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レニ・リーフェンシュタール
ベ ル タ・ヘ レ ー ネ・ア マ ー リ エ・リ ー フ ェ ン シ ュ タ ー ル( 1902 年 8 月 22 日 - 2003
年 9 月 8 日)は、ド イ ツの映 画監 督、写 真家 。世界最 年長 のス クー バダイ バー でも あ
った。近年ではレニを「レーニ」と表記される例も見られる。
ナチス・ドイツ時代
ナ チ ス が 政 権 を 獲 得 し た 1933 年 、 リ ー フ ェ ン シ ュ タ ー ル の 才 能 を 高 く 評 価 し た ア
ド ル フ・ヒ ト ラ ー 直 々 の 依 頼 に よ り 、ニ ュ ル ン ベ ル ク 党 大 会 の 映 画 、『 信 念 の 勝 利( ド
イ ツ 語 版 ) 』 を 監 督 し た 。 翌 1934 年 に は 『 意 志 の 勝 利 』( 1935 年 ) を 撮 影 し た 。 こ
の 映 画 は 国 外 で も 高 い 評 価 を 受 け 、 1937 年 の パ リ 国 際 博 覧 会 で 金 メ ダ ル を 獲 得 し た 。
さらに、国際オリンピック委員会のオットー・マイヤーから依頼を受けて撮影したベ
ル リ ン オ リ ン ピ ッ ク( 1936 年 )の 記 録 映 画『 オ リ ン ピ ア 』で ヴ ェ ネ ツ ィ ア 映 画 祭 最 高
賞(ムッソリーニ杯)を受賞した。
リーフェンシュタールはドイツが敗北しナチスが崩壊するに至るまで、党員になる
ことはなかった。しかしナチズムに協力した映画監督としては最も著名であった彼女
は、生涯にわたって批判を浴び続けることになる。
戦後
第二次世界大戦後、リーフェンシュタールはアメリカ軍とフランス軍によって逮捕
された。精神病院に収監されるが、非ナチ化裁判においては「ナチス同調者だが、戦
争犯罪への責任はない」との判決を得て自由の身となった。
その後も西ドイツ国内外のジャーナリズムから反ナチズムの執拗な誹謗と中傷を
受 け 続 け た が 訴 訟 、裁 判 の 結 果 、そ の 記 述 の す べ て に 勝 訴 し た 。し か し 政 治 的 な 誹 謗 、
また「ヒトラーの元愛人」というような流言まで飛び交い、「ナチスのプロパガンダ
映画製作者」というレッテルとそれによる断罪に苛まれ、失意の日々を過ごす。
1962 年 、ス ー ダ ン の ヌ バ 族 に 出 会 い 10 年 間 の 取 材 を 続 け 1973 年 に 10 カ 国 で そ の
写真集『ヌバ』を出版、写真家としてセンセーショナルな再起を遂げる。同年、年齢
を 若 く 申 請 し 実 際 は 71 歳 で ス ク ー バ ダ イ ビ ン グ の ラ イ セ ン ス を 取 得 し 水 中 写 真 に 挑
戦。2 冊の写真集をつくる。しかし『ヌバ』ではその撮影手法がナチスと関連してい
るなどという批判も再び行われた。
晩年と死
晩 年 も ア フ リ カ を 何 度 も 訪 問 し て い た が 、98 歳 時 の 2000 年 に 訪 れ た 内 戦 中 の ス ー
ダンで、搭乗していたヘリコプターが攻撃を受け墜落する事件に遭った。リーフェン
シ ュ タ ー ル は 負 傷 し た も の の 一 命 を 取 り 留 め て い る 。100 歳 を 迎 え た 2002 年 に は『 ワ
ン ダ ー・ア ン ダ ー・ウ ォ ー タ ー 原 色 の 海 』で 現 役 の 映 画 監 督 と し て 復 帰 。こ れ が 生 涯
で 最 後 の 映 画 作 品 と な る ( 世 界 最 年 長 の ダ イ バ ー 記 録 で も あ る ) 。 そ の 翌 年 の 2003
年、長年助手を務めたホルスト・ケトナーと結婚、最期は彼に看取られ死去した。ケ
トナーによれば、自然に鼓動が止まる安らかな死を迎えたという。
評価
リーフェンシュタールの映画人としての手腕は疑いようもなく、とりわけ、ナチス
からの全面支援を受けて『意志の勝利』、『オリンピア』で駆使された稀有な映像技
術、また移動カメラを初めて本格的に使用した表現力とセンスは後の映画界だけでは
なく音楽界(ローリングストーンズのミック・ジャガーはライブのパフォーマンスを
高めるため『意志の勝利』を何度も鑑賞した)に大きな影響を与え続けている点は正
当に評価されるべきである。
一方でナチスや党首脳部との関係を問う声も根強い。リーフェンシュタールのキャ
リアの全盛期は言うまでもなくナチス政権下にあった時代であり、彼女自身は当時撮
った映画について「ありのままを撮った映画」、「芸術のため」と弁明している。し
かし『意志の勝利』は、アルベルト・シュペーアが演出し、ヒトラーや党幹部の演説
をふくめたニュルンベルク党大会の様子を映像化したものであるが、ヒトラーの出演
時 間 は 映 像 の 3 分 の 1、 音 声 で は 5 分 の 1 を 占 め て い た 。 宣 伝 省 は こ の 映 画 を 「 国 民
の映画」に認定し、割引や動員圧力を用いて市民や党員に観覧するようキャンペーン
を行った。リーフェンシュタール自身は「当時はほとんどのドイツ人がそうであった
ように、自分もヒトラーに熱狂していた」としている。しかしリーフェンシュタール
の 1932 年 の 日 記 に は ヒ ト ラ ー の 演 説 を 見 て 強 い 感 銘 を 受 け 、『 我 が 闘 争 』を 読 ん だ と
いう記述があり、政権獲得以前からナチスの思想に親近感を持っていたことがうかが
える。またユダヤ人への迫害や近隣諸国への軍事恫喝を進めていたナチスの指導部を
批判したという証拠も見当たらない。またヒトラーの要請をうけての『信念の勝利』
『意志の勝利』『オリンピア』の撮影は強制されて行われたことではなく、彼女自身
の意思でナチスに協力したことはほぼ間違いない。党員でこそなかったものの、終始
党の指導者たちと親密な関係をとり続けていた。ヒトラーもリーフェンシュタールを
特筆すべき 4 人の女性の一人としてあげているなど、極めて高い評価を与えてい た。
リーフェンシュタールは最後まで自身がナチスと関わった事に罪や責任はないと
主張した。ドキュメンタリー映画『レニ』でのインタビューでは、「一体どう考えた
らいいのです?どこに私の罪が?『意思の勝利』を作ったのが残念です。あの時代に
生きた事も。残念です。でもどうにもならない。決して反ユダヤ的だったことはない
し 、だ か ら 入 党 も し な か っ た 。言 っ て 下 さ い 、ど こ に 私 の 罪 が ? 私 は 原 爆 も 落 と さ ず 、
誰をも排斥しなかった…」と語っている。
100 歳 記 念 の パ ー テ ィ ー を 伝 え る メ デ ィ ア も 冷 や や か な 態 度 で 臨 み 、 戦 後 の 学 者 も
「野心家で真実を知らなかったにしても従順なナチスの協力者として活動し、結局他
人の意見に耳を貸すことなく生涯を終えた」という意見が多い。
現在のドイツでも、リーフェンシュタールの評価は芳しくない。「軽率すぎる」、
「政治に無関心であったとされることを考慮に入れるべき」、「政治的に無関心であ
ったとされるにもかかわらず、政権を握っていたナチスとその指導者たちを自らのた
めに利用した」など意見が分かれる。
語録に「この世界で悪が善よりも強いものならば、とっくに善をくいつくしてしま
っているだろう。それなのに自然はこんなに美しい。春は繰り返しやってくる。自分
は 人 生 に 向 か っ て YES( 肯 定 ) と 言 お う 」「 た と え 何 が 起 こ ろ う と 、 人 生 を 肯 定 し て
生きよう」という自分の生き方と98歳の事故の後に「まだまだやりたいことがいっ
ぱいある」といったものがある。
社会的動物
古 代 ギ リ シ ャ の 大 哲 学 者 で あ る ア リ ス ト テ レ ス ( 前 3 8 4 ―前 3 2 2 年 ) は 、 そ の
講 義 録 で あ る『 ニ コ マ ス 倫 理 学 』に お い て 、 ”人 間 は 善 を 目 指 す 。善 は 幸 福 で あ る 。幸
福は自足である。自足的とは孤立的という意味ではなくて、人間関係から得られる。
人間は本性的に「社会的(ポリーティコン)存在である」から親、子、妻、友人との
関係を含めての自足でなければならない” とのべている。
当時のギリシャはポリスという都市国家からなっていた。
「 国 」は こ の「 ポ リ ス 」の
訳語で、
「 ポ リ ス 」は 城 壁 で 囲 ま れ た 市 街 地 と 田 舎 か ら な っ て い た 。こ れ が 国 の 領 土 で
あ り 、一 番 大 き か っ た ア テ ナ イ の 最 盛 期 で 面 積 1000平 方 マ イ ル( 1 6 平 方 キ ロ メ ー ト
ル )、人 口 1 5 - 1 7 万 人 で あ っ た と 言 わ れ て い る 。そ の た め 国 家 と い っ て も 近 代 の 民
族国家とはだいぶ違っていると思われる。
このことからポリスとは古代ギリシャの都市国家のことであり、「国家的」と訳す
こともできるのである。事実『政治学』において、アリストテレスは、「人間は国家
的( ポ リ ス 的 )動 物 で あ る 」と の べ て い る 。ア リ ス ト テ レ ス に よ れ ば 、 ”人 間 は 自 然 に
よ っ て 村 を 形 成 し 、 「 自 足 」 の 要 件 を 満 た す の は 終 局 の 共 同 体 の 「 国 家 (ポ リ ス )」 で
ある。だから自然必然に「人間はポリス的動物」であるとのべ、同じ集団生活をする
ミツバチとちがうのは、この「ポリス的動物」であるかないかの違いである。
と こ ろ で 、こ れ と ど の よ う に 関 連 す る か よ く 分 ら な い の だ が 、”人 間 は 、他 の 動 物 と
異なって、「ロゴス(理性、言葉)」をもっていて、快楽や苦しみを音声で伝えるだ
け で な く 、そ れ に よ っ て 有 利・不 利 、正 邪 、善 悪 を( 他 者 と )共 有 す る こ と が で き る ”。
このように、人間は、社会的な自足への欲求をもつと同時に、本来「ロゴス」をも
っていて、正邪、善悪を他者と共有する終局的共同体としての国家を形成する。その
意味で人間は「ポリーティコン存在」である。もちろんアリストテレスには奴隷など
念頭にもなく、もっぱら自由市民だけが対象だから、人間=市民=ポリスメンバー=
社会人である。ここから、アリストテレスは後に「人間は社会的動物である」と論じ
た元祖とされるに至った。
橋の上のホラティウス
そ し て 門 の 守 り 手 、 勇 敢 な ホ ラ テ ィ ウ ス は 言 っ た 。「 地 上 の あ ら ゆ る 人 間 に 遅 か れ
早かれ死は訪れる。ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため、強敵に立ち向か
う以上の死に方があるだろうか。かつて私をあやしてくれた優しい母親のため、我が
子を抱き乳をやる妻のため、永遠の炎を燃やす清き乙女たちのため、恥ずべき悪党セ
クストゥスから皆を守るため以上の死に方があるだろうか。執政官どの、なるべく早
く橋を落としてくれ私は、二人の仲間とともにここで敵を食い止める。路にひしめく
一千の敵はこの三人によって食い止められるであろう。さあ、私の横に立ち橋を守る
のは誰だ?」
上 記 の 詩 は 、 19 世 紀 の イ ギ リ ス の 政 治 家 に し て 歴 史 家 の ト マ ス ・バ ビ ン ト ン ・ マ カ
レ ー( 1800-1859)が 書 い た「 橋 の 上 の ホ ラ テ ィ ウ ス 」と い う 非 常 に 長 い 英 語 の 詩 で す 。
これは「橋の上のホラティウス」という古代ローマの有名な話を題材にして書い たも
のです。古代ローマの話は下記の通りです。
昔 、 ロ ー マ 王 政 時 代 最 後 の 王 で あ っ た ル キ ウ ス ・ タ ル キ ニ ウ ス (紀 元 前 534-510)と
い う (伝 説 的 な ) 傲 慢 な 王 が い ま し た 。タ ル キ ニ ウ ス は あ る 日 、甥 の 妻 を 強 姦 し た た め 、
その甥に率いられた反乱が起こり、ローマを追放されます。タルキニウスはエトルシ
ア人のところに行き、助けを求めます。エトルシア人はタルキニウスに助力をして軍
勢を与え、ローマに進軍します。これにローマは非常に驚きます。ローマ周辺の城壁
外に住んでいた人々は、できるだけ早くローマ市の中へ逃げ込もうとします。そのた
め、ローマ市に通じているティベル川の上に架けられた狭い木製の橋に人々が殺到し
ます。ローマ市の中では人々がパニックに陥っていて、エトルシアの軍勢のローマへ
の進軍を阻むために橋を破壊することを忘れてしまいます。一方、タルキニウスはロ
ーマ人たちが橋を破壊せずにいたことを見て喜びます。ティベル川を泳いでローマに
向かうことはできなかったからです。ここで、もしもエトルシア軍が橋を渡ってロー
マに入ってきたなら、ローマはあっという間に占領されてしまいます。この時、ロー
マにホラティウスという若者がいました。彼は自分たちでエトルシア軍が来ないよう
橋の上で足止めしている間に別の者たちに橋を落とさせるようにしようと他の若者た
ちに提案しますが、他の若者たちはエトルシア軍のことを考えると恐ろしくて誰も同
意しません。そこで、ホラティウスは自分一人が足止めをするから、他の 者は橋を落
と し て く れ と 頼 み ま す 。彼 は た っ た 一 人 で 橋 の 上 に 立 っ て エ ト ル シ ア 軍 に 向 か っ て「 ロ
ーマの兵士と相対するのに十分な勇敢さを持つものはお前たちの中にいるか」と叫び
ます。エトルシア軍は槍で彼を突き刺そうとしますが、橋が邪魔になってホラティウ
スに届きません。そしてホラティウスはヒーローのようにエトルシア兵が狭い橋を渡
ろうとするのを妨げ、二、三人の友人の助けもあり、ついに橋を落とすことに成功す
るのです。
全ての生物は生きるために活動する
生物を定義するのは難しいですが、普通の言葉では、生物とは生きているものであ
り、生きているとは生命があることではないでしょうか。そして、生物は何らかの形
で 親 か ら 誕 生 し 、ほ と ん ど は 自 分 よ り 強 い も の に 捕 食 さ れ る か 年 を 取 り 死 を 迎 え ま す 。
この死を迎えるまで、生物は同種、他種を問わず、様々な形で自分以外の生物個体を
利用して生きています。その中で最も典型的に見られる利用法が他者の捕食です。
陸上の生物は、草の葉をバッタが食べる→バッタをカマキリが食べる→カマキリを
小 鳥 が 食 べ る → 小 鳥 を タ カ が 食 べ る 。と い っ た 生 物 間 の つ な が り が あ り ま す 。 水 中 で
も同じように、たとえば海では、植物プランクトン→動物プランクトン→イワシ→イ
カ→アシカ→シャチなどのつながりがあります。また、食う・食われるの関係をたど
っていくと、ある一定の場所の生物間に、1 つの鎖状の関係を見いだすことができ、
この繋がりを食物連鎖と呼び、この強いものが弱いものを食べるという、食物連鎖の
頂点に立つ種が人間です。
生命が生命を殺して食わなければ生きられないということは、大変に悲しいことで
す。しかし、食物連鎖は、地球の全ての生命を維持して行くための、大切な「生きる
ための活動」なのです。ところで、食べられてしまう植物や動物は、ただ単に弱いか
ら食べられてしまい、それだけで全てが終わりになるのではありません。自分が食べ
られることによって、他の生命を養っているのです。自分の命を犠牲にして、他の生
命を支えているのです。また、自分が食べられることによって、その種族の大量発生
が防止され、逆に自分の種族を守ることにもなっています。このように、食べられる
生命がいてくれるからこそ、他の生命全体が生きることが出来るのです。
人間は、色々な物を食べ、生命を維持するための活動をします。しかし、人間は生
きるための活動は他の生物と違い、単純に弱いものを捕まえて食べるのではなく、働
いて、その対価とし得たお金で、食料等を購入し生命を維持します。つまり働くこと
が人間にとっては、生きるための重要な活動となるのです。この働くことは立派な生
命の仕事ですが、人間は一人で働いて、一人でお金を得るということは出来ません。
なぜならお金を得るということはどこかで、自分以外の者にサービスを提供しなけれ
ばならないからです。これはどこかで必ず人と接することを意味します。そのため人
間は生きるための活動をする際、人との繋がりや関係が重要となるのです。
生きるための活動には、大変な苦痛や苦悩、つまり「苦しみ」が伴うことも確かで
す。しかしながら、苦しみに耐えて一生懸命に生きることは、全ての人間にとって、
さらには全ての生物にとって、最も大切な生命の仕事なのです。なぜなら、地球の生
命全体が、そうすることによって支えられているからです。人類を含めた全ての生物
は、力の限り生きることによって、最も大切な「生きるための活動」を行っているの
です。だから無意味な生命などというものは、この世に一つも存在しないのです。
そして、私も生き、あなたも生きていることで、必ずどこかで他の生命を支え、役
に立っていると思うのです。
ボディーランゲージ
表現は、言葉だけでなく、体で表現する方が上手く伝わるときがあります。そのた
め、話し上手になるためには、表現力が必要になってきます。言葉での表現力も大切
ですが、もっと手っ取り早く、そしてわかりやすく表現する方法があります。それが
身ぶり手ぶりです。この体を使っての表現がボディーランゲージだと思うのです。
ボディーランゲージとは、肉体の動作を利用した非言語コミュニケーションの一つ
です。日本語では直訳して身体言語や身振り言語とも呼ばれます。
こ れ ら 意 思 伝 達( コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン )手 段 は 、言 葉 を 用 い ず に 、身 振 り や 手 ま ね 、
あるいは広くジェスチャーで様子などを表して、相手に意志を伝えるものです。
言葉だけで話すと、口だけが動いているだけです。それに対して身ぶり手ぶりは、
体全体を使って表現することができます。これは国境に関係なく、とても大きな表現
力があります。特に、お笑い芸人の人たちが、とても上手です。お笑い芸人は、体全
体を使って表現します。自分の持ち味を生かし、体全体を使い、口でわからなければ
体で表現します。これは、とてもわかりやすいと思います。見ている人みんな、その
表現を理解することができ、みんなが楽しむことができます。
ただ、文化圏に拠って幾らかの類似性がある場合と全くない場合、あるいは別の意
味に取られる(悪くするとトラブルを招く)など地域性も存在します。
例 え ば 、日 本 人 が 親 指 と 人 差 し 指 で 作 る 円 は 、日 本 人 同 士 で は お 金 を な い し「 OK サ
イン」として使用されますが、ブラジルでは前後の文脈によっては性行為そのものを
指示することになります。
歴史と伝統を重んじる東ヨーロッパの共和制国家ブルガリアでは、
「 は い 」の 意 思 表
示として首を横に振り、
「 い い え 」と し て 首 を 縦 に 振 る と い う 、他 の 国 と は 真 逆 の 風 習
があります。
このように、国によってボディーランゲージの表現の取りかたが、自分の意思とは
違って捉えられてしまう場合もありますが、大筋で対話程度の意思疎通を行うことも
可能であり、音声言語の補助として使われるケースも見られ、使用言語の異なる異民
族間でも利用でき、多少誤解を生む危険性もありますが、それでも体の形状や性質が
同 じ で あ れ ば 、あ る 行 動 の 真 似 を す る だ け で も 、大 筋 は 通 じ る の で は な い で し ょ う か 。
話し上手になるためには、話の内容も重要なポイントですが、身ぶり手ぶりや体全
体を使って話をし、表現力をつけることが必要ではないでしょうか。
ヨイトマケの唄
美輪明宏(当時・丸山明宏)
父ちゃんのためなら エンヤコラ。母ちゃんのためなら エンヤコラ。
もひとつおまけに
エンヤコラ。
1.今も聞こえる ヨイトマケの唄。 今も聞こえる あの子守唄。 工事現場の昼休み。
たばこふかして 目を閉じりゃ。 聞こえてくるよ
あの唄が、働く土方の
あの唄が、
貧しい土方の あの唄が
2.子供の頃に小学校で、ヨイトマケの子供
きたない子供といじめぬかれて、はやさ
れて、くやし涙に暮れながら、泣いて帰った道すがら、母ちゃんの働くとこを見た、母
ちゃんの働くとこを見た。
3.姉さんかぶりで
泥にまみれて、日にやけながら
を引き、天に向かって
声をあげて、力の限り
汗を流して、男に混じって
ツナ
唄ってた、母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た。
4.なぐさめてもらおう
の姿
抱いてもらおうと、息をはずませ
帰ってはきたが、母ちゃん
見たときに、泣いた涙も忘れ果て、帰って行ったよ
学校へ、勉強するよと言い
ながら、勉強するよと言いながら
5.あれから何年経ったことだろう、高校も出たし大学も出た、今じゃ機械の世の中で、
おまけに僕はエンジニア、苦労苦労で死んでった、母ちゃん見てくれ
この姿、
母ち
ゃん見てくれ この姿 。
6.何度か僕もぐれかけたけど、やくざな道は踏まずに済んだ、どんなきれいな唄よりも、
どんなきれいな声よりも、僕を励ましなぐさめた、母ちゃんの唄こそ
世界一、
母ち
ゃんの唄こそ 世界一
今も聞こえる
ヨイトマケの唄。今も聞こえる
あの子守唄。父ちゃんのためなら
エ
ンヤコラ。子どものためなら エンヤコラ
美輪が幼少時に一緒に育った友人の亡き母を回顧する歌である。主人公の過去に
は幼少時、母親の職業(日雇い労働者)がきっかけでいじめを受けた悔しさなども
折り込まれている。
働くことの意味
働くことには、お金を稼ぐ手段として以上の意味がある。人と人を結ぶ関係がそこにあ
る。学校を離れた後、働くことがなければ人との関係は小さくなりがちだ。孤立化は成長
け い き
の契機 をうばう。
社会は人が相互に何らかの価値を提供しあって成り立つ。その価値の典型的なものが働
くことで生まれる物や情報やサービスである。働くことは人との接点をもつ。
「自立」とい
うのは、この価値を人からもらうのと同等か、少し多く提供できるようになることだろう。
働くことの意味とは自分自身でみいだすもの。だから働くことは、好きなことをやるた
め、生活のため、欲しい物を買うため・・・etc と、人それぞれである。決して教わるこ
とはない。しかし、人は働くことに形付けをする。働かなければ生活していけないから、
生きていけないから、あたり前だから・・・と。本当は、答えなど存在しないのにまるで
それが正解のように意味づけをする。
ただ、これらはまさにその通りであり、変えようがない事実であるが、一つ足りないと
ても大事な意味がある。それは働くことで心が満たされるかどうかである。
働く意味が分からない人は、今の仕事に満足していないか、「働く」ことによって
心が満たされないということになる。そして、働いている大抵の人は、働くことの本当の
意味づけなどしていない。それは皆、同じことで、働いているけど「働く」ことでは、自
分の心は満たされない。だから心を満たされない人は「働くこととは大いなる暇つぶし」
となる。これは働いていなければ暇ということになるが、働いていてもその意味をなさな
ければ、それもまた暇ということになる。ならば自分の心を欲を満たせばいい。
たとえ働くことが生活のため、お金のためという当たり前の考えでもたとえ働かなくて
も、
「働く」とは違う別のものを見つければいい。それは、やりたいことであってやりたい
こととは違う自分の心を満たすことである。自分に心が満ちれば、働くことの本当の意味
づけ、そして働くことが必要か必要ではないかさえ答えが出るのではないか。
だから働く意味とは自分自身でみいだすものである。さて、「自分自身でみいだすもの」
という時点では何の解決もされない。働く意味が分からないときは、気持ちも沈んでいる
し、物事を中途半端に考え、何も分からないため、余計わからなくなる。
だから、わからない時はわからない。それを、深く知ろうとしてより、頭の中をこんが
らかせるぐらいなら、知らない方がマシだ。だったら、働く意味を考えるより、どうした
ら自分は人生楽しく過ごせるのかを考えた方が気持ちの面でも違う。
他人が言えるのは、あくまで、「こうやったほうがいいよ」といったアドバイスにすぎ
ない。すべての進路を決めるのは自分自身でしかないのである。だからこそ、働く意味も
自分自身でみいだすもので。「働く意味があるのか」「意味がないのか」その答えは自分の
中にしかない。
「初心忘れるべからず」
これは「修行や学業仕事など、物事を始めるとば口に立てた目標や志、その時の思いの様
を忘れてはいけない」という意味に現代ではとられているが、そもそもの意味はまったく
違う。
ここにある「初心」を「初志」と同じ意味と捉えたこれは間違った解釈である。
「初心忘れるべからず」にある「初心」とは「初心者」の「初心」とまったく同じである。
つまり、まだ物事を始めたばかりで未熟で慣れない状態のことを指す。
よって、この格言の意味は「物事を始めた頃の未熟で失敗ばかりであった時の記憶 ――
その時に味わった屈辱や悔しさ、そこを切りぬけるために要した様々な努力など、を忘れ
てはならない」という意味である。
であるから、まさしく「初心」状態の新入社員などがなにかのスピーチで「初心忘れる
たど
べからず」などというのは間違いであって、これはある程度その道を辿 ったものが自らの
なかだる
な
中弛 み、慣 れによって生まれる慢心を戒めるために使うのが正しい。
人は何のために働くのか
人は何のために働くのか。この深遠なテーマについてお話する前に、「二人の石切り職
人」という寓話を紹介します。
旅人が、ある町を通りかかりました。その町では、新しい教会が建設されているところ
であり、建設現場では、
「二人の石切り職人が働いていました。その仕事に興味を持った旅
人は、一人の石切り職人に聞きました。
「あなたは、何をしているのですか」
その問いに対して、石切り職人は、不愉快そうな表情を浮かべ、ぶっきらぼうに答えま
した。
「このいまいましい石を切るために、悪戦苦闘しているのさ」
そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に、同じことを聞きました。すると、その石切
り職人は、表情を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたのです。
「ええ、いま、私は、多くの人々の心の安らぎの場となる、素晴らしい教会を造っている
のです」
どのような仕事をしているか。それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありませ
ん。
その仕事の彼方に、何を見つめているか。それが、我々の「仕事の価値」を定めるので
す。
私はこの寓話が胸に響きます。日本という国に伝わる素晴らしい言葉を思い起こすから
さいちょう
です。
「一隅を照らす、これ国の宝なり」。最 澄 の言葉です。そして、この寓話は、我々が、
その後の姿を通じて次の世代に伝えるべき大切なことを教えてくれるからです。
それは、
「仕事の報酬」とは何かということです。仕事には、
「給料や年収」
「役職や地位」
といった目に見える報酬だけでなく、実は、目に見えない三つの報酬があります。第一は
「働き甲斐ある仕事」、第二は「職業人としての能力」、第三が「人間としての成長」です。
では、
「働き甲斐」とは何か。それは、文字通り「傍(はた)を楽(らく)にする」こと
の喜び。周りを幸せにし、世の人々を幸せにする喜びです。この二人目の石切り職人は、
まさに、この「働き甲斐」という報酬を得ているのでしょう。
しかし、ただ「仕事の彼方」を見つめているだけでは「働き甲斐」は得られません。
「職
業人としての能力」を身につけなければ、
「傍」を「楽」にすること はできないのです。で
すから、正しく石を切る腕を持たなければ、この二人目の石切り職人は、単なる「夢想家」
にすぎないのです。
しかし、腕を磨くならば、それにつれて技術や知識が身に付き、結果として仕事の成功
完成度の高い仕事につながり、職場の仲間や相手から「助かったよ、ありがとう」と言わ
れたときの感謝の言葉に喜びを感じることができるのです。これが目に見えない報酬の一
つと考えるのです。
このように、腕を磨くと、
「働き甲斐」が広がっていくのですが、実は、腕を磨くという
ことそのものが、すでに報酬なのです。なぜなら、自分の中に眠る可能性が花開いていく
ことは、それ自身、無条件の喜びだからです。
では、自分の中に眠るその可能性は、どうすれば花開くのか。
大リーグのイチロー選手が、かつてハドソンという投手に何試合も抑え込まれていたと
き、インタビュアーから「彼は苦手のピッチャーですか」と聞かれました。それに対して、
イチロー選手は、こう答えました。
「いいえ、彼は、私というバッターの可能性を引き出し
てくれる、素晴らしいピッチャーです」
この言葉は、我々の人生と仕事における「苦労」や「困難」の本当の意味を教えてくれ
ます。
それは、出来ることならば避けて通りたい「不運な出来事」ではないのです。
それは、我々の人間としての可能性を引き出してくれる「素晴らしい機会」なのです。
そして、腕を磨いていくと、かならず、第三の報酬、
「人間としての成長」も得ることが
できます。なぜなら、
「腕を磨く」ことを求めて歩むと、我々は、単なる技術習得の世界を
超え、心構え、心の姿勢、心の置き所、心得などを身につけなければならず、自ずと「人
間を磨く」という世界に向かっていくからです。
そして、人間は成長するにつれて、相手の気持や考えを理解できるようになるかも知れ
ないのです。最初は、職場の部下、同僚、上司など身近にいる者のことを理解し、 心が見
えるようになってきます。次が「集団の心」。職場の空気や雰囲気を敏感に感じ取れるよう
になってきます。最後が、「自分の心」。いつか、己の心の奥深くのエゴの動きも見えるよ
うになってきます。
そして、最後に、我々が為すべきことがあります。
我々が「仕事の彼方」に何を見つめて歩んだか。そのことを、次の世代に伝えること。
我々の「志」を伝えること。
我々の仕事は、いずれ次の世代への「礎」。そうであるならば、次の世代が、その「志」
を受け継ぎ、さらに高き頂に向かって歩む姿を見るとき、我々は、そこに、最高の報酬を
見ることができるのです。
リバタリアニズム
リバタリアニズムは、政治学・経済学等では、他者の権利を侵害しない限り、各個
人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想のことである。この意味の時は、自由
意志主義、自由至上主義とも訳される。
けいじじょうがく
哲学、神学、形而上学においては決定論に対して、自由意志と決定論が両立しない
ことを認めつつ、非決定論から自由意志の存在を唱える立場を指す。日本語ではカナ
のままではなく、自由意志論等の形に訳されることのほうが多い。
リバタリアニズムの基本理念
リバタリアニズムでは私的財産権もしくは私有財産制を個人の自由を確保する上で
必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有している
ことを自明とする自己所有権原理を置く。
( → ジ ョ ン・ロ ッ ク )私 的 財 産 権 が 政 府 や 他
者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府に
よ る 徴 税 行 為 を も 基 本 的 に 否 定 す る 。 法 的 に は 、ハ イ エ ク に 見 ら れ る よ う に 、自 由 と
は 本 質 的 に 消 極 的 な 概 念 で あ る と し た 上 で 、自 由 を 確 保 す る 法 思 想( 法 の 支 配 )を 追 求
す る 。 経 済 的 に は 、フ リ ー ド マ ン に 見 ら れ る よ う に 、市 場 に お き る 諸 問 題 は 政 府 の 規
制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自
由放任主義(レッセフェール)を唱える。
リバタリアニズムにおける自由
リバタリアンの唱える自由とは消極的自由を指している。これは、他からの制約や
束縛がないことという意味である。リベラリズムにおける、政府のサポートを必要と
す る 積 極 的 自 由( 国 家 に よ る 自 由 )と 、リ バ タ リ ア ニ ズ ム に お け る 消 極 的 な 自 由 (国 家
か ら の 自 由 )と は 対 照 的 で 多 く の 場 合 相 反 す る 概 念 で あ る 。
生存権、自由権、財産権の根拠
ロバート・ノージックやマリー・ロスバードのようなリバタリアンは生存権、自由
よ う ご
権 、財 産 権 を 自 然 権 、す な わ ち 擁 護 す る に 相 応 し い も の と み て い る 。 彼 ら の 自 然 権 に
対 す る 見 方 は ト マ ス・ホ ッ ブ ズ や ジ ョ ン・ロ ッ ク の 著 作 に 由 来 し て い る 。 ア イ ン・ラ
ンド(リバタリアニズムに多大な影響を与えた人物)は、そのレッテルを拒絶してい
た が 、こ れ ら の 権 利 が 自 然 法 に 基 づ く と 考 え て い た 。 ロ バ ー ト ・ノ ー ジ ッ ク の「 ア ナ
ーキー・国家・ユートピア」では「自由な社会では、新たに所有するという行為は、
個々人の自発的な交換や行動から生じる」といわれる。
ブリダンのロバ
ひ
ゆ
ブリダンのロバという 比喩がある。これは、あるロバがいて、そのロバから等距離
に 二 つ の 食 料 が 置 か れ た と す る と 、ロ バ は ど う な る( ど う す る )か と い う 問 題 で あ る 。
等距離にある(条件が同じである、均衡状態にある)のだから、ロバはどちらを選ぶ
ことも出来なくて、飢えて死んでしまうのではないか、というわけである。これはブ
リダンという中世の学者の考えたものだとされているが、ショーペンハウアーが調べ
たところでは、ブリダンの著作には見あたらないという。我々がこの比喩について具
体的に知ることができる例はスピノザの『エチカ』にある。そこでは、二つの餌では
なく、飲み水と食料となっている。
この問題は、人間の自由意志問題の比喩として語られる。もし、自由意志が存在す
るなら、ロバ(人間)は、外的条件が同じであっても、内的=自発的にどちらかの餌
を選ぶだろうし、自由意志がなければ、どちらも選べないままに飢えてしまうだろう
というのである。
スピノザは後者だと考える。スピノザの考えでは、我々は外的な諸条件によって決
定されているのだ、と言いたいわけである。これに対してライプニッツは、どちらの
解答を選ぶのでもなく、そもそもこの問題そのものがおかしいと指摘している。つま
り 、世 界 に は 、そ の よ う な 絶 対 的 な 均 衡 状 態 な ど な い の だ 、と い う わ け で あ る 。実 際 、
スピノザの場合でも、水と食料になっているのは不思議である。これなら二つの同じ
食料が等距離にあるのだとする方が、均衡状態を描くには適している。しかし、これ
は 比 喩 で あ っ て 、ス ピ ノ ザ も そ う し た 均 衡 状 態 が 起 こ り 得 る と 述 べ て い る の で は な い 。
勝海舟の思想
「 行 蔵( こ う ぞ う )は 我 に 存( そ ん )す 。毀 誉( き よ )は 他 人 の 主 張 。我 に 与( あ ず )
か ら ず 、我 に 関 せ ず と 存 候( ぞ ん じ そ う ろ う )。各 人 え 、御 示 御 座 候( お し め し ご ざ そ
う ろ う ) と も 毛 頭 異 存 こ れ 無 く 候 。」
「行蔵」とは、出処進退のこと。
「毀誉」とは、褒めたり、貶したりすること。
つまり
「 俺 の "行 動 の 良 し 悪 し "っ て の は 、 俺 が 自 分 で 決 め る こ と だ 。 そ れ を 、 ア レ コ レ 批 判
す る の は "他 人 の 勝 手 "っ て も ん だ 。 俺 の 知 っ た 事 じ ゃ 無 い 。 人 そ れ ぞ れ 意 見 が 違 う の
は 当 然 。 批 判 は ご 勝 手 に 。」
この言葉は勝海舟の全思想を表している。彼はこういう態度で自分の生涯を生き抜
いた。この言葉を口にしたのは、具体的にはつぎのような事件があったからだ。
彼は徳川幕府の終戦最高責任者でありながら、その後明治新政府に参加した。しか
も、それも平職員としてでなく、海軍大臣や枢密顧問官にもなった。こういう勝の生
き 方 を 見 て い て 、 学 問 一 途 に 走 っ た 福 沢 諭 吉 は 、「 や せ 我 慢 の 説 」 と い う 本 を 書 い た 。
そ の 本 で 、「 二 君 に 仕 え た 幕 臣 」 の 典 型 と し て 、 勝 海 舟 と 榎 本 武 揚 と を と り あ げ た 。
そ し て 、こ の「 や せ 我 慢 の 説 」を 二 人 に 贈 っ た 。贈 っ た だ け で な く 、
「ご感想をおも ら
しいただきたい」と添え書きした。
榎本は、福沢のこの申し出に実に懇切丁寧な答え方をした。しかし、こういう答え
は長ければ長いほどどこか言いわけじみてくる。榎本の回答も言いわけじみていた。
勝 は 何 も 言 わ な か っ た 。黙 殺 し た 。そ し て 、一 人 で 、こ の 行 蔵 は 我 に 存 す ・・・・・ ・
という言葉を呟いた。
勝にとって、福沢の言っていることはよく分かる。しかし、勝の立場に立てば、福
沢 の 言 う よ う な 生 き 方 は 不 可 能 で あ っ た 。福 沢 の 言 う の は 、や は り 、
「 白 か 黒 か 」つ ま
り 、「 勤 皇 か 佐 幕 か 」 あ る い は 、「 徳 川 幕 府 か 天 皇 政 府 か 」 を 選 べ と い う 意 味 だ 。
それは勝にはできなかった。何故なら、勝は、天皇政府と徳川幕府という次元で政
治 を 考 え て い な か っ た 。日 本 の 政 治 と 、日 本 の 国 家 と い う 次 元 で す べ て を 考 え て い た 。
彼にとって必要だったのは、外国と堂々と渡り合える強い日本国家を創り出すことで
あった。
勝海舟は、福沢諭吉の「やせ我慢の説」に対しては、まったく無言を保ったが、た
だ福沢諭吉自身については、こういうことを言っている。
「あの男は、維新の時も本所あたりに隠れていたんだ。弱い男だからね。それで、後
ふ く ち お う ち
か ら 何 と か か ん と か 言 う の さ 。あ れ に 福 地 桜 痴 ね 、皆 、後 で 何 と か 言 う の さ 。諭 吉 は 、
それでいながら相場なんかやって、金儲けをするような男だからね」
用舎行蔵(ようしゃこうぞう)
出 処 進 退 が 適 切 で あ る こ と を い う 。「 用 行 舎 蔵 」( よ う こ う し ゃ ぞ う ) と も い う 。
『論語』述而にある次の言葉が出典です。
述而第七
160
〔原文〕
子謂顏淵曰用之則行舍之則藏惟我與爾有是夫子路曰子行三軍則誰與子曰暴虎馮河
死而無悔者吾不與也必也臨事而懼好謀而成者也
〔読み下し〕
子 (し )、 顔 淵 (が ん え ん )に 謂 (い )い て 日 (の た ま )わ く 、 之 (こ れ )を 用 (も )う れ ば 則
(す な わ )ち 行 (お こ )な い 、之 を 舎 (す )つ れ ば 則 ち 蔵 (か く )る 。惟 (た だ )我 (わ れ )爾 (な
ん じ )と 是 (こ )れ 有 (あ )る か な 。 子 路 (し ろ )日 (い わ )く 、 子 (し )三 軍 (さ ん ぐ ん )を 行
(や )ら ば 則 ち 誰 (た れ )と 与 (と も )に せ ん 。 子 日 わ く 、 暴 虎 (ぼ う こ )馮 河 (ひ ょ う が )、
死 (し )し て 、 悔 (く )い な き 者 (も の )は 、 吾 (わ れ )与 (と も )に せ ざ る な り 。 必 (か な ら )
ず や 事 (こ と )に 臨 (の ぞ )み て 懼 (お そ )れ 、 謀 (は か り ご と )を 好 (こ の )み て 成 (な )さ ん
者なり。
〔通釈〕
孔子が顔淵に向かって、
「 登 用 さ れ れ ば 世 に 出 て 大 い に 働 き 、お 役 ご 免 に な れ ば 潔 く
引っ込んで世間から隠れる。このように、出処進退の宜しきを得ているのは、まずお
前 と 私 く ら い の も の だ ろ う 」と 謂 っ た 。之 を 側 で 聞 い て い た 子 路 が 口 を 挟 ん で 、
「もし
先生が三軍の総大将になられたら、誰を副官に任命しますか?」と問うた。孔子は、
「虎と素手で格闘したり黄河を泳いで渡ろうとしたりと無茶をやらかして、それで死
ん で も 悔 い は な い と い う よ う な 無 鉄 砲 な 者 と は 、 行 動 を 共 に で き な い な 。 も し 与 (く )
むなら、事前に綿密な作戦計画を練って慎重に事に臨み、知略で敵を負かしてしまう
ような思慮深い人物だな!?」と答えた。
〔解説〕
孔子が顔淵ばかり褒めるものですから、一本気の子路がやきもちを焼いて口を挟ん
だのでしょう。普段から、勇猛心では誰にも引けを取らないと自負している子路とし
て は 、「 そ れ は や っ ぱ り お 前 だ な ! 」 と い う 答 え を 期 待 し て い た の で し ょ う が 、「 無 鉄
砲な奴とは組めない!」と一蹴されてしまった。子路は元任侠に生きるヤクザ者でし
た が 、孔 子 は そ う い う 気 性 の 子 路 に 対 し て 、
「 侠 気 (お と こ ぎ )だ け で は 、ず る 賢 い 人 間
にしてやられるぞ!もうちょっと思慮深くなりなさい!!」と、言外に伝えたかった
の で し ょ う 。尚 、こ の 章 か ら「 用 舎 行 蔵 (よ う し ゃ こ う ぞ う )」と 、
「 暴 虎 (ぼ う こ )馮 河
(ひ ょ う が )の 勇 (ゆ う )」 と い う 二 つ の 成 語 が 出 ま し た 。 用 舎 行 蔵 と は 、 出 処 進 退 の 宜
しきを得るの意、暴虎馮河の勇とは、無鉄砲な勇気の意として今でも時々使われます
ね。
平成 9 年 4 月 20 日
か ん わ きゅうだい
閑話 休 題
朝日新聞
ふ み お
編集委員
河谷史夫
巡り合わせということ
親と上司は選べない。
「新サラリーマンヘ贈る言葉を」ときかれたのでこう答えた。
か さ ん
すまじきものは宮仕えと律令の苦から決まっているが、親代々の 家産 なく、これといって
天分もない身は、会社勤めでもするほかない。不景気とはいえこの春もまた会社員が多く
いくせいそう
生まれたことだろうが、小心翼々、四方八方気を使って 幾 星霜 のご感想がこれでは、われ
ながら大した人生とは言えない。
検事から福祉の世界へ転じた堀田力さんが『おごるな上司!』で「ばかな上司に取り合
うなかれ」と述べていた。上下関係の自然消滅を待つよりない。宮仕えの宿命だ。それに
してもこういう人の下でなら働いてみたかったと思える人がいないではない。例えば米内
光政だ。最後の帝国海軍大臣として先の戦争終結に命を賭(と)した経緯は阿川弘之さん
の著書に詳しい。
あくまでも本土決戦を主張する陸軍に対立して所信を寛いた米内の存在は、日 本を亡国
の一歩手前で救ったといわれる。私心の全然ない人で、戦後、慶応の小泉信三がともに洒
を酌みながら「われわれ日本人が、こんにちともかくこうして暮らしていられるのも米内
さんの・・・」と言いかけると、
「それは言ってくれるな」とばかりに拝む手つきをしたそ
うである。
「グズ政」と呼ばれ、面倒くさがり屋で兵学校の成績も芳しからず、ドサ回りばかりだ
った米内が頭角を現し連合艦隊司令長官から海相、首相を歴任し日本を背負うことになる
とは、だれも予想しなかった。
「国に事がなければ、あるいは全く世人の目につかないまま
終わる人であったかもしれない」
(小泉)のに、時代が米内を必要とした。その器壷の大き
さについては多くの人が語っている。
少尉候補生のころ、艦長にひどくいじめられた。周りが憤慨するほどに理不尽だったが、
当人は「なに、おれを立派な士官にするためわざと鍛えているのだろう」と平然としてい
たということだ。
上にも下にもおべっかを使わず、下については「その能力の限度でやっている時は任せ
ておく。しかし、能力を超え、また不得手なことをやっている時に、注意しないで失敗し
たら、それは上級者の責任だ」と言った。
「指揮官として心得ねばならぬことは部下が重大な事件に直面して動揺し迷っているよ
うな時に、速やかに率先して向かうところを明示することである」とも言った。
難局に石を割るような意志で当たった。秘書官の実松譲にこう諭した。
「人間というもの
はネ、いつ、いかなる場合でも、自分のめぐりあわせた境遇を、もっとも意義あらしめる
ことが大切だよ」
多々魅力ある米内の情景の中でとりわけ好きなのは二・二六事件の時だ。横須賀鎮守府
司令長官だった。柳橋に遊んで朝帰りしたらしい。九時近くに「そろそろおれも出て行っ
た方がいいか」と電話してきたというのだ。しかし事によっては陸軍と一戦交える覚悟を
していたのである。
敗戦後なお二年八カ月を生きたが、さながら死を待つ風であったという。海軍の幕引き
もして「世界海軍史上、これほど痛ましい運命に巡り合った人も珍しい」とされる。
にわかに石割桜を見たくなって盛岡へ向かった。米内の故郷である。大きな石を割って
広がる桜は強い意志というものを感じさせる。だが少し早すぎた。それどころか季節外れ
の雪が舞った。親と上司とともに天気も選べない。
ぼだい寺の円光寺へ回る。
「米内光政墓」と彫ってあるのは緒方竹虎の字だ。戦前・戦中、
朝日新聞主筆を務めた緒方はよく米内を訪ねたそうだ。戦後、政界にあって多忙のなか緒
す ん か
さ
方は寸暇 を割き 米内伝『一軍人の生涯』を書く。それは新聞人としての己への痛恨の書で
もあった。
「日本の大新聞が、満州事変直後からでも、筆をそろえて軍の無軌道をいましめ、その
横暴と戦っていたら、太平洋戦争はあるいは防ぎ得たのではないかと考える」
きょう四月二十日は、米内の五十回忌である。桜前線はどこまで北上したか。
働くこと
閉鎖的な環境は意欲と企業収益を減少させる要因です。社会人にとっての「やりがい」
は「自らが主体性を持って取組める仕事に巡りあえるか」で決まるものだと思います。
充実した人生をおくるためには、自分の生涯の仕事といえるような職業は何であるのか、
またその職業を通じて、どのような人びとと出会い、どのように自分の興味や関心を満た
していくのか、という問いが重要になってくる。つまり、いま一度、人生とのかかわりに
おいて、職業というものを捉え直すことが必要とされているのである。
生きるために働くのか、働くために生きるのか、さらに、そもそも私たちは何のために
生きているのか、このような問いこそ、男性であろうと、女性であろうと、働く一人の人
間にとって根本的な課題である。
人間は何かに「なる」のではない、何かを「する」存在である。
確かに近ごろは、学問を「する」のが目的か、大学生に「なる」のが目的か、まことに
判然としない人が多いが、これは学問の世界だけでなく、社会のすべての面に共通する現
象のように思われる。小説を書きたいのか小説家になりたいのか、出版をしたいのか出版
者になりたいのか、制作をしたいのか芸術家になりたいのか 、その人自身が自分でもわか
らないらしいという状態はすでに珍しくないのだから
今の日本で、「就職したら、何をする?」と聞いたら、「エッ、就職しても、まだ何かす
るの?」と聞き返されるかもしれない。かれは、そこで「社員になり」
「肩書」を獲得した
のであっても、何かを「する」ためにその位置にきたという意識がないからであろう。
「そんなことを言っても肩書と学歴がなければ日本では何もできない」と人は言うかも
知れない。しかし、肩書と学歴があっても何かができるわけではない。
「できる」ためには
「する」以外に道はない。従ってこの「……がなければ何もできない」の意味は「肩書と
学歴がなければ、何もしないで社会的地位を保って行くことはできない」の意味であろう。
内村に言わせれば、これが典型的な貴族根性で、同時にそれは乞食根性であろう。
内村の予言通りになるかどうか、それはわからないが、確かに「なる」だけで「する」
がなくなった貴族と乞食は、増え続けているように思う。
人間というものは生涯何か「する」ものであって、絶対何かに「なる」ものではない。
人間というのは何かを「する」ものであって、何かに「なる」ものとは別である。人間は
決して何かに「なる」と考えてはいけない。
「する」ということだけが一生である。
「する」ということに意味があるのであって、何
かに「なる」ために何かを「する」、これは日本を大きくあやまらせていると思います。
こんにちの職業は事実上たんに生計の手段であることを常態とするといい得るかもし
れない。そして人びとは通例職業を生業と解するのかもしれない。だが、職業の職業たる
ゆえんがかかることに尽きるといい得るであろうか。
人間はすべてかれにのみ具わる個性というものをもっている。この個性のゆえに、かれ
はかれのみがよくなし得る仕事をもつであろう。すくなくともそれは各人の信念である。
またこの個性を発揮しておのれを完成することは、各人のやむにやまれぬ欲求である。
他面において、人はみな自分が他人のために役立つ人物であることを欲する根強い欲求
をもっている。他人に信頼され、他の多くの人びとから何らかの任務や責任を負わされる
ことによって、人間ははじめて本当に生きがいを感ずることができる。
しかも個性の発揮と役割の実現とは相互に決して無関係ではない。人はいかにしておの
れの役割を果たし、任務を遂行するであろうか。いうまでもなく、おのれの能力を 発揮す
ることによってである。人は何ゆえにおのれの個性を磨き、才能を練るのであろうか。結
局は、おのれの責任を果たし、有為の社会人となるためにほかならない。ある仕事に関し
て特別の能力を天から授けられていることは、すなわちその仕事を万人に先んじて果たす
べく天から召し命ぜられているということである。事実、個性を発揮し得てこそ役割の実
現は可能なのであり、また役割を実現し得てこそ個性の発揮は意味あるものとなるのであ
る。
かくて人びとは、職業を通じて個性を発揮し、役割を実現する。それは当然何らかの報
償を人びとにもたらすであろう。そしてかかる報償を人に与えるものは、直接には個々の
支払者であり、個々の事業であるが、しかしそれらは結局において、それに人びとが何も
のかを寄与する社会にかわってそれをしていると考えられる。
個性の発揮と、役割の実現と、生計の維持とのあいだに、一定の切り離し得ぬ関係があ
ることは明らかである。個性の発揮は役割の実現となり、そして役割の実現は生計の維持
を可能ならしめる。職業とはかかる一連の行為にほかならない。
個性の発揮、役割の実現、そして生計の維持──この三つの行為は職業というおなじひと
つの事柄の三つの側面である。職業は、個性の発揮、役割の実現および生計の維持を三つ
の要素とするところの人間の継続的な活動である。
杉村芳美「人間的意味を生み出す活動としての労働」
『脱近代の労働観-人間にとって労働とは何か』1990 ミネルヴァ書房
抜書/四木
すぎむら・よしみ
1948 年京都生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学院博士課程修了。甲南大学経済学部
教授
著書『脱近代の労働観-人間にとって労働とは何か』 (1990 ミネルヴァ書房)
『「良い仕事」の思想-新しい仕事倫理のために』 (1997 中公新書)
訳書 K.ポラニー『大転換』(共訳 1975 東洋経済新報社)
K.クマー『予言と進歩-産業社会と脱産業社会の社会学』(共訳 1996 文眞堂)
今日の日本は労働にとって決して幸福な社会とはいえないだろう。勤勉であることはい
つのまにか経済倫理の主役の座からすべり落ちてしまった。仕事に懸命になるのでなく消
費や余暇を楽しむのが新しい生き方などといわれるようになった。その一方、企業社会で
は長時間労働がなくなる気配は相変わらず少ない。労働はなお人々の多くの時間を吸収し
ているにもかかわらず、何か後ろめたい行為になってしまったのである。
それゆえ、労働にとっての今日の不幸は、ただ労働時間が長いとか、労働の中身が非人
間的であるとか、労働にくらべ豊かさの度合いがまだまだ低いとかということから来るの
ではない。その不幸は、労働の意味が失われたこと、少なくとも労働についての旧来の意
味が失われつつあるということによる。そして、労働についての新しい意味づけは、それ
がありうるのかということも含めていまだ見いだされているとはいえないのである。
本書のテーマは現代社会のこのような労働の意味状況を考察することにある。したがっ
て、主要な関心は近代産業社会の労働の意味構造とその変容ということに向かっている。
しかしまた、このような関心はそれと平行してより一般的なかたちでの労働の意味の考 察
へと導くものである。人間にとって労働とは何かという問題は、本書のもう一つの主要な
関心をなしている。
このようなテーマを論ずるにあたっての本書の基本的な視点はきわめて人間的なもので
ある。すなわち、労働は人間の活動であるということ。労働は、神でも動物でもない人間
の現実であり、人間的意味をおびた活動であるということである。これは、社会科学にお
いては当然の視点であるにもかかわらず、必ずしも十分な顧慮が払われてきたとはいいが
たい。労働はたんなる物的活動とみなされたり、逆に理想的活動であることを求められた
りということがしばしばおこなわれてきた。労働の望ましいあり方を考えるにしても、労
働をまず生ある人間の活動という位置にあらためて据えなおすことが必要である。
労働は、たんにコストとしての手段的行為ではなく、それ自体として人間的意味を吸収
しまた生み出す活動である。労働のそのような性格を最も端的に表しうる概念は、「奉仕」
あるいはそのような性格をもった労働としての「仕事」である。奉仕は、前近代的な労働
のあり方というよりも、労働の近代的な意味構造が解体した後の労働のかたちにほかなら
ない。
しかし、奉仕はしばしばたんなる奉公や奉私でしかないことがある。現代社会の労働は
まさしくこのようなありようをしているのではないか(これを筆者は「サービス化」の意
味の本質と考える)。奉公でも奉私でもなく、為すべきと信ずることをおこなうという意味
での奉仕としての労働が個々の生において具体的な姿をとるとき、脱近代の労働がみえて
くるのではないか。そのとき労働はふたたび人間の生および社会において平衡のとれた位
置と意味を取り戻すのではないか。 (「はしがき」より)
何が自已実現なのか、中身は難しい問題です。単純化して考える人は、自已実現というの
は、自分のなりたいものになることだ、と考えます。しかし、自己実現は自分の憧れが実
現することではないのです。憧れの実現が自已実現なら、憧れが実現しない人の方がずっ
と多いのです。世の中の人は、99.9%くらいは憧れが実現しません。
私は、自分が自分になりきっていくこと、これを自已実現というふうに考えるべきでは
ないか、と思っています。では、自分が自分になりきっていく、ということの中身は何な
のか、ということになります。
自分の内側に、自分で気づいたり気づかなかったりしますが、ある価値観というものが
あります。どうしてか分からないけれども、こういうことにどうしても気持ちがひかれて
しようがない。こういうことはどうもないがしろにできない。逆に、自分にとってこんな
ものは何ということはない。こういった形で、自分の中に内在するある価値の感覚みたい
なものがあります。自分に内在する価値の感覚や認識が、自分の現実の言動や生き方の中
に実現していくこと、これを私は自己実現というふうに考えたいと思います。
それをやるとどうなるのか。まず第一にエネルギーの出方が変わってくるはずです。義
理でやっていることにはなかなかエネルギーが湧いてこないのです。本当に内側から促し
が育ってくると、エネルギッシュになります。子どもでも大人でもそうです。自分で言い
たいことを言う人というのはエネルギッシュです。しかしいつでも問題にならないように、
バランスがとれるように、上手く受け取ってもらえるようにと、慎重に考えてやらないと
いけない立場に立たされると、なかなかエネルギーが出てきません。自分の内側の「実感
の世界」とか、
「本音の世界」に本当に足をつけることができて初めてエネルギーが湧いて
くるのです。表面的な義理だけで動いているとエネルギーは枯渇してきます。だからお互
い、いつもいい子の顔ばかりしていてはだめなのです。時々はやはり何か自分の本音でも
のを言ったり、考えたり、やったりする世界をきちんと持っていないと、エネルギーが枯
渇していくのです。本当に自分になりきっていかないとエネルギーは出てこないのです。
世の中に生きていると、通常は、自分の内側にある、そういう価値の感覚だけで生きて
いくわけにいきません。自分の外側にある世の中の価値の感覚で、ある意味では他の人々
に話を合わせて、歩調を合わせて、やっていかなくてはなりません。しかし、やはりある
時期になったら、世間的な歩調の合わせ方だけではなくて、自分の内側にある本当の価値
の感覚みたいなものに気づいて、それを頼りに生きていけるようになりたいものです。こ
れが自己実現ではないかと思うのです。
カネのためなら無意識に
LiveScience の記事となっているのだが、University College London の研究者らが、18 人の男女
の被験者に対し、事前に強く握ればたくさんお金を渡すと伝えた上で 1 セントもしくは 1 ポンド
コイン($2 相当)のサブリミナル画像を見せた後、ハンドグリップを握ってもらうという実験が行
ったところ、被験者らは 1 セントを見た後よりも 1 ポンドコインを見た後により強くグリップを
握ったという結果が出たらしい。論文は Science で発表されているようだ。今回の実験では、脳
活性と皮膚コンダクタンス反応をモニターし、その結果この行動は腹側淡蒼球と呼ばれる脳の領
域と関連があることが分かったらしい。潜在意識下においても、多くの報酬を求めるというのは
なかなかおもしろい結果である。
十三日付の朝日新聞の科学面に「カネのためなら無意識に」の短い記事が掲載された。人は無
意識のうちにカネのために働くことが英ロンドン大などのグループによる研究で証明された、と
ある。
コインを使った実験で、一ペニーまたは一ポンド(一ペニーの百倍)を画面に表示すると実験
協力者は一ポンドの表示のときに強くグリップを握る。しかもどのコインか認識できないほど表
示時間を短くしても同様の傾向が出るという。
「フムフム」と思うが、実験はあくまで反射的なもので、果たしてそれが本当に「カネのため
に働く」につながるのかと考え込んでしまう。
人間の思いはそんな簡単に割り切れるものだろうか。確かに初給料はうれしかった。しかし「カ
ネ」ありきではなかった。不本意だが高給、天職だが給料はそこそこ―ならフレッシュマンはど
ちらを選ぶだろうか。もちろん一番はやりがいプラス高給だが。
「カネのためなら…」はあまりに
世知辛い。
漂流する倫理
落語家
春風亭小朝
読 売 H19・ 5・ 12
本物の大人が少なすぎる
先日、びっくりする話を噺家仲間から間いた。口演の最中、寄席の最前列の
観客が、カップラーメンを食べていたという。演者は集中できないし、ほかの
お客様にも迷惑だ。仲間内で「日本人もここまできたか」とあきれかえった。
倫 理 観 の 崩 壊 は 、人 間 か 野 生 の 動 物 に 近 づ い て い る 、と い う こ と で は な い か 。
動 物 は 皆 、基 本 的 に は 楽 を し た い し 、放 っ て お く と 何 を し で か す か 分 か ら な い 。
だからこそ社会にはルールがあり、家庭にはしつけがあった。
近ごろ大人と呼べる人が少なくなった気がする。物事をきちんとわきまえ、
美学をもった大人が。ここで言う美学の中には恥の感覚や、程の良さといもの
も含まれるが、今の曰本人からは、それが失われている。
スピード優先の競争社会で、多くの人はストレスを抱え、美学にこだわる余
裕などない。自分のまわりを見回しても、この人のようになりたいと思える人
もなく、自分が何を目標にして生きているのかも分からないという人が多い。
こんな状況のなかで、まず第一に他人のことを考えるとか、きちんとルール
を守るというのは容易なことではない。他人とコミュニケーションをとらなく
てもいいように自分ひとりの世界に逃げ込もうとする者もいれば、社会に出て
人と人との付き合いにストレスを感じ、どこかでルールを無視して己の心を解
放しようとする者もいる。
とにかく今は本物の大人が少なすぎる。失われつつある倫理観を社会が取り
戻すには、物心がつく前の子供たちに、きちんとしつけをするしかないのでは
ないか。
人類学 冗談関係
人類学には「冗談関係」
(joking relationship)と「忌避関係」(avoidance relationship)と
いう関係がある。
冗談関係は互いに、または一方的に相手をからかい、中傷することや、普通なら無礼とされる
おい
行為が許されたり、期待されたりする関係である。文化人類学では、母方のおじと甥、祖父母と
孫、特定のクラン(氏族)の特定の成員間で、互いに揶揄(やゆ)や卑語を交わしたり、相手の物を
盗んだりすることが許されている関係をいう。
忌避関係は特定の関係のある相手との接触や会話が相互に、または一方的に禁じられている場
合をいう。例えば、ウガンダのニョロ族では娘の夫は妻の母に直接話しかけることができないし、
食事を共にしたり、顔を合わすことも許されない。つまり、コミュニケーションが最初から成立
するという前提は成り立たない。文化人類学では、夫と妻の母、兄弟と姉妹、父と息子などの間
で、直接顔を合わせたり、性的な話題にふれたりすることが禁忌となるような関係をいう。
マララ・ユスフザイ
パ キ ス タ ン の 女 性 人 権 活 動 家 。1997 年 7 月 12 日 、北 部 山 岳 地 帯 の ス ワ ー ト 地 区 (マ
ラ カ ン ド 県 )に 生 ま れ る 。父 親 の ジ ア ウ デ ィ ン は 私 立 学 校 を 経 営 す る 教 育 者 で 、マ ラ ラ
も こ の 学 校 に 通 い 、医 者 を 目 指 し て い た 。同 地 は イ ス ラ ム 保 守 勢 力 が 強 く 、07 年 に は
TPP が 政 府 か ら 統 治 権 を 奪 い 、 09 年 ま で 実 効 支 配 し て い る 。 イ ス ラ ム 過 激 派 の TPP は
女 性 の 教 育 ・ 就 労 権 を 認 め ず 、 こ の 間 、 200 以 上 の 女 子 学 校 を 爆 破 し た と い う 。 09 年
1 月 、当 時 11 歳 だ っ た マ ラ ラ は 、英 BBC 放 送 の ウ ル ド ゥ ー 語 ブ ロ グ に 、こ う し た タ リ
バ ー ン の 強 権 支 配 と 女 性 の 人 権 抑 圧 を 告 発 す る「 パ キ ス タ ン 女 子 学 生 の 日 記 」を 投 稿 。
恐怖に脅えながらも、屈しない姿勢が多くの人々の共感を呼び、とりわけ教育の機会
を 奪 わ れ た 女 性 た ち の 希 望 の 象 徴 と な っ た 。 2012 年 10 月 9 日 ス ク ー ル バ ス で 下 校 途
中、武装集団に銃撃され重傷を負った。現地で弾丸摘出手術を受けた後、英国の病院
に 移 送 さ れ 、一 命 を と り と め た が 、15 歳 の 女 子 学 生 を 狙 い 撃 ち に し た テ ロ 事 件 は 、世
界 中 に 大 き な 衝 撃 を 与 え た 。2014 年 、ノ ー ベ ル 平 和 賞 受 賞 。17 歳 で の ノ ー ベ ル 賞 受 賞
者は史上最年少者。マララは受賞決定において「この賞は、ただ部屋にしまっておく
ためのメダルではない。終わりではなく、始まりに過ぎない」と表明した。
後述は、その時の全文とマララ・デー設定の国連演説の全文である。
ノーベル平和賞の受賞者に選ばれて光栄です。この貴い賞をいただけて光栄です。
初のパキスタン人、初の若い女性、初の若者としてこの賞の受賞者となれたことを誇
りに思います。
インドのカイラシュ・サティアルティさんと受賞することは本当に幸せです。子供
の権利のため、児童労働に反対する彼の素晴らしい活動は私の刺激となります。多く
の人々が子供の権利のために働き、私は孤独ではないことを幸せに思います。彼は本
当に賞にふさわしい人で、彼とともに受賞できることは名誉です。
私たち2人のノーベル賞受賞者は、1人がパキスタン、1人がインド出身です。1
人がヒンズー教を信じ、もう1人はイスラム教をあつく信仰しています。これは、パ
キスタンとインド、異なる宗教の人々に愛のメッセージとして届きます。私たちは互
いに支え合っています。
肌の色、言語、信仰する宗教は問題ではありません。互いに人間として尊重し、尊
敬し合うべきです。私たちは子供の権利、女性の権利、あらゆる人権のために闘うべ
きです。
まず始めに、家族、親愛なる父母の愛情と支援に感謝します。父がいつも言うよう
に、父は私に特別なものを与えてくれたわけではありません。ただ、父は私の翼を切
り落としませんでした。
父が私の翼を切り落とさず、羽ばたかせて夢を達成させてくれたことに感謝してい
ます。女の子は奴隷になることが当然ではなく、人生を前に進める力があることを世
界に示してくれたことについてもです。女性はただの母親、姉や妹、妻であるだけで
なく主体性を持ち、認められるべきです。女の子は男の子と同じ権利を持つのです。
た と え 私 の 弟 た ち が 、私 が 良 く 扱 わ れ て い る の に 彼 ら は そ う で な い と 思 っ た と し て も 、
構わないのです。
受 賞 を 知 っ た 経 緯 に つ い て 話 し ま す 。私 は 化 学 の 授 業 で 電 気 分 解 を 学 ん で い ま し た 。
10時15分頃だったと思いますが、既に賞の発表は終わっていたし、受賞するとも
思 っ て い ま せ ん で し た 。1 0 時 1 5 分 に な っ た 時 、受 賞 で き な か っ た と 確 信 し ま し た 。
で も そ の 時 、 突 然 女 性 の 先 生 が 教 室 に 入 っ て き て 私 を 呼 び 、「 大 事 な こ と を 話 し ま す 」
と 言 い ま し た 。 そ し て 、「 お め で と う 。 ノ ー ベ ル 平 和 賞 の 受 賞 が 決 ま っ た よ 。 し か も 、
子供の権利のために闘っている素晴らしい人と一緒にね」と言われ、とても驚きまし
た。
感じたことを表現することは時々難しいものですが、私は本当に光栄に感じ、より
力強く、勇気を得た気がしました。なぜならこの賞は、身につけたり部屋に飾ったり
するための単なる金属やメダルではないからです。私が前に進むため、私自身を信じ
るため、人々が私の運動を支援してくださっていることを知るための、励みとなるの
です。私たちは団結しているのです。私たちは皆、全ての子供が良い教育を受けられ
る こ と を 確 実 に し た い 。だ か ら 、こ の 賞 は 私 に と っ て 本 当 に 素 晴 ら し い も の な の で す 。
でも受賞したことを知った時、学校にこのままいようと決めました。むしろ、学校
の時間を最後まで過ごそうと、物理の授業、英語の授業に出席しました。いつも通り
に過ごしました。先生や友達の反応はとてもうれしかったです。みんな私のことを誇
りに思うと言ってくれました。私は学校、先生、友達の愛や支援に本当に感謝してい
ます。みんなが私を勇気づけ、支援してくれます。私は本当に幸せです。ノーベル賞
が試験に役立つわけではなく、それは私の努力次第なのですが、それでも、みんなに
支えられていることが幸せなのです。
私はこの賞を受賞しますが、これで終わりではあ りません。これは私が始めた活動
の終わりではなく、まさに始まりなのです。私は全ての子供たちが学校に行くのを見
たいです。いまだに5700万人もの子供たちが教育を受けられず、小学校にすら通
えていません。私は全ての子供たちが学校に行き、教育を受けるのを見たいのです。
なぜなら、私自身がスワート渓谷(パキスタン)にいた時に同じ境遇に苦しんでい
たからです。ご存じの通り、スワートはタリバン(パキスタンの反政府武装勢力「パ
キスタン・タリバン運動」=TTP=)の支配下にあり、学校に行くことは誰にも許
されていなかったのです。私は、自分の権利のために立ち上がりました。そして声を
上げると言いました。ほかの誰か(が何かをしてくれるの)を待ったのではないので
す。
私には二つの選択肢しかありませんでした。一つは、声を上げずに殺されること。
もう一つは、声を上げて殺されること。
私は後者を選びました。当時はテロがあり、女性は家の外に出ることが許されず、
女子教育は完全に禁止され、人々は殺されていました。当時、私は学校に戻りたかっ
たので声を上げる必要がありました。私も教育を受けられなかった女の子の一人でし
た。私は学びたかった。私は学び、将来の夢をかなえたかった。
私 に も 普 通 の 子 供 の よ う に 夢 が あ り ま し た 。当 時 私 は 医 者 に な り た か っ た の で す が 、
いま私は政治家になりたいのです。それも、良い政治家に。
私が学校に行けないと聞いた時、私は医者になれないだろう、私はなりたいものに
決してなれないだろうと思いました。私の人生は13歳か14歳で結婚するだけで、
学校にも行けず、なりたいものにもなれないと。だから、声を上げようと決めたので
す。
私は、私の経験を通じて、世界中の子供たちに権利のために立ち上がらなければな
らないと伝えたいのです。ほかのだれかを待つべきではないのです。彼らの声はより
力強いのです。彼らは弱く見えるかもしれないけれど、誰も声を上げない時に声を上
げれば、その声はとても大きく、誰もが耳を傾けざるを得なくなるのです。これは世
界中の子供たちへの私からのメッセージです。権利のために立ち上がらなければなら
ない。
受賞の決まったノーベル平和賞についてですが、ノーベル賞委員会は私だけに与え
たのではないと思っています。この賞は声なき声を持つ全ての子供たちのためにある
のです。そしてその声に耳を傾けなくてはならない。私は彼らのために語り、彼らと
ともに立ち上がり、彼らの声が届くよう彼らの運動に加わります。彼らの声を聞かな
くてはならない。彼らには権利があります。彼らには良い教育を受け、児童労働や人
身売買に苦しめられない権利があるのです。彼らには幸せな人生を送る権利がありま
す。だから私はこれら全ての子供たちとともに立ち上がります。この賞はまさに彼ら
のためにあり、彼らを勇気づけるのです。
最後に、私が尊敬するカイラシュさんと電話で話したことについてお伝えします。
名字を正しく発音できず、すみません。失礼ですが(名前の)カイラシュさんと呼ば
せていただきます。
彼とちょうど電話をしたばかりで、全ての子供が学校へ行き、良い教育を受けるこ
との大切さについて話しました。苦しみながらもいまだ知られていない子供たちがい
るという問題が、どれほどあるかについてもです。私たちは、全ての子供が良い教育
を受け、悩むことのないよう協力して活動することを決めました。
また、彼がインド出身で、私がパキスタン出身ということもあり、私たちが両国の
強い関係を築こうと決めました。最近、国境が緊張し、状況は望ましいものではなく
なりつつあります。私たちはパキスタンとインドが良い関係であることを望みます。
緊張状態にあることはとても残念で、私は本当に悲しいです。なぜなら、両国が対話
し、平和について語り合い、前へ進むことや開発について考えることを望んでいるか
らです。戦いよりも教育や開発、前進について注目することが重要です。それが、両
国にとって良いことなのです。
だから私たちは2人で決めました。カイラシュさんには、尊敬するインドのモディ
首相に12月のノーベル平和賞授賞式への参加をお願いしていただくよう頼みました。
私も尊敬するパキスタンのシャリフ首相に出席をお願いすると約束しました。
私からも、両首相に出席をお願いします。私は心から平和、寛容、忍耐の正しさを
信じています。両国の発展には、平和で、良好な関係がとても重要なのです。それを
成功させ、前進させていくことが重要なのです。耳を傾けていただけますよう、謹ん
でお願い申し上げます。
最 後 に 、皆 様 か ら の 支 援 を い た だ き 、心 か ら 幸 せ と 申 し 上 げ た い で す 。私 は か つ て 、
ノーベル平和賞には値しないと言ってきました。今もそう考えています。しかし、こ
れは私がこれまでしてきたことに対する賞というだけでなく、活動を進め、継続する
勇 気 と 希 望 を 与 え て く れ る た め の 激 励 な の だ と 考 え て い ま す 。自 分 自 身 を 信 じ る た め 、
そして、私は1人ではなく、何百人、何千人、何百万人の人たちに支えられているの
だと知るためのものなのです。
改めて、みなさんに感謝いたします。
2014 年 10 月 12 日 23 時 22 分
国連演説の全文
2013 年 7 月 12 日 、 マ ラ ラ ・ デ ー
慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において。
パン・ギムン国連事務総長、ブク・ジェレミック国連総会議長、ゴードン・ブラウ
ン国連世界教育特使、尊敬すべき大人の方々、そして私の大切な少年少女のみなさん
へ 、 ア ッ サ ラ ー ム ・ ア ラ イ カ ム ( あ な た に 平 和 あ れ )。
今日、久しぶりにこうしてまたスピーチを行えてとても光栄です。このような尊敬
すべき人たちと共にこのような場にいるなんて、私の人生においても、とてもすばら
しい瞬間です。そして、今日、私が故ベナジル・ブット首相のショールを身にまとっ
ていることを名誉に思います。
どこからスピーチを始めたらいいでしょうか。みなさんが、 私にどんなことを言っ
てほしいのかはわかりません。しかしまずはじめに、我々すべてを平等に扱ってくれ
る神に感謝します。そして、私の早い回復と新たな人生を祈ってくれたすべての人た
ちに感謝します。
私は、みなさんが私に示してくれた愛の大きさに驚くばかりです。世界中から、温
かい言葉に満ちた手紙と贈り物をもらいました。それらすべてに感謝します。純真な
言葉で私を励ましてくれた子どもたちに感謝します。祈りで私を力づけてくれた大人
た ち に 感 謝 し ま す 。私 の 傷 を 癒 し 、私 に 力 を 取 り 戻 す 手 助 け を し て く れ た パ キ ス タ ン 、
イ ギ リ ス 、ア ラ ブ 首 長 国 連 邦 の 病 院 の 看 護 師 、医 師 、そ し て 職 員 の 方 々 に 感 謝 し ま す 。
国 連 事 務 総 長 パ ン ・ ギ ム ン 氏 の Global Education First
Initiative( 世 界 教 育 推 進
活動)と国連世界教育特使ゴードン・ブラウン氏と国連総会議長ブク・ジェレミック
氏の活動を、私は全面的に支持します。みなさんのたゆまないリーダーシップに感謝
します。みなさんはいつも、私たち全員が行動を起こすきっかけを与えてくれます。
親愛なる少年少女のみなさんへ、つぎのことを決して忘れないでください。マララ・
デーは私一人のためにある日ではありません。今日は、自分の権利のために声を上げ
る、すべての女性たち、すべての少年少女たちのためにある日なのです。
何百人もの人権活動家、そしてソーシャルワーカーたちがいます。彼らは人権につ
いて訴えるだけではなく、教育、平和、そして平等という目標を達成するために闘っ
ています。何千もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万もの人たちが傷つけられ
ています。私もその 1 人です。
そして、私はここに立っています。傷ついた数多くの人たちのなかの、一人の少女
です。
私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年少女のため にです。
私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声
が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘
っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等
な機会の権利、そして教育を受ける権利です。
親 愛 な る み な さ ん 、2012 年 10 月 9 日 、タ リ バ ン は 私 の 額 の 左 側 を 銃 で 撃 ち ま し た 。
私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失
敗しました。私たちが沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです 。
テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。し
かし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の
中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。
私はこれまでと変わらず「マララ」のままです。そして、私の志もまったく変わりま
せん。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。
親愛なる少年少女のみなさん、私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロ
リストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありま
せん。ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっ
きりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たち
のために教育が必要だと思うのです。
私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼
が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。これは、私が預言者モ
ハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。これは、マーティン・ルーサ
ー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継
がれた変革という財産なのです。これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そして
マザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。そして、これは私の父と母か
ら 学 ん だ「 許 し の 心 」で す 。ま さ に 、私 の 魂 が 私 に 訴 え て き ま す 。
「穏やかでいなさい、
すべての人を愛しなさい」と。
親愛なる少年少女のみなさん、私たちは暗闇のなかにいると、光の大切さに気づき
ます。私たちは沈黙させられると、声を上げることの大切さに気づきます。同じよう
に、私たちがパキスタン北部のスワートにいて、銃を目にしたとき、ペンと本の大切
さに気づきました。
「ペンは剣よりも強し」というこ とわざがあります。これは真実です。過激派は本
とペンを恐れます。教育の力が彼らを恐れさせます。彼らは女性を恐れています。女
性 の 声 の 力 が 彼 ら を 恐 れ さ せ る の で す 。だ か ら 彼 ら は 、先 日 ク エ ッ タ を 攻 撃 し た と き 、
14 人 の 罪 の な い 医 学 生 を 殺 し た の で す 。だ か ら 彼 ら は 、多 く の 女 性 教 師 や 、カ イ バ ル・
パ ク ト ゥ ン ク ワ や FATA( 連 邦 直 轄 部 族 地 域 / パ キ ス タ ン 北 西 部 国 境 地 帯 )に い る ポ リ
オの研究者たちを殺害したのです。だから彼らは、毎日学校を破壊するのです。なぜ
なら、彼らは、私たちが自分たちの社会にもたらそうとした自由を、そして平等を恐
れていたからです。そして彼らは、今もそれを恐れているからです。
私たちの学校にいた少年に、あるジャーナリストがこんなことを尋ねていたのを覚
えています。
「 な ぜ タ リ バ ン は 教 育 に 反 対 し て い る の ?」。彼 は 自 分 の 本 を 指 さ し な が ら 、
とてもシンプルに答えました。
「タリバンはこの本の中に書かれていることがわからな
いからだよ」
彼らは、神はちっぽけで取るに足りない、保守的な存在で、ただ学校に行っている
と い う だ け で 女 の 子 た ち を 地 獄 に 送 っ て い る の だ と 考 え て い ま す 。テ ロ リ ス ト た ち は 、
イスラムの名を悪用し、パシュトゥン人社会を自分たち の個人的な利益のために悪用
しています。
パキスタンは平和を愛する民主的な国です。パシュトゥン人は自分たちの娘や息子
に教育を与えたいと思っています。イスラムは平和、慈悲、兄弟愛の宗教です。すべ
ての子どもに教育を与えることは義務であり責任である、と言っています。
親愛なる国連事務総長、教育には平和が欠かせません。世界の多くの場所では、特
にパキスタンとアフガニスタンでは、テロリズム、戦争、紛争のせいで子どもたちは
学校に行けません。私たちは本当にこういった戦争にうんざりしています。女性と子
どもは、世界の多くの場所で、さまざまな形で、被害を受けています。
インドでは、純真で恵まれない子どもたちが児童労働の犠牲者となっています。ナ
イジェリアでは多くの学校が破壊されています。アフガニスタンでは人々が過激派の
妨害に長年苦しめられています。幼い少女は家で労働をさせられ、低年齢での結婚を
強要されます。
貧困、無学、不正、人種差別、そして基本的権利の剥奪 ――これらが、男女共に直
面している主な問題なのです。
親愛なるみなさん、本日、私は女性の権利と女の子の教育という点に絞ってお話し
ます。なぜなら、彼らがいちばん苦しめられているからです。かつては、女性の社会
活 動 家 た ち が 、女 性 の 権 利 の 為 に 立 ち 上 が っ て ほ し い と 男 の 人 た ち に 求 め て い ま し た 。
しかし今、私たちはそれを自分たちで行うのです。男の人たちに、女性の権利のため
に活動するのを止めてくれ、と言っているわけではありません。女性が自立し、自分
たちの力で闘うことに絞ってお話をしたいのです。
親愛なる少女、少年のみなさん、今こそ声に出して言う時です。
そこで今日、私たちは世界のリーダーたちに、平和と繁栄のために重点政策を変更
してほしいと呼びかけます。世界のリーダーたちに、すべての和平協定が女性と子 ど
もの権利を守るものでなければならないと呼びかけます。女性の尊厳と権利に反する
政策は受け入れられるものではありません。
私たちはすべての政府に、全世界のすべての子どもたちへ無料の義務教育を確実に
与えることを求めます。私たちはすべての政府に、テロリズムと暴力に立ち向かうこ
とを求めます。残虐行為や危害から子どもたちを守ることを求めます。私たちは先進
諸国に、発展途上国の女の子たちが教育を受ける機会を拡大するための支援を求めま
す。私たちはすべての地域社会に、寛容であることを求めます。カースト、教義、宗
派、皮膚の色、宗教、信条に基づいた偏見をなくすためです。女性の自由と平等を守
れば、その地域は繁栄するはずです。私たち女性の半数が抑えつけられていたら、成
し遂げることはできないでしょう。
私たちは世界中の女性たちに、勇敢になることを求めます。自分の中に込められた
力 を し っ か り と 手 に 入 れ 、そ し て 自 分 た ち の 最 大 限 の 可 能 性 を 発 揮 し て ほ し い の で す 。
親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、
学 校 と 教 育 を 求 め ま す 。私 た ち は 、
「 平 和 」と「 す べ て の 人 に 教 育 を 」と い う 目 的 地 に
到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。私たちは、
自分たちの権利のために声を上げ、私たちの声を通じて変化をもたらします。自分た
ちの言葉の力を、強さを信じましょう。私たちの言葉は世界を変えられるのです。
なぜなら私たちは、教育という目標のために一つになり、連帯できるからです。そ
してこの目標を達成するために、知識という武器を持って力を持ちましょう。そして
連帯し、一つになって自分たちを守りましょう。
親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当
な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れ てはいけません。何百万人もの子
どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明
るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。
無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょ
う。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。
1 人 の 子 ど も 、1 人 の 教 師 、1 冊 の 本 、そ し て 1 本 の ペ ン 、そ れ で 世 界 を 変 え ら れ ま
す。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一
に )。 あ り が と う ご ざ い ま し た 。
トルストイ主義
トルストイ主義とは、キリスト教の福音書に従った、愛・自由・勤労・自己犠牲の
生活を実践することで、これを具体的に述べれば、権力悪に対抗する唯一の手段とし
ての無抵抗主義(非暴力的抵抗と言った方がわかりやすい)と、それを貫くために自
給 自 足 的 労 働 の 必 要 性 を 説 い た こ と で す 。前 者 の 方 は 、も ち ろ ん「 悪 に 抗 す る な か れ 」
と い う イ エ ス の 言 葉( 新 約 聖 書 の 福 音 書 に あ る 、い わ ゆ る「 山 上 の 垂 訓 」の 中 の 一 節 )
を言葉通りに解釈した結果ですが、彼はそれを自分の良心から導いたのであり、決し
て聖書を神聖化したのではなく、そこが、一般のプロテスタント教会や聖書原理主義
の エ ホ バ の 証 人 ( = 「 も の み の 塔 」) な ど と 違 う と こ ろ で あ る と 言 わ れ て い ま す 。
後者の自給自足ということについても、トルストイの生い立ちから出た思想であり、
農業に携わりながらも小作料のために悲惨な生活を送る農奴の姿をその目で見て来た
経験によるものです。彼は、自分が貴族出身の地主であったことを悩み、土地を農奴
(小作人)に解放しようとますが、農民に拒否されてしまい、彼らの理解を得るまで
に相当長い年月を要しました。またトルストイは、純潔にこだわり、生涯一人の伴侶
と共にある一夫一婦制を強固に支持しましたが、彼自身の妻は、必ずしも彼の思想の
よ き 理 解 者 で は な か っ た た め 、つ い に 彼 は 8 0 歳 も 過 ぎ た 高 齢 に も 関 わ ら ず 家 出 を し 、
肺炎で死んでしまいます。
トルストイの影響を受けた人物の筆頭は、インド独立の父ガンジーで 、ガンジーは
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスか
ら の 独 立 運 動 を 指 揮 し 、そ の 形 は 民 衆 暴 動 の 形 を と る も の で は な く 「
、 非 暴 力 、不 服 従 」
を提唱し、この非暴力において一番重要なことは自己の内の臆病や不安を乗り越える
ことであると主張しています。またガンジーは、自分の理念を纏め、「真理は神であ
る」と述べています。これはガンジーもトルストイと同じように神の教えに従うこと
が必要だと強く感じたからではないでしょうか。日本でも、宮崎県で自給自足の新し
き村(現在も埼玉県で存続)を作った武者小路実篤、農地解放をして共生農場(北海
とくとみ ろ
か
道ニセコ)を作った有島武郎、武蔵野で半農生活をした 徳富蘆花など、白樺派の作家
にトルストイが与えた影響はよく知られています。
トルストイは晩年、禁欲的生活を実践しようとして、妻と不仲になるほど 、清貧の
生き方に固執しましたが、現代社会は、物質的豊かさを追求する弱肉強食の競争原理
を唯一の基礎にしています。そのため少数の幸福と多数の不幸を生み出す不正義な状
況を生み出しています。これを解決するには、競争ではなく共生の思想が社会の基礎
とならなければならないのではないでしょうか。そして共生とは、依存し合うことで
はなく、自立ということに基づかなければなりません。つまり、基本的にできる限り
自立自存し、どうしても自活することの不可能な部分だけを助け合う、これが正しい
生き方だと思うのです。金さえ積めば必要なものは手に入れられるという生き方とは
正反対に、できる限り自分でできることは自分でやることが必要 だと思うのです。そ
こには、富の集中はあり得なく、したがって清く正しく貧しくという生き方のみが許
されると思うのです。
人 は 他 人 の た め に 存 在 す る ... ア ル バ ー ト ・ ア イ ン シ ュ タ イ ン
人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の
幸せであるひとたちのために。そして、共感という絆で結ばれている無数にいる見知
らぬ人たちのために。
人は他人のために存在する。私はこの言葉は 、農業を除いた仕事で 考えるとよくわ
かる気がします。それは、人は自分が生きていくための糧を得るためには、他人に対
し何らかの働きがけをしなければ、糧を得ることは出来ないと考えるからです。いく
ら自分の車を綺麗に磨いても報酬を得ることは出来ません。しかし、他人の車を綺麗
に磨いたらそれに対する報酬を得ることが出来るかも知れません。この報酬はつまり
お金です。人はこのお金を得るために一生懸命に働きます。そのため自分のために一
生 懸 命 働 い て い る よ う に 思 う の で す が 、実 は 他 人 の た め に 何 か を し な け れ ば 報 酬( お
金)を得ることは出来ないのです。このことを人は忘れているような気がします。
また、鳩山内閣総理大臣の所信表明演説で、人間の究極の幸せは四つあり、愛され
ること、ほめられること、役に立つこと、必要とされることで、この四つのうち働く
ことによって愛以外の三つの幸せが得られると述べています。これは他人が与えてく
れる精神的な充実を表しているのではないでしょうか。このように他人との係わりに
より、物的・精神的な報酬が得られることから、人は( 自分)は他人のために存在す
るということが分かる気がするのです。
し か し 、「 自 分 」 と い う こ と を 忘 れ 「 他 人 の た め に 」 な ん て 言 う 大 義 名 分 ほ ど 、 嫌
みで信用できないものはないと思うのです。はっきりと他人のために何かすることは
「自分のため」とわかっている人のほうがむしろ信用でき、 自分を忘れて他人のため
に 何 か を す る と 言 い う 人 ほ ど 、上 述 の 三 つ の 幸 せ が 得 ら れ な い と 、逆 に 不 機 嫌 に な り 、
文句を言ったり、怒ったりします。これは人のためと言いながら、実際は、相手から
の感謝や賞賛という見返りだけを求めているにすぎないからです。
ことわざに「情けは人の為ならず」というものがあります。この意味は、 情けは人
のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にし
ておいた方が良いというものです。
「 他 人 の た め に 」と い う 言 葉 は 、聞 こ え は よ い の で
すが、それが本当は「自分のため」であることが、わかることが肝心です。 また、人
は他人から、自分自身に目に見える報酬、心の報酬を得なければ、私もあなたも全て
の人が生きて行けないことに、気がつかなければいけないと思うのです。そこに気が
付けば人は(自分は)他人のために存在すると言う意味が理解できるのではと思うの
です。
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