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「性の商品化」 と性差別

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「性の商品化」 と性差別
社学研論集 Vol. 3 2004年3月
il嵩il
論 文
「性の商品化」と性差別
-「性的自己決定権」批判-
平 岡 章 夫*
決定権」の行使という観点からこれらの現象を
1. 「性的自己決定権」論出現の背景
肯定的に捉える宮台真司らの議論が注目を集め
フェミニズム運動が売買春やポルノグラ
るに至る。
フィ,あるいはミスコンテストなどを問題視す
以下の考察においては,このような一連の流
る場合に,そこではしばしば「性の商品化」批
れで出てきた「自由意志」による「性の商品
判というレトリックが使用され,特に日本にお
化」「売買春」肯定論を,広い意味での「性的
その際,「性の商
いてはその傾向が強かった。
自己決定権論」として一括し,批判的に論じる
品化」という現象がマイナスの意味を持つこと
ことにする。
また,「性の商品化」という用語
は自明の前提と考えられていたように思われ
の定義については,瀬地山のそれに修正(「欲
る。
望の対象としての」)を加え「欲望の対象とし
しかし90年代に入って,このような前提自体
ての性にまつわる行為・情報が商品という形で
に疑問を呈する論考が出現するようになった。
金銭を媒介にして流通すること」ととりあえず
そのきっかけとなったのが,1992年に出版され
規定したい。
た江原由美子編『フェミニズムの主張』(動葦
2,「性の商品化」をめぐる議論の前提
書房)に収録された橋爪大三郎「売春のどこが
わるい」・瀬地山角「よりよい性の商品化に向
けて」の二論文である。
両論文に共通するの
「性の商品化」について考える場合,まず踏
まえておかなければならないのは,「女性の
は,「自由意志」によって行なわれる「性の商
性」が商品化される場合が「男性の性」が商品
品化」がなぜ悪いと言えるのか,「性」も資本
化される場合よりも圧倒的に多いという現状認
主義社会における他の様々な商品と変わらない
識である。
一つの「商品」ではないか,という問題提起で
そして93-94年以降,「ブルセラ
あった。
は,「性の商品化」を肯定する側と批判する側
ショップ」・「援助交際」といった社会現象がメ
男女間の経済力の違いという要因が関係してい
ディアの話題となるのと並行して,「性的自己
ないと考えることはできないであろう。
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程1年
このような認識そのものに関して
との間に争いはない。
そしてこうした状況に,
つまり
192
その意味で,「性の商品化」が「女性の性」に
クスの相手を見つけることが難しい身障者や
偏っていることは「女性差別」の反映であると
老人などに,低価格で売春サービスを提供す
この点については,議論の基本的前提
言える。
る女性たちが,セックス・ボランティアと呼
として確認しておかなければならない。
だが実
ばれて公認されている。
際には,日本における「性の商品化」を肯定す
だが,セックスの相手を見つけることが難
る議論の中には,このような非対称性を所与の
しいという意味では,一部の身障者や老人ば
前提として等閑視しているように思われるもの
かりを性的弱者として特別視するわけにはい
が少なくないのである(1)
実際,セック′スの相手を見つけるシ
かない。
この傾向は,欧米における「売春婦の権利」
ステムが「自由市場化」すればするほど,多
主張の草分けとも言える,フレデリック・デラ
くの男たちが性的弱者としてあぶれるように
コスタ&プリシラ・アレキサンダー編『セック
なる(4)
ス・ワーク-性産業に携わる女たちの声』
(現代書館,発行パンドラ,1993年)の内容と
同書には,売買春の
比較すると特に際立つ。
「自由意志」性を強調する性労働者の意見とそ
この記述で,「性的弱者」としてイメージさ
れているのが「男たち」であることは一見して
「身障者や老人」とは性別中立
明らかである。
れに対立する意見の双方が収録されているが,
的な言葉であるにもかかわらず,売春サービス
両者とも,男女間の経済格差と売買春の現状と
を提供するのが「女性たち」とされているとこ
が密接に関係していることに繰り返し言及して
ろから,ここでも男性の「身障者や老人」が想
いるのである(2)また,売買春の犯罪化に否定
宮台の言うところ
定されていることが分かる。
的な立場のバーン&ボニー・ブ-ローによって
の「性的弱者」には,女性にも数多くの該当者
も,「一般論としてもっともはっきりいえるこ
がいるはずであるが,彼女たちには「異性の性
とは,これまでに検討したどんな社会,どんな
を買う」という選択肢が男性ほどに与えられて
時代においても,制度化された売春は男性客が
それが「市場原理」の結果
いるわけではない。
対象であり,売春者の圧倒的多数が女性だとい
によるというのであれば,「市場原理」そのも
う事実である」「売春問題の焦点は,男性の伝
のに男女間の非対称性・差別性をもたらす要素
統的な女性支配に絞られてくると思われる」と
が潜んでいることを認めるべきであろう。
いう指摘がなされている(3)。
ところが日本の「性的自己決定権」論者は,
このような議論と比較するならば,橋爪大三
郎が「売春のどこがわるい」において次のよう
問題のこうした側面について努めて過小評価し
な指摘を行なっているのは,「性の商品化」の
「性の商品化」のあり
ようとする傾向がある0
男女間における非対称性を踏まえている点で優
方の非対称性に鈍感な議論の典型例として,宮
れている。
台真司の議論を引用してみよう。
つぎに,男性(のみ)が女性を買うことがけ
よく知られるように,オランダでは,セッ
しからん,というのであれば,対処は二通り考
「性の商品化」と怪差別 193
えられる。
次節では,永田の議論の趣旨を要約した上
る。
(1)男性に経済力(可処分所得)があるのでこ
で,そこから導き出され得る原理について考察
ういう非対称が生じているのだから,女性
してみたい(なお,上記の橋爪による「性の商
も男性に劣らない経済力をつけよう。
品化への対処」の二分類については,第5節で
(2)性愛行為が商品化してしまうのがまちがい
改めて批判的に触れることとする)0
だから,性的サービスの商品化はやめよう
3. 永田えり子による
(あるいは,商品関係一般を廃絶しよ
「性の商品化」批判の検討
う(5))。
永田は『道徳派フェミニスト宣言』におい
橋爪は続けて,(1)の立場は「男性を買う女
て,「権利侵害」の観点からなされる「性の商
性」の出現による事態の「対称化」を帰結する
品化」批半田こは十分な説得力がないとした上
もので,その意味では売春そのものを排斥して
で,次の三点を指摘している。
はいないという。 この分析も論理的には妥当で
みに偏った「性の商品化」によってもたらされ
ある。しかし,「性的自己決定権」論者の多く
る「女性性市場」は,本人の意思にかかわりな
は,1X2のいずれの立場に対しても批判的態度
く全ての女性を「市場」における潜在的な売り
をとっているように思われる。
手と見なしてしまうとともに,その「逆年功序
すなわち彼
第一に,女性の
(女)らは,たとえ男女間の経済的格差という
列」性によって男女間の賃金差別を固定化させ
現状があっても,なお個人の「自己決定」の結
ていること。 第二に,「性の商品化」の公認は
果を尊重すべきだと示唆することで,(1)を実質
怪についての「非公然性の原則」を掘り崩すも
的に否定する。 そして,性的サービスを他の
のであり,この原則の否定ははセクハラ・のぞ
様々な商品と区別することはできず,事物の
き・強姦を「尊厳への侮辱」とみなす感覚をも
「商品化」一般を廃絶することもできないとし
否定してしまうものであること。
て(2)を否定するのである。
に,売買春の公認は,女性の「妊娠」の危険に
しかしここで問題としたいのは,「性的自己
対して男性が負うべき再生産責任を免除するこ
決定権」論を無条件では認めないフェミニスト
とを意味するものであり,その責任を社会に肩
の側にも「(1)の立場は支持するが,(2)について
代わりさせる覚悟がないかぎりこの立場を取る
はその妥当性を認めない」という議論が目立っ
べきではないこと,である(6)
ている点である。 すなわち,売買春のあり方に
永田のこれらの指摘は,いずれも重要な論点
経済的格差が関係している点には注意を促すも
を含んでいる。 このうち第三の指摘について
のの,「性の商品化」それ自体に対する根源的
は,後に売買春について独立に論じる際に触れ
批判は影を潜めるようになりつつあるのだ。
そ
そして第三
ることとし,ここでは第一・第二の点について
の中で数少ない真正面からの「性の商品化」批
考察したい。第一の指摘の重要性は,たとえば
判を行なった論考として,永田えり子『道徳派
次のようなしばしばなされる指摘に対する反論
フェミニスト宣言』(勤草書房,1997年)があ
となっている点にある(引用文は,桃河モモコ
191
のもの)0
ダイエットや整形手術,あるいは前者と不可分
な病理現象としての摂食障害が,こうした強迫
「性」を商品化することに善悪はありませ
観念の存在と無関係とは考えにくいだろう(9)
「食」も「美」も「教育」も商品化され
ん。
このこともまた,女性の「性の商品化」がもた
ていますが,善悪が問題になるでしょう
らす重要な「負の外部効果」と言わねばならな
か9(7)
い。
そして,先の永田の指摘の第二の点につい
ここで桃河がいう「美」の商品化は,本論に
この指摘の独創的な点は,「渠褒」を不当
て。
おける広義の「性の商品化」の中に含まれる
とする感覚と「セクハラ」「のぞき」「強姦」を
が,「食」や「教育」の商品化の善悪を問う声
不当とする感覚とを統一的に説明したところに
が「性」のそれを問う声より少ないとは言える
ある。
私達は現在,女性のいる職場で女性の
かもしれない。 しかしそれは,「食」や「教
ヌードポスターを掲示するような行為を「環境
育」の商品化が社会全体,あるいは特定集団の
型セクハラ」と名付けて否定的にとらえてい
地位に対して及ぼす影響が比較的少ないと考え
また,「猿褒」文書規制に反対する人々も,
る。
られている限りにおいてである(もっとも実際
「のぞき」や痴漢行為の処罰に反対する立場を
には,「教育の商品化」が所得格差と学歴格差
取ることはまずない。強姦という行為も,単な
との連動を招く危険性はしばしば指摘されてい
る「窃盗」以上の意味を持つ「尊厳-の侮辱」
「商品化」は常に不平等を招く危険性があ
る。
と感じられている。 そして,男女のトイレが
るのだ(8り。
別々に区切られていることに疑問を表明する声
「性の商品化」は,永田が主張するように,
もない0こうした感覚を支える道徳こそ「性の
自らの「女性性」を市場的な評価にゆだねよう
非公然性原則」であると,永田は主張するので
と考えていない女性の自由を認めない。
ある。
そし
て,労働市場における若い女性の価値も「女性
だがここで一つ生じるのは,「性の非公然
性」を主たる基準として判断されることから,
性」原則という道徳が存在するから一連の行為
その需要は「職場の花」としての仕事に偏り,
を不当とする感覚が生じるのか,それともその
結果として労働者としての能力を高める機会も
道なのか(感覚が先にあって道徳が生じたの
制限されることになる。 このような「外部効
か)という疑問である。 永田は,文化人類学者
果」が顕著な点で,「性の商品化」は他の様々
のハンス・ベーター・デュルの見解を参照し,
な事物の「商品化」とは性格を異にしているの
事実としての「性の非公然性」を普遍的なもの
である。
であるとしていがo)0 そうであるならば,「性
しかも,「性の商品化」による「女性性市
の非公然性」を人為的な匂いの強い「原則」と
場」の成立は,多くの女性に自らの「商品価
位置づけるよりも,「性」についての何らかの
値」に関する強迫観念を植えつけることにな
共通感覚の反映と考える方が自然ではなかろう
日本でもその過熱ぶりが話題となっている
る。
筆者は,その共通感覚を「性が個人の私秘
か。
「性の商品化」と性差別 195
性の領域に属し,それへの侵害を暴力と捉える
労働やサービスとして操作・移転可能な『商
感覚」と定義したい(「プライバシー」でなく
品』ではなく,『人格』の中核に結びついたも
「私秘性」という語を使用したのは,前者の概
のとして捉えが功」パラダイムのことを指す。
念に付きまとう多義性を避けるため)0
そし
そして赤川らは,こうした「性-人格」論とは
て,このような感覚は歴史的近代に発生したも
近代に成立したものであり,むしろ性について
のではなく,言語化こそされないもののそれ以
の抑圧的なモラルと結び付いているという。
前から人類社会に存在していたと考える。
従って,このパラダイムに依拠してなされる売
その点について,前述のデュルは「肉体の墓
買春批判や「性の商品化」批判は説得力に欠け
恥には,パートナーシップを確立する一一く肯
たものと見なされるし,彼らの多くは前述のよ
定的な)機能があり,古今東西知られる限りの
うな「性的自己決定権」論に対し肯定的反応を
人間社会の本質をなす㈹」とし,「一般的な肉
示す。そしてこうした見解は,少なくない研究
体の差恥とは,近代,とりわけ現代社会の産物
者の支持を得ているように見える咽.
である」とするノルベルト・ユリアスのテーゼ
しかしこうした「『性-人格』論批判」に対
を批判している。 デュルが「肉体的差恥心の普
しては,浅野千恵が厳しい批判を行なってい
遍性」を立証するために提示する実例は膨大な
るa40浅野は赤川のミシェル・フーコー読解に
数にのぼるが,ここではその詳細な紹介は略し
批判的検討を加えた上で,上野千鶴子や瀬地山
たい。重要なのは,「性が個人の私秘性の領域
角による「『性-人格』論批判」の言説が,「性
に属する」という感覚の広がりを示す人類学的
と親密性との分離」の意義をことさら強調する
事実の存在である(このことは,個人として性
ことによって,性暴力被害の過小評価につなが
に対して「あけっぴろげ」な感覚の持ち主が存
る危険性を警告している。
在することと矛盾するものではない。
そのよう
筆者も,こうした指
摘に基本的に同感である。
な個人であっても,自らの望まないやり方で自
前項で述べたように,「性が個人の私秘性の
らの性器や性生活が公開された場合に,何ら屈
領域に属する」という感覚は,近代以前であろ
辱感を感じない可能怪は低いだろう)0
うと以後であろうと,人類にある程度普遍的な
そして,永田の第二の指摘をこのように徴修
ものであると考えられる。
正することによって,近年の日本で広がりを見
覚は,「性-人格」論として指摘される,「性を
せつつある,「性の商品化」肯定論と結びつい
自己の人格,人間性,アイデンティティの中心
た「『性-人格』論批判」という論調を問題視
に位置づける」傾向と同じものではないことに
することが可能となるのである。
次節ではその
点について考察する。
4. 「性-人格」論と性暴力
注意しなければならない。
しかしながらこの感
ある人物が日常生活
の中で,「性的なもの」(性的指向・性的欲望な
ど)を自らの「アイデンティティーの中心」に
関わるものとしているか否かは,「私秘性」と
「性-人格」論とは,赤川学や上野千鶴子ら
しての性の侵害,すなわち性暴力などを受けた
によって批判的に定義された,「セックスを,
際のその人物の反応とは必ずしも関係しないと
196
性暴力を「暴力」一般の中に位置づ
思われる。
定権の侵害」という根拠で非難するだろうか。
けるならば,そのことは一層明瞭になるだろ
たとえば部活動などにおける「しごき」を例に
う。
とれば,たとえ「同意の上での暴力」であって
浅野は暴力の性質について,以下のように述
もそれが当事者の精神に傷を残すことはあり得
「性暴力に限らず,私たちが暴力と呼ん
べる。
性暴力の暴力性もまた,被害者が性行為の
る。
でいる行為はすべて,人間の実存を危機に陥れ
相手・場所・時間を自由に「決定」できないと
そのよ
るある種の特異性や効果を持っている。
ころ「のみ」に存在していると考えられるべき
うな効果を持つ行為を私たちは暴力と呼んでい
ある行為について「本人の同意の有
ではない。
--その効果は意味づけによらな
るのである。
無」が重大な問題となる場合の多くは,その行
い本質的な要素-言語に先立つ肉体的感情と
為自体が本人に不利益をもたらすものであるこ
いったようなもの-を含んでいるように思え
とが前提されているはずである。
筆者は,「暴
・:」
このような「暴力の特異性」を単純な概念枠
力」に対する批判は端的に暴力的行為自体の性
質,及びそれがもたらす結果の経験的な非人道
性に求められるべきであり,「自己決定権」の
の中に閉じ込めて語ろうとすることは,結果と
概念を持ち出すことは問題が大きいと考えてい
してその非人道性を過小評価してしまう危険性
「性-人格」論の批判者がしばしば
が大きい。
行なう,「性と人格を切り離せば,性暴力被害
る。
もそれほどの被害とは感じられなくなる」とい
に対してそれを程度の差こそあれ「暴力的」と
う主張(10はその例である。
性的な秘密を暴くことやレ
感じることがある。
そして,ここで触れておかなければならない
イプは,その中でも特に暴力的色彩の強い行為
のは,性暴力を批判する根拠を「性的自己決定
であり,近代以前も以後もその点において根本
このような議
権の侵害」に求める議論である。
「『性-人格』論批判」
的な変化はなかった。
論は,本稿で言う「性的自己決定権論」(「性の
は,このような現実に対する認識を欠いている
商品化」・売買春肯定論)の立場をとる論者ば
と言わざるを得ない。
かりでなく,アンドレア・ドウオーキンらのラ
私たちは「性」に限らず,「私秘性」の侵害
5. 「性-人格」論と「性の商品化」
ディカル・フェミニストが長いこと用いてきた
ものであり,現在では自治体における女性政策
前節では,性と人格との結びつきは近代に発
立案の場面においても広く支持されるようにな
生したものだとする「性-人格」論に対する批
しかし筆者には,性暴力に対する
りつつある。
判が,結果として性暴力被害に対する過小評価
このような根拠からの批判も,上記の「『性
を招きかねない危険を指摘した。
本項では,
人格』論批判」と同様の危険性を免れていない
「『性-人格』論批判」のもう一つの重要な側
と思われる。
面である,「性の商品化」肯定論-「性的自己
私たちは,誰かが「他人を殴る」という行為
決定権」論との関係について考察してみたい。
を行なった場合,それを「身体に対する自己決
「性的自己決定権」論者による,この文脈での
「性の商品化」と性差別 197
「『性-人格』論批判」の内容は,要約すれば
以下のようなものである。
でも,女性の経済的基盤が奪われる「専業主
-「性と人格との
婦」制度の下では,「愛がなくなっても」結婚
を継続する女性が多いことは想像に難くない。
一致」が美徳として求められるようになったの
そしてもう一方の「売春婦」という職業につ
は近代以降のことであり,しかもそれは女性に
それに伴い女性の
対してのみのことであった。
「専業主婦」と「売春婦」への分断が始まり,
いては,それが女性に「性と人格との分離」を
求めるものであることは広く認められていると
後者は「性と人格との一致」に反する存在とし
て蔑みの目で見られるようになった。
ころである。 仮に百歩譲って,「専業主婦」制
現代にお
度というものが「性と人格との一致」を要求す
ける様々な形での売春婦差別は「性-人格」論
るものであったとしても,多くの女性に「売春
の結果として生じているのであり,この状況を
婦」として「性と人格との分離」を強いる社会
打破するためには,「性と人格との一致」を女
制度が,なぜ「性-人格」論という思想を基盤
性にのみ要求する抑圧的パラダイムが打破され
としていると言えるのだろうか?
なければならない-と。
こうした認識を基礎
まして上記
のように,「専業主婦」制度を「性-人格」論
にした発言は少なくない(1カ。
のパラダイムを反映したものと考えることは難
だがこのような議論に対しては,次のような
しいのである0
根本駒疑問が提起できる。
以上のことから筆者は,そもそも「性-人
女性を「専業主婦」
と「売春婦」の両者に分割するようなパラダイ
格」論などというパラダイムが近代社会に実在
ムが,本当に女性に対して「性と人格との一
したという主張自体に疑問を呈したい(浅野も
致」を要求するパラダイムなのかと。
前掲論文において,「性-人格」論とは売買春
長年にわたって培われてきたフェミニズムの
反対運動の中で出てきた一つのレトリックであ
見解を採用するならば,近代における「専業主
り,売買春肯定論者がそれを実体祝して論じて
婦」制度というものは「性と人格との一致」に
いる点に疑問を表明している)0
むしろ反する制度と考えられるはずである。
な
「怪-人格」論
という用語で表現されているのは,実際のとこ
るほど,近代における「恋愛結婚」を支える基
ろ「『人格的交流』ないし『結婚制度』に基づ
盤となったのは「ロマンティック・ラブイデオ
いて行なわれる性行為は無償とする」という思
ロギー」であって,その部分を取り出すならば
想に過ぎないのではないか。
「専業主婦」制度は「性-人格論」と親和性を
性の性を原則的に有償で取引される「商品」と
持っているように見える。
しかし結婚制度の本
それはむしろ,女
みなすパラダイム(以下,「女性性-商品」観
質とはむしろ,いったん行なわれた結婚が「性
とこのパラダイムを規定する)の中の,特殊な
と人格との一致」がもはや存在しなくなっても
例外規定と考えた方が理解しやすい。
継続させられる点にあったのではないだろう
交流」や「結婚制度」の下でも女性の性の「商
いわゆる先進各国においても,離婚の基本
か。
品性」が消滅するわけではなく,端的に「タ
的な自由化が達成されたのはごく最近のことで
ダ」になるだけである。
ある。そして,たとえ離婚が自由化された場合
かつて岸田秀は,「性差別は文化の基盤であ
「人格的
198
る」(『続・ものぐさ精神分析』中公文庫,1982 「女性の性」が商品化されることを前提として
年)において,「人類の最初の集団である家族
築かれているのであり,男性の性的欲望もそれ
の成立,それを支える家族制度(婚姻制度を含
従って,男女間の
に従って構造化されている。
めての)そのものが,女の肉体の商品化を基盤
社会的な権力関係における完全な平等が達成さ
そして,「露骨に売
としていた」と主張した。
れた場合,それぞれの性に対する「商品として
春という形を取るにせよ取らないにせよ,女の
の」需要,すなわち「高い金を払ってまで手に
肉体の商品化は広く人類の文化にゆき渡ってお 入れたいという欲望」が現在のような形で存在
り,女性差別,女性蔑視の根源はここにある」
すなわ
し続けるかどうかは疑問なのである。
とした上で,こうした状況の中で女性が選びう
ち,橋爪が想定するような「商品化における男
る道は「結婚して妻となり,母となる道」「女
女間の平等」なるものが存在し得る環境が整っ
の肉体の商品化という状況に抵抗せず,逆に利
たときには,逆説的にも「性の商品化」の必要
用して,自分の肉体を,結婚の場合よりあから
性自体が著しく低下しているかも知れないの
さまに商品として売っていく道」「結婚もせ
mもし仮に,商品としての「男性の性」への需
ず,売春の世界にもはいらず,女の肉体の商品
化に断固として抵抗する道」の三つがあるとい 要が高まった場合を想定しても,それに見合う
う。
そして,岸田の見方によれば,このうち社会
量の「男性性商品」の供給がなければ大規模な
市場は成立しない。
そして現在,自らの性を商
体制にとって最も脅威となるのは第三の道(金
品化することについての心理的障壁は男性の方
銭を媒介せず,自由に男と性関係を持つ)をと
「性の商品化(現
が女性より高いと思われる。
というのは,「この社会体
る女性たちである。
在のような意味での)における男女間の平等」
制の基盤は女の肉体の商品化にあるのだから,
が成立するためには,この障壁の高さが平均的
商店の横に,その商店で高い値段で売っている
な男女間で同程度に「低く」ならなればならな
商品を何でも無料で気前よくふりまく人がいれ いが,権力や尊厳に対する平等という意味での
ば困るように,肉体を商品にしない女がいれば
男女平等が達成されたときに,そのような状態
こうした岸田の分析は,まさ
困る」からだ08。
筆者は,その点
が果して想定し得るだろうか。
に本稿で言う「女性性-商品」観が社会構造を
を疑問とするものである0g)0
さらに,「男性性
支えているという観点から男女関係を捉えてお 市場」が本格的に成立するということは,現在
り,今日でも基本的に妥当であると考える。
女性がそうであるように,個々の男性が自らの
このような見方を採用するならば,2節で紹
身体的「商品価値」について,否応なしに強迫
介した,橋爪による「性の商品化-の対処法」
観念を抱かせられる状況を招くに違いない。
こ
の二分類がそもそも本質からずれていることが のような状況を,社会の「理想状態」とみなす
その(1)において,橋爪は
明らかになるだろう。
ことは国難である。
「男性の性が女性の性と同様に商品化される」 また,橋爪の言う(2)についても,女性の「怪
状況を仮定したが,そもそも現在の性的秩序は
の商品化」は文化そのものの基盤となっている
「性の商品化」と性差別 199
点で他の「商品化」と区別されるのだから,
化」批判の観点から見て,いずれがより強く批
「商品化」一般を排斥するような極端な立場を
判されるべきかという点である。この問題につ
とる必要はそもそもない。そして,たとえば近
いての態度決定には,家族制度そのものについ
年の「援助交際」といった社会現象も,一貫し
ての価値判断が究極的には不可欠となる。次節
て「女性の性」が商品化されてきた社会体制に
では,これらの点について分析したい。
何らの脅威を与えるものでもなく,むしろそれ
を補完するものであることは明らかである。
なお,本節で分析した内容は「性の商品化」
の中でも結婚制度と売買春にかかわる部分にの
6. 「売買春」合法化・非犯罪化論と
結婚・家族制度
① 「売買春」合法化・非犯罪化論
み安当するものではなく,ポルノグラフィーな
「性的自己決定権論」に基づいて売買春の合
ど「女性性市場」 (第3節参照)を構成する
法化・非犯罪化を唱える議論には,大きく分け
様々な性的商品全般についても適用し得るもの
て二つの異なった要素が含まれている。まず第
である。もちろん, 「商品化」の露骨さやそれ
一に, 、端的な「性的自己決定権」 「性の自己決
に伴う肉体的危険などが低下するにつれて,自
定」の確立を目指す議論。その代表的な論者で
発的に供給される「男性性商品」の量も増大す
ある宮台真司は,以下のように述べている。
るが(たとえば,男性モデルとはこのような種
「『性の自己決定』を良きものとする考え方
類の「男性性商品」である),全体としての
は,こうした社会的法益く引用者注: 「公序良
「商品化」の非対称性は揺らがない。商品とし
俗」 「善良な秩序」など)を持ち出す考え方と
ての「女性性」にまつわる諸幻想が広い意味で
徹底的に対立する。売買春のあり方を考える場
の「女性性市場」全体の基盤となっている以
合にも,望ましい秩序うんぬんではなく,あく
上,フェミニズムが行なってきたミス・コンテ
まで誰かを傷つけるかどうかという個人的法益
ストをはじめとする個別の「性の商品化」批判
の観点から捉えるのである糾」
は,しばしば主張されるような的外れなもので
はなかったと筆者は考える朗。
これに対し,原理としての「自己決定権」に
賛意を表しつつも,より具体的な「セックス
しかしながら, 「性-人格」論ではなく「女
ワーカーの権利の保障」 「売買春の現場におけ
性性-商品」観のパラダイムが社会体制を支え
る危険の防止」を目指す手段として,売買春の
ているという認識に立つ場合でも,次の二つの
合法化・非犯罪化を主張する議論がある。たと
論点は依然として解決されていない。まず,
えば,田崎英明の以下の議論がそれに当たる。
「性の商品化」の究極形態としての「売買春」
「プロステイテユーションそのものは他の職業
制度そのものに対し肯定的評価を与えることは
と変わらないワーク,仕事であるという議論で
できないとしても,政策判断としてそれを合法
は,当然,プロステイテユートは--労働者と
化・非犯罪化するという選択はあり得るかとい
しての基本的な権利をもっているとされ
う点。次に, 「専業主婦」制度(または結婚制
る。 -・一客に脅されるとか,客に暴力をふるわ
度一般)と「売買春」制度とでは, 「性の商品
れるというのはとんでもないことなのだ。ワ-
200
カーとしての基本的な権利を認めさせるため
生選択を「自発的に」行なっていく社会的メカ
に,プロステイテユーションはセックスワーク
ニズムの存在を認識することではないか。
である,性労働であるという議論を展開してい
、 ・」
もちろん,以上の二つの議論はしばしば同一
かつてポール・ウイリスは, 『ハマータウン
の野郎ども』 (筑摩書房, 1985年)において,
イギリスにおける労働者階級の子弟が,成長過
の論者によって「性的自己決定権論」の根拠と
程における「反学校」的文化の受容を通じて,
して用いられるが,論理的には明らかに異なっ
精神労働よりも肉体労働に高い価値を見出す世
たレベルの議論なので,ここでは区別して分析
界観を身に付けていく過程を分析した。それは
することとする。
「自由ならざる境遇を自由意志で選択する過
まず第一の純粋な「自己決定権」擁護論は,
程糾」であり, 「こうして,みずから劣位の部
女性のみに偏った「性の商品化」が明白な女性
署を選びとる人びとがいるおかげで,他の人び
差別の反映である現状を,端的に追認する意味
とは,精神労働を価値とする支配イデオロギー
しか持たない。男女間の平等を目指す運動は,
のも、のさしを安んじて受け入れ--比較的に優
人生における選択肢について男女間に存在する
位の部署を獲得でき,それに応じた優越感にひ
不均衡の是正を求める, 「平等な選択肢」を目
たることもできる困」と。
指す運動でなければならない脚。もしそれが実
筆者は,こうしたウイリスの分析枠組みは,
現された場合には,自ら売春従事者となる選択
女性が職業としての「売春」を自ら選び取る過
も純粋な個人の選択と見なされ得るであろう
程についてもある程度妥当するのではないかと
が,果たしてその場合に売春業そのものへの需
考える。一般の肉体労働と同様,売春も社会に
要・供給が現在ほどの規模で確保される否かが
おいて一定の需要が存在する,すなわち「必要
疑問なのは,前項で述べた通りである。
と見なされている」仕事に分類され得る。そう
注意しておかなければならないのは,上記の
である以上,一定の量の肉体労働者・売春従事
ような理論的立場を採用することと,自らの性
者が「自発的」に, 「誇り」を持って出現する
を「商品化する」決定を行なったそれぞれの女
メカニズムの存在が,社会体制にとって好都合
性に対して道徳的な非難を行なうこととは,何
なのは明らかである。
ら関係がないという点である。職業としての
「性的自己決定権」論者は,繰り返し「売春
「売春」を自ら選んだ女性は,当面の収入こそ
も他の労働と同じ『労働』である」と強調す
他の女性より高くなるかもしれないが,その代
る。なるほどその通りである。しかしそう主張
わりに肉体的リスクも背負うことになる。従っ
するのであれば,売春がより広いカテギリーで
て, 「売春女性」を自己利益の最大化を求めて
ある「肉体労働」の中に位置づけられること,
男性社会に屈伏した存在として描き出すのは公
そして不可避的に「危険労働」としての性格を
平とは言えない。むしろ求められるのは,社会
持っていることを等閑視するべきではない。一
における「構造的劣位者」の位置に属する人々
般論として,このような性質を持つ労働に特定
が,そのような社会構造を再生産するような人
の社会集団の構成員が集中して従事している状
「性の商品化」と性差別 201
況があるとすれば,それを社会的差別の反映と
な政策は, 「女性性市場」の究極形態を公認す
見なすのはごく自然である。そこで「自己決定
るという意味合いを持つものであり,性差別を
権」を持ち出して個人の「選択」の結果にこと
積極的に強化するものと言わざるを得ない。
さら肯定的評価を与えようとするのは,単なる
現状の追認にしかならない紬o
それでは,売買春への規制を基本的に解除す
る「非犯罪化」はどうであろうか。まず,売春
この点が,先に述べた第二の議論,すなわち
従事者が現場で行なわれる人権侵害を外部に訴
「セックスワーカーの権利の保障」 「売買春の
え出られる状況を確立するために,売春従事者
現場における危険の防止」のために売買春の合
本人の完全な(いわゆる「客引き」行為なども
法化・非犯罪化が必要であるとする議論に関係
含む)非処罰化は必要と考える。しかしそのこ
してくる。この議論そのものは,売買春を禁止
とから直接, 「買う側」についても非処罰のま
する場合とそうでない場合のどちらが売春従事
まとすべき,あるいは売春斡旋業や組織売春に
者にとって「現実に」利益となるかという事実
ついても禁止・規制を解除するべきという結論
判断に依存する。その意味では権利論というよ
を導けるわけではない。むしろ,そうすること
りも政策論争と言えるが,簡単に私見を示して
は産業としての「売買春」に対して社会的な
おきたい。
岩尾典子は,従来の売春に関する法政策は,
「買売春を犯罪として関係者全てを処罰する処
「お墨付き」を与えることで,売春従事者本人
の立場を相対的に低めてしまうことも考えられ
るだろう。
罰主義,一定の条件で買売春を公認する規制主
そもそも`,ある労働が「合法」と認められて
義,そして買売春の廃止をめざして性業者を処
いるか否かという点と,そこで人権侵害が行な
罰する廃止主義の3種類」であったが,それに
われているか否か・その人権侵害を訴え出られ
加えて,近年のセックス・ワーク論(本論文で
るか否かという点との間には,必然的な相関関
いう「性的自己決定権論」に近い)が「非犯罪
係はない。後者は,当該労働そのものが持って
化」という政策を提示してきたとしている的。
いる性質,雇用者側と労働者側との間の力関
以下の記述では,若尾の定義に従う。
係,あるいは労働者側に集中的に分布している
このうち「規制主義」とは,オランダやドイ
集団(たとえば女性,黒人,その他)の社会的
ツ,米ネヴァダ州などで行なわれているもの
地位といった複合的な要因によって決まってく
で,売春従事者には定期的な健康診断が課せら
る。
れ,営業許可は特定区域に制限されるケースが
労働が「合法」と認められていながらそこで
多い。しかし「規制主義」は,ある程度売春従
日常的に人権侵害が行なわれ,容易に加害者を
事者への暴力・性病感染などを防止する可能性
告発できないという具体例は珍しくない。その
はあるものの,そのプライバシー・移動の自由
黄も極端なケースは奴隷制であろう。アメリカ
は極度に制限されてしまう。また,売春業への
南部における黒人奴隷制の下では白人の雇用主
許認可権を持つ警察権力が強化されるという問
によって日常的に暴力・虐待,時には殺害が行
題点も指摘されている。いずれにせよこのよう
なわれていたが,南部社会において黒人がこれ
202
を問題化することは,結局南北戦争を通じて憲
を「公認」すべき理由があるとは,筆者には思
法上奴隷制が「違法」とみなされるまで不可能
えない。
だった。また,これほど極端ではないが,ス
次に,最後の論点として, 「性的自己決定
ポーツ界や軍隊・警察といった組織において
権」論者がしばしば表明する結婚制度について
も,洋の東西を問わず似たような状況は存在す
の認識がはらむ危険性について考察することに
る。売春の場合これらの事例と異なり,人権侵
したい。
害の加害者は雇用主でなく「客」の場合も多い
が,労働における肉体的拘束の程度が強く,被
② 「売買春」と結婚・家族制度
害者(主に女性)の社会的立場が弱いといった
構造は似ている。
「セカンド・レイプ」という概念が示すよう
「怪的自己決定権」論に基づいて売買春を肯
定する論者の中には,結婚制度と売買春とを比
較し,両者の間には何らの質的差異もない,あ
に, 「被害者」としての女性の声が聞き取られ
るいは後者の方がより正当性のある制度だ,と
にくいのは売春従事者のそれに限った話ではな
主張する者も少なくない。たとえば,松沢呉-
い。その意味で,売春従事者自身の非処罰化と
は「一般的に主婦の労働は労働とは言われない
は区別される概念としての「売買春そのものの
んですね。いわば愛という名の下に無料奉仕と
合法化・非犯罪化」が,売春従事者の地位向上
されちゃってる。 ・--対価を得ている売春業の
に直結する,あるいはその不可欠の前提である
方がよっぽどましですよね但g)」と発言してい
という発想には疑問を感じざるを得ないのであ
る。
る幽O売春従事者の人権を確立する運動は,あ
たしかに,男性に性的満足を与えるのと引き
くまでも,女性全体の社会的発言権を強める運
換えに自らの利益(生活基盤であれ,金銭その
動と一体として取り組まれる必要があるのでは
ものであれ)を得ているという意味では, 「専
国SEa!
業主婦」と「売春婦」との間に本質的な違いは
もっとも現実には,斡旋者の介在しない「単
ないと言い得るようにも見える。また,しばし
純売春」に関する限り,買春者を処罰したりそ
ば指摘されるように榊,女性を「主婦」と「売
の行動に規制を加えることは,警察権力の無制
春婦」の二種類に分類するようになったのは近
限な強化とプライバシー侵害を招く危険性が極
代資本主義の発生以降であり,その意味で「一
めて高い。従って,論点は売春斡旋業を認める
夫一婦制」と「売春制度」とが相互補完関係に
か否かに絞られるのだが,もし認めるとすれ
あるということも否定できないだろう。
ば,規制の不在は売春従事者-の暴力・人権侵
しかしこのような認識からは,結婚制度と売
害を助長することになるであろう。しかし,逮
買春が男権主義社会を支えるものとして「同程
に「規制主義」を採用したとしても,それは
度に」批判すべきものであるという見解は導き
「女性性市場」の強化に過ぎず,様々な問題点
出せても,後者を前者よりも擁護すべき制度と
が発生するのは前記の通りである。このような
する根拠は導き出せない。その点が, 「性的自
本質的矛盾を捨象してまで,あえて売春斡旋業
己決定権」論者の第一の矛盾である。そしてよ
「性の商品化」と性差別 203
り重大なのは,結婚制度を非難し売買春を擁護
例えば永田氏は次のように断定される。
する彼(女)らの主張を極限まで押し進める
【生まれた子どもの養育責任者はいったい誰
と,それは家族制度そのものの意義を全否定
いうまでもなく,それは原則としてその
か。
し,子どもの養育についての責任を国家に委ね
子の「親」である。
るという形で,「性と生殖についての自由」を
しかしこれは,現在フェミニズムによって
求めるという彼(女)ら自身の主張を掘り崩す
も,また道徳によっても再検討を迫られてい
ことになりかねないという点である。
以下,そ
】
る原則である。 例えば,児童虐待を受けた疑
の理由を述べたい。
いで児童相談所が保護した児童の多くは,両
3節で,「性の商品化」を批判する永田えり
親によって強引に連れ戻され,保護されたと
子が,その3つ目の根拠として「売買春の公認
き以上の暴力や性的虐待に遭う。
は,女性の『妊娠』の危険に対して男性が負う
体,こうした不道徳はなぜ起こるのか。
べき再生産責任を免除することを意味するもの
責任なのか。
であり,その責任を社会に肩代わりさせる覚悟
もちろん,我々人類が営々と築いてきた社
がないかぎりこの立場を取るべきではない」と
会と歴史,誇り得る文化を継承するべき次世
主張していることに触れた。
この議論に対し佐
--一体全
代の再生産責任を,性交する男女なんぞに割
藤悟志は,売買春には妊娠のリスクがつきもの
り振って事足れりとする社会や国家の無責任
であると断定する永田のような主張こそが,買
な対応こそが,こうした不道徳の発生に手を
春男性に避妊措置を怠らせる状況を助長するの
貸してレ? るのだ。
だと非難している糾Oたしかに,この点自体に
子どもの養育責任は,性行為者などではな
関しては佐藤の主張にある程度説得力があると
く社会が引き受けなければならない。
言える。
待の問題で言うなら,--問題が発生してい
しかし,売買春による「意図されざる」妊娠
ないかどうかを二四時間監視する警察・医
でなく,男女のカップルが「子どもを持ちた
師・地域住民の緊密な連絡網の形成こそが必
い」と意識的に希望した結果起こる妊娠につい
要とされているのである8巧。
「性的自己決定権」論者
てはどうであろうか。
も,「子どもを持つこと」が個人に認められる
佐藤は一方で,「形式的には」実父母が親権
べき正当な権利であることは否定していない。
者に定められることを肯定しているが,上記の
そして,「子どもを持つ権利」が認められるの
ような提言は,実質的には「親権」という概念
であれば,その子どもに対して誰かが養育責任
や家族制度の全否定に近いものがある0
を負うシステムが存在しなければならない。
誰の
通
自己決定権」論者の中でもこうした立場を正面
常は,その養育責任は子どもの両親に負わされ
から主張するのは少数派に属するが,結婚制度
ることになっており,それを支えるのが結婚制
よりも売買春を「擁護可能」なものと見なすそ
度である。 ところが,佐藤は次のように主張し
の論理を貫徹するならば,子育てに国家・社会
ているのである。
が大幅介入することを容認するに至るのはむし
児童虐
「性的
L'04
ろ必然的と言わなければならない。 しかしこの
にその意義を全否定するような立場は採用でき
ような立場は,「性と生殖の自由」という,「性
ないのである。
的自己決定権」論とは切っても切り離せない主
しばしば「性的自己決定権」論者は,売買春
張と根幹から矛盾するのではないか。
に否定的態度をとる論者が抑圧的な性モラルの
筆者は,結婚制度や家族制度には様々な問題
持ち主であると示唆する。 しかし彼(女)ら
点があるとしても,子どもを保護し養育する場
は,自らのいう「解放的な性関係」が金銭を媒
所として,そして国家権力に対する最低限の防
介として行なわれるべきとする積極的な根拠を
波堤として,これらの制度には一定の意義を認
提示していない。むしろ「性的自己決定権」論
めなければならないと考えている。
者の方が,「1対1」以外の性関係は実質的に
「児童虐
待」などの問題があったならば,緊急避難的に
「売買春」以外あり得ないという,樵(女)ら
国家・社会が養育責任を負うことは当然だが,
の批判する一夫一婦制の性モラルを内面化して
基本的には子どもの親を「養育責任者」とする
いるのではないだろうか。 その点を指摘して,
原則を崩すべきではない。 もしこの原則を否定
「性の商品化」をめぐる「自己決定権」論批判
するならば,ナチスの「生命の泉」のような,
の結びとしたい。
自らの望む通りに新世代を育てようとする全体
〔投稿受理日2003. ll.25/掲載決定日2003. 12.4〕
主義国家やカルト教団の試みを非難することは
不可能になるだろう。
また,「性的自己決定権」論者は結婚制度を
「男性が無償で性行為を行なう権利を得る装
置」という点のみに引きつけて捉えるが,近年
「セックスレス」現象が話題となっていること
が示すように,結婚制度と性行為の結びつきは
註
(1)加藤秀一は,「性の商品化論において,『女
の一一』という語句を省略するのは悪質なまでに
過度の抽象化である。現実に商品化されているの
はあくまで『女の性』であっで性一般ではない」
と述べている(「く性の商品化)をめぐるノート」
必然的なものではない(その点で売買春と区別
江原由美子編『性の商品化』動葦書房,1995年,
271-272頁)。 荏(6)参照。
され得る)0また,日本を含む多くの先進国に
(2)たとえば,前者の側に立つプリシラ・アレキサ
おいては「専業主婦」は事実として減少してお
ンダーは同書241頁で「売春にかかわる人びとを
助けるためのプログラムはすべて,売春の誘因を
り,「夫に養ってもらっている」妻のイメージ
認識し,それに対処すべきだ。 第一のそして最大
を結婚制度非難の根拠とするのは問題があるだ
の誘因は経済的なものである」と述べている。
(3)バーン&ボニー・ブ-ロー『売春の社会史』筑
また,古典的な「一夫一婦制」について
ろう。
も,同怪のカップルの結婚を認めるなどの改革
摩書房,1991年,445頁。
(4)官台他『く性の自己決定)原論』紀伊国屋書
が進みつつある。夫婦間の「貞操義務」につい
店,1998年,264-265頁。
ても,その実質が以前よりも空洞化しつつある
(5)『フェミニズムの主張』,18頁。
こうした点から見ても,現行の
のは明らかだ。
(6)『道徳派フェミニスト宣言』,第3章以下。
なお永田は,「性の商品化」がもたらす「市
結婚制度・家族制度をその抑圧性を解体する方
場」を女性に限定して論じることについて,現実
向で再編成することは可能だと考えられ,安易
に大規模な市場が成立しているのは女性のみであ
「性の商品化」と性差別 205
ることと,「女性性」と「男性性」とは代替可能
学出版会,2001年など。
な財なので独立に論じられ得ることを根拠として
(14「『性-人格論批判』を批判する」『現代思想』
jam
1998年10月号。
筆者も,この永田の態度に賛成である。
「商品
(1句同論文,182頁。
化」の実情について男女間に明白な非対称性があ
(16)同論文に挙げられている例のほか,たとえば赤
る以上,ことさらに「性の商品化」を性差中立的
川学による「性をあまりに強剛こ人格に結びつけ
な概念として論じることは,その本質を見誤らせ
る危険が大きい。 「市場」とは需要のみならず供
ることは,最大の人格攻撃戦略としての性暴力
給があって初めて成り立つもので,そのあり方は
の側にも生んでしまうことになる」(『セクシュア
社会的な権力バランスと無関係ではあり得ないか
リティの歴史社会学』勤葦書房,1999年,389
らである。 従って以下の論述でも,「性の商品
頁)という主張にも類似の発想が感じられる。
(17)たとえば前掲『売る売らないはりタシが決め
化」の分析は意識的に女性のそれを念頭に置いて
行なわれることになる。 この点については,5節
で改めて触れたい。
(7)桃河「『公娼制度』が復活すれば問題は解決す
(レイプ)という観念を,加害者の側にも被害者
る』282頁(松沢の発言)など。
txS以上の引用は,『続・ものぐさ精神分析』113
131頁。 なお,類似の認識は,前掲『売春の社会
るのか」松沢呉-+スタジオ・ポット偏『売る売
史』でも表明されている。
らないはワタシが決める』ポット出版,2000年,
は,売春に関するどんな比較文化的調査にも際
「女性役割のうちに
mm
立って表れてくる側面がいくつかあるようだ。
(8)だからといって,筆者はあらゆる資本主義的商
の一つが,女性は財産だという信念である」(同
品関係に反対する立場をとっているわけではな
い。 ただ,「性の商品化」肯定論を主張する論者
書,14頁)
の多くが,あまりに素朴な自由市場肯定論に依拠
に対する「女性怪商品」の供給ち,「自由意志」
している点に疑問を覚えるのである。
(9)この点については,ナオミ・ウルフ『美の陰
のみに依存していては慢性的に不足してしまい,
そ
(19)実際には,現在の「女性の性」への巨大な需要
謀』(TBSブリタニカ,1994年),浅野千恵「潜
何らかの形での「強制的な供給」に頼る場面が出
現してくる。 杉田聡が「日本の『自由売春』がア
在的商品としての身体と摂食障害」(前掲『性の
ジア諸国の『強制売春』の上に繁茂し,また逆に
商品化』収録)参照。
それを支えているという構造」についての売買春
なお,自らの「商品価値」をめぐる強迫観念
擁護論者の認識の欠如を批判するのは,この意味
は,いわゆる「能力主義」の影響としても当然生
においてであろう(『男権主義的セクシュアリ
じ得る。 しかし,主に「能力」でなく「身体的外
見」に関係した「商品価値」をめぐる強迫観念
ティ』青木書店,1999年,139頁)0
臣o)クラブホステスとしての勤務というフィールド
が,女性に偏って押しつけられている状況を,よ
ワークを行なった川畑智子は,その経験の内在的
り否定的に評価すべきなのは確かだろう。 そうし
た状況は,「能力」以外の「生得的事由」による
分析を通じて,クラブ社会がそこで働く女性に
差別を禁止する,現代の人権原理に正面から抵触
己防衛が逆説的にも「モノとしての女」の役割の
するからである。
内面化を促すこと,そしてそのような「女性のモ
(10)『道徳派フェミニスト宣言』,192頁。
ノ化」が「父権的異性愛制度」の再生産・強化を
(ll)デュル『性と暴力の文化史』法政大学出版会,
もたらしていることを指摘している(「素人ホス
1997年,8頁。
(12)赤川「売買春をめぐる言説のレトリック分析」
テスから見た『女らしさ』のワナ」河野貴代美編
江原由美子編『性の商品化』勤草書房,1995年,
176頁。
(13)園田浩二『誰が誰に何を売るのか』関西学院大
「モノとしての女」の役割を強制し,それへの自
『シリーズく女性と心理)セクシュアリティを
川畑のこの分析
めぐって』新水社,1998年)0
は,本節で行なった「女性性-商品」観の構造に
ついての考察と矛盾しないように感じられる。
206
l)前掲『(性の自己決定)原論』,10頁。
l?
取り立てられず,労働者が病気や不安な老年に達
w「プロステイテユート・ムーブメントが問うも したときに,かくも親切な注意が払われるような
の」田崎編著『売る身体/買う身体』青弓社,
国はほとんどありません」と論じた(リチャー
1997年,18頁。
なお,引用部分にもみられる「セックスワー
ド・ホ-フスタッタ-『アメリカの政治的伝統
南部にお
I』岩波書店,1959年,110-111頁)。
ク」「性労働」という用語について一言述べてお ける黒人奴隷の現実の状況に重きを置かなけれ
これらの概念には狭義の「売春」だけで ば,北部や欧州諸国における当時の劣悪な労働環
きたい。
なく,ヌードモデルやバーのホステスの仕事など 境と比較して,このような奴隷制擁護論を立てる
現在「性的
様々な種類の「労働」が含まれる。
しかしこれら
のは決して難しくなかったのである。
の労働相互間には,客との接触の度合いや危険の 自己決定権」を根拠に売買春を擁護する議論のあ
程度・r表現の自由」との関連性などにおいて無 る部分は,当時のこうした議論と相似しているよ
かつての白人が黒人の
視できない違いがあり,その全てが法的禁止や制 うに筆者には思われる。
「痛み」を顧みなかったように,現在の売買春擁
約の対象となるとは言えない(もちろん,「性労
働」一般を成り立たせている性差別的社会関係に 護論者の男性が女性の「痛み」を過小評価してい
従って以下の考
る可能性については,浅野千恵「『痛み』と『暴
ついての価値判断は別である)。
察においては,概念の暖昧さによる混乱を避ける 力』の関係学試論-性風俗産業をめぐる言説の
ため,「セックスワーク」「憧労働」という用語の
権力分析-」『思想』2000年1月号を参照。
使用は避け,論点を「売春」の問題に絞ることに ¢9)座談会「性風俗と売買春」前掲『売る売らない
はりタシが決める』,246頁。
寸蝣i>?
(23)この点については,拙稿「自己決定権をめぐる
(30)たとえば小倉利丸「売買春と資本主義的一夫多
批判的考察」『社学研論集』1号,2003年参照。 妻制」(前掲『売る身体/買う身体』収録),シャ
糾ウイリス『ハマータウンの野郎ども』,243頁。 ノン・ベル『売春という思想』青弓社,2001年,
ra同書,293頁O
67頁以下など。
m「社会の再生産責任を免除する,永田えり子氏
(26)むろん,そのことが当該危険労働を「禁止」す
べきであるという決定に直結するわけではない。 の主張こそ不道徳である」(前掲『売る売らない
しかし,当該労働の危険性と「社会的必要性」と はりタシが決める』収録)0
を比較衡量した結果,そのような決定が行なわれ 82)同論文,213-214頁。
それを前提に以下の議
ることは当然あり得よう。
論を行なう。
¢7)「買売春と自己決定-ジェンダーに敏感な視
1237,2003年,185
点から」『ジュリスト』No.
Hi
幽しばしば売買春はその批判者によって,「性的
奴隷制」という概念枠において論じられてきた。
こうした議論をある種の極論として退けることは
難しくない。
しかしその際,比較対象としての
「奴隷制」そのものがなぜ悪なのか,なぜ法的に
禁止されるべきだったのかという問題はしばしば
等閑視される傾向がある。
南北戦争前のアメリカ南部の政治家であった
J-Cカルフ-ンは,奴隷制は悪ではなく「積
極的な善」であり,「かくも多くの部分が労働者
のわけ前に残され,かくもわずかしか労働者から
Fly UP