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技術大国インドの研究:前編 - 長岡技術科学大学 附属図書館

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技術大国インドの研究:前編 - 長岡技術科学大学 附属図書館
技術大国インドの研究:前編
三 上 喜 貴*
A Study of India: A Technology Power in Asia
Yoshiki Mikami*
Summary : India is the sixth country, which successfully launched a satellite into an orbit, and also the sixth, which joined the nuclear club.
India's IT industry is well acknowledged both in software sector and supercomputing technology. In spite of poor performance in overall
industrial sectors, these selected strategic sectors are enjoining world-class reputations. All these successes in strategic technology sectors
can be explained by its huge pool of well-trained scientific workforce, and strong government commitment to science and technology as a
source of political power in an international arena. The article first describes the historical overview of the development of Indian national
system for science and technology since colonial times up to present(Part I), and then analyses India's position and policy toward several
international issues in science and technology, including nuclear proliferation, space program, biotechnology, information technology and
intellectual property protection system(Part II, to be published in the next issue).
Key words : India, Science history, Technology history, International relations
有権協定(TRIPS)や貿易の技術的障害に関する協定
(TBT)によって、知的所有権保護や技術規格の体系は
はじめに:主題と構成
グローバルな規模で一様な内容へと収斂しつつある。
インドは自前の技術で衛星を打上げることのできる
生物資源の保護と管理については、TRIPSの他、リオ
国として、米国、ロシア、EU、中国、日本に次いで
会議で成立した生物多様性条約(CBD)が基本的な枠
世界で六番目の国であり、また自前の核燃料サイクル
組を与えた。冷戦の終結はこれらの国際秩序を設計す
を持つ、米国、ロシア、イギリス、フランス、中国に
るデザイナーとしての米国の地位を飛躍的に高めたが、
次ぐ、やはり六番目の「核クラブ」メンバーである。
同時に途上国の声を代表するリーダーとしてのインド
スーパーコンピュータやソフトウェア産業における実
の地位をも高めたように思う。いずれの分野において
力も良く知られるところとなった。工業技術分野にお
も、インドは国際交渉の場で一貫した立場からの制度
ける全般的な遅れにもかかわらず、戦略的技術分野に
デザインを主張してきた。
おけるこうした成果はインドを「技術大国」へと押し
本書の主題はインドであるが、主題の裏面には日本
上げ、科学技術に関する国際秩序に中でのインドの位
の科学技術政策に関する問題提起がある。科学技術に
置を際立ったものにしている。
関する国際問題を論ずる時に、米国とインドを両極と
科学技術に関する現代の国際秩序は、安全保障問題
する座標軸上に日本を位置づけることによって日本が
に直結する先端的な両用技術の管理、知的所有権保護、
世界に対して持っている意味をより正確に把握するこ
技術規格・認証制度の国際整合、生物遺伝資源の保護
とができるのではないか、というのが筆者の問題意識
と管理、有害物質の管理等の分野で構築されてきた。
である。
冷戦の終結はこうした国際秩序を真に地球的な規模で
前編では、植民地時代から現代までのインドの科学
構築することを可能にした。かつてのココムはロシア
技術発展の歩みを追う。日本の科学技術の発展が西洋
東欧圏も取込んだワッセナー・アレンジメントとして
科学技術との接触によって始まったように、インドで
生まれ変わり、核不拡散条約(NPT)
、化学兵器禁止条
も植民地時代を通じて様々なルートで西洋科学技術と
約、ミサイル技術コントロール・レジーム(MTCR)等
の接触が始まり、これが今日の科学技術の基盤を形成
と併せて両用技術の国際管理秩序を構成している。ま
した。自らの政府を持たない植民地という制約条件の
た、ウルグアイ・ラウンドで成立した貿易関連知的所
下で、西洋科学技術の吸収過程も日本とは異なる歩み
*原稿受付:平成12年6月22日
*長岡技術科学大学経営情報系
研究報告 第22号(2000)
を辿ったが、本書では随所で日印の差異に言及しなが
ら歴史を辿ってみたい。そこには「近代化」
、
「工業開
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三 上 喜 貴
発」という課題についてのヒントが隠されているよう
流は今日「レンネル海流」として知られている1)。
に思う。前編には、科学史上のエピソードや、後編で
こうした測量の傍ら、レンネルはインドの自然とそ
登場する様々な国際的事件の前奏曲となるエピソード
の不思議を科学的な眼で観察した。英国帰国後の1781
が含まれている。
年、彼はロンドンの王立協会で「ガンジス川とブラン
続く後編では、現代インドの科学技術を、原子力、
プーター川について」と題する発表を行った。当時、
宇宙開発、情報技術、知的所有権保護、バイオテクノ
地形の形成についての考察は観念的・思弁的な段階に
ロジーの各側面に焦点をあてて紹介するとともに、イ
あった。山に貝殻が見つかる事実をノアの箱船によっ
ンドの提案する国際的な科学技術秩序に関する主張を
て説明するといった具合である。これに対して、彼の
検討する予定である。
発表はガンジス平野の形成における河川の侵食作用に
ついて述べたものであり、当時勃興しつつあった科学
1.博物交流の時代
的地学成立の引き金を引くものとなった。近代地質学
の創立者といわれるハットン(James Hutton)はレン
1.1 ガンジスの流れが教えたもの
ネルのこの発表を高く評価した。1795年に出版された
1600年に設立されたイギリス東インド会社がインド
『地球の理論』の中で、河川による侵食作用について彼
にやってきたのは1611年のことである。この年、マド
は次のように語った。
「ヒンダスタンの平原からスコッ
ラスの北300km余りのベンガル湾に面する港マスリパ
トランドのハフ(Haughs)まで、同じ作用が至る所で
タムに商館を設置し、また翌年にはムガール帝国の主
観察される。ガンジス河がその川底を削ったのと同じ
要貿易港であったアラビア湾に面する港スラートにも
作用をツィード川(Tweed)も行っているのだ」2)。思
商館を設置して交易を開始した。この時、既にポルト
弁の迷路をさまよっていた当時の地質学を科学的な地
ガルはゴアを占領して香料貿易の拠点を築いており、
質学へと転回させた重要な契機は、雄大なるガンジス
ゴアの人口は本国の首都リスボンのそれを上回る20∼
の流れがレンネルに与えたメッセージであったのだ3)。
30万人に達していたという。戦国時代の日本にやって
きた宣教師達の拠点もまたこのゴアにあった。
東インド会社の本格的インド植民地支配は、1765年
にムガール帝国からベンガル地方における徴税権を獲
得することから始まった。徴税を行うためには、まず
支配領域を確定し、地租査定に必要な測量・調査を行
わなくてはならない。こうした要請に応えて、植民地
の正確な地図作成を行ったのがイギリス人レンネル
Survey of India , 1767-1967 Bicentenary
(James Rennnell)である。彼は海軍測量技師として
1760年にインドへやってきた。そして、インド、セイ
1.2 アジア協会ベンガル支部
レンネルがインドで測量を行っていた時代、イギリ
ロン島の沿岸部測量を手始めにベンガル、ビハール、
オリッサ地方の測量を次々と進め、イギリス東インド
スはクックの探検隊を三次にわたって派遣し、世界の
会社の初代測量長官に任命された。彼の行った測量の
海を一周させていた(一次1768年から、二次1772年か
中には、重要な物産積み出しルートであったガンジス
ら、三次1776年から)
。彼らによって世界の各地から新
河の流域調査も含まれていた。測量の成果は1770年代
しい見聞記録や物産が続々とロンドンに集まっていた。
半ばに”Atlas of Bengal”及び”Maps of Hindustan”と
他のヨーロッパ諸国の冒険家や博物学者達も広く世界
してまとめられ、ロンドンで出版された。これらの地
を渉猟し新世界の物産と知識をもたらしていた。
図は三角点測量法に基づく正確な地図であり、3マイ
バナールは『歴史における科学』の中で、
「18世紀は
ルが地図上の1インチに縮尺されていたというから縮尺
旅行家と採集家と分類家の偉大な世紀だった」と述べ、
約19万分の1に相当する。インド全体を一枚の地図に
また18・19世紀に生物学の関心と進歩の方向を決定し
広げれば10メートル四方になるという大きさだ。この
た推進力の筆頭に「天然物産を発見し開発することを
業績により彼は王立協会会員に選ばれ、また名誉ある
当て込んで企てられた地理的探検」を挙げている4)。
コプレー・メダルを受賞した。彼は帰国時の航海途上で
こうした「地理的探検」の成果が報告され、相互に
海流についての調査を行ったが、この時に発見した海
刺激し合う場として、王立協会をはじめとする学協会
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長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
が大きな役割を果たしてきた。学協会は本国のみなら
あり、しかもそのいずれにもまして精巧である。しか
ず植民地でも組織されていった。オランダ領ジャワで
もこの二つの言語とは、動詞の語根においても文法の
はバタビア工芸科学協会(1778年設立、Bataaviaasch
形式においても、偶然につくりだされたとは思えない
Genootschap Voor Kunsten en Westenschappen)が、フ
ほど顕著な類似をもっている。それがあまりに顕著で
ランス領インドシナではフランス極東学院(1898年設
あるので、どんな言語学者でもこれら三つの言語を調
立、Ecole Francais d’Extreme-Orient)が、そして英領
べたら、それらは、おそらくもはや存在していない、
植民地ではアジア協会(Asiatic Society)がその役割を
ある共通の源から発したものと信ぜずにはいられない
果たした。植民地インドにおいては、ウィリアム・ジョ
であろう。
」6)と述べた。この講演は二年後の1788年に
ーンズ卿(Sir William Jones、1746-1794)によって
アジア協会機関誌”Asiatic Researches”創刊号に掲載
1784年にアジア協会ベンガル支部がカルカッタに設立
され、欧州の知識人達に広く知られるようになった。
された。その設立の目的は「研究者のための便利な集
言うまでもなく、これを契機として比較言語学は大き
会場を提供し、図書を収集し、古銭/メダル/絵画/
な発展を遂げることになる。
胸像や考古学/人類学/地質学/動物学上のコレクシ
ョンを収集して博物館を維持すること」とされた5)。
表1 アジア協会機関誌掲載重要論文の著者:1784-1900
アジア協会の支部は、海峡植民地と呼ばれたシンガポ
ールにも1850年に、上海には1858年に設立されている。
アジアにおいて組織されたこれらの学協会は東西交流
の接点として多くの科学上の成果を生む場となった。
(出典)G.S. Aurora, Scientific Community in India, p.49
こうした学協会で報告を行ったのは植民地に派遣さ
The Asiatic Society
れた宗主国の植物学者、博物学者、医者をはじめとす
1.3 印欧語間の共通性の発見
る知識人であったが、徐々にインド人知識層の中にも
西洋社会に提供された知的な刺激は、しかし天然の
参加するものが現れるようになった。アジア協会ベン
物産にとどまらない。全く異なる歴史、価値観や言語
ガル支部の場合、その設立以降19世紀末までの間に機
を持つ社会との接触もまた大きな知的刺激となった。
関誌に掲載された重要論文中、インド人の手によるも
アジア協会設立当初の成果ともなった印欧語間の共通
のの数に関して表1のような分析がある。しかしこれ
性の発見につながる逸話はその好例である。
らのインド人著者が登場するのは19世紀後半から今世
アジア協会設立を主導したウィリアム・ジョーンズ
は法律家であり、1783年にカルカッタ最高裁判所の判
紀にかけてであり、これについては後節にてふれるこ
とにする。
事としてインドに赴任した。元々語学の才能があった
ようで生涯に28カ国語を習得したといわれる。赴任後
1.4 綿工業
は最高裁判事としてイスラム法やヒンドゥー法につい
東インド会社は香料貿易の利益を目指して設立され、
て研究する過程でサンスクリット語やペルシャ語にも
同社の第一回目と第二回目の航海はいずれも香料を求
通暁するようになった。彼がベンガル総督へイスティ
めてインドネシアへと向かった。しかし香料貿易に関
ングの支援を得てアジア協会を設立したのは赴任の翌
するオランダの支配は強力であり、イギリス東インド
年であり、更に二年後のアジア協会設立三周年記念総
会社の貿易品は次第に多角化していった。中でもイン
会において「インド人について」と題する講演を行っ
ド産の綿製品は次第に大きな比重を占めるものになっ
た。その中で、彼は「サンスクリットは、その古さは
ていった。大航海の時代が始まった頃、アジアのロー
どうあろうとも、驚くべき構造をもっている。それは
カルな貿易商人達によって交易されていた品物として
ギリシャ語よりも完全であり、ラテン語よりも豊富で
は、茶、米、樟脳等があったが、インド産の綿製品も
研究報告 第22号(2000)
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三 上 喜 貴
その重要な一つであった。日本でも江戸時代に輸入さ
として東南アジアに広がったパラゴム(学名Hevea
れたインド綿製品は当時の先端を行く流行を生み出し、
brasiliensis)はアマゾンの原産であるし、油やし(学
サントメ、キャラコ、更紗等、現代まで伝わる語彙と
名Elaeis guineensis)は西アフリカ・ギニアの原産であ
してその名残をとどめている。イギリスを始め西洋各
る。インドの主要輸出作物となった茶(学名Camellia
国でも17世紀後半には「キャラコ・ブーム」が到来し、
sinensis)もまた中国からもたらされたものであった8)。
毛織物と亜麻を主流としていた日常生活に大きな変化
そしてこうした植物種の採取、交換、育成試験、配
が起った。17世紀から19世紀に至るまで東インド会社
布用種子・苗木の栽培、育種研究といった活動の拠点
はアジアから多量の綿製品を輸入し、その比重は輸入
となったのが植物園であった。経済活動の大半を農業
品目の中で大きな割合を占めた。
生産が占めた時代において植物園が果たした役割は、
イギリスで綿工業の機械化が進行し、産業革命の端
工業社会において研究開発部門が果たしている役割に
緒が切り開かれたのは、こうしたインドからの綿製品
等しい。植民地経営の成否をも決定する使命を背負っ
輸入が最高潮に達していた18世紀半ばのことである。
た世界各地の植物園には、当時の最先端の知識が要求
今日のイギリス経済史に関する研究は、インド綿製品
され、また本国もその使命に相応しい、必要な人材を
を代替する国産綿工業の育成への期待が産業革命を生
送った。そして大英帝国の場合、植物園ネットワーク
み出した重要な原動力であったと指摘している。
「セミ
の司令部となったのはロンドンのキュー植物園であり、
の羽根のように薄くて絹と見まちがうようなインド・
その歴代園長の椅子にはイギリス科学界の大御所が座
サラサなどの木綿製品に魅せられたイギリス人が、何
ったのであった。
とか自分らの手でインドのものと同じくらいの或いは
植物園はまたその活動を通じて多くの実践的農業技
それより安く木綿をつくろうとした。そういう努力の
術者を育て、その後の各国農業の発展に必要な人材の
中から木綿の機械化、工業化が生じた」 というわけ
供給源ともなった。多くの国において、独立後の現在
だ。イギリスの国内生産量が輸入量を上回るようにな
へとつながる農業研究機関、実験農場の基礎となった
るのはやっと18世紀後半になってからのことである。
のは植民地時代に設立された植物園である。
7)
以来、インドは次第にイギリス綿工業への原料供給国
へと変貌していくのである。
イギリスが世界的な植物園ネットワーク建設を始め
たのは18世紀の後半である。1759年にはロンドンに王
ガンディーは20世紀のはじめに独立運動のリーダー
立キュー植物園が建設され、その後の一世紀間に、西
となった時、
「糸車」を運動のシンボルとした。自立を
インド方面(カリブ海)では、セント・ビンセント島
目指すインドにとって、綿工業の再生は自立を象徴す
(1764年設立)
、ジャマイカ(1774)
、トリニダッド等に、
るものであったのだ。しかしガンディー自身この時ま
そしてインド洋・太平洋方面では、カルカッタ(1788)
、
で実際に糸車を見たことはなかったという。それほど
マドラス(1790)
、ボンベイ(1791)
、ペラデニア(セ
にインドの綿工業は姿を消してしまっていたのである。
イロン島、1810頃)、シドニー(1816)、タスマニア
(1818)
、シンガポール(1822)
、メルボルン(1846)に
と植物園ネットワークが建設されていった。またイン
ド洋への東回り航路上に位置する大西洋のセントヘレ
ナ島にも植物園が開園された。
インド各地の植物園は気候条件も異なることから、
それぞれに異なった使命を持っていたようだが、その
後最大の拠点として成長するカルカッタ植物園はまず
中国からの茶の移植を目指した。当時東インド会社か
”Do or Die”- Mahatma Gandhi 8-8-42。
ら中国への茶代金の支払額は巨額に達しており、金貨
1.5 大英帝国の植物園ネットワーク
流出の大きな原因となっていた。この負担を軽減する
産業革命以前の科学と技術を考える際に、植物園と
ために中国から茶の樹と栽培家を取込もうと考えたわ
そこで活躍した植物学者の役割を軽視することはでき
けである。これは当初うまく行かなかったが、アヘン
ない。植民地時代に広がったプランテーション作物の
戦争後の1848年に東インド会社は中国茶の栽培経験を
内、元来自生していた植物種がそのまま経済作物とし
有する植物学者フォーチュン(Robert Fortune)を広東
て用いられた例はむしろ希である。マレー半島を中心
に派遣し、2万本の樹と1万7000個の種を持ち帰ること
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長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
に成功した。そしてアッサム地方が茶の生育に相応し
って運営される伝統的な教育体制が存在した。イスラ
いとの結論を得てダージリンに試験場が開拓された。
ムではマドラッサと呼ばれ、ヒンドゥー圏では
これがインドにおける紅茶生産の濫觴である9)。因み
Pathshalasと呼ばれる、地域共同体によって運営される
にセイロン・ティーは、1867年にジェームズ・テイラー
学校である。18世紀後半にイギリスがベンガル、ビハ
(James Tailor)がペラデニア植物園から譲り受けた苗木
ール、オリッサの徴税権を獲得した時、当初これらの
を旧都キャンディーの東南にあるルールコンデラに植
非課税措置が継続されたが、やがてこれらも徐々に課
えたのをその濫觴とする。インド・セイロンの茶業は
税対象に組み込まれるようになり、早くも19世紀前半
急速に本家中国の輸出を上回るようになった。維新後
には伝統的な教育体制の崩壊は植民者の目にも明らか
の日本からも視察や研修のために両国へは多数の専門
となる程度まで進んだ10)。
家が派遣されていたようだ。
2.産業革命の波・近代科学の流入
1.6 伝統的な農村共同体の変化
植民者によるこうした大規模なプランテーションの
2.1 鉄道網の建設
基礎は、伝統的な土地所有制度の崩壊を前提としてい
首都ニューデリーには多くの政府省庁の建物がある
る。チャやキナノキの栽培地域となったニルギリ高原
が、とりわけ壮大な外観を持つのが鉄道省である。イ
やダージリン地方はもともと人口の疎らな土地であっ
ンドの国営鉄道は単一の組織としては最大の雇用者数
た。前者は元来トダ族等の山岳民族の居住地であった
を誇り、かつて「鉄道省職員はそれ自体一つのカース
し、カンチェンジュンガ(標高8,580m)の麓のダージ
トをなす」ともいわれた11)。
このインドにおいて始めて鉄道が開通したのは1853
リン地方は元来仏教徒がまばらに住むシッキム王国の
一部であった。しかし、綿作やインディゴ(印度藍)
年である12)。それはボンベイからガート山脈の綿作地
プランテーションなどは伝統的な農業共同体が密集す
帯に向かって延びる路線の最初の線区約30kmであっ
る平原地帯で行われた。こうしたプランテーションの
た。これはアジア大陸で敷設された初めての鉄道でも
もたらした社会経済上の影響は広範に及ぶが、ここで
あった。日本で横浜・新橋間に蒸気鉄道が開通したの
は科学技術の面から注目すべき二つの事柄のみを指摘
は1872年のことであるから、インドは日本よりも約20
しておく。
年早く鉄道時代を迎えたことになる。鉄道建設はボン
第一は、言うまでもなく、伝統的な生態系における
ベイ、カルカッタやマドラスを起点として進められ、
多様性の崩壊である。チーク材や海底電信線の絶縁被
その後19世紀末までの鉄道の営業距離は約4万kmに達
覆材として使用されたグッタペルチャ等、植民者の貪
した。ガンジス河に沿っては、河口のカルカッタから
欲な採取によって壊滅的な損失を被ったアジアの植物
デリー、アグラ等を経由して西のラホールまでを結び、
資源は数多いが、農村の生活を支える多種多様な食料、
またこの幹線にはボンベイ、マドラスを起点とした幹
飼料、繊維資源の喪失は生活の基礎を直ちに脅かすも
線も接続され、インドの主要都市を接続した。
のであった。これは独立後の「緑の革命」についても
表2に明らかな通り、19世紀末までの間においてア
言えることであるが、伝統的なインドの農村では、食
ジアの鉄道建設の大半はインドで行われたといって良
料、衣料用の繊維原料、飼料、医薬品、日常生活に必
い。イギリスとヨーロッパ大陸では鉄道建設が1830年
要な燃料などは、全て農村で自給されていたのである
前後に始まったが、1900年時点における営業マイル数
が、単一作物によるプランテーションの進行はこうし
は鉄道発祥の国イギリスが約3万km、ドイツ約5万km、
た自給体制を掘り崩した。この点は今日的な課題とも
フランス約3.7万kmであったことと比較すれば、この
直結した問題であり、本稿では後編において詳しく述
時点でのインドの鉄道網はその敷設延長で見る限りほ
べることとする。
ぼ西欧諸国並みであったとすら言える。
第二は、伝統的な共同体における教育体制の崩壊で
ではその果たした役割はどうか。鉄道建設は内陸部
ある。元来アジア各地には、程度の差こそあれ、土地
で生産される綿花、茶等の輸出用農作物を港へと運ぶ
の宗教に応じた伝統的な教育体制があった。同時代の
こと及び軍事的利用を一義的な目的としていたといわ
ヨーロッパに比べる時、アジアは子供の教育に関して
れる。綿作地帯であるデカン高原をボンベイ港と結ぶ
より手厚い仕組みを持っていたとすら言える。インド
鉄道はイギリス綿工業にとって「マンチェスター・リ
にも、領主からの課税を免除された土地の収穫物によ
バプール鉄道の単なる延長」13)であった。19世紀末に
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おける年間貨物輸送量が4600万トン、旅客が2億人、
まった。インドにおける鉄道建設が、植民地政府の直
第二次大戦直前における年間貨物輸送量が8700万トン、
轄事業としてではなく、政庁の認可を受けた地域的な
旅客が4.6億人というのは決して少なくはない14)。当時
鉄道会社の事業として行われたために個別の採算が優
の人口二億人で割れば年間1∼2回は利用した勘定と
先されたことがこうした傾向を加速した。1873年には
なる。しかし全国的な鉄道網の完成ににもかかわらず
政府が将来の鉄道建設をすべてメートル軌で行うとの
国内の統一市場形成にはあまり効果が無く、近代化の
決定を行ったため、これ以降の鉄道建設はメートル軌
起爆剤とはならなかった。
が主流を占めるようになったが、レール幅の混在は今
日まで後を引く問題として残った(表3)
。
表2 19世紀における各国の鉄道営業距離(千km)
鉄道建設の後方波及効果はどうか。インドにおける
鉄道建設の効果について、同時代にこれを目撃してい
たマルクスは次のように予言した。「イギリスがインド
に鉄道を敷いたのは綿花等の原材料を安く運び出すた
めであるというのは周知のことだ。しかし鉄鉱石と石
炭のある所に一旦機関車という機械を持ち込めば、そ
れを作らせないというのは無理である。鉄道を通じて、
インドはやがて近代技術の先頭を走るようになるであ
ろう」15) しかしこの予想に反して、機関車、軌条、橋
梁鉄鋼、その他一切の器材類は最後までイギリス本国
から輸入され、機関車の場合、英国内生産量の20%程
度がインドに送られた。機関車が国産されるようにな
表3 インドの鉄道営業距離(軌道幅別)
(単位:千km)
るのは結局1950年まで待たなくてはならなかった16)(こ
の年チタランジャン機関車工場(Chitaranjan Locomotive
Works)が設立され、ほぼ同時にタタもタタナガルに
機関車工場を建設した)
。鉄道車両や鉄道レール、電信
機等の必要器材が輸入によって調達されていたのは日
本も同じであるが、日本では新橋・横浜開通(1872)の
3年後に官営神戸工場で客車、貨車の国産が始まり、
明治26年(1893)には国産初の蒸気機関車の生産が行
われている。
しかしながら、広大なインドの大地に張り巡らされ
た鉄道網の維持に必要な機械修理、或いはその後の路
線拡張に伴う規格制定等の業務を通じて、熟練した機
械工や機械技術者が全国的な規模である程度育てられ
た、という効果はあった。
Railway Centenary 1853-1953
2.2 電信網の建設
一方インドにおける電信網の開通は1851年であり、
その一つの原因はレール幅についての標準化が行わ
れなかったことにある。当初の幹線は全て「インド・ゲ
これも日本より20年早い。早くも1839年に東インド会
ージ」ともいわれる広軌(5 feet 6 inch=1676 mm)で
社勤務の医師オショーネシー(O'Shaughnessy)がアジ
建設された。これは台風にも耐えるという特殊要件を
ア協会雑誌に自らの電信実験について報告している。
考慮して国際的な標準軌(4 feet 8.5 inch、日本では新
彼は後にインド電信網建設の責任者に任命されるので
幹線の軌道幅に相当)よりも広く設定されたものであ
あるが、この時の報告は植民地政府を動かすものには
った。しかし敷設コスト削減の観点から、その後に支
ならなかった。
しかし1849年にダルハウジー
(Dalhousie)
線として建設された軌道の幅は次第に狭くなり、狭軌
が総督に着任した後電信計画は急速に現実化した。こ
(4 feet或いは3 feet 6 inch)、メートル軌と多様化してし
の計画の責任者に任命されたオショーネシーは熱帯の
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長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
厳しい自然条件の中で電信線を敷設するにあたっての
そうだが、電信機器の国産化は結局独立まで着手され
様々な問題点を検討し、一旦イギリスへ戻って必要な
なかった。
技術者や機材を手配した。こうした準備を経て、落雷、
降雨、虫害、大河の渡河、蓄電池の耐久性等が実験線
の敷設を通じてテストされ、最終的には植民地政府の
事業として全国的な電信網が構築された。1855年の都
市間幹線開通時における電信線の総延長は3,050マイル
(4,880km)に及び、カルカッタ、ボンベイ、マドラス、
Telegraph Centenaru , 1851-1951
アグラ、ペシャワル、ハイデラバード等の主要都市を
結んだ。
しかしこうした全国的な電信網を活用したのは専ら
植民地政府であった。電信開通二年後に起きたセポイ
の乱鎮圧にあたっては、タイムズ紙の特派員が「電信
の発明以来最も重要な役割を果たした」と評価するほ
どの効果を上げたという17)。
なお、イギリス本国から地中海、ペルシャ湾を通っ
Indo-European Telegraph Line , 1867-1967
て伸びてきた国際電信ケーブル「インペリアル・チェー
ン」は1867年にインドへと接続された。このケーブル
はその後シンガポール、上海を経て1871年(明治4年)
に長崎へとつながり、日本を国際社会へと電信接続し
た。
この国際電信線工事を担当し、またインド電信局の
工事にも携わったエアトン(W. E. Ayrton, 1847-1908)
がその後1873年に日本へ来ている。工部大学校設立の
建議がおこり、グラスゴー大学ランキン教授門下のダ
イヤー(Henry Dyer, 1848-1919)以下8名が招かれた
100 Years of Telephone Services , 1982
のであるが、その一人がエアトンであった。彼は工部
大学校で物理学と電信学を教えたが、電灯事業にも力
2.3 土木事業とエンジニアリング・カレッジ
を入れ、明治11年(1878)3月25日に中央電信局開局の
植民地政府が行ったもう一つの公共事業は灌漑用運
祝宴が工部大学校本館大講堂で開かれた時、物理学実
河の補修・建設である19)。それはまず、14世紀に築か
験用の電池50個を用いてアーク灯を点じた。この日は
れたフィローズ・シャー用水路の修復から始まった。
後に日本における「電気記念日」となった。工部大学
これは、ガンジスの南側を流れるヤムナー河の水を、
校における彼の講義は電灯、発電、電力輸送にまで及
本流の西側と東側に位置する乾燥地帯へと流し込む用
び、志田林三朗、藤岡市助らをその門下から輩出して
水路であり、その改修工事は1817年に開始された。当
18)
いる 。そして彼らを第一世代として日本の電気技術
時、イギリス本国でも運輸・交通のための運河が至る
者と電気事業は成長軌道に乗っていった。
所に開削され、交通史上「運河時代」と呼ばれていたが、
これに対してインドでは、電信事業の創設にインド
植民地における用水路修復の目的は、現在耕作を放棄
人自身がどのように関わり、またどのように人が育っ
されている広大な土地を耕作可能にし、地租の大幅な
ていったのであろうか。残念ながら筆者の調べた範囲
増収をはかるという点にあった。用水料収入が建設者
では、永くオショーネシーの助手をつとめたシブチャ
である東インド会社の収入となるというメリットもあ
ンドラ・ナンディー(Sibchandra Nandy)の名前を見出
った。こうした大規模な補修工事が完成した後、1837
したのみである。彼は1846年にカルカッタの造幣局に
∼38年にインド北西部で発生した大飢饉は、ガンジス
入り、電信計画が開始されてからの50年間、終始オシ
河とヤムナー河の間に位置する広大な領域をカバーす
ョーネシーの片腕となって働いた。彼の業績を記念し
る新規のガンジス用水路計画を具体化させた。それは
て今でもカルカッタにはシブ・ナンディー通りがある
1842年に着工して12年後の1854年に通水式を迎えると
研究報告 第22号(2000)
-59-
三 上 喜 貴
いう空前の大事業であり、またイギリスによるインド
地ハリドワールを選んだ古の司祭達の知恵の後塵を拝
統治の記念碑的事業ともなった。
するよりなかったのである21)。また、イギリスが灌漑
このような大規模な土木工事を進めるためには、多
事業を展開したのは主として北インドであるが、南イ
数の土木技術者を育成することが必須の課題であった。
ンドではヴィスヴェスヴァラヤ等によって独自の灌漑
当初、必要な技術者は1809年に開設された東インド会
事業が行われていた。
社直属の工兵学校を通じて教育されたが、1845年には、
東ヤムナー用水路の管理にあたっていた砲兵将校ベア
2.4 英語による高等教育制度の発達
ード・スミス(Lt. Baird Smith, 1818-1861)によって、
このような実務教育と並んで、東インド会社による
工事現場と直結した小規模な工科学校が開設された。
植民地統治と密接に結びついて、英語による高等教育
また、ガンジス用水路の設計・施行責任者に任命され
機関である近代的大学システムが発達した。
ていた砲兵将校コートリー(P.T.Cortley, 1802-1871)
当初東インド会社のスタッフのほとんどは本国から
はガンガー用水路の建設着工にあたって現地における
やってきたイギリス人であり、インド人が中枢スタッ
土木技術者の養成の必要性を説き、これを容れた北西
フとして雇用されることはなかった。従って英語によ
州知事の支援を受けて、1847年には用水路工事の中心
る高等教育機関の整備は当面必要とされず、東インド
地の一つであったルールキーに土木技術教育のための
会社の教育面での活動はインドの伝統的な宗教・社会的
カレッジが設立された。これは後にトマソン土木技術
な基礎の上に幾つかの教育機関を構築するに止まった。
カレッジ(Thomason Civil Engineering College)と改称
1781年には総督ウォーレン・ヘイスティングズがカルカ
され、カルカッタ、マドラス、プネ等に設立される同
ッタのマドラッサにイスラム法研究のための学校を設
種カレッジの雛形となった。そればかりか、この種の
立し、1792年にはベナレス総督のジョナサン・ダンカン
カレッジは当時のイギリスにとっても新しい試みであ
がヒンドゥーの聖地ベナレスにヒンドゥー文化の研究、
り、イギリス本国におけるエンジニア教育はこうした
サンスクリット古典文献収集のための機関を設置する
植民地での経験を基にして構築されていったという20)。
許可を取得した。これがサンスクリット大学の起源で
なお、カレッジにおける授業は二学期19ヶ月にわたり、
ある。19世紀の半ばに完成した壮麗なゴシック様式の
高等数学、土木工学、測量、水準測量、応用天文学、
校舎は現在も残されている。
設計、建築製図、化学・光学・磁気学・電気・気象学
1800年に至り、同社スタッフを訓練するための現地
等の実験、写真術等からなる総合的なものであったと
教育機関としてカルカッタのフォート・ウィリアムズに
いう。ルールキー・エンジニアリング・カレッジは、
カレッジが創設された。また1816年には、ベンガルの
現在でも最も人気のある工科大学となっている。
ラージャ、ラームモハン・ローイ(Rammohun Roy,
しかしながら、鉄道や電信のような新しい技術分野
1772-1833)によりインド人子弟を英語及びインド諸語
と異なり、この時代の灌漑・土木事業のような伝統技
で教育するための学校(Vidyalaya)がカルカッタに設
術分野においてはイギリスのもたらした技術を過大評
立された。1837年には英語が公用語及び法廷用語とな
価してはならない。実際の修復工事に携わったベアー
り、1844年には植民地政府の公務員採用にあたり英語
ドも「
(イギリスは)独創的計画立案者ではなく、あく
教育修了者を優先する政策が発表された。そして1853
までも修復者であった」と述べ、また後にトマーソ
年には東インド会社が19∼23歳の若者を対象とした採
ン・カレッジの学長となったメドリーは「最初は、イ
用試験制度を発足させた。これがインド文官職制度
ギリスの工兵将校達には灌漑用水路の経験が全くなく、
(Indian Civil Service)の始まりである。こうした採用
従って多くのことが『経験から割り出された法則』に
試験制度の発足は英語による高等教育機関の創設を促
もとづいてなされ、次第に水の流れる用水路の法則が
した。こうしてインドにおける最初の大学システムが
導き出されていった」と述べている。別のイギリス人
1857年にカルカッタ、ボンベイ、マドラスに設立され
工兵将校は更に進めて「
(工兵将校達は)古代の体系を
た。セポイの乱(1857年)を収拾したイギリスは、
適用・改良することでもって偉大な事業を開始し、そ
1858年8月に東インド会社を廃止し、11月にはムガー
うすることで、ほとんど知られていなかった科学の諸
ル帝国を廃してインドの直接統治を開始した。
要素を学んだ」とも述べている。多田博一氏が述べる
ように、新規に建設したガンジス用水路の場合ですら、
その取水地点の選定は、結局のところヒンドゥーの聖
-60-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
Gandhi , 1869-1948
Raja Rammohun Roy , 1772-1833
2.5 留学事情の日印比較
ネール(Jawaharlal Nehru, 1889-1964)は明治維新後
の日本の留学生派遣と対比しつつ、インドの留学の特
徴について次のような比較を行っている。
Jawaharlal Nehru , 1889-1964
「
(明治維新後の日本では)工場の建設が進み、近代
的な陸軍と海軍が創設された。多くの外国人技術者が
招聘され、また多くの日本人留学生がアメリカ、ヨー
2.6 初期の大学を支えた科学者達
ロッパに派遣された。しかし彼らはインド人のように
ここで前出の表1に戻り、初期の大学を支えたイン
弁護士になるために留学したのではなく、科学者や技
ド人科学者に焦点を当ててみよう。同表には合計9人
術者になるために留学したのだ」22)
のインド人が登場するが、そのほとんどは19世紀の末
ネール自身も、ケンブリッジに学び、弁護士となっ
から今世紀初頭にかけて活躍した人物である。インド
て1912年に帰国している。映画『ガンジー』も、イギ
で大学教育を受けた後にイギリスへ渡り、博士号を取
リスに留学して弁護士資格をとったガンジー
得した上でインドに戻ったという経歴も共通である。
(Mohandas Karamchand Gandhi, 1869-1948)が南アフリ
彼らは日本で言えば帝国大学設立後(1877年設立)最
カに渡るシーンから始まる。全体像を示す統計はない
初の十年間の卒業世代に相当する。
が、留学したインドの若者の多くがこうして弁護士へ
数学に登場するムケルジー(Asutosh Mookerjee、
1864-1924)は、後にカルカッタ大学の副学長(学長は
の道を目指したものであろう。
日本は開国以来第二次大戦までの間に3000人を超え
総督であるから実質上大学のトップである)になった
る留学生を欧米諸国に送り出してきた。幕末期には幕
人物であり、彼の時代にカルカッタ大学は科学的研究
府が四回にわたって延べ260人の留学生を派遣し、維新
の拠点として大きく変身することになる。この点につ
後に文部省ができてからは「在外研究員制度」が創設
いては、後述する。
され、国費によって留学する制度が整った。文部省の
物理学に登場するボーズ(Sir Jagadish Chandra Bose,
記録によれば、この制度のもとで明治8年(1875)から
1858-1937)は植物生理学者でありまた物理学者でもあ
昭和12年(1937)までの間に合計3,147人の留学生が派
った人物である。イギリスに留学してケンブリッジで
遣されている23)。明治期に限って国費留学生の渡航目
学んだ後母国に戻り、1885年にカルカッタのプレジデ
的をみると、軍事(197人)
、工学(151人)
、人文(117
ンシー・カレッジの物理学教授となった。そして1895年
人)
、法律(96人)
、医学(60人)
、農学(37人)
、化学
にコヒーラーを改良して、無線通信理論、固体物理学
(36人)
、財政金融(27人)等となっており、ネールの
の発展に寄与したことで知られる25)。コヒーラーは当
指摘通り技術者、科学者を目指した若者が六割(軍事
時盛んに研究されていた無線通信にとって、火花に代
を含む)を占める24)。
わる有力な発振装置としてマルコーニ等が用いていた
道具であった26)。彼の名は現在もBose Research Institute
(1917年設立)として残されている。
ラーイ(Prafulla Chandra Ray, 1861-1944)は1879年に
プレジデンシー・カレッジに入学し、化学を学んだ。在
研究報告 第22号(2000)
-61-
三 上 喜 貴
学中に奨学金を得てエディンバラ大学に留学し、1887
シャ湾にも広がった。以来コレラは繰り返しこれらの
年に博士号を取得した。帰国後彼は母校の教官を勤め
地域に襲来し、極めて恐ろしい疫病として広く知られ
る傍ら自ら化学工業を起こしてインド化学工業のパイ
ることになったという。
こうした大流行の内、1883年から1884年にかけての
オニアとなった。
大流行がコッホによるコレラ菌発見の直接の舞台とな
った。大流行はまずエジプトのアレクサンドリアで始
まり、1884年暮れにはインドで大流行が始まった。コ
ッホとのその弟子達はコレラの移動を追うようにして
アレクサンドリアからカルカッタへと移動した。カル
カッタでコッホ達を受け入れたのはメディカル・カレッ
ジ付属病院であった。そこでコッホはアレクサンドリ
アで見たのと同じ菌を顕微鏡の中に発見し、この疫病
Jagadish Chandra Bose , 1858-1937
の真因を確信したのであった。その成果は帰国後の
1884年にベルリンで発表された30)。
一方ペストは古くから世界中で知られていた伝染病
である。ペストを意味する英単語プレイグ(plague)
はそのまま疫病全般を意味する単語ともなった。ペス
トはアジアでも繰り返し大発生しているが、1894年の
大流行は特にひどいものであり、この時パリのパスツ
ール研究所からインドシナに派遣されていたイェルサ
ン(Alexandre Yersin, 1863-1943)は急遽大発生の中心
地香港に植民地医務官として派遣され、そこでペスト
Prafulla Chandra Ray , 1861-1944
菌を発見する31)。コッホ研から日本に戻った北里柴三
郎は、彼を迎えて新設された伝染病研究所の所長とな
2.7 コレラ、ペスト、マラリア
人類が恐ろしい疫病を克服することができるように
ったばかりであったが、やはり香港に駆けつけてペス
なったのはそれほど古いことではない。コレラ、ペス
ト対策に取り組み、イェルサンと独立にペスト菌を発
ト、結核、破傷風、ジフテリアといった病原菌や感染
見した。
ルートが発見され、その対策が生み出されるようにな
そして香港大流行の二年後には、今度はインドでペ
ったのは19世紀最後の四半世紀、即ちパスツール、コ
ストが大流行した。やはりパスツールの弟子であった
ハフカイン(W.M.Haffkine, 1860-1930)は、既に1892
27)
ッホや北里達が活躍した時代、以降のことである 。
元々コレラはベンガル地方に大昔から根を下ろして
年にカルカッタに到着しコレラと戦っていたが、1896
いた風土病であった。そして時折近隣に広がっては疫
年にペストが大発生すると今度はボンベイに派遣され、
病として猛威を振るっていたが、その範囲はほぼヒン
早速ペスト・ワクチンの生産を開始した。現在のボンベ
ドゥー教徒の巡礼が歩き回る範囲に閉じ込められてい
イにハフキン研究所と呼ばれる医学研究所があるが、
たという。しかし19世紀の初めにベンガル地方でコレ
この研究所はハフキンを初代所長として1899年に設立
ラが発生した時、カルカッタにはイギリスの商船や軍
されたものである32)。設立当初はペスト研究所(Plague
艦が多数出入りしていた。そしてこうした新しいチャ
Research Laboratory)と呼ばれていた。この研究所は
ンネルを通じコレラは伝統的な範囲をはるかに超えて
ジフテリア、破傷風、百日咳、コレラ、腸チフス、ペ
28)
伝播を始めることになった 。1820年から1822年にか
スト、小児麻痺、狂犬病等に対するワクチン生産やヘ
けて、コレラ菌はセイロン、インドネシア、東南アジ
ビ毒血清等の開発と生産において、現代に至るまで指
ア大陸部、中国、日本へと広がった。
導的な役割を果たしてきた。
の「日
コ レ ラ
本医学史綱要」にも「虎列刺が始めて我が邦に入りた
マラリアの場合、その病原は原生動物の胞子虫類で
るは文政五年(1822)にして、西国に始めて起り、中
あり、1880年にラヴラン(Charles L. A. Laveran, 1845-
国より浪華に進み、京師にも波及したり」とある 。
1922、)がアルジェリアで発見した。感染ルートの全
また西ではアフリカ東海岸を南下するとともに、ペル
体像解明は複雑な経過を辿ったが、最終的には、1881
29)
-62-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
年から20年近くをインドで植民地医務官として過ごし
初頭にかけて、アジアに多数のパスツール研究所が設
たロナルド・ロス(Ronald Ross, 1857-1932)が1897年
立された。フランス植民地であったインドシナにはサ
8月にカルカッタの研究室で鳥類のマラリア病原虫がイ
イゴン(現ホーチミン市)
、ニャチャン、ハノイ、ダー
エカを介して伝染するという生活環を解明した。この
ラット、プノンペン等に相次いでパスツール研究所が
功績により彼は1902年にノーベル医学賞を受賞した
設立された。最も古いものはサイゴンのパスツール研
が、この時、ロスとは独立に同様の事実を突き止めた
究所であり、1891年にパスツールの弟子であるカルメ
インド人医師との間には業績の優先権をめぐっての争
ット(Albert Calmette, 1863-1933)によって設立され
いがあったという33)。
た。現在のホーチミン市街からはフランス人の名前が
欧米人科学者対非欧米人科学者間の功績評価にまつ
ほとんど姿を消したが、そうした中でパスツールとカ
わる疑問として、黄熱病の伝播様式を解明したとされ
ルメットのみは今なお市内の通りにその名を留めてい
る米国人軍医ウォルター・リードに先行するキューバ
る。同じくパスツールの弟子であり、ペスト菌の発見
人医師フィンレーの業績が指摘されているし34)、また
者でもあるイェルサンは1895年に二つ目のパスツール
血清療法の創始者に関しては、同じコッホ門下でこの
研究所をニャチャンに作り、その後の生涯をインドシ
問題に取り組んだベーリング(第一回ノーベル医学賞
ナで暮らした。
これらインドシナ地域のパスツール研究所に続いて、
受賞)と北里柴三郎との間に、評価の不公平を指摘す
35)
る意見もある 。ことの真相はどうあれ、この時代の
インドにも幾つかのパスツール研究所が設立された。
アジア・中南米各地において、ノーベル賞受賞にも匹
イギリス領であったインドにフランス人であるパスツ
敵する研究成果が欧米人以外の研究者によって生み出
ールの名前を冠した研究所があることに不思議さを感
されていたという事実にここでは注目しておく必要が
じ、筆者は1996年7月にウーティーの植物園を訪ねた折
ある。
に近くの町クーヌールにパスツール研究所を訪ねた。
この研究所設立は1902年に英国植民地政府の某高官夫
人が狂犬病で死亡した事件をきっかけとして、ある富
裕なアメリカ人の寄付により設立された。初代所長に
はイギリス人の植民地医師(Indian Medical Service)
であったコーンウォリスが着任した。歴史を感じさせ
る所長室で筆者を迎えてくれたプラサド・ラオ所長は、
「何故パスツール?」という筆者の質問に対して、壁に
飾ったパスツールの肖像画を指しながら「彼の偉大さ
に敬意を表して」と答えてくれた。
今日では北インドのシムラにある研究所はインド保
Dr. W.M. Haffkine , 1860-1930
健省直轄の中央研究所(CRI: Central Research Institute)
と名称を変え、防疫、ウィールス研究における中心的
2.8 パスツール研究所群
疫病に対する戦いに燃えた医師達はこのように世界
研究機関として、またワクチン、血清生産の拠点とし
中を飛びまわっていた。顕微鏡を通して観察した病原
て活躍している。筆者が訪れたクーヌールのパスツー
菌は、それまでの空想的な病因論を覆す確固たる実体
ル研究所も保健省の下にある独立研究機関としてワク
であり、これを眼に見える形で克服していったこの時
チン、血清生産における中心的役割を果たしている。
代の医師や微生物学者には科学の力への確信があった。
設立以来の主力生産品目である狂犬病ワクチンの他、
一番乗りの成果を争う競争も激しかったが、彼らの間
三種混合ワクチン(ジフテリア、百日咳、破傷風)
、小
にはコスモポリタンとして共有するものも多かったこ
児麻痺ワクチン等を生産しているとのことであった。
とと想像する。筆者がこうした感想を持ったのは東南
また、カルカッタの研究所は西ベンガル州政府の機関
アジアからインドに至るまで、各地にパスツールの名
として、シロンの研究所はメガラヤ州の政府機関とし
を冠する医学研究所が多数設立されていたことを知っ
て、それぞれ存続しているとのことだ。
この他タイのバンコクには観光名所ともなっている
た時である。
パスツール(Louis Pasteur, 1822-1895)が活躍した
時代は19世紀の後半であるが、19世紀末から20世紀の
研究報告 第22号(2000)
スネーク・ファームがある。これは正式には「サオヴァ
バ女王記念研究所」
(Queen Saovabha Memorial Institute)
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三 上 喜 貴
と呼ばれているが、1923年に創立された当時はパスツ
3.ナショナリズムと戦争の時代
ール研究所と呼ばれていた36)。パスツールの高名は当
時の世界に広く知られており、フランス植民地以外の
地域に作られた研究機関にもしばしば彼の名が冠せら
3.1 大学教育の発展
第一次世界大戦開戦に伴って、インドもまた戦争に
れたようだ。
巻き込まれることになったが、植民地に戦争協力を求
める過程で、イギリスも幾つかの代償措置をインドに
与えた。カルカッタ、ボンベイ、マドラスの三大学に
大学院が設置されたのも、そうした代償措置の一つと
考えてよかろう。そしてこれを契機に、インドの大学
にも徐々に科学研究の萌芽が芽生える。
先行したカルカッタのプレジデンシー・カレッジは
1917年に博士課程を設置し、新知識の生産という面で
Medical College, Calcutta , 1835-1985
大学の新しい役割を切り開いていった。この時、指導
力を発揮したのは第一次世界大戦開戦の年にカルカッ
2.9 人口動態
ある人口推計によれば、17世紀末におけるインドの
タ大学の副総長となったアストシュ・ムーケルジーであ
総人口は1億5300万人であった37)。この推計に従えば、
る。インドの歴史家スミット・サルカールが『偉大な
その後の二世紀間における人口増加率は年率平均で僅
ヴィジョンを持った副総長』と形容するように38)、彼
か0.2%に過ぎない。高い出生率は、高い死亡率とほぼ
は幾つかの改革を実行した。彼は富裕なインド人から
均衡していたのである。
の寄付を募り、インド人のみが就くことの出来る教授
しかし疫病の克服等により、インドの人口動態にも
ポストをカルカッタ大学に設けた39)。後述するラマン
今世紀初頭から徐々に変化が始まった。政府の人口統
も、こうして出来たポストを得て、研究者としての生
計によれば、今世紀初頭千人あたり50人という高率で
活をスタートすることが出来たのであった。続いて
あった死亡率は徐々に低下し、1991年には1000人あた
1919年にはカルカッタ大学委員会(Calcutta University
り10人という水準まで達した。しかし出生率の方は急
Commission)から報告書が提出され、以降インド各地
速には低下せず、この結果、今世紀に入っての人口増
に相次いで大学院が設立されることになる40)。
一方、高まるナショナリズムも、宗教的・文化的伝
加は年率0.7%という高率で続くこととなった(図1)
。
徹底した人口抑制政策を続ける中国を上回り、近い将
統と近代科学の教育機能を併せ持つ幾つかの高等教育
来、インドは世界最大の人口大国となるものと見られ
機関を生み出すのに成功した。ヒンドゥーの聖地ヴァ
ている。現在のトレンドから見る限り、総人口が安定
するのはなお30年以上を要すると見られる。
ーラナシーに設立されたベナレス・ヒンドゥー大学
(BHU: Benares Hindu University)もその一つである。
この大学の起源は1905年に溯る。この年ベナレスで開
図1 総人口・出生率・死亡率の推移
かれたインド国民会議において、ヒンドゥーの伝統と
近代科学を教授する新しい総合大学の設立が提案され
た。BHUは、今日ではインド工科大学(後述)と並ぶ
工学系の有力大学ともなっている。またイスラムの伝
統に基づく大学としては、アラハバード大学(1887年
設立)
、オスマニア大学(1918年設立)などがある。
Asutosh Mookerjee
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長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
3.2 学術都市バンガロールの発展:インド理科大学
3.3 ノーベル賞受賞者ラマンの生涯
同じ頃、後に科学技術のメッカの一つとなるバンガ
アジア人として初めての自然科学系ノーベル受賞者
ロールにも新しい動きがあった。それは、この地に研
となったラマン(C.V. Raman、1888-1947)の生涯を
究型大学院大学ともいうべきIISc(Indian Institute of
通じて、当時におけるインド科学技術の実状の一端を
Science)が設立されたことである。本稿では以下にお
再現してみよう43)。
いてこれをインド理科大学と訳すことにする。バンガ
ラマンは南インド、ケララ州の小さな町、ティルヴ
ロールという町は、今日ではインドを代表するソフト
ァナイカヴァル(Thiruvanaikaval)で生まれた。13歳
ウェア産業集積地の一つに成長したが、その淵源は
で奨学金を得てマドラスのプレジデンシー・カレッジに
IIScの設立にまで遡ることができる。
入学し、15歳にして学士を、18歳にして修士号を取得
しかし設立時に置かれた学科は有機化学、無機化学
した。大学の指導教官はそのままイギリスに行くこと
と電気工学であり、その背景には当時イギリス人が開
を勧めたが、医師は健康上の配慮からこれを思いとど
発を進めていたマイソール近郊のコラー金山(Kolar
まるよう勧めた。そしてラマンは医師の判断に従って
Gold Fields)の運営に必要な技術者の養成という、お
渡英を断念し、トップクラスの成績で合格した大蔵省
よそ基礎科学と関係の無い、イギリスの利益への奉仕
に入って公務員生活を始めることになった。
41)
という命題があったと指摘されている 。コラー金鉱
しかし彼は大蔵省に勤務する傍ら物理学の勉強を続
山は古代に鉱山活動のあったことが知られていたが、
けた。彼にこうした勉学と研究の場を提供したのはカ
1884年に新たな鉱脈が発見され、ジョン&テイラー兄
ルカッタの「インド科学振興協会」
(Indian Association
弟社によって開発が始まったものである。植民地時代
for the Cultivation of Science)であった。この協会は、
のインドでは唯一の金鉱山であった 。基礎科学に関
1876年に一人の先見性あるインド人、マヘンドラ・ラ
する基本的な学科は、後述するようにラマンが学長と
ル・シカール(Mahendra Lal Secar)が個人的な努力に
なって初めて創設されたのであった。
より作り出したものであった。イギリスの王立協会が
42)
常にポピュラー・サイエンスの講演会を催したのと同
表4 インド理科大学(IISc)における学科新設の足取り
様、シカールもこうした協会がカルカッタに育つこと
を夢見た。当初こうした講演会はある程度活況を示し
たようだが、次第に教会の活動は下火となり、創立者
のシカールはラマンの活躍する時代を見ることなく世
を去った。そしてその三年後のこと、大蔵省勤務を始
めて一週間後のラマンは通勤途上の路面電車の広告で
この協会の存在を知り、訪ねていった。みすぼらしい
協会ではあったが、実験室もあり、彼はここを自分の
研究室とすることにした。
毎日、朝の5時半から9時45分までと夕方5時から9時
過ぎまでを学習と研究のための時間に充て、職場の行
き帰りに協会へ立ち寄るという生活を続けた。彼の大
蔵省勤務生活は1914年まで6年間続いた。ビルマやナジ
プールへの転勤があってカルカッタを離れた時期もあ
ったが、その間もこうした学習と研究は続けられた。
こうした彼の研究成果は当時カルカッタ大学の副学
長であった数学者アストシュ・ムーケルジーの目に留ま
るところとなった。ムーケルジーはラマンの才能を認
め、1914年、彼にカルカッタ大学物理学教授の椅子
(Palit Chair of Physics)をオファーした。この名誉ある
席に就くものは海外で研究生活を送ったものでなけれ
ばならない決りであり、ラマンはこの点で資格が無か
Gold Mining
研究報告 第22号(2000)
C.V. Raman , 1888-1970
った。しかしムーケルジーは大学理事会を強引に説得
-65-
三 上 喜 貴
し、この人事を実現した。大学に移れば給与は大蔵省
急いだのであるが、急いだ理由を尋ねた友人に対して、
時代に比べて半分になるが、彼は大学での研究生活の
彼は「30人の理事のうちイギリス人が15人を占めるよ
道を選んだ。こうしてラマンは以降40年余りにわたっ
うなアカデミーが出来たところで、どうしてインドの
て続く本格的な研究生活に入り、トムソン、ラザフォ
科学が発展することができるのか? しかもイギリス人
ード、ブラッグといった同時代の物理学者との交流も
理事の内の二、三人以外はアカデミーのフェローにさ
始められた。彼の研究領域は主として音響学と光学で
えなれるかどうか怪しいものばかりじゃないか」と答
あった。ノーベル賞受賞理由となったラマン効果の発
えたそうだ45)。
見が行われたのは1928年のことである。
アジア人として初めてノーベル賞を受賞した彼は、
3.4 ボース、サハ、マハラノビス
ノーベル賞を受賞したのはラマンだけであったが、
バンガロールのインド理科大学から学長として招かれ
た。インド理科大学はジャムセッティ・タタによって設
彼の時代、インドからは多数の基礎科学分野の研究成
立されて以来、歴代学長にはイギリス人が就いていた
果が生まれた。この時代は現代の量子論的物質像が姿
が、この慣行を破って1933年、ラマンに声が掛かった。
を見せはじめていた時代であり、インドの科学者もそ
それまでインドにおける科学研究の中心地はカルカッ
の探求に参加していた。
タであったが、ラマンがバンガロールへ移ることは当
サティエンドラ・ナート・ボース(Satyendra Nath
時のカルカッタの科学者達にとってカルカッタの地位
Bose, 1894-1974)は、まだ光量子仮説が受け入れられ
を凋落させるのではないかとの危機感を抱かせるほど
ていなかった1924年に「プランクの法則と光量子仮説」
のものであったようだ。
と題する論文をアインシュタインに送り、やがてこれ
理科大学に移ってからのラマンはこの大学を科学研
は「ボース・アインシュタイン統計」として知られるよ
究の殿堂とすべく様々な改革を行った。第一に、彼は
うになった。彼は1916年にカルカッタ大学を卒業し、
敷地内に沢山の樹を植えた。バンガロールの理科大学
その後母校及びダッカ大学で講師を務めていたが、イ
キャンパスを訪ねると、今でも広々としたキャンパス
ギリス留学の経験が無いという理由で教授になること
には沢山の樹があり、美しい建物とあいまって眼を楽
ができずにいたという。ラマンもそうであるが、留学
しませてくれる。第二に、彼は実験器具の製作所を作
経験を持たないこのふたりが世界の最前列に位置する
った。輸入した実験器具だけに頼っていては決して科
物理学上の研究成果をあげているという事実は、当時
学は進歩しない、というのが彼の信念であった。そし
のインド、あるいはその中心地としてのカルカッタが
て第三に、彼は優秀な研究者を集めて新しい領域の研
基礎科学の教育・研究の両面で世界に伍する水準を達成
究チームを多数スタートさせた。超音波の回折、ブリ
していたことを示している。なお、ボースはアインシ
ルアン散乱、コロイド光学、結晶のスペクトル・光学特
ュタインに認められてからは教授への道が開け、1927
性解析等であった。物理学科が設立されたのもこの時
年からはダッカ大学教授に、そして1945年からはカル
である。ラマンが来て始めて理科大学は世界に注目さ
カッタ大学教授となった。今日彼の名は「ボソン」と
れるようになったといわれる。
して、世界の物理学者の記憶にとどめられている。
晩年の彼は、大学キャンパス内に小さな専用の研究
また天体物理学の分野では、マグナッド・N・サハ
所を作り、ここで研究生活に打ち込んだ。このラマン
(Maghnad N. Saha, 1893-1956)が、1920年に「サハの
研究所(Raman Research Institute)は今もキャンパス内
電離式」として知られる物質の吸収スペクトルと化学
にあり、ラマンの遺品や彼の研究業績に関する資料、
組成の関係式を導いた。化学平衡論を応用して熱力学
彼の収集した鉱石や宝石、貝類等とともに展示してあ
的平衡にある気体原子の電離度を求めたものであり、
る。筆者はそこでアメリカの原爆投下に対するラマン
恒星のスペクトル型が主に温度によって規定されるこ
の抗議メッセージを記した新聞記事を見た。
とが導かれた。これはその後の恒星進化の理論発展に
インドには紛らわしいくらい似た名前を持つ「アカ
44)
デミー」がある 。このうち「インド科学アカデミー」
(Indian Academy of Sciences)は、バンガロールに移っ
とって重要な貢献をなすものであった。彼もまたカル
カッタ大学の卒業生であり、1938年には母校カルカッ
タ大学の教授となった。
た直後のラマンが1934年に創設したものである。この
彼らの名は、独立研究機関の一つであるボース基礎
時、実はもう一つの「アカデミー」が生まれようとし
科学センター(S. N. Bose National Centre for Basic
ていた。ラマンはその機先を制するようにして創設を
Sciences, Calcutta)やサハ核物理学研究所(SINP: Saha
-66-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
Institute of Nuclear Physics, Calcutta:1951年設立)にも
イルに位置する寒村サクチが選ばれた。設備の規模は
残されている。
日産250トンの高炉2基、40トン及び50トンの酸性平炉
数学者マハラノビス(Prasanta Chandra Mahalanobis,
各1基等であり、10年早く創業を開始した官営八幡製
1893-1972)もまた同時代に活躍し、判別分析等に用い
鉄所の規模と比べても劣らない規模のものであった。
られるマハラノビスの汎距離に名を残している。
創業直後に第一次大戦が勃発したことは幸運であった。
鉄鋼の輸入は途絶え、タタを含む国内鉄鋼メーカは増
産に沸いた。
3.5 タタ鉄鋼会社(TISCO)の誕生
明治の工業化過程を振返ると、製鉄・製鋼技術や機
図2 鉄鋼生産の推移:国際比較
械工業技術の吸収・定着を進める上で陸海軍兵器廠が果
たした役割は大きい。維新政府の下で重点的に予算が
投入され、製鋼法、鍛造法、中ぐり旋盤等の技術が習
得・開発されたのは陸軍及び海軍の兵器廠や造船廠に
おいてであったし、1901年に操業を開始した官営八幡
製鉄所も陸軍による強力な支援があって始めて実現し
たものであった。これに対して植民地下のインドにお
いては兵器国産の動きは起こるべくもなかった。これ
に代り、インドにおける鉄鋼業の誕生をリードしたの
は類希な才能を持った企業家であった。
旅行者がインドの街を歩く時、タタの製品を見ない
日はない。通りにはタタのトラックやバスが走り、主
要都市にはタージ・ホテルと呼ばれるタタ経営の高級ホ
テルが聳える。インド航空もかつてはタタの保有する
タタ・エアラインと呼ばれていた。
タタ財閥の創始者ジャムセットジ・N・タタ(Jamsetji
Nusseruwanji Tata, 1939-1904)はグジャラート州の小
さな町ナブサリで生まれた。この町はパルスィーの本
拠地であり、タタ家もまたパルスィーであった。彼は
Jamsetji Tata, 1839-1904
13歳でボンベイに移り、エルフィンストーン・カレッジ
に学んだ後、父の貿易会社に働いた。そこで彼は外国
貿易を学ぶが、やがて工業家として綿紡績工業に進出
する。1893年には来日して渋沢栄一等とも会い、日本
や中国への綿花、綿糸輸出を主な目的として日本郵船
との共同による日本−ボンベイ航路を開いた。
このように事業家意欲の旺盛なタタは若い頃から鉄
鋼業への進出を夢見ていたようだ。しかし植民地政府
タタ製鉄所, 1907-
が制定したインド鉱業法はインド人による鉱山の開発
を禁止していたため、彼の夢は閉ざされていたのであ
3.6 機械工業と化学工業
ったが、1899年にインド鉄鋼業に関するマホン報告が
日本における機械工業の原型は鉱山の機械部門や造
発表されたのを受けて、彼は行動を起こす。既に紡績
船業に求めることが出来る。これに代わってインドに
工業において企業家としての地位を確立していた彼は
おける機械工業の基礎形成に役立ったのは鉄道建設で
訪英してインド相を説得し、また訪米してアメリカの
あった。1911年当時インド全土に散在する鉄道工場に
技術援助を取りつけた上で、1907年にタタ鉄鋼会社
は9,900人の熟練工がおり、また93個所の機械工場には
TISCO(Tata Iron and Steel Co. Ltd.)を設立した。製鉄
合わせて約1万3000人の熟練工がいたという。20世紀初
所の立地点としては、原料となるグルマヒサニの鉄鉱
期における重工業の発展を支えた熟練工の供給はこの
石産地及びジャリア炭田と近いカルカッタの西約155マ
様な部門が担ったといわれる46)。この時代における工
研究報告 第22号(2000)
-67-
三 上 喜 貴
業部門の労働力構成を示す数字はないが、1920年に開
インラントへの進駐を開始し、39年9月ドイツがポー
催された全インド労働組合会議創立大会の加盟組合員
ランドに侵攻するに及んで欧州大戦の火蓋が切って落
数合計14万人のうち9万人強が鉄道部門の労働者である
とされた。そして英国の参戦と同時にインド総督リン
47)
ことからも窺がわれる 。
リスゴウ卿はインドの参戦を声明した。そしてインド
化学製品の多くが中間材であるという特質から、化
学工業の発展形態や発展のテンポはこれを囲む産業連
の参戦は、兵士の動員とともに戦時生産への動員をも
意味した。
関に大きく依存する。産業革命後の18∼19世紀におけ
例えば造船部門では、イギリスはインドに鋼船の建
るヨーロッパ社会では、近代化学工業の母体となる硫
造を許してこなかったが、1941年に至り、潜水艦攻撃
酸・ソーダ工業は繊維産業の発展とともに成長した。
による船舶の損耗が激しくなる中で、イギリスはイン
繊維の漂白に用いられたサラシ粉や脱脂のための苛性
ドも動員して建造を進めることを決断した。造船所の
ソーダ、染色用の媒染剤等が初期の化学工業を支えた。
立地場所としてはカルカッタとマドラスの中間に位置
やがて製紙、ガラス、石鹸、肥料、爆薬等の生産拡大
するヴィシャカパトナム(Vishakhapatnam)が選ばれ、
によって産業連関の裾野を拡大していった。
鋼船建造に必要な多数のイギリス人技術者がここに送
日本の場合、当初の科学技術の移植は維新後の通貨
られた。広大な土地があることに加え、タタの製鉄所
制度確立に伴う貨幣鋳造、紙幣印刷や軍事用火薬生産
が近いこともこの場所を選択した理由の一つだった。
といった国家の需要に応えるために行われた。しかし
しかし、1942年3月にアンダマン・ニコバル諸島へと
その後、綿紡績、織物工業、化学肥料需要の拡大に応
侵攻した日本軍は、同年4月、建設途上のこの造船所に
える形で化学品の需要が拡大し、化学産業は当時のベ
爆撃を加え、結局この造船所が完成したのは戦後1947
ンチャー企業家達が活躍する産業分野の一つとして発
年のことだった。
展を遂げた。また19世紀末に誕生した石炭乾留成分を
戦時動員は、インドに航空機産業をも導入した。
原料とする合成染料工業は高性能火薬や医薬品等の広
1940年には、輸入部品に基づいて航空機の組立てを行
範な関連産業を持つ戦略産業であったが、日本は第一
うヒンダスタン・アエロノーティックス社がバンガロ
次大戦時の供給途絶を機会に国家的な支援によって技
ールに設立された。1942年には政府が株式の3分の2
術国産化を推進した。
を取得し、以降、インドに駐留する米国陸軍第10航空
これに対して植民地下のインドでは、化学工業発展
の契機となる産業連関は国内において最後まで作り出
隊やイギリス空軍の保有する米国製航空機を中心とす
る修理、補修部品生産に特化していった。
医薬品工業も同様である48)。この面でも、第二次大
されることはなかった。インドは原綿の供給国として、
またインド藍(インディゴ)やラックといった染料の
戦までのインドはやはりイギリスへの原料供給国であ
供給国としてヨーロッパの繊維工業と結びついていた
った。白檀、Myrobalans、まちんの木(nux vomica)
が、自国内において繊維工業と化学工業との相乗的な
等がイギリスへ輸出され、白檀オイル、タンニン酸
発展の時代を迎えることはなかった。インディゴは東
(皮なめしや媒染剤にも使われる)、ストリキニーネ
インド会社の主要輸出品であったし、また藍プランテ
(強心剤)やタイモール(thymol, 防腐剤)へと加工さ
ーションにおける過酷な労働はガンディーをしてサテ
れて輸入された。1939年時点における医薬品の国産化
ィア・グラハ運動に取り組む契機となった。綿工業は
率は高く見積もってもわずか13%であったという。
充分に発達しないまま次第に原綿輸出国となったため
第二次大戦勃発後、ここでも事情は激変した。イン
に漂白剤や染料等の産業を成長させる契機とならず、
ドは一変して連合国の医薬廠と期待されることになり、
また農業部門も肥料の大きな需要家としては成長しな
この結果、1943年における医薬品の自給率は一挙に
かった。代表的な指標を幾つかみると、第二次大戦直
70%にまで高まったという。天然動植物から抽出され
前の硫安生産量はわずか二千トンという状況であった。
る医薬品の種類はストリキニーネ、コデイン、モルヒ
こうしたことから、何人かのパイオニアを例外として、
ネ、カフェイン、アトロピン、エフェドリン等へと一
戦争による供給途絶が襲うまで化学工業はインドで本
気に拡大し、戦後の1951年には、イギリス薬局方に含
格的に発展することはなかった。
まれるアルカロイドの75%がインドで精製・製剤される
ようになったという。血清やワクチンのように生物的
に生産される医薬品の生産体制も拡大した。第二次大
3.7 戦時生産への動員:造船、航空機、医薬品
1936年3月、ヨーロッパ大陸ではナチスドイツがラ
戦中に大きく進歩したサルファ剤のような化学合成薬
-68-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
品や抗生物質については、製造装置等の面で困難に直
ミカル社長に就任したことまで皮肉たっぷりに書かれ
面したが、米国のグレイディー・ミッション訪印後必
ている。こうしたイギリス本国の妨害がなければ、ア
要な機材の提供を受け、サルファチアジン、パラアミ
ジアの兵器廠としての戦時生産を通じてカナダやオー
ノサリチル酸(PAS)
、イソニアジド(I NH)といった
ストラリアが得たような工業生産の基盤を、インドも
結核治療薬も生産されるようになった。これらの医薬
また獲得できたはずだとネールは論ずるのである。
品は製法或いは製品そのものが特許化されていたが、
4.独立インドの科学と技術
戦時下における敵性特許の取り消し或いは強制実施に
より、ドイツの技術が入手可能となったことは大きな
条件であった。またカゼ薬、湿布薬、制酸剤、ぶどう
4.1 輸入代替工業化路線
糖液、標準食塩水、各種ビタミン剤といった基礎薬品
1947年、インドは独立国となった。ネールが嘆いた
の生産規模も国内需要を満たす程度の規模まで拡大し
自前の政府を持たない悲哀はここに解消され、国内産
た。この過程で中性ガラス容器の生産といった周辺産
業保護政策の下で、主要な産業分野には国営企業が設
業技術も確立されていった。このように急速なテンポ
立された。独立運動を主導したインド国民会議派は既
で医薬品生産体制が整備し得たのは、医学、化学分野
に1931年のカラチ総会決議で「重要産業の国有化もし
の基礎的な人材が準備されていたことによるものであ
くは統制」という政策を採択していたが、独立翌年の
ろう。米国でメルク、ファイザー、スクイブが抗生物
1948年にこの政策方針は、
(一)重要産業の国有化を十
質ペニシリンの量産体制に入ったのは1942年のことで
年間留保する、
(二)重要産業分野での国家による事業
あり、日本でも陸軍によって1944年に国産化が行われ
化を促進する、という柱からなる「産業政策決議」と
たところだが、インドでは戦後1955年3月に生産工場が
して定式化された。また1951年に制定された産業(開
稼動した。
発・規制)法により広範な産業分野について事業ライ
センス制度が敷かれた。更に1956年には公企業と民間
企業との間での製造事業分野の割当てが定められた。
3.8 植民地下での工業化の限界:ネールの怒り
既に述べたように、戦時中の生産動員により戦略的
しかしこうした戦時生産にも自ずと限界があった。
ネールの「インドの発見」を読むと、第二次世界大戦
分野における工業生産の核となる産業群は形成されて
に際して、インドに自動車、鉄道車両、燃料用アルコ
いたが、新しい枠組みに基づいて、鉄鋼、化学、造船
ール、医薬品などの広範な製品について十分な戦時生
等の広範な基礎産業分野にも公企業が設立され、ほと
産への対応能力があったにもかかわらず、戦後に競争
んど禁止的ともいえる高率の関税障壁の内側で輸入代
者となることを怖れたイギリス政府が全ての計画を握
替的な工業化政策が推進された。その後の数次にわた
49)
り潰したことに対する強烈な不満が読み取れる 。幾
る自由化政策の下で、民間企業の参入を許す分野は
つかの逸話を拾うと次のようである。
徐々に広げられていったものの、独立インドの工業化
□ サトウキビから取れる糖蜜を用いた燃料用アルコ
は、基本的には、官民の事業分野分担を固定し、厳格
ール生産を行う計画がシェルとバーマ・オイル(ブ
な事業許可制を有する社会主義的な枠組みの下で始ま
リティッシュ・ペトロリアムの前身)の妨害により
ったのである。
実現しなかった逸話
一方、戦後の国際貿易の枠組みは米国主導で構築さ
□ 自動車生産については、第二次大戦前に米国企業
れ、1960年代には初の大規模な多国間関税引き下げ交
の組立て工場が稼動しており、更に部品の国内生
渉であるケネディー・ラウンドが開始された。日本は
産を含む自動車産業育成への技術的支援が内々合
1955年にGATTに加盟し、1960年には「貿易自由化政
意されていたにもかかわらずイギリス本国のイン
策大綱」を制定して自由化に乗り出した。これに対し
ド省がこれを認めなかった逸話
て、インドは1955年にバンドンで非同盟諸国会議
□ 開戦に伴ってドイツからの医薬品・ワクチン輸入が
(NAM)を開催し、ネール首相のもとで第三世界のリ
途絶えた後、「インペリアル・ケミカルから買える
ーダーとして政治的指導力を発揮したが、自由貿易体
のになぜ国内生産をする必要があるのか」として
制への参画には一貫して慎重な対応をとり続けた(但
インド国内生産計画が実現しなかった逸話
しGATTへの加盟は1948年である)
。
最後の逸話には、当時インド総督であったリンリス
ゴウ卿が総督辞任のわずか数ヶ月後にインペリアル・ケ
研究報告 第22号(2000)
-69-
三 上 喜 貴
4.2 科学技術推進体制:軍事研究開発への傾斜
表6 省庁別科学技術関連支出 単位:Clore Rp
独立運動のリーダー達は科学技術の重要性を認識し
ていた。早くも独立直後に、内閣に対する助言機関と
して有力科学者から構成される S A C C(S c i e n t i f i c
Advisory Committee to the Cabinet)が設置され、1958
年3月には科学政策の基本的方針を定めた「科学政策
決議」(Scientific Policy Resolution)が採択された。こ
れに基づいて、重要な産業技術分野には国立研究所が
設立された。1968年にはSACCはより大きな権限を持
った組織に再編され、この新組織は科学技術委員会
(COST)と呼ばれた。委員会の活動を支援する事務局
組織も小規模ながら内閣事務局内に置かれた。これは
後に本格的な行政組織としての態勢を整え、1970年に
科学技術省が設立された。
戦後の五ヵ年計画において科学技術予算はその総予
算比においても一貫して増加してきたが(表5)
、その
内容をみると戦後一貫して「冷戦」下の状態にあるこ
とがわかる。政府の科学技術関連予算を主要省庁別に
示したものが表6である。
表5 五カ年計画における科学技術予算:Clore Rp
インドの政府組織は複雑膨大である。
「省」と名のつ
く行政組織だけで36機関あり、多くの省の場合、その
下に「部」と呼ばれる行政組織が置かれている。科学
技術省の場合にもその一部として科学技術部がある。
この他に省と同列とみなされている部が、原子力、エレ
クトロニクス、海洋開発、宇宙の各分野について存在し、
また工業製品及びエネルギーに関する物資別の省だけ
でも、化学品・肥料、食料品工業、鉄鋼、繊維工業、工
業全般、鉱山、石炭、新エネルギー、石油・天然ガス、
電力と、合計10部門に及ぶ。そして研究開発資金の最
大の使用者は国防省であり、1992/93年度の研究開発支
出額は991クロール、中央政府全体の研究開発支出額の
25%に相当する。原子力エネルギー部及び宇宙部の支
出額まで含めれば中央政府全体の支出額の46%となる。
-70-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
科学者・技術者の雇用構造から見ても軍事シフトは
られていた事業分野にも民間企業の参入が許される事
顕著である。表7に政府、大学、民間の各部門別の科
例は増えてきているものの、依然として重要な産業分
学技術者数を示す。少しデータは古いが合計20万人の
野にはほとんど国営企業が存在ししており、またその
科学者・技術者のうち、原子力、国防、宇宙の三部門だ
経営状態は少数の例外を除いて政府の補助金浸けとな
けで四分の一を占める。エレクトロニクス関係なども
っているのが実態である。
軍事研究部門の比率が高いから、実際には更に高い比
表8には、産業分野ごとに、研究開発活動を行って
率となっているであろう。しかし、こうした冷戦型の
いる企業の数及び使用している研究開発費の統計を示
科学技術推進体制が生まれるに至った背景については、
す。
後編の原子力技術、宇宙開発技術の項で詳しく述べる
こととしたい。
4.4 輸出加工区の成果
輸出加工区或いは輸出特区を設けて外国資本と技術
表7 各部門に雇用された科学者/技術者数の推移
を呼び込み、併せて輸出外貨を獲得しようとの試みは
アジアの彼方此方で見られた。マレーシアではペナン
が保税区を作って成功し、中国は文革後の70年代末に
深 等を経済特区に指定した。
インドでも1965年に最初の輸出加工区がカンドラ港
に設置された。その後1973年にはボンベイに電子工業
製品の輸出促進を目的としたサンタクルス輸出加工区
が設置され、更に1983年にはデリー近郊、コーチン、
マドラス、カルカッタの四つの輸出加工区がスタート
した。インドの国際空港はデリー、ボンベイ、カルカ
ッタ、マドラスの四空港であり、海の玄関である国際
貿易港としてはボンベイ、カルカッタ、マドラス、コ
ーチン、カンドラ等がある。六つの輸出加工区はこれ
らの国際的アクセスポイントを全て網羅した形となっ
4.3 国営企業と民間企業
ているわけだ。
もうひとつインド経済に特徴的なのは広範囲にわた
筆者はニューデリー近郊のノイダ輸出加工区
る国営・公営企業の存在である。90年代に入ってから
(NEPZ: Noida Export Processing Zone)とボンベイのサ
の自由化政策のもとで従来国営企業のみに活動が認め
ンタクルス加工区(SEEPZ: Santacruz Electronics Export
Processing Zone)を訪ねたことがある。これらの輸出
表8 産業界における研究開発活動
加工区の輸出額は確かに高い成長を示しているものの、
6ヶ所の輸出加工区の輸出額合計はインド全輸出額の
3%(1994/95年)を占めるに過ぎず、また輸出加工区
のもう一つの目的である「外資の導入」という点でも
あまり成功を収めたとは言えない。このことは次の表
にも端的に表れている。次表は6ヶ所の輸出加工区に
設立された企業の内外資別内訳を示したものだが、輸
出加工区創設以来1994年3月末までの累積投資件数453
件の内72%にあたる327件は国内資本によるものであ
り、100%外資はわずか21件に過ぎない。投資額でみて
も同様であり、累積投資額71,689ラクのうち外資は約
9%のみ、俗に「印僑」と呼ばれる在外インド人
(NRI: Non Resident Indians)の投資を含めても16%に満
たない。中国の経済特区において外資の比率が圧倒的
に高いことと比べて際立っている。
研究報告 第22号(2000)
-71-
三 上 喜 貴
表9 内外資別にみた輸出加工区への投資件数と投資額(1994年3月31日現在までの累積)
その背景にあるのは中央、地方両レベルにおける政
しかしインドの高等教育を全体としてみると、工学
府の不透明な規制、インフラの不足である。1991年に
部門の比率は低い。インドの高等教育において特徴的
ラオ政権が自由化政策に踏み切って以降、ゆっくりと
なことは、イギリスの伝統を引いてリベラル・アーツ重
したテンポではあるが国営企業の民営化、規制緩和も
視であり、理学部門の比重がきわめて高く、工学部門
進行しつつある。しかし自由化政策は輸出加工区だけ
の比率が低いことである。例えば1989年の大学生総数
を対象にしたものではないから、今後の自由化効果は
は約500万人であったが、このうち、理学部学生数が90
加工区に限定されない。インドにおける輸出加工区は
万人であったのに対して、工学部学生数はわずか22万
不十分な開花のままその役割を終えるのかもしれない。
人に過ぎない。工学部門の博士課程修了者に至っては
わずか560人という状態にあった(表10)
。
4.5 独立後の高等教育:インド工科大学
独立後のインドにおける工学教育を担ってきたのは、
表10 自然科学系卒業者の学位別構成(1989年)
主要都市に設立されたインド工科大学(IIT: Indian
Institute of Technology)である。1950年代末までに、
カラクプール、ボンベイ、デリー、カンプール、マド
ラスの五ヶ所にインド工科大学が設立された。本学も
1999年から、マドラス校との間に学術交流協定を締結
している。
インド工科大学の設立はまずカラクプール校から始
まった。当初インド政府は独力で設立することを目指
したが、途中からUNESCOの援助を得ることになり、
4.6 海外留学
1950年に開校した 。その後インドは資金及び教授陣
50)
一方、米国で博士号を取得しているインド人学生は、
の確保を図るために各国に協力を求め、まず旧ソ連が
理工学部門の合計で見ると近年では毎年千人を超えて
ボンベイ校の設立に協力を表明し、これが呼び水とな
いる(表12)
。UNESCOでは主要50カ国の受入留学生数
って米国、西独、イギリスが各地の工科大学設立を支
を毎年出身国別に調査・集計し、発表している。1997年
援することとなった。例えば米国の支援したカンプー
版UNESCO統計によれば、インド人学生の留学先は表
ル校の場合、派遣した教授陣、専門家の数は20人を超
11に示すような構成となっている。合計約4万人近い
51)
え、援助総額は1400万ドルに達したという 。米国は
留学生の80%に相当する31,743人が米国に留学してお
PL480による援助等を通じてAll India Institute of Medical
り、留学先としては米国が圧倒的に高いシェアを占め
Sciencesやインド工科大学カンプール校の設立を支援し
る。これに次ぐのはイギリス、ウクライナ、カナダで
た。マドラス校の場合、設立当初から西ドイツが援助
あるが、いずれもやっと千人を超える規模に過ぎない。
を行っていたが、援助規模はむしろ60年代末から70年
因みに日本はわずか167名を受け入れているに過ぎず、
代初めにかけて最盛期を迎え、多数の器材供与と教官
インド人学生にとっては11番目の選択肢であるに過ぎ
派遣が行われたという。
ない。
-72-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
表11 インド人学生の留学先上位11カ国
推移を示す。1995年における博士号取得者の総数は
26,500人であり、そのうち約一万人が外国人学生であ
る。そしてこうした外国人学生の内、インド人学生は
台湾の学生に次ぐ規模を示してきた。
なお余談であるが、80年代末以降中国本土の留学生
が急増しており、特に天安門事件以降その数は著しく
増加して1990年以降はトップとなった。1994年以降に
永久ビザ資格の留学生が急増しているのは、中国人学
米国に留学するインド人学生はその多くが修士、博士
生の受け入れを米国政府が政策的に促進しているため
課程へと進学する。表12に米国NSF調査による、米国
である。
の大学で博士号を取得した外国人学生の国籍別内訳の
研究報告 第22号(2000)
-73-
三 上 喜 貴
4.7 頭脳流出
ノーベル賞財団は、受賞者の発表にあたって、受賞
米国留学した後、そのまま米国の市民権を取得して
者の国籍ではなく、受賞時点での滞在国を発表してい
米国で働くケースも多い。表14は永久ビザで米国に入
る。このような基準に従えば、アジアのノーベル賞受
国する外国人技術者・科学者の推移を示したものであ
賞者(自然科学系の三部門に限る)は1998年までの累
る。米国の科学者・技術者社会に加わる、毎年二万人
計でわずか5人である。一方、受賞者の出生地を基準に
を超える外国人の中でインド人は常に2割近い比率を占
して考えれば、アジア人のノーベル賞受賞者(自然科
めている。
学系の3賞に限る)は1998年までの累計で13人となる。
その国別の内訳は日本人が5人、中国人が4人、そして
表14 永久ビザで米国に入国する技術者・科学者
インド3人とパキスタン人一人である。このほか文学賞
も入れれば、1913年にアジア人として初めてのノーベ
ル賞受賞者となったインドの詩人タゴールがいる。
ラマンについては既に触れたので繰り返さない。残
りのふたりは研究生活をイギリスと米国で送った頭脳
流出組である。1983年に物理学賞を受賞したチャンド
ラセカール(Subramanyan Chandrasekhar, 1910-1995)
は1930年にマドラス大学を卒業し、1933年ケンブリッ
ジ大学で博士号を取得した後同大学トリニティー・カレ
ッジのフェローとなる。1937年からシカゴ大学に移り、
その後の研究生活を米国で送っている。恒星進化の物
理過程の理論的研究で受賞した。
また1968年に生理学医学賞を受賞したコラナ(Har
こうした人材の中には、純粋に研究生活を送る目的
のものもいれば、ビジネスを目的とするものもいる。
Gobindo Khorana)も頭脳流出組である。遺伝情報の解
読とそのタンパク合成への役割の解明で受賞した。
1994年7月に米国シカゴで開かれたある会議において、
インド科学者会議会長のパクラシ(S.C. Pakrashi)は
4.8 在外インド人
「『ブレイン・ドレイン』は、
『ブレイン・イン・ザ・ドレ
戦後におけるインド人の海外進出は、独立後のイギ
イン』より救われる」と述べた。しかるべき才能が母国
リスへの移住に始まり、1960年代後半には東アフリカ、
で機会を得られずに埋もれてしまうよりは、母国の外
特にウガンダ、ケニヤからイギリスへの大規模な移住
でも良いから機会を得て活躍する方が望ましい、とい
があった。そして80年代には米国への移住が急増した。
うわけだ。実際、インド人の頭脳流出は相当規模に達
それはインドシナ移民の規模を上回るものであったと
している。ひとつの象徴としてノーベル賞受賞者をみ
いう。最近の米国のセンサスによれば、インド移住者
てみよう。
第一世代の世帯あたり平均所得は五万ドル以上であり、
表15 アジア人のノーベル賞受賞者一覧(自然科学系3部門)
-74-
長岡技術科学大学
技術大国インドの研究:前編
移住者グループの中で最も高い52)。
ベクトルシャイム、マクネリ、ジョイの四人は同い年
インドの新しい企業家群像を書いた英国のジャーナ
である。コースラ自身は1984年にサンを去っている。
リスト、クラウディア・クラッグは「彼らのノウハウな
企業家として成功したこれらの人々のみならず、研
くしては、シリコンバレーも立ち行かなくなる」と述
究者として業績をあげた在外インド人も数多い。数年
53)
べている 。在外インド人の活躍はホテル業界、流通
前、線形計画法の画期的解法が発明され、これが特許
業等で顕著であるが、最も多くの成功者を見るのはコ
申請されて話題になった。数学公式は特許とならない、
ンピュータ業界である。
という伝統的な考え方が修正され、結果的にこの解法
デリーで開かれたコンピュータ関係のシンポジウム
は特許として登録された。この画期的解法はベル研究
でのことである。筆者はある若者と名刺交換した。名
所の若きインド人研究者カーマーカー(Narendra
刺にタンドン某とあったので「もしや」と思って、
「フ
Karmarkar、1956- )の発明になるものである。彼はイ
ロッピー・ディスクのタンドン博士は御親戚ですか?」
ンド工科大学の電気工学科を卒業した後直ちに米国に
と聞いてみた。彼の答えは「ええ、父です」という、
留学し、カリフォルニア工科大学で修士号(1979年)
まことにあっさりとした答えであった。筆者の尋ねた
を、カリフォルニア大学バークレー校計算機科学科で
タンドン博士とは、パーソナル・コンピュータ用の外部
博士号(1982年)を取得した。そして翌年ベル研に迎
記憶装置フロッピー・ディスクの発明者である。
えられ、一年もしない内にこの解法を考案したという。
現在の米国コンピュータ産業で活躍しているインド
因みに彼の父親は数学者、母は歴史学者、そして叔父
人は推挙にいとまが無い。インテルについて書かれた
はC.V.ラマンというから、大変恵まれた血統に生
ノンフィクション「インサイド・インテル」には「ペ
まれた若者である56)。
ンティアム・プロジェクト全体の皇帝で、インテルの副
社長でもあるインド生まれのエンジニア」としてヴィ
4.9 義務教育
54)
本編の最後に基礎教育の問題について触れておこう。
ノド・ダーム(Vinod Dham)が登場するし 、同じヴ
ィノドだが、ヴィノド・コースラ(Vinod Khosla)はオ
独立後の1950年に制定されたインド憲法は、その第四
ープンシステムズの理念をコンピュータ市場に定着さ
編「国家政策の指導原則」の中で「児童に対する無償
せたワークステーション・メーカ、サン・マイクロシス
の義務教育」について書いている。第45条には、
「国は、
テムズの創業者である。コースラは1956年にニューデ
この憲法の施行後10年以内に14歳までの全ての児童に
リーで生まれた。インド工科大学の電気工学科を卒業
対し、無償の義務教育を行うよう務めなければならな
し、カーネギーメロン大学で生物医学工学の修士号を
い。
」とある。
とった後、スタンフォード大学のビジネス・スクールへ
しかしながら、実際のところ憲法のこの規定は未だ
やって来た。
(彼はまずデイジー・システムというコン
に実現の見通しが立たない。1990 年に実施された第五
ピュータ・メーカの設立に手を貸した。デイジーはコン
回全国教育実態調査では、全国の6−14歳児(これだ
ピュータ設計者のためのツールであるCAE用のシステ
けでも1.5億人∼1.6億人)の約半分しか就学しておらず、
ムを作っている会社であった。
)コンピュータ技術に精
人口過密な幾つかの州では就学率が更に低いことが明
通し、企業家精神旺盛な彼は標準化された部品や技術
らかにされた。特に女子の未就学率が高く(62%)
、非
を使ってワークステーションを作ることは十分可能だ
都市部の場合こうした未就学児はいまなお生活時間の
と考えた。当時マサチューセッツでアポロ・コンピュー
29%を「薪拾い」に、生活時間の20%を「水汲み」に
タがワークステーションと名付けたコンピュータを市
使っているとの結果も明らかとなった57)。筆者がイン
場に送り出したばかりであったが、彼はスタンフォー
ド各地で農村を歩いた時の実感はまさにこの数字の示
ド大学博士課程にいたアンディー・ベクトルシャイムと
すところであった。これもまた、現代インドのひとつ
知り合い、同じような考えを持っていることを知った。
の実態なのである。
彼は三人目の社員としてスタンフォードのビジネスス
クール時代の同級生であったスコット・マクネリを誘
以上 前編おわり
い、また当時「UNIXの魔術師」と呼ばれていたカリフ
謝辞:インド切手の収集については、友人Narayanan氏
ォルニア大学バークレー校の博士課程にいたビル・ジョ
の協力を得た。ここに感謝を表したい。
イ(有名なUNIXバークレー版の主設計者であった)を
説得してサンの設立に漕ぎ着けた55)。因みにコースラ、
研究報告 第22号(2000)
1)レンネルの業績については次書に詳しい紹介がある。ハットン
-75-
三 上 喜 貴
やライエルに与えた影響についての解説も同書による。Zaheer
Baber, The Science of Empire: Scientific Knowledge, Civilization, and
Colonial Rule in India, State University of New York Press, 1996,
pp.136-146
2)James Hutton, Theory of the Earth, with Proofs and Illustration, 1795
3)バナールは当時の思弁的地質学の様子を次ぎのように記してい
る。「大地とその化石についての思弁は、十八世紀になって自然
界への関心の一般的増大とともに着実に育ってきた。実は、も
っと早い時代から、山に貝殻が見つかることは海があったこと
を暗示しているという考えが、古代の生物についての憶測を生
み出していたが、従来はこの問題全体がすべてノアの洪水のせ
いにすることによって手軽にかたづけられていた。
」(p.391)
4)バナール、『歴史における科学』、鎮目恭夫訳、みすず書房、
p.387
5)G. S. Aurora , Scientific Community of India , Amrita Prakashan
Bombay , 1986, p.49
6)風間喜代三(1978)、『言語学の誕生:比較言語学小史』、岩波新
書、p.13
7)浅田実、「商業革命と東インド貿易」、法律文化社、1984年、118
頁。
8)筆者はシンガポール駐在員時代にこのテーマに関して小文を書
いたことがある。三上喜貴「歴史の中の植物園」、シンガポール
日本人会機関誌『南十字星』、1997年2月号、pp.39-49
9)Zaheer Baber(1996), pp.160-170
10)Zaheer Baber(1996), pp.187-190には植民地官吏達による多くの
証言が記録されている。
11)Hermann Kulke and Dietmar Rothermund, A History of India, Rupa &
Co., 1991, p.269
12)インドにおける鉄道の歴史については、Jaggi, Technology in
Modern India, pp.7-33によった。
13)Daniel R.Headrick, The Tentacles of Progress: Technology Transfer in
the Age of Imperialism, Oxford University Press, 1988, p.60
14)Hermann Kulke and Dietmar Rothermund(1991), p.269
15)Karl Marx, The Future Results of the British Rule in India, in Karl
Marx and Friedlich Engels, 1976, p.84
16)Kulke (1991), p.270
17)O.P.Jaggi, Technology in Modern India, 1984, Atma Ram & Sons,
Delhi, p.34-53
18)三枝音博他、『近代日本産業技術の西欧化』、東洋経済新報社、
1960年、162-163頁。
19)灌漑事業及びトマソン工科大学に関する本項の記述にあたって
は、次書から多くを引用させていただいた。多田博一氏、「イン
ドの大地と水」、日本経済評論社、1992年。
20)Zaheer Baber (1996), pp.205-207
21)ハリドワールはヒンドゥーの七大聖地の一つである。ガンジス
河はここで狭い峡谷を抜け出て一挙に川幅を広げる。川道も安
定しており、住民はこの分流から水路を引いて飲用、家事、精
米、製粉、灌漑等に用いていた。
22)J. Nehru, The Glimpses of World History, Oxford University Press,
1934-35, p.455
23)幕末留学生については次項注資料による。在外研究員制度に基
づく派遣数については、文部省「文部統計摘要」昭和三年度版
(明治8年度から昭和3年度まで)及びその後の各年版による。
24)手塚晃他、「明治期における西欧科学文明の日本社会への取り込
みの構造の研究」、埼玉大学大学院政策科学研究科、1986年、
p.34
25)バナールはボーズの業績を次のように位置づけている。「電磁波
は、その本性と諸性質についてのマクスウェルの理論に従って
1886年にヘルツによってつくり出された。電磁波が実際の通信
に使われたのは、やっと19世紀の末になってからである。その
ときまでに、電磁波がまきおこした興味によって、多くの国で
いろいろな試みが行われ、成功をおさめた。そのなかには、イ
ギリスのオリヴァー・ロッジ、ロシアのポポフ、インドのボーズ
による試みなどをかぞえることができる。」(鎮目恭夫訳「歴史
における科学」、p.402)
26)Hugh G.J. Aitken, The Continuous Wave: Technology and American
Radio, 1900-1932, Princeton University Press, 1985, p.29
27)八杉龍一『生物学の歴史(下)』、NHK、p.86の病原菌発見に関
する年表を参照した。
28)ウィリアム・H・マクニール、『疫病の世界史』、新潮社、1985、
p.234-237、原著:William H. McNeill, Plagues and Peoples, 1976
29)富士川遊、「日本医学史綱要2」、東洋文庫版、p.155
30)David C. Knight, Robert Koch: Father of Bacteriology, Chatto &
Windus, London, 1963, pp.98-102
31)Encycropedia Britannica の Yersinに関する記事による。
32)Haffkine Bio Pharmaceutical Corporation Ltd.の会社概要(1996)。
33)Who's Who
34)フランソワ・ドラポルト著、池田和彦訳、「黄熱の歴史」、みす
ず書房、1993年
35)『科学朝日』編、「ノーベル賞の光と陰(増補版)」、朝日新聞社、
1987年、127∼137頁。
36)バンコク・スネーク・ファームのパンフレット(1997年)。この
研究所は現在タイ赤十字科学部となっている。
37)Kingsley Davis, The Population of India and Pakistan, Princeton, 1951
38)スミット・サルカール、「新しいインド近代史(I)」、研文出版、
1993年、150頁。
39)Aurora, p.54
40)Aurora, p.53
41)The Portrait of A Scientist - C.V. Raman, Indian Academy of Sciences,
1988, p.29
42)O.P.Jaggi(1984), pp.139-140
43)ラマンの生涯については、生誕百年を記念して出版されたイン
ド科学アカデミー編集によるラマン伝によった(Indian Academy
of Science, C.V. Raman: A Pictorial Biography, Bangalore, 1988)
。
44)インドにおけるアカデミー組織としては以下のようなものがあ
る。
Indian Academy of Science, Bangalore (1934):
Indian National Science Academy, New Delhi(1935):設立時の
名称は National Institute of Sciences of Indiaであった。後に現名称
となる。
Indian National Academy of Engineering, New Delhi:
National Academy of Sciences, Allahabad (1930):
Indian Science Congress Association, Calcutta:
National Academy of Engineers, New Delhi:
45)The Portrait of A Scientist - C.V. Raman, Indian Academy of Sciences,
1988, p.19
46)三上敦史、1993、「インド財閥経営史研究」、同文館、p.159
47)中村平治、南アジア現代史Iインド、山川出版社、1977、p.75
48)この項の記述は主としてJaggi(1984), pp.236-238による。
49)Nehru, Discovery of India, pp.402-414
50)http://www.iitkgp.ernet.in/about/history/index1.html
51)S.Chandrasekhar, American Aid and India's Economic Development,
Frederick A.Praeger, 1965
52)Claudia Cragg,The New Maharajahs: The Commercial Princes of India,
Pakistan & Bangladesh, Arrow Books, 1997, p.87
53)Claudia Cragg(1997), p.85
54)ティム・ジャクソン著、渡辺了介他訳、インサイドインテル(下)
、
1997、翔泳社、p.208
55)マーク・ホール/ジョン・バリー、「サンマイクロシステムズ:
UNIXワークステーションを創った男たち」、アスキー出版局、
1991(原著:Mark Hall & John Barry, SUNBURST: The Ascent of
Sun Microsystems, 1990)
56)今野浩 (1995)、「カーマーカー特許とソフトウェア」、中公新書、
p.10
57)A.S.Dasan and Bhamy V.Shenoy (1993), India: The People
betlayed, Goodwill Fellowship Academy, Mysore
-76-
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