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イラク戦争開戦過程における米英関係
イラク戦争開戦過程における米英関係 序章 第一章 米欧関係の構造的変化 第二章 第二次世界大戦後の米英関係の展開 第三章 イラク戦争開戦過程における米英関係の展開 終章 東京大学法学部 4 年 村上 政俊 序章 日米同盟は、冷戦終結後の時代にあって、2001 年 9 月 11 日のアメリカにおける同時多発テロ の発生等の国際安全保障環境の変化を背景に、摩擦のみられた米欧関係とは対照的に強化され てきた。 日米同盟のマネジメントに関して、日本側の外交当局者からは、米国のリーダーシップに影響を 与えて日本の関心や利益を反映させる方策として、多極化を目指すことは日本のとる選択肢では なく、むしろ、「パートナーとしてなかから政策に影響を与えようとする」1、「アメリカの政策が望ましく ないと思ったら、あるいはこうしてほしいと望むなら、アメリカから距離を置くのではなく、もっとアメリ カに近づいて、中に飛び込んで説得する」2のが、日本の姿勢であるという認識が示されている。 翻って、日本と同じくアメリカの同盟国であるイギリスのトニー・ブレア(Tony Blair)首相の、アメリ カの対外政策に影響力を行使しようとするアプローチを、イギリスのジャーナリストであるピーター・ リデル(Peter Riddell)は、イギリス外交に伝統的な「堅く抱擁するアプローチ(hug them close approach)」と呼んでいる3。それは必ずしも友好的な感情や、思想的同一性から「抱擁」を行うの ではなく、影響力行使のためのプラグマティックな理由からの「抱擁」でもある。 筆者の原初的な関心は、日本がアメリカとどういう外交関係を築くべきかを考えるにあたって、イ ギリスがアメリカとどのような外交関係を結んできたかを参考にしたいというものである。もとより、同 じアメリカの同盟国といっても、日英両国の置かれている状況は、自ら対外的に軍事力を行使でき るかという基本的にして最も重要な点から異なるので、その単純な比較は控えなければならないし、 日米関係の在り方にまで言及する紙幅も能力も残念ながら筆者は持ち合わせていない。よって本 稿では、近年の米欧関係の構造的変化を踏まえたうえで、米英両国が対立点を抱えながらもそれ を乗り越え(あるいは未解決のままで)、2003 年の対イラク武力行使に至った道筋を述べる。また、 数あるアメリカの同盟国の中からなぜイギリスを選んだかは第一章の最後で簡述する。 では、なぜ事例としてイラク戦争を選択するのか。第二次世界大戦後にアメリカが大規模な兵力 を投入した事例のうち、65 年ドミニカ介入では最大 2 万人、89 年パナマ侵攻では 2 万人、92 年ソ マリア派兵では 3.5 万人、93 年ハイチ派兵では 2 万人が投入されたに過ぎない。戦後、数十万人 規模の兵力派兵が行われた事例は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争のみである。 アメリカが大規模な地上軍派遣にまで至り、莫大な戦費を要したこれら 4 つの事例では、他国に費 用を分担させるために、国際組織や多国籍軍を活用した多国間アプローチをアメリカが採用するイ ンセンティブが強かったといえる。これら 4 つの事例と国連決議の関係を見てみると、朝鮮戦争と湾 岸戦争の際には国連決議が採択され、朝鮮戦争時は西側大国間の、湾岸戦争時にはソ連を含め た大国間の協調が成立し、アメリカの軍事行動に対して同盟国の間で大きな対応の亀裂は生じな かった。これに対してベトナム戦争、イラク戦争の際にはアメリカの軍事行動を明確に認める国連 決議は採択されず、同盟国の対応は異なる結果となった。ここで、アメリカの軍事行動を明確に容 認する国連決議がなければ、同盟国が対応を決定する際には、国連に関する規範的要素が作用 しなかったという推定をおくことが可能になるという分析上の利点も存在する。以上に加えて、より現 在に示唆を多く含むと考えられるイラク戦争を本稿における事例として選択する。 第一章では、近年の米欧関係の構造的変化について、国際安全保障環境の変化、欧州統合、 価値観・世界観の違いという三つの視点から論じ、イラク戦争開戦過程においてイギリス政府がア メリカ政府と行動を共にした(特に、フランス、ドイツと比べての)特異性について述べる。 第二章で、第二次大戦後のアメリカ、イギリスの軍事的関係について簡述したうえで、第三章で イラク戦争開戦過程における米英関係を時系列に従って述べる。 終章では、簡単な総括を述べる。 第一章 米欧関係の構造的変化 米欧関係とは、単にアメリカとヨーロッパとのバイラテラルな関係に限定されない。むしろそれ を、国際社会の中核的な問題と捉えるべきあろう。国連安保理の常任理事国の中で、アメリカ、イギ リス、フランスと三つの大国がその席を占めている。また、WTO(世界貿易機構)や OECD(経済協 力開発機構)などの国際経済組織の中でも、中核的な構成員となっている。G8 サミット(先進国首 脳会議)の中でも、日本とロシアを除く 6 カ国が米欧となっている。国連憲章が規定する「国連軍」 が現段階で実現されることが困難な状況で、NATO(北大西洋条約機構)に匹敵する規模の実効 的な多数国間軍事機構は世界に存在しない。それのみならず、現在の国際法や外交制度などの 国際社会の基本的な規範は、ヨーロッパやアメリカが中心となって構築されてきたものである。つま りは、米欧関係が機能麻痺することは、国際社会全体で問題を解決する上で、大きな支障をもたら すというべきであろう。 しかしながら、2003 年 3 月に始まったイラク戦争に至る過程の中で、米欧関係は顕著な形でそ の摩擦と対立の構造を明らかにした。いわゆる「ネオコン」の代表的論客の一人ロバート・ケーガン (Robert Kagan)に至っては、圧倒的な力を誇るアメリカとそれに対応できないヨーロッパとの間に は、国際政治をめぐって深刻な認識の差があり、アメリカ人とヨーロッパ人は今や火星人と金星人 ほど異なり、同じ地球人としてコミュニケー¥¥¥¥ションをとるのは、ほとんど不可能だとした4。対立 の深刻化をもたらした要因としては、フランスやドイツの国内事情も重要ではあるが、より本質的に は、①国際安全保障環境の変化②欧州統合③価値観、世界観の違いという構造的なものがあると 考えられる。 ①国際安全保障環境の変化 冷戦が終結してヨーロッパにおいて大規模な戦争の起こる可能性 はなくなり、ヨーロッパ諸国にとっては安全保障面でアメリカの軍事力に依存する必要性が相対的 に低下した。同盟堅持の絶対的な要請の枠が外れ、米欧の対立が浮上しやすい状況となってい る。 他方、2001 年 9 月 11 日のアメリカにおける同時多発テロは、アメリカの安全保障観に大きな影 響を与えた。同時多発テロはアメリカの中枢部への攻撃という意味では、1812‐14 年の米英戦争 以来の出来事であり、現在は建国以来、自国の安全保障におそらく最も敏感になっている。超大 国でありながら、外部からの攻撃に対してアメリカ本土が脆弱性を抱えていることにアメリカ国民は 気づいた。対外政策において、テロとの戦い及び大量破壊兵器等の拡散の防止が最優先課題と なり、国内においても、新たな国土安全保障措置が講じられてきている。戦争の只中にあるという のが、アメリカ国民の意識である。自国の安全に対する危険が具体化しないよう、先制攻撃の選択 肢も排除しない。 テロには、ヨーロッパ諸国も以前から悩まされてきている。しかしながら、アメリカが直面したのは 新しいタイプのテロであるのに対し、ヨーロッパが従来直面してきたのは、むしろより小規模な古い タイプのテロの脅威であって、両者が質的に異なることから、脅威認識の違いが生まれ、この結果、 9 月 11 日の直後の米欧の結束は、時の経過と共に損なわれた5。ヨーロッパ諸国としても、テロとの 戦い及び大量破壊兵器等拡散の問題の深刻さは理解し、世界は本当に危険な所になったと実感 しているとはいえ、戦争中であるとの認識はない6。 更に、ヨーロッパの人々の目には、アメリカは軍事力の影響力につき過大評価するきらいがあり、 複雑な問題に対して単純な対応策を模索しているとうつり、先制攻撃の可能性を否定しない新ドク トリンは、国際システムの本質やアメリカ自身のイメージに不安定化の影響を及ぼすものとみなされ る7。テロについては、その原因や温床となっている問題に対処することも重要であり、武力行使へ の過度の依存は一層のテロ行為を誘発するおそれがあるということであろう。 アメリカの脅威認識がヨーロッパによって十分には共有されず、アメリカの切実な対応に比しパ ートナーであるはずのヨーロッパの動きはそれほど迅速ではなく、国土安全保障協力に消極的で あったとみられている8。ヨーロッパは事なかれ主義であるとの思いがアメリカ側にあり、アメリカは短 絡的であるとの思いが欧州側にあるという状況は、パートナーとしての米欧の長期的関係にとって 危険である9。 ①欧州統合 欧州統合の深化と拡大により、ヨーロッパの力が増大する方向にある。軍事力の面 でのアメリカの世界における圧倒的な優位は当分の間揺るがないとして、経済力の面ではEU(欧 州連合)はアメリカに並ぶ規模を有することとなり、また、ヨーロッパの政治力、影響力あるいはソフト パワーは国際社会において重きをなしている。米欧間の力関係の変化は、アメリカのリーダーシッ プのヨーロッパによる受容の在り方、また、ヨーロッパの国際秩序上の位置付けについてのアメリカ の見方に影響を与え、米欧間に時により留保や不信が生じやすい状況をもたらす。 ③価値観、世界観等の違い 価値観を共有していることが、米欧の同盟関係を支えてきた重要な 要素の一つである。歴史的なつながりが強く、自由、民主主義、人権、市場経済といった理念が深く 共有されていることは論を待たない。他方、ブッシュ大統領が二期目の政権を発足させるに当たり 「建国の理念を現在の状況にあてはめながら、理想主義的かつ宗教色の濃い就任演説」10を行っ たことにもみられる今日のアメリカ社会の特徴は、多様性を尊重しようとするヨーロッパの動向とは趣 を異にする。死刑の存続といった問題をめぐる米欧の立場の違いや、市場原理の徹底を志向する アメリカと格差拡大を是正するための政府の役割の意義を重視するヨーロッパとの違いもある。アメ リカの推進するグローバリゼーションに対するヨーロッパの警戒心もある。価値観や文化に係る今日 の基本的な問題についての考え方の違いは、とりわけ、それが互いに対する固定化したイメージを 生むとき、互いに対する反感の温床となり得る。アメリカのヨーロッパに対する偏見の例として、2002 年5月のフランス大統領選挙で、極右のジャンマリー・ルペン(Jean-Marie Le Pen)候補が善戦し た際、アメリカのメディアには、「あたかもフランス全土が反ユダヤに傾いているかの如き調子で語る ものが目立った」という11。ヨーロッパがアメリカの中東政策を過度に親イスラエル路線に傾いている と危惧しているのに対して、アメリカはヨーロッパの伝統的反ユダヤ主義に過剰に反応している。ま た、ヨーロッパ(特に、知識人層、エリート層)には伝統的にアメリカの政治や外交、文化に対する優 越感と偏見がある。ドイツ統一を果たした鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)は「神は、愚か者と酔っ払いとアメリカ合衆国には特別の摂理をおもちである」という言 葉を残している。もちろんこれは、アメリカは神の特別な摂理によって生まれた、と繰り返し強調した 建国の父祖たちへの皮肉であり、アメリカのように多元的で矛盾に満ちた社会で国益に基づく一貫 した外交政策が実施できるとすれば、それは「神の摂理」の賜物に他ならない(つまり、アメリカには 一貫した外交政策などない)という意味である。イギリスの外交官ジェームズ・ブライス(James Bryce)に至っては、アメリカに外交政策を求めることは、アイルランドで蛇を捜すに等しい(アイルラ ンドに蛇はいない)とすら論じている。文化の分野でも、例えば、ウィンダム・スミス(Windom Smith 19世紀の画家、批評家)は、「画家を志すなら、ミネソタで長老教会信者に生まれるよりエス キモーに生まれた方がよい」、と述べている12。前者は典型的なアメリカ人、後者は当時の認識で は「野蛮人」を指しており、つまり、一般的なアメリカ人には「野蛮人」並みの審美眼すらないと揶揄 しているわけである。 国際秩序をめぐる認識についても、米欧間には、それぞれの歴史経験から醸成された二つの異 なった伝統があるといわれる。すなわち、アメリカにおいては、普遍主義への強い欲求があって、世 界を一元的で求心的なものとして捉え、世界全体としての安全保障や民主化が可能と考えるのに 対して、ヨーロッパでは、多元主義の文化が底流にあって、世界を多様な文化や宗教や価値を内包 するものとして考えるという13。また、力の格差にも由来する戦略文化の違いが指摘される。アメリカが、 いかなる問題であれこれを解決しようと試み、解決することができるとする楽観主義に立っているの に対して、ヨーロッパには、問題はむしろ管理しようとするにとどめる傾向、悲観主義があるという14。 このように、米欧関係が構造的に変化する中で、イラク戦争開戦過程においてイギリス政府は注 目すべき役回りを果たした。イギリスは1998年以降にはEUの防衛統合を積極的に発展させる上 でイニシアティブを発揮しながら、イラク戦争においてはアメリカと歩調を合わせて武力行使に踏み 切り、フランス、ドイツ両国政府との関係を悪化させた。しかし他方で、戦争終結後は再び仏独両 国政府に歩み寄り、米欧間の亀裂の修復と、EU対外政策の一体性の保持を目指して、奔走する ことになった。この米欧対立の中で、従って、イギリスは独特な役割を担ったといえる。言い換えれ ば、米欧間の協調を最も熱心に求めたのがイギリス政府だったともいえる。 第二章 第二次世界大戦後の米英関係の展開 アメリカは、第二次大戦においてヨーロッパでの戦闘に参加し、各国に軍隊を派遣した。イギリス においては 1942 年から 1945 年の間に、165 の軍事基地を使用し、多くの旅団や大隊などを駐留 させ、ここからドイツ攻略の戦いに出撃した。アメリカ駐留軍は、戦争の終結によっていったん本国 に引き揚げるが、冷戦の開始によって再びイギリスに戻った。イギリスは、ソ連のモスクワに対しても、 東ヨーロッパに対しても非常に近く、アメリカの冷戦遂行上、重要な位置にあった。イギリスの側でも、 1945 年から政権を担当した労働党も、1951 年から政権を担当した保守党も、ロンドンがソ連から 攻撃されやすい位置にあることについて深い危惧をもっており、ソ連に対する抑止力としてのアメリ カ軍基地を維持したいと考えていた。冷戦の緊張が高まるのに応じて、イギリスに駐留するアメリカ 軍兵士は増加し、1953 年には 2 万 6873 人になった。冷戦終結後にこの数は減少し、2003 年で は 1 万 1097 人であるが、現在もアメリカ軍基地は、ケンブリッジ近くのオールコンベリー基地や、イ ングランド東部にあるウッドブリッジ基地をはじめ、多くの地点に置かれている。 イギリスにおけるアメリカ軍の地位に関しては、イギリス国内では「駐留軍法」として 1952 年に立 法され、これが現在でも使われている。アメリカ軍がイギリス法を侵害した場合の裁判の方法などに ついては、日本の日米地位協定に極めて類似した制度になっており、アメリカの軍人についての 裁判権は、基本的にはアメリカの軍裁判所が掌握している。 また、米英軍事的一体化の代表例としては、インド洋の英領植民地、チャゴス諸島のディエゴ・ガ ル シ ア 基 地 が 挙 げ ら れ る 。 現 在 、 デ ィ エ ゴ ・ ガ ル シ ア は 、 ア メ リ カ が 「 不 安 定 の 弧 (arc of instability)」と呼ぶユーラシア大陸南部周辺の広大な領域の中で、沖縄以西の唯一のアメリカ軍 基地であり、アメリカ本土以外では最大の設備を有している。アフガニスタン戦争やイラク戦争にお いて、B52 爆撃機やステルス戦闘機の発信基地として使用され、文字通りアメリカの世界戦略の要 となっている。 ディエゴ・ガルシアに限らず、アメリカ軍とイギリス軍は互いに補完するように、世界展開している。 例えば、アフリカや旧ユーゴ地域にはイギリス軍のみ、中東地域でも住み分けている。ブルネイにも、 1984 年の独立以後条約に基づいてイギリス軍 1200 名余りが駐留しており、その多くは大英帝国 時代から精強な傭兵として有名なネパールの「グルカ兵」である。大英帝国が完全に解体し、イギリ スの経済危機が深刻化した 1970 年代以降、基地や兵器体系、とりわけインテリジェンスの分野で、 軍事的一体性は高まっていった。サッチャー政権のフォークランド奪還が軍事的に成功したのも、 インテリジェンスを提供したアメリカの協力によるところが大きかった15。 第三章 イラク戦争開戦過程における米英関係の展開 イギリスのブレア政権が、イラクに対する軍事行動へと向かうアメリカの動きに敏感になっていっ たのは、2002年の春から夏、特に4月のテキサス州クロフォードでの米英首脳会談の際であった。 ブッシュ大統領は6月、ウェストポイントの陸軍士官学校での演説の中で、「先制攻撃 (pre-emptive strike)」という概念に言及した。またこの頃、ロバート・ケーガンが、「力と弱さ (Power and Weakness)」と題する論文の中で、米欧対立とアメリカの力の行使の正当化につい て触れていた16。ブレアに密着取材を許されたジャーナリストのピーター・ストサード(Peter Stothard)は、この頃の米英交渉について検討している。そこでは、ブレアの対米協調へ進む論 理構成が記されている。第一に、「ジョージ・W・ブッシュ大統領とサダム・フセインとの第二次湾岸 戦争は、他者が何を言おうとも、あるいは何をしようとも、始まるであろう」。そして第二には、「イギリ スやヨーロッパ大陸の人々、そして世界の殆どの人々は、国連を通じた協議なくしては、戦争を支 持するようなことはないであろう」。そして第三には、これが最も重要であるが、「アメリカが単独でフ セインを打倒することは、長期的な世界の平和や安全保障に対して、深刻なダメージを与えるであ ろう17」。つまりは、2002年夏頃のブレアは、イラク戦争の勃発が不可避と確信しており、そしてアメ リカが単独で戦争を開始する長期的なダメージを深刻に懸念していたのだ。 そのような懸念を抱くブレアは、もしもイラク戦争が不可避であるとすれば、国連を通じて、「国際 共同体」が一体となってイラク戦争を開始する必要を痛感した。2002年9月、ブレアは訪米して、キ ャンプ・デービッドでのブッシュ大統領との会談で、この問題を討議することになった。そこでのパッ ケージ・ディールは、次のようなものであった。まず第一に、アメリカは外交ルートを通じて国連によ る問題解決を目指す。そして第二に、もしも国連外交が失敗した後には、イギリスは国連決議がな い場合でも、アメリカとともにイラク戦争に参加する18。これによって短・中期的なイギリス外交は、拘 束されることを意味した。つまりは、アメリカの国連外交と引き替えに、イギリスはイラク戦争への参 戦を約束してしまったのだ。しかしながら、アメリカ政府が本当に国連外交を重視するか否かは、分 からなかった。確かに秋には国連安保理第1441号決議の採択に、米英両国政府は成功する。し かしながら、イギリスのジャーナリストのジョン・カンプナー(John Kampfner)が指摘するように、ブ レアはアメリカ政府内でどれだけ多国間主義や国連外交が嫌悪されていたか、過小評価していた のであろう19。そのことが、後にブレアを苦悩させることになる。そして同時に、ブレアは自らの影響 力を過大評価していた。その点については、ピーター・リデルも指摘している。また、サッチャー政 権で外交顧問を務めたパーシー・クラドック(Sir Percy Cradock)は、次のように警鐘を鳴らしてい た。「状況の推移に対する我々の影響力は限られており、アメリカ人達は圧倒的な国力と責任を有 しているのだ20」。 ブレア首相は、自らがアメリカ政府のとる政策に影響を与えることが出来ると過大評価していた。 と同時に、アメリカが単独で行動することを回避させようと尽力していた。ブレアが目指したことは、 アメリカとヨーロッパが協調して、イラク問題を解決することであった。アメリカ政府が断固として戦争 をする意志である限り、イギリスにできることは、国際社会の結束を構築してイラク戦争を国際協調 の枠組みの中で行わせることであった。そのような意図の下で、2003 年 1 月 7 日、ブレアはイギリ スの在外大使をロンドンに一時的に召還して、戦争へ向かう自らの意図を次のように説明していた 21。 「私は反米主義には驚きはしない」。しかし、「それはばかばかしい贅沢なのだ」。というのも、ア メリカと「緊密な同盟国であること自体が、我々にとっての重要な利益なのだ」。アメリカに対して影 響力を行使することが、イギリスにとっての利益となる。「影響力の本当の意義とは、非常に扱いにく い困難な問題において、我々が、アメリカを単独で行動させないということなのだ」。アメリカが単独 で行動することこそが、国際社会にとっての致命的なダメージとなる。「この問題においてアメリカを、 単独で行動させない必要があるのだ。もちろんそれは、国連を通じて扱うべきだという意味であり、 それはこれまでアメリカが行ってきたことでもあるのだ」。 しかしながら、そのような戦略は2003年1月から2月にかけて崩壊する。そのような崩壊は、まず はドナルド・ラムズフェルド(Donald Ramsfeld)米国防長官の記者会見から目に見える形で始ま った。ラムズフェルドは、イラク戦争開始に反対している仏独両国に触れて、次のように論じた。「あ なたがたは、ドイツやフランスをヨーロッパだと考えている。私はそうは思わない。それは古いヨーロ ッパなのだ。もしもNATOのヨーロッパ全体を眺めれば、重心は東方へと動いている。ドイツはこれ までずっと問題であって、フランスもそうであった。しかしヨーロッパの他の圧倒的な数の諸国を見 なければならない。それらの諸国はフランスやドイツとともにはなく、アメリカとともにあるのだ*」。こ のラムズフェルド発言により、仏独両国政府の態度をさらに硬化させてしまったことは間違いない。 イギリス『ガーディアン(Guardian)』紙の社説は、「悪い状況をさらに悪化させるのは、いつもドナル ド・ラムズフェルドである」と論じた22。 実際に、2003年の2月から3月に至る時期に、米欧間の対立は誰の目にも明らかとなった。2月 14日の国連安保理での、ドミニク・ドヴィルパン(Dominique de Villipin)仏外相とコリン・パウエル (Colin Powell)米国務長官が劇的な対立を繰り広げた。そのような米欧対立に最も懸念を抱き、 最も苛立ったのはブレア首相であった。フランス政府の頑迷な姿勢に、次第にブレアは怒りを露わ にする。3月11日、フランス政府はどのような状況であってもイラク戦争に反対するという声明を出し、 拒否権行使を明らかにしたときに、ブレアの怒りは頂点に達した。これによって、ブレアがそれまで 求めてきた「国際共同体」の結束を求める外交は、崩壊したのだ。その点について、カンプナーの 記述が参考になる。「首相は怒ることが好きではない。とりわけ、怒っているところを見せることは好 きではなかった。しかしそのとき彼は怒っていた。『世界の歴史の中で、現時点でそのような行動を とるとは、なんてばかげているのだ。国際機構を強化すべき人々が、それを傷つけて、もてあそん でいるのだ』23」。 しかし、イギリス政府内で、誰もがブレアのようにアメリカと協調してイラク戦争に参加することを当 然と考えていたわけではなかった。それによるイギリスの不利益を計算する者も少なくなかった。ジ ャック・ストロー(Jack Straw)外相は、開戦直前までイギリスの戦争加担に疑問を感じていたようで ある。カンプナーによれば、2003 年の年が明けて、外務省での仕事に復帰するとすぐに、ストロー 外相は戦争開始を遅らせようと試みていた。ある閣僚は、次のように述べたという。「ジャックは、紛 争を回避する可能性があると心から信じていた。そして、それが不可避であるならば、第二決議な しでイギリスが戦争に参加すべきか否か、疑念を抱いていた24」。そして実際にストローは、そのよう にブレアを説得しようと試みていた。カンプナーによれば、3 月 16 日にブレアが大西洋のアゾレス 諸島でのブッシュ大統領との会談から戻ってくると、「私的なメモランダム」を書いて、首相に他の選 択肢が本当にないのか説得しようと試みた25。これがイギリス下院でも話題に上った「ストロー・メモ ランダム」と呼ばれるものである。しかしブレアは既に戦争を決意していた。というのも、「アメリカの 単独的な勝利が世界に及ぼす影響こそが、トニー・ブレアの最も懸念する国連決議失敗の結末で あった26」。そしてブレアは、3 月 20 日午前の国民に向けた演説の中で、疲れ窶れた表情を見せな がら、開戦への根拠を説得した。「イギリスは、後に隠れているような国家であったことは一度もな い」のだ。米軍はイラクの戦略拠点に対して大規模な攻撃を開始した。 このブレアの決定に最も強烈な抗議を訴えたのは、元外相で重要閣僚であったロビン・クックで ある。彼は、アッシュのいう「グラッドストン」型の外交指導者であり、外交における倫理的側面を重 視して、親欧州的な姿勢を示して、アメリカとの協力には躊躇を示すことが多かった。そのようなこと が、彼が第二次ブレア政権で外相の座を失った要因でもあった。クックは結局ブレアの決定に抗 議して、開戦直前に閣僚職を辞職していた。そして、戦争が始まった後の 4 月 17 日には、『ガーデ ィアン』紙において、「ブレアのブッシュとの同盟は、損失の大きな戦略的失敗である」と語っていた 27。ブッシュの開始した戦争は、「ヨーロッパ」の分裂を招いたのみならず、イギリス対外政策の分裂 をももたらしてしまった。 終章 アメリカとイギリスでの相違点は、国連決議をどの程度重視するかという点と、第三章では触れな かったが、パレスチナ問題へのスタンスであった。ブレア首相はパレスチナ解放機構のアラファト議 長と個人的にも親しく、イラク問題とパレスチナ問題の両方を解決して初めて中東が安定すると考 えていたのに対し、アメリカはパレスチナ問題にはそれほど熱心ではなかった。 また、イラク戦争開戦直前にイギリスの世論調査会社 MORI(Market and Opinion Research Institute)が行った調査では、大量破壊兵器の脅威が真実ならば、イギリスが戦争に参加すること もやむを得ないとする声が反対の声を上回っていた。また、大量破壊兵器の隠蔽について十分な 根拠がない場合でも、安保理の決議があれば戦争に参加すべきだとする声も反対を上回っていた。 戦争反対の声が圧倒的に大きいのは、大量破壊兵器の根拠も安保理の決議もない場合だけであ った。しかし、結局、国連での第二決議は採択されず、世論の反対と与党労働党からの大量造反 という代償を払ってまでもブレア政権はアメリカと共に対イラク武力行使に踏み切った。 開戦から二年後の 2005 年 5 月にイギリスでは総選挙が行われたが、ブレア政権はイラク戦争で 失った支持を挽回できなかったにも関わらず、勝利を収めた。この原因を探ることも興味深いが、こ の論点は稿を改めて論ずる必要があるだろう。 田中均「外交の今日的課題」『外交フォーラム』187 号 2004.2 p.50 2 加藤良三「未来につなぐ日米関係」『外交フォーラム』200 号 2005.3 p.19 3 Peter Riddell, Hug Them Close: Blair, Clinton, Bush and the ‘Special Relationship’ (Politico's Publishing, 2004) p.2 4 ロバート・ケーガン(山岡洋一訳)『ネオコンの論理――アメリカ新保守主義の世界戦略』(光文社、 2003 年) 1 5 Jonathan Stevenson, "How Europe and America Defend Themselves." Foreign Affairs, vol.82, no.2 (March/April 2003) p.75. 6 ドミニク・モイジ「岐路に立つ米欧関係」『外交フォーラム』175号, 2003.2, p.55. 7 同上 p.55-56. 8 Stevenson, op.cit., p.75-76. 9 モイジ 前掲論文 p.59. 10 加藤 前掲論文 p.19 11 小倉和夫「フランスがアメリカにたてつく本当の理由」『論座』2003.11, p.13 12 アラン・ブルーム(菅野盾樹訳)『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房、1988年) p.4. 13 細谷雄一「世界秩序の中の米欧関係」『国際安全保障』31巻1-2合併号, 2003.9, p.16. 14 Philip H. Gordon, "Bridging the Atlantic Divide." Foreign Affairs, vol.82, no.1 (January/February 2003), p.73. 15 Corelli J. Barrlett, The Special Relationship: A Political History of Anglo-American Relations since 1945 (London: Longman 1992), p.123-124. 16 Robert Kagan, “Power and Weakness”, Policy Review, no.113, June/July, 2002, pp.3-28. 17 Peter Stothard, 30DAYS: A Month at the Heart of Blair’s War (London: Harpers Collins Publishers, 2003), p.87. 18 John Kampfner, Blair’s Wars (London: Free Press,2003), p.21. 19 Ibid., 20 p.199. Percy Cradock, In Pursuit of British Interests: Reflections on foreign policy under Margaret Thatcher and John Major (London: John Murray, 1997), p.26; Riddell, Hug Them Close, p.26-7. 21 Blair’s speech at the Foreign Office Conference, London, 7 January 2003. 22 “Europe Old and New”, The Guardian, January 31, 2003. 23 Kampner, Blair’s War, p.14. 24 Ibid., p.302. 25 Ibid., p.303. 26 Stothard, 30 Days, p.85. 27 Robin Cook, “Blair’s alliance with Bush is a damaging strategic error”, The Guardian, 17 April, 2003. 参考文献 ・ボブ・ウッドワード/伏見威蕃訳 『攻撃計画―ブッシュのイラク戦争』 日本経済新聞社 2004 ・梅川正美・阪野智一編 『ブレアのイラク戦争』 朝日新聞社 2004 ・多湖淳 「安全保障の手段選択における「費用分担」と「正当化」―なぜアメリカは多角的アプロー チで行動するのか?」『国際関係論研究』 国際関係論研究会 2002 ・多湖淳 「アメリカの軍事行動における「手段選択」1946~2000年データセットの提示と解釈」『ア メリカ太平洋研究』東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター 2002 ・船橋洋一編 『同盟の比較研究―冷戦後秩序を求めて』 日本評論社 2001 ・船橋洋一 『同盟を考える―国々の生き方』 岩波新書 1998 ・ジョン・ベイリス/佐藤行雄・重家俊範・宮川真喜雄訳『同盟の力学―英国と米国の防衛協力関係』 東洋経済新報社 1988 ・櫻田大造・伊藤剛編 『比較外交政策―イラク戦争への対応外交』 明石書店 2004 ・山本浩 『決断の代償―ブレアのイラク戦争』 講談社 2004 ・John Kampfner, Blair’s Wars, Free Press, 2003 ・Philip Gordon and Jeremy Shapiro, Allies at War: America, Europe, and the Crisis Over Iraq, Brookings Institution, 2004 ・Peter Stothard, 30DAYS, A Month at the Heart of Blair’s War, Harpers Collins Publishers, 2003 ・ToddS. Purdum and the staff of New York Times, A time of our choosing: America’s war in Iraq, Times Books, 2003 ・Willam Shawcross, Allies: The U.S., Britain, Europe, and the War in Iraq, Public Affairs, 2004 ・http://www.number-10.gov.uk ・http://www.timesonline.co.uk/ ・http://guardian.co.uk