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講座番号:310テキスト

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講座番号:310テキスト
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1.AComparisono
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AmericanandB
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ーアメリカ文化とイギワス文化の比較
要 旨 (P1∼PS、L19
)
〈
前書きとして
〉
この論文培、調査やデータを集めるような科学的な方法を使ったもので誌なく、 20年
のアメリカでの生活と 5年のイギリスでの生活を経た、著者留人の考えからなるものであ
る
。
居住し影響を受けたアメリカの特徴
農業を営む保守的な田舎町
層住し影響を受けたイギリスの特徴
社交的で率重で気敦らぬ北イギリスの町
ChapterIでは、アメリカとイギリスの霞土の広さと麗史を読点にして、文化比較を行っ
ている。
〔視点〕
アメリカ
大きな国 e 新しい欝
イギ 1)
.ス
小さな麗’古い歴史を持つ冨
〔比較)
イギワス
まないし、もちろんイギリスは、も誌や君主政
エリザベス女王には、すでに政治的権力 i
治ではない。しかし、エワザベス女王はイギリス帝国としての象徴として、今なお機能し
ている。皇室は、今で詰政治的主流としてではなく、名自上の指導者として機能している
).スの古い貴族階級は、まだまだ圏内で影の露響力を持っている。イギリス君主
し、イギ 1
は生まれながらの権力によって政治的力を行使しているし、貴族院の大多数のメンバーが、
イートンとハローという予鑓投を経て、オックスフォードやケンブリッジ大学に進んでい
る。イギリスの貴族としてデブレットという本に名前が載ることが、おそろく鰭級組織立
入る流れなのだろう。アメリカの上読のように、四年ごとの選挙を経て選ばれることもな
い
。
事部. ..アクセント
ランカスターの大学で、開設生がし試しばそれぞれの発音と社会構級について話をして
くれた。また、多くの学生たちが、大学生活の時代に劇的に変化をとげた。彼らは富分の
こつけていく。例えば、リパプール出身の友人
方言を捨てよワ上の階級のアクセントを身 L
は、イギリスの南部の出身だとしばし忠言われるほどに完壁にアクセントを変えた。とい
うのは、産業エリアである北部より南部の方が地泣が高かったからだ。
また、エジンパーグの大学のスコットランド出身の友人たちは、生まれた場所と階級を
続出することに一生懸命だった。スコットランドのアクセントは見下される。もし、高給
職につきたいなら、 BBCの発音を身に付けなくて誌ならないと、彼らは言う。 BBCのアク
セントは、' RP
’とも言うが、イギリスの職業語として認識され、 BB
むラジオやテレぜのア
ナウンサーによって使われている。
社会のランクを決めるようなアクセントの概;舎は、アメリカでは皆無である。シカゴや
ニューヨークのような北のアクセントが、間延びをして田舎っ i
まい高部のアクセントより
知的に見られるということはあるが、人々は移住を繰り返すというアメワカの人口の琉動
率の高さの中では、アクセントはほとんど意味を持たないし儲鐘も持たない。
一一アメリカ一一
アメリカの社会には労識者クラスや中流階級や世襲という考え方はなく、階級誌そむ人
の収入によって決まる。アメワカは、環ぐカがあれば誰でも社会の上記立てるという畏主
主義の社会である。例え誌、 100年前、貧乏で学問のなかったアプラハム・リンカーン
辻、彼 (
]
) 五霞さと能力で、大きなアメリカの政治システムの中で高い地遣を得た。また、
アメリカ人は、理想主義的な理想、を、いつも心に抱いている。ただ残念なことは、富を得
たものが不正に権力や権威を振りかざすということが起きていることだ。
事部@@・産主講な道徳
アメリカは、独特の歴史的背景を持っている。アメリカが、いつも厳議な道徳樟を持つ
こ最初に渡った移住者は、宗教的な
ようになったの辻、その歴史的背景むよる。アメリカ l
理由でイギリスからやってきたピューリタンの人たちだった。彼らは、苦難に直面する度、
こ進み移住を広げていく計器を視揺していると雷じた。著者
神法授らを助け、授らが西方 L
法アメリカの中矢部的小さな町の学校で、アメリカに護った人たちは、インデアンから土
地を取るように持の意思を開いたと学んだ。この意思のことを、“明らかな運命”と言う。
こ、授らの関違った道
市民として、クリスチャンとして、最初む移住者たち辻、未開の人 i
を教え正すという費缶を背負っていた。彼らは、百年以上前に、カワフォルニア立たどり
着き、インヂアンの人々を指定探留地に移住させ、責告をもって授らを改宗させることを
寵命だと決めた。その叢粛な道徳は、ピューリタンの先担たちの遺産として、今なお強く
残っている。アメリ:カの中央部泣霊書地帯として知られている。いか立アメリ:カが統治さ
れるべきかということを描いた聖書の解釈に対する支持者たちの、大きな政治上の保守的
な宗教活動の中心になっているa 古い時代の宗教の人気球、最近のアメリ:カの特徴である。
レーガン大統領の選挙は、この地域の社会に大いに態響を受けた。それは、多大多数の道語’
とも言われる。知性に対抗する‘大多数の道徳’辻、アメリカの多くの場所?こ影響を与え
た。アメリカの雑誌やニュース、テレピで、それをポルノと考えるかどうかという検問に
も口を出すしアメリカの学校で祈りが許されるかどうか、また、聖書の天地創造を教える
べきか、それともダーウインの進北読を教えるべきか等が時々論争の的になる。今で辻、‘大
多数の道徳’ i
立、時として暴力的でさえある。
イギリスは、こういった‘大多数む道擢’立よって、大きくは波立つこと誌ない。イギ
リスは、古い国で、北アイルランドでの新!日教徒の戦いなど、過去に多くの血を流す戦争
をしてきたからだ。イギリスでは、はっきりと自黒をつけること誌なく、第三世界の播設
地開発が問題なども、例えばインドを支配するように、それは神の与えた権利であると考
える。イギリ:スは、彼らの植民地問題を、子どものようむ考えているのだ。だから、植民
地開発もよい行いと脅じている。しかしこれはむしろ文化の流れであって、宗教や散穫さ
ではない。たぶんイギリスは、アメリカより処世請を心得ているのだろう。
1.AComparisono
fAmericanandB
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同r
e
ーアメリカ文北とイギリス文化の比較
要 首 位 1∼P6、L19
)
この論文は、調査やデータを集めるような科学的な方法を使ったものではなく、 20年
のアメリカでの生活と 8年のイギリスでの生活を経た、私信人の考えからなるものです。
アメリカでは、私は主に保守的な、主として農業を営むミヅドウエストという場所に住ん
でいました。ですから、私のアメリカ文化立対する認識培、私がもっともなじんだこの特
別な部舎町に深く影響を受けています。イギリスで辻、 2年間、北西部に生みました。そ
して 3年半誌、スコットランドの首都、ヱジンパラに住みました。イギリス人の多くが、
イギリスの北と南はまったく違うと言います。北イギリスの人簡は、社交的で率震で気設
らず、ロンドンやその甫の町に住むもの誌、気患っていて、階級鋭度の影響をとても受け
ていると言います。私 l
立高イギリスよワ北イギ 1)
;
スi
こ詳しく、イギリス巳対する私の考え
方法、北イギワ;スに霊長響を受けていることと患います。
二つの文化の相違をはっきワさせ、二つの文化を比較することから始めたいと思います。
明らかなニつの違いがあります。アメリカがとても大きい国に対して、イギリスはとても
小さな習です。また、アメ 1):カがとても新しい露であるのに対して、イギリス誌とても古
い雷です。これらむことは、あまり示唆されることがありませんが、そこを比較すること
で、そのことの影響や結果によ号、多くの収覆を寄ることができるでしょう。さて、イギ
ス辻、古い国なのでまだ、ある程度階級稿!変に政治がしはいされている。
1
)
もちろん、エリザベス女王には、すでに政治的権力拡あワません。イギワス培、もはや
君主政治で誌あワません。しかし、エワザベス女王は、イギリス帝国としての象徴として、
今なお機能しています。皐室は、今では政治の主誌としてではなく、名目上の指導者とし
て機能しているし、イギリスの古い費接欝級辻、まだまだ圏内で、ある役割を講じていま
す。イギ 1
)J
スの費族院とアメリカ 0)上院が対比させると、イギワスでは、君主は生まれな
がらの権力によって政治的力を行使するの江対し、アメリカの上院誌、選挙を経て選ばれ
ます。そして、そむ選挙は 4年ごとに諜り返されるりです。また、イギ 1)ス的政治の流れ
の記録を見てみると、大多数のメンパーが、イートンとハローという予嬬授を経て、オッ
クスフォードやケンブリッジ大学に進んでいます。イギリスの貴族としてデブレットとい
う本に名前が載ることが、おそらく階級組織に入る流れなのでしょう。
一方、アメリ:カの社会には、労動者クラスや中流措級、世襲という考え方はなく、階殺
は、その人の収入によって決まります。アメリカ辻、環ぐ力があれば誰でも社会の上に立
てるという民主主義の社会です。例えば、 10G年前、貧乏で学簡のなかったアブ、ラハム・
)ンカーンは、授の正室さと能力で、大きなアメリカの政治システムの中で高い地改を縛
1
ました。また、アメリカ人は、理想主義的な理想、を、いつも心に抱いています。ただ残念
なことは、富を得たものが不正に握力や権威を振りかざすということが起きています。
,
,
.
さて、イギリスの社会の階級制度辻、いまだ立重視されています。ランカスターの大学
で、同級生が、しばし出それぞれの発音と社会階級について話をしてくれました。また、
多くの学生たちが、大学生活の時代に劇的に変化をとげました。彼らは、自分の方言を捨
て、よりょの階級のアクセントを身につけていきます。部え試、リパプール出身の友人辻、
イギリスの南部の出身だとしばしば言われる培どに完撃にアクセントを変えました。産業
エリアである北部よ号、甫部の方が地位が高かったのです。
(P4)
同様に、エジンパーグの大学のスコットランド出身の友人たちは、生まれた場所と臨級
を脱出することに一生態舎でした。スコットランドのアクセントは見下される。もし、高
給識につきたいなら、 BBCの発音を身に持けなくて誌ならないと、彼らは言っていました。
BBCのアクセントは、' RP
’とも言いますが、イギリスの職業語として認識され、 BBCラジ
オやテレピのアナウンサーによって寵われています。
社会のランクを決めるようなアクセントの概念は、アメリカでは皆無です。シカゴやニ
まい南部のアクセントよち知
ューヨークのような北のアクセントが、間延びをして田舎っ i
的立見られるということはあります。しかしアメリカでは、人々誌移症を繰り返すという
人口の流動率の高さの中では、アクセントは誌とんど意味をもたないし、価震ももちませ
ん
。
また、アメリカは、独特の歴史的背景を持っています。アメリ:カが、いつも厳粛な道徳
捧を持つよう誌なったのは、その援史的背景によります。アメリカ立最初に渡った移住者
辻、宗教的な理由でイギリスからやってきたピューワタンの人たちでした。後ら辻、苦難
;こ直面する度、神は彼らを去さげ、彼らが酉方に進み移告を広げていく計画を祝揺している
と醤じました。私は、アメリカの中央部の小さな町の学校で、アメリカの初期の歴史を学
びました。その時、アメリカに渡った人たちは、インヂアンから土地を取るように神の意
思を開いたと学びました。この意患のことを、“暁らかな運命”と言います。市民として、
クリスチャンとして、最初の移住者たちは、未聞の人に、彼らの関連った道を教え正すと
いう責缶を背負っていました。
私たち辻、百年以よ前に、カリフォルニアにたどり着き、インデアンの人々を指定保留
地に移住させ、責任をもって彼らを改宗させることを使命だと決めました。その議粛な道
鵠培、ピューリタンの先担たちの遺産として、今なお強く残っています。アメリ:カの中央
部は聖書地帯として知られています。いかにアメワカが統治されるべきかということを描
いた聖書の解釈に対する支持者たちの、大きな政治上の保守的な宗教活動の中心になって
います。古い時代の宗教わ人気辻、最近のアメリカの特徴です。レーガン大統領の選挙は、
この地域の社会に大いに影響を受けました。それは、ー大多数の道徳
性に対抗する
とも言われます。知
大多数の道嬉’は、アメ 1):カの多くの場所に影響を与えました。アメリカ
e
の雑誌やニュース、テレピで、それをポルノと考えるかどうかという検認にも口を出しま
す。アメリカの学校で祈りが許されるかどうか、また、聖書の天地創造を教えるべきか、
それともダーウインの進化論を教えるべきかが、ときどき論争合的になります。今で;;
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多数む道徳’は、時として暴力的でさえあります。
イギリスは、こういった a大多数の道徳’むよって、大きくは披立つこと泣ありません。
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なぜならば、法るかに古い欝で、そのような開題に対して、過去に多くの血を流す戦
争をしてきたからです。例えば、北アイルランドでの新!日教徒の戦いという悲劇的遺産辻、
はっきりと菌民の記櫨に残っています。イギリスでは、しばしば第三世界の植民地開発が
問題になちます。が、野蛮な地域に文明の旗を掲げ、備えばインドのように、支配するよ
うに持の与えた権利と考えました。イギリスは、彼らの植民地問題を、子どものように考
えています。ですから、植民地開発も、よい行いと脅己ています。しかしこれはむしろ文
化の流れであって、宗教や殻鍾さではありません。たぶんイギリスは、アメリカよワ、処
世帯を心得ているのでしょう。致治的側面においても、イギリスは、泣っきワと白黒をつ
けることはあまりありません。
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アメリカ人の塾~さとイギリス入の範産の比較は愛霞Jむの表現です。
アメリカでは鎗理上の深刻さは審員的愛麗主義者のむしろ偏狭な重持を伴っています。
アメジカの私が膏った小さな社会でほ日曜詰と禁自には露大なアメヲカ雷旗をあげていま
した。学技では今はなくなりましたが、国旗に対して患室告を審うという教育を受けました。
野球などの国家的スポーアでは書官もって冨歌の撰奏の時に起立して左手を鵠にあてて歌う
ことを要求しています。このような押し付けがましい愛麗心は特にイギリスにはなく、億
人の家では麗外でイギジス冨旗を揚げるということはありません。
こシェークスピアとミノレトンなど
イギリス人は留に対してとても誇りを持っています。特i
の文化遺産です。しかし、その有名なイギリスのものは、彼らの愛罷心がもの静かでとら
え難く、アメ Pカのように誇示しないのです。
イギリス人はいつも現在の政府はさて置き、自らが主張する権利を持っていると考えて
こ註意して見守り続けることが自由民の特権であると撞じて
います。イギリスの政務を常 i
います。後らは麗家のため i
こという名自はおいて個人の良心を犠牲i
こすることは考えてい
ません。教府と関保する市民の開題は到の比較の問題を聾超します。私は社会的レベルに
おいてはダーウィンの“適者生害”の概念を採吊しています。これは過去の遺物かも知れ
ません。アメリカ鵠拓者の考え方はアメリカ入の考え方に大き牟影響を及ぼしたのです。
私たちは悪天候や倖物不虫、インヂィアンの襲撃に耐えて強い生き残る不屈の精神はアメ
リカ入にふさわしいと考える鎮向があります。アメリカ人のより高く評描する錨人の考え
方は高度で、それゆえアメリカ政府が髄人の自由な知覚を無理に拘束しようとするときは
より危機的な状況になちます。事案、アメリカ桂会では、ずっとすべてのアメリカ人が銃
を持つことを許すかどうかを論議する余地がかなちあ号ます。アメジカ人は市民の{麗人的
こまで政治が千捗することは、政府がこれまで貧菌な人まで病気の治療を保証する
な生活i
基本的な保護誌医療計麗にわずかの予算しか割り与えないという事実が問時は起こっている
ことは苦痛です。それは全くアメジカの格言はこう言っている;癒気にまっても臨らない
よう i
こするために富みのある圏でなくてはならない、と。盤、療費はまさかの事故または病
気は多額の構金をした号、家を抵当 i
こいれるか、生活の危機に寵面することを意味します。
私たちは、第二次世界大戦後の米国の援疲 i
こ対する器い水準を英国と比較@対顛し、副議社
罷家間の鵠ち衣裳を諜用したのです。イギリス政府は菌民農療制度を制定し、補助金が与
え、すべてのイギ Dス市民のために安い震療が受けれる用意をしている。また政府は不就
労者のために最低生活手当て金を保証しました。この生活苧当ては普通失業手当として知
られ、今や 35む万人の英器入不就労者の生活のための重要なよりどころとなっています。
アメリカ人が政府の市民舗人への政治の干渉を離え難いと患っていることは教育と会話の
まとんどのアメ Pカの大学生は自分の教育 i
こ対してお金を払うと患
中にも表れています。 i
っていますがイギジスでは、 i
まとんどの優秀な学生は大学への入学を許され、彼らの研究
i
こ対しでは政府によ 9資金が融資されます。この謀議のために、アメリカのピジネスマン
は後らの爵的のためは国の天然資掠を利用することでほとんど無制隈の患出が保註されて
います。
患うに重い荊罰 i
土アメリカ人の錨入の畠自を強く
ここで言わなければなちません。私が j
望む併とはすべて結び著けられていること。貧しくも宥望な学生は教育を競けるために富
のあるうちは大きな負担を強いられるが、しかし多分、 i
まかな入はすべて彼の患いどおり
になるのです。
盟の資源の無謀な開発は悲劇的な公害と故留に取哲返すことの出来ないダメージを与
えるという結果になると気が付きます。アメリカはさらに自然を散として考えて、支配の
対象として見ているように見えます。私たちも多分またこの姿勢をたどるかもしれません。
そして開拓者の考え方拡強い影響力もっています。アメリカ入は英雄的な開拓移E
誌が涼住
民であるインデイアンとの争い、西部では卒を鵠いならすカウポウイをイメージします。し
かしこの姿勢は実擦の表現上の援界で、ここで辻 20世紀に串然を荒らして略奪者に対し
て対応出来る装鑓を持っていた壌でも、アメジカには保護する法によって十分に守られて
立法とんどあちません。国立公菌から離れているところやアメジカでもっとも美
いる土地i
しいとされる場所のほとんどは潜準的に荒廃していく危険性があ号ます。イギロスの豆大
な人口と経諦活動は現窪、搾物を生み出す農業、農業をするための美しい土地を議してい
ます。イギリス政蒔の公共機関の史跡岳然保護協会が野生を保存するために広大な土地を
購入したことは次の世代が少なくともイギジスのかつてのよう i
こ輝いて晃えるようになる
かも知れないということを意味しているのです。
イギジス人とアメリカ入によって保たれているこの岳然の対比の姿勢は「イギヲスは大変
狭く、古い、アメジカは広く、新しい」と私が話し始めているニ盟関の比較の足跡をたど
立、海は早くからイギジス人の意識に深く
ることが可能です。イギヲスの小さな島の玉麗 i
根ざしたこと i
こよって結びついたということ辻大変はっきちした事3
露である。
土
、
向露題目もまた鰻界があり、管理できる島の工芸さは摂られています。イギジス入自身 l
富分たちが大切に守容所有してきた“廃麗押に象徴的に変嚢させられたのです。
ちょうどイギヲスの田舎
訣然としてその状態のままであるところは、念入りに
管理された煩は塩識の境界によって特徴付けられています。
こ蕗れて霊童か生け壊に題まれ
それでイギリスでは家の持ち主のほとんどは、桂らの家の裏i
たわずかな土地を所有していることを自壊しています。そして人間密震の高い土地では“英
雷式庭園四一一一“日本庭園町のような一一暢古的妄想録と吉然への譲認である。
私辻アメジカの開拓者やイギリスの“護霊園”のような農業に対する象徴(姿勢)が、こ
れら 2つの菌畏の特徴を表現していると患います。
それぞれの題畏的気質は、アメ日カ入は自らを気前がよく、勇気があると特役付けていま
す
。
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彼らには込み合ったところへ企むことを強いちれるという束縛ほ島君主せん。たぶん社
会的な札犠作法の習得と訓練i
こ失敗したのです。
毘大な閣の人達、すなわちアメリカ人ほ、すべてが可能であると信じる楽天主義者であ
ることを明らかに示しています。一方でイギリス人は田本
のように阜くから土地の狭い範題で文明の発達は人々の大きな集屈の簡単な社克上の相互
作用を助長してきたのです。イギリス入の気質はプライパシーを維持が日常生活において
保誌となるべきものであると考えて来ました。
このプライバシーの必要性はイギジス人
の主哀れつきの性癖である控えめな言葉(イギジス人の言語表現の工つの特徴とされる〉
を説明しているのかもしれない;イギジス人とアメリカ人の感受性を比較した時、
たとえば台風のとき、イギリス人は形式的でなく観察を述べる言い方“今自は少し思があ
こ較べ開放的で率躍な表現をします。
りますね”ということがあ号ます。アメジカ人はそれ i
アメリカとイギ日スは表面上、関じ言葉を捷っているにもかかわらず当然のこととして
協た文化の世界記おける占める割合を拡大しているのです。
私たちがすべてふつうの人間性によって繋がっているなら、題籍のトラブノレが起きやすい
環境よりずっと大きな重要点です。私はそれぞれの文化的な謹異は評価が高く、大切にす
るもので無知であってはならないのです。
外題人による旅行者としての視点から、日本を理解しようとする試みを妨げる要素は 3
つある。
1
.宿本語の難しさ。
2
.臼本社会の形式性。
3
.
外菌人を特;
5
1
J扱いにすること。
2章の試みは、吉本人がいかむ欽米の人々と異なっているかということを、特に「託金む
おける自己のあり方Jという視点にたって、外国人旅行者としての観察の克地から述べた
ものである。ただし、著者の考えや惑じ方は欧米の概念からくるものであることを断って
おく。比較寵察の対象としたもの培、家族のあり方、社会風幸子、をと事 i
こ対する姿勢である。
社会における自己のあり方の違いを述べるにあたり、まず、歌米@自ヌドの「自己j を
、
明らかにするために、アメリ:カの離婚率の高さと自本の家族のあり方を倒にとってみる。
1
8世紀半ば i
之、パイロンに代表されるロマン濃の思想が欧米中立広まったことによ号、権
威に対する不脅と放離さが、蔓延していった。そこから発生した「器入尊重Jの思想は今
でも欧米の発想の中心に根ざしている。
アメリカの家庭における離婚率の高さは、そのまま、「{麗人尊重Jの権利を重視した結果
であ号、「個人Jという言葉は、アメリカ社会に完全に定着している。とは蓄え、「鑓人尊
重Jという言葉立法、家庭を守り、家族に対する義務と糞告を果たすということも含まれ
ている。
それに対して、呂本の家庭むおける家族関土の強い幹辻、一見、 1950年代におけるアメ
リカめ家族生活のあり方に叡ている。いわゆる「母窺が家で子棋の世話をし、父親は週末
己家族サービスをし、父母の両親と閑居する j 式であるが、自本の家族のあワ方母、さら
に強烈である。子保辻、両親の庇護をいっぱいに受けて育ったあと、両親が年老いてしま
うと、今度詰その面積j
をみるという霊持が待っている。
散米の調査研究で培、日本人の「自己 Jは、家族と社会的中から逃れられないもので毒
り、そのため、日本人の社会性辻、椙手の「性B
I
J
Jr
年齢j f
社会的地位j によって、振る
舞いを変えることにあるといわれる。家族構成の中でさえ、家族を名前では主主く、「按J「
兄J
「
夫 Jr
饗j 等のランクによって議到し、それほよって、自分の並置を決め、富分の設裂を
決定し、それを演じようとするこの性費は、自己揖]観や、自己制御を生み出すものであっ、
欧米人の性資には見られないものである。
次立社会風儀を倒にとってみてみると、「パーティ Jという言葉でも、アメリ;カと日本で
はずいぶんと異なっていることがわかる。アメリカのパーティは、ホストの友達や知り合
いが、ワインやぜールの入ったグラスを持って、軽いスナックやポテトチップをつまみな
がら、あちこちの人己紹介したり、されたりするカジュアルな立食パーティという意味を
ふくんでいる。音楽を聴いたり、タeンスをしたり、おしゃべりを楽しんだりと、いきいき
している。
しかし、日本のパーティは、セミ・フォーマル形式である。豪華なご馳走ののったテー
ブルの前に
mった客は、お爵をするとき以外は席を立たず、欧米のパーティのように謡を
楽しむことよちも、食べることに熱中している。
これらの違いは、アメリカのパーティは、五歩王主 l
まらず、心地よい主左翼を作り出し奇知ら
ないもの南土が会話を楽しむことを重要視しているのに対して、百本のパーティは、社会
性を曜かめることが呂的であるため、出席者は、知り合い開土であるばかちか、同じ職場
で動いている入試かりで講成されがちな、セミ・フォーマル式のパーティであるところか
らきている。
欧米と吉本の違いは、友人関採においても顕著であるが、アメリ:カで誌招待した友人が
家を訪ねたときにも特別なもてなしを用意することはない。それどころか、料理の準婿を
手缶ってもらった号、後片付けをしてもらうことを当然だと思っている。しかし、日本人
のやり方誌、著者の経験したところでは、招待した友人を、もてなしの準舗をしているホ
ストのそばには近寄らせず、じっとすわって、もてなしを受けることを当然だと思ってい
る。著者の感じたところでは、これ培、自然ではないし、ホストと客の交流を妨げるもの
であるが、そう感じるのは、著者が外蜜人であるからだろう。上記 2つの慌のように、自
本社会にはしばしば形式性が見られる。
最畿の比較む対象として、「仕事に対する姿勢Jをあげる。日本の高産経務成長の裏に培、
自本人の仕事に対する比執!のない伝統的な熱心さがあった。これまで、社会学者たちが述
べてきた「日本社会はー鑓の巨大な家族とも言うべき形態をもってお号、 1
0
0年間に及ぶ鎖
留の影響で、呂本人は変化 l
こ対する興味や関心を失ってしまった;まかりか、自分たちの言
語や見習を、越の文化盟とは異な号“ユニーク”だとみなしているパという意見辻、正し
いとは言えないが、自本の労識者が、歌米の労働者とは比較にならない患誠心やアイデン
ティティを会社記対して持っていることを言いたかったのだろうと著者誌想課する。この
忠誠心という誠意辻、「{富人の尊重Jを権特に掲げる歌米人に法理解しがたいものである。
また、「サーピス j という援念から見ても自本とアメリカではずいぶんと異なる。日本の
サーピスが客を重援し、歪れり尽せちなこと 3
こ対し、アメワカむ労鱒者誌、一人一人が「労
動者j という立場を離れた留人として扱ってもらいたいと鎮っている。この違いは、日本
功労働者が、
r
o
o
会社の人」という設事j
を演じることにアイデンティティを克出している
からであり、髄人のアイデンティティをその中に謹没させていることから生じるものであ
る
。
最後に、∼人一人が注意深く自分の役割を割り当てられており、そのため記、自分に何
が求められているのかを知る.ことができるという日本人の「館入j の考えは欧米人に法理
解でき主いものであるが、これ培、日本人が、「個Jを社会性の統一の中に埋没させてしま
ラのに対して、アメリカ人は「留Jの自由を何よりも尊重するという違いのためであると
言える。
比較文学@文色学
2.E
部 t
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(
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2
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)
旅行者としてであっても、在設者で、あっても日本を訪れた人が素人の社会学者のように物事を眺めることはよくあるこ
とです。訪れた人の国籍や職業が何であっても呂本人のことを無理やりに一般化せざるおえないと思うでしょう。
訪問者はそれらを f
説明jしようとするのです。
w歌を比較しているこのエッセイ辻、主にアメヲカとの比較ですが、私がこの誘惑に駆られないことはないことを
日本と
実証しています。この冨へのほとんどの訪問者がそうであるように、いろいろ「理解jしてみようとすることができなかった
ことと、日本人に 2つの重要な障害が邪麓になっていることを最初に明らかにしておかなければいけませんでした。そ
れは呂本語と日本社会の形式的自然です。何年間も B本語の話し方を勉強しなければいけないし、一人で読み書き
を勉強しなければいけません。おそらくここで考察される振る舞いの入り組んだ護雑さを習得するには荷年もかかるで
しよう。
また、 3つ自の重要な樺害があります。西欧入はヨーロッパの菌から留へと言語による手がかち i
こよってのみ国民性をさ
らけ出して簡単に移動するかもしれません。しかし、もちろん、日本では、わたしたち「外国人J
はすぐに認識され、そし
てこのように、ある意味で、いつも日本の普通の生活でのあたりまえの経験から阻害されるのです。
このエッセイは自本人とヨーロッパ入とのある様式においての違いについて私の印象に基づいてかいています。そし
て、特に、社会と自己個人とのかかわりの特散について書いています。
これは 3つの経験に分けることができるでしょう。一一一家族生活、社会生活、職場での生話。
しかし、最拐に強調しておきたいのは、私が行う比較が一方のやり方が優れているとか、能方が劣っていることを表す
のではないということです。むしろ、誌とんどの生活についての前提が文化的に確定されるということを気がつかせるた
めに明らかにする練習だと患います。日本へ来る前は、私の考えが普遍的なものでそれらは単に人間の特性が特有
のものであると当然のように決め込んで、いました。今では、私はアメリカ人ですが、私の昌己や社会の本来ある嫌念は
とちわけヨーロッパ入が持っているものであるということが分かちました。一そしてそれは詩本人の考え方とは大きく違っ
ているということも。
知つてのとおり、アメリカの離婚率の高さは現代生活の結果を悼む人たちにとっては格好の批判材料になります。
しかし、 50パーセントのアメリカ人の結婚が離婚になってしまうという事実は実際には徴候として涼閣を突き止められる
べきものです。つま号、現代的不調の徴侯ではなく、西欧の思想、における深く意味のある額向として。
それは長い麗史とともにあるひとつの額向なのです。ヨーロッパとアメリカでは 1
8世紀註文学において f
ロマン派j運
動が起こり始めていました。ロマン派の典型的ヒーローは、もちろん、パイロンで、あり、定義したしきたちゃ権威を愚別し
ながらごく普通にヨーロッパ中に披の背信と放縦を誇示した人で、す。高欧詩がロマン派傾向の中でもはや確留としたも
のでなくなったうちに、パイロン的英雄以外のものが見つからなかったところで、儲人は喜んで、 f
一人で頑張る Jかつてそうであったように社会の同意が得られなくても一それで、もアメリカ人とヨーロッパ入にとって大切な精神なので
す
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日本への訪問者が到着して間もなくは、旅行で来たのであれ滞在するために来たのであれ、素人の社会学者
のように物事を眺めることは当たり前である。国籍や職業が何であれ、日本を訪れた人は日本人の一般論を述
べることを強いられている感じがする。彼(ある人〉がそのことを「説明 Jしている。
この日本と西洋、主にアメリカを比較している短い話(小論文)は、この日本と西洋の比較をするという誘
惑にかられないことはないということを立証する。この冨への多くの訪問者のように、私が 2つの重要な障害
によって日本と日本人をいろいろ「理解」してみようとしたができなかったことを最初にはっきりさせておか
なければならない。つまり、日本語と因襲的な(コ裂にはまった)百本社会の本費・特性である。何年も、私
は日本語の読み方、書き方を勉強するということは言うまでもなく、話し方を勉強することを余畿なくされた。
ここ、日本で守られている振る舞いの入り組んだ作法の護雑さを習得することは、外国人にとってそれぞれの
作法の擾雑さに対して酒々に一生涯に相当する時摺を要するのかもしれない。
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3つめの重要な障害もある。西洋人は言語の手掛かりだけによって彼の国籍巷護拐事ことで、あるヨーロツ
パの菌から別の国にいとも簡単に移ワ住む。だが、もちろん日本においてわれわれのような「外人Jは、すぐ
に見分けられ、ある意味では、いつも一般的な呂本の生活の自然な体験から切り離されている。
この小論文は、日本がヨーロッパと違っているあるやり方について、特に社会と鏑人の関の関保に対する日
本人の識念について私の印象で、書かれている(成り立っている入社会生活と勤労生活について、私たち家族
が共にしてきた経験から 3つの地域に分けることができるであろう。だがしかし、私が信じることができない
他より擾れているか劣っているかについて、私の比較が表わしている(=比較からわかる) 1つの方法を最初
に強調して言う(=最初に力説する)。もっと正確に言えば、私は文化的に決定された生活についての私たち
の前提をほ底はっきりと解る(=悟る)ことを解明する棒験だと思っている。日本に来る前は、私泣単に人間
であることの条件に対する特有なものだった自分の個鐘観が世界共通だ、と思っていた。私はアメリカ人だけれ
ど、私は私自身の本質、そしてとりわけヨーロッパ社会の社会擁念を今ではわかっている。そして私の価値観
は人間自身の本質や社会擁念についての日本人の考え方とかなり違っているということも。
周知のように、アメリカ人の高い離婚率は、現代生活の影響を痛烈に非難する人々が好む統計(事実〉であ
る。しかし、アメリカ人の結婚が 50パーセント離麓で終わる(=離婚する)という事実辻、現実にある徴候
と診新される。つまり、現代の櫓怠惑(=不安)の徴挟だけでなく、西洋の考え方の非常に重要な傾向でもあ
運動が高まった。もちろん、
る。ヨーロッパやアメリカでは 18世紀中ごろに文学において「ロマンティック J
典型的なロマン派の旗手はパイロンである。彼は決まって社会横例に逆らながら、そして権威を軽蔑しながら
ヨーロッパ中にパイロンの背信(:不誠実)と放縦(=過度・行き過ぎ)を誇示した。西洋の詩はロマンティ
ク額向のものだけではなかったと同時にバイロン的英雄以外のものもあった。社会の不同意に産面しても(=
社会の同意が得られなくても)「ひとりでやっていくんだJという個々の自発は、いまなおアメリカ人とヨー
ロッパ人の精神に大切なものである。
ある意味で、人は、「告己発晃j という個人(=個々)の権利に対する蕗洋の強調の結果としてアメリカ人
の離婚率を見るかもしれない。この強調はまた噂西洋で成長する女性解放運動と「自助j研究の発畏にも反映
されている。人は、どのような形付け(方向性〉をこの独特な暁究が仮定するのかを知ることができるアメワ
カの大学の掲示板を見る必要性がある。つまり、集団感受性訓練グループから自己睡眠のテクニックと並べら
れている独自の治療研修会の宣缶広告、そして、長寿食の料理教室からヨガの都練会にまで及んでいる「健康
主義、直己主義j 訓練の指導のための数え切れない広告宣伝がたくさんあるのだ。
個重視の当然の結果は、錨人と他人間の関係重視の欠番である。よく家族は社会の縮図と表現されるが、西
洋の個遂行(個達成)の重要視は、高い離婚率によってだけではなく伝統的にアメリカやヨーロッパ社会が共
に家族単位で持っていた責缶や義務の拘束を緩めることによって同時に起こっている。
私が日本について最も驚いたことの一つは、ここ日本では家族擁念(の力)が続いていることだった。この
家族のつながりの強さは、 1g50年代のアメリカ社会をしのばせる盟襲的な面を明らかにしている。つまり
これは、母親が子供の世話をし、一殻的に、週 1屈の休日に車を洗い、磨いて過ごす、ただ日曜日に現れるだ
けの犠いている夫、そして中年夫婦が年老いた両親を介護し、時には一緒に住んでいるその場所を「家」とし
ているのである。
しかし、日本の家族の盟襲性はアメ l);カの歴史の中での著しい中産階級の時代を連想させるのだが、それは
その盟襲性の義務と題、義の規準によって強化されている、と外盟人である私は推謝する。例え誌、子どもと大
人をつないでいる糸辻、その強さゆえ、愛情という繊細主絹で紡がれているというよち誌むしろ紡いだ鋼鉄の
輸に似ていると患える。親が子どもにする世話辻、子どもが交代(顕番)に親を世話するということを合意し
ているのである。西洋人はみな、日本では子どもをかわいがりすぎることに驚く。これほど甘やかされた子ど
もたちを私は今まで見たことがなかった。しかしこの育児は、両親の死まで親に従わなければならないと期待
されているような子どもに重い負担をかける。
西洋でよく知られている家族や社会の両者の要求からの自己分離についての追求は、日本の中において性別、
年齢、そして社会的地位にふさわしい役割を果たすことを望み、熱望さえしている入がまったく存在していな
いようだ。これらの 3つの要素(性別、年齢、社会的地詮)により与えられた役割は、平均的な日本人(市民)
にはっきりとした画一性と{菌性のなさを添えているのである。この例のように、家族の立場において、人法{由
人名で呼ばれることはなく、むしろ妹、兄として、または夫として、妻としてというように家族の地位(身分)
でよく話しかけられる。しかしこのさだめ(運命)によって人に割り当てられた「役割Jや「役割を果たす」
ことを快く認めることは、明らかに悪気がないということでもあり、そして言うまでもなく自己規制と自己抑
制の産物であるということである。この 2つの性質は、自立って多くは富己満足することだけの西洋人の性格
には欠けている。
東西関のこの難解な違い(意味深い違い)は、日本、そして例えばアメリカ共通の「社会生活Jに自然と広
がっている。パーティーという具体的な剣を患いる車り上げ方でその違いを説明するのは最も簡単である。ア
メリカにおいてパーティー辻、とてもカジュアルな(打ち解けた)友人、知人の集まりという意味がある。 1
0代の若者は、彼にピールやワインを勧める友達が開いているパーティーで出会いを期待しているのかもしれ
ない。室内で伎はみんなが間じようにビールかワイングラスを持って立っている、知っている人々と知らない
・2・
人々に会うだろう。ポテトチップスやスナック類がテーブルの上にさりげなく(形式ばることなく〉並べられ、
人々は立って話をするときにそれらをつまんでいるのだ。もしパーティーが暢気なものであれば、必ず誰かが
ダンスミュージックのレコードかテープをかけ、部塵の中央でおしゃべりをしている人々は部屋の端に寄り、
. 3の大患なカップjレが嬬り始めるのである。パーティーに詔持されているアメリカ
家具法移動させられ、 2
人が中年であれば、彼はもっと t慎重にパーティーの服を選ぶであろうし、おそらくビールかワインに加えてカ
クテルを勧めるであろう。
日本のパーティーを私の明らかに乏しい経験から判断すれば、パーティー〈の条件)は何かがかなり違って
レ席にそれぞれ
いるようだ。(==何かがかなり違って運営されるようだ。)私はそのことを豪華な会場のテープ l
のゲストが配置されたセミ・フォーマルパーティーで気づいた。ゲストは普通、お互いに酒やピールを注ぐと
きだけ移動していた。重点は西洋のパーティーと共通している以上に食べることにある。一方、飲酒も開様に
たいへん請すえがたいもので、人によれ培、少なくとも女性は酔いを吹き飛ばしてアメリカ人やイギソス人が期
得しているように寂り乱したくはないのである。
また、西洋のパーティーの重要な特徴は、パーティーが環境をリラックスさせるものであり、組織化されて
いない系体が(型に詰まっていないパーティーが?)もう一度会うことがありそうもない全く知らない人と会
い、そしてうちとけて話をすることを可能なものにするどころか作り上げる(奨励する)という事実である。
一方、とりわけ職場での知り合いを結びつける、セミ,フォーマルで繰り返される日本のパーティー辻、はっ
きりと社会を固めるように計画されている(もくろまれている〉ょうである。
この東西間の違いはもっと基本的なレベルで見ることができる。例えば、それを説明する理由の必要性がな
い日本人とアメリカ人の意見(気持ちの持ち方)である。それはまた、それぞれの社会の友人と一致した考え
の基礎となるものである。アメリカで誌友達はしばし試前もつての打ち合わせなしに訪ねて来ると患っている。
またアメリカ人は文字どおり、食事の準舗を手伝い、食後の食器洗いを手イ云うことで親友の家を自分の家のよ
うに使うつもりなのである。
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(1 6)
私誌しばしば日本人の家に招待され、彼らに大変親切に、そして寛大にもてなされた。
しかし形式的であったり、豊かにしてくれたりしたが、私とホストの間には距離惑を感じ
た。アメリカではコーヒーを飲みながら話したり、いとまを告げる前に掃験するのを手伝
うのに散らかった台所に盛っていたりした。日本では家の最もよい部屋に案内されたワ、
ずらりと並んだ見事な食べ物や欽み物を飲食したりするのに招待された。そして私がイス
から離れることは一度もなかった。あるいは、このことは私が外国人であるからかもしれ
ない。とにかく百本人のもてなしはありのままであることを避けようとしたり、わずかな
樟壁として箆ったりする。少なくとも親密さをリラックスさせると私は時折感じることが
ある。きちんと守られていた職階制度がある程度、知覚できるくらいに日本人のパーティ
ーや家患の両方に残っている。そしてパーティーや家庭の形式化に貢献している。前えば、
妻は夫に仕え、女性従業員は男性従業員に仕えている。
(1 7)
3つ自の比較領域を見てみると、日本人の語力や一生懸命仕事をするのを好むこと泣長
く知られている。小さくて、人口が多く、資源が誌とんどないこの霞は、伝説上の不死鳥
のようである。この国は、すべての西洋の工業イとした留からうらやましがられるほど、捷
撞から経済の寄跡をやり遂げるにまで登りつめた。理由の多くは、東洋の経済的成功を説
明することは、西洋にとって進められたこの菌で 1年間住んだ後、それらの誌とんどは私
たちにはもっともらしく罷こえる。これらはもちろん仕事に対する呂本の労働者の缶統的
な熱意を含んでいる。麗われている会社に責任を持っている。そして彼らの幸撞に謹かい
興味を持っている。(そして方針さえ相談する。〉そして臼本人の能力辻、西洋の缶統的な
仕事環境の欠くことじりできない特設ではなくて、不幸な性質である砦線な論争なんか一切
せずにみんなと親密に仕事をすることである。
(1 8)
ここで借用した社会言語学者の態度を活用してみると、日本人労識者の特徴は歴史的に
見ると説明できるかもしれない。私はよく、日本人は留民的なグループよりむしろ一族あ
るいは大きくなった家族に似た畏族であると開いている。タトの接触から孤立している百本
の文化は、日本社会の披露にある文化的条件が、市民ひとりひとりにとても深く根をおろ
しているので、彼ら詰めったに疑問に思わない、あるいは変わる余地のある考えを認めて
いない。地理的な孤立での日本の長い簡における歴史的な出来事辻、日本人が“独特”と
いうことがここで広く信じられている論理的な結論に達した。それは彼らの言語、生活様
式は、不変に、永久に、 t
生界の他の人々とは離れている。
(1 9)
この信念の影響は、複雑で京範囲のものである。呂本人労働者の影響は、西洋の労働者
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社会学者的な態度を情ワて言うと、自本の労観者の特費は歴史的に説明がつくかもし
れない。話本人というの辻、ひとつの麗のグノレープというよち諒一讃族とか大きく広が
った家族のようだと開いたことがある。外から孤立していた臼本の数世紀が表すのは、
変化を免れないという疑問さえ持たない信念が自本社会の基礎を成している文化的想
録に深く槙付いている、ということだ。長期地理的弧立の歴史的災難は呂本が「珍しいj
という広く知られる考えの論理立結びついている。そり言語や俸の地球上の人々とは不
変に、永遠に }
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jの生活にしてきた独韓の珍しさである。
その撞念の合意は譲雑で広く護透している。畠本人労働者の影響力は自分の職業に地
故に主露盤や特権意識を西洋の労観者よちも感じていると私は患う。主主かぜ神聖イとした
天皇という頭点から下に伸びていくピラミッド確留とした贈層のもとに何世紀も生活
してきた罰本人的経験が表すの辻、労鶴者註企業への忠誠心やその望みへの巌従などで
特徴づけられるということだ。仕事は岳分が生活ですべき最も重要な投書j
をあたえてく
れるもので、試っきワと顎礎 i
こする部分であワ、疑いなく専念するような部分でもあワ、
世事を離れた生活をしたいとの要求を主張する自分昌身の考えや感構に揚げられるこ
ともなく専;念するものであるかのようだ。
いうまでもなくこれちは爵籍がもたらすあらゆる関連問題をおそらく理解しきれな
いだろう n
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eに作られたもので、すべておおざっ誌な一般論だ。
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しかし私詰自分が考える茜祥にお狩る労識者の態度立ついて辻コメントできよう。西洋
功労欝運動の劇的歴史誌鑓人の権利という信:舎の読者と平行して起こっており、それ詰
基本的に捻錨人的講足立対する岳己権科のローマン主義的強轄の延長にある。
(ローマン的精神:ロマン主義、奔放な想像力を重視する時世紀末から開設紀初頭
の思潮。〉西洋の労識者詰自分を雇った企業に i
まとんど愛清を持たないし、もし万ーも
っとよい条件が提示されれぽ飽社に喜んで代わってしまう。職場の機械化がだんだん進
むにつれて、自分が約束された技量の質について感心が薄れていくのを惑とるのだ。労
働者は詮事とはまったく別のもむとして、自分の「本当の人生」や f
本当の自分j を見
る額舟がある。つまワ、最も興味があるものや関心のある趣味や家族についてなどのな
かに自分を見ているのだろう。
日本人と西洋の労働者における対顛はいわゆる f
サーぜス j業において自立っている。
店員や男女均給仕揮によって、石油スタンドの従業員によってでさえ、客に対するその
注意力に単純に驚かされる。アメリカで誌レストランでそれなちの理由のある時開を待
ますぐに冷たい水が
たされた後でも応対してもらえばラッキーである。だが母本で辻客 l
もらえて、季節に応じて冷たいまたは温かい手や顔を拭くためのおしぼちがもらえる。
アメリカで誌もしガソリンスタンドの従業員がフロントガラスを拭くようとはっき
‘
ちと額まれもしないのに拭いたちしたら、それは偶然出会った部外的なところである。
ところが自本で誌、全部が全部の窓を拭いてくれた後に急いで、走って行って、客のため
に交通を止めて、道蕗へ車を導きながらお辞畿をするのだ。
西洋の労動者は自分の鶴人の品泣に重きを置く。給金係、定員、ガソリンスタンドの
従業員は自分り行霊与する召箆いのような在事が自分岳身とは 5
J
!
Jのもおとして見られて
いるかに不安を感じている。もうー震言うなら、日本人はー設的に職業の地位によって
自分に要求される役割?こ溶け込むことに満足しているのだ。日本の労動者拡企業 0)倍程
を導くような特別の制捜を着ると麗い主の下では彊到の個性が寵され、手をつけず、触
れられない。だから自のグロープも上下のつなぎの嬢も名誉のバッジのように着用され
ている。
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結論としていうと、この国と人に対する庄鱒的な部象は不満足な状況を我鑓する才能
があるということだ。地震と台風と撞端な暑さ寒さ、爵期の雨によって引き起こされる
災難のあるこの人口過剰な土地において、茜洋の場合よちも人間が弱いの拡それ以上避
けがたく鳴らかである。強い一体感と親和惑を導きながら、各々 0)菌民をはっきワとし
た投舗に故寵づけている、美しいが強い義務と糞涯の嬬を自本人は発展させてきた。社
会的秩揮によって与えられた安全性もまた裂のレベルむおける貴重な使用語的なのだ。
毘本入拡大変感靖的だ。かれら詰効力のあるそして讃在的に援護L
させるよう註生々しい
感矯をデワケートだ訪れども社会的意思そして習欝的に丈夫な生地に織ち成していく。
本繋が薄っぺらなことや奮頭できないこと、たとえ域、感靖を議発させて表現されよ
うというようなものと加誠したち本震を観縄しようとする富本命社会的なシステムの
強さの関には興味深い関需がある。たとえ器、題体性と重く盟定させられた西洋的な家
具によって永久立援与された幻想が宮本の家に?まない。日本の家はむしろ確かえ主流体的
なもので特教付けられている。つまワスクリーンはその部置の数の変化に合わせてとる
こともつけることもできるし、畳の部屋は夜には寝室、また話中は勉強部屋、岩題、ダ
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−];.として使われる。古いタイプの百本の家で家具が不足しているように見
えるのは、必要に応じてもっとも適切にその機能をいつでも付け加えるかもしれないか
らだ。しかしこの流体的な感じゃ穆まされたち永久的ではないということ辻、宮本の家
試期待されていて部洋的な家は期待されていないけれども、その習賓の静式的なところ
に霧響している。自本人がいかに丁寧にそして社会的に鰯摂された方法で小道具を持た
ない何もないがらんとした部麗ですわったまま犠式のために動けるかということに私
はし試し試驚かされる。
P22
各{麗人が注意深く役離を明確に記列されている事実辻荷が自分に期待されているか
を常に知っているということだ。この保障は西洋では否定される。そして特に先例や伝
というという態めとなる画期的な出来事のない、過去の欠如した新しい簡の窟住者であ
るアメリカ人に辻苔定されてしまう。しかし、平均的なアメリカ入試安定〈安全?安心?
保証?)や日本人的な自己の規律がないし、鑓入の幸福の追求?こ投じるための自出を冨
が自分に保捧をしているという擁:舎があワ、その概念によって不自由法感じないのだ。
アメリカの自自の愛はアメリカの社会の形のない本質の結果や起関の両方である。身体
的立誌人が立ちその運命を鍛え上げるように期待される開かれた大事謀や実りある平
野に反映されている。吉本入試社会的結びつきを残すために個人的主主絶え間ない議牲を
する用意をしている。アメリカ人は 20吉年前のイギワスから母独立宣言にあるように、
個人の自由として自分たちが気づくものに農害してくる社会や菌家の犠牲を脅じてい
る
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よりはるかに忠誠心が強かったつ、仕事と自分を同一課したりする。日本人泣謹盟たる上
下関採、すなわちなかば神性化された天皇を頂点としたピラミッドのもとで何世紀にも渡
って生活してきた経験をしている。それは吉本人労観者が会社へのある種の忠誠によって、
希望への服従によって特設づけられている。仕事は日本人に、生活の中で演じなければな
らない最も重要な“役割”を与えている。それは明確に定義された“部分”であって、そ
のことに仕事を離れた生活をしたいと要求する気持ちになんか抱きもしないで、心全てを
ささげるかもしれないし、疑いを持たないかもしれない。
(20)
言うまでもなく、これらのことは一般的に蔓延している。そして、そのことは人々によ
って形成されている、外国人はそれらをすることができない、あるいは国籍がもたらすあ
らゆる関連問題を本当に理解する。しかしながら私は、西洋の世界での労働者の考え方に
なるために、本が信じている事柄においてコメントすることができる。西洋の労働者の飛
躍的な歴史は、個人の権現における信念の大衆性に匹敵する。そして、基本的に澗人的充
足感への自己の権利に、ロマン主義の重要性の広がりがある。西洋の労骨者は、夜を雇っ
た会社に愛着は少しも感じていない。だから、もし万ーもっとよい条件が提示されれば、
廷かの会社に喜んでかわるだろう。職場の機械化がだんだん進むにつれて、彼はまた、麗
われた会社で、仕事の技量の費について関心が薄れていくのを感じる。彼は、持 i
こ全く自
分の仕事とは離れて‘真実の生活’あるいは‘真実の自己’を、考える。恐らく、最も関
心のあることや趣味や家族の関心についてである。
(2 1)
日本と西洋の労働者の比較は、いわゆる“サービス( sen
丘c
e)”産業において顕著に見ら
れる。私は、この国の j
苔員、ウエイトレス、石油スタンドの従業員によって示される客へ
の対応、にただ単に驚くばかりだった。アメリカにおいては、レストランで適当な時間を待
った後に客が接待してもらえれ誌、ラッキーである。ここ日本では、客のためにすぐに氷
入りの水、季節によっては、手や顔をふく熱いあるいは冷えたオシボリあるいはタオルが
出てくるのが普通である。アメリカでは、接客係がはっきりとフロントをふくようにと頼
まれもしないのに、それをふくという特別なガソリンスタンドに偶然出会う。ここでは、
車の全ての窓をふいた後、客のために通行を止めて通りに送り出し、お辞犠をしながら車
を道路に送り出すという接客係を見る。
(22)
西洋の労働者は、錨人の尊厳に重要性を置いている。ウエイトレス、店員やガソリンス
タンドの従業員は、彼らが行う単純労働から離れた癌々のものとして見られたがっている。
私は、一般的に日本人は、仕事の立場によって彼らに与えられた
役割”にとけ込むのに
満足していると思う。個人のアイデンティティは、日本の労識者は会社のものだと証明す
るのに貸している特別の鋭撮を着ると、職業の“投書J
l
”の下に埋もれ、不変で影響を受け
ない。白い手袋や白いカバーロール、あるいはその他なんでも名誉の印として着用する。
(23)
結論として、この留と人々の圧傍的なの印象は、日本人は不満足な状況をがまんする才
能を持っている。人口密度の高い土地で地震や台風によって、題度の寒暖によって、雨期
の雨によって議々な問題を抱えている。この国の人々の弱さは、西洋の場合よりもそれ以
上避けがたく明らかである。日本人は強い一体感と窺和惑を適合させながら、十分に明確
にされた役割において、それぞれの富民に位置付けられた美しいが強い嬬のような義務と
責任を持っている。日本の社会組織で協議された安全性は、 i
まかの水準において計り知れ
ないほどの価髄のある効用もある。日本人は非常に構緒的な人々である。彼ら泣強力で潜
在的に分裂性を作り上げる。しかしながら、繊細であるが強い社会組織での付き合いや習
横に粗野な感情を入れる。
(24)
本賓の薄っぺらさと信頼性ぉ欠却の間におもしろい関採がある。例えば感情をほとばし
らせて表現されようと、そして日本の社会組織の長所誌性質を穆正したり管理したりする
ことである。鰐えば、日本の家患では、重くてウエスタン調の家具の立体性と不動性によ
って与えられた永続的な幻覚は存在しない。日本の家庭は、むしろある種の流動性によっ
て特徴を表されている。仕切りは移動することができたり、部屋の数を変えることができ
たりする。畳の部震は、日中は勉強や患題、食堂として使われるが、夜になると護室とし
て使われることがある。昔の日本の家庭での家具の不足は、必要に芯じていつでも部麗の
動きを、最も適当に選ぶことができる。しかし、この“流動性”の感覚、あるいは国定さ
れない常震でないものの感覚辻、つまり日本の家庭の特徴辻、西洋人が予期するような形
式的な習積に影響を及ぼさない。私はしばしば礼議正しく、社会的に制限された中で、日
本人誌行動でき、形式的に小道具も何もないがらんとした部墨の中で盛っていることが出
来ることに驚かされる。
(25)
日本で各組人が、慎重に定義された“役割”に入り込むという事実は、その人は何が自
分に期待されているかを常に知っている。この安全性は西洋で辻、そのような個人は拒否
される。そして特に、歴史を持たない新しい菌の住人、アメリカ人は否定する。しかし、
もし平均的なアメリカ人が、日本人の安全性と自制を欠くのなら、アメリカは悟人的に幸
福を追求することを始める自由をアメリカ人に憲法上保障するという考えによって、安心
する。自由を愛するアメリカ入は、アメリカ社会の実体のない本質の原因や結果再方にあ
る。身体のレベルにおいて、開かれた大草療や多産の草原に影響されている。そしてそこ
は人が、ひとり立ちし、自分自身の運命を築き上げようとする。日本人は社会に調和しよ
うと喜んでいつまでも鏑人を犠牲にする。アメリカ人は個人の自由と認めるものを授害す
る状態や社会を犠牲にしてまで、 200年前に英愚から承認された独立宣言として信じて
いる。
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- 3 最近住んでいる志度は、私が明らかにすることができる「二者択一」の対象であるローリング・プレイ
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ーとランカスターを晃事にあわせ持っている(混合することができる)ょうだ。
志度の外見は全く古いというわけでも、新しいというわけでもない。一方でローリング・プレイリーのよう
に「進化J の「犠牲者j のようであり、その一方で時はただ過ぎていっているだけのようである。志度は、
アメリカとイギリスの町の間にある違いのようなすべての一般概念を惑わせるような、奇妙に交じり合った
矛盾がある。
志度の能力法印象的な自然背景にある。:;訟の木々で酉まれた山のある有名な麗島の平らな頂が遠くに i
ま
んやりと見える三日月の形をした湾に位置している。この H
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Jの地元の人々一一般的な吉本人だけれどーはす
ばらしい景色をよく利用している。(=授らの美しい風景が利沼されている点で明らかである。〉〈絞護物と
して)松の木が山では栽培され、家屋や商店が建てられない平坦である広大な土地誌農耕地に転じている。
町は農業社会という古い特散を保持している。ローリング・プレイワーではコーンや大豆が主要作物である
がここ(志度〉で、は小麦とお米である。議も自的をなしている。そのことを隣町の高松へ行く途中、列車中
で会った男性が教えてくれた。「陸で農業しているように、海でも養殖しているんだよ。 Jと。志度湾では、
牡矯や海苔の養議されている場所と漁獲場所ということのしるしであるポールと摺でふつう線で区別され
ている。
しかし、志度の田舎の様子(田富鼠景)は、釣り舟と長方形の水が反射している米熔、そして空が、全く
別の種類の様子に徐々に取って代わりつつある。町を見渡せる丘の上に 3年誌に建てられた私が動いている
大学の存在が、いたるところに伸びているあたらしい建物風景やどこでも明白なせわしなく動きまわる活気
のある気分〈雰囲気?)に(一部には)責任がある。町詰また、主要題道になりつつあるところに泣置して
ます国道の影響は、最も近代的なため、町の中で高業的であり派手な店舗や建物が道路 l
こ
いて、志度町に及 i
面して建っているという事実から明らかである。これまで以上に未来に向けてスピードを上げている日本の
過去と現在の不調和な対面(産茜)は、この町を直撃している。技術的にすばらしい(驚異的な)最近の広
告宣伝看板が見られる一方で、日本の封建時代からかもしれないが、白い服を着ている(普通)女性(労動
者)が、顔を保護用の布で包み、広いっぱの麦わら帽子で太陽から保護し、水田の水に足首までっかりせっ
せと動いている
20世紀と一見したところ時を越えた臼本の過去がこのように篇に同居しているところが、志度のいたる
ところにはっきりと見える。領j
えば、正面に岩(石)、その脇に紅白の落を持つ庭がある木造作りの古いす
ぼらしい寺院は、現在のところお金で済む最新式の修繕工事によって得をなしている。少なくとも今は、(危
険防止用の)シートや足場組で留まれていて、残念なことに建築小麗に取り菌まれているこの寺院は、土を
つついているハトを見ながら縁側で産っている古(いにしえ)の男女を感じさせるかすかな香りを添えてあ
る日、古代の完全な形を残しながら表れるだろう。(霞訳:土をっついているハトを見ながら綾側で座って
いる昔の男女を空気中の香りで、古代の完全な形を残しながら表れるだろう。)
・3-
同様に、志度の家は最新の台所設備、テレビ・ビデオオーディオ設備を構えているにもかかわらず、近代
的な上下水道設構を轟静ているので最も初歩的な「西洋民の j家よりも(そのような設備の面で)劣ってい
る。横文字のキャッチフレーズで彩られた粋な鰻を着で車やバイクで通学する日本の大学生は、西洋の学生
とそんなに違っていないように晃えるけれど、授業が終わると学生の両親や担父母が育った家とあまり違わ
ない家(=下積)に帰っていく。含まれている(構え付けられている〉それらの超近代的な装量は別として、
下宿はふつう水田に屈まれた畳と紙の薄い壁、樟子で引き戸の家である。
志度の気候もまた両極端である。日本で初めての昨年の冬、伝統的な自本家屋は薄っぺらで少しも寒さを
和らげてはくれず、冬の議しさに驚いた。それ以上に、初めての日本の夏、ものすごい害さと耐えがたい蒸
し暑さにびっくりした。そして太陽は、年中、激しくぎらぎらと耀いているのである。ノ好きな英国の気候
について、いつも雨が降り、震が吹き、薄ら寒いという、天気の絶えることのないひどさを人々が知ってい
るので、苦痛(不快)を楽しめる人は英留で住むことを楽しめるというジョークがある。同じようなことが
日本の気設にも言える。日本の自然に慰された陰気な脅威がある。それ(=脅威)は焼け付くような日本の
夏に揺れている(さあ、暑くなるぞと)脅すような特性にと冬の指すような寒さに(暗黙のうちに)含まれ
ている。それは、一年を通してのはっきりとした自然の「曝発(突発) Jである。そのとき(嬢破のとき〉、
. 4B絶えずすっと続く地震、合成、土砂降りという穆で激しい怒りを引き起こす。
自然は 3
・4-
2
.
(1)
私泣 2年間ランカスターの大学にいましたが、実際最初の年泣ランカスターの町にただ
住んでいるという感じだ、った。そのときのことについて述べるだけにします。ランカスタ
ーは実際いくつかの点において、ローリング・プレーリーと異なっている。二国はある時
代の相対的な繁栄から、ある種の経済的衰退へと経過していったという点において、二つ
の町はこじつけの(不自然な〉類似点を共有している。ランカスターはかつて、麗史的な
用語(期間)において、重要なイギリスの町です。ランカシャー外|の州都はパラ戦争で有
名になりました。その戦争法 15世紀に、対立していたランカスタ一家とヨーク家の間で、
衝突しイギリスの王座はチューダー王家の王が即位した。
(2)
大教会を所有しているので、ランカスターを“town
”と呼ぶことは、私には不適当と患
われる。英語の用法では”c
i
t
y
円と分類される。ランカスターの大きさと雰囲気の点では、湖
水地方の南部の起伏している緑の丘に、うまい具合に位置しいている静かな市場町として
私の記慣に残っている。そして輝かしい過去の遺跡が、その町のいたるところに事在して
いる。例えば、町を見護してみると小高い丘の上に、 15世紀の美しい小修道院の教会と
そばには古くて荘厳な灰色の石の塊がある。(ランカスター域)現在は州刑務所として利用
されるまでに落ちぶれている。そしてランカスターは 18世紀には、重要な港町でした。
かつては貿易落人の船が行き交う町を通り抜ける LuneJ
f
lがあり、 Morecambe湾から 3マ
イル向こうに海が開けていた。
(3)
私は 5人の大学生と共有した家のロケーションのおかげで、日常生活でランカスター
の古めかしさを感じる機会に恵まれた。それは George
’
s 免uay通りにあった。かつては確
かに、仕事場の近くにいたかった繁盛している貿易商人によって所有されていた。。e
o
r
g
e
’
S
Quay通り泣 Lune)
I
Iの請にあり、商人の事務所や大きな崖敷のとして使用されたに違いな
い筒り気がなく 3階で灰色の家並みの散在する倉庫や税関といった一連の 18世紀(それ
以前)のものから成っている。
(4)
私の年齢で住むことは、むしろ劇的な方法で私に証明した。 George
’
s舟u町通りは、 J
l
lの
上のドックされた船から、荷物を覆んでいるのを収容するために作られた。しかし Nune
川が時々つりのボート用にだけ使われている。家や倉庫の前のこの小さな道路を利用して
いるのは、馬車で誌なくて大きなトラックあるいはローリー(イギリスでは〉です。不運
にもローリーの重さは、その前にある家と同様に埠頭の構造は比較的に壊れやすく不適当
であーった。そしてそれはトラックなどの大型車が小さな道を音を立てて過ぎていくとき、
私たちの家はしばしば揺れた。ある日私は、長い間このっくりが私たちの貧そで小さな家
が揺れていると気づいた。本棚の後ろで、私たちはひび割れを見つけた。家の反射によっ
てわかったのでるる。そしてそれは、家の持ち主の次に入った人によって、新関でふさが
れていた。一番古い新聞は、 100年以上も前の日付であるのがわかった。
(5)
でも、もし交通によって引き起こされた騒音や家の揺れに苦しんだのなら、家の古いっ
くりがその埋め合わせをしてくれた。ロケーションは、そこを菌白い場所としてくれた。
l
lの前だけでなく、域や小修道院の教会
かもめやつりのボートの日々の光景とともに LuneJ
は波止場で私たちの家から法んのわずかなところで始まったそこへの急な坂のうえに伸び
た道でふさがれていた。巨大な古代の域やかわいい教会、そしてそれは石板上に横になっ
ている白い大理石の天使でいっぱいの墓地?とよって、取り臨まれていた。そして、埠頭を
保護していたり、
mをじっと見ていたり、遠くのベニン山脈の景色を昆るのに首を伸ばし
たりしているこつの威厳ある監視役としていた。
(6)
また、ランカスターのとてもよいパブのひとつに、実は私の家の隣にあった。あるいは、
あなたは“本物のエールの保護運動”について聞いたことがあると患います。それ辻よき
古い時代のイギリスのピー jレを救うためのキャンペーンで、そのピールは利益追求にのみ
熱心な大企業の慢略から、ポップと大麦とイーストを自然に醸造している。そして、複合
企業はパブに発泡性で化学物質のビールを売ろうとしている。とにかくこのパプは" The
WagonandHouses
,,と名づけられて、ランカスター、ランカシャーあるいは、そのことに
かけてはイギリスの全ての中において最もよい数撞の“natural(自然)“なビールを売った。
このパブ辻小さくて薄汚い場所にあり、飽の点において自立たなかった。でも私たち生徒
は、そこが好きだった。なぜならそこは好きなピールが売ってあったし、とても” r
e
a
l“
本
物だった。かつての騎手が所有していたこのパブの気取らない雰囲気だった、また労構者
階級の人たちが好んで足繁く通うところとなった。彼らは、まだ薄汚れた作業着を着たま
まであった。時々彼らはスレンダーでレース用の犬を連れ不叡合いに高貴に見せようとし
た。パブの後ろにはホイペット犬の競技場があった。特によい日にはレースがそこで催さ
れたものだ。観客たちは休憩にパブのあたりをウロウロしたり、手にどーノレジョッキを持
って LuneJ
I
!の手すワのそばに立っていたりした。
(7)
しかし一般的に快晴の日は法とんどなかった。もし、ローリング・プレーリーが金色の
ガラスような子ども時代の思い出を通して思い出されると、たいてい暖かく明るく夏もや
の中で時間をだらだらと過ごしていた。父と芝刈りをしながら子どもたちは人気のない通
りで遊んでいたりした。ランカスターの貯は石で立てられているようだった。いつも灰色
で灰色の空からはな年がら年中雨が持っていた。そして灰色の石や灰色の通りには水が反
射し、かすかに見えた。
(8)
ローリング・プレーリーで私はいつもすぐに過ぎ去る時の経過を感じていた。町のそば
の高速道路がより大きく、忙しく騒々しくなっていった。新しい家々が区画された空き地
や農場に、急激に現れた。そして私が 14設の時、 160人の生徒のいる小さな高等学校は他
の 4 つの学校と統合した。ランカスターでは、少なくとも簡単にはわからないほどの速度
でとてもゆっくしと時間が動いていった。布の中心の新しい建物は外見はおおむね再じで
あった。年老いた人達は 18世紀の特績であるでこぼこ道とともに去っていった。人々が空
想の中で時間を過ごせる古代の市場のホールがある日用品を扱っているマーケットがまだ
あった。きれいな白いつなぎを着た男女が、農場でとれたて卵や果物・野菜を売っていた。
魚震や肉屋は人々を引きとめた、そして大きなクリーム状のチーズやバターを買うことが
できた。
3
.
(7)
でも、もし志度の気侯がひどくなっても、人々は全く気候におびえない。授らは言葉の
壁があるにもかかわらず、変わらず丁寧で、いつも親切にしてくれるし、たいてい友好的
である。この町での 1年半、私を感動させる穏やかで社会的な習積にもしばしば驚きまし
た。一つにはこの 10年間、西洋の私のふるさとと結びつけて考えてみるとあの卑劣な犯
罪や暴力ざたの雰囲気が全然ないということである。そしてローリング・プレーリーの田
舎でさえ免れない。あるいは「知らぬが仏j に当てはまるにすぎないが、標してここにい
る間一人の独身女性として安全だと思った。私はイギリスやアメリカで気づいたことは、
ある状況によって、危検が迫っているとよく感じていた。この安全性は列車に、あるいは
公共の施設に落書きがないということが反映していると思う。西洋で横行している財産礎
壊をここで見つけることはめったにない。
(8)
ここの地域社会の感覚は、西洋のベットタウンや郊外と叡ている。それは私たちが全般
的に失ってしまっている。志度は市民の義務を管理する役書u
のある地域のシステムを担っ
ている。例えば、ごみの処理あるいはその地域で起こった個々の苦情の問題などが挙げら
れる。しかし、この地域のグループは深刻な義務にのみ境わらない。彼らは志度で越の地
域との試合のために運動のチームも作っている。そして彼らはこの町の定期的に関寵され
るきらびやかでよく麗織された“mature “
や
” f
e
s
t
i
v
a
l “に参加する。
4
.
(1)
個人的な記録の結論として、アメリカ、イギリス、日本これらの 3ヶ所での居住は、大
人によって手に入れたれた生活の中で、子どもの純粋な自己中心の癖からより広い視野ま
で私の歩んできた道と似ているように思われる。私の子供時代は、アメリカの西部の小さ
な農業の村で過ごした。私は単にローリング・プレーリーの拡大販を悦にいって考えた。
それは私のクラスメイトの持関の大部分によって、考えられた疑いようのない矯調でした。
私たちは 5議から 1
8裁までの同じクラスを共有しながら小さな町での何もない雰囲気の生
活を共にし、育ってきた。古い友人と遊び仲間は、その地域を決して去ろうとはしなかっ
た。彼らは田舎の男性や女性と結婚し、私が還った同じ幼稚閣や小学校に自分たちの子洪
たちを通わせている。
(2)
大学生として過ごしたイギリスの生活は衝撃的なものだった。初めに、イギワスとアメ
リカ間に外見上に違いがあった。それらはたいてい小さな不便さと推測された。 George
Quay通りの家では備えば熱い水道水がでなかった、更に悪いことに甘やかされた 10代の
アメリカ人集中暖房システムが故障していたりしていた。私は冬に小さな部震で無力な電
気ヒーターに近づきすぎて何枚もスカートをダメにした。初めはランカシャーのアクセン
ト を ほ と ん ど 理 解 で き な か っ た 。 あ る 時 、 例 え ば 円s
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は
”l
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"と新しい単語を奮ってもわかるようになった。イギワス人もま
こ全く違う意見を述べるという中で育ったアメ
たどんなトピックでも述べたがる。一態的 i
リカ人もほぼ同じである。それは私が考えた文化的な想定を普遍的なためになる練習とな
った。
(3)
しかし、イギリスでは、まだ私のいる異なった社会や文化が何であれある素性のわから
ない人間であるということによって、また私が調和することができた感慣によって快適で
あった。この安心感の錯覚が臼本での生活の不安を打ち消した。私は日本人が非常に親切
な人だとわかったのと同時に私の西洋の友達に感じる愛需として、日本人の友人に同じ友
人に同じ愛情を惑じている。髪、民、自の色で分けられた“外人”であろうとなかろうと、
ここを本当の家のように感じた。国民は集団行動や社会的調和を重要視する。私たち外国
人はいつも百本の日々の生活の経験から諮設に切り離されている。しかしこのことは、外
国旅行中に私たちが旅行者の自や心でっかむすべての識見の最も舗値のあるものとなる。
私たちの住む社会のしきたりによって与えられる愚めとなる傘(保護)だとわかる。それ
は結局のところ不変の事実から私たちが避難することができない。その事実は私たちが親
しんでいる文化的背景と分離したということである。イギリス、アメリカ、日本地のどん
な国であろうと、私たちが独力で生活に直面しなければならない。
英国、アメリカ、日本の比較研究の結論として、住んできた 3つの雷々の小さな町について述べる。
最後のエッセーと後に続く 2つのエッセーの意闘することは、私の英国、アメリカ日本社会の印象に関連し
ている。とりわけ、それぞれの文化を前提とした関連性を表わしている。
子供時代のローソング・プレイリ一、大学時代的ランカスター、現在、大学教授として樟き居住している町、
志度の例を用いて説明する。
ローリング・プレイリー:インディアナ州北部の小さな町
実際に地図にも載らないような「町j という名に鍍しないくらいの小さな町λ
たった 2ブロックのメインストリートの周りに行きあたりばったり家が群がって集まった所
特有な色や雰覇気というのは、行き止まりで端は大穀物倉庫への入り口となっているメインストリート
がうまく捕らえている(表現している?)
店舗(郵復局・とてもへんてこな雑貨を売っている店・ソーダ水などの軽食を出すカウンターが特徴の
食料品店・金物墜を含む〉や事務所はこの通りに面している。
子供の頃にはもう 1軒の食料品店と安物雑貨患があったが、これらの店舗はそれ以来、通り野くにでき
た大きく近代的な食料品モールのために立ち退いてしまった。今までになかったような洗練されたもの
が多く、ローリシグープレイリーの子供たちはそこで漫画やお菓子や雑誌などを買った。
故郷の町の名前について、英国や日本の友人(向様のアメリカの小さな町で育ったことのないようなア
メリカ人の間援でさえ〉に話したとき、例外なく「ローリング・プレイリー」が、どれ i
まど民になびく
長い草の稽やかな草原の平和なイメージを思いださせるのだと言う。
〈私が見た〉そのイメージによりもっと似ている世紀の変わり呂の町写真は、ここ 2, 30年聞の、 1
980年代のローリング
e
プレイリーだけれども、そ、のイメージからはるかにかけ離れた現実である。
ローリング・プレイリーのメインストリートは、短いが広い:ハリウッドの西部劇の小さな田舎町を露
骨にあらわす色あせたこれらの写真は道揺の広いことをよしとしている。
馬止め、車止めはこの通りに並んでおり、パーのような建物や銃、サドル、とうもろこし粉やすきを売
っているとイメージする古い雑貨麗が通りに面している。
当時も今も、それぞれの建物は、競り立てた外見がその建物の奥にある本当の姿を隠している。
人をだますようなその「玄関Jは、そのj
吉の本当の形と震を認める気がしないようなみすぼらしいその
奥を諜き見ることができない手の込んだ 2階立てのレンガ造をあらわしているのかもしれない。(レン
ガ造りの正面は、その告が結烏は今にも崩れそうな 1階建ての木の小屋かもしれないという事奪三E
轄し
ているのである。〉
ローリング・プレイヲー;ま空翠小説的な過去と魅力的でない現在を持ち合わせている(表わしていみ)。
近隣にあるバイロンのような古い町になったとき、インディアンの攻撃に滅びてしまった。少な一命畠も
これは、子供のときに知った伝説である。
町の過去と現在のはっきりした対照を代表しているものは、攻撃から残った 1つの家である。
その家の現在の持ち主は、震史的威騒を無謀し、その古見な美しささえも無視していた。アルミ♀ザム
の羽白板で家を覆って家の重要性や外見を完全に変えてしまったのである。いまや、その家はローリン
グ・プレイリーでハンバーガーやルートピアーを買いに車でやってくる若者に人気のある近代的で特徴
ないドライブインの近くに建っているのである。
ある意味で、町の残りはこの家の運命を共有している。最適で、少なくとも町の最も古い区画に住んで
いる家族の中で育った。ブランコとその影が暑い夏の午後にポーチで近所の人達を眺めながらレモネー
ドを少しず、つ飲むのにいい良く育ったライラック群(をはずすことができない)がある広い玄関ポーチ
の広くて白い家に住んでいた。
近所の家が我が家と胃じ(造り)だったことから、我が家i
立たぶ、んローリング・プレイリーに落ち着い
たヨーロッパからの移民である 3人兄弟が建てた 3軒の家の 1軒だったのだろう。
近所で何が一番よかったかというのは家の大きさではなく、近所を囲む様に広がっている芝生の果てし
。
た
ない広がりと不運にも平語な田舎にある主要道蕗にごく近いこの地域にしてはかなり静かなことだっ
近所の最大の特色は木だった。
私たちに,恩恵と抹怠を惜しみなく与えてくれ、ほとんどすべてに登れるカエデ、オー夕、ニレ、クワの
木が数百本もあった。
ひとりの近所の人はこの自然の恵みに無頓着だった。我が家の右隣に授の家族はランチスタイル(牧場
主の平屋の家)というへんてこな西角い籍型の家に住んでいた。彼の家を無意味なものではなくしてい
ものは本当に雄大で調和の取れた飾り気のないヤナギの木だった。ある夏、美しさと静寂だけでなく家
に枝を伸ばしている木が葉を落とすことにイライラして彼はそれを軽率にも叩き切ってしまった。
私の想、議に過ぎないけれど、古い麗史的な家と見事なヤナギの木の運命はローリングープレイリーの運
命(の使者)のように思われた。
外国への旅立ち以来、ローリング・プレイリーはたくさんの魅力を失ってしまった。これは華かに追穏
をぼやけさせてしまう影響によるところが一部にあるが、文明とは逆流している私が育った眠気を誘う
ような小さな町(退屈な町)は、今や「進歩Jという名の犠牲者に過ぎないと思うのである。
そり町を通った高速道路辻、たえずだんだん交通量が増えている。町の樹木に覆われた通りと、もう塗
り直しが必要な見掛けの悪い家を、町の存在を知らない人々によってその先の自的地に車で行く途上の
スピードを出して走っているすべての車やトラックの清け容赦もなくフルンプルンと立てる雑音が取
り巻いている。
しかも(その上)、経済上の生存競争をする力のない人々であるアメリカの 1980年代版の「敗北者
たち j である、裏庭でバーベキューやフィッシュフライやお祭りをしている町を占有しているよ品ぶっ
た中流階級の家族に多く取って代わられた。その人達の小さな町アメリカは、ドリス・ディの古い映画
の中で搭かれていた天真嬬漫で満ち足りた感じではなく、むしろ生き残ることができるという場所だけ
なのである。
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