せて
くれました。また、西欧から征服された知識人たちがどのように反乱を起こせるの
かに対する省察を与えてくれる映画です。私たちに送ってくれた映像はアーティス
トバージョンでしたが、カンヌバージョンで第 63 回カンヌ国際映画祭パルムドール
を受賞しました。彼には今も注目しています。
韓国のニューウェーブとしては、多元芸術第 1 世代といえるヴィジュアルアーツ
のホン・ソンミン(Hong Sungmin)、セオ・ヒョンソク(Seo HyunSuk)、パフォー
マンスのリム・ミヌーク(lim minouk)、キム・ジソン(Kim Jisun)ですね。リム・
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フェスティバル・ボム
ミヌークはギャラリーなどの空間には収まりきれないアーティストですし、ス・ヨ
ンランは “ ダンスではない ” と学校を卒業させてもらえなかったダンサーで、多元芸
術というカテゴリーがなければ「ダンスではないもの」として扱われていたでしょ
うね。こういうジャンルの境界にいる若い作家たちに関心を持って、将来の可能性、
新しい独自の言語、新しい観点、新しいスタイルを共に創る作業を今後も続けてい
きたいと思っています。
日本では、2008 年と 11 年に岡田利規を招聘し、チェルフィッチュの『ホットペッ
パー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を公演しました。今年は梅田哲也を招聘し
ました。
──多ジャンル、非主流のアーティストに出会うのはなかなか難しいのではないか
と思いますが、海外ネットワークをどのように構築していますか。
日本も同じだと思うのですが、私も含めアジアの舞台芸術関係者はヨーロッパに
ばかり目を向けていたと思います。アジアにどんなキュレーターが、プロデューサー
が、作家がいるのか、真剣に見渡してみたことがありません。フェスティバルで同
時代性を掲げながらも、果たしてアジアの同時代に目を向けていたのだろうか、バ
ランスのあるプログラミングをしていたのだろうかと反省しました。今後、アジア
共同体ではありませんが、どうアジアのネットワークを構築するのか考えています。
──最後にこれからのフェスティバル・ボムの役割は?
余談ですが、私は現在桂園芸術大学という美大で教えています。舞台芸術と芸術
経営を専攻した者が美大で教鞭をとるという時代なのだなあと思うことがあります。
多元芸術が、アートシーンだけでなく、社会の中のボーダーもなくしつつあるのか
もしれません。
これまで様々なジャンル、様々な創造現場に関ってきましたが、多元芸術という
言葉に捕らわれることなく、同時代とは何かを問いかけ、今この時代に感じるもの
をフェスティバルを通して提案していくことが、私と「フェスティバル・ボム」の
役割だと思います。また、若い人たちは学校で西欧のテクストに沿って学んでいま
すが、それがすべてではないということを見てもらいたいと願っています。
新しい道なので数々の失敗もしてきました。新しい道というのは常にマイナーリー
グであり、
闘いです。これからも「フェスティバル・ボム」と私にしかできない役割を、
韓国の文化芸術界と社会の中で担っていきたいと思います。
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