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事務局/会津鉄道 〒965-0853 会津若松市材木町1-3-20
☎(0242)28-5885・FAX(0242)26-9730 http://www.aizutetsudo.jp
広大な庭園。かつて園内に茶室「可月亭」があり、殿さまが本郷原
(現会津美里町)での追鳥狩りの帰りに休憩したといいいます。現
おなりもん
在も殿さまが出入りした木造の御成門が残っています。家人在宅の
ときは庭園を一般公開しています。見学を希望される場合はご予
可月亭
A-1
長岡藩士殉節の碑・墓地
秀長寺
西若松駅東口
江戸時代からの造り酒屋だった材木町星野家の約1,000坪の
スタート・ゴール「西若松駅」
A-2
A-3
住吉神社
西若松駅周辺
散策マップ
かげつてい
約5km 約1時間30分
▼ ▼ ▼
御薬園と並ぶ会津三名園のひとつ
可月亭庭園
協力/城西界隈まちづくり協議会・福島県会津若松建設事務所
※平成28年度福島県地域創生総合支援事業
自慢の地域の資源
A-4
約下さいとのことです。☎(0242)27-2857
史跡 を 巡る
約5km 約1時間30分
スタート・ゴール「西若松駅」
西若松駅は戦前から宮下線(現只見線)と田島線(現会津鉄道)
の分岐点駅として物流の拠点となっていました。駅は西口と東口の
2ヶ所あり、駅員は45名を数えるほどの大きな駅でした。乗降客
は東口が9割を占め、西口は物資の集散が主でした。最盛期には北
ン、越冬のために千葉県に輸送するミツバチ75トン、その他桐材、
炭、鉄くず、米、など多くの物資が集配されていました。またガソリ
秀長寺
B-2
住吉神社
皆鶴姫の碑
ら ん し ょうて い
攬勝亭
林家住宅
B-4
宮城県
新潟
B-6
B-7
磐
越
広域図
動
車
道
I.C
川東館を築城する前に足場を固めたのがこの地で、城西地区はま
さに城下町会津若松市のまちづくりのスタートだったともいえるで
しょう。
栃木県
と向います。
茨城県
ています。文字の読めない農民にも覚えやすいようにと内容を和歌
磐越自動車道
にした『会津歌農書』も出しました。
会津若松
線
JR只見
七日町
JR只見線
●飯盛山
〶
西若松
湯 川
この地にやって来た際、幕を廻らせて陣
られています。
神指町南四合字幕内の新城寺門前に
大きな碑がある
●鶴ヶ城
会津鉄道
※幕内村の地名は葦名家7代の直盛が
を張ったところから名づけられたと伝え
千石通り
が付いたといわれています。
旧幕内村※の肝煎だった佐瀬与次右衛門が科学的な実証を基に
市街図
散策マップ
エリア
会津若松図書館所蔵
よじういえもん
目に古い農書で、農業技術改良の研究指導書として高い評価を得
に下り、二井寺村本光寺に泊まった
とき、飯を炊いて供したので、
この名
まくのうち
著したのが貞享元(1684)年発行の『会津農書』です。日本で2番
中央通り
康暦元(1379)年、葦名直盛が会津
江戸初期に
すごい書物があった
東京(浅草)
会津若松I.C
阿賀川︵大川︶
在地に移転してきたといわれています。
て大内宿に着き、さらに南会津へ
千葉県
東京都
らは山に分け入り、大内峠を越え
いわき
さいたま
葦名氏の7代直盛が康暦元(1379)年、鎌倉から会津に下向した
5(1536)年以来の幾度の洪水に見舞われ、寛永10(1633)年に現
を舟で渡りました。会津美里町か
常
磐
自
動
車
道
埼玉県
た木材は阿賀川を利用して運ばれました。
す。
ただ、
もとは中荒井村の東にあり、
「白髭の大水」
といわれた天文
にいでら
門田町飯寺地内を通る旧下野街道と材木町通りにある林家住宅
た木材商が現在地に移って成立しました。南山御蔵入で切り出し
際、幕を巡らせ陣を張ったところから名前が付いたといわれていま
旧街道は材木町から南へ門田
町飯寺を経由して阿賀川(大川)
東北
新幹
線
慶長14(1609)年、蒲生秀行の時代に郭内米代の西に集中してい
北関東自動車道
観指定の建物が残っています。
郡山I.C
会津田島 I.C
会津高原
尾瀬口
白河
東武
線
たと伝えられています。
その後、町ごと現在地に移されました。
群馬県
長野県
関越自動車道
家が並んでいました。寛永8(1631)
国登録有形文化財指定の林家住宅や関善吉薬局といった歴史的景
郡山
西若松
新藤原
中川原町にあり、川に沿って南北に
し、21人の死者を出す大惨事になっ
飯 寺
めて舘を築いた場所ともいわれています。直盛が鶴ヶ城の前身、黒
た。材木町、川原町はその道筋にあたります。歴史の道にふさわしく
磐越
西線
東北
自動
車道
野岩
鉄道
I.C
年10月に湯川と外堀がひとつにな
幕ノ内
那智から勧請し、会津オリンパスの南にある稲荷神社は直盛が初
ます。会津西街道あるいは日光街道ともいわれる重要な街道でし
福島
福島県
白河
動
自
陸
北
るほどの大洪水があり、家屋が流出
材木町
なおもり
と伝えられ、熊野神社は葦名直盛が戦勝祈願で紀伊国(和歌山県)
大町四ツ角を起点とする会津五街道のひとつに下野街道があり
会津
鉄道
小出
只見線
河原町ともいい、
もとは湯川の東、旧
●昭和46(1971)年/会津線を「只見線」に、支線を「会津線」
と名称を変更する
●平成17(2005)年9月18日/橋上駅舎完成(以前は西口に
木造駅舎)
車
地名の由来
●昭和2(1927)年11月11日/会津線支線(現会津鉄道)の西
若松∼上三寄まで開通
●昭和62(1987)年4月/国鉄民営化に伴い、東日本旅客鉄道
株式会社(JR東日本)となり、7月16日に会津線を会津鉄道株
式会社に移管
自
新潟県
住吉神社
道
川原町
木稲荷神社は義連が会津に下向した折、京都伏見稲荷を勧請した
山形県
上越
新幹
線
【 歴 史 】
●大正15(1926)年10月15日/国鉄会津線・若松∼坂下間の
開通に伴い、開業
あしな
族葦名氏にゆかりの深い場所が点在しています。幕内地内の二本
しもつ け
れ、会津若松駅に次ぐ2次交通の拠点にもなっています。鶴ヶ城に
もあります。
よしつら
賀周辺を支配していた佐原義連でした。城西地区には佐原氏や一
参勤交代で殿さまも通った
旧下野街道(会津西街道)
仙台
長岡
最も近い鉄道駅のために駅名を「会津鶴ヶ城駅」にしたいという声
鎌倉時代に源頼朝から会津の地を賜ったのは、三浦半島の横須
可月亭
会津若松
たしました。橋上駅舎となった現在は、東口にバスプールが設けら
葦名氏の足がかり
サムライシティ発祥の地
二本木稲荷神社と稲荷神社(飯寺の舘跡)
B-5
石塚観音
ン、重油は全会津の基地として戦後の経済復興に大きな役割を果
B-3
会津坂下
海道に身不知柿250トン、関西方面に白菜200トン、大根150ト
B-1
可月亭
西若松駅
可月亭
もの知り歴史ミニ図鑑
歴史街道が通るサムライシティ発祥の地
殿さまの御成門
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
庭園は葦名氏の重臣の庭を
江戸時代に小堀遠州の流れを汲む
庭師目黒浄定が改修した
発行:西若松駅を愛する会
戊辰戦争の跡地を巡る
♨東山温泉
>
<
<
←
< < >
<
> > <
>
> <
<
<
< < >
>
> > >
> > >
のですが、すぐに承諾しなかったために
笹原家は家禄没収のうえ、忠一は謹慎
門田町日吉
の身となってしましました。墓は本堂の
● コンビニ
真裏にあります。
かたさだ
4代藩主の容貞誕生の背景にはこん
なやりきれない話もあったのですね。
至国道118号
< 容の世継ぎ候補が次々と亡くなり、お伊
●蒲生秀行の墓
<
至鶴ヶ城
←
> 至鶴ヶ城
> > >
至七日町
川
湯
至南会津町
妻として下げ渡されました。
ところが正
形で藩主の下に召し返すことになった
至あいづかわぐち
至あいづたじま・きぬがわ・あさくさ
案内しました。晩年は失明しましたが、
武芸の技は衰えることがなかったそうで
す。会津戊辰戦争で長男義次は戦死、次
男義兼は負傷。西軍が城下に攻め入っ
た慶応4(1868)年8月23日、伝
五郎は義兼を介錯した後、自決しまし
た。65歳でした。墓は七日町の阿弥陀
寺にあります。
蒲生秀行の墓
蒲生氏郷の子で、母は織田信長の娘
冬姫。氏郷の後、会津の領主となりまし
日本遺産にもなった会津三十三観音
たが、家中の不和などで宇都宮に移さ
の十九番札所で、康暦年間(1379∼80)
れました。関ヶ原の戦い後、会津60万石
に葦名直盛によって建てられました。そ
の領主に迎えられました。ただ、心労も
の後、徳川家康の娘で、蒲生秀行の妻
あって30歳の若さで没しました。舘の薬
ふりひめ
● 長岡藩士殉節碑
り、会津を訪れた吉田松陰を日新館に
石塚観音
がもうひでゆき
A-2
芸指南役。長州・萩に招かれたこともあ
● いとうクリニック
●みなみ若葉幼稚園
会津鉄道
JR
只見
線
地に勧請しました。
< かんじょう
いち
伊知は男子を出産後、藩士笹原忠一の
決まりました。
そこで、笹原家より離縁の
町
本光寺 卍
● お菓子の蔵太郎庵
くろこうち
黒河内伝五郎邸跡
会津藩の武芸家で、藩校日新館の武
まさかた
知が生んだ菊千代が後継となることに
コンビニ ●
高田橋通り(国道401号)
●入澤クリニック
ダイユーエイト ●
展のために、産業の守護神である住吉
大神を大坂住吉大社の分霊としてこの
桜
コープ ●
城西町
藩士の悲哀
会津藩3代藩主松平正容の側室お
古川
ふとんのいわぶち ●
< 中世の会津領主葦名直盛が繁栄発
至会津美里町
じ形の墓が背あぶり山頂にあります。
(1869)5月、会津藩士らとともに米国カ
た。カリフォルニア州ゴールドヒルと同
<
︶
い 」でした 。戊 辰 戦 争 後 の 明 治 2 年
の農場主ビアカンプ家に引き取られま
寺
︵大川
阿賀川
邸がありました。その屋敷に子守役とし
て奉公していたのが、近所に住む「おけ
した。
しかし、熱病のために亡くなりまし
飯
イエローハット ●
藩軍事顧問を務めたヘンリー・スネル
● 会津クリニック
対馬館町
住吉神社
湯川橋
あいづ整形外科 ●
平成28年まで幕末当時の庭が残っていたが、
現在は宅地になり、跡地に説明板が立っている
● バスプール
若松四中
<
旧
下
野
街
道
<
売られたといいます。
事業に失敗したために「おけい」は近く
鶯宿亭 ●
門に帰依したときに詠んだものです。
武芸百般の達人
若松三中
● ※おけいの生家?②
川」の名前で遠く下野国(栃木県)まで
あります。明治6年に斗南から戻り、仏
●
稲荷神社(飯寺の館跡)
B-7
←● 白虎タクシー
材木町二丁目
営の酒造場ができました。お酒は「清美
がわ
B-1
● 小野木クリニック
<
● 会津オリンパス
きよみ
リフォルニアに渡りましたが、スネルが
● 可月亭庭園
中玄宰によって住吉神社の北東に藩直
西若松駅西口の南に幕末当時会津
墓地に手厚く葬られました。
兵衛の「雲水に心はまかせ澄む月の法
の鏡と世をやわたらむ」
と詠った歌碑が
あらいクリニック
はるなか
にいでら
卍 石塚観音
周辺案内図看板
●ハニー松本
か、5代藩主松平容頌時代の名家老田
<
ケイヨーデーツー ●
< ●旧スネル邸跡
かたのぶ
> 旧応湖川
なって、昔から醸造業が盛んに行われて
きました。そうした恵まれた環境のな
周辺案内図看板
材
二丸屋武蔵亭 ●
● コンビニ
積もった雪解け水が豊かな伏流水と
←
西若松
< <
● アピタ
城西界隈は奥深い南山御蔵入に降り
●
●
城西コミセン ●
A-1
は、
この地で西軍と戦い、壮絶な死を遂
げました。飯寺地区住民により本光寺の
卍 弘長寺
川原町
会津報徳会保育園
木町
通
り
<
御酒蔵跡地
旧宅跡 ● 亭車場
会津鉄道本社
幕内南
背あぶり山にある「おけい」の墓
<
●
おけいの
※
生家?①
ヨークベニマル ●
戊辰戦争後、警視庁に入り、西南戦争で
戦死しました。本堂前に古戦場の碑と官
湯川町
● 黒河内伝五郎
● 会津信用金庫
出光GS ●
● 斎藤医院
さがわかんべえ
異名をとる佐川官兵衛でした。官兵衛は
たてわき
入った長岡藩山本帯刀隊長ほか43名
> > >
大東銀行 ●
旧
下
野街
道
A-3 B-2
●コンビニ
> 卍 秀長寺
● 加羽沢歯科
日本初のアメリカ移民女性「おけい」
●
ホシノ
です。部隊を率いたのが「鬼官兵衛」の
会津戊辰戦争で援軍として会津に
林八十治
材木町一丁目
< 外
堀
の
あ
っ
た
本町
場
通り 所
(清美川)
●
白虎隊士
>生家跡
会津藩御酒蔵跡 ●
● ながみね歯科
19歳で異国の土となった
B-6
●
A-4 B-3 住吉神社
戊辰戦争古戦場跡
住吉町
●
会津藩部隊が唯一戦いで勝利した場所
● 秋月悌次郎
旧宅跡 > > 会津藩直営の
酒造場の御酒蔵
内
林家住宅
郵便局
●
幕
ファミリーマート ●
若松特別地域観測所
(旧測候所)
川原町通り
〒 材木町
川原町橋
●大民屋
熊野神社
● コンビニ
● GS
大法寺 卍
城西小
●
林合名 ●
日吉町
●
●本家長門屋
新城寺 卍
長岡藩士殉節碑
住吉神社を含めた周辺は戊辰戦争で
●
幕内東町
安芸藩士川本久次郎の碑
●
烏橋
> ●関善吉薬局
教が隠居後に住んでいたこともあった
清冽な地下水脈のおかげ
新横町
御旗町
石橋酒造場「薫鷹」●
二本木稲荷神社
会津農書の碑
ともあったといいます。
>
●
功績のあった家老丹羽五郎の曾祖父能
訪れた与謝野晶子が3日間滞在したこ
融通寺町口門跡
を補佐し、戊辰戦争後は北海道開拓の
そうです。昭和11(1936)年9月に会津を
ほっとハウスやすらぎ
> 川原町口門跡
>
町
加藤医院
います。
(非公開)
B-5
<
< 東町藤倉で沼に身を投じてしまったとい
本
●山家屋
けました。一方生き延びた皆鶴姫は河
路
●旧清美川酒蔵
丸を手厚く葬り、
この沼を帽子沼と名づ
水
> > て亡くなってしまいました。村人は帽子
放
●やたべ歯科
●間宮
モーター
商会
敵のために柳原町の沼に投げ捨てられ
B-4
>
● 攬勝亭
川
来ました。
しかし、帽子丸は追ってきた
湯
> 帽子丸を連れて都から会津までやって
だったもので、会津藩8代藩主松平容敬
原
●
て東国に向ったと聞いた皆鶴姫は子の
長尾氏の庭園
柳
説上の人物です。義経が平氏に追われ
伊佐須美神社
皆鶴姫は源義経の側室といわれた伝
御薬園、可月亭と並ぶ会津三庭園の
ひとつ。かつては肝
●古い石柱の道標
現在は沼はないが、菅原神社の東に
大正14(1925)年に建立した没後750年忌
の碑が建っている
>
● 皆鶴姫の碑
菅原若葉幼稚園 ●
川
●
松本養蜂 ●
菅原神社
ハタコーポレーション
旧
銀
山
街
道
北
攬勝亭(非公開)
深
秀長寺
至あいづわかまつ
川
皆鶴姫と帽子丸
至北会津町
らんしょうてい
ぼうしまる
湯
みなつるひめ
成田木材建設
哀れ義経伝説
振姫が深く信仰し観音堂を建立したと
師堂にある墓は五輪塔で、茅葺き屋根
伝えられています。
の堂に納められています。
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