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横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか

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横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
論考
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
清岡 美津夫
)
(
月発 売 から 、中 国の連 環 画で あ る『 三 国演義連 環 画』 上 海 人 民 美 術
)
出 版 社 一 九 五 六 ― 一 九 六 四 年 か ら 多 く 参照 され る よう にな る 。こ れ
に つ いて 連 載 終 了 後 に 横 山 は 「 日 中 国 交 が 回 復 さ れ て か ら は 、 中 国 の
序言
連 環 画 が 入 っ て き だ し て 」 と 資 料 と して 連 環 画 に つ いて 言 及 す る 。 一
一
横山光輝によるマンガ作品で ある『三国志』は、前作の『水滸伝』
(四)
と同じ掲載誌である一九七一年一二月発売の『希望の友』
(潮出版社)
方 、 読 者 側 に お いて 当 時 大 学 生 だ っ た 宮 島 聡 は 連 載 中 の 時 期 に 「 横 山
(一 )
一 九 七二 年 1 月 号か ら 連 載が 開 始さ れ た 。 そ の 掲 載 誌は 一 九 七 八年 七
(七)
連 載 中 、 あ る いは 終了 後 、 一 九 八 五 年 三 月の 単 発 放 送 と 一 九 九 一 年
(六)
お り 、 一 部の 読 者 に 連 環 画が 参 照 さ れ た 認 識が あ っ た と 伺え る 。
( 五)
先 生 が 参 考 に さ れ て い る と い う 『 三 国 志 連 環 画 』」 と い う 表 現 を し て
(二)
月 号で 雑 誌 が 休 刊
月 発 売の 8 月 号で 『 少 年 ワ ー ル ド 』 と 改 名 し 、 横 山 『 三 国 志 』 の 連 載
も 引き 継 が れ た も の の 、 一 九 七 九 年 一 一 月 発 売 の
完 」 と して 一 旦 、 終 了す る 。 そ の 五 ヶ 月 後
一 〇 月 か ら 一 九 九 二 年 九 月 まで の 連 続 放 送 の ア ニ メ 化 や 一 九 九 二 年 六
とな り当 作品も 「第 一 部
の一九八〇年四月に同社より創刊された『月刊コミックトム』一九八
月のビデオゲーム化などの作品自体のメディア展開のみならず、二〇
(八)
〇年 5 月 号 か ら 当 作 品 の 連 載 が 再 開 さ れ 、 一 九 八 七 年 二 月 に 発 売さ れ
山 自 身 は 連 載 終 了 後 の イ ン タ ビ ュ ー に お いて 「 テ ン ポ と し て は 吉 川 英
起 源 の も ので あ り 、 そ の 他 多 く 吉 川 『 三 国 志 』 に 依 拠 す る 。 た だ し 横
横山『三国志』のストーリーは冒頭部分で小説の吉川英治『三国志』
内 包 す る 一 要 素 が 商 品 価 値を 持ち う るこ と 、 い わ ゆ る 「 デ ー タ ベー ス
できる傍証であるといえ、また必ずしも作品自体が顧慮されなくとも、
作 品 が 日 本 に お いて そ の 読 者 だ け で な く 、 三 国 へ の 関 心 層 に 広 く 訴 求
と して 採 用 さ れ 、 同 ゲ ー ム の 販 売 促 進 に 利 用 さ れ た 。こ れ は 同 マン ガ
(九)
〇 七 年 に ゲ ー ム 『 三 国 志 大 戦 』 に カ ー ド と して 、 か つ シ ナ リ オ の 一 つ
治 さ ん の 『 三 国 志 』 を 参 考 に し ま し た が 、 も ち ろ ん 、こ の 作 品 だ け が
消費」としても当作品が受容されることが示された。さらにSNS
た3月号で 完結した。
正 確 な 三 国 志で は あ り ま せ ん か ら 、 羅 貫 中 の 『 三 国 志 演 義 』を は じ め
(
)
態で も 受 容 さ れ 得 る と 示 さ れ た 。
ー タ ベ ー ス 消 費 」が 現れ 、 件 の 作 品 が 現 代で も 、 ま た は そ の よ う な 状
(一〇)
と し て 、 い つ も 何 冊 か の 本 を 読 み 比 べ な が ら 、 ス ト ー リ ー を 練 って い
「 LINE
」 に お いて 横 山 『 三 国 志 』 の コ マ内 の 絵 が 四 〇 種 類 の 「 LINE
一一
スタンプ」として二〇一四年一月に販売され、より断片的な内容の「デ
(三)
一 方 、 ヴ ィ ジ ュ ア ル 面で は 、 連 載 当 初 、 同 誌 前 作 の 『 水 滸 伝 』 か ら
くわ けで す 」 と 述 べ る 。
(
の 引 き 継 ぐ 部 分 が 大 き い も の の 、『 希 望 の 友 』 一 九 七 八 年 4 月 号 三
- 117 -
12
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
横 山 『 三 国 志 』 は 、こ の よ う に 『 三 国 志 演 義 』 を 翻 案 し た マ ン ガ の
中で 、 日 本 で 最 も 浸 透 し た と い え る 作 品 で あ り な が ら 、 歴 史 に お い て
月号まで
初 出 の 『 希 望 の 友 』 一 九 七 二 年 1 月 号 か ら 一 九 七 八 年 7 月 号 まで の 掲
載 分 、『 少 年 ワ ー ル ド 』 一 九 七 八 年 8 月 号 か ら 一 九 七九 年
認 す る 。 比 較 ・ 参照 す る 主な 作 品 は 、 羅 貫 中 『 三国 志 演 義 』 毛 宗 崗 本
月 号 まで の 掲 載 分 に 準 拠 し 、 必 要 に 応 じ 希 望 コ ミ ッ ク ス と の 異 同 を 確
として二〇一三年八月に上海古籍出版社から出版された『三國演義(毛
の 掲 載 分 、『 月 刊 コ ミ ッ ク ト ム』 一 九 八 〇年 5 月 号 か ら 一 九 八 七 年 3
品 と して 一 般 的 で な い 特 徴 も 有 す る 。 当 然 、「 横 山 光 輝 は な ぜ 官 渡 の
も 文 学 作 品 中 に お いて も 重 要 と な る 、 曹 操 勢 力 と 袁 紹 勢 力 が 戦 う 、 い
戦 い を 描 かな か っ た の か 」 と い う 素 朴 な 疑 問 が 生 じ る 。 そ の 疑 問を 象
評 本 )』、 一 九 四 〇 年 よ り 大 日 本 雄 弁 会 講 談 社 か ら 出 版 さ れ た 吉 川 英
わ ゆ る 「 官 渡 の 戦 い 」 が 描 か れて いないな ど 、『三 国 志演義 』翻 案 作
徴 と 捉 え 議 論 の 起 点 と し 、 作 品 自 体 の 描写 の 変 遷 に 対 す る 分 析 、 い わ
治『 三国 志』全 一四 巻、創業五 〇周年の二 〇〇三年 に上海 人民 美術 出
一三
版 社 よ り 再 版 さ れ た 『 三 国 演 義 連 環 画 』 精 装 収 藏 本 全 六 〇 冊と す る 。
(
(
)
結 果と 考 察
ゆる内在的分析を軸とし、著者や編集者などのインタビュー、作品が
一二
三
発 表 され た 背 景 な ど メ デ ィ ア 自 体 に 関す る 分 析 、 い わ ゆ る 外 在 的 分 析
件 の 作 品 が 一 九 七 〇 年 代 、 一 九 八 〇 年 代 の 日 本 に お け る 『 三国 志 』 に
により補うことで、横山『三国志』の作品自体とその周辺のみならず、
関 わ る 、 多 く の 文 化 伝 播 の 結 節 点で あ る た め 、 そ の 文 化 受 容 の 重 要 箇
(
)
の 特 性を 考慮す る た め 、「 官 渡の戦 い」に至るまで の作品内 外の経 緯
前 述 の 象 徴 的 な 疑 問を 解 消 す る 前 に 、 他 の メ デ ィ ア に は な い マ ン ガ
一 横 山 『 三 国 志 』 連 載 に 至 る まで
も把握する必要がある。加えて作家性も考慮するため、前作の横山『水
本稿では、横山『三国志』について『三国志演義』、吉川『三国志』、
所を 浮き 彫り にで き ると 期待され る 。
象 に して 、 ス ト ー リ ー 面 と ヴ ィ ジ ュ ア ル 面 両 方 の 分 析 を 行 い 、 作 品 内
『 三 国 演 義 連 環 画 』、 種 々 の 『 三国 志演義』 翻案マン ガなど を 比 較 対
滸伝』も含め、関連する作者の前史を順に追う。
)
(
)
横山光輝は一九三四年六月一八日に生まれ、銀行員、神戸の映画館
一四
の 表 現 の 変 遷 を 探 り 、さ ら に 制 作 背 景と も 照 合 を 行 う 。 それ に よ り 小
説 の マ ン ガ 化 お よび 連環 画の マ ン ガ 化 の 特 性 は 元よ り 、 前 述 の 疑 問 に
の 宣 伝 部 を 経 て 、 貸 本 専 門 出 版 社で あ る 東 光 堂 か ら 一 九 五 五 年 三 月 に
一五
潜む 『 三国 志 演義 』を 翻 案し た 代表 的な マ ンガ 作品 が 有す る 特性を 解
出 版 され た 時 代 劇 マ ン ガ の 『 音 無 し の 剣 』で デ ビ ュ ー し た 。 小 学 館 の
(
)
)
一六
号 四月二日
(
(
)
忍者 ブー ムを 巻き 起こ した。 マン ガ のジャ ン ルで の 位置 付 けと して 一
よりデビュー作と同じく時代劇マンガの『伊賀の影丸』の連載を始め、
少 年 向 け 週 刊 誌 『 週 刊 少 年 サ ン デ ー 』 にて 一 九 六 一 年
明す る。
方法
九六七年一月発行の辰巳ヨシヒロ『劇画大学』によると、横山光輝は
一八
内 容分 析と 他 作品 と の 比 較 を 行う に当 た り、 横山 『 三 国 志』 につ い
そ の 『 伊 賀 の 影 丸 』の ヒ ット を 受 け 、 横 山 は 潮 出 版 社 の 中学 生 高 校
劇画作家に位置付けられており、また自ら「劇画作家」と称していた。
一七
希望 コ ミ ック ス 全 六 〇 巻 を 用 い たも のの 、 制作 背景 を 考 察 す る た め 、
- 118 -
12
て 主 に 一 九 七 四 年 四 月 か ら 一 九 八 八 年 八 月 まで 出 版 さ れ た 潮 出 版 社 の
二
14
(
)
(
)
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
生向けの月刊誌『希望ライフ』の編集部から中国古典である『水滸伝』
とき に は ホ ッ と し た と 同 時 に 、 それ 以 前 に 描い た 部 分 の あ ら が 見 えて
タビューの際に「ようや くのこ と、上海で 発 行され た絵本を見付けた
(
)
(
)
国 演 義 連 環 画 』 のこ とで あ ろ う 。
後 述で 詳 細 に 論 じ る よ う に 絵 本 ま た は 劇 画 と 喩 え ら れ る 連 環 画 の 『 三
二四
の マ ン ガ の 依 頼 を 受 け る 。 横 山 の 述 懐 に よ る と 編集 部 は 「 作 中 に 登 場
じだんだ踏んだものでした」と述べる。ここでいう上海発行の絵本は、
う 発 想 を 持 ち 、 そ の た め 『 水 滸 伝 』 は 、 集 英 社 の 『 ボ ー イ ズラ イ フ 』
一九
す る 英 雄 たち が 影 丸 ば り の 活 躍 を す れ ば 、 ヒ ッ ト ま ち が い な し 」 と い
一六
一九六五年四月号から連載の日本の戦国時代の黒田官兵衛を描いた
(
)
『 蛟 竜 』 も 含 む 時 代 劇 マ ン ガ あ る い は 忍 者 マ ン ガの 系統 に 当 初 、 制 作
(
)
横 山 『 水 滸 伝 』 の 後 に 続 く 形で 横 山 『 三 国 志 』は 『 希 望 の 友 』 一 九
2 横 山 『 三 国 志 』 初 期 と 従 来 の 『 三国 志 演義 』 翻 案 作 品 と の 比 較
七二年1月号より連載が 始まっ た。序言で 示し たように、スト ーリー
側において 位 置付け られ たので あろ う。
し か し な が ら 、 時 代劇 も の と 違 い 、 日 中 国 交 正常 化 前 の 当 時 は 中 国
(
)
(
)
面で は 吉 川英 治 『 三 国 志 』 に 依 拠す るも の の 、 ヴ ィ ジ ュ ア ル 面で は 前
一
の 画 像 資 料 が 手 に 入 り に く い 状 況 だ っ た と のこ とで 、 横 山 は 後 に イ ン
節で触れたように前作の横山『水滸伝』で醸成されたものであるため、
二〇
タ ビ ュ ー で 「 さ し 絵 の 画 集 を 探 して 描き 始 め ま し た 」 と 答 え た 。 『 希
二一
(
)
(
)
具体 的には通 俗 文芸におけ る張 飛の「豹頭環眼、燕 頷虎 鬚 」に 対し 、
)
長 い 髭 を 有 し 頭 に 緊 箍 を 戴 く 造 形で あ り 、『三 国 志 』 巻 六 魏 書 董 卓 伝
(
注所引『英雄記』の「卓素肥」に対し、中肉の造形などで ある。加え
二五
人物造形が従来の『三国志演義』翻案作品より逸脱する場合がある。
望ラ イ フ 』一 九 六 七 年 4 月 号 から 作 者名 を冠 し た『 横 光 水 滸 伝 』の タ
イ ト ルで 連 載 が 始 ま り 、 後 に 『 水 滸 伝 』 と 改 ま り 、 掲 載 誌 は 小 学 生 中
る と 、 図 1 の 左 の 二 図 の よう に 、 日 本 の 戦 国 時 代の 鎧 に 近 い 造 形 だ っ
学 生 向 け 月 刊 誌 『 希 望 の 友 』 に 移 る 。 鎧 を 一 例 に デ ザ イ ン の 変 遷を 見
て 横 山 は 「 最 初 の う ち は 、 日 中 国 交 回 復 の 前で 中 国 か ら の 本 が 入 っ て
二二
化していき、連載の終盤で安定しつつあり、同誌連載次作の『三国志』
た が 、 連 載 が 進 む に 従 い 、 主 に 兜 と 胸 か ら 腹 に か けて の 鎧 の 部 分 が 変
の 初 期で あ る 程 度 、 固 定 さ れ た デ ザ イ ン に 至 り 、 そ れ は 回 を 追 う 毎 に
葛飾戴斗/挿 画『絵本通俗三国 志』 一八三九―一八四一年 で あると
考 に して 描 い て い た んで す 」 と し 、 ま た 別 の イ ン タ ビ ュ ー で は そ れ が
きて な かったので 、江戸時代に 葛飾 北斎の弟子などが描いたのを参
)
ヴィジュアル面が醸成されて い った結果で あろう。また、図1のよう
し た 。 そ れ は 張 飛 の 戴 く 緊 箍 に ついて 『 絵 本通 俗三国 志 』、横山 『 三
(
に 、 人 物 の 頭 身 に 着 目 す ると 『 蛟 竜 』 と 『 水 滸 伝 』 の 初 期 に お け る 多
国志』の予告、横山『三国志』本編と変遷が見てとれる 図2 。
二七
く の 人 物 は 4 ・ 5 頭 身 程 度 だ っ た も の の 、 後 者 に お いて 中 盤 か ら 5 頭
二六
身 と な り 『 三 国 志 』 の 初 期に も 引 き 継 が れ 、ス ト ー リ ー の 寓 話 的 内 容
(
)
(
)
二八
(
)
)
(
(
)
ペ ー ジ が 複 数 の フ レ ー ム 、 い わ ゆ る コ マ 枠で 区 切 ら れて い るこ と 、 描
従来の小説の挿絵と比べ、当時ないし現在のマンガが有する特徴に、
一 方 、 そ う い っ た 内 在 的 関 連 の み な ら ず 、こ の 作 品 の 担 当 編 集 者 で
かれ る対象とコ マ枠との 関係 、 つま りシ ョット サイ ズが 大き く変化す
から歴史 小説的内容への変化が 反映され たものと思われ る。
あ っ た 綿 引 勝 美 は 後 年 、『 水 滸 伝 』『 三 国 志 』 を 制 作 す る 横 山 に つ い
(
)
関 わ る 。 そ こ で そ の 点 に 着 目 し 、 横 山 『 三 国 志 』 に つ い て 、 そ れ まで
るこ と が 挙 げ ら れ る 。こ の 特 徴 を 形 成 す る 技 術 面 が 本 論 の 主 題 に深 く
ら お 手 伝 いで き た こ と が 嬉 し い 」 と 述 べ る 。 横 山 自 身 も 前 述 し た イ ン
二三
て 「 私 も 上 海 で 発 行 さ れ て い る 絵 本 な ど を お 届 け す る な ど 、微 力な が
- 119 -
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
シ ョ ッ ト サ イ ズ に つ いて レ フ ・ ク レ シ ョ フ の 分 類 に 基 づ く 竹 内 オ サ ム
り の コ マ 数 を 集 計 し 、 加 え て 、 コ マ 内 に お いて 人 物 を 主 な 対 象 と し た
の 『 三 国 志 演 義 』を 翻 案 し た マ ン ガ 作 品 を 比 較 対 象 と し 、 ペ ー ジ 当 た
た り の 平 均コ マ 数 」 の 変 遷 と 同 様と な る た め 、こ の 結 果 は 『 三 国 志 演
を 経 た 傾 向 は 定 性的 に は 「 日 本 の マ ン ガ の 各 年 代 に おけ る 一 ペ ー ジ あ
純に計算すると三・七三コマになり伊藤作品に近付く。これらの時代
の大き さが 違う た め 、 面 積比 を 用い 前者 と 同面 積当 たり に な る よう 単
る と 大き な コ マ が 使 わ れ る 傾 向 で あ る と 判 っ た 。 横 山 作 品 の み ペ ー ジ
( 二九 )
の 方 法を 用 い 分 析す る 。 そ の 方 法 に 準じ 、 シ ョ ット サ イ ズ の 大 き い 順
義 』 を 翻 案 し た マン ガ 作 品 に 限 っ たこ と で は な く 、 日本 の マン ガ に 見
(三〇)
大ロン グ と し 、さ ら に ほ
ク ロ ーズ ・ア ッ プ 、 U アップ 、 B バスト 、 M
( (
) )
)
(
)
ミデ ィアム 、 F フル 、L ロン グ 、
から、それぞれ
(
)
)
(
)
られ る傾向の 反映だ と思われ る。
( ( (
)
(
)
ズ の 大 小 を と り プ ロ ット し た 曲 線 が 図 4 と な る 。 同 時 代 の 福 井 作 品 と
して そ の 前 後 の 関 連 し た コ マ の 数を 横 軸 に 取 り 、 縦 軸 に シ ョ ッ ト サ イ
)
比 較 す る 作 品 は 古 い 作 品 か ら 順に 、福 井 英 一 『 少 年 三 国 志 』(小 学
菅作品は 人物 の全体像が表示 され る Fと Lの頻度が 高く、全身 の動き
続 いて 「 桃 園 結 義 」 に お け る 義 兄 弟 の 契 り の コ マ を 原 点 〇 コ マ と
菅 大 作 『 三 国 志 』 集 英 社 「 お も し ろ 漫 画 文 庫 」、 1 、 一 九 五 三 年 6
館『中学生の友』一九五三年7月号―一九五三年8月号初出、A5版 、
目 に 加え る 。 具 体 的 には 図 3 に 示 し た 通 り に な る 。
と ん ど 描 画 が な く 文 が 主 要 と な る コ マを N ナ レ ー シ ョ ン と し 分 類 項
LL
(
で 表 現 し よ う と す る 意 図 の 表 れ で あ ろ う 。 加え て 菅 作 品 は 単 行 本 一 冊
(
に ま と め る シ リ ー ズ の 性 質 上 、 Nを 駆 使 し 絵 の 表 現 が 省 略 され る 傾 向
)
月 発 行 、 A 5 版 、伊 藤正樹『少年 三国 志』 寿 書房 、 一 九 六 三年 2 月
にある。逆に伊藤作品は顔の表情に焦点の行く
)
、 Uの 頻 度が 高 く 全
志演 義 』 毛 宗 崗 本 の 第 一 回に 相 当す る 場 面で あ る 「 桃園 結 義 」 と 、 同
発 行 、 A 5 版 の 三 作 品 で あ る 。 そ れ ら に 共 通す る 場 面 、 か つ 『 三 国
扉 絵 の あ る ペ ー ジ 以 外 の 「 桃 園 結 義 」 に か か る ペ ー ジ に つ いて 集 計
て
で 示す 。こ れ ら のマ ン ガ 表現 の 流れを 受 け る よ う に 、横 山 作品 にお い
の 二 コ マ は 、 両 者 と も Lで あ り 、 登 場 人 物 たち の 状 況 を よ り 広 い 視 野
部 分 に あ た る 一 ペ ー ジ に お い て コ マ 数 が よ り 少 な い / よ り 大き な コ マ
身の表現はより省略され る傾向にある。伊藤作品における場面の導入
す る 。各 作品 の 平均コ マ 数は福 井 作 品 六:・ 〇 〇 コ マ 、 菅作 品 八:・ 〇
マに含まれる、ページ半分に及ぶ大きなコマ 図のマイナス一五コマ
れ 、 より 幅 広 い 表現 を 見 せ る 。 前 述 し た 横 山 作 品 の ペ ー ジ 当 た り四 コ
+ U + B の 上 半 身 の 表 現 が 加わ り 、 視 点 対 象 の 拡 大 縮 小 が 活 用 さ
同 時 代 の 作 品で あ り 、 そ の 場 面 に か か る コ マ が 少 な く 1 ペ ー ジ 以 内 に
の場面を 比較す る。
じく第一回に相当する、その後のアクションシーンにあたる「斬黄巾」
CU
〇コ マ、伊藤作品 三:・六 七 コ マ 、 横 山 作品 五:・ 六 〇 コ マと な るこ と
が判った。福井 作品と菅作品は 雑誌連載と 単 行本の 違いが あるものの
CU
収 ま り 、 ま た そ れ ら の そ れ ぞ れ 前 後 数 ペ ー ジ に お いて コ マ 数 に 大き な
者 と の 視 点を 合 わ せ る い わ ゆ る 「 認 識 欲 求 を 目 的 」 と し た 「 同 一 化 の
目 は、その直前のコ マで 登場人物二人の顔のアップ、登場人物と読
(
変化は見出せな い。伊藤作品は3ページに渡り、順に二、五、四コ マ
ア ッ プ 」 が 行 わ れ た 後 の 、 Lで 描 か れ た 視 点 対 象と な る 。 比 較 対 象 と
)
となる。横山作品は五ページに渡り、二番目のページが四コマ以外は
なる伊藤作品を 確認すると「同一化のアップ」は見出せな かった。
別 の 面 か ら も 検 討 す べ く 、「 斬 黄 巾」 の戦 闘 場 面 ( ア ク シ ョン ・ シ
( 二九 )
六コ マと 安 定 す る 。 こ れ ら の 結 果 を 時 代 順 に 並 べ る と 、 伊 藤 作 品 以 外
は 時 代 が 下 る に 従 い 、 ペ ー ジ 当 た り のコ マ 数が 少な くな る 、 言 い 換 え
- 120 -
CU
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
ーン)についても同様の分析を行う。各作品の平均コマ数は福井作品
:
(
)
『希望の友』一九七八年4月号 三月発売 より、もしくは『三国志
演義 』 第 二 十 回 の 「 曹 阿 瞞 許 田 打圍 」 に 相 当す る 箇 所 よ り 、 さ ら に 当
連 載 終 了 後 の イ ン タ ビ ュ ー に お いて 「 あ と 、 日 中 国 交 が 回 復 さ れ て か
作 品 の マ ン ガ 表 現 が 変 化 す る 。 それ に つ いて 序 言で も 触 れ た よ う に 、
作 品 四:・ 二 五コ マと な り 、 A 5 版相当 の 平 均コ マ数 は 横 山 作 品 二:・
八三コマとなり、先の「桃園結義」と同様の傾向になった。加えて「桃
ず い ぶ ん 年 数 が 経 っ て か ら の 話で す 」 と 横 山 は 述 べ る よ う 、 ヴ ィ ジ ュ
ら は 、 中 国 の 連 環 画 を 入 って き だ し て 。 で も 、 そ れ は 連 載 が 始 ま っ て
六 ・ 一 〇コ マ 、 菅作 品 七:・五〇コマ、伊藤作品 三:・一 〇コ マ 、 横 山
園 結 義 」 の 分 析 と 同 様 に 、 レ フ ・ク レ シ ョ フ の 分 類 に 基 づ く 竹 内 オ サ
(
)
(
アル面において 『三国演義連環画』 上海人民美術出版社一九五六―
(四)
ム の 方 法 を 用 い た 分 析 に つ い て も 行 っ た 。「斬 黄 巾 」 に お け る 黄 巾 賊
の 主 要 人 物 が 倒 さ れ る 、 あ る い は 斬 ら れ る コ マ を 原 点 〇 コ マ と して
一九六四年 という明確な参照元が現れ る。
一般的 に、連 環画は一枚一画を 基本とし各画の枠外に 文を添えるポ
)
三 〇 コ マ か ら 二 〇コ マ 目 に限 定 し 、 縦 軸 に シ ョ ッ ト サイ ズ の 大 小 を と
そ の 前 後 の 関 連 し た コ マ の 数 を 横 軸 に 取 り 、 詳 細 に 見 る た め マ イナ ス
ケ ット サ イ ズ の 冊子で あ る。 連 環 画 が 「 漫 画」 と さ れ る 場 合 も あ る と
様 々 な 題 材で 創 作 さ れ た 。 一 九 六 六 年 に 文 化 大 革 命 が 起 こ る と 、 一 九
環 図 画 三 国 志 』 が 初 めて 「 連 環 画 」 と い う 名 称 で 呼 ば れ た と 言 わ れ 、
中国において 一九二七年に上海世界書局から 出版された陳丹旭『連
( 三一 )
り プ ロ ッ ト し た 曲線 が 図 5と な る。 同時 代 の福 井 作 品 と 菅 作 品 にお い
いう 日下翠の 論を踏 まえ、高橋愛は 「絵本」に当たるとし 、蔡錦佳は
(三二)
て、FとLを基本とし暴力性が極力抑えられコミカルに表現されるが、
性 に 乏 し く 、 前 者 二 作 品 に見 ら れ な か っ た 出血 表現 が 出 現 す る 。 横 山
ら、前述の通り「同一化のアップ」がないため、横山作品に比べ連続
六 九 年 に は 連 環 画 の 創 作 は す べて 停 止 さ れ 、 一 九 五 〇 年 代 、 一 九 六 〇
「 掌 サ イ ズ の 絵 本 の 如き 漫 画 本 」 と 説 明 す る 。
作 品 に お いて 一 二 ペ ー ジ に 渡 り 、 ペ ー ジ 当 た り 三 コ マ か ら 六 コ マ の 幅
まで 幅広 いシ ョット サイズな が
を 持 ち 、 ペ ー ジ 当 た り 四 コ マ が 六 ペ ー ジで 最 多 と な る 。 将 同 士 の 個 人
年代に出版された連環画が文化大革命終了後に再版されるようになっ
から
戦 が 先 に 描写 さ れ 、 そ の 後 、 兵 卒 た ち の 集 団 戦 に な る た め 、 U か ら L
た 。 そ の 流れ を 受け 、 文 化 大 革 命 の 終 わ っ た 一 九 七 八 年 に 上 海 人 民 美
時 代 の 下 っ た 、 伊 藤 作 品で は
と 幅 広 い シ ョ ッ ト サ イ ズ な が ら 、 マ イ ナ ス 九 コ マ か ら 六 コ マ 目 まで 個
術出版社より『三国演義連環画』が全六〇冊のうち四八冊が重版され、
(一三)
(三一)
人 の 動 き に ズ ー ム す る B と M が 頻 出 す る 。 マ イ ナ ス 二 コ マ 目で は ペ ー
中国国内でも入手しやす い状況にな る。前述の横山が言う 「日中国交
( 三三 )
ジ 半 分 の 大 き さ の L にて 騎 馬 同 士 が 激 突 す る 直 前 が 描 か れ る 。 伊 藤 作
共 に 横 書 き で あ り 、 そ の 「 原 著 」 を 共 通 し て 『 三 国 志 演 義 』 の 作 者で
場人物のセリフを画中のフレーム内に書く、いわゆる「フキダシ」は
『 三 国 演 義 連 環 画 』 は 全 冊 共 通 し て 左 綴 じで あ り 画 の 下 の 文 と 、 登
り文化大革命の終焉がより大き いものだと考えられ る。
と 思わ れ るも の の 、 日本 へ の 連 環 画 の 伝 播 を 支 持す る 要 因 は 前 述の 通
(三四 )
が 回 復 さ れ 」 たこ と は 一 九 七 二 年 九 月二 九 日の 日中 国 交 正 常 化 を 指す
同 じ く 、 表 現 の 幅 が 広 が るこ と が 判 っ た 。
演義 』翻案作品を見ると、時 代が下るに従いマンガ表現一般の傾向と
以 上 の よ う に 、 マ ン ガ 表現 に お いて 横 山 『 三 国 志 』 まで の 『 三 国 志
品 に あ っ た 出 血 表 現 に 加 え 斬 り 傷 を 見 せ る 描写 が 現 れ る 。
CU
3 ヴ ィ ジ ュ ア ル 面 に お け る 『 三国 演義 連 環 画 』 か ら の 伝 播
- 121 -
LL
(
)
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
あり全冊合計七〇二五枚あり一冊当たり平均一一七・一枚となる。そ
そのため、画の枚数が異なり、最少六二枚から最大一九八枚まで 幅が
載 の 終了 す る 『 月 刊 コ ミ ック ト ム 』 一 九 八 七 年 3 月 号 二 月 発 売 まで
まで に 対 し 、 『 希 望 の 友 』 一 九 七 八 年 4 月 号 三 月 発 売 掲 載 分 か ら 連
一四巻「煮酒論英雄」冒頭から『三国演義連環画』五九巻「二士争功」
こ の よ う な 関 連 性を 確 認す る と 、 参照 元 と して 『 三国 演 義 連 環 画 』
れ る 。 そ う し て 作成 され た 多 く の コ マ は 、 連 環 画 に お いて 比 較 的 見 ら
の う ち 、 フ キ ダ シ の 表 現 は 合 計 七 二 三 枚 あ り 、 全 冊 の う ち 九 冊で 見 ら
が 対 応 し 、『 三 国 演義 連 環 画 』 の 七 〇二 五 枚 中 三 六 八九 枚 の 画 に 関 連
あ る 羅 貫 中 と し 、「 改 編 」 と 「 絵 画 」 は 各 冊で 異 な る 場 合 が あ り 、 後
れず、最大で二・九枚当たり一枚見られ、見られる冊で平均を取ると、
性が 認められ 、それらに横山『 三国 志』の計二五五八三コ マが 対応し
れ な い 、 マ ン ガ の 特 徴で あ る 連 続 性 を 支 え る 。
一六・七枚当たり一枚にフキダシが見られ る。音喩表現は一枚見られ
た。そのため、画一枚当たり平均六・九コマが制作された計算になる。
者は複数人が担当する場合が多い。各冊はエピソードごとに分けられ、
る。 また 雲形 の フキ ダシ の中 に 画を 入れ 、 登 場人物 の思 考 または登 場
(三五)
人物 の夢を 表現 した例は 八枚 見られ る。
(
)
(
)
(
)
こ の よ う に 、『 三 国 演 義 連 環 画 』 から 横山 『 三 国 志 』 への ヴィ ジ ュ
が 、 関連 性の あ るコ マ 全 体 の 一 ・ 三 %と 少な い 。
こ の 平 均 値が 示 唆す る よ う に 、 一 画 対 一 コ マ の 制 作 は 三 三 〇 コ マ あ る
こ の よ う な 『 三国 演 義 連 環 画 』 の 画と 横 山 『 三国 志』 の コ マ を 照 合
ット サ イ ズ の 変 化 が 挙 げ ら れ 、 ま た それ は 前 述 の 他 の 作 品 と の 比 較 に
ア ル 要 素 の 伝 播 が 観 測 さ れ 、 そ れ ら の 加 工 の 大き な 特 徴 の 一 つ に シ ョ
用 い た よ う に 定 量的 に も 扱 い や す い 。 そ こ で 『 三 国 演 義 連 環 画 』 と 横
)
山 『 三 国 志 』 の シ ョ ッ ト サ イ ズ に つ いて 計 量 し 分 析 す る 。
(
場 合 は 、 図 6 の 一例 の よ う に 構 図が 類 似す る 。こ う い っ た 事 例 は 横 山
い 、 ま ず 横 山 『 三 国 志 』 と 関 連 性 の あ る 『 三 国 演 義 連 環 画 』 の 画を 分
前 述の レ フ ・ ク レ シ ョ フ の 分 類 に 基づ く 竹内 オ サ ム の 分 析 方 法を 用
)
覚 的 連 続 性 の 乏 し い コ マ で あ っ た 。『三国演義連環画』の画と関連す
図6 b のよう に、コマ内に状況説明の文章が 入り、前後のコマと視
(
る横山『三国 志』のコマの多 くは構図が 類似せ ず一 画から 複数のコ マ
類すると、 〇:枚、U 二:枚、B 八:七枚、M 一:五八枚、F 七:一二枚、
L 二:七二 七 枚、 四:枚で あ っ た 。 を 除けば を ピーク として 視 点
対 象 の 見 え が 小 さ く な る ショット サイズが 縮小する、ズームアウト
LL
LL
L
- 122 -
4 連環画のマンガ化に関す る定量的分析
内のショット サイズ、描かれ る空間的配 置や視 座 視点の位置 が同じ
す る と 、 い く つ か の 種 類 の 関 連 性 が 見て と れ た 。 そ れ ら の う ち で コ マ
『 三 国 志 』 に お いて 五 一 コ マ の み 認 め ら れ 、 そ れ ら の う ち 四 一 コ マ が
の 関 連 性 は 、 単 純 に 人 物 造 形 、 衣 服 や 背 景 な ど の 描写 が 両 作 品 の 画 と
す る ほど、枚数が多くなると判る。また同様に『三国演義連環画』
(
)
して 確 認 さ れ る 。 そ の 一 例 が 図 7に示 して お り 、『 三国 演義 連環 画 』
CU
が作成され、マンガ特有の視覚的連続性が表現される。それらの種類
ものの、 描かれ る人物の姿勢、空間配置の相似またはその左右 反転と
コ マ に お いて 相 似 す る こ と 以 外 に も 、 視 座 や シ ョ ッ ト サ イ ズ が 異 な る
と関連性のある横山『三国志』のコマを分類すると、 五:五三コマ、
U 五: 九 九 五 コ マ 、 B 七: 八 六 三 コ マ 、 M 一: 〇 二 五 コ マ 、 F 二: 八 五 五
コ マ 、 L 七:〇四五コ マ、 二:五七コマで あった。Bと Lとの二つに
ピークがあり、 Bと Lが より多 く使われ たと判る。
人 物 二 人 を 描き 、 視 座 と シ ョ ッ ト サ イ ズ の 異な る 複 数 の コ マ が 形 成 さ
の 一 つ の 画 に 対 し 、 横 山 『 三 国 志 』 に お いて 類 似 の 服 装 を 有 す る 同 じ
LL
CU
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
こ の 傾 向が 連 環 画 の マ ン ガ 化 に よ るも の な の か検 討す る た め 、 便 宜
の友 』同年
)
(
月 号 か ら 一 九 八 一 年 九 月 発 売 分 『 月 刊コ ミ ック ト ム 』
同 年 6 月 号 まで の ペ ー ジ 数 変 遷 を 示 し た 。
)
まで 7 か ら 1 の 整 数 を 割 り 振 り 、
上 、 シ ョ ット サ イ ズ が 大 き く な る に 従 い 、 増 加 す る 整 数 を こ の 分 類 の
から
(
)
一 九 七 八 年 三 月 『 希 望 の 友 』 同 年 4 月号 の 前後 の 掲 載 ペ ー ジ 数 は
年
四 〇 ペ ー ジ 前 後 が 多 い 。 一 九 七 八 年 七 月 か ら 「『希 望 の 友 』 創 刊
15
て横山『三国志』では「第一部 完」となり、四ヶ月分空けた後、『月
ド 』 が 休 刊 と な り 単 行 本 に は 収 録 さ れて い な い も の の 雑 誌 掲 載 に お い
(三六)
『 三 国 演 義 連 環 画』 の 一 つ の 画 か ら 横 山 『 三国 志』 の コ マ へ の シ ョ ッ
三:八三コマ、
安 定 し て 五 一 ペ ー ジ の 掲 載 に な り 、 一 九 七 九 年 一 一 月で 『 少 年 ワ ー ル
イズの変化量 コ:マ数で表現すれば、それぞれ
を機に『少年ワールド』と装いを新たに」し、一九七九年一〇月から
七段階に割り振り、つまり
11
七 七 コ マ 、 七 一 五 四コ マ 、 二 六 二 四コ マ 、 二 七 三 六 コ マ 、
:
:
:
:
六 四 九 五 コ マ 、 一: 三 四 七 コ マ 、 二: 六 二 コ マ 、 八: 二 コ マ 、
:
九コ マと な っ た 。 と に ピ ー ク が あ り 、 二 つ の 作 品を 比 べ る と シ ョ
+4
九 八 二 年 九 月 まで 安 定 し て 一 〇 〇 ペ ー ジ 前 後 の 掲 載 ペ ー ジ 数 と な り 、
-3
+5
+1
例 え ば 創 刊 号 の 雑誌 表 紙 に 「 衝 撃 の 1 0 0 ペ ー ジ連 載 」 と あ る よ う に
-2
ット サ イ ズが 変 わ ら な い 、あ る いは シ ョ ッ ト サ イ ズを 三 段 階 大き く す
-4 ± 0
ト サイズの変 化量についてコ マ 数を 集計し た。 その結果、ショット サ
LL
四:四
CU
る加工が 一見、多いように考えられ る。しかしこれ は単純 に、前述し
+2
当 初 か ら 掲 載 ペ ー ジ 数を セ ー ル ス ポ イン ト と して い た 。
+3
た 『 三 国 演 義 連 環 画 』 に お い て L の 画 が 最 多で あ る 事 象 と 、 横 山 『 三
-1
(
)
国 志 』 に お いて Bと Lの コ マ が それ ぞ れ 最 多 と 最 多 二 番 目で あ る事 象
の 内 、『 三 国 演 義 連 環 画 』 が 参 照 さ れ た コ マ 数 変 遷 も 含 め た 二 本 の 曲
こ れ を よ り 詳 し く 見 る た め 、 次 に コ マ 数 変 遷 を 調 べ 、 加 えて それ ら
刊コ ミック ト ム 』 が 創 刊 され 、 その 一九 八 〇年 四 月 5 月号 以 降 、 一
と が 重 な っ た 結 果で あ り 、 つ ま り 、『 三 国 演 義連 環 画』 の L の画と 、
度揺らぎがあるもののページ数変遷が反映されたコマ数変遷となっ
た 。 そ れ に 対 し 、 参 照 由 来 の コ マ 数 は 一 九 七 八 年 三 月 の 時 点で 導 入 さ
線を 図 9 に示 す 。当 然な がら ペ ー ジ 毎 にコ マ 数 が 異 な る た め 、 あ る 程
れ、 その ままあ る一定の 割合で 変遷す る ので はなく 、一 九 七八 年八 月
然 の 結 果 を 示 す と 考 え ら れ る 。 言 い 換え る と 、 参照 元と な る『 三国 演
化 に 際 し 横 山 『 三国 志 』 に お け る コ マ の シ ョ ッ ト サ イ ズ に つ い て B と
義連環画』における画のショットサイズに依存せず、連環画のマンガ
か ら 一 一 月 ま で の 期 間 、 一 九 七 九 年 九 月 か ら 一 一 月 まで の 期 間で 急 激
に 減 少あ るい は 〇に な る 。こ れ ら は 対 応す る エ ピソ ード が 『 三 国 演 義
連 環 画 』 に お い て 省 略 さ れ た た めで あ る 。 同 様 に エ ピ ソ ー ド 省 略 の 関
五 四 コ マ と 少 な いが 、 それ ら 以 外 は 三二 〇コ マ 以上 の 値 を 保つ 。 ま と
)
次 に『 三国 演 義 連 環 画 』を 参 照 し 始 め た 『 希 望 の 友 』 一 九 七 八 年 三
めれ ば 、 横 山 『 三 国 志 』 に つ いて 『 月 刊 コ ミ ッ ク ト ム 』 創 刊 号 以 前 に
(
月発売分 4月号 前後に論点を 戻し 、如何に横山『 三国志』が『三国
伴 い 『 三 国 演 義 連 環 画 』 の 参 照 コ マ 数が 格 段 に 増 え る 結 果 と な っ た 。
比 べ それ 以 降 は 二 倍 程 度 の 掲 載 ペ ー ジ ま た は 掲 載 コ マと な り 、 それ に
係で 図 8 の 範 囲 以 降 に 当 た る 一 九 八 一 年 八 月 、 九 月で 一 六 五 コ マ 、 二
演 義 連 環 画 』 の ヴ ィ ジ ュ ア ル 要 素 を 取 り 込 んで い っ た か を 年 月 順 に 沿
5 制作量と連環画のマンガ化との相関性
サ イ ズ に 関 係 な く横 山 『 三 国 志 』 の 特 徴 が 反 映 し た も の で あろ う 。
Lが より多 く 使わ れ る傾 向に あ る。こ れ ら の 特 徴は 連 環 画 のシ ョット
横 山 『 三 国 志 』 の B のコ マあ る いは L のコ マと 組 合せ が 多 い と いう 当
±0
って 外在的分析も含め追う。図 8に一九七七年一〇月発売分 『希望
- 123 -
+3
(
)
(
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
〇 〇 コ マ 以 上 の 連 載 は 連 環 画 の マ ン ガ 化 に 支 え られ ると こ ろ が 大 き い
つ ま り は 『 月 刊 コ ミ ッ ク ト ム 』 で の 毎 月 一 〇 〇 ペ ー ジ程 度 、 な い し 四
義 』 の 結 末 まで 堅 実 に 近 付 い て い た 。 図 8 、 9 に 示 し た 一 九 八 〇 年 一
『 三 国 志 』 の ス ト ー リ ー は 着 実 に進 めら れ 、言 い 換 えれ ば 『 三 国 志 演
一 度 の ス ト ー リ ー 上 の 大き な 省 略 と 継 続 的 な コ マ 制 作 に よ り 、 横 山
〇月以降もほぼ毎号一〇〇ページ連載または四〇〇コマ以上の制作が
といえる。
継続され 、また先に論じたように、対応す る画のある所は、安定して
(
)
多 く の コ マ 制 作 を 伴 い 連 環 画 か ら マ ン ガ 化 さ れ るこ と と な っ た 。
省 略 さ れ た 「 官 渡 の 戦 い 」 に つ いて 『 月 刊 コ ミ ッ ク ト ム 』 一 九 八 二
こ の『 月刊コ ミックト ム』創刊に伴う 急 激な 変化は、量的な ものだ
6 掲 載 誌 の 休 刊と 創 刊 に よ る ス ト ー リ ー 面 へ の 影 響
けで な く 、 質 的 な ス ト ー リ ー 面 に も 及 ぶ 。 つ ま り は 連 環 画 の エ ピ ソ ー
年一月発売分の読者欄「my トム」内一九四ページの「ミニ・イン
い の で す が 。」 と い う 問 い 掛 け に 対 し 、 横 山 は 「 横 山
タ ビ ュ ー 」 に お い て 、「「 官 渡 の 戦 い 」 を 描 い て ほ し い と の 要 望 が 強
は色々考えています。ぜひ実現させたいと思っています。」と答える。
省 略 が 現 れ る 。 それ は 序 言で も 触れ た よ う に 、『三 国 志 演義 』の 第 二
十 九 回 の 終わ り から 第 三 十 四 回 の 冒 頭 の 、 いわ ゆ る 「 官 渡 の 戦 い 」 に
ド 省 略 と は 別 の 箇 所 に お いて 、 横 山 『 三 国 志 』 に お いて も エ ピ ソ ー ド
相 当 す る 。 雑 誌 掲 載 と 単 行 本 共 に 、 省 略 し た 箇 所 の 代わ り に ダ イ ジ ェ
加 えて 同 号 の 同 じ く 読 者 欄 の 「 新 春 メ ッ セ ー ジ 」 に お い て 、 横 山 は
脚色について
ス ト 的 に 一 ペ ー ジ 当 た り 二コ マ の 四 ペ ー ジ 計 八 コ マ に そ れ ぞ れ 加 え た
に く ら べ れ ば 本 当 に た い し たこ と な かっ たで す よ 」 と 横 山 の 負 担 が 大
は 「写 植 用 に ネ ー ム を 書 き 写 す 作 業 だ け で も 一 日 が か り で す が 、 先 生
変 化 に つ いて 、 後 年 の ム ッ ク に お い て 当 時 担 当 編 集 者 だ っ た 岡 谷 信 明
こ の一九八〇年四月の『月刊コミックトム』創刊に伴う 急激な量的
の 全 二 三 巻 の 単 行 本 で あ り 、 こ の よ う な 横 山 『 三 国 志 』 だ けで な い 制
川 家 康 』 は 講 談 社 よ り 一 九 八 二 年 一 〇 月 か ら 一 九 八 四 年 八 月 まで 発 行
いて い く つも りで す 。」 ※枚=ペー ジ数 と 述べ る 。こ こで いう 『 徳
か べ ば 、 後 は 体 の 調 子 と 見 合 わ せ な が ら 時 間 の ロ ス を 最 小 限 に して 描
す 。 多 い 月 で 5 0 0 枚 、 少 な い 月で も 3 0 0 枚 な の で 、 ア イ デ ア が 浮
「 大 河 連 載 二 本 ( 徳 川 家 康 、 三 国 志 ) に 全 力 投 球 す る 年 に な り そう で
きかったことを 証言した。続けて 、横山が『少年ワールド 』の休刊を
作 状 況 か ら 、 よ り 多 作 が 要 求 さ れ 、 横 山 は ます ます 「 官 渡 の 戦 い 」 を
概説 文を 見せ る。
「シ ョック 」 に 感じて いたこ と を動機に「“また何かあるといけない
顧 慮 し 制 作で き に く く な っ て い た と 考 え ら れ る 。
)
(
)
さ れ る 。 それ は 自 ら の 創 作を 全 うす る 前 に 、 掲 載 誌 の 都 合 に よ り そ の
国 歴 史 コ ミ ック 」 講 談 社 、 一 九 八 三 年 七 月 ―一 九 八 四年 一 二 月 発 行 、
なる作品は久保田千太郎/作・園田光慶/画『三国志』一―一五巻「中
するため、同時代の他の『三国志演義』翻案作品と比較す る。対象と
一 九 八 〇年 四 月 以 降 の 横 山 『 三国 志 』 に 見ら れ る 高 い 生 産 性 を 検 討
7 長編小説のマンガ化および連環画のマンガ化
(
(二二)
から ”と お っ しゃ って 1 0 0 ペ ー ジ 連 載や 、 諸 葛 孔 明の 早 期登 場に 繋
がりました」、と証言した。これにより月間のページ数増加および『三
国志演義』第三十四回、第三十五回に相当する「諸葛孔明の早期登場」、
発 表 の 場 が 奪 わ れ る ので は な い か と い う 、 横 山 が 当 時 、 抱 いて い た 危
言い換えればその直前に当たる「官渡の戦い」省略の理由が明らかに
機感だ。
- 124 -
(
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
(
)
)
(
B6版相当 一九
cmおよび、本宮ひろ志『天地を喰らう』 集英社
『週刊少年ジャンプ』一九八三年6月 日号―一九八四年9月3日号
月ご と の 累 計 と し 、 比 較 の た め に 月 刊 連 載で あ る 前 述 の 福 井 作 品 の 三
初 出 、 B 5 版 と し 、 但 し 六 巻 一 九 八 三 年 一 〇 月 まで の 前 者 に 関 し
由で 、 月 ご と に 連 載 回 数 が 異 な る た め コ マ 数 が 安 定 し な い が 、 他 の 二
マ 前 後で 安 定 す る の に 対 し 、 週 刊 連 載 の 本 宮 作 品 は ペ ー ジ 数 と 同 じ 理
の 刊 行が 終わ る と 園 田 作 品 の コ マ 数 が 減 少 し 、 横 山 作 品 の コ マ 数 に 近
)
ては「 GLOBAL COMICS
」 として一九七九年六月から一九八〇年八
月 まで 学 習 研 究 社 よ り 刊 行 さ れ た 単 行 本 の 再 収 録 と な り 、 ま ず 公 表 し
(
た 月で ペ ー ジ 数 の 変 遷を 比 較 す る 。 月 刊 連 載 の 横 山 作 品 は 一 九 八 三 年
作品 に 比 べ 少 な く 、 加えて 全 体 的 に 減 少 傾 向 に あ るこ と が 判 る 。 い ず
)
六月から一九八四年一二月まで 毎月一〇二ページとなるのに対し、園
のに比べ大幅に増加して いるこ とが 判る。
れ に して も こ れ ら 三 作 品 の コ マ 数 は 一 九 五 三 年 と そ の 翌 年 の 福 井 作 品
〇 年 前 の コ マ 数 も プ ロ ッ ト す る 。 そ う す る と ペ ー ジ 数と 違 い 、 第 一 期
田 作 品 は 一 九 八 三 年 一 一 月 か ら 一 九 八 四 年 二 月 まで の 毎 月 、 つ ま り 七
八 四 年 八 月 まで を 対 象と し 、 各 月 の 累 計で 算 出 し た 。 週 一 九 ペ ー ジ の
ペ ー ジ に な る 。 週 刊 連 載 の 本 宮 作 品 に つ いて 一 九 八 三 年 六 月 か ら 一 九
月 、 七 月 、 九 月 、 一 一 月 、 一 二 月の 一 一 巻 から 一 五 巻 まで が 各 一 八 四
隔 て た 舞 台 で あ る 中 国 歴 史 小 説 の マ ン ガ 化 に お いて は 、 表 現 す る 対 象
容 易 に 分 業で き な い と 考 え ら れ る 。 ま し て や 現 代 日 本 と 時 代 も 場 所 も
は 日 本 の マ ン ガ ・ ス タ イ ル に お け る 創 作 の 根 幹 に 関 わ る 部 分で あ り 、
作 は 分 業 可 能 で あ る も の の 、 ペ ー ジ 構 成 、 コ マ 構成 、コ マ 内 構 図 な ど
一 九 八 三 年 に は す で に ア シ ス タ ン ト 制 度 が 確 立 して お り 、 マ ン ガ 制
付いた後、下回る様が判る。月刊連載の横山作品のコマ数は四四〇コ
巻 か ら 第 一 期 最 終 巻 の 一 〇 巻 まで 毎 巻が 各 二 〇 八 ペ ー ジ 、 続 いて 、 六
個 の 月 で 七 八 ペ ー ジで あ り 、 三 週 を 含 む 二 個 の 月で 五 七 ペ ー ジ あ る い
連 載 が 基 本 と な る た め 、 四 週 を 含 む 八 個 の 月で 七 六 ペ ー ジ あ る い は 一
加えて 『 三国 志演義 』と 照合す ると 、園 田 作品 が 第 八 十四 回 、 本 宮 作
国 演 義 連 環 画 』 から の 参 照 に よ り 制 作 が 支 え ら れ る 事 実 と 一 致 す る 。
に よ り 支 え ら れ る 可 能 性 が 示 唆 され 、 横 山 作 品 に 関 して は 前 節 の 『 三
にくいと 想定される。そのため多くのコ マを制作す るには 特別な技術
園 田 作 品 が 各 月 に お いて 他 よ り 多 い ペ ー ジ 数 と な る 結 果 と な っ た 。 し
は 三 回 連 続で 三 〇 ペ ー ジ を 越 え 、 総 じて 一 一 六 ペ ー ジ と な る 。 結 果 、
品 が 第 九 回 相 当 まで ス ト ー リ ー が 進 ん だ の に 対 し 、 後 述 す る よ う に 横
が 想 像 し が た く そ れ まで 作 家 自 身 が 培 っ た マ ン ガ 制 作 の 技 術 が 適 応 し
かし な が ら 、 園 田 作 品 は 毎 月 刊 行 の 単 行 本で は な く 、 ま た 他 の 二 作 品
山 作 品 は 第 百 十 九 回 まで 進 め て お り 、 発 表 形 態 が 異 な り 一 概 に 比 較で
は 五 九 ペ ー ジで あ っ た 。 五 週 あ る い は 五 回 分 を 含 む 三 個 の 月 は 、 九 五
に 比 べ 半 分 の ペ ー ジ の 大 き さ で あ る た め 、 単 純 に 比 較で き ず 、 後 者 の
ペ ー ジ 、 一 〇 一 ペ ー ジ あ る い は 一 一 三 ペ ー ジで あ り 、 連 載 開 始 し た 月
理 由 を 解 消す る た め 、 単 純 に 、 他の 二 作 品 の 紙 の 大 き さ に 合わ せ た ペ
き な い が 、 持 続 性の 高い 制 作 技 術 に 支 え ら れ る と 示 唆 さ れ る 。
こ の 技 術 を よ り 明 確 に す る た め 、『 三 国 演義 連 環 画』 二二 巻 「 三 顧
ー ジ 数 に す る と 、 初 め 四 個 の 月 で 一 〇 四 ペ ー ジ 、 終 わ り 五 個 の 月で 九
(
)
茅廬」四六―六六ページ 二一画相当 における劉備と諸葛亮が対面す
二ペ ージと同程 度になる。
こ れを より 詳 細に 見 る た め に 、 横 軸に 発 売し た年 月、 縦 軸に コ マ 数
る場面と 、それ に対応す る『月刊コミックトム』一九八 〇年七月発 売
分 と 、 参 考 の た め に 、 同 じ 連 環 画を 翻 案 元 と し 用 い る 石 森 プ ロ 『 諸 葛
となる。描き 下ろし単行本で ある園田
- 125 -
20
作 品 の 数 値 は 発 売 し た 月 の コ マ 数 と し 、 週 刊連 載 の 本 宮 作 品 の 数 値 は
をとりプロットした曲線が図
10
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
世界文化社一九九
(
おいて 安 定して 多くのページ制作とコ マ 制作を 支え る技術に『 三国演
不世出の名軍 師』 マ ン ガ 中 国 大 人物伝1
孔明
義連環画』からの参照を 挙げたが、スト ーリー面において は吉川『三
(三七)
)
吉 川 『 三国 志 』 自 体 も 「 江 戸 時 代 に 翻 訳 さ れ た 『 通 俗 三 国 志 』 を 種
国志』からの参照が挙げられる。
六年一二月発行 を比較する。その結果、前述のショットサイズに関
六:、U 四:二、B 三:
本 」 と して お り 、 そ の 一 六 九 一 年 よ り 刊 行 され た 『 通 俗 三 国 志 』 も 湖
く 『 三 国 志 演 義 』 李 卓 吾 本 に お け る ス ト ー リ ー の 要 素を 受 け 継 ぎ 、 逆
う で あ る 」。 つ ま り 吉 川 『 三 国 志 』 引 いて は 横 山 『 三国 志 』 は よ り 多
マ数の量が必要でない後者はコ マ数が少な く、コマ内の構図は参照元
環 画 』 の 画 の 一 部を 切 り 取っ た コ マ 制作 の 技法 が 見 られ る 。 つ ま りコ
足す る よ う な コ マが 横 山 作 品 に 見 ら れ 、 石 森 プ ロ 作 品 に 『 三 国 演義 連
の角度を変化させる技法および『三国演義連環画』の画と画の間を補
九 八 〇 年 四 月 発 売分 に お いて 、 七 四 ペ ー ジ コ マ 三 の フ キ ダ シで は 七
の 詩 を 書 くこ と が 挙 げ ら れ る 。 そ れ ら に 対 し 『 月 刊 コ ミ ッ ク ト ム 』 一
吉川『三国志』巻の六
徒守 困、空對舊山川。龍豈池中物、乘雷欲上天!」と書くのに対し、
本第三十四回において 蔡瑁が劉備の作と 偽り壁に五言絶句の詩「數年
両 者 が 横 山 『 三 国 志 』 で 融 合 し た 例 と して 、『 三 国 志 演 義 』 毛 宗 崗
り多く受け継ぐ。
と 同 じ が そ の 一 部 と な る の に 対 し 、 前 者 は よ り 多 く の コ マ が 必 要で あ
い まで も 「 龍 困 魚 池 内 / 伸 腰 不 自 由 /一 聲 雷雨 響 」 と あ り 、『 三国 志
言 絶 句 の 詩 か ら の 翻 案 が 書 か れ る が 、 コ マ 四 の 絵で は 全 体 が 描 か れ な
(三九)
二 六 六 ―二 八 二 ペ ー ジ 「 食 客 」 で は 七 言 絶 句
り、加えて その方が長編マンガにより適合するため、参照元の一画に
演義』毛宗崗本と異なるものの、それを原作とする『三国演義連環画』
二〇巻「馬躍檀渓」のヴィジュアル的影響のためか、五言絶句の詩を
意識した漢字の並びとなる。
(
)
省略の多い三ヶ月分および後者を参照して いない一五巻以前を除け
ク ト ム 』 一 九 八 六 年 一 二 月 か ら 一 九 八 七 年 二 月 まで の 連 載 終 了 に 至 る
演 義 連 環 画 』 四 十 巻 「 走 麦 城 」 で は 右 肘 に 矢 傷 を 負 う 描写 に 変 わ り 、
るが 、それを 元 に創 作され た『 三国 志演義 』第 七十 五回お よび 『三国
酒 を 飲 んで 談 笑 す る ほ ど 落ち 着 い た ま ま だ っ た と い う エ ピ ソ ー ド が あ
肘に矢傷を負い毒が骨に入ったため、医者に外科手術をさせるものの、
同 様の 融 合 の 例と して 、『 三国 志 』巻 三十六蜀 書関羽 伝に 関羽が 左
川『 三国志』の スト ー リ ーに 忠 実に進む 。 つま りは ヴィ ジ ュア ル面に
ス ト ー リ ー 面 に お いて 参 照 元 と 照 合 す る に 、 後 述 す る 『 月 刊 コ ミ ッ
8 吉川『三国 志』のマンガ化側面
連 載 が 進 む に 従 い 、 必要 不 可 欠 にな っ た ので あ ろ う 。
対 し 、 シ ョ ッ ト サ イ ズや 視 座 を 変 化 さ せ 多 く の コ マ を 制 作 す る 技 術 は
物 の 位 置 を 左 右 入れ 替 え る 点 で は 共 通 す る が 、 視 座 の 位 置 を 変 え 視 線
(三八)
いて 、 両 作品 の 視 座 は 共 に『 三 国 演 義 連 環 画』 と 同じ な が ら 、 登 場 人
( 二八 )
U 七:、B 七:、M 一:、F 四:、L 八:、 〇:、計三〇コマ、無関連 五:コ
マ、関連す る連環画一画当たり 平均一・八八コ マ制作とな った。後者
に『 三国 演義連 環 画』は 通行す る『 三国 志演義 』毛 宗崗本 の要 素を よ
南 文 山 に よ り 「『李 卓 吾 先 生 批 評 三 国 志 』を 底本 と して 訳出 され た よ
のコ マ数に差が 出たと思われ る。劉備と 諸葛亮との会話す るコ マにお
は 単 行 本 一 冊 に ま と め る た め 詳 細 に 描写 す る 必 要 が な い た め 、 前 者 と
CU
す る 分 析 方 法 を 用 い る と 、 横 山 作 品 のコ マ 数は
八 、 M 〇: 、 F 一: 八 、 L 一: 八 、 〇: 、 計 一 二 二 コ マ 、 関 連 す る 連 環
画 一 画 当 た り 平 均 六 ・ 一 〇 コ マ 制 作 と な り 、 石 森 プ ロ 作 品 は 三:、
CU
ば 、 前 述 し た よ う に 「 官 渡 の 戦 い 」 の 大 き な 省 略 が あ り 、 大き く は 吉
- 126 -
LL
LL
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
に吉川『三国志』の挿絵お よび そ
写がある。一方、吉川『三国志』巻の十一
一四九―一五七ページ「骨
相 手 と 囲 碁 で 興 じ る 描写 が 加 わ り 、 後 者 に お い て は 左 手 で 杯 を 持 つ 描
す る 」と あ り 、 巻 一 魏 書 武 帝 紀 建 安 二 十 一 年 冬 十 月 条 注 所 引 『 魏 書 』
十三呉書陸遜伝に「夜、山谷の間に潜み、鼓譟し前み、時に応じ破散
かせ るこ と が 記 され る 。こ れ ら は『 三国 志 』に も 見 られ 、 例え ば 巻 五
つ ま り は 鼓 の 音 で 軍 勢を 進 ま せ 、 鐸 の 音 で 軍 勢 を 止 め る 、 も し く は 退
るように 、
『月刊コミックトム』一九八三年一一月発売分では吉川『三
れ に 相 当 す る 『 三国 演義 連 環 画 』の 画と 横 山『 三 国 志 』 の コ マを 挙 げ
ック ト ム 』一 九 八 一 年 一 月発 売 分二 二 三 ― 二 五 一 ペ ー ジ 「 大水 塞」 を
ペ ー ジ 「 狂 瀾 」、『 三 国 演 義 連 環 画 』 二 五 巻 「 舌 戦 群 儒 」、『 月 刊 コ ミ
義』第四十五回、それに相当す る吉川『 三国志』巻の八
に 「 王 、 親 ら 金 鼓 を 執 り 以て 進 退 を 令 す 」 と あ る 。 続 い て 『 三 国 志 演
肘の 矢傷を 手術の原因とした。図
を 削 る 」で は 右 肘 に 刺さ る 矢 の 場 面 が 省 略 さ れ 、 それ 以 前 に 負 っ た 左
国 志 』 を 踏 襲 し 左 肘 の 矢 傷 と す る も の の 、 視 覚 的 描写 と し て は 肘 の 傷
見 る と 、 順 に 「 鼓 」 と 「 金 」、「 押 太 鼓 」 と 「 鐘 鼓 」、「 鼓 」 と 「 鑼 」
五六 ―六八
作 中 に お いて 空 間 的 に 齟 齬 が 生 じ 、 酒 を 飲 ま ん と す る 描写 や 、 囲 碁 に
と そ れ に 伴 う 医 者 の 描写 以 外 、『 三 国演義 連 環 画 』を 引 用す る た め 、
国 志 』 の 進 退 描写 の 多 く は 共 に 「 ジ ャ ー ン
であり、進退の描写がそれぞれ革製と金製に準じるのに対し、横山『三
ジャーン」と 鳴る銅鑼で
気が向く 描写 が 消滅して 関羽はただ 俯き 加減の顔を見せ るのみとな
あ る 。 但 し 吉 川 『 三 国 志 』 に お いて そ う い っ た 軍 律 は 認 知 さ れ て な い
(四〇)
る。 つまり、横山『 三国志』において 吉 川『三国志』の ストーリーと
『 三 国 演 義 連 環 画 』 の 視 覚 面 で の 描写 が 競 合 し 、 そ の 煽 り が 関 羽 の 性
二 八 九 ペ ー ジ に 「 銅 鑼 を たゝ き 、 一 度 に
よ う で 、 主 に 『 三 国 志 演 義 』 に 対 す る 加 筆 部 分 に お いて こ れ に 反 す る
場合があり、例えば巻の八
格 を 表 現 す る 描写 を 消 す 結 果 と な っ た 。
取 籠 めて 猛 擊 し て 來 た 為 」 と 銅 鑼 を 叩 い て 攻 撃 、 つ ま り 金 の 楽 器 を 使
(
)
先 行 作 品 から の 参 照 を 挙 げ た が 、 そ の 前 提 と し て 当 然 、 既 存 の マ ン ガ
売 分 二 九 〇 ペ ー ジ な ど の 軍 営 か ら 出 軍 す る 場 面 に お いて 『 三 国 演 義 連
横 山 『 三国 志 』 に お い て 、『 月刊 コ ミ ック ト ム 』 一 九 八 三 年 二 月 発
って 進む 様 が 書 かれ る 。
特 有 の 技 法 も 挙 げ ら れ る 。 そ れ ら に 前 述 の シ ョ ット サ イ ズ の 変 化や 連
環 画 』 の ヴ ィ ジ ュ ア ル 要 素が 伝 播 し た こ と も あ り、 進 む 際 に 太 鼓 を 鳴
横 山 『 三国 志 』 に お いて 安 定 し た 多 く の ペ ー ジ 制 作を 支 え る 技 術 に
9 制作 量に対するマン ガの 技 法による支持
続 性 を 出す 「 同 一 化 の ア ップ 」 な ど が 挙 げ られ るが 、 スト ー リ ー と ヴ
らす描写があるが、総じて楽器の音での進退の区別がついておらず、
銅 鑼 を 打 つ 様 が 描 か れ る コ マ の 後 、 進 軍 の 描写 が あ る 。 と こ ろ が 『 月
ィ ジ ュ ア ル 両 面 に お いて 『 三 国 志 演 義 』 翻 案 作 品 に よ り 関 わ り 深 い 一
例を 以下に挙げ る。
銅 鑼 が 描 か れ ず 人物 が 描 か れ な い 遠 景 に 「 ジ ャ ーン
ジャ ーン 」と い
う 擬 音 の 文 字 、 い わ ゆ る 「 音 喩 」 が 描 か れ 、 次 の コ マで そ の 音 の 主 で
刊 コ ミ ッ ク ト ム 』 一 九 八 一 年 五 月 発 売 分 二 二 七 ペ ー ジ の 一 コ マ 目で は
楽 器 の 材 質 に 応 じて 「 金 石 土 革 絲 木 」 と 分 類 し 「 八 音 」 と す る 。こ こ
あ る 敵 勢 が 出 現 す る 。 以 降 、 作 品 内 に お いて こ の よ う な 音 の 主 が 描写
漢代以前に成立した『周礼』春官宗伯によると、音質の種類をその
で 着 目 す る の は 金 と 革で あ り 、 金 属 の 楽 器 は 鐘 、 鐸 、 銅 鑼 な ど が 挙 げ
されない音喩が頻出し、敵勢出現の表現に用いられる。言い換えれば、
(四二)
馬法』厳位に「起ちて譟鼓して進み、則ち鐸を以て之を止む」とあり、
られ、また革の楽器は鼓や太鼓などが挙げられる。周の司馬穣苴撰『司
- 127 -
11
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
マン ガ固 有の 記 号 化 され た 表現 が 作 品の スト ーリ ー と ヴ ィ ジュ アル の
のマンガ雑誌『ビッグゴールド 』創刊号 一九九二年
始 め 同 社 の 雑 誌 に お いて 不 定 期 に 『 史 記 』 の マ ン ガ 化 を 発 表 し 、 同 社
(
日号 より
)
(一 六)
17
(
連載中に発売した『横山光 輝三国志事典』 潮出版社一九八三年四
ラ ス 』創 刊号 一 九 九 八 年 5 月 号 から二 〇〇一年7 月号まで 同作品を
を 連 載 し 、 入 院 中 断 を 挟 み 、 同 じ く 潮 出 版 社の 『 月 刊コ ミ ック ト ム プ
(
月二八日発行 六四ページのインタビューによると、横山は「吉川英
連 載 し 、 中 国 歴 史 マ ン ガ の ジ ャ ン ル を 確 立 させ る 。 そ う い っ た 間 髪 入
)
治さ んは、孔 明の死で 終わらせて い ます ね 。そこ に 、日本 人の 美意 識
渡の戦い」がダイジェストで な い形で 改 めて 表現されるこ とはなかっ
れな い次の作品への 取り組みのためか、作品完結の犠牲となった「官
)
(
)
して いた 。とこ ろ が 既 存 の 作 品 と異なり 、『 月刊コ ミックト ム』一九
て く だ さ い 、 と い うこ とで し た 」と 原作 者で あ る横 山 か ら の 注 文が 一
いて 奥 田 誠 治 総 監 督 は 「 注 文 は た っ た 一 つ 。 男 ら し さ を 出 す よ う に し
志 』 が テ レ ビ 東 京で 放 送 さ れ 、 そ の 放 送 開 始 時 期 の イ ン タ ビ ュ ー に お
一 方 、 一 九 九 一 年 一 〇 月 か ら 翌 年 九月 まで ア ニ メ 『横 山 光輝 三国
(一六)
み た い な も の を 感じ ます 。 孔 明 が い な く な る と 、 物 語 と し て は 色 あ せ
い ま す 。」 と 述 べ 、 つ ま り 作 品 の 結 末 も 吉 川 『 三 国 志』 の ス ト ー リ ー
八 六 年 一 〇 月 発 売 分 二 八 〇 ― 三 〇 〇 ペ ー ジ 「 秋 風 五 丈 原 」 に お いて 諸
つだ けと 述べ た。そのた めか、登場 人物の 外観を 保つも のの、 原作に
(四四)
葛 亮 は 夜 空 の 下 で 四 輪 車 に 座 り 絶 命 す る と い う 独 自 の 描写 と し た 。 さ
縛られるこ とがなく枝葉の部分で 自 由にストーリーもヴィジュアルも
回「官渡の戦い」にお
と して 『 三国 演 義 連 環 画 』 が 支 え つ つ 蜀を 中 心 と し た ス ト ーリ ーが 進
軍 の 霹 靂 車 、 袁 紹軍 の 地 中 行 軍 、 官 渡 の 水 に よ る 曹 操軍 の 防 御 、 袁 紹
いて は 、 マ ン ガ 原 作 に な い 、 田 豊 ・ 沮 授 の 更 迭 、 袁 紹軍 の 高 櫓 、 曹 操
展開させた。一九九二年五月二二日放送の第
み 、『 三 国 志 演義 』第 百 十 九 回 相当 の、洛陽 にて 劉 禅が 蜀に ついて 問
行動は劇 中の諸葛亮字孔 明に よ り見られて いるものとして 前後 の回と
掲載 雑誌が休 刊したために描かれな かっ た幻の エピソード が、 つい に
の連続性を保った。その脚本の伊藤健司は「横山光輝先生の原作では、
史 記 編 纂 』 を 発 表す る の を
回「赤 壁の戦い ・
後 編 」で 放 送 が 終 了 し 、 全 体 と して 原 作 の よ う に 作 品 を 全 う さ せ る こ
だ っ たこ と が 伺 え る 。 一 九 九 二 年 九 月 二 五 日 に 第
( 四 五)
ア ニ メ で 展 開 さ れ る ので す 」 と 述 べ 原 作 に な い こ と を 意 識 し て の 制 作
同著者による秦末の韓信が劉邦に会う読み切り『虎がゆく』が掲載さ
〇 年 5 月 2 日 号 に 単 発 掲 載 にて 『 司 馬 遷
するものの、その間、小学館の『週刊ポスト別冊チェアマン』一九九
47
項 羽 と 劉邦 』 の 連 載 が 始 ま る 。 そ れ は 一 九 九 二 年 八 月 発 売分 で 終 了
れ 、 続 く 四 月 発 売分 から 中 国 の 楚 漢 戦 争 を 題 材 と し た『 若き 獅 子たち
そ の 次 の 号 で あ る 『 月 刊 コ ミ ッ ク ト ム 』 一 九 八 七 年 三 月 発 売 分で は
軍 か ら 曹 操 軍 へ の 許 攸 の 投 降 な ど が 描写 さ れ 、 そ れ ら の 表 立 っ た 軍 事
分 か け 、 数多 く の エ ピソ ード を 省 略 し つ つ 、 ヴ ィ ジ ュ ア ル 面 の 参 照 元
(四 三)
終 了 相 当 に 到 達 し 、 そ の 後 、 一 九 八 七 年 二 月 発 売 分 まで お よ そ 四 ヶ 月
ら に 『 月 刊コ ミ ック ト ム 』 一 九 八 六 年 一 一 月 発 売 分で 吉 川 『 三 国 志 』
面 に 同 調 さ せ る よう に 、『 三 国 志 演 義 』 第 百 五 回 相 当で の終 了を 表 明
た。
て し ま う で し ょ う 。 ぼ く も や は り 、 孔 明 の 死で 完 結 に し た い と 思 っ て
(四二)
ミックトム』一九九四年5月号から一九九七年8月号まで『殷周伝説』
一 九 九 六 年 8 月 号 まで 『 史 記 』を 連 載 す る 。 そ れ と 並 行 し 、『 月 刊 コ
月
両 面 を 支 え るこ と に な る 。
連載 終了後の「官渡の戦 い」
12
わ れ る 場 面で 横 山 『 三 国 志 』 は 完 結 す る 。
30
- 128 -
10
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
10
とはでき なかった。
(一四)
12
一方、横山光輝は前述の通り「官渡の戦い」を改めて描くことなく、
結言
12
二 〇 〇 四 年 四 月 一 五 日 に 六 九 歳で 永 眠 す る 。
四
掲 載 誌 の 休 刊 に よ り 自 ら の 作 品 を 最 後 まで 描 き き るこ と がで き な い
全う させ ようと 、 その横 山『 三 国志 』の 連 載再 開時 に「官 渡の戦 い 」
と い う 危 機 感 を 抱 い たと いう 横 山 光 輝 は 、 よ り 早 く よ り 確 か に 作 品 を
を 大 き く 省 略 さ せ た 上で 、 そ れ まで 培 っ た 、 吉 川 英 治 『 三 国 志 』 の ス
ト ー リ ー を 軸 と して 『 三 国 演 義 連 環 画 』 を ヴ ィ ジ ュ ア ル 面 の 参 照 元 と
し た 作 画 技 術 を 駆 使 し 、 堅 実 に スト ー リ ー を 進 め 作 品 を 完 結 さ せ た 。
《 注 》
(一)
「トビラ絵にみる横山三国志の 年」
『月刊コミックトム』潮出版社、一九九
二年4月号、一九九二年三月、三―六頁に連載開始号が記載される。
(二)
「休刊のごあいさつ」
『少年ワールド』潮出版社、一九七九年 月号、一九七
九年一一月、三三六頁
(三)加来耕三「今なぜ横山光輝「三国志」が面白いか」
『潮』潮出版社、 Vol.393
(一九九一年 月号)
、二六六―二七三頁
(四)
「三国志を創った男たち(一) 横山光輝」
『よみがえる三国志伝説 :新し
、一九九八年一一月一
い「三国志」の世界が見える本』宝島社、別冊宝島 412
六日、一〇―二一頁
(五)宮島聡「特別寄稿 中国 日の旅 三国志の心を求めて」
『月刊コミックトム』
潮出版社、一九八二年1月号、二六九―二七七頁
(六)
『月刊コミックトム』潮出版社、一九八五年4月号、一九八五年三月、三―
六頁
(七)ウェブサイト「横山光輝オフィシャルサイト」
二〇一四年八月二四日閲覧
http://www.yokoyama-mitsuteru.com/
(八)
「新作ゲームクロスレビュー」
『ファミコン通信』アスキー、一九九二年7月
3日号、一九九二年六月一九日、三七―四一頁によると『横山光輝三国志』エ
ンジェル、スーパーファミコン用、一九九二年六月二六日、アニメを原作とす
るビデオゲーム
(九)清岡美津夫「現代日本における三国要素の変容と浸透―アクセス集計を事例
に」
『三國志研究』三国志学会、第五号、二〇一〇年九月、一三二―一五〇頁
〇 東浩紀『文学環境論集
あずまひろきコレクションL』講談社、二〇〇七年
( 一)
四月、五七〇頁によると「
「データベース消費」とは、個々の作品やデザイン
がさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に
消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)
、と
きに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。
」と定義さ
れる
- 129 -
その ため 、作者 の意 図と は 無関 係に、結 果として 、中国で 脈々 と伝え
ら れ る 文 化 と 、 同 じ 源 流 で も 日 本で 独 自 色 を 強 め 発 展 し た 文 化 が 、 横
そこ に は 横 山 な らで は の 創 意 が 見 ら れ る も の の 、 ゼ ロ か ら 何 か を 表 現
山 『 三 国 志 』 と いう 作品 の 場 で 、 再 融 合 を 果 た し た と い え る 。 ま た 、
ガ と して 表 現 し よ う と す る 姿 勢 が あ り 、 ま さ し く 同 時 代 に 活 躍 し た マ
しようとするものという より既存の『三国志演義』をより忠実にマン
(四 八)
ン ガ 家 の 手 塚 治 虫 が ア シ ス タ ン ト た ち に よ く 話 して い た と い う 「 ア ー
そ の 姿 勢 は 、 作 品 を 全 う さ せ る と い う 意 味 に お いて 、 そ れ を 原 作 と し
チストになるな、アルチザン(職人)になれ」を体現したものだった。
たアニメ作品に伝授され原作にない「官渡の戦い」が描かれたものの、
ス ト ー リ ー の 中 途で 放 送 が 終 了 す る 。 原 作 の 強 い 影 響 下 に あ る ア ニ メ
作品をその一部とし原作と相補関係にあると見なすならば、横山光輝
の制作を全うしたのかもしれな い。
は 初 志 の 通 り 、「官 渡 の 戦 い 」 も 含 め 、 諸 葛 亮 が 亡 くな る まで の 作 品
12
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
( 一)
一 前掲(七)のウェブページ「
のスタンプに三国志 (! 2014/01/16
)
」 二
LINE
〇一四年六月二〇日閲覧
二 三輪健太朗『マンガと映画 ──コマと時間の理論』NTT出版、二〇一四
( 一)
年一月、一八―二〇頁
三 姜维朴『新中国连连 画
年』北京人民美術出版社、二〇〇九年九月、一一七
( 一)
一―一一七二頁
四 前掲(七)のウェブページ「プロフィール」
( 一)
二〇一四年九月一〇日閲覧
http://www.yokoyama-mitsuteru.com/profile.html
五 竹内オサム・米沢嘉博・ヤマダトモコ/編『現代漫画博物館
』小
( 一)
1945-2005
学館、二〇〇六年十一月、三一頁
六「横山光輝作品初出及び発表(掲載)期間一覧」
『生誕 80
周年記念 横山光
( 一)
輝』豊島区、二〇一四年一〇月、三〇―三一頁
七 辰巳ヨシヒロ『劇画大学』ヒロ書房、一九六七年一月一〇日発行、一三二―
( 一)
一三三頁
八 前掲(十六)二二頁
( 一)
( 一)
九 手塚治虫・尾崎秀樹・副田義也 企画/監修『まんが劇画ゼミ』集英社、7
巻(横山光輝 小.島剛夕 ジ.ョージ秋山)
、一九八〇年二月二五日発行、三六頁
〇 前掲(一九)六二頁
( 二)
( 二)
一 ウェブサイト「潮出版社」内のウェブページ「横山光輝 高精度複製原画」
http://www.usio.co.jp/html/yokoyama_hukuseigenga/二〇一四年八月二四日閲覧
( 二)
二「担当編集者はかく語りき 岡谷信明氏 インタビュー 「三国志」の頃」
『横
山光輝 プレミアム・マガジン』講談社、第1号、二〇〇八年九月、一八―一
九頁
三 綿引勝美「●特集・横山光輝●
エッセイ 編集者からみた横山光輝と横山
( 二)
作品」
『漫狂』
、2号、一九七九年一一月二五日、一〇―一二頁
四 前掲(一九)六二頁
( 二)
( 二)
五 上原究一「丈八蛇矛の曲がりばな―張飛像形成過程続考」
『三國志研究』三
国志学会、第七号、二〇一一年九月、八四―一〇〇頁
六「特別インタビュー 横山『三国志』読み継がれるおもしろさの秘訣。
」
『潮』
( 二)
、二〇〇四年二月、一五二―一五七頁
潮出版社、 Vol.540
( 二)
七『横山光輝マガジン オックス』横山光輝クラブ事務局、1・2・3合併復刻
60
- 130 -
号、二〇〇四年二月
( 二)
八 上田望「日本における『三国演義』の受容(前篇) ─翻訳と挿図を中心に
、二〇〇六年三月、一―四
─」
『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』
、 Vol.9
三頁
九 竹内オサム『マンガ表現学入門』筑摩書房、二〇〇五年六月、二三二―二三
( 二)
五頁
〇 船津徹、三浦和志、窪俊一、和田裕一「日本のマンガの場面描写の分析――
( 三)
コマに描かれる内容の歴史的変遷――」
『マンガ研究』日本マンガ学会、 vol.20
、
二〇一四年三月、五一―七三頁
一 高橋愛「中国の連環画の変遷とその描写技法」
『美術教育学 美
( 三)
: 術科教育学
会誌』美術科教育学会、 号、二〇〇六年三月三一日、二一九―二三一頁およ
コミック 2003
――
び、日下翠「
「連環画」から「新漫画」へ――「アジア IN
中国の漫画」に参加して」
『東方』第二六九号、二〇〇三年七月、一二―一六
頁
二 蔡錦佳「第6章
武侠漫画の映画的手法表現の成立をめぐって」
『まんがは
( 三)
いかにして映画になろうとしたか――映画的手法の研究』NTT出版、二〇一
二年二月、二一五―二五四頁
三 中野徹「上海新華書店旧蔵書と中国の連環画」
『アジア情報室通報』国立国
( 三)
会図書館関西館アジア情報課 編、第一〇巻第一号、二〇一二年三月、二―四
頁
四 ウェブページ「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」
( 三)
二〇一三年七月四日閲覧
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html
( 三)
五『三国演義連環画』は、実際には例えば五三巻であれば、表紙に『五丈原』
という題名が書かれ、それより小さく「三国演義連環画五十三」と書かれ、中
表紙等、別の箇所の表記では「五丈原 三国演義之五十三」とあり、表記が一
定しない。そのため便宜上、本稿では全六〇冊の総称を『三国演義連環画』と
しており、各冊を巻数と共に『三国演義連環画』五三巻「五丈原」というよう
に表記する。
六「休刊のごあいさつ」
『少年ワールド』潮出版社、一九七九年 12
月号、一九
( 三)
七九年一一月、三三六頁
七 石森プロ『諸葛孔明
不世出の名軍師』世界文化社マンガ中国大人物伝1、
( 三)
27
横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
一九九六年一二月の二二四頁には「参考文献」として二〇の文献が挙げられ、
その中の一つに『三国志演義連環画』を翻訳した陳舜臣/監・訳『中国劇画
三国志』中央公論社が明記される。
八 泉信行『マンガをめくる冒険-下巻』ピアノ・ファイア・パブリッシング、
( 三)
二〇〇九年、一二一―一二二頁によるとマンガ全般においてコマ内の右側の人
物が主体、左側のが客体を示すとし、必ずしもそうでないことは、笹本純「マ
ンガの語りにおける視点とその決定因としての内語」ジャクリーヌ・ベルント
編『マン美研』醍醐書房、二〇〇二年一二月、一九四―二一六頁にあり、
「内
)
」に規定されるとする。
語( internal speech
( 三)
九 袴田郁一「吉川英治『三国志』の原書とその文学性 ――近代日本における
「三国志」の受容と展開」
『三國志研究』三国志学会、第八号、二〇一三年九
月、一〇九―一二四頁にある『三国志演義』毛宗崗本の「凡例」に挙げられる
諸挿話についての『三国志演義』李卓吾本あるいは吉川『三国志』との一四の
相違のうち、吉川『三国志』と横山『三国志』とが単純に適合しない一つを挙
げた。
〇 前掲(二八)において「原文では関羽が負傷したのは右腕となっているが、
( 四)
この構図について明代から清初にかけて出版された挿図のある刊本を調べてみ
ると、二十四巻本系統では左腕、二十巻本系統でも葉逢春本本と忠正堂本、天
理図本を除きみな間違って関羽は左腕の治療を受けた絵になっており、どれか
の刊本が間違えた挿図を付け、それをまた他の刊本がみな模倣したためにこの
ようなことになってしまったのであろう」とあり、本文と挿図の左右の腕の違
いが指摘されるが、本稿で挙げた事例は共に本文あるいは下文との一致が見ら
れるため、この事例とは性質が異なるのであろう。
一「音喩」という用語について、夏目房之介「擬音から「音喩」へ
日本文化
( 四)
に立脚した「音喩」の豊穣な世界」
『別冊宝島EX マンガの読み方』宝島社、
一九九五年五月、一二六―一三七頁を参照。
二「
「殷周伝説」完全復活
横山光輝先生ロングインタビュー」
『月刊コミッ
( 四)
クトムプラス』
、一九九八年5月号、一九九八年四月、一五三―一五七頁
三「奥田誠治・総監督にインタビュー」
『月刊コミックトム』
、一九九一年 月
( 四)
号、一九九一年九月、一〇―一一頁
四 横山『三国志』原作では『三国演義連環画』のヴィジュアル要素を受け継ぎ、
( 四)
!!
10
張飛の武器が薙刀状のものから前掲(二五)で論じられる「曲がりくねった穂
先」の蛇矛になり、趙雲の兜が両側に角があったのが無くなったものの、アニ
メ『横山光輝 三国志』において前者は始終蛇矛であり、後者は両側に角があ
るままで描かれた。原作同様、
「官渡の戦い」以降、劉備と曹操に髭が付け加
えられる以外は、原作にある人物の外観変遷が抑えられる傾向にある。
五「パーフェクトガイド
」
『アニメージュ』一九九二年6月号、一九
( 四)
5/11-6/11
九二年五月、八一―九二頁
六 竹内オサム『手塚治虫 ―アーチストになるな―』ミネルヴァ書房、二〇〇
( 四)
ページ
八年九月、 iii
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横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
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横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
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横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
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横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのか
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