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千代田区 - 東京都地質調査業協会

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千代田区 - 東京都地質調査業協会
技術ノート
(No.45)
特集:千代田区
一般社団法人
東京都地質調査業協会
〒 101-0047 東京都千代田区内神田 2-6-8
TEL (03)
3252-2963 FAX (03)3252-2971
ホームページアドレス http://www.tokyo-geo.or.jp/
目 次
技術ノートNo.45「千代田区」
発刊にあたって
1.千代田区の紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
1-1 千代田区の概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
1-2 千代田区の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
2.千代田区の地形と地質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
2-1 地形・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
2-2 地質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9
3.千代田区の防災・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
3-1 防災とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
3-2 千代田区の防災対策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
4.千代田区の主な土木・建築遺産、史跡など・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
5.千代田区散策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
技術ノートのあゆみ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 28
発刊にあたって
最初に「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」(M=9.0)発生から1年
7ヶ月経ち、被災された方々には改めてお見舞い申し上げるとともに1日も早
い復興を祈念いたします。
さて昭和62年12月創刊の「技術ノート」は今回で45号を重ねることになりま
した。今回のテーマは「千代田区」です。「千代田区」は東京23区のほぼ中央
に位置し、区の中央部には国のシンボル的象徴である皇居があります。徳川家
康が江戸に入府し、三代将軍家光の時代に江戸城(昔は千代田城)の総構えが
完成し、千代田区の原形となる町並みが形成されてきました。日本の三権分立
の中枢機関である国会議事堂、最高裁判所、中央官庁が集中しており政治・経済・
文化・国際・歴史・娯楽がみごとに融合した特別な区であり内外の要人や観光
客が多く訪れています。大正12年(1923)9月の関東大震災や昭和20年(1945)
3月の東京大空襲など歴史的に大きな災害や国難を経験しながらも国の支援に
より力強く復興してきた町であります。昭和22年(1947)に麹町区と神田区が
合併して千代田区が誕生しました。
「千代田区」の地形は武蔵野台地の東端に位置する台地部と皇居(江戸城)
より東側に広がる低地部から形成されております。地質は台地部の表層が関東
ローム(いわゆる赤土)に覆われており、低地部は軟弱な沖積層が堆積してい
ます。これら表層部の下位に東京層群の東京層(粘土・砂)・東京礫層が分布
しております。因みに日本初の超高層ビルである霞が関ビルは東京礫層を支持
地盤としており、国会議事堂や改築前の東京駅は東京層を支持地盤としており
ます。また東京層は多くの東京の建築物の支持層として利用されています。
「千代田区」は「自助」、「共助」(協助を新たに追加)、「公助」の理念の基に
防災対策に力を入れております。区内には「総合防災案内板」が数多く設置さ
れ、土木・建築遺産・史跡なども数多く残されており重要文化財に登録されて
いるものもあります。
「技術ノート」は読み物としても面白く配布されるのを楽しみにしておられ
るファンもいます。教育に携わる方には教材として、行政に携わる方には都市
計画や防災計画等の資料の一助となれば幸いに存じます。
発刊にあたり地道な取材活動と執筆作業に務められました技術委員会委員諸
君に感謝いたします。
最後にご協力いただきました関係各位に厚く御礼申し上げます。
平成 24 年11 月
一般社団法人東京都地質調査業協会
会 長 早 田 守 廣
1.千代田区の紹介
1-1 千代田区の概要
千代田区は、東京23区のほぼ中央に位置(緯度35.4138、経度139.4505)しています。
回 り を、 中 央 区、 港 区、 新 宿 区、 文 京 区、 台 東 区 に 囲 ま れ、 総 面 積 は 約11.64km 2 、 総
人口48,638人(2012.7.1現在)の区です。区の木は「まつ」、花は「さくら」、鳥は「は
くちょう」が指定されています。
図1 東京23区分図 1)
写真1 千代田区役所
千代田区は、前記したように総面積は約11.64km 2 程度しかなく、他の22区と比べて
も面積的には小さい区です。しかし、この区の中には、区の中央部に、国のシンボル的
な象徴である皇居があり、区全体の約15%を占めています。このほかにも国会議事堂・
総理大臣官邸・中央官庁(内閣府、内閣官房庁、外務省、財務省)・最高裁判所など、
日本の立法・行政・司法である三権分立の主な中枢機関が集中しています。また、首都
や政治の中枢機能だけでなく、丸の内・大手町・日比谷・一ツ橋・内幸町など、金融機
関の中枢であるメガバンクの本店や、大手商社・大手製造業・大手マスメディアなどの
巨大企業の本社が立ち並ぶビジネス街として、日本の経済を支える中枢機関が集中する
区としての側面も兼ね備えています。経団連会館もここにあります。その一方で、大使
館・領事館(在外交館)・国際機関の事務所など国際色豊かな建物や、国立国会図書館・
日本武道館・東京駅や江戸城の田安門・清水門・外桜田門に代表される歴史的建築物、
神田明神や靖国神社に代表される神社・仏閣等、昔からの江戸情緒を残す老舗がならぶ
神田、書店街の神保町、秋葉原の電気街など、昔からの親しみやすい江戸情緒や現代の
娯楽を兼ね備え、政治・経済・文化・国際・歴史・娯楽がみごとに融合した特別な区です。
-1-
写7
写11
写4、9
写1
写2、3
写5、6
写8、
10
図2 千代田区地図2)
写真2 皇居二重橋
写真3 江戸城天守
写真4 田安門
写真5 国会議事堂
-2-
写真6 最高裁判所
写真7 靖国神社
写真9 武道館
写真8 丸の内ビジネス街
写真10 東京駅
写真11 秋葉原電気街
-3-
千代田区は大部分が、オフィス街・官庁街・ビジネス街であることから、純粋な住宅
地は極めて限られており、夜間人口と昼間人口の差が極端に異なることも大きな特徴の
一つです。ちなみに、夜間人口は約4万人で、昼間人口はその約19倍となる約86万人
にまで膨れあがります。人口密度は他の22区がすべて10,000人/km 2 を超えるのに対し
て、千代田区は4,000人/km 2 程度と極端に小さい数値を示しています。 3)
また、千代田区は平成14年11月より、区の条例により全国で初めて公道上での喫煙
に対して過料を徴収する条例(千代田区生活環境条例)が施行されたことでも有名です。
霞ヶ関の官庁街、丸の内や大手町のビジネス街や秋葉原の電気街など、千代田区の殆
どの地域で、この条例が適用され路上での喫煙が禁止されています。ちなみに、違反者
には2万円(当分の間2,000円)の過料が課せられます。 3)
千代田区で起こった歴史的に有名な事件としては、桜田門外の変(図3)、二・二六
事件、五・ 一 五 事 件( 図 4)、三菱重工爆破事件、地下鉄サリン事件(写真12)、 秋 葉
原通り魔事件などがあります。このように、千代田区は政治や経済、文化や歴史、娯楽
がみごとに融合した素敵な区である反面、暗い歴史的過去を引きずった区でもあるので
す。
それでは、この千代田区の誕生の歴史について簡単にふれてみましょう。
図3 桜田門外の変3)
図4 五・一五事件3)
写真12 地下鉄サリン事件 4)
-4-
1-2 千代田区の歴史
東 京 が 日 本 の 都 と し て 整 備 さ れ 始 め た の は、 徳 川 家 康 が 江 戸 に 入 府 し た 天 正18年
(1590)まで遡ります。以来、江戸、明治、大正、昭和、平成と時代の変遷とともに東
京の町並みも大きく変化してきました。東京都のほぼ中心に位置する千代田区も例外で
はありませんでした。江戸時代では、江戸城(昔は千代田城と呼びました)を中心とし
て整備され、日比谷入江などを埋め立て(図5)、江戸城の外濠が掘られ、日比谷入江の
整備とともに、西丸下(皇居外苑)、日比谷・山下門の外濠、大名小路(丸の内)が成立し、
千代田区の骨格となる外郭や町が形成されていきました。三代将軍家光の時代の寛永
16年(1639)には江戸城の総構が完成し、千代田区の原形となる町並みが形成されま
した(図6)。当時の江戸は、町人地、寺社地、武家地等に土地利用が大別され、千代
田区の大部分は武家地が占め、一部で町人が住む町人地が存在していました(図7)。
図5 家康入城当時の江戸(1590年)5)
5)
図6 江戸城の総溝完成時(1636年)
図7 幕末の江戸の土地利用6)
-5-
明治初年(1868)になると、武家地の大部分が政府により収公され、払い下げによ
り政府の官史の屋敷や町人地の人々の居住地へとその姿を変えていきました。明治2年
(1869)の「五十区制」の施行、廃藩置県による東京府の設置、明治四年(1871)の「大
区小区制」の制定、そして明治11年(1878)に制定された「郡区町村編制法」を経て、
千代田区の前身である麹町区と神田区が誕生しました。その後、千代田区を含む東京府
は大正12年(1923)に起こった関東大震災により、東京の約45%にあたる約3,500haが
消失、東京は焼け野原(写真13)となり約58,000人の人が亡くなり、また、第二次世界
大戦中の東京大空襲(写真14)では、山手線内の約3倍にあたる約19,500haの面積が焼
失するという歴史的に大きな災害や苦難・苦悩を経験することになりました。しかし、
東京や千代田区に住む人たちは、数々の苦難や苦悩をのりこえ、震災後に設立された、
帝都復興局による帝都復興計画や区画整理事業、戦災後の戦災復興計画による戦災復興
区画整理事業により、震災や戦災後の都市計画が、国により検討・見直され、昭和22
年(1947)、ついに麹町区と神田区が合併し、現在の千代田区が誕生しました。
写真13 京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋及び神田方面の惨状3)
写真14 東京大空襲による東京の惨状3)
-6-
2.千代田区の地形と地質
千 代 田 区 は、23区 の ほ ぼ 中 央 に 位 置 し 中 央 区、 港 区、 新 宿 区、 文 京 区、 台 東 区 の 5
区と接しています。区内の最高地点は約32m、最低地点は約2mです。
東京西部青梅市付近の武蔵野台地は、標高200m程度をもち、東へ高度を低くし低地
と接する付近で10m ~ 20mの標高を示します。
図8 東京の地形区分図7)
-7-
2-1 地形
千代田区の地形は、皇居(江戸城)より東側に広がる低地部と西側へ連なる武蔵野台
地の東端に位置して淀橋台、本郷台と呼ばれている台地部とに大別されます。(図9参
照)
低地部においては、いたるところビルが林立し舗装され盛土・埋め立て・掘削が頻繁
に行われ、人工改変が著しく旧地形を直接見ることはできません。特に、干拓や埋め立
ては徳川家康の入国とともに大規模に行われ神田山切り崩しによる日比谷入江と呼ば
れた浅い海を埋め立てた現在の日比谷から大手町に至る一帯と、江戸前島と呼ばれた埋
没段丘面である現在の神田から飯田橋の一帯に分けることができます。日比谷一帯は、
標高2 ~ 5m前後の平坦な土地となっています。神田川や千鳥ヶ淵などは、台地部を開
析した谷の跡です。 低地部のうち、神田一帯は文字どおり下町と呼ばれています。
台地
平地
低湿地
海面
濠
図9 千代田区の旧地形と JR 線等の位置関係図 8)
-8-
一方、西側に広がる台地は、標高の違いにより淀橋台、本郷台(御茶ノ水付近)と呼
ばれる洪積台地に区分され、この中を流れる中小河川によって削られた谷が発達してい
るため変化に富んだ地形を形成しています。
現在の海岸線は1km以上東にありますが、貝塚の位置からかつての海岸線がこれら崖
付近にあったことがわかります。つまりこれらの崖は、海食崖であり、およそ0.6万年
前の海水の浸食作用によって作られた地形です。そのため、千代田区には人口改変によ
る坂が多く見られ、霞が関坂等名前がついている坂道だけでも57か所もあります。
2-2 地質
千代田区の地質は、地形区分により異なります。低地部の東側では、埋土層、有楽町
層等の沖積層が表層部に堆積し、その下部に東京層、東京礫層が堆積しています。
低地部の主体層である有楽町層は、上部が砂、下部が貝化石を多く含む軟弱なシル
ト・粘土から構成されています。下部層は約1万年前の海面が今より40m程度低かった
時代から約0.6万年前の縄文海進最盛期にかけての急速な海面上昇時期に堆積したもの
で、全体に砂を含む均一な砂質シルト、シルトを主体としています。上部層は海進最盛
期から内湾に移行した海退時の堆積物で、貝殻混りシルトや砂質シルトからなる粘性土
を主体として、上位と下位に不規則に砂層を挟む層相です。層厚は埋没谷中心部で最大
40m程となります。
一方、西側の台地では、表層は関東ローム層と呼ばれる火山灰質土により覆われて
います。ローム層は上部のローム土いわゆる赤土と下部の凝灰質粘土(おもに、約10
~ 12万年前の下末吉面に堆積)に大別されます。第四紀更新世につもった火山灰です。
これらは富士や箱根,あるいは八ツ岳,そして北関東へゆけば,浅間,榛名,赤城等の
火山に由来しています。そして、浅い深度から東京層群の東京層(粘土・砂)・東京礫
層が現れます。さらに、関東平野の基盤をなす海成堆積層である砂岩・泥岩あるいは凝
灰質砂礫などからなる上総層群が堆積しています。
日本初の超高層ビルである霞が関ビル(竣工 昭和43年(1968))は、GL-23mにあ
る東京礫層を支持地盤としています。また、国会議事堂、改築前の東京駅等も東京層(砂
層 ) の GL-11m ~ GL-13mを 支 持 地 盤 と し て い ま す。 こ の よ う に、 東 京 層 は 東 京 の 建
築物の支持層として利用されています。
東京区部地域の地層の重なりの順序を表す地質層序表を表1に示します。
-9-
表1 東京区部地域の地質層序表 9)
千代田区は、山の手台地と下町低地との地層区分の層序に分けられることがわかりま
す。
- 10 -
図10は、千代田区の東西方向の模式断面図を示しています。この断面図より台地部で
は、地表面をローム層(Lm)覆い、その下位に東京層(砂層;Tos、粘性土層;Toc、
礫 層;Tog) そ し て、 関 東 平 野 の 基 盤 を な す 海 成 堆 積 層 で あ る 上 総 層 群( 砂 泥 互 層;
Ka)の層序がわかります。一方、低地部では、これらの台地を海進・海退あるいは河
川による開析作用により削り取られ、そこに沖積堆積物等(有楽町層砂層;Yus、粘性
土層;Ylc)が複雑に堆積していることがわかります。尚、blは埋没ローム(ローム・凝
灰質粘土)、btg-2は埋没段丘礫層(武蔵野礫層)を表しています。
千代田区
国道20号線
東京メトロ南北線
東京メトロ有楽町線
東京メトロ半蔵門線
江戸城跡
標高(m)
+50.00m
+40.00m
+30.00m
+20.00m
+10.00m
±0.00m
b
-10.00m
Ylc
bl
btg-2
Tos
図10 千代田区の模式断面図(東西方向)10)
- 11 -
3.千代田区の防災
日本は、数々の多様な災害を乗り越え、経済発展を成し遂げてきましたが、平成23
年3月11日に発生した『東日本大震災』では、国土のほぼ全域で揺れを感じる程の巨
大地震の発生により、かつてない深刻な津波災害、および原子力災害に直面しました。
私たちの課題は、これらの災害から確かな復旧・復興を遂げ、さらに将来予想される
巨大地震に対して、総力を挙げて『防災』に取り組むことです。
3-1 防災とは
一般的に、災害を未然に防ぐための施策、行為を称して『防災』といいます。
災害対策に関する最も基本的な法律である“災害対策基本法”では、「災害を未然に
防止し、災害が発生した場合における被害の拡大を防ぎ、及び災害の復旧を図ること」
とされています。すなわち、災害予防、災害応急対策、災害復旧を内容とし、この場合
の災害は、
「暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、津波、噴火その他の異常な自然現象、
又は大規模な火事、若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度において、これらに類す
る政令で定める原因により生ずる被害」と定義しています。ここでいう「これらに類す
る政令で定める原因」については、「放射性物質の大量の放出、多数の者の遭難を伴う
船舶の沈没その他の大規模な事故」が定められ、防災には、自然災害以外の原因による
災害も含まれるということになります。
なお、発生が免れない自然災害において、近年ではその現象の被害を皆無にすること
は不可能であり、対策により被害を最小限に抑えるという「減災」の考え方が取り上げ
られてきています。
防災においては、「脆弱性を低減する」ために、生活環境自体を災害に強くするハー
ド面の対策と、災害の分析を行った上で、適切な対処方法を事前に考えて周知徹底する
ソフト面の対策の両面からアプローチが行われています。ハード面での対策は、水害や
土砂災害に対する治水構造物の設置、建築物や土木構造物における耐震化、防火化など
がそれに相当し、ソフト面では、水害や土砂災害における危険箇所への法的規制(建築
制限、危険箇所指定など)、建築物や土木構造物における法的規制(耐震基準設定、防
火基準設定、避難設備基準設定など)、災害を想定した体制の整備、防災訓練、ハザー
ドマップ作成などがそれにあたります。
そして、今日特に求められているものは、地震、洪水などによる大規模な災害発生時
に、国、地方公共団体等の防災機関との連携の強化、自主防災組織をはじめとする民間
の防災組織や企業、団体、個人など、すべての国民がそれぞれ役割を担い連携協力する
防災力の向上、また情報通信技術を取り入れ、画像情報、地図情報なども活用した的確
な災害情報の収集、伝達の実施などであります。
- 12 -
3-2 千代田区の防災対策
千代田区は、首都東京の中心に位置し、政治・経済機能が集積している地域にありま
す。そのため、住宅地は極めて少なく、夜間人口が約4万人であるのに対して、昼間人
口はその19倍の約86万人にもなります。このように千代田区は、周辺区や他県から通勤・
通学者や買い物客などが多く訪れる特徴を有しています。
こうした千代田区の地域特性を考えたとき、地震や風水害の自然災害だけでなく、近
年発生している大規模な事故やテロなどの人為的災害にも対応した総合的な防災を区
民、事業者、行政が一体となって進めていくことが求められます。
防災の基本理念として、従来、自分の生
命財産は自分で守る「自助」、自分たちの
共助
協助
自助
まちは自分たちで守る「共助」、自助、共
助を支える行政の支援としての「公助」の
3つがあります。
このうち、共助とは、町内会や地縁等の
伝統的な地域コミュニティによる助け合
い を さ し ま す。 し か し、 千 代 田 区 の よ う
公助
図11 千代田区の防災基本理念
に 住 居 と 企 業・ 事 業 所 が 混 在 し、 昼 間 人
口が夜間人口の約19倍に達する都市では、従来の「共助」では十分な災害対策は期待
できません。そこで千代田区独自の理念として、事業者や帰宅困難者等を含めた全ての
人々が相互に助け合い、支え合う、「協助」を新たに加えました。
千代田区は、この3つの助け合いを防災の基
本理念として、さらなる減災のため防災力の向
上に努めていこうとしています。
また、PFI方式による避難誘導案内板整備事
業が多くの自治体で採用されていますが、千代
田区もこれを積極的に取り入れています。被災
時の避難所等を記した防災機能と、区内のまち
や名所を分かりやすく案内した観光機能を併
せ持つ「総合防災案内板」(写真15)を各所に
設置して、昼間、区を訪れる多くの人々にも、
災害への迅速・機動的な対応が可能なよう、そ
の存在を広く知ってもらい、万一に備えていま
す。現在、その数は約150にも及んでいます。
- 13 -
写真15 総合防災案内板
過去に神田川は、台風や集中豪雨により、毎年のように浸水被害などの水害を発生
させていました。その後、護岸整備、分水路整備、調節池整備とハード面での対応に
より治水安全率は大幅に向上しました。現在、懸念されるのは、近年増加傾向にある
記録的な集中豪雨です。下図は、平成12年の東海豪雨(総雨量589mm、時間最大雨量
114mm)を想定して作られた「洪水ハザードマップ」です。
図12 千代田区洪水ハザードマップ 11)
自然災害として、最も顕著な被害が想定されるのは巨大地震です。東京都は「東京湾
北部地震」と「多摩直下地震」の2つの地震を想定しています。地震発生により、区東
部に分布する沖積低地での液状化の発生が予想され(図13)、被害は、斜面崩壊、建築
物 の 倒 壊・ 火 災、 ラ イ フ ラ イ ン( 上
下 水 道、 電 力、 ガ ス、 通 信 ) 不 通 な
ど が 想 定 さ れ て い ま す が、 千 代 田 区
は 東 京 都 の 調 査 に よ り、 区 内 の 建 築
物 は、 耐 震 不 燃 化 が 進 ん で お り、 地
震が起こっても延焼火災の危険が少
ない安全な地域であると認められて
い ま す。 そ れ に よ り、 区 内 全 域 を 広
域 的 な 避 難 を 必 要 と し な い「 地 区
図13 液状化の発生可能性が高い地域12)
- 14 -
内 残 留 地 区」 に 指 定 さ れ て お り、 地 震 発 生 の 際 は、 す ぐ に 避 難 を 開 始 す る の で は
な く 、自 宅 や ビ ル 等 に 留 ま り 、
状況を把握することを優先と
し、 万一、 危険を感じた場合
は、 小中学校や公共施設など
の「避難所」へ避難すること
を推奨しています。また、
「あ
なたのまちの地域危険度」調
査において、 火災危険度、 建
物倒壊危険度は共に低く、 総
合 的 に も 23 区 内 で 最 も 低 い ラ
図14 あなたのまちの地域危険度13)
ン ク で す ( 図 14)。
その千代田区で、 最も問題視されているのが 『帰宅困難者』 への対応です。
巨大地震などで交通機関等が停止した場合、 自宅に帰ることが出来ない帰宅困難者
が、約57万人(業務22.9万人、通学0.1万人、私事等34万人)発生すると予測されています。
この数は、東京都の自治体の中で最も多い値です。
図15 帰宅困難者支援場所案内図11)
- 15 -
帰宅困難者対策として、昼間に千代田区を訪れる人々を対象に配布している「災害対
応マニュアル」(図16)には、帰宅困難者にならないための配慮と心得10カ条が巻頭に
記載されており、その積極的な取り組み姿勢と重要性が伺えます。
平成15年から実施されている「帰宅困難者避難訓練」をはじめ、東日本大震災の経
験から、平成23年には、一斉防災訓練を皮切りに帰宅困難者避難訓練も実施されてい
ます。また、広域避難場所の指定解除に伴い、帰宅困難者の一時的な避難と円滑な帰宅
が可能となるよう、帰宅に必要な情報提供などの支援を行う場所として、皇居外苑をは
じめ、日比谷公園などを「帰宅困難者支援場所」
として指定しています(前頁、図15)。
最後に、『防災』に参考となるホームページと
文献を紹介します。
<ホームページ>
1.千代田区防災ホームページ
http://www.city.chiyoda.lg.jp/disaster/
2.東京都防災ホームページ
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/index.html
3.東京消防庁
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/index.html
4.警視庁
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/index.htm
5.内閣官房 国民保護ポータルサイト
http://www.kokuminhogo.go.jp/pc-index.html
<参考文献>
1.千代田区災害対策基本条例 概要版
(千代田区)
2.あなたのまちの地域危険度(第6回)
(東京都都市整備局)
図16 災害対応マニュアル11)
- 16 -
4.千代田区の主な土木・建築遺産、史跡など
千代田区には、貴重な土木・建築遺産、史跡がたくさんあります。ここではその中か
ら時代を感じさせる代表的なものについて以下に紹介します。
土木遺産:神田下水、聖橋、昌平橋、万世橋、新永間市街線高架橋
建築遺産:ニ コライ堂、中央合同庁舎第6号館赤れんが棟(旧法務省)、明治生命館、
国会議事堂
史 跡:江戸の名水「櫻の井」
(1)神田下水(写真16、写真17)
所 在 地:神田鍛冶町1丁目3 〜神田多町2丁目8
アクセス:神田駅西口駅徒歩1分
明治15年(1882)に東京の神田、芝などで発生したコレラは、東京府下で死者5,000
名を超すほどの猛威をふるいました。この惨状を前に、衛生確保の観点から上下水道な
どの衛生施設の改善の必要性を痛感した明治政府は、明治16年(1883)東京府に「水
道溝渠等改良ノ儀」を示しました。これを受けて内務省技師石黒五十二が明治政府のお
雇い工師であるオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導を受け、明治17年(1884)
東京で最初の西欧技術を取り入れて敷設された近代下水道が神田下水です。下水管は、
卵形の断面をした煉瓦造で総延長は614mです。神田下水の一部は今でも現役の下水道
管として機能し続けています。卵形管は、管内に流れる下水の量が少ないときも、下水
の水深が深く流れの速さを確保でき、ごみが蓄積しないことが特徴で、下水道管として
合理的な断面をした形となっています。平成6年に東京都の史跡に指定されました。
写真16 下水道の内部14)
写真17 神田駅東口駅前にある「神田下水」の碑
- 17 -
(2)聖橋(写真18)
所 在 地:神田駿河台4丁目
アクセス:JRお茶の水駅徒歩1分
JR御茶ノ水駅西口改札を出ると、ア
ーチ型の聖橋が見えます。聖橋は、昭和
2 年(1927) に 震 災 復 興 橋 の 一 つ と し
て架設されました。復興院橋梁課嘱託の
山田守設計による鋼とコンクリートによ
る大胆なアーチの造形が特徴で、震災後
の東京の新名所になりました。橋の名は、
写真18 聖橋の全景
一般公募で決められ、両岸に位置する2
つの聖堂ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶことから、「聖橋」と命名されました。
(3)昌平橋(写真19、写真20)
所 在 地:神田淡路町2丁目
アクセス:JRお茶の水駅徒歩5分
万世橋から上流の神田川右岸には旧・万世橋駅のレトロ風な赤煉瓦の高架駅舎が続い
ています。それが尽きたところにあるのが昌平橋です。秋葉原電気街の南東の端に位置
しています。この橋のあるあたりは、室町時代には「芋洗い橋」と呼ばれる橋がかかっ
ていたといわれています。現在の「昌平橋」の名は、橋の上流左岸に寛政9年(1797)
にできた幕府直営の漢学校=昌平橋学問所に由来しています。
写真19 昌平橋の全景
写真20 旧・万世橋駅の高架駅舎跡
- 18 -
(4)万世橋(写真21)
所 在 地 :神田須田町1丁目
アクセス:JR秋葉原駅徒歩2分
秋葉原電気街の南端に位置し、秋葉原
駅から神田駅へ向かう時に渡るのが万世
橋 で す。 大 正12年(1923) の 関 東 大 震
災後、帝都復興事業に指定され、東京地
下鉄道の渡河工事に伴う水路変更の必要
もあって、昭和5年(1930)に長砂26m、
幅36m、石及びコンクリート混成の現在
写真21 万世橋の全景
のアーチ橋が架けられました。北側には
南側より広い橋詰め広場があります。
(5)新永間市街線高架橋(写真22)
所 在 地:千代田区~港区
アクセス:JR有楽町駅徒歩1分
新橋停車場と上野停車場を高架鉄道で
結ぼうという計画のもと、芝区新銭座町
(港区浜松町付近)から麹町区永楽町(千
代田区丸の内)の区間で高架橋が造られ
写真22 新永間市街線高架橋
ました。世界各国の高架橋を比較検討し、
ベルリンの高架鉄道で用いられている煉瓦アーチ式高架橋が採用され、明治43年(1910)
に竣工し、新銭座と永楽町を結ぶ路線であることから新永間市街線高架橋と命名されま
した。建設後100年を経て、今も現役の高架橋として活用されています。景観的にも優れ、
土木学会の選奨土木遺産に登録されています。煉瓦アーチ式高架橋が確認できるのは山
手線の西側部分のみですが、今ではそのアーチの下に飲食店などが入っています。
(6)ニコライ堂(写真23)
所 在 地:駿河台4丁目1
アクセス:JRお茶の水駅徒歩2分
JR御茶ノ水駅東口改札を出て本郷通
りを南に行くと、立派なニコライ堂が見
えます。正式名は「日本ハリストス正教
会復活大聖堂」で、創始者の名を冠して
ニコライ堂と呼ばれています。名前のハ
リストスは、ロシア語でキリストを意味
- 19 -
写真23 ニコライ堂
し、ロシア正教の日本における総本山です。
建物は、ロシアでの基金をもとに、17年(1884)から7年後に地上1階の煉瓦造・石
造として完成しました。聖堂は、ギリシャ十字型の平面形をもち、高さが35mほどあ
る鉄骨のペンデンティブ・ドームをなしています。関東大震災でドームと鐘塔が倒壊し
ましたが、その後改修を行い、現在に至っています。日本では数少ないビザンチン様式
をもつ建物で、昭和37年(1962)に重要文化財に登録されました。
(7)中央合同庁舎第6号館 赤れんが棟(旧法務省)(写真24)
所 在 地:霞が関1丁目1-1
アクセス:有楽町線桜田門駅徒歩3分
桜田門の前に建つこの建物は、中央官庁集中計画の一環として実現した、旧司法省庁
舎で、現在は中央合同庁舎第6号館赤れんが棟として使われています。
明治28年(1895)にヘルマン・エンデ、ウイルヘルム・ペックマンが作成した設計
図をもとに河合浩蔵らが建設しました。
その後、戦災で一部焼失しましたが、平
成3年(1991) に 当 時 の 姿 に 復元されま
した。この建物は、ネオ・バロック様式
で、ドイツの建築らしい格調の高さを備
え、建物平面はドイツの地方裁判所など
に用いられていたE字型をしています。
また、構造は、煉瓦造で地上2階、地下
1階です。平成6年に重要文化財に登録
されました。
(9)明治生命館(写真25)
写真24 中央合同庁舎第6号館
赤れんが棟(旧法務省)
所 在 地:丸の内2丁目1-1
アクセス:千代田線二重橋駅徒歩1分
千代田線二重橋駅を降りて地上に出
ると、明治生命館が皇居のお堀に面して
堂 々 と 建 っ て い ま す。 建 物 は、 昭 和9年
(1934)に建てられ、日本における様式
建築の最高峰とも言われています。外観
は、1 階 の 石 積 み 壁 の 部 分 を 基壇とし、
2階以上をコンクリート式大オーダー
の列柱、最上階2層を壁で仕上げるとい
う、古典主義建築の定石である三層構成
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写真25 明治生命館
を踏襲した比例構造をもっています。また、建物内外の細部装飾まで丁寧に造られてお
り、建物の魅力を一層高めています。建物は、鉄骨鉄筋コンクリート造で地上8階、地
下1階で重要文化財に登録され、東京の建築遺産50選にも選ばれています。
(10)国会議事堂
所 在 地:永田町1丁目7-1
アクセス:丸の内線国会議事堂前駅徒歩1分
国会議事堂は、国会が開催される建物で、昭和11年(1936)に帝国議会議事堂とし
て建設されました(写真5)。建物は、地上3階・地下1階で、正面中央に高さ65.45m
の塔屋がそびえ、正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院の議場が配置され、左右
対称に構成されています。建設にあたっては、八幡製鉄所の鉄骨材をはじめ、山口県黒
髪島や広島県倉橋島の花崗岩、宮古島の大理石が用いられ、西洋の様式建築を基本に建
てられています。
(11)江戸の名水「櫻の井」(写真26)
所 在 地:永田町1丁目1
アクセス:有楽町線桜田門駅徒歩3分
「櫻の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷
の表門外西側にありました。元々は加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えら
れています。縦約1.8メートル、横約3メートルの石垣で組んだ3連式釣瓶井戸で、3
本の釣瓶を下ろして一度に桶3杯の水が汲めました。幕末当時、江戸城を訪れる通行人
がこの豊富な水を汲んでいる風景が歌川(安藤)広重の「東都名所」の「外櫻田弁慶
櫻の井」(天保14年(1843))にも描かれています(図17)。大正7年(1918)史跡に定
められ、東京都は昭和30年(1955)に旧跡に指定しました。その後、昭和43年(1968)
道路工事のため、交差点内から原形のまま10メートル離れた現在地に移設復元されま
した。
写真26 江戸の名水「櫻の井」
図17 「外櫻田弁慶櫻の井」の浮世絵16)
- 21 -
5.千代田区散策
千代田区は、政治・行政・経済・歴史・文化等、大変魅力のある街です。また、坂が
多い事も有名で区内には57か所もの坂があります。
魅力ある千代田区の散策ルートは、概ね下記に示した4つの地区に大別する事が出来ます。
①国のシンボル的象徴である皇居エリア
②政治、行政の中心地である永田町、霞が関エリア
③旧 跡などが数多く点在する歴史、文化のある麹町や番町・自然豊かな、千鳥ヶ淵、北
の丸周辺エリア
④古 くから伝統あるたたずまいを残す町並みと日本を代表する古書店や電気街が並ぶ
神田駿河台エリア
紹介する散策エリアは、皇居の南側に位置し、日本の政治・行政の中心地であり、神
社や11か所の坂があり歴史・文化も共存する②の永田町、霞が関エリアです。
次頁に散策ルートを示します。
地下鉄霞ヶ関駅の5番出口すぐの霞が関坂をスタートし、国会議事堂の南側を通り、日枝
神社を参拝してメキシコ大使館前を通り、さらには国会図書館(日本で唯一の法定納本図書
館)脇を通って、桜田濠を眺め、憲政記念館(レストラン有り)で見学・休憩をして、日本
水準原点を観たのち、地下鉄桜田門駅をゴールとする、およそ4.7km、2時間のコースです。
日 枝 神 社( ひ え じ ん じ ゃ) は、 江 戸 三 大 祭 り
の 一 つ、 山 王 祭 が 行 わ れ る 神 社 で す。 創 建 の
年代は不詳です。文明10年(1478)、太田道灌
が 江 戸 城 築 城 に あ た り、 川 越 の 無 量 寿 寺( 現
在 の 喜 多 院・ 中 院 ) の 鎮 守 で あ る 川 越 日 枝 神
社 を 勧 請 し た の に 始 ま る と い わ れ て い ま す。
徳 川 家 康 が 江 戸 に 移 封 さ れ た と き、 城 内 の 紅
葉山に遷座し、江戸城の鎮守としました。 3)
写真27 日枝神社
濠( ほ り ) は、 敵 の 侵 入 を 防 ぐ た め、 城 や 古
墳 等 の 周 囲 に 掘 ら れ た 溝 の こ と で す。 桜 田 濠
は、 現 皇 居 南 側 に 位 置 す る 桜 田 門 か ら 皇 居 西
側の半蔵門までの区間を言います。桜田濠は、
土 手・ 石 垣・ 松 そ し て 高 層 ビ ル が 組 み 合 わ さ
っ て 非 常 に 景 色 が 美 し く、 ま た 9 月 に は、 彼
岸 花 が と て も き れ い に 咲 き、 景 色 を 一 段 と 楽
しませてくれます。 3)
写真28 桜田濠
- 22 -
- 23 -
赤坂見附駅
日枝神社
⑧新坂
メキシコ大使館
⑨三ベ坂
首相官邸
溜池山王駅
⑦山王女坂
⑥山王男坂
永田町駅
50
100
⑩梨木坂
桜田濠
250m
④茱萸坂
日本水準原点
レストラン霞ガーデン
憲政記念館
図18 千代田区の散策ルート
0
⑤山王坂
国会議事堂
国会図書館
⑪三宅坂
ゴール
③三年坂
②潮見坂
①霞が関坂
桜田門駅
スタート
霞ヶ関駅
散策ルート
名所・駅等
坂の起点∼終点
坂の名称
スタート・ゴール
凡 例
霞が関二丁目の人事院と外務省の間を西から
東 へ 下 る 坂 で す。 中 世 の 頃、 こ の 辺 り に 関 所
が 置 か れ て い た こ と か ら 名 が 起 こ り、 江 戸 時
代 に は 広 壮 な 大 名 屋 敷 が 建 ち 並 ん で、 錦 絵 に
もよく描かれています。霞が関ゆかりの名も、
現在では中央官庁街の代名詞に使われていま
す。 1)17)
写真29 ①霞が関坂
霞が関二丁目の外務省と同三丁目の財務省の
間 を、 日 比 谷 公 園 の 南 脇 ま で 下 る 坂 で す。 霞
が関坂と三年坂との間にあって緩やかな長い
傾 斜 を も っ た 坂 で す が、 中 世 の 頃 ま で は 日 比
谷公園辺りが渚であったといわれていますか
ら、 こ の 坂 も 当 時 は も っ と 急 坂 で、 眼 下 に 海
を 臨 む こ と が で き た の で、 こ の 名 が つ け ら れ
たのでしょう。 1)17)
写真30 ②潮見坂
霞が関三丁目の財務省と文部科学省との間の坂
です。『新撰東京名所図会』には、「三年坂は潮
見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂
なり。坂を上れば栄螺尻とす。昔此坂にて転ぶ
ときは、三年のうちに死すという俗説より此の名
起れり。又、淡路坂ともいい一に此処を陶山が
関といふ。……裏霞が関と三年町の間、道路の
盤曲する所を栄螺尻と呼ぶ。」とあります。1)17)
写真31 ③三年坂
永 田 町 一 丁 目、 国 会 議 事 堂 の 南 側 を 東 に 下 る
坂です。その先は潮見坂に続きます。『新編江
戸 志 』 で は「 丹 羽 家 表 門 見 通 し、 内 藤 紀 伊 守
殿 本 多 伊 勢 守 殿 中 屋 敷 の 間、 九 鬼 長 門 守 殿 屋
敷 の 前 に 出 る 小 坂 な り。 両 側 に ぐ み の 木 あ り
し故の名なり。」とあります。 1)17)
写真32 ④茱萸坂(ぐみざか)
- 24 -
永田町二丁目衆議院第一議員会館と第二議員
会館の間を日枝神社(山王社)前に下る坂です。
こ の 坂 の 辺 り は、 明 治 維 新 ま で は ほ と ん ど 山
王 社 の 社 地 で し た か ら、 こ の 名 で 呼 ば れ た の
で し ょ う。 ま た、 坂 の 近 く に 明 治 時 代 の 豪 商
鹿島清兵衛の屋敷があったので鹿島坂とも呼
ばれました。 1)17)
写真33 ⑤山王坂
永 田 町 二 丁 目 の 日 枝 神 社 の 表 参 道 で、 正 面 の
鳥 居 か ら 五 十 三 段 の 石 段 を 上 る 坂 で す。 日 枝
神 社 は 元 は 日 吉 山 王 大 権 現 と い い、 太 田 道 灌
が 川 越 か ら 江 戸 城 内 に 勧 請 し、 江 戸 鎮 守 の 神
と し て 祀 り、 徳 川 家 康 が 入 府 し て か ら は 将 軍
家 の 産 土 神 と し て 崇 敬 さ れ て 来 ま し た。 し か
し、慶長年中(1604-1614)の江戸城改築にと
もない半蔵門外に移り、明暦3年の大火で焼失
し、万治2年に現在地に再建されました。太平
写真34 ⑥山王男坂
洋 戦 争 で 再 び 戦 火 を 被 り、10年 に わ た る 歳 月
を経て昭和33年に復興しました。 1)17)
日枝神社正面の山王男坂の左手を迂回するよ
う に 上 る 坂 で、 男 坂 よ り 勾 配 が 緩 く な っ て い
ま す。 将 軍 の 参 詣 の 時 だ け 用 い ら れ た の で、
別名御成坂とも呼ばれました。 1)17)
写真35 ⑦山王女坂
永田町二丁目の都立日比谷高校とメキシコ大
使 館 の 間 を「 外 堀 通 り 」 へ 下 る 坂 で す。 か な
り の 急 勾 配 で、 登 校 を 急 ぐ 生 徒 た ち が あ え ぎ
な が ら 登 っ て い く 風 景 か ら、 い つ し か 遅 刻 坂
の愛称がつけられました。 1)17)
写真36 ⑧新坂
- 25 -
永 田 町 二 丁 目、 参 議 院 議 長 公 邸 と 旧 永 田 町 小
学 校 の 間 を、 日 比 谷 高 校 グ ラ ウ ン ド を 右 に 見
て日枝神社の方に下る坂です。『新撰東京名所
図会』には、「華族女学校前より南の方に下る
坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・
安 部 摂 津 守・ 渡 辺 丹 後 守 の 三 邸 あ り し よ り 名
づくといふ。」とあります。 1)17)
写真37 ⑨三ベ坂
永 田 町 一 丁 目、 社 会 文 化 会 館 の 西 横 を 国 立 国
会図書館を右手に見ながら上る坂です。『江戸
紀 聞 』 に「 梨 の 木 坂、 井 伊 家 の 屋 舗 の 裏 門 を
い ふ。 近 き 世 ま で も 梨 の 木 あ り し に、 今 は 枯
れて其の名のみ残れり。」とあります。 1)17)
写真38 ⑩梨木坂
内堀通りを半蔵門外から警視庁の辺りまで下
る 坂 で す。 坂 に 沿 っ て い る 桜 田 濠 は、 景 勝 の
地 と し て 知 ら れ て い ま す。 隼 町 4 番 の 最 高 裁
判所のところに三河田原藩主三宅家の上屋敷
があったことから三宅坂と呼ばれました。 1)17)
写真39 ⑪三宅坂
明 治 の 6 年 間 の 観 測 を も と に、 日 本 が、 太 陽
や 月 や 天 候、 地 盤 沈 下 の 影 響 を 考 え な い で 済
むように、海面を平均して、地上に固定した点。
標高は、東京湾平均海面(Tokyo Peil:T.P.)
で24.3900m。 3)
写真40 日本原点標庫
- 26 -
<参考文献>
1)千代田区ホームページ
2)Google
3)Wikipedia
4)警視庁・メトロ広報ホームページ
5)
「歴史人(江戸の暮らし大全)」:ジェイ・マップ「スーパービジュアル版江戸・東京の地理と
地名」(鈴木理生・日本実業出版社)の図版を参照の上,作成
6)「歴史人(江戸の暮らし大全)」
7)東京都(区部)大深度地下の地盤 より抜粋
8)千代田区ホームページ 2007 千代田区の土地利用より
9)東京都総合地盤図Ⅰ 東京都の地盤:東京都土木技術研究所
10)イ ンターネット 国土交通省 国土政策局 国土情報課
http://nrb-www.mlit.go.jp/kokjo/inspect/landclassification/land/detail/verticality/F4/shuto/pdf/
WE24.pdより抜粋
11)千代田区防災ホームページ
12)東京都防災ホームページ
13)あなたのまちの地域危険度
14)http://www.gesui.metro.tokyo.jp/kanko/newst/195/n195_4.htm
15)http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8bsuigenten.html
16)http://www.gekkanbijutsu.co.jp/shop/goods/03031018.htm
17)千代田区観光協会ホームページ http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/136/Default.aspx
- 27 -
技術ノートのあゆみ
技術ノートは 当協会技術委員会が技術情報誌として昭和62年12月に創刊号を発行して以
来、平成24年11月までで第45号に達しています。
創刊号から第44号までの内容は、既刊リスト表に示すとおりです。トピックスの内容は、
東京を舞台とする様々な話題の中に地形、地質との関連または基礎工学的な話を織り込みな
がらその歴史や現在を伝える内容となっています。各号とも写真や図にカラーをふんだんに
使い、明るい紙面となっています。
技術ノートは、一般の方々に地質調査業を理解していただこうと始めた行事であります。
今後も、たくさんの人たちに読んでもらえるよう、内容を充実させて地域社会に貢献してい
きたいと思います。
創刊号から最新号まで(社)東京都地質調査業協会のホームページ
(http://www.tokyo-geo.or.jp/)からPDFファイルで読むことができます。
■技術ノート既刊リスト表(バックナンバー)
No. 発行年月
技術トピックス
No. 発行年月
技術トピックス
1
S. 62.12
東京都の地形区分図・地質断面図
25 H. 10. 3
東京の川 神田川
2
S. 63. 3
超高層ビルの地質の基礎形式
26 H. 10.10
東京の台地
3
S. 63. 7
江戸城なりたち、その地形・地質との関係
27 H. 10.12
東京の道
4
S. 63.10
東京湾の埋立、その歴史
28 H. 11. 3
東京の水辺
5
H. 1. 3
東京の川と水
29 H. 11.10
東京のまちなみ
6
H. 1. 8
建築基礎工法の変遷、その地質との関係
30 H. 12. 3
首都圏を支える鉄道網
7
H. 1.12
隅田川の橋、その地質と基礎形式
31 H. 12. 9
東京の公園
8
H. 2. 5
東京の地下鉄
32 H. 13. 3
東京のお酒
9
H. 2.11
東京の石
33 H. 13. 9
三宅島 ー 2000 年噴火と火山災害ー
10 H. 3. 3
新東京都庁舎
34 H. 14. 3
大江戸線
11 H. 3. 7
東京の遺跡
35 H. 14.10
東京の野菜
12 H. 3.12
東京の高速道路
36 H. 16. 2
東京の斜面と災害
13 H. 4. 3
東京の温泉
37 H. 16.11
東京湾
14 H. 4. 9
都内の庭園
38 H. 17.11
多摩川
15 H. 5. 3
山手線
16 H. 5.10
東京のベイエリア
40 H. 19.11
隅田川
17 H. 6. 3
東京の下水道
41 H. 20.10
社団法人化 10 周年記念誌 東京を知る
18 H. 6. 9
東京のエネルギー
42 H. 21.11
東京の下町
19 H. 7. 3
東京の山
43 H. 22.11
東京の地下
20 H. 7. 9
東京の上水道
44 H. 23.11
中央線
21 H. 8. 3
東京の低地
45 H. 24.11
千代田区
22 H. 8.10
東京の運河
23 H. 9. 3
東京のトンネル
24 H. 9. 9
東京の防災
39
- 28 -
H. 18.11
東京の地名と地形
編 集 後 記
お届けしました技術ノート『千代田区』は如何でしたでしょうか。
千代田区は、その真ん中に日本の象徴とも言える皇居を有し、国の重要機
関をはじめ、多くの巨大企業が集積している、まさに東京の、いえ、日本の
“へそ”とも言えるところなのです。
これまでの技術ノートは、ミクロ的なテーマの中に東京の地形・地質に係
ること、工学的な話題、東京を舞台としたトピックスなどを織り込みながら
お伝えしてきましたが、今回より装いを新たに、マクロ的な見地からスポッ
トを当てみました。テーマは『 区 』です。
これからも東京の素晴らしさをその時代背景や歴史を踏まえ様々な角度か
ら皆様にご紹介し、少しでも多くの方々に東京の魅力や地盤のもつ面白さ、
奥深さを知って頂きたいと思います。
それでは、次回の技術ノートも是非楽しみにしていてください。
技術委員会(諏訪、川田(英)、川田(明)、河野、長谷川)
平成24年11月発行
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