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「民族」 概念の規定と 「共同体」
説 埜 惇 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 族問題が何よりも民族解放の問題であり、階級闘争・労働者階 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 級の解放⑳一部としてとりあげられるという場合、その民族の ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 解放とは、マルクス主義におけるプロレタリアートの解放.人 がか。この点の不明確さこそが、問題を政治的実践的なものと 間解放と、一体いかなるかかわりあいを理論的にもつのであろ して0か理解せしめ、 ﹁これまでマルクス主義には、言葉の正 へむロ 確な意味において民族の理論というものは存在しなかった﹂、あ るいは﹁民族問題はあったが、民族の理論というものは言葉の 正確な意味においてはなかった﹂といわしめる主要な原因をな ハ り しているように考えられる。 本稿は、きわめて未熟ではあるが、右に述べたマルクス主義 における民族問題の理論的位置づけへの、手がかりをつくって 終極の解放の一部として民族を問題にするのであって、けっし ︵2︶ 石母田正﹃歴史と民族の発見﹄、一〇三頁。 ︵1︶ 高島善哉﹃民族と階級﹄、九七一八頁。 みたいという意図をもつのである。 てすぎさった問題の解釈や反省ではなく、かえって実践的な問 ︵3︶高島、前掲書、九三頁。 ︵2︶ 題であ﹂つたのである。この観点は、本稿にあっても当然の前 ︵4︶ 同上、九五頁。しかし、こういわれた高島氏の理論創 あげつらいは、まったくの空論に堕するであろう。しかし、民 1﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂一 . 一六三 造の試みも、わたくしの考えているような方向では、ま 提としてすえおかれている。この観点をぬきさった民族問題の ち、 ﹁マルクス主義にあっては、⋮⋮階級闘争・労働者階級の 角度からとり上げられなければならない問題であった﹂。すなわ ず民族解放の問題であり、それは何よりもまず政治的実践的な ︵1︶ ﹁これまで、マルクス主義者にとって民族問題は何よりもま 星 ﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂ 苑 の方向を模索したい。 だ結実したようにはみうけられない。本稿は、氏とは別 1説 苑1 はじめて構成されるものである。ところが、ながいあいだの共 の結果として、人々が幾世代も共同の生活をした結果として、 一六四 域の共通性ということは、民族の特徴の一つである﹂。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や 一見迂遠ではあるが、まず、民族概念に関する規定から問題 同生活は、共通の地域がなければ不可能である。⋮⋮だから地 ︹6﹂ ﹁だが、まだこれで全部ではない。地域の共通性は、それ自 に接近しよう。これについては、スターリンの著名な整理があ るので、煩をいとわずかかげてみる。 体としては、まだ民族をつくりださない。そのためには、それ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ﹁民族とはなにか。 民族とは、 なによりもまず一つの共同 以外に、民族の個々の部分を一つの全体に結合する、内的な、 ﹁だが、これで全部ではない。以上でのべたことのほかに、 性、経済的結合は、民族の特徴的な特質の一つである﹂。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 体、すなわち人々の一定の共同体である。この共同体は、人種 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 的な共同体でも、種族的な共同体でもない。⋮⋮人々の歴史的 経済的なつながりが必要である。⋮⋮だから経済生活の共通 ︹7︺ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や に構成された共同体である。⋮⋮人々の偶然な、あるいは一時 的な集まりではなく、人々の堅固な共同体である。⋮⋮民族的 民族に結合された人々の精神的様相の特質をも考えにいれなけ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 共同体は、 国家的共同体とどうちがうか。 とりわけちがう点 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や は一別の呼び方をすれば一﹃民族的性格﹄は、⋮⋮いちど も、たがいにことなっている。⋮⋮もちろん心理的状態、また るだけでなく、民族文化の特質にあらわれる精神的様相の点で ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や ればならない。民族はその生活の諸条件の点でたがいにことな は、民族的共同体は共通の言語なしには考えられないのにたい ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ して、国家にとっては共通の言語は、かならずしも必要ではな い、 ということである。⋮⋮だから言語の共通性ということ ︵5︶ は、民族の特徴の一つである﹂。 に変化する。だが、それは、どのあたえられた瞬間にも存在し あたえられたらそれきりのものではなく、生活の諸条件ととも ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や であるにもかかわらず、なぜ一つの民族を構成していないの ﹁だが、たとえばイギリス人と北アメリカ人とは言語が共通 か。なによりも彼らがいっしょには生活せず、ことなる地域に である。だから文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共 ているのであって、そのかぎりで民族の外観に刻印をおすもの ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や すんでいるからである。民族は、ながいあいだの規則的な交渉 通性ということは、民族の特徴の一つである。こうして、われ われは、民族のあらゆる特徴をかぞえつくした。民族とは、言 ヤ ヤ ヤ ヤ や ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構 、 、 、、 、 、、、 、 、、、 、、、 、︹8︸ 成された、人々の堅固な共同体である﹂。 ﹁以上のべた特徴は、一つずっとりだしただけでは、民族を 規定するのに不十分である。そればかりでない、これらの特徴 の一つでも欠けるならば、それだけで、民族は民族でなくなつ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ 、、 ︵9︶ てしまう。⋮⋮すべての特徴が同時に存在するばあいに、はじ めて民族があたえられるのである﹂。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や ﹁民族の唯一の特徴などというものは、実際には存在しない のである。存在しているのは諸特徴の総計だけであって、諸民 族をくらべてみると、あるばあいには、これらの特徴のうちの 除した人種の問題といった、個々の点についても、またその他 数多くみられる論理的不整合についても、当然、さまざまの疑 問や論点がありうるであろう。それらは、たしかに、きわめて 形式的かつ矮小化した提起である。 しかし、 むしろそれより も、 ﹁一つでも欠けるならば﹂とか、 ﹁すべての特徴が同時に ぬきにしたかにみえる機械的併列がまず気になるのである。そ 存在するばあいにはじめて﹂とかいった、諸特徴の相互関連を れは、民族という対象にもよるのであろうが、他の社会科学上 の諸概念の規定のしかた︵たとえば、社会構成体における経済 構造と上部構造、 生産様式における生産力と生産関係など︶ と、いちじるしくことなるものを感じさせるであろう。 ︵5︶ スターリン﹁マルクス主義と民族問題﹂、 全集、第二 巻、三二五i六頁。傍点はいずれも筆者によるもの、以 が、また、あるばあいには第三の特徴︵地域、経済的諸条件︶ ︵8︶ 同上、三二八−九頁。なお、スターリン﹁民族問題と ︵6︶ 同上、三二七頁。 下同じ。 が、他の特徴よりもくっきりとめだっている。民族は、これら ︹10︶ すべての特徴がいっしょに結合されたものである﹂。 レーニン主義﹂、 全集、第一一巻、三六六一七頁の規定 ある特徴︵民族的性格︶が、あるばあいには他の特徴︵言語︶ このスターリンの概念規定について、たとえば、言語、地 をも参照。 一六五 ︵7︶ 同上、三二七−八頁。 域、経済生活、文化などの共通性や、あるいはスターリンの排 一﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂1 ︵9︶ 同上、三三〇頁。 一説 苑一 などの血縁関係によって結ばれ、一定の国土の上に生活して、 ︵U︶ 史的に生成してきた共同体だという点にある﹂。﹁民族とは人種 ニハ六 の側にある﹂しそれは、高島氏みずから﹁民族の定義とし ︵茸︶ ではなく、いつでも、またどこでも、民族の歴史的社会的契機 みっつも、 ﹁主体は民族のそのような自然的契機の側にあるの ︹16︶ 共同体﹂である。それは、 ﹁自然﹂を内在的なものとしてふく ︵15︶ 歴史的社会的な人間活動の成果として形成されてきた個体的な ︵10︶ 同上、三三四頁。 高島氏は、この点について、 ﹁スターリンのこの定義におい ては民族概念を作り上げている四つの要素の相互の関連が明ら かでない。そして⋮⋮民族における自然的なものと歴史的社会 ︵11︶ 的なものとを結びつける論理がまったく不明である﹂、 さら に、これは﹁きわめて素朴で機械的な規定の仕方﹂で、 ﹁民族 ては不十分である﹂といわれたとおり、いまだ不明確なもので ︹18︸ る歴史的社会的契機そのものの解明の不十分さとともに、マル あるし、高島氏の﹁風土﹂を媒介とする解明の方向も、主体た を呈しておられる。しかし、これに関連して提示される高島氏 クス主義におけるプロレタリアート・人間解放と民族解放との 概念の構成要素はこの四つでっきるであろうか。⋮⋮これらの ︵12︶ 諸要素の間の関連をどのように理論づけるのか﹂、 という疑問 の民族概念の規定f﹁民族には原生的で先史的な側面と、社 根本的かつ理論的なかかわりをときあかす方向なのかどうか、 核心は、ただたんに政治経済的な統一体というだけでなく、人 またなそうとするところに見出される。これにたいして民族の たは複数の民族が政治的経済的に一つの統一体をなしており、 意味で国民と民族は国家から区別される。国民の核心は一つま を落としている︹意図的に︺﹂ ︵一四五頁。 なお一六八 か﹂という問題に対し、﹁スターリンは人種という要素 は、 ﹁民族概念の構成要素はこの四つでっきるであろう ︵12︶ 同上、 一四四−五頁。 なお一四六頁。 乙こで高島氏 ︵n︶ 高島、前掲書、 一〇二頁。なお三一四頁。 疑問なしとしないのである。 会的で歴史的な側面とが、いわば融け合った形で結びついてい ︵13︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 種とか国土とかいったような自然風土的な契機と、言語や文化 頁、三一四頁︶という論点をあげておられる。この点、 る﹂のであって、 ﹁支配と被支配の権力関係を含まないという 的伝統というような社会風土的な契機との相互媒介によって歴 たとえばポリツェルは、 ﹁人種は民族共同体を構成する 一要素ではない。人種はじっさい、遺伝的な共通の肉体 的特徴︵皮膚や眼の色、顔の形等︶を持つ忙人間忙ちの 重要な集団である。だから、それは生物学的な要素であ る。ところで・いかなる生物学的要素も社会の歴史的進 化において決定的な役割を演ずることはできない﹂ ︵同 編、講座哲学W﹃国家と民族﹄、竹内・田辺訳、八四頁︶ とし、また石母田氏も、 ﹁人類学的なものや超歴史的な 観念をまじえて民族をとらえようと︹することは︺: ⋮、それによって民族というものが歴史的なカテゴリー である乙とを不分明にしょうと︹する乙とになる︺﹂︵石 母田、前掲書、一〇六頁︶ とされた。 しかしわたくし は、民族と人種ないし種族とのかかわりは再検討される ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ べきであると考える。ただしそれは、スターリンの四要 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 熱心趣勝心邸画をくわえるといったようなかたちの解決 ヤ ヤ ヤ ヤ 伽跡暦応応頓6、後論でとりあげるような、共同体.良 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 蜘伽発生とのかかわりあいとして問題とさるべきであろ 卵。高島氏にも、 ﹁民族概念の最も基本的な特徴とし て、原生的な共同体の感情が指摘できるであろう﹂ ︵前 一﹁民族﹂ 概 念 の 規 定 と ﹁ 共 同 体 ﹂ 一 の、原生的なものの重みがけっして僅少でないように、 掲書、 一八頁︶、。現代の人間理解にとって自然的なも 現代の民族問題を理解するためには、乙の問題において 人種というカテゴリーが持っている比重はけっして過小 に評価されてはならない﹂︵同上、二一頁︶、と、一定の 指摘がみられるのである。 ︵13︶ 高島、前掲書、一九頁。 ︵14︶ 同上、九頁。なお、本田喜代治氏も、 ﹁人間による人 間の支配、そういう意味での権力がなんらかの形で有る か無いかによって、両者を区別し忙いと思う.一:・.、民族 にはそれが無く、国家にはそれがある﹂ ︵同、﹃社会学 入門﹄、一九三頁︶とされている。しかし、 高島氏が、 この規定を﹁民族を国民の基礎におくもの﹂ ︵一二頁︶ とされつつ、そこで本田氏とともに民族は﹁権力関係を 含まない﹂とされている具体的意味は必らずしも明白で はないように思われる。それは、スターリンが、 ﹁独自 の国家的存在をうしなっても民族である﹂︵﹁民族問題と レーニン主義﹂、全集、第一一巻、三六七頁︶とし、また ポリツェルが、 ﹁国家を民族の定義のなかにふくめるこ 一六七 一六八 が、同時にところどころにまだみいだされ、もはや国民的生存 苑i とは、 抑圧された ︵したがって独立の国家をうばわれ の力をもたない民族断片は大国民に合併されたままで、この大 1説 た︶民族にたいして、民族という資格をこばむことであ 国民に解消するか、政治的意義をもたずにただん魯挙昨謁念祢 は、近代資本主義に照応する真に自由で広範な商品流通のため 交通手段である。言語の統一と妨げられることのないその発達 とが必要であるという点にある。言語は人間のもっとも重要な いるいわゆる障害をとりのぞいたうえ、野躰ひいで緬集事変 諸地域を、この言語が発達し文学のうちに固定するのを妨げて ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ することが必要であり、同一の言語をつかう住民の住んでいる ヤ ヤ ヤ ヤ や 藷利をおさめるためには、訟なゑh踪異象像 動の経済的基礎はつぎの点にある。すなわち、商品生産が完全 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ をおさめた時代は、民族運動とむすびついていた。ひか師⑪趣 。全世界を通じて、資本主義が封建制にたいして最後の勝利 に生活様式上の条件その他︶とならべられている﹂。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ パのレ もうける基礎となるべき他の諸条件︵第一に経済蜥熱海、つぎ ﹁民族的構成は、⋮⋮近代資本主義に適応する新しい境界を いる。 がそれをしめしている。また、レーニンもつぎのようにいって としてのみのこるということだ﹂とかいったエンゲルスの発言 へめマ る﹂ ︵前掲書、八六頁︶としたことと、同一次元の問題 ではあるまい。高島氏は、 ﹁スターリンの民族理論では 国家論との連関がまったく無視されている﹂ ︵前掲書・ 一六八頁︶と指摘されたが、氏においてもこの点明白で はない。 ︵15︶.︵16︶.︵17︶・︵18︶ 高島、前掲書、四五頁。 ふくむ民族の規定に関連して、スターリンが学んだと思われる ところで、さきにスターリンがとりあげたいわゆる四要素を マルクス.エンゲルス・レーニンも、四要素そのものをまった く否定しているのではない。むしろ、高島氏のとりあげた人種 をもふくめて、不明確ながらなんらかのイメージをいだいてい たかにみえる。たとえば、 ﹁それ自身の歴史は過去にぞくし、 その現在の歴史的発展はん魯b言語をことにする他民族の歴史 的発展とむすびついているような諸小民族の議﹂とか﹄大 きくて生活能力をもつヨーロッパ諸国民にはますます、評語ど ヤ ヤ 共感とによって決定されるその真ひ邸然許掛界があたえられる の、また住民がそれぞれの階級に自由にひろく編成されていく 忙めの、もっとも重要な条件のひとつであり、最後に、市場を、 大小を問わずすべての経営者に、売り手と買い手に密接にむす ができなかった﹂のである、と。 ︹24︶ しかし、スターリンは、高島氏のいわれるように単に諸要素 を分離したのみで、ふたたび結合することがなかったといいき ってしまうことはできない。わたくしは、その結合の意図が、 ー−不十分ながらースターリンのいう、人々の歴史的に構成 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 要求をもっともよくみたす民族国家を形成することが、あらゆ された堅固な共同体、人々が幾世代も共同の生活をした結果と びつけるための条件である。だから、近代資本主義のこれらの る民族運動の傾向である。もっとも深い経済的諸要因が、この して構成された民族、という表現のなかに存在しているのでは れた共同体という規定から出発して、いくつかの局面に限定し ︵26︶ もっとも素朴な、共通の生活様式にもとづいて歴史的に形成さ しめた諸要因であったのである。わたくしはとりあえず、この ︹茄︶ して、かかる生活様式の共通性・共同の生活諸条件をなりたた ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 方向に押しすすめるのである。だから、西ヨーロッパ全体にと ないか、と考える。いわゆる四要素は、直接に民族をではなく ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や って、それどころか文明世界全体にとって、資本主義時代の典 ︵盟︶ 型的なもの、正常なものは、民族国家である﹂。 こうした発言をみて、高島氏はこういわれたのである。 ﹁レ ーニンもまた民族の設定基準として言語と共感を掲げ、それを の一つとして並べたてたり、あるいは、そのうちのどれ一つの 地域についてさえ言及している。しかしレーニンはスターリン ノ がやったように、これらのものを民族を民族たらしめる諸要素 ついての国際労働者協会総務委員会の第二宣言﹂、選集、 三七八頁。なお、マルクス﹁フランス”プロシャ戦争に ︵19︶ エンゲルス﹁ドイツと汎スラヴ主義﹂、選集、第七巻、 支えるものとしての近代的経済圏の発達をあげ、さらに共通の 要素を欠いても民族は民族でないというような、まるで形式論 第一一巻、二八二頁。 つつこの規定を肉づけしていきたいと考える。 理学者か裁判官のいいそうな口調で判決を下しているのではな ︵20︶ エンゲルス﹁ポーとライン﹂、 選集、第一〇巻、 一八. 諸要素を分離しただけで、これをもう一度結びつけてみること 一六九 五頁。 ︵怨 い﹂。﹁スターリンは、民族概念の中に含まれているさまざまの i﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂1 一説 苑一 ︵21﹂レーニン﹁民族問題についての論評﹂、選集、第五巻、 七五頁。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 一七〇 生活の諸特殊性は、生産関係の性格にはかかわらない。 そうではなくて、特殊な国民経済のプロフィールと、そ れ、そして、近代史および現代史の特徴をなす活動的な 話すいっそう広い諸地域の住民が同化され凝集させら 体の形成のおかげで、また、同じ言語ないし近い言語を た、もしくは発展するものである。これらの経済的有機 ろの経済的有機体が形成されていくさいに、発展してき 係と依存関係によって固められた相対的に閉じたもろも され、産業上の諸中心が発展し、広汎に分岐した交換関 性のことである。それは、生産および人口の分散が克服 増大した、あるいは発生・増大する、経済生活の諸特殊 まず第一に、国内市場の形成・発展にもとづいて発生・ ぼしている、もろもろの民族的な特殊性と独自性⋮⋮、 民族のもつ、歴史的に生成した、そして現に作用をおよ 頁。なお、つぎのような規定をみよ。−﹁さまざまな 訳、上巻、三四七−八頁︶。﹁民族・国民は、社会生活の れる﹂ ︵A・コージング編﹃マルクス主義哲学﹄、 藤野 る、相対的に安定した人間共同体が、民族、国民とよば す。これらの共同的標識にもとづいて形成され発展す 契機の綜括が、諸民族の生活における民族的なものをな における諸特殊性のことなのである。これらすべての りわけ文学言語1における諸特殊性、要するに、文化 る。最後に、民族の教養、一般的生活様式、言語fと 治的意識性と組織性という点でのそれ、ということであ れ、進歩と民主主義のための闘争における勤労大衆の政 あり、しかしまた、とりわけ、政治闘争という点でのそ 独自な伝統と歴史的に生成した特殊な能力ということで 術・芸術の進歩的発展という点での、民族のもろもろの ある。 ここで問題にしているのは、 さらに、科学・技 れに照応する住民の就業構造および技能とかかわるので 経済的・政治的・文化的生活のなかへ引き入れられもす 構造形態および発展形態であって⋮⋮、構造形態および ︵22︶ レーニン﹁民族自決権について﹂、選集、第五巻、七七 るのである。この過程は歴史的に必然的である。それは 発展形態としての民族・国民が、つねに一定の社会構成 ヤ ヤ 資本主義的生産様式の形成とともにはじまる。⋮⋮経済 体の発展、社会の一定の経済的構造の発展、こうしてま たそのときどきの階級的構造とその発展とに、従属して いたし、従属している、⋮⋮民族・国民の性格とそのは たらきとは、支配的な経済的および階級的構造に、ま忙 階級相互の諸関係に、たえず規定される。民族.国民と その諸要素︵経済生活、言語、文化、等々︶の発展、民 族・国民相互の関係、これに結びついている諸問題は、 ︵26︶ さきにみた四要素、その他スターリンの論理的不整合 についてのみならず、この﹁歴史的に構成された堅固な 共同体﹂という表現についても、また、とりわけ民族U 共同体とする把握についても、きびしい批判が存在す る。日高定雄﹁工賃蓋という、言葉﹂︵﹃法学志林﹄五ご﹂=巻 三・四号︶参照。なおこの点後述。 それは、つねに、また、どんな事情のもとでも、階級的 う場合・この共同体という用語はとりあえずスターリンから借 共通の生活儀式にもとづいて歴史的に形成された共同体とい その最も深い本質からいえば、すべて階級問題である。 に規定された歴史的U経済的かつ政治的目社会的内容を 用してきたものであったが、スターリンにかぎらず、高島氏も これをしばしば用いたところであった。この共同体という用語 は、厳密に使用されているのであろうか。 本田喜代治氏は、かつて、スターリンの規定を評価しつつ、 ﹁民族は一つの共同体であって、国家のような上部構造ではな い。だから、土台と運命を共にするといったような性質のもの ひとびとの生活様式U人間関係である﹂ とされた。わたくし ではない。それは原理的には階級分裂以前の生産関係に根ざす ︵−︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 を方向づけ意味づけ﹂る﹁精神生活﹂を﹁生活態度﹂と は﹁この後段に注目したい。 一七一 、、、、、・・・・・・・・・⋮︵2W よんでいるが、ここでは、前者を基礎としつつその双方 一﹁民族﹂概 念 の 規 定 と ﹁ 共 同 体 ﹂ , 1 をふくむものとして使用している。 五頁︶して﹁生活様式﹂とし、 ﹁その背後にあってこれ 生活の面における人間の行為の仕方を綜括﹂ ︵同上、六 ︵25︶ 馬淵東一編﹃人類の生活﹄は、 ﹁物質生活および社会 ︵24︶ 同上、一六七頁。 ︵23﹂ 高島、前掲書、一五八頁。 もっている﹂ ︵ 同 上 、 三 四 九 − 一 、 一 五 〇 頁 ︶ 。 二 一説 苑一 本田氏は、のちにも問題とするように、一方、 ﹁民族は、⋮ :近代になってできたもので、⋮−民族的結合を氏族関係の連 ハヨロ 続および一般化として表わすことは、たいへんなまちがいであ る﹂とされつつ、他方、 ﹁民族は近代になって突如として湧い て出たものではない。それは、徐々に、それこそ歴史的に、で きあがったものであり、それには、前近代的な発展段階、いわ ばそれの原料になったものがある。⋮−その民族になるまで の、いわばその原料になった人間集団は、これは、やはり、一 種の民族ではなかろうか?このようなものを、ロシヤ語では、 ナツイや器用窒︵民族︶に対してナロードノスチ器℃信属03ぴ ︵民族体︶といっている。ナロードノスチは、いわば前近代的 な民族の総称である。⋮⋮ところで、そのように歴史的に異な った、いろいろの形態を、ひとしく民族の名で呼ばせる当のも のは何であろうか?わたしはそれの根源は原始共同体のなかに あると思う﹂。 ﹁﹃くに﹄とは、ブルジ.ワ民族に結成されるま パ レ では、無数の小集団として、ほうぼうに散在していたナロード あり、源流にさかのぼれば部族共同体でもあったろう﹂、 と民 ノスチ共同体である。それは村落共同体であり、郷里共同体で ︹5︶ 族の根源.端初を原始共同体にもとめられたのであった。高島 一七二 氏もまた、 ﹁歴史上は民族のほうが国民よりも先であるといい うるだろう。しかしもう少し厳密ないい方をすれば、歴史的に 国民よりも前にあったと考えられる民族は、まだ真に民族の名 に値いする民族ではないともいえるであろう。それは部族であ ︵6︶ つたり、氏族であったり、種族であったりしたであろう﹂、と ほぽ同一の把握をされていると見られるのである。 ︵1︶上部構造が土台と運命を共にするという一般的把握 は、スターリンに依拠したものと考えられる。この点に ついての批判は、 拙著﹃社会構成体移行論序説﹄、一〇 ︵4︶ ︵3︶ ︵2︶ 同上、二四〇頁。 同上、二二六頁。なお、二 二九・二四三各頁。 同上、二二四頁。 本田喜代治﹃社会学入門﹄、 二二二頁。 −二﹂頁を参照。 ︵5︶ 高島善哉﹃民族と階級﹄、 一六頁。 ︵6︶ このように、民族の起源を原始共同体にもとめることは、決 してものめずらしいものではない。たとえば、 ﹁はじめは一体をなしていた民族的部族︵<o野器貫目B︶が いかにして巨大な大陸に徐々にひろがってゆくか、⋮か臨い一い 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 か加、いかにして言語が変化し相互に理解できなくなるばかり 諸部族が分裂をつうじて諸部族の全一的な群たる民族に転化す ︵己。 でなく本来の統一の痕跡がほとんどすべて消失するまでにいた るカ﹂ ﹁ギリシャの諸部族がすでに大部分は小規模の小民族︵<2・ ぎ冨。富津︶に結合し、 しかもその内部で氏族、 フラトリー、 ︵8︶ 部族がなおその独自性を完全に保持している﹂。 ﹁ドイツ人が民族移動の時期にい辷るまで氏族に組織されて いたことはうたがいない﹂。 ︹9︶ コ一一つの自然発生的にうまれた事実が、すべての、あるいは ﹁もろもろの民族・国民には、歴史上、他のもろもろの人種 的共同体が先行した。すなわち、民族集団、さらにさかのぼれ ば、種族と種族連合、そしてついには人類の発展の初期諸段階 においては氏族である。原始共同体の氏族は、共通の血統︵血 縁﹂によって結ばれた人間共同体であっ仁。その後の発展のな かで、すでに原始共同体において、いくつかの近親的氏族から もろもろの種族が形成された。種族は、共通の血統、共通の言 語、共通の地域、共通の文化的諸特徴を標識としてもっている 人間共同体であった。近親的諸種族は、結合して種族連合とな つだ。ここから、のちに民族集団が生じたのである。民族集団 た近親的諸種族の結合、融合から生じ、かつ、相対的に閉じた 階級分裂の特徴をおびている。民族集団は、、近親的言語をもっ は、奴隷制社会とともに発展したのであり、したがってすでに ︵10︺ による民族の編成と土地の共同所有がそれである﹂。 地域に居住する人間共同体であった。内部市場が発展し、大き ほとんどすべての民族の先史を支配している。すなわち、血族 ﹁中世のごく初期における諸部族のいりみだれた状態から、 一七三 資本主義的生産様式の形成につれてゆっくり進行した。:⋮・民 同体への融合がおこなわれた。ヨー・ッパでは、この過程は、 につれて、はじめてもろもろの民族集団の民族的・国民的諸共 した経済単位に生長し、民族語が形成されたり固定したりする な諸領域がいっしょになって相対的に閉じた地域における固定 しだいしだいにあたらしい民族が発達してきた。よくしられて いるように、これは、大部分の旧ローマ諸州では、被征服者が 征服者を、農民と都市住民がゲルマンの領主を自分に同化させ ていった過程であった。したがって近代の諸民族もま仁同様 に、被圧迫諸階級のつくりだし忙ものなのである。乙こでは融 ︵U︸ 合がおこなわれ、そこではまた分離がおこなわれた﹂。 1﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂1 一説 苑 − 族ないし国民は、民族的共同体の歴史上最高かつ最後の形態で 一七四 でな﹂いことともつながるのであろう。かくして、さきの、民 ︵13︶ って自立的に判断し行動する個人を単によせ集めたようなもの ある﹂。 族に関する素朴な規定を一歩すすめて、ここでは、民族とは原 ︵皿︶ ︵7︶ エンゲルス﹁家族、 私有財産および国家の起源﹂、選 について﹂、選集、第一六巻、三六七頁。 ︵n︶ エンゲルス﹁封建制度の没落とブルジョアジーの勃興 ︵10︶ エンゲルス﹁マルク﹂、選集、第一六巻、二四六頁。 ︵9︶ 同上、四二八頁。 ︵8︶ 同上、三八四頁。 がってくる。その一つは、原始共同体はひとり民族の原基をな ︵痴︶ すのみならず、社会そのものの原始形態をなしているという事 うことによって、当面、あらたにつぎの二つの論点がうかびあ しかしながら、原始共同体と関連づけて民族をとらえるとい う。 式にもとづいて歴史的に形成される共同体として把握しておこ 始共同体に発祥しそこから展開・拡大していく共通の生活諸様 ︹M︸ ︵12∪ コージング編﹃マルクス主義哲学﹄上巻、三四八−九 実である。いいかえれば、原始共同体はたしかに民族の原基か 集、第一三巻、三七三頁。 頁。 個人を越えた民族の伝統があって、これが生活のあらゆる面を きもの︶のであった。かく考えてこそ、 ﹁個人に先立ち、かつ その展開としてとらえられていた︵もしくは、とらえられるべ 在﹂としての人間H社会、共同体として存在する人間N社会、 としてではなく、原始共同体に端初をもつ、 いわば﹁類的存 民族の規定にいう共同体とは、このように、単に卑俗な用語 う。この論点については、わたくしもまだ不十分な言及しかな れているという高島氏のスターリン批判ともかかわるであろ んとする高島・本田両氏のこころみ、国家論との連関が無視さ 点、前節でふれた権力関係の有無によって民族と国家を区別せ 族とは一体いかなる関連をもつのか、ということである。この 同体を原始形態として展開してくる社会一社会構成体と、民 すぎず、またそのかぎりで正当ではあるが、他方、この原始共 もしれない、しかしそれは単に問題の一局面をしめしているに 制約し方向づける﹂のであり、 ﹁民族とは、多少とも理性をも しえないが、のちに関説することとしたい。 二つめの論点はこうである。原始共同体と関連づけつつ、そ れを原基として民族をとらえるという把握は、そのかぎりにお いて︵第一の論点をのこしつつも︶正当であると考えられる が、そのことと、マルクス主義における人間解放の問題とは、 い段階にある。 ﹃人類社会﹄という系は、なるほど社会主義に おいて原始社会でとおなじ生産関係の型を提示し、こうして否 ︵ロ︺ 定の否定の段階でこの点では出発の段階へたちかえ﹂る。 民族の原基として原始共同体をとらえるということは、こう めツ した人間解放の帰結点と、民族解放の回帰点が一致するという ことをさししめしているのである。民族問題の分野でも、この ある。すなわち、ここで民族の原基としてとらえられた原始共 ︵16︶ 同体は、まさしく、発展における否定の否定を通じて、すなわ ﹁私的所有と資本とが不可避的に人々を分裂させ、民族間の 言をとらえなくてはなるまい。 点を逸してはならないであろう。こうした理解のうえで次の発 ち人間解放←民族解放を通じて、より高次の次元において復帰 反目をかきたて、そして民族的抑圧をつよめるものであるとす はたして無関連に主張されてよいのであろうか、ということで すべき回帰点でもある。 れば、集団的所有と集団的労働とは、おなじく不可避的に人々 一七五 ﹁民族問題の提起はロシアのマルクス主義の歴史のうえで二 パぬレ れを土台としてしか解決されない﹂。 ﹁民族問題はプロレタリア革命と結びついてしか、また、そ 一の過程の二つの面である﹂。 ︹20︶ されることとは、帝国主義の隷属から勤労者が解放される、同 ﹁諸ソヴェト共和国が強固になることと、民族的抑圧が根絶 絶滅する﹂。 ︵四︺ を接近させ、民族間の反目をうちこわし、そして民族的抑圧を ﹁生産手段の原始共産主義的共同所有は、人類社会の発展の あゆみのなかで、生産手段の私的所有で否定きれた。生産手段 の私的所有は、奴隷制・封建制・資本主義における生産関係の 統一的類型を規定しているのである。この私的所有は、ひきつ づき発展がおこなわれるなかでさらにまた同様に生産の手かせ 足かせになり、社会主義において生産手段の社会的所有が回復 されることをつうじて必然的に否定される。とはいっても、こ うして起こる否定の否定は、原始社会の共有制および生産関係 の型へのただの帰還を意味しはしない。⋮⋮質的にもっとたか 一﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂− と、第二段階すなわち十月革命の段階とが、それである。第一 つの段階をとおっている、第一段階すなわち十月革命前の段階 た。:::民族的結合の創出はブルジョア的紐帯の創出に 民族的結合は、.当時にはほとんど問題になりえなかっ れていたのである﹂i同上、四四頁︶。﹁本来の意味の 一七六 段階では、民族問題は、ブルジョア民主主義革命の一般的問題 ほかならなかった⋮⋮。⋮⋮民族を血族的結合によって 1説 苑1 の一部分、すなわちプロレタリアートと農民の独裁の問題の一 説明している︹卑俗き︺﹂︵同上、四四一五頁︶も、まさ 五〇四頁。 ︵お︶ マルクス・エンゲルス﹁共産党宣言﹂、選集、第二巻、 三七一頁︶ではないのである。 のいうような民族の発生の問題︵スターリン、前掲書、 に民族的結合を問題にしているのであって、スターリン 部分と見られていた。民族問題が拡大されて植民地問題に転化 し、民族問題が国内的問題から世界的な問題になった第二段 階では、民族問題はすでにプロレタリア革命の一般的問題の 一部分、プロレタリアートの独裁の問題の一部分と見られてい 17﹂ ︵遇。 ︵13︶ 馬淵東一編﹃人類の生活﹄、一一頁。 ︵14︶ 前節でもふれたように、民族を原始共同体発祥ととら ﹁発展は、いわば、出発点に復帰するのであるが、し の発生に関するミハイロフスキー批判ではなく、むしろ ン主義﹂︵全集、第一一巻、一イ一七〇頁︶のいうような民族 集、第一巻、四四頁︶は、スターリン﹁民族問題とレーニ うるであろう。レーニン﹁﹃人民の友﹄とはなにか﹂︵選 どおりの再生としてではなく、古いもののある性質・側 の個々の特徴を再現する。⋮⋮すでにあったものの文字 新しい、より高い基礎のうえで、発展の最初のモメント 頁︶。また、﹁二重の否定は肯定をあたえる、すなわち、 あろ﹂︵ソ連邦科学院哲学研究所﹃哲学教程﹄H、四八七 かしそれは、すでにいっそう高い基礎のうえにおいてで ︵16︶ ミハイ・フスキーの、家族←種族←国家という成長説へ 面だけのくりかえしとして、:・⋮前方への、そのなか えることによって、民族と人種のかかわりあいはっかみ の批判であったと考えられる ︵﹁国家はけっして血縁団 に、それ以前にあったあらゆる価値あり積極的なものを ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 体を基礎としてではなく、地縁団体を基礎として建てら 運動を実現するような﹃復帰﹄である﹂ ︵同上、四八八 自己のうちに集約している、新しい、より高い形態への 起源﹂︵選集、第ゴニ巻、三七三頁︶を参照。 れる。なお、エンゲルス﹁家族、私有財産および国家の もそれらの死滅は一次元異なる問題であるように考えら スターリン﹁民族問題における党の当面の任務につい −九頁︶。 ︵π︶ コTジング、前掲書、下巻、五七六頁。 ︵20 ︶同上、三四頁。 て﹂、全集、第五巻、三二−三頁。 あるとするならば、民族の死滅の問題は再検討を要す ︵21 ︶スターリン﹁レーニン主義の基礎について﹂、 全集、 第六巻、一五五頁。 スターリン﹁ユーゴスラヴィアの民族問題によせて﹂、 ︵22︶ から差をもたらすこと、明白ではあるまいか。少なくと 頁︶、と。原始共同体への復帰は、 国家と民族におのず 義社会においても国家は死滅しない﹂ ︵同上、二二〇 それを国家へも及ぼしておられる。すなわち、 ﹁共産主 おける原生的なもの、風土論からもってこられ、しかも 頁︶とされている。しかし、高島氏はこの思考を人間に がより具体的でより正しい見方である﹂ ︵同上、三二四 高い段階においても民族は﹃死滅﹄しないと考えるほう 一七七 しめていく。さらに、一旦、こうした階級関係が成立したのち 関係︵さらにこれとともに特定の権力関係・法関係︶を成立せ 力水準に照応した直接生産者の分解を通じて、特定段階の階級 かもそれぞれの歴史段階において、そのなかから、当該の生産 再生産←経営←生活におよぶ共同体的諸関係として存続し、し 接生産者の非自立性から、労働過程を基本契機として、生産H て、一般的には、生産力水準に規定された﹁自然﹂に対する直 ところで、この原始共同体は、その後の各歴史段階におい 全集、第七巻、八二頁。 一﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂1 ではない﹂ ︵前掲書、二一頁︶。﹁共産主義という社会の して諸民族の個別性・個体性を殺してしまうということ ない。⋮⋮人類が一つとなるということは、それはけっ 族のカテゴリーが消滅するというような考え方は正しく る。この点、高島氏は、 ﹁人類社会の理想像において民 ︵18︶ 民族解放が、原始共同体へのより高い次元への復帰で ( 19 原理的に階級関係を捨象しうるものではあるが、生産様式の成 における共同体的諸関係は、それぞれの生産様式の成立までは 化せしめられるのであった。具体的には、奴隷制および封建制 は、その階級関係自体を再生産する基盤としての生産関係に転 1説 :苑1 も、近代社会成立時点において、はじめて統一された民族とし は、ながいあいだの規則的な交渉の結果として、人々が幾世代 ︹1︶ も共同の生活をした結果として、はじめて構成される﹂︶、しか おき、爾後の歴史段階をへて徐々に展開・拡大しつつ ︵﹁民族 民族は、これまで見てきたように、その原基を原始共同体に 一七八 ︵鴉︶ 立以後は、それ自体の内部に階級関係をうみだしこれを再生産 て本格的な成立をみるところである、とされている。 ﹁どんな国でも、ブルジョアジーの支配は民族的独立なしに していく基盤としての生産関係である︵この側面が社会構成体 と連繋︶と同時に、これと重複しつつ、他面、この共同体的諸 するものとして、それはいわゆる民族体の末端細胞でもあると 最後的統一を至上命令とした。そしてその民族国家だけがすべ ﹁ブ・レタリァートの利害は、⋮:・トイツの一民族国家への は不可能である﹂。 ︵2︶ 考えられるのである。かくして、民族とは、原始共同体に発祥 ての伝統的な些細な障害物をもはらいきよめ、プロレタリアー 関係の成員に、その共同体的諸関係の等質の生活諸条件を付与 し、各段階の共同体的諸関係のなかで実現される共通の生活諸 トとブルジョアジーが彼らの力をくらべるべき戦場を用意しう る﹂。 ︹3︶ 様式にもとづき、それが歴史的に展開・拡大して形成される共 同体である、ということになる。そしてこの規定は、いわゆる 近代民族の成立の問題を導入して、さらにふくらませなくては の時代の一産物である。封建制度が解体し資本主義が発展し ﹁近代的民族は、一定の時代の1勃興しつつある資本主義 ていく過程は、同時に人々を民族に構成していく過程である。 ならない。 ︵23︶ この点、拙著﹃日本農業構造の分析﹄および﹃日本農 ⋮:民族の形成が中央集権国家の形成と、大体において時をお い、独立のブルジョア民族国家に発展した。⋮⋮ヨー・ッパの ヤ なじくしたところでは、民族は、おのずから国家の外被をまと ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や 業発展の論理﹄における共同体論をも参照のこと。 三 ヤ ヤ ヤ ヤ や 東部では反対に、自衛の必要によって促進された中央集権国家 の形成が、封建制度の解体より以前に、し忙がって民族の形成 わい跡静におこなわれた。そのために、ここでは民族は民族国 家に発展しなかったし、また発展しえなかった。そして、通 常、一つの強力な支配民族と、いくつかの弱少従属民族とから なる、いくつかの混合多民族ブルジョア国家を形成した。. していた⋮⋮民族国家は、一般的にいえば、民族的抑圧を知ら はじめのうちは主として自分自身の民族的勢力をよりどころと なかった。 これに反して、 一つの民族の・1より正確にいえ ば、その民族の支配階級の一その他の諸民族にたいする支配 のうえにきずかれている多民族国家は、それ自身、民族的抑圧 と民族運動の最初の発生地であり、その主要な舞台である。支 配民族の利益と従属民族の利益との矛盾は、それを解決しない では多民族国家の碓固たる存在が不可能であるような矛盾であ る。多民族ブルジョア国家が、これらの矛盾を解決する力をも たないこと、そして、いくら諸民族を﹃平等化﹄し、少数民族 を﹃保護﹄しょうとしても、私的所有と階級的不平等とが維持 されているかぎり、その試みはどれもこれも失敗におわり、い つも民族的衝突の激化におわるのが普通であること、1ここ 一﹁民族﹂ 概 念 の 規 定 と ﹁ 共 同 体 ﹂ ! に多民族ブルジョア国家の悲劇はある。⋮甲:資本主義のその後 の発展・:⋮は、一方では、旧民族国家が新しい領土を強奪し、 これらの国々を、民族的抑圧と民族的衝突がつきものの多民族 ︵植民地領有︶国家にかえるという結果をもたらし、他方で は、旧多民族国家の支配民族のあいだに、もとからの国境をま もるばかりでなく、これをさらに拡張し、近隣の国家を犠牲と して、新たな︵弱い︶民族体を自分に従属させようという努力 をつよめた。こうして民族問題は拡大され、結局は、事態の成 行きによって一般植民地問題と融合し、そして民族的抑圧は、 国家内の問題から国家間の問題に、弱い、完全な権利をもたな い民族の従属をめざす、 ﹃大﹄帝国主義強国の闘争︵そして戦 パ ソ 争︶の問題にかわった﹂。 ﹁資本主義の発展は、すでに前世紀に生産様式と交換様式と を国際化し、民族的封鎖性を一掃し、諸民族を経済的にちカづ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、︹5︺ 、 け、広大な諸領域を一つの連関した総体に、しだいに統合して いくという傾向をあらわした。資本主義のその後の発展⋮: は、この傾向をますますつよめて、きわめて多種多様な諸民族 を国際的分業と全面的相互依存のきずなで結びつけた。この過 程が生産諸力の巨大な発展を反映していたかぎりで、ふ、“たそれ 一七九 一八○ 要因が歪窪からである・もちろべ長歌薫談奮 1説 苑1 が民族的孤立と種々の民族の利益の対立とをなくなすことを容 語、地域、文化的共通性などは天からふってきたものではな 、、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 易にしていたかぎりで、それは進歩的な過程であったし、また ﹁重大な誤りの一つは、⋮⋮現存のすべての民族をいっしょ ︵6︶ 済の物質的な前提を準備するものだからである﹂。 能であるという意味での、潜在的可能性にすぎなかった。この ろ、一定の有利な条件があるばあいには将来、民族の形成が可 伽。いかい、ひか頓佃野菊嶺静華榔鰻偽伽卜・患い也⋮伽ひひ く すでに資本主義以前の時代にも少しずつ創造されつつあっ くたにして、それらのあいだにある根本的な差異を見ていない 潜在的可能性は、民族的市場と経済的および文化的中心地とを 今でも、そうである。なぜなら、それは将来の世界社会主義経 という点にある。世界にはいろいろな民族がある。ブルジョア もった資本主義の興隆期にはじめて、現実性に転化したのであ たないところのいわば潜在的民族とでもいうべきものであった った﹃民族﹄にしても、それはまだ真に民族としての自覚を持 ﹁絶対主義国家の下でしだいに一体化への道を上昇しつつあ を作り出したブルジョワ民族の成立があった﹂。 その根底に、封建社会の閉鎖性を打破して、近代的な広い市場 ︵m︶ から、だんだん広い範囲にわたる愛着へと発展したのである。 上で、そうした自覚を促し、それが、初めは狭い地域的なもの ﹁人間の行為とくに階級闘争が、右の四つの共通性の基礎の 級、ブルジョアジーである﹂。 ﹁民族的統一の形成を意識的に指導したものは、上昇する階 ︵9︶ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 、︵8︶ る﹂。 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ヤ ヤ も ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ジーが、封建制度と封建的細分状態とをやぶって、民族を結集 し、民族をかためた、資本主義の興隆期に成長した諸民族があ る。これが、いわゆる﹃近代的﹄民族である。⋮⋮資本主義以 前、すなわち国々が個々の独立した公国に細分されていて、こ れらの公国がたがいに民族的なきずなで結ばれていなかったば かりでなく、このきずなの必要性をきっぱりと否定していた封 建制度の時代に、民族がどのように発生し、かつ存在すること ができたであろうか。⋮⋮資本主義以前の時代には民族はなか ︵7︶ つたし、また、ありえなかった。というのは、まだ民族的市場 もなく、民族的な経済的中心地も文化的中心地もなく、したが って、その人民の経済的細分状態をなくなして、これまでばら ばらであったこの人民の各部分を民族的な全一体に結合する諸 ことができたのは、まさに近代的な国民国家の形成期において あろう。つまりこのことは、民族が民族としての一体感を持つ 成員として、一つの共同体の意識を持つことが必要であったで には、その民族が一つの国民国家を形成し、その国民国家の構 であろう。この潜在的民族が自覚した顕在的な民族となるため ︵1︶ スターリン﹁マルクス主義と民族問題﹂、 全集、第二 ︵13︶ を代表しているのである﹂。 民的な歴史的な諸課題をもつ、事実上の民族的、国民的共同体 労働者階級およびその他の勤労諸階層を包括する全民族的・国 この段階においては、その社会的構造にかんして、市民階級、 封建制に対立させた。⋮⋮ブルジョア的民族・国民は、発展の ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ も であったということを意味するにちがいない。⋮⋮これは一つ ︵2︶ マルクス・エンゲルス﹁共産党宣言、一八九三年イタ 巻、三二七頁。 は︹近代的な︶民族とはなりえない。それは︵近代的な︶国民 のトートロギーではないのか⋮⋮。たしかに民族はそれだけで ヤ ヤ リア語版への序文﹂、選集、第二巻、五五五頁。 ヤ ヤ 国家の成立をまって、いな︹近代的な︶国民国家の成立ととも いる︹ことは批判さるべきである︺﹂。 ⋮⋮近代ブルジョア民族の秩序を恒久的なものにしようとして 立した近代的ブルジョア民族の過去への投影”延長とかんがえ きらかにされている⋮⋮。⋮⋮近代以前の民族をも明治以後成 の時代の歴史的産物であることが︹スターリンにおいては︺あ 定の時期、すなわち民族が封建制を克服して上昇する資本主義 ﹁民族は歴史的なものであるばかりでなく、それは歴史の一 掲﹁マルクス主義と民族問題﹂ ︵前掲、三三七−八頁︶ 建設における民族的諸契機﹂︵同上、一九一頁以降︶、前 ︵全集、第五巻、四五頁以降︶、 同﹁党建設および国家 ン﹁民族問題における覚の当面の任務にかんする報告﹂ て﹂、全集、第五巻、二九−三一頁。このほか、スターリ ︵4︶ スターリン﹁民族問題における党の当面の任務につい 決権について﹂、選集、第五巻、七七頁。 ン新聞﹄﹂、選集、第三巻、六頁。なおレーニン﹁民族自 ︵3︶ エンゲルス﹁マルクスと一八四八i四九年の﹃新ライ ﹁近代の諸民族、国民はたいてい、もともとはブルジョア的 などを参照。なお、ここでの民族と国家の関連。 ︵11︶ に民族となることができたというべきだろう﹂。 民族・国民として発生したものである。⋮⋮それは、全住民を 一八一 ︹12︶ 一﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂1 一説 苑1 一頁。 一八二 近代民族としての民族の本格的形成については、みぎのよう ︵5︶ いわゆる民族の原基としての原始共同体への回帰は、 この、近代における民族的封鎖性一掃の次元のうえで果 に述べられているのである。 ただ、 これらの引用文のなかに ヤ ヤ ヤ ヤ 社会の成立とともに、最大限それと同一のひろがりをもって、 は、従来の、いわば封鎖的な民族体が、近代国家ないしは近代 されるのである。 ︵6︶ スターリン﹁党建設および国家建設における民族的諸 契機﹂ ︵前掲 、 一 九 一 頁 ︶ 。 民族断片と化した人民にとって、民族解放の課題をあり 到達しえぬ植民地人民や、解体せしめられひきさがれた に原基をもち、爾後各段階の共同体的諸関係のなかで実現され ろう。ともあれ、この点を考慮すれば、民族とは、原始共同体 する危険をはらんでいるものもある。・この点、注意が必要であ 近代民族として統︼された事実を、民族の成立と混同し同一視 えなくすることになりかねない。それは、スターリン自 る共通の生活諸様式にもとづいて、歴史的に展開・拡大しつ ︵7︶ こうしたスターリンの表現は、資本制段階にみずから 身の反論︵同引用文、三六七頁﹂をみずからにむけるこ つ、近代国家の成立とともに最大限それと同一のひろがりをも ヤ ヤ ヤ ヤ ととなる。この引用文後段と関連づけた歴史的規定が必 って統一される人々の共同体である、ということができよう。 本田喜代治﹃社会学入門﹄、二四一頁 プ 四 近代民族として民族が統一される時点は、 それまで、各民族■ 下、節をあらためて若干の検討をくわえよう。 との関連にかかわる論点が、あらためて検討を要請される。以 の共同体にかかわる論点と、近代国家成立H資本制社会構成体 しかし、この近代民族としての民族の統一にいたって、さき 要であろう。 ︵8︶ スターリン﹁民族問題とレーニン主義﹂、全集、第一 一巻、 一二六九頁。 ︵10︶ 高島善哉﹃民族と階級﹄、一六i七頁。 ︵9︶ ポリツェル編、講座哲学W﹃国家と民族﹄、 八九頁。 ︵n︶ コージング編﹃マルクス主義哲学﹄、 上巻、 三五〇1 ︵12︶ 石母田正﹃歴史と民族の発見﹄、 一〇六頁。 ︵13︶ 体それぞれの共通の生活諸様式をつちかってきた共同体的諸関 係ρこの場合封建的共同体︶が近代資本制によって基本的に破 砕されていく時点でもあった。すなわち、近代社会の成立にも とづく共同体的諸関係の破砕は、一方、封建的階級関係を再生 産する基盤としての生産関係の覆滅であると同時に、封鎖的な 民族体内部の共通の生活諸条件をつちかった共同体的諸関係の 枠をうちやぶりこれを最小公倍数にまでおしひろげるものでも あったと考えられるのである。いってみれば、ばらばらの民族 体と封建的共同体との照応、民族統一と封建的共同体破砕との 照応、このように、資本制の発展にもとづく近代国家の成立、 近代民族としての民族統一、封建的共同体の破砕にもとづく個 人の自立が、同時に実現されてくることはまことに示唆的であ ヤ ヤ ヤ る。そしてその同時性は、単なる偶然ではなく、まさしく、資 ︵1︺ 本制社会構成体成立こそがそれをなしとげたのである。、 ﹁全世界を通じて、資本主義が封建制にたいして最後の勝利 をおさめた時代は、民族運動とむすびついていた。これらの運 動の経済的基礎はつぎの点にある。すなわち、商品生産が完全 な勝利をおさめるためには、ブルジョアジーが国内市場を獲得 することが必要であり、同一の言語をつかう住民の住んでいる 一﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂! 諸地域を、この言語が発達し文学のうちに固定するのを妨げて いるいわゆる障害をとりのぞいたうえ、国家として結集するこ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ とが必要であるという点にある。一一一、・語は人間のもっとも重要な 交通手段である。言語の統一と妨げられることのないその発達 は、近代資本主義に照応する真に自由で広範な商品流通のため の、また住民がそれぞれの階級に自由にひろく編成されていく ための、もっとも重要な条件のひとつであり、最後に、市場 を、大小を問わずすべての経営者に、売り手と買い手に密接に ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や むすびつけるための条件である。だから、近代資本主義のこれ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や らの要求をもっともよくみたす民族国家を形成することが、あ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ぽ らゆる民族運動の傾向である。もっとも深い経済的諸要因が、 この方向に押しすすめるのである。だから、西ヨーロ.パ全体 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や 、、、、、、、 、、、、、、 、、、、、、、︹2︶ にとって、それどころか文明世界全体にとって、資本主義時代 の典型的なもの、正常なものは、民族国家である﹂。 ﹁社会主義的諸民族・国民は、社会主義的な経済的社会構成 体を基礎にして発展し、⋮⋮ブルジョア民族的.国民的共同体 を引き裂く階級的敵対に代わって、社会主義社会の発展してい く政治的U道徳的統一性があらわれ⋮⋮ずっと大きなまとまり と安定性とをうけとることになる。ここではじめて、ブルジョ 一八三 の傾向は、民族的・国民的諸構造の第二のもっとずっと重要な 的・国民的共同体について語ることができるのである。:⋮と ア民族的.国民的共同体とちがって真に統一的で安定した民族 家を形成していく型である。この、 ﹁おのずから国家の外被を うに、 ﹁民族はおのずから国家の外被をまとい﹂単一の民族国 る。その一つは、酉ヨーロッパを中心とする典型的な場合のよ 表現をかりれば、この統一には二つの類型があるごとくであ 一八四 発展傾向と手をとってすすむ。それは、すなわち、諸民族・国 まとい﹂という表現はまったく不分明であるが、この点はのち 1説 苑ー 民の平和的接近、全面的かつ同志的協力、そしてついには一 にふれる。その二つは、東ヨーロッパのように、 ﹁民族の形成 ところで、資本制社会構成体の成立こそが封建的共同体を破 四頁。 ︵3︶ コージング編 ﹃マルクス主義哲学﹄、上巻、三五三− ョアジーの勃興について﹂、選集、第一六巻、三六九頁︶。 当然であった﹂ ︵エンゲルス﹁封建制度の没落とブルジ くだったこと、民族が鼠民にまで発達しはじめたことは ちには、国家成立にあたってこれが既存の基礎としてや 七頁。なお、 ﹁言語群の分界線がいったん確定されたの ︵2︶ レーニン ﹁民族自決権について﹂、選集、第五巻、七 ︵1︶ 拙著﹃社会構成体移行論序説﹄、二三・二六頁等。 会の成立とともに、それと最大限同一のひろがりをもって形成 第二の問題はこうである。近代民族として統一され、近代社 ず、日本でも考慮されることであろう。 意される。このことは、スターリンのとりあげた事例にかぎら れ、それがやがてかかる国家問の関係にも展開していく点が注 体内部および相互の関係に、封建的共同体の封鎖性がもちこま の民族体であるにせよ少数の民族体であるにせよ、それら民族 家が形成されるのであるが、その国家に包含されるものが多数 封建的共同体の破砕のないまま絶対主義国家として中央集権国 動の最初の発生地﹂であるような型である。この後者の場合、 があり、かかる多民族国家が﹁それ自身、民族的抑圧と民族運 より以前に﹂ ︵絶対主義国家として︶ ﹁中央集権国家の形成﹂ きらにさきの展望において一融合、そういう発展傾向であ ハ3︶ 砕し、近代民族としての民族の統一をなしとげたという場合、 される共同体、この近代社会における共同体とは、一体いかな る。﹂ まずつぎの点が問題である。すなわち、前節でのスターリンの る共同体であろうか。1それは、封建的共同体とはことな り、労働過程1生産に規定されつつも、それとは一応切断され ︵4︺ た、国家的規模まで拡大した生活様式の共通性のみを契機とし て成立する﹁共同体﹂である。それは、そのかぎりにおいて資 本制社会のひとつの基盤であるが、原始共同体を端初とする ていること、かかる点にも存在しているのである。 ﹁これらの 、、、、、、 ・・⋮ ︵5︶ 先進国︵イギリス、フランス、ドイツその他︶では、民族問題 ヤ はずっとまえに解決ずみであり、民族共同体はずっとまえにそ の命数がつき、 ﹃全民族的な任務﹄は客観的には存在しない﹂. それが、さきの第二類型のごとく、封建的共同体が破砕されな とともに、決定的に非現実化せしめられる、まさにそのときに 口社会が、とりわけ、封建的共同体の解体判資本制社会の成立 あり、そういうものとしての制度、そしてイデオロギー ︵4︶ 本田喜代治氏はいう、﹁国家は特定の社会の上部構造で 幻想は重層化してあらわれるであろう。 いうちに絶対主義的中央集権国家が形成されたときには、この 共同体として強調されるものであるかぎり、それは、しばしば であるのに対し、民族は、もっと広く、その社会の土台 ﹁類的存在﹂としての人間廿社会、共同体として存在する人間 幻想基盤たらしめられる危険性をもつであろう。 として生産過程そのもののなかまで食い入っている、だ 一八五 上部構造に組み入れられなかった﹃民族﹄共同体の部 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ に制度化されなかった﹃家族生活﹄の部分、国家として ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ってしまいはしなかったのである。 ﹃家族法﹄のわく内 頁︶。また、 ﹁⋮⋮その際、社会は、 ぜんせん国家にな は、いちおう独立である﹂ ︵同﹃社会学人門﹄、一九三 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ひとびとの生活そのものでできており、国家の生滅と 消滅するというようなものではない。それは、いわば、 から、イデオロギーとしても、上部構造の崩壊とともに ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ すなわち、かかる民族統一を近代国家がなしとげた意義は、 一面、これまでの引用文でしばしばふれられた、資本制の発展 にとっての進歩的役割にあると同時に、他面、資本制社会にお いて頂点に達するところの、市民社会からはなれた幻想的共同 性をもつ近代国家、かかる国家と同一のひろがりをもたしめそ の生活基盤に民族を措定すること、’しかも現実にはこの民族は 階級によってひきさがれつつ幻想的一体感の母胎たらしめられ ること、すなわち民族は、国家と同様、階級性に規定されつ つ、それをぬきとられブルジョア支配の手段に転化せしめられ 一﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂一 で達成された・ものではなかったのか?﹂ ︵同上、一二一九 て国家や家族制度に組み入れられなかった共同体の部分 これらすべては、すぐれて超階級的な場面、上部構造とし ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 間的なあらわれとしての階級闘争でなければならない。 生産力の発展、その性格と生産関係との矛盾、それの人 らブルジョワヘの発展を可能ならしめたものは、社会の くまで続け︹た︺﹂︵同上、二二七頁︶。そして、﹁農奴か 残り、上部構造”制度ロイデオロギーに対する抵抗をあ 分、それは、どこまでも、家族法や国家の対立物として ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ !説 苑1− ︵6︺ ・内部的にひきさがれ、それにもとづいて他民族への抑圧も激 ア民族自身、ブルジ・ア的支配と階級的敵対によって、現実的 的一体性をも提供するものであった。しかもそこで、ブルジョ に、ブルジ。ア国家の幻想基盤、ひきさがれた市民社会の幻想 ブルジ。ア民族としての民族の統一的形成は、かくして同時 であらわれる幻想。 る抑圧を打倒する任務が、 まだある﹂、と。しかもそこ 族的な任務、すなわち、民主主義的な任務、他民族によ 族がまだいる。これらの民族のうちには、客観的に全民 ある。ここには、通例、資本主義的に未発達の被抑圧民 一八六 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 頁︶、等々。ただ、ここでも民族と国家、 民族と土台” 化している。まさしく、 ﹁他民族を抑圧する民族は、自由では この問題に対してブルジ。アジーが無能力者であり性格破産 ありえない﹂のである。 ︹7︶ 経済構造との関係は、はなはだあいまいなかたちでしか 表現されていない。この点の追求はあらためてなされな くてはならない。 これにつづいて、 ﹁だから、いま民族共同体を﹃爆破﹄ 主義﹄とについて﹂、 選集、第六巻、一四三頁。なお、 立によってのみ、果しうるのである。 る階級闘争によってのみ、それによるあらたな社会構成体の樹 者である以上、真の民族解放は、プロレタリアートを中心とす し、階級的共同体を建設することができるのは、これら ﹁アイルランドの民族的解放は、イギリスの労働者階級にと や ってけっして抽象的な正義の問題や人情の問題ではなくて、彼 ︵5︶ レーニン﹁マルクス主義の戯画と﹃帝国主義的経済 の国だけである。未発展の国々、すなわち⋮⋮東ヨー・ 等自身の社会的解放の第一条件である﹂。 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵8︶ ッパ全体と、植民地と半植民地の全体では、事情は別で ﹁民族的偏見を利用し強盗戦争に人民の血と財宝を浪費して 犯罪的企図を追求する対外政策⋮⋮こうした対外政策のための ︵9︺ 闘争は、労働者階級解放のための一般的闘争の一部を形成す る﹂。 現段階における民族解放問題は、プロレタリア変革、および それに規定された帝国主義段階における植民地・従属国人民の 解放闘争の一環であるとともに、人間解放羽原始共産制へのよ り高次の回帰の一環でもあった。あえていえば、植民地.従属 国民族の外国帝国主義支配からの解放のみが、その民族の解放 をもたらすのではない。その﹁解放﹂された民族、あるいは帝 国主義国の民族、それ自体の内部における階級支配からの解放 なくしては真に民族は解放されたとはいいがたいのである。 ﹁他民族を抑圧する民族は、自由ではありえない﹂というマル クスの言葉は、このように読みとりうる。この把握ぬきでは、 民族も、民族解放も幻想であろう、民族解放はかくて、単なる 変革をめぐる要求や戦術にとどまらず、まさに人間解放と不可 分の連関をもつものとしてとらえられなくてはならない。プロ レタリア国際主義のみがこれを実現する。 ﹁社会生活の発展形 態としての民族・国民の役割は、労働者階級およびこれと同盟 t﹁民族﹂概念の規定と﹁共同体﹂1 した勤労者および民主主義的勢力の闘争共同体へ、大きく移行 する。⋮⋮民族的・国民的共同体および進歩的民族運動の大義 ハルリ は、勤労人民の利益およびその帝国主義反対闘争と融合する﹂ のである。 ︵6︶ コージング、前掲書、三五一頁。なお、かかる分裂を 反映して、イデオロギーもまた、大ざっぱにいって二つ ヤ の対極に分裂している。それは、分裂のそのままの反映 ヤ としての個のイデオロギーであり、これに対する、合法 則的な類のイデオ・ギーである。支配階級は、この前者 に対しては、 ﹁国家﹂・﹁民族﹂を強調して幻想的共同を 鼓吹し、後者における民族の主張に対しては、全体主義 と称して論難する。 ︵7︶マルクス﹁ポーランド人の宣言書﹂、選集、第一三巻、 八七頁。なお、後注8参照。 ︵8︶ マルクス ﹁マルクスからマイヤーとフォークトヘ﹂、 選集、第八巻、五三六頁。 ︵9︶ マルクス ﹁国際労働者協会創立宣言﹂、 選集、第一一 巻、一四頁。 ︵10︶ コージング、前掲書、三五二頁。 一八七 1説 苑1 二九七一・ ︵一九七三・ 一二・七成稿︶ 一〇・一七加筆︶ 一八八