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『少年日本』掲載の山本伸一郎「ペスタロッチ」について(2)

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『少年日本』掲載の山本伸一郎「ペスタロッチ」について(2)
創価教育研究第6号
『少 年 日本 』 掲 載 の
「
山本 伸 一 郎 ペ ス タ ロ ッチ 」 に つ い て(2)
伊 藤
貴
雄
は じめ に
1少
年 雑 誌 に執 筆 した経 緯
(1)『 少 年 日本 』 につ い て
(2)著
2若
者 の 回想 か ら
き池 田の な か のペ ス タ ロ ッチ
(1)探
究 の鍵 と して の 「
読 書 ノー ト」
(2)『 シ ュ タ ン ツ便 り』 とい う著 作
(3)注
入 教 育 批判
(4)人
間教 育
(5)『 隠 者 の 夕暮 』 とい う著 作
(6)人
3山
類 の悲 願 と して の教 育
本 伸一 郎 「
大教育家
(1)平
和=非 戦
(2)母
の感 化
(3)人
間教育
(4)人
類 の進 歩 の た め に
ペ ス タ ロ ッチ 」 を読 む(以 下本 号)
むすび に
3山
本 伸 一 郎 「大 教 育 家
ペ ス タ ロ ッチ」 を読 む
これ ま で の とこ ろ本 稿 は、雑 誌 『少年 日本 』1949(昭
和24)年10H号
に掲 載 され た 山本 伸 一 郎
(これ は 同誌 の編 集 長 を務 めて い た 池 田大作 のペ ンネ ー ム で あ る。 それ ゆ え、 本 稿 で は 基本 的 に
「
池 田」 と略記 す る)の エ ッセ ー 「大 教 育 家
ペ ス タ ロ ッチ 」 に 照準 を定 め、 そ こに込 め られ た
メ ッセ ー ジ を精確 に読 解 す べ く、"準 備 作 業"を 進 め て き た(1)。 これ か らい よい よ"本 作業"に
(1)拙 稿 「
『少年 日本 』掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タ ロ ッチ 」に つ い て(1)」
31-62ペ
線 は す べ て 本 稿筆 者 に よ る。 ま た[]内
TakaoIto(創
『創 価 教 育 研究 』第4号
、2005年 、
ー一
一
ジ を参 照 の こ と。 なお 、 本 稿 にお い て も、 引 用 文 中 で は 漢字 ・か な を現 代表 記 に 改 め た。 下
は本 稿 筆 者 の 挿 入 で あ る。
価 教 育研 究所 講 師)
一1一
『少 年 日本 』 掲載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タ ロ ッチ 」 につ い て(2)
入 る こ とに な るが 、 そ れ をス ム ー ズ に遂 行 す るた め に も、 い っ た ん ここ で、 今 ま で の論 述 で 明 ら
か に な っ た こ とを整 理 して お き た い。
第1に
、エ ッセ ー 執 筆 ま で の経 緯 にっ い て 。
こ のエ ッセ ー は 、 も とも と別 の 作家 が執 筆 す る予 定 だ っ た。 池 田 宣政(以 下 、 本稿 主 題 の池 田
と区別 す る た め 、 フル ネ ー ム で記 す)と い う大 衆 作 家 で 、2年 前 の1947(昭
父
和22)年
に 『孤 児 の
ペ ス タ ロ ッチ 』とい う評 伝 を上 梓 して い た。と ころ が校 了 間 際 に な っ て彼 の原 稿 が得 られず 、
急遽 、編 集 長 池 田み ず か ら、原 稿 を書 くこ とにな った の で あ る(こ の とき 山本 伸 一郎 とい うペ ン
ネ ー ム が使 用 され た)。 池 田はす で に1947(昭 和22)年
こ ろ(=19歳)、
長 田新訳 『隠者 の 夕暮 ・
シ ュ タ ンツ だ よ り』 を読 んで お り、 当時 の 「
読 書 ノー ト」 に は そ こか ら5つ の 文 章 が抜 き書 き さ
れ て い る。 エ ッセ ー 執 筆 の際 には この ノー トも活 用 され た 。
第2に 、若 き 日のペ ス タ ロ ッチ 体験 につ い て 。
池 田が19歳 の とき に どの よ うにペ ス タ ロ ッチ を読 ん で い た か を 、「
読 書 ノ ー ト」を も と に再 構 成
す る と、3っ の キ ー ワ ー ドが 浮 か び 上 が っ て くる。 す な わ ち 、 《直 観 教 授 》 と 《人 間教 育 》、 そ し
て 《人 類 の 浄福 》 で あ る。直観 教 授 とは 、 「
子供 を取 り巻 く 自然 や 、子 供 の 日常 の要 求 や 、いつ も
活 発 な 子供 の 活動 そ の も の」 を陶 冶 の 手段 とす る教 育 で あ る。 ま た 、人 間 教 育 とは 、"子 ど もた ち
の 幸 福 が 教 師 の 幸福 で あ り、子 どもた ち の喜 び が 教 師 の 喜 び で あ る"よ うな家 庭 的環 境 で 、子 ど
もた ちの 知 性 や価 値 観 の基 礎 を は ぐくむ こ とで あ る。 こ うした"自 然 な"方 法 に よっ て 、す べ て
の人 間 が 幸 福 に な る力 を 手 にす る こ とが 、教 育 の 目的 で あ る とペ ス タ ロ ッチ は述 べ て い る。 軍 国
主 義 の 暴威 に苦 しめ られ た池 田 に とって 、 こ う した 民 主 的 な 教 育 思想 は 、新 生 日本 の 未 来 に つ い
て 思 索 す る うえ で 大 き な 手 が か り となっ た はず で あ る。
以 上 が 本稿 前 回 分 の要 約 で あ る。
これ で よ うや く、21歳 の池 田 のエ ッセ ー 「
大教育家
ペ ス タnッ チ 」 を読 む た めの 準 備 作 業 が
整 った こ と にな る。19歳 の池 田 の脳 裏 にあ っ たペ ス タ ロ ッチ 像 をほ ぼ 明 らか にで きた の で 、本 稿
と して は、 そ の 像 を念 頭 に置 きつ っ 、 同 エ ッセ ー を読 解 す れ ば よい の で あ る。 ペ ス タ ロ ッチ に 関
す る池 田の 《原 印 象 》 とい う レン ズ を通 して 、 同エ ッセ ー を読 ん だ とき に 、 いか な るメ ッセ ー ジ
が浮 か び 上 が って く るだ ろ うか。 あ わせ て 、 当時 書 店 に 出て い た 代 表 的 なペ ス タ ロ ッチ 伝 と比 較
対 照 す る こ とで 、 池 田の描 くペ ス タ ロ ッチ 像 の特 徴 を把 握 して み た い 。 この作 業 を通 して 、 池 田
教 育 思 想 の 《原 型 》 をつ か む と と もに 、若 き池 田の ペ ス タ ロ ッチ 体 験 が教 え る"読
書 の 意 義"な
い し"教 養 の役 割'に 傾聴 し よ う とい うの が 、本 稿 の企 図 で あ る。
(1)平
和=非 戦
それ で は 、 さっそ く、 本 文 の読 解 に取 りか か ろ う。
エ ッセ ー の 内容 は、 「
一 、尊 い 塑 像 」 「
二 、 見込 み な い少 年 」 「三 、失 敗 また 失 敗 」 「
四 、ここに
天 職 あ り」 「
五 、五 十 三 歳 で 認 め られ る 」の5つ の 部分 か ら成 っ て い る。 これ らの小 見 出 しか ら も
分 か る よ うに 、池 田 は 、限 りあ る 紙幅 の なか で ペ ス タ ロ ッチ の生 涯 全 体 をス ケ ッチ して い る。 本
稿 第1節 で述 べ た よ うに、『少 年 日本 』10月 号 の前 号 に あ た る 『冒険 少 年 』8月 号 に は、次 号 予 告
一2一
創 価教 育研究第6号
として 「大教 育家
ペ ス タ ロ ッチ の 少年 時代
池 田宣 政 先 生 」 とあ る か ら、 も しも 当初 の予 定 通
りに池 田宣 政 が執 筆 して い た な ら ば、も っ と少 年 時 代 に 限定 した 内 容 に な って い た か も しれ な い。
い や 、 そ れ ば か りか 、話 の力 点 の置 き方 か ら してず い ぶ ん と異 な っ て い た に ち が いな い 。2年 ま
え に発 刊 され た池 田宣 政 の 『孤 児 の父
ペ ス タ ロ ッチ』(1947[昭
和22]年 、世 界 社)を ひ も と く
にっ け、 そ う推 測 せ ざ る を え ない 。 だ が 、 この こ とにっ い て は の ち ほ ど詳 述 しよ う。
以 下 、 山 本 伸一 郎(=池
田大 作)著
「大教 育 家
ペ ス タ ロ ッチ 」 の 中身 を 、小 見 出 し ご と に順
に見 て い きた い。 まず 本 文 を掲 げ 、そ の あ と本 稿 筆 者 な りの注釈 を加 え させ て い ただ く。
「
一 、 尊 い塑 像
平 和 な 国 ス イ ス。 スイ ス とい う名 前 を 闘い た だ けで も私 達 の心 は、 あ の雄 壮 な アル プ ス の 山々 につ つ
ま れ た 、 絵 の よ うに静 か な 国 を 思 い 出 さず に は い られ ま せ ん。/今
か ら約 百 五 十 年 前 、 この ス イ ス が あ
の有 名 な大 教 育 家 ペ ス タ ロ ッチ を生 んだ ので あ りま す 。 今 目 もス イ ス のイ ー フ ェル ドン には 、ペ ス タ ロ
ッチ を記 念 した 一 つ の塑 像 が建 て られ て居 りま す 。 そ して 、 そ の 台石 に は次 の様 な文 字 が 書 か れ て あ り
ます 。『ニ ュ ー ホ ー プ に於 て は貧 者 の恩 人 、ス タン ツ に於 て は孤 児 の 父 、ブ ル グ ドル フ に於 ては 国 立 学 校
の創 立 者 、 イ ー フ ェル ドンに 於 て は 人 民 の師 … …人 の為 には 万事 を尽 し、 己れ の為 に は何 もの を も止 め
ず 』 と、そ れ は実 にペ ス タ ロ ッチ の 一 生 を物 語 っ て居 る もの で あ りま す。 あ あ な ん と尊 く偉 大 な 大 教 育
者 の 姿 で あ りま し ょ う」(2)
冒頭 に、 「
平 和 な 国 ス イ ス 」 とあ る。何 気 ない 一 言 の よ うに思 え る か も しれ ない が 、一 個 の思 想
家 と して の池 田大 作 を研 究 しよ う とす る とき 、 こ の短 い フ レー ズ も じつ に象 徴 的 な意 味 を帯 び て
響 い て く る。 何 度 も い うよ うに この エ ッセ ー は 、池 田が社 会 に 向 け て発 信 した 初 めて の 文 章 な の
で あ り、 そ の 冒頭 が 「
平 和 」 の 二 字 で 開始 され てい る とい う事 実 を 、軽 々 に見 過 ご して は な らな
い と思 うの で あ る。 しか も こ の二 字 は 、ペ ス タ ロ ッチ とい う人物 の形 象 を介 して 、 「
教 育 」の 二 字
とセ ッ トで 用 い られ て い る。 後 年 池 田が創 価 大学 の創 立 に あた り、基 本 理 念 の1っ に 「人類 の 平
和 を守 る フォ ー トレス(要 塞)た れ 」 とい うモ ッ トー を掲 げた(1969[昭
和44]年5月)こ
とを
想 起 した い(3)。 な に も本 稿 筆 者 は 、 こ の理 念 と上記 引用 文 とを短 兵 急 に結 びっ け た い わ け で は
な い が 、 しか し、 両者 を ま っ た く無 関係 の もの と見 なす こ ともで き な い。 そ の こ とは 、 い ま か ら
述べ る事 実 に よ って理 解 され る で あ ろ う(ち なみ に池 田は 、さ き のモ ッ トー とあ わせ て 、 「
人間教
育 の最 高 学 府 たれ 」「新 しき 大 文化 建 設 の揺 藍 た れ 」 とい う2っ の基 本 理 念 を掲 げ て い る 。これ ら
とペ ス タ ロ ッチ と の関連 性 も、 いず れ 本 稿 の展 開 と と もに浮 か び 上 が って くる で あ ろ う)。
*
ま ず 注 目 したい 点 は、 上記 引 用 文(下 線 部)に お い て 、池 田が 「
平 和 」 とい う言 葉 を 、 「
非戦」
ない し 「非暴 力 」 の意 味 で 用 い て い る とい う事 実 で あ る。 一一見 当然 の こ との よ うに思 え る こ の事
(2)『 少 年 日本 』1949(昭
和24)年10月
号 、85ペ
ー ジ。
(3)『 創 立 者 の 語 ら い 』 創 価 大 学 学 生 自 治 会 編 、1995年
、31ペ
-3一
ージ。
『少 年 日本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タロ ッチ 」 に つ い て(2)
実 も 、時 代 の文脈 を考 慮 す る と じっ は大 き な意 味 を持 っ て い る。 本 稿 筆者 もか っ て牧 口常三 郎 の
戦 時 下抵 抗 を扱 っ た論 考 に お い て 報 告 した こ とが あ るが(4)、 日中 戦争 開 始 か ら太 平 洋 戦 争 終 結
に 至 る まで の8年 間(1937-1945年)に
日本 人 が 用 い た 《平 和 》 とい う言葉 は 、今 日多 くの人 が
イ メ ー ジす る よ うな"反 戦"の 意 味 を持 って い な か っ た。 そ の か わ り、《平 和 の た め の戦 争 》 とい
う言 葉 が政 府 や マ ス ・メ デ ィア に よ って 日々 連 呼 され 、悲 しい か な 、平 和 の 二字 は"聖 戦 のス ロ
ー ガ ン"と 化 して い た の で あ る。 も ち ろ ん、 戦争 の 大義 名 分 として 平 和 を掲 げ る傾 向 は それ 以 前
に もな い わ けで は な か っ た が 、 こ の傾 向 を決 定 づ け た の は 、本 稿 筆 者 の見 る と ころ 、 日中戦 争 開
始2ヵ 月 後 の1937(昭 和12)年9Aに
昭 和 天 皇 が発 した 「
支 那 事 変 に関 す る勅 語 」で あ る。 戦 争
の 目的 を 「中華 民 国 ノ反 省 ヲ促 シ 、速 二東 亜 ノ平和 ヲ確 立 セ ム 」(5)こ とに あ る と した こ の勅 語 を
受 け て 、翌 年9月
には警 保 局 が 「
新 聞指 導 要 領 」 を発 表 し、 こ の 目的 を遂行 す る た め の言 論 活 動
をメ デ ィア 界 に命 令 す る(6)。 これ 以 降 、 戦争 協 力者(た
和》 の語 が頻 出す るの に対 し、反 戦 家 ・厭 戦 家(た
とえ ば武 者 小 路 実篤)の
文 章 に は 《平
とえ ば 北御 門 二 郎)の 文 章 に は こ の語 が見 ら
れ な くな る 、 とい う逆 転 現象 が起 き る こ とにな っ た(武 者 小 路 と北 御 門 が と もに トル ス トイ を師
に仰 い で い た こ とを考 え る と、 これ は ま こ とに興 味深 い現 象 とい え よ う)。い うま で も な く、 『創
価 教 育学 体 系』 の著 者 ・牧 口常三 郎 は 、後 者 の グ ル ー プ に属 して い た 。
この よ うな歴 史 をふ ま えた うえ で 、も う一 度 、「大教 育 家
ペ ス タ ロ ッチ 」の 冒頭 部 を読 んで み
よ う。 「
平 和 」 とい う言葉 は 、 「スイ ス 」 とい う国名 と結 びつ け られ 、「絵 の よ うに静 か な 」 とい う
形 容詞 句 とセ ッ トで 用 い られ て い る。 こ こで い わ れ て い る の は 、 も う上 述 の よ うな 、戦 争 の大 義
名 分 と して の虚 偽 の 《平 和 》 で は な い。 ス イ ス は 、 第 二次 世 界 大 戦 中 も ヒ トラー の暴 虐 に屈 しな
か っ た永 世 中 立国 で あ る。1947(昭
和22)年
には 、 ダ グ ラ ス ・マ ッ カー サ ー が社 会 党 書記 長 の片
山哲 に語 っ た 「日本 よ 、東洋 の ス イ ス たれ 」 とい う言葉 が流 行 して い る(マ ッカ ーサ ー と片 山 の
会 談 は5月24日)。
また 、これ に先 駆 けて 日本 人 の 目をス イ ス に 向 け させ た のは 、スイ ス在 住 の作
家 ヘ ル マ ン ・ヘ ッセ の ノー ベ ル文 学 賞 受 賞 で あ った 。 ヘ ッセ は 、二 度 の世 界 大 戦 を通 じ一 貫 して
ドイ ツの 軍 国 主 義 に抗 しぬ い た 数 少 ない 知 識 人 の一 人 で あ る(7)。 中村 真 一 郎 は 『1946・文 学 的
(4)拙 稿 「
牧 口常 三 郎 は 国 家政 策 の何 に抵 抗 した か 」 『
創 価教 育 研 究 』 第3号
、2004年 、115-136ペ
ー ジ を参
照 の こ と。
(5)友 田宜 剛 『詔勅 の謹 解 と 日本 精神 』
、 国 民 教 育普 及 社 、1941年 、379ペ ー ジ。本 書 は、 明治 ・大 正 ・昭 和 天
皇 の勅 語 を集 めて 解説 をほ どこ した、 国 民 教 化 用 書 籍 の1つ で あ る。
(6)そ の 一文 に は
、「
支 那 ノ抗 日容 共 勢 力 ヲー 掃 シ 、 親 日政 権 ヲ育 成 発 展 セ シ メ 之 ト帝 国ガ テ ヲ握 リ東 洋 永 遠
ノ平 和 ヲ確 立 スル コ トハ 今 次 聖戦 ノ 大 目的ナ リ。 コ ノ大 目的 ヲ阻 碍 ス ル 言 説 行 動 二 対 シテ ハ 断乎 之 ヲ排
撃 シ ー 路 所期 ノ 目的達 成 二遮 進 スル ノ実 力 ト信 念 ヲ有 スル コ トヲ明 ニ ス ル コ ト」 とあ る。 内川 芳 美 編 集
解 説 『現 代 史 資 料41一
(7)目 本 でヘ ッセ とい うと
マ ス ・メデ ィ ア統 制2』 み すず 書 房 、1775年 、165ペ ー ジ。
、甘 美 な青 春 小 説 がイ メ ー ジ され や す い けれ ども 、そ の典 型 的作 品 と され る 『車 輪
の 下 』 が じつ は 軍 国 主義 批 判 の書 で あ る こ とは 、 ほ とん ど知 られ て い ない 。 同書 で ヘ ッセ は、 詰 め こみ
教 育 や 受 験 制度 の 背後 に あ る 《国 家 の暴 力 》 を鋭 く看 破 してい る。 つ ま り、 国 家 も、 国 家 に雇 われ て い
る教 師 も、 し ょせ ん は 《国 家 に役 立 つ 人 間》 を作 ろ う と してい る にす ぎず 、 子 ど もた ち一 人 ひ と りの幸
せ を考 え て 教 育 して い る の で は な い一
そ うヘ ッセ は告 発 す るの で あ る。 主 人 公 ハ ンス ・ギー ベ ン ラー
ト少 年 が そ の下 でロ
申吟 す る 「
車輪 」 とは 、帝 国 主義 の別 名 に ほ か な らな い。拙 稿 「
『車 輪 の 下』訳 者 解 説 」
-4一
創価教 育研究第6号
考 察 』の最 終 章 で 、「
精 神 の 自由 を政 治 の 暴 力 か ら救 うた め に 、孤独 を選 ん で スイ ス に 亡命 し続 け
て い る」ヘ ッセ を讃 え て 、「ノーベ ル 賞 は公 平 に 与 え られ る。平 和 と人道 と美 とのた めに 書 い た 精
神 の 上 に」 と書 いた(1946年11H)(8)。
政 治 的暴 力 の 対義 語 として 「平和 」の 語 が 使 われ て い る
こ とに注 意 した い。 だ が 、 な ん とい って も、一 般 国民 が平 和 の 語 を 「
非 戦 」 と同義 の も の と して
使 うよ うにな った 最 大 の き っか け は、新 憲 法 の成 立 で あ った と見 て よい 。「
正 義 と秩 序 を基 調 とす
る国 際 平 和 を誠 実 に希 求 し、 国権 の発 動 た る戦 争 と、武 力 に よ る威 嚇 又 は武 力 の行 使 は 、国 際 紛
争 を解 決 す る手 段 と して は 、永 久 に これ を放棄 す る」一
は1946(昭
和21)年8月
この戦 争 放 棄 条 項 を含 め 、 日本 国 憲 法
に 衆 議 院 を 通 過 、IO月 に 貴 族 院 で 可 決 さ れ 、1947(昭
和22)年5H3日
に 施 行 され た(9)
(『ヘル マ ン ・ヘ ッセ全 集4』
を訪 ね て一
臨川 書 店 、2005年 、367-370ぺL-一 ・
ジ)、 お よび 同 「
ヘ ツセ 平 和 思 想 の源 流
『車 輪 の 下』 へ の教 育 文 化 史 的注 解 」(『逃 避/対 峙/超 克
内 面 へ の道 〉 の諸 相 』 日本独 文 学会 、2005年 、3-23ペ
ヘ ル マ ン ・ヘ ッセ にお け る く
ー ジ)を 参 照 の こ と。
っ い で に付 記 して お き た い こ とが あ る。『車輪 の下 』 が書 か れ た の は1903年9Aか
ら12月 にか け て で あ
るが 、 同時 期 に 目本 で は 牧 口常 三郎 の 『人 生地 理 学』 が 出 版 され て い る(1903年10月15日)。
『人 生 地理
学 』 もま た 、 詰 め こみ 教 育 の 病根 で あ る 国 家 主 義 を 批 判 した 本 で あ る。 時 を 同 じ く して ドイ ツ で はヘ ル
マ ン ・ヘ ッセ が 、 日本 で は 牧 口常 三 郎 が 、 帝 国 主 義 政 策 の 手 段 と化 した 教 育 を 弾劾 して い た の で あ る。
二 人 と も30歳 前後 の青 年 だ った 。 当 時 『車 輪 の下 』 は"受 験 小 説"と
して 、『人 生地 理 学 』 は"受 験 参 考
書"と して それ な りに 評 判 を呼 ん だ けれ ど も、そ うい う表 層 的な 読 み 方 は今 日で は もは や 通 用 しえ な い 。
現 代 の世 相 を見 る につ け、 この 二著 で展 開 され てい る 《教 育批 判 》 《文 明 批 判 》 が い さ さか も古 び て い な
い との感 を深 くす る。 人 類 平 和 を志 向 した 一 流 の 思 想 書 と して これ ら を読 む べ き とき が 、 い ま 来 て い る
よ う}こ,思
う。
(8)加 藤 周 一 ・中村 真 一郎 ・福 永 武 彦 『1946・文 学 的考 察 』 冨 山房 百 科 文 庫 、1977年 、235ペ ー ジ。
(9)池 田 も、の ち に小 説 『人 間 革命 』 第2巻(初
版1966年)の
な か で、新 憲 法 の制 定 過程 につ い て多 く の 紙 数
を割 い て論 じて い る。 「幣原 内閣 は 、 新 憲法 草 案 を 、置 き土 産 と して退 陣 し、外 相 の 吉 田茂 が 、新 内閣 を
組 織 した。 そ して 、議 会 の審 議 に 臨 んだ が、 繰 り返 され る質 問 の 中 で、 吉 田 は本 音 を吐 い た 。/『 新 憲
法 が 出来 た が故 に、 日本 国 民 の 政 治 的性 格 が変 更 す る と は考 え て い ませ ん』/実 に 、驚 いた 発 言 で あ る。
新 憲 法 をた だ 平 和 の 理想 と して祭 り上 げ 、現 実 は い さ さか の 変更 も な い と、 旧憲 法 の 感 覚 で 答 え て い る
の で あ る。/結 局 、 時 の 政 府 は 、 瞼 しい 国 際 情勢 の谷 間 を 通 り抜 け る旗 幟 と して 、第 九条 を掲 げ た とい
った 方 が、 適切 の よ うで あ る。/あ る 時 、衆 議 院 で 、 共 産 党 の野 坂 が 、 自衛 戦 争 ま で放 棄 す る の は行 き
過 ぎで あ る と迫 り、 戦 争 の 放 棄 を論 難 した。 そ の 時 、 吉 田は これ に反 駁 して い わ く、/『
国家の正当防
衛 に よ る戦 争 は 、 正 当 だ と され て い る よ うだ が 、 私 は か くの ご とき こ とを認 め る こ とは有 害 で あ る と思
う』/後
に 、 この 二 人 は主 張 をま っ た く取 り替 え て 論 争 を繰 り返 す こ とに な る 。今 日、 これ らの議 事 録
を読 む 時、 馬 鹿 馬 鹿 しい ほ どの 矛 盾 が 、 数 多 く散 見 され る。/共 に 、 凡 夫 で あ る。利 口そ うに 見 え て 、
皆 、愚 か な人 間 な のだ 。 も っ と広 々 と、 大 聖 人 の 言 に、 謙 虚 に耳 を傾 け ね ばな らな い と思 う。/結 局 、
質 疑 応 答 の 両方 とも、 第 九条 を、 お も ちゃ の如 く、 弄 ん で い た に過 ぎな い 。 真 の 理解 か ら発 した 論 議 で
は な か っ た わ け で あ る」(池 田大 作 『人 間革 命 』 第2巻 、 聖 教 新 聞 社 、1966年 、64-65ぺv-一・
ジ)。 一
こに 叙 述 され て い る よ うに 、1946(昭
和21)年
こ
の 国会 で、 総 理 大 臣 自 らが 「
正 当防衛 に よる 戦 争 」 とい
う発想 を有 害 であ る と明言 した 。 これ は 、 「
平 和 」 の二 字 を もはや 戦 争 の大 義 名 分 と して は用 い ない 、 と
い う宣 言 の は ず で あ っ た。 とこ ろ が、 の ち に こ の宣 言 を最 初 に破 棄 しよ う と した の も同 じ総 理 大 臣 で あ
った 。 つ ま る とこ ろ、 池 田が慨 嘆す る よ うに、 「
真 の 理 解 か ら発 した 論 議 で は な か った 」 の で あ る。
ちな み に、 上 の 文 章 を記 した とき、 池 田 は創 価 学 園(東 京 ・小 平 市)の 設 立 に向 けて 心 血 を注 い で い
た(1965[昭
和40]年7月
に設 立構 想 を発 表 、 翌 年4月
に建設 委 員 会 が発 足 して い る)。1968(昭
和43)
年4月 の 開 校 時 に は こ う語 って い る。 「
今 日で は 、 教 育 の重 要 性 は、 もはや 国家 だ けの 問題 で は な い。 世
一5一
『少 年 日本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タロ ッチ 」 に つ い て(2)
とも あれ 本稿 が 強調 したい の は 、「大教 育 家
ペ ス タ ロ ッチ 」の 冒頭 部 に も、こ うした 終 戦 後 の
時 代 相 が 刻 印 され て い る とい う一 事 で あ る。 池 田 が 『若 き 日の 読 書 』 でつ づ って い る 「
ペスタ ロ
ッチ の 『隠 者 の 夕暮 ・シ ュ タ ンツ だ よ り』 を最 初 に岩 波 文 庫 で 読 ん だ の は、 た しか 自宅 近 くの 読
書 サ ー クル に参加 してい た とき の こ とで あ る。 新 生 目本 の民 主教 育 の あ り方 にっ い て 、 友 人 と夜
を徹 して 議 論 した記 憶 もあ る」(10)とい う回想 は、 こ の こ と を よ く裏 づ け てい る。 『私 の履 歴 書 』
に よれ ば 、 こ のペ ス タ ロ ッチ 体 験 は1947(昭
和22)年
の こ と とい う(11)。そ の時 期 に 「
新 生 日本
の 民 主 教 育 の あ り方 」 を模 索 して ペ ス タ ロ ッチ を学 ん でい た か ら こそ 、池 田は 「
大教 育 家
タ ロ ッチ 」(1949[昭
和24]年)の
ペス
冒頭 部 を、 「
平 和 な国 ス イ ス 」 とい う一 言 で 開 始 した の で は な
か ろ うか 。 この さ りげ ない 一 言 の うち に 、教 育 事 業 に挺 身 す る後 年 の池 田に 通 じる も の を見 出す
こ と も、 け っ して不 合 理 な解釈 で は な い で あ ろ う。
(2)母
の感化
っ つ い て エ ッセ ー は 、 ペ ス タ ロ ッチ の 少 年 時 代 を 描 写 す る。
「二 、 見込 み な い少 年
ペ ス タ ロ ッチ は 、子 供 の 時 か ら非 常 に人 々 と変 った 性 格 を持 っ て い ま した。 そ の 顔 や 姿 もい か に も醜
く、友 達 か らは、 い ろい ろ とか らか われ た り軽 蔑 され て いま した 。/そ れ に 学校 の成 績 も大 変 悪 く、 こ
とに綴 方 や 習字 は 、だ め で した。学校 の先 生 もあ ま りに も成 績 が悪 い ので 『こ の子 は到 底 見 込 み が な い』
と、 口 ぐせ の様 にい って い ま した。/こ
の様 に、 友 達 か らは馬 鹿 に され 、世 間 の人 々 か らは 奇 人 扱 い に
され 学 校 の先 生 か らは、 見 は な され て しま った ペ ス タ ロ ッチ ……/皆
さん 、 も し皆 さん が この 様 な 境 遇
に あ っ た ら どん な に悲 しく淋 しい こ とで し ょ う。 又 そ の人 の心 も 自然 に ひ ね くれ る の が 当然 です 。 けれ
どペ ス タ ロ ッチ は そん な こ とに か か わ りな く、す くす く と素 直 に 育 っ て ゆ き ま した 。 そ れ は 全 く情 愛 の
厚 い母 と、 温 情 に富 ん だ 老碑 バ ビ リー のお 陰 であ りま した 。/ペ ス タ ロ ッチ は六 歳 の 時 に 父 を亡 く しま
した が、 も し も母 が 良 くな い人 で あ った な らペ ス タ ロ ッチ は ど うな っ て い た こ とで し ょ う。 こ こに 母 の
感 化 の偉 大 さ を しみ じみ と悟 ります 」(12)
少 年 ペ ス タ ロ ッチ は 、 け っ して優 等 生 で も人気 者 で もな か った 。 友 だ ち に か らか わ れ 、 教 師 か
ら見 放 され っ っ も、 彼 が ひ ね くれ る こ とな く、す くす く と成 長 で きた の は なぜ か 。
その理 由
を池 田は 、「情 愛 の厚 い母 と、温 情 に 富 んだ 老 碑 バ ビ リー 」の存 在 に求 め、教 育 にお け る女 性 の役
割 の大 き さ、 なか ん ず く 「
母 の感 化 の偉 大 さ」 に着 目 して い る。
以 下本 稿 で は 、 「
大教育家
ペ ス タnッ チ 」の 記 述 を、 当時(1949[昭
和24]年 秋)書 店 に出 て
界 、 人 類 の 運 命 、 文 明 の 未 来 は 、 ま さ し く 青 年 の 教 育 に か か っ て い る 、 と私 は 叫 び た い 」(『 創 立 者 と と
も に 』 創 価 学 園 、1982年
(10)池 田 大 作
、4ペ
ー ジ)。
『若 き 目 の 読 書 』 第 三 文 明 社
、1978年
、115ペ
ージ。
(11)同 『私 の 履 歴 書 』 日本 経 済 新 聞 社 、1975年 、73-74ペ
ージ。
(12)『少 年 目本 』1949(昭
和24)年10月
号
、85-86ペ
ー
一
一
・
一
ジ。
-6一
創価教育研 究第6号
い た 代 表 的 なペ ス タ ロ ッチ伝 の記 述 と比 較 対 照す る こ とに よって 、前 者 の 特 徴 を浮 か び 上 が らせ
る とい う作 業 を行 い た い。 上 記 引用 文 に関 す るか ぎ り、 そ の特 徴 は下 線 部 に現 れ て い る。 す な わ
ち 、 「母 の 感 化 の偉 大 さ」 をっ つ った 箇所 で あ る。
まず 、エ ッセ ー の 当 初 の執 筆 予 定 者 だ った 池 田宣 政 の 『孤 児 の父
ペ ス タ ロ ッチ 』(1947[昭 和
22]年 、世 界社)を 見 て み よ う。 同 書 は 、彼 が 戦 前 に発 刊 した子 ども 向 け の評 伝 『偉 人
ロ ッチ 』(194![昭 和16]年
ペスタ
、大 日本 雄 弁 会 講 談社)を 改訂 した も の で あ る。細 か い 改 訂 箇 所 は 多
数 にわ た るが 、 章 立 て を は じ め とす る基 本 的 な構 成 は変 わ って い な い 。最 初 の章 「
伸 び 行 く魂 の
記録」は、「
慈 愛 の 父 」 「忠実 な下 女 」 腱 気 な母 」 「
愛 の家 庭 」 「た くま しい 祖 父 」等 々 の小 節 か ら.
成 って お り、 この こ とか らす で に明 らか な よ うに 、池 田宣 政 は少 年 ペ ス タ ロ ッチ の精 神 形 成 に果
た した 《男 性 の感化 》 を 、 か な り重 視 して い る。 た とえ ば 、 「
慈愛 の父 」 の節 に は 、 「こ の父 の慈
愛 の 心 が 、そ のま ま 次 男[=ペ
ス タ ロ ッチ 少 年]に っ た わ っ て 、偉 大 な愛 の 人 格 の も とい とな っ
た の で あ る 」(13)と あ る し 、 「た く ま し い 祖 父 」 の 節 に は 、 「
バ リ[=ペ
ス タ ロ ッチ 少 年 の 愛 称]の
心 の 奥 に ね む っ て い た 男 ら し い 性 質 は 、 祖 父 の 力 で よ び さ ま され た の で あ っ た 。 後 に ど ん な 貧 し
さの 中 にあ っ て も 、明 朗 さ を うしな わず 、 な ん ど逆 境 に追 い お と され て も 、失 敗 を く りか え して
も、 ま た 起 き上 り、信 ず る とこ ろ に向 か っ て突 き進 ん で行 った の は 、 み な こ の男 性 的 な 心 の あ ら
われ で あ った 」(14)とあ る。 も っ と も、 「
愛 の家 庭 」 と題す る節 で は、 「
愛 の大 教 育 家 ペ ス タ ロ ッチ
は 、 こ の愛 と真 心 の 家庭 か ら生 ま れ た の で あ っ た。 後 に 、家 庭 教 育 の 大切 な こ と と、女 性 の 力 が
教 育 上 に非 常 に大 き い もの で あ る 、 とい う信 念 を持 っ よ うに な った の は、 この 慈愛 の母 と、忠 実
なバ ーベ リー に育 て られ た た め で あ る」㈹ とあ るの で 、池 田宣政 が 《女 性 の感 化》 を軽 視 した と
い うわ け で は な い。 た だ し、仮 に彼 が 当初 の予 告 通 り 『少 年 日本 』 にペ ス タ ロ ッチ伝 を 寄稿 して
い た と して も、 限 られ た 紙数 の な か で 、 山本 伸 一 郎(=池
田大作)ほ
ど明 確 に女 性 の意 義 を強 調
した か ど うか は お ぼっ か ない 。
*
次 に 、長 田新 の 『隠者 の 夕暮 ・シ ュ タ ンツ だ よ り』 巻 末 解 説(初 版 は1943[昭
照 しよ う。 同 書 は 、 「
大教育家
和18]年)を
参
ペ ス タ ロ ッチ 」 の下 地 に なっ た本 の1つ で あ る。
ま え に本 稿 第2節 で 見 た よ うに 、『隠者 の 夕暮 』 と 『シ ュ タ ン ツ だ よ り』の な か でペ ス タ ロ ッチ
は 、教 育 に お け る 「
母 親 」の 役割 を 、 「
父 親 」 の役 割 と同 等 に(と き に は それ 以 上 に)重 視 して い
る。こ こで 簡 単 にお さ らい して お く と、「い や し くも よい 入 商 教 育 は 、居 間 にお る母 の 眼 が 毎 日毎
時 、 そ の 子 の精 神 状 態 の あ ら ゆ る変化 を確 実 に彼 の眼 と口 と額 とに読 む こ とを要 求す る。/よ
い
人 間 教 育 は 、 教 育者 の力 が 、純 粋 で しか も家庭 生 活 全 体 に よ って 一般 的 に活 気 を与 え られ た 父 の
力 で あ る こ と を根 本 的 に要 求 す る」(『シ ュ タ ンツ だ よ り』)(16>。「
満 足 してい る乳呑 児 は こ の道 に
お い て母 が 彼 に とっ て何 で あ るか を知 る。 しか も母 は幼 児 が 義務 とか感 謝 とか い う音 声 も出 せ な
(13)池 田 宣 政
『孤 児 の 父
(14)同 上 、23ペ
ー ジ。
(15)同 上 、16ペ
ー ジ。
ペ ス タ ロ ッ チ 』 世 界 社 、1947年
、5ペ
ー ジ。
(16)ペ ス タ ロ ッ チ 『隠 者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り 』 長 田新 訳 、 岩 波 文 庫 、 初 版1943年
-7一
、54ペ
ージ。
『少年 日本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タ ロ ッチ 」 に つ い て(2)
い うち に 、感 謝 の本 質 で あ る愛 を乳 呑 児 の 心 に形 作 る。 そ して 父親 の与 え るパ ン を食 べ 、 父 親 と
共 に 囲炉 裏 で 身 を暖 め る 息子 は 、 この 自然 の道 で子 供 と して の 義務 の うち に彼 の生涯 の 浄福 をみ
つ け る」(『隠者 の 夕暮 』)(17)。
こ う した文 章 を 目に した うえ で 、ペ ス タ ロ ッチ の少 年 時 代 を
描 こ う とす れ ば 、《母 の感 化 》 の大 き さ に筆 が お よぶ の は 、ご く自然 の こ とで あ ろ う。そ の意 味 で
は、 「
大教育家
ペ ス タ ロ ッチ 」 の記 述 は 、 け っ して とっぴ な解 釈 で は ない。
とこ ろが 、『隠者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』 の訳者 ・長 田新 の解 説 は 、以 上 の こ と をふ ま え っ
つ も、 最 終 的 に 《父 子 の情 》 の 意 義 を強調 してい る ので あ る。 この傾 向 は 、話 が ペ ス タ ロ ッチ の
家 庭 教 育論 か ら政 治 道 徳 論 へ と発 展 す る くだ りで 、 とく に見 受 け られ る。 長 田は 述べ て い る 、
「
ペ ス タ ロ ッチ ー の政 治 道 徳 は 人 間性 と親 心子 心 とそ し て神 に対 す る 信 仰 との 三調 音 の 奏 で る譜 調 で あ
っ て 、 そ の基 調 が親 心 子 心 で あ る と もい うこ とが で き る。 しか もそ の 親 心 子 心 を基 調 とす る とこ ろ、 か
つ て の わ が 国 の政 治 道 徳 と著 し く相似 た とこ ろ が あ った 。 とい うの は か つ て の わ が 国 にお い て は皇 室 は
国 民 の宗 家 で あ り、天 皇 は 親 心 を以 て 国 民 を赤 子 と して 愛 撫 した 。 父 子 の 情 こそ天 皇 と われ ら国 民 と を
結 ぶ紐 帯 で あ り、君 主 の親 心 臣 民 の子 心 が わ が 国 体 の 本義 で あ る。[… …]だ か らペ ス タ ロ ッ チー の君 臣
関係 は 『情 は 乃 ち 父 子 』 と言 われ るか つ て の わ が 国 の君 臣 関係 に比 す る こ とが で き る と思 う」(18)
長 田の解 説 は 、そ れ が 執筆 され た1943(昭 和18)年
とい う時 代 を反 映 して 、「
父 子 の情 こ そ天 皇
とわ れ ら国 民 とを結 ぶ 紐 帯 で あ り、.君主 の親 心 臣 民 の子 心 が わが 国 体 の本 義 で あ る」 とい うふ う
に 、 ペ ス タ ロ ッチ の教 育 論=国 家論 を 《天 皇 と国 民 との 関係 》 か ら説 明 して い る。 良心 的 知 識 人
の長 田 と して は、 困 難 な 時 代 に あ っ てペ ス タ ロ ッチ の翻 訳 を出 版 す るた め の精 一 杯 の 弁 明だ った
の か も しれ ない が 、 これ も歴 史 の貴 重 な ドキュ メ ン トで あ る。 も っ とも、 上記 引用 文 も よ く読 ん
で み る と、「
か っ て の わ が 国 の政 治 道 徳 」 「
か つ て の わ が 国 にお い て は」「か つ て の わが 国 の君 臣 関
係 」 とい うよ うに、"か っ て の"と い う形 容 詞 が 多用 され てい る のが 目にっ く。 これ は 見 方 に よ っ
て は 、現 実 の政 治 道 徳 や 君 臣 関係 を暗 に批判 した もの と解 す る こ と もで ぎ よ う。 戦 時 中 の文 章 ゆ
え に 、独 特 の修 辞 法 に注 意 して読 む 必 要 が あ る と思 われ る。
ち なみ に 、1936(昭 和11)年 に発 刊 され た長 田新 の啓 蒙 書 『ペ ス タ ロ ッチ ー』(大教 育 家 文庫15、
岩 波 書 店)を 覗 い て も、 第1章
「
ペ ス タ ロ ッチー の生 涯 」 には や は り1行 も 《母 の感 化 》 に つ い
て は触 れ られ て い な い 。 ま た 、終 戦5年
目の1950(昭
和25)年
に 完 成 し、長 田 自身 が 序 文 に 「思
え ば今 まで 私 の 公 け に した も の は、考 え方 に依 って は す べ て今 世 に 出 る こ の 『ペ ス タ ロ ッチ ー伝 』
の研 究 へ の 準 備 で あ っ た とも い え るだ ろ う」 とまで 記 した 上 下2巻 の 大著 『ペ ス タ ロ ッチ ー伝 』
(17)同上 、9ペ ー ジ。 なお 、 この 文 章 に つ い て長 尾 十 三 二 ・福 田 弘 『ペ ス タ ロ ッチ 』 は 、 「
基本 的要 求 の充 足
とい う、 人 間 生 活 の 最 も原 初 的 な で き ご とは 、 主 と して母 親(お
よび 父 親)と 子 供 と の人 間 関係 の 中 で
生 じ る 。 こ の 人 間 関 係 を 通 し て 、 入 間 と は 何 か と い う人 間 に と っ て 最 も 必 要 な 知 識 へ の 筋 道 を 、 子 供 は
知 る こ と に な る の で あ る 」 と ま と め て い る(長
尾 十 三 二 ・福 田 弘 『ペ ス タ ロ ッチ 』 清 水 書 院 、1991年
58ペ ー ジ)。
(18)『隠 者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』179-180ペ
ージ
。
-8一
、
創価教育研 究第6号
を 閲 して も 、「こ の よ うにペ ス タ ロ ッチ ー は兄 妹 達 と、彼 れ の 心 を気 高 く し ・励 ま し ・楽 しま せ る
環 境 とに朝 夕 取 り囲 ま れ つつ 『最 も よい母 』の膝 下 で生 い 立 った 」(19)との1行 が見 られ るの み で
あ る(た だ し、 女 中バ ー ベ リー につ い て は 、彼 女 へ の感 謝 をつ づ った ペ ス タ ロ ッチ の回 想 文 を載
せ て い る)。 そ の か わ り、 「
ペ ス タ ロ ッチ ー に強 い影 響 を与 え た も の と して祖 父 の感 化 は見 逃 せ な
い 」 と して 、牧 師 で あ った祖 父 の影 響 の下 、少 年 ペ ス タ ロ ッチ が 「
大 き く なっ た ら私 は皆 を助 け
よ う」 とい う民 衆奉 仕 の 志 を抱 い た と指 摘 して い る(20)。日本 にお け るペ ス タ ロ ッチ研 究 の 最 高
権 威 と され た長 田 の描 くペ ス タ ロ ッチ像 には 、 ど うい うわ け か 、母 の影 が 薄 い 。長 田が 訳 した ハ
イ ン リ ヒ ・モル フ の 『ペ ス タ ロ ッチー 伝 』(翻 訳 は1939[昭 和14]年 刊 行)に は 、ペ ス タ ロ ッチ の
母 親 に 触 れ た 箇 所 で 、 教 育 に果 た す 《女 性 の 力 》 につ い て 論 じて あ る の で(21)、母 の 感 化 に言 及
しな い の は長 田独 自の判 断 なの か も しれ ない 。
*
も う一 言 補 足 してお き たい 。 戦 争 中に 、ペ ス タ ロ ッチ の 人 格 や 思想 にお け る 《男 性的 要 素 》 が
強 調 され た 例 は ほ か に も あ る。 た とえば 、長 田新 とな らび ペ ス タ ロ ッチ研 究 の権 威 と され た福 島
政 雄 の 著 作 が そ うで あ る。 福 島が1920年 代 か ら書 きた めて1934(昭
nッ チ の 根 本 思想 研 究 』 と、 日中戦 争 開始 後 の1938(昭
和13)年
和9)年
に 出版 した 『ペ ス タ
に 執筆 ・刊 行 した 『ペ ス タ ロ ッ
チ 小 伝 』 と を比 較す る と面 白 い。 前 者 は 、ペ ス タ ロ ッチ の 育 った 家 庭 の 《女 性 的 要 素》 に着 目 し
て(22)、そ の 教 育 学 にお け る 「
母 性 の意 義 」 につ い て そ うと うな紙 数 を割 い て い る(23)。これ に対
(19)長田新 『ペ ス タ ロ ッチー 伝
上 巻 』 岩 波書 店 、1950年 、40ペ ー ジ。
(20)同上
、48-49ペ ー ジ。
(21)ハイ ン リ ヒ ・モル フ 『ペ ス タ ロ ッチ ー 伝1』 長 田新 訳 、 岩 波 書 店 、1939年 、82-88ペ ー ジ。
(22)福島政 雄 『ペ ス タ ロ ッチ の根 本 思 想 研 究 』 目黒 書店 、1934年 。 い くつ か 例 を あ げ る と、 「
母親スザンナは
豊 か な る宗 教 的情 操 の人 で あ っ て 、そ の情 操 的 感 化 が 氏[=ペ
ス タ ロ ッチ]に 及 ん だ こ とは疑 うべ か ら
ざる も の が あ る」(同 書 、123ペ ー一
・
ジ)。 「
ペ ス タ ロ ッチ を直 接 に哺 ん だ 家 庭 の形 式 は 、母 親 と、忠 実 な る
下碑 バ ベ リ と、 兄妹 との つ くれ る、 女 性 的要 素 の多 き もの で あ っ た の で あ る」(同 書 、131ペ ー ジ)。 「
『隠
者 の 夕 暮』 に お い て氏 が 真理 を母 親 に た と えて 居 る こ と は味 わ うべ き こ とであ って 、 そ れ は氏 が母 親 ス
ザ ン ナ よ りそ そ ぎ 来 れ る温 か な る親 心 よ り感 得 した もの で あ る と言 うこ とが で き る」(同 書 、138-139ペ
ー ジ) 。
(23)同上 。 「
氏[=ペ
ス タ ロ ッチ]が 宗 教 的 自覚 の 初 に お け る母 性 観 は 既 に前 に も引 用 した る 『隠者 の 夕暮 』
の 一 節 にあ らわれ た る もの で あ っ て 、母 性 を真 理 にた と え て居 る も の で あ る。 即 ち母 性 の 本質 は そ の 子
供 等 と生命 にお い て 一 味 とな る とい う点 に存 す る。 母 親 の喜 び と知 恵 とは そ の子 供 等 の 喜 び で あ り要 求
で あ る。 そ の 母 親 は感 じ深 き善 き母親 で あ る。 而 して此 の母 性 は奉 仕 に よっ て子 供 等 の 生 命 を養 うの で
あ る」(同 書 、157ペ ー ジ)。 一
こ の福 島説 の是 非 につ い て い ま は 問 わ な い こ と にす る が 、彼 が あま りに
「
母 性 」 と い う語 を多 用 す る こ と に対 して 、本 稿 筆 者 が違 和 感 を 覚 え る とい うこ とだ け は述 べ て お きた
い 。 そ もそ もペ ス タ ロ ッチ は 「
母 」 とい う語 は 使 用 して い る が 、 「
母 性 」 な どとは い っ て い ない 。
もっ と も、 ペ ス タ ロ ッチ が用 い る 「
母 」や 「
父 」 とい っ た比 喩す らも 、 ジ ェ ン ダー 論 の 支 持 者 が 増 え
つ つ あ る今 日で は古 めか し い印 象 を与 える か も しれ な い。 こ の 点 に 関 して は 、福 田弘 『人 間性 尊 重 思 想
の教 育 と実 践 一
ペ ス タ ロ ッチ 研 究 序 説 』(明 石 書 店 、2002年)の
以 下 の 見 解 に傾 聴 して お き た い 。 「
家
庭 漏 『居 間』 は 、 繊 細 で洞 察 力 を備 えた 『母親 の 眼 差 し』 とい う、 い わ ば愛 に 満 ち た 、す べ て を包 み こ
む よ うな母 性 的 な側 面 を備 え て い る。 そ れ と同 時 に 、 そ うした 愛 に も とつ く細 や か な人 間関 係 を成 立 さ
せ る た め に 家庭 そ の も の を支 え 、活 気 づ け、 さ らに 家 族 関係 全 体 の な か で しか る べ き 尊敬 と恭 順 の対 象
一9一
『少 年 日本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タロ ッチ 」 に つ い て(2)
して 後 者 は、 冒頭 部 分 か らい き な り、 ペ ス タ ロ ッチ思 想 の本 質 は 《男 性 的 要 素》 に求 め るべ きで
あ り、 そ の 内実 は熱 烈 た る 《祖 国 愛》 に ほ か な らな い と力 説 す る ので あ る ㈱ 。 こ うした 違 い の
背 景 に は、 著者 の研 究 の深 化 とい う主観 的 条件 の み な らず 、十 五 年 戦 争 の拡 大 とい う客 観 的 条 件
が あ る こ と はま ち が い な い。 い ず れ の ペ ス タ ロ ッチ解 釈 も 、っ ま る とこ ろは 、解 釈 す る人 間 の属
す る時 代 と社 会 の"函 数"に す ぎ ない の で あ る(も ち ろ ん 、 そ うで あ るか ら とい って 、原 典 を歪
曲す る よ うな恣 意 的 な解 釈 は 断 じて 許 され て は な らな い が)。 この こ とは 、さき に見 た池 田宣 政 や
長 田新 のペ ス タ ロ ッチ解 釈 にっ い て もい え る こ とで あ る。
こ う して み る と、『少 年 日本 』掲 載 の 「
大教育家
ペ ス タ ロ ッチ 」が 《母 の感 化 》 を重 視 した と
い うこ とは 、歴 史 の ドキ ュ メ ン トと して も少 な か らぬ意 義 を もっ こ とが わ か る。 こ の意 義 は、 も
ち ろ ん 『隠 者 の夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』 の"素 直 な読 解"の 賜 物 で あ ろ うが 、 それ 以 上 に、 戦
争 を否 定 し平 和 を希 求 す る"若 き魂"の い さお し と見 るべ き で あ ろ う。
(3)人
間教育
さて 、今 度 はペ ス タ ロ ッチ の青 年 時 代 に筆 が 向 け られ る。
「
三、失敗また失敗
ペ ス タ ロ ッチ は 、 小 学 校 も成 績 が悪 か った の です が 、 中学 校 も大 学 校 も同 様 に余 り良 い成 績 で は あ り
ませ ん で した 。 大 学 を卒 業 した ペ ス タ ロ ッチ は 、 最 初 は な にに な ろ うと思 っ て い た事 で し ょ う。 そ れ は
少 年 の時 、 祖 父 の 所 に遊 び に 行 っ て い た 時、 牧 師 で あ る祖 父 の信 義 の 立派 な こ とに感 心 し、 牧 師 に な る
こ とを決 心 し てい ま した 。 けれ ど もは じめ の説 教 に失 敗 して しま っ て 、 これ で は到 底 見 込 み ない と あ き
らめ て しま い ま した 。/牧 師 をあ き らめ たペ ス タ ロ ッチ は 今 度 は 、 法 律 家 に な ろ う と心 にき めま した 。
が これ も試 験 の際 、 遂 に失 敗 に帰 して しま いま した 。/と
うと うみ ん な あ き らめ て 『自分 は 、 とて も学
問 で身 を立 て る事 はだ めだ 、 そ うだ 百姓 に な ろ う』 とい っ て、 ニ ュー ホ ー フ とい う所 で 農 業 をや る こ と
とな っ て い る よ うな 、 そ ん な権 威 を も っ 『父 親 の 力 』 とい う、 い わ ば父 性 的 な側 面 と を も って い る はず
で あ る。[… …]む ろ ん 、ペ ス タ ロ ッチ は 、母 親 は母 性 のみ を もち 、父 親 は父 性 の み を も つ 、 と言 うの で
は な い。 母 性 的側 面 、 父 性 的側 面 の 両者 が、 家 庭 教 育 に は重 要 で あ る こ とを象 徴 的 に 言 っ て い る の で あ
る 」(同 書 、180ペ ー ジ)。
(24)福島政 雄 『ペ ス タ ロ ッチ 小伝 』 福 村 書 店 、1938年 。 「
ペ ス タ ロ ッチ の本 来 の面 目は そ の生 命 の原 始 のす が
た に存 す る。教 育 の上 にお け る生命 の力 如 何 は 、そ の原 始 の相 に お け る溌 刺 性 の 如何 に依 繋 す る」(同書 、
3ペ ー ジ)。 「
ペ ス タ ロ ッチ の 伝記 者 の 多 くは 、ペ ス タ ロ ッチ が女 手 に育 っ た とい うこ とを 力 説 し 、ペ ス
タ ロ ッチ 自身 の 著 作 よ りの 引 用 に よ っ てペ ス タ ロ ッチ に 男性 的要 素 の欠 け た る こ と を証 明 し よ う と して
居 る。[… …]併
しこれ を以 て ペ ス タ ロ ッチ に男 性 的 要 素 が欠 け て居 る こ とを物 語 る もの と考 え る こ とは
出 来 な い 。 男性 的 要 素 を以 て 果敢 の気 象 とす る な らば 、ペ ス タ ロ ッチ に はむ し ろ大 に そ れ が あ っ た の で
あ る」(同 書 、4-5ペ
ー ジ)。 「
『[……]私 は祖 国 の為 には 我 が 生 命 を忘 れ 、妻 の涙 を 忘れ 、我 が 子 の こ
と を も忘 れ る で あ ろ う。』/こ れ こそ ペ ス タ ロ ッチ の真 面 目で あ る。 ア ンナ との 結婚 のた め に突 進 す るペ
ス タ ロ ッチ の 生 命 の 原 始 の 相 は 、や が て祖 国 の こ とに妻 を忘 れ 、子 を忘 る る原 始 の相 で あ る。 此 の原 始
の 相 そ の ま ま の ペ ス タ ロ ッチ は 未 だ 教 育者 ペ ス タ ロ ッチ で は な い で あ ろ うが 、併 し此 の 相 を あ く ま で も
素 材 と して進 む ペ ス タ ロ ッチ の 上 に教 育 者 と して の 生 命 は 開 け る 」(同 書 、11ペ ー ジ)。
-10一
創価教育研究第6号
に き めま した 。 こ の 時 はペ ス タ ロ ッチ が 二十 三 歳 の時 で した 。 しか しず いぶ ん お金 をか け骨 を折 った が
や は りこれ も 思 う様 に ゆか ず 、 収 入 は 全 くた え て しま い ま した 」(25)
祖 父 の姿 を見 て 「
牧 師 」 に な る こ とを志 す も、説 教 に失 敗 す る。 今 度 は 「法律 家」 に な ろ う と
す るが 、 試 験 で 落 第す る。 最 後 に 「
農 業 」 をや ろ う とす る が、 経 営 に 行 きづ ま る。 小 見 出 しに あ
る通 り、 「
失 敗 また 失 敗 」 の連 続 で あ る。
青 年 ペ ス タ ロ ッチ の人 生 も また 多 難 で あ った こ とは 、多 くの伝 記 に 書 かれ て い る。 た だ し、 上
の文 章 ほ どに 「
失 敗 」 を強 調 す る も のは 少数 派 の よ うで あ る。 例 に よっ て 、池 田宣 政 の 『孤 児 の
父
ペ ス タ ロ ッチ』 を見 てみ る と、ペ ス タ ロ ッチ が牧 師志 望 をや め て 法律 家 を 目ざ した のは"経
世 済 民"の 念 か らで あ っ た と して い る し(26)、農 業 を始 めた の は親 友 ブル ンチ ェ リー の遺 志 を 実
現 す るた めで あ っ た と述 べ て い る(27)。ま た 、長 田新 の 『ペ ス タ ロ ッチ ー 』 は、 ペ ス タ ロ ッチ が
ル ソー の影 響 で神 学 をす てて 法 学 に移 った と し、「
国 民 の経 済 と教 育 との 振 興 に道 を拓 こ う」 とし
て農 業 に手 をそ め た と書 いて い る ㈱ 。彼 が戦 後 に書 い た 『ペ ス タ ロ ッチ ー 伝 』 は も う少 し詳 し
い 記 述 を して お り、ペ ス タ ロ ッチ が法 学 を選 んだ 背 景 には 、説 教 の 失 敗 以 外 に 、「
全 スイ ス の 公 け
の事 件 に力 強 く関係 しよ う とい うこ の頃益 々 強 くな っ て来 た 衝 動 」と、「
親 友 ブル ンチ ェ リー が 主
張 した よ うな 、宗 教 的 な事 柄 に対 す る極 めて 自由 な傾 向」 が あ っ た と説 く(29)。福 島 政雄 『ペ ス
タ ロ ッチ 小 伝 』 は 、職 業選 択 の理 由 にっ い て は と くに触 れ て い な い が 、青 年 ペ ス タ ロ ッチ の 生 き
方 を総 括 して 「
様 々 の宗 教 改 革 運 動 中 にお い て も最 も熾 烈 な る趣 を有 す る ツ ヴィ ン グ リ の宗 教 改
革 の如 き は、 恐 ら く最 も 強 くペ ス タ ロ ッチ の 生命 の 内奥 に響 い た もの で あ る。 此 の熾 烈 な る生命
を以 て 向か う ところ 、青 年 ペ ス タ ロ ッチ の 前 に はす べ て の物 が 炎 々 と して燃 え た ので あ る」㈹
とつ づ って い る。
以 上 の文 献 のい ず れ も、"落 ち こぼ れペ ス タ ロ ッチ"で は な く、"選 良(エ
リー ト)ペ ス タ ロ ッチ"を 描 い て い る感 が あ る。
これ ら と比 較す る と、エ ッセ ー 「
大 教 育者
ペ ス タ ロ ッチ 」 は 、 む しろ青 年 ペ ス タ ロ ッチ の挫
折 や 苦 闘 に光 を当 て て い る点 で興 味 深 い。 なお 、彼 が農 業 経 営 に失 敗 した こ とにっ い て 、「この 時
はペ ス タ ロ ッチ が 二 十 三歳 の時 で した」とあ るが 、『少 年 目本 』10月号 の発 刊 時 、エ ッセ ー の著 者 ・
山本 伸 一 郎(=池
田大 作)は21歳
で あ った 。 「二十 三 歳 」 とい う年 齢 に言 及 して い る と こ ろが 、ペ
ス タ ロ ッチ に対す る著 者 の親 近 感 を うか が わせ る。
*
(25)『少 年 日本 』1949(昭
(26)前 掲
『孤 児 の 父
和24)年10月
号 、86ペ ー ジ 。
ペ ス タ ロ ッチ 』
、34ペ ー ジ 。 「[ペ ス タ ロ ッチ は]は
考 え た が 、老 先 生[=専
門 学 校 教 師 ボ ー ドマ ー]の
じめ祖 父 に な ら って 牧 師 に な ろ う と
感 化 を うけ、政 治 家 とな っ て世 の 中 を改 善 し、貧 民 、
農 民 を す く うた め に 一 身 を さ さ げ る 決 心 を か た め 、 病 気 に か か っ た の を 機 会 に 大 学 の 神 学 科 に 入 学 す る
こ と を や め て 、 独 力 で 法 律 の 研 究 を は じ め た の で あ る 」。
(27)同 上 、34-39ペ
(28)長 田 新
ー ジ。
『ペ ス タ ロ ッ チ ー 』(大 教 育 家 文 庫15)岩
(29)前 掲
『ペ ス タ ロ ッチ ー 伝
上 巻 』、49ペ
(30)前 掲
『ペ ス タ ロ ッチ 小 伝 』、9ペ
波 書 店 、1936年
ー
一
一
一`ジ
。
ージ。
-11一
、4ペ
ー ジ。
『少 年 目本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タ ロ ッチ 」 に つ いて(2)
こ の あ とエ ッセ ー は 、い よい よ教 師 ペ ス タ ロ ッチ の誕 生 を描 き 、彼 が子 ど もた ちの 教 育 にい そ
しむ 姿 を活 写 して い く。
「四、 ここ に天 職 あ り
ペ ス タ ロ ッチ は 大変 に子 供 が好 き で した 。 思 う様 にゆ か ぬ 百姓 のか た わ ら、 子 供 を集 めて 一 緒 に遊 ぶ
事 がな に よ りの楽 しみ で した 。/そ の 時ペ ス タ ロ ッチ は気 が つい た ので あ りま す。『そ うだ こ んな に も貧
乏 で学 校 に 行 かれ ない 子 供 が い るの だ 、こ の子 供 達 のた めに教 育 を して や ろ う』。それ で 二十 人 ばか りの
子 供 を集 め、 自分 の費 用 で教 育 を は じめ ま した 。/こ れ が ペ ス タ ロ ッチ の大 教 育 家 にな った 第 一 歩 で あ
ります 。 な ん と単 純 で あ りな が ら崇 高 な歩 み 方 で あ りま し ょ う。/栄 養 不 良 と風 ばか りの乞 食 の様 な子
供 の 中 で、 ペ ス タ ロ ッチ の 教 育 は始 ま りま した 。 そ して 自分 が行 う所 を子 供 達 に 見習 わせ 、 子 供 と共 に
畑 に 出て は これ を耕 し、 雨 の 日は 家 の 中 で綿 を紡 がせ 昼 夜 真剣 に 、 み ん な を人 間 にす るた め に力 を注 ぎ
ま した。 身 体 の 弱 い もの は 強 くす る様 に 、無 作 法 な子 に は行 儀 を な お し、 心 の僻 ん だ も の に は、 心 を な
お してや る様 に尽 しま した 。 そ して 心 を浄 く正 し く持 たす た めに 聖書 を 暗諦 させ ま した 。/苦
しい生 活
の うち に も子 供 達 に は良 い 物 を食 べ させ 、 自分 は い つ も悪 い所 を食 べ ま した 。 で す か ら子 供 達 は 、 日ま
しに健 康 にな り血 色 が 涯 り ぐん ぐん成 長 して ゆ きま した 」(31)
と くに下 線 部 を 、本 稿 第2節 で 見 た 『隠者 の 夕暮 ・シュ タ ン ツ だ よ り』 の 内容 と重 ね あわせ な
が ら読 んで み よ う。 「自分 が 行 う所 を子 供 達 に見習 わせ 、子 供 と共 に畑 に出 て は これ を耕 し」・
これ は、 生 活 そ の もの の必 要 ない し要 求 に基づ い て 「
事 物 の 最 も本 質 的 な 関係 を人 間 に直観 させ
る」(『シ ュ タ ンツ だ よ り』)(32)とい う 《直観 教 授 》の 原形 で あ る。 これ に よ っ て子 ど もは 、 「自己
の認 識 を純 にま た 素 直 に応 用 し、か っ 静 か な勤勉 に よって 自己 の あ らゆ る力 と素 質 とを練 習 した
り使 用 した りす る こ とに よっ て 、そ の本 性 か ら して真 実 の人 間 の 智 慧 に達 す る こ とが で き る よ う
に 陶冶 され る」(『隠者 の 夕暮 』)(33)。
ペ ス タ ロ ッチ は こ の よ うに して 、 「み ん な を人 間 にす る た め
に力 を注 」 いだ
す な わ ち 《人 間教 育 》 を行 っ た の で あ る。
以 上 の くだ りを、 例 に よっ て 、 当 時(1949[昭
して み よ う。 池 田宣 政 の 『孤児 の父
和24]年)出
て い た他 の ペ ス タ ロ ッチ伝 と比 較
ペ ス タ ロ ッチ 』 は 、貧 しい 子 どもた ち の教 育 に没 頭 す るペ
ス タ ロ ッチ の姿 を小 説 風 に描 い た あ とに 、後 年 のペ ス タ ロ ッチ の 「
私 は 、数 年 間 、乞 食 子 供 と と
も に生活 し、 とぼ しい 食 物 をわ け あ っ て食 べ なが ら、せ め て彼 等 に人 間 ら しい 教 育 を ほ どこ して
や りた い と思 い 、私 み ず か らは 乞食 の よ うな生 活 を した 」 とい う回 想 を紹 介 して い る 岡 。 と こ
ろが 、こ の本 の 全 体 を見 わ た してみ る と、 「
人 間 」 とい う言 葉 が登 場 す るの は い ま 述べ た 箇所 く ら
い で 、 あ とは む しろ 「国民 」 とい う言葉 が圧 倒 的 に多 く使 われ てい る ので あ る。 た とえ ば 同書 の
序 文 に は次 の よ うに あ る。
(31)『少 年 目本 』1949(昭
(32)前 掲
(33)同 上
(34)前 掲
和24)年10月
号 、86-87ペ
『隠 者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』、51ペ
、16ペ ー ジ 。
『孤 児 の 父
ペ ス タ ロ ッ チ 』、87-91ペ
ー ジ。
ー ジ。
ー ジ。
-12一
創価教 育研 究第6号
「
わ が 目本 は一 部 ま ち が っ た考 え の人 々 のた め にあ や ま られ 、 不 正 な戦 争 を起 こ した 当然 の む く い を う
け ま した。 われ われ は 過 去 の あ や ま ち をふ た た び し ては な りませ ん。/そ
のた め に も っ と も大切 な こ と
は 、 国 民教 育 を あ くま で 、 充実 させ て正 しい心 の 国 民 をつ く りあ げ る こ とで あ りま す 。 これ か らの 日本
の 力 とな るべ き少 国 民 に、 ほ ん と うの教 育 を さづ け てや る こ とで あ ります 。/私
が この 『
ペ ス タ ロ ッチ
伝 』 を書 き ま した の も、 ペ ス タ ロ ッチ が 、 そ の こ ろ の スイ ス には び こっ て い た貴 族 と一 部 の 特権 階級 の
た めに 一 般農 民 が苦 しめ られ て い るの を 救 い、 正 しい平 和 国 家 を建 設す る た め に は、 国民 教 育 を さか ん
に しな けれ ば な らな い こ と に気 づ き努力 した か らで あ ります 」(35)
じっ に高 逸 な理想 が縷 々っ づ られ てい るが 、 こ こで 池 田宣政 が 用 い てい る 「国 民 」 とい う言 葉
の意 味 を正 し くっ か む には 、同 書 の 初版 で あ る 『偉 人
ペ ス タ ロ ッチ 』(1941[昭 和16]年)の
文 に も 目を通 してお く必 要 が あ る。こ ち らは太 平 洋 戦 争 勃 発 直 前 の1941年11A3日
序
の執筆 で あ る。
下線 部 に 注意 しっ っ 、 読 者 め い め い 、2っ の序 文 を対 照 して ほ しい。
「
い ま 、 わ が 大 日本 帝 国 は 空 前 の 大非 常 時 にぶ つ か って い ます 。 い ま こそ 国運 隆 々 た る わ が 国が 、 す ば
ら しい飛 躍 を な し、 全 世 界 の 上 に 皇威 を いや が上 に もか が や か す た め に、 日本 民 族 の 実力 を真 剣 に発 揮
す べ き 絶好 の機 会 なの で あ りま す 。/こ の非 常 時 に あた っ て 、 もっ とも大 切 な こ とは 、 国 民教 育 を あ く
ま で 、 充 実 させ る とと も に全 国 民 が 、一 億 一 心 た が い に献 身 しあ い 、 たす け あい 、 か た くむす び あ っ た
総 力 で 、滅 私 奉 公 の ま こ とを っ くす こ とで あ ります 。/私 が こ の 『
ペ ス タ ロ ッチ 伝 』を書 き ま した の も、
ペ ス タ ロ ッチ の 教 育法 が、 わが 国の 国 民 教 育 上 に 大 な る影 響 をあ た え た こ と、 その 一 生 が 自分 を 忘れ て
教 育 に さ さげ た 一 生 で あ り、 そ の心 が ま えが と う とい こ と、 ま た ペ ス タ ロ ッチ の さ い この 失 敗 が全 く部
下 の 間 の不 和 のた め で 、一 致 協 力 が い か に大切 な もの で あ るか を教 えて い る こ とな どを考 え た か らで あ
り ま す 」(36)
い か が で あ ろ うか。 お よそ 文 章 とい うも の は 、そ れ が 書 か れ た 時代 の社 会 状 況 を どこ か に反 映
して い る もの だ が 、上 の2っ の 序 文 ほ どこ の真 理 を わか りやす く教 え て くれ る例 は 、 め った に な
い と思 われ る。煩 項 に な る こ とを恐 れず 、 あ え て長 文 を 引用 した次 第 で あ る。
"人 間 を育 て る"こ と と
、"国 民 を育 て る"こ と
。ペ ス タ ロ ッチ教 育 学 の本 来 の理 念 にお い
て は 、 あ くま で、 前者 あ って の後 者 で あ る。 本 稿 第2節
で 『隠者 の 夕暮 ・シ ュ タ ンツ だ よ り』 の
内容 を確 認 済 み の わ れ わ れ に は 、 こ の こ とはす で に 明 瞭 に な って い るが 、近 代 日本 の 教 育界 に お
い て は 、っ ね に後 者 が 前者 に優 先 され た の だ っ た。 しか し、上 の 序 文 を見 るか ぎ り、 この違 い を
池 田宣政 が どの程 度 意識 で き て い た か は、 は な は だ怪 しい とい わ ざ る を えな い。 戦 後 の ほ うの 序
文 を 見 て も、 「
正 しい 心 の 国民 をっ く りあ げ る」 「これ か らの 日本 の力 とな るべ き少 国民 に、 ほ ん
と うの 教 育 を さづ けて や る」 とい う記 述 に は、 や は りそ うした疑 念 がっ きま と う(そ もそ も 「
少
(35)同 上 、2-3ペ
(36)池 田 宣 政 『偉 人
ージ。
ペ ス タmッ
チ 』 大 日本 雄 弁 会 講 談 社 、1941年
-13一
、2-3ペ
ージ。
『少 年 日本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タロ ッチ 」 に つ い て(2)
国 民 」 とい う言 葉 自体 、1941[昭
和16]年3月
公 布 の 国 民学 校 令 に基 づ い て い る。 同 令 に よっ て
小学校 は 「
国 民学 校 」 と改 称 され 、児 童 は 「
少 国 民 」 と呼 ばれ る よ うにな った 。 少 国 民 は ヒ トラ
ー ユ ー ゲ ン トの年 少 男 子 部 門Jungvolkの 訳 語 で あ る) 。 さき に本 稿 筆者 が"仮 に池 田宣 政 が 『少 年
日本 』 にペ ス タ ロ ッチ伝 を執 筆 して い た な らば 、 山本 伸 一 郎(=池
田大作)筆
の もの とはず い ぶ
ん 異 な る内 容 に な っ て い ただ ろ う"と 述 べ た の は 、以 上 を念 頭 に置 い て の こ とで あ る 。
*
も う一 つ 、長 田新 の 『隠者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』 解 説 も参 照 してお きた い。 さす が に ペ
ス タ ロ ッチ 研 究 の最 高 権 威 だ けあ っ て 、長 田 は 、ペ ス タ ロ ッチ 教 育 学 の主 眼 が 「
人 間 を 人 間 にす
る」(37)ことに あ る と して 、次 の よ うに述 べ て い る。 「
貧 民 の救 済 も社 会 の改 革 も結 局 人 間 そ の も
の の 内 界 の 純化 と確 立 とを基 礎 とす る か ら、神 の賜 え る人 間 性 の 覚 醒 と陶 冶 とを 目的 とす る い わ
ゆ る 『人 問学 校 』の 建 設 こそ急 務 で あ る とペ ス タ ロ ッチ ー は考 えた 。か くて彼 の教 育 学 は ま た 『人
間 性 の 教 育 学』 で もあ る。[… …]そ の 『人 間 学校 』建 設 の企 図 は 、彼 に よれ ば まず そ の礎 石 を幼
き も の の魂 の純 化 と確 立 とに置 く基礎 教 育 で な くて は な らない 」圃 。
く、 「
大教育家
以 上 の文 章 は 、お そ ら
ペ ス タ ロ ッチ 」 に あ る 「み ん な を人 間 にす るた めに力 を注 ぎま した 」 とい う叙 述
の典 拠 とな った もの で あ ろ う。
とこ ろが 、この 解 説 が 出 た翌 年 に刊 行 され た長 田の 『国家 教 育 学 』(1944[昭 和19]年)を
ひも
とく と、 当 の長 田がペ ス タ ロ ッチ の 《人 問教 育 》 の思 想 を論難 して い る箇 所 が あ り、 上記 解 説 文
を知 って い るわれ われ と して は、な ん ともい ぶ か し く思 わ ざる を え ない 。い ま 本稿 は 、菊 版 で270
べ 一 ジ も あ る この 大著 にっ い て 論 陣 を張 る だ け の余 裕 を もた な い が 、本 稿 主 題 に関す る範 囲 で最
小 限 の言 及 を行 っ て お く。 同書 第4章
「民族 と教 育 」 で 、長 田は次 の よ うに述 べ て い る。
「
ル ソー は 善 良 の 人 間 を作 る と言 い 、ペ ス タ ロ ッチ ー は人 間 を人 問 にす る と言 い 、 フ レー ベ ル は神 性 を
顕 現 す る と言 い 、ヘ ル バ ル トは 品性 を陶 冶す る と言 い 、 ナ トル プ は 自然 を理 性化 す る と言 っ て い る。 併
しそ れ で は 余 りに抽 象 的 で あ り一 般 的 で あ っ て 、 教 育 学 は 単 に理 念 の 学 と して倫 理 学そ の他 の価 値 学 と
少 し も選 ぶ と ころ が な く、 従 って 人 間 の 形成 を 固有 の課 題 とす る形 成 作 用 の 学 と して の性 格 が見 られ な
い 。 恐 ら く形 成 作 用 の学 た る とこ ろ に固 有 の性 格 が な くて は な ら ない 教 育 学 は 一層 具 体 的な 客 観 的 な立
場 に立 た な く て は な ら ない だ ろ う。[… …]吾 々 は進 ん で そ の 自己活 動 に具 体 的の 内 容 を与 え る客 観 的 基
礎 を明 らか に しな くて は な らない 。 そ こに社 会 的 な歴 史 的 な 民族 的な ま た 国 家 的 な文 化 の立 場 が 考 え ら
れ る。 斯 くて 吾 々 は純 粋 人 間 ・内的 人 間 乃 至 人 間性 の教 育学 、 品性 陶 冶 の 教 育 学 、 自然 の理 性 化 の 教 育
学 、 児 童 中 心 の教 育学 等 所 謂 主 観 的 な形 式 主義 の 教 育 学 に対 して 、 客 観 的 な 実 質 的価 値 教 育 学 を考 えな
くて は な らな い。 斯 か る主 張 は前 に も挙 げ たデ ィ ル タイ を先 駆 と して 最 近 漸 くク リー ク、 ロホ ナ ー 、 シ
ュ ト ゥル ゥム 、 シ ュ プ ラ ンガ ー 等 に依 っ て発 展 され つ つ あ る が 、こ の機 運 は 国家 教 育 学 の 素 地 を深 く蔵
(37)前 掲
(38)同 上
『隠 者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』
、167ペ
、141ペ
ージ。
ー ジ。
-14一
創価教 育研究第6号
す る へv-・ゲ ル 哲 学 の 復 興 に 依 っ て 愈 々 促 進 さ れ つ つ あ る 」(39)
本 稿 主題 に 引 きつ けて 要 約 す る と、 ペ ス タ ロ ッチ の 《人 間 教 育 》 思想 は 、い ま だ 抽象 的 ・主観
的 ・形 式 的 で あ っ て、 具 体 性 ・客観 性 ・実質 性 を欠 い てい る。 そ こで 「
社 会 的 な歴 史 的 な 民族 的
な ま た 国 家 的 な」 教 育 学 が 求 め られ るの で あ り、い ま ドイ ツで は そ の新 た な潮 流 が 世 を席 巻 しっ
つあ る
そ う長 田 は説 述 す る。 この よ うに 『国家 教 育 学 』 は 、 ペ ス タ ロ ッチ の 《人 間 教 育》 思
想 が 戦 時 中 に 国家 主 義 陣 営 か ら攻 撃 され て い た とい う重 大 事 実 を教 えて くれ る。 時 代 の 険 し さ を
深 く刻 印 した 書物 で あ る とい え よ う。 さて 、長 田 の著 作 の なか で ふ た た び 《人 問 教 育 》 思想 が 称
揚 され るの は 、1950(昭
和25)年9月
発 刊 の 『ペ ス タ ロ ッチ ー 伝 』 にお い てで あ る。 そ の序 文 で
長 田は 、 フ ィ ヒテ がペ ス タ ロ ッチ に依 拠 して ドイ ツ の教 育 を復 興 させ た よ うに 、 日本 人 も 「人 間
そ の もの を作 ろ う とす るペ ス タ ロ ッチ ー の教 育 法 」 の うち に祖 国 の 急 を救 う秘 術 を学 ぶ べ き で あ
る、 と述 べ て い る ㈹ 。『少 年 日本 』 に 「
大 教 育家
ペ ス タ ロ ッチ 」 が掲 載 され て 、 ち ょ う ど1年
後 の こ とで あ った。
こ の よ うに、池 田宣政 や 長 田新 のペ ス タ ロ ッチ論 ま で視 野 に入 れ て み る と、エ ッセ ー 「
大教育
家
ペ ス タ ロ ッチ 」 に お い て 《人 間 教 育 》 思想 が さ りげ な く言 及 され て い る こ とに も、 歴 史 的 に
重 要 な意 味 が あ る こ とが 見 え て くる。「
み ん な を人 間 にす るた め にカ を注 ぎま した 」一
この ペ ス
タ ロ ッチ の思 い は 、そ の ま ま 、『少 年 目本 』の若 き 編集 長 ・池 田大 作 の思 い で もあ った に ちが い な
い。10月 号 の編 集 後記(池
田大 作 執 筆)が 、 エ ッセ ー の 内容 と見 事 に呼応 して い る のは そ の ゆ え
で あ ろ う。「
編 集 局 と しま して は 、明 る く正 し く少 年 を 導 く様 に誠 心 を打 込 ん で編 集 に従 事 して 居
ります 。/雑 誌 の 進 み 方 も、 面 白 くて勉 強 の材 料 に な り、又 内容 も これ か ら新 しい世 界 を築 き上
げ る少 年 に 、力 強 く豊 か な気 持 を抱 か せ る様 、希 望 して 居 ります 」(41)。16年後 、 池 田は 『人 間 革
命 』 第1巻(1965[昭
和40]年)の
なか で い う
「
教 育 の 目的 は 、機 械 を っ く る こ とで は な く、
人 間 を っ く る に あ る と い っ た 、思 想 家 が い た 」(42)、「よ き 種 は 、 よ き 苗 とな り、 よ き 花 が 咲 こ う 、
よ き 少 年 は 、 よ き 青 年 と な る 。 よ き 青 年 は 、 よ き社 会 の 指 導 者 と育 と う」(43)。い う と こ ろ の 思 想
家 と は 、 も ち ろ ん 、 ペ ス タ ロ ッチ を 指 し て い る 。 《人 間 の 育 成 》 と 《国 民 の 育 成 》 と の 順 番 を 混 同
し な い こ と の 大 切 さ を 、 池 田 は ペ ス タ ロ ッチ か ら学 ん で い た 。(創 価 大 学 創 立 時[1964〔
年 に設 立 構 …
想 発 表 、1971〔
昭 和46〕 年 に 開 学]に
池 田が 語 った
昭 和39〕
「人 間 教 育 」 と い う言 葉 を 理 解 す
る 上 で も 、 こ の 点 に 留 意 して お く 必 要 が あ る だ ろ う。)
(4)人
類の進歩のために
こ うして 、 約30年 の苦 闘 を経 て 、 つ い にペ ス タ ロ ッチ の努 力 が 結 実す る ときが 訪 れ る。
(39)長 田 新
(40)前 掲
『国 家 教 育 学 』 岩 波 書 店 、1944年
『ペ ス タ ロ ッチ ー 伝
(41)『少 年 日本 』1949(昭
和24)年10E号
(42)池 田 大 作 『人 間 革 命 』 第1巻
(43)同 上 、27ペ
上 巻 』、8ペ
、81-82ペ
ージ。
ー ジ。
、130ペ
ージ。
、 聖 教 新 聞 社 、1965年
ー ジ。
-15一
、24ペ
ージ。
『少 年 日本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タ ロ ッチ」 に つ い て(2)
「
五 、 五十 三歳 で認 め られ る
ペ ス タ ロ ッチ の 生活 は 一 目一 日苦 しく な り遂 に 全 く乞食 同様 に な っ て しまい ま した 。/す
る と世 間 の
人 々 もペ ス タ ロ ッチ か ら遠 ざか っ て ゆ きま した 。 が 、 そ ん な事 に は気 にか けず 、 ま す ま す教 育 の 尊 さ重
要 さ を考 え て 子供 の 為 に尽 しま した 。/い つ の 世 で も この 様 な 心構 え こそ 偉 人 を作 り上 げ る 基 い で す 。
の ち にペ ス タ ロ ッチ は、無 一 物 に な っ て しま った の で 色 々職 場 を探 しま した が 、元来 無 器 用 な 彼れ に は 、
適 当な 所 が あ りま せ ん で した。/そ れ で、 そ の 貧 乏 の 中で 雑誌 社 に売 る原 稿 を書 く事 に きめ ま した 。 で
す が書 く紙 もな か っ た の です 。 それ で道 端 に捨 て られ た 紙 ぎれ を拾 っ て書 いた り しま した。 これ が 有名
な 『リー エ ンハ ドとゲル トル ー ド』 とい う物 語 りで あ った の です 。/や
っ との事 で この 原稿 を売 り生 活
も楽 に なっ て 来 た の です 。 この費 用 を つ か っ て更 に教 育 に身 を捧 げ五 十 三歳 の 時、 遂 に 社 会 的 に も認 め
られ 、 教 育 界 か ら も重 ん ぜ られ る様 に な りま した 。 これ よ り全 ヨー ロ ッパ の人 々 も彼 の 教 育 を見 習 う様
に な り世 界 の 歴 史 の 上 に 大 教 育 家 と して の頭 を擾 げた わ けで あ ります 。/人 類 の進 歩 には 最 も教 育 が 大
切 で あ りま す 。/立 派 な教 育 が な く して 何 の 人類 の発 展 が あ りえま し ょ うか 」(44)
教 育 事 業 に打 ち こ め ば打 ち こむ ほ ど、ペ ス タ ロ ッチ は経 済的 に貧 し くな っ た。 貧 し くな る にっ
れ て 世 間 の 人 々 もペ ス タ ロ ッチ か ら遠 ざか って い った
このエ ピ ソー ドを っ づ りな が ら、池 田
は 、 出版 事 業 の赤 字 に苦 闘 す る師 ・戸 田城 聖 に思 い をはせ てい た の で は なか ろ うか。 そ して 、50
代で 「
社 会 的 に も認 め られ 、 教 育 界 か らも重 んぜ られ る」 とい う勝 利 の劇 を、 戸 田が 演 じる で あ
ろ うこ とを確 信 し、 そ の実 現 の た めに も い ま 自分 は編 集 業 に取 り組 んで い るの だ と、 ひ そ か に わ
が 身 を鼓舞 した の で は な か ろ うか 。「五十 三歳 で認 め られ る」 とい う小 見 出 しに は、そ の よ うに想
像 させ る も のが あ る。 い うまで も な く 「五十 三 歳 」 とは、 ペ ス タ ロ ッチ が 戦 争 の 傷跡 も 生 々 しい
シ ュ タ ン ツ に赴 き 、大 教 育者 と して第 一 歩 を踏 み 出 した年 齢 に ほか な らな い。 ちなみ に 、「大教 育
家
ペ ス タ ロ ッチ 」 が 書 かれ た1949(昭
和24)年
秋 に 、戸 田は49歳 で あ った 。
さ き に本 稿 筆者 は 、池 田がペ ス タ ロ ッチ の 「二十 三 歳 」 の苦 闘 に 自分 を重 ね 合 わせ て い た の で
は ない か 、 との見解 を述 べ た。 これ らの 推 測 が も し正 しい とす るな らば 、 この エ ッセ ー の行 間 に
は 、戸 田 との師 弟 関係 が太 い糸 で 織 りこま れ て い る とい え るだ ろ う。 この こ とは 、池 田 が後 年 に
述 べ た 、「生涯 、苦 難 の な か を、誰 よ りも青 年 を愛 し、人 問 教 育 の 得 が たい 財 宝 を残 して くだ さっ
た戸 田先 生 の なか に、 ペ ス タ ロ ッチ のイ メ ー ジ がつ ね に ダブ って 私 の脳 裏 に浸 ぶ の で あ る」(『若
き 目の読 書 』)㈹ とい う言 葉 に よ って も、裏 づ け られ る よ うに思 う。
*
さて 、吠 教 育 家
ペ ス タ ロ ッチ」の 最 終節 に あた る上 の 文章 を 、当時 の他 のペ ス タ ロ ッチ伝 と
比較 した とき に 、 こ のエ ッセ ー の特 徴 をな す と思 わ れ る の は、 最 後 の 「人類 の進 歩 に は 最 も教 育
が 大切 で あ ります 。/立 派 な教 育 が な く して何 の 人類 の発 展 が あ りえま し ょ うか 」 とい う一 文 で
あ る 。 こ れ は 、 『隠 者 の 夕 暮 』 か ら19歳 の 池 田 が
「
読 書 ノ ー ト」 に 書 き 取 っ た 一 文
(44)『少 年 目 本 』1949(昭
(45)池 田 大 作
和24)年10月
号
、87ペ ー ジ 。
『若 き 日の 読 書 』 第 三 文 明 社 、1978年 、122ペ
-16一
ー ジ。
「
人類の純
創価教育研 究第6号
粋 な浄 福 の力 は す べ て 技 巧 や偶 然 の賜 物 で はな い。 それ らは、 す べ て の 人 間 の 本性 の奥 底 にそ の
根 本 的 の素 質 と共 に横 た は っ て い る。 それ らの浄 福 の力 を完 成 す る こ とは 人 類 の普 遍 的 の要 求 で
あ る」(46)を
典 拠 に して い る と見 て よい。 ま た 、 同 じ く 『隠 者 の夕 暮 』 にあ る、 「
三
人間 の
本 質 を なす も の、 彼 が 必 要 とす る もの 、彼 を向 上 させ る もの 、そ して 彼 を卑 し くす る も の、 彼 を
強 く した り弱 く した りす る もの 、 そ れ こ そ国 民 の牧 者 に も必 要 な も ので あ り、 最 も賎 しい小 屋 に
住 む人 間 に も必 要 な もの だ 。/四
至 る とこ ろで 人類 は この必 要 を感 じて い る。 至 る とこ ろで 彼
らは 困 苦 と労作 と熱 望 とを もっ て 向 上 しよ うと力 め て い る。 それ に も かか わ らず 人類 の 幾世 代 は
満 足せ ず に凋 落 して しま うの で 、そ の臨 終 の床 でお お 声 で 叫 ぶ 」(47>等の 文 章群 も 、典 拠 に数 えて
よい だ ろ う。
これ らの文 章 に通 底 す る キー ワー ドは 「
人 類 」で あ る。"人 類 の 向 上"の た め に真 実 の 教育 法 が
探 求 され ね ば な らな い とペ ス タ ロ ッチ は述 べ 、そ れ を池 田が 「人類 の進 歩 に は最 も教 育 が大 切 で
あ りま す 。/立 派 な教 育 が な く して 何 の 人類 の発 展 が あ りえま し ょ うか」 とい う結 語 に ま とめ て
い る。 とこ ろが 、 当時 の他 のペ ス タ ロ ッチ伝 を閲 す る と、 「人類 」 よ りも、 「
祖 国(日 本)」 とい う
言 葉 が 基 調 を な して い る の で あ る。 この こ とは 、 それ らのペ ス タ ロ ッチ伝 の なか で 「
人間」よ り
も 「
国 民 」 とい う語 が 多 用 され る構 造 と、 パ ラ レル な 関係 に な って い る。
まず 、池 田宣 政 『孤 児 の父
ペ ス タ ロ ッチ 』で あ るが 、 「
人 類 の 教 師 」 とい う章 の タイ トル を 除
く と、 「人 類 」 の語 力澄 場 す る の は次 の1箇 所 のみ で あ る。 「
ペ ス タPッ チ は 、何 故 に偉 大 で あ っ
た か。[… …]一 身 一 家 を か え りみず 、貧 民 救 済 の た め 、祖 国 興 隆 のた めに 、国 民教 育 を徹 底 させ
よ うと して 、新 教 育 法 を実 行 し、す す んで は教 育 に よっ て 、全 人 類 の幸福 につ くそ う と、献 身 敢
闘 した と ころ に、 偉 大 さが あ る」(48)。これ 以 外 の とこ ろ で は 、 た とえ ば 、 「
私[=池
田宣 政]は
諸 君 が ペ ス タ ロ ッチ の事 業 の表 面 だ けを見 ず 、 そ の根 底 とな っ て い る心 が ま え と、真 剣 なす が た
を よ く よ く吟 味 して 、 そ こ に学 び 、 自己 を たか め、祖 国 日本 に役 立つ 国民 にな って いた だ きた い
と思 う」(49)とあ り、あ くま で 「
祖 国 日本 に役 立 つ 」 こ とが 教 育 の 主 眼 と され て い る。 ま た 、長 田
新 は、 戦 後 に 出 した 『ペ ス タ ロ ッチ ー伝 』 の序 文 で 「
ペ ス タ ロ ッチ ー を今 日吾 が 国 に招 来 しよ う
とす る吾 々 の 意 図 に は 、右 に述 べ た よ うな 吾が 国 の教 育 学 の発 展 に 寄 与す る こ とを希願 す る とい
う謂 わ ば一 般 的 の 意 味 だ け で は な くて、 太 平洋 戦 争 に一 敗 地 に塗 れ て 、今 や 内 に外 に様 々 な危 機
に直 面 す る祖 国 の 急 を救 う一 っ の秘 術 を学 び取 ろ う とい う意 味 もあ る」㈹ と述 べ てい る。も ち ろ
んペ ス タ ロ ッチ は 、 若 き 日にル ソー の影 響 を深 く受 けて ス イ ス の 民 主 革命 に参 画 した ほ どの愛 国
者 で もあ った のだ か ら、 これ らの伝 記 が"祖 国復 興"の 指 標 を彼 に仰 ぐの も、敗 戦 とい う未 曾 有
の社 会 状 況 か らい って ご く自然 な 動 き で は あっ た ろ う。
も う一 つ 、別 の事 例 を見 て お き た い。 福 島政雄 は 、1929(昭
(46)前 掲 『隠 者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』、15ペ
(47)同 上
(48)前 掲
、8ペ
ー ジ。
『孤 児 の 父
ペ ス タ ロ ッチ』
、282ペ
(49)同 上 、283ペ
(50)前 掲
ー ジ。
ー ジ。
ー ジ。
『ペ ス タ ロ ッチ ー 伝
上 巻 』、8ペ
ー ジ。
-17一
和4)年
に 行 っ た長 大 な 講演 に 手
『少 年 日本』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 「
ペ ス タロ ッチ 」 に つ い て(2)
を加 え 、戦 後 に 『ペ ス タ ロ ッチ
隠者 の 夕暮 』(1954[昭
和29]年)と
して 世 に 出 して い る。 同 書
で彼 は 、池 田宣政 や長 田新 とは異 な る仕 方 で ペ ス タ ロ ッチ を 日本 に結 び っ け る。 す な わ ち、 ペ ス
タ ロ ッチ が18世 紀 ヨー ロ ッパ の圧 制 暴 虐 を激 し く弾劾 し、「
君 主 の親 心 、民 の子 心 」が 正 しい 国 家
社 会 を実 現 させ る と考 えた こ とにつ い て 、 福 島 は こ う評 す る ので あ る。
「
ペ ス タ ロ ッチ は 日本 に生 れ て 来 れ ば多 少 よか っ た か と思 う。 ドイ ツ 人 は ペ ス タ ロ ッチ が 同 じ ドイ ツ の
文 明 を持 ち 、 ドイ ツ哲 学者 の代 表 カ ン トの哲 学思 想 と符 節 を合 す る もの が あ る の でペ ス タ ロ ッチ を ドイ
ツ本 国 へ 引 込 も う と して居 る の で あ りま す が 、私 は別 にペ ス タ ロ ッチ を 日本 へ 引込 も うとは 致 しませ ん
が、 生 れ場 所 が違 っ て居 っ た様 な気 が す る。 若 し 目本 に生 れ て 居 った らペ ス タ ロ ッチ の言 うこ とは 一 方
に於 ては激 して も他 の 一面 に於 て は柔 らい で感 謝 と云 うこ とを しみ じみ感 じた こ とで あ りま し ょ う、 そ
の感 謝 と云 うこ とも 直接 に こ の 国家 社 会 に 対 して極 く 自然 に味 わ うこ とが 出来 た で あ ろ うと思 うと実 に
惜 しい こ とで あ る と云 うこ とを思 わな い で もあ りま せ ん」(51)
福 島 は そ の後 、1969(昭 和44)年
に も同様 の見 解 を披 渥 して い る。 「
ペ ス タ ロ ッチが 考 えて お る
よ うな理 想 の 国家 の姿 は、東 洋 の 日本 にお い て は じめ て発 見 で き る ので あ る」(52)、「
ペス タロッ
チ が 日本 の 国 に生 れ た な らば 、 あ あ この国 こそ は 自分 の理 想 とす る 国家 の、 あ る大事 な点 を備 え
て お る 国 家 で あ る。 こ の国 家 にお い て は、 自分 は 日の御 民 と して 、 そ の明 るい 方 に明 る く尽 す ご
と が で き る の で あ る と い う 自 覚 を 起 こ した に 違 い な い 」(『ペ ス タ ロ ッチ 読 本 』)(53)。福 島 は か な
りの 期 間 に わ た って 国 粋 主 義 に深 く参入 した 人 だ っ た が ㈱ 、戦 前 に関 す るか ぎ り、彼 の立 場 が
突 出 した もの で あ っ た とは必 ず し もい え ない 。 長 田新 の 『隠者 の 夕暮 ・シ ュ タ ンツだ よ り』 解 説
に も次 の よ うに あ っ た こ とを想 起 し よ う。 「
父 子 の情 こそ 天 皇 とわ れ ら国 民 とを結 ぶ紐 帯 で あ り、
君 主 の親 心 臣 民 の子 心 が わが 国 体 の本 義 で あ る。[… …]だ か らペ ス タ ロ ッチー の君 臣 関 係 は 『情
は 乃 ち 父子 』 と言 われ るか つ て の わ が 国 の君 臣 関係 に 比す る こ とが で き る と思 う」(55)。
*
お そ ら く、池 田宣 政 や 長 田新 、福 島政 雄 とい っ た 人 々 に とって は 、「
人 類 」 とい う言 葉 は あ ま り
に抽 象 的 ・主 観 的 ・形 式 的 に過 ぎ、 「
祖 国」や 「国 家 」 とい った言 葉 に こそ 具 体 性 ・客 観 性 ・実 質
性 が 感 じ られ た の で あ ろ う。 そ して 、彼 らのそ うした感 覚 に一 定 の妥 当性 が あ る こ と も否 定 はで
きな い 。 しか し、 「
祖 国」 とい う言 葉 も、一 っ の観 念 で あ る。観 念 が 独 り歩 き を し、富 国強 兵 政 策
のス ロー ガ ン的 な役 割 を担 うな ら ば、非 常 時 には 人 々 の 頭 上 に猛 威 をふ る うこ と にな る。 そ の最
大 の 被 害 者 こそ戦 時 下 の子 どもた ちで あ っ た。 太 平 洋 戦 争 勃発 の2ヵ 月 後 に発 行 され た 『初 等 修
(51)福 島 政 雄 『ペ ス タ ロ ッ チ
隠 者 の 夕 暮 』1954年
(52)福 島 政 雄 『ペ ス タ ロ ッチ 読 本 』(ペ ス タ ロ ッ チ
、 福 村 出 版 、122ペ ー ジ 。
『隠 者 の 夕 暮 』 福 島 政 雄 訳 、 角 川 書 店 、1969年
ペ ー ジ。
(53)同 上
、130ペ
ー ジ。
(54)同 上
、154-156ペ
ー ジ。
(55)前 掲 『隠 者 の 夕 暮 ・シ ュ タ ン ツ だ よ り』
、179-180ペ
-18一
ー ジ。
所 収)、129
創価教育研究第6号
身科
二 』(1942[昭
和17]年2月)の
一 節 を 見 よ う。
「
靖 国神 社 には 、 君 の た め 国 の た め につ く して な く な った 、 た く さん の 忠義 な人 々 が、 おま つ りして あ
ります 。[… …]/君
のた め国 の た め に つ く して な くな った 人 々 が 、 こ うして神 社 にま っ られ 、そ のお ま
つ りが お こな われ るの は 、天 皇 陛下 の お ぼ しめ しに よ る も ので あ ります 。/私 た ち の郷 土 に も、 護 国 神
社 が あ った 、 戦 死 した 人 々 が ま つ られ て い ます 。/私 た ち は、 天 皇 陛 下 の御 恵 み の ほ ど を あ りが た く思
ふ と とも に、 こ こ にま つ られ て い る人 々 の忠 義 に な らって 、 君 の た め 国 のた め に っ く さ な けれ ば な りま
せ ん」(56)
こ こで は 、 「
国 」は 単 な る"ふ る さ と"で はな く、子 ど もた ち一 人 ひ と りに絶 対 的 な 忠誠 と死 と
を要 求 す る"神"の
位 置 に祭 り上 げ られ て い る。 軍 国 主 義 に苦 しめ られ た 世 代 の な か に 、国 とい
う観 念 へ の不 信 感 を抱 く者 が い た と して も不 思 議 な こ とで は ない 。「
大教育家
著 者 は 、 ま さに そ の戦 中派世 代 一 一 よ り厳 密 に は"サ ク ラ読本 世 代"に
作 は1928[昭 和3]年
ペ ス タ ロ ッチ」の
属 して い る(池 田大
生 れ)。 池 田宣政 や長 田新 のペ ス タ ロ ッチ伝 を参 照 しっ っ も、彼 ら とは異 な
る表 現 を選 ん で い る の は、確 た る理 由 が あ って の こ とで あ る。 それ に、な ん とい っ て も、「
大教育
家
ペ ス タ ロ ッチ」 の読 み 手 は 、 軍 国主 義 の痛 苦 を嘗 め させ られ た子 どもた ち で あ る。 国 とい う
観 念 に青 春 を奪 われ た人 間 が 、 同 じ被 害 を こ うむ った 後 輩 の世 代 に 向 けて 、 そ の観 念 の 使用 を控
え る の は きわ め て 当然 の処 置 とい え よ う。
エ ッセ ー 「大 教 育家
ペ ス タ ロ ッチ 」が 「
人 類 の進 歩 」 「
人類 の発 展 」 とい う言 葉 を用 い てペ ス
タ ロ ッチ 教 育 学 の意 義 を捉 えて い る こ との意 味 が 、い まや 多 少 な り とも浮 か び 上 が っ て きた の で
は なか ろ うか 。 も う一 度 『少 年 日本 』10A号
の編 集 後 記 を 引用 して 、 こ の項 の 締 め く く りに した
い。「
雑 誌 の進 み 方 も、面 白 くて勉 強 の材 料 にな り、又 内容 も これ か ら新 しい 世 界 を築 き 上 げ る少
年 に 、 力 強 く豊 か な 気 持 を抱 か せ る 様 、 希 望 し て 居 り ま す 」(57)。
ここ で い われ る 「
新 しい世
界 」 とは 、 当然 な が ら、 日本 とい う特 定 の場 所 を意 味 して い るの で は ない 。 国 家 主 義 とい う名 の
ム ラ意 識 か ら脱 却 し、 全人 類 の進 歩 と発 展 を願 う
そ う した 人 間 の ま え に広 々 と開 け て い る 空
間 の こ とをい うの で あ る。 こ のエ ッセ ー の 語 りか け に応 えて 学 ぼ うとす る 、一 人 ひ と りの少 年 少
女 が住 む とこ ろ、 す べ て の土 地 が"新
しい 世界"に
ほ か な らな い 。雑 誌 の タイ トル で あ る 『少 年
目本 』 とい う言葉 も、本 当は 、 そ う した"若 き世 界 市 民"の 別 号 と解 す べ きで あ る(58)。(ち な み
(56)『
初 等 修 身科
二』 文 部省 、1942年 、7-9ペ
ージ。
和24)年10月 号 、130ペ ー ジ。
(58)当初 「日本 少 年 」 とい う誌 名 が予 定 され つ つ(『 冒 険 少年 』8月 号 、49、57、72ペ ー ジ の編 集 部 記 事 を 参
(57)『
少 年 日本』1949(昭
照)、 最 終 的 に 『少 年 日本 』 と な っ た理 由 も、 こ の こ と と関 係 して い るの で は な か ろ うか。 「日本 少年 」
とい う名 前 で は、 ど う して も"日 本 の少 年"く らい の意 味 しか想 像 させ る こ とが で き な い。 これ に対 し、
『少 年 目本 』 とい う名 前 は、"目 本 とい う名 の少 年"を 意 味 し、そ の ぶ ん ス ケ ール が大 き く感 じ られ る の
で あ る(つ ま り、戦 後 の"新 生 目本"を 象 徴 す る名 前 とい うこ とで あ る)。いい か えれ ば 、「日本 少 年 」(=
目本 の 少 年)の 活動 範 囲 が あ くま で 日本 に 限 られ る の に対 し、 「
少 年 日本 」(日 本 とい う名 の 少 年)の そ
れ は 全 世 界 に開 かれ て い る の で あ る。 一
も っ とも 、 以 上 は あ くま で 本 稿 筆 者 の 仮 説 で あ り、 本 格 的 な
一19一
『少 年 日本 』掲 載 の 山本 伸 一郎 「
ペ ス タ ロ ッチ 」 に つ い て(2)
に、 「
樒 盤 を 動 かす もの は 世 界 を 動 かす 」 とい うペ ス タ ロ ッチ の 広 く知 られ た格 言 が あ る。い ま 言
及 した 「
新 しい世 界 を築 き上 げ る 」 とい う言 葉 の なか に、 池 田が創 価 大 学 創 立 時 に掲 げ た 「新 し
き大 文 化建 設 の癌 盤 た れ 」 とい う基 本理 念 の原 型 を見 る こ と も可能 で あ ろ う。)
むす びに
以 上 、 山本 伸一 郎(=池
田大 作)筆 のエ ツセ ー 「
大教育家
ペ ス タ ロ ッチ 」 につ い て 、執 筆 の
背 景 、成 立 の過 程 、 内容 の意 義 を探 索 して み た。 前 編 ・後 編 あ わせ て(注 を含 め)原 稿 用紙200
枚 分 にお よぶ 冗長 かつ 煩 碩 な 叙 述 とな っ た が 、 こ のエ ッセ ー に込 め られ た メ ッセ ー ジ を可 能 な か
ぎ り精 確 に把握 して 、21世 紀 とい う時代 を 生 き る うえ で の糧 とす る た め に は 、最 小 限 、 これ だ け
の手 続 き をふ む ほ か なか った 。 本 当は 、 これ で もま だ足 りない の だ が。
とも あれ 、19歳 か ら21歳 にか けて の若 き 日々 に 、池 田大 作 が い か な る思 い で ペ スタ ロ ッチ を読
み 、 そ こか ら何 を得 て い たか とい うこ とは 、本 稿 作業 を通 して少 しは 明 らか に な った よ うに 思 わ
れ る。 平和 へ の切 な る思 い、 女 性 の もつ 可 能 性 へ の期 待 、苦 闘す る若 者 へ の共 感 、人 間 教 育 へ の
情熱 、虚 飾 や 保 身 へ の怒 り、人 類 へ の 貢 献 の決 意 、 等 々
ッセ ー 「
大教育家
これ ら さま ざま な要 素 を包 蔵 した エ
ペ ス タ ロ ッチ 」 は、 池 田の そ の後 の著 述 活 動 を予 感 させ る に十 分 な発 動 力 と
方 向 性 とを有 して い る。 そ して 、 創 価 大 学 をは じめ 幾 多 の教 育機 関 を設 立 す る実 践 の 原 点 が 何 で
あ っ た か を も教 えて くれ る(59)。この エ ッセ ー ほ ど池 田 の 《処女 作 》 と呼ぶ にふ さわ しい 文 章 は
な い一
い ま本 稿筆 者 は 、世 の研 究 者 に 向か っ て そ う断言 した い 思 い で あ る。
ま こ とに 、青 年 時 代 の 読書 ほ ど、人 間 の 精 神 形 成 に あず か って 力 あ る もの は な い。 しか も池 田
の 場 合 は 、 終戦 か らま もな い大 動 乱 期 に あ って 、 新 生 日本 の未 来 を思 索 しつ つ 、 おの れ の使 命 を
模 索 しな が らの読 書 で あ っ た。実 りが少 な い はず が ない 。 「
読 書 ノー ト」 に抜 き 書 き され た5つ の
文 章 が いず れ もペ ス タ ロ ッチ教 育 学 の重 要 テ ー ゼ で あ る こ と、そ して 「
大教育家
の描 く人 物 像 が数 々 の 点 で 時代 の真 実 の要 求 に適 って い る こ と
ペ ス タ ロ ッチ 」
この2つ の事 実 は 、池 田 の読
書 が い か に 真剣 で真 面 目な もの で あ った か を物 語 って 余 りあ る。 真 の読 書 とは 、 ま さ し くこ の よ
うな行 為 をい うので あ る。
考 察 は今 後 の課 題 と した い。
(59)「大教 育 家 ペ ス タ ロ ッチ 」 を 書 い た翌 年(1950[昭
和25]年)の11A16日
、 池 田は 日記 に こ う記 してい
る。「
昼 、戸 田先 生 と、 目大 の食 堂 に ゆ く。/民 族 論 、学会 の招 来 、経 済 界 の動 向 、大 学 設立 の こ と等 の 、
指 導 を戴 く」(池 田大作 『
若 き 日の 日記
ペ ー ジ)。 ま た 、 この約6週
上 』[『池 田大 作全 集 第36巻 』 所 収]聖 教 新 聞社 、1990年 、155
間 後 の12月28日 の 日記 に は こ うあ る。 「
ナ ポ レオ ン は、 戦 勝 した 。 次 に、 大
敗 、又 戦 勝 。 最 後 は 、 敗 戦 の 英雄 で あ っ た 。/ペ ス タ ロ ッチ は、 五 十 年 の 人 生 の戦 い は、 完 敗 の如 くで
あ った 。 而 し、 最 後 は 、 遂 に 勝利 の 大 教 育者 と して飾 っ た。/今 、 自分 は、 どの よ うに戦 い、 ど の よ う
に終 幕 を飾 るか が 重 大 問 題 だ 」(同 、174-175ペ
ー ジ)。 一
師 ・戸 田城 聖 との語 ら い のな か で、 若 き池
田の胸 中 に大 学 設 立 の 構 想 が 芽 生 え 始 めた ころ 、 ペ ス タ ロ ッチ は池 田 の魂 を鼓 舞 す る偉 人 の一 人 で あ っ
た。
-20一
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