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明治二十四年から二十五年にかけて書かれた 一 葉の雑記 「筆すさひ

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明治二十四年から二十五年にかけて書かれた 一 葉の雑記 「筆すさひ
:
田
初期1葉ノ-J・I
この中に、1連の人物評が含まれている。これらの人物評の執筆は'
明治二十四年秋頃と推測されるが、最初にとりあげられた田辺花園の
滝
浦
義(国語国文学教室)
TAKIT6(Dept.of]ap.Literature)
藤
をしへの道あきらにさとり給ひ書は我師の君いつの高弟にてあい
姿清と酒をかね給へるうへに学ほ和漢洋の,,、つに渡りて今昔しの
今金(錦)鶏の間敢(砥)供太1ぬしの一り娘におほしまして風彩容
花園女史田辺竜子君はことし廿四斗成るへし〔故のU元老院議官
した思いをそれらの背後に読み込むことも不可能ではなく、げんに、
て好意の筆使いに終始するものであった.とはいえ、1葉特有の屈折
らの評には、後年の日記にみられる如き辛妹なものいいほなく、すべ
がる人々が評されるのであるが、花園評からも窺われるように'これ
次いで天野滝子'片山照子、田中みの子'伊東夏子等、萩の舎につな
二三
のは、既にこの時、一葉自身が物書きを志していたことと無関係では
よりあをしと師はの給へり和苛ほ天ひんと〔故〕伊東祐命うしも
はおもひぬ(1)
はさゝるこそいと有難けれおのれは当時の清少納言と心のうちに
のおとかひをこそはとけ恐ろしなとおもはするけはいさゝかもお
る折ほをかしき滑けいものかたり酒落の談話のみせさせ給ひて人
学雑史(蕊)の特別記者として小説に記(紀)行に高名なるいと多し
さるからにいさゝかもほこりかなとのけはなくて打むかひ参らす
聞におた巻物語を草しことし小説-さむらに万歳の著作あり又女
Mitsuyoshi
一
これら人物評の基調は、1葉自身の、彼女が特たぬものを持つ女性達
葉
たゝえ給へりしとそ文章ほ筆なめらかにしてしかも余いんにとま
1
への羨望の情そのものであったのである。就中花園評にそれが顕著な
と
せ給ひ俗とな-雅となく世の人もて遊ほぬほなし英名の世に聞え
田
あるまい。半井桃水との師弟関係も既にこの年四月に成立しており'
花
初しは君か廿一斗の頃薮(蘇)の篤となんいふ小説あらはし給ひし
より成けり其後部の花に八重桜といふをものし給ひよみ売親(新)
評は、次の如くである。
By
葉
-
と
明治二十四年から二十五年にかけて書かれた1実の雑記「筆すさひ
花
田
と一葉
が云々されて久しい。しかし一人の作家の出発、誕生の根拠をすべて
経済的問題にのみ求めることは'それをすべて心的内的問題にのみ求
めることと同様に、不当以外の何ものでもなかろう。一葉が花園に刺
ヽ
激を受けたことは動かし難いとして'それなら、経済的なばかりでは
ヽ
1・6
金港堂刊)と「八重桜」
の二作のみになってしまう。他の作品ほ
であったのである。ただ如何せん、作品の出来栄えとしては、「薮の
してほ最も身近な成功者で'従って最も目標とするに値する花園の作
在を意識していることの顕著(3)な花園の作である。まして、作家と
ほしないであろうか。日記においても、ごく初期から、一葉がその存
むしろ彼女がこれらの作品を読んだ可能性の方が大きいことを示唆し
いだろう。それぞれの作品の掲載紙誌まで承知しているということほI
必ずしも読んでいるとほ言い切れないのである。もっとも、名のみ知
っていて'一葉がそれらを全然読んでいないとはますます言い切れな
(『都の花』明23・4、5)
えるのは、後述の如-、「薮の鷺」(明2
かも、この評でふれられた作品の中で、1葉が確実に読んでいると言
ているのは、先程引用した花圃評を除いて外疋ほないからである。し
非常に困難である.何故なら、1菓が花園の個々の作品についてふれ
ただ、一葉が花園の作品をどの程度読んでいたかを確定することは
花園作品の確定からかからねばならない。
言えばよいのであろうか。それを検討するには'先ず、一葉の読んだ
ないどのような刺激が、一葉の中から小説家をつつき出して行ったと
ヽ
「八重桜」
の二作と、他の作との間に'かなりの落差がある。一
二四
品を一葉が確実に読んだという証左を'一葉文献の中から見出すこと
葉に与えた影響の上にもそれが響いているのであろう、二作以外の作
鷺」
「八重桜」ほ次節以下に回して、これら以外について簡
をしへ
にも『読売』連載にふさわしい絢個たる才華のきらめきであった。
し等々、伝統的な技法を駆使した文体は、しかしこれはこれで'いか
徹尾戯作調で'縁語、掛詞、七五調はもとより、米づ-し、着物づく
おだまき等の名を与えるなどいかにも戯作的であり、又文章も'徹頭
詮自性」を強調し、夫に妻尾佐埋蔵(去蔵とも)、妻に操、娘に教、妾に
いものとして終始した。例えば'登場人物のネ1、、、ソグにおいて「名
を多く見せながら'しかし作品としては、趣向本位の戯作的要素の強
ろう。「教草おだまき物語」は、このようにいかにも花園らしい要素
支えた花圃の自負の結晶として、彼女の諸作をも特徴付けるものであ
であるが、これ又父の放蕩によって揺らいだ田辺の家を'母とともに
えよう。又、この作品には'利発な娘の活躍が最後に至って際立つの
ょ-見られるもので、こちらほ花園自身の体験の反映されたものと言
るが、夫が妾を持ち妻と娘がそれに苦しむという設定も、花園作品に
理」により、夫は女ともどもに落ちぶれ、自らの捨てた妻と娘に救い
とられるという内容のものである。教訓臭は花園作品の一大特色であ
香に迷った色好みの夫が'貞節な妻を離縁するが、やがて「因果の道
題からも推測されるように教訓臭の強いもので、馴染の「唄女」の色
うたひめ
で、全七回に渡って『読売新聞』小説欄に掲載された作品である。表
で、明治二十三年四月十四日から二十1日まで、1日の休載をはさん
単にふれておこう。「おた巻物語」ほ正確には「教草おだまき物語」
「薮の鷺」
経済事情のからむとされる花園の作家的出発(2)の先例による刺激言 ができないのである。
一葉の作家的出発に関しては、樋口家の経済の事情と、同じく家の
った。
後述の如-、時まさに、その関係に、最初の頓挫が訪れていた頃であ
花
家の出ではあるが慈悲深く、品行方正でかつ決断力に蔑んだ行動家の
にお手のものとも言うべき素材を扱ったものでありた.即ち、大資産
れのありようと、両者の結びつきに関するもので'花園にとってほ既
小説執筆を再開することになる。その意味でほ'「蓮の3ふし」ほ記
にして、「八重桜」「教革おだ鴬き物語」等々というよう紅、爆発的に
き伏せて書かせたものということである。やがて花園ほこれを突破口
とのかつての約束を口実紅使って巌本が、小説執筆をしぶる花園を説
「意の山ふし」ほ、処女作「薮の鷺」・以来鳴りを静めていた花圃が.
青年政治家滝沢達雄と、申涜の家計を自ら助教をして助けr当世流を
念すべき作と言わねばならないのだが'しかし作品としてはこれほ他
一年半の空白期間を経て書いた小鋭の第二作で、「友人亀子のか説に
誇る西洋かぶれの他家の女学生を他山の石として自ら慎む女性、松下
愛ないものでしかなかったo自らの不遇を酒にまぎらしp
「万歳」ほ明治二十四年五月刊行の金港堂小説草書膚三輪の1編と
して発表されたもので、同時掲載されたものには八重の家主人の「忠
お率の結びつきである。この作品も出来栄えとしてほむしろ劣作で、
れによって命を落す役人の夫と、その妻と娘の心痛、幼い頃の遊び友
引して亡き友を懐ふ」という巌本善治の序文が付されている(4).こ
「教草おだまき物語」にあった戯作臭ほ姿を消しているものの、特に
達で今は有能な医学士である青年と娘との周囲から祝福された解約、
僕」、紫影生の「大原女」、漁山人の「孝子」があったo内容は'夙虹
後半ほほんの荒畿ばかりというお粗末さであった。これが一葉の注意
青年と娘の弟との洋行等凍、如何にも花圃らしい素材が、会議中心に
の序によれは、この作ほ'海外で客死した花園の兄田辺次郎1と自分
を引いたのは、その内容によるよりほ、むしろ金港堂の叢書という晴
早いテンポで処理されている。娘と青年の仲をとりもつ人物に橋渡と
「薮の鷺」や「八重桜」で展開された、作者の理想とする男女それぞ
れの舞台で発表されたという事実によったと思われ、その点では発の
ハシワダ
つい紅ほそ
「教草おだまき物語」も同様であったろう。
における花園の活躍
名付吟て遊ぶあたりは、「数寄おだまき物語」
へつながる要素であ.る
し、その橋渡にさりげな-禁酒論のプロパガンダをさせている所など、
1菜の花圃評は、これらの外に'『女学雑誌』
発表詰まで意識されていて、これ又ともに花園らしいと言うべきであ
ろうO
の常連執筆
家の1人で'花園とひさごの二つのペンネ-ムをあやつって、既に小
にも言及しているが、事実、この頃の花園は『女学確認』
説だけでも'両誌上に次の六編を掲載していたo
弼2・1・1)
嬉約老までもコレ
ろである。「草の轍」も結嬉に失敗した女の身の上話の形で、世の未
ラに持って行かれるという'主人公の人生不如意の体験が読ませどこ
にもてあそばれたあげく'やっと手にした幸福
て教訓的なものであるが'腹黒い義父紅父と母を奪われ'数奇な運命
嬢様に'自らの悲惨な過去を語り聞かすというものである。例によっ
「薄命」は'もともと立洗な武士の娘ながらついに他家の奉公人に
まで落唆した女が'奉公先の、とかく紅不満の多い当世風女学生のお
明2・11・29)
明24・3・21)
1 8ヽ
「塵の1ふし」(1-4号付録
「薄命」(2-1号
0・3)
-
「串の轍」(2-7号付録
(E3-獅号
1 lヽ
2、19、26、1
1
「今はむかし」
1
明2・8・
と
「准先の枚」(別号
明2・
二五
-2
-5号
岡
明2
葉
「背恩の顔」(2
花
25)
田
と
7
葉
二六
思うが否みあえず、ついに祭りに出て事故に会い死んでしまう。後、
娘の霊意を受けて訪ねて釆た新幡随院の住職の,「良心の生死こそ人
の生死なれ」という説教に日の覚めた夫婦が、ともに仏道に帰依して
「うき世の外の世を送」るというのが昔話の内容である。これ又教訓
詰めいたものであるが、この昔話のあとに、「かゝる親の心は慈愛の
仮面冠ぶれる鬼ともいふべし花園の蛇ともいふべし'あほれ開け行よ
にかゝる親、あとたつ事かなはずやといふに、叔母そほもとむる人よ
緯を語るもので、当時『女学雑誌』に連載中であった若松購子の「小
公子」の訳文に比べると、翻訳の筆ほはるかに幼い。「苦患の鎖」ほ
産もあり教養も高い上流の若い男女が'お互い好き合い求め合って結
婚するが、「新婚のたのしみ夢と過て」、やがて二人の関係ほ「苦慮の
鎖」と化する。特に妻は「自由」を求めて夫とことさら対立し、つい
に別居ということになる。別居当初は、お互いに自由を得て、世上の
取沙汰にも意を用いず、社交界の花形として過すが、やがて寂家が二
人を襲い、再度彼等は求め合う。1回り大きくなった二人ほ、やはり
「堪忍」が大切なこと、相手を独立の人格として尊重し合うことが大
事なことを悟って行く。以上が「苦患の鎮」の内容であるが、俊に翻
にほるかに呼応するものを持つからである。もっ
ことは注目に値する。これらほ1葉晩年の人妻
「この子」など
とも、だからと言って「苦息の鎖」が'後年の1菓の人妻物のサンプ
ルになったのだと短絡するつもりほない(5)。花圃の女性作家として
の自ずからの成長が、人妻達の生に彼女の関心を導いて行った(6)と
同じように、一葉も同性作家として、花圃の刺激下でものを書き進め
て行く中で、同じテ-マにたどりついて行-という、その軌跡の一致
に注目したいまでである。
花園が『女学雑誌』に書いたものは小説ばかりではない。外にも,
随筆'評論'笑話等があり、一葉の所謂「記(舵)行」がある。花園評
が「記(紀)行」と称しているものは'「磯のふで草」(2-3-2-0号
明23
りこそあとたたざらはせんなからめとこたへられぬ、この求むる人も
人非人の徒なり'今の世も高きあたりにもとむる人多しと閲しほまこ
とか」とつけ加えられるあたりは、まことに花圃らしい。父蓮舟の蓄
-
しらえ、娘を美々し-飾りたてる、娘ほ両親のあさましい心を悲しく
催しに、妻ほ乳母奉公に身空冗り、夫は家の調度を売り払って金をこ
案物であるとしても'花園がここで若い夫婦の結婿後の問題を扱った
娘を文字通り「玉の輿」に乗せて自分達も楽をしようと、ある夏祭の
る昔話が中心である。かぐや姫のような美女お玉を娯に持った夫婦が、
「今はむかし」は語り手が叔母から聞いたという新播随院にまつわ
ある。
に教訓話にとって代わられてしまうあたりが、いかにも花園の小説で
7菓の作品に通ずるものであるが、その怨念が作品を主導せず,簡単
人公の怨念がこの小説のもう1つの柱をなしている.後者ほ、後年の
又その離縁劇の筋書を背後で仕組んだ横恋慕の医学士等,男達への主
学士と再会し、親し-交際したことを見とがめて不義空口い立てる夫、
創作であるが、ことによったら外国種のものかもしれない。ともに財
である。そして避寒地熱海で、里方の食客として幼少からなじんだ文
して是非弁まへらる1年頃にいたるを待べし」と語りかける体のもの
妾問題に悩んだ花圃の実感もこめられていよう。
りにせず'自ら主体的に判断すること、そのためには「よく〈学問
「港北の枚」は翻訳物。二組の兄妹がそれぞれ二組の夫婦になる経
婿の処女達に、慈愛に目のくらんだ両親に自らの結婿問題をまかせ切
花
・l・4-1
1・22
五回にわたり断続的に連載)及び「箱根の山づと」
明24・8・22)をさすo明治二十四年挟までの時点でほ、こ
花園は、避暑避寒のためにしばしば東京を離れている。『女学雑誌』
ほ次の夏の箱挺での避暑の体験記である.1体に明治二十四年前彼の
滋が引かれていることからも明らかであるし'塩田良平氏によればr
確実紅手にしていることは'「潅水国雄記こに福地源一郎の序の一
「読書界の驚異であつた(7)」という「薮の鷺」の出現は、おそら
く1菓自身にとっても驚異であったに違いない.1葉が「薮の鷺」を
暑客たちとともにした箱根行きを素材乾したもの、「箱根の山づと」
紅ほ外に、明治二十五年二月の熱海行き'同年夏の父との大宮行き、
樋口家には造遥の序文を1菓が手写したものも残っているという(8).
現われた早い時期に手にし、又その彼作家としての自己を形成して行
-中で、しばしば読みかえしたものであろう0
ただ'1菓がいつこれを手にしたかほ不明だが、おそらくこれが世に
花園は'i菜への対抗意識からか、しきりと自分の鬼女時代の家庭の
「薮の鷺」ほ処女作の名紅ふさわしく'文学者としての花園の主要
乾するものだったと言わねばならないo
である0又その後の一葉が常にこれら花園初期作品を念頭に置いて創
ほ、扱うものほ同じでも、その扱い方に著しい差が見られるのは当然
なっていることに、われわれは気付くであろう。むろん花園と1菓で
夫療の不和等が、いずれも後年の一葉小説の主要なテ-マ乃至素材に
筒井筒の恋、家の零落、妾や玉の輿の問題、己が運命や男性への怨念∼
品の扱ったテ-マ乃至素材、例えば利発なそしてやや古風な娘の活躍、
の最も高い花囲作品は尽きるが、このようにみてくると、花園初期作
巧妙なるは、初作決して複作に及ぼざれども、胸中に思ふ所を発露し
概ね少壮の初作に在りて老練の後作に在らず、結構の周密なる鯵辞の
地源1郎が序文で「古人の説」として紹介した、「詞拭か説の絶作はI
鷺」の独創ほ、遼遠の手直しや、「当世書生気質」の影響やを越えた
ものと言うべきであろう。「薮の鴬」以降の花園ほ、残念ながら、福
迫遥手入れの実際の紹介によるまでもな-明らかであるす)O
が、ほとんど文章の末にかかわるものであったことは'塩田氏紅よる
ろん.遥遠の手入れを差し引かなければならない。しかし,q遥の手入れ
「八重桜」の二作を除いて、一葉が読んだ可能性
作したということも、おそら-ほなかったであろう。しかし、これら
て、直に小説となし詞賦となし、彫琢を費さずして天真の妙を具ふる
以上で「薮の鷺」
一葉の注目した花圃作品の記憶が'後年の1葉の創作活動の中で、そ
ハ、却て初作の疎宕なるに存す、故に模作は大抵初作を換奪するに過
花
闘
と
「薮の
の趣向の組立ての中で'晴々裡に彼女を動かさなかったとはどうして
ぎざるのみ」という設を'見事補強してしまっていると言ゎねばなら
一葉
二七
言えようか。
な部分の、ほとんどすべてを予告している作品である。そして多分、
これは花園の小説作品中、最も優れた作品と言えるものであった。む
困窮を言うのであるが、1妻の餐と花囲のそれほ'ほとんど次元を異
薩東京虹鱒られた一葉ほ、小説に対するのとは又別種の羨望を以て、
これらの花園の紀行を読んだのでほなかったろうかo後年の談話額で、
翌二十六年一月の鎌倉江の島行きが紀行文として寄せられている。生
れら以外に花園の紀行はない。「磯のふで草」ほ大磯での避暑と.避
(2-9号
ない。
田
1
と
葉
才子の官吏と結びつくことにより破滅することになる。一方浪子は、
措く撃つきによって最初から明白で、事実'浜子ほ山中正という軽薄
女性である。作者の同情がどちらに厚いかほ、前者をことさら軽薄に
後者は西洋の学問をしながらも、伝統的日本的な女徳を蔑ろにしない
即ち篠原浜子と服部浪子のそれである。前者ほ典型的な欧化主義者、
館新年宴会の夜の場面で、いきなり二つの女性のタイプを提示する。
咲(-)」所収)等に流れて行-ものである。「薮の鴛」は第1回の鹿鳴
作品の特徴の一つで'彼の「八重桜」「万歳」「大幣学士」(「みだれ
の、しかも女学生(あるいは若い女性)のそれであった。これも花園
ていると言っているが、花園の措き分けた「人の品」は主として女性
今の引用で、中島ほ花圃が「さまざまなる人の品」をよく措き分け
は、この「理想」に淵源するのである。
の鷺」の読みと言わねばならない。花園作品の一大特徴である教訓臭
と成ぬべき筋をつゞりたるなり。」と述べているのは、案外正確な「蘇
かちたるは。詞こそいやしげなれ。おのづからわかき男女のいましめ
「巻々おもむきのかほりて。今めかし-さまざまなる人の品をよくわ
ろ花組自身の強烈な「理想」が展開されている。中島歌子が成文で,
には、「薮の鷺」ほ写実主義に拘束されていなかった。ここにはむし
退遥の「当世書生気質」が、著者の写実主義の理論を背負っていた程
「当世女学生気質」と呼べる側面を持っている作品であった。しかし
ことは、花囲自身の繰り返し証言するところで、その意味で、これほ
「薮の鷺」が退遥の「当世書生気質」をサンプルにした作品である
花
彼女の理想通り、大学の助教をする文学士宮崎一郎の妻になるのであ
る。
かったかという錯覚に陥る。しかし一葉がモデルである筈はないので
ように見て-ると、一瞬われわれは、この秀子のモデルが一葉ではな
ち主であるとともに'内にはなかなかの「気位」を秘めている。この
てやる程になっている。しかもひかえめで奥ゆかしい日本的女徳の持
教わって来ることを利発にも自宅で学びとって、今では弟の勉強をみ
の塾へ通って歌や書を学んでいたが、今はそれもできず、弟の学校で
みの内職をして、弟を学校へ通わせている。両親のいた頃は下田歌子
千五百円計りを減らすまいと、公債の利子で足りないところは毛糸編
女と弟の葦男の姉弟だけで生活している。彼女は親の残した公債証書
の亜種である。秀子の両親ほ一昨年昨年と相次いで亡くなり、今は彼
松島秀子は第三の女性のタイプというよりは、第二の浪子のタイプ
ある。
リン的自助主義を兼ね備えた女性、松島秀子が現れることになるので
このような篠原の前に、その好伴侶たるべ-'日本風女徳とフランク
前者の政治主義を否定して、後者の経済主義を肯定することになる。
徳を賛美する。次いでワシソトソとフランクリンの比較論を展開し、
洋の学問と芸術ほ尊重するが風俗にほ感心しないとして、日本風の女
勤である。彼ほ所謂「洋行帰りの保守主義者」(鴎外「妄想」)で、西
判、自助主義賛美が先ず展開される。これを受けて補強するのが篠原
のことながら作者の思想的代弁者達は後者で、宮崎の官員至上主義批
に、浜子との結婚を肯じえなかった篠原勤等の旧学友達である。当然
は宮崎1郎、斎藤、それに通方の養子で浜子と許婚の間柄であったの
として戯画化される浜子の父篠原通方等'浪子につながる男性として
られる。浜子につながる男性としては先程の山中正'それに「洋癖家」
次いで、この二つの女性のタイプに対応すべ-、男性達も措き分け
二八
ある0
】葉の父親は未だこの時健在で、樋口家の経済はかろうじて敬
綻をまぬがれていた。モデルはむしろ作者自身で'花圃なりにあった
落塊意識と負けじ魂のこれほ形象化であったのである。
以上のように、様々なタイプを通じて、かなり露骨に表現された花
園の「理想」あるいは思想について、宮本百合子は花園の「女の人で
容の上層老のものの考へかたの方向、周囲に語られてゐたその時代の
主導的なものが、歴史の鏡として、作者も自覚しないところにこの作
中に照りかへしてゐる」のだと論じている(N-)0確かに「薮の鷺」は
「明治こ十年といふ時代の波の影」(宮本)が生々しくさし込んでいる
作品であるOしかしこの時花圃ほ、官本の言うように、単なる「鏡」
でしかなかったのだろうか.どうやら宮本ほ'二十歳の処女の思想性
を不当鑑みくびり過ぎているようである。官本ほ又、「薮の鷺」が「当
世書生気質」のものまねであって、「独創があるといふことほ困難で
ある」と言うが、「薮の鷺」の持りている「理想」こそ、凌ぎれもな
く迫遥の作品の目ざすものとは異質な要素であったのほ、発にも述べ
たとおりである。
現にその後も花園は、造遥流写実主義の道へは進まない。又「薮の
鷺」に見られた作者の「理想」が様々の姿をとって、その後の花園の
作品の主要なテ-マを形成して行くことほ、既望剛節でふれたいくつ
かの作品において明瞭であるoその後のものも、1応1葉が花園の作
と
1
乗
がら、真の理想的な政治活動を助けるべ-f雄々しく政敵にたち向う
女性を主人公とする「蓮華草」(『女学雑誌』ノ3-8、3-9号 明2・3・S'
19)、自らの落塊をなげいたり人を羨んだりすることの不毛を悟った
主人公が'読者に天の与えた分限に安んずることを勧める「こぞのつ
(『都の花』粥tncq・8)、妾の色香に迷った夫払うとまれて別業紅
住む妻と嬢が、貧民窟の住人達にほどこしをし、正業に就いて自活で
(『評論』明26・7-10)、自
助主義で自ら大学にまで学んだ主人公が理想の伴侶を得て'アジア近
隣諸国との貿易事業を開拓するという雄編「橋松任話」(『女学雑誌』
十回にわたり暁続的に連載)等々
1・l)後のもの
3-5-3-2号、明27・4・l-8・1
発においては、おそらく「薮の鷺」の影響であろうが、花圃の思想性
文学の性癖紅負うているのでありたoもりとも1葉も、その作家的出
圃が後輩の1菜乾次第に水を開けられて行くのも'このような彼女の
質的には啓蒙主義文学のそれであったと言わねばならないだろう。花
想を'かなり露骨に強引に表出して行く骨っぽさ紅あった.それほ本
花園の文学の特質は.以上のよう紅彼女自身の「理想」あるいは思
が、これも又歴とした思想であったと言わねばならない。
たものでもあったのである。それは官本が嫌悪する思想かもしれない
なく、彼女の骨格に深くからみついたものを'自ら光を放って映出し
明治二十年代初頭の反動的な思想情況を無紋判に写し出したものでは
であったことがわかるであろう。二十歳の花圃のかかげた鏡ほ、単に
に見てくれは、雪嶺との鮭婿は'まさに結ばるべくして結ばれたもの
には'さすがに彼の影響の感じられるものが目立つものの'このよう
を数えることができる。三宅雪嶺との結婿(明25・1
1
ら、「作者が周囲の男子の方から啓発された当時の反動期に入つた日
きる道を指導するという「に経はぬ花」
多かつたやう紅存じられます」という訣頃11)を引き合いに出しなが
はどうも物足りなくて、男子の方から啓発をうけたことが、やぼり'
み」
を追おうとした形跡がある。
二九
品を気にし続吟たであろう時点までに取ってみても'歌人社会の腐敗
田
を衝いた暴露小説「歌人」(「みだれ咲」所収)、淑徳な夫人でありな
花
田
と一葉
三〇
その改訂版である「鳴呼是-を如何せん」という憤慨文が含まれてい
る。執筆時期ほ淡路町時代(明S3・3-9)で,しかも善かれている
内容から明治二十二年六月から九月の間と推定されているものである。
「女徳も又衰へたる哉」の途中にほ,文部大臣宛書簡の書き出しの部
所は子供の教育だけであるとして、「女子のつとむべき只是一事ある
の、,、」と極論するあたり、花園の女徳主義よりはるかに反動的ですら
ぁる。所詮背伸びの産物にすぎないのだが、注目すべきほ,同じ雑記
の中に、同じ頃書かれた(全集では明治二十二年六月頃と推定)小説
の断片が含まれていることである。これは、猿菜町にある東文夫とい
ぅ某省雇夫の青年の家で'あるじの文夫と同居の同僚の対話がこれか
ら展開しようという所で筆が断たれてしまっている、全-の断片であ
る。ただ、その中からわずかに拾い出せる文夫の「タカネ君宇由(宙)
上の事ハ分らない様ても朝輝不出門夕陰千里を行とかいつて夕やけか
すれは其明る日ほ天気たとか何とかいふ例もあるが,政海の雲行斗ほ
無暗に天気よ報ほ発せないよ」という言葉から、この小説の方向だけ
は占えよう。全集の推定するようにこれが「政治小説の試み」である
かどうかほともか-、少-とも花園の「薮の鴛」的な、思想性の顕著
な小説を日ざしていることは確かではなかろうか。しかしこれ又背伸
てい成立し得ない小説家の、その誕生の萌芽が、1菓の内部でかすか
ない。とすればこの時、単なる名誉欲や金銭欲だけによってではとう
にきざし始めていたということになるのではなかろうか。その芽が,
桜」の刺激をまってからである。
「薮の鷺」がどちらかと一宇蒜戯作的要素を多く持つのに対
「八重桜」ほ王朝物語的要素を多-持つ。と言っても、「八重桜」に
は「薮の鴛」の二番煎じ的趣向も少なくはない。先ず「薮の鴛」の篠
原浜子のような欧化主義者が「八重桜」にも登場していて、これが松
やさおとこ
本時子である。彼女ほ、洋行帰りの立派な許婚者時任秀俊がいるにも
かかわらず、松浪薫という軽薄な「柔和男」を好きになり,父の「圧
制」を言い立て「自由結婚」を主張し、ついに時任を断って松波と結
婚してしまうのであるo時子が否定的に措かれるのは浜子の場合と同
様であるが、妄「薮の鴛」の服部浪子や、就中松島秀子の後
るのが'この小説の主人公桜井八重である。「八重桜」ほこの八重の
桜井家の零落を入念に措くところから始まる。
月に二百円ずつも取った高級官僚の父の免職とそれに引き続-病気、
ない。
裏店にも劣る住居に豪五人が逼塞し、炊事や洗濯も母や八
「薮の鷺」の松島秀子のモデルが表ではありえないことほ先に述
せねばならぬ、絵に画いたような桜井家の零
びの産物であった.この複の一葉には,この種の小説の試みは見られ
三
ほその割にほひど-空疎で'女権拡張論を否定し、女子の男子に勝る
を'壷ほ考えたことのある文章であったかもしれない・しかし内容
もう少しほっきりした形で地上に姿を見せるのは、同じ花圃の「八重
分の下書きが挿入されているので、あるいは文部大臣に郵送すること
子と自分を重ね合せて受けとめて行ったであろうことは、想像に難く
表の雑記「無題その二」の中に,「女痛も又衰へたる哉」及び
べた。しかし、淡路町時代の明治二十二年七月十二日に父則義が死ん
で以降、樋口家の急速な没落を目の当りにする中で、次第
花
零落意識の反映した部分であろうが'おそらくl実は、作者以上にこ
の場面を身につまされて読んでいったのではなかろうか。次いで八重
の女中奉公が措かれる。両親や弟妹の生活をささえんがためである。
奉公先は父のかつての同僚、即ち時子の父松本義長の家である。美貌
l葉も1家困窮の最中、中島歌子の萩の舎に寄
で聡明な八重ほ、ここで義長の情欲や時子の裁縫'奥方の嫉妬の矢面
に立たされ苦悩するo
宿し、女中同然に使われたことがあった。丁度『都の花』における
「八重桜」の連載が終った頃である。おそらく一葉は、萩の舎に住み
込んで始めて'「八重桜」の載った『都の花』を手にしたのではなか
っただろうか.そうだとすれば'八重の身の上ほ'まさに1黄白身の
身の上と実感された管である(13)0
八重の身の上ほ、次いで一躍王朝物語の世界に浮上する。松本の奥
いう貴族の家で、八重はその竹園の妾になるのである。やがて殿下の
方に,小間遣いと偽られて回されたお邸は、その名も竹園末広殿下と
と一葉
とり育てるのが八重の妹露子である。これ又当然若紫が想起されよう0
その他八重の出家は藤壷や紫上のそれと付合し、生れ落ちるとともに
母を奪われた若宮が母を慕うのほ'光源氏のイメ-ジと重なる。この
ように「八重桜」の後半ほ'まさに王朝文学の世界そのものになり、
文体もどことなく和文めいて-るのであるが'重要なのは、1菓にと
って'この王朝文学の世界が、「薮の鷺」に展開された男性達のロジ
カルな,あるいは思想性の高い世界や'ましていわんや鹿鳴館の新年
宴会や女学生達の寄宿舎生活よりも'はるかに身近な'はるかに領略
のしやすい世界だったということである。1実は「八重桜」の'以上
のような木に竹を継いだような屈折した世界を、おそら-何の違和感
もなく受け容れたに違いない。
「八重桜」においてほ、以上からもわかる通り、「薮の鷺」に見ら
れたような思想性は'それ程顕著でほない。「薮の鷺」にほ作者の
「理想」乃至思想が露骨に語られて一特色を成しているのに対し、
三一
重桜」の影響の見られる最も早いものである。執筆時期は明治二十三
全集の未完成資料篇に「作品1」として載せられているのが'「八
いる。
桜」の圏内に入って自己表出のきっかけをつかむという動きを見せて
われて小説を書き始め、次いでこれを早々に脱脚して第二の、「八重
る断片類で見る限り、一葉は1方の極である「薮の鷺」の圏内にとら
ば両極を形成し、以下の作品はすべてこの両作の圏内に入ってしまう
と言えば言えるのが'花圃の小説世界だったのである。今日残ってい
のである。そしてやや性急な図式化をあえてすれば、処女作「薮の鷺」
と、小説の第三作である「八重桜」'この初期の二つの力作が、いわ
「八重桜」には作者の女性らしい夢や悲しみやがむしろ語られている
寵愛空身に集め'御奥の嫉妬をかうことになり、生れたばかりの若
宮も遠ざけられる。日増しにつのる御奥方のいやがらせに、殿下の配
慮で八重ほ限岸の里の別荘に移ることになるのだが、これほ全く桐壷
更衣の運命のなぞり絵と言わねばならない。この外にも'「源氏物語」
との比較において、頬倒するところがこの小説には多い。時任秀俊は
松本の女中時代から、実はひそかに許婚者の時子よりは八重を好いて
いたのだが、今や手の届かぬ所へ行ってしまった八重を思って彼の襖
悩する姿は'光源氏の藤壷に対するが如くである。もっともそのため
に,時任は光源氏の如-女性遍歴なぞはしない。そこは花園の作であ
る。女性遍歴をしないどころではない、彼は八重に対する操を守って、
園
生涯独身を通すのである.この時任が八重恋しさのあまり手許に引き
花
田
と
1
葉
の一部を引いてみる。
としの長いたつきいたほるかひもあらし吹こぞの葉月の末つ方一
葉の桐のはかな-も散らせ給ひて今ほはや只かしのみのひとりな
る其母君に仕馴せぬ-りやの事させ参らするよしはなけれど思ふ
に甲斐なきまづしき生活妹さへも相長屋のおつまとよべる髪結の
した体験を持つ主人公
三二
家の零落の体験と'既成の物語「八重桜」
1美白身の体験に類似
までもないo即ち「作品1」は、一葉自身の、父の死後1年に渡る7
子のアルバイトの件、等々もl菓自身の現実に依っていることは言う
は既に亡き人である。その他、母と兄、妹の家族構成や、博覧会の売
の患みにて起居も自由ならぬ」身であるのに対して'「作品l」の父
なや
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
6・8・1
ヽ
作品を作りえない。殻を割って抜け出したばかりの卵をしか措く
を執りはじめたのである。十八歳の青年は、彼が人生について知
っていること、換言すれば、彼自身の欲求、彼自身の夢'でしか
の魂'彼らの形而上学的ないし感情的体験、の直接の描写から筆
実をいえば、あらゆる小説家は、必ずしも公言しなくとも、彼ら
次のように述べている(-4)0
「小説と作中人物」の中で'モ-リヤックは小説家の形成について,
いの中で、自らの内部から小説家を誕生させていったのである。
ヽ
り草々紙といふものを好、,、て手まりやり羽子をなけうちて」
(日記明
0)読んだ物語好きの少女の自己表出の欲求は、こんな出会
ヽ
ヽ
ふ年を絶ぬ思ひの結び髪朝な夕なに手にはとる其くしのはを入も
せず二八の春をいたづらにすぐさするかとさま・1!に思ひ釆たれ
はいとゞし-なやむ思ひに暮近きかねの響もしらぬなるべし
右ほ去年の八月父を亡-し、母や殊に仕馴れぬ仕事をさせて、生活上
の苦労をかけているのを欺いている息子の気持が中心に措かれている
部分だが'一家の零落ぶりの描き様は、「八重桜」第一回に酷似する
と言わねばならない。しかも、物語ほ、今や一家の経済の重要な担い
手となっている妹が、裏町の得意先から聞き込んできた博覧会の売子
の仕事に関する、母子三人での詮議へと展開してとだえるのである
ヽ
こ
ぇは「八重桜」の八重の父ほ「去年の冬より、『りうまちす』とやら
ぞ
ゎけではなく、むしろ一葉自身の体験がそのベ-スになっていた。例
勿論「作品1」ほ、すべてが「八重桜」を下敷にして書かれている
の関与の事実は、ほとんど動かぬところであろうQ
まで付けられていて、これから判断しても、この作品への「八重桜」
重がアルバイトの話を聞き込んで-る表町の得意先にほ松本という名
偽装はしていても、作者自身が作品の主題をなしている」(「小説と作
いう。明治二十三年、満年齢「十八歳」の1菓も'先ずは「申訳ほど
しかしそのような小説家も、先ずは自己の直接的表出から出発したと
ける小説家の誕生を言った、その小説家よりは次元の高いそれである0
モ-リヤツクがここで言う小説家ほ、われわれが今、「作品l」にお
める時、我われの中に小説家が形成されほじめるのであるQ
他人を観察する余裕がない。我われが自分自身の心から離れほじ
「八重桜」の八重も撃回でほ十六歳であっ
ことができない。そして、概して自分自身への興味が勝ちすぎて,
2
れん身が洗ひぎらしの針目衣むねよりか-る前だれに紅白粉とい
下ずきとやらにやとほれて日ごと〈の出あるきお嬢様ともいは
らつつき出されたわが落塊の物語であったのだ。「七つといふとしよ
-
花
年の中頃'T菓が萩の舎に寄宿していた頃と思われる・次にその冒頭
た-には、何と八重という名が付けられている
が、この十六歳の妹-
中人物」)ような小説から出発したのである。
「作品2」も「作品1」と同様、主人公一家の落覗がテ-マである。
明治二十三年初秋の執筆と推定される断片で、今度は父と娘の会話が
中心である。父は三年越の長わづらいで、しかも「去年のくれから」
「いんふりゑんざ」で「どつと床についてしまつ」ている。娘は十六
という娘ざかりをみすぼらしいなりでがまんして、看病に明け暮れて
いる。父はそんな娘を不慣がるが、娘はけなげにもそれを否定して父
を安心させる。この娘の話題の中に、近所の「はんけちやの娘」が妾
になって、やわらかず-めを着ている話がでて-るのは注目すべきで
あろうQこれに対する娘のコメントは'「私ほ天にも地にも牡やしま
ヽ
せんけかれたやはらかものよりか清いもめんかよこさんす」というの
であった。われわれはこのコメソトに当年の1菓のプライドを見てと
ることができるのであるが、しかし貧故の妾の問題は'その後の一葉
文学にとって重いテ-マであった。この「十八歳」の処女のプライド
が、どのようにゆらいで行くかの軌跡は、即ち一葉の作家としての成
長の軌跡でもあるのであるが'それについては今ほ問わない。ともあ
れ、父の病気といい、十六歳の少女といい'妾といい'すべて「八重
「作品2」と同様のテ-マを志向した断
桜」の素材であるとともに、これまた現実の一葉にも極めて身近なこ
とでもあった。
「作品4」も又「作品1」
片で、明治二十三年十一月頃の作と推定されている。もっとも'「作
ふるしとて飛八丈の一ツ我身のほれと思ひ居しもそれすら今ほ切はて
ゝとう養(着)の袖に名残とゝめて跡もなくなりにけり」と'着物にま
まきのいち」に措かれた明治二十年二月の'発会
つわる幼きよりの貧が強調されるのであるが、これには一葉の最初の
日記「身のふる衣
における彼女の体験が当然思い合わされよう。
以上の三つは、「八重桜」が一葉の現俸除から「申訳ほど」の「偽
装」のままに引き出してしまった断片的作品であるが、これと並行し
て、同じく「八重桜」が、今度は一葉の夢から、やはり同じほどの
「偽装」の下に引き出した断片的作品があることに注目しておく必要
がある。それが「作品3」である。「作品3」は明治二十三年秋の作
夢園咲子
と推定されているもので、たった一行ほどの'
うち日さす都のかたはとり-れ竹の板きしの里に草のやめきたる
一かまへの別荘有けり
とい-、書き出しだけで終っているものである。これが「八重桜」第
とだけは確かである。後の1菓の作品に、荒れたる屋敷にたった一人、
半のような王朝物語風を真似た物語の冒頭の一行となる管であったこ
ての荘周胡蝶の夢であったのだろう。ともあれ、これが「八重桜」後
ることほ、全集補注の推測する通りである。しかもそれも竹園某あっ
連想であろう。むろんこれには荘周胡蝶の夢の故事がふまえられてい
るし'夢園妹子という思わせぶりな署名も'竹園其の貴族の名からの
九回冒頭の「金杉村と田舎びたる名ハ負へども田舎にして田舎にハ有
らぬ根岸の里」以下に触発された一行であろうことほ容易に推察でき
な
忠実な僕にかしずかれて住まう菜女を主人公とするl遵の作品
-
「作品2」に比べれば、作者の体験のデフォルメ度は最も高-I
葉
松
品lJ
1
坂俊夫氏の所謂「谷中の糞人」系(ほ)の作品1
三三
四歳で母を亡くし、「杖にもはしらにも只ひとりの父」も「おとゝし
と
ひ
ヽ
の暮より」病気であるという二十四歳の女が主人公である。「忘れも
園
せぬ七ツのとしやはらかき養(着)物といふほ前後只一度地主の娘かき
花
岡
と一葉
の物語も、原点を片々たるこの「作品3」あたりに持っていることは、
以上の考察から'ほぼ明らかなのでほあるまいか。
菓にとって、何よりも文壇的にほ第一の恩人である。しかしこれ又桃
雑誌『武蔵野』を起して1菓の処女作を世に送り出した.つまり、1
三四
水の人がかかわることであっても、その文学が与ることではなかった
のである.1人の作家が他の作家に影響を受けるのは、何よりも力あ
る作品を通してであろう.例えば花園における近遥の「当世書生気質」、
幼ちなる」を難じ、「我今著す幾多の小説いつも我心に屑しとしてか
一葉における「薮の鷺」
「八重桜」の如きである。桃水ほ一葉と初会
の四月十五日、一葉の前で新聞小説論を展開し、「日本の読者の限の
明治二十四年四月十五日は、一葉が小説の指導を乞うべく'初めて
て、人として文具性として'徒に一葉を魅了しただけであった。
誉の為著作するにあらす弟妹父母に衣食させんが故也」と見栄を切っ
持て小説をあらほすの日」は、彼の場合ついに釆なかった。「我は名
きたる物ほあらさる也」と弁解した。しかし「時ありて我れわか心を
勿論残されているものに限っての話であるが、前節までにふれたもの
に尽きている。明治二十三年'花圃の刺激により己れの中から自己表
四年に入って、いよいよ切実に「このおのれてふ物思はするもの」(逮
谷「蓬莱曲」)と対面し始めるようになる。本格的な日記の始まりとも
いえる「若葉かけ」が書き出されるのは、明治二十四年の四月である。
ヽ
一葉が桃水と出会ったのは、このように、一葉の内部で急速に内省す
る主体が確立しっつある時であった。
ヽ
長には'おそら-反面教師以上の何者をも与えることほなかったと言
全く否定的なものにならざるを得ない.即ち桃水は'1其の文学的成
ことになったと言えばよいのであろうか。結論を先にすれば、ぞれほ
それでは桃水との交渉は、1菓の小説家にどのような影響を与える
ヽ
わねばならないであろう。勿論桃水は異性として、又人生の先達とし
ヽ
て'若い一葉の人生に大きな影を落した。それはまぎれもない事実で
ヽ
ぁる。しかしそれは小説家桃水がそうであったのでほない。又桃水ほ
ヽ
何窒一己ったかは、十月二十二日の日記に「また約束の文章は少しもし
達端を歩きながら'彼女は自殺の誘惑にかられさえしている。桃水が
らかなりきびしいことを言われたことだけは確かで、帰途思い屈して
ったかほ、日記の記事があいまいで不明である。ただ一葉が、桃水か
白期間が介在することになるからである。しかし六月十七日に何があ
旦とだえ、十月二十五日を以て再び通い始めるまで、四ケ月余りの空
のことについて先にふれておこう。l菓の桃水訪問はこの日を以て一
教えを一葉の実作に照らして検証することはあとにして、六月十七日
り和文めかしき所多かり今少し俗調に」
(明24・4・22)せよという
ことと、「趣向」を中心に想を構えるということであるらしい。この
る限りでは、八回程1菓は桃水を訪ねている。かなり頻繁な訪問であ
ったと言えるが、この間に1葉が桃水から教わったことは、先ず「余
出する主体-小説家-をつつき出してしまった1菓は、明治二十
明治二十四年四月十五日から六月十七日までに、日記に記されてい
ほ,
半井桃水を訪うた日である。この日までに一葉が手がけた小説作品の
四
ヽ
花
ことである。これら源氏物語からぬけ出て釆たような薄命の美女たち
断片-おそら-完成したものは
たゝめぬものをいとおぼつかなしや」とあるところから推して、塩田
氏の「桃水からもつと当世むきの作品をまとめることをすすめられた
のであらう」という推測(-6)あたりが無難のところであろうか.とも
あれ'容易に売り物になるような文章もものにできず'1人馨屈する
数ヶ月を一葉はもつのである。本論冒頭に引いた花圃評はこの間にも
のされたものであった。いきおい花園に対する羨望がつのるのも極め
て自然であったろう。
桃水の教えを受けるようになってからのもので、今日残っている最
も早い一葉の作品は「作品5」と思われる。これは従来、明治二十四
年四月の日記にみられる、一葉が桃水に最初に持ち込んだ作品と推定
その四)
の出現で今日では一葉作と確認されているも
されたり、又関良一氏によって他作説の出たりしたもの(げ)であるが、
新資料(残簡
のである。執筆は二十四年後半というのが全集補注の推定であるが'
ひとまずこれに従っておく。同じ補注は、この作品が「桃水の指導が
最も著しい効果を現わした頃」のものとして、その趣向中心の「通俗
小説の方法」と、「俗調」乃至「戯作調」の文体を指摘している。確
かにこれほ趣向が目立つ作品である。しかし「趣向」は何も桃水の専
売ではなく、当時の小説作法の常識であった。花園とてこの「趣向」
を離れて創作したわけではない。現にこの作品も、明らかに花圃作品
の趣向を借りて成立しているのである。
この小説は三河屋の養子片野雄二と娘の綾'伊豆屋の息子徳蔵と綾
の'二種の男女関係(三角関係)を中心に展開している。即ち雄二と
綾とは許婚の間であったが'雄二が海外に留学の間に、綾は徳蔵から
田
っている。なぜそうなったかほ'この小説の前半が失われているため
と一葉
に判然とはしない。雄二を心でほ思っている綾ほ'雄二に対しても徳
蔵に対しても済まなく思い'雄二の帰国を機に死を決意するが'徳蔵
の篠原勤
の気転で救われ雄二のもとへ帰ることができるというのが結末である0
このようにみてくると'片野雄二と綾の関係は、「薮の鷺」
と浜子'「八重桜」の時任秀俊と時子の関係1と
似していることが思い合わされるであろう。男が洋行帰りということ
まで一致している。違うのは許婚の女の方が'花園作品でほ男の留学
中に他の軽薄才子を好きになってしまうはね返りであるのに対して'
1菓のでは'他の誠実な男に好きになられながらも'許嬉者を愛し続
けるというように、趣向が全-裏返しにされていることである。この
ことは、この作品を書くのに、一葉が桃水にその方法を教わっている
というよりは、むしろ花圃の作品にそれを教わっているということを
明らかにするであろう。尚ついでに言えば'この作品で徳蔵と綾が熱
海へ静養に行-場面が展開されるが'このリゾ-トの日常の描写は、
おそらく一葉が花圃の紀行や創作(柑)によって学んだものと思われる.
次に文体についてであるが、この作品の文体は、既に見た「作品1」
の文体に比べて'決して異質なものにはなっていない。むしろほとん
ど同じものと言っていいであろう。即ち縁語掛詞七五調のきわだった
地の文と口語的な会話文との混清した形式である。一年を隔てた両作
の文体に著しい差がないとすれば、その間に出会った桃水の存在は'
こと文体の問題に限っても、ほとんど無に帰してしまうと言わねばな
「八重桜」は様々な文体の共進会
らないであろう。文体の点においても'おそら-一葉は'桃水よりは
花圃に学んでいたのだ。「薮の鷺」
であったし'「戯作調」と言えば、「教草おだまき物語」はあざとい普
でに「戯作調」でl賞していたのである.
三五
所望されて伊豆屋にもらわれて行き'嫁のような娘のような状態にな
花
園
と一葉
(甲種)と題され、「作品6」と同じ
「作品
くより学びの道に志深-'世の常の心の用い方とは違った心ばえの持
れたが、その伯母にも先立たれた孤児。勿論妙齢の女性であるが、早
頃の作。内容も似ており、主人公は両親に早-死に別れ、伯母に養わ
「作品7」は「棚なし小舟」
のほ、明治二十四年九月半ばのことである。
ていると言わねばならない。彼女の日記が「蓬生日記」と名を改める
風さの中にも、一葉自身の落塊の意識や夢は、しつかりと板を下ろし
も古風な、「源氏物語」の「蓬生」を思わせる設定であるが、その古
そかに主人を世に出す枚をうかがっているというものである。如何に
しかばつやが生る世の限り何事をもえ願ほじとこそ顧み奉れ」と、ひ
っやが一人忠実に仕え、「いかで四位程の人の御妻になさせ給はらま
め
れた蓬生の宿にひっそりと世をさけて住んでいる。これにめのとの娘
治二十四年1月作と誤られていたものだが、実際ほ十月の作である.
もと高級官吏'名裁判官の誉れ高かった人の娘が'今ほ落ぶれて、荒
「作品6」ほ「かれ尾花一もと」の表題を持つもので、従来は明
言えようか。
わば二俣かけた状態で、己れの作家的生涯を占っている時期のものと
桃水の課題にも完全に答え切れない一葉は、桃水と歌子の両者に、い
書かれたものと思われ、現に「作品7」にほ歌子の朱が入っている。
二十四年十月七日の日記から、中島歌子に見てもらうことを意識して
ている。文体も和文調の王朝物語風の小説断片で'前の二つは'明治
品になってしまったと言えるが(-9)'次の「作品6」
「作品7」
8」あたりになると、再び己れの内心に測鉛を降した体のものになっ
に趣向に勢力を使いすぎたか、作者自身の現実や夢から浮き上った作
「作品5」は'花園作品の趣向と張り合ったせいもあって、あまり
花
(乙種)
である。明けて明治二十五年
っている花園の'その
(明25・2・1
の世界の融合された世界と図式化し得ようか。「作品
塊の物語であった「作品1」「作品2」「作品4」の世界と、王朝物語
的な「作品3」
8」の書かれた時には、文壇的な処女作「闇桜」
ほ既に完成していた。
小なりとほいえ文壇に名を記してからの一葉が、もはや花国にばか
りとらわれな-なったのは自然であるo現に今日までに、1菓の諸作
4脱稿)
狭いながらも一葉独白の物語世界が開けて-る。それは一葉自身の落
こに一葉は、己が資質の鉱脈を探り当てたと言えるのである。ここに
の七色の輝きに目を奪われながら、一年余の苦闘を経て、ようやくこ
である。しかしこれは決して平坦な道のりでほなかった。花園の才華
かもその王朝物語的な部分の中に、1菓ほ自己の可能性を見出したの
絢偶たる才華の産物である初期の作品群の中から、「八重桜」の、し
から明らかである。「学ほ和漢洋のミつに渡」
品3」さらには花園の「八重桜」に行き着-ことほ、既に見たところ
するものであることほ言うまでもないが、これをさらに湖れば、「作
以上の三作が、松坂氏の言う「谷中の美人」系の物語の源流を形成
までとだえている。
谷中の美人が生涯のはじめなりける」と思わせぶりな1行を残したま
呼ぶ娘の数奇な運命がたどられる管のものだったであろう。「これぞ
身」の「波崎右門とて鎗術鍛練の士」の没落と、その忘れ形見の滞と
三月の作。「主の覚えも浅からず家屋敷広く賜ほりて思ふこと無き
う。「作品8」も「棚なし小舟」
落呪、孤独、響勃とした野心等を肩代りする人物形象と言えるであろ
宿に世を狭-してひっそり住んでいるというもの.これ又作者一葉の
ち主であるため、人との交際も少な-'今は江戸川のほとりの蓬生の
三六
釆たようにまぎれもな-花圃であった.1菓が文壇的に出発してから
ものを'その初発において1実の中からつつき出したのは、以上見て
これら既成作家らの様々な影響をかい-ぐって生きのびる一葉独自の
様々と指摘されて来ており(gS)'それぞれに説得的である。しかし'
師も竜子も此人も何れにごりのうちなるをあれをすて1これをた
道にすゝむ方だけをほげまさんとて也右もにごれり左もにごれり
きによしけがれほけがれとして多数のすてたる此人にせめてハ寄
とおもて清-してうらにけがれをか-す竜子なとのに-1いやし
此人もとより汚濁の外にたちてすみ渡りたるこゝろならぬハしれ
も、一葉は田中をそれ程かっていたわけでほないのである。
の花圃は、作品の上でよりはむしろ文壇の先輩として'一葉に大きな
我れから苦悶に身をなやます我か浅はかさあほれむにたえたり
す-るハ時のよはきを見るにしのびず人ハたのまぬ義をおこし而
と露伴、紅葉、笠村ら既成の大家らの作品との、文章や趣向の類似が
影響を与えたといえる。即ち桃水と切れた1菓を『都の花』に紹介し
い。又後年の花田は'しばしば、「薮の鷺」や「萩桔梗」など'彼女
さす。
「薮の鷺」にまつわる金のt[.nd]題は、萩の舎でもよ-知られていたらし
引用は筑摩書房版新版全集、以下同じ。又未定稿、断片類の整理番号
もすべて右による。その他、本稿において単に全集とい-場合も右を
(昭59・4・9稿)
花園から受けた負い目は大きかったと言うべきなのであろう。
のである。又そうしなければ心の借りが返せない程に、一葉にとってI
独立する時には、往々にしてこのような理不尽な狂的な行動に出るも
しい'それ故あまりにも自然な人間らしさを示している。人が人から
をめぐる一葉の一連の動きは、不可解というより、あまりにもいやら
花園以上ににごっていなかったとどうして言えよう。この花圃の家門
花園のまきぞえにして、すべてを「にごれり」とした1菓が'この時
こで一葉が最も目の仇にしているのは、言うまでもなく花圃である。
に貢献しょうとした意図」(全集補注)を読むのほお目出度過ぎる。こ
「因襲的な芸術継承の局外者の立場で'停滞し不毛化した和歌の変革
と同じ日の日記に記す1菓である.この日の自瑚的な1葉の行動に、
たり'『文学界』の同人等をl菓に結びつけたりという点においてで
ある。
一葉と花園との交流は'形の上でほ一葉の死まで統-のであるが、
1菓が花圃の影響から全-自由になるのは、おそら-明治二十七年の
春頃からであったろう。この年二月二日、大音寺前の「塵の中」より
身を起して、ボロ衣をつくろってやっと年始回りに出た一葉は、中島
歌子のもとで三宅竜子の家門を開く由を聞いた。「さるハ雄次(二)那
君の内政之いとくるしくたらすかちなるに例之才女のかゝる方におも
むくこゝろ深くかくとハおもひたゝれし成るへし」と彼女ほさりげな
くその日の日記に書いているが、しかし動揺は大きかった。これより
一葉の狂奔が始まる。二月二十七日、既に家門を開いている田中みの
子の許へてこ入れに出かけた一葉は、中島師の日頃の退廃ぶりを指弾
∧注∨
し、「かゝるか中にこの有様を知りつ-したる竜子ぬしかこれに身を
投して家門を開かんとすと聞こそおほろげのかんがへにハあらさるべ
(1)
(2)
し秋の紅葉のさかりハ今一時なる師が袖にすがりて我世の春をむかへ
んとするの結揖此間にかならずあるべし」と、合せて花園を切り、今
と一葉
三七
やせっか-「あらはし初たる名を末弟におとされて朝の霜の此まゝに
田
消なん」とするのは口惜し-はないかと田中をけしかけた。と言って
花
(10)
葉
明26・1・7、21)がある。
(5)
神崎清編「現代婦人伝」
(昭l・5
「薮の鷺」(『文芸』昭15・8)
中央公論社刊)所収「三宅花田」
明治二十三年夏'中島の塾から一葉が古屋よし(祖母)や妹邦子に宛
てた手紙には、相手を安心さすべ-、自分がここで非常にょ-しても
も論じられているが今は省-0
有精堂刊
「十三夜」
「心の闇」、「わかれ道」
更にほ、大家ではないが「好敵手」の新人鏡花の作品との影響関係等
諸編との類似が指摘されているOその他避遥や鴎外の作品との類似'
「別れ霜」「五月雨」「-もれ木」「やみ夜」「わかれ道」等と「むら竹」
と「心の闇」等の関連が指摘され、笠村の場合ほ'「闇桜」「たま棒」
と「二人女房」、「にごりえ」と「三人妻」
と「二人比丘尼色儀悔」、「暁月夜」と「此ぬし」「恋のぬけがら」'
「花ごもり」
「われから」と「男ご∼ろ」、「たけ-らべ」
が指摘され、紅葉の場合は「閣桜」と「恋のぬけがら」、「蓮づくえ」
露伴の場合は、「闇桜L「たま棒」「暁月夜」「軒もる月」と「対髄倭」、
「うもれ木」と「風流仏」
「1口剣」あるいは「五重塔」、「やみ夜」
「にごりえ」と「五重塔」、「たけ-らべ」と「風流微塵蔵」等の関連
にも一葉らしいもので、後の「別れ霜」の趣向が直ちに思い合わされ
「万歳」等に、熱海や大磯での避寒、
考証と試論」昭4・10
教育出版
らっていることを盛んに言いたてているが、これは、「八重桜」第二
回で、八重が'久しぶりで奉公先に訪ねて釆た乳母に、同様のことを
言って安心させているのと酷似している。
ダヴイッド社刊)
川口篤訳「小説と作中人物」(昭32・8
「一葉小説の構想とその展開」(「樋口1葉研究」昭45・9
センタ-刊
所収)
注(7)
の雷。
「1葉小説断片考」(「樋口1某
創作では、例えば既出「革の轍」
(3'誠号
所収)
をもおしならはせたまひぬL
(明20・1・29)と、花田と並べたこと
を名誉のこととしている記事がある.
田辺次郎一と巌本とは、ともに同人杜の一員として親友関係にあった
れたのであった。
注(5)参照
は、当然文章の末にとどまらざるをえないほどの、猛スピ-ドで行わ
塩田良平「樋口一葉研究」
(引用は昭43・1
中央公論社刊の増補改
訂版による)
注(7)
の書。
塩田氏の紹介は注(7)の書。花田の自序に「つぐの日いとねもごろ
になほしてたまはりぬ」とあることからわかるよ-に'遥遥の手直し
後に「内助」
この種のものの創作や翻訳を促したとも考えられる。翻訳物としてほ
『女学雑誌』とい-雑誌の性格が、花岡の啓蒙家的側面を刺激して、
子供が生れてからの物語の展開は「十三夜」とは1致しない.
四十八歳の独身の男爵が、二十歳にもならぬ田舎娘の色香にまよい求
婚するが、一方娘には同じ村の美少年の恋人がいることになっている。
この小説でも娘は親の言-ままに恋しい人を捨てて男爵と結婚する。
行された花田の小説集「みだれ咲」中の「老婚」
(翻訳)の万が、類
似した部分を指摘しやすい(もっとも一葉がこれを読んだとい-こと
ほ証し得ないが)。「老婚」では、学識'家産、政治力等ともに豊かな
「十三夜」についてだったら、むしろ明治二十五年三月春陽堂から刊
らしい(注2の「薮鷺・1葉・桃水」参)0
(ほ)
三八
避暑の場面が-わし-措かれている。
もっとも許婚者に対するヒロインの態度ほ、花岡作品と比べるといか
辺の柳てふ御だひにて竜子の君高点取給ひいか成折にか有けんおのれ
ひには其文体にならひて。まさなごとをかきてみばやの心さへおこり
ぬ。」と書き記した素直な心を、後年の花田が失っているだけである。
例えば最初の日記「身のふる衣
まきのいち」のご-最初に、「水の
-中略--よに名高き書生気質を見しに。おもしろさたへがた-。つ
みよみては。母に其意をとふを。こよなきたのしみとしたりしに。
わけがない。「薮の鷺」自序で、「おのれむつな∼つより。小説を好
『国語と国文学』
めと言い切っている(例えば「薮鷺・一葉・桃水」
昭9・8)。しかし、花岡とて金のためだけで小説が書き初められた
の作としては佳作に属する作品の執筆動機を、いとも無造作に金のた
7
(16)
る。
(3)
と
(18)
(空
(4)
(5)
田
(19)
1
(6)
(7)
(8)
(9)
(13)(l・2)(1
1)
(14)
花
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