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Title ファン・ゴッホとロシア文学

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Title ファン・ゴッホとロシア文学
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ファン・ゴッホとロシア文学 : く夜のカフェ〉、くアル
ルの病室〉とトルストイ、ドストエフスキー
圀府寺, 司
待兼山論叢. 美学篇. 31 P.1-P.18
1997
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/48231
DOI
Rights
Osaka University
1
ファン・ゴッホとロシア文学
く夜のカフェ〉、くアルルの病室〉とトルストイ、ドストエフスキー
閏府寺可
ファン・ゴツホが移しい数の文学作品を読んでいたことはすでによく知
られている。少、青年期には主にゲーテ、ハイネ、リュッケルトなどのド
イツ文学を読み、後にイギリスのヴィクトリア朝文学、そしてフランス自
然主義文学を愛読した。これらの文学作品、とりわけヴィクトリア朝文学
と自然主義文学とファン・ゴッホの絵画作品の関わりについては、すでに
多くの研究に指摘されているが、ロシア文学については、ほとんどふれら
れることがなかった。 1)たしかに、ファン・ゴッホが熱愛したフランス自
然主義文学にくらべれば、仏訳ロシア文学は彼の読書範囲のごく一端でし
かないし、当然ながら彼自身の絵画作品との繋がりも少ない。しかし、ファ
ン・ゴッホの主要作品の創作過程あるいは自作の記述過程において、ロシ
ア文学作品が重要な意味合いを担っていたことはまちがいない。本稿では
く夜のカフェ〉とくアルルの病室〉の二点の作品をとりあげ、これらの作
品とトルストイおよびドストエフスキーとの関わりについて、これまで知
られていなかった資料を紹介しつつ論じることにする。ここでとりあげる
絵画作品と文学作品の関係については、もともと不明瞭な部分が多く、そ
のことが「ファン・ゴッホとロシア文学」という研究が出されてこなかっ
た理由のひとつでもある。この調査結果をまとめるにあたっても、まだ不
明瞭な部分は残されているが、扱うべき作品の重要性や今後のさまざまな
研究の可能性を考慮し、ひとまず調査結果をまとめておくことにする。
2
ファン・ゴッホがフランスに移り住み、次第に質の高い作品を生みだす
ようになった 1
8
8
6年以降、フランスではロシア文学の流行現象が起こって
おり、ロシア語の読めない彼がロシア文学に接したのも、この流行のなか
においてであった。そこでまず、このロシア文学の流行とファン・ゴツホ
との関わりについて簡単にふれておきたい。
ファン・ゴッホがパリにいた弟テオのもとに転がり込んだ 1
8
8
6年、ロシ
ア文学ブームの火つけ役となったエミール・メルシオール・ド・ヴ、ォギュ
エの『ロシア小説』が出版されている。この本はその後のロシア文学の翻
訳を促し、また、フランス自然主義文学の限界をめぐる議論の火つけ役と
もなった。 2)『フィガロ』、『ルヴュ・デ・デゥー・モンド』、『ヌーヴ、エ lレ
・
ルヴユ』といった当時の主要な新聞、雑誌にはロシア文学に関する記事が
頻繁に掲載されており、これらの新聞、雑誌を読んでいたファン・ゴッホ
がロシア文学の流行現象に無関心だったとは考えにくい。実際、ファン・
ゴッホの書簡集には、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーの名
がこの順に現われていて、その順序はフランスでのロシア文学導入の願序
とも合致している。 3)当時の論壇において、ド・ヴォギュエやプリュヌ
ティエールといった批評家たちが、ヴィクトリア朝文学やロシア文学を楯
に、フランス自然主義文学を批判していたことを考えれば、 4)自然主義文
学の崇拝者だったファン・ゴッホがロシア文学に関心をもっていなかった
とは到底考えられない。実際、ファン・ゴッホがトルストイの仏語訳『幸
福を求めて』という民話集を読んでいたことはわかっているし、それ以外
にもトルストイやドストエアスキーらの作品を読んでいた可能性は十分に
考えられる。
〈夜のカフェ〉
1
8
8
8年 9月初め、ファン・ゴッホはく夜のカフェ〉(図 1) を描き、弟テ
ファン・ゴッホとロシア文学
3
オ宛の手紙に何度かこの作品について書き記している。
「ぽくは赤と緑によって人聞の恐ろしい情念を表現しようとした。」
(書簡5
3
3
)
「ぼくはく夜のカフェ〉の絵の中で、カフェというところが人が身を
破滅させ、狂い、罪をおかしかねない場所だということを表現しよう
とした。つまり、ぼくは、柔らかなパラ色と鮮血やぶどう酒の赤とを
対照させ、また、ルイ 1
5
世風、ヴエロネーゼ風の柔らかな緑と固い黄
緑や青緑色と対照させ、それらすべてを青白い硫黄色の地獄の培塙の
ような雰囲気の中に放り込んで、居酒屋の閣の力のようなものを表現
しようとした。ただし外見は日本風の陽気さとタルタランの人の良さ
で蔽ってね。」(書簡5
3
4
)
「〈種まく人〉や、今回のく夜のカフェ〉のような過激な習作は、普通
だ、ったらぽくにも恐ろしく醜くひどい作品に思えるのだが、ここにあ
るドストエアスキーについての小さな記事のような何かに心を打たれ
ると、このような作品だけが深い意味をもったもののように思えてく
る。」(書簡5
3
5
)
二番目の引用にある「居酒屋の閣の力」 l
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う言葉は、 1
8
8
7年にフランス語訳が出版されたトルストイの戯曲のタイト
ルと同じであり、また、「居酒屋」 a
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r は、ファン・ゴツホが1
8
8
3
年
にすでに読んでいたゾラの小説『居酒屋』のタイトルと合致している。
5
)
ファン・ゴツホがト lレストイの『閣の力』を読んでいたことを示す確実な
証拠は知られておらず、また、「居酒屋の閣の力」という記述には、引用譜
や大文字など、作品のタイトルであることを示すものはほどこされていな
4
い。しかし、次に述べるような状況から判断して、この記述はやはり二つ
の文学作品を暗示していると考えられる。
『闇の力』は翻訳出版された翌年、 1
8
8
8年の 2月1
0日にアンドレ・アン
トワーヌによって自由劇場でフランス初演がなされている。 6)マスコミの
前評判は芳ばしくなかったが初演は大成功を収め、一週間後の 1
7日に再演
された。ファン・ゴッホがパリを後にしてアルルに旅立ったのがこの年の
2月1
9日。つまり、彼は初演、再演当時まだパリに住んでいたことになる。
自由劇場は、ファン・ゴッホがスーラやシニヤツクらとともに自作を展示
させてもらっていた数少ない公共の場であったし、この劇場の主な演目レ
ノfートリーは、ゴンクールなど、ファン・ゴッホの熱愛していた自然主義
文学の作品であり、リウォノレドも指摘するように、この劇場の夜の集まり
にファン・ゴツホも参加していたようなのである。
7
)
ファン・ゴッホが1
8
8
7
年当時、トルストイの本を少なくとも一冊は読ん
でいたことがわかっている。 1
8
8
7
年の夏から秋頃に書かれた妹ウィル宛の
手紙、同じく秋頃に書かれたベルナール宛の手紙、そして翌1
8
8
8年の五月
に書かれたテオ宛の手紙に、次のような記述がある。
「何よりもまず、トルストイの『幸福をもとめて』が気に入った」
(書簡Wl)
「トルストイのロシアの民話集を読むことをすすめる。」
(書簡 B 1)
「きみは『幸福をもとめて』のなかで、あの人のいい男が一日で歩き廻
れるだけの土地を買った話を覚えているかね。ところで、果樹園の装
飾画で、ぼくはまさにあの男のようだった。」(書簡4
8
0
)
「幸福をもとめて」 A l
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、 1
8
8
6
年に仏訳出版
されたトルストイの民話集である。 8)三通の手紙の記述から、 1
8
8
7年当
時、ファン・ゴッホがトルストイの作品を読んでいたばかりでなく、それ
ファン・ゴツホとロシア文学
5
に少なからぬ評価を下していたことがわかる。特に重要なのは、ウィルも
テオもそれを読んでいたこと、読んでから半年以上経った頃に、テオにそ
の内容を覚えているか尋ねていることである。
すでに述べたように、この時期はフランスでロシア文学への関心がたか
まり、自然主義文学批判の流れのなかでロシア文学が論じられていた時期
でもあり、ファン・ゴッホがロシア文学に少なからぬ関心を寄せていたこ
とはまず間違いない。劇場通いの習慣もあったと思われるファン・ゴッホ
兄弟が「閣の力」初演を実際に見ていた可能性も十分に考えられる。
次に、「居酒屋の閣の力」という記述が本当に文学作品を暗示していると
考えてよいのか、という問題にふれておこう。ファン・ゴッホは「居酒屋
の閣の力」という記述以外にも、書簡のなかで文学作品のタイトルと思わ
れる言葉を何度か使っている。たとえば、弟テオと妹ウィル宛の手紙で「生
の喜び」 l
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eという言葉が、少なくとも三度、何か含みを持た
せた言葉として使われている。「生の喜び」はファン・ゴッホの読んでいた
ゾラの小説のタイトルであり、ファン・ゴツホはこの本をニューネン時代
のく開かれた聖書のある静物〉の中にも、 l
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e というタイトル
が読めるように描き込んでいる。 9)「居酒屋の閣の力」の場合と同様、手紙
の中で「生の喜び」という言葉には引用譜も大文字もほどこされておらず、
タイトルと認識できるようには書かれていない。しかし、この言葉に妙に
含みを持たせて使っていること、そしてテオやウィルも文学愛好家であり、
とりわげテオは兄と多くの文学的体験をも分かち合っていたことから考え
て、少なくともテオはこれらの言葉が文学作品のタイト l
レであること、そ
してそれが伝えようとする内容をある程度理解できたと推測できる。テオ
が兄と共に『間の力』の初演を見ていたとすれば、この「居酒屋の閣の力」
という言葉が二つのタイトルの組み合わせでトあることはおろか、そこに示
唆されている含みをも読み取ることができたであろう。では、その意味合
6
いとは何だったのか。
この二つの文学作品とく夜のカフェ〉に共通するモチーフは居酒屋、あ
るいはカフェである。ゾラの『居酒屋』に登場する「コロンプ爺さんの居
酒屋」はジェルヴェーズの堕落を暗示する不吉なライトモチーフである。
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rは舞台上に現われないが、劇
トルストイの「閣の力」では居酒屋 t
のなかで重要な役割を担っている。この戯曲はゾラの r
居酒屋』ほどには
知られていないので、作品中でのカフェの役割をはっきりさせるために簡
単にそのあらすじを辿っておこう。
ピョート J
レは 4
2
歳の裕福な農民で、長く病の床に伏せっていた。その二
人目の妻アニシアは、生活に満足できず、若くて怠け者の農場の使用人ニ
キタと恋愛関係になった。ニキタの母親マトレーナは彼らの関係に気付き、
ピョートルを毒殺してニキタと結婚するようアニシアを脅す。アニシアは
この脅しに従って夫を殺しニキタと結婚するが、この毒殺のことなど何も
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rで酒に溺れ、ア
知らぬまま農場主になったニキタは、街の居酒屋 t
ニシアの連れ子アクリーナに高価なドレスを買ってやるなど、放蕩の限り
をつくすようになる。アクリーナはやがてニキタの子を身ごもってしまい、
このスキャンダルを隠すため、マトレーナ、アニシア、ニキタは生まれた
ばかりの赤ん坊を地下に生き埋めにする。後にアクリーナは他の男と結婚
することになるが、この結婚式のパーテイ}の席でニキタはすべてを告白
しはじめるのである。
この物語全体は、どろどろとした人間の情念と罪によってつよく色づげ
されており、居酒屋は舞台上には現われないものの、ニキタの堕落の場と
して位置付けられている。ファン・ゴッホが手紙に記した「人聞の恐ろし
い情念」や「カフェというところが人が身を破滅させ、狂い、罪をおかし
かねない場所だ」といった記述は、そのままゾラの『居酒屋』にもトルス
トイの『闇の力』にもあてはまるといってよい。「居酒屋の閣の力のような
ファン・ゴツホとロシア文学
7
ものを表現しようとした」と手紙に記したとき、ファン・ゴッホはやはり
この二つの文学作品、そしてとりわけコロンプ爺さんの居酒屋とニキタが
泥酔していた居酒屋を強く意識していたと考えられる。
手紙に記述が書かれたとき、〈夜のカフェ〉がほぽ完成していた。したがっ
て作品構想のどの段階からこのような文学的連想がはたらいていたのか、
つまり、アルルのカフェをモチーフとして選択しイーゼ、ルを据えた段階か
らか、制作の進行とともに明確に意識されて言ったのか、あるいは、創作
過程においてではなく絵がほぼ完成してからの作品記述の過程で浮かび上
がったのかといったことは明らかではない。
さて、三人自の小説家ドストエフスキーとく夜のカフェ〉との関わりは、
ゾラとトノレストイの場合とはやや異なっている。ファン・ゴッホがドスト
エフスキーの作品を読んでいたことを示す証拠は知られていない。さきに
引用した手紙のつなかでもファン・ゴッホは「ドストエフスキーについての
小さな記事」を読んだと語っているにすぎず、しかし「そのような何かに
心を打たれると、このような作品(〈種まく人〉とく夜のカフェ〉)だ砂が
深い意味をもったもののように思えてくる」と書いている。つまり、ゾラ
とトルストイの作品がく夜のカフェ〉の創作過程に関わっている可能性が
あるのに対して、このドストエアスキーについての記事は自作の記述過程
にのみ関わっているということになるだろう。
書簡の内容と書かれた時期( 9月1
2日噴)から判断して、問題の記事は
おそらく 1
8
8
8年 9月 8日付の rフィガロ』紙に載ったジュール・プレヴェ
ルによる演劇欄“C
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”、または 9月1
0日付の『ラントラ
ンシジャン』紙に載ったドム・プラジウスによる“T
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”のいずれかで
あろう。この二つの新聞の名前は、この時期に書かれた他の書簡にも散見
するもので、どれほど定期的かはわからないが、ファン・ゴッホが目を通
していた新聞であることはまちがいない。
1
0)二つの演劇欄にはともに、
8
ドストエブスキーの r
罪と罰』の初演でオデオン座が再開されることを伝
える文章が含まれていて、 このオデオンの再聞に関する部分はまったく同
じ文面になっている。(論文末尾に全文資料)ファン・ゴツホがく夜のカフェ〉
3
3)であり、
について詳しい記述を始めたのが 9月 8日に書かれた書簡(5
水彩によるスケッチを同封してテオに送ったのがその翌日(書簡5
3
4
、
) そ
の後ウィ 1
レやゴーガン、テオ宛の手紙を計三通書いた後、 1
2日頃にドスト
エフスキーについての記事にふれている。同じ手紙に「きみが興味をもち
そうな記事を同封で送る。見に行くといいだろう」(書簡5
3
5
) と書かれて
いることから、おそらくファン・ゴッホはこの記事を切り抜いてテオに送っ
たと考えられる。テオが実際にこの「罪と罰」を見に行ったかどうかはわ
かっていないが、 この記事の内容で特にファン・ゴツホの関心をそそった
と思われるのは、 ドストエアスキーの顔とその苦難の生涯にふれた部分で
ある。
「ドストエアスキーの顔はロシアの農民の顔であった。潰れた鼻、しき
りに自ばたきする小さな目、傷や突出部ででこぽこになった広い額、
ハンマーででも叩かれたようにへこんだこめかみ。 M. ド・ヴォギュ
エは言う。『私は人間の顔でこれほどまでに苦悩の積み重なった表情
を見たことがない』 と
。
悲劇的な場面に幾度も直面して、 ドストエフスキーはてんかんに
8
4
9
年には陰謀に巻き込まれて銃殺刑の判決を受け、刑
なっていた。 1
場の杭に仲間とともに縛りつけられた。特赦がおりたのは、兵士たち
がすでに銃をおろした時であった。彼はこの恐怖の瞬間を決して忘れ
なかった 0 ・・・・・.
ドストエフスキーはその『死の家の記録』 において、浴室での苦し
みの物語を記している。浴室から出ると、彼はー兵卒としてシベリア
ファン・ゴッホとロシア文学
9
の部障に放り込まれたのである。」
ファン・ゴッホはこの小さな記事だけに心を打たれたのたのだろうか。
それとも、 1
8
8
4年に翻訳されていた『罪と罰』をすでに読んでいて、その
記憶を呼びさまされたのだろうか。 1
1)その点については推測するしかな
いが、もし、彼がこの小説を読んでいたなら、冒頭部でラスコーリニコフ
が老人に出会う居酒屋も記憶していただろう。
ともあれ、 この新聞記事がファン・ゴッホにく夜のカフェ〉という作品
の重みをより強く認識させるきっかげになったことはまちがいない。
〈アルルの病室〉
1
8
8
9
年の四月、アルルの病院で精神病の発作から回復しつつあったファ
ン・ゴッホは、 この病院の病室を描いている。(図二) 4月3
0日ごろ、彼は
妹のウィルに宛てた手紙にこの絵について次のような記述を残している。
「アトリエをまた新たに借りることはまだできない気がする。それで
もぽくは仕事をしていて、病院の二点の絵を描き終えたところだ。一
つは病室、非常に長い病室の絵で白いカーテンをつけたベッドの列が
あり、何人かの患者がそのなかを動き回っている。壁と大きな梁のあ
る天井はすべて白と薄紫の白あるいは緑がかった白だ。あちこちに見
える窓にはピンクあるいは明るい緑のカーテンがかかっている。床に
は煉瓦が敷いてある。突き当たりの扉の上方には十字架が彫られてい
る。それはとても、 とても簡潔なものだ。」(Wll)
約 6カ月後の 1
0月
、 ファン・ゴツホはウィル宛に次のようにしたためて
いる。
「ぽくはいま病院の共同病室を描いている。前景には大きな黒いス
10
トープがあり、それを取り囲んで灰色や黒色の大勢の患者がいる。そ
の後ろには赤いタイルの床と白いベッドが二列に並んだ非常に長い部
屋がある。壁は白だが、リラ色または緑がかった白で、窓にはピンク
と緑のカーテンがかかり、背景には黒と自の服を着た二人の修道女が
いる。天井には大きな梁があって、すみれ色をしている。
ぼくは『死の家の記録』を書いたドストエフスキーについての評論
を読んでいたのだが、そのせいで、アルルの精神病院で描き始めてい
た大きな習作にふたたび取り組むことになった。しかしモデルなしで
人物を描くのは厄介なものだ。」(Wl5)
9年 4月に描き始め
8
8
つまりくアルルの病室〉は実際にこの病室にいた 1
0月にサン・レミの精神病院で再び手を加えられて完成し
られ、半年後の 1
た。そして、その描き直しのきっかけとなったのが「ドストエアスキーに
ついての評論」であった。この作品が半年後にどのように描き直されたか
は、ここに引用した二つの記述を読み比べ、作品そのものをよく観察する
ことによって知ることができる。たとえば、最初の手紙には前景の人物群
やストープにはまったく言及していない。これほど重要なモチーフを記述
からはずすことはまず考えられないし、四月のアルルでストーブが使われ
0月に加筆されたもの
ているはずもないから、これらはまずまちがいなく 1
であろう。
作品をよく観察してみると、リタッチの跡を容易に見分けることができ
る。前景中央にあるストープの上部や胴体の円形部分は、輪郭線が描かれ
ているだけで中央部がまったく塗り込められておらず、床が透けて見えて
いる。また、ストーブから上に向かつて伸びる煙突も、一度乾いた絵の上
にやや薄めの絵の具で描かれているのは明らかで、左上部では絵の具がし
たたり落ちているのが見える。前景の人物群や左端の椅子なども半年後に
ファン・ゴッホとロシア文学
11
描き加えられたものであろう。そのことはこれらの部分の絵の具ののりぐ
あいを見ても、また、さきに引用した手紙に「モデルなしで人物を描くの
は厄介なものだ」と書かれていることからも明らかである。
残念なことに、 ファン・ゴッホにこのような大幅な加筆をさせた「ドス
トエフスキーについての評論」がどのようなものであったのかはわかつて
いない。そもそもファン・ゴツホの手紙には、『死の家の記録』を書いたド
ストエアスキーについての評論を読んでいた (
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Morts
)と記されているだげで、いつ読んだのかさえあまりはっきりとしな
い。アルルで描きはじめてから加筆をするまでの期間、 1
8
8
9
年 4月から 1
0
月の聞に出されたドストエアスキー関連の記事はかなり少なく、 フランス
でのドストエフスキー受容を扱った包括的研究を見ても、また、 ファン・
ゴツホが読んでいた当時の新聞、雑誌類を綿密に調べても、彼が読んだと
考えられるような記事は見当たらない。ただ、手紙の記述に「死の家の記
録」というタイトルがあげられていることから、この小説に関する内容だっ
たのではないかと推測できる。
ファン・ゴツホが『死の家の記録』を読んでいたことを示す証拠は知ら
れていない。 しかし、 この小説の第二部冒頭に「病院Jと題された章があっ
て
、 この章には「あらゆる種類の『不幸な人』でいっぱい」の陸軍病院で
の体験が詳細に記されている。なかでも興味深いのは次の一節である。
「パイプと煙草入れは、肺患者もふくめて、ほとんどの者がもっていた
カ
宝
、 これは寝台の下にかくされていた。医師をはじめ病院の幹部たち
はほとんど検査をしなかったし、パイプをもっている者を見かげても、
気がつかないようなふりをしていた。しかし病人たちもよく気をつげ
ていて、煙草を吸うときはかならずペーチカのそばへ行った。寝台の
12
上で吸うのは夜更けだけだった。夜更けには、たまに病院の衛兵司令
の士官が来るくらいのもので、あとはだれもまわってこなかった。」鴎
この場面に登場するモチーフと、ファン・ゴッホがくアルルの病室〉に
加筆したモチーフとは妙に類似している。これは偶然だろうか。日本語訳
eと訳され
l
e
o
で「ペーチカ」となっている部分は、フランス語訳ではただp
ていて、単に「ストーブ」としかとれない。そして、この「ストーブ」の
そばで病人たちが煙草を吸っているのである。ファン・ゴッホが加筆した
のもストープとその周りに坐る病人たちで、彼らのうち三人までもが煙草、
またパイプを吸っている。ファン・ゴツホはパイプをくわえた人物の肖像
を何度か描いてはいるが、煙草を吸う複数の人物が描かれていることは珍
0日噴、
0月2
しいし、また、この絵に加筆がほどこされたのが南フランスの 1
つまり、ストーブに火が入り周りに病人が集まるような時期ではなかった
こともイ寸け力日えておいてよいだろう。
確かなことは、この絵の前景にある多くのモチーフが加筆されたもので
あり、しかもそれらのうち少なくとも人物群はモデルなしで描かれたとい
うことである。ただ、ファン・ゴッホと『死の家の記録』との関わり、そ
して「病室」の一節との関わりについては、そのことを示す確実な証拠は
ないため、仮説に止めおかれるべきものであろう。しかし、彼がくア lレル
の病室〉を最初に描いて間もなく、 5月にサン・レミの精神病院に入り、
文字どおり「あらゆる種類の不幸な人でいっぱい」の病院でみずからも発
作を繰り返していたことを考えれば、『死の家の記録』の中に描き出されて
いるどろどろとした病室のイメージがファン・ゴッホに強い衝撃を与えて
いたことは十分に考えられるだろう。
ファン・ゴッホの絵画作品が文学作品とどのように関わりつつ制作され、
ファン・ゴッホとロシア文学
13
記述されてきたかという問題、さらには絵画作品というものが、どのよう
に言葉にからめとられつつ制作され、受け止められ、伝えられていくのか
という問題を考えるにあたって、本論は何らかの材料を提供できたと思う。
創作過程における文学作品の関与については不明瞭な部分が多く残ってい
るが、これは資料の不足によるものというよりは、以上の論考だけでは明
らかにはできない、より本質的な問題にかかわっているからであろう。
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)
**本稿は国際比較文学会( 1
9
9
7年於レイデン大学)の発表原稿ならびに
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比較文化研究』( 1
9
9
7年)に発表予定の論文に加筆、補足したもので
ある。
注
ファン・ゴッホとロシア文学
15
1
) ファン・ゴッホとロシア文学との関わりにふれた文献としては以下のよ
うなものがある。 Hammacherの論文が 2ページほどにわたってこの問
題を取り扱っているものの、他はきわめて断片的にふれている程度であ
る
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9(索引
参照)) ,A.M.Hammacher
,
“VanGogh, Michelet, Zola", Vincent 4
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いては以下の論文を参照。(詳細な文献表付) KιSeely,D
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2を参照のこと。
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参照。
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) ジャン・セズネックは「闇の力」という言葉がトルストイの戯曲のタイ
トルと一致していることを指摘してはいるが、それ以上のことにはふれ
ていない。 J
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下記を参照。 F
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(舞台写真収録).
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tJeanにはロシア文学の影響が指摘されており、それらを並
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8年 9月 油彩・カンヴァス
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0月に加筆)油彩’カンヴァ
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. ファン・ゴッホくアルルの病室> 1
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タートウール(スイス)
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