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梅原龍三郎とその周辺

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梅原龍三郎とその周辺
ふくやま美術館所蔵品展示目録 No.130
梅原龍三郎とその周辺
2015年
4月 8日(水)— 6月 21日(日) 会場:常設展示室 1・2
※月曜休館 但し5月4日は開館
※ギャラリートーク 会期中の毎月第3金曜日(4月17日、5月15日、6月19日)午後2時より
梅原龍三郎(1888-1986)の生涯とその画業は、日本における油彩画の発展と見事なまでに
重なりを見せる。梅原が京都で産声をあげた1888(明治21)年の翌年、日本で初めて西洋美
術を組織的に教育する機関、工部美術学校でアントニオ・フォンタネージに油彩画の技法を
学んだ浅井忠が、その普及のため明治美術会を設立した。また彼の幼少期にあたる1896(明
治29)年には、東京美術学校(現・東京藝術大学 /1889年開校)に西洋画科が設けられ、日本におい
て油彩画の本格的な取り組みが始まっている。
こうして日本に定着し始めた油彩画に幼い頃から絵を描く事が好きだった梅原は魅了され
る。15歳の時、浅井が京都に開設した聖護院洋画研究所で学んだ梅原は、1908(明治41)年
渡仏し、ルノワールに師事すると共にヨーロッパの美術を貪欲に吸収する。1913(大正2)年
の帰国後、新進画家として脚光を浴び、早速、石井柏亭らが設立した二科会に迎えられた。
しかし、西洋と日本の風土の違いに戸惑い、思うように筆が進まなくなる。そしてついに、
1920(大正9)年の二度目の渡仏で、ルノワールにも賞賛されたその卓越した色彩感覚を、大
胆な描線と荒い筆致の探究により日本の風土の中に昇華させる術を見出すのである。梅原は、
日本的な油彩画表現を追究し続けるその画風で新境地を切り開きながら、春陽会の結成、国
画創作協会に洋画部の新設、国画創作協会解散後は洋画部を国画会として継続させ、1986(昭
和61)年、97年の生涯を全うするまで、日本の美術界を牽引し続けた。彼が関わった団体は、
今も美術界にその足跡を刻み続けている。
現在、ふくやま美術館では、この梅原の作品4点を所蔵、2点の寄託がある。この度の特集
展示では、これらの作品が日本の美術界に大きな足跡を残す梅原のどの時代に描かれたもの
なのかを辿りながら、彼と交流のあった作家たちの作品とともに、大正、昭和の美術界の動
きを紹介したい。
Ⅰ.ルノワールへの心酔
梅原は1903(明治36)年に聖護院洋画研究所で学び始め、翌年、安井曾太郎が入所した。安
井はやがて、《手袋》
(No.8)などの人物画に「安井様式」といわれるまでになる独自のリアリズ
ムを確立することや、二人が日本の美術界に新風を巻き起こす存在になることは、この時、
まだ誰も知る由がない。
1906(明治39)年、聖護院洋画研究所が手狭になったため、関西美術院として設立されると、
二人は他の塾生とともに同院に移る。そこでの指導者の一人が、
《フランス風景》
(No.7)に見ら
れる堅実なデッサン力をもつ鹿子木孟郎で、後に梅原は「物々しい然し平易な写実主義が若い
生徒等に早解りし、解剖図などを木炭紙の余白にかいてなど教えてもらい吾々は大変進んだ
事を教えられた様な気がして喜びました (1)」とその指導を感謝している。また、浅井からは作
品の批評を受けながら、物の美しさを見出す力を教えこまれた。これは、1908(明治41)年、
梅原の最初の渡欧における大きな力となる。もし、彼にその力が培われていなければ、当時
の日本ではまだその評価があまり定まっていなかったルノワールの作品に傾倒することはな
かったかもしれない。
フランスに向かう船の中で友人の田中喜作にルノワールについて教えられた梅原は、現地
で彼の作品と実際に接するやいなや、「そら、此の画こそ私が求めて居た、夢見て居た、そし
て自分で成したい画である。かかる画を見る事が出来てこそかく遠く海を越えてここにきた
価値があった (2)」と心酔し、紹介状もなくルノワールを訪ね弟子となった。梅原は、師の傍ら
で、絵筆の持ち方やパレットの絵の具の置き方さえ見逃さず、その色彩の輝きを学びとろう
とする。ルノワールも彼の熱意をくみ取り、「画を成すものは手でない眼だ、自然をよく御覧
なさい (3)」と諭しながら絵筆を走らせた。こうした師弟の交流は梅原の著作『ルノワルの追憶』
(1944年 養徳社)に詳細に綴られている。
そして、ルノワールに「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことの出来るものだが色彩
はタンペラマンによるものだ、それがあるのが甚だいい (4)」と色彩感覚に対する天性の気質を
1.梅原龍三郎《仙酔島の朝》
7. 鹿子木孟郎《フランス風景》
8. 安井曾太郎《手袋》
1
高く評価された梅原は、イタリアへ旅した際にポンペイでみた古代ローマ時代の遺跡の壁の
赤色をその背景に巧みに融合させた《黄金の首飾り》
(1913年 / 東京国立近代美術館)、肌の輝きが
人間の生命力を讃えているかのような《ナルシス》
(1913年 / 東京国立近代美術館)などに、5年に
わたる滞欧の成果をみせる。当時友人への手紙の「セザンヌやルノワールには到底およばない
が、自分にはまた別なものが出来るのじゃないか、という気がする (5)」という一文はその自信
を如実に表す。
2. 梅原龍三郎《薔薇図(宋窯黒地白梳の壷)》
3. 梅原龍三郎《ビワ》
11. 岸田劉生《新富座幕合之写生》
14.中川一政《ツバキ》
2
Ⅱ.心酔との葛藤
梅原が帰国した大正初期、日本の美術界は、さらなる進展を見せ始めていた。明治末、相
次いで創刊された『スバル』
『白樺』など文学雑誌に紹介されたゴッホやゴーギャンに刺激を受
け、浅井が推進する徹底的な写実を基礎とする画風や黒田清輝がフランスから持ち込んでい
た明るい外光描写に飽き足らなくなっていた青年画家たちは、自らその作品を世に問う場を
つくり始めていた。まず、1912(大正元)年、滞仏中の梅原と交遊を深めた高村光太郎らがヒ
ュウザン会を結成した。1914(大正3) 年に石井柏亭らが二科会をたちあげる。そして、
1915(大正4)年には、後に梅原が親交を深める岸田劉生が草土社を主宰している。
こうした活発な動きを見せ始めた青年画家たちが、梅原の帰国後の活躍に期待を寄せたの
は当然のことだろう。1913(大正2)年6月に帰国した梅原は、早くも10月には白樺社主催に
よる < 梅原良三郎油絵展覧会 > を開催し滞欧作を披露する。その翌年には、二科会の鑑査委
員に選出され、第1回二科展に《静物 ( 椿 )》
(焼失)を出品。これは「緑と青と黄と橙と灰色と濃
き赤とは美しき調和を織り成す (6)」と児島喜久雄にその色使いを讃えられるなど、幸先のよい
スタートを切り、同会員となる。
しかし、第2回の同展には既存の作品を出品、翌年は不参加という結果は、彼がスランプ
に陥ったことを裏付ける。滞欧中にルノワールなどから学んだ色彩表現が、気候も風土も異
なる日本では全く活かされないことに気づいた梅原は、これをどのように融合させるべきか、
模索の日々を送っていたのである。
「私がルノワールにひんぱんに逢い、ああいう立派な芸術
家の生活を知る事を得たのは、非常にとくとしているが、他面そのため無意識だが自分が不
自由になったということを考えている。逢わなかった方がもっと存分におそれなく伸びて行
けたのではないかと、内心思う事が良くある (7)」という一文からは、ルノワールの強い影響と
そこから脱却しようと葛藤する梅原の姿が浮かびあがる。第4回展には、ルノワールに学ん
だ色彩のみならず、セザンヌのような構築性のある画面構成を試みた作品《熱海風景》(1917
年 / 東京国立近代美術館)、
《椿》
(1917年 / 神奈川県立近代美術館)を出品するが、
《椿》に対し山本鼎か
ら「この豊麗な色の手管を此画から取り去つたら、何が残るか? (8)」と手厳しい批評が寄せら
れた。こうしたスランプに苦しむ梅原をさらに大きな悲しみが襲う。
「私が絶えず何でもいい
ものを作り度いと思う時、ルノワル先生に見せるということが其の目的の一部になっていた
(9)
」というほどに慕っていたルノワールが世を去ったのである。
Ⅲ.油彩画の中に昇華させた日本の美意識
ルノワールの死の翌年の1920(大正9)年、梅原は遺族を弔問するために再度フランスへ赴
く。この時滞在した南仏の「この辺の海は、大気か何かの関係で色が素晴らしく美しく好きだ
った (10)」という陽光から、彼は《カンヌ》
(1920年 / 東京国立近代美術館)、
《ナポリよりソレントを
望む》
(1921年 / 石橋財団ブリヂストン美術館)に見られるような、華麗でありながら落ち着いた温
かみのある色彩とリズム感を持つ筆使いによる力強い画面構成を掴み、そのスランプを脱す
る。
1921(大正10)年、帰国した梅原は、岸田劉生と親交を結ぶ。最初の渡仏から帰国間もなく
岸田の作品を見た梅原は「自分の趣味には余り近い絵ではなかつたが、天分のある人であると
思った (11)」と、第4回二科展に岸田が出品した《初夏の小路》
(1917年 / 下関市立美術館)を二科賞
に推すなど早くからその才能を認めていた。その頃、岸田は、セザンヌやデューラーに美し
さの根源を見出し、
《静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)》
(No.10)にみられるような構築
性と細密な写実性を追究していたが、梅原と交流が始まった時期は、東洋美術に心酔してい
た頃で《新富座幕合之写生》(No.11)など初期肉筆浮世絵の要素をとりいれた作品に取り組ん
でいた。岸田は、
『初期肉筆浮世絵』
(1926年 岩波書店)出版にあたり、梅原所有の作品を掲載す
るなど、その見識には一目置いて居る。また日本美術院洋画部を脱会した小杉未醒(放菴)らが
1922(大正11)年、日本的な油彩画を探究するために立ち上げた春陽会に、梅原が岸田の入会
を条件として参加していることからも、二人が互いの芸術性を尊重しあう仲であったことが
わかる。
その春陽会の設立に彼らと共に加わったのが、
中川一政だった。彼は同会を活動の拠点とし、
《ツバキ》
(No.14)、
《椿蜜柑》
(No.15)、
《バラ》
(No.16)のような豪快な筆致と鮮やかな色彩によ
る闊達な画風を展開させることになる。その中川の一文
「私は草土社と岸田劉生の世界におり、
画壇を知らなかった。みんな貧乏で、顔をしかめて細密描写をしており、仕事場は暗かった。
絢爛で奔放な梅原がそこにあらわれた。その文章においてさえ色彩と光が輝いていた (12)」は、
梅原の華々しい存在感を裏付ける。梅原は同会に《カンヌ港》
(1920年)や《榛名湖》
(1920年)
など、単純な色のコントラストによって、陽光を巧みに捉えた作品を発表しその新境地を披
露する。この頃、「私ほど贅沢な洋画教育を受けた者は少ないかも知れない (13)」と梅原と中川
を師と仰ぎ、共に日光中禅寺湖にスケッチ旅行に出かけていたのが、日本画から洋画に転向
して間もない小林和作(《春》
(No.19)、
《石槌山中の春》
(No.20))である。
1925(大正14)年4月、岸田の春陽会脱会に伴い、梅原もその責任をとりこれに続く。しかし、
無所属となった彼を画家仲間が放っておくはずもなく、7月には、国画創作協会に迎えられ、
同会の第2部として川島理一郎と洋画部を新設することになる。その3年後、第1部である日
本画部の解散が決まると、梅原は洋画部を国画会として存続させる決意を固め、その中心人
物として日本の美術界を牽引し始めるのである。同会の1934(昭和9)年、第9回展では、梅
原に傾倒する香月泰男(《ざくろ》
(No.27)、
《モントプレチャ》
(No.28)、
《冬瓜》
(No.29))が彼の推薦で
初入選をはたし、1940(昭和15)年、同人推挙となっている。また、
「彼の印する一線一点が
彼の美的感情の素直大胆なる表顕である (14)」と梅原が賛辞を惜しまない棟方志功(《躅飛弥陀の
柵》
(No.25))が1935(昭和10)年、会友となっている。そして「梅原さんの画について如何に
賞賛したって決して賞賛し過ぎるという事はない (15)」と尊敬の言葉を記す里見勝蔵(《イビザの
岩山》
(No.26))も独立美術協会脱会後、1954(昭和29)年に会員として入会している。
この頃誕生した作品が、浮世絵の影響やこれまであまり着目していなかった黒色を巧みに
とりいれた《裸婦結髪図》
(1928年)、
《裸婦・鏡》
(1928年 / 下関市立美術館)である。それはやがて、
油で日本画の顔料を練るという新たな試みから生み出された緑青、群青で陰の強弱を捉えた
《竹窓裸婦》(1937年 / 大原美術館)、金屏風の輝きもさることながら、その前に横たわる裸婦に
赤色、緑色による輪郭線を施すことによって画面に装飾性をもたらし、桃山芸術の溌剌とし
た絢爛さを踏襲したかのような《裸婦扇》(1938年 / 大原美術館)につながっていく。これらは、
梅原が油彩画の中に昇華させた日本の美意識を如実にあらわす。
《仙酔島の朝》(No.1)は、梅原がこの新たな様式を生み出した頃の作品であろう。空が夜か
ら朝へと白みかかる鞆の浦の光景を捉えたもので、まだ暗い海の中、朝日を浴び始めた島は
ところどころに薄桃色の輝きをみせ、清々しい空気が醸し出されている。そしてまだ陽のあ
たらない島には深い藍色を施し、影のような表情を与えることによって、夜明け独特の静寂
感が引き出されている。日本の日常的な気韻に充ちた瞬間が輝きと影という色の対比によっ
て、見事に写しとられている。この作品が誕生して2年後、1931(昭和6)年に制定された国
立公園法に基づき、この仙酔島がある瀬戸内海は、雲仙、霧島と共に初めての国立公園とし
て指定を受ける。これと同じ構図で、空が黄金色の輝きを見せ始めている《朝の仙酔島(瀬戸
内海国立公園)》が1932年の作として国立公園協会に所蔵されている。そのきっかけは、こ
の制定運動にも関わり、梅原と共に春陽会をたちあげた小杉放菴の推薦ではないかと推測さ
れている (16)。この2点に施された微妙な光の変化に梅原の鋭い観察力を垣間見る事ができる。
こうして二度目の渡欧で、その色彩感覚をさらに研ぎ澄ませて、梅原が手中に収めた、や
わらかな色彩とのびやかな筆致は、かつて彼を苦しませた日本の風土と対峙する力を生み出
させた。そして、ついに彼は自分の世界にその風土を昇華させる術を見出したのである。そ
れは、彼が1934(昭和9)年から約6年間にわたり手がけることになる桜島やその後に続く富
士山、浅間山といった火山をテーマにした風景画に如実に表われる。装飾性の強い形態の捉
え方、力強い流れをもつ描線、鮮やかな色彩は、梅原がその油彩画の中に制覇した、豪華絢
爛でありながら、自然で素朴な一面も漂わせる桃山時代の芸術世界を見出すことができるだ
ろう。
Ⅳ.円熟する画境
梅原は、1939(昭和14)年、第2回満州国美術展の審査で満州へ赴いた帰りに立ち寄った北
京でますます円熟期を迎える。朝日を浴びて黄色く輝く屋根、赤い壁と木々の緑の対比など
この町並が放つ鮮烈な色彩に刺激を受けた彼は、以後5年間に6度も北京を訪れ、いずれも長
期にわたり滞在している。
「北京では非常に緊張した気持があったと思う。
(中略)毎年同じとこ
ろを描くのだが、光の美しい時は常に新しい歓びを感じて、あかずに描くことができた (17)」
という日々の中から、空に舞い上がる躍動感溢れる雲の描写や天壇の深緑色と層楼の朱色の
対比に色彩画家としての本領を見せつけた《雲中天壇》
(1939年 / 京都国立近代美術館)や朱色と緑
色が鮮烈な存在感を示す《紫禁城》
(1940年 / 永青文庫)などが誕生している。
また、梅原が静物画に本格的に取り組むのはこの頃からで、中国の色絵磁器の鮮やかな色
彩に魅了され、北京で萬歴赤絵壺を手に入れると、帰国後早速これに薔薇を活けた作品に着
手している。壺と花の色彩を競いあわせることによってもたらされた華やかなモチーフに歓
喜する画家の姿を想像できる。
《薔薇図(宋窯黒地白梳の壷)》
(No.2)は、丸味を帯びた形をも
4. 梅原龍三郎《芥子図》
5. 梅原龍三郎《百合》
25. 棟方志功
《躅飛弥陀の柵》
29. 香月泰男《冬瓜》
26. 里見勝蔵《イビザの岩山》
5
つ壺の重厚な輝きと「ばらの花に自分は非常に光を感じている (18)」という、薔薇独特の艶やか
な色彩の共鳴が、豊かな装飾性を生み出し、画面に荘厳な色彩のハーモニーを奏でさせている。
《ビワ》(No.3)は、背景の白色と朱色の対比や、葉の緑色の輝きの中に朱色の輪郭線が施され
た枇杷を浮かび上がらせることによって、画面に独特の華やぎがもたらされている。
梅原がこうした色彩による装飾性を探究するために、油で日本画の顔料を練るという試み
を行っている。
「絵具も西洋のままでは真似事のようで、いやになる (19)」と語る梅原は、画材
に新たな可能性を模索し続けていた。時に岩絵具を膠で溶くデトランプを用いた事もあった
が、それはやがて、
《薔薇図(宋窯黒地白梳の壷)》
《ビワ》にも使われている、岩絵具をポリビ
ニール液で溶くという梅原流のデトランプを編みだすに至る。この画材は油絵具のように色
の重ね塗りができないため平面的になるものの、岩絵具の深みのある発色が画面に梅原独特
の装飾性をもたらす事を可能にしたのだった。その効果は、琳派の装飾美を彷彿とさせる《噴
煙》
(1953年 / 東京国立近代美術館)などにあますことなく発揮されている。
Ⅴ.生への讃歌
こうして日本における油彩画の可能性を提示し続ける梅原の功績は、高く評価される。
1935(昭和10)年、帝国美術院会員(1937年帝国美術院改組により帝国芸術院会員、1947年帝国芸術
6. 梅原龍三郎《牡丹》
院名称変更により日本芸術院会員)となったのを始め、1944(昭和19)年、東京美術学校(現・東京藝
術大学)西洋画科教授として迎えられ、その翌月にはさらに帝室技芸員を命じられる。そして
1952(昭和27)年には、文化勲章を受章する。この経歴を共に歩むのが、かつて聖護院洋画研
究所で共に学んだ安井であり、日本の美術界の一つの黄金期がまぎれもなくこの二人によっ
て築かれていたことを証明する。しかしその名声と共に、代表者として一つの規範を作り出
すという使命もつきまとう。1948(昭和23)年、日本芸術院会員の辞任届け提出や1951(昭
和26)年、国画会の運営から身を引くのは、一人の画家としての自由な立場を渇望する梅原の
思いの表れだろう。そしてその願いが叶えられるのは、日本芸術院会員の辞任届けがようや
く受理された1957(昭和32)年の事だった。
要職を辞した頃から頻繁に行われた長期にわたる欧州滞在の中で、国画会40周年記念展出
品作《カンヌ》
(1962年 / 東京国立近代美術館)などが生れている。彼はかつてスランプから立ち直
22. 熊谷守一《白い臥裸婦》
らせたその陽光を鮮やかな色彩と簡略化された筆致で掴みとる。また、毎年、夏をすごす軽
井沢を描いた《軽井沢秋景》
(1974年 / ひろしま美術館)で荒い筆致と色使いが醸し出したダイナミックな画面は、彼が心ゆくまで絵具の発色
を堪能しているかのようにみえる。
自分の絵画と存分にむきあうこの時期に描かれたのが《芥子図》
(No.4)である。これは、かつて《黄金の首飾り》に見せた華やかな赤色の
世界を彷彿とさせる。芥子と台座に施された赤色が、背景の暗褐色、壺に配された暗緑色との対比により、鮮明な輝きを放つ。奔放な筆
致でありながら、花弁の造形性やその花弁の重なりによって生まれる丸味のあるこの花の形状が的確に捉えられている。
《百合》
(No.5)は、1972(昭和47)年に右眼に白内障の手術を受けた翌年の作品である。視力の順調な回復は、周囲を艶やかな色彩で彩
りながら見事にひきだされた白色の輝きにうかがうことができる。そののびやかな筆触が画面に生き生きとした生命力を漲らせている。
また制作年は定かではないが、黄褐色を背景に白色の壺に活けられた紅白の花がその優美さを誇る《牡丹》
(No.6)は、葉に施された緑色の
輝きによってその美しさがより強調され、その研ぎ澄まされた色彩感覚を知ることができるだろう。
彼は、このように一人の画家としてカンヴァスと向き合う自由を得ると、これまで作品の中に培ってきた桃山時代や琳派の装飾性を根
底に、美しいものを眼に捉えた感動のままをカンヴァスに写しとり始める。その奔放な筆致と色使いによる作品は、梅原自身が描くとい
う行為を心ゆくまで楽しんでいるかのような、つまり生への讃歌に満ち溢れたものになる。ここに常識的な造形思考は身を潜める。ある
のは、梅原がその絵筆を委ねた彼の眼と感覚のみだ。その眼とは、かつてルノワールに諭された、「画を成すものは手でない眼だ」という
自然の美の本質を見極める眼であり、その感覚とは、ルノワールに指摘された色彩に対する卓越した感覚である。
梅原が本格的に絵画を学び始めた15歳の時から約80年間、その画家生命を賭けて挑み続けた油彩画と日本の美意識の融合は、彼がその
眼と感覚を惜しげもなく披露したことによって、西洋の画家たちの追随さえ許さない新たな様式を日本の美術界に誕生させたのであった。
(学芸課次長 宮内ちづる)
註 ( 1 )梅原龍三郎「デッサンの話」
『天衣無縫』
(1984年 求龍堂)145頁
( 2 )梅原龍三郎「1. 初めて巴里でルノワル先生の画を見る」
『ルノワルの追憶』
(1944年 養德社)4頁
( 3 )梅原龍三郎「2. カイニュに初めて先生を訪ふ」同書16頁
( 4 )梅原龍三郎「4. 先生の巴里の画室」同書27頁
( 5 )日本現代画家選 梅原龍三郎Ⅰ -4(1953年 美術出版社)
(
(
(
(
6
7
8
9
)児島喜久雄 「二科展評」
『二科70年史 1914-1943』244頁
)日本現代画家選 梅原龍三郎Ⅰ -2 前掲書
)山本鼎「二科評」
『天衣無縫』前掲書202頁所収
)梅原龍三郎「6. 私の最後の訪問」
『ルノワルの追憶』前掲書51頁
(10)日本現代画家選 梅原龍三郎Ⅰ -7前掲書
(11)梅原龍三郎「岸田との思ひ出」
『近代画家研究資料 岸田劉生Ⅱ』
(1977年 東出版)112頁
(12)中川一政「王道一筋 梅原の世界」朝日新聞 ( 夕刊 )1986年1月17日付
(13)小林和作「東京の家(昭和40年)」
『春雪秋霜』
(1967年 求龍堂)94-95頁
(14)梅原龍三郎「棟方志功の芸術」
『天衣無縫』前掲書258頁
(15)里見勝蔵「梅原論」
『美術』昭和13年第13巻第6号14頁
(16)田中正史「国立公園の制定と日光、そして小杉放菴と」
『風景と自然・国立公園と絵画展』図録(1998年 小杉放菴記念日光美術館)17頁
(17)日本現代画家選 梅原龍三郎Ⅱ -11(1953年美術出版社)
(18)日本現代画家選 梅原龍三郎Ⅱ -5(同書)
(19)伊藤廉「梅原さんが語る」
『美術』前掲書19頁
ふくやま美術館所蔵品展示目録 No.130
発行日/ 2015 年 4 月 8 日 編集・発行/ふくやま美術館(福山市西町 2-4-3)
印刷/株式会社ベッセル ベッセルプリンティング
6
第1室 梅原龍三郎とその周辺
No. 作家名
1 梅原龍三郎
生没年
(1888-1986)
*は寄託作品
作品名
制作年
材質技法
縦×横(㎝)
仙酔島の朝
1932頃
油彩,
カンヴァス
2 梅原龍三郎
薔薇図
(宋窯黒地白梳の壷)
1943
油彩,
デトランプ,
紙
50.5 × 39.7
3 梅原龍三郎
ビワ
1947頃
デトランプ,
紙
37.5 × 65.0
4 梅原龍三郎
芥子図
1970
油彩,
カンヴァス
41.7 × 32.4
5 梅原龍三郎
百合
1973
油彩,
カンヴァス,
板
45.7 × 38.0
6 梅原龍三郎
牡丹
7 鹿子木孟郎
(1874-1941)
フランス風景
1917頃
8 安井曾太郎
(1888-1955)
手袋
1943-44
9 安井曾太郎
65.5 × 80.5
油彩,
カンヴァス
60.0 × 50.0
油彩,
カンヴァス
39.9 × 45.5
油彩,
カンヴァス
89.3 × 72.8
裸婦
鉛筆,
紙
27.5 × 18.0
静物
(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑) 1917
油彩,
カンヴァス
33.7 × 45.8
11 岸田劉生
新富座幕合之写生
1923
油彩,
カンヴァス
31.9 × 41.0
12 岸田劉生
麗子十六歳之像
1929
油彩,
カンヴァス
47.2 × 24.8
王母桃
1926頃
10 岸田劉生
(1891-1921)
13 岸田劉生
紙本着色
29.1 × 38.0
ツバキ
油彩,
カンヴァス
59.3 × 48.5
15 中川一政
椿蜜柑
油彩,
カンヴァス
53.0 × 45.5
16 中川一政
バラ
油彩,
カンヴァス
57.5 × 47.0
(1896-1975)
薔薇
油彩,
カンヴァス
40.0 × 31.0
婦人像
1960年代頃
墨,
着彩,
紙
49.4 × 33.0
(1888-1974)
春
1941頃
油彩,
カンヴァス
53.0 × 45.0
油彩,
カンヴァス
45.2 × 37.3
油彩,
カンヴァス
27.2 × 22.0
14 中川一政
17 林武
(1893-1991)
18 林武
19 小林和作
20 小林和作
石槌山中の春
21 東郷青児
(1897-1978)
二つの塔
22 熊谷守一
(1880-1977)
白い臥裸婦
23 熊谷守一
1962
裸婦
油彩,
板
15.6 × 22.7
パステル,
紙
38.0 × 26.0
ペン,
水彩,
紙
28.5 × 21.0
24 藤田嗣治
(1886-1968)
マドレーヌの横顔
25 棟方志功
(1903-1975)
躅飛弥陀の柵
1973
木版,
裏彩色,
紙
51.8 × 35.7
26 里見勝蔵
(1895-1981)
イビザの岩山
1950
油彩,
カンヴァス
90.9 × 116.7
27 香月泰男
(1911-1974)
37.5 × 26.5
ざくろ
1958
水彩,
パステル,
鉛筆,
紙
28 香月泰男
モントプレチャ
1960-62
水彩,
パステル,
鉛筆,
紙
38.3 × 25.8
29 香月泰男
冬瓜
1965-70
水彩,
パステル,
鉛筆,
紙
37.4 × 26.2
30 アリスティード・マイヨール (1861-1944)
後ろ向きに座っているテレーズ
1928
チョーク,
紙
31.5 × 19.5
31 ジョルジュ・ルオー
(1871-1958)
ユビュ王
1939頃
油彩,
カンヴァス
45.5 × 68.5
32 パブロ・ピカソ
(1881-1973)
近衛騎兵
(17,18世紀の近衛騎兵)
1968
油彩,
パネル
81.0 × 60.0
作品名
制作年
材質技法
帽子の婦人
1905-10頃
油彩,
カンヴァス
女の顔
1931
油彩,板
41.0 × 32.0
1909-12頃
油彩,カンヴァス
64.5 × 80.5
油彩,
カンヴァス
76.0 × 60.5
*
*
*
*
第2室 日本の近代美術
No. 作家名
33 白瀧幾之助
生没年
(1873-1960)
34 熊谷守一
縦×横×奥行(㎝)
72.3 × 53.0
35 児島虎次郎
(1881-1929)
ベルギー、
ガン市郊外
36 南薫造
(1883-1950)
西洋婦人
(B)
37 小林徳三郎
(1884-1949)
花と少年
1931
油彩,
カンヴァス
53.1 × 65.0
38 野口彌太郎
(1889-1976)
タンジールにて
1975
油彩,
カンヴァス
130.3 × 97.3
橋
1909
油彩,カンヴァス
33.6 × 45.7
(1891-1961)
冬の漁村
1937
油彩,
カンヴァス
48.5 × 59.7
90.9 × 72.7
39 岸田劉生
40 須田国太郎
妻の像
1927
油彩,
カンヴァス
42 中山巍
41 林武
(1893-1978)
少女
1951
油彩,
カンヴァス
63.5 × 52.0
43 吉田卓
(1897-1929)
子供のゐる風景
1922頃
油彩,
カンヴァス
45.5 × 38.0
44 山口長男
(1902-1988)
堰形
1959
油彩,
合板
45 小磯良平
(1903-1988)
西洋人形
1970-75頃
油彩,カンヴァス
52.0 × 44.0
46 高橋秀
(1930-)
ブルーボール#101
1971
油彩,カンヴァス
142.0 × 190.0
47 高松次郎
(1936-1998)
形
(No.1201)
1987
油彩,
カンヴァス
218.0 × 182.0
48 野田弘志
(1936-)
ガラスと骨Ⅱ
1990
油彩・アクリル下地,
カンヴァス
146.0 × 112.0
49 松本陽子
(1936-)
ベイルシエバの荒野
1990
アクリル,
カンヴァス
200.0 × 250.0
50 中川直人
(1944-)
アフリカの女王
1982
アクリル,
カンヴァス
150.0 × 178.0
51 塩出英雄
(1912-2001)
52 塩出英雄
183.0 × 274.0
泉庭
1950
紙本着色
149.4 × 444.8
露地
1973
紙本着色
173.7 × 242.1
53 平櫛田中
(1872-1979)
寿星
1962
木,
彩色
54 堀内正和
(1911-2001)
線C
1954
鉄
47.0 × 41.0 × 28.0
45.0 × 78.0 × 46.0
55 土谷 武
(1926-2004)
植物空間Ⅵ
1990
鉄
64.0 × 57.5 × 41.5
56 靉嘔
(1931-)
Violin on the chair
1967
油彩,
木
75.0 × 45.0 × 50.0
57 北大路魯山人
(1883-1959)
金銀彩武蔵野鉢
1925-34
陶
15.2 × 27.5 × 27.5
58 金重陶陽
(1896-1967)
一重切花入
1964
陶
20.0 × 13.0 × 11.0
和室 松本コレクション 「春の宴」
No. 作家名
作品名
制作年
材質技法
59 吸江斎
(1818-1860)
生没年
大黒天画賛
江戸時代
紙本墨画,
墨書
60 尾形乾山
(1663-1743)
詩入銹絵長角皿
江戸時代
陶
61 樂 慶入
(1817-1902)
焼貫徳利
明治時代
陶
(高)
14.5×
(口径)
4.8〜5.0
(胴径)
7.2
62 永樂保全
(1795-1854)
古染付写盃
江戸時代
陶
(高)
3.9×
(口径)
6.8
(高台)
2.6
青交趾金彩若松絵食籠
江戸時代
陶
(高)
13.1×
(胴径)
21.5
(底径)
13.3
交趾額梅食籠
昭和時代
陶
(高)
15.5×
(幅)
21.0
(奥行)
21.0
雲鶴青磁写盃
63 永樂保全
64 永樂即全
(1917-1998)
縦×横×奥行(㎝)
86.2 ×
23.0
(高)
2.7×
(幅)
18.7×
(奥行)
11.0
(高)
4.2×
(口径)
5.6
(高台)
2.1
3
梅原龍三郎略年譜
年
年齢
太字:出品作家/
「」
:展覧会/《 》
:作品名
事項
1888
(明治21)
3月9日、
京都市下京区綾小路通油小路東入芦刈山町26番戸に、
悉皆屋を営む梅原長兵衛とかめの子として生まれる。
1903
(明治36)15歳
春、
中学校を中退して、
伊藤快彦の家塾・鐘美会に入り洋画の手ほどきを受ける。
6月、
浅井忠が聖護院町の自宅内に聖護院洋画研究所を開設、
伊藤快彦の家塾が合併したため研究所に移る。
1904
(明治37)16歳
夏、
同研究所に安井曾太郎が入所する。
1906
(明治39)18歳
聖護院洋画研究所が手狭になったため、
新たに関西美術院が設立され、
他の塾生とともに同院に移り、
浅井忠、
鹿子木孟郎の指導を受ける。
1908
(明治41)20歳
5月、
関西美術院での友人、
田中喜作とともに神奈川丸で渡仏の途につく。パリ到着の翌日、
ルノワールの実作に接して感激する。
秋、
サロン・ドートンヌに出品されていたルオーの作品に感銘を受ける。
1909
(明治42)21歳
2月、
カーニュのルノワールを紹介状もなく訪ね、
以後師事する。
1911
(明治44)23歳
友人デニケルの紹介で、
ピカソを知り、
時々そのアトリエを訪ねる。
1913
(大正2) 25歳
6月、
帰国。
1914
(大正3) 26歳
10月、
石井柏亭らが二科会を創立。第1回展を開催するにあたり、
鑑査委員に選ばれる。同展に《静物
(椿)
》を出品し、
以後会員として同会に参画する。
1918
(大正7) 30歳
1月、
良三郎を本名の龍三郎に復す。3月、
二科会会員を辞す。12月、
新聞でルノワールの死を知り、
大きな衝撃を受ける。
1920
(大正9) 32歳
10月、
渡航費を得るために御殿場の家を売り、
19日再び渡仏。ルノワールの回顧展を観た後カンヌに赴く。
1921
(大正10)33歳
1月、
ルノワールの遺族を訪問。9月、
ルオーの小品をもって帰国。秋ごろ長与善郎、
岸田劉生と親交を結ぶ。
1922
(大正11)34歳
1月、
日本美術院を脱退した元洋画部同人の小杉未醒らと春陽会を結成。岸田劉生の参加に尽力する。
1923
(大正12)35歳
秋、
小林和作、中川一政と日光中禅寺湖に旅行する。以後3年続けて秋には日光に旅行する。
1925
(大正14)37歳
4月、
岸田劉生が春陽会会員と衝突、
同会を脱退することになったため、
責任をとり春陽会を退会。
7月、
土田麦僊らの国画創作協会に迎えられ、
川島理一郎と洋画部を新設する。
1928
(昭和3) 40歳
7月、
国画創作協会第1部
(日本画)
は解散することになるが、
第2部(洋画)
は、
国画会と改組、
改称して活動を続ける旨を発表する。
以後
「国画会展」
に作品を出品。
1934
(昭和9) 46歳
1月、
初めて鹿児島に旅行、
1ヵ月余り滞在して桜島などを描く。
この頃から、
岩絵具を油で練って用いる作品が現れる。
4月、
梅原の責任推薦により、
第9回
「国画会展」
で香月泰男が初入選となる。
(1940年同人推挙)
1935
(昭和10)47歳
1~2月、
鹿児島に滞在して制作する。4月、
棟方志功が国画会会友に推薦される。6月、安井曾太郎とともに帝国美術院会員となる。
1936
(昭和11)48歳
11月~12月、
霧島、
鹿児島に滞在して制作する。以後1940年まで九州風景の連作を手がける。
1937
(昭和12)49歳
3月、
「梅原龍三郎、
安井曾太郎、
藤田嗣治三人展」
(松坂屋:大阪)
開催。
1939
(昭和14)51歳
7月、
第2回
「満州国美術展」
の審査に招かれ、
満州へ赴く。北京の景観に感動して1ヵ月半近く滞在する。
1940
(昭和15)52歳
7~9月、
中国にて制作。翌年4~7月、
9月北京で制作、
11月帰国。1942年も9~11月、
北京にて制作。
1943
(昭和18)55歳
12月、
伊豆古奈温泉楽泉荘に疎開。
1944
(昭和19)56歳
6月、
安井曾太郎と共に東京美術学校
(現・東京藝術大学)
西洋画科教授、
7月には帝室技芸員に任命される。
1945
(昭和20)57歳
7月、
家族とともに天城山麓筏場に疎開し、
終戦を迎える。10月、
伊豆の大仁ホテルに移り、
富士山の制作に専念する。
1946
(昭和21)58歳
4月、
第20回
「国画会展」
に梅原龍三郎20年史室が設けられ、
作品41点が特別陳列される。
1948
(昭和23)60歳
日本芸術院会員の辞任を申し出るが受理されなかった。
この頃から、
油彩のほかにデトランプによる制作が多くなる。
1951
(昭和26)63歳
5月、
清光会の同人に熊谷守一を推薦する。6月、
国画会における主導的立場を退いて名誉会員となり、
会の運営から離れる。
1952
(昭和27)64歳
3月、
安井曾太郎とともに東京藝術大学洋画科教授を辞任する。
5月、
第25回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に国際審査員として渡欧。帰国後、軽井沢矢ケ崎に滞在して浅間山の制作に専念する。
11月、
安井曾太郎と共に文化勲章を受章する。
1954
(昭和29)66歳
4月、
国画会に里見勝蔵が会員として入会する。
1956
(昭和31)68歳
4月、
久しぶりに第30回
「国画会展」
に出品、
チューブから絵の具を絞り出して直接描く手法が話題となる。
1957
(昭和32)69歳
前年の
「国画会展」
出品作《富士山図》に対して、
第27回朝日文化賞が贈られる。6月、
日本芸術院会員の辞任が認められる。
1960
(昭和35)72歳
3月、
高島屋において好日会が組織され、
林武、
鳥海青児、
中川一政、
熊谷守一、
坂本繫二郎、
奥村土牛らとともに会員となる。
5月、
京都市美術館に1点、
国立近代美術館に5点の自作を寄贈する。
1963
(昭和38)75歳
5月、
資生堂において新椿会が組織され、坂本繫二郎、
林武、
東郷青児、
奥村土牛らと会員となる。
1969
(昭和44)81歳
6月、
東京国立近代美術館に自作14点を寄贈する。
1970
(昭和45)82歳
12月、
右眼の白内障の手術を受ける。
1973
(昭和48)85歳
3月、
日仏文化交流に尽くした功績により、
フランス政府からコマンドール勲章が贈られる。
1974
(昭和49)86歳
4月、
ルノワール、
ピカソの油彩画など愛蔵の美術品を国立西洋美術館、
東京国立博物館に寄贈する。
1985
(昭和60)97歳
12月25日、
痰を詰まらせて呼吸困難に陥ったため、
新宿区の慶応病院に入院する。
1986
(昭和61)
1月16日、
急性肺炎のため死去。
4
参考:田口慶太編「梅原龍三郎年譜」
『 梅原龍三郎展』図録
(編集:ふくやま美術館・西宮市大谷記念美術館・香川県文化会館 1991年)
島田康寛編
「年譜」
/座右宝編集部編
「梅原龍三郎 主要展覧会年表・文献目録」
『 没後10年 梅原龍三郎展』」
図録
(編集:座右宝 1996年)
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