...

歴史教育における高等学校・大学間接続の 抜本的改革を求めて(第1次案)

by user

on
Category: Documents
22

views

Report

Comments

Transcript

歴史教育における高等学校・大学間接続の 抜本的改革を求めて(第1次案)
歴史教育における高等学校・大学間接続の
抜本的改革を求めて
(第1次案)
─ 世界史B・日本史Bの用語限定と思考力育成型教育法の強化 ─
2014 年 7 月
高等学校歴史教育研究会
高等学校歴史教育研究会
代表 油井大三郎(東京女子大学特任教授)
小川 幸司(長野県高等学校教員)
木村 茂光(帝京大学文学部教授・日本学術会議会員(史学委員会))
君島 和彦(東京学芸大学名誉教授)
戸川 点(町田高校定時制教員)
故鳥越泰彦(麻布学園教員)
中村 薫(大阪大学招聘教員)
桃木 至朗(大阪大学文学研究科教授・大阪大学歴史教育研究会代表)
安井 崇(東京学芸大学附属高等学校教諭)
吉嶺 茂樹(北海道有朋高等学校(通信課程)教諭)
目
次
Ⅰ.はじめに─グローバル化時代の歴史教育はどうあるべきか─·························
1
Ⅱ.高等学校における世界史 B・日本史 B 教育の現状と問題点 ···························
5
i)高校歴史教科書の用語増大と暗記中心の歴史教育 ·····································
7
ⅱ)なかなか定着しない思考力育成型の歴史教育 ···········································
9
ⅲ)小中学校社会科(歴史分野)と高等学校の接合上の問題点························· 11
ⅳ)多様な高校制度に対応した歴史教育の問題点 ··········································· 14
v)大学入試における歴史系出題の問題点 ···················································· 16
ⅵ)歴史教育における高等学校と大学の接合上の問題点 ·································· 18
a)高等学校と大学における歴史教育の接合 ·············································· 18
b)大学における歴史教育の問題点 ·························································· 20
Ⅲ.小中学校・大学と高等学校の接続における歴史教育改革の提案······················· 23
i)小中学校との接続を意識した高等学校歴史教育の改革 ······························· 25
ⅱ)新 A 科目との関連づけ ········································································ 28
ⅲ)思考力育成型の歴史教育とデジタル教材 ················································· 29
ⅳ)歴史的思考力育成のための大学入試改革 ················································· 33
a)センター試験・日本史 B の改革案 ······················································ 33
b)個別大学入試における世界史 B の改革案 ············································· 37
v)大学における歴史教育改革 ··································································· 40
Ⅳ.高等学校の歴史教育用語の限定と思考力育成型教育の強化 ···························· 43
i)高等学校の歴史教育用語を限定するガイドラインの提案 ····························· 45
a)世界史 B ························································································ 45
b)日本史 B 1.近代
2.前近代 ······················································· 51
ⅱ)歴史的思考力を育成するための教科書改革モデル案の提示························· 60
a)世界史 ··························································································· 60
b)日本史
1.近代
2.前近代 ·························································· 68
c)『韓国近現代史』教科書の場合 ··························································· 78
Ⅴ.終わりに ······························································································ 81
Ⅰ.はじめに
─グローバル化時代の歴史教育はどうあるべきか─
i)グローバル化時代とは?
従来、歴史教育の議論の中心は歴史観の内容の新しさを競うものがほとんどであった印象が強
い。例えば、政治史から社会史へとか、ヨーロッパ中心史観からグローバル・ヒストリーへ、な
どといった具合である。しかし、OECD の PISA テストの導入などを契機として思考力育成型の
教育の重要性が多方面で強調されるようになり、歴史教育においても教育の技法やスキルの改革
が喫緊の課題となっている。
グローバル化については賛否両論があり、歴史教育がそれに対応するべきかどうかも論争的
テーマであろう。しかし、グローバル化は好むと好まざるとに拘わらず、進行してゆくものであ
り、否定的な影響に対するものも含めて歴史教育も対応を迫られている。事実、グローバル化の
荒波は教育分野にも及び始めており、OECD の PISA テストで各国の教育がランクづけされ、世
界中の教育界が一喜一憂しているのもその象徴であろう。
グローバル化は、ひと・もの・かね・情報の国際移動を活発にし、企業の海外進出などに伴い
日本人の海外活動が質量とも増大している。企業内の公用語を英語にする企業さえ登場している。
また、日本国内に居住する外国人の数も増加し、日本の各地で多文化共生社会の構築が必要になっ
ている。さらに、情報通信革命の進展により情報が瞬時に世界を駆け巡る利点が増大する一方、
表面的な情報があふれ、対面的コミュニケーション力が低下する欠点も指摘されている。また、
グローバルな経済競争は国内外で社会的格差を拡大し、若者の非正規雇用を増大させ、若者の間
に排外的な風潮を強めてもいる。その結果、現在の若者の間では、将来に対して前向きな夢を抱
くものが減少し、内向きの傾向が強まっているという。
このようなグローバル化の両面的影響が日本でもみられる中で、歴史教育はどのように対応す
べきであろうか。実業界や官界ではしきりに「グローバル人材」育成が強調され、そこでは英語
力だけでなく、自己表現力や討論力の育成が重視されている。このような動向に対応して大学レ
ベルでも「グローバル・キャリア教育」講座の開設などが始まっている。他方、グローバル化に
よる社会的格差の拡大に関連しては、イギリスなどを中心に「シティズンシップ教育」の実践が
進行している。それは、グローバル化に伴って、若者の間に移民排斥的な風潮が強まったり、政
治的無関心が横行する中で、多文化共生的な市民教育が必要になっているためであろう。
つまり、
「グローバル人材育成」のようにグローバル化の担い手を育てる教育が推進される反面、
グローバル化の否定的影響を是正するための新たな市民教育が模索されているのが現在の特徴で
あろう。このような状況への歴史教育の対応が問われている。
ⅱ)日本の高等学校における歴史教育の現状
グローバル化への教育界での対応として顕著なのは、小学校からの英語教育の開始だろうが、
それ以外の分野でも「キーコンペテンシー」など「新しい学力」が重視され、
「クリティカル・シ
ンキング」とか、「プレゼンテーション力」とか、「課題解決型教育」とか、「多文化リテラシー」
-3-
の育成が重視されている。それは単に教育行政側が上から実行しようとしているだけでなく、国
民的な関心事にもなっており、ハーバード大学の政治哲学者のマイケル・サンデル教授が東京大
学で実施した「対話型授業」が NHK テレビで放映されるほどであった。
このようにグローバル化との関連で強調されている「新しい学力」は歴史教育にも大いに関係
するものである。世界史教育は「他文化リテラシー」育成の中心的要素であるし、日本史教育は
「自文化リテラシー」の育成に不可欠なものである。また、史料の収集・批判的解釈、自主学習
と発表、グループ学習・討論などは歴史的思考力育成の中心的要素でもある。しかし、高校の歴
史教育の現場では依然として用語の暗記中心の教育が継続され、それは大学入試の歴史系の出題
が些末な用語の暗記力を問うような問題を出し続けているためといわれ、この悪循環を絶つ方法
が提示されていない状態が続いている。
他方、学習指導要領では「歴史的思考力」育成の重要性が指摘されてはいるが、それは教科書
の数%程度しか占めていない「主題学習」で試みられているにとどまっている。圧倒的部分をな
す通史記述では様々な史料・地図・統計などが示されているものの、本文との関係を生徒に考え
させるような設問の設定もない状態が長年続いている。
また、2006 年秋には必修の世界史を教えないで他の科目で代替させる「世界史未履修問題」が
発覚した。この問題を解決するため、日本学術会議では世界史 A と日本史 A とを統合した「歴史
基礎」を必修として新設し、合わせて歴史的思考力を育成する教授法の採用を 2011 年 8 月に提
唱した。また、B 科目についても重要用語を限定したガイドラインを作成し、大学入試もその範
囲で出題するようなコンセンサスを構築するように提案した。他方、2014 年に入って、一部に日
本史必修化の提案がだされてきた。現行の小中学校における社会科(歴史分野)の教科書は日本
史中心となっており、その傾向を変えずに、高等学校でも日本史のみを必修化した場合、世界史
履修者は激減し、外国の歴史や文化に関する生徒たちの知識はごく僅かしかなくなり、まったく
グローバル化時代に対応できなくなる心配がある。日本でも国際バカロエアに対応できる教育が
問われているだけに、内向きの傾向を強めるような方向には疑問を呈さざるを得ない。
ⅲ)高等学校の歴史教育改革の方向
この高等学校歴史教育研究会は高等学校の歴史教育の中心をなしている B 科目の重要用語を限定
するガイドライン案を作成し、用語の減少によって発生する時間的余裕を活かして、思考力育成型
授業を強める改革案を作成することを目的として、2012 年 10 月から三菱財団人文科学助成金をえ
て発足した。この問題を解決するには、教科書執筆の中心になっている大学の歴史研究者と高等学
校で実際に歴史教育を担当している高等学校教員との率直な意見交換が不可欠であると考え、10 名
のメンバーを大学と高校の教員が半々となるように配慮した。以来、約1年半の検討を経て、重要
用語を限定するガイドライン案を作成し、合わせて歴史的思考力を育成できる教授法のモデル案を
完成するにいたった。ここに、改革の第一次案を提案し、関係者の皆さんに積極的な検討をお願い
するものである。
(油井大三郎)
-4-
Ⅱ.高等学校における世界史 B・日本史 B
教育の現状と問題点
ⅰ)高校歴史教科書の用語増大と暗記中心の歴史教育
初の世界史検定教科書4点が登場した 1952 年には、村川堅太郎・江上波夫・林健太郎『改訂版世
界史』
(山川出版社)の「序」が、次のように言い切っている。
諸君がこれから学ぼうとする歴史という学問は、俗に“暗記もの”と呼ばれることがある。
(中
略)しかしすこしよく考えてみれば、そんな問題を出す試験が間違っているのであり、またその
ようにしてこの学科を終了したとする学生は本当の意味で歴史を学んだとはいえない。
たしかに歴史は正確な事実の知識を基礎とするものであるが、単なる知識の集積でなくして、
それがわれわれの行動の指針となるとき、はじめて本当の意味で歴史を学んだといえるのである。
歴史を“暗記もの”ととらえるだけでは、
「本当の意味で歴史を学んだとはいえない」し、試験が“暗
記もの”の原因になっているのだとすれば、
「そんな問題を出す試験が間違っている」と厳しく指摘
しているのである。しかし同じ著者たちが5年後には、軌道修正をしている。昭和 37 年(1962 年)
発行の『六訂世界史』
(山川出版社)の「序」
(1957 年の日付)では、こうなった。
歴史学はけっしていわゆる暗記物ではないが、事実に立脚している学問であるから、基本的な
事実だけはしっかりと頭に入れていかねばならないし、一方、その史実を通じて流れている歴史
の大きな傾向を把握するよう努めなければならない。
と、暗記を奨励しているのである。確かに「基本的な事実だけはしっかりと頭に入れていかねばなら
ない」というのは、そのとおりである。しかし教科書に書かれていることが「基本的な事実」である
と考えることで、その暗記の有無だけを問うような試験問題がよしとされ、結局、歴史は“暗記もの”
であるという学び方をうみだしてきたのではあるまいか。そして教科書の内容が深くなり、現代史の
叙述のページが増えることで、教科書に盛り込まれる歴史用語が改訂のたびごとに増加しても、その
歴史用語は「基本的な事実」なのだから、
「暗記している生徒こそが世界史をよりよく学んでいる生
徒である」と単純に考えられてきたのである。もちろんそれは山川出版社の著者たちの責任であると
は言えない。戦後日本の大学の教員と高校の教員が、
「基本的な事実」を暗記することが歴史学習だ
という単純な発想を共有し続けてきたことに、問題の根があると私は考えている。
初の検定教科書の登場から現在までに、教科書の歴史用語がどれくらい増えたのかをみてみたい。
そのためには巻末の「索引」の数を数えればよいだろう。村川・江上・林『改訂版世界史』
(山川出
版社、1952 年)は、365 ページで、索引の語句が 1,284 個である。本文でのゴチック体強調もない。
三上・尾鍋・秀村『世界史 再訂版』
(中教出版、1953 年)は、425 ページでやや厚いが、索引は 1,549
個である。
これに対して現在の世界史教科書はというと、こうなる。佐藤次高・木村靖二・岸本美緒ほか『詳
説世界史 B』
(山川出版社、2013 年)は、歴史用語がなんと 3,873 個。この 50 年間で 2,500 個以上
も増えたことになる。当然、ゴチック強調も随所にある。他の世界史教科書も大体、3,500 前後の歴
史用語が盛り込まれている。
世界史教科書は、大きくわけて詳述型と概説型の2種類があるが、概説型は詳述型を下敷きにして、
その内容を精選することで作られている。一方、詳述型は「大学入試」に必要な暗記事項が盛り込ま
れていることが求められる。
「大学入試」の作成者の側は、どうしても採択部数の多い教科書を参照
して作問をする。すると他の教科書会社は、採択部数の多い教科書の歴史用語を自社の教科書に載せ
ながら、より丁寧で深みのある叙述を展開しようとして、歴史用語を“上乗せ”する。すると採択部
-7-
数の多い教科書会社も、改訂のたびごとに他社を意識して歴史用語を“上乗せ”する。よく言えば、
丁寧な教科書を作りたいという熱意が原動力となり、悪く言えば、入試に対応しようとすることに
よって入試をより難しくさせている(別の角度から言えば高校生がいかに学ぶかという想像力を欠如
させた)教科書づくりが仇となり、世界史教育は“暗記地獄”の落とし穴にはまってきた。こうして
50 年間で 2,000 個以上も高校生が暗記しなければならないことが、増えてきたのである。
これは教科書会社を責めるだけで解決する問題ではない。教科書会社は全国の高校教師に自社の教
科書に対するコメントを収集して編集方針に反映させる。その場合のコメントとは、多くが「~は入
試に出るのにこの教科書には書かれていない」というものである。従って歴史用語を盛り込み、限ら
れた字数のなかでいかに巧みに歴史用語を並べて、わかりやすく歴史の流れを描き出すかということ
を、各社が競うことになる。歴史用語が小さな布切であり、それをいかに組み合わせて1ページの大
きさにパッチワークとしてまとめるかが、職人芸として教科書の執筆者に求められてきたわけである。
これこそが重要だと必死に暗記させられるゴチック体の歴史用語も、大概は編集者が用語集に掲載
されている「頻度」
(何冊の教科書に掲載されているかをカウントしたもの)などを参考に、大した
意味もなく太字にしたものにすぎない。1ページあたりに“適度に”太字が散りばめられているよう
に、単なる見栄えで調整されることもありうる。これこそが重要だから暗記すべき…という根拠など、
一切ないのである。
あらためて振り返れば、そうした教科書を使う授業は、
「単なる知識の集積でなくして、それがわ
れわれの行動の指針となるとき、はじめて本当の意味で歴史を学んだといえる」という 1952 年の世
界史教科書の序文とは、ほど遠い授業となる。世界史を大学入試に使う高校生は、全体の中ではごく
わずかにすぎない。しかし受験世界史の授業こそが基本パターンのようなものになり、世界史の入試
を受けるわけではない高校生に対する授業の多くも、受験世界史の知識量を“減らして”教授される
ものになっているにすぎない。多くの高校世界史の授業は、穴埋めプリントをもとに教師が一斉講義
をするものになっており、それは知識を系統的に教えて、知識の周囲にある歴史のエピソードをスパ
イスのようにまぶしたものにすぎない。受験対応の世界史であるか、そうでない世界史であるかは、
穴埋めプリントの“穴の数”の大小の違いにすぎなくなっているのである。
こうした結果、高校世界史は「素朴な分類学」とも言うべき事態になっている。
“暗記地獄”は、
確かに高校生の知識獲得の好奇心を鍛える効果はあるかもしれない。しかし世界史が単なる「素朴な
分類学」になっていることによって、高校生も高校教師も“考える”ことをしなくなっているのでは
ないだろうか。
「素朴な分類学」というのは、世界の事象にラベルを貼って整理をし、それを覚えればよしとする
学びのスタイルである。それは素朴な実在論に立っており、ラベル(名辞)というものは物自体(事
象自体)とは本来異なるものであるという唯名論の世界観に気づいていない。しかしながら世界史の
学びとは、唯名論に立たなければ、成立しえないものなのではないだろうか。なぜならば、自分たち
がラベルを貼った人間のいとなみとありようが、不変のものになってしまうからである。
「素朴な分類
学」にとどまっている学びは、事象を永続的なものであると考えてしまうのだ。
「素朴な実在論的世界
観」に立つならば、冷戦、欧米の覇権、民族、国民…などなど、眼前の事象が未来にもずっと存続す
る不変なものとしか見えなくなってしまう。そのような世界観は、実は物事を「歴史」のなかでとら
えていない。実在論的世界観では、世界の物事は移り変わるものであり、その変化のなかで自分がい
かに生きていくべきかを考える、主体性が立ち上ってこないであろう。
世界史を学ぶことが、国民として、市民として、人間としての自分を見つめ直す「問い」をもつこ
とにつながらないのである。
(小川幸司)
-8-
ⅱ)なかなか定着しない思考力育成型の歴史教育
a)現状の問題点
「歴史的思考力」育成の重視は、1956 年の高等学校世界史の学習指導要領で初めて「目標」に
登場し、1970 年から日本史にも登場、主として「主題学習」で実践されてきた(田尻信壹『探求
的世界史学習の創造』梓出版、2013 年、p.6)。しかし、現行の高等学校歴史教科書には、欧米
や韓国でみられるような設問で生徒に歴史的事件の原因や意義を考えさせる工夫が欠如している。
近年、主題学習のなかに設問を設ける教科書が出てきているが、主題学習は教科書全体のページ
数の数%をしめるにすぎない上、学校現場では大学受験に関係ないとして軽視する傾向が強いと
いう。
勿論、高等学校で歴史教育を担当する教員の中には独自の工夫により生徒に歴史を学ぶ楽しさ
を伝え、思考力の育成に努力する教員もあるが、多くは伝統的な用語暗記中心の教授法を継続し
ているケースが多いという。それは、史学系の学科・学部出身の教員の場合、大学の教職課程で
十分思考力育成型の授業方法を学ぶ機会がなかったため、伝統的な方法に固執せざるをえないた
めであるともいわれている。また、大学の入学試験で些末な用語の暗記力を問う出題が続いている
ため、伝統的な教授法の方が大学進学の実績向上に有利になるとの判断も働いているという。
その結果、高校生の間では世界史や日本史は「暗記科目」というイメージが定着し、大学進学
生の場合は、受験のために必死に暗記するが、受験が終われば忘却し、大学での勉強に役立って
いない状態が続いている。その結果、歴史教育が本来もっている現在を長い時間軸の中に相対化
したり、他国との比較の中で複眼的な視点を身に着けるような利点が若者に定着せず、多くの生
徒が「歴史離れ」したり、「内向き」の「現在中心」的傾向に陥っているといわれている。
欧米や韓国の歴史教科書では、各章末や見開き2ページに 1 回は設問を設定し、通史的説明と
史料・地図・統計などとの関連を生徒に考えさせる工夫がある。しかし、日本の歴史教科書では
小中学校の社会科(歴史分野)や高等学校の A 教科書では近年、工夫が増えているものの、B 教
科書では依然として伝統的な通史叙述中心型がほとんどであり、B 教科書の抜本的改革が必要と
なっている。
b)歴史的思考力とは何か
日本で「歴史的思考力」育成型の授業が定着していない原因の一つに、
「歴史的思考力」とは何
で、どう伸ばせばよいのか、というイメージが定着していないことがあると考えられる。そこで、
諸外国の実践例を紹介した上で、日本でのあり方を検討してみたい。
まず、米国の場合であるが、米国では 1980 年代に日米貿易摩擦が深刻化する中で、地方分権
的な教育システムへの批判が強まり、全国的基準の作成が求められた。その結果、1990 年代半ば
に『全米世界史基準』と『全米アメリカ史基準』が公表されたが、ここでは通史的な「歴史的理
解」と「歴史的思考力」は車の両輪と位置づけられ、通史の説明と関連づけながら、設問などの
設定によって様々な思考力の育成が重視されていた。また、
「歴史的思考力」の構成要素としては、
①過去・現在・未来を区別する年代的思考力、②歴史的叙述の主題を読み取る能力などの歴史的
-9-
構想力、③史実と解釈を区別する歴史分析と解釈、④史料の収集などの歴史探究力、⑤過去の争
点を確認し、将来の意思決定に活かす歴史的争点分析と意思決定、の5点からなっていた。
米国の場合は、元来、プラグマティックな精神風土があるため、歴史の教訓を現在の意思決定
の活かそうとする傾向が強いし、歴史教育を社会科教育の一環に位置付けたように、歴史教育も
自立した市民の育成のためとして自主学習・発表・討論を重視する傾向が強い。
次に、英国の場合は、1995 年改訂の『ナショナル・カリキュラム』で、歴史的思考力の構成要
素が次のように示されている。①年代順の理解、②過去の出来事や人物及び変化に関する知識・
理解、③歴史的解釈、④歴史的調査、⑤構成とコミュニケーション(土屋武志『解釈型歴史学習
のすすめ』梓出版、2011 年、pp.53-4)。ここで指摘されている諸要素はほぼ米国のものと共通
しているが、独自な点は⑤の構成とコミュニケーションを独立の要素と把握している点であろう。
歴史学習が個人的なものでなく、それ自体集団で行われ、その経験が自立した市民育成に役立つ
との発想が強いのであろう。
第三に、『独仏共通教科書・現代史』2006 年でも思考力の育成が重視され、見開き2ページの
中、通史的説明は1/3 程度で、残りは史料・地図・統計などで構成され、必ず本文と資料との関
連を問う設問が2ページごとに設定されている。ただし、歴史的思考力の構成要素については簡
便に、①文書の説明、②地図の読解、③統計データの分析、④戯画の解読、⑤論文執筆、⑥プロ
ジェクト発表、⑦レポート作成などの要素が列記されている。
第四に、日本でも近年、歴史的思考力の育成を重視する傾向が強まっている。例えば、鳥山孟
郎・松本通孝編『歴史的思考力を伸ばす授業づくり』(青木書店、2012 年)では、①情報分析・
発信力、②社会の動きの歴史的理解力の 2 本立てで歴史的思考力を位置づけ、有益な実践例が紹
介されている。また、日本学術会議が 2011 年8月に発表した提言では、①過去への興味・関心の
喚起、②歴史的資料の調査力、③歴史的分析・解釈力、④時系列的思考力、⑤意思決定の連鎖と
しての歴史学習、という5要素を指摘している。この5要素は、米英の事例とかなり重なるもの
であるが、冒頭に「過去への興味・関心の喚起」を置いている点に独自性がある。なんといって
も歴史学習の出発点は「過去への興味・関心」にあると考えたためであろう。
以上のように、歴史的思考力の構成要素に関しては様々な見解があるが、概ね共通した理解が
見られる。それは、史料に基づく実証と現在を長い時間の流れの中に相対化する姿勢を身に着け
ることで、生徒の「生きる力」となることを重視するものであろう。また、生徒の個人的能力の
育成だけでなく、グループ調査・発表・討論を通じて集団的に育成を図ることで、その学習自体
が「自立した市民」の養成に資することも目指しているのだろう。日本でも初等・中等学校にお
ける歴史教育は敗戦後の占領改革の一環として「社会科」の中に位置付けられた意義をもう一度
再確認した上で、グローバル化時代に対応できる「新しい市民」育成に役立てる歴史教育への抜
本的改革が求められている。(油井大三郎)
-10-
ⅲ)小中学校社会科(歴史分野)と高等学校の接合上の問題点
a)教科書について
1990 年代、「新しい学力観」という言葉が教育界で語られ、それに基づく教育が求められた。
この「新しい学力観」について、当時の教科調査官は「これからの教育は、これまでの知識や技
能を身につけさせることに偏重した学習指導を根本的に見直し、子どもが自ら考え主体的に判断
し、表現できる資質や能力の育成を重視する学習指導へ転換を図ることが求められる」1とし、
「学
習者である生徒が主役の授業、生徒の主体的な学習を促す授業を展開することが要請されている」
2と指摘した。このように、当時新しい学力観に立つ授業が求められたのであるが、生徒の側から
みての実態はどうであったかを、2007 年度に「社会科教育法」の授業を担当した大阪大学生に調
査したことがあるので、それについて紹介したい3。
表1 小・中・高等学校での社会科授業についての大学生の印象(数字は人数で、計 46 名)
① 知識の伝達に偏重した伝統的な授業であった
② 新学力観に立つ授業であった
③ どちらでもない
小学校
26
7
13
中学校
38
4
4
高等学校
44
0
2
表 1 から明らかなように、学生たちの社会科授業についての印象として、
「自ら学び考える子ど
もを育てることを重視した新学力観に立つ授業が中心だった」という印象をもつ学生の比率は、
小学校では 15.2%、中学校では 8.7%と少しは見られたが、高等学校では0であった。校種別で
いうと、国立の学校で最も「新学力観に立つ授業」がみられたが、小学校・中学校では過半数の
学生が「新学力観に立つ授業」が行われたという印象をもっていたのに対し、高等学校では皆無
であった。実際のところ、筆者自身が授業見学したある国立大学付属学校の印象を示すと、中学
校では課題を与え、生徒に討論や話し合いをさせ、発表させるという授業が行われていたが、高
等学校になると教員が板書やプリントを使ってひたすら講義式の授業をしているという光景がみ
られた。高等学校への編入が可能な中学校と大学への出口が確保されていない高校との違いもあ
ろうが、あまりにも対照的な授業方法に驚きを感じたものであった。
授業方法が小学校・中学校と高等学校とで大いに異なる理由の一つとして、教科書の相違があ
げられよう。
「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」ということが重要であるというこ
とはつとに喧伝されていることであるが、教科書は「使用しなけばならない」
(学校教育法第 21 条)
「教
科の主たる教材」
(教科書発行に関する臨 0 時措置法第 2 条)である。その教科書が、小学校では 1990 年代
から、中学校では 2000 年代から大きく変わった。判型がそれまでのA5版からB5版と大きく
なり、写真や図版、さらに史資料が本文中に配置され、それをもとに調べ学習を行ううえでのポ
イントが記述されており、各章ごとに課題が記述されている。それに比べると高等学校の日本史
および世界史の教科書は、A科目ではほとんどB5版となっているが、B科目はA5版もしくは
1
北俊夫『新学力観に立つ社会科授業の理論と方法』明治図書、1995 年、14~15 頁。
澁澤文隆『新学力観に立つ社会科の授業改革』明治図書、1994 年、7 頁。
3 中村薫「新しい学力観の下での教育方法について―小・中・高等学校の社会科授業を中心に―」
『芦屋女子短期大学紀要』第 31 号、2008 年、35~52 頁。
2
-11-
B5変型版が過半数を占め、ページ数も多く、歴史用語が数多く記述されている。
教科書が変わらないことの理由としては、小学校や中学校では全国学力調査で言語力や活用力
を問われるので教師は真剣になるが、高校にはそれがなく大学受験が変わらないと現場は変わら
ないのではないかという指摘がある4。また歴史系科目を担当する高校教員には文学部史学科専攻
者が多く、小中学校の教員養成を中心とする教育系の大学や学部で行われている教育方法を十分
に学ぶ機会が少ないため、高校時代の教員が教えた授業方法で自分も授業を行っているという傾
向がある。こうした傾向をもつ高校の授業を思考力育成型に変えるためには、史資料や写真を配
置して設問を設けるように教科書を改革することが必要ではないかと考えられる。
b)歴史教育の特色について
小学校の歴史教育の特徴は 1968 年の学習指導要領以降、日本の歴史の通史的学習ではなく人
物や文化遺産を中心とした学習となっている。中学校の歴史教育は 1955 年度改訂版の学習指導
要領で分野制になって以来、歴史的分野では日本の歴史の大きな流れを世界の歴史を背景に理解
するということになっており、現在は表 2 にみられるように古代まで、中世、近世、近代、現代
という大項目が置かれ、各時代の政治の展開、産業の発達、社会の様子、文化の特色を把握する
こととなっている5。世界史的内容としては、日本の歴史と関係の深い東アジアについては全時代
で記述がなされているが、その他の地域では「古代まで」では「世界の古代文明と宗教のおこり」、
「近世」では「ヨーロッパ人の来航の背景とその影響」、「近代」では「欧米諸国における市民革
命や産業革命」と「アジア諸国の動き」、「第一次世界大戦の背景とその影響」と「民族運動の高
まりと国際協調の動き」
、
(第二次世界大戦時の)
「欧米諸国の動き」、
「現代」では「冷戦」と「冷
戦の終結」が中項目としてあげられているのみである。
高校の日本史Bでは原始・古代、中世、近世、近代、両大戦期、現代という大項目が置かれ、
各時代の政治や経済、社会、文化、国際環境を取り扱うとしている6。一方、世界史Bでは諸地域
世界の形成、交流と再編、結合と変容および地球世界の到来という大項目7が置かれ、中学校で取
り上げられている以外の地域や歴史的事項がかなり取り上げられている。
以上から言えることは、学習指導要領を比較すると中学校の歴史的分野と高校日本史Bの内容
には類似性がみられるのに対し、高校世界史Bとの間には類似性が全くみられず、中学校では日
本史の基礎的事項が学ばれているのに対し、世界史についてはほとんど学ばれていないというこ
とである。中央教育審議会答申で指摘されているように、
「小・中学校において、日本史や日本及
び世界の地理の学習が行われているという現状を踏まえると、高等学校における現行の必履修科
目の定めには一定の合理性があり、現実的な選択肢である」8といえる。
(中村
薫)
2012 年 3 月 28 日付け朝日新聞「2013 年春からの高校教科書」についての記述から。
文部科学省『中学校学習指導要領解説 社会編』日本文教出版、2008 年、67 頁。
6 文部科学省『高等学校学習指導要領解説
地理歴史編』教育出版、2010 年、63 頁。
7 前掲書、28 頁。
8 中央教育審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改
善について(答申)」2008 年 1 月、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2009/05/12
/1216828_1.pdf で全文が示されている。
4
5
-12-
表2
中学校社会科歴史的分野と高等学校日本史Bの内容
中学校学習指導要領「歴史的分野」の内容
高等学校学習指導要「日本史B」の内容
(1)歴史のとらえ方
ア
時代の区分やその移り変わり
イ
身近な地域の歴史
ウ
各時代の特色
(2)古代までの日本
(1)原始・古代の日本と東アジア
ア
世界の古代文明や宗教のおこり、日本列島における農耕
ア
歴史と資料
の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰、大和朝廷によ
イ
日本文化の黎明と古代国家の形成
る統一と東アジアとのかかわり
ウ
古代国家の推移と社会の変化
イ
律令国家の確立に至るまでの過程、摂関政治
ウ
仏教の伝来とその影響、仮名文字の成立
(3)中世の日本
(2)中世の日本と世界
ア
ア
歴史の解釈
イ
中世国家の形成
ウ
中世社会の展開
鎌倉幕府の成立、南北朝の争乱と室町幕府、東アジアの
国際関係、応仁の乱後の社会的な変動
イ
農業など諸産業の発達、畿内を中心とした都市や農村に
おける自治的な仕組みの成立、禅宗の文化的な影響
(4)近世の日本
(3)近世の日本と世界
ア
戦国の動乱、ヨーロッパ人来航の背景とその影響、織
ア
歴史の説明
田・豊臣による統一事業とその当時の対外関係、武将や豪
イ
近世国家の形成
商などの生活文化の展開
ウ
産業経済の発展と幕藩体制の変容
イ
江戸幕府の成立と大名統制、鎖国政策、身分制度の確立
及び農村の様子、鎖国下の対外関係
ウ
エ
産業や交通の発達、教育の普及と文化の広がり
社会の変動や欧米諸国の接近、幕府の政治改革、新しい
学問・思想の動き
(5)近代の日本と世界
(4)近代日本の形成と世界
ア
ア
明治維新と立憲体制の成立
イ
国際関係の推移と立憲国家の展開
ウ
近代産業の発展と近代文化
欧米諸国における市民革命や産業革命、アジア諸国の動
き
イ
開国とその影響、富国強兵・殖産興業政策、文明開化
ウ
自由民権運動、大日本帝国憲法の制定、日清・日露戦争、
条約改正
エ
我が国の産業革命、この時期の国民生活の変化、学問・
教育・科学・芸術の発展
オ
カ
第一次世界大戦の背景とその影響、民族運動の高まりと
(5)両世界大戦期の日本と世界
国際協調の動き、我が国の国民の政治的自覚の高まりと文
ア
政党政治の発展と大衆社会の形成
化の大衆化
イ
第一次世界大戦と日本の政治・経済
ウ
第二次世界大戦と日本
経済の世界的混乱と社会問題の発生、昭和初期から第二
次世界大戦の終結までの我が国の政治・外交の動き、中国
などアジア諸国との関係、欧米諸国の動き、戦時下の国民
の生活
(6)現代の日本と世界
(6)現代の日本と世界
ア
冷戦、我が国の民主化と再建の過程、国際社会への復帰
ア
現代日本の政治と国際社会
イ
高度経済成長、国際社会とのかかわり、冷戦の終結
イ
経済の発展と国民生活の変化
ウ
歴史の論述
-13-
ⅳ)多様な高校制度に対応した歴史教育の問題点
本報告書では、目指すべき「歴史的思考力」を「史料に基づく実証と現在を長い時間の流れの
中に相対化する姿勢を身に着けることで、生徒の『生きる力』となることを重視するもの」「生
徒の個人的能力の育成だけでなく、グループ調査・発表・討論を通じて集団的に育成を図ること
で、その学習自体が「自立した市民」の養成に資することも目指す」としている(本報告書「は
じめに」)。なお、現行の学習指導要領でも、思考力はいわゆる「評価の四観点」の中に位置づ
けられており、本来教育活動の中で適切に取り扱われるべき内容である。以下本節では、現在の
多様な高校制度に対応して、こうした「歴史的思考力」を身につける際に、どのような問題点が
あるのか、について考察したい。
さて、高等学校教育現場における世界史・日本史の内容構成の問題については、本報告書も含
めた歴史学側からの提言や、社会科教育学からの提言などが見られるが、実際の授業にあたって
いる教育現場からの声が圧倒的に少ない。それはおそらく、それぞれの教育現場にいる教師が、
「自分の勤務先で直面している問題は他の高校現場に一般化できるものではない」と謙虚に考え
ているからである。確かに現在、高校の教育現場には多様性が求められ、その結果実に多様な形
の高校が存在するようになった。総合学科や単位制高校の設置に加え、中等教育学校や国公立・
私立の中高一貫校の増大などである。これに加え、従来からある全日制普通科・実業系高校・定
時制高校・通信制高校、さらにこれらを複数課程組み合わせた高校など、実に様々なタイプの高
校が生まれることとなった。またこの異なる学校種間の問題は、いわゆる「進学校」と「教育困
難校」の間に広がる、受験学力のランクと学校群の問題や、「進学校内部のランク付け」と、マ
スコミを含めた外部評価等々様々な問題と広く複雑に関連する。したがって、こうした多様化の
中で、本報告書が一般化して、「多様な高校制度に対応した歴史教育の問題点は以下の通りであ
る」と定義しても、それは「私たちの学校には当てはまらない」と判断されるであろう。それゆ
え、以下では、上記した本報告書の課題である「歴史的思考力育成」を目指す歴史教育に対して、
こうした多様な学校種においても、おそらく同意していただける内容を指摘しておく。
1.学習指導要領における世界史や日本史B科目の標準単位4単位に比し、現在の教科書の用語
数やページ数はやはり膨大である。実際のところ、標準単位数で教科書を最初から最後まで終わ
ることはページ数から言っても不可能である。歴史的思考力を育成するためには授業内容で「生
徒に考え、議論し、その結果を書いたり発表したりすることで思考を内在化する」必要がある。
したがって、用語数の精選はやはり必要不可欠である。
2.いわゆる進学校での歴史教育と思考力の問題については本稿Ⅳで述べることとする。
3.他方で、生徒数の減少に伴う大学入試の多様化によって、私立大学において受験科目とし
て歴史系の科目を必須とする大学は激減した。元々国公立大学では二次試験で歴史系科目を課す
ところは少ない。したがって、端的に言えば「試験に出るから覚えておきなさい」という授業は
大部分の高校にとって過去のものになりつつあるという現実認識が必要である。この事実をふま
えて、「そもそも日本の高校生にとって必要な歴史的素養とは何か」を考え、それを身につける
ために「どのような方法や機材を通して『思考力』を養うか」ということから議論をはじめなけ
ればならない。私たちは、用語数ガイドラインを示すことで、その一案を示したつもりである。
本ガイドラインに記載されている用語数(約2000語)を、それでも多い、と見るか、たった
-14-
これくらいか、とそれぞれの現場の先生方が見ることが、そのまま本節冒頭で記載した「学校の
多様性」と関連する。私たちは、この用語数を「日本の高校生が『共通して知っておいて欲しい』
用語」として示したつもりである。さらにこの用語数は、大学入試におけるガイドラインとして
も使われることを想定している。この用語数で良いのである。
4.用語数が半減し、さらにその科目が入試科目としても活用される、ということになれば、
これまで「教科書を終える」ことが大変であった教育現場に時間の余裕が生まれるであろう。現
場の先生方には、ぜひその「時間」を使って、生徒が「史料に基づく実証と現在を長い時間の流
れの中に相対化する姿勢を身に着けること」に意を使っていただきたい。ここで言われる「史料」
には、映画や絵画の読み解き、音楽や漫画、モノ教材や狭い意味での文献資史料など様々なもの
が想定されて良い。そして先生方にはそれぞれの現場の実態に合わせ、こうした資史料を用いて
生徒に「考えることの楽しさ」を教えていただきたい。それが生徒一人一人の「歴史的思考力育
成」につながるはずである。
5.大学進学を主たる目的としない学校では、実は上記のような史料を用いて「思考力を重視
した歴史の授業」への改革はそう難しい問題では無いであろうし、すでにそれぞれの現場で様々
な取り組みが行われているであろう。是非それを拡充し改善をはかっていただきたい。次世代を
担う高校生が、グローバル化の進む社会において、国籍や肌の色が異なる人々と共同作業をやら
なければならなくなる必然性はさらに進む。本報告に別記されたガイドラインの用語については、
暗記の対象となることを想定していない。例えばWikipedia検索などの中で、「何のことを言って
いるのかわかり合える」力を養って欲しい。
6.その上で、歴史系科目は大学入試センター試験や、今後想定されているいわゆる「到達度
テスト」にも出題され続けなければならないことを付記しておきたい。別記してあるように、本
研究会では「大学入試の基準」を決めることが思考力育成を目指した歴史教育への転換にとって
最も重要だと判断した。それは、教育現場で思考力育成につながる授業を再生していくためには、
やはり大学入試の用語数問題が大きく関わっており、教師自身や親の世代にも世界史や日本史は
膨大な量の用語を暗記する教科であるという固定観念があると考えたからである。これをぬぐい
去るためにはそもそもの用語数を削減し、論述式の問題を課す方向に改められなければならない
と私たちは考えた。おそらく用語数を削減した試験は平均点の大幅なUPを伴う。しかし、視点を
変えれば、平均点UPは「高校生が共通して理解すべき歴史事象」が、受験した生徒に一定程度共
通して身についているということになる。これは好ましいことではないだろうか。
7.一方、仮に現行の大学入試センター試験が行われると仮定して、出題科目から外された場
合、今後現場ではより深刻な事態が想定される。現在の高校現場は、10年前に比べても、要求
されている教科内容が格段に増大している。週5日制での授業時数減少の一方で、理科教育の充
実、道徳教育の充実、特に理系大学における入試必修科目の増大等々に加えて、上述した外部評
価には進学実績のみが取り上げられやすい傾向がある。この状況下では、受験科目にならない教
科の学びが軽視されやすい。したがって「世界史未履修問題」を上回る「歴史学習自体の軽視」
が今から予想できる。用語数削減によって思考力重視型の授業が構想され、それによる平均点上
昇が予想されることと、大学入試センター試験での出題科目から外れることは、全く別次元の問
題として考慮されなければならない。
(吉嶺茂樹)
-15-
ⅴ)大学入試における歴史系出題の問題点
歴史用語が 2000 個増えたことが、入試の問題の質にどのような変化を与えたのだろうか。初
期の世界史教科書が登場した 1952 年度入試のおもな問題を紹介すると、次のようなものである。
まず、東京大学の第一問めである。
1
以下の6問題について、正しいと思うものに○、誤っているものに×をつけよ。後者
はその理由を 30 字以内で述べよ。
1)東アジア北部の遊牧民族と漢民族は永年にわたって対立をつづけた。その間、漢民
族を圧倒し、東アジアの殆ど全域を支配し、遠く欧州にまで力を及ぼしたのは匈奴人
だった。(中略)
5)東アジアと西アジアを結ぶ貿易路は、古来、絹街道ともいわれた陸上交通路によっ
て行われた。海上交通路が東西交易の主要路線となったのは、ポルトガル人の東洋来
航の始まった 14 世紀からであった。
現在ならば、センター試験の基礎レベルであろう。次に同じ 1952 年度の京都大学の問題である。
3
次の A 群に関連するものを B・C 群から選べ。
A 万里の長城
B 文芸復興
C 国民会議派
コルドバ
スワラジ運動
メジチ家
王
秦王政
イスラム教
フロレンス
西カリフ国
青苗法
ガンジー
新法改革
匈奴
安石
現在であるならば、高校卒業程度認定試験の問題くらいの難易度ではなかろうか。もちろん正解
率は高かったであろうが、これに対応できる暗記で済んだのである。難問奇問を排するために共
通一次試験が導入されたとよく言われるが、実際には、初期の世界史の入試は、ごく基本的な知
識や大きな歴史の流れを問うていたにすぎなかったのである。
これに対して 2014 年度のセンター試験「世界史 B」の問題をみてみよう。
36
次の年表に示した a~d の時期のうち、パリ=コミューンの樹立が宣言された時期とし
て正しいものを、下の①~④のうちから 1 つ選べ。
( a )
1852 年、フランス第二帝政が成立する
( b )
1869 年、スエズ運河が開通する
( c )
1894 年、ドレフュス事件が起こる
( d )
① a
② b
③ c
④ d
パリ=コミューンが、フランス=ドイツ戦争の敗北と第三共和政の成立にかかわる事件であるこ
とを思い出せば、( a )と( d )をまず除外することはできる。しかし残った( b )と
-16-
( c )のどちらかを選ぶためには、
「スエズ運河の開通式にナポレオン3世の皇后が乗る船が先頭
を切って進んだ」などの些末な知識をもたないとすれば、プロイセン=フランス戦争の終結の年を“暗
記”していなければならないであろう。因果関係のなかから推理するのではなく、歴史用語の年代を
暗記しているかどうかが、正解に至ることができるかいなかの分かれ目になるのである。
同じく 2014 年度の世界史 B の問題に、次のような例がある。
17
アメリカ合衆国の労働者の歴史について述べた次の文 a と b の正誤の組合せとして正
しいものを、下の①~④のうちから 1 つ選べ。
a ワグナー法が制定され、労働者の団結権が確定した。
b 20 世紀に、アメリカ労働総同盟が結成された。
①a―正 b―正
②a―正 b―誤
③a―誤 b―正
④a―誤 b―誤
これも正解に至ることができるかどうかは、アメリカ労働総同盟の結成が、19 世紀後半のことな
のか、20 世紀はじめのことなのかを、暗記しているかどうかにかかっている。その知識は、アメ
リカ史全体の理解の深さとはあまり関係のない、些末なものである。
引用では省略したが、センター試験の問題は「下線部**に関連して」という言葉から始まり、
リード文を読むところから始まるように作られている。しかし多くの場合、リード文と設問は有
機的につながってはおらず、リード文をまったく読まなくても、問題が解けてしまう。リード文
を読むと余分な時間がかかってしまうので、
“一応目をとおす”程度でよいと、受験生は予備校か
ら指導されているのが現状なのである。リード文を読みながら、歴史についてじっくり考えて問
題を解くのではなく、問われている知識を暗記しているかいなかで点数が決まってくる。そして
その求められる暗記は、教科書の歴史用語の増加に比例して、より些末なものになっているとい
えるのである。
2014 年度のセンター試験世界史 B の 30 問を、問題の類型別に示したのが、下の表である。
正解にいたるための条件
歴史用語が暗記できているか
歴史用語の内容が暗記(理解)できているか
時代の暗記ができているか(因果関係のなかで問われていない)
因果関係のなかで時代を位置付けられるか
地理的な知識が暗記できているか
数
20 問
6問
5問
3問
2問
%
66.7
20.0
16.7
10.0
6.7
ここから言える第一は、時代の暗記を単純に問う問題が多いということであろう。明確に正誤が
示せるわけだから、問題作成者の側からすれば、
“出しやすい”パターンなのである。第二は、歴
史用語の内容理解がカギになる問題は全体の 20%にすぎず、ほとんどは内容など理解していなく
てもともかく「素朴な分類学」のごとくに知識と知識の組合せが暗記できていれば正解に至れる
という点である。本当に歴史の内容を理解できているかをみるならば、
「歴史用語の内容が暗記(理
解)できているか」と「因果関係のなかで時代を位置づけられるか」という問題(現状では3分
の1にすぎない)こそが、主流にならなければならないのではないだろうか。
そしてそのためには、教科書の叙述が膨大な歴史用語をパッチワークのように組み合わせる書
き方から脱し、限定された歴史用語をもとに、因果関係や事件の意味を深く分析できるようなも
のになるべきであろう。高校生に“クイズ王”になることを求めるのではない。知識はほどほど
でよいが、その知識を確実な内容や裏付けとともにもち、その知識をもとに多様な思考を展開で
きる“思索者”になることを、高校生に求めるべきなのではないだろうか。
(小川幸司)
-17-
ⅵ)歴史教育における高等学校と大学の接合上の問題点
a)高等学校と大学における歴史教育の接合
高大連携の必要性が提唱されてから久しい。なかには高校生が大学の教養教育の講義を受講し
たり、大学の教員が高等学校で出前授業をするなどの取り組みが行われているが、有効な方策が
提言が出されるまでに至っているとはいえない状況である。
その要因を指摘するのは至難の技であるが、大きな要因としては 1990 年代から始まった大学
における教養教育の見直しと高等学校の歴史教育の改編という2つの「改革」がうまく連動して
いなかったことが上げられよう。
大学の改革は 1991 年の大学設置基準の「大綱化」によって教養課程の「解体」が進み、新た
な教養教育体系の構築という形を取って現れ、後者は 1994 年施行の「学習指導要領」で日本史・
世界史・地理がA(2単位)とB(4単位)に分割され、さらに世界史を必修とし日本史・地理
の2科目から1科目が選択必修化されるという形態が取られることになった。これによって、多
くの高校生が日本史と世界史2科目を必修として習い、大学進学後は教養課程で日本史・世界史
の講義を受講するという、それまで当然と思われてきた歴史教育のパターンが大きく崩れること
になった。
したがって、
「高等学校と大学との歴史教育を接続する上での問題点」を検討するためには、大
学と高等学校両方における歴史教育の現状を踏まえる必要がある。
1)高等学校における歴史教育の現状
高等学校の歴史教育は 1989 年告示の「学習指導要領」
(高校は 1994 年から施行)で大きく改編
された。まずは戦後教育のシンボルであった「社会科」が解体され地歴科と公民科に分割された。
そして、世界史・日本史・地理の科目はそれぞれAとBの科目が設置されることになり、世界史・
日本史の場合、Aは主に近現代史を中心とし「B」は古代から現代までの通史を扱うことになっ
た。その上、世界史が必修とされ、
「世界史AまたはBの1科目、日本史AまたはB、地理Aまた
はBから1科目を必ず履修する」ことになったのである。
このような改編を受けて、高等学校における歴史教育は多様な形態を取らざるを得なくなり、
その多様性に応じて生徒が高等学校時代に修得する歴史に関する知識も多様化・多極化すること
になった。
日本史に例をとってみると、先の「指導要領」の規定に基づくならば、世界史に加えて地理を
選択必修で取った生徒は日本史を選択しなくてもよいわけだから、日本史を履修しないで卒業す
る生徒がいることが第1である。そして日本史を履修した生徒でも、進学校や文系大学に進学し
ようとするクラスでは選択必修としてBを習い(第2)、実業高校や理系に進学希望のクラスでは
Aだけを習うというパターン(第3)に大きく区分されることになった。なかにはAとBを必修
と選択両方で学ばせる学校もあるようだが、全体としては上記のような3区分ができるであろう。
すなわち、これだけからでも、大学に進学してきた時、日本史を履修していない学生と近現代史
しか学習してきていない学生さらに通史を学習してきた学生とに大きく分かれることになったの
-18-
である。
さらにBを習ってきた学生でも、時間数の関係から江戸時代までしか学習しなかった学生や明
治時代まで、太平洋戦争までしか習わなかったという学生が多いことはつとに指摘されている事
実である。
また世界史でも同様な事態が起きている。Aでは日本史より前近代史の占める割合が多いこと
からすべてを教えきれずに時代・地域による選択が行われたり、Bでは日本史と同じように時間
数が足りず近現代の中途までしか終わらなかったという事態が起こっていることはよく知られて
いる。
このように、
「高等学校における歴史教育」といっても、生徒の習熟度は多様であり、その差は
計り知れないものがある。このような歴史に関する知識の修得に大きな差のある学生を受け入れ
ることになった大学では、高等学校との連携を考えるといいながらもどのレベルの学生に標準を
合わせて講義を準備するのかなど対応に苦慮せざるを得ないというのが実状である。
2)大学における歴史教育の現状
もう一方の大学の教養教育における歴史教育を考えてみよう。1991 年の「大綱化」による教養
課程の解体によって新たな教養教育の構築を求められた大学の多くでは、それまでの教養教育を
維持しながらもより専門性の高い教養教育を目指し、それまでの学問領域を超えた学際的な講義
や現代社会に起こっている社会問題などに対応できるような総合教養などの新たな内容の講義を
設置するなどの努力がとられた。
この努力は新たな教養教育を実現する上では積極的な対応といえるが、しかし、その一方で新
たな矛盾も生じさせた。
というのは、まずは「大綱化」によっても卒業に必要な単位数が 124 単位で維持された上、
「情
報」に関する科目の新設や専門教育の充実などによって教養教育に宛てる時間数の減少してし
まったことである。その上、外国語の習得、体育の授業などの科目が以前同様重視されたため、
教養教育の時間数の減少が人文・社会系、理数系、芸術系などに関する教養教育の時間数の減少
に直接降りかかってきてしまったのである。
このような事情によって人文・社会系、理数系、芸術系に関する講義時間が減少した上に学際
的な講義や総合教養の講義が新設されたため、高等学校で修得してきた日本史、世界史の基礎的
な知識を受け止め、発展させるための講義数は一層減少させざるを得なくなってしまった。また、
学際的な講義や総合教養に関する講義が増えたため、それらを担当する教員が増員され、その分、
専門的な歴史学を担当していた教員が減少するという事態も起こっている。
このように大学における教養教育は現実社会のニーズに合わせた多様なカリキュラムを構成し
ておりその面では積極面をもっているのであるが、一方、高等学校の歴史教育との接続という側
面ではそれの多様化・多極化に対応するための柔軟性は大幅に弱化していることは間違いあるま
い。
-19-
3)まとめ
以上のように、現在の時点では、高等学校では歴史教育における修得内容の多様化・多極化が
進む一方で、大学の教養教育ではその多様化・多極化に応えられる内容の講義を設定できないと
いう、まったく反対の状況が起こっているのである。というより、高等学校・大学を通じて日本
史を学ばない生徒・学生が生まれており、世界史でもまともな通史を学ぶ機会をもてない生徒・
学生が生まれているというそうとう厳しい現実があることをしっかり見据えなければならない。
まともな歴史教育を受けられていない生徒・学生をいかに減少させるか。また、高等学校で修
得した歴史に関する知識を大学の歴史教育でいかに受け止め、発展させるか。これに応えるため
には、高等学校・大学の枠を超えて歴史教育を担当する教員が真摯に議論・検討することが喫緊
の課題であるということができよう。
(木村茂光)
【参考文献】
大学評価機構・学位授与機構『大学における教養教育の取り組みと現状-実態調査報告』(2002
年)
日本学術会議『21 世紀の教養と教養教育』(「日本の展望-学術からの提言 2010」、2010 年)
「特集
新しい高校地理・歴史科教育の創造-グローバル化時代を生き抜くために-」(『学術の
動向』2011 年9月号、日本学術会議)
「特集
これからの大学学部の歴史教育」(『同上』2011 年 10 月号、日本学術会議)
b)大学における歴史教育の問題点
1.高校教育の現状と教員の問題
日本社会の多くの領域と同様、歴史教育も高度成長期までの古い観念や知識を引きずっている
ことの弊害が顕在化している。日本一国史観と西洋中心史観、単純な発展史観と近代賛美などは
その代表的な例である。これらの現実に合わない枠組みの中で、しかも「基礎知識」と称して時
代遅れの内容を多く含む過大な暗記を強制することは、不適切な世界像を植えつけ、なおかつ歴
史嫌いの若者を増やす点で、社会的にきわめて有害である。
「歴史を学ぶ意味(複数)」
「一連の基
本的な考え方」を一定程度理解させておくこと、他教科・科目との連携や関連づけなどの点も、
不足が目立つ。そうした高校歴史教育のありかたは、大学での学習への動機付けや準備としても
不適切である。一般の学生の歴史への無関心や、本当に大事な問題への無知だけが問題なのでは
ない。歴史が好きで暗記も苦にならず、大学で歴史学を専攻しようとする学生(そこから将来の
中等教育の教員も輩出する)にとっても、現在の大学・大学院で学ぶ歴史学の方法・動向とのズ
レは拡大しており、大学教育で「修正」が効く範囲を超えているケースが増加していると感じる
(それは大学における「学部教育の質保証」を困難にする)。たとえばその一例として筆者が見聞
しているのは、
「遅れた、得体の知れないアジア」などには無関心で、
「無難な日本史」
「進んだエ
レガントなヨーロッパ史」などの「メジャー分野」だけ学ぼうと思って大学に入学した学生が、
「アジアの中の日本史」
「グローバルヒストリーの一環としてのヨーロッパ史」などの枠組みと、
そのための研究方法(日本や西欧・北米以外の地域や史料を積極的に扱う)についていけず、大
-20-
学院に進学しない/できない状況の出現である。
高校教員について言えば、世界史 B・日本史 B の暗記教育(自分がかつて受けて優秀な成績を
獲得したもの)しかできない教員が多いことが、世界史 A の空転に代表される深刻な事態を招い
ている。他方、大学教養課程等で応用可能なすばらしい授業をしている教員が一部にいるが、個々
のテーマに関する斬新で効果的な教え方が、世界史や日本通史全体を見ないことの免罪符になる
傾向なしとしない。世界史・日本史両方を十分理解している教員が現場で減少していることも見
過ごせない。
これらの背景は大学入試や、現場の条件整備を怠ったままでカリキュラムの多様化を強制し、
他方で進学実績をめぐる競争をあおり立てる愚劣な「教育改革」だけだろうか。高校現場と大学
での教員養成の両方から問い直す必要がある。
2.大学と歴史学界の怠慢
大学側も、状況はやはり深刻である。第一に、時間・人員不足だけのせいにできない大学教員
の問題作成・採点能力の不足。そして、新入生のほぼ全員が高校世界史 B、日本史 B、地理 B を
すべて履修(暗記)しているという前提の喪失に対応せずに「専門のさわりを聞かせる」講義に
終始する教養教育(「研究者」たるもの「専門外」の領域について教科書を書いたり講義をしては
いけない-高校や予備校の教員ならかまわない?-という意識は根強い)。これらは少数の例外で
はない。そこでは「教養部」の解体も、高大接続の責任組織の不在という意味でマイナスに働い
たことを認めねばならない。現在ではどの大学でも「高大連携」のスローガンが定着しているが、
内容として大学見学と出前講義だけでよいかどうかを、問い直す必要がある。
次に、内容が多様化した現在の高校教科書をまんべんなく教えられるような内容になっていな
い偏った教職科目(特にその代替としての史学系の特殊講義群)の編成は、最大の問題かもしれ
ない。そこでは、地域・時代・分野別のコンパクトな解説集や教材集も不可欠であろう。だが、
学問の高度化(たとえば日本史、ヨーロッパ史や中国史の常識だけでは理解できない東南アジア
などの地域研究の発展)のため、質の良い解説には研究そのものの専門家の関与が不可欠である
のに、現実はそうなっていない場合が多い。それは、研究者間の相互乗り入れや他流試合に必要
なものと、きわめて近接していることもあまり認識されていない。こうした点がうまくいかない
背景にあるのは、
「史学概論」を開講しない大学の増加に象徴される、系統的な専門教育の後退で
ある。かなりの大学で実施された日本史・東洋史・西洋史という専攻区分撤廃の影響も、相互乗
り入れが進んだ積極面だけではなく、
「好きな科目しか履修しない」学生の傾向を助長した面があ
る。
(桃木至朗)
-21-
Ⅲ.小中学校・大学と高等学校の接続における
歴史教育改革の提案
ⅰ)小中学校との接続を意識した高等学校歴史教育の改革
a)教科書の改革
Ⅱⅲで見たように、小学校・中学校での歴史学習は高等学校のそれよりも、
「自ら学び自ら考え
る子どもを育てることを重視した」授業方法が行われており、その一因としてそれぞれの学校段
階における教科書の内容の違いがあげられる。
高等学校の世界史Bの 7 冊の教科書を比較すると、過半数の教科書は 400 頁を越えている。世
界史の標準単位が 4 であることを考えると、これらの教科書を使用した場合、1 単位時間(50 分)
の授業で約 3 頁、約 30 の歴史用語を生徒が学ぶことになるのである。
表1
世界史B教科書の判型とページ数(文部科学省『高等学校教科書目録(平成 26 年度使用)』より)
東書『新選
東書『世界
実教『世界
帝国『新評
山川『新世
山川『高校
山川『詳説
世界史B』
史B』
史B』
世界史B』
界史B』
世界史B』
世界史B』
判型
B5
B5変型
B5変型
B5
B5変型
B5
A5
頁数
278頁
438頁
454頁
326頁
454頁
278頁
462頁
また、2009 年の高等学校学習指導要領では、言語活動を重視し「思考力・判断力・表現力の育
成」を図ることが強調され、それぞれの歴史系科目で「主題を設定して行う学習」や「歴史を考
察し表現する学習」が重視されている。とはいえ、これらの学習活動についての教科書の扱いは、
小学校や中学校に比べ、最初と最後の箇所および章の最後あたりに目立たぬように配置されてい
るのであり、これらの学習はほとんど実施されていないと思われる。
「歴史的思考力を培い」という言葉は、現在すべての歴史系科目の目標にみられ、世界史では
1960 年の学習指導要領から系統的通史学習に加えて主題学習を行うこととされたが、それまで 5
単位であった世界史が 4 単位とされたため、通史学習を優先する現場では時間不足を理由にほと
んど定着しなかったとされる9。その後、主題学習は日本史でも導入されたが、あまりにも多い教
科書のページ数と事項のため、実際のところほとんど実施されていないといっても過言ではない。
学習指導要領では「歴史的思考力の育成」が明記されているが、その内容については説明され
ておらず、
「歴史的思考力」という言葉はそれぞれの研究者によってさまざまに行われており、明
確には定義されていない10。本研究会では、日本学術会議が提唱する歴史的思考力育成の要点で
ある「過去への興味・関心の喚起」「歴史的資料の調査力の育成」「歴史的分析・解釈力の育成」
「時系列的思考力の育成」
「意思決定の連鎖としての歴史学習」11を行うためにはどうすればいい
かを検討し、本文の箇所に史資料を配置して設問を設け、生徒の歴史的思考力の育成を図る授業
のモデル案を提示している。こうしたことにより、これまで高等学校の歴史教育で定着しなかっ
た思考力育成型の教育を実現したいと考えている。
9
有田嘉伸『社会科教育の研究と実践』西日本法規出版、2005 年、7~9 頁。
日本社会科教育学会編『新版 社会科教育事典』ぎょうせい、2012 年、158 頁。
11 日本学術会議「新しい高校地理・歴史教育の創造」2011 年、36 頁。
10
-25-
b)高校での歴史教育の改革
Ⅱⅲで見たように、中学校では日本の歴史が中心であるため、高等学校では世界史のAかBが
必履修とされている。とはいえ、そうした地理歴史科の科目構成は 1989 年の学習指導要領から
20 年以上も続いており、中央教育審議会答申では「地理歴史に関する総合的な科目の設置につい
ては、具体的な教育内容の在り方等について今後更に検討する必要がある」 12とされており、日
本学術会議が提案する「歴史基礎」もその一つと位置付けられる。
Ⅱⅲで指摘したような問題点から考えると、世界史と日本史を統合した「歴史基礎」では、世
界史を中心として日本史を組み込むという方向が最も合理的と思われる。では、2 単位の「歴史
基礎」でどのように日本史を組み込んだ世界史の構成を考えるか、このことが最も議論となる点
であろう。
表 2 「諸地域世界の交流と再編」の中項目についての教科書のページ数
東書新選
東書
実教
帝国
山川新
山川高校
山川詳説
イスラーム世界の形成と拡大
13
16
14
11
11
10
20
ヨーロッパ世界の形成と展開
14
26
28
20
33
22
34
内陸アジアの動向と諸地域世界
10
17
21
9
12
11
16
(東書と山川新はルネサンスの箇所を除き、帝国は遼と金の箇所を加えた)
表 3 「諸地域世界の結合と変容」での欧米諸国と非欧米諸国のページ数
東書(新選)
欧米:その他
欧米の比率
東書
実教
帝国
山川(新)
山川(高校)
山川(詳説)
45:25
70:56
67:50
53:35
83:56
47:22
82:42
64%
56%
57%
60%
60%
68%
66%
世界史で最も大きな問題点はヨーロッパ中心史観の克服である。例えば「諸地域世界の交流と
再編」(ほぼ中世に該当する)では「イスラーム世界の形成と拡大」「ヨーロッパ世界の形成と展
開」
「内陸アジアの動向と諸地域世界」という中項目があるが、表2からあきらかなように、世界
史Bの教科書で最も多くのページ数が割かれているのは「ヨーロッパ世界」である。また「諸地
域世界の結合と変容」
(近世・近代に該当する)については、表3のように、ほとんどの教科書は
欧米諸国に 6 割前後のページ数(最大は 68%)を割いている。しかし、
「中世」におけるヨーロッ
パ世界は当時の世界の中で、イスラームやモンゴル以上に重要な位置を占めていたのだろうか。
また「近代」はまだしも「近世」において、ヨーロッパは中南米を支配したものの、アジアにつ
いては強大な「諸帝国」の存在のゆえに、アジア貿易に参入できたに過ぎなかったのではないだ
ろうか。そのようなヨーロッパに多くのページ数が割かれるのは、戦前の西洋史がヨーロッパ史
を中心としたものであり、その西洋史と東洋史が統合されて、世界史が成立したという経緯から
12
中央教育審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改
善について(答申)」2008 年 1 月、44 頁。
-26-
派生しているが、その時からすでに 60 年以上が経過している。今まさに、新しい「世界史」像が
描かれるべき時ではないだろうか。
そうした中で、大阪大学歴史教育研究会は『市民のための世界史』を刊行した。これまでの高
校世界史がヨーロッパと中国に圧倒的なページ数を割いているのに対し、この「世界史」では古
代・中世におけるヨーロッパを辺境として扱い、近世におけるヨーロッパの位置を相対化し、近
代以降についてもヨーロッパの優位を認めるものの、この時期にアジア間貿易が形成され、その
ことが現在「東アジアの奇跡」といわれる経済成長を実現したという視点が強調されている。今
後の高校世界史にはこうした視点が必要であり、そうしてつくられた新しい世界史の見取り図に
どのように日本史を組み込んでいくかが「歴史基礎」の今後の課題となるのではないだろうか。
一方、高校世界史について付言すると、その基となる西洋史や東洋史が学ばれた戦前の中学校
や高等女学校は、同世代人口の約 1 割しか通わなかったエリートの学校であった13。高校世界史
が成立した頃の新制高校への進学率は 42.5%であったのに対し、2012 年の高校進学率は 98%で、
高等学校は同世代のほとんどすべてが学ぶ教育機関となっている。にもかかわらず、世界史教科
書の用語が 3 倍近く増えているというのは、不自然ではないだろうか。一部のエリートが学ぶ高
校から国民すべてが学ぶ高校に変わっている現実をふまえて、世界史もそのように変わらなけれ
ばならない。我々の研究会が提案する 2000 語を基準とした世界史教科書は、まだまだ不十分か
もしれないが、新しい「世界史」の形成に踏み出すその第一歩なのである。
(中村
13
薫)
米田俊彦『資料にみる日本の中等学校の歴史』東京法令出版、1994 年、35・44・58 頁。
-27-
ⅱ)新A科目との関連づけ
a)新A科目の構想
2011 年8月に日本学術会議が提案した「世界史未履修問題」の解決策では、高等学校の地歴科
において世界史必修に代えて、世界史 A と日本史 A を統合した「歴史基礎」と地理 A を改編した
「地理基礎」の両方を必履修にすることで、時間認識と空間認識をバランスのとれた形で生徒た
ちが獲得できるようにすることが提言されていた。同時に、この案では必修単位が現行の2単位
から4単位に増加する難点があるため、次善策として世界史 A・日本史 A・地理 A を統合した「地
歴基礎」(2単位)の必修化も提案していた。
現行の A 科目と B 科目の関連を用語数でみた場合、採択率の高い世界史教科書でみると、B 科
目が約 3800 語であるのに対して、近現代史に集中した A 科目の場合は、800-1400 語程度である
ので、4単位の B 科目に比べて、2単位の A 科目の場合は用語数で見る限り、半分どころか、1
/5 から1/3 の比重になっていることが分かる。つまり、A 科目の場合は、現行でも高等学校で生
徒が学ぶべき最低限の基礎知識に限定しているのであり、大学進学をしない生徒や理系大学に進
学する生徒向けの歴史教育という性格をもっていることがうかがえる。
このような A 科目に代わる新科目に関しては、この間、3つの高等学校で文部科学省の研究開
発校の指定を受け、実験が試みられてきた。まず、2010 年度から 3 年間、京都府立西乙訓高等学
校では「地歴総合」の実験が実施された。ここでは世界の 10 の歴史都市を選定した上で、各都市
についてその地理・世界史・日本史との関連が教えられていた。また、2011 年度から3年間は日
本橋女学館高等学校において「歴史基礎」と「地理基礎」の実験が行われた。ここでは、近現代
史に重点をおいた「歴史基礎」が教えられると共に、グループ討論など思考力育成型の教育の試
行も行われた。さらに、2013 年度から4年間の予定で、神戸大学附属中等学校において「歴史基
礎」と「地理基礎」の実験が予定されている。
b)今後の改革方向
このような新 A 科目が実際に採用されるかどうかは不明であるが、新A科目では、単純に現行
の世界史Aと日本史Aを合体させたものではなく、
「基礎」科目にふさわしく近現代史に重点を置
くにしても、前近代の基本的特徴も教えるとともに、思考力育成型の授業も強化される可能性が
高い。このような新科目は、大学受験をしない生徒や理系大学に進学する生徒にとっては歴史系
科目を履修する最後の機会となるであろう。つまり、新科目「歴史基礎」と「地理基礎」は、高
校生が最低限身につけるべき「市民的教養」としての地歴知識を提供する科目という意義をもつ
ことになるであろう。
しかし、2013 年に入って日本史必修化の動きが表面化してきており、高等学校における歴史教
育は流動的様相を強めている。世界史が必修化されている現在でも、大学受験で日本史を選択す
る生徒の比重は非常に高い。例えば、2014 年度の大学入試センター試験で地歴科関連科目を受験
した受験生は 391,681 名であったが、その内訳は、日本史 B39.1%、地理 B37.4%、世界史 B21.9%
で、残りはA科目の受験者であった。このように日本史の比重が高いのは、小中学校の社会科(歴
-28-
史分野)がすでに日本史中心となっているため、生徒たちは日本史の方がなじみやすいと感じ、
大学受験でも日本史を選択する傾向が強い。それ故、もし、高等学校でも日本史のみが必修化さ
れた場合、世界史を履修する生徒や世界史で大学受験をする生徒の数は激減すると予想される。
その結果、日本の若者が小中高を通じて十分な世界史の知識を与えられず、「他文化リテラシー」
が極めて乏しい若者が登場することになり、むしろグローバル化時代に逆行するものと憂慮され
る。今後の歴史教育は、むしろ、日本史を世界史のなかに包含することによりグローバル化時代
にふさわしい自他文化リテラシーの向上に役立つ方向を強化すべきであろう。(油井大三郎)
ⅲ)思考力育成型の歴史教育とデジタル教材
近年、デジタル化によって様々な歴史資史料を「どこでも誰でもいつでも」見ることが可能に
なり、しかもその公開速度は加速度的に早く大きくなっている。国公立の施設でも、具体的な教
育プログラムを開発している施設もあれば、デジタルに特化したサイトもある。さらに絵画資料
の読み解きやモノ教材解説の活用など、デジタル教材の可能性は大きく広がっている。さらに従
来海外の博物館や美術館はこうした教育教材開発に熱心であったが、日本でも近年優れたHP教材
が多くある。教科書においても、こうしたモノ教材を相互に統合したデジタル教科書の開発が教
科書会社によって進められ、教育現場はまさにデジタル化の波にさらされている。昨年9月には、
各社が発行するデジタル教科書の共通プラットフォームを作成すべく、Co-nets(コーネッツ)と
いうコンソーシアムが立ち上がり、本年5月にはブース展示が行われた。
http://www.conets.jp/
このように、ハード面でのICT機材の充実は教室の風景を変えた。また生徒の側でもスマートフォ
ンなどの利用が格段に増え、送る側も受ける側もハード面での進化は枚挙にいとまが無い。
しかし、ここで本報告書が目指すような「歴史的思考力の育成」にとり、こうしたデジタル教
材がどのような役割を果たせるか、については留保が必要であろう。教材はあくまで考えるため
の「素材」にすぎない。たとえば、大手検索ソフト・グーグルが運営するGoogleアート・プロジェ
クト
http://www.google.com/culturalinstitute/project/art-project
では、世界中の美術館・博物館の高解像度画像が閲覧できるだけでなく、館内のストリートビュー
などを通して「デジタルツアー」をくむことも可能になった。しかし、その作品図版を「これは
大事だから覚えておきなさい」という授業に教科書図版の代わりに使うだけでは「歴史的思考力」
育成にならない。
「こうしたサイトをこういう風に活用したら良い」という議論にならなければ、
単に「機材技術論」に陥ってしまい、「歴史的思考力育成とデジタル教材」という議論にならな
-29-
いからである。欧米においては、こうした教育現場で活用できるサイトのリストが要約と解説つ
きで歴史学や教育学系の雑誌に紹介されている。日本でも「歴史評論」や「歴史地理教育」など
の雑誌が特集を組んでおり、さらに近年、教科書会社が教科書に準拠して発行する「指導書」(教
師用マニュアル)などにも授業に活用できるサイト一覧を載せているところがある。以下、本節
ではこうしたサイトの事例として国の機関である「国立公文書館」「アジア歴史資料センター」
「東京国立博物館」および、海外との比較のため「アメリカ国立公文書館」と「ルーブル美術館」
の事例を取り上げ、これらを素材に「歴史的思考力」とデジタル教材の問題について考察したい。
例1
国立公文書館蔵「パナマ運河建造中の写真」
国立公文書館トップページ
http://www.archives.go.jp/
から、「デジタルアーカイブズ」のバナーをクリックすると、様々な史料一覧のページが出てく
る。このページの「写真」をクリックすると、主な所蔵写真の一覧が出てくる。様々な写真資料
があり、戊辰戦争で焼け落ちた会津若松城の写真もあるが、その中にある「外国駐在員報告」と
いう一覧をクリックすると、米国駐在武官海軍中佐・宮治民三郎(1876-1961)が、大正2年7月
に建設中のパナマ運河を視察した際の報告書に添付されていた写真が出てくる。
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000736
この一枚から、様々な授業案構築が可能であろう。パナマ運河の世界史はもちろん、同じ報告に
登場するパナマ移民の集団写真や地理的な環境、当時の世界と日本の比較もできる。
なお国立公文書館では、歴史探究サイト「ぶん蔵」というHPを運営しており、
http://www.bunzo.jp/
宮内省書陵部などとも協力をしながら、リンクされた文書館の検索や所蔵資料解説をつけて提
供している。さらに「ぶん蔵」は世界各国の公文書館HPとリンクされており、この海外博物館リ
ンクをたどれば、「アメリカ合衆国国立公文書記録管理局」(ナショナル・アーカイブズ)にた
どりつくことができる。
http://www.archives.gov/index.html
なお付言すれば、本節冒頭で述べたように、欧米のデジタルアーカイブズは教育現場での活用を強
く意識したサイト運営を行っている。欧米では歴史教育が公民育成の重要な部分を占めるという意識
があり、歴史学習を通じて「意志決定」や「政治参加」を「考察」し、「追体験」することを通じて
生徒の公民としての資質を養う重要な教科であるという意識が強い。このため各サイトでも「教師用
マニュアル」や「ワークシート」「実践例」などがHPにリンクされている場合が多い。
-30-
例:ナショナル・アーカイブズ・教育コンテンツ
http://blogs.archives.gov/education/
今後、思考力育成型の歴史教育とデジタル教材の問題を考えていくためには、日本の公的機関
のサイトにおいても、今以上に教育現場で実際に使える、開かれた著作権不要のワークシート(そ
れはそれぞれの現場で改良や付け加えが可能なもの)が整備されていく方向になるであろう。
例2
国立公文書館アジア歴史資料センター(アジ歴)
http://www.jacar.go.jp/
なお国立公文書館の下部組織であるが、独立したアジア諸国を含めた日本近代史史料のデジタ
ルアーカイブである。本センターは設立当初から、中等教育現場におけるデジタルアーカイブズ
の活用をその主たる目的の一つに置いており、教育現場での活用を想定した「インターネット特
別展」など、教室ですぐ活用できる内容が多く含まれている。
例:「知っていましたか、近代日本のこんな歴史」
http://www.jacar.go.jp/modernjapan/index.html
トップページには現場の教員グループとの共同作業によって、中学・高校日本史・世界史の教科
書に登場する近代史史料のうち、「五箇条の御誓文」から「日本国憲法」まで、アジ歴が所蔵す
るデジタル資料から閲覧できる「社会科授業用リスト」が、所蔵資料写真とリンクされて掲載さ
れている。
http://www.jacar.go.jp/siryolist/index.html
さらにアジ歴史料の中には、例えば明治6年政変による西郷隆盛の参議辞任の辞表などもある。
その理由は「胸痛」である。さらにその簿冊2ページ後には大久保利通の辞表がある。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A01100036300?IS_STYLE=default&IS_LGC_S32=&IS_T
AG_S32=&IS_KEY_S1=%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KIND=SimpleS
ummary&
「胸が痛い」理由を明治6年の政変と関連づけて考えてみる授業はできないであろうか。
以上、日本近代史を中心に、デジタルアーカイブズを活用した思考力育成型の歴史教育の事例
を紹介した。次に前近代史の事例を一つあげよう。
例3
東京国立博物館(東博)
http://www.tnm.jp/
前近代の歴史について、教科書記載の図版をはじめ、様々な史資料を掲載している。特別展に
-31-
際しては、教員用のオールカラーによるワークシートも作成しており、教室の中でこれをダウン
ロードしたものを生徒に配布し、ディスプレイに拡大表示して授業で同時進行すれば、とかく美
術作品の暗記になりがちであった文化史の授業に、考える授業への要素を取り入れることができ
るのではないか。さらに東博のほか、日本では
足立美術館
http://www.adachi-museum.or.jp/main/topic8/topic.html
大原美術館
http://www.ohara.or.jp/201001/jp/index.html
国立西洋美術館
http://www.nmwa.go.jp/jp/index.html
サントリー美術館
ブリヂストン美術館
http://www.suntory.co.jp/sma/
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/
(五十音順)
の5館は本節冒頭で述べたGoogleアート・プロジェクトに参加しており、館内のストリートビュー
や高解像度画像を見ることができる。
例4
ルーブル美術館「ルーペで見るモナリザ」(日本語サイト)
紙幅の関係で詳細を述べることはできないが、ルーブル美術館HP「ルーペで見る」シリーズに
は、
http://www.louvre.fr/jp
日本語でモナリザを様々な角度からナレーションつきで紹介する動画サイトなどが整備されてお
り、モナリザの裏側、修復の跡、描かれた人は誰か?といった様々な設問から一枚の絵を読み解
くものになっている。
http://musee.louvre.fr/oal/joconde/indexJP.html
世界史教育の現場で良く使われる「サモトラケのニケ」は日本語で、
http://musee.louvre.fr/oal/victoiredesamothraceJP/indexJP.html
「ハンムラビ法典」
http://musee.louvre.fr/oal/code/indexJP.html
「ポンパドール婦人の肖像」
http://musee.louvre.fr/oal/marquise_pompadour/indexJP.html
や「ナポレオンの戴冠」
http://musee.louvre.fr/oal/sacre/indexJP.html
等々は英語でこの「ルーペで見る」シリーズに入っている。(英語のサイトは音声を消して写し
て授業をしながら言葉で説明を入れればよい。バーチャルツアーのおもしろさをぜひ体験してい
ただきたい。)
以上記したように、教育現場とデジタル化によってもっとも恩恵を受ける科目の一つが歴史教
育であろう。これを積極的に活用して、生徒と議論し、考える授業を構成していくことで、「面
白く」「楽しい」歴史教育が可能となるのではないか。今年度からは、普通の教室で実施できる
LAN回線を使用した同時双方向TV会議システムによる遠隔授業の可能性についても、文部科学省
による研究開発学校の取り組みが開始されたと聞く。こうしたシステムを活用すれば、たとえば
-32-
「沖縄と北海道の高校の教室をつないだ普段の歴史の授業」も可能となる。教員相互の研修への
活用や、考える歴史の授業に向けて教材の共有もコンテンツの共有という形で可能になる。「歴
史用語ガイドライン」による時間的な余裕を、ぜひこうした試みに生かしていってほしい。歴史
学者になる生徒は少ないかもしれないが、社会人対象の歴史の著作が多数発行されていることか
らも、社会的な経験の中で、歴史が必要と考える大人は多いのである。
(吉嶺
茂樹)
ⅳ)歴史的思考力育成のための大学入試改革
a)センター試験・日本史Bの改革案
1.はじめに
ここでは「高校日本史B」という社会科関係で最も受験生の多い科目について検討する。高校
での歴史的思考力育成を考慮すると、常に障害のように立ちはだかるのが大学入試である。大学
入試には大学センター試験と個別大学の試験があるが、ここでは大部分の受験生が利用する大学
入試センター試験(以下「センター試験」と略す)の「日本史B科目」を取り上げ、その改革案を
提案する。
2.センター入試問題の構成
日本史と世界史のセンター試験での構成を見てみると、
「日本史B」1科目選択の場合、試験時
間は 60 分で 100 点満点である。社会科関連科目を 2 科目選択する場合、試験時間 120 分で 200
点満点である。2科目選択の場合、1 科目の解答用紙を途中で回収する。旧社会科関連科目の選
択方法は「地理歴史科」6 科目、
「公民科」から 4 科目が出題され、その中から 2 科目選択できる。
したがって「日本史 B と世界史 B」のように歴史 2 科目の組み合わせができるようになっている。
日本史Bと世界史Bの近年5年間の受験者数と平均点を見れば、次の表のようになる
日本史B
平均点
世界史B
平均点
2009年 2010年 2011年 2012年 2013年
144,327 151,792 152,970 157,372 159,582
57.94
61.51
64.11
67.92
62.13
94,106
91,118
88,303
91,139
90,071
62.70
59.62
61.46
60.93
62.43
(大学入試センター公表)
日本史Bの場合、出題形式は 2000 年以降、大問6問である。その出題の仕方は、第 1 問が原始(古
代)~現代まで時代を通した問題であり、以下、第 2 問は原始・古代、第 3 問は中世史、第 4 問は
近世史、第 5 問は近代史、第 6 問は近現代史である。各問題は、この時代の政治史、外交史、経
済史、社会史、文化史などが出題されている。
-33-
3.センター入試の難易度と平均点
『2014 年過去問題集』(駿台予備学校編)で分析されている各問題の評価によれば、難易度は下
の表のように分類されている。
* 教科書の本文中にゴシック体(太字)で書かれている重要用語や人物名を問うやや易しいレベル
** 教科書の本文中で説明されている内容や人物・事項を問う標準的レベル
*** 教科書の脚注や図表等の説明中に書かれている内容や事項を問うやや難しいレベル
この難易度によって、各年度の問題を次のように評価している。その評価と平均点を見
てみると、次の表のようになる。
第1問
第2問
第3問
第4問
第5問
第6問
平均点
難易度
2009年
**
***
**
**
***
**
57.94
難2
2010年
**
**
**
***
***
***
61.51
難3
2011年
**
**
***
**
***
***
64.11
難3
2012年
***
**
**
**
**
***
67.92
難2
2013年
***
***
**
**
***
***
62.13
難4
難問数
2
2
1
1
4
4
14
難易度を見ると、
「*」の教科書にゴシック体(太字)で書かれている重要用語や人物名を出題す
る「やや易しいレベル」の問題は出題されていない。このことは、教科書にゴシック体で書かれ
ている重要用語や人物名ではセンター試験には対応できないことになる。
本文に書かれている標準的な内容・人物・事項でも、必ずしも十分とは言えないことになる。
上の表によれば、毎年、難問と思われる「脚注・図表等の説明中の内容」まで理解しておく必要
のある「やや難しいレベル」の問題が2~4問出題されている。これは主に第5問、第6問に多
いが、これらは近現代史の問題である。高校で言えば、3年生の最後の頃に学習する内容、最悪
の場合は授業がこの時代にまで到達せず、
「教科書を読んでおけ」の部分かもしれない。その意味
でも受験生には難問なのだろう。平均点と難易度の関係は、判断に迷うところである。
4.出題傾向の分析
センター試験「日本史 B」では、1999 年以降、全部で 36 問で、試験時間は 60 分である。した
がって 1 問平均 100 秒(1 分 40 秒)で回答しなければならない。各問題には設問文(リード文)があ
るので、それを読む必要もあり、実際にはもっと短時間で「正解」を考える必要がある。
設問形式を見ると、出題される時代は原始・古代から現代史まで全時代である。駿台予備学校
の分析によれば、約 40%が短文の正誤問題であり、地図、図版の組み合わせ問題や年代順を問う
問題など多彩である。単純な語句・人名の選択問題はなく、政治史中心の事項の丸暗記では高得
点は期待できない。政治史・社会経済史・文化史について、同程度の準備が必要である。しかし、
一部の私立大学のような、難問・奇問は出題されない。その意味では良い問題と言えるのだろう。
-34-
5.センター入試への対策から出題傾向を考える
予備校の勧めるセンター試験対策を参考に、センター試験の問題を分析してみよう。時代区分
は社会経済史を基準にして出題されている。政治・外交史分野では、政治史は大半が文章の正誤
問題であり、背景・原因と結果・影響を考慮させるようになっている。その意味では教科書のゴ
チック用語の前後を注意深く学習する必要があり、教科書での勉強を求めている。さらに、社会
経済史では、経済制度を整理して理解する必要があり、先史~近世までは土地制度と農業史を中
心にし、鎌倉時代以降は商工業も出題され、近代では工業政策と資本主義的生産様式に関して出
題されている。社会史では、民衆の生活史が、文化史では暗記では対応できない難問が多く、内
容・作者に突っ込んで出題されるので、当該期の文化の傾向をつかむ必要があり、宗教・仏教は
特に出題されている。また、地図・図版・史料問題も多く、教科書の図版などをよく見ておく必
要があり、新資料や図版を使った問題では歴史的思考力が問われている。したがって、入試対策
としては 40%の正誤問題対策が重要で知識の正確さが重要であり、歴史事象との関連での正確さ
も求められ、総合的が試されている。このような分析によれば、まさに総合的な勉強が求められ、
さらに教科書にない資料などを読む力も求められていることになる。
6.センター試験出題用語の傾向
高校日本史B教科書での歴史用語とセンター試験日本史Bの出題傾向を考えて見よう。教科書
用語の頻度数とセンター試験での出題用語の関係を、2013 年度の「日本史B」問題で、「難問」
とされた「問5」と「問6」を例にして分析してみよう。問題はリード文があり、次に「問」が
あるので、リード文と回答文(選択用語)に分けて整理してみよう。
リード文
回答文 ( )内数字=正解数
問5
問6
問5
問6
頻度 語数 頻度 語数 頻度 語数 頻度
語数
11
2
11
9
11 9(3)
11
14(5)
10
1
10
1
10 1(1)
10
9(4)
9
1
9
5(1)
8 3(1)
8
2
7 1(1)
7
3(1)
6
1
6
3
5 1(1)
5
4
1
4
1(1)
3
1
0
1
この表から見ると、リード文では頻度 10 レベルで対応可能といえよう。回答文(選択用語)でも
頻度 10 でほぼ充足している。問 5 では回答個所 16 の内 10(62.5%)、問 6 では回答個所 28 の内
23(82.1%)である。回答文には正解の用語と誤りの用語があり、カッコ内の正解用語の数を見て
も頻度 10 で十分と言えよう。正解の比率は問 5 で 7 個所中 4(57.2%)、問 6 で 12 個所中 9(75%)
である。
-35-
ちなみに頻度の低い用語を見ると、
「問 5」の頻度 5 の用語は機械製糸であり、座繰製糸との関
連での問題なので回答可能であり、
「問6」の頻度 4 の正解用語は帝国在郷軍人会である。正誤問
題で 1910 年に結成された団体を大政翼賛会(頻度 10)か帝国在郷軍人会かを問う問題なので、正
解可能であろう。
リード文での用語を除いて、正解の用語で見れば、頻度 10 以上の用語で問題を作成することは
可能であろう。
7.センター入試の改革試案
以上の検討から、センター試験の出題は教科書頻度 10 以上の用語で可能だといえる。しかし、
受験生は現行教科書でゴチックになっている用語だけでは対応不可能といえる。また、全時代か
ら出題されており、基本的には高校の学習レベルで対応が可能であるとも言える。予備校の判断
では、総合的な整理力と理解力が必要であり、問題としては良いと判断されている。その中にあっ
て、地図・図版などを使用した問題は歴史的思考力が必要であるという。
とすれば、センター試験へのいくつかの改革の方案が提言できる。
第 1 に思考力を求める問題の増加させることである。予備校の提言によれば、地図や図版、史
料問題は思考力を求めているという。難問になる可能性もあるが、高校で歴史的思考力を育成す
る授業を実施していれば、対応可能であろう。教科書と授業の変化が前提になるが、双方がマッ
チした改革を考えるとすれば、このような出題は可能であろう。
第 2 に問題数である。60 分で 36 問、1 問平均 1 分 40 秒(100 秒)という問題量は、リード文を
読んで、設問を読んで、判断して、記入することを考えると、試験場でじっくり思考するために
は、時間が足りない。つまり、問題数が多すぎる。したがって、問題数の削減を提案したい。ど
のくらいの問題数が適切かは難しい問題ではあるが、30 問(1 問 120 秒=2 分)まで削減すること
を提案する。
第 3 は大問数の削減である。第 1 と関連して、問題数を削減する場合、第 1 問(総合問題)を削
除することが適切であると考える。第 1 問は総合問題で、時代も全時代を対象にしている。した
がって受験生にとっては、難しい問題である。受験生にとっては時代を限定した方が考えやすい。
したがって問題数減少の対象としては適切である。第 1 問は回答数は 6 である。
第 4 に出題用語の問題である。教科書の頻度 10 以上の用語での出題を提案する。先に見たよう
に、頻度 10 以上の用語で正解を作ることは可能である。
以上のように、歴史的思考力を必要とする問題を作成し、思考する時間(1 問 2 分平均)を保障
するために第 1 問を削除して問題数を 30 問に減少させ、正解での使用用語を教科書頻度 10 以上
の物に限定して問題を作成することを提案する。
本報告書では、教科書での使用用語を頻度 10 以上のものとし、その用語を教科書でゴチックに
する案を提案している。教科書の作成と大学入試センターが、使用用語で歩調を合わせれば、高
校での授業と大学入試センター試験が、ともに歴史的思考力を育成する歴史教育に資することな
るといえよう。
(君島和彦)
-36-
b)個別大学入試における世界史Bの改革案
はじめに
現在、歴史系科目における大学入試問題では、些末な用語を問う出題が数多くなされ、そのた
め高校の授業では多くの用語が記載されている教科書が採択され、その結果、用語の暗記を中心
とする授業が行われることになっているという言説がしばしばなされることがある。
しかし実際のところ、2011 年度における高校 3 年生は約 110 万人で、うち大学入学者は約 59.9
万人。このうち、筆記試験の課される一般入試による入学者は約 33.4 万人で、全体の入学者の
55.8%となっており、その比率は 2000 年と比較すると 10%も低下している(2000 年の大学入学
者は 59.2 万で、一般入試入学者は 39 万人で、比率は 65.9%)14。また、多くの大学入学希望者
が受験する大学入試センター試験において、2011 年度の試験では、総受験者が 52.8 万人のうち
地理歴史科受験者は 36.7 万人で、世界史受験者はAとBを合わせても約 9 万人にすぎない(日本
史は 15.7 万人、地理は 11.9 万人)15。
このように高校生の中で世界史受験者が比較的に少数であるにもかかわらず、地理歴史科の必
履修科目として、近現代史を中心とすることになっている世界史Aを採用した高校で、古代史か
ら教えはじめ、選択の世界史Bでその続きを教えて、世界史を完結している高校が結構存在する
といわれているが、こうした行為は「国際化への対応」 16のために世界史が必修とされたという
経緯を無視し、大学入試を言い訳にして、少数の受験生のために世界史を受験で採用しない多数
の高校生を犠牲にしていると言っても過言ではなかろう。
近年、新自由主義の考えが教育の世界にも浸透しつつあり、成果主義や自由競争を主張する地
方自治体の首長が登場している。そうした地域では、目に見えやすい難関大学の合格者数の増加
を教育目標に掲げている学校が存在するが、
「国際社会に主体的に生き平和で民主的な国家・社会
を形成する日本国民として必要な自覚と資質を養う」 17という地理歴史科の目標を無視してはな
らないと思われる。
1.歴史的思考力の育成と入試問題の関係について
学習指導要領では歴史系科目の目標として、
「歴史的思考力を培い」という文言が記されている
が、歴史的思考力をどのようにして培うかという方法はこれまで記されてこなかった。しかし、
学習指導要領に影響を与える中央教育審議会答申(2008 年 1 月)で注目すべき記述がなされてい
る。
ここでは、社会系教科の「改善の基本方針」として、
「地図や統計など各種の資料から必要な情
文部科学省『学校基本調査』『全国大学一覧』の数字による。また http://www.mext.go.jp/b
menu/shingi/chukyo/chukyo4/siryo/attach/ icsFiles/afieldfile/2012/06/28/1322874 2.pdf も参照
した。
15 数字はいずれも大学入試センター発表の資料による。
16 熱海則夫・辻村哲夫・大西珠枝編『改訂高等学校学習指導要領の展開
総則編』明治図書、1991
年、61 頁。
17 文部科学省『高等学校学習指導要領解説 地理歴史編』2010 年、教育出版、11 頁。
14
-37-
報を集めて読み取ること、社会的事象の意味、意義を解釈すること、事象の特色や事象間の関連
を説明すること、自分の考えを論述することを一層重視する」18とされ、日本史Bではまさに「歴
史と資料」
「歴史の解釈」
「歴史の説明」
「歴史の論述」という中項目が置かれている。こうした学
習活動は、今後の歴史系科目の授業で意識して行われるべきものであり、大学入試においても、
その点の配慮がなされると、高校での授業改善に資すると考えられる。
実際のところ、2013 年に実施された世界史の入試問題で、大阪大学は 5 つの地域の超長期的な
経済規模の推移を示すグラフを題材にして設問を構成し、一橋大学ではフランス革命における貴
族の抵抗を、反乱とみるか革命とみるかという解釈を問う設問がなされた。このように、ほとん
どの国公立大学では歴史的思考力を問う論述式の問題が増大しており、その傾向は定着している
が、私立大学の場合は大量の受験者を短期間で合否判定することが避けられないためか、こうし
た論述問題はほとんど見られない。とはいえ、資料を活用した出題をしている大学もいくつかみ
られるので、以下ではそうした実例およびその改善点について示していきたい19。
2.大学入試問題の改革に向けて
2013 年の入試において、成蹊大学と中部大学で 19 世紀後期から 20 世紀初めにかけての世界
の工業生産に占める各国の割合を示すグラフが使用された。グラフに登場する欧米諸国の名称を
問う設問は共通するが、その他について、前者ではイギリスに関する設問が中心で、後者は経済
に関する問いが多く、ともに些末な用語を問う設問がいくつか見受けられる。
この箇所の設問における改善策としては、資料では帝国主義時代における欧米各国の生産力の
変遷を示しているので、そうした経済面の動向を踏まえて、この時代の各国がどのような政治的
行動を行ったかを問う設問が望ましいと思われる。我々の歴史教育研究会では、2000 語くらいの
用語を使った試験問題を提言しているので、ここではイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・ア
メリカそれぞれ 2 問くらいの設問を設け、その際イギリスでは保守党・スエズ運河・アイルラン
ド、フランスでは第三共和政・アフリカや東南アジア進出、ドイツではビスマルクの社会政策・
3B政策、ロシアでは農奴解放令・南下政策、アメリカでは大陸横断鉄道・米西戦争といった事
項が答えとなるような設問が望ましい。
この年、上智大学文・総合人間科・法学部での入試で出された東アジア海域の概略図に関する
問題は、世界史と日本史の関連付けを図るものとして興味深く、設問にはなお工夫が必要だが、
このような問題が今後も出題されることを期待したい。
また、私立大学では大量の受験生を採点するために、正誤問題等が結構見受けられるが、そう
した形式でも思考力を問う出題が可能であることを参考例で示したい。題材はセンター試験であ
るが、入試問題として用語の暗記を単純に問う問題ではなく、歴史的事項を因果関係のなかで位
置付ける問題こそが主流にならなければならないと考える。
18
前掲書、2 頁。
入試問題については、旺文社編『2013 年受験用 全国大学入試問題正解 世界史』2012 年お
よび『2014 年受験用 全国大学入試問題正解 世界史』2013 年を参照した。
19
-38-
おわりに
大学入試問題についての見解を示してきたが、以上をまとめると、①資料(統計や写真、史料
など)を提示した問題をできるだけ出題してほしい、②出題の際に資料と関係した設問を設けて
ほしい、③用語の暗記を単純に問うのではなく、因果関係や歴史的事象の意味を考えることがで
きる問題を出題してほしい、④語句を記述させる場合もしくは正誤問題でキーとなる用語は、我々
高等学校歴史教育研究会が提起する 2000 くらいの用語から選んでほしい、ということである。
歴史用語を絞り込むことで、入試問題の作問が困難になるという指摘がなされるかもしれない
が、むしろ些末な問題が減り、基礎基本を問うことが増え、歴史の大きな流れや歴史的事象の意
義を理解しているかどうかが大事になってくると思われる。些末な知識を問う難問がとかく目立
ち、受験生もそれができるかどうかに注目してしまうのであるが、実は難関大学であっても問題
の多くは絞り込んだ歴史用語で対応できるものである。これまで、受験生に求められた労力の大
きさこそが問題であって、上記のような試験の易化が、日本の青少年の学力低下につながるとは、
到底言えないはずである。
高校生が些末な用語の暗記から解放されて歴史への興味をもち、歴史を学ぶことにより現代の
世界や日本の諸問題が理解できると思えるような歴史の授業が成り立つように、歴史教育に携わ
る各方面の理解と協力を得たいと切に願うものである。
(鳥越泰彦、中村薫、小川幸司)
〔因果関係を考えることができる入試問題例〕2012 年センター入試より
日本とロシアの関係の歴史について述べた文として正しいものを次から一つ選べ。
① アレクサンドル 1 世が、ラクスマンを日本に派遣した。
→エカチュリーナ 2 世は、ラクスマンを日本に派遣し、日本と通商条約を結んだ。
② 日露戦争の結果、日本は樺太全島を領有するようになった。
→ロシア革命後、日本はシベリア出兵を行ったが、列強の中で最も早く撤兵した。
③ 日ソ中立条約が結ばれた後、第二次世界大戦が始まった。
→日ソ中立条約が結ばれ、第二次世界大戦中、ソ連は日本との間で中立を守った。
④ 日ソ共同宣言が出された後、日本は国際連合に加盟した。
→日ソ共同宣言が出されて、日本はソ連との国交回復が実現し、国際連合に加盟した。
〔用語を絞り込んだ入試問題例〕2012 年度慶應義塾大学商学部試験より
19 世紀前半のウィーン体制の下で成立したドイツ連邦は、35 の君主国と4自由市から成る
国家連合であった。1834 年の【1】同盟は国内の経済的統合を意味するが、政治的な統一国家
形成にはまだ紆余曲折を経る。1848 年のフランスの【2】革命は、プロイセンやオーストリア
にも波及してウィーン体制は崩壊する。ベルリンの【3】革命を受けて開かれたフランクフル
ト国民議会からの提案は、プロイセン王【4】により拒否され、頓挫した。ドイツ統一の論点
はオーストリアの取り扱いにあった。プロイセン宰相ビスマルクは、オーストリアとの戦争を
主導し勝利することで、オーストリアを排除した。北ドイツ連邦を成立させ、次にフランスと
-39-
の戦争で勝利して、ドイツ帝国を成立させた。初代ドイツ皇帝はプロイセン王【5】である。
敗北したフランスは、ナポレオン3世が【6】の戦いで捕虜になって、第二帝政は崩壊した。
問1
文中の空欄に当てはまる最も適当な語句を、語群から選びマークしなさい。
問2 プロイセンはオーストリアと何を争って戦争をしたのか、50 字以内で説明しなさい。
どこの領土をめぐって争ったかなどというこ
【4】は「フランクフルト(国民会
とは些末なことである。むしろ「プロイセン
議)」を問えばいい。
【7】は「ナポ
とオーストリアの争いが、ドイツ統一をめ
レオン3世」を問えばいい。
ぐって重要な意味をもったのはなぜか、説明
しなさい」としたほうが本質的であろう。
ⅴ)大学における歴史教育改革
a)大学歴史教育の新しい挑戦
上述した大学のさまざまな問題点に対処すべく、筆者の勤務先(大阪大学文学研究科/文学部)
では、全国の高校教員と連携した「大阪大学歴史教育研究会」での検討を背景として、歴史教育
刷新の取り組みを進めてきた。個々の取り組みには個別の背景や経過があるのだが、現在では、
大阪外大との統合によって発足し地歴科の教員養成・リカレント教育を目的の一つに掲げている
「文化動態論専攻」(修士課程)の「共生文明論」コースを含めて、以下のように総合的・系統
的な仕組みができている。手前味噌だがこれを紹介させていただきたい。
第一は、大づかみな論述に徹した二次試験の入試問題である。日本史(文学部のみ)はすべて
(古代・中世・近世・近現代各1問)、世界史(文学部・外国語学部)も大半が論述問題で、世界
史ではグローバルヒストリーや日本史と世界史、東洋史と西洋史を連結したテーマが毎年出題さ
れる。
教養課程では、高校で世界史を系統的に履修(理解)できなかった学生を主対象に、将来の市
民社会の担い手として最低限必要と思われる各時代の世界史の大づかみな構図に絞って教える科
目「市民のための世界史」
(学外の一般市民を主対象にしているわけではない)を、高度教養教育
を含めて毎年6クラス開講している。
「市民のための日本史」も時代別の概論を教えている。これ
らは、世界史・日本史で受験した学生や教員志望の学生が「多すぎる知識を整理する/活用する」
方法を学ぶのにも役立つ内容である。
専門課程では、史学概論に当たる「歴史学方法論講義」を主に学部生用(考古学を除く史学系
各専修の2回生必修。大学院生も受講可)と博士前期課程用(学部3/4回生も受講可)の2つ
開講している。前者は日東西各1人の教員が数回ずつ分担して歴史と歴史学の意味、分野別の新
しい動向などを講義するもの、後者は共通テーマを決めて各教員が方法論を提示しながら自分の
-40-
研究を紹介するリレー講義である。
さらに大阪大学歴史教育研究会を大学院の演習として、院生の履修を可能にしている(学部生
も希望者は面談のうえ許可)。研究会事務局は日東西各専門分野の博士後期課程院生またはポスド
クで構成する。履修院生には、その年のテーマに合わせてグループ作業(高校教科書の関連事項
抜きだしなど)とグループ発表を課す(各自の専門研究の発表ではない)
。ポスドク・院生と大学・
高校教員が協力したテーマ別解説・用語リストの作成なども行った実績がある。高大連携として
は、大阪大学歴史教育研究会として各地の高校教員の研究活動に大学教員・院生を派遣するなど
のかたちで協力するほか、中心的な高校教員にさまざまな意見を求め、それを「世界史演習」以
外の授業科目にも反映させている。
なお地歴科教員志望者や、専門研究者を目指す院生には、アラカルト式に特殊講義を履修する
だけでなく、
「市民のための世界史」
「歴史学方法論講義」
「歴史教育研究会」を3点セットと考え
て履修するよう誘導している。
こうした史学系共通のプログラムと平行して、日本史・東洋史・西洋史の各専修でもそれぞれ、
積み上げ式の文献講読の授業や専修内全員参加のプレゼン演習等で、深い専門性と広い視野や他
流試合の能力を両立させる仕組みを作ろうとしており、
「共生文明論」以外でも、中学・高校教員、
国際的に活躍できる社会人の養成に明らかな効果を上げている。
以上のさまざまな取り組みのひとつの集大成が、上記講義「市民のための世界史」用にこのほ
ど刊行した同名の教科書である(大阪大学歴史教育研究会編、2014 年4月、大阪大学出版会刊)
。
A5版 312 ページ(本文 288 ページ)と高校世界史 B の教科書より 2 割方薄いこの教科書(古代・
中世の割合が世界史 A と世界史 B の中間程度になっている)は、
「有名な固有名詞と年代の列挙」
でなく、大きな流れや構図(概念や時には学説史)の提示に徹している。序章「なぜ世界史を学
ぶのか」、終章「どのように世界史を学ぶか」で歴史を学ぶ意味と歴史学の方法などを論じ、各章
には複数の課題を設けて内容のまとめや討論の助けとしている。用語・事項数は、現在の地名・
国名や「綿布」
「砂糖」など商品名、それに「アジア間貿易」
「財政軍事国家」
「持続的発展」など
多数の概念用語、そしてコラムなどで例示した「本筋以外」のエピソード関連用語まですべて数
えて 2570 個あまりであり、うち『世界史用語集』(山川出版社)に載るものは 1771 個にすぎな
い。それで最低限必要な流れや概念は説明できるし、逆に言えば、羅列にならぬようそれぞれに
十分な説明を加えれば、その程度の用語・事項しか盛り込めない。
b)教員養成の刷新
学術会議提言では高校教員の養成課程編成についてもとりあげ、(i)教員の生活指導力の育成と
専門教科の指導力(知識の伝達だけでなく、教材開発力や歴史認識の育成など)の両面をのばせ
る工夫を図る、(ii)東洋史と西洋史の融合を進めるとともに、東アジア史などの設定により日本
史と世界史の融合した教育を促進し、とくに、歴史基礎が新設される場合には、それに対応した
教職科目を新設する、(iii)教員の問題解決力や教材開発力を育成するために教職課程では演習方
式による歴史教育法の充実を図る、(iv)「教職に関する科目」と「教科に関する科目」の中間に
「教科内容に関する科目」を設定する場合には、各大学の自主的なカリキュラム編成を尊重する、
-41-
などの提言をおこなった。上記の大阪大学史学系の新しい教育は、新しい歴史学の動向を踏まえ、
現代性をもった歴史教育ができる教員の養成を重視している。
提言の(i)(iii)に関連して、歴史教育研究会(演習)や社会科教育法、各専門分野の演習で
は、たとえば「像を結び背景がわかる」内容はもちろん、図表や資料まで気を配った発表・討論
の訓練をしている。中央アジア史・中国史・東南アジア史という異なる研究伝統をもつ三分野が
対等に発表・討議する東洋史学の「合同演習」を代表格として、同一専修内部でも「専門違いの
学生や新入生にわかる発表をする」ことが徹底指導されている点は、教員志望者の訓練としても
有益である。また(ii)(iv)については、グローバルヒストリーやアジア海域史、中央ユーラ
シア史など広域史の専門家を中心に、「アジアを正当に位置づけ日本を完全に組み込んだ世界史」
「最新の歴史学の諸動向と歴史教育への影響」などを特殊講義や専門研究ゼミだけでなく、教養
教育や概論系の授業で学べる仕組みを作っており、現職教員のリカレント教育も含めて歓迎され
ている。
なお今後は、上記の教養課程用教科書『市民のための世界史』を教員養成や現職教員の研修に
も使いたい。同書は説明や概念にかなり高度なものを含み、高校生の使用を直接には想定してい
ないが、上記のようなトレーニングを受けた高校教員が、以前とは大幅に内容の変化した高校教
科書やその背景にある考え方・研究動向を理解し、入試のための機械的暗記でなく説明や思考に
時間を割く魅力的な授業内容--しかも大国・強国だけの歴史でも特定地域や局所的テーマだけ
に偏るのでもないバランスのとれた内容--を選び組み立てるための材料として、有用だと確信
している。
c)すぐれた取り組みの情報共有を
もちろん、大阪大学だけが動いているのではない。筆者の管見に入ったものでも、福岡大学人
文学部が学会や高校・博物館との連携を織り込みながら学生研究発表とその出版で顕著な成果を
上げている例、静岡大の高大連携研究会と神戸大・名古屋市立大と協力した3大学合同歴史学ゼ
ミなど、教育系の大学・学部以外を含めて、あちこちの大学ですぐれた取り組みや提言がおこな
われ、教員養成や博学連携を含めた成果にもつながっている。高大連携の場を高校教員の養成・
研修に活かすだけでなく、参加した高校生や大学院生・若手研究者にも大学で学ぶ意欲を持たせ
たり研究の発信方法を考えさせるなど多面的な成果をあげてきた神奈川の夏季セミナーのように、
高校教員組織による取り組みも進んでいる。それらが全国に広がるような、情報発信・共有の仕
組み作りが強く望まれる
(桃木至朗)
-42-
Ⅳ.高等学校の歴史教育用語の限定と
思考力育成型教育の強化
ⅰ)高等学校の歴史教育用語を限定するガイドラインの提案
a)世界史B
①限定する用語数と地域配分
3500 前後の歴史用語がひしめいている現在の世界史 B の教科書について、どうやって歴史用
語の限定をはかればよいのだろうか。まず限定後の用語数についてイメージしてみたい。
世界史の学習内容の過重さから見るならば、地歴公民科の他の科目の用語数を参照すべきであ
ろう。詳述型の教科書で比較した場合、日本史は世界史と同じく 3500 語程度であるが、地理は
600 語程度であり、政治・経済は 600 語程度、倫理は 1500 語程度となる。地理は教科書以外に
地図帳を参照しなければならないし、政治・経済も教科書以外に時事的な内容を学ばなくてはな
らないから、一概には同列に並べることはできない。しかしながら世界史と日本史の用語の多さ
は、明らかである。
では、1ページあたりにどれくらいの歴史用語があれば、歴史の流れをじっくり論理的に描け
るのであろうか。例えば、冷戦の始まりからペレストロイカ以前までの社会主義国の戦後史につ
いて三つの教科書を比較してみよう。ここは世界史 B が多くの歴史的事件を盛り込んで過密な内
容になっているのに対し、世界史 A の簡易型教科書ではかなり精選された内容になっている。そ
して『ドイツ・フランス共通歴史教科書』になると、さらに用語を減らし、資料にもとづきじっ
くり考えさせる内容になっている。
表1
教科書の歴史用語数比較(戦後の社会主義国の歴史)
教科書
判型
歴史用語数
1ページあたり
詳説世界史 B(山川出版社、2013)
A5 版、約3ページ
58 個
19 個
明解世界史 A(帝国書院、2013)
B5版、約4ページ
27 個
6個
29 個
2個
独仏共通歴史教科書(明石書店、2008 年) B5版、約 12 ページ
もうひとつ、アヘン戦争から洋務運動にいたる中国の近代史について三つの教科書(参考書)
を比較してみよう。ここも教科書の用語が過密になりがちな分野であり、その程度は世界史 B も
世界史 A もあまり変わらない。そこで市販の参考書であるが、日中韓3国共通歴史教材委員会の
『未来をひらく歴史』が用語を抑えて読みやすい内容になっているので、それと比較してみた。
表2 教科書・参考書の歴史用語数比較(19 世紀半ばの中国の歴史)
教科書
判型
歴史用語数
1ページあたり
詳説世界史 B(山川出版社、2013)
A5 版、約4ページ
54 個
13 個
明解世界史 A(帝国書院、2013)
B5版、約2ページ
22 個
11 個
未来をひらく歴史・2版(高文研、2008 年) A5版、約3ページ
21 個
7個
以上からわかるのは、1ページあたりの歴史用語が6~7個程度だと、歴史の因果関係がしっ
-45-
かり描きこめるような叙述の余裕がうまれるということである。仮に1ページあたりに7個の歴
史用語が盛り込まれ、300 ページの教科書を作るならば、総用語数は、2100 語となる。これは戦
後の世界史教科書が誕生した頃、1952 年の教科書の用語数に近い数字であるとともに、現在の地
歴公民科の科目でいえば、倫理の教科書の用語数に近づいた数字となる。
そこで「世界史 B の歴史用語を 2000 語±200 語程度に限定できるならば、教科書の過重さと
無味乾燥さがかなり解消できるのではないか」という仮説をたててみたい。
では、出版されている世界史 B の教科書 11 冊のうち、何冊の教科書に登場するかという「頻
度」に注目すると、2000 語という用語数は、どれくらいの頻度以上の数になるだろうか。
表3
事件
頻度
総数 重複除
11 190 182
10 106 96
9
61
52
8
57
52
7
65
60
6
37
32
5
39
37
4
56
48
3
46
41
2
46
41
1
60
56
参考 3
3
○
17
17
合計 783 717
世界史 B 教科書 11 種類の「頻度」別にみた歴史用語数
「頻度」×「項目」別集計
地名
制度
組織
総数 重複除 総数 重複除 総数 重複除
80
76 215 213 304 282
49
43 147 141 188 171
62
56 121 112 144 127
45
34 106 102 130 107
44
40 107 100 114 91
38
34
68
61 123 101
32
27
77
74 119 88
48
36
82
76 114 85
58
44
94
86 138 106
73
57 108 98 149 123
79
60 108 96 185 158
0
0
4
4
11
9
0
0
1
1
1
1
1335 1206 608 507 1238 1164 1720 1449
人名
総数 重複除
182 177
168 159
136 130
106 97
82
74
70
58
79
65
93
76
96
75
120 110
186 168
17
17
0
0
文化
総数 重複除
130 129
143 133
116 111
103 95
104 95
90
84
86
75
97
83
103 90
103 89
150 136
6
5
0
0
その他
総数
10
10
15
8
13
14
8
5
10
13
18
0
0
1231 1125 124
合計
1111(1069)
811(753)
655(603)
555(495)
529(473)
440(384)
440(374)
495(409)
545(452)
612(531)
786(692)
41(38)
19
7039(6292)
これを見ると、頻度9以上の歴史用語を合計しても、2425 個になってしまい、軽く 2000 語を
超えてしまう。頻度8以上の歴史用語を合計すると、なんと 2920 個にも膨張してしまう。機械
的に考えれば、
「頻度9以上の歴史用語に限定しよう」という発想も出てくるかもしれないが、実
際には戦後 70 年間の世界史教育で「なんとなく当たり前に教えてきた些末な知識」というものも
頻度9以上の歴史用語に入っている可能性がある。近年の歴史学で注目されていることであって
も、現行教科書での頻度は低いということもあるだろう。
従って、「頻度○以上に限定する」というような乱暴な方法は、とるべきではない。
もうひとつ考えたい問題がある。歴史用語の総数を議論するだけではなく、世界史 B の教科書
がバランスよく各地域の歴史を描くために、歴史用語の、
「地域別の用語配分」を考慮しなくては
ならないだろう。そこで現在の世界史 B の教科書のうち、採択数上位6社の教科書の「地域」別
用語数を調べてみた。
-46-
表4
会社別/地域
山川詳説
山川高校
東書世界史
東書新選
帝国新詳
第一学習
合計
%
合計
北東亜
554
420
555
292
501
473
2795
15.8%
東南亜
226
184
262
135
199
205
1211
6.8%
世界史 B の採択数1~6位の教科書における「地域」別用語数
南亜
170
142
167
88
165
133
865
4.9%
7350
中央亜
179
144
162
81
165
148
879
5.0%
「高校教科書会社別」×「地域」別集計
中東亜
北ア
南ア
西欧
東欧
329
231
90
878
635
252
170
74
684
490
307
215
83
810
562
159
118
43
392
263
291
201
87
763
573
262
179
73
744
504
1600
1114
450
4271
3027
9.0%
6.3%
2.5%
24.1%
17.1%
1564
7298
大洋州
15
13
19
6
16
14
83
0.5%
83
北米
中南米
161
44
122
26
140
53
62
17
151
52
140
37
776
229
5.7%
1005
国際
86
55
83
45
80
53
402
2.3%
402
合計
3598
2776
3418
1701
3244
2965
17702
100.0%
17702
やや意外なほどに「東欧」の用語数が多いのは、古代ギリシア史がここに分類されているためで
あることをことわっておきたい。それはともかく、この表からわかることは、歴史用語が圧倒的
にヨーロッパと北米のものに偏重しているという事実である。
次にこれを教科書の「地域」別ページ数と比べてみよう。以下は採択数上位6社ではなく、詳
述型の教科書の中でも特に叙述が詳しい教科書を選んで、
「地域」別ページ数をカウントしてみた
ものである。
表5 世界史 B 詳述型教科書4社の「地域」別ページ数
実教
%
山川
%
新山川
%
東書
%
帝国
%
北東亜 東南亜 南亜 中央亜 中東亜
91.5
17.5
18
14
44
23.0%
4.4%
4.5%
3.5% 11.1%
74
15.8
23.2
12
39
19.5%
4.2%
6.1%
3.2% 10.3%
76.5
12.5
13.5
5
39
20.1%
3.3%
3.5%
1.3% 10.2%
70.5
18.5
20.5
11.5
46.5
19.0%
5.0%
5.5%
3.1% 12.5%
57
10.5
12.5
11
32
19.7%
3.6%
4.3%
3.8% 11.1%
北ア
7.5
1.9%
4.5
1.2%
5
1.3%
2
0.5%
3
1.0%
南ア
4
1.0%
4
1.1%
4.5
1.2%
2.5
0.7%
2.5
0.9%
西欧 東欧 大洋州 北米 中南米 国際
114.7
25.5
1.5
18.5
7.3
33
28.9%
6.4%
0.4%
4.7%
1.8%
8.3%
131
33.5
1
15
7.5
19.5
34.5%
8.8%
0.3%
3.9%
2.0%
5.1%
141
30
2
26
5.5
20.5
37.0%
7.9%
0.5%
6.8%
1.4%
5.4%
123.5
24
1
14.5
6
30
33.3%
6.5%
0.3%
3.9%
1.6%
8.1%
93
19.5
1
18
3
26.5
32.1%
6.7%
0.3%
6.2%
1.0%
9.2%
合計
397
100.0%
380
100.0%
381
100.0%
371
100.0%
289.5
100.0%
上段はページ数、下段は全体ページ数に占める割合
グローバル・ヒストリーとして叙述されている場合は「国際」に分類している
この表から言えるのは、歴史用語数以上に、
「ページ数」において、教科書の「ヨーロッパ中心
史観」が明らかであるということである。どの教科書を見ても、中国史やイスラーム史のページ
になると、1ページのなかにたくさんの歴史用語がつめこまれているような印象をもつのは、こ
のようなページ数の偏りがあるためなのである。中国史やイスラーム史だけに歴史用語が集中し
ているわけではなく、多くのページのなかに比較的ゆったり叙述されているヨーロッパ史のなか
にも問題点が多いということが見えてくるであろう。
そこで歴史用語を限定するときには、せめてページ数配分と同じくらいの 20%を北東アジア関
係の用語数にするとともに、なるべく西欧関係の用語を減らすことが望ましい、と考えられるだ
ろう。世界史が単なる「外国史」であることをやめて、
「日本列島史も含んだ世界の歴史」になる
ためにも、そうした組み換えが必要であるように思われる。
-47-
②どのように限定するのか
さて、以上が用語限定の枠組みの議論であるが、実際の用語限定作業はこれとは別の論理によっ
て進めてみた。つまり、
「世界史の教師である私が『些末だ』と思っていることを削り、『授業を
するときにこれがないと説明が困難になる』と思う用語にのみ★をつける」という方法をとった。
もちろんそこには私の独断と偏見が入り込む可能性が大きい。それは避けられないことなのだが、
少しでもそれを減らすために、第一段階として鳥越泰彦が★をつけ、第二段階として小川幸司が
それを参照しながら最終的な★の案を作成するという共同作業の方式をとった。
もう一度繰り返すが、世界史 B の教科書に盛り込まれているすべての用語を検討し、「頻度」
とは関係なく、「世界史の教師である私が『些末だ』と思っていることを削り、『授業をするとき
にこれがないと説明が困難になる』と思う用語にのみ★をつける」ことを思い切ってやってみた
わけである。その際、
「頻度」8以上であるにもかかわらず、★をつけなかった用語もある。その
理由を用語の一つ一つに明記した。理由は以下に大別される。
表6
「頻度」8以上であるにもかかわらず採用しなかった理由
①網羅主義の克服…民族分布、国家の並立、領土の変化など、碁盤目状に知識を埋める必要は
ないことから削った用語。
②説明の工夫…内容の詳しい記述をすれば済み、わざわざ暗記させる必要がない用語。
③修飾人物…単なる修飾にすぎず、その人物の業績をほとんど学んでいない用語。
④旧態依然…文化史について昭和初期の教養主義の残滓以外のなにものでもない用語。
⑤文化史簡略化…文化史について、あったほうがよいが限定のために削らざるをえない用語。
⑥戦後史簡略化…戦後史について、あったほうがよいが限定のために削らざるをえない用語。
⑦重複…別の時代で学んだり、類似の言葉で学んだりしている用語。
⑧説明文…用語としてカウントする必要がないもの。
逆に「頻度」8未満であるにもかかわらず、★をつけた用語もある。その理由を用語の一つ一
つに明記した。理由は以下に大別される。
表7
「頻度」8未満であるにもかかわらず採用した理由
①地域理解…通史としてその地域の歴史を理解するために必要であると思われる用語。
②関連用語…★をつけた用語を理解するために、関連して学びたい用語。
③公民関連…公民科の教養と関連しており、市民的資質のために知っておきたい用語。
④一般教養…一般常識であろうという用語。
⑤グローバル視点…グローバルに歴史をとらえるために知っておきたい用語。
⑥日本列島史…日本列島の歴史も含めた世界史の総合的理解のために必要な用語。
-48-
③限定した結果について
以上のようにして、7305 個の歴史用語を検討した結果が、別表である。
私たちが★をつけた用語は 2147 個となり、限定枠の仮説とした 2000 語±200 語のなかにも、
結果的におさまる形になった。枠にあてはめるために、無理に削ってこの数値にしたわけではな
いということを強調しておきたい。これまで世界史の授業をしてきて、
「こんなことを教えなくて
もいいのじゃないか」と思う用語を削ってみたら、結果的に目標数値になったというわけなので
ある。
限定したあとの「地域」配分をみてみよう。日本列島史につながる歴史用語が盛り込まれるよ
うに配慮したことから、北東アジア関連の用語が 20%を占めるにいたっている。この点でのバラ
ンスをとることができたと言えよう。しかしながら、西欧の用語が 25.6%を占めるというのは、
ヨーロッパ中心史観が強まっているのではないかという批判を受けても仕方なく見える。
表7
用語数
%
限定した用語の「地域」配分
北東亜 東南亜 南亜 中央亜 中東亜 北ア 南ア 西欧 東欧 大洋 北米 中南米 国際 合計
536
186
76
26
114
52
38
681
388
6
118
37
399 2657
20.2%
7.0%
2.9%
1.0%
4.3%
2.0%
1.4% 25.6% 14.6%
0.2%
4.4%
1.4% 15.0% 100.0%
この点については、次のことを見ていただきたい。歴史用語の「地域」は、一つの用語が複数
の「地域」にカウントされている場合があるため、合計用語数が 2657 になっている。510 個の歴
史用語が、複数の「地域」に関するものなのである。表7で西欧に分類された 681 個の用語の内、
西欧のみにカウントされているのは 419 個であり、15.8%にすぎない。ちなみに限定作業前に西
欧のみにカウントされていた用語は 18.8%であった。つまり、限定した結果、西欧の用語として
残ったものは、アジアやアフリカの歴史と関連している用語についての比率が高くなっているわ
けである。近現代になればなるほど、そうした用語が多くなる。ゆえに西欧に関する用語に対し
て、より限定をかけるという当初の目標も、一定程度達せられたと見てよいであろう。
では、限定したあとの用語の「項目」配分と「時代」配分について、検証してみよう。まず、
「項目」配分についてである。限定前と限定後の「項目」配分を比較したのが、以下の表である。
これを見ると大きな変化はないことがわかる。むしろ限定前に%が大きかった「組織」に関する
用語が減ることによって、バランスはよくなったと思われる。
表8
限定した用語の「項目」配分
事件 人名 地名 制度 組織 文化 その他 合計
用語数
260
435
171
404
466
374
37 2147
%
12.1% 20.3%
8.0% 18.8% 21.7% 17.4%
1.7% 100.0%
削減前
783 1335
608 1238 1720 1231
124 7039
%
11.1% 19.0%
8.6% 17.6% 24.4% 17.5%
1.8% 100.0%
次に「時代」配分を見てみよう。こちらのほうが、変化の大きい結果となった。まず、先史・
古代・中世ともに比率が落ちている。戦後も 70 年の歴史が経過し、新たな歴史の出来事が付加さ
-49-
れていくわけだから、逆に古い時代の歴史用語は精選されていかねばならない。その課題は、一
応達せられたとみてよいだろう。しかし同時に「現代」の用語の比率も減少していることに注目
せざるを得ない。これは本研究会の歴史用語のデータベースを作成するとき、
「現代」の分類幅を
戦後史という設定にしたためである。戦後史の歴史用語は、教科書によってかなりまちまちであ
り、
「頻度」8以上の用語の数はかなり限られてくる。また、わざわざ用語を暗記しなくても、説
明のみで理解できる場合も多い。教科書の戦後史の記述というのは、改訂のたびごとに次々に付
け足されることによって増殖してきた面もあるので、この用語を精選することはむしろ必要なこ
となのではないだろうか。
表9
限定した用語の「項目」配分
先史 古代 中世 近代 現代
用語数
22
349
592
959
225
%
1.0% 16.3% 27.6% 44.7% 10.5%
削減前
105 2114 3482 4602 1442
%
0.9% 18.0% 29.6% 39.2% 12.3%
合計
2147
100.0%
11745
100.0%
以上、限定した用語をいくつかの角度から検証してみたが、大きな問題点を見出すことはなかっ
た。よって、鳥越・小川の限定案を江湖に示し、多くの方々のご意見を請いたいと思う。
なお、二点のことを付記する。第一に、歴史用語に★をつけなかったということは、その歴史
を教科書に盛り込まないということとイコールではない、ということを強調しておきたい。たと
えば、太平洋の島々の歴史は、★をつける歴史用語は少ないけれども、用語を使わない形での歴
史叙述、歴史学習が可能であろう。アジア・太平洋戦争時代の日本の大陸政策に関する用語につ
いても同様である。★をつけた用語は限定的であるが、暗記させることとは次元の異なる学習が、
いくらでも可能なはずである。
第二に、この歴史用語を限定する仕事をしているとき、共同執筆者の鳥越泰彦が生徒引率で滞
在していたソウルで急逝した。彼の用語限定案は、その9日前に、元気いっぱいのメッセージと
ともに私に送られてきたものである。二人の共同作業は、私が彼の遺したデータと対話する形で
行われた。よってこの提案の責任は、すべて小川にあることを付記しておく。
(鳥越泰彦・小川幸司)
-50-
b)日本史
1.日本史近代の場合
(1)日本史Bの問題点と本稿の課題
高校日本史には近現代史中心の日本史Aと全時代を扱う日本史Bの2つの科目がある。しかし、
大学入試の受験科目としては日本史Bという指定がある場合が多く、一般的には日本史Bを履修
する。しかし、この科目の現状には、教科書や授業のあり方の基本的な点で問題が多い。
まず、教科書で取り扱われる事項が極めて多く、事項をこなすだけで時間がかかりすぎるとい
うことがある。日本史Bは、学習指導要領では4単位(50 分授業週4回)が標準時間数とされて
いるが、特に進学校では少なくとも6単位以上を充てることが常態化している。高校には学校や
生徒に状況に応じて時間数を増減することが認められているし、それが必要な場合もある。しか
し、日本史Bの単位数を増やす主たる理由は、教育上の積極的な意図によるというよりは、現在
の教科書や大学入試を前提とすると4単位では明らかに時間が足りないためだと考えられ、それ
が当たり前になっているのは問題だと言わなければならないだろう。
加えて、これは既に長年にわたって批判されてきたところだが、日本史Bの授業や学習のあり
方が、歴史用語や年号の暗記に傾斜しがちであることも間違いない。生徒の興味関心を喚起し、
歴史的思考力を育成しようとする実践がさまざまな形で取り組まれてきたことも事実ではあるが、
大勢としては学校現場の状況はあまり変わっていない。むしろ、教科書に基づいて歴史用語を穴
埋めする形式のワークシートを配り、それを完成させていくといったタイプの授業が定着してい
るような形跡もある。
このような状況を改めようとした時、日本史Bの教科書で取り上げる歴史用語を削減すること
は必須の課題と言えよう。生徒の興味・関心を喚起し、自発的な思考を促すような活動を授業の
中に組み込むためには、現在、日本史Bの学習において歴史用語や年号の暗記に向けられている
時間や負担を軽減することが不可欠である。では、歴史用語の削減はどのようにしたら可能だろ
うか。本稿では日本史B教科書の歴史用語の使用状況を確認し、近現代史記述のあり方を考える
サンプルとして、明治時代後半の部分の記述を検討し、歴史用語削減の指針を考えてみたい。
(2)日本史B教科書における歴史用語の使用状況
まず、現行の日本史B教科書全体における歴史用語の使用状況を確認してみたい。日本史Bの
教科書には、進学校の授業や大学入試を念頭に置いた多くの歴史用語を取り上げるものと、進学
校ではない学校での採択も意識して基本的な内容を丁寧に記述することに重点を置いていると見
られるものがある。前者の代表例としては約6割の市場占有率を持つ山川出版社の『詳説日本史
B』(以下、詳説)が、後者の代表例としては市場占有率が約1割の東京書籍の『新選日本史B』
(以下、新選)があげられる。
これらの教科書がどの程度の歴史用語使って叙述されているのかを知る目安として、索引に項
目立てされている用語の数を数えてみる。すると、詳説が 3403、新選が 1997 である。これを同
じ地理歴史科の地理Bの教科書と比べて見ると、内容が比較的詳しく多くの事項を取り上げてい
るとされる、帝国書院『新詳地理B』の索引の項目数が 986、二宮書店『新編詳解地理B』は 852
-51-
である。日本史Bの教科書の索引の項目数は、用語数が少ないタイプのものでも地理Bの詳細な
タイプの教科書の2倍以上あることになる。教科内容の特性など用語数以外に考慮すべきことは
多々あるにしても、日本史B教科書は取り扱い事項が多すぎること、高校生にとって日本史Bが
暗記の負担の大きい科目であるという一般的な認識は間違っていないことが裏付けられる。
こうした日本史Bの事項・用語過多の傾向をあらためるには、どのようにしたら良いだろうか。
この点を近代史記述に即して考える手がかりとして、詳説と東書の明治時代後期の記述に用いら
れている歴史用語を数えてみることにした。ここで言う明治後期とは、詳説第 9 章の「4 日露
戦争と国際関係」「5
近代産業の発展」「6
近代文化の発達」と、内容的にこれに相当する新
選の部分である。この部分を取り上げたのは、政治・外交史、経済史、文化史の各分野が一連の
ページの中に含まれているので、近代史記述のあり方を考える手がかりとして適切なのではない
かと考えたからである。
用語数のカウントに当たっては、基本的には高校生用の歴史用語集としてもっとも広く使われ
ている、『日本史B
用語集 改訂版』(山川出版社、2012 年、第4版)の掲載用語に準拠した。
したがって、索引に掲載されていない用語も数えている。また、一部、用語集に項目立てされて
いないが、明らかに歴史用語と見なすべきだと思われるものもカウントした。この用語集には、
その用語が 11 種類ある日本史B教科書のうちいくつで使用されているかのデータ(以下、頻度)
が付されている。両方の教科書で使用されている用語の数を数えて、詳説の節別、すなわち政治・
外交史、経済史、文化史の別に、頻度別に用語数に集計したのが本項の末尾に掲げた頻度別用語
使用状況1〜3である。
まず明治時代後半全体の使用用語数を確認しておくと、詳説 592、新選 261 である。このうち、
文字通り基礎基本と見なしうる用語の占める割合はどの程度なのかを見るために、頻度 11・10
以上(ほとんどすべての教科書に記載されている用語)を数えると、詳説 215、新選 152 で、各
教科書の使用用語に占める充足率は詳説で 36%、新選で 54%である。この数字を見ると、教科書
執筆者や教員の間で、日本史Bで取り扱うべき内容についての共通理解が成立していないのでは
ないかという懸念を抱かざるをえない。
ただし、これについては分野ごとに大きな傾向の違いがある。詳説の第 9 章4、政治・外交史
について記述した節について集計した頻度別用語使用状況1を見ると、この部分での用語数と頻
度 11・10 の比率(括弧で示す)は、詳説で 102(59.4%)、新選で 71(72.3%)となっている。こ
の分野については、どのような教科書であっても大筋において書かれていることには共通点が多
いと判断できるし、実際に読んでみてそのような印象を受ける。
ところが、頻度別用語使用状況2に示したように、経済史になると、同じく用語数と頻度 11・
10 の比率は、詳説 134(35.1%)、新選 45(68.9%)となり、大学受験向けと見なされている詳
説での用語数の膨張が著しくなる。その結果としてそれぞれの教科書記述の内容自体に差が大き
くなっている。頻度別用語使用状況3の文化史になるとこの傾向はさらに強まって、用語数と頻
度 11・10 の比率は詳説 288(23.3%)、新選 135(44.4%)となる。ここでは、詳説は言うまで
もなく新選においても用語数自体がかなり多いこと、各教科書の記述内容の違いもさらに大きく
なっているということが指摘できる。
-52-
では、経済史・文化史における教科書記述のばらつきの大きさと、詳説に顕著な用語数の膨張
が生じるのはなぜだろうか。まず、経済史について詳説と新選の頻度9以下の用語の使用状況を
比較し、詳説でのみ使用されている 76 の用語を列挙すると以下のようになる(下線と斜字体は筆
者による)。
頻度9
銀本位制 共同運輸会社 住友 日本鉄道会社
横山源之助
頻度8
頻度7
日本之下層社会
第1次西園寺(公望)内閣
企業勃興
日本製鋼所
三井合名会社 臥雲辰致
遠洋航路
航海奨励法
造船奨励法 天皇直訴
女工
漢冶萍公司 大冶鉄山
三井物産
池貝鉄工所
三池炭鉱
豊田佐吉
桑
菜種
三菱長崎造船所
横浜正金銀行 農商務省 職工事情 出稼ぎ
頻度6
尋常小学校
頻度5
九州鉄道
鉄工組合
山陽鉄道
木綿 谷中村
古河市兵衛
日本勧業銀行 日本興業銀行 普通銀行
高島炭鉱
日本鉄道矯正会
遊水池
ボンベイ航路
手紡
寄宿舎
貨幣法 特殊銀行 農工銀行 手織機 電力事業
頻度4
戦後経営
頻度3
会社設立ブーム
頻度2
兵庫造船所
四大財閥
飛び杼
川崎正蔵
深川セメント製造所
鉱毒調査会
頻度1
新町紡績所
項目なし
1890 年恐慌
農事試験場 工女
社会政策
ウィーン万国博覧会
阿仁銅山
佐渡金山
古河
院内銀山
浅野総一郎
草鞋
三井
岩崎
錘
野麦峠
ジョン=ケイ
これを見ると詳説の用語数が多い一番の要因は、下線を引いた企業名や財界人の人名と言えるだ
ろう。これらは個々に見れば日本近代経済史上重要な役割を果たした企業や人物だが、すべてが
高校生の学ぶべき必須の知識かどうかとなると疑問である。また。斜字体にした金融関係の用語
は、中学校社会科の公民的分野や高校の現代社会、政治経済の内容と対比すると、細かすぎるの
ではないかと思われる。
文化史についてはまず詳説・新選のそれぞれにおいて、用語数それ自体が他分野に比べて多く
なっている。これは用語を列記して検討するまでもなく、教科書が絵画・彫刻・文学作品などの
作品名と作者名を列挙するような記述方法になっているためである。しかし、見たことのない美
術作品や読んだことのない文学作品の作者名や作品名を機械的に覚えるような学習にどんな意味
があるのか、率直に言って疑問である。現在の教科書は、すべての分野のことをまんべんなく書
くことに執着しすぎているのではないだろうか。文化史については根本的に記述方法を考え直す
ことが必要だと思われる。その場合、すぐには無理だろうが、国語・理科・芸術などの教科との
分業と協業を考えなければならないだろう。
-53-
(3)日本史B教科書の近代史記述から見た歴史用語削減の指針
以上のような教科書記述の現状を踏まえて、ひとまず近現代史部分の歴史用語を削減する指針
を考えてみたい。
まず、用語数の総枠だが、前述の通り現行の日本史B教科書は、比較的用語数の少ないタイプ
のもので、約 2000 の用語が使用されている。この 2000 という用語数は、同科目の地理Bに比べ
ると倍の数になるが、実は現行日本史Bの頻度 11・10 の用語の総数が 2294 で、これにほぼ近い。
これに頻度 9 を加えると 3030、頻度 8 も加えると 3709 になって詳説並みの用語数になる。こう
したことから判断すると、原始・古代から現代までの通史という枠組みを維持するならば、現状
の用語数が少ないタイプの教科書と、ほとんどの教科書で使用されている頻度 11・10 用語数とい
うところで、2000 前後というのが目安になるのではないだろうか。そこで、近現代史については
以下のような指針で用語数の限定をすることを提案したい。
1)
現行教科書の頻度 11・10 の用語を目安として、現行の用語数の多いタイプの教科書もある
程度カバーする頻度 8 以上程度を目安に、現在の研究や教育の状況に合わせて用語を入れ替
える。
2)
経済史については、金融・財政関係の用語を中心に難解な用語を削減する。また、企業名
や人名は極力使わないようにする。
3)
文化史については大胆な削減が必要で、現行教科書をベースにした精選では効果的な用語
削減はできないように思われる。そこで近現代史については、多くの異論がありうることを
承知のうえで、文学・思想・ジャーナリズムの分野を通史的に扱うことを想定し、その他の
分野については大胆に用語を削減したい。この点に関して付言すると、現在の地理歴史科を
担当する教員の資質・能力を考慮すると、美術史や自然科学系の話題を適切に教材化するこ
とが容易ではないということもある。
以上を具体化した試案が別掲の 2000 語の用語リストである。これはまさに蛮勇を振るって作成
したものであり、これの妥当性については多くの疑問があって当然である。しかし、前述の通り、
現行日本史Bは高校の科目としては過大な内容が盛り込まれた異形なものとしか言いようがない
状況にある。これを改革に踏み出すためのたたき台として読者諸賢の検討を請いたいと考える次
第である。
(安井
-54-
崇)
-55-
…6XrXTOؚfQÕWLƒ"›/V'›]yÖ
34qsAt_
IFA|At_
…
Xr?
Xr?
6
MU eo
MU eo
ÈË ­¹
o
ÈË ­¹
o
ŒŒ
Œ
Œ‘
“ ‹Š”‰ ‹Š”‰
Œ

Œ’ Ž’Š“‰ Ž’Š“‰
Œ‹

Œ
Œ” ŒŠ‰ ŽŠŒ‰
“
‘
Œ ŽŒŠŒ‰ ‘“Š”‰
”
Œ
’
“
‘Š‹‰ ŒŠ‹‰
‹
Œ
Œ
Š‰ ’ŒŠŒ‰
“

“
ŒŽ
”Š’‰ ‹Š’‰
‹


Š‰ ’Š‘‰
’

”
ŒŒ
“Š‰ ”Š‹‰
‹


Š‰ “‹Š‹‰
‘
‹


ŽŠ’‰ ‘Š’‰
‹
‹
‹
‹Š‹‰ “‹Š‹‰

‹
ŒŽ
ŒŽ
”Š’‰ ’Š‰
‹
Œ
Œ
Š‰ “Š‰



’
Š‰ ’’Š‘‰
‹
Ž
Ž
‘Š’‰ ““Š”‰
Ž
‹
Ž
Ž
Š‰ ’”Š”‰
‹
‹
‹
‹Š‹‰ ““Š”‰

‹
Œ‹
Œ‹
’Š‰ “’ŠŽ‰
‹
‹
‹
‹Š‹‰ ““Š”‰
Œ
‹
Œ
Œ
‹Š’‰ ““ŠŒ‰
‹
‹
‹
‹Š‹‰ ““Š”‰
•
‘
Œ‹
Œ‘ ŒŒŠ”‰ Œ‹‹‰
Ž

 ŒŒŠŒ‰ Œ‹‹‰
o
ŽŽ
Œ‹Œ
ŒŽ Œ‹‹‰
Ž

 Œ‹‹‰
34Ûc”bšvWL¹Y2š—Š””Ž‹“š“ŠÎÔÉ
IFۗŠŒ”Œ”šÎÔÉ
…6XrXTOך=N)Õa9=›B‚:›„% ›J&DÖ
34qsAt_
IFA|At_
…
Xr?
Xr?
6
MU eo
MU eo
ÈË ­¹
o
ÈË ­¹
o
ŒŒ

‘
‘“ ‹Š‹‰ ‹Š‹‰


” “Š‰ “Š‰
Œ‹
“

ŽŽ Œ”Š‰ ”Š‰
ŒŒ
ŒŽ
 ŽŠ“‰ ’ŠŽ‰
”
Œ
Œ“
Œ” ŒŒŠ‰ ’‹Š‘‰

Œ‹
Œ ŒŒŠ”‰ “Š‰
“

Œ‹
Œ
’ŠŒ‰ ’’Š‘‰
Œ

‘
Š”‰ ”‹ŠŒ‰
’
‹
Œ‹
Œ‹
Š”‰ “ŽŠ‰
‹


Š‹‰ ”ŠŒ‰
‘
‹


Š‰ “Š”‰
‹
Œ
Œ
ŒŠ‹‰ ”Š‹‰

‹
’
’
ŠŒ‰ ”‹Š‹‰
‹
Œ
Œ
ŒŠ‹‰ ”‘Š‹‰

‹
’
’
ŠŒ‰ ”ŠŒ‰
‹


Š‹‰ ”“Š‹‰
Ž
‹


Š‰ ”‘Š‰
‹
Œ
Œ
ŒŠ‹‰ ””Š‹‰

‹


ŒŠ‰ ”’Š‘‰
‹
Œ
Œ
ŒŠ‹‰ Œ‹‹‰
Œ
‹


ŒŠ‰ ”“Š“‰
‹
‹
‹
‹Š‹‰ Œ‹‹‰
•
‹


ŒŠ‰ Œ‹‹‰
‹
‹
‹
‹Š‹‰ Œ‹‹‰
o
ŽŽ
ŒŽ’
Œ’‹ Œ‹‹‰
Ž“
‘Ž
Œ‹Œ Œ‹‹‰
34Ûc”bښB‚:´%€š—Š”Œ””š’ŠÎÔÉ
IFۗŠŒ““Œ”Œ›—ŠŒ”]#†¹YV´]yž›—ŠŒ”“J&DžšÎÔÉ
…6XrXTOٚ@ÕCN¹@Ö
34qsAt_
IFA|At_
…
Xr?
Xr?
6
MU eo
MU eo
ÈË ­¹
o
ÈË ­¹
o
ŒŒ
‘
Ž“
 ŒŠŽ‰ ŒŠŽ‰
‘
ŒŒ
Ž’ ’Š‰ ’Š‰
Œ‹
“
Œ
Ž
“Š‹‰ ŽŠŽ‰
ŒŒ
Œ
Ž Œ’Š‹‰ Š‰
”
’

Ž ŒŒŠŒ‰ ŽŠ‰
“
Œ‹
Œ“ ŒŽŠŽ‰ ’Š“‰
“

Ž

“Š’‰ ŽŠŒ‰

”
ŒŽ
”Š‘‰ ‘’Š‰
’
Œ
ŽŒ
Ž ŒŒŠŒ‰ Š‰

Œ
Œ Œ‹Š‰ ’’Š“‰
‘


‘
”Š‹‰ ‘ŽŠ‰
Œ
‘
’
Š‰ “ŽŠ‹‰


ŽŒ
ŽŽ ŒŒŠ‰ ’Š’‰
Œ
’
“
Š”‰ ““Š”‰



‘
”Š‹‰ “ŽŠ’‰
Œ
Ž

ŽŠ‹‰ ”ŒŠ”‰
Ž
‹
‹
‹
‘Š”‰ ”‹Š‘‰
Œ
Ž

ŽŠ‹‰ ”Š“‰

‹
ŒŽ
ŒŽ
Š‰ ”ŠŒ‰
‹


ŒŠ‰ ”‘ŠŽ‰
Œ
‹
’
’
Š‰ ”’Š‘‰
‹


ŒŠ‰ ”’Š“‰
•
Œ
‘
’
Š‰ Œ‹‹‰
Œ

Ž
Š‰ Œ‹‹‰
o
ŽŽ

““ Œ‹‹‰
‘
’”
ŒŽ Œ‹‹‰
34Ûc”b‘šv@¹Yzš—ŠŽ‹“ŽŒ’šŒ‹ÎÔÉ
IFۗŠŒ‘>i¹Ež›—ŠŒ‘“@C~ž›—ŠŒ“ŽŒ“›—ŠŒ”‘Œ”’š‘ÎÔÉ
™š34qsAt_۟qsBH– Ս‹Œ5ŽG@}^+[K-QÖ
ՓŒ34B–Ž‹ŒÖ
ššˆIFA|At_ÛA|BHÝ Õ‹ŒŽ5ŽG@}^+[K-QÖ
ՍIFB–Ž‹ŽÖ
™š…6ºŸBHݚXrš<nS Õ34S]›‹Œ5ÛcSÖ·¾À›­¹
šXr§BHÝ>^FŒŒ`‡¹£°¢¨±³XªÂ²¢Á¦Ã\«²¢Áœ
™š>^F¹×ÎÔɹ*?ºp¹xÀœ®¯«›©¹*?¦¿$l¹ÊÎÔÊ
š§ÏÄÍʪÂÁ´´½·›jPd¹*?§wªÂÁœÎÔÉ?º‹ŠÎÔÉ
š¹Z,³¡Áœµ°¿¹>^F½¥¥»¸×ÎÔɌ‹‹‹*7´g¤²¾¢œ
34qsAt_Û×ÎÔɚŽ*˜”kܔ“‘*
IFA|At_Û×ÎÔɚŽ*˜ŽŒ*܌‹“*
™š34qsAt_Ã(R·­Â·18¬Á.¹IFA|At_¹ÎÔɹXš
šr?ÃÆÅÒÌ«®œh¹ba²·{¢§¡Á¹³›0·18«¶¢}§¡
šÁœ5lÓ'$·;uªÂ²¢ÁXrºÆÅÒÌ)´«›ÇÑзpuªÂ²¢ÁX
šrº´«²Xr?·!¼®§›H@¹.´¹18dÃm²[¢®½¹
š½¡Áœ
2.日本史B前近代の場合
従来の歴史教育が受験対応のため歴史用語のつめこみに追われていること、そのため思考力養
成型の授業が展開できないことなどはこれまでに何度も指摘されてきた。そのような問題点を克
服するため、教科書に載せる歴史用語をどのようにして絞り込んでいくかについて考えたい。
まず、歴史の大きな流れをつかむために落とせない語として中学校の歴史で扱う重要用語と高
校日本史の用語の重なりを検討した。中村薫氏作成の中学歴史用語リストの古代の日本の政治、
経済・社会、文化に収められている 161 語の高校日本史11種類の教科書に出てくる頻度を調べ
たところ、138 語が頻度 10 以上(11 社の教科書中、10 社以上の教科書に記載されている語とい
う意味)、9 以下のものは 23 語にすぎなかった(別ファイル「歴史用語限定に添付
中学歴史用
語」参照)
。中学校で必要とされる用語の 85%以上が頻度 10 以上でカバーできることが判明した。
一方、高校日本史用語の頻度 10 以上の語は頻度 11 が 1538 語、10 が 750 語、両者で 2288 語、
頻度9が 733 語で 9 以上は 3021 語となる。受験生の負担を考えると 2000 語程度が妥当な用語数
かと思われる。したがって日本史の用語は頻度 10 以上のものに絞り込むべきだと一応考えられよ
う。
では、逆に頻度 10 以上に用語を絞った場合に教科書の叙述は可能なのか。次にその点を検証し
てみよう。
まず最初に通信制高校などで採用されることの多い東京書籍『新選日本史B』の平安初期に関
する章「平安遷都と唐風文化」を分析してみよう。B5版で 4 頁、平安遷都や征夷事業など桓武
天皇による政治、律令制の修正、弘仁貞観文化などが基礎基本を中心に書かれている。ゴシック
は 24 語、そのうち頻度 11 が 22 語、頻度 10 が 2 語、ゴシックは 100%頻度 10 以上である。教
科書本文に使われる歴史用語も頻度 11 が 26語、頻度 10 が 3 語、頻度9が 4 語、頻度8が 6 語、
頻度5と4がそれぞれ 1 語ずつで全 41 語、頻度 10 以上が 73%である。したがって基礎基本を中
心とする場合は頻度 10 以上で教科書の叙述は十分可能である。
ところで頻度 9 以下の語にはどのようなものがあるのか、筆者のまったくの個人的感想ではあ
るが、コメントを付しながら確認しておこう。用語の次の数字は頻度である。教科書の表記順に
みていくと、解由状9、これはやや細かい知識であろう。阿弖流為5、今後重要度が高まるか。
志波城8、教科書に載せないこともできる用語ではないか。徳政論争4、この用語はなくても内
容を説明できる。文室綿麻呂8、細かい知識か。藤原仲成8、政争に関わる人名。薬子の変の説
明に必要である。政争や戦乱に関わる人名などは事件を具体的に知るうえで必要だが、保元の乱
のように人間関係が複雑だと生徒には酷となる。これらの人名は教科書に記述はするが試験には
出題しない、というような形が作れるか。蔵人所9、蔵人頭が記述されている。関連して記述し
てもよいし、省略することもできよう。鎮守社 8、細かい知識か。弘文院9、綜芸種智院9、い
ずれも細かいか。
以上である。阿弖流為のように頻度は低くても教科書執筆者の判断でぜひとも掲載したい用語
もあるだろう。頻度 10 以上のほかに、このような独自の判断部分も必要だろう。また政争や戦乱
に関する細かな人名、文化史に関わる作品名など具体的にあげないと十分に説明できない語があ
る。これら扱いについてどうすべきか、議論と工夫が必要であろうか。
-56-
さて、次に俗に受験生のバイブルともいわれる山川出版社『詳説日本史』の「平安王朝の形成」
(p60~67)を題材に調査してみよう。頁数が 8 頁と倍増し、東京書籍版の政治史や文化史以外
に社会経済に関わる部分なども付け加えられている。
この範囲内のゴシックは 35 語。頻度 10 以上が 27 語、78%となっている。35 語中頻度 9 以下
のものは伊治呰麻呂 7、偽籍1、公営田7、官田7、勅旨田7、文章経国3、修験道9、密教芸
術4、の8語。偽籍、密教芸術などの語はゴシックにせず、また用語として出さなくても十分説
明できる語である。伊治呰麻呂は阿弖流為同様、東北地域史の研究には欠かせない名前ではある
が、ゴシックとして採るべきか、意見が分かれるところかもしれない。公営田、官田、勅旨田な
どの土地制度関係の用語は専門性が高い用語で、高校で扱う必要があるかは著者の判断によるだ
ろう。このように見てくるとゴシックは頻度 10 以上の用語に限定してもよいように思われる。
ではそのほかの教科書の本文に用いられている歴史用語はどうだろうか。山川の場合、この範
囲に用いられている歴史用語はゴシックを除き 86 語。86 語中、頻度 11 が 24 語、10 が4、9 が
8、8が8、7 が6、6が8、5が4、4が7、3が6、2が5、1が5、0が1である。この
ように東京書籍に比べ本文ではかなりばらつきがある(頻度 10 以上が 30%、頻度8までで約 50%)。
山川の場合、受験を意識してかなり細かい知識が盛り込まれ、その分難しい教科書という印象で
ある。平安初期の東北地域への征夷事業について(紀古佐美、征東大使、俘囚、徳丹城、文室綿
麻呂など)や文化史に関して著書や作品名などやや細かいが受験を意識して取り上げられている
語も多いようである。これらが整理できればもう少しわかりやすい印象になるのではないだろう
か。
ここで一度、論点をまとめておこう。①教科書に載せる歴史用語はゴシック、本文とも頻度 10
以上の 2000 語程度に収める。現状では頻度 10 以上で 2288 語あるが、288 語については厳選して
整理し、用語全体で 2000 語とする。これが、ここでの主張である。実際には教科書会社によって
ゴシックにする語にもばらつきがあり、教科書執筆者によっても重要とみなす語に違いはあるだ
ろう。この違いをどうするか、幅広い議論が必要であろう。東アジア関係の用語や女性史、ジェ
ンダー関係の用語などはある程度 2000 語の中に入れていく必要があろう。しかしそのために用語
数が増えるのはどうなのか。では逆にその分、現行の用語を整理し、2000 語から外すのか。本報
告書は問題提起としての意味もあるので、あえて 2000 語に絞り込み、その試案を巻末に提出して
みる。本来教科書執筆者ごとに 2000 語を選ぶべきかもしれないが、たとえばA社は文化史を重視
して 2000 語を選んだ教科書を作り、B社が社会経済史を重視した 2000 語を選んだ教科書を作っ
たとすると結局受験生はA社B社双方の独自用語を覚えねばならず結局 2000 語以上を覚えるこ
とになり、受験生の負担を減らすことにはならなくなってしまう。結局、大変困難なことではあ
るが、日本社会で生きる者のコモンセンスとして最低限必要な 2000 語を選び、その範囲で工夫し
て暗記型ではなく歴史的思考力養成型の教科書を作っていくしかないであろう。そのためのたた
き台を提出したいと思っている。以上がここでの主張である。
さて、用語をどう絞り込むかはともかくとして 2000 語程度に用語数を絞った教科書の記述は十
分可能である。実際、東京書籍版や山川出版社「高校日本史」、実教出版「高校日本史 B」など
はある程度のこのような形の、用語数をしぼり、歴史の大きな流れを重視した教科書のように思
-57-
われる。しかし、これらの教科書よりも「詳説日本史」が採択される現状には大学入試問題との
関連や多くの歴史用語を知り、覚えることが歴史学習という歴史教育観が背景にあると思われる。
教科書における歴史用語の限定はこれら入試制度や歴史教育の在り方の見直しと共に進められな
ければならないだろう。
最後に実際に山川詳説日本史の一部を用語を限定して書き直してみる。
左の段に現行の記述、右の段に現行の文章をできるだけ変えずに用語を頻度 10 以上に限定したも
のを載せる。
山川現行記述
書き換えた記述
5.平安朝廷の形成
5.平安朝廷の形成
●平安京の確立と蝦夷との戦い●
●平安京の確立と蝦夷との戦い●
光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負
光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担
担軽減などの政治再建政策につとめた。や
軽減などの政治再建政策につとめた。やがて
がて 781(天応元)年に亡くなる直前、天皇と
781(天応元)年に亡くなる直前、天皇と渡来
渡来系氏族の血を引く高野新笠とのあいだ
系氏族の血を引く女性とのあいだに生まれ
に生まれた桓武天皇が即位した。
た桓武天皇が即位した。
桓武天皇は光仁天皇の政策を受け継ぎ、
桓武天皇は光仁天皇の政策を受け継ぎ、仏
仏教政治の弊害を改め、天皇権力を強化す
教政治の弊害を改め、天皇権力を強化するた
るために、 784(延暦 3)年に平城京から山背
めに、 784(延暦 3)年に平城京から山背国の
国の長岡京に遷都した。しかし、桓武天皇
長岡京に遷都した。しかし、桓武天皇の腹心
の腹心で長岡京造営を主導した藤原種継が
で長岡京造営の中心人物が暗殺される事件
暗殺される事件がおこり、首謀者とされた
がおこると首謀者とされた皇太子や旧豪族
皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)や大伴
の勢力が退けられた。ついで 794(延暦 13)年、
氏・佐伯氏らの旧豪族が退けられた。つい
平安京に再遷都して、山背国を山城国と改め
で 794(延暦 13)年、平安京に再遷都して、
た。都が平安京に移って以後、源頼朝が鎌倉
山背国を山城国と改めた。都が平安京に
に幕府を開くまでの約 400 年間を平安時代
移って以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くま
という。
での約 400 年間を平安時代という。
東北地方では、奈良時代にも陸奥側では
東北地方では、奈良時代にも陸奥側では多
多賀城を基点として北上川沿いに北上して
賀城を基点として北上川沿いに北上したが、
城柵を設け、出羽側では秋田城を拠点に日
出羽側では日本海沿いに勢力を北上させて
本海沿いに勢力を北上させていった。城柵
いった。勢力拠点には政庁を中心として役所
は、政庁を中心として外郭の中に実務をお
群・倉庫群が配置され、そのまわりに関東地
こなう役所群・倉庫群が配置され、行政的
方などから農民を移住させて開拓が進めら
な役所としての性格を持ち、そのまわりに
れた。こうして蝦夷地域への支配の浸透が進
関東地方などから農民(柵戸)を移住させて
められた。しかし、光仁天皇の 780(宝亀 11)
開拓が進められた。こうして城柵を拠点に、
年には帰順した蝦夷が乱をおこし、一時は多
蝦夷地域への支配の浸透が進められた。し
賀城をおとしいれて焼くという大規模な反
-58-
かし光仁天皇の 780(宝亀 11)年には帰順
乱に発展した。こののち、東北地方では三十
した蝦夷の豪族伊治呰麻呂が乱をおこし、
数年にわたって戦争があいついだ。
一時は多賀城をおとしいれて焼くという大
規模な反乱に発展した。こののち、東北地
方では三十数年にわたって戦争があいつい
だ。
桓武天皇の 789(延暦 8)年には紀古佐美を
桓武天皇の 789(延暦 8)年には北上川中流
征東大使として大軍を進め、北上川中流の胆
の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、蝦
沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、蝦夷の
夷の活躍により政府軍が大敗する事件もお
族長阿弖流為の活躍により政府軍が大敗す
こった。その後、征夷大将軍となった坂上田
る事件もおこった。その後、征夷大将軍と
村麻呂は、802(延暦 21)年胆沢の地に胆沢城
なった坂上田村麻呂は、802(延暦 21)年胆沢
を築き、蝦夷を帰順させて鎮守府を多賀城か
の地に胆沢城を築き、阿弖流為を帰順させて
らここに移した。翌年には北上川上流に進出
鎮守府を多賀城からここに移した。翌年には
し、東北経営の前進拠点を作った。日本海側
北上川上流に志波城を築造し、東北経営の前
でも、米代川流域まで律令国家の支配権がお
進拠点とした。日本海側でも、米代川流域ま
よぶことになった。
で律令国家の支配権がおよぶことになった。
しかし、東北地方での戦いと平安京の造営
しかし、東北地方での戦いと平安京の造営
という二大政策は、国家財政や民衆にとって
という二大政策は、国家財政や民衆にとって
大きな負担となり、805(延暦 24)年、桓武天
大きな負担となり、805(延暦 24)年、桓武天
皇は徳政論争と呼ばれる議論を裁定して、つ
皇は二人の政治家に二大政策について議論
いに二大事業を打ち切ることにした。
させ、ついに二大事業を打ち切ることにし
た。
どうだろうか。下線部が主に書き直したところである。できるだけもとの文を残そうとしたため
文章としてぎこちないところもあるが、文意は通ずるだろう。山川の教科書では東北地域史で大
問 1 問が作れるほど細かな歴史用語が用いられて記述されている。その用語は城柵、秋田城、柵
戸、伊治呰麻呂、紀古佐美、阿弖流為、志波城などである。これらの語を(
)として穴埋め式
の問題を作るためには用語を限定するという本稿の主張は困った主張だろう。しかし、これらの
用語を用いずとも「桓武天皇が東北地方への勢力拡大を図ったのはなぜか」といった設問に切り
替えるなど思考力育成型に教科書も試験問題も変えていくことも可能ではなかろうか。なお、伊
治呰麻呂や阿弖流為などは近年注目度を上げている用語であり、記述に採用することも考えられ
る。繰り返しになるが、こうした用語を入れるべきか、入れる場合にはどこかで他の歴史用語を
削除する必要があるが、それはどの用語にするのか、頻度 10 を一つの目安としつつも 2000 語と
いう共通用語をどう絞り込むか、検討を呼びかけたいと思う。
(戸川 点)
-59-
政治
古代まで
経済・社会
奴国10、倭7、倭人7、邪馬台国11、卑弥呼
11、大和国家(10)、朝廷3、大王0、豪族11、
蘇我氏8、物部氏9、蝦夷11、
飛鳥時代5、聖徳太子11、推古天皇11、摂政
(8.11)、蘇我馬子11、冠位十二階11、十七条
の憲法11、大化の改新11、中大兄皇子11、中
臣鎌足11、壬申の乱11、天武天皇11、藤原京
11、日本0、天皇0、大宝律令11、律令国家
11、貴族11、神祇官11、太政官11、太政大臣
11、奈良時代11、奈良11、平城京11、大宰府
11、多賀城11、秋田城11、国・郡・里制11、
国司11、郡司11、里長11、駅9、長屋王11、
聖武天皇11
桓武天皇11、長岡京11、平安京11、平安時代
11、坂上田村麻呂11、征夷大将軍11、アテル
イ5、胆沢城11、藤原氏11、摂関政治11、関
白11、藤原道長11、藤原頼通11、奥州藤原氏
11
むら0、貝塚10、竪穴住居11、
土偶11、稲作の伝来0、石包丁
11、高床倉庫11、氏10、姓11、
渡来人11、機織8、鍛冶7、
公地公民11、富本銭10、和同開
珎11、戸籍11、良民11、賤民
10、奴婢6、班田収授法11、口
分田11、租11、庸11、調11、労
役0、雑徭11、兵役11、防人
11、墾田永年私財法11、荘園
11、
文化
マンモス11、ナウマン象11、オオツ
ノジカ11、岩宿遺跡11、土器0、磨製
石器10、新石器時代10、縄文時代0、
縄文土器11、三内丸山遺跡11、弥生
土器11、弥生文化10、銅鐸11、銅剣
11、銅矛11、銅鏡11、吉野ケ里遺跡
8、古墳11、古墳時代11、前方後円墳
11、大仙古墳11、埴輪11、神話1、須
恵器11、
貧窮問答歌6、山上憶良11、木簡11、
飛鳥文化11、法隆寺11、釈迦三尊像
0、玉虫厨子11、遣唐使11、鑑真11、
天平文化11、東大寺11、大仏0、正倉
院10、国分寺11、国分尼寺9、興福寺
11、古事記11、日本書紀11、風土記
11、万葉集11、和歌11、万葉がな
10、天台宗11、最澄11、延暦寺11、
比叡山11、真言宗11、空海11、金剛
峯寺11、高野山11、国風文化11、寝
殿造11、大和絵11、絵巻物11、かな
文字11、紫式部11、源氏物語11、清
少納言11、枕草子11、紀貫之11、古
今和歌集11、浄土信仰5、念仏11、阿
弥陀仏10、平等院鳳凰堂11、中尊寺
金色堂11、平泉11、
中村薫氏作成の用語集の一部を利用。 赤字は頻度10以下の用語
ⅱ)歴史的思考力を育成するための教科書改革モデル案の提示
a)世界史
1.演習をとりいれた世界史 B の授業の一例
19 世紀アメリカの南北戦争の前史についての授業を事例にしながら、グループ・ディスカッ
ションをまじえた授業プランを紹介してみたい。世界史とは知識を与える授業なので、ディスカッ
ションをしても薄っぺらなものになるだろうと思っておられる方も多いのではないだろうか。
まず、アメリカ合衆国憲法の制定が、黒人奴隷の人権を保障するものではなかったということ
を確認する。そしてプリントにしておいた、ジェファソンの『ヴァジニア覚え書』の一部を読み
合せる。
【史料プリント】
ジェファソン『ヴァジニア覚え書』
ただ疑いなくいえるのは、この土地に奴隷制度が存在しているという事実が、われわれヴァジニ
ア人の生活様式に不幸な影響を及ぼしているということである。主人と奴隷との交わりは、もっと
も荒々しい感情を絶えずやりとりすることにつきる。すなわち主人の側にはもっとも苛酷な形の専
制が、奴隷の側には屈辱的な服従があるだけなのである。われわれの子供たちはこれをみて、その
まねをすることを習い覚える。なぜならば、人間は模倣の動物だからである。
(……)親が奴隷に
対して荒れ狂うと、子供はそれを眺めて怒りの表情にかぶれ、奴隷の子供たちに対して同じような
態度をとり、人間のもつもっともいまわしい感情の赴くままに任せてしまうのである。こうして子
供は、いわば暴虐のなかで育まれ、教育され、毎日それを訓練されているのであるから、当然いや
-60-
らしい特徴を身につけないわけにはいかないのである。
*
*
*
白人が抱いている根強い偏見。黒人にとっては忘れることができない、今までに受けた虐待。新
しい怒りの挑発。自然が作りあげた眼にみえる差異。そしてその他にも多くの情況がわれわれを二
つの部分にわけ、社会秩序の紊乱をうみだし、それは多分どちらかの人種が絶滅するまで終ること
なく続くであろう。
(……)黒人の表情を支配しているあの永遠の単調さ、あらゆる感情を覆いか
くしているあの黒い不動のヴェールよりも、白人のように赤と白がみごとに混りあい、皮膚の色に
さす紅潮の程度によってあらゆる感情が表現される方が、より一層好ましくはないだろうか。さら
に加えて、流れるような髪の毛や、より優美な身体の均整。また、オランウータンが自分自身の種
族のメスよりも黒人の女性の方を好むのとまったく同様に黒人が白人をより好むことからわかる
とおり、黒人自身も白人の方が美しいと判断していること。われわれが、馬や犬その他の家畜をふ
やすときに、より美しいものをと心がけることは大切なことであると考えられている。それならば、
なぜ人間の場合に、そうであってはいけないのだろうか。皮膚の色、身体つき、頭髪など以外にも、
人種の相違を物語る肉体的な特徴はある。
(ジェファソン、中屋健一訳『ヴァジニア覚え書』岩波文庫、1972 年)
引用した前半部分は、この本の最も有名な箇所である。黒人奴隷を虐待することが、白人の精
神を歪めることになるということを、ジェファソンは鋭く指摘している。自分たちの人間性を守
るためにも、黒人奴隷制は批判されるべきなのである。ところが後半部分で、ジェファソンは、
黒人と白人が一緒に生きていくことの不可能性を断言する。
「オランウータンが自分自身の種族の
メスよりも黒人の女性の方を好むのとまったく同様に黒人が白人をより好むことからわかるとお
り、黒人自身も白人の方が美しいと判断している」というくだりなど、ジェファソンをもってし
ても、このようなまなざしで黒人をみていたのかと、驚かされる。
そのうえで、次のグループ・ディスカッションの用紙を配布する。4~6人のグループを編成
して、話し合いをさせながら、用紙に記入させていく。まずは「個人の意見」を書かせ、それを
発表させておいて、「班のベストアンサー」を、理由を明確化させながら選ばせるわけである。
【グループ・ディスカッションの用紙】
ジェファソンの生き方について考える
問1 ジェファソンの『ヴァジニア覚え書』の黒人論を1行でまとめる(フェファソンが黒人
に語りかけているように表現してみよう)と、どうなるだろうか。
【個人の意見】
【班のベスト・アンサー】
問2 現在のアメリカ合衆国で生きているジェファソンの「黒人の子孫」は、どのようないき
さつで「命」を受けたと予想されるだろうか。
【個人の意見】
【班のベスト・アンサー】
2年
組(
)
氏名
-61-
「ジェファソンの黒人論を1行で、しかも黒人に語りかけるように、まとめてみよう」という
問いかけである。班のベストアンサーは、一斉に黒板に書かせ、比較しながら私がまとめの講義
をする。ちなみに、私の考えた答えは、
「私はいい人になりたいから奴隷解放してあげるけど、お
互いのために私から見えない遠くへ行ってね」というものだ。大概、こうした言葉のおきかえで、
事柄をより本質的に理解できるようになるのである。世界史で学んだことを、日常の感覚にひき
つけて理解することができる。
次に、
「そんなジェファソンの子孫に、黒人の子孫がいるんだけど、なぜだろうか」という問い
かけをする。グループで予想をたててみる。多くは黒人奴隷の女性を性的に暴行したという答え
になる。そこで私が、黒人奴隷サリーとジェファソンの関係について説明し、サリーを慈しんだ
ジェファソンの姿を明らかにする。言葉の上では黒人を差別していたジェファソンが、現実の上
では黒人女性を慈しんだという事実が、生徒をはっとさせる。
しかも明瞭な結論はない。本当にジェファソンとサリーのあいだの愛は対等だったのか…、さ
らに考えたいテーマは次から次へと湧いてくるのだが、授業は「未完成」にとどまるのだ。あえ
て言えば、ジェファソンとサリーのあいだに生まれた子どもたちはみな「黒人」に分類されたこ
とを指摘しておく。オバマ大統領が「黒人」であるとされていることにもつながる。「血の一滴」
の考え方である。黒人の血が一滴でも混じっていれば、彼(彼女)は黒人なのである。人種とい
うものが、自然科学的な分類を装いながら、いかに人為的なものであるかに生徒は気づくのであ
る。それを私はこの授業のとりあえずの結論にしている。
なお、以下は、この授業の学習指導案である。
地歴・公民科学習指導案
1.単元名
アメリカ独立革命の意義
2.本時の授業のテーマ ①アメリカ独立革命が実現した民主主義国家は、人種差別という大
きな限界をもっていたということを見つめる。
②人種差別の構造、人為性について、ジェファソンの生涯を事例に
しながら考える。
3.展開
板書事項(説明)
指導・支援の工夫
導入 *アメリカ独立革命の経過を復習する
*ノートを見ながら復習。
5分
★アメリカ独立革命の意義
・史上初めて、民主主義の理念をかかげて新国家建 *理念をかかげて国家建設が行
設が行われた
われたことは、世界史上初のこ
→柱は、三権分立・人民主権・連邦主義
とであることを強調する。
前半
・常備軍が解体され、軽武装国家となった(民主主 *「現在のアメリカ合衆国のあり
15 分
義のため~ワシントンの方針)
かたと比較してみよう」
→しかし市民軍というものが存続した(インディ *「なぜ市民軍が存続したの
アンの討伐のため…理念と実態のダブルスタ
だろうか」
ンダード)
・黒人やインディアンの権利は認められず
*独立宣言の削除部分や『ヴァジ
後半
→そもそも独立宣言のなかの奴隷制批判(ジェ
ニア覚え書』をプリントにして
展開
ファソン執筆)の文章が削除されていた
読む。
25 分
→ジェファソンの『ヴァジニア覚え書』
*「ジェファソンの黒人奴隷論を
-62-
①奴隷制は白人の子どもの心を傷つける
②解放された黒人はアフリカに帰るべき
[補論]20 世紀末になって、ジェファソンの子孫だと
名乗る黒人が DNA 鑑定で子孫と認定
1行で表現するとしたら」、
「な
ぜ黒人の子孫がいたのだろう
か。」→推論を GD 用紙に書い
て、グループ・ディスカッショ
ン
[補論]黒人という概念の人為性=「血の一滴」
サリーを慈しんだジェファソン
総括
5分
*「血の一滴という考え方は、人
種というものが、どのような本
質をもっていることを明らか
にしているだろうか」
*「ジェファソンとサリーは対等
に愛し合ったのだろうか」
2.用語限定案にもとづく新しい世界史B教科書のモデル案
次に、限定した用語で教科書をつくるとどのようになるかというモデル案を提示したい。叙述
する対象が限定されるぶん、深い分析が可能になるであろうし、新たにうみだしたスペースは歴
史的思考力を養成するための史料や問いかけの提示に使えるはずである。
以下に二つのモデル案を作成してみた。
「19 世紀のドイツ統一」と「14 世紀の明の成立」に関
するページである。
『ドイツ・フランス共通歴史教科書』のスタイルを参考にしながら、見開き2
ページで完結するようにしてある。
-63-
ドイツ帝国の成立
1848 年革命が失敗すると、ドイツ統一の主導権はプロイセン王国に移っ
た。プロイセンはフランクフルト国民議会を武力で弾圧した国であり、官
僚・軍部にユンカー層が大きな影響力をもっていた。ユンカー出身のビス
マルク(1815~98)は、国王ヴィルヘルム1世から首相に任命されると、
議会の反対をおしきって軍備増強をはかった。プロイセン憲法には議会と
首相が対立した場合の規定が存在しなかったことを利用して、議会を無視
したのである。軍事力によるドイツ統一をめざした彼の政治は、彼の議会
演説(史料1)の言葉にちなんで鉄血政策と呼ばれている。
ビスマルク
ビスマルクは、ライン地方の工業力を活用しながら、ドイツ関税同盟を主
導して統一的な経済圏をつくり、域内の鉄道建設を進めた。そして 1866 年のプロイセン=オース
トリア戦争に勝利して、ドイツ統一に向けた組織づくりからオーストリアをしめだした。いっぽ
う 1848 年革命の弾圧の記憶が残っているドイツ西南部の地域では、プロイセンに対する反発が強
く、プロイセン主導の新たな組織への参加を嫌っていた。そこでビスマルクは、1870 年にフラン
スのナポレオン3世の脅威を宣伝してプロイセン=フランス戦争をおこし、西南部の諸国をプロイ
セン側にたって参戦させ、ナポレオン3世を捕虜とし、フランスに大勝したのである。1871 年、
ドイツ帝国の成立を宣言する儀式が、フランスのヴェルサイユ宮殿で行われた。フランスは資源
の豊かなアルザス・ロレーヌをドイツに奪われ、多額の賠償金を課せられた。
ドイツ帝国は、各地域の邦の諸侯たちの存続を許す連邦体制をとった。しかしプロイセンが大
きな力をもち、ヴィルヘルム 1 世がドイツ皇帝に、ビスマルクが帝国宰相となった。邦の代表か
らなる連邦参議院と、男子普通選挙にもとづく帝国議会の二院制であったが、宰相は皇帝にのみ
責任を負っていたので、議会の権限には大きな限界があった。
あいついだ重化学工業の技術革新によって、ドイツの工業生産は急激に伸びていった。ビスマ
ルクは台頭する労働者の政治活動を脅威と見なし、社会主義者鎮圧法で政党の結成を禁止し、他
方で彼らの支持を集めるために疾病・養老に備えた世界初の社会保険を実施した。しかし自由貿
易を望む工業界と、保護関税を維持したいユンカーとの対立は、深刻化した。鎮圧法にもかかわ
らず労働者たちの反政府運動は伸長し、のちにドイツ社会民主党が生まれた。対外的にはフラン
スで反ドイツ感情が高まり、イギリスもドイツを警戒した。
(史料3)ドイツ帝国が抱える内外の
課題は大きく、やがてビスマルクは新皇帝によって更迭された。
地
図
地図 19 世紀中ごろのドイツ
ヴェルサイユ宮殿でのドイツ帝国成立の儀式
-64-
考えてみよう&討論してみよう
設問1 なぜビスマルクは、統一は「鉄と血」でなければ実現しないと考えたのだろう
か。史料1・史料2をもとに、その理由を説明してみよう。
設問2 ビスマルクによるドイツ統一は、史料2の日本人にとっては一つのモデルであ
り、史料3の歴史家アイクにとっては大きな問題をもつものだった。どうして二つの
見方のような違いが生まれたのかを考え、あなたは史料2・3のどちらの見方を支持
するかを意見発表してみよう。
史料1
プロイセン下院議会の予算委員会におけるビスマルクの演説(1862 年)
ドイツが注目しているのはプロイセンの自由主義ではなくて、プロイセンの力であります。
(……)
ウィーン〔会議〕の諸条約によるプロイセンの国境は、健全な国家の営みのためには好都合なもの
ではありません。現下の大問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなく――これこそが、
1848 年と 1849 年の重大な誤りだったのですが――、まさに鉄と血によってなのであります。
(伊藤定良訳、歴史学研究会編『世界史史料6』より)
史料2
日本の岩倉使節団に対してのビスマルクのスピーチ(1873 年)
万国公法というものが、国際社会で各国家の権利を守ってくれると言われています。しかし大
国が利害を争うとき、自分にとって有利であれば万国公法をそのまま大事にするでしょうが、も
し不利であれば武力をもって公法の内容をひっくり返すでしょう。万国公法を順守するなどとい
うことはないのです。これに対して小国はきちんと公法の内容と原理を見定め、それに違反しな
いようにして、自分の独立を守ろうとします。しかし小国は、ひとたび大国から翻弄されるなら
ば、その独立など不可能なのです。
(……)私が議会の意見に耳を傾けず、国権の強化につとめ
てきた理由は、ここにあるのです。したがって、国権を強化したうえで独立を保っているドイツ
という国こそ、日本という国にとって、世界の国の中でも最も親しくつきあうべき国であると言
えるのです。 (久米邦武編『米欧回覧実記』より、漢文体の原文を現代語訳に改)
*久米邦武(1839~1931)…条約改正交渉と世界情勢視察の目的で世界一周旅行を行った岩倉使節団に加わり、
『米欧回覧実記』という旅行記をまとめた。のちに東京帝国大学教授。
史料3
歴史家 E.アイクが描いたビスマルク像(1941 年)
彼(ビスマルク)は、1879 年、あるフランス外交官に次のように言った。
「私は民族間に永遠
の憎しみがあるとはまったく思っていません。民族間の反感と好意は、そのときの利害に応じて、
毎日入れ替わるのです。
」(……)
〔しかしながら〕講和締結以来、ヨーロッパ大陸の諸民族はたえず完全武装の状態で対立しあ
い、一方の兵力増強はただちに他方の兵力増強をひき起こした。ふたたび戦争が起きるまでに
40 年が経過したのであるが、その間、目覚めている人々はつねに破局が迫っているという気持
ちを抱いていた。とりわけビスマルク自身がそうだった。彼は対ドイツ「列国同盟の悪夢」に夜
の眠りを奪われたのである。 (吉田徹也・新妻 篤訳、E.アイク『ビスマルク伝』より)
*E.アイク(1878~1964)…ドイツの弁護士・ジャーナリスト・政治家で、1937 年にナチス政権を避けてイギリス
に亡命した。その後の彼は、自由主義の立場からドイツの近現代史を批判的に見つめる著作を多く残した。
-65-
明の成立と海禁=朝貢体制
元の末期の混乱した経済と、14 世紀の世界規模な飢饉と疫病の流行によっ
て苦しむ民衆たちは、紅巾の乱をおこした。貧農から反乱軍に身を投じ、や
がてその指導者となり、1368 年に皇帝に即位して明を建国したのが、朱元璋
(洪武帝、位 1368~98)であった。彼は長江沿いの金陵(現在の南京)を都
にして、元の勢力を万里の長城の北に追いやった。彼は史上初めて江南から
中国統一に成功したのである。
多様な民族や多様な価値観が共存していた元の時代に対し、洪武帝は、儒
教を重んずる勤勉な小農民に、絶大な権力を持った皇帝が君臨するような王
朝を目指した。唐時代にもうけられた三省のうちで唯一残っていた中書省を
廃止し、六部と呼ばれた官庁では直接皇帝が膨大な決裁をくだすようになっ
た。秩序を重んじる朱子学が官学とされて、科挙のために学ぶべき思想となっ
た。一人の皇帝に対して一つの年号しか存在しない一世一元の制となり、皇
帝が元号の名で通称されるようにもなった。洪武帝とはそのような通称であ
る。
2種類の洪武帝の肖像
大規模な戸籍台帳と土地台帳の作成が行われ、農民たちに家族の人数から
牛馬の数、土地の形状までを報告させて課税の基準を定めた。また農村を 110 戸ごとの里に編成し、
そのなかの富裕な 10 戸を里長として、残りの 100 戸を 10 ずつ分割して統括させるという統制系統
をつくりあげた。これを里甲制という。さらに、戸籍で軍戸に分類された民衆たちを軍隊に編成する
衛所制をしいた。また民衆たちは、
「父母に孝順なれ、長上を尊敬せよ」といった、六諭と呼ばれる
教訓を唱えることを命じられた。以上のような洪武帝による王朝建設は、圧倒的な専制権力を行使す
るものだったと言える。たとえば金陵にこれまで住んでいた民衆は雲南地方に強制移住させられ、か
わりに長江下流域の住民数万人が金陵に集められて新首都が建設された。また彼は臣下の陰謀を疑い、
数万人規模に及ぶ被疑者を処刑する大規模な弾圧事件をたびたびおこした。
さらに彼は、沿岸部の交易を自らの統制のもとに置こうとし、
「海に寸板も浮かべてはならぬ」と
いう方針のもと、自由な交易を禁止した。当時の東シナ海・南シナ海には、倭寇が権力の統制に従わ
ず、交易や略奪をおこなっていた。倭寇とは日本人・朝鮮人・中国人が混ざりあった集団であり、そ
もそも海上交易とは国家の枠をこえて行われるものであった。洪武帝は、そうした海上交易にまで専
制権力を行使しようとしたのである。これによって宋と元の時代に盛んになった東アジアの海上交易
は一時的に衰退することになった。
しかし洪武帝亡きあと、後継をめぐる内戦が起き、それに勝利した永楽帝(位 1402~24)は父以
上の支配領域拡大を目指した。首都を華北の北京に移し、万里の長城を越えてモンゴル遠征を繰り返
し、ベトナムを征服した。さらには雲南出身のムスリムの宦官である鄭和に大船団を指揮させて、7
回にわたって東南アジアとインド洋に及ぶ南海諸国遠征をさせた。船団の一部はムスリム商人の交易
網の情報を利用しながら、アラビア半島やアフリカ東海岸に至った。鄭和の遠征は、各地の多くの王
たちに対して、明の皇帝へ朝貢することをうながし、実際にそれを実現した。
朝貢とは、各地の王が形式的に明の皇帝の臣下となり、貢物を皇帝に献上することである。皇帝か
らは、献上品をうわまわる品々を賜ることができたし、付随して商人同士の取引も許されたので、各
地の王にとっても朝貢は大きな利益につながるものであった。日本の室町幕府の将軍足利義満が明と
の間でおこなった勘合貿易も、朝貢の一形態であった。このような交易は、あくまで洪武帝による民
間人の自由貿易を禁止する政策の延長線上にあるものである。こうした明を中心とするアジアの国家
と交易のありかたを海禁=朝貢体制と呼ぶ。これは 16 世紀にかたちをあらわすヨーロッパの主権国家
体制と重商主義とは、大きく異なるものであった。
-66-
考えてみよう&討論してみよう
設問1
なぜ洪武帝には2種類の肖像画が存在するのであろうか。彼の政治の内容を参
考にしながら推理してみよう。
設問2
洪武帝と永楽帝の政治は、日本の歴史のどのようなところに影響を与えている
だろうか。中学で学習した内容をふりかえりながら、考察し、意見交流してみよう。
設問3
明の海禁=朝貢体制は、商人たちの活動が自由に出来ないという欠点をもって
いた。その欠点を、マラッカと琉球という二つの王国がどのようにカバーしていたの
か、史料・地図・図から考察してみよう。
地図
鄭和の遠征と琉球の交易ルート
地
図
明に朝貢する船が並ぶ琉球の那覇港
図
「琉球交易港図屏風」(部分)
史料1
琉球王からシャム国
王に送られた外交文
書(1425 年)
いま正使浮那姑是(ふ
なくし)を遣はし、仁字
号海船に坐駕し、磁器を
装載して、貴国の出産の
地面に前(すす)み往き、
胡椒・蘇木等の貨を収買
して回国し、以て大明の
御前に進貢するに備へ
んとす。
(村井章介ほか
『琉球からみた世界
史』より)
史料2
トメ・ピレス『東方諸国記』
(1515 年)に描かれたマラッカ
マラッカには4人のシャーバンダル〔港務長官〕がいる。彼ら
は市の役人で、それぞれの管轄に従ってジャンク〔帆船〕の船長
を応接する人々である。一人目はグジャラート人のシャーバンダ
ルであり、彼らの中で最も主要な役目であった。二人目は、ボヌ
ア・ケリン、ベンガル、ペグー、パサイのシャーバンダル。三人
目は、ジャワ、モルッカ、バンテン、パレンバン、タンジョンプ
ラ、ブルネイ、ルソンのシャーバンダル。四人目は、中国、琉球、
泉州、チャンパのシャーバンダルがいた。それぞれのシャーバン
ダルたちは、各自受け持ちの国籍の人々が商品あるいは贈り物を
携えてマラッカに来た時、彼らを供応する。
(岡美穂子訳、歴史学研究会編『世界史史料4』より)
*マラッカ王国…鄭和艦隊の基地として港市を提供することで、アユタヤ朝の
圧迫をはねのけることに成功し、1445 年頃、独立王国となった。ムスリムが
多い王国であり、東南アジアにイスラームを広めた。マラッカは各地の諸民
族が混在する社会であり、シャーバンダルは受け持ちの人々を供応するだけ
でなく、彼らがマラッカに居住するさいの自治を保護していた。
(小川幸司)
-67-
b)日本史
1.近代の事例
本報告書では思考力育成型の歴史教育を実現するための第一歩として、教科書に使用する歴史
用語の削減を提案するが、それだけでは教室に思考力育成型の歴史教育を定着させることは難し
いだろう。教科書に生徒が考え、表現する活動を行うきっかけとなる仕掛けを構造的に組み込ん
でいく必要があるように思われる。
とはいえ、実は既に 1999 年告示の学習指導要領において、日本史Aには「歴史と生活」、日本
史Bには「歴史の考察」という項目が盛り込まれ、これらについては自分の生活や関心と結びつ
けながら、一定の主題について各種の資料に基づいて学習することが求められている。しかし、
こうした学習が特に日本史Bの授業の中で定着しているとは言えない。
「歴史と生活」や「歴史の
考察」は、教科書の他の部分の学習とは切り離されてしまい、多くの場合、時間の都合などによっ
て取り上げられないまま終わっているのが実情だろう。
思考力育成型の歴史教育を定着させようとするならば、教科書や授業の多くの部分を占める通
史学習の部分に、節や章ごとにこまめに生徒に対する問いかけを設定することが必要だと思われ
る。本稿では別項で提示した歴史用語削減の指針を踏まえた教科書の想定本文を提示したうえで、
それをもとに通史学習の流れの中で提示する「設問」の例を示したい。ここでは、用語削減の検
討の際にも検討対象にした日露戦争を取り上げる。
まず、筆者の作成した想定本文を下表の左欄に掲げ、その特徴を示すために現在もっとも多く
使用されている教科書である『詳説日本史B』
(山川出版社)(以下、詳説)の日露戦争記述を表
の右欄に示す。
想定本文
『詳説日本史B』「日露戦争」(P.295〜296)
ロシアに満州からの撤兵を求める交渉は 1904(明治
日本とロシアの交渉は 1904(明治 37)年初めに決裂
37)年初めに決裂した。同年2月、日本は韓国の仁川
し、同年2月、両国はたがいに宣戦を布告し、日露戦争
沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲し、両国は互いに宣戦を
が始まった。日本はロシアの満州占領に反対するアメリ
布告して日露戦争が始まった。日本は開戦直後に韓国政
カ・イギリス両国の経済的支援を得て、戦局を有利に展
府の中立声明を無視して陸軍を上陸させ、韓国内での日
開した。1905(明治 38)年初めには、半年以上の包囲
本軍の自由な軍事行動を認めさせた。さらにその後、日
攻撃で多数の兵を失った末にようやく旅順要塞を陥落
本政府が推薦する財政・外交顧問を韓国政府に置くこと
させ、ついで3月には奉天会戦で辛勝し、さらに5月の
を認めさせた。
日本海海戦では、日本の連合艦隊 1 がヨーロッパから回
日本軍は戦局を有利に展開し、陸軍は多数の兵を失っ
航してきたロシアのバルチック艦隊 7 を全滅させた。
たものの旅順要塞を陥落させ、ついで奉天会戦で辛勝し
しかし、長期にわたる戦争は日本の国力の許すところ
た。しかし、この頃には日本の兵器・弾薬の補給や兵士
ではなく*、ロシアも国内で革命運動がおこって戦争継
の動員は限界に達していた。ロシアも国内で革命運動が
続が困難になったため、セオドア=ローズヴェルト米大
おこって戦争継続が困難になっていた。
統領の斡旋によって、1905(明治 38)年 9 月、アメリ
日露戦争における日本の戦費総額は約 17 億円で、そ
カのポーツマスで日本全権小村寿太郎とロシア全権
のうち7億円余をアメリカ・イギリスなどからの外債、 ウィッテは講和条約(ポーツマス条約)に調印した。そ
6億円余を内債 8 で調達し、残りを約 3 億 2000 万円の
の結果、ロシアは、(1)韓国に対する日本の指導・監督
増税などでまかなった。戦費の総額は、開戦前年度の国
権を全面的に認め、(2)清国からの旅順・大連の租借権、
家予算(一般会計)は約3億円だったことから考えると、 長春以南の鉄道とその付属の利権を日本に譲渡し、さら
-68-
国民の負担の限界に近いものだった。当時の日本の総人
に、(3)北緯 50 度以南のサハリン(樺太)と付属の諸島
口は約 5000 万人だったが、日露戦争の際の日本の兵士
の譲渡と、(4)沿海州とカムチャッカの漁業権 9 を日本に
は約 109 万人、戦死者は約8万人におよんだ。
認めた。国民は人的な損害と大幅な増税にたえてこの戦
戦局の挽回をねらってヨーロッパから送られてきた
争を支えたが、賠償金がまったくとれない講和条約に不
ロシア艦隊を日本海海戦でほぼ全滅させると、日本はセ
満を爆発させ、講和条約調印の日に開かれた講和反対国
オドア=ローズヴェルト米大統領に講和の斡旋を依頼
民大会 11 は暴動化した(日比谷焼き打ち事件)。
し、講和会議が開かれた。1905(明治 38)年 9 月、日
*
本全権の小村寿太郎とロシア全権ウィッテは講和条約
場によって、本格的な近代戦・物量戦となったため、兵
日露戦争は、機関銃や速射砲のような新兵器の登
(ポーツマス条約)に調印した。これによりロシアは、 器・弾薬・兵士などの補給が日本の限界に達した。また、
(1)韓国に対する日本の指導・監督権を全面的に認め、(2)
約 17 億円の軍事費のうち、約 13 億円を内外の国債に
清国からの旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその
依存し(外債約 7 億円、内債約 6 億円)、国内の増税で
付属の利権を日本に譲渡し、さらに、(3)北緯 50 度以南
まかなわれたのは 3 億 2000 万円弱であったが、これも
のサハリン(樺太)と付属の諸島の譲渡、などを日本に
国民負担の限界に近かった。
認めた。
**
日露戦争中の 1904(明治 37 年)に結んだ第一次
しかし、人的な損害と大幅な増税にたえてこの戦争を
日韓協約では、日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政
支えた国民の間には、賠償金がまったくとれない講和条
府におき、重要な外交案件は事前に日本政府と協議する
約に不満を持つ者もいた。このため、東京の日比谷公園
ことを認めさせた。
で計画された講和反対集会が暴動化した日比谷焼打ち
事件を機に、講和反対運動が各地に広がった。
【図版】
日露戦争要図
【図版】
註1
日露戦争要図
『詳説日本史B』の*は原文にある註だが、**の中は想定本文との対照のため同書の「日露戦後の国際
関係」の註(P.296)から引用した。
註2
『詳説日本史B』で使用されているが想定本文では使わなかった用語は下線で示し、頻度(この意味につ
いては本報告書の別項参照)の数字を付した。また、想定本文中で頻度9以下にもかかわらず使用した用語
については二重下線で示し、頻度の数字を付した。
註3
想定本文の内容で『詳説日本史B』にそれに相当する内容が含まれていない部分には波線を付した。同じ
く、『詳説日本史B』に含まれている内容で想定本文に反映していない部分も波線を付した。
註4
図版については既存のものを利用する場合著作権処理が必要になる可能性があるため、タイトルだけを示
した。想定している図版の内容については『詳説日本史B』等を参照されたい。
この想定本文は、現在もっとも標準的な日本史B教科書と見なされている詳説を生かせるとこ
ろはそのまま引用し、後に示す「設問」を意識して下記のような方針で修正を加え、全体の分量
がほぼ同じ程度になるように調整した。その際、詳説以外の日本史B教科書を参照・引用してお
り、現行教科書に近似した文章の中で、下記の意図に沿った記述ができそうだということを示す
ためのサンプルの域を出ないものである。ただし、その整理の仕方やまとめ方についての責任は
当然筆者にある。
(1)
本報告書の別項で示した用語削減の指針にしたがって、使用する歴史用語を減らす。また、
書かなくても前後関係などに混乱が生じないと思われる程度に、年号の記載を避けた。この
点に関しては現行教科書の中では比較的用語数が少ないタイプに入る『新選日本史B』
(東京
-69-
書籍)の「日露戦争」(P.190)を参考にした。ただし、日露戦争については頻度の低い用語
の使用は少なく、これにかかわる修正は少ない。
(2)
教科書を利用した通史学習の中で、「設問」に対して教科書を利用して「答え」を発見す
るという活動を想定し、以下の諸点について、詳説よりも踏み込んで因果関係を示そうとし
た。
・日露戦争と韓国(大寒帝国)の関係。日露戦争は直接にはロシアの満州占領をめぐる交
渉が決裂したことから始まったが、根底には韓国をめぐる日本とロシアの対立がある。
韓国をめぐる戦争としての日露戦争という点を意識させたいという想定で、記述内容を
修正した。
・講和反対運動へのつながりを意識して、戦争の人的・経済的負担については本文で記述
すべきではないかと考え、その方針で修正した。
これらについては、現行教科書のうち『高校日本史B』
(実教出版)の「日露戦争と朝鮮」
(P.178
〜179)が踏み込んだ記述をしており、想定本文のこの点にかかわる記述は同書からの引用や
要約によってまとめている。
このような想定本文に基づいて、以下のような設問を付属させたいと考える。
設問1
史料1は日本がロシアに宣戦布告した際に出された詔書の一部です。この史料で日
本はロシアとの戦争に踏み切った理由をどのように説明しているかまとめてみよう。
(史料1)
帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス、是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス、韓
国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ。然ルニ露国ハ……依然満洲ニ占拠シ益々其ノ
地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス。若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎、韓国ノ保
全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス。
(大日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは昨日今日のことではない。これは両国の何代
にもわたる関係によるだけでなく、韓国の存亡は大日本帝国の安全に密接につながっている
からである。ところが、ロシアは……依然として満洲を占領し、ますますその地位を強固に
し、ついにこれを領有しようとしている。もし満州をロシアが領有したら、韓国の保全を支
援する手段はなくなり、極東の平和も望むことができない。)
設問2
日露戦争が始まった時、韓国政府はこの戦争に対してどのような立場を取ろうとし
ていたか、それに対して日本がどのように行動したか、教科書をよく読んでまとめてみよう。
また、ポーツマス条約では韓国についてどのような取り決めがなされているか確認しよう。
設問3
教科書をよく読んで、下の a〜d の作業をし、日露戦争の戦費の集め方にはどのよう
な特徴があったかまとめてみよう。
a. 日露戦争の戦費総額と戦争直前の国家予算を比べる。
b. 日露戦争の戦費に占める外債・内債と増税分の割合を計算する。
-70-
c. 日露戦争の戦費のうち増税でまかなった金額と戦争直前の国家予算を比べる。
d. 日清戦争の戦費総額と日露戦争の戦費総額を比べる。
設問4
教科書をよく読んで、日露戦争に動員された兵士は当時の男性約何人にⅠ人で、動
員された兵士のうち戦死者の割合はどの程度だったか計算してみよう。また、日清戦争の動
員された兵士の数、戦死者の数とくらべてみよう。
設問5
史料2はロシアとの講和会議の際に政府から全権小村寿太郎に出されていた指示で
す。教科書とこの史料をよく読んで、講和に対する政府と国民の考え方の違いについてまと
めてみよう。
(史料2)
甲
絶対的必要条件
一、韓国ヲ全然我自由処分ニ委スルコトヲ露国ニ約諾セイムルコト。……
右ハ戦争ノ目的ヲ達し帝国ノ地位ヲ永遠ニ保障スル為メ緊要欠クヘカラサルモノナルニ付、
貴官ハ飽迄之カ貫徹ヲ期セラルヘシ。
乙
比較的必要条件
一、軍費ヲ賠償セシムルコト……
右ハ絶対的必要ノ条件ニアラサルモ、事情ノ許ス限リ之カ貫徹ヲ努メラルヘシ。
(甲
絶対的必要条件
一、韓国を完全に日本の自由な処分に委ねることをロシアに約束さ
せること。……右は戦争の目的を達し大日本帝国の地位を永遠に保障するために非常に重要
で欠かせないものなので、貴官(全権小村寿太郎)は飽くまでこれを実現できるように務め
ること。
乙
比較的必要条件
一、軍事費を賠償させること……右は絶対的必要条件では
ないが、事情の許す限りこれの実現に務めること。)
設問6
設問3〜5で検討したことを踏まえて、日比谷焼打ち事件に対するあなたの考えを
まとめてみよう。
註
設問に用いた史料の原文は、歴史学研究会編『日本史史料集』[4]近代(岩波書店、1997 年)から引用。
設問については、韓国と日露戦争のかかわり、この戦争における政府と国民の関係といった論点
を重視している。日露戦争に先立つ日清戦争、三国干渉以来の経過や、この後に続く韓国併合へ
の過程、また大正期の政治情勢へのつながりを考えるうえで、これらの論点がもっとも重要だと
思うからである。また、教科書のあり方としては、本文はなるべく簡潔にする一方、設問におけ
る史料については、多少難しいものに挑戦するという方向を考えてみた。実際の授業のあり方に
ついては、前後の時代の取扱い方も含めて、設問をいかに展開するかが重要になるが、ここでは
素材の提示にとどまることをご容赦願いたい。
(安井
-71-
崇)
2.日本史前近代
ここでは思考力養成型の設問を付した教科書のモデル試案を示す。作成にあたってはまず山川
出版社『詳説日本史』の記述を元に頻度 9 以下の語を使わないよう書き換え用語数の限定を行っ
た。その上で記述の一部を見直しオリジナルの書き換えも行っている。なお山川出版社『詳説日
本史』の本来の記述については「日本史用語の限定について」の中で一部を紹介している。参照
されたい。
5.平安朝廷の形成
●平安京の確立と蝦夷との戦い●
光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて 781(天
応元)年に亡くなる直前、天皇と渡来系氏族の血を引く女性とのあいだに生まれた桓武天皇が即位
した。奈良時代の天皇は代々天武天皇の直系の子孫でした。ところが光仁天皇は天智天皇の孫で
した。また母親は渡来系氏族の子孫でした。そのため新王朝を作るという意識を強く持つことに
なった。
桓武天皇は光仁天皇の政策を受け継ぎながら、仏教政治の弊害を改め、天皇権力を強化するこ
とに努め、784(延暦 3)年に平城京から山背国の長岡京に遷都した。しかし、桓武天皇の腹心で長
岡京造営の中心人物が暗殺される事件がおこった。これは遷都に反対する勢力がいることを示す
ものであった。その後も長岡京造営は続けられたが安定せず、794(延暦 13)年、平安京に再遷都
して、山背国を山城国と改めた。都が平安京に移って以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約
400 年間を平安時代という。
東北地方では、奈良時代にも陸奥側では多賀城を基点として北上川沿いに北上したが、出羽側
では日本海沿いに勢力を北上させていった。勢力拠点には役所や倉庫などを配置し、そのまわり
に農民を移住させて開拓が進められた。こうして蝦夷地域への支配の浸透が進められた。しかし、
光仁天皇の 780(宝亀 11)年には帰順した蝦夷が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれて焼くと
いう大規模な反乱に発展した。これ以後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
桓武天皇の 789(延暦 8)年には北上川中流の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、政府軍が大
敗する事件もおこった。その後、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、802(延暦 21)年胆沢の地
に胆沢城を築き、蝦夷を帰順させて鎮守府を多賀城からここに移した。翌年にはさらに北上川上
流に進出した。日本海側でも、米代川流域まで律令国家の支配権がおよぶことになった。
しかし、東北地方での戦いと平安京の造営という二大政策は、国家財政や民衆にとって大きな
負担となり、805(延暦 24)年、桓武天皇は二人の政治家に二大政策について議論させ、ついに二
大事業を打ち切ることにした。
-72-
設問1
遷都と蝦夷との戦いは桓武天皇の二大事業と言われるが、桓武天皇がこのよう
な政策を行った理由は何であろうか。教科書をよく読み、自分の意見をまとめてみよう。
設問2
(史料1)805(延暦24)年、桓武天皇は藤原緒嗣と菅野真道という二人の政治家に
蝦夷との戦いと平安遷都という二大事業について議論させた。その時のやり取りが次のよ
うに史料に書かれている。
時に緒嗣は「今天下が苦しんでいるのは軍事と造作です。この二つをやめれば民衆も
安らぐでしょう」といった。真道は異議を唱えたが、桓武天皇は緒嗣の意見を取り入
れ、二大事業を取りやめた。(『日本後紀』延暦二四年一二月七日条)
(史料2)桓武天皇崩御の際、『日本後紀』は桓武天皇の業績を次のように評している。
こうさく
い て き
う
ついえ
たより
内には興作を事とし、外には夷狄を攘つ。当年の 費 といえども後世の 頼 とす。
(国内では都作りを進め、対外政策では蝦夷を征服した、これらは多くの費用を
使い負担となったが、後世の基礎を作ったのだ)
(大同元年(806)四月七日条)
(史料1)(史料2)から桓武天皇の二大事業は当時どのように評価されていたかを考え
よう。また、あなたが評価するとしたらどのように評価するだろうか。
●平安初期の政治改革●
桓武天皇は、長い在位期間のうちに天皇の権威を確立し、積極的に政治改革を進めた。
国家財政悪化の原因となった地方政治を改革することに力を入れ、増えていた定員外の国司や
郡司を廃止し、また勘解由使を設けて、国司の交替に際する事務の引継ぎをきびしく監督させた。
一般民衆から徴発する兵士の質が低下したことを受けて、792(延暦 11)年には東北や九州などの
地域を除いて軍団と兵士とを廃止し、かわりに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健
児を採用した。しかしこれらの改革は、十分な成果をあげるところまではいかなかった。
桓武天皇の改革は平城天皇・嵯峨天皇にも引き継がれた。嵯峨天皇は、即位ののち 810(弘仁元)
年に、平城京に再遷都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、政治的混乱が生じた。結局、嵯
峨天皇側が迅速に兵を展開して勝利し、太上天皇はみずから出家し、その寵愛を受け共謀者と目
-73-
された藤原薬子は自殺、薬子の兄は射殺された(薬子の変)。この事件の際に、天皇の命令をすみや
かに太政官組織に伝えるために、秘書官長としての蔵人頭が設けられ、藤原冬嗣らが任命された。
その役所が蔵人所で、所属する蔵人は、やがて天皇の側近として宮廷で重要な役割を果たすこと
になった。また嵯峨天皇は、平安京内の警察に当たる検非違使を設けた。検非違使は、のちには
裁判もおこなうようになり、京の統治を担う重要な職となっていった。蔵人や検非違使のように
令に定められていない新しい官職を令外官という。
嵯峨天皇のもとでは、法制の整備も進められた。律令制定後、社会の変化に応じて出された法
令を、律令の規定を補足・修正する格と施行細則の式とに分類・編集し、弘仁格式が編纂された。
これは、官庁の実態にあわせて政治実務の便をはかったもので、こののち、さらに貞観格式、延
喜格式が編纂された。これらをあわせて三代格式という。このように平安時代前期は社会の変貌
に対応し律令制の修正を進めた時代であった。
●地方と貴族社会の変貌●
8 世紀後半から 9 世紀になると、農民間に貧富の差が拡大したが、有力農民も貧窮農民もさま
ざまな手段で負担を逃れようとした。そして戸籍には、兵役・労役・租税を負担する成人男性で
はなく女性の登録を増やす偽りの記載が増え、律令の制度は実態とあわなくなった。こうして、
手続きの煩雑さもあって班田収授は実施が困難になっていった。
桓武天皇は班田収授を励行させるため、6 年ごとの戸籍作成にあわせて 6 年に 1 度だった班田
の期間を 12 年に1度に改めた。また、様々な公民の負担を軽減して公民たちの維持をめざした。
しかし効果はなく、9 世紀には班田が 30 年、50 年とおこなわれない地域がふえていった。
調・庸などの未進によって中央の国家財政の維持が困難になると、政府は国司・郡司たちの租
税徴収にかかわる不正・怠慢を取り締まるとともに、823(弘仁 14)年には大宰府の管轄内におい
て、879(元慶 3)年には畿内において有力農民を利用した直営方式の田の経営を行った。これは有
力農民に田を経営させて、その年得た収穫から経費や賃金を支払い、代わりにそれ以外の収穫を
すべて政府の収入とするもので、このようにして政府は財源の確保につとめたのである。しかし、
こうした取り組みにも関わらず、政府が全国から税を集め、財源を確保して各官庁を運営してい
くという方式は次第に崩れていった。やがて中央の各官庁は田を経営し独自の財源としたり、官
人たちも墾田を集めて所有し国家財政に対する依存を弱めていくようになった。また天皇と親近
な関係にある少数の皇族や貴族は私的に多くの土地を集積し、国家財政を圧迫しつつ勢いをふる
うようになった。こうして律令制に基づく社会は次第に変貌を余儀なくされていった。
設問3
教科書にあるように平安時代になるころには律令の制度は実態とあわなくなっていた。こうした事
態に対応するため平安時代前期(ここでは桓武天皇~嵯峨天皇の期間)にとられた政策を書き出し
てみよう。
-74-
●唐風文化と平安仏教●
平安遷都から 9 世紀末頃までの文化を、嵯峨・清和天皇の時の年号から弘仁・貞観文化と呼ぶ。
この時代には、平安京において貴族を中心とした文化が発展した。漢文学が発展し、文芸を中心
として国家の隆盛をめざす思想が広がった。仏教では新たに伝えられた天台宗・真言宗が広まり
密教がさかんになった。
嵯峨天皇は、中国風を重んじ、平安京の殿舎に唐風の名称をつけたほか、唐風の儀礼を受け入
れて宮廷の儀式を整えた。また、文学・学問に長じた文人貴族を政治に登用して国家の経営に参
加させる方針をとった。
貴族は、教養として漢詩文をつくることが重視され、漢文学がさかんになり、漢字文化に習熟
して漢文をみずからのものとして使いこなすようになった。このことは、のちの国風文化の前提
となった。著名な文人としては嵯峨天皇・空海・菅原道真らが知られている。
大学での学問も重んじられ、とくに儒教や、中国の歴史・文学などが学ばれ、貴族は一族子弟
の教育のために、寄宿舎にあたる大学別曹を設けた。また空海は、庶民に対しての教育施設を開
いたことでも名高い。
奈良時代後半には、仏教が政治に深く介入して弊害もあったことから、桓武天皇の長岡京・平
安京への遷都では南都奈良の大寺院が新京に移転することはなく、桓武天皇は最澄・空海らの新
しい仏教を支持した。
最澄は近江出身で近江国分寺や比叡山で修学し、804(延暦 23)年遣唐使に従って入唐、天台の
教えを受けて帰国して、天台宗を開いた。彼はそれまでの受戒制度を批判し、天台宗独自の受戒
制度樹立を主張した。そのため最澄は南都の諸宗から激しい批判を受けたが、最澄の開いた草庵
にはじまる比叡山延暦寺は、やがて仏教教学の中心となっていった。浄土教の源信や鎌倉新仏教
の開祖たちは、多くここで学んでいる。
空海は、讃岐出身で上京して大学などに学び、のち仏教に身を投じた。804(延暦 23)年に入唐、
長安で密教を学んで 2 年後に帰国、紀伊の高野山に金剛峰寺を建てて真言宗を開いた。また、嵯
峨天皇から空海が賜った平安京の教王護国寺(東寺)も、密教の根本道場となった。
天台宗も最澄ののち、入唐した弟子の円仁・円珍によって本格的に密教が取り入れられた。天
台・真言の両宗はともに国家・社会の安泰を祈ったが、加持祈禱によって災いを避け、幸福を追
求するという現世利益の面から皇室や貴族たちの支持を得た。
8 世紀頃から、神社の境内に神宮寺を建てたり、寺院の境内に守護神を鎮守としてまつり、神
前で読経する神仏習合の風潮がみられたが、平安時代に入るとこの傾向はさらに広まっていった。
天台宗・真言宗では、奈良時代の仏教とは違って山岳の地に伽藍を営み、山中を修行の場とした
が、そのため在来の山岳に対する信仰とも結びついて新たな山岳宗教を生み出す源流ともなった。
●密教芸術●
天台・真言両宗がさかんになると、神秘的な仏教芸術が新たに発展した。建築では、寺院の堂
塔が山間の地において、以前のような形式にとらわれない伽藍配置でつくられた。室生寺の金堂
などは、その代表である。
彫刻では、密教と関わりのある如意輪観音や不動明王などの仏像が多くつくられた。これらの
-75-
仏像は、一木造で神秘的な表現を持つものが多い。また神仏習合を反映して神像彫刻なども作ら
れた。
絵画では、教王護国寺両界曼荼羅など、密教の世界観を表した曼荼羅が発達した。書道では、
唐風の書が広まり、嵯峨天皇・空海・橘逸勢らの能書家が出て、のちに三筆と称せられた。
設問4
(1)この時代の仏像は一木造りという 1 本の木から掘り出す技法で作られている。写真
(ここでは省略している)を見てその印象を話し合ってみよう。
(2)また如意輪観音像や不動明王像(これらの写真も省略)などからはどのような印象
を受けただろうか、みんなで話し合ってみよう。
(3)この時代の仏像は力強く、神秘的な雰囲気を持つのが特徴といわれるがそれはなぜ
だろうか。当時の仏教の特徴と関係させて考えてみよう。
解答例は以下のとおりである。
設問1
解答例
新王朝を作るため、天皇権力を強化しようとした、など。
教科書の記述を手掛かりに意見をまとめる。
調査・思考力を見る設問。
設問2
解答例
国家権力を伸ばしたが、財政負担となり、民衆を苦しめた、など。
史料を読み取り、自分の意見をまとめる。思考力・判断力・表現力を見る設問。
設問3
解答例
令外官の設置、格式の整備、班田の延期、政府による直営田など。
教科書の記述を正確に読み取る。調査力を見る設問。
設問4
解答例
(1)重量感、力強さなどの印象。(2)神秘的、怖い、不気味など。(3)現世利益を
かなえる密教の呪術性などとの関連を考える。
分析・思考力・表現力を見る設問。
いかがであろうか。思考力育成型の授業というと主題学習などをイメージしがちである。従来
の主題学習というと特別な準備が必要であったり、何時間も時間をかけなければならなかったり
-76-
と、教師にも生徒にも負担感が強かったように思う。ここではもう少し気軽に、教科書を材料に
取り組めるようにモデルを考えてみた。設問1や設問3などは教科書をよく読むことによってそ
れなりの解答が作れるものである。いわゆる勉強ができる生徒にとっては「なんだ、教科書を読
んでまとめるだけか」という印象を持つかもしれない。しかし、教科書本文であれ、資料であれ
正確に読み情報をまとめることは思考力の基礎である。思考力育成型授業と言ってハードルを高
くするのではなく、このような簡単なことから始められればよいではないだろうか。
また設問1の解答を考えやすくするため、教科書本文の記述に桓武天皇が天武系の天皇ではな
く天智系であることや母親が渡来系氏族出身であるため新王朝樹立を意識したというこれまでの
教科書より踏み込んだ記述を付け加えた。
あるいは公営田や元慶官田といった頻度の低い用語を削除した代わりにそれらの田がどのよう
に経営されるものだったかを多少具体的に記述し、またそれが財源確保の試みだったこと、一方
でそうした試みに関わらず律令財政はひっ迫していくことなどを書き込んでいる。こうしたこと
によって歴史用語の暗記よりも律令制の行き詰まりないしは変質という歴史の流れの本質につい
ての理解を深めることができる記述になったのではないだろうか。かなり手前味噌のようなこと
を書いてしまった。ここで示した試案が実際にそのような記述になっているかどうか、その評価
はさておくが、教科書執筆者の努力により歴史用語を限定する代わりにこのような一歩踏み込ん
だ教科書記述も可能になるのではないだろうか。
設問2や設問4も教科書の内容をよりよく理解させることになるだろう。一般的に無味乾燥で
分かりにくいといわれる教科書の記述も用語を限定し、思考力育成型に切り替えることによって
より深く歴史を理解させる分かりやすい記述にかわるのではなかろうか。
なお、本文のみで山川『詳説日本史』の該当部分は 4192 字。このモデル原稿は設問を除く本
文のみで 3862 字である。設問の文字数を確保する必要があれば、
「平安初期の政治改革」や「地
方と貴族社会の変貌」
「唐風文化と平安仏教」などの記述をより簡略にして調整することも可能で
あろう。ここに示したモデルがベストであるとは思わないが、議論のための素材として提出させ
ていただいた。
(戸川
-77-
点)
c)『韓国近・現代史』教科書の場合
1.はじめに
歴史的思考力を育成するための教科書とはどのような教科書か。日本学術会議が 2011 年 8 月
に発表した提言(『新しい高校地理・歴史教育の創造-グローバル化に対応した時空間認識の育成
-』p.36)で言及されている歴史的思考力のキーワードを参照しながら検討してみよう。
ここでは韓国の「韓国近・現代史」という科目の教科書を取り上げる。
「韓国近・現代史」とい
う科目は、1997 年 12 月 30 日に告示された韓国の「第 7 次教育課程」(日本の学習指導要領に近
似・教育部告示第 1997-15 号)で新設された。高校 2・3 年生用の 4 単位の選択科目で、2003 年
度から授業が実施され、新しい教育課程の実施によって 2012 年度で廃止された。韓国の自国史
教科書では始めて検定制度が採用され、6 冊の教科書が検定に合格した。
今回検討する教科書は「大漢教科書」という出版社から刊行されたものである。多くの人が参
照・検討できるように、日本語に翻訳された教科書(『世界の教科書シリーズ 24 韓国近現代史
の歴史
検定韓国高等学校近現代史教科書』(明石書店・2009 年・三橋広夫訳)を使用した。
2.検討対象の時期
検討する節は、上記教科書の「Ⅲ.民族独立運動の展開」の「2.日帝の侵略と国権の被奪」
4ページ(翻訳本 p.138~141)である。授業時間数は 2 時間相当と推測できる。日露戦争から韓国
が日本の植民地になるまでの時期を対象にしている。この内容は日本の教科書でも必ず扱ってお
り、韓国史であっても、日本史の理解があればわかりやすいと考えて、この節を検討した。
3.思考力を育成する構成
(1).教科書の構成・記述方式
この教科書は「資料」を中心に構成されている。この節では9点の資料が提示されている。資
料の性格は、事件の写真や絵、原資料の写真、本などの「引用資料」だけでなく、日本の教科書
の本文に近い文章が「資料」として扱われている。この「資料」は「学習の手助け」というタイ
トルである。
「資料 2 学習の手助け
100 年前と今日を比較して」という形になっている。した
がって、節の内容を全体的に説明する「本文」はない。そして、資料(学習の手助け)のタイトル
は日本の教科書の「小見出し」に近いものであり、1つの資料は 10 行前後で、内容はタイトルに
直結したものになっている。全て「資料」の連続という記述形式である。
教科書の構成は、
「学習目標」、
「探求活動」、
「課題を解こう」の3部構成で、この間に「学習の
手助け(資料)」がある。
(2).授業課題の設定
この教科書では、節の冒頭には1~2行の「学習目標」がある。この節では「露日戦争頃の国
際情勢を把握し、国権被奪までの日帝の侵略過程を理解する。」とある。これによって、生徒は、
この節の学習目標を明確に把握できる。思考力育成では「関心の喚起」になっている。
(3).現代の課題を取り入れて、現代と歴史の関連を考えさせる
この教科書では、多くの資史料が提示されているが、「資料 1」は 2000 年 6 月 15 日の新聞に
掲載された1コマ漫画が取り上げられており、キャプションには、この日の韓国と北朝鮮の南北
首脳会談について、周辺国の首脳がいろいろな思惑を持ってそれを見守っていると書いている。
-78-
そして、説明文では、南北統一は周辺国家の協力が必要だが、新しい統一国家ができることへの
警戒心もあると書き、約 100 年前に帝国主義列強が韓国をめぐって争った事実を思い出し、どの
ような歴史の教訓を得なければならないだろうかと問題を提起している。
「資料 2」は「100 年前と今日を比較して」と題して、漢陽大学名誉教授崔文衡の著書『韓国
をめぐる帝国主義列強の角逐』(2001)から引用した1文を提示している。この文章は、100 年前
と現在を比較して列強の侵略に言及し、
「歴史は国力の増進だけが戦争の防止を可能にし、列強の
規制からも自由になれることを教える」と結んでいる。
この 2 つの資料は、朝鮮半島の南北分断をめぐる国際情勢と 100 年前の情勢を関連させて考え
さている。現代の課題との関連で歴史に導入しており、これらによって、思考力育成の第 1 歩で
ある「過去への興味、関心の喚起」が可能になる。なお、この教科書の全ての節で現代的課題と
の関連を取り上げているわけではない。
(4).通史を重視しつつも課題設定に近づける教科書
この教科書の資料のタイトルを見ると、通史的ではあるが、事実の羅列ではなく歴史のポイン
トを重視したものになっている。「資料(学習の手助け)」のタイトルは以下の通りである。
資料2 100年前と今日を比較して
資料6 顧問を通した内政干渉が行われる
資料3
韓半島をめぐる列強の対立
資料7 統監が外交権を代行する
資料4
露日戦争の始まり
資料8 軍隊のない国になる
資料5
帝国主義列強の仲介と露日戦争の終息
資料9 国権を奪われる
表に見るように、通史になっているが、ポイントを絞って内容を提示している。
(5)課題の設定によって思考力を育成する
①「探求活動」の提示
この節では、2個所で「探求活動」が提示されている。その1つは、<1>「露日戦争当時、韓半
島をめぐる帝国主義列強の駆け引きはどのように行われたか」であり。この課題の次に「資料3
~5」が提示されている。時期は日露戦争の終焉まである。次に<2>「露日戦争前後に日帝はわが
国をどのように侵略したか」とあり、次に「資料6~9」が提示されている。
本文に近い資料を読む場合に、
「探求活動」で示された「課題」を意識しつつ、読むことを求め
ている。生徒は思考しながら本文を読むことになる。
②「課題を解こう」による歴史的思考力の育成
「探求活動」を提示され、それを意識しつつ本文を読んだ後に、
「課題を解こう」がある。最初
の「探求活動」に対しては「資料5」の後に「課題を解こう」として3問の課題がある。
1.資料1は南北首脳会談に対する周辺国家の反応をどう解釈しているか。そして、その理由は
何
か、資料2をもとに推論してみよう。
2.資料3~5で、アメリカやイギリスが日帝の韓国侵略を承認した理由は何か。
3.課題1、2から見ると、資料2の主張が妥当か討論してみよう。
この「課題を解こう」では、「資料1~5」を使って課題を解かせようとしている。「1」では
現代的課題と連結させて、日露戦争当時の国際情勢を考えさせ、
「2」では歴史上の事実を確認さ
せている。そして「3」では、現在の研究者の主張が「妥当かどうか」を議論させている。思考
-79-
力育成のための「歴史的資料の調査力」や「歴史的分析・解釈力」に該当する所である。
また、資料9の後に再び「課題を解こう」として 3 問の課題が提示される。それを示せば、
1.資料6~9を見て、日帝の侵略の過程を整理してみよう。
<筆者説明>ここには、日韓議定書から併合条約まで5つの協約や条約の名前が書かれた白表が提示
されていて、各条約ごとに「主な内容」と「結果」を書くようになっている。最初の日韓議定書に
は事例として「答」が書かれており、それを例に内容と結果を理解させようとしている。
2.日帝が強要した併合条約は次に文章のように、法律的に見ても問題があるという。その他
にど
のような問題点があるか、資料6~9を参考にして説明してみよう。
<筆者説明>この問いの下には、純宗が批准書には著名せず、日本は国璽を使えず、行政決済
用の御璽で済ませたので、国際法からみて不法だったという文章が書かれている。
3.国権被奪はわが国の歴史で最も恥辱の事件といえる。わが国が日帝に国権を強奪された理由
を内部的要因と外部的要因に分けて説明してみよう
この「課題を解こう」では、
「1」で教科書に書かれている条約や協約の内容を整理させること
で内容を理解させている。本文を読まなければならず、思考力育成のための「時系列的思考力」
を養成している。
「2」では、条約や協約の締結過程、純宗が署名しなかった事実などから、併合
条約の不成立論に接近させる課題である。提示された新たな文章と本文から、思考力育成のため
の「歴史的分析力・解釈力」を身につけさせようとしている。
さらに「3」では、全ての資料や新資料などを総合的に判断し、国権の被奪という大きな歴史
的事実を、単に日本の強権的な侵略(外部的要因)だけでなく、自国の問題(内部的要因)にも気
づかせるために、この 2 つを「分けて」説明させようとしている。思考力育成のための「意志決
定の連鎖としての歴史学習」を求めているといえよう。
4.まとめ=思考力育成という観点から
韓国の『韓国近・現代史』教科書は、思考力育成のために、まず「学習目標」と「探求活動」
によって、資料(本文)を読む前に課題を設定し資料(本文)を読む目的を提示している。生徒に学
習意欲を持たせ、資料(本文)を考えながら読むことができるように工夫されている。次に、
「課題
を解こう」によって、読んだ資料を整理して理解し、最後には追加資料と共に考えるようになっ
ている。そして、
「課題を解こう」の最後の課題は、個々の資料から考えるだけでなく、すでに学
習した広い知識をも動員して考えるようになっている。特にこの課題は冷静な歴史認識を求めて
いるもので、
「併合」=「植民地化」という「恥辱」を、歴史的事実をもとに考えさせようとして
いる。
日本の教科書では、このような項目は、多くの場合「コラム」形式であって、本文では扱われ
ない。しかし、思考力を育成するためには、教科書のコラムなどではなく、章や節で、歴史への
関心を高め、素材を利用して調査・分析し、解釈し、思考して、自らの意見を持てるようにする
歴史学習が必要なのではないだろうか。韓国の「韓国近・現代史」教科書は検討すべき多くの素
材を提供している。
(君島和彦)
-80-
V.終わりに
以上の検討から明らかなとおり、歴史教育に限らず、グローバル化時代にふさわしい教育内容
や教授法の導入の必要性が指摘されているにも拘わらず、高等学校における歴史教育の現状は依
然として用語暗記中心の伝統的スタイルが続いている。その最大の理由は、大学入試において些
末な用語の暗記力を問うような出題が続いていることにあるといわれている。小中学校ではかな
り歴史的思考力をきたえる教育が行われているのに、高等学校ではなかなか実施しにくいのは大
学入試によるしわ寄せとされるのである。他方、高等学校側にも問題がある。それは、教員の多
くが大学の教員養成課程で伝統的な用語暗記中心の教育を受けているケースが多い上、高等学校
現場では事務処理や部活の指導などに追われ、新しい教育内容や教授法の研修を受ける余裕がな
いためである。
このように大学入試の出題と高等学校現場の双方の原因が連動して歴史は「暗記科目」という
イメージが生徒たちの間に定着し、
「歴史嫌い」を助長したり、大学受験が終われば忘却すること
になっている。そろそろこの悪循環から脱却する時ではないか。歴史は本来、過去の様々な人々
の意思決定の積み重ねであり、生徒たちがこれからの人生を生きる上で参考になる事例が豊富に
ある科目であるはずである。大学に入学した学生に高等学校時代に受けた歴史系授業の感想を聞
いた場合、
「大変面白かった」という回答した学生が理由に挙げるは一様に「高等学校の歴史担当
の先生の教え方が面白かったから」というものであった。
つまり、教え方を工夫することで生徒に歴史の面白さを伝えることはできるのである。しかし、
それが個々の教員の個人的努力に任されているのが現状ではないだろうか。それをもっとシステ
マティックに実施するには、世界史Bや日本史Bの用語を 2000 語程度に限定するガイドライン
を策定し、教科書執筆者にその尊重をお願いすること。また、大学入試ではこの 2000 語の範囲
内で出題するというコンセンサスを大学の歴史研究者の間で形成することである。勿論、2000 語
に限定する基準に関しては色々な意見がありうるだろう。この報告書にはこの研究会としての試
案を提示し、用語を限定するとむしろ分かりやすい教科書記述が可能になるし、本文と資料との
関連などを生徒に考えさせる設問設定など思考力育成の教授法が可能になると考え、特定の時代
に限定してモデルも提示した。このような用語限定の在り方についても各方面で議論していただ
き、よりよいガイドラインが作成されるように願っている
もし、このような用語限定のガイドラインが定着すれば、通史教育を古代から現代まできちん
とおこなうことが可能になるととともに、用語限定で発生する時間的余裕で歴史的思考力を育成
する授業を導入することも可能になるであろう。学校現場での教育を方向づけている学習指導要
領を理科と地歴科で比べてみると、理科の科目構成や科目の内容は絶えず変更されているのに、
地歴科の科目構成は 1989 年以来全く同じで、歴史系科目の内容の大幅な変更はほとんどなされ
ていない。それは理科の場合、全国的学会が科目ごとに一本化されており、その統一意見が中教
審などに反映されやすいのに比べて、歴史の場合、全国的な統一学会がないため、なかなか意見
の統一が図れないできたためと思われる。
日本学術会議の高校歴史教育関係の提言とそれに対応したこの高校歴史教育研究会の提案をぜ
-81-
ひともたたき台として、高等学校の歴史教育に関心をもつ方々の意見がまとまってゆくことを切
に願っている。この報告書は第一次案として提案するもので、今後のアンケート調査を通じて秋
ごろに最終案を作成する計画である。ぜひ高等学校の歴史教育に関心をもつ高等学校の教員、大
学の歴史研究者、教科書執筆者の皆さんにこの報告書をお読みいただくとともに、アンケート調
査に積極的にご協力いただき、よりよい改革案がまとまることを強く願っている。
-82-
歴史教育における高等学校・大学間接続の
抜本的改革を求めて(第1次案)
2014 年 7 月1 日
編集発行者
発行
高等学校歴史教育研究会
代表
油井 大三郎([email protected])
東京女子大学現代教養学部
〒167-8585 東京都杉並区善福寺2-6-1
印
刷
株式会社 文伸
Fly UP