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科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超 克へ

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科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超 克へ
2 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
●特集「科学と国家」
科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超
克へ
隠岐 さや香
にする作業である3。すなわち、「科学と国家」
というテーマ設定により、我々がどのような研
「科学と国家」というテーマ設定を切り口
究の対象と問題に関わりうるのかを検証し、そ
として、科学史を行うとはどういうことだろう
の上での躓きの石となりうる点や方法論的可能
か。わかりやすい例として思い浮かぶのは、近
性について確認していきたいと思う。
年脚光を浴びた植民地科学史研究や20世紀科
学史研究などだろう。確かに近代国家成立以後
の世界、特に19世紀以後においては、国家が
18世紀 以 前の 「 科学 と国 家 」に 対 する 歴
科学を戦略的に用いた例はあった。例えば「未
史叙述とは
開民族の啓蒙と救済」という類の植民地主義的
イデオロギーに科学がどのように関わっていた
科学と国家の関わりが捉えやすい事例につ
かなど、近年では考察が進んでいる。また、第
いて冒頭で言及した。それらに関する近年の諸
二次世界大戦中の米国において大がかりな科学
研究はいずれも、いわゆる科学性善説̶̶すな
1
者動員が試みられたのは有名である 。私達が
わち、科学は価値中立的であり政治がそれを悪
住む現代社会に至っては、科学・技術は国家政
用するといったような解釈̶̶やその逆の性悪
策上の重要な対象であり、市民社会におけるそ
説のような単純な議論を退け、国家の政策と特
の関係のあり方について、近年科学論などの分
定の科学領域がどのような関係を切り結ぶかを
2
野で探求が盛んになっている 。
分析しようとしてきた。しかし、現代的な意味
だが、近代以前の時代についてはどうだろ
での科学の専門職業化が本格化する19世紀よ
う。現存する歴史的資料の過不足問題もさるこ
り前(非西欧世界の場合は、近代西洋科学を取
とながら、当時の権力と科学的な知の営みは現
り入れる前)についてこれと同じことを試みる
代の私達が知るそれらと異なる形態、認識的枠
と、近現代を対象にする際には無い障害に遭遇
組みの下で存在しているため、様々な側面にお
することになるだろう。
いて慎重な取り扱いが必要である。うっかりす
問題として挙げられるのはまず第一に、19
るとひどい時代錯誤を犯すことになりかねない。
世紀より前の時代に関して国家による何らかの
この「覚え書」が目指すのは、とりわけ18
「科学政策」を論じることが可能かはわからな
世紀以前の時代に関して、「科学と国家」とい
い、という至極当たり前の事実である。「科学」
うテーマ設定が我々に与えうる可能性を明らか
がどのような価値をその社会の中で認められて
科学史・科学哲学17号 3
いたかについて検証することから始めねばなら
さすがに同じ手続きで済ますわけにはいかない。
ない。例えば、当時の為政者はどのような形で
そして、実際に関連する事項をあれこれ調べ出
科学との接点を持っていたのだろうか、科学を、
すと、現代人の「常識」が通用しない事象の組
火花が散ったり湯気が立ったりする見せ物とし
み合わせに多々遭遇し、しばしば迷宮に迷い込
ての実験や、美しい草花を愛でる博物誌などの
んだような気分になったりする。例えば、現代
イメージ、すなわち、優雅な知的娯楽程度に捉
的な意味での「科学者」ではない、18世紀フ
え、政治とは切り離して捉えていたりしなかっ
ランスのM.J.A.N.コンドルセのような人物につ
4
ただろうか。逐一考察していく必要がある 。
いて説明すると、哲学者にして数学者であり、
そのような手続きを経ることで、整備された官
政治家であり、パリ王立科学アカデミーならび
僚機構と専門家集団との連携を前提するような、
にアカデミー・フランセーズ会員、等々と断片
いわゆる現代的な意味での「科学政策」とはま
的な記述を積み重ねていくことを余儀なくされ
た違った形での政治的影響関係の有無を見いだ
る6。当時の社会における彼の位置を知るため
す可能性が出てくるだろう。しかし、方法論的
には、これらの「断片的」に見える事項の集積
に明確な指針を持たずしてそこまでたどり着く
が相互に関連しあって意味をなすものに見えて
のは困難である。
くるまで、それぞれの項目ごとについて分析の
問題の二つ目は、先に挙げた点とも直接関
わってくるが、どのような人々がどういう条件
糸をたぐり寄せていかねばならない。では、具
体的にどうすればよいのか。
で「科学」をやっていたのかがわかりにくいこ
とだ。どのようなテーマであれ、科学と国家を
同時に視野に入れるとなれば、ある著名な個人
「数学と国家」
の業績を検証して終わってしまうわけにはいか
ない。個人もしくはその人の知的所産がその社
私にとって、上記の点に対する疑問を整理
会の中で占めていた「場」に対する考察を怠る
する格好の契機となったのは、2001年の秋に
わけにはいかないだろう。そもそも、時代が過
「数学と国家」というテーマで、フランスのマ
去にさかのぼるほど、何を我々のいうところの
ルセイユ郊外にて行われたシンポジウムである
「科学」とみなしていいかも自明ではない。だ
7
が、過去のある知的活動、例えばある個人の業
討論に欠席した私には、会の趣旨である「数学
績について、現代の我々の枠組みから「科学」
と国家」を扱うに当たっての方法論的議論を十
の範疇とみなして研究対象にする、と宣言する
分に吸収する時間は無かった。だが、そこで行
ことは許されるだろう。これは歴史家である以
われた個々の研究発表に伺えたアプローチのあ
上取らざるを得ない便宜的な手続きであり、そ
り方、題材の選び方などは、個人的に大きな示
の際に自らの行った研究対象の構築について自
唆を与えるものであった。例えば、近代以前に
5
。実を言うと、第一日目の冒頭と最後の総合
覚的でありさえすればよい 。しかし、研究対
関しては主に、東西の洋を問わず、「知的活動
象となる個人及びその知的所産が周囲の社会と
としての数学が誕生する際に国家の構造が果た
一体どういう関係を持っていたのかについては、
した役割」や、「行政エリート集団の文化と彼
4 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
らの選抜において数学が果たした役割」などが
のテーマ設定で行われた研究会などの試みに新
論じられていた。また、数学的探求と社会・政
しいところがあったとすれば、それは、ある特
治的関心とが折り合った地点に生まれた知的活
定の方法論的傾向の存在を示すに十分な研究事
動ということで「行政に貢献する道具としての
例を一同に集め、「数学と国家」という主題設
数学」という視点からの研究もあった。同種の
定の可能性を可視的な形で提示したことである。
研究は19世紀以後についてだと、社会諸科学
これは重要なことだろう。そうなることにより
の領域、例えば統計学史とその応用分野など関
初めて、主題が広く認知され、更にはそれを扱
する研究になる。国民国家成立後の社会に関し
うための方法論の確立や深化が集団的なレベル
ては、とりわけ20世紀初頭の両世界大戦期や
で容易に行われるようになるからだ。以下の部
冷戦期を中心に、国家による動員や粛正といっ
分では、そこで提示・示唆された可能性に対し
た事態に直面した数学者集団を描く研究があっ
て私なりの解釈を加えつつ、18世紀以前の「科
8
学的な研究活動と政治的文脈の関わり」を扱う
「数学と国家」という主題はいわば、「人
にあたって遭遇するであろう問題点や留意すべ
た。
間社会における抽象的な知的活動と社会・経済
き点を整理してみたい。
的文脈とがどう接続しうるか」という一般的な
主題の一変奏曲として捉えることが出来るだろ
う。とりわけ、西洋近代数学が抽象科学の粋と
知 と政 治 の 歴史 ̶ ̶そ の 注意 点 と 方法 論
もいえる知的営みの一つであり、近代以降の世
的対策
界ではその「応用」を通じて他の自然諸科学、
更に社会諸科学のいくつかの分野に多大な影響
「数学と国家」も含め、人間の知的活動と
を与えていることを考えると、数学に対して用
政治権力との両者を主題とする諸研究では、必
いられたアプローチは生物学、化学、物理など
然的に、いわゆる「内的科学史」と「外的科学
他の自然諸科学の分野並びに心理学、人類学、
史」の枠を意識的に取り去ることが要求される
経済学といった社会諸科学をも含めた意味での
だろう。それは、次の二つの方法論的配慮を前
「科学と国家」を扱うに当たり、直接参考出来
提にして可能になる。まず第一に、どんな個人
る部分が多いはずである。
の業績を探求している時であっても、ある固有
科学と社会・経済的文脈の関係について考
の文化を持つ社会集団の成員としてみなす視点
察するという、類似の方法論的傾向性を有した
を忘れないこと。先にあげたコンドルセの例を
科学史研究が最近までに存在しなかったと言い
解決する糸口はここにあるといえる。「文化」
たいわけではない。17世紀英国における宗教
や「社会集団」という言葉があまりにも固定的
倫理と近代科学成立の関係を論じたロバート・
な語感を与えすぎるとしたら、「ある種の実践
9
K・マートンの古典的著作をひくまでもなく 、
や知識、心性を共有する一つのもしくは複数の
バランス感覚に優れた科学史研究はしばしばこ
互いに交錯しあう下位集団の成員」とでもいえ
の種の長所を持ち合わせてきた。しかし、「数
ばいいだろう。そして第二に、現代の科学に通
学と国家」シンポジウムや前後する時期に同種
ずる側面を持つような過去の知的活動(「科学
科学史・科学哲学17号 5
的研究活動」と便宜的に表現する)をどう評価
10
反応に関するB製薬会社から資金援助を受けた
するかという問題に敏感であること 。次の節
実験研究プロジェクトに従事しているZ研究所
ではまずこの二点について、具体的な研究事例
の研究員達」などについて論じる事も出来よう。
も交えて議論したい。その上で最後に、先に述
また、現代的な意味での専門科学者集団ではな
べた「内的科学史と外的科学史の区別を捨て
くても、18世紀のパリ王立科学アカデミーの
る」ことがこれまでの科学史的方法論をめぐる
ように、自然科学のための制度として特化され、
議論に対してどのような位置を占め、今後の科
集団内への参入に大して高い障壁を設けている
学史にとってどのような意味を持ちうるのかを
団体は11、特殊な社会集団として認識されやす
確認したい。
いだろう。しかし、いわゆる「科学」のために
特化された公的研究機関が存在しない時代・場
(1)「科学」と「国家」を媒介するもの
所においても、知的活動は孤独な作業ではなか
った。例えば、古代メソポタミアにおける官僚
第一の点が意味するのは、対象とする科学
集団、西欧中世における聖職者集団やそれらの
的活動がどのような社会集団に担われていたか
養成機関が果たした役割があげられるだろう。
を十分に検証することの必要性である。とりわ
また、中世以後の欧州となると、活版印刷術の
け、「科学」と「国家」が遭遇しているその地
発展による書物の普及は、多数の人々が遠隔地
点について考察することが研究の主眼であるな
にありながら同じ文化を共有することを可能に
ら、本格的に、人類学的、社会史的、社会学的
した。人文主義の発展とも相互作用する形で、
な知見を総動員してその集団を分析することが
いわゆる読者共同体、それも「自然哲学」
、「博
必要であろう。何故なら、そのような集団が社
物学」
、「数学」等々を愛好する集団が、聖職
会に占める場こそが政治権力と科学の接点を提
者など旧来の知的階層外部に育ってくるのであ
供する主要な舞台となるからである。科学活動
る。それらの人々は特定のテーマについて愛好
は決して、孤独な個人の営みではない。優れた
者同士で会合を持ったりしたであろうし、遠隔
能力を持つ個人の存在を否定するわけではない
地同士であれば文通により緊密な知的交流を深
が、明確に確認しておきたいのは非常に基本的
める人々もいたであろう。例えばデカルト、ラ
なこと、すなわち、公的な科学研究の機関が整
イプニッツ、ニュートンなど、17世紀の数学
備される以前の時代であったとしても、現代で
者・自然哲学者達は手紙で重要なアイデアの発
は「科学」の分類に入れられるであろう類の知
表を行い、多くの場合それは彼らが属する小サ
的活動は、かならずある一定の相互評価能力を
ークルの成員に共有される情報となっていた。
有した人々から成る、社会集団を基盤に成り立
そうした知的交流は、自らも知的好奇心を持つ
っていたということである。社会集団の例とし
王侯貴族のパトロネージを受け、公的または私
て一番わかりやすいのは、現代の「科学者共同
的アカデミーという形で保護されるようになっ
体」のような例であろう。もちろん、何らかの
ていく12。
特殊な事例を扱いのなら、もう少しミクロの視
この様に、いかなる社会集団が科学的研究
点から、例えば「A国における、X受容体のY
活動と(便宜的にせよ)みなしうるものを担っ
6 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
ていたのかを的確に把握することは、当時の社
王権による中央集権により「近代化」を図ろう
会体制を知ることでもある。それにより、政治
とする改革派と、それに対して、中世以来一定
的・社会経済的文脈が集団を構成する人々の知
の権力を保持してきた伝統的な旧勢力、すなわ
的所産にどう影響を及ぼしたかを考察すること
ち教会や地方の領主貴族、自治体など、とが対
が出来るのである。ここで言う「文脈」とは決
立していた。この流れの中で、旧来は後者の守
して抽象的な意味ではなく、その集団の全体と
備範囲であった道路整備や治水などといった公
しての地位、集団の成員達の社会的出自、経済
共事業が王権の管轄へとへと吸い寄せられてい
状態、受けることの出来た教育、またその結果
く。そして、そのための人材として技術的な側
有していた文化・知識、集団外における彼らの
面を監督する「専門家」たる技師達の養成学校
地位(もしも他の肩書きがある場合)や有して
が成立するのである。フランスの強い影響もあ
いた人脈、などを意味している。これらの個別
って、養成学校では解析など理論的な数学教育
事項を出来る限り検証し、関連づけていく作業
に重点が置かれていたという16。特に彼らの「専
により、科学的活動がその集団を通して集団外
門家」たる矜持の源となっていたのが、マゾッ
部—すなわち政策を担う集団、他の上層もし
ティによれば、実践的な問題に対する解析の応
くは下層階級に属する社会集団や彼らに属する
用を心得ていることであった。この様な事情か
諸文化、等々—からどのような影響を及ぼさ
ら解析派は、基本的に「中央集権派」に人脈と
れ、または逆に及ぼしたかを構造的に把握する
明確な活動の支持基盤を持つ技師達の立場を表
13
見通しが立つであろう 。本稿の冒頭にあげた
すものとであった17。
「科学者、哲学者、政治家のコンドルセ」とい
対する幾何学派の本山は、旧来の知の牙城
う叙述がただの事実集積とならないためには、
であった大学や各種アカデミーであった。彼ら
この段階を経なければならない。
の批判は主に、解析的アプローチが数学に本来
ここで、先に紹介したシンポジウム発表者
許されるべき限界を超えた応用を行っているこ
の中から、この一連の作業を特に的確にわかり
とに対して行われた。そして、数学における正
やすく行っていた研究例をあげることにしよう。
統なアプローチとして掲げられたのは「総合
イタリア出身で、英国エディンバラ大学で近年
的」方法、それも、幾何学的アプローチを貫き、
博士号を取った若手科学史家マッシモ・マゾッ
一切の応用を許さない−技術や社会現象はおろ
ティは、18世紀後半から19世紀初頭のナポリ
か、例え自然科学にすらも−という究極の「純
王国における数学の方法を巡る論争、「解析
粋」数学であった18。
派」と「幾何学派」の対立について研究してい
14
マゾッティの分析が優れているのは、従来
る 。論争を扱う際に彼が注目するのは、それ
だと「近代主義」対「伝統主義」の対立として
ぞれの陣営が如何なる社会集団であり、かつど
単純に解釈されてきたこの「解析派」と「幾何
のような政治的文脈と関わっていたか、という
学派」の対立の背景にある多様な社会構造を、
点である。ナポレオンによる占領時代後、1815
段階を追って的確に分析した点である。彼の歴
年にスペイン系ブルボン王朝の流れを組む王権
史記述から伺えるのは、以下のような作業であ
15
が復権したナポリ王国では 、国家再建のため、
る。まず両陣営の所属していた学術的な場を特
科学史・科学哲学17号 7
定し(技師学校やアカデミー、大学など)
、そ
の方法論的主張を伴った幾何学派の哲学的起源
の場それぞれについて、成員の階層・出自、行
は1780-90年代にあり、これまで言われてきた
われていた教育もしくは研究の種類などをある
のとは異なり、決して前者が旧来の立場を代表
程度把握する。次にそれぞれの場を代表するよ
しているとは言えないこと20。次に、両陣営の
うな個人に狙いを定め、
彼らが学術以外の場
(政
成員は、その教育経歴や業績などから見ても、
治、宗教界など)においてどのような人脈を持
基本的に数学的知識、哲学的伝統を共有してお
ったかを、書簡や著作の引用関係、献辞などか
り、特に幾何学派は解析によく通じているのみ
ら調査する。また、それぞれの学術的な場がど
ならず、時として解析派よりも優れた問題解法
のような政治的勢力により支持されていたかに
能力を示していたことなどである21。
ついて、新聞や二次資料などにより詳しく調査
こうして、両陣営の政治的な人脈のあり方
する。もちろん、それら全ての要因が18世紀
や、言説のあり方を分析していくことによりマ
末から19世紀中頃に至るまでに辿った歴史的
ゾッティは次のように結論づける。異なる政治
経緯・変遷を把握することも忘れない。そして
的態度により、各集団の抱く数学に対するイメ
更に、学術的な場で生産された言説が、学術外
ージは全く違うものとなり、その結果、イメー
の場で誰によりどのように使用されたか、また
ジが実践に影響を及ぼしたのである、と22。例
逆に、学術活動外での政治的、思想的、哲学的
えば、幾何学派の数学は自らの数学を純化され
な立場に関する議論がどのように、学者達の著
た知的営みとして「精神的科学」(spiritual
作(とりわけ序文や方法論を示した部分など)
science)と位置づける一方、解析派による、「代
に入り込んでいるか、などを検証するのである。
数化された」数学を不確実な経験的知識に節操
その結果、書簡の検証や政治的・思想的諸
なく応用するやり方を「物質的科学」(material
言説の分析からは、幾何学派がカトリック保守
science)と位置づけ批判した23。対して、解析
系の思想家達や政治家と近しく交際していたこ
派の言説に頻出する語彙は「近代」、「進歩」
とや、幾何学派学者の著作を用いた議論が何人
であった。彼らは自らの科学を「国家の行政に
かの聖職者により行われていたことが判明した。
対する応用」により公共の福祉に役立つ知と位
解析派についても、技師養成学校の教育的有用
置付け、幾何学派については時代遅れで実用的
性について政治家が弁護演説や学校の宣伝活動
な知をいたずらに蔑む鼻持ちならない人々とし
を行い、改革派に属する新聞がそれを支持する
て批判したのである24。
記事を組んだりしているという。こうして、中
この様に、当時の王権による政策及びその
央集権派、保守派が共に数学が持つ象徴的な価
反対勢力、数学という抽象的な知的営為(例え
値に注目し、それぞれの陣営の学者と関わりな
実際問題への応用が絡むとはいえ)との双方に
がら具体的な行動を起こしていた様子が明らか
ついて、それぞれに関わり合う複数の社会集団
19
になっていく 。
同士の接触経路、相関関係を構造的に把握する
これらの手順を踏みながら、マゾッティが
ことが、いわゆる「内的」でも「外的」でもな
一連の論争に関する歴史叙述に加えた修正は以
いバランスのとれた歴史記述を生み出しうるの
下の様ものであった。まず、「純粋」数学指向
ではないだろうか。
8 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
マゾッティの事例は近代ヨーロッパに関す
う社会集団に対する適切な距離を伴った記述に
るものであるが、非近代・非西欧の歴史事例で
関しては、人類学などにより多くの方法論的蓄
あっても、資料の許す限り、同種のアプローチ
積がなされてきた。科学史もそれらに学ぶとこ
は可能である。例えば、古代メソポタミア、と
ろが多々あるだろう26。先の部分で、知的活動
りわけ古バビロニア王国時代の数学を専門とす
の背景にはある種の社会集団があり、それを意
るジェンス・ホイルップは、その名もまさしく
識することによってのみ科学と国家の歴史は適
「数学と初期の国家形成」という論文を発表し
切に語られうると述べた。歴史家が過去の科学
25
ている 。古代メソポタミア時代の数学でホイ
的研究活動に対して適切な距離を取るためには、
ルップが重視しているのは、当時の粘土板に残
制度化されているにせよしないにせよ、当該の
された数学的営みの大半を担っていたと思われ
研究活動に対して、それを担っていた社会集団
る職能集団、「書記」(scribe)の役割及び彼ら
自身が与えていた意味を十分に認識する必要が
の価値観である。彼らは王権を支える官僚機構
あるだろう。また、並行して、知的営為一般に
の一構成員としての慎ましさと、誇り高い知的
おける「客観性」を社会的にどう定義づけるか、
な自由職業人の意識とを併せ持っていたという。
という認識論的問題にも配慮する必要があろう。
一見背反するようなこの二つの側面が、書記の
詳細は後に論ずるが、このような視点こそが、
数学的活動をある特定の方向へと水路づける役
近年の科学史におけるある種の不毛な方法論的
割を果たした、とホイルップは考えているので
論争を有効に調停する糸口の一つだと私は思っ
ある。そして、書記達に固有の地位と、職業倫
ている。以下では、その論争のうち近代西洋科
理や価値観の取得を可能にさせた重要な要素と
学史に関するものを一つ紹介した後、両者の陣
して、古代メソポタミアにおける国家の成立過
営に対する私なりの見解を示し、過去の知の営
程を、考古学や古代史の成果をもとに確認する
みに対して如何に時代錯誤に陥らずに解釈すれ
のである。
ばいいかを論じたい。
以上、ナポリ、そして駆け足ではあるが古
70 年 代 に 出 現 し た 科 学 知 識 の 社 会 学
代メソポタミア、と事例を紹介してきた。他に
(Sociology of Scientific Knowledge. 以下SSK)
も優れた諸研究は存在するが、とりあえずは私
は、いわゆる「科学知識の社会構成主義」を強
の目指す方向性を確認出来たと思う。そこで、
く打ち出し、80年代にかけて個性的な諸著作
次の重要な問題、過去の科学的研究活動をどう
を生んだ。しかし90年代に入ると若干行き詰
捉えるか、について論じていきたい。
まりの相を呈し、並行して批判も高まった。ソ
ーカル事件に代表される「サイエンス・ウォー
(2)過去の科学研究活動との適切な距離
ズ」はその有名な一例であるが、SSKとその
感
批判者の両陣営とも、「科学」と「社会」の素
朴な二項対立図式にはまりこんだまま身動きが
もしも我々が素朴な進歩主義史観を取らな
取れなくなるような不毛な論争も多かった27。
いのならば、過去の科学は我々にとって異文化
一口にSSKといっても非常に多様な諸研究が
として立ち現れるであろう。異文化とそれを担
並んでいるのだが、SSK最盛期に位置し、科
科学史・科学哲学17号 9
学技術史に直接関わる事例として有名なのは、
おり、カトリック教徒であり、科学の知識に対
やはり17世紀英国の実験科学をめぐる論争を
しても幾何学的な厳密さを求めていたという。
扱った、S.シェイピンとS.シェイファーの『リ
この両者の違いが、実験科学派を当時の科学の
ヴァイアサンと空気ポンプ』(1985)であろ
主流にし、自然哲学者としてのホッブズをその
28
う 。賛否両論があり、影響力の大きかった彼
歴史から脱落させ、政治哲学者としての名のみ
の論考に対しては、ナイーブな科学主義の立場
を残させる要因になった、というのである33。
による批判のみならず29、同業者の科学史家か
あるローカルな科学哲学上の論争と、新し
らも異議を唱えられることとなった。例えば、
い体制へと向かう国家の政治的文脈との間に関
17世紀英国のロバート・ボイルにおける実験
連性を指摘するというこの野心的な試みは、当
哲学を研究するローズ=マリー・サージェント
時としては大変画期的であり、現在でも興味深
は、教条的な科学主義や進歩主義史観とは距離
い論点を提供している34。しかし、実験家達と
を取りつつも、シェイピンらSSKの流れを組
ホッブズ、その支持者達と反対者達による議論
む科学史を「極度な相対主義」と位置付けて批
を、方法論的なものから政治的でマニフェスト
30
判を展開している 。だが、私には、批判する
文的なものまで一挙に併置し、それら諸言説に
側も批判される側も、ある意味では同じ方法論
おける様々なレトリックの相関関係を次から次
的誤りを犯しているように見える。
へと指摘していく彼らの叙述法に、とまどいを
シェイピンらの論考は、17世紀王政復古期
覚えた歴史家が多かったのも事実である。その
の英国におけるボイルら実験科学者達と、哲学
やり方が、ボイルらの実験科学をめぐる全ての
者トマス・ホッブスの間に起きた、空気ポンプ
理論的構想が王政復古期の英国における政治的
実験により生み出される知識の正統性をめぐる
諸言説のイデオロギーと直接つながっているよ
論争を取り扱っている。彼らは、その論争が政
うな印象を与えたからである。
治的含意を持っており、それぞれの陣営におけ
例え一抹の説得力はあるにしても、シェイ
る政治的方向性が後の社会における両者に対す
ピンらは社会史家としては方法論的に重要ない
る評価を決定づけた、と論じた。ボイルらは実
くつかの段階を省いてしまってはいないだろう
験により生み出される知識に高い蓋然性を持た
か。すなわち、科学的な研究活動と政治的文脈
せるために、実験の「証人」を少数の選ばれた
の両者がいかなる形で接点を持っていたのか、
人々、すなわち、実験のための様々な規約に合
すなわち前者が後者に、もしくは後者が前者に
意した人々に限ることを正統な方法論とみなし
与える際に、どのようなフィルターが存在して
た。しかし、ホッブズは公開されない閉じたコ
いたのかを構造的に検証するという作業が十分
ミュニティにより生み出される知識を正統とみ
行われていないと思われるのである。例えば、
31
なすことが出来なかった 。シェイピンは、ボ
実験家達は限られたメンバー同士の間で交わす
イルらの哲学的立場と当時の王政復古政府が掲
言説や思考と、外部に向けた政治的言説を区別
げていた政治的イデオロギー及びプロテスタン
していなかっただろうか。
32
ティズムとの親和性を指摘する 。それに対し
また、シェイピンらは当時の社会的な事象
て、ホッブズは絶対主義的社会体制を評価して
を扱うに際して、時代錯誤を犯していると思わ
10 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
れる。例えば、実験を目撃する「証人」の社会
政治的な評価をそのままボイルらの哲学的姿勢
的地位は証言の信頼度を上げたという指摘がな
として定義してしまっている、と批判している
されるが、それは実験科学成立期にボイルらに
37
よって取られた「政治的」な態度の一つにカウ
的な評価」によりボイルらの実験哲学を定義し
35
。だが、実際のところシェイピンらは「政治
ントされ 、結果として「知識に関する問題の
ようとしているわけではなく、単に、ボイルら
36
解決は政治的である」 という彼らの論点を補
を取り巻く周囲の解釈がいかにして実験科学家
強するものとなっている。だが、17世紀頃の
集団を時代の中で生き残らせたか、という政治
人々の社会に対する把握を考慮すると(特に、
的な物語を描きたいだけなのである。現代的な
地位と教育の程度はある程度相関しているの
観点によるボイルの実験哲学評価や、または当
で)
、それは当時としては考えられ得る限り「妥
時のボイル自身の意図を再構築した上でのその
当」で「合理的」な反応であったりしないだろ
評価など、彼らの関心の範疇ではない。サージ
うか。この状況を政治的でスキャンダラスと捉
ェントはシェイピンと自分との間の関心の相違
えるのは、まさしく17世紀の外部に位置する
をうまく把握できていないため、的のはずれた
現代人としての感覚であり、歴史家はその類の
批判をしているのである。彼女は、旧世代の科
直感的な評価をすぐに表明する前に、それが当
学思想家とは異なり、固有の時代的文脈やロー
時者であるボイルらにとってどのような含意を
カルな文脈に配慮する必要性に敏感であろうと
持っていたかを分析するべきでないか。
苦心しているのだが38、もともとの関心は科学
先に述べた人類学的な方法論上の配慮とい
思想自体の分析にあるため、社会・政治的なイ
うことを思い起こすなら、シェイピンらの記述
デオロギーと科学思想自体との関係を当時の社
は過去の科学という「異文化」を解釈した上で
会的文脈の中で立体的・構造的に把握するセン
政治的権力との関係性を探ろうとする視点が弱
スにいささか欠けている。その結果、シェイピ
いように見える。ただ単に「知識に関する問題
ンらとは逆に、ボイルの言説をそのまま彼自身
は政治的に解決される」と言い放つのではなく、
の振る舞いであるかのように論じたり39、彼ら
例えば「様々な集団が、それぞれ固有の社会的
が揺るがそうとした、科学的な知の営みとその
文脈の制限の中で、その時点においては少なく
他の社会的な諸活動(政治、経済、法など)と
とも、より妥当で合理的と判断した解決法を、
の間の区別を、あまりにもナイーブに擁護した
知識に関する問題に対して提示している」と、
りする40。従って、どういう理論的基盤により
異文化を当時の枠組みに沿わせて解釈するよう
過去の科学的な知の営みを他の社会的活動と区
努め、その上で「問題が解決されるのは、現代
別するのかについての納得のいく回答は、彼女
の歴史家の目からみれば政治的な要因に基づい
からも得られない。
ているようにもみえる」とでも論じればよいの
である。
それでは、過去の科学的な知の営みをどの
ように捉え、どのようなものとして位置付けれ
さて、他方シェイピンらに反論するサージ
ばいいのだろうか。まず重要と思われるのは、
ェントはといえば、彼らの研究が当時の実験科
過去の知的活動が社会集団を介して政治、社会
学の哲学が様々なセクターにおいて受けていた
的文脈に対して必ず何らかの形で接続しつつも、
科学史・科学哲学17号 11
ある程度相対的に自律した営みであり得たと前
観的な制御が行われてもいただろう41。そのよ
提することである。
うな経緯の所産である知識は高い確率で、後の
まず、政治的、社会的文脈と断絶していな
世代にも評価、解釈されうるものであったろう。
いというのは、例えば科学的な諸研究に携わる
それらの解釈がほぼ間違いなく、それぞれの時
個人や集団は常に、それらが社会的存在である
代状況に基づいた「誤解」であり、知識が生み
が故に、今まで見てきた事例のように、資金や
出されたその時点での文脈を外れたものであっ
その集団をめぐる政治的言説、または集団の成
たとしても42。歴史家はこの経緯の全てを見詰
員と外部との個人的な人脈関係などで様々な小
め、考えられ得る限りの手段を総動員して、そ
世界との交流に常にさらされている。また更に
の時代固有の知の「正統性」
、「客観性」が何
言えば、その集団の成員がそれぞれ属している
であったかを再構成しなければならない。当時
階層、または集団が制度化されている場合は、
の人々のまなざしは失われてしまっているので、
その制度が当該の社会の中で占める社会的地位
完全にそれを再現することは不可能である。だ
というものは、当然ながら直接に政治的文脈と
が、テクストや他の物質的痕跡(科学の制度に
集団とを結びつけるものである。
おける行政的資料、実験器具など非言語的な資
しかし他方で、科学的な知的活動は政治的
料)を証言者とし、そこに二次資料による当時
文脈に接しつつも、固有の自律性を持った営み
の社会、国家そのものについての情報などを可
であり得る。その自律性において、時代固有の
能な限り付け加え、歴史という現代の知的営み
文脈に応じた「正統性」を持つ知的活動を行っ
を行う一集団の成員としての能力を総動員する
ているのである。活動が行われる集団の成員に
ことで、過去の像を誠実に再構成すべく努力し
なるに当たって、常にその時代、場所固有の文
続けることは可能だろう。
脈に応じた一定の参入障壁が存在していること
このような我々歴史家が過去の科学的研究
がその証明の一つである。例えば、「メルセン
活動を見詰めるまなざしは、「中傷によらない
ヌアカデミー」のような、近代的な制度によら
脱聖化」43に基づくものでなければならない。
ない知のネットワークであろうとも、その交際
それによってのみ、科学を不必要に聖化してし
の輪の中に入るのにはある一定の水準の自然哲
まった教条的な科学主義にも、前者を葬るため
学なり数学なりの能力を有したはずである。そ
に血気はやって過去の知的営為を不必要に中傷
して、似通った水準を持つメンバー同士が相互
してしまった「行き過ぎた相対主義」にも陥ら
に批判しあう事により、個々人の極端な主観性
ないバランスを保つことが出来るのである。
に基づく議論は排除され、ある種の間—主観
「科学と国家」に関する歴史叙述がなされるべ
性により認められ、その時代固有の文脈上で最
きなのは、まさにこの均衡の点においてだろう。
も確実で誠実と思われるような知識、議論のみ
が評価されて残るような状況が生まれていたの
ではないだろうか。また同時に、成員個々人の
外的科学史と内的科学史、そして超克へ
レベルにおいてもこの批判機能は内面化されて
おり、自己の知的所産に対して反省的・疑似客
1960年代までの科学史においては、いわゆ
12 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
る「インターナリズム」(内的科学史)と「エ
た知の分野に影響される初期段階の科学と明確
クスターナリズム」(外的科学史)の並列状況
に区別した。そして、この「成熟」した近代科
があった。科学研究活動の所産たる理論や思想
学の制度的条件こそが自然諸科学を、文化的・
の歴史的考察と、科学研究を支えた社会制度の
社会的諸価値から絶縁され、客観性を保持した
歴史的考察とは分裂する傾向が強かったのであ
営みであることを可能にする、としたのである
る。そして双方とも、科学の営みが累積的で、
48
常に唯一の真理に向かって進むものであり、社
初期段階に関して、内的かつ外的な科学史的ア
会経済的な条件はそれを阻害または奨励するこ
プローチが有効であると解釈していたのは間違
とはあっても、その方向性に影響を与えるもの
いないが、その後の科学者集団の「成熟期」以
ではない、という類の科学観を共有していたと
後に関して取りうる歴史的アプローチについて
44
いえる 。
。従って、クーンが17世紀など科学の発展の
彼の意図を整理するのは、困難である。いずれ
トーマス・クーンは外的・内的科学史を総
にせよ、1970年代の時点でクーンが示し得た
合する視点を示そうとはしたが、1968年の時
のは可能性のみであり、それは非常に透徹した
点では次の様に言わざるを得なかった。「残念
まなざしと示唆に満ちたものであったが、具体
ながら今のところ、両者を事実上異なった企て
的な方法論ではなかった49。
として扱わざるをえないのである」と45。クー
SSKが発展したのは、70年代末期から80年
ンの議論の中には、外的・内的歴史をいわば調
代にかけての冷戦が緩和され、ネオリベラリズ
停しようとする優れた試みが含まれていたのは
ムの勃興が始まった時期であった。社会性や経
46
広く知られている 。だが同時に、彼の中には
済性を後回しにし、専ら知識の増大、安全保障
調停の難しい二つの科学像が揺れ動いていたよ
に重点を置いた冷戦型の科学政策から、「国民
うに見える。例えばクーンは、内的科学史と外
の福祉」
、「産業競争力」
、「雇用確保」などを
的科学史を融合するための方法論的視点として、
重視する「社会のための科学研究」へという方
科学の進歩には「タイミングのような諸側面」
向が米国を中心に強まるなど、科学はクーンの
があり、それらは外的要因、すなわち社会的な
時代とは異なる様相を呈し始めた。この時期
要因に大きく依存していると言った。例えば、
SSKは、社会における科学者共同体の位置付
制度的改変が新しい横断的な分野を作り出した
けの変化を分かりやすい言葉で図式化して描き
り、新しい技術や社会的状況が新しい問題の創
出すことに成功したのである。科学者共同体は、
出を科学者達に促したり、助成金のあり方が何
直に社会的・政治的利益と接点を持っているに
らかの影響を与えることがあるというのである
も関わらず、そのことに無自覚もしくは意図的
47
。だがその一方で、成熟した科学の分野、す
に、閉鎖的な集団を作っている存在、とみなさ
なわち通常科学に関しては、外界の要請とは無
れるようになった50。それは当時としては、科
関係に洗練された理論体系をもとに集団内部の
学主義からの徹底的な解放としての意義を持ち、
論理と倫理に基づいて研究活動を行う専門家集
実際に、国家の科学政策を批判的に捉え直そう
団が形成される、と位置付け、社会的な要請や
とする科学論の諸分野で実り多い結果を生んだ
価値、当時の常識や、哲学的伝統、権威のあっ
51
。そして、その潮流が生んだ果実の一つであ
科学史・科学哲学17号 13
るシェイピンらの研究は「内的歴史」と「外的
うとしてきたか、という視角も開けてくる。こ
歴史」の壁を取り去る事に確かに貢献していた
れらの作業により、古代から近代まで権力と知
のである。
が切り結んできた諸関係の深く絡み合った糸が、
しかしながら、シェイピンらが行ったのは
少しずつ解きほぐされていくだろう。そこでは、
どちらかというと両者の間にある壁の破壊であ
中立な科学と恣意的・人間的な営みとしての政
り、壁に本来開くべき無数の孔それぞれの位置
治という旧来的な見方も、「恣意的で政治と結
を見極めようと言う繊細な配慮には欠けていた
託した科学」対「善良な市民」という単純な図
と言わざるを得まい。だが、それが創造的破壊
式も通用しない。
52
であったのは間違いないだろう 。何故なら、
科学と国家の関係は、依存、対立、共存の
彼らへの礼賛と批判の時期を越えた今、次の世
相が入り乱れるものである。国家統治は常に何
代は確実に育ちつつある。
らかの形で知の一揃い、道具立てを必要として
本稿では、「数学と国家」のテーマを例に
きた。近代以前であれば「神の秩序」または「自
あげつつ、いわゆる近代的な科学政策の存在し
然の秩序」といった語彙で語られる、統治の上
なかった18世紀以前を中心に、科学と国家の
での指針となるような形而上学的レベルの信念
関係性を構造的に把握するための方法論につい
体系から、租税のための測量など、行政機構の
て述べてきた。時代にこだわったのは、現代の
意志決定を助ける実践的な知識までが、
その
「一
ように科学と国家の関係がある程度見えやすい
揃い」に含まれるといえる53。そしてしばしば、
形で提示されている社会以外で、科学と国家の
我々はその時代固有の道具立ての中に、我々の
関係性に関する記述がどれだけ可能であるかを
科学に似た何かを見ることがある。時代を経る
示したかったからだ。実際には、「科学」がど
に従い、道具立ての中から神は退き、近代諸科
のような歴史的方法論により考察されるべきか、
学が大きな位置を占めるようになるのは言うま
という議論に終始し、「国家」はその背景とし
でもない。同時に、「科学的」な知的営みを担
てのみ語られてきた感があるかもしれない。だ
う様々な社会集団が国家により囲い込まれ、も
が、ここで今一度、次のことを確認しておきた
しくは排除されていく。それらの社会集団はし
い。「科学」に焦点をあてた記述を適切な方法
ばしばエリート集団を形成したり、統治に有用
で行うことは、今まで漠然としか把握されてこ
な知識体系や技術を生み出したりして、国家自
なかった「国家」のある一面をより鮮明に浮き
体のあり方に影響を及ぼしもするのである。こ
上がらせるためには不可欠なのである。例えば、
うした全てが、具体的にどのような経緯で起こ
科学史的な個別事例を通じて、国家がそれぞれ
ったかについて、個々の時代、場所ごとに分析
の時代においてどのように「科学的」な知を編
することは、歴史家にとって依然として重要な
成し、一方でそれらの知がどのような象徴的価
課題である。また、最後に敢えて現代的な関心
値を権力に与えてきたか、ということは十分に
に引き付けて語るなら、国家と科学が過去に辿
見えてくるだろう。また、近代以降であれば特
ってきた関係性の変遷を理解することは、我々
に、科学が技術を通してどのような物理的可能
の社会におけるそのあり方を反省的に思考する
性を国家に提示し、国家はそれをどう制御しよ
ことにもつながるであろう。いずれにせよ、挑
14 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
戦はまだ始まったばかりなのである。
2
関連する文献は数多いので、近年の動向を初学者に
もわかりやすくまとめている邦語文献を一つだけあ
1
この主題についての概要を的確にまとめているも
げる。金森修・中島秀人編著『科学論の現在』東京、
のとしては、例えば、加藤茂生「植民地における科
勁草書房、2002。
学技術の歴史叙述について」『科学史・科学哲学』No.
3
14, 1998, pp.38-40。また、塚原東吾「
『科学と帝国
医学及び数学をも含む)を暗に連想するが、本稿で
主義』が開く地平」『現代思想』特集・サイエンス・
は社会諸科学をも射程に入れることとする。また、
スタディーズ、Vol. 29-10、 2001年8月号、pp.156-175
国家という言葉は「地域社会を基盤に形成された統
など。日本における植民地科学研究の動向にとして
治の組織」という程度の緩い概念として用いる。こ
は「特集・帝国主義日本と科学:旧植民地における
の意味で、古代の専制帝国、古代ギリシアの都市国
活動をめぐって」『科学史・科学哲学』No.11, 1993
家、ヨーロッパ中世の封建国家、近代の国民国家な
にその一部がマニフェストされたように、様々な実
どは全て国家として扱うことが出来る。従って、「科
り多い結果を生んでいる。また、欧米における研究
学と国家」は文脈に応じて「科学と政治」はたまた
状況については、1990年にパリのユネスコ本部で開
「科学と統治権力」という意味にもなりうる。
催された「科学と帝国主義」についての国際会議の
4
成果をまとめた次の文献が研究の発展経緯とその広
Gender, Culture, and the Demonstration of
がりについて良い見取り図を与えてくれるだろう。
Enlightenment, Colorado, Oxford, Westview Press,
Patrick Petitjean, Cathrine Jami, and Marie Moulin
1995; Barbara M. Stafford, Artful Science.
(eds.), Science and Empires. Historical Studies about
Enlightenment Entertainment and the Eclipse of
Scientific Development and European Expansion,
Visual Educaation, Cambridge, Massachusetts, MIT
Boston Studies in the Philosophy of Science, Vol. 136,
Press, 1994(
『アートフル・サイエンスー啓蒙時代
Dordrecht, Boston, London, Kluwer Academic
の娯楽と凋落する視覚教育』高山宏訳、東京、産業
Publishers, 1992.会議の主催主体はフランスCNRSに
図書、1997).
おけるRHESEIS(=精密諸科学及び科学研究諸制度
5
に関する認識論及び歴史研究)グループであるが、
た知的活動の特殊な一部を、当時の人々には想像も
参加者は欧州からアジア、北南米と広範囲にわたっ
及ばなかったような形で切り取り、論じるのだとい
ている。特に、D. クマール、V.V.クリシュナなどを
うことは常に意識していなければならない。例えば、
中心に1970年代末からこの主題に取り組んできたイ
17世紀のブレーズ・パスカルは神の実在に賭けるこ
ンド科学史の層は厚い。第二次世界大戦中の米国に
とへの合理性を論じているが(パスカル『パンセ』
ついては、例えば橋本毅彦「科学におけるエリート
由木康訳、東京、白水社、1990,ブランシュヴィッ
主義と民主主義—議員キルゴアの批判」『現代思想』
ク版断章233,ラフュマ版断章418)
、従来はキリス
特集・科学者とは何か、Vol.24-6、 1996年5月号、
ト教護教論として知られていたこの議論を確率論史
pp.236-244などを参照。
の文脈で扱うことは可能である。だが、当然ながら
科学というと日本語ではまず自然諸科学(しばしば
Cf. Geoffrey V. Sutton, Science for a Polite Society.
すなわち、過去の基準では違う形に分類されてい
科学史・科学哲学17号 15
極端に走って、「神を用いているのは、我々が確率
説は70年代までほぼ忘れられたような扱いであった
論の応用問題で壺や白玉を用いるのと同じである」
という(例えば、松本三和夫『科学技術社会学の理
等と単純に捉えるわけにはいかないだろう。
論』東京、木鐸社、1998、pp.80-87など参照)
。
6
10
コンドルセ(1743-1794)。日本ではフランス革命期
Jens Høyrup, « Preface », In Measure, Number,
における公教育論の提唱者、及び後期啓蒙思想の進
and Weight, Studies in Mathematics and Culture, New
歩主義的立場を代表する哲学者として有名。近年、
York, State University of NewYork Press, 1994, pp. xi-
確率論により社会科学を数学的に基礎づけようとし
xii; Eric Brian, La mesure de l’Etat. Administrateurs et
た試み、「社会数学」などがフランス科学史におい
géomètres au XVIIIe siècle, Paris, Albin Michel, 1994,
て注目を集めた(Cf. P. Crépel et C. Gilain (éd.),
pp.27-32.
Condorcet, mathématicien. économiste, philosophe,
11
homme politique, Actes du Colloque de Paris , juin
績が会員の誰かに認められて推薦を受けた上、普通
1988, Paris, Minerve, 1989 )
。
会員及び名誉会員の多数決により選抜された上で、
7
Colloque international, Les Mathématiques et l’Etat,
国王の名において承認を得なければならなかった。
à Cirm-Luminy, 15 octobre- 19 octobre 2001, organisé
選挙において同点を撮った候補者のうちの1人や、政
avec le soutien de l’Association Henri Pincaré, du
治的に好ましくない人物など、承認が得られないこ
CIRM, du Centre Koyré, de l’INRP, du RHESEIS et de
とがあった(Cf. Rhoda Rappaport, « The Liberties of
la Maison des Sciences de l’Homme. ただし、これ
the Paris Academy of Sciences, 1716-1785 », Harry
以前にも類似のテーマでのシンポジウム・研究会が
Woole (ed.), The Analytic Spirit. Essays in the History
無かったわけではない。例えば1997年に行われた者
of Science. In Honor of Henry Guerlac, Ithaca and
としては、 Colloque, Mathématiques sociales et
London, Cornell Univ. P., 1981, pp.232-233)
。また、
expertise organisé par le “Laboratoire de recherches
原則として、既存会員の死亡か追放によりポストが
philosophiques sur les logiques de l’agir”, Université
あかないと入会できなかった。
de Franche-Comté.そこでの議論はThierry Martin
12
(éd.), Mathématique et action politique, Paris, éd.
européenne. 3. Des humanistes aux hommes de
INED, PUF, 2000に収録されている。だが、若干招待
sciences. XVIe et XVIIe siècle, Paris, Editions du Seuil,
された研究者の重なりはあれど、開催機関は異なる。
1973; Daniel Roche, Les Républicains des lettres.
8
Gens de culture et Lumières au XVIIIe siècle, Paris,
このシンポジウムの概要は次のURLにて閲覧可能
18世紀のパリ王立科学アカデミーにおいては、業
Cf.Robert Mandrou, Histoire et la pensée
http://www.cirm.univ-mrs.fr/(2003年2月現在)
。
Fayard, 1988 ; James E.McClellan III, Science
9
Reorganised. Scientific Societies in the Eighteenth
マートン説をめぐる科学史的論争についての経緯
は、特に、佐々木力『科学革命の歴史構造』東京、
Century, New York, Columbia Univ. P., 1985.
講談社学術文庫、1995、上巻、pp.115-125に詳しい。
13
ただし、1950年代以降のマートンによる社会学的諸
réflexive de l’objectivation”, Enquête. Antholopologie,
研究に比較すると、1930年代の業績であるマートン
Histoire, Sociologie, Marseille, no. 2, 1996, p.211.
Eric Brian, “Calepin. Repérage en vue d’une histoire
16 14
科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
この主題に関する主な著作はMassimo Mazzotti,
のである」(« The Geometers of God », p.675, n.2)
。
“Le savoir de l’ingénieur. Mathématiques et politique à
23
Naples sous les Bourbons”, Actes de la recherche en
らないものと超俗的で崇高なものとの対比を含意す
sciences sociales, Paris, Seuil, 141-142, mars 2002;
る。“Goemeter of God”, p. 697.
Idem., “The geometers of God: Mathematics and
24
Ibid., p.682-683; ”Le savoir de l’ingénieur.,”pp.94-95.
reaction in the kingdam of Naples”, Isis, 1998, (89), pp.
25
Jens Høyrup, « Mathematics and Early State
674-701; Idem., The geometers of God. Mathematics
Formation, or The Janus Face of Early Mesopotamian
in a conservative culture, Naples 1780-1840, PhD
Mathematics : Bureaucratic Tool and Expression of
thesis, university of Edimbourg, 1999.
Scribal Professional Autonomy », In Measure,
15
Number, and Weight, pp. 45-85. 書記が独自の社会
正式な国名は「両シチリア王国」(旧ナポリ王国
ここで、material-spiritualの対比は、世俗的でつま
と旧シチリア王国を含む)という。
階層として、高いプライドと職業倫理意識を持ち始
16
めるのは、権力の一元化と並行してのことであると
イタリアにおける近代の技師教育については
Mazzotti, « Le savoir de l’ingénieur », p. 86, n.3の諸文
いう。専門職業化が進み、書記養成学校の類が誕生
献参照。尚、関連するテーマとして、邦語文献でフ
した。そこで教育的目的から、実践的な必要性とは
ランス技師教育について参照出来るものには、堀内
直接関係のない「数学」の発展がみられたとホイル
達夫『フランス技術教育成立史の研究—エコール・
ップは推測する。とりわけ、具体的に行われていた
ポリテクニクと技術者養成—』
東京、
多賀出版、
1997;
のは、一見実用的な目的で行われた応用問題計算の
中村征樹「フランス革命と技師の《近代》 ̶書き換
様に見せた、しかし現実にはあまりなさそうな込み
えられる技術的実践の「正統性」
」『年報 科学・技
入った設定のなされた(例えば、非現実的に大きい
術・社会』第10号、2001、pp.1-31など。
面積の土地計算など)諸問題をひたすら解く、とい
17
Mazzotti, “Le savoir de l’ingénieur”, pp.86-89.
うことであった。また、それらの問題を解くための
18
Idem., “The Geometers of God”, pp.680-694; “Le
テクニックを示す、いわば範例のような問題も存在
savoir de l’ingéieur”, pp. 96-97.
し、問題の難易度は古バビロニア王国時代(B.C. 20
19
世紀-17世紀頃)に頂点に達したという。「範例」に
“The Geometers of God”, pp.689-690, 693-697; “Le
savoir de l’ingénieur”, p.86-88, 92.
ついては次の文献及び同書巻末の書誌にある諸文献
20
がわかりやすい。Cf. Jens Høyrup, Tertium non datur
“The Geometers of God”, p. 684-686; “Le savoir de
l’ingénieur”, p.96.
or On reasoning styles in early mathematics, Filosofi
21
og videnskabsteori på roskilde universitetscenter, 3
The Geometers of God, thesis, ch. V et VI; “Le
savoir de l’ingénieur”, p. 97; Mazzotti, “The Geometers
Rœkke : Preprints og reprints, 2002 Nr. 1。
of God”, p.694, n.38.
26
22
「数学的知識の『イメージ』とは、基本的な信念
The Interpretation of Cultures, New York, Basic Books,
の一揃いを指す。それら信念は形而上学的かつ哲学
1973 (『文化の解釈学』
、吉田禎吾ほか訳、岩波書店、
的であり、数学者共同体の実践に活力を吹き込むも
1987).
Cf.Clifford Geertz, “Religion As a Cultural System,”
科学史・科学哲学17号 17
27
SSK発展の経緯やその内容、及び有名な「ソーカ
“Scientific Experiment and Legal Expertise: The Way
ル事件」の顛末については次の文献が詳しい。金森
of Experience in Seventeenth-Century England,”
修『サイエンス・ウォーズ』東京、東京大学出版会、
Studies in History and Philosophy of Science, Vol. 20,
2000。
No. 1, 1989, p.42.
28
38
Sargent, The Different Naturalist, pp. 6-8.
Hobbs, Boyle, and Experimental Llife, Princeton,
39
“And, contrary to Shapin and Schaffer’s contention
Princeton Univ. P., 1985, PaperBack ed., 1989.
that ‘social status of a witness sustained his credibility’,
29
Boyle maintained that ‘even of honest and sincere
S.Shapin & S. Shaffer, Leviathan and Air-Pump.
例えば、Paul R. Gross & Norman Levit, Higher
Superstition: the academic left and its quarrels with
witness, the Testimony may be insufficient[if] the
science, The Johns Hopkins Univ. P., 1994, ch.3 など。
matters of fact require Skill in the Relator’ “(Sargent,
30
“Scientific Experiment and Legal Expertise,” p.44).
次の文献において、批判の論点がわかりやすくま
とめられている。Rose-Mary Sargent, The Different
40
Naturalist. Robert Boyle and the Philosophy of
41
Experiment, Chicago & London, The University of
そして選ばれることで集団の信念を共有し、集団の
Chicago Press, 1955, pp.2-11.
成員として振る舞う限りはその集団固有の様式に従
31
Shapin & Shaffer, op.cit., ch.4
って外界に影響を及ぼすようになるという概念は、P.
当時の英国は、清教革命後の内戦やそれに伴う混
ブルデューの「界」(Champ)の概念に示唆を受けた
32
Ibid., p.42.
この、知的活動を行う集団とそこへの参入障壁、
乱から、教条主義主義的な論戦を社会秩序に有害な
ものである(Cf.Pierre Bourdieu, Méditaions
ものとみなしていた。そのため、絶対的な知識への
Pascaliennes, Collection Liber, Paris, Seuil, 1997, pp.
希求を留保し、観察や論争の規則を遵守できる限ら
119-127 ; Idem., Science de la science et réflexivité,
れた人々が、人間的なレベルでの確かさを持った知
cours du collège de France 2000-2001, Paris,
識を得るために討論するべし、という実験科学者達
Raisons d’agir éditions, 2002, ch.2)。「客観性」の基
のプログラムは、政府にとって好ましいものと映っ
盤を「反射的思考」(réflexion)に求めるというのも、
たという(Ibid., ch.7)
。
彼の議論に示唆を受けている(Cf. Méditations,
33
Ibid., ch.8.
pp.133-151 ; 173-184 ; Science de la science, ch.3 )。
同論考に対する紹介及びSSK的文脈との関係に関
だが、ブルデューの「界」概念は批判も多く、19世
する分析は金森修『サイエンス・ウォーズ』pp.224-
紀以後の制度や学のディシプリンなどの対象以外に
231参照。また、『リヴァイアサンと空気ポンプ』に
そのまま当てはめるには困難が付きまとうため、本
対するいくつかの反応については同書p.277, n.69参
稿では使用を避けた(この議論の詳細及び、上であ
照。
げたもの以外の関連文献情報については、拙論「ブ
35
Ibid., p.327.
ルデューの科学論」『ブルデューを読む』東京、情
36
Ibid., p. 342.
況出版、2001、pp.104-119参照。ただし、ここ数年
37
Sargent, The Different Naturalist, p.9 ; Idem.,
の間に私の理解もブルデューをめぐる研究環境も変
34
18 科学と国家̶̶外的科学史と内的科学史の超克へ
化を遂げたため、同論文は既に色々な点で改訂・増
東京、みすず書房、1971).
補されるべきものとなっている。ちなみに、ブルデ
49
ューと後述するB.ラトゥールの理論(後者の方が英
だ、と述べたり、科学史による科学教育、科学行政、
米日科学論界では圧倒的に有名人である)は見事に
科学政策への貢献可能性を論じたりしている(クー
ネガ・ポジの関係にあるが、それらの相互対立点を
ン「科学史」pp.134,147-147)
。80年代以後、クーン
調停することは可能だろうと私は考えている。だが、
の意図した形とは違っていたかもしれないが、これ
それは本稿の仕事ではない。
らはほぼ実現していったといえる。ちなみに、クー
42
ンの思想を体系的に把握しようとする意欲的な試み
ある一世代によって作られたものは、先人達によ
例えばクーンは、社会科学の歴史も行われるべき
って既に成されたものを前提条件としているが、そ
も近年色々生まれている。Cf. Paul Hoyningen-Huene
れが同時代に知られ理解されていた様態を通じて前
et al., Die Wissenschaftsphilosophie Thomas S.
提条件となっている。後続する時代は固有なやり方
Kuhns : Rekonstruction und Grundlagenprobleme,
で伝統を解釈しているが、それは必然的に創造的な
Wiesbaden, Vieweg, Braunschweig, 1989
意味での理解=誤解を伴うものである(Høyrup, In
( Reconstructing scientific revolutions : Thomas S.
Measure, Number, and Weight, pp.xv-xvi)
。
Kuhn's philosophy of science, translated by Alexander
43
Ibid., p.xv.
T. Levine with a foreword by Thomas S. Kuhn,
なお、日本の状況については、佐々木力『学問論』
Chicago, University of Chicago P., 1993) ; S. Fuller,
44
東京大学出版会、1997、p.172及びp.175 n.46, 47の
Thomas Kuhn. A Philosophical History for Our Times,
文献参照のこと。
Chicago and London, The Univ. of Chicago Press,
45
2000 (S.フラーはクーンの科学モデル自体、彼が執筆
トーマス・クーン「科学史」
、『科学革命における
本質的緊張—トーマス・クーン論文集』安孫子誠也・
を行っていた冷戦時代の科学像を色濃く反映し、か
佐野正博訳、東京、みすず書房、1998、
p.130(T.S. Kuhn,
つ政治的含意を含むのもであったとして、クーンの
“The History of Science”, The Essential Tension.
著作について体系的な解釈を図ろうとした。ただし、
Selected Studies in Scientific Tradition and Change,
フラーの議論には先走りを感じさせる部分もある(例
Chicago, Univ. of Chicago P., 1977).
えばS. Fuller, op.cit., pp.185-186)
。邦語で読める文
46
献で、クーンを80年代以後の思想的文脈との絡みで
Experimental Traditions in the Development of
詳しく扱っているものとしては、Joseph Rouse,
Physical Science, “ The Essential Tension (「物理科
Knowledge and Power. Toward a Political Philosophy
学の発達における数学的伝統と実験的伝統」安孫子
of Science, Cornell Univ. P., 1987(ジョゼフ・ラウズ
誠也他訳、『本質的緊張』).
『知識と権力』成定薫他訳、東京、法政大学出版局、
47
クーン「科学史」pp.145-146.
2000)など。
48
同上、pp.244-145 ; Cf. T. S. Kuhn, The Structure of
50
同書、p.144-145 ; Cf. Kuhn, “ Mathematical versus
このSSKの科学・技術観は現在の科学論にも受け
Scientific Revolutions, Chicago, Univ. Chicago P.,
継がれている。例えば、金森修「科学の人類学」『サ
1962, 2nd ed., 1970 (『科学革命の構造』中山茂訳、
イエンスウォーズ』, pp. 157-205及び小林信一「モ
科学史・科学哲学17号 19
ード論と科学の脱—制度化」『現代思想』特集=科
学者とは何か、pp.254-264など。.
51
Cf . 中島・金森編著『科学論の現在』第4章(杉山
滋郎)
、第5章(小林傳司)
、第6章(藤垣裕子)
。
52
ちなみに、本稿で紹介したマッシモ・マゾッティ
はエディンバラ大学のサイエンス・スタディーズユ
ニット出身であり、いわば科学史におけるSSK直系
の後継者にあたる。彼の最初の論文においては、D.
ブルアへの特別な謝意が表されている。だが彼は、
SSKでは主流にならなかった「数学の社会史」を方
法論的基盤に持っている。数学の社会史に関連する
文献については次を参照。Mazzotti, “ The Geometers
of God, " p. 675, n.1。
53
この点について間接的な示唆を得たのは次の
諸文献からである。詳細は別の機会に論じたい。
Cf.Michel Foucault, ”The Subject and Power,”
afterword in H. Dreyfus, and P. Rabinow, Michel
Foucault. Beyond structuralism and
hermeneutis, Chicago, Univ. of Chicago P.,
1982, pp. 208- 226(「主体と権力」渥海和久訳
『思想』No. 712, 1984年4月号, pp. 235-249);
Idem., Histoire de la sexualité. II. La volonté de
savoir, Paris, Gallimard, 1984 ; 米谷園江「ミシ
ェル・フーコーの統治性研究」『思想』No. 870,
1996年12月号, pp.77-105。
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