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Page 1 創大教育研究第11号 上京後の牧中常三郎と「人生地理学」出版
創 大 教 育 研 究 第11号 上京 後 の牧 ロ常三郎 と 『 人 生地理 学 』 出版 に至 る経過 塩 1.は 原 将 行 じめ に 明 年,平 成15(2003)年 は,明 治36(1903)年10月15日 に牧 口 常 三 郎 の 『人 生 地 理 学 』 が 出 版 さ れ て100年 の 佳 節 を迎 え る。 『人 生 地 理 学 』 は,中 等 学 校 の 地 理 教 師 や 「文 検 」 の 受 験 者 に 愛 読 さ れ る な ど1,多 くの 人 々 に 長 い 間 親 し まれ て きた 。 こ の こ と は,5年 年10月 に は,大 幅 に 改 訂 増 補 され た 第8版 が 発 刊 され,そ 松 堂 ・賓 学 館 か ら,『 人 生 地 理 学 る 。 また,出 上 』(増 訂 縮 刷 版)が 後 の 明 治41(1908) の 後 も,大 正12(1923)年7月 に二 出 版 さ れ た2こ とで も知 る こ と が で き 版 問 も な い1906年 に は 弘 文 学 院 に お け る 牧 口 の 地 理 の 講 義 が 中 国 語 に 翻 訳 さ れ, さ ら に1907年 に は 人 生 地 理 学 の 全 文 が 中 国 語 に 翻 訳 さ れ3,中 国 の 人 々 に も 読 ま れ て い た 。 『人 生 地 理 学 』 の 内 容 そ れ 自体 に つ い て は,全 集 の 補 注 等 の 詳 細 な研 究 が あ り・ 近 年,地 理 学 者 に よ る 論 文 ・著 書 も多 く発 表 され て い る4。 本 稿 は,こ の 『人 生 地 理 学 』が 牧 ロ の 上 京 後, 如 何 に して 出 版 され る に 至 っ た か,そ の 経 過 に つ い て 詳 細 に 検 討 して み た い 。 最 初 に,神 戸 新 聞 の 「『人 生 地 理 学 』 の 著 者 に 与 ふ 」 と い う 記 事5を 全 文 紹 介 し・ こ の 資 料 を 中 心 に 述 べ る こ と とす る 。 [資料1]神 戸 新 聞 明 治36年10月20日 付5面 掲 載 の 斎 藤 生 「『人 生 地 理 学 』 の 著 者 に 与 ふ 」 『人 生 地 理 学 』 の 著 者 牧 ロ 栄(ママ)三郎 君 貴 下 。 本 日,偶 然 足 下 の 賜 た る 高 著 を手 に し て,余 は 実 に 快 然 た ら ざ る を 得 ざ る 也 ・ 足 下 が'1'fの 心 血 を 瀧 ぎ た る 『人 生 地 理 学 』 は こ ・に 昂 然 と し て,明 治 の 学 会 を澗 歩 す る に 至 れ り。 予 ま こ と に,こ れ が 為 め に雀 躍 せ ざ らん と して 得 べ か ら ざ る 也,さ れ ど も,予 の 足 下の 為 め に 祝 せ ん と す る は,独 りこ れ に 止 ど ま らず,否 寧 ろ 他 の 理 由 あ りて 存 す る 也 。 予 のy-)11,に 入 る や,所 謂 冠 せ る 沐 猴 の 亜 流 の み,商 垢 面 実 に 一 介 の 書 生 の み,時 俗 の 習 を 逐 は ず して,1仰 か 気 を 負 う て 心 私 か に楽 しめ り,夫 れ 皆 円 転 壁 の ご と き才 子 の み,独 臆 飢 そ叡 らず して,去 也.嘘 る や,寧 り,来 意 如 何,君 り足 下 は 榮 然 と して,明 あ兼 赫 を誌、 あ 尻 て・ 、轡 卿 星 の ご と く,異 彩 を 放 て り,さ れ ど も, そ,.001JL'IIIあ00000000,足 ろ 其 突 飛 に 驚 け る の み,予 超えて二日,霜 は都を難 買 流 転 滑 脱 の 群 才 の 中 に 在 りて,蓬 頭 下 が一年な き は 独 り足 下 の 為 め に 之 を 喜 ぶ こ と深 か り し。 ≦1子 恥 る時・Jl犀は鷲 嚇 τ・ 。碑 鱒 な 懐 よ り志 賀 君 の 所 謂 六 寸 強 の 古 原 稿 を 出 して 曰 く,僕iの 愛 着 は 則 ち 是 の み, 入企あ桑 まま 』商ぶあ疲あ らんる,と りて之を見 る,今 に して悟 る,此 套然たる 『人生 地理学』 一篇 是 也。 君 突 如 と して い ふ,足 下 は 尾 崎 行 雄 氏 を識 れ りや 。 予 い ふ,予 下 と尾 崎 氏 と何 の 関 す る と こ ろ ぞ,予 の 愚,ひ 深 く彼 を 識 れ り,さ れ ど,足 そ か に 足 下 が 腰 を権 門 に屈 して,そ の 六寸 の 原 稿 の 序 を 得 ん とす る もの な りと 速 断 し。 其 識 の 卑 き を 嘲 り柳 か こ れ を 颯 せ し也 。 君 曰 く,氏 は 天 下 の 傑 人 也 只 彼 の 風 貌 に 接 せ ん とす る の み,予 一 一 一 一47一 こ ・に 於 て,君 が 万 難 の 中 に 立 ち て,能 く数 .ヒ京 後 の 牧 「..i'rfi..郎と 『人 生 地 理 学 』 出 版 に 至 る 経 過 曾 辱}ε け察 轡 警 馨 皆 倦善 鯉 鋒 軽 騨 鱒 を知れり,餅1覇 学轡 櫛 び,.丁聾 悠 零,騨 聯 さきに・わ怨 春に学黙 響 麩 ζ鰍 在 ・.氏1搭 鮮 ・,快く膚 ず,.騨 鹸 そ, 鐸 嚇 た都 紘 弓,.君 ま 赫 屋齢 碁そ000000.o, ひ冷 ・ 、学騨 岱?・、学ζ卿 ぞ岬 たま000000 く・ 、舌蜘 ノliξ 髄 娘 予掌をう て)て㌣ 護・ ・尽 一 じ母 に 春 惣 存 り・ 尾luNt氏に 会せ ざ る を憾 み ず,而 も学 者 と して 矧 川 氏 を 識 乳 ら, 何 の 幸 ぞ ・ 乞 ふ … 酌 を 過 せ ,足 下 杯 を 挙 げ て い ふ,明 治 二 十 四 年,北 海 道 師 範 学 校 に 教 鞭 を 執 りて よ り十 一二年 『人 生 地 理 学 』 の こ と ,夢 療 な ほ 忘 れ ず,さ 0・.鞭 蝉 !拳 轍,.0 000励 亀縣 屠辱 鴛 下,。 季 蛎 に 戯 擦7さ れ て,字 は 予 の 為 め に 燈 な り・ 予 手 を執 つ て き に 某 々書 難 に 諮 りて,失 敗 を 重 冷.昨 至 り詩 鏑 殖 辮 虫1三 勲 臆 輔 を 辮 ぜ ざ る も の も俄 か に000000000,悉 喪式 ,足 下 の 苦 心 を 賞 し,相 抱 い て,狂 喜 せ り,こ れ は 昨 年 の こ と也 。 足 下 ・ 予 は 当 時 ・ 既 に 足 下 の 為 め に い へ り。 恐 ら く は ,こ の 名 著 を 出 版 す る の 義 侠 あ り,識 見 あ る:1.=1,:.Lo OOOoaoこ 奪伸 打 響 こ轡 倶 τ ・鷺 τ ・.騨 畔 脚 ・.轡 獅9鯉 誓 ・.轡 レ,。イ 醗 な し て も,今 ひ に万 金 か す こ と を 得 ん,vOo-000000000 友 とせ る 足 下 は 不 幸 也 ・ 相 顧 み て 唖 然 と して 笑 ふ ,足 下 の 面 上,こ の 唖 然 の 中,な ほ,暗 愁 の 澱るごときものあ りしは,正 坐せ し予の眼底今 なほ存する ところ。 こ孔 巻去牟あ ε丑也。 本年の春8津 鯉 下ζ鱗 弊 遷ふ・足下 ,脇 にせる校正刷樹 ん ぜ よ 。 『人 生 地 理 学 』 活 字 と な れ り,詳 か に,そ 離1し ていふ.君 乞繊 の 後 の 経 過 を い ふ,余 は 全 く,志 賀 氏 の 尽 力になれるを知 り・ 、 勲 劒 モ謀 解 灘 膿 レ誇 徽 鱗 の礁 を離 これより,途 界 丁嘩 静 も押 ∫!列鱒 即1.を.塁んことを翼・ 注:こ いねが ・ へ り,朱 字の批評蘭 帳 あ0 書,寧 ろ 並1を 以 て 書 け る が ご と く に 輝 け り。 そ れ か く の ご と し,今,予 が こ の 書 を 手 に し て, 雀 躍 せ ざ る べ か ら ざ る も の,理 な し と す る か 。 否 ,否,予 の 言 は ん とす る と こ ろ は こ ・に あ ら ず し て 他 に あ り。 足 下 は・ 一・面 に 於 て,し か く堅 忍 に し て,学 士 の 風 を 具 へ た る に 拘 らず に大 成 の 素 を 有 せ り汰 抵 の"7・ 者 が 年俸 側 ,数 千 円,な り て,足 下 は 無 名 の .トを 待 つ に 薄 きlli二 問 の 冷 酷 に 耐 へ ,妻 に棋 駕 ・..二 季 紳 擁 歎' r O.聯 た煕 嘗 ξ・ 。騨 ζζ繊 鱒 皆 ,ま た一 面 に於 て は実 ほ,離,鹸 家 に 満 つ る1こ時 に 方 子 の 為 め に,良 夫,厳 学辮 鍾 φ懸 騨 あ嵐蝕 と こ れ 也,余 は轄 父 た り,世 間 舩 趨 性 と し0000000000。 しか も ま た 更 に 深 く人 物 と して 足 下 をE.t'lam敬 す ・ 唯 ,期 す,こ の 一 巻,な ほ足 下 の 全 豹 な り とい ふ べ か らず,更 に ・i倍の 堅 忍 を 以 て 百 年 の 大 作 を企 て ら れ ん こ と を 。 予,無 為,斯 学 の1ξli識 な く,況 や こ の 苦 心 の 作 を 批 評 す る の 大 謄 を や ,い さ ・か こ の 書 を足 下 の 活 歴 を 知 れ る の 因 を 以 て 之 を 江 湖 に 紹 介 し,世 の 志 を愛 す る仁 者 に 向 つ て 一 本 を薦 む る の み 。(振 2.筆 り仮 名 省 略) 者 「斎 藤 生 」 に つ い て こ の 記 事 を書 い た 「 斎 藤 生 」 は ,斎 藤 弔 花,本 名 謙 蔵 と特 定 で き る 。 神 戸 新 聞 の 初 期 の 記 者 で 斎 藤 姓 は,斎 藤 弔 花 とIli:眞 … 郎(渓 舟)の 二 人8で あ る が ,弔 花 と特 定 で き る の は,弔 花 は 明 治35年 か ら37年 のll}」,金港 堂 に勤 務 して お り,,そ の 後,神 戸 新 聞 に 明 治36年8月15日 入 社 して い る か らで あ る1。 。 また,傍 証 と し て,明 治38年5月 か ら42年8月 まで牧 口が 行 った 通 信 教 育 に よ る 女 性 教 育 に 弔 花 が 参 加 して い る こ と もあ げ て お き た い ll。 弔 花 は,明 治10年2月8}-1,大 明 治34年 上 京 後,国 阪府 三 三{島郡 高 槻 生 ま れ の 新 聞 記 者 木 旧 独 歩 に 親 災 し,りJ治35年2月8日 一48 ,小 説 家,随 筆 家 で あ る12。 よ り12月 ま で は鎌 倉 で 独 歩 と二 人 で 創 大 教 育 研 究 第11号 識 簾 3.斉 潔 り4つ 年下・牧口 と初 めて出会 つた明治34年 は・24歳,こ の言己事 を書い 藤 弔花 宅 訪 問 の時 期 の特 定 こ の 資 料 の 内 容 を正 確 に瑠 す る に1ま,第 三 段 落 の 「 超 え て 二 日」 以 下 の 牧 ・ カ・ 藤 弔花 宅 を 訪 問 した 時 期 を特 定 す る こ とが 大 事 で あ る 。' 第 三・ 第 四段 落 は 激 「こ れ は 牌 日 を 隔 て た2回 の 斎 藤 宅13調 に つ い て述 べ てお り ,第 四 段 落 末 に の こ と也 」 と あ る 訓 … 年 と は ・ こ の 記 事 が 出 醐1台36年 の 昨 年 で あ る か ら朋i台 35年 で あ る。 次 に ・ 第 三 段 落 の 初 め に 「霜 は 都 を 圭寸じて ・ 人 は 虫 の ご と くに 這 へ る 時 」 と あ る こ と か ら 明治 , 35年 の 霜 の 最 終 日5月13日 以 前 か ・ ま た は ・ 霜 の 初 日11月20日 以 降 の 寒 さが 印 象 的 な 日の こ とで あ る1・ ・ 第 鍛 落 で ・ 明 治36年 剤 こ燃 は 校 正 刷 を持 っ た 牧 口 に 会 っ てL・る こ と か ら 明治 , 35年 冬 に,斎 藤 宅 を 訪 問 し・ そ の 数 日後 に 初 め て 志 賀 に 会 っ た と す る と整 合 性 が 取 れ な い 。 ま た ・ 志 賀 自 身 も 「人 生 地 理 学 』 の 序 で 「明 治35年 春 夏 の 交liと覚 ゆ 」 と 書 い て い る ・者 の 明 治35年 の5月13日 藤 以 前 の こ とで あ る 。 弔 花 は ・明 治35年2月81ヨ 以 降 は ・国 木 田 独 歩 と鎌 倉 に生セん で い る 。 こ の こ とか ら は 都 を封 じて 」 の 「都 」 とい う表 現 が 適 切 な 時 期 は,更 明 治35年1月2日c・ 二段 落 で牧 口 の 金 港 堂 退 の 退 職 し て か ら21=1後b・{i{を 月 を 越 え て2日 後,つ ,「 霜 に 限 定 さ れ るit。 今 度 は・ 「 超 え て 二El」 を ど の よ う に 解 釈 す る か で あ る が,a.第 職 を 述 べ て い る の で ・ 明 治35年1月 。前 越 え て21=1後 ま り,明 治35年1月2111 ,つ ま り, ,ま た は,2月2日 の 3つ の 解 釈 が 考 え ら れ る。 しか し・ まず ・1月2日 は ・ 志 賀 重 昂 と尾 崎 行 雄 の 行 動 記 録 か ら否 定 さ れ る 。 尾崎 に 会 え な 崎 氏 常 に 不 在 」 と あ る が ,尾 崎 は,明 治35年 は 正 月 か ら箱 根 塔 の 沢 に 滞 在 し・10日 に 帰 京 して い る17・志 賀 も ま た ,12日 に 帰 京 して い るis。 か っ た 理 由 が ・ 「た ま た ま政 界 の 波 乱 万 丈,尾 こ の 時 の 尾 崎 の 不 在 理 山 は 政 界 の 波 乱 万 丈 で は な い ・ そ れ で は ,「 政 界 の 波 乱 万 丈 」 と は,何 を意 味 す る の か 。 尾 崎 が 当 時 院 内 総 務 を務 め,志 賀 も所 属 して い た 立 憲 政 友 会 で は ,明 治34年 12月24111,3名 の 議 員 が 党 議 に反 す る行 動 を した と して 創 立 以 来 初 め て の 除 名 処 分 を 断 行 して い る 。 そ の 除 名 取 消 の 第1回 の 意 見 書 が1月10日,第2回 の 意 見 書 が1月31日 に 出 され ,総 務 委 員 会 は こ れ を採 用 せ ず ・ こ の 決 定 に よ り政 友 会 の 中 か ら脱 会 者 が 多 数 出 る と い う 事 件 1,のこ と で あ る と思 わ れ る 。 次 に ・2月2日 も,こ の 日の 天 候 は 雨2・ で あ る こ と か ら,「 霜 は 都 を封 じて 」 と い う こ と は な い。 よ っ て ・ 「超 え て 二 日」 は,退 職2日 の2日 後 に斎 藤 を 訪 問 した こ と に な る 。 4.金 港 堂 と牧 ロ 常 三 郎 後 の 意 と な り,牧 口 は,金 港 堂 を ユ月'L]に退 職 し,そ 金 港 堂 は,当 時 最 も大 き な 教 科 書 の 出 版 書 騨 と して 知 られ て い た 。 牧 口 が 金 港 堂 に 勤 め て い た こ と に 触 れ て い る 資 料 は ・ 昭 和25年 に 原 島 宏 治 が 近 親 者 か らの 聞 書 き と し て ,「 金 光(ママ)堂 に 於 け る 少 女 雑 誌 の 編 集 」 に 従 事 して い た とあ る だ け で あ る22。 しか し,時 期 を 人 生 地 理 学 出 版 後 と し て お り・ そ の 時 期 に 少 女 雑 誌 『日本 の 少 女 』 に 関 っ て い た こ と と 記 憶 が 混 っ て し ま っ て い る よ う で あ る。 牧 口 が 金 港 堂 に 就 職 した 時 期 は ・ 金 港 堂 を 明 治35年1月 一49一 に 退 職 し て お り,本 文 第 二 段 落 に ヒ京 後 の牧 口常 三 郎 と 『人 生 地 理 学 』 出版 に至 る経 過 「 一 年 な ら ず して,去 る 」 と述 べ て い る の で,明 治34年5月 に 上 京 後,そ れ ほ ど経 過 しない 頃23,で あ る 。 牧 口 の 上 京 迄 を 見 て い く と,明 治34年4月18日 会 。4月24日 1日 に 北 海 道 師 範 学 校 を退 職,4月21日 妻 子 を 連 れ て 札 幌 を 発 ち,小 樽 を 経 て,上 上 京 シ 爾 来 全36年10月 に送 別 京 す る24。そ し て,「 明 治34年5月 マ テ 人 生 地 理 学 ノ 著 述 二 従 事 シ 関 係 学 科 ノ 研 究 ヲ ナ ス25」 と あ る。 牧 口 が 著 述 に専 念 す る に あ た り,彼 の 所 持 金 は,そ れ まで の 貯 金 と5月23日 され た 在 職 満8年 で 支 給 さ れ た160円,,、(退 職 前 の 牧 口 の 給 与,六 で あ る 。 ま た,上 京 時 の 家 族 は,妻 ク マ,ユ リ3歳,民 る 。 多 少 の 蓄 え が あ っ た と して も,出 版 ま で2年 牧 口 と ほ ぼ 同 じ頃 金 港 堂 に入 社 した 人 物 に,曽 師 範 学 校 に 入 学,25年 り,30年1月 卒 業 後,郷 半,全 城2歳 級 下 俸45円 の4ヵ の 時,県 月 弱 分) に 加 え,養 母 ト リ27の5人 で あ く仕 事 を しな い訳 に は い か な い 。 根 松 太 郎 が い る。 曽 根 は,明 治21年,愛 里 の 吉 田小 学 校 訓 導 に な り,26年 に松 山 中 学 に 転 任,こ に 道 庁 か ら給 与 媛県 に は 師 範 学校 の 訓 導 に な 教 育 会 の 雑 誌 編 集 を嘱 託 さ れ る 。 そ れ か ら1年 余 で西 宇 和 郡 視 学 に 転 出,そ こ で も,『 教 育 研 究 』 と い う 月 刊 教 育 雑 誌 を発 行 した 。 牧 口 は,明 治22年 に 師 範 学 校 入 学,卒 業 後 母 校 の 附 属 小 学 校 訓 導 並 び に 師 範 学 校 の 地 理 教 諭 と な り,ま た,北 海 道 教 育 会 の 『北 海 道 教 育 雑 誌 』 の 編 集 主 任 を 委 嘱 され て い る の で,二 人 は 年 齢 も経 歴 も似 て い る と い え る 。 曽根 は,東 京 で 雑 誌 記 者 を や りた い と の 希 望 を伝 え て い た 三 土 忠 造 か ら明 治34年7月 般 書 難 金 港 堂 に て 教 育 雑 誌 発 行 致 す 計 面 あ り其 主 任 と して 貴 兄 を 推 薦 致 置 候 処(以 い う 手 紙 を も らい 上 京,g月5日 に 「今 下 略)」 と に 金 港 堂 に 出 社 し,『 教 育 界 』(明 治34年11月 創 刊)の 編集に 従 事 す るzs。 金 港 党 は,i翌 明 治35年 に 『文 芸 界 』 『少 年 界 』 『少 女 界 』 『 青 年 界』 『 婦 人 界 』 『軍 事 界 』 を 相 次 い で 創 刊 す る'19。 雑 誌 に 本 格 的 に 乗 り出 した の は,教 科 書 の 出 版 業 界 第 一一 位 の 金 港 堂 が,明 治34年 初 め に,今 後 同 祉 と して 教 科 書 の 出版 を 行 わ な い と 決 定 した こ と と関 係 して い る 。 金 港 堂 主 人 原 亮 三 郎 は,娘 を 業 界 第 二 位 の 集 英 堂 主 人,小 林 八 郎 の 子 息 と結 婚 させ,両 家が 親戚 の 間柄 に な る と 共 に,集 英 堂 の 分 店 と も云 うべ き 普 及 社 と合 せ て 三 大 教 科:書出 版 社 に よ る トラ ス トを結 成 した 。 そ の.ヒで,教 科 書 を 出 版 す る 帝 国 書 籍 株 式 会 社 を組 織 し,三 社 は,以 後 教 科 書 出版 を 廃 止 す る と 決 定 し た の で あ る、 。 。 明 治34年 の 金 港 堂 は,教 科 書 出 版 か ら雑 誌 な どの 出 版 に 方 向 を 大 き く変 え よ う す る時 期 で,雑 金 港 堂 が 出 版 した 雑 誌 の う ち,牧 るが,そ 誌 編 集 が で き る新 しい 人 材 を必 要 と して い た 。 口 が 在 職 中 に 出 版 さ れ た の は,曽 根 の 「教 育 界 』 だ け で あ こ に 牧 ロ が 従 事 した 形 跡 は な い。 ま た,明 治36年10月 の 『人 生 地 理 学 』 出 版 に対 し, 多 くの 新 聞 ・雑 誌 がi!1剤三・新 刊 紹 介 、1をし て い る 中 で,『 教 育 界 』 は す ぐ に は 取 り上 げ て い な い 。 同 誌 が 書 評 に 取 り ヒげ る の は,改 ロ が,茗 渓 会 書 記 と して,雑 訂 増 補 が 出 版 さ れ た 明 治42年1月 で あ る32。 しか し,牧 誌 「 教 育 』 の 編 集 を して い る 明 治38年 頃 か ら は,牧 口 は,曽 根 が 発 案 した 教 育 茶 話 会 に 出 席 し,度 々 『教 育 界 』 の 誌 上 に 登 場 す る こ と に な る33。 明 治34年12月,「 教 科 書 事 件 」 の 激 震 が 金 港 堂 に 走 る。 曽根 は,「 其 の 年 の 十 二 月 十 七 日 で あ つ た 。 予 等 が 編 集 室 に あ る と,一 歩 も室 外 に 出 て は な らぬ との 知 らせ が あ つ た 。 何 事 が 起 こつ た か と驚 か さ れ た が,後 に 例 の 教 科 書事 件 が 持 上 つ て,其 索 を した の で あ る と分 つ た 。 斯 く て 教 科Fl件 の 日検 事 が 来 社 して 金 港 堂 の 家 宅 捜 は 次 第 に 発 展 して,小 学 校 教 科 書 は遂 に 国 営 と な る こ と と な つ たit。 」 と述 べ て い る 。 教 育 界 と 教 糾書 書 騨 の 全 国 規 模 の 贈 収 賄 事 件 と な っ た 「教 科 書 事 件 」 は,12月17日 堂 幹 部 宅 が 捜 索 さ れ,金 に 第 一 回 の 家 宅 捜 索 が 行 わ れ,金 港 堂,集 英 堂,普 及社 及 び金 港 港 堂 主 人 原 亮 一▲ 郎 が 拘 引 さ れ る の で あ る35。牧 口 が 金 港 堂 に 勤 め て い 一50一 創 大 教 育 研 究 第11号 た の は,そ の時期 に あた る。 曽 根 の 場 合,三 土 の 紹 介 で 金 港 堂 に 入 社 した が,牧 て い た 北 海 道 師 範 学 校 の 元 校 長,岡 は,牧 ロの場 合 は どうで あ ろ うか。 牧 口が 勤 め 本常 次 郎 が 金 港 堂 に勤 め て い る こ と に注 目 した い。 岡 本 口 に と っ て 校 長 で あ っ た とい う だ け で な く,単 級 複 式 教 育 を 共 に研 究 した 先 輩 で も あ っ た 。 岡 本 は,7ヵ 明 治35年2月 月 で 校 長 を 退 職 し:3{i,明 治33年 春,牧 口 よ り一 年 早 く上 京 して い る。 そ して, 創 刊 の,金 港 堂 が 発 行 す る 月刊 雑 誌 『少 年 界 』 の 初 代 編 集 ・発 行 人,ま た,同 年 4月 創 刊 の 日本 最 初 の 少 女 雑 誌 と な る 『少 女 界 』 の 初 代 編 集 ・発 行 人 と な っ て い る37。 牧 口 の 上 京 の 目 的 は,『 人 生 地 理 学 』 の 出 版 で あ る が,出 版 し て くれ る 書 蜂 の あ て が あ っ た わ け で は な い 。 第 四 段 落 後 半 に 「さ きに 某 々 書 騨 に 諮 りて,失 敗 を重 ね9失 望 極 に 達 せ る も」 とあ る 通 りで あ る 。 予 想 以 上 に 出 版 が 大 変 で 時 間 が か か る こ とが わ か り,自 分 に 向 い た 仕 事 で もあ り,金 港 堂 に就 職 す る こ と に し た の で あ ろ う か 。 牧 ロ が 金 港 堂 で ど の よ う な 仕 事 に 従 事 し た か 明 確 で は な い 。 また,牧 ロ は,出 版 の 目処 も全 く立 た な い 時 期 に 退 職 して い る 。 彼 の 潔 癖 さが 金 港 堂 の 汚 職 を 許 せ な か っ た の か,自 身 の出版 準 備 に全 力 を尽 くそ う と した の か 。 こ れ ら は 今 後 の 課 題 と した い 。 5.上 京後に人生地理学 を加筆 明 治34年5月 に 上 京 後,そ す 資 料 が あ る 。 そ れ は,北 の 年 か ら牧 口 が 人 生 地 理 学 の 原 稿 に 新 た な 内 容 を書 い た こ と を示 海 道 師 範 学 校 の 『同 窓 会 雑 誌 』 第27号(明 治35年2月171If発 行)の 雑 報 に紹 介 さ れ た 牧 ロ の 手 紙 で あ る。 [資 料2]北 ◎ 牧 口先生 海 道 師 範 学 校 の 『同 窓 会 雑 誌 』 第27号 の 雑 報(明 袖 を分 つ て 以 来,杳 し き先 生 が 水 茎 の 跡 に接 す,髪 と し て 聞 な きの 先 生,頃 治35年2月17rl発 行) 日 齊 を 某 卒 業 生38の 元 に 送 ら る,親 髭 と して 相 遇 ふ の 感 あ り。 其 一 端 を 割 き て 左 に掲 げ,以 て諸 子 と 共 に情 を 分 た ん 。 (上 略)=実 は 上 京 以 来,迂 闊 に も 尚 地 理 学 の 事 に 関 し,何 か 書 か ん と の 野 望 に 駕 られ,此 事 に 踏 み 込 み 候 処 案 外 深 入 りせ ざ るべ か ら ざ る に 立 ち 至 り,今 更 中 止 致 す こ と 能 は ざ る 次 第 と相 成 り昨 年 秋 迄 に 多 少 の終 了 を な せ し上,何 か の 研 究 に あ りつ か ん と の 心 算 に 候 処,都 に よ り種 々 の 故 障 に 相 遇 し,意 の 如 く運 び 兼 ね,今 諸 君 に再 会 す る に 足 る 丈 の 事 を 成 就 し た る 上,積 の 呵 責 を厭 い つ ・,今 に 至 り候 段,幸 る 多 罪 を 詫 び ん と して は,終 に 御 海 容 被 下 候 は こ 望 外 の 至 りに 候,(中 の 同 窓 は寸 暇 を惜 み 専 心 勉 学 致 居 る為 め,相 及 び 中学 連 中 の み,折 000000000000000000000000000 に 遅 々 と して 従 事 罷 在 候,幾 々 集 る の み に候,鈴 合 何 た りと も に非 常 に良心 略)=当 地 会 す る 事 甚 だ 少 く,高 等 師 範 学 校 連 及 び 哲 学 館 木 禮 太 郎 君 も近 頃 消 息 な く,小 生 も右 の 次 第 に 候 へ 共,此 先 は 呼 吸 の 続 か む 限 り当 地 に 於 て何 事 か 致 し た き 決 心 に 候=(下 略) 縷 縷 と して 血 あ り,希 望 あ りの 句 々,余 等 先 生 の 徳 を称 す る こ と久 し,又 何 ぞ 繰 返 さ む や,只 先 生 が 目度 き 成 功 の 暁 を 待 ち,再 び 先 生 の 馨 咳 に接 し新 研 究 の 一 端 を教 へ られ ん こ と を望 む の み 。 先 生 幸 に 自愛 自 重 せ られ て よ 。 『同 窓 会 雑 誌 』 は,凡 そ 隔 月 で 発 行 さ れ て い る の で,牧 原 稿 〆切 で あ る 明 治34年11月 口 が こ の 手 紙 を 書 い た の は,前 号 の 中 旬 頃 か ら,本 号 の 原 稿 〆切 の 明 治35年1月 一51一 中旬 頃 ま で の 期 間 と 上 京 後 の 牧[常 三郎 と 『人生 地 理 学 』 出 版 に 至 る 経 過 推 測 さ れ る39。次 に,「 上 京 後 」,更 に 書 き足 そ う と の 考 え た た め,思 っ た 以 上 に深 入 り し て し まい 「昨 年 秋 迄 」 に ほ ぼ そ の 試 み を 終 了 し よ う と考 え て い る との 内 容 か ら,昨 年 と は,明 年 で あ り,こ の 手 紙 は,明 治35年1月 治34 前 半 の 志 賀 と会 う以 前 に 書 か れ た こ とが わ か る 。 牧 ロ は,上 京 後,「 尚 」地 理 学 の 事 に 関 し,「何 か 書 か ん 」 と思 い 立 ち,や り始 め て み る と思 っ た 以 上 に 深 入 りせ ざ る を え な く な り,途 中 で 止 め る こ とが で き な くな っ た とい う の で あ る 。 金 港 堂 に 勤 め な が ら,出 版 して くれ る 書 難 を探 す だ け で な く,北 海 道 時 代 に書 きた め た 原 稿 の 加 筆 を 進 め て い た の で あ る。 牧 口 が,上 授,坪 京 した 明 治34年5月 々 訪 ね 指 導 を受 け た 入物 に 東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 教 井 九 馬 三,。 が い る 。 『人 生 地 理 学 』 例 言 に 「回 顧 す れ ば 三 年 前41の初 夏,突 ケ 丘 の 邸 に 訪 ひ,刺 れ,寒 以 降,度 然,先 生 を向 を 通 じて 教 を 請 ふ 。 当 時 何 人 の 紹 介 を も持 た ざ り しに,早 速 其 請 を 容 れ ら 喧 未 だ 終 ら ざ る に 忽 ち 学 術 談 は 開 か れ,因 き・」 と あ る 。 さ ら に,「 爾 来 幾 回,時 りて 予 が 独 学 に 於 け る 幾 多 の 疑 問 は 氷 解 し は 短 し と錐 も,此 の 企 図 の 価 値 に 関 し,結 構 の 大 躰 に 関 し,研 究 の 手 段 に 関 し,将 た 其 他 の 疑 ひ に就 て 予 の 得 し所 は 多 く の 読 書 に 優 れ る こ と を 疑 は ず ・」 と感 謝 のri葉 を 述 べ て い る 。 夏 を 立 夏 か ら と解 す れ ば,5月5日 以 降 の 意 で あ る か ら, 上 京 して ま も な く坪 井 宅 を訪 問 した こ と に な る 。 坪 井 と の 度 々 の 出 会 い に よ っ て ,数 々 の 疑 問 が 晴 れ,多 くの こ と を 得 た 牧 口 は,「 何 か を 書 か ん との 野 望 」に か られ ,執 筆 に 踏 み 込 ん で い っ た の だ ろ うか 。 こ れ は,明 治35年 に 入 っ て か ら の こ と に な るが ,牧 ロ は 本 の タ イ トル を 『人 生 地 理 学 』 とす る と い う極 め て 重 要 な 決 定 に つ い て も坪 井 の 指 導 を 仰 い で い る42。 しか し・ 牧 口 も 冒 頭 に 「迂 闊 に も」 と表 現 して い る よ う に,明 治34年 中 に ほ ぼ終 了 させ ,「何 か の 研 究 に あ りつ か ん との 心 算 」 を も っ て い た の も か か わ らず ,予 想 よ り大 幅 に 時 間 が か か っ て し ま っ た。 また,「 都 合 に よ り種 々 の 故 障 に 相 遇 し,意 の 如 く運 び 兼 ね 」 る こ と に な っ た 。 当 時 の 牧 口 に と っ て,人 生 地 理 学 の 出 版 こ そ が 夢 に も忘 れ る こ と の で き な い 中 心 事 で あ る 。 「意 の 如 く運 び 兼 ね 」 て い る の は,そ りて 失 敗 を重 ね,失 の こ とで あ ろ う。 神 戸 新 聞 で は,「 さ き に 某 々 書 難 に 諮 望 極 に 達 せ る も,な お 志 を励 ま して,今 日 に 至 り」 と あ る 。 ま さ に そ の 時 期 に 書 か れ た こ の 手 紙 で も,「 此 先 は 呼 吸 の 続 か む 限 り当 地 に於 て 何 事 か 致 した き決 心 に 候 」 と あ り,失 望 の 極 み の 中 に あ っ て も 自 ら を励 ま し努 力 す る 牧 口 が い る 。 また,こ の 手 紙 の 書 か れ た 明 治35年1月 に な っ て も,牧 ロ は,「 遅 々 と して 」 執 筆 を続 け て い る 。 人 生 地 理 学 は,金 港 堂 退 職 後 の お そ ら く苦 しい 生 活 の 中 で も,少 られ て い くの で あ る 。 6.尾 しず つ 着 実 に 書 き加 え 崎 行 雄 を 尊 敬 し,会 お う と した 牧 口 常 三 郎 斎 藤 弔 花 は,新 事 実 と して,牧 口 が 尾 崎 行 雄 に面 会 した い と考 え,尾 崎 と面 識 の あ る 弔 花 に 紹 介 状 を依 頼 した こ と を紹 介 して い る 。 最 初,弔 花 は,人 生 地 理 学 の 出 版 以 外 に念 頭 に な い 牧 ロ で あ る か ら,尾li奇 に 序 文 を も らお う と して い る の で は な い か と蔑 み ,嫌 味 の ひ とつ も言 っ た の で あ ろ う。 しか し,牧 口 の 「氏 は 天 下 の 傑 人 な り。 只 彼 の 風 貌 に接 せ ん とす る の み 」 との 言 葉 に ・ は っ ζ気 が つ い て 自 分 の 不 明 を 詫 び,喜 ん で 紹 介 状 を 書 くの で あ る 。 と こ ろ が,「 政 界 の 波 乱 万 丈 」 の た め,尾 ロ は尾 崎 に 会 う こ と は 出 来 な か っ た と い う の で 崎 氏 は 常 に 不 在 で,牧 あ る。 人 生 地 理 学 の 基 盤 と な る 牧 口 の 思 想 を 考 え る 」二で 重 要 な 示 唆 が あ る と考 え る 。 第 一 に ,尾 崎 を 傑 人 と尊 敬 し,そ の 考 え 方 や 生 き 方 に 牧 ロ は 評 価 ・共 感 して い た と い う こ とで あ る 。 福 沢 諭 吉43,尾 崎 行 雄 、4等か ら流 れ を 発 す る 大 正 デ モ ク ラ シ0が,牧 口 の思 想 に どの よ うな 影響 を与 え て い る か を考 え る 上 で こ の こ と は重 要 で は な い だ ろ う か 。 既 に 尾 崎 か らの 影 響 に つ い て は斎 一52一 創 大 教 育 研 究 第11号 藤 正 二 に よ っ て 指 摘 され て い るnsがそ れ を立 証 す る 資 料 で あ る。 第 二 に,弔 花 は,「 一 方 に 於 て,学 る が,牧 に 学 び,一 方 に 於 て,人 に 学 ば ん と す る か 」 と述 べ て い 口 は,学 問 知 識 を書 物 や 学 者 か ら学 ぶ だ け で は な く,人 間 の 生 き方(人 間 学)を,傑 出 した 人 物 に 会 う こ と に よ っ て 学 ん で い る と い う の で あ る 。 お そ ら くs牧 口 は,書 物 を 読 む と き も 同様 に,知 識 だ け で な く,人 間 を 学 び,人 口 が,傑 人 と い え る よ う な 人 物 に 会 い,人 も負 け な い,人 間 の 生 き方 を 学 ん で い る の で あ る 。 弔 歌 は,牧 間 を 学 ぶ こ と に よ っ て,打 ち 続 く銀 難 の 中 に あ っ て 間 と して の 強 さ を 造 っ て い る と観 て い る の で あ る 。 も う 一 歩 進 め て,牧 口 の 人 間 の 生 き方 と 地 理 学 をつ な ぐ発 想 は,こ の よ う な牧 口 の 人 間 を学 ぶ と い う こ と と無 関 係 で は な い の で は な か ろ うか 。 私 が,そ の よ う な 考 え を 持 っ た の は,明 治 39年 に 『 先 世 』 に 掲 載 さ れ た 「ヴ ェ ス ヴ ィ ア ス 山 の 噴 火 副 と い う講 話 を 読 ん だ 時 で あ る 。 そ こ に は,火 山 の 噴 火 と い う極 限 状 況 の 中 で 為 政 者 と歴 史 家 の 行 動 が 生 き生 き と 描 か れ て い る 。 牧 口 を,人 間 に対 す る深 い 洞 察 の 眼 を も っ た 地 理 研 究 者 と して 考 察 す る と思 わ ぬ 発 見 が あ る の か も しれ な い 。 7.志 賀重 昂 との 出会 い 従 来s志 賀 重 昂 と牧 口 と の 出 会 い の 様 子 は,『 人 生 地 理 学 』 の 「昨 明 治 三 十 五 年 春 夏 の 交 と 覚 ゆ,新 潟 県 牧 口 常 三 郎 君 な る 人 来 り,刺 を 通 じ,初 め て 予 を 見,地 理 と人 生 との 関 係 を 著 述 す る の 志 を 述 べ,既 成 の 草 稿 厚 サ 六 寸 に 余 る もの を 示 し,且 つ 云 く,明 治 二 十 六 年 来,北 師 範 学 校 に 教 職 を 奉 ぜ し も,此 志 を果 さ ん 為 め,三 予,君 が 志 を壮 と し,そ の 大 成 を期 望 す,君 十 四 年,職 を辞 し,専 ら之 れ に 当 れ り と。 快 然 と して 去 る 。」 と い う志 賀 の 序 と,「 時 に 志 賀 先 生 は予,素 よ り一 面 の 識 な し と 錐 も,予 が 地 理 学 に 対 す る 興 味 は,主 て 養 は れ,且 つ 本 著 に 当 りて,直 接 に 引 用 せ る 所 も頗 る 多 け れ ば,先 の 一 人 な り き。 乃 ち 其 門 を 叩 き,具 海道 さ に志 望 を 談 れ ば,直 と して 其 の 著 述 に よ り 生 は予 が需 む る少 数者 中 に 情 を 動 か し,快 く諾 せ られ,」 と い う牧 口 の 例 言 に 拠 っ て い た。 と こ ろが,斎 治35年1月 し,数 藤 弔 花 に よ っ て,そ か ら2月 始 め,よ 日後,再 の 経 緯 と時 期 が 明 確 に な っ て き た 。 志 賀 と の 出 会 い は,明 り正 確 に い え ば,牧 口 が 金 港 堂 を 退 職 した2日 度 斎 藤 宅 を 訪 問 す る 少 し前 で,2月7日 ね て も会 え な い 日が 続 く中 で,同 後 に 斎 藤 宅 を訪 問 以 前 の こ と で あ る。 牧 ロ は,尾 じ立 憲 政 友 会 で あ る 地 理 学 者 志 賀 の 存 在 に感 ず る もの が あ っ た の で あ ろ う か 。 坪 井 の 場 合 と同 じ く,直 接,門 志 賀 は,『 人 生 地 理 学 』 序 の 中 で,「 抑(そ を 叩 い た の で あ ろ うか47。 も そ)も 此 書,原 稿 二 千 ペ ー ジ に 上 ら ん とす,唯 だ 出 版 の都 合 に 依 りて 今 之 れ を 其 の 半 に 縮 め て 公 行 す,」 と述 べ て い る 。 こ こ で,二 に 上 ら ん 原 稿 と は,同 崎 を訪 千ペー ジ じ序 の 「既 成 の 草 稿 六 寸 余 る も の 」 と 同 意 で あ る 。 こ の 原 稿 の 出 版 を実 現 す る た め に,志 賀 は,半 分 に 縮 め る こ と を 牧 口 に 提 案,明 治35年,牧 口 は そ の 作 業 に 取 り組 む こ とに な る。 8.出 版 書 犀 と志 賀 の 校 閲 批 評 冨 山 房 版 の 詳 解 漢 和 字 典48に よれ ば,春 5月5日)ま で の 間(2)一 明 治36年 春,牧 の 意 味 は,(1)立 月 二 月 三 月,或 は,三 春(注:2月3日)か ら立 夏(注: 月 四 月 五 月 の 称 とあ る 。 口 と斎 藤 は 三 度 金 港 堂 で 偶 然 出 会 う。 明 治35年 の 内 に は,出 版書騨 が決 ま り,千 枚 に 縮 め ら れ た 原 稿 が 出 稿 さ れ た の で あ ろ う。 牧 口 は,心 配 して くれ て い た 斎 藤 に 校 正 刷 を見 せ る。 出 版 界 に い る 彼 は,こ の 名 著 を 出 版 す る 義 侠 と識 見 あ る 書 騨 は な い だ ろ う,助 力 で き な い 自 分 が ふ が い な い と ま で 牧 口 に 言 っ て い た 。 と こ ろ が,全 一53一 て 志 賀 の尽力 に よ って 出版 1:京後の牧 口常 鷺郎 と 『人生 地理学』出版に至る経過 に 至 っ た 背 景 を知 り,志 賀 の 配 慮 を仰 慕 し,文 會 堂 の 任 侠 を喜 ぶ の で あ る 。 志 賀 が,校 閲 批 評 を行 うの は,3月1日 り,翌 年3月1日 以 降 で あ る。 明 治35年12月28日 に 総 選 挙 が 行 わ れ る ・ 明 治36年 春,選 訪 ね 人 生 地 理 学 の 校 閲 批 評 を 求 め た … そ れ は,1月 に衆 議 院が 解散 とな 挙 区 の 三 河 に滞 在 中 の 志 賀 に,牧 ま た は2月 口が の こ とで あ る 。 志 賀 は,窮 に耐 え て 努 力 す る 牧 口 に校 閲 批 評 を 承 諾 す る 。 約 束 通 り,衆 議 院 議 員 で あ る 志 賀 が,半 乏 年余 り も 「内 外 公 私 の 劇 務 を 繰 り合 せ5・ 」 校 閲 批 評 に あ た る の で あ る 。 牧 口 と斎 藤 が 校 正 刷 に志 賀 が 朱 字 で 批 評 を 入 れ て あ る の を 見 て 喜 び 合 っ た の は,「 本 年 の 春 」 と 言 っ て い る か ら,帰 京 後, 志 賀 は 早 々 に校 閲 批 評 に 取 りか か っ た の で あ ろ う。 『人 生 地 理 学 』 出 版 前 の 隠 れ た エ ピ ソ ー ドを,戸 田 城 聖51は,聖 教 新 聞 連 載 の 小 説 『人 間 革 命,、 』 で 紹 介 して い る 。 創 価 教 育 学 体 系 の 出 版 の 折,牧 ロ が 自分 の 原 稿 が 気 に 入 らな い と 四 度 も五 度 も組 み 直 し を させ る こ と に 印 刷 屋 の 主 人 が 悲 鳴 を あ げ た 。そ れ に対 し,生 沼 大 造 は,「 く せ だ よ くせ だ よ。 昔 あ の 有 名 な 人 生 地 理 学 が 今 少 しで 出 来 上 る と い う さ 中 に 一 月 も雲 が くれ し た 牧 田 君 だ よ。 組 み 直 し組 み 直 しで 印 刷 麗 か らは や か ま し くい わ れ る し僕 か ら は苦 情 を い わ れ る し,そ の 上 何 か 素 晴 ら しい 新 しい 考 え を起 こ した ら しい ,そ れ で 雲 が くれ して 又 新 しい 原 稿 を 出 して 印 刷 屋 を泣 か した 剛 の 者 だ よ。 そ の 位 が あ た り前 だ よ ア ハ ハ ハ 」 と大 声 で 笑 い 出 した と い う の で あ る。 「新 しい 原 稿 」と は,ど の よ う な も の で,明 治36年 の い つ 頃 の 話 で あ ろ うか 。斎 藤 の 文 か ら , 志 賀 は ・ 原 稿 で は な く校 正 刷 に 朱 字 を 入 れ て い る こ と は確 か で あ る 。 「 何 か 素 晴 ら しい 新 し い 考 え」 と は,志 賀 に校 閲 批 評 を依 頼 す る こ と で,「 雲 が く れ」 と は,剛1奇 に 志 賀 を 訪 ね た こ と で あ ろ う か 。 「今 少 しで 川 来 上 る 」=校 了 が,明 治36年 年 頭 の 予 定 とす れ ば ,3月 の志 賀 の帰 京 を待 た ず に 了 解 を取 ろ う と した の で は な い か 。 そ うで あ る とす れ ば,志 賀 に 校 閲 批 評 を依 頼 す る こ と に よ り,出 版 の 予 定 が 半 年 遅 れ た こ と に な る 。 しか し,1ヵ に,3月 以 降,半 年 に 亘 っ て(校 ∫直 前)ま で,志 月 の雲 隠 れ は長 い。逆 賀 が 校 閲 批 評 を 行 っ て い る 最 中 に ,1ヵ 月 行 き 先 を 明 か さ な い とい う こ と が で き る だ ろ う か 、 そ の 場 合 は,志 賀 が 校 閲 を ほ とん ど終 え た 後 に 新 原 稿 を 入 れ た こ と に な る 。 い ず れ に せ よ,牧 を込 め て{コrに送 り川 した こ とは,確 ロ と支 援 者 が,『 人 生 地 理 学 』 を 渾 身 の 力 か で あ る。 次 に 発 行 者 と発 行 所 に つ い て 一f-t触 れ て お き た い 。 『人 生 地 理 学 』 増 刷 の 奥付 で は , 発行者 東 京 市 神 田 区 小 ノll町 一・ 番地 立 田義 冗 発行者 東 京 市棚{¶区 錦 田 丁三 丁 目7番 地 発 行所 東 京 神 田 区小 川町 一 番地 発 売所 東 京神 田区 裏神 保 町 九番 地 生 沼大 造 文 會堂 書店 合 資 会社 冨 山房 と な っ て い る 。 立 田 の 住 所 と文 會 堂 の 住 所 は 同 じ で あ る 。 ま た,明 治39年10月 発 行 の 東 京 書 籍 商 組 合 事 務 所 発 行 の 『東 京 書 籍 商 組 合 図 書 総 目録 』 の 発 行 所 別 の 一 覧 に も 「文 會 堂 元 」 と あ る 。 文 會 党 は,明 治35年9月26口 山房 会 計 主 任 と な り,35年 創 業 。 初 代 店 主 立 田 義 元 で あ る 。 立 田 は 明 治25年 冨 退 職 し て 文 會 堂 を 創 業 した,、 。 ま た,生 に入 り,営 業 部 長 を 経 て,大 正2年 立 田義 沼 大 造 は,明 治22年 冨 山 房 に 支配 人 と な っ て い るJn。 創 業 時 期 か ら考 え,『 人 生 地 理 学 』 は 文 會 堂 に と っ て,初 め て の 本 格 的 な 出 版 で あ る;' i5。斎 藤は 「 全 く,志 賀 の 尽 力 な れ る を知 り」 と誹 い て い る が,志 賀 が,当 時 の 有 力 出 版 社 の ひ とつ , 冨 山 房 の 営 業 部 長 で あ っ た 生 沼 に働 きか け,生 沼 は,冨 山 房 か ら独 立 した ば か りの 立 田 に 出 版 させ た の で は な い だ ろ うか 。 先 に,『 人 生 地 理 学 』 が 多 くの 新 聞 ・雑 誌 に紹 介 さ れ た こ と に 触 れ た 。 そ の 際 に も,生 沼5、 の 果 した 役 割 は 決 して 看 過 で き な い もの が あ っ た で あ ろ う。 一54一 創 大 教 育 研 究 第11号 9.人 生地 理学 出版前 の牧 ロ の住 い 人 生 地 理 学 出 版 前 の 牧 ロ の 住 所 が,北 17日 発 行)及 び 第32号(明 海 道 師 範 学 校 の 『同 窓 会 雑 誌 』 第27号(明 治35年12月20日 治35年2月 発 行)の 卒 業 生 住 所 欄 に 記 さ れ て い た 。 『人 生 地 理 学 』 の例 言 に は,「 東 京 本 郷 駒 込 の 僑 居 に於 て あ る 。 『同 窓 会 雑 誌 』 の 卒 業 生 住 所 欄 は,明 治35年2月17日 著 者 識す 明治 三 十六 年 十 月」 と 発 行 の 第27号 と 明 治35年12月20日 発 行 の 第32号 と もに 「本 郷 区 追 分 町30」 で あ る。 追 分 町 は,昭 和40年 ま で,駒 込 追 分 町 と呼 ば れ て お り,第 一 高 等 学 校 に 近 い こ と も あ り下 宿 が 多 数 あ っ た57。追 分 町30番 地 は,明 治45年 の 『地 価 台 帳 』 に よ れ ば,同 地 在 住 の 奥 井 福 吉 が 所 有 す る3887.72坪 の と び 抜 け て 広 い 土 地 で, 奥 井 館 な どの 宿 もあ っ た58。 ま た,当 時,本 郷区に 「 駒 込 町 」 は な く,駒 込 東 片 町,同 西 片 町,同 浅IR町,同 曙 町,同 肴 町,同 追 分 町,同 千 駄 木 林 町,同 蓬 莱 町,同 千 駄 木 坂 下i町,同 千 駄 木 町,同 吉 祥 寺 町,同 片 町, 同 富 士 前 町,同 上 富 士 前 町 が あ っ た59。例 言 の 「駒 込 」は 町 名 で は な く地 域 の 呼 称 と思 わ れ る 。 こ の 追 分 町30番 地 を 地 図 で 見 る と,第 一 に,向 ケ 岡 弥 生 町 の 坪 井 九 馬 三 宅 の 近 所 で あ る 。 第 二 に,上 野 公 園 の 帝 国 図 書 館 ま で,直 線 距 離 で1.5キ ロ 程 で あ る 。坪 井 の 助 言 を 受 け な が ら 「何 か を書 か ん 」 と思 う牧 ロ に は 好 立 地 で あ る 。 ま た,妻 い た 夫 婦 が,牧 クマ が 結 婚 前 か ら北 海 道 で 世 話 に な っ て 口 よ り早 く 上 京 し巣 鴨 町 の 上 駒 込 に 住 ん で お り,上 京 後 も ク マ の 相 談 相 手 に な っ て い た と い う 証 言 もあ る 。 追 分 町 は,日 本 橋 本 町 の 金 港 堂 に は 多 少 遠 い が,出 版 社 の集 ま る 神 保 町 に は 遠 く な い 立 地 で あ る。 第27号 の 原 稿 〆切 の1月 中 旬 頃 に は,牧 口 は 金 港 堂 を退 職 しs第32号 の 〆切 の 明 治35年12月 中 旬 頃 に は,出 版 社 も決 ま り組 版 も始 ま っ て い る。 そ れ で は,そ の 後 も 追 分 町 に 住 ん で 出 版 の 日 を 迎 え た の で あ ろ うか 。 牧 口 の 女 婿 渡 辺 力 が,上 挙 げ て い るs。 が,当 京 以 来 十 年 間 に 牧 口 が 住 ん だ 場 所 を7ヵ 所 然 入 っ て 良 い 「本 郷 駒 込 」 が な い の に 注 目 し た い ・ 駒 込 の 隣 接 地 で 入 っ て い る の は 「根 津 」 だ け で あ る.追 分 町30番 地 は,根 津 西 須 賀 町 に接 し,根 津 の 象 徴 根 津 神 社 の そ ば で あ る 。 家 族 の 記 憶 に 「駒 込 」 が な い と い う こ と は,「 根 津 」 が 追 分 町30番 地 を意 味 し, そ れ 以 外 に 駒 込 に住 ん で い な い とい う こ とで は な い か 。 近 親 者 の 証 言 に 「三 畳 の 間 に 一 年 間 頑 張 りつ づ け た 先 生 の 努 力 は 終 に報 い られ て 明 治 三 十 六 年 人 生 地 理 学 の 初 版 が 発 行 さ れ た の で あ るst」 とあ る。 私 は,明 治35年10月 の 人 生 地 理 学 出 版 のi」を迎 え た 「本 郷 駒 込 の 僑 居 」 と は こ の 駒 込 追 分 町30番 地 の 一 室 で は な い か と考 え て い る。 10.評 伝作家斎藤弔花の見た人間牧 口常三郎 斎 藤 弔 花 は,評 伝 作 家 で あ る{i'L。 国 木 田 独 歩 につ い て 書 い た 代 表 作,『 国 木 田 独 歩 と 其 周 囲 』 『 独 歩 と武 蔵 野 』 の 他,『 蔵 花 と作 品 』 『水 戸 烈 公 』 『山 鹿 素 行 』 『 徳 富 蘇1峰夫 人 』 『赤 十 字 愛 に 輝 く萩 原 タ ケ 子 の 生 涯 』 『 尊 徳 翁 物 語 』 『前 科 三 六 犯 久 吉 繊 悔 再 生 』 な どが あ る。 彼 の 視 線 は, ジ ャ ー ナ リ ス ト,小 説 家,な か ん ず く,評 伝 作 家 の 視 線 で あ る 。 斎 藤 の 金 港 堂 時 代 の 牧 口 の 印 象 は,「 独 り足 下 は 焚 然 と して,明 星 の ご と く,異 彩 を 放 て り」 とい う もの で,周 次 は,退 囲 は そ の 牧 口 の 価 値 に 気 付 い て い な か っ た と見 て い る 。 職 後,斎 藤 宅 を訪 ね て きた 牧 ロ が,尾lll奇と会 い た い 理 由 を述 べ た 時 の こ とで あ る 。 「君 が 万 難 の 中 に 立 ち て,能 く数 年 の 長 日 月 を こ の 著 作 に 専 念 して 倦 ま ざ る の 余 裕 あ る所 以 を 知 れ り,足 下 は 一 方 に於 て,学 に学 び,一 方 に 於 て 人 に 学 ば ん とす る か 。」 と 牧 口 の 苦 難 に 強 い 秘 密 を語 る 。 そ して,尾 崎 と会 え ず,志 賀 と 会 っ た こ と に つ い て,「 足 下 既 に 人 物 た り,尾 崎 氏 に 会 せ ざ 一55一 ヒ京 後 の 牧 口 常 一 三郎 と 『人生 地 理 学 』 出版 に至 る経 過 る を憾 み ず,而 も学 者 と して 矧 川 氏(注:志 賀)を 識 れ り」 と。 状 況 が 悪 くて も う ら まず ,そ の 中 で 希 望 を見 つ け て い く牧 口 を 見 る 。 第 八 段 落 は ・ 牧 口 の 人 物 評 論 と大 成 へ の 期 待 で あ る。 世 間 に多 い 学 者 の 姿 と比 較 して ,「 し か く堅 忍 に して ・学 士 の 風 を具 へ た る 」 と・学 者 と して の 風 格 を持 ち な が ら ,現 状 に満 足 せ ず, 「実 に 大 成 の 素 を 有 」 し・ 世 間 の 冷 た さ の 中 に あ っ て も,家 族 に 対 して や さ し く ,「清 廉 倹 約 」 の 紳士 であ る。 また ・ 「 揮 然 た る 性 格 の 美 を抱 い て,沈 着 に し て 寡 黙 な り」 と 当 時 三 十 二 歳 の 牧 ロ の 人 間 を 語 る・ そ して ・ 学 者 と して 尊 敬 す る の は 当 然 と し て ,一 人 の 人 間 と して 牧 口 を 尊 敬 す る と述 べ て い る ・ 斎 藤 が ・ 最 も言 い た か っ た こ と,言 わ ず に お れ な か っ た こ とは ,こ の 人 間 と して の 牧 口 の す ば ら し さ で あ ろ う。 牧 口 は,こ の よ う な人 間 性 を培 っ て き た が ゆ え に ,生 涯 に亘 っ て 多 くの 人 々 か ら信 頼 さ れ 尊 敬 さ れ た の で あ る 。 さ らに は ,教 職 を離 れ た 後,戦 時 下 の 厳 し い 状 況 下 に お け る 宗 教 運 動 に お い て ,多 くの 人 々 を糾 合 し,結 束 させ た の は,こ の 牧 口 の 人 格 的 力 で は な か っ た ろ うか 。 斎 藤 は,最 完 結 す る の で は な く,更 に,十 倍 の 堅 忍 を 持 っ て 百 年 の 大 作 を 完 成 して ほ しい と期 待 した 。 そ の とお り,牧 口 は,27年 後 の 昭 和5年,現 職 の ノJ、 学 校 校 長 と して ・ 数 々の 困 難 を乗 り越 え て,『 創 価 教 育 学 体 系 』 を 出 版 す る の で あ る 。 11.今 後 に,牧 口 が 人 生 地,,,で 後 の 課 題 一 社 会 主 義 者 ・山 根 吾 一 との 交 流 こ こ ま で,牧 口 常 三 郎 が 上 京 後 ,『 人 生 地 理 学 』 を 出 版 す る ま で を 詳 し く述 べ て き た が,社 会 主 義 者 と の 交 流 と そ の 影 響 に つ い て も触 れ るべ き で あ る と の 指 摘 が あ る と思 う 。 牧[]自 身 も,「 即 ち 当 時 唯 …・ の 左 翼 新 聞 た り し 『平 民 新 聞 』 に 故 伊 藤 銀 月 氏 が 拙 著 『人 生 地 理 学 』 の 新 刊 を評 した 頃li3は,可 な り危 険 圏 に 迄 踏 み 込 ん でiiた の で ,彼 等 か ら辛 辣 な 宣 伝 を 受 け た の で あ っ たli4。 」 と述 べ て い る 。 牧 口 と 明 治 社 会 三i三 義 者 と の 交 流 は ,『 人 生 地 理 学 』 の 成 立 の 背 景 を 考 察 す る 上 で,今 後 の 課 題 で あ る 。 近 年,岡 林 伸 夫 の 丹 念 な 研 究 、5によ っ て ,牧 口 が 交 流 し た 社 会 主 義 者 と して ・ 片 山 潜 の 事 業 の 後 継 者 と な っ た 山 根 吾 一 の 存 在 が 浮 か び あ が っ て きた 。山 根 と の 交 友 は 北 海 道 時 代 に 始 ま り,『 人 生 地 理 学 』 出 版 後 の 牧 ロ の 行 動 と 人 脈 を 考 え る 上 で も キ ー ・パ ー ス ンの 一 人 の よ う で あ る 。 今 後,1一 分 な 準 備 を した 上 で 補 う こ と と した い 1岡 田 俊 裕,「 牧 口 常 三 郎 『入 生 地 理 学 』 の 地 理 学 史 ヒの 再 評 価 」 ,広 第49巻 第4'号,昭 2大 和59年,197頁 正12イr9m日 また 洞 に 剛{大 書 に 先 立 ち,5月 。 島 大 学 地 理 学 教 室 『地 理 科 学 』 。 震 災 が あ り,剛 ・ の 土1彗 刷 並 び に 下 巻 は 出 版 さ れ て し・な い と 思 わ れ る。 に は ,i司 じ 二松 ・jj'・yt[-1'.iy学 館 か らr教 授 鰯 己合 中 心 と し て の 郷 土 科 石 肝究 』 改 訂 第 八 版 が 出 版 さ れ て い る 。' 3江 4酬 蘇 師 範 生 編 集,『 地 理 』,南 京 ,1906。 世 界 語 言 文 学 研 究 会 訳,『 最 新 人 生 地 理 学 』,上 海 ,1907。 個 田 ・197-212頁 ・)他に ・ 応 地 利 明,「 わ カ・国 地 理 学 へ の チ ュ ー ネ ンr孤 立 国 』 の 紹 介_牧 口 常 三 郎 著 『人 生 地 理 学 』1こお け る 紹 介 を め ぐ っ て 一 」,京 者駄 学 文 学 部 地 理 学 教 室r地 理 の、 思 想 』, 昭 和57年,27・:1-288頁 。 武 元 茂 人,「 明 治 末 ∼ 大 正 期 の 地 理 教 育 変 革 論 一 牧 ロ 常 三 郎 の 場 合 一 」 ,広 島 大 学 地 理 学 教 室 『地 理 科 学 』 第38巻 第3号,昭 和58年 ,1-11頁 。 武 元 茂 人,「 牧 ロ 常 三 郎 の 地 理 学FCrfJそ のX一 ヒュ ー マ ンエ コ ・ ジー 矧 教 育 科 学 』・ 昭 和58年 ・1-11頁 。 同 そ の2 ・ 会 認 識 教 育 一 」,r三 ,同 研 究 紀 要 重 大学糖 軸`研 第35巻 教 育 科 学,昭 究纈 第34巻 和59年 ,41_51頁 。 久 武 哲 也,『 文 化 地 理 学 の 系 譜 』,地 人 苫房,'ド 成12年 で は ,人 生 地 理 学 を 日本 の 文 化 地 理 学 の 系 譜 の 中 で 論 じ て い る・ 竹 内 啓 一一 ・福 ・BernJapaneseGe・graphy-AnlntellectualHistory ,古 幡 院, 平 成12年 で は,第8章 で,牧1]常 三 郎 と小111内 通 敏 ,第9章 で 牧 口 常 三 郎 を 考 察 の 対 象 と して い る 。 一56一 創 大 教 育 研 究 第11号 5当 時 の 神 戸 新 聞 の 原 紙 は,神 戸 市 立 図書 館 に保 管 して あ っ たが 阪神 淡路 大 震 災 で浸 水 し破 棄 さ れ た 。 幸 い に マ イ ク ロ フ ィ ル ム が 作 製 さ れ て い た の で,閲 6マ イ ク ロ の 右 上 半 分 が 判 読 で き な か っ が,大 覧 が可 能で あ る。 阪 教 育 大 学 山 田 勝 久 教 授 に 指 導 を 受 け 「認 」 と特 定 した 。 7「 そ さつ 」 と 読 む 。 マ イ ク ロ が 不 鮮 明 で あ っ た が,山 田 教 授 に指 導 を 受 け 「鑛 擦 」 と特 定 し た 。 8神 戸 新 聞 社,『 神 戸 新 聞 五 十 五 年 史 』,昭 和28年7-12頁 9斎 藤 弔 花,『 独 歩 と 武 蔵 野 』,晃 文 社,昭 治 三 十 五 年 」 同 三 十 七 年 の 三 年 間,私 職 が 確 認 で き る 。 ま た,弔 、, 和17年,269頁 に は,当 時 の 原 稿 料 に つ い て,「 以 上 は 明 が 金 港 堂 に 在 社 当 時 の もの で あ る 。」 と あ り,弔 花 の 金 港 堂 在 花 は 『婦 人 界 』 第 二 巻 第 一 号(明 治36年1月)に 「改 巻 の 辞 」 を 書 い て い る こ と か ら 金 港 堂 で は 『婦 人 界 』 を 中 心 に 雑 誌 記 者 と し て 活 動 した と考 え ら れ る 。 10前 出 『神 戸 新 聞 五 十 五 年 史 』,年 表4頁 11明 治40年12月 新 聞記 者 12弔 の 『大 家 庭 』第3巻 第1号,3頁 に よ る 。高 等 女 学 講 義 講 師 と して,「 文 章 東京 日々 林 市 『田 山 花 袋 宛 書 簡 集 一 花 袋 周 辺 百 人 の:書簡 一 』,平 成8年,109頁 の人物 斎 藤 弔花 」 の 名 前 が あ る。 花 に つ い て は,館 紹 介 に 詳 し い 。 以 下 引 用 す る 。 「斎 藤 弔 花 は,明 家 。 三 十 四 年 上 京,国 木 田 独 歩 を 知 り,親 治 十年 大 阪 府 に 生 れ た 。 新 聞 記 者 ・小 説 家 ・随 筆 灸 し た 。 金 港 堂 在 籍 中 は,『 青 年 界 』 『文 芸 界 』 な ど の 雑 誌 に 独 歩 の 作 品 を 仲 介 し た 。 後,『 独 歩 と 武 蔵 野 』(昭19・9晃 18・3小 聞,関 学 館)を 西 日 報 な ど を 歴 任 した 。 晩 年 は,夫 五 年 没 。(中 略)独 東,花 13「 残 して い る 。 三 十 六 年,独 袋,弔 歩死後の 歩 の 弟 の 収 二 の 招 きで 神 戸 新 聞 に 移 り,東 京 日 日新 人 と共 に 精神 薄 弱 児 の 愛 育 の た め に尽 力 した。 昭 和 二 十 『欺 か ざ る の 記 』(明4]左 西 園 寺 時 代 の 独 歩 」(『国 木 田 独 歩 全 集10』,学 園 専 候 の 宅 へ 往 き,自 習 研 究 社s平 16牧 交 」 の 意 味 は,春 ロ は,明 治35年 の 霜 の 日 に 斎 藤 を 訪 れ,数 林 雄 吾,『 立 憲 政 友 会 史 治35年1月14日 第1巻 中 央 気 象 台 月 報 』 中 央 気 象 台,明 上,115,109頁 はs1月23日 25明 に よ れ ば,明 正13年,130-134頁 治36年 に よ る 。 治35年1月 に 東 京 に 霜 が 降 りた 日 は,23日 あ る。 夜 半の 平 均 気 温 が 象 状 況 か らElに ち の 特 定 は で き な い 。 し か し,特 に寒 さが 厳 しい の か ら27Elで あ る 。 牧 口 先 生 御 伝 記 特 集 」,『大 白 蓮 華 』 創 価 学 会,第12号,昭 和25年11月,14頁 ロ は 斎 藤 が 金 港 堂 に 就 職 す る 以 前 に 勤 務 して い る 。 斎 藤 が 就 職 した 月 を 特 定 で き れ ば,牧 同 窓 会 雑 誌 』 第23号,同 治42年1月28日 付,牧 志 教 育 会,明 口が 藤 が金 港 堂 に就職 した 月 は不 明 で あ る。 治34年,37-38頁 に よ る。 口 を富 士 見 小 学 校 教 貝 任 用 す る 際 に 東 京 市 長 尾 崎 行 雄 か ら東 京 府 知 事 阿 部 浩 に提 出 さ れ た 牧 口 の 履 歴 書 に よ る 。 26同 付 』,立 憲 政 友 会 史 編 集 部,大 就 職 し た 時 期 を よ り正 確 に 絞 れ る が,斎 24『 あ た る 。 牧 口 が 訪 問 した の は こ の 下 宿 で あ る ・ 付 零 度 以 下 の 日 も12日 あ り,気 23牧 に お い て 弔 花 は 「独 歩 日後 に も う 一1斐斎 藤 を 訪 ね て い る ・ 最 初 の 訪 問 は,2 諸 星 の 動 静 」,『 日本 』,明 治35年1月1[1,同8日 19小 22「 成7年)265頁 の 数 日前 よ り更 に 以 前 で あ る 。 上,明 21同 村江 と 夏 の 境 目 と捉 え る の で な く,蓉 夏 頃 に 会 っ た と い う 意 味 で は な い だ ろ う か 。 18同 20『 集 の 際 に も,田 象 協 会,『 東 京 都 の 気 候 』,昭 和32年,418頁 月8日 17「 文 館)編 分 は 西 園 寺 家 の 裏 の 井 田 と 云 ふ ド宿 に 引 移 る こ と と な っ た 。」 と述 べ て い る 。 神 田 区 駿 河 台 南 甲 賀 町8/2に 15「 久 良 書 房,隆 花 の 三 人 が 実 務 に 当 た っ た 。(後 略)」 =iは家 の 都 合 で,西 14気 文 社)『 国 木 田 独 歩 と其 周 囲 』(昭 上 一57一 上京 後 の 牧 口常 三 郎 と 『人生 地 理 学』 出版 に至 る経 過 27『 年 譜 牧 口 常 三 郎 ・戸 田 城 聖 』・ 第 三 文 明 社 ・ 平 成5年 では, .養 父 善 太 夫 死 去 の た め,牧 ロ は 「葬 儀iの た め 荒 浜 村 に 帰 省 」 と あ る が ・ 「北 海 道 毎 日新 聞 」 明 治32年8月8日 付6面 に は ,牧 口 と妻 ク マ の 父 牧 口 熊 太 郎 の 連 名 で 札 幌 市 内 で 善 太 夫 の 葬 儀iを行 い ,8日 正 午 出棺 とい う死 亡 広 告 記 事 が 出 て い る 。 養 父 母 は 明 治32年 に は,札1幌 に い た の で あ る 。 28『 無 冠 の 栄 光 』,曽 根 松 太 郎 氏 教 育 奉 仕 三 十 年 祝 賀 会,昭 29金 和5年,229-236頁 港 堂 の 各 雑 誌 の 創 刊 は 以 下 の 通 り。 『少 年 界 』 明 治35年2月,『 月,『 軍 事 界 』 同5月,『 青 年 界 』 同7月,『 婦 人 界 』 同7月 文 芸 界 』 同3月 30『 教 科 書 事 件 』,特 報 社,明 31『 人 生 地 理 学 』 書 評 掲 載 紙 誌 は 以 下 の 通 り。 〈 新 聞 〉 ① 帝 都 書 籍 新 報:36年10月10日 36年10月19日 出 国(や 治36年,96-97頁 ③ 二 六 新 報:36年10月19日 ま と)新 聞:36年10月19日 10月23日 ⑩ 日本:3G'1110月23日 ロ新 聞:36年10112G1=1(読 ⑪ 東 都 日報:36年10月23日 書 社 会 欄),36年11月3日 く 雑 誌 〉① 地 学 雑 誌:36年10月15日 社):36年11月1日 ④ 日 本 人(政 『人 生 地 理 学 』 を 歓 迎 す 」 と い う2頁 評 論:36年12月31」 ⑬ 教 育 時 論(開 〒}∫ 界:42イFl=111i(G)言 32明 治41年10月 ⑬ 大 阪朝 ⑮ 毎 日 新 聞:36 ⑬ 読 売 新 聞:36年12月15日 京地 学 協会主幹小 川 琢治 に よる長 文の批 東 京 経 済 雑 誌:36年10月24日 ⑤ 教 育 学 術 界(同 ③ 実 業 之 日本(実 業 之 日本 文 社):36年11月5日 海 道 教 育 会):36年11月25日 ⑥ 慶応 ⑧ 歴 史 地 理:36年12月1 の 書 評 。 「楓 」 の 署 名 が あ る 民 教 育 社):36年12月15日*新 快 事 」 と紹 介 ⑪ 文 庫:36年12月15日*論 ⑥ 日 ⑨ 人 民:36年 ⑫ 東 京 日 日 新 聞:36年10月28日 ,37年1月15日(東 ⑦ 北 海 道 教 育 雑 誌(北 1f⑩ 日本 之 小 学 教 師(国 ⑧ 萬 朝 報:36年10月21日 ⑭ 東 京 朝 日新 聞:36年10月27日 教 社):36年11月5日 ② 報 知 新 聞: ⑤ 時 事 新 報:36年10月21日 ⑰ 大 阪 毎 日 新 匠挺:36年12月8日 正 増 補 版 の 紹 介)② 義 塾 学 報:36年n月14日 口*「 ④ 率lll戸 新 聞:36年10月20日 σ)都 新 聞:36年10月20日 年1ユ月!2日 ⑯ 平 民 新 「 粥:36年11月22日 評),42年1月15E=i(訂 ,『 少 女 界 』 同4 。 。 ⑨ 帝 国 文 学:36年12月10 刊 書 紹 介 と は 別 に 人 生 地 理 学 「出 版 界 の 一 大 評 欄 で 小 島鳥 水 が長 文 の批 評 ,後 鳥 水 の 全 集 に 収 録 ⑫ 独 立 ⑭ 東 亜 の 光(舎 身 庵):38年3月15日 ⑮教 発 ネi:):37年3月5日 売諄}:界(冨'Ill,曳}):36イ1三10/1115日 に 『人 生 地 理 学 』第8版 改 訂1甑1}が 出 版 され て お り ,こ の 改 訂 増 補 を 紹 介 批 評 した 。 。 「金 催 」 と 署 名 が あ り,曽 根 松 太 郎 が 書 い た も の で あ る 。 33牧 口 は,『 教 育 界 』の 誌 ヒ座 言炎会 「教 育 茶 話 会 」に 明 治38年4月 以 降 準 レギ ュ ラ ー で 参 加 して い る 。 教 育 茶 話 会 に つ い て は,前 出 『無 冠 の 栄 光 』 に 収 録 さ れ た 曽 根 松 太 郎 著 「回 顧 三 十 年 」 中 の 「大 日 『教 育 界 』 第8巻 本 教 育 団 一一 第3り ・82-83頁 教 育 茶 話 会 」 に 詳 し い 。 要 約 す る と,明 治38年 新 春 ,曽 根 が 教 育 茶 話 会 の 設 立 を 思 い 立 っ た 。 教 育 に 関 して 興 昧 の あ る 各 ノ11」11の 人 々 が 茄 会 合 し,教 育 上 の 問 題 に つ い て 茶 話 を 試 み よ う と い う趣 旨 で,佐 々 醒 雪,樋1コ 勘 次 郎 に は か り,矢 野 太 郎,山 本 信 博,棚 橋 源 太 郎,寺 家村和 介, 松[日茂,佐 々 木 吉 二-三 郎,立 柄 教 俊,Il∫ 川 源 三 の 賛 成 を 得 て ,明 治38年2月11日 を 第 一一回 と し て 毎 月 一回11口 に 開 催 す る こ と に な っ た 。 会 員 に は,そ の 後,小 谷 栗 村 ,牧 ロ 常 三 郎,石 川 半 山,峰 問 信 吉,藤 原 喜 代 蔵,f;t-1田 升 太 郎,伊 藤 房 太 郎 が 新 た に 参 加 し,明 治43年7月11日 の 第45回 ま で 継 続 し た。 34行 〔r直 島 『勲奪ラ 己 正0)栄)も』,236∫ ご 35前 出 『教 科 書 事 件 』 に よ る 。 36岡 本 の 北 海 道 師 範 学 校 校 長 在 職 は,明 治32年6月28日 か ら 明 治33年1月19日 に休 職 に な る ま で の 7ヵ 月 。 『北 海 道 札 幌 師 範 学 校 創 立 満10年 記 念 録 』,同 校,大 正15年,7-8頁 。 37前 出 『無 冠 の 栄 光 』,190頁 に 「明 治36年4月28日 金 港 堂 に大 改 革 が行 われ ,編 集 部 の 森,岡 鹿 取,池 田,石 橋 諸 氏 退 社 。」 と あ り,岡 本 常 次 郎 も こ のII寺に 退 社 した と思 わ れ る 。 38「 某 卒 業生 」 が 誰 で あ る か不 明 。 牧 口 と岡期 卒 業 の鈴 木禮 太 郎 の 名前 を上 げ て い る こ とか ら 人 も鈴 木 を 知 っ て い る の だ ろ う。 同 期 ま た は 近 い 期 で ,締 一58 本, ,受 取 め 切 り間際 の 入 稿 で あ る か ら同窓 会 雑 誌 創 大 教 育 研 究 第11号 編 集 者 に も近 い 人物 か も しれ な い。 39『 同 窓 会 雑 誌 』 は,明 治30年 か ら36年 に か け て,第1号 20日 発 行 の 後 継 誌 『師 友 』 は 原 稿 〆切 を1月15日 40牧 か ら 第33号 ま で 発 行 さ れ た 。 明 治37年2月 と し て い る。 口 が 文 検 地 理 科 に 合 格 し た 明 治29年 の 地 理 科 試 験 委 員 は ・ 後 藤 牧 太,坪 野 ロ 保 興 の4人 井 九 馬 三,神 で あ る。 佐 藤 由 子 『戦 前 の 地 理 科 教 師 一 文 検 地 理 を探 る 』,古 今 書 院,昭 頁。 41「 範 学 校 在 職 中 の 明 治33年 の 初 夏 で は な い と考 え た 。 当 時 ・ 牧 口 は ・ 『北 海 道 教 育 雑 誌 』 の 編 集 主 任 で あ り,同 た,8月16日 私 用 で,初 年7月27日 た(明 に北 海 道 師 範 学 校 の 簡 易 科 の 卒 業 式 が 行 わ れ て い る・ ま よ り北 海 道 教 育 会 の 夏 期 講i習会 も10日 聞 に 亘 っ て 行 わ れ て い る 。 こ の 年 ・ 出 張 で な く, 夏 に 上 京 す る こ と が で き る だ ろ う か 。 た だ し,後 か ら で は な か い も し れ な い が,坪 述 す る よ うに ・牧 ロ は ・上 京 後 ・ 最 初 井 の 近 所 に 住 ん で い る 。 明 治34年 に 上 京 す る 以 前 か ら面 識 が あ っ 治33年 初 夏 に は じ め て あ っ た)可 能 性 も完 全 に 否 定 で き な い 。 治41年 に 出 版 さ れ た 『人 生 地 理 学 』 改 訂 増 補 版1121-1]22頁 た 役 割 に つ い て は,更 43牧 和63年,41 ・, 三 年 前 」 は,師 42明 保 小 虎, 口 は,福 に研 究 の 必 要 が あ る 。 沢 に つ い て,明 治38年 か ら 『教 育 界 』 に 連 載 さ れ た 「教 育 茶 話 会 」 の 発 言 で ・ 二 度 触 れ て い る 。 牧 口 常 三 郎 の 全 集 に 掲 載 さ れ て い な い の で,長 田 区 淡 路 町 實 亭 で 開 か れ た 第4回 ロ は,「(前 略)抑 で 紹 介 さ れ て い る・ 坪 井 の 果 し 文 だ が 紹 介 す る 。 明 治33年5月11日,神 教 育 茶 話 会 は,「 教 育 の 意 義,青 も 教 育 の こ と は,父 年 男 女 の 交 際 」 を 話 題 と した・ 牧 兄 の 希 望 を 顧 ん で も 一ti_11.い で あ ら う か,顧 か,一 一般 多 数 の 需 要 を顧 な い で も 宜 い だ ら う か,こ み る必 要 は あ る ま い れ が 私 の 疑 問 で あ り ま す 。 尤 も,父 兄 の希 望 を 入 れ つ ・ も少 し く其 の 意 味 を 限 定 す る 余 地 は あ る ん じや な い か と云 ふ 議 論 も あ り ませ う が,兎 個 人 的 と 社 会 的 と に 分 け る と,父 に よ る と 斯 う な る,教 兄 の 方 は個 人 の 限 定 で あ つ て 入 れ る必 要 は な い が ・教 育 学 説 の み 育 の 学 説 に 就 て は,世 生 活 問 題 に 就 て 苦 悶 す る,ド の 中 の 最 も進 化 した こ とを信 じて 居 る学 者 が ・ 矢 張 り ウ し た ら宜 い だ ら う と,斯 う 云 ふ こ と は 立 派 な 教 育 大 家 で も・ 自 分 の 子 供 に な る と教 育 以 外 に 於 て 生 活 問 題 に 顧 慮 す る,少 つ て 生 活 の 素 地 を 求 め る か と云 ふ と,素 金 とか 銀 と か 云 ふ もの を,片 は,生 と思 ひ ま す,樋 口(注:出 く も生 活 問 題 と 云 ふ こ と に 迄 及 ぶ ・ 此 所 に 至 地 で は あ る が 今 の や り方 は 鉄 に 鋼 を 加 へ る の で な く し て, 寄 つ た も の を 包 み つ ・あ りは せ ん か,現 活 問 題 に 遠 ざ か つ て,地 に角 金 以 上 に な つ て 居 る,私 席 者 の 樋 口 勘 治 郎)先 は,生 在 の 教 育 に 養 は れ て 居 る生 徒 活 問 題 を加 へ た地 金 に して 行 きた い 生 の社 会教 育 主 義 も人 れ 福 沢 先 生 の独 立 白尊 も入 れ て,独 立 自尊 以 上 の 人 間 を 作 る と 云 ふ 意 思 で や つ た な ら ば,立 派 な 教 育 が 出 来 や う と思 ふ の で す 。 また,明 治39年2月11日,ネ ・ 田 区学 士 会 で 開 か れ た第 魍 ら言 ふ こ とは 別 と して 現 在 の 私 共 の 端 か ら見 る と激 鞭 精 含 で1よ・牧 叫1 育 上 の 中心1召 題 は,姉 、 「鞘 牲 ∫に して 怠儲 か をオ 改 藩 か とい 藩、ε とであ 為ふ と存 已ま寺 。」 と して,「(前 略)此 点 か ら して今 の学 校 を何 うす るか とい ふ と,.;1i.1Uと る,半 い ふ もの が 本 当 の 正 し い 理 に 合 つ た も の で あ る ま い か と 思 ふ,半 日は学 校 に 行 か れ 日は 自分 の業 務 に就 かせ る即 ち そ れ で あ る。 近 来 学 校 で 実業 教 育 とい ふ こ とを 八 釜敷 言つ て 居 る が,実 際 見 る と や は り実 業 と い ふ 学 校 は 子 供 を 遊 ば し て 置 く の で あ る か ら,実 業 とい ふ の を本 統 に や る な ら ば 半 日 は 遊 ば して 父 兄 に 世話 を 焼 か せ る に 限 る 。 自 分 の 子 を 其 所 へ 預 け る,骨 を折 る か ら して 遥 か に 実 業 教 育 に 稗 益 を 与 へ る こ と で あ ら う と思 ふ 。 さ う 云 ふ 風 に す る な らば 神 経 衰 弱 の 者 を 絶 つ こ と が 出 来,予 防 す る こ とが 出 来 る だ ら う と思 う。 嘗 て 故 の 福 沢 翁 が 今 の 学 校 は 生 き た 子 供 の 捨 処 と い は れ た こ と が あ つ た か と記 憶 し て 居 る。 翁 は 自 分 の は 子 息 を ば 日 本 の 学 校 に 入 れ な い で,外 国 に 留 学 さ し た とい ふ こ と で あ る 。 そ の 当 時 教 育 家 は 一 笑 に 附 し て 耳 を 傾 け る も の も な か つ た け れ ど も,今 考 へ る と神 経 衰 弱 の 患 者 を 養 成 す る と警 ま し め た る 言 で 多 少 理 屈 に 合 ふ も の で あ る ま い か と考 へ る の で あ り ま す 。」 と述 べ て い る 。 『教 育 界 』 第4巻 一59一 第8号,57-58頁,同 第5巻 第5 上 京 後 の 牧 口常 三郎 と 『人生 地 理 学 』 出 版 に 至 る 経 過 号,59-61頁 44「 創 価 教 育 学 体 系 』 で は,2ヵ 社,64頁,202頁 45斎 所 尾 崎 に つ い て 触 れ て い る 。 牧 口 常 三 郎 全 集 第 三 巻,第 。 藤 正 二 が ・ 尾 崎 に 言 及 し て い る の は,全 頁 ・ 『教 育 学 部 論 集 』 第26号,創 集第一巻 価 大 学 教 育 学 会,昭 『人 生 地 理 学(上)』 和64年,106-112頁 46牧 口 常 三 郎,「 ヴ ェ ス ヴ ィ ア ス 山 のII貞 火 」,『先 世 』 第7号,明 47当 時 ・ 志 賀 は,麻 48大 正5年 の 補 注370,404-407 。 治39年,18-26頁 布 区 霊 南 坂 町34番 地 に 住 ん で い る 。 『赤 坂 区 史 』,昭 和16年 ,1338頁 に 初 版,大 正15年 発 行 の378版 を 参 照 し た 。 49『 人 生 地 理学 』 序 50『 人 生 地 理 学 』 例ri 51大 三文 明 正9年 上 京 以 降,牧1-1に 師 事 し,『 創 価 教 育 学 体 系 』 の 発 刊 に 尽 力 す る 。 昭 和26年 ,創 価 学 会 第 二二代 会 長 と な る 。 52妙 悟 空(戸 田 城 聖),「 入 間 革 命42」,『 聖 教 新 聞 』,昭 和27年6月20日 53『 東 京 書 籍 商 組 合 史伝 記 集 覧 』,青 裳 堂,昭 和53年 に よ る 。本 書 は ,大 正 元 年 刊 の 印 影 版 。153-154 付 頁。 54『 大 衆 人事 録 第10版 』s帝 国 秘 密 探 偵 社,昭 和9年 及 び前 出 『東 京 書 籍 商 組 合 史 伝 記 集 覧 』 ,226 頁 に よる。 55明 治39年 の 『東 京 書 籍 商 組 合 図 書 総 目録(第3版)』 い る・(掲 載 順)牧 口 常 三郎 『人 生 地 理 学 』(36年10月) 安 藤 勝 一 郎 編 『英 文 学 叢 誌 遜(37年2月),檜 論 』(39年3月),藤 『教 科 日誌 56生 山鋭 編 ,妻 木 直 良 『霊 魂 日本 地 理 』,同 は出版 年 月が 判 明 した もの を 会 堂 が 発 行 所 と な っ て い る 『経 済 学 講i話』 が36年3月 に 出版 され て い る の 生 地 理学 が文 会堂 の 最 初 の 出版 とは いえ な い。 沼 は,『 創 価 教 育 学 体 系 』 出 版 時 に は,冨 出 版 さ れ た 。 戸 田 城 聖 も,そ 革 命42」,昭 で は,生 山 房 の 支 配 人 を し て お り,そ の 冨 山 房 を発 売 所 と し て の 出 版 を 最 も喜 ん だ 人 物 の 一 人 と し て 生 沼 を挙 げ て い る。 前 出 「人 間 和27年6月20日 『人 生 地 理 学 』 は,明 第9版 『対 外 日本 歴 史 』(37年6月) 沢 藤 房 編 『東 京 市 街 及 附 近 明 細 地 図 』,牧 口 常 三 郎 『教 科 日 誌 永 館,文 付。 治41年 の 訂 正 増 補 第8版 沼 の 名 は あ る が,「 発 売 所 ま で は,発 売所 冨 山 房 と な っ て い る が ,明 冨 山 房 」 は な い 。 明 治42年11月 よ り44年11月 は『 一桂 旛 亨山 房 を 離 れ て 仕 事 を して い る 。(前 出 『東 京 書 籍 商 組 合 史 伝 記 集 覧 』,226頁)そ 係 が あ る か 。 ま た,印 弘文 堂 58明 刷 所 も,明 三 島 宇 … 郎,明 43年 の 同 第9版 57『 掲 載 して ,足 利 義 山等 選 定 『真 宗 聖 典 』(37年4月), 外 国 地 理 』,佐 村 八 郎 『日語 新 辞 林 』(39年6月)()内 記 し た 。 尚,寳 で,人 に は r文 會 堂 が 発 行 した 書 籍 を9点 は,牛 治41年 の 訂 正 増 補 第8版 込 区 榎 町7番 角 川 日 本 地 名 大 辞 典13』,昭 治35年1月15日 治36年 の 増 刷 か ら 明 治40年 の 第6版 地 は,京 は ,神 橋 区西紺屋町 治43年 の ま で ,生 の こ と と関 田 区 表 神 保 町2番 秀 英社 沼 地 太 田 音 次 郎 ,明 治 日清 印 刷 株 式 会 社 と な っ て い る 。 和53年,301頁,お 付 『読 売 新 聞 』2面 よ び,『 本 郷 区 史 』,昭 和12年,1187頁 「往 来 」 欄 に ,「 ▼ 地 方 官 の 上 京 谷 伝 氏 は 十 こ二日 上 京 本 郷 区 追 分 町 三 十 番 地 奥 井 館 へ(中 明 治36年 の 「史 学 会 職 員 会 員 姓 名 録 」 に よ れ ば,追 略)投 台 湾総 督 府 医 院 書 記 官 古 宿 せ り」 と い う記 事 が あ る 。 ま た , 分 町30に は 奥 井 館 以 外 に 冨 士 見 館 も あ っ た こ と が わ か る。 59前 出 『本 郷 区 史 』,744-748頁 60『 牧 口 常 三 郎 全 集 』 月 報1で,渡 曲 ・牛 天 神,本 郷 元 町,牛 辺 力 は,「 北 海 道 よ り上 京 以 来 十 年 。 江 戸 川 ,根 津,小 込 原 町,戸 石 川,大 山 ケ 万1(等,転 々 と居 を移 さ れ 落 着 け る と こ ろ も な か っ た よ う で あ る 。」 と述 べ て い る 。 一 一一 一60一 創大教育研究 第11号 61前 出 「大 白 蓮 華 」,14頁 62評 伝 作 家 弔 花 の 視 点 を 表 現 し た 一 文 が あ る 。 吉 川 龍 子 は,弔 の 解 説 で,「 弔 花 は 同 書(注:『 花 の 『萩 原 タ ケ 子 の 生 涯 』 の 復 刻 版 家 庭 に 活 く』)の 中 で,『 私 は む し ろ 人 に知 られ ず 静 か に 墓 に 下 っ た 多 く の 丈 夫 や 女 傑 が 今 日の 日本 を 下 か ら盛 上 げ た も の で あ る 』 と 云 い,次 に は 『社 会 の 蔭 に 力 強 い 活 き方 を して くれ た 』 あ る 教 員 の 記 録 を 書 き た い と述 べ て い る 。 こ う し て み る と 弔 花 は,社 会の表 面 に 華 々 し く出 る こ と は な く と も 生 涯 を ひ た す ら に 堅 実 に 生 に 抜 い た 人 物 に 魅 力 を感 じ,萩 原 タケ 子 も そ の 一 人 と して 選 ん だ の で は な い か と考 え ら れ る 」 と述 べ て い る 。 63『 創 価 教 育 学 体 系 』 第3巻,創 予 等 二 人(注:幸 徳 秋 水,堺 価 教 育 学 会,1昭 和7年,15頁 利 彦)専 ら之 に 任 じ,庶 。 週 刊 平 民 新 聞 創 刊 号 に は,「 編 輯 は 務 は挙 げ て社 会 主義 協 会 の 一 員 山根 吾 一 君 に 任 せ り」 と あ る 。 64明 治36年11月22日 付 『平 民 新 聞 』 に 掲 載 さ れ た 。 65岡 林 伸 夫,『 あ る 明 治 社 会 主 義 者 の 肖像 山 根 吾 一 覚 書 』,不 二 出 版,平 一61一 成12年