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エルサレムの発掘

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エルサレムの発掘
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エルサレムの発掘
山崎, 保興
基督教学 = Studium Christianitatis, 13: 114-124
1978-09-14
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/46352
Right
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article
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13_114-124.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
エルサレムの発掘
山
発掘前史⋮⋮⋮発掘初期i一⋮第一次大戦後の発掘調査−⋮一第二次大戦後の発掘調査⋮⋮⋮六田戦争後の発掘調査
は じ め に
興
エルサレムにおける最初の科学的調査は、一八二四年め伽毒目窪幻○げぎの○類によって為された。 作業は地誌学的観
発 掘 前 史
の補いの意味をもこめてこの一文を献ずる次第である。
に関する見聞を紹介するにとどまったが、前後の歴史的脈絡等についても全く触れなかった。今回この機会に何程か
割を果せるはずもなく、結果は甚だ意に満たないものであった。結局ごく限られた範囲、神殿山周辺とオペルの一部
国して間もない頃で多少の気負いが残っていたからでもあろうか。せいぜい考古学のABCを学んだ程度で充分な役
全く素人であるにもかかわらず醜会長秋細面氏の発意による理事会の要請を敢て受けたのは、当時イスラエルから帰
一九七六年秋﹁聖書考古学と現代の課題﹂と題する本学会公開講演が行われ筆者がその責を負った。この方面には
保
察に基づきつつ聖書学的歴史学的考察を加えて行われたが、その重患の注意は専ら旧市内及び神殿山周辺に注がれ
一 114 一
崎
た。地表にあらわれた限りの遺跡・遺物に関する記録やスケッチが残され、後継者たちに最初の手がかりを残した
点、この作業の意義は大きいが、今碍﹁ロビンソン・アーチ﹂と呼ばれるものはこの時の業績の記念である。次いで
一八六四年Oぴ⇔匡Φω芝生8によって最初の全面的試掘調査が行われ、エルサレム旧市の正確な地図が刊行された。
その業績は今日﹁ウィルソン・アーチ﹂と呼ばれるものによって記念されている。 以上がエルサレムにおける発掘前
史とも言うべきものである。
髭 掘 初 期
を一一ω8の後継者O訂匹Φ。。妻胃器口は最初の本格的発掘作業を一八六七年に開始し、古代エルサレムの防壁線を先
ず確定しようと試みた。神殿山囲壁沿いに、その東・南・西に縦横に坑道を掘り進めた結果、神殿山南東の一角にオ
ペルの城壁を発見した。長さ二三〇米に及び東の丘東側斜面最上部に達するこの遺構を、彼は全体として第一神殿以
後のものと判断したが、少くともその最も古い部分はエブス人の町、ひいてはダビデの町に属するものと確信した。
この妻⇔冥Φ⇒の作業は考古学者たちの目をいっせいにこの東の丘一帯にひきつけた。西にテユロペオンの谷、東にケ
デロンの谷、両者がシロアムの池のあたりで合流し、北に神殿山が位置して長三角形の地形をなしている。一八八
一年、Ω費旨。簿−QQ霧Φ窪と鵠.O仁昏Φは、今や考古学的にも﹁ダビデの町﹂と通称されるようになったこの地域の
東側斜面にエブス人の防壁線を発見した。
芝葭H魯はまたオペルの東側山腹に一つの縦穴を発見した。今日﹁ウォレンの縦穴﹂と呼ばれるものである。これ
は長年にわたってオペルの要害を占拠していたエブス人の給水源を示し、ダビデが最初にその城塞を攻暑した時の侵
入経路を推測させるものとして注隆された︵サムエル記下、五隔八︶。更にこれとの関連においてギホンの泉から﹁ダ
ビデの町﹂の南端シロアムの池に通ずる地下水路も発見された。今日﹁ヒゼキヤのトンネル﹂と呼ばれているもので
一 115 一
ある︵列王記下、 二〇・二〇︶。 一八九四∼九七年、司■8しd房ωと︾●O■Oざ冠⑦はシロアムの池付近、テユロペオン
の谷の開ロ部にダムの跡とこれを支える大規模な防壁遺構を発見した。エルサレム全市中最低部分に当る地点であ
る。以上はイギリスの勺巴窃甑pΦ同巷δ鑓甑8司塁山の後援によるものであるが、これとは別に、フランスのドミニ
コ会神父で現地の図ooδ傷①じd笹冨ρ器の主宰者い■国.<ヨ8口によるアントニア要塞遺構の発掘調査も先駆的業績と
して忘れてはならない。ただ今回はく貯Oo︸o民○銘沿いの今巳著名な諸遺構については割愛し、専ら神殿山以南に関
心を向けたい。
第一次大戦後の発掘調査
何といっても艮覚ましいのは第一次大戦後の発掘成果である。いうまでもなく長年にわたるトルコ支配から脱して
イギリス委任統治下に入ってから、世界中の考古学者の視線は、遺跡の宝庫ともいうべぎこの地に集中した。次々と
多くの現地研究所が開設されてゆくが、最も著名なのは芝・男≧稟請窪を長とする跨ヨ①艮。糞。口ω警Ooδo︷○臨①簿巴
口①器口無であり、一九二三年以降エルサレム漏市内における調査活動の中心となった。ゆ周置。。ン勺巴①ω笥⇔①図区篭○同摯
瓢○⇔切E嵐は、既に早く一八六七年に翻身され、前記≦誌。⇔や鼠輩毒⇔の作業を支えたものであったが、これまた
面鼠を一新し、主としてオペル丘陵地域での作業に力を注いだ。
ここで忘れてならないのはヘブライ大学の創設である︵⋮九二五︶。 スコプス山上、遥かにユダの荒野を超えてエ
ボムの山々と死海の水面を眺望するその一角に、今日も考古学研究所を含むヘブライ大学第ニキャンパスがおかれて
いるが、ここから国。H卜ω包︵2島犀を始めとする多くの指導者が現われた。 ハゾルやマサダの発掘で知られる紹薦鋤9
くaぎはω巳︵玉斧の息、霊示その膝下にあって薫陶を受けた生粋のイスラエル考古学老である。今臼では現地におけ
る発掘作業は完全にイスラエル考古学協会とヘブライ大学考古学研究所の主導権下におかれていると言っても過言で
一 116 一
はないであろう。彼らによるエルサレムでの具体的作業としてはじd■ζ舜。N舘指揮下に現在進行中の神殿山周辺のそれ
を第一にあげねばならないが、これは後段の課題である。
さて前記℃巴Φ。。忌門国×鳳。嵩置。口閃§山の再建第一歩は、即.名①雛︵一九二三∼二四︶、菊.︾’ψζ鷲帥房8巴と
90曾O露量。碧︵一九二三∼二五︶、旨毛.08毒州oo叶と○.ζ.男津Nαq①鑓匡︵一九二七∼二八︶等による﹁ダビデの町﹂
の発掘であった。芝㊦田はその南端部にエルサレム全防壁線の完結部分を発見した。ζ8聾ω3冠とO量。きはオペル
ン時代のエルサレムにおいてもそのまま用いられたものと推定された。更にその上方部分を90埼♂o叶と麟欝σqΦ鑓謹
上部、ギホンの泉の上方に城壁・塔・国士を発見した。これらは元来エブス人の町のものであるが、ダビデ・ソロモ
が掘ったのだが、ここではその遺構の大部分は、 ローマ・ビザンチン時代以前のものではないと判断された。これら
一連の作業結果報告に基づいて、囚.○鋤昌昌σqvO.U巴ヨ国P︸・望月。諺”い・鵠’≦琴窪等が次々と見解を発表し、﹁ダ
ビデの町﹂をめぐる論議はにわかに活溌となった。基本的な問題は古代都市エルサレムの範囲をどう見定めるかにあ
り、この点をめぐって見解は二つに分れる。 一つはこれを狭く解するもので、つまりダビデ・ソロモン時代のエルサ
レムはケデロンの谷とテユロペオンの谷に挾まれた東の丘と、その北方最頂部に建てられた神殿と王の宮殿︵今日の
神殿山とその周辺︶を含む地帯を考える。囚.○龍写αqをはじめ、ドイツの旧約学者︾.︾謬、後に現地の考古学者中
鎧雷鋤が︾鼠ko器ぴ等もこの見解をとる。
これに対し、より広範囲に、即ち前者のそれに加えて西の岡、シオンの山、それと現在の旧市内アルメニア地区、
ユダヤ地区をも含めて考えるのがく汐8口神父を始めU巴ヨ偉。Pωぎ。屋等である。後に閑Φ鵠団。鄭女史の広範な作業
路線によって、この問題は一応の結論を見たと思われるが、この点については後の項で触れることになろう。
この間イスラエルの考古学者たちの作業がこの間題の地点に及んでいないということは今更言うまでもないことで
はあるがある感慨に打たれる。そもそも﹁イスラエルの﹂考古学者なるものはこの時点では未だ存在しなかったわけ
一 117 一
だが︵ユダヤ人考古学老はいても︶、それでもこの間前記ω巳8巴犀はじ︾.窯逸興と共に一九二五∼二七年および
一九四〇年に、旧市北辺において﹁第三城壁﹂線の壁と塔とを掘り出しているし、また今日第一線で活躍している生
粋のイスラエル考古学者たちが、多くこの時期に生れ、育ち、訓練されていることを思わねぽならない。
第二次大戦後の発掘調査
いうまでもなくイギリス委任統治時代が終りを告げ、イスラエル共和国の独立宣喬と同時に現地は狂乱怒濤の時代
に入るのであるから、考古学的作業路線も暫時中正状態となったこともまたやむを得ないであろう。前記厳σq99
楓匙ぎを始め多くの現地の考古学徒たちがハガナの要員として直接戦闘指揮に当った時代である。薄綿ヨはこの第一
次中東戦後の休戦条約締結の時にはイスラエル側の代表としてロドス島に赴き、その後若くして参謀総長の出任を負
うことになる。現地の情勢が徐々に安定に向うと共に、発掘作業も再び活発化してゆくが、エルサレムに関する限り
肝心の﹁遺跡の宝庫﹂がヨルダン領に属しているため現地の考古学徒たちはそれこそ聖誕の思いを以てただ見守る
はかなかった︵優しこの間その他の地点、 例えばハゾル・メギドを始めとする多くの重要地点の発掘調査が行われた
ことをわれわれは知っているのだが︶と思われるが、恐らくその垂誕の最たるものは、一九六一年に開始された囚噸
国①身。嵩女史による広域発掘調査の成果であったにちがいない。 国①尾§の仕事は、﹁ダビデの町﹂に関する考古学
的調査研究に一新紀元を画したものとして今日世界的に知られている。
臨Φ困受。郎はオペル全域から更に神殿山西側周辺地区にかけて数多くの場所を掘り、それを。葺︾∼o巳ωとして整
理した。その成果は彼女自身の手によって公刊されているが、その盤富な内容の全貌をここに紹介することはとうて
い筆者のよくするところではない。ただ若干の点をとりあげてみると・⋮⋮、一つは上記一︶§。§vζ節魯濠8目によっ
て行われた発掘地点の年代が決定されたこと、即ちそれはまちがいなく第一神殿時代のものであって、その時代の終
一 118 一
りにエルサレムの崩壊と共に失われたものであること。従ってその遺構は、捕囚民のシオン帰還時、あるいはハスモ
ソ王朝時代までは年代が下らない、ということである。
次にその地点から更にギホンの泉方向に下る斜面に切り込んだ国Φ鱈8の。三︾は、しぼしぼ岩床に到達し、そ
こから初期及び中期青銅時代の土器が出土し、またギホンの泉の薩上、二五米掘り下げた地底に岩床を渕って厚い壁
を造成して構成された最古の建造物があらわれた。前十八世紀にまでさかのぼるものと推定されたが、この地域でこ
のような古いカナン先住民の遺構が発見されたのは始めてのことであった。そしてこの古い建造物を基礎として、後
にヒゼキア王が甫域を拡大した時に建造された新しい城壁︵高さ五・五米︶の遺構も確認された。闘①弓。降によれぽ
ここで採用された建築工法は、前十四世紀に始まりイスラエル時代全期間を通して用いられたものであって、この
遺構はほかでもない列王年上九・一五に言及されている﹁ミロ﹂と同定される。これによって従来正体不明であった
﹁ミロ扁が日の目を見ることになった。
以上は開Φ亀。コの成果のほんの一端にすぎないが、全体として彼女はエルサレムの元来の姿を、東の丘を基本部分
として専ら東へ東へと拡充されていったものと見なし、東の丘全体と神殿山とを基盤とする古代都市エルサレムの拡
大経過を実証する多くの考古学的証拠を生み出したわけである。作業は一九六七年、六日戦争直後まで継続され、そ
の間西の丘及び今日の﹁旧市扁地域からも多くの新しい証拠を発見した。
六日戦争後の発掘調査
いわゆる﹁六臼戦争﹂の結果東エルサレム地区がイスラエル占領地域に入れられたことによって、現地の考古学者
たちはいつせいに旧市内に入ることができ、問題の地点を実際に発掘.調査する機会を得た。 ︵筆者が現地に滞在した
のはそれから約八年後のことであるから、おおむね各地域の作業が既にその相貌を明らかにしており、この点好都合
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であった。それ以前の段階に現地を訪れた人たちの話しと照合する時いっそうその感を深くする。︶
特筆すべきは先にも触れたω窪す旨ぎζ§賛による神殿山周辺の作業であるが、それに先立ち同じくヘブライ大
学のZ.﹀鼠σq註による照市内ユダヤ地区発掘の事例を紹介しておきたい。彼は専らこの地域のイスラエル時代末期
の建造物遣構を掘り出しているが、最も主なるものは一九七〇年に発見された城壁の都分である。 ユダヤ地区東南
都、東北から西南にかけて﹁上の町﹂を縦貫する方向に走り、長さ約閤○米、幅下八米である。第一神殿時代、それ
も前八∼七世紀のものと推定されている。現在この遺構は完全に新しいビルの地下にかくされており、探し当てるの
に若干苦労する。彼はまた同じ地区の北端、ダビデ通りに面した建物の裏側の空地にイスラエル時代末期の城壁の一
部を掘り出し、そこからバビロン製の鉄の矢じりが出土した。明らかにネブカドネザールによって攻國された晴の城
壁の一部である。 一九七五年、筆者滞在中のことであり、これを聞きつけて薩ちに現地に赴き写真撮影を行ったが、
数日後再度出かけた時は早くも現場保全のための囲いと掩いが施されてあり、改めてタイミングの重.要性を思わされ
たことであった。
さて、いよいよ最後に神殿山周辺発掘計画である。この計画は一九六七年六日戦争直後からイスラエル発掘調査協
会とヘブライ大学考古学研究所の共同計騰として企醐され、鼠爲胃総指揮下に、ζ’じご①㌣窪○︿を現場の総監督として
一−九六噂八年二n月に開始された。
ところで神殿山西繭部及び叢生地域に関する阪り、これは最初の組織的発掘作業であった。発掘区域は神殿山の南
に続くオペル丘陵の上部を含む。占領後の最初の作業地点としてここが選ばれたのは、十字軍時代以降この地帯は大
部分荒れたまま放置され、マムル⋮クやオットウ、ン時代の記念建造物が豊富に残っている郷市街地とくらべて作業が
容易であり、しかもいうまでもなく神殿とダビデの町とをつなぐ最も重要な場所であったからである。この地域の地
形が大きく糠工されたのはヘロデ王国時代であり、 ヘロデが神殿山の東西斜面に土盛りをし、罠大な園壁をめぐらせ
一 120 一
rてこれを支え、神殿域を拡大したことはヨセフスの記述によって知られていた︵﹃ユダヤ戦記﹄︶。この全勝は部分的
に、特に東南及び東南隅においてヘロデ時代そのままに残存している。ヘロデの切右は一様に四辺を少し削り取って
縁とりしてあるので素人臼にもすぐそれと分るが、これらの切石の多くが城壁下部の発掘によって露出したものであ
る。難壁南西隅から西壁に沿って約一二・五米の部分に前掲﹁ロビンソン・アーチ偏があるが、その橋脚も全容をあら
わした。下部に小部屋が四つあり、ヘロデ時代の土器や貨幣が出土したが、この遺構は神殿に参詣する人びとのため
の売店のあった場所と考えられ、そこにイエスの﹁宮潔め﹂の場面を想定することも可能である。
﹁ロビンソン・アーチ﹂の真下を南北に道路が照り、角のところで南壁沿いに東西に走る別の道路につながるが、こ
れは東に向ってフルダ門まで上りつめ、何れも平らな石板で舗装されている。このフルダ門︵二重門︶の南側に保存
状態のよい広大な階段が出土した。これは南のオペルから神殿域に通ずるもので誓約六四米、階段の石板は階段状に
削られた岩床に載せられており、階段の南には舗装された広場の名残りがあった。階段の東側部分からもう⋮つのフ
ルダ門︵三重門︶にかけて南壁沿いに走る通路の南側に、岩盤をくり抜いてしっくいで塗装したプールや貯水槽を備
えた大規模な遺構が発見された。これは神殿聖域に入ろうとする人々が祭儀的な潔めを行う水浴場であったと推定さ
れる。
その他アエリア・カピトリーナ時代の住居・公共建築物の跡やビザンチン時代の僧院の遺構も発見されたが、 特に
後期ビザンチン時代の建造物は良く保存されている。
総括的に言えることは、第二神殿時代のエルサレムが、古いダビデの町と西の丘の一部を中核として成長し、そこ
に捕囚帰還民が定着したこと、エルサレムの急速な発展は前二世紀ハスモン王国の首都となった時から始まり、前一
世紀ヘロデ王国時代に急成長したこと、この勢いにのって居住区も西・北に伸び、前六十六年の大叛乱前夜には膨張
の極点に達し、総面積四五〇エーカーに及んだと推定されること、等々である。
一 121 一
筆者はたまたまエルサレム滞在中︵一九七五∼七六︶この神殿山周辺地区発掘調査計画第二三区の作業に参加する
機会を得たが、この区域は現在城壁の銀側路線から東側路線へと観光道路が急カーヴするそのすぐ内側から道路部分
にかけてであり、道路の真下からは既にエブス人の町の防壁上部が見えていた。期上中筆者が始めて単独で地表から
掘り下げた一壷区画は、下土品や蟻溝の状況から、ヘロデ第二宮殿の厨贋ではないかということであったが、残念な
がらその後の報告書も未だ見る機会がないのではっきりしたことは分らない。この小文にとりかかる前に今一度現場
を再訪してその後の進展状況と調査結果を知る機会を得たいと願ったが果せず残念であった。最近灰聞するところに
よれぽ、昼下作業は全面ストップ状態とのこと。当留筆考の見た計画図表でぱ確か第二五区まであったはずだが、そ
れがいったいどうなったのか、あれもこれも中途半端な見聞で何とももどかしくかつ無責任な結末となってしまった
が、この貧しい報告をこれで終りたいと思う。
参考文献
ヒご,密⇔鑓二 、二ρ㊦濁蓉鶯︿餌ユ。諺貯簿①○匡Ω蔓。出冨窪ω巴①ヨ︵ぎ歪。。巴①pお$﹀■
き昆島8Φ島書一。﹃毯プ覧居。島葭。凱○δσq剛団。ひび。鎧突旨。。箭m巨︵冨凄。・磐δヨ”おδY
じd・試震貸い、二ざ竃雲三翫箒。胤鰹Φぴ。増匹︵冨毒墨δβ這誤Y
O●ゆ巴類二 頃冨ε鳳∩巴︾樽ドも・Oh富毒。。巴①ヨ︵闘2β。・EΦヨ”δ♂︶・
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戸菌窪団〇三 レ唇訂8同。αq嘱一洋ひΦ属。帯ピ鴛︵二ぴ9り︵一〇pおぎ︶.
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