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Kobe University Repository
Kobe University Repository : Kernel
Title
解放された民をとらえて : 戦後日本の外国人の朝鮮人と
台湾人への視線 (<特集>国際ワークショップ「日本在住
外国人コミュニティーの歴史の発見 : 研究・アーカイ
ブス・特別コレクション」)(Capturing the Liberated
Peoples : Foreign Perceptions of Koreans and
Taiwanese in Postwar Japan ( Workshop "Discovering
histories of foreign communities in Japan: Research,
archives and special collections"))
Author(s)
モーリス=鈴木, テッサ / 田村, 恵子 [訳]
Citation
海港都市研究,5:41-55
Issue date
2010-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002110
Create Date: 2017-03-28
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解放された民をとらえて
——戦後日本の外国人の朝鮮人と台湾人への視線——
テッサ・モーリス=鈴木
(Tessa M ORRIS -S UZUKI )
( 訳 : 田 村 恵 子 )
大変がっかりしている朝鮮人
私はこの論文を1点の絵画を紹介することで始めたい。これは、キャンベラのオース
トラリア戦争記念館所蔵の、レジナルド・ロウド(1916 - 1990)が描いた絵だ。彼は、
第 2 次世界大戦中のオーストラリア人従軍画家 35 名のうちの一人だったが、この絵は「仙
崎帰還センターにて。大変がっかりしている朝鮮人」と題されている。この論文は、本質
的にこの絵についてである。つまり大変がっかりしている朝鮮人の絵についてである。
ロウドが仙崎で描いた絵を見
たことがある人はあまりない
だろう。見たことのある人も、
じっくりとは鑑賞はしなかった
だろう。「仙崎」という地名は、
オーストラリア人にはなじみが
薄く、日本人でさえも、日本の
西海岸部にあるこの小さな町の
近くに住む人以外は知らないだ
ろう。ロウドの別の作品である
1946 年冬の制作の「原爆被害
をうけた広島の吹雪」のほうが
すぐにピンと来るだろう。描か
れた対象もわかるし、荒涼とし
図 1 レジナルド・ロウド作「仙崎帰還センターにて。大変がっかりして
いる朝鮮人」
(オーストラリア戦争記念館蔵 ART26738)
て破壊された風景に描かれた石
灯籠の向こうに存在する悲惨な
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海港都市研究
話の一部分を想像できるだろう。
仙崎で泣いている朝鮮人の絵から、そのような連想はできない。この男は日本でいった
い何をしていたのだろうか?なぜ彼は仙崎の帰還センターにいたのだろう?なぜ彼は泣い
ているのか?実際、この問いの答えは、歴史全体に横たわっている。この歴史とは、日本
最大の少数民族である在日朝鮮人、つまり在日朝鮮人コミュニティーの戦後史である。ロ
ウド作の大変がっかりしている朝鮮人のインク画は、私の研究テーマの主要な象徴のひと
つとなった。それはつまり、朝鮮と日本の間の、混沌とした人々の移動である。ロウドの
描いた絵は、その歴史の転換の瞬間をとらえている。同時に、それがオーストラリア人に
よって描かれ、キャンベラにあるオーストラリア戦争記念館に所蔵されているという事実
は、オーストラリアがこの歴史と複雑で予想外の形で結びついていることを現している。
後で説明するように、ロウドの描いた絵は、オーストラリアやニュージーランドや、アメ
リカや他の国々にあるアーカイブスが所蔵する豊富な在日朝鮮人コミュニティー関連資料
の、ほんの一部であるといえる。
しかし、ロウドの描いたがっかりした朝鮮人の絵は、この資料宝庫の問題点を浮き上が
らせてもいる。私はこの絵を見ていて落ち着けない。絵の朝鮮人男性は実在した人で、
(私
が思うに)まだ存命かもしれないわけで、自分の嘆きの瞬間が絵に描かれたことに気がつ
いていたのだろうか。そしてこのように描かれたことをどう思っただろう。また眺める側
にいる私たちは、この絵にどう反応するべきか戸惑う。ロウドは、画面中心に描かれてた
人物に見る側の同情をひきつけたかったのだろうか。それともこの泣いている男は、単に
奇妙で理解できない見世物のように描かれたのだろうか。そして中心人物を取り囲む連合
軍兵士たちの表情を、どう理解したらいいのだろう。その意味でもこの絵は象徴的である。
オーストラリアや他の国にあるアーカイブスに多く存在する日本在住外国人についての文
書や写真や絵画やドキュメンタリー映画を、ただ情報の宝庫として無批判に利用するもの
ではない、という事実を私たちに突きつけている。それらは、ある特定の人々が特有の視
点と先入観に基づいて作ったものであり、そういった資料を研究に使う際、歴史的記録の
創作者とその対象者の複雑な関係の網に入って行くことになる。この網をうまくくぐり、
注意深くほぐさないといけないのである。
それでは、まずロウドの絵から始め、連合軍の占領者と日本の少数民族との出会いとい
う大きなストーリーに話を進めていこう。
ロウドは第一次大戦中にメルボルンで生まれ、メルボルン工科専門学校で学び 、商業
アートに従事をしたあと、政府任命の従軍画家になった。彼は戦争末期の 1945 年 4 月に
解放された民をとらえて
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任命され、ボーゲンビル島に派遣された。そこでは、日本軍の崩壊と捕らえられた日本人
たちの戦争犯罪裁判の開始時期を記録した。彼は 1946 年に日本の英連邦占領軍に合流し、
その直後に吹雪の広島の作品や、仙崎での一連の絵を描いた。ロウドについてのオースト
ラリア戦争記念館の注意書には、これらの絵は特別並外れて興味を引くなにかがあると記
されている。ロウドは勝利した占領軍の立場から日本を観察しているが、敗北した敵を記
録しながらも、それから影響も受けている。時が経つにつれて、ロウドの作風は、20 世
紀中期の戦争画に特徴的な写実主義の油絵から、まぎれもなく日本の水墨画の伝統に影響
されたものに変わっている。ロウドの作品にみられるこの変化は象徴的だ、と私は思う。
戦後の北東アジアでの占領者と被占領者の関係が、それとまったく同じなのだ。つまり両
方が影響を受け変貌するという相互作用が存在したのである。
占領者と被占領者
なぜ、ロウドは日本にいて、さらに 1946 年に仙崎にいたのだろうか?彼の存在はもち
ろん、英連邦占領軍(BCOF)という大きな枠組みの一部分である。英連邦占領軍では、
オーストラリア軍の人員が一番多く、英国、ニュージーランド、インドの軍隊とともに任
務についていた。さらに BCOF はアメリカ軍の日本占領という、より大きな枠組みに組
み入れられている。ここで重要なのは、日本の占領は、さらに周辺地域の占領と連続性が
あることである。アメリカは沖縄や小笠原の島々を占領し、この地域は終戦直後の時期に
日本本土から分離されていた。また日本の旧植民地だった朝鮮は、戦争終了時に 38 度線
でアメリカとソ連の占領地域に分断され、その痛ましい結果が現在も見られるが、南半分
はアメリカが単独で占領していた。もっとも悲惨な結果は、1950 年の朝鮮戦争勃発だっ
た。1953 年まで続いたこの戦争のため、日本占領が 1952 年に正式に終了した後も、オー
ストラリア兵たちは英連邦朝鮮派遣軍(BCFK)に編成されて駐留を続け、名称は変わっ
ても、1957 年まで実質的な基地を日本で維持し続けた。
では、ロウドの作品の主人公であるがっかりしている朝鮮人が、なぜ 1946 年に日本に
いたのだろう。日本が連合国に降伏した 1945 年 8 月の時点で、 2 百万人の元植民地民
だった朝鮮人が日本国内に居住していた。この多くは、戦前に日本の植民地政策によって
悪化した農村地帯の貧しさを逃れて移ってきたのだった。多くが日本の大都市、特に大阪
の小さい工場や作業所で仕事を見つけた。しかし、おそらくその三分の一は、戦争中の労
働者徴用政策によって日本に送られた何百何千という朝鮮人であり、しばしば鉱山や工事
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海港都市研究
現場で過酷な労働条件下で働かされた人々だった。ロウドが描いた「たいへんがっかりし
ている朝鮮人」
がどのようにして日本にやってきたかは知らないが、この絵を見ていると、
おそらく 2 つのうちの最初のグループに属しているのではないかと私は想像する。つまり、
戦争前に移ってきたのだろう。1945 年の中ごろには 、日本に 6 万人の中国人が住んでい
た。
そのうちの半分は中国本土から徴用されてきた人々で、あとの半分は日本の植民地だっ
た台湾から移ってきた人たちである[Vasishth 1997: 131]。現実的に BCOF の日本派兵
の様式は、兵士たち、特にオーストラリア、ニュージーランド、インドの兵士と朝鮮人を、
至近距離で接触させることになった(程度の差はあるが、台湾人や中国本土人たちとの同
様の接触もあった)。BCOF は西日本、つまり日本の西南部と四国に駐留したが、その理
由のひとつは、おそらくアメリカ軍の管理下にあった東京周辺と比べて、この地域が戦略
的にそれほど重要ではないとみなされていたからであろう。しかし、この地域は戦争前と
戦争中に、多くの朝鮮人と中国人が故国に帰るために船に乗り込んだ場所だった。
仙崎は、本州の西南部の海岸に面したひっそりとした漁村で、BCOF のニュージーラン
ド軍の管轄下にあった。そこには深く波の穏やかな波止場があり、日本と朝鮮を行き来す
る船の便利な船着場となっていた。それゆえ、公式帰還を扱う 7 つの港のうちのひとつ
として、博多(福岡)とともに、韓国に帰還する人々の二大出港地に指定された[厚生省
援護局編 2000: 66]。西日本の海岸地域は、後述するが、日本からの解放と 38 度線分断
以降に国を襲った経済的混乱と政治的緊張の高まりを逃れて、多くの朝鮮人が小船で戻っ
てこようとした場所でもある。これらの人々の多くは仙崎に収容され、そこは帰還センター
から非常に問題があり惨めな強制送還センターに急激に姿を変えていった。
問題は、日本に駐留する連合国占領軍が、この少数民族の取り扱い関してまったく準備
不足だったことである。歴史研究家のマーク・カプリオが指摘しているが、アメリカは日
本が降伏する寸前の 1945 年夏に、「日本の在留外国人」処置の準備を始めた。その年の
6 月に書かれた文書によると、アメリカ軍係官は日本にいるほとんどすべての(最も数の
多い在留外国人だった)朝鮮人は、日本の敗戦後すぐに故国に戻るであろうと予想してい
た。この文書からわかるのは、日本人戦争捕虜や朝鮮人捕虜のインタビューから関連情報
を集めた係官たちに、朝鮮人に対しての日本での偏見的イメージがすでに植え付けられて
しまっていたということである。報告書は、植民地民だった朝鮮人に対する日本人の差別
感の蔓延を認める反面、次のようにも書いている。
朝鮮人は、わずかな例外を除いて、社会的地位が低い明らかな少数集団である。(中
解放された民をとらえて
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略)日本人の朝鮮人への態度は、部分的に朝鮮人の特徴に起因している。日本に行く
人のほとんどは非常に貧しく、朝鮮の低水準のうちでも教育や技術がない人々である
[Caprio 2008]。
カプリオが引用している報告書は「日本の在留外国人」と題されているが、この「在留
外国人」という用語が朝鮮人や台湾人を指して使われる際には問題になる。というのも植
民地時代は、国際法によると朝鮮人も台湾人も日本臣民だったからである。彼らが海外へ
行く場合は、日本のパスポートで旅行をした。オリンピックに参加をする場合は、(1936
年のオリンピックマラソンで金メダルを獲得した孫基禎のように)日本のために参加した。
しかし日本在住の朝鮮人と台湾人の国籍に関しての占領軍の政策は、あいまいで自己矛盾
に満ちていた。それは次のような占領軍の指令にも明らかなので、一部分を紹介する。
台湾系中国人(つまり台湾人)と朝鮮人は、軍事的安全が許す限り解放された人々と
して取り扱うようにすることとする。彼らには「日本人」という用語を当てはめないが、
(中略)以前は日本人であったため、必要ならば敵国人として取り扱うこともできる。
(中略)彼らは希望すれば、貴官が設定する規範にのっとって送還できる。しかし、
国際連合加盟国の国民の帰還を優先とする。
この不可解な指令文には、日本に居住する旧植民地人に対しての占領軍当局のあいまい
さが浮き出されている。要は、この人々は占領軍側のリストでは優先順位が低く、どちら
にしてもまもなく故国に戻るだろうから、一時的問題だとみなされていた。
占領者の目から
「解放された人々」に対しての当局のあいまいな態度は、不明確な占領政策を現場で実
行にうつす役目を与えられた一般の連合軍兵士に、予想どおりの結果をもたらした。つま
り兵士たちは、政策を状況に応じて解釈し、その場限りの問題解決に最適の方法をとった
Joint Chiefs of Staff, ‘Basic Initial Post-Surrender Directive to Supreme Commander for the Allied Powers
for the Occupation and Control of Japan’, 3 November 1945, in Government Section, Supreme Commander for
the Allied Powers, Political Reorientation of Japan, Washington DC, US Government Printing Office, 1949, pp.
429-441, 432 頁より引用。
46
海港都市研究
のだった。
つまり竹前栄治がはっきりと書いたように、漠然としてあいまいな占領政策は、
当局側の朝鮮人の取り扱いを「場合によって都合がいいように、日本人として取り扱った
り、外国人として取り扱った」[Takemae 2002: 448]。この現実は、BCOF 所属のオー
ストラリア軍人として、アジア本土との往来のもうひとつの中心地だった西日本の宇品に
駐屯したアラン ・ クリフトンの回顧録に生き生きと描かれている。
クリフトンは、戦争前に日本語を勉強し、宇品の警察で通訳任務についていた。彼は自
身が現実に直面するの国籍問題のジレンマについて、常識的判断を下していた。クリフト
ンの回想によると、ある時彼は帰還待ちの台湾人グループに対処するように呼びだされた。
台湾人たちは、近くの倉庫から砂糖を盗み闇市で売って、乏しい食料を補っていたのだっ
た。
砂糖を差し出し拘束のため出頭すべきだ、とある警官が台湾人たちに要求したが、自
分たちはもう日本人ではないのだから言うことは聞かないとの答えが返ってきた。
(中
略)その警官はすごすごと引き下がり、我々のところへ助けを求めてきた。法律は守
られるべきなので、台湾人たちを逮捕する許可を与えた[Clifton 1950: 129]。
またアラン ・ クリフトンの日本での思い出は、元日本植民地民への占領者の視線の隠さ
れた部分がはっきりとさらされ、居心地悪くなる。占領に関しての彼の話は、全体的には
人情味にあふれ、時にはユーモアもある。彼は敗北後苦労している日本の民間人に、ほど
なく深い同情を感じるようになり、一部の BCOF の同僚の人種差別感や尊大さに嫌悪感
を抱くようになった。彼は勇気を出して、占領下の日本で連合軍兵士による日本人女性強
姦事件を摘発したが、その正直さはオーストラリア本国で厳しく批判されたのだった。
しかし彼は日本での台湾人や朝鮮人との出会いを、少し違った雰囲気で記述した。宇品
の朝鮮人同盟支部訪問をクリフトンは次のように書いている。
市電に乗って橋や川をたくさん渡り、原爆が投下されるずっと前から掘っ立て小屋が
立ち並んでいた通り ‐ 原爆後には住みたいと思うような住居に見えたのだが ‐ を通り
過ぎて行った。(中略)そこは若い男女が溢れ、革命的な熱意で皆の表情は輝いていた。
男たちは日本人と同じ体格や服装だったが、女たちは絹製の朝鮮風のふくらんだス
カートを着ていた。彼らは私を疑わしそうに眺め、朝鮮語でしばらく話し合ったが、
もちろん私は一言も理解できなかった。誰が見てもリーダーだとわかる男が、奇妙な
解放された民をとらえて
47
日本語で私に話かけてきた。「じ」「で」や「び」が「ち」「て」や「ぴ」に変わって
いた。オーストラリア人戦争捕虜たちが聞いたら、東南アジアの収容所のより残虐な
監視員たちに共通するアクセントを思い出しただろう[Clifton 1950: 134]。
クリフトンのような通訳は日本語を話したが、朝鮮語は話さなかった。しかしかつて植
民地民だった人々は日本語がある程度できたので、日本に住む朝鮮人と日本語で話をする
ことはできた。しかしそれは、植民地支配者の言語でコミュニケーションをとるというこ
とを意味していた。大部分の占領軍人たちは、たとえアラン・クリフトンのように日本に
ついて珍しく専門的な知識を持っていても、朝鮮や台湾の歴史や文化はほとんど知らな
かった。一部の連合軍兵士は、日本軍の戦争捕虜収容所内のみで朝鮮人や台湾人と出会っ
ていた。そこでは、一番つまらなく嫌がられていた監視員の役目を、植民地臣民として兵
隊になっていた朝鮮人や台湾人が担っていた。新兵補充や訓練の過程で、朝鮮人や台湾人
監視員が乱暴に扱われたため、彼らは捕虜に厳しく接し、連合軍捕虜の間では悪名が高
かった。そのため日本軍が占領したアジア各地での戦争犯罪裁判では、有罪判決を受けた
割合が高かった。つまり、連合軍は日本の軍事的拡大主義の醜い部分の共謀者としての植
民地住民たちの役割を知っていたが、(もちろん何人かが関わったと思われる)植民地主
義への情熱的な抵抗の役割は知らなかった。
このような個人的経験は、連合軍司令部上層部にも反映され時には誇張された。1948
年の「日本の朝鮮人少数民問題」と題された BCOF 諜報報告書は、アメリカ軍諜報部門
の情報に基づいて編さんされたが 、そこではかつての植民地民たちの解放のレトリック
は、ステレオタイプの前では「保安問題」になってしまうことがはっきりわかる。次のよ
うに報告書は始まる。「騒動や問題を引き起こし、手に負えないことで悪名高い朝鮮人た
ちは、日本に 60 万人近く住んでいる」。報告書は「日本の警察は、時には自然な先入観
で朝鮮人たちが悪いという前提で安易に行動することがある」と認めているものの、報告
書の結論は明確で、次のように書かれている。
ある程度の数の朝鮮人少数民たちが日本にいる限り、法と秩序には脅威となる。この
少数民たちの数が近い将来減るとは予想していない。それよりも問題は、不法入国の
‘Korean Minority Problem in Japan’, in BCOF Japan Quarterly Occupation Intelligence Review, no. 2, 30
June 1948, pp. 7-13, 7 頁 よ り 引 用。 オ ー ス ト ラ リ ア 国 立 公 文 書 館 (series no. 1838/283 control symbol
481/1/6), ‘Intelligence Reports, Quarterly Occupation Intelligence Review’.
48
海港都市研究
防止や警察の厳しい取締りによって、現在の数を維持することである。
もちろん、日本占領に関わった全員が、朝鮮人コミュニティーをこのように見ていたわ
けではない。私がオーストラリア国立公文書館で読んだ BCOF の諜報報告書のコピーに
は、ところどころに丁寧に黒インクで書き込みがあった。たとえば、引用した上記の文の
「自然な先入観で」の部分の「自然な」は下線が引かれ、その横には大きなクエスチョンマー
クが記されている。このクエスチョンマークを書いたのは、在東京オーストラリア外交使
節団の団長だったパトリック・ショーのようである。彼はこの文書のコピーをキャンベラ
に送付したが、
「わが使節団にはまったく価値がない」という素っ気のない評価を添えて
いる。
再び海を渡って
ショーは注意深く知識の豊かな観察者で、彼の東京使節団は在日朝鮮人や台湾人問題の
有益な情報を収集した。彼がキャンベラに送った文書の中に、ジャーナリストで占領当局
の情報部門所属だったデービッド・コンデの記事があるが、これは戦後日本の朝鮮人状況
について重要な示唆を含み、また、ロウドが絵に描いた朝鮮人の嘆きを説明している。コ
ンデは朝鮮人と台湾人の祖国帰還計画には大きな問題があると指摘している。
日本の軍人と民間人を戦時期日本占領国から帰還させ、さらに何千人もの朝鮮人や中国
人や他の人々を日本からそれぞれの故国に送りかえすのは、もちろん大規模な編成事業で
あった。オーストラリアとニュージーランドにある占領期の公文書資料は、公式文書だけ
ではなく写真や映画でこの事業の規模を記録している。オーストラリア戦争記念館蔵の動
画に、ダグラス・マッカーサー将軍の日本総司令部所属だった英国人ドキュメンタリー作
家、ウィリアムズ ・ コートニーが撮影したものがある。そこには、敗北した日本人植民
地支配者たちが、1946 年のはじめに韓国の釜山港に停泊した帰還船に乗り込んでいる様
子が写っている。
一方、その港へ向ったこの船には、朝鮮人や中国人が乗っていた。コートニーのドキュ
メンタリー映画には、元植民者の帰還用船で、朝鮮人たちが釜山に到着している様子が記
同上、13 頁。
この映像は "In Occupied Japan" と題されオーストラリア戦争記念館に所蔵されている(資料番号:
AWM F1003)。
解放された民をとらえて
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録されている。実際、植民地時代に日本に渡った人々は、1945 年 8 月 15 日の日本降伏
以後その年末までに、海を渡って国に戻るため、乗れる漁船に席を確保して自力で故国に
戻ってきていた。しかし、1946 年 2 月から 12 月の間に、8 万 3 千人の朝鮮人とそれよ
りも少数の台湾人と中国人も、公式帰還プログラムを利用して故国に帰った[Takemae
2002: 448]
。
しかし、他の占領政策と同様、占領者たちの矛盾に満ちた目的は帰還プログラムに問題
を引き起こした。マッカーサーの総司令部にとっての切実な問題は、日本に保安と管理体
制を確立することだった。このために、彼の部下たちは崩壊してしまった日本経済に更な
るダメージをあたえるのを防ごうとした。この政策の一部が、公式帰還計画で故国に帰る
朝鮮人や他の元植民地民たちは千円だけしか持ち帰えれない、という規則だった。この
金額は、ジャーナリストのデービッド ・ コンデによると、「今の値段だとタバコ 20 箱分」
くらいに値した。結果的に彼らは、「労働で得た自分たちの所持品を、つい最近まで搾取
していた人々に残していくように強制された」と、コンデは続けている。それは、「大き
な苦悩となった。朝鮮に戻った人々には仕事も家も家具もないのだという考慮がなかっ
た。
」結果的に、多くの人々が「命を危険にさらし、日本へと再び海を渡るという度重な
る危険」を選択させたのだった[Conde 1947: 4-5]。
ロウドの絵は、まさにこの苦悩を捉えている。「たいへんがっかりしている朝鮮人」と
題されたこの絵には、「朝鮮人は祖国帰還の際に、千円だけしか持ち帰れなかった。この
人物は大金を取り上げられて少々動揺している。ニュージーランド軍兵士がそっと背中
を押している」と注釈が添えられている。そこで「没収された円の勘定。仙崎にて」と題
されたロウドのもう一枚の意味がわかってくる 。興味深いことに、ウェリントンのニュー
ジーランド国立図書館に、同じように動揺している当人の写真があるが、より正確にはロ
ウドが描く直前の一瞬をとらえたものである。この写真では、(白い布を持つ)朝鮮人が、
BCOF 兵士と日本人税関係員によって所持品検査を受けている。ニュージーランド兵 2
名が彼を両横から挟み、日本人係員が没収した貯金から、許された額の千円を返している。
この写真の説明は、「写真は、1万4千円以上を身につけて日本に密輸入したものの、故
国に帰還する民間人が持ち出すことができる最大限の千円を返却され、髪の毛をかきむし
この写真は ”Repatriation operations at the port at Senzaki, Japan. 1948.” ( 資料番号:J-0481-F) と題され
ている。ニュージーランド国立図書館の写真データベース Timeframes に収められており、次のリンク
でこの写真を見ることができる。http://timeframes.natlib.govt.nz/logicrouter/servlet/LogicRouter?PAGE=ob
ject&OUTPUTXSL=object.xslt&pm_RC=REPO02DB&pm_OI=45711&pm_GT=Y&pm_IAC=Y&api_1=GET
_OBJECT_XML&num_result=47&Object_Layout=viewimage_object
50
海港都市研究
り不機嫌な朝鮮人である」となっている。
「がっかりした」、「不機嫌な」、「少々動揺している」。これらの言葉は不快感やかんしゃ
くを示唆しているが、この形容では展開される悲劇が絵に描かれているとは理解できな
い。なぜなら、この当人にとってはそれほどでなくても、彼と同じ立場の多くにとっては、
まさしく大悲劇だからだ。この写真が撮影され、ロウドが絵を描いた時期に、仙崎収容所
で奇妙なことが起こりだしていた。公式帰還プログラムに登録する朝鮮人の数は予想を下
回っていた反面、日本の警察と BCOF 兵士が、逆方向、つまり朝鮮人を日本に密入国さ
せようとする船を大量に拿捕し始めたのである。在日朝鮮人や台湾人は外国人であるか
が明白でなく、ほとんどの人々は長年日本に住んでいたので、問題のボートピープルは、
自分たちのしていることが違法であるとは気づかなかった。しかし実際、国境を越えて無
規制に人が往来することを警戒した連合軍占領当局は国境を封鎖し、いったん帰還した朝
鮮人がダグラス ・ マッカーサー将軍の特別許可無しに日本に戻るのは犯罪である、と宣言
した。戻ってきたボートピープルの多くは気づかれずに上陸していたようだが、捕まった
人々は強制送還のために仙崎に送られた。
無制限な越境の動きが増大するのを心配した占領軍は、九州の針尾にあった別の帰還セ
ンターに在日朝鮮人のチョ・リンシクを送り、韓国からのボートピープル流入の理由を調
べさせた。チョは収容者との面接から日本入国(あるいは再入国)の理由をはっきりとつ
かみ、
「密航者は、すべて元日本在住者だ」と報告している。一番の問題は、朝鮮人帰還
者たちが日本から持ち出せる物や金額が厳しく制限されていることだ、と彼は強調する。
多くは日本に長年住み、家具を買ったり小さな商売を始めることができるほどの貯金が
あった。もし韓国に戻ることを選ぶと、すべてをあきらめなくてはならなかった。さらに
悪いことに、日本銀行発行の紙幣を持って帰っても、韓国では受けつけられなかった。韓
国に到着しても仕事はなく、公的財源がすっかり枯渇しているため、(チョによると)公
務員職に就けるほど幸運な人でも給料が何ヶ月も遅配されていた。
帰還条件の制限によって、予想外の出来事が仙崎で起こり警戒心が高まった。約 400
Memo from Hodge to Supreme Commander, Allied Powers, ‘Repatriation of Koreans from Japan’, 27 August
1947, in GHQ-SCAP Records, Box no. 385, Folder no. 4, ‘014: Civil Matters, Binder #1, 2 January 1946 thru 19
January 1948 (Japan, Korea, Miscellaneous)’, Mar. 1946-Jan.1948.
‘Report on Stowaways’, p. 1, attached to the memo ‘Korean Stowaways in Japan’ from Lt. Col. Rue S. Link,
Kyushu Military Government Headquarters, Fukuoka, to Commanding General, I Corps, APO 301, 19 August
1946; in GHQ-SCAP Records, ( 箱 番 号:385, フ ォ ル ダ ー 番 号:4), ‘014: Civil Matters, Binder #1, 2
January 1946 thru 19 January 1948 (Japan, Korea, Miscellaneous)’, Mar. 1946-Jan.1948.
解放された民をとらえて
51
人収容の予定で設立された収容所に、1946 年 7 月までに 3400 人が収容され、そのほと
んどが無許可で日本に再入国しようとして逮捕された人たちだった。この結果、懸念どお
りコレラが発生した。ニュージーランド国立公文書館所蔵の文書は仙崎の様子をはっきり
と記録しており、ここに書かれた状況は、解放から失望への変化がよく表れている。ニュー
ジーランド軍高級軍医 C. R. バーンズは 1946 年 8 月に仙崎を訪問したが、収容所の朝鮮
人の多くが、波止場に停泊する上陸用船舶に収容されているのに気がついた。「そのうち
の一隻には、
いろいろな年齢の人々が 500 人ほどが収容されていると知らされた。半数は、
鉄製甲板に横たわり、その他は船内の船室にいた」。
地元の病院の状況も同じようなものだった。15 名の朝鮮人がコレラの症状を示し、29
名は感染していて治療を受けていた。仙崎に関するバーンズの手厳しい報告は次のとおり
である。
当病院を訪問した際には、医療責任者が不在だった。助手は患者についてあまり知ら
ないようで、質問に対する答えはすべて看護婦任せだった。(中略)患者は衣服を着
たまま横になり、時には母親と3人の子供が1台のベッドに寝かされていた。看護施
設が不足し、病院は組織化されておらず無秩序だった。職員は、患者よりも記録を つけることにより興味を持っているようだ。
バーンズ医師はさらに、「2NZFF(日本)の司令官は、当所に駐屯しているニュージー
ランド兵士にのみ関心がある」と報告している10。戦場から移動してきたばかりの若い
ニュージーランド兵たちは薄情ではなく、大変な任務に気持ちが動揺していたのは、彼ら
が残した記録からわかる。仙崎に駐屯した兵士の一人は、次のように日記に書いている。
男も女も子供も一まとめにされ、一軒の小屋に 300 人以上も入れられ、閉じ込めら
れている。寝るときの様子を見ると、残酷だとしか思えない。船が入ると、まるで缶
詰の鰯のように船に乗せられる。そして病人がいないと医者が言うまで、そこにいな
くてならない。そんなに長く留め置くのは、病気が広がるのを防ぐためだ。ここは病
C. R. Burns からの手紙 , SMO NZEF to DDMS HQ BCOF, ‘Cholera in Senzaki’, 1946 年 8 月 8 日付 , ニュー
ジーランド国立公文書館 (WA-J 68/F26/G38, ‘2 NZEF - Illegal Immigration).
同上。
1
0 同上。
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海港都市研究
気に関しては日本有数のひどい場所だが、毎日退所時に DDT で消毒するので僕たち
は大丈夫だし、警備勤務中は 30 分おきに殺菌消毒液で手を洗っている[Brocklebank
1997: 135]。
その後まもなく仙崎帰還センターは閉鎖され、収容者はアメリカ軍が管理していた九州
の針尾に移送された。
例のがっかりしている朝鮮人が直面した問題は,仙崎のような場所だけでなく、国境
の向こう側の韓国にも現れていた。大日本帝国の崩壊によって、満州や他の地域から国
外在住の朝鮮人たち約4百万人が故国を目指したが、そのうち 140 万人が日本からの帰
還だった[文 2005: 25]。日本駐留の連合軍占領当局が朝鮮人に故国への帰還を促す一
方、韓国に制定されたアメリカ軍政府は彼らの到着への準備が不足していた[金 1997:
262-263]
。
このようにして起こった問題は、韓国の南海岸沖に位置する済州島の情勢にはっきり現
れた。済州島の主な経済基盤は農業と漁業で、さらに植民地時代には大阪と海路でうまく
つながっていたため、多くの済州島民が日本に移った。日本の降伏後その年末までに、日
本から済州島に 6 万人が帰還したが、多くは制限額の千円と背中に背負える荷物だけし
か持って帰れなかった。これは、2 年足らずで済州島の人口が約 25 パーセント増加した
ことを意味する。さらに、日本に出稼ぎに行き、済州島の家族に長い間送金して島の経済
維持を助けてきた人々は、戻ってきたものの、貧しいため村の重荷になったことを意味す
る[Heo 2006: 28; 玄 2007: 165]。結果的に、極端な経済的困窮は、済州島自体でコレ
ラが発生したことでより悪化した。もちろんいろいろな複雑な原因によるが、蓄えを残し
て住んでいた日本から戻ってきた元移民たちの流入が原因となって引き起こされた経済的
混乱は、
1948 年 4 月に済州島で起こった左翼による反政府暴動の背景要因のひとつとなっ
た。その後ゲリラ闘争が 2 年間ほど続き、おそらく 3 万人(人口の 1 割)の島民が死亡
したが、ほとんどは韓国政府が派遣した防衛軍や民兵によって殺された。130 の村々が焼
き払われ、住人たちは殺されるか強制収容所に収容された[Heo 2006; 文 2005]。
何千人以上が小船に乗り戦闘を逃れて日本に向かった。もしそこで捕らえられると、韓
国での不確かな運命に引き戻されることになった。BCOF の兵士がボートピープルを寄
せ付けないようにする作業に密接にかかわっていたため、オーストラリアとニュージーラ
ンドの公文書館には、この旅についての驚くような記録が収められている。この地域の歴
史の暗い時期に関する公式な足跡がほとんど残らなかったので 、それらは余計に価値があ
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る。たとえば、オーストラリア戦争記念館のある文書は、1948 年 10 月に四国の海岸で、
到着したばかりの済州島民が逮捕されたことを記録している11。その 4 分の 3 以上がかつ
て日本に住んでいたことがあり、29 人の女性は、まだ日本に住んでいる夫に再会するた
めに到着したのだった。そこに書かれているように、「人々は二つの炎に挟まれている。
共産主義者に反対して警察の味方をしても、共産主義者の肩を持って警察に反対しても、
その反対側から弾圧される」12 と。それにもかかわらず、私の知る限り、全員が無理やり
韓国に強制送還された。
済州島での暴動は、日本在住の朝鮮人たちへの占領軍の猜疑心を深めるという不幸な結
果をもたらした。占領の初期段階では、主要朝鮮人コミュニティー団体の在日本朝鮮人連
盟(一般的には韓国語で略してチョリョン、日本語では朝連、英語では Korean League
と呼ばれている)は、法と秩序の保全のために連合軍占領者と密接に協力していた13。し
かし、時間の経過とともに、この団体はしだいに占領当局に批判的になり、連合軍占領
者たちもこの団体を破壊活動分子の温床とみなすようになった。戦後に少数民族の子供
のために創設された私立朝鮮人学校を閉鎖しようとする動きに刺激されて、大きなデモが
1949 年に起こったが、その後、マッカーサーの占領本部は朝連を禁止団体とみなし、そ
の資産を没収するように命令した。BCOF のオーストラリア兵がこの発表に刺激されたデ
モを制圧する役割をした。
ロウドの大変がっかりしてる朝鮮人の絵は、ある特定の人物の個人的危機の一瞬の姿を
画面にとらえただけでなく、その後何年も、また何十年も続いた日本社会における朝鮮少
数民族の立場に関する問題を現すいろいろな関係の表象だったといえるのではないだろう
か。この歴史の中の一瞬から生じた問題は、実は今日でも解決されていない。ロウドの絵
は、オーストラリアやニュージーランドや他の国々が、この歴史問題に深くかかわってい
ることを思い出させる。このつながりがあるからこそ、オーストラリアとニュージーラン
ドの図書館や公文書館は、この歴史に、新鮮で予想外の、そして時には不安を引き起こす
ような光をあてる。さらにこれらの資料は、まだ調査研究され尽くしていないのだ。
公文書館で発掘された物語の多くは、われわれが見てきたように悲劇的なものである。
しかしいくつかは平凡な人々についてであり、よくある出来事であったり、偶然の出会い
11 ‘CSDIC Translations BCOF – Illegal Entry into Japan 1948’, キャンベラオーストラリア戦争記念館蔵
(AWM 144, 417/1/27)。
12 同上、15 頁。
13 例えば、オーストラリア戦争記念館所蔵の Brindiv Fortnightly Intelligence Review for fortnight ending
21 January 1946, part 2, p. 2 (AWM 114, 423/10/63) を参照のこと。
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に関したもの出会ったりする。そしてその中には愉快なものもある。今日私が紹介したの
は悲しい話なので、最後にアーカイブスで見つけた明るい出来事を紹介したい。この話は
(オーストラリア戦争記念館所蔵の文書で見つけたものであるが)、警察が朝連の呉本部を
閉鎖した日のことであった。
朝連が禁止されてまもなく、日本の警察幹部と 3 人の部下が、はるばる東京から呉に
連盟の資産没収作業を監督するために派遣された。1949 年 9 月 9 日の早朝、4 人は連盟
の呉本部に解散命令の通知を渡すために到着した。騒ぎを恐れて、4 名の警官が護衛につ
いただけではなく、さらに 80 名の警官が予備として「集められ、近くの交番で待機して
いた」
。しかし本部に警官が到着した時、穏やかに出迎えたのは朝連の地域リーダーで、
「一瞥もくれず」禁止通知書を受け取り、反対の意も表明しなかった。警官は、前日まで
戸口に掲げてあった看板が「在日本朝鮮連盟呉支部」から、「在日本朝鮮女性連盟呉支部」
と「在日本朝鮮人広島学院付属呉小学校」に変わっているのを無視できなかった。
呉の朝連のリーダーは、禁止命令や財産の引渡しについてはよく承知していると礼儀正
しく説明した。しかし、建物とそこにあるほとんどすべての中身は、すでにまったく無関
係の在日本朝鮮女性連盟と呉小学校の所有となっていると指摘した。いたずらじみたユー
モアとも解釈できるが、朝連の所有するものはいくつか残っている、と朝鮮人たちは警察
に告白した。それはつまり、いす 2 脚とテーブル 2 台、そして大きな掲示板 2 枚だった。
日本の警察官と 80 人もの予備警官は、わずかの戦利品だけを持ってすごすごと引き下が
るしかなく、最後に笑ったのは朝連呉支部だった14。
<訳者注及び謝辞>
この論文は、2008 年 12 月 1 日にオーストラリア国立図書館で開催された一般講演の
読み上げ原稿を、日本語に翻訳したものである。なお翻訳文の草稿に目を通してくださっ
た小林=ハッサル・柔子氏に感謝する。
14 “Present Situation in Taking over Property of the Korean League and Korean Democratic Youth League”, 9
September 1949, held in the file BCOF Intelligence and Detailed Interrogation Unit – Translation of Proclamation
Issued by the Korean Residents Society, Concerning Disbandment of Korean League in Japan and Korean
Democratic Youth League in Japan, 1949, オーストラリア戦争記念館 (AWM 114, 423/10/8).
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参考文献
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ク」
『現代思想』6 月号 ,158-173.
厚生省援護局編 2000 『引揚援護の記録』クレス出版.
(オーストラリア国立大学太平洋アジア研究所)
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