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AGORA Special vol. 2 9 2 空を飛ぶ夢 Brazil 浮田泰幸=文 Text by Yasuyuki Ukita 吉田タイスケ=撮影 Photo by Taisuke Yoshida ブラジルの知られざるヒーロー サントス−デュモンの物語 Santos Dumont Br azil Petrópolis Rio de Janeiro Sāo Paulo サントス−デュモンの生家へと至 る道の傍に展示された14 -bisのレ プリカ。尾翼のように見える左側 が機首だ。その滑稽な形から「カ ナール (鴨) 」 とあだ名された。 AGORA March 2016 14 を知っていると答えるだろう。リ 全員がその名を、そして彼の業績 な存在である。小学生に訊いても サントス デュモンは今なお特別 がある。一方、母国ブラジルでは、 中に置き去りにされてしまった感 デュモンの名は歴史の暗がりの た) 。こ と ほ ど さ よ う に サントス 便利なようにと考案したものだっ モンのために、飛行船操縦の時に カルティエが畏友サントス デュ れない(その腕時計は、元々ルイ・ ウォッチのことを思い出すかもし ろう? もしかしたら、数人の時 計好きがカルティエのサントス・ いったい何人がイエスと答えるだ を 知 っ て い ま す か?」と 訊 い て、 デュモン その頃から一〇〇余年を経た今 日、例 え ば 東 京・銀 座 の 街 角 で 一 サントス デュモンである。 リに住むブラジル人、 アルベルト・ よれば、最初に空を制したのはパ 的事実」だった。当時の「常識」に 人々が信じていたのは別の「歴史 紀初頭のある時期、世界の大方の い常識だろう。けれども、二〇世 れは誰も異論を差し挟むことのな メリカのライト兄弟である──こ 行機で空を飛んだのはア の夢を叶えた男として大いにもて 為に、サントス のはわずか五人の一般人だった) 。 た一方、ライト兄弟のそれを見た む何千人という証人の前で成され ンの飛行が科学者や新聞記者を含 功を知らない(サントス デュモ ライヤー号による〇三年の飛行成 界はまだライト兄弟のライト・フ ートルの飛行だった。︎ この時、世 bis』でやってのけた約六〇メ な 奇 妙 な 形 の 動 力 付 飛 行 機『 ブーローニュの森で箱型凧のよう しめたのは〇六年一〇月二二日、 のだ。彼の名をさらに世界に知ら 物を操縦可能にした最初の人物な 方向を変えていた。サントス デ イドロープで地上から引っ張って だけで操縦することができず、ガ それまでの気球は闇雲に宙に浮く 船)『六号機』でエッフェル塔の周 る。自作の葉巻型可導気球( 飛行 月一九日にパリのど真ん中で始ま 航空のパイオニア、サントス デュモンの偉業は一九〇一年一〇 と並ぶ国民的英雄なのだ。 の ペレ、F 1 の アイルトン・セナ てサントス デュモンはサッカー れていた。ブラジルの人々にとっ ントス デュモンの肖像が印刷さ された一万クルゼイロ紙幣にはサ オデジャネイロの国内線用空港の はやされ、時代の寵児となる。 囲をぐるりと回って見せたのだ。 − – 14 〇〇〇人に「サントス − − − ュモンは風まかせだった空の乗り − デュモンは人類 − − 16 AGORA March 2016 類史上初めて動力付き飛 る。一九四二年から二五年間発行 名はサントス デュモン空港であ − − − − 1873年、ブラジルの裕福なコーヒー農 園主の末っ子として生まれ、19歳で渡 仏。航空黎明期のパイオニアとして多 くの成果を残す。30代後半に多発性硬 化症を発病。1932年、母国ブラジルの 海辺のホテルで逝去。享年59歳。 リオデジャネイロの国内線用空港構内 では今日もサントス−デュモンの肖像 画と胸像が旅行者の往来を見守る。 人 − AGOR A Spe ci a l 右 /サントス−デュモンの 伝記。中/サントス−デュ モンが晩年を過ごしたペ トロポリスの図書館には 多くの関連資料が収めら れている。写真はサントス −デュモンの肖像が刷ら れた紙幣。左/生家の近 くにあるサントス−デュモ ンの飛行機の名前のつい たホテルのキー。 ペトロポリスの町で14-bisの 模型と子どもたち。国民的英 雄である航空家のことはもち ろん学校でも習ったという。 Collection of the Museu Paulista, USP Photo credits of reproductions: Helium Noble / José Rosael. アルベルト・サントス−デュモン Alberto Santos-Dumont 右/生家のすぐ前にあるカ バングーの停車場。鉄道は リオデジャネイロとエンヒ キの生まれた町ディアマン チーナを結んでいた。中/ 記念博物館に展示された小 さな陶製のサントス−デュ モン像。左/パリ時代のト レードマークだった高い襟 (サントス襟と呼ばれパリ で流行した)と飛行時に風 に飛ばされぬようツバを下 げて被ったパナマ帽。 裂した花火の残像のよう 炸 な 形 を し た マラウカ ー リ ャという高木に見守られるように デ ュ モン の 生 家 − し て サントス (現在は記念博物館) はぽつねんと 建っている。敷地のすぐ傍に単線 年が自分の「飛翔する夢」を重ね デュモンがこの の線路が走り、カバングーという コーヒー農園はアルベルト少年 にとって格好の遊び場だった。と 名の停車場がある。カバングーと りわけ彼の興味を惹いたのは機械 たことは容易に想像できた。 世に生を享けた一八七三年当時、 は「暗い森」という意味だ。アルベ 父親のエンヒキ・デュモンは鉄道 類だった。一二歳の時には施設内 ルト・サントス 敷設の技師としてブラジル皇帝ペ を走る機関車を運転したというか ら、相当のメカ好き だったのだろう。三 つ子の魂百まで。後 に航空史に名を残す 素養の萌芽はすでに 少年時代に見られて い た の だ。アルベル トが一八歳の時、父 エンヒキが落馬して 大怪我を負う。治療 のためにパリへと向 かう際、彼は末っ子 ドロ二世に仕え、この宿舎で一時 的に暮らしていた。 その後エンヒキは ミナスジェライス 州内にコーヒー農 園を開き、これを 大いに発展させて 「 コ ー ヒ ー 王 」と 呼ばれるまでにな る。裕福な家庭の 末っ子として優雅 な少年時代を過ご したアルベルトは、 を同行させる。 思ったよりも重篤だったエンヒ キはほどなくこの世を去ってしま * う。パリのアルベルトには当時の ジ ュ ー ル・ヴ ェ ル 科学的世界を現実のものとして信 が転がり込んだ。時あたかもベル・ ヌの小説に夢中になり、その空想 じ込んだという──。 エポック、花の都は進取の気性に お金で五〇〇億円もの莫大な遺産 池の畔にはハグロトンボの姿も。 富む人々で溢れていた。 バングーの家の庭には藤色の はカ ね 翅を持つ大きな蝶が飛んでいた。 そんな虫や鳥の姿にアルベルト少 “サントス−デュモン式”と記された飛行船の設計図と “CHF Paris”と刻印された定規。 − AGOR A Spe ci a l パリ時代の親友で風刺漫画 家のSEMことジョルジュ・ グルサはサントス−デュモ ンをモデルにした肖像画を 多く残している。 ベル・エポックのパリと 伊達男“プティ・サントス” 19世紀後半から20世紀前半は好 景気を背景に多彩な文化と習俗が花 開いたベル・エポックの時代。その中 心地パリにはピカソ、マティス、ポー ル・ポワレ、ココ・シャネル、ルイ・カ ルティエ、マルセル・プルーストと いった面々が集い、レストラン・マキ シムは夜な夜な多 彩な顔ぶれで賑 わった。 中でも異彩を放ったのがブラ ジルから来た伊達男だった。 男は無口 ではにかみ屋だったが、 どこか人を惹 きつけるところがあった。 身長160セ ンチ足らずのサントス−デュモンは 人々から親愛の情を込めて“プティ・ 19 AGORA March 2016 サントス”と呼ばれた。 極端に高い襟、 ロールアップしたパンツの裾、 オペラ クローク(本来は婦人向けの観劇用 コート) 、パナマ帽といった彼の装い はモードとして粋人たちに模倣され た。飛行船や飛行機で街の上空を飛 ぶ姿は格好のショーとして眺められ た。 「バラドゥーズ(散歩する人) 」と 名付けた9番目の飛行船では郊外の レストランにランチを食べに行った り、自宅前に一時着陸してコーヒー を飲んだりした。 そういう平和で優美 で微笑ましい光景こそが彼の理想と する航空の姿だった。 左/ 30分以内でエッフェル塔を一周す るという条件をクリアし、ドゥーチ賞を 獲得。下/ドゥモワゼル(とんぼ) 号は全 長8メートル。車に載せて運べた。 Collection of the Museu Paulista, USP Photo credits of reproductions: Helium Noble / José Rosael. *ジュール・ヴェルヌ(1828-1905) 。フランスの小説家。S F の父として知られる。 『気球に乗って五週間』 『海底二万里』 『八十日間世界一周』など。 森の中に建てられた、 鉄 道工事関係者の宿 舎で7人きょうだいの 末っ子としてサントス− デュモンは生まれた。