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伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題 論 文

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伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題 論 文
『比較社会文化』第 19 号(2013)19 ∼ 37
論 文
vol. 19(2013),pp.19 ∼ 37
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
Authenticity Question of the supposedly Aristotelian
2012 年 10 月 26 日受付,2012 年 12 月 11 日受理
新 島 龍 美*
Tatsumi NIIJIMA
キーワード:アリストテレス、『大道徳学』
(
)、偽作問題
要 旨
本研究は、アリストテレス作と伝えられる『大道徳学』
(
)が果たしてアリストテレスの真
作か否かを考察するものである。考察方法は、同書の幾つかの箇所を取り上げ、そこに含まれる議論を分
析し、明らかになった内容が、アリストテレスに帰属可能なものがどうかを判断するという、ある意味で
最も正統的な方法である。結論は、同書はアリストテレスの作品ではない可能性が高いというものである。
アリストテレスの倫理学書として伝えられて来たも
((eds.)P.
のに四書がある。
『ニコマコス倫理学』
、
『エウデモス倫
Moraux und D. Harlfinger, De Gruyter, 1971)の 出 版
理学』
、
『大道徳学』
、
『徳と悪徳について』の四書である
である。またその後の研究成果を踏まえて 1991 年に
(このうち『徳と悪徳について』は、他の三書に比べて格
は Oxford Classical Texts の 一 巻 と し て、 新 た な 校 訂
段に分量も少なく、また内容的にもアリストテレスの真
本が刊行され(
作と見なされるのは稀である)
。所謂「ギリシア語注解
Walzer et J. M. Mingay)、更なる研究の基礎が据えられ
(Commentaria Graeca)
」を一例に、現在まで 2 , 000 年以
たと言ってよい。2011 年に『エウデモス倫理学』の新し
上に亘るアリストテレス研究の上で、その実践哲学/
い英訳と仏訳が相次いで出版されたが(1)、いずれの翻
道徳哲学の領域で研究対象となってきたのは、圧倒的に
訳もこのテキストを底本としている(後者の仏訳は、フ
『ニコマコス倫理学』であり、現在の研究状況において
ランス語との対訳で多くの古典作品をビュデ叢書として
も主として取り上げられるのはこの作品である。しかし
刊行してきた Belles Lettres 社から出されたものである
ながら、アリストテレス倫理学の全体像の解明にとって
が、珍しくフランス語訳のみの刊行であるのも、その底
残る二書即ち『エウデモス倫理学』及び『大道徳学』を無
本となったこの OCT のテキストの存在が大きかった為
視することは出来ない。
ではないかと推測される)。
このうち前者については、全八巻の中心部分三巻
それに対して本稿が対象とする『大道徳学』の場合、
が『ニコマコス倫理学』の中心巻三巻と同一のもので
事情は大いに異なっている。⑴古代より伝わるアリスト
あること(言い換えれば、両書は三巻を共有している
テレスの著作目録のいづれにも対応する書目が見出され
こと)や、例えば人間にとっての善の捉え方が『ニコ
ないこと、「ギリシア語注解」にもラテン語で書かれた
マコス倫理学』のそれと異なることなどから相応の関
中世の注解書にも同書を扱ったものは見出されないこと
心 を 呼 び、 一 定の研究成果も挙げられている。 こ の
といった外的事情、及び、⑵使用語彙、叙述のスタイル、
点 で 画 期 を な し た と 考 え ら れ る の は、
(1969 年 開 催
他の倫理学書との内容上の異同といった内的事情から、
の)第5回 Symposium Aristotelicum の報告書である
一応「アリストテレス体系 Corpus Aristotelicum」の中
(eds.)R. R.
* 国際社会文化専攻・比較文化講座
19
新 島 龍 美
に含められてはいるものの長い間偽作として位置付け
録」?──という意味である。Dirlmeier の主張の妥当
られ、本格的な研究対象とされることはなかった。この
性と説得力の評価はここでは取り上げないが、彼のテキ
200 年程の間で同書を主題に取り上げた研究としては、
スト解釈によって得られた知見と真偽問題についての彼
(2)
恐らく W. G. Tennemann の論文(1799 年刊) が嚆矢と
の主張の間のズレを指摘出来よう。
思われるが、この作品に多くの研究者の注目を喚起した
最近では、Harvard 大学の J. Cooper が真作説を主張
のは、神学者・哲学者としても高名な F. Schleiermacher
する一方で、イギリスの研究者 C. Rowe がそれに反論
の講演(1817 年)並びにその出版(1835 年)であった。こ
するなど、『大道徳学』の真偽問題をめぐる論争は未だ
のなかで Schleiermacher は、
『大道徳学』こそがアリス
決着を見てはいない。
トテレスの真作であり、他の倫理学書は偽作であると主
本稿は、従来は注目されてこなかった視点からこの真
張した。この大胆な主張自体が研究者の支持を得ること
偽問題に光を当てようとする試みである。と言っても、
はなかったが、この作品の真偽問題をめぐるその後の活
その視点は新奇なものではない。寧ろ最も正攻法なもの
発な論争の口火を切るものとなった。
とさえ言えよう。それは、テキストの幾つかの箇所を丁
『大道徳学』をめぐる研究は、アリストテレス研究の
寧に分析し、そこに浮かび上がってくる議論が果たして
他の分野に比べると地味ではあったが断続的に続けら
アリストテレスに帰すことが可能なものかどうかを判別
れた。真偽問題をめぐる論争は 20 世紀にも持ち越され
するというものである。勿論、この場合どのようなアリ
たが、多くの研究者が依然偽作説を採る中で、真作説
ストテレス像を前提にするかという大問題が控えてはい
を採って同書をアリストテレスの道徳的思考の最も初期
る。しかし、或る範囲で合意を見ている像を前提にして
のものと主張して、10 本以上の論考を著し精力的に論
議論を進めることは許容されるであろう。
陣を張ったのは、
(古ストア派断片集の編纂でも知られ
長い間その真贋が問題になってきたという事実からも
る)Hans von Arnim であった。
『大道徳学』をめぐる論
推測されるように、真偽問題を一挙に解決するような所
争は、更に、当該一作品に留まらずより大きな文脈と連
謂 `knock-down argument' ──例えば、アリストテレ
動することとなった。というのは、von Arnim の主張
スの没年以降に生じた歴史的事実への言及が含まれてい
Aristotelicum)として言
ることを発掘すること等──を見出すことは恐らく不可
わば静的に理解されてきたアリストテレスの哲学思想
能であろう。この場合、蓋然的な証拠を地道に一つずつ
に時間的な発展史的解釈を試みることによって、アリス
積み上げて、より蓋然性の高い判断を求めるより他に方
トテレス研究に一大画期を齎すことになった W. Jaeger
法はないであろう(3)。
は、従来完結した体系(
の『大道徳学』解釈とも真っ向から対立し、それを通し
て、Jaeger 流の発展史的なアリストテレス理解──師
であったプラトンの哲学からの離脱の拡大を基準として
Ⅰ
アリストテレスの思考の時間的発展を考える動的な理解
最初に取り上げるのは、人柄に関わる卓越性・倫理的
── 一般の妥当性の問題とも連動することになったか
な徳が過剰と不足によって破壊され、適度によって維
らである。von Arnim と Jaeger 学派との論争は、残念
持されることを述べる、第一巻第五章第三∼五節の箇所
ながら、von Arnim の急逝(1931 年没)によって突然幕
が下ろされることになった。
(1185 b 13 -- 32)である。
1.先ず、当該箇所の邦訳を挙げよう(4)。
その後の『大道徳学』研究にとって一つの契機となっ
たのは、本文のドイツ語訳と三百数十頁に及ぶ詳細な
⑶さて人柄に関わる卓越性・徳は、不足と過剰によっ
注 釈 を 含 む F. Dirlmeier の 大 著(
て破壊される。ところで、不足と過剰が破壊するという
Akademie Verlag, Berlin, 1958)の刊行である。
こと、そのことは、人柄に関わる事柄の外で見ることが
この中で Dirlmeier は、本文の詳細な分析を行い、それ
出来る(5)。ところで、不明瞭なもののために明瞭な事
に基づいて「或る種の」真作説を主張した。
「或る種の」
柄を証拠として用いなければならない。即ち、運動に関
とは、使用語彙や表現スタイルなどの点から見て、現在
連する事柄において直ぐに見て取れよう。というのは、
伝えられている形で文字化したのはアリストテレス以後
運動が多くなると、壮健は破壊され、少なくなっても同
の別人によることは認めざるを得ないとした上で、し
じであるから。飲み物と食べ物の場合でも同じである。
かしその内容自体は、アリストテレスの初期の倫理思想
なぜなら、それらが多くなると健康は破壊され、少なく
を相当程度正確に伝えるものであるとし、実質上はアリ
なっても同じであるが、他方度に適ったものになるとき
ストテレスの著作であると考えてよい── 一種の「講義
には、壮健と健康は守られるからである。
20
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
⑷さて節度の場合でも勇気やその他の卓越性・徳の場
用いられるべき「明瞭な事柄」として運動に関連する事
合でも、結果はそれらと同じようになる。なぜなら一方
例が提示され(④)、その事例が説明される(⑤)と共に、
もしあなたが誰かを全くの恐れ知らずで神々さえ恐れな
更に飲み物や食べ物の場合でも事情は同じであることが
いようにするならば、その人は勇気があるのではなく気
述べられる(⑥)。
が狂っているのであり、他方あらゆることを恐れるもの
⑸それらの場合と、節度や勇気その他の人柄に関わ
にするならば、その人は臆病である。それゆえ、あらゆ
る卓越性・徳の場合が同様であることが主張される(⑦、
ることを恐れる者も何一つ恐れることのないような者も
⑧)。ここでの議論は、事例間の類比による議論と解さ
勇気があるのではないことになろう。
れる。
⑸それゆえ同じものが卓越性・徳を増大させもすれば
3.この様に概観すると、この議論の基本的な問題点
破壊しもするのである。なぜなら、あらゆるものへの度
が明らかになる。それは、一言で言えば、異なる種類の
(6)
を超えた恐怖
は〔勇気の卓越性・徳を〕破壊し、また
議論の混在である。即ち、一方議論の冒頭では、過剰と
いかなることについても恐れのないことも同様である。
不足による、人柄に関わる卓越性・徳の破壊という主張
だが勇気は、適度の恐怖が勇気を増大させることになる
①が、過剰と不足による破壊という一般命題の下への包
ように、恐怖に関係する。それゆえ同じものどもによっ
摂によって開始され、この一般命題の確立の為に帰納的
て勇気は増大させられもすれば破壊されもするのであ
議論が試みられる。しかし、議論の途中で主張①は、運
る。なぜなら人々は恐怖によってその情態になるからで
動や飲食物をめぐる過剰・不足・適度による健康の破壊
ある。他の卓越性・徳もまた同様である。
と保持という、人柄に関わる領域の外にある事例との類
(7)
2.議論の基本的な流れを確認しよう
。
比によってその証示が試みられている。
①人柄に関わる卓越性・徳は、不足と過剰によって破
⑴帰納的議論は、個別諸事例から一般命題・普遍命題
壊される。
が定立された上で、その定立に際して用いられなかった
②さて、不足と過剰が破壊するということ、そのこ
事例がその一般命題・普遍命題の下に包摂されることに
と(ⅰ)は、人柄に関わる事柄の外で見ることが出来る
よって、後者の事例──今の場合は、人柄に関わる卓越
(ⅱ)
。
性・徳──について、問題の性質──今の場合は、過剰
③ところで、不明瞭な事柄をめぐっては明瞭な事柄を
と不足による破壊──が妥当することが示される。
証拠として用いなければならない。
⑵それに対して類比による議論は、事例間の直接的な
④即ち、運動に関連する事柄において直ぐに見て取れ
比較・突き合わせによって進行し、そこに一般命題・普
よう。
遍命題が介在する余地はない。勿論、帰納的推論も類比
⑤というのは、運動が多くなると壮健は破壊され、少
による推論も、推論の必然性を基本的特徴とする演繹推
なくなっても同じであるから。
論と対比され、いずれも蓋然性を基本的特徴とする蓋然
⑥飲み物と食べ物の場合でも同様である。
的推論である点では類似してはいるが、議論のタイプと
⑦節度の卓越性・徳や勇気その他の卓越性・徳の場合
してはやはり別物であろう。従って、帰納的議論と類比
も、事情はそれらの場合と同様である。
による議論の混在は、この箇所の議論の理解にとって見
⑧勇気の事例の詳細の提示。
過ごせない特徴と言わなければならない。
4.では、こうした異なる種類の議論の混在を招いた
⑴基本的に主張したいこと、即ち以下の議論が示すべ
原因は何であろうか。一つの可能性は、上記③の方法論
きことは①である。
的指針の位置づけであるかも知れない。というのは、こ
⑵その議論の骨格を決めるのは②−
(ⅰ)の一般命題で
の指針が議論のこの位置に置かれた場合、議論の中での
ある。①は②−
(ⅰ)という一般命題の下への包摂によっ
その役割は、帰納的議論で用いられる個別諸事例の提示
て示されようとしていると考えられる。そこで、以下で
の為の方法論的指針としてのそれであろう。するとその
示されるべきことは②−
(ⅰ)になる。
場合、「不明瞭な事柄」とは、帰納的推論を通して確立
⑶②−(ⅰ)の一般命題は、人柄に関わる事柄以外の
されるべき一般命題・普遍命題を指し、「明瞭な事柄」と
領域から見て取られることが②−
(ⅱ)で主張される。こ
は、それらの個別事例を指すと解するのが自然であろ
こで想定されている議論は、個別諸事例からの一般化と
う。この場合、両者は言わば異なるレベルにある。
いう帰納的議論によるものと解される。
しかし他方、「不明瞭な事柄」の解明の為に「明瞭な事
⑷それらの個別事例を具体的に摘出する為の方法論
柄」をその証拠として用いるべしということが言われる
的指針が③で与えられ、この指針に従って、証拠として
場合、それぞれの位置に置かれるのは、異なる種類の事
21
新 島 龍 美
象もしくは問題領域であるのが通例であろう(8)。この
うであろう。他方、原因がそれ自身のうちにあるものど
場合、二つの領域は異なる種類の事象ではあるが、異な
もの場合には、もはやそれらのものは無理矢理強いられ
るレベルにあるわけではない。
ているとはわれわれは言わないであろう。
5.
「不明瞭な事柄」の解明の為に「明瞭な事柄」をそ
⑶さもなくば、無抑制なひとは、〔自分が〕劣悪であ
の証拠として用いるべしということは、方法論的原則と
ることを否定しながら、反論するであろう。即ち、彼は、
して、当時既に確立された言わば格言的なものである
欲望によって無理矢理強いられて劣悪なことどもを為す
可能性が示された(9)。すると、異なる種類の議論の混
のだ、と主張するであろう。
在──寧ろ混乱というべきであろうか──の一つの原因
第一五章
は、この方法論的格言を(少なくとも或る部分で)適用
⑴そこで、それによって無理矢理行為するように強い
し損なった可能性である。その格言が用いられるのは本
られる、その原因がその外にあるものというのが、無理
来、異なる事象間の類比による議論の場合であり、個別
矢理(強いられる)ということの、われわれにとっての
諸事例から一般命題・普遍命題へ向かう帰納的議論の場
定義としよう(他方、その原因が内部的でそれら自身の
合ではない。しかし今の箇所では、その方法論的格言は
なかにあるものは、無理矢理ではない)。さて今度は、
帰納的議論の中で一旦「誤って」使い始められた。しか
強制と強制的なものをめぐって語らなければならない。
し一旦適用されると、その格言が含んでいた本来の文脈
さて、強制的なものは、あらゆる仕方で語られるべきで
──事象間の類比の文脈──が起動し始め、議論は、そ
はないし、またあらゆるものにおいて語られるべきでも
うした事象間──運動・体操や飲食物の事例と人柄に関
ない。例えば快楽のためにわれわれが行為する限りのも
わる卓越性・徳の事例との間──の類比的議論に移って
のは、そう語られるべきではない。なぜなら、もし誰か
行ったと推測される。
が友人の夫人を誘惑するように快楽によって強制された
このように考えてくると、ここで次の問いを発するこ
のだと言うならば、その言葉は馬鹿げているだろうか
とも許されるのではないか。即ち、異なる種類の方法が
ら。
一つの議論の中で区別せずに使われ、その一方から他方
⑵即ち強制的なものは全てのものにおいてあるのでは
へと暗黙裡に移行しているという「混乱」をその基本的
なく、今や既に、外的なものどもにおいてある。例えば、
構成に孕む議論の主が、果たして彼のアリストテレスで
諸事情により強制されて、何かより大きな別のことと引
あり得るであろうか、と。
き換えに、損害を受けるような人の場合である。例えば、
Ⅱ
私がもっと熱心に畑へ出向くよう強制された場合であ
る。さもないと、畑にあるものがすっかり駄目になって
次に取り上げるのは、
「無理矢理」と「強制」をめぐる
しまうのを見出すことになるだろうから。それゆえ、強
第一巻第一四∼一五章の次の箇所(1188 a 38 --b 24)であ
制的なものはそうした種類の事柄のうちにある。
る。
1.βία と ἀνάγκη をめぐってまずは訳語の問題について
第一四章
一言述べておこう。
⑴そこでそれ
[=本意性]
より先に、無理矢理をめぐっ
βία の訳は、ἀνάγκη との訳し分けも含めて、厄介である。
て及び強制をめぐって語らなければならないであろう。
茂手木訳(10)のように「強制」と「強要(必然)」で訳し分け
即ち、一方無理矢理は、魂を持たないものどものうちに
る試みに実質的な意味は無いであろう。なぜなら、
(1)
もある。というのは、魂を持たないものの各々には本来
日本語として基本的な相違があるとは思われない(
「強
的な場所が、一方火には上方が、他方土には下方が、割
要」とは強制的な要求のことに他なるまい)。
り当てられている。しかしながら、石も無理矢理上方へ
また、(2)
「強要(必然)」という表記も問題であろう。
運ばれ得るし、火も無理矢理下方へと運ばれ得るからで
なぜなら、①日本語の「強要」は「強制」の一部として使
ある。
われていると思われるが、日本語の「強制」には強制さ
⑵さて生物もまた無理矢理の対象となりうる。例え
れた側の何らかの従属が含まれており、例えば(
『ニコ
ば、馬が真っ直ぐに走っているとき、反対に引き戻され
マコス倫理学』に出てくる)航海中の難破による漂着の
て向きを変える場合である。そこで、一方自然本性に反
ような場合(や麻痺した腕を持ち上げて第三者の頭を撲
して或いは願望するものに反して何かをなすことの原因
つ場合)には普通使われない。それは脅迫に近く、基本
が外にある限りのものどもについては、それらがするで
的に「∼するように強いられる」ことである。つまりそ
あろうことを無理矢理強いられてする、とわれわれは言
こには、強制された側の何らかの行為の要素が含まれて
22
・・・・・
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
いるのである(
「無理強い」や「強いる」も同様であろう)。
(漂着の場合「力ずくで」とは普通言わないことから判断
別の言い方をすれば、強制(強要)されたときに、「強制
すると、「力ずく」の「力」の出所は他の人間の場合が想
(強要)するな。
」と言うのが有意味な反応であるような
定されているのに対して、「無理矢理」の場合はそうし
仕方で、
「強制(強要)する」という日本語は用いられて
た制限は見られず、「力ずく」より広い用法があるよう
いる。それゆえ、
『ニコマコス倫理学』の船の難破によ
にも思われる。)③但し、「力ずく」には、ギリシア語の
る漂着の事例を「強制から」と訳すのは問題があること
βία の持っている「力」の語義を文字面に表せるという利
にもなる。
。
点も見られる(「無理矢理」の「矢理」は何の謂いか?)
②他方、日本語の「必然(性)
」は「偶然」と対比され、
2.さて、βία と ἀνάγκη をめぐるこれら二つの章の主題
寧ろ自然現象により多く用いられる。それは「不可避」
は、第一四章冒頭にも言われているように、(本意性の
であり、従って難破による漂着のような場合にも用いら
成立を排除する)
「無理矢理」と「強制」という二つの概念
れる。他方、脅迫されて何かをする場合を「強制から」
であった。では両者はどの様に関連し、どの様に区別さ
の行為もしくは「強要された」行為と表現することには
れるのか。
問題はないであろうが、それを「必然から」と表現する
両概念に関して、Armstrong は、βία(無理矢理)は人
のは、日本語としては奇異な感じは否めない。
間的な意志によって課せられるのに対して、ἀνάγκη(強
この様に、日本語の「強制」と「必然」との間には、行
制)は自然物によって課せられるという区別を示唆して
為論の観点から無視できない違いが存在している様に思
いる(12)が、⒜直進する馬の向きを変える βία の事例、⒝
われる。或いは、
「強制」は行為論の言語に属するのに
諸般の事情による田舎行きという ἀνάγκη の事例を考える
対して、
「必然」は、出来事論の言語或いは運命論の言
と、そういう区別を想定することも可能かもしれない。
語(?)に属する、とも言えようか。それゆえ(
「強制」の
諸般の事情として例えば旱魃や洪水、害虫の発生など
一部である)
「強要」に「必然」を括弧付けで付記する茂手
の自然の脅威を想定することは許されよう。また石や
木流の「強要(必然)
」という表記には問題が多いと言わ
火をその自然本性に反して動かす βία の事例も、石を上
なければならない。
方へ動くよう習慣づけることの不可能性の指摘の事例
このように考えてくるならば、βία と ἀνάγκη の訳し分け
(1186 a 5 -- 7)と重ね合わせると、人によって動かされる
については、前者 βία が魂を持たないものにも使われる
例と解しうる。
と言われている以上、それに「強制」や「強要」といった
他方、この方向の解釈が唯一可能な解釈であるとも思
日本語を訳語として当てるわけには行くまい。それは寧
われない。⑴先ず、石や火を動かす力の出所は人間以外
ろ後者 ἀνάγκη の方により相応しいであろう。すると前者
でも可能であろう。小石が強風で巻き上げられたり波の
(11)
の訳語はどうするか。この点で、Armstrong(Loeb)
力によって石が浜辺に打ち上げられる場合や、上方から
による βία の訳語 force majeure(不可抗力)はより適切
の風雨によって火が下方へ吹きつけられる場合も考えら
であろう。但し、自然の猛威のような人間の力の及ぶ範
れよう。火の場合は自然的な原因の方が想定しやすいか
囲を超えるものにも使えるが、その「力」に翻弄される
も知れない。(誰かが石を何千回上方に投げても、石は
側が人間の場合は使えるが、火や土のような魂を持たな
上方へ運動するように習慣づけることは出来ないという
いものの場合には(少なくとも「不可抗力」という日本語
先の事例では、明瞭に人が石を上方に投げ上げる場合が
は)使わないのが通常であろう。
描写されている(13)が、本書の今の箇所ではそうした人
それでは、どうするか。一つの候補は「力ずく」であ
間の振る舞いに関する叙述は見られない。言われている
る。もう一つの候補は「無理矢理」である。
「無理矢理連
のは、唯「石も無理矢理上方へ運ばれ得る」ということ
れ去る」とも「無理矢理言わせる」とも言える。前者は剥
だけである。)⑵また、田舎行きを余儀なくさせる外的
き出しの暴力を表し、後者は強制を表示し、両方に使
な事情についても、自然の脅威の想定以外に、(例えば)
えそうである。難点は、①名詞や副詞はあるが、動詞型
他国からの侵入者の狼藉、内乱や暴動による略奪など
が存在しないこと──「無理強いする」が一つの候補で
の人的な脅威を想定することも不可能ではなく、βία と
あろうが、主語になれるのは人間だけという制約がある
ἀνάγκη の区別の内実は実は判然としない。
──と、②力の出所が人間など魂を持つものの場合は良
3.そして何より問題なのは、ἀνάγκη の概念に与えら
いが、魂を持たない無生物の場合には普通使われないこ
れている規定の実質が、僅かに第十五章第二節の一文、
とであろうか。但しこの点も、例えば漂着の場合に「台
即ち「全てのものにおいてあるのではなく、既に外的な
風の所為で無理矢理その島に押し流された」とは言えそ
ものどもにおいてある」にほぼ尽きていると思われる点
うであるし、
「無理矢理」は意外に使えるのではないか。
である。その中核は「外的なものども(τὰ ἐκτός)
」である。
23
新 島 龍 美
しかし何の外なのか。前後にこれといった手掛かりはな
分と言わざるを得ない。
い。田舎行きを余儀なくされるという事例は、この規定
さてでは、果たして、このような実質の乏しい「空虚
に、何か一般的なレベルで新たな条件を付加する役割を
な」探求をアリストテレスがするであろうか。本書は一
果たしているのであろうか?余儀ない田舎行きの事例
種の講義ノートであり、具体例などの提示とその説明は
の(他の事例に見られない)特徴(の一つ)は、そこで強
口頭で補充・補強されたのだと解することは不可能では
いられることが、他のより大きな利益を守る代償として
あるまいが、その場合でも、既に『ニコマコス倫理学』
提示されていることである。しかし、この特徴は、どの
を書いたアリストテレスが書いた講義ノートと考えるの
ように一般化されるのか?むしろ、この事例は「外的な
は困難であろう。すると、仮にアリストテレスが書いた
ものどもにおいてある」ことの例であり、そのポイント
とすると、『エウデモス倫理学』及び『ニコマコス倫理学』
は、
「諸般の事情によって強いられて(ἀναγκαζόμενος ὑπὸ τῶν
の両書を書く前の初期のアリストテレスによるものとす
πραγμάτων)
」という点にあると解される。
る他はないであろう。
4.それでは、βία と ἀνάγκη の間の相違はどうなるのか。
Ⅲ
原因が外にある(
「外部原因性」とでも呼んでおこう)と
いう特徴付けの点では、両者の間に相違は無いように思
次に取り上げるのは、卓越性・徳(アレテー)の概念と
われる。そこで、上に見たように、Armstrong は、そ
目的・終極(テロス)の概念の関係について述べる第一巻
の外的原因の区別に両概念の区別の可能性を見ようとし
第一八章第三∼六節(1190 a 8 -- 28)である。先ず当該箇
ている。しかし、βία の明確化を主題とする第一四章で
所の訳を提示しておこう。
場合を分けて多少とも「手を掛けて」考察されているの
は、外的力の源泉に関する区別ではなく、寧ろ、そう
⑶そこで、誤りは、何においてか〔=領域〕及びどの
した外的力を受けて強いられる側のものの区別──無生
ようにか〔=様態〕の点で分けられてしまったので、残っ
物の場合もあれば動物(或いはより広く生物)の場合も
ているのは、卓越性・徳は何を的(まと)にするのか、果
あること──である。そしてそれら両者の場合の提示の
たして終極・目的なのかそれとも終極・目的に向かうこ
後、纏めとして提示されているのは、やはり、βία の「外
とどもなのか、例えば、果たして美しさなのかそれとも
部原因性」の特徴である。
美しさに向かうことどもなのか、である。
また続く第一五章では、冒頭で βίαιον の「外部原因性」
⑷そこで、知識はどうなのか。はたして建築術には終
が確認された後、ἀνάγκη 及び ἀναγκαῖον の規定に向かうが、
極・目的を立派に立てることが属するのか、それとも終
そこでもそれらが「あらゆる場合にあることではなく」
極・目的に向かうことを見て取ることが属するのか。
〔こ
と言われた後に語られるのは、やはり「外的な事ども(τὰ
のように問う〕そのわけは、もしそれを、例えば美しい
ἐκτός)
」という規定のみである。
「あらゆる場合にあるこ
家を造ることを立派に立てるならば、それに向かうこと
とではなく」という表現が何を含意するのかも定かでは
どもを見出すことも供給することも建築家以外の他のひ
ない。前章と関連づけようとすれば、生物と無生物両方
とがすることはないであろうからである。また他の全て
を含むという意味で「あらゆる場合に」あることではな
の知識の場合も同様である。
いと言おうとしているのかといえば、そうでもない。
「あ
⑸それゆえ卓越性・徳の場合も同じ様に思われよう、
らゆる場合に」あることと対比されて提示されるのは、
即ち、それの目標は、終極・目的に向かうものどもより
」で、この規定と生物/無生物の
「外的な事ども(τὰ ἐκτός)
も、寧ろ、終極・目的であって、これは正しく立てられ
区別を関連させる手掛かりとなりそうなものは、何も無
なければならない、と。しかも、それ〔=終極・目的〕が
い。そしてその「外的な事ども(τὰ ἐκτός)
」の事例と解さ
それから成立することになるであろうものどもを供給す
れるのは、例の田舎行きを余儀なくされることである。
るであろう人は〔卓越性・徳を有する人以外の〕他の誰一
5.この様に見てくると、
「本意的 ἑκούσιον」であるこ
人でもなく、それ〔=終極・目的〕のために見出すべきも
との明瞭化(cf. 第一三章末)のために必要なステップと
のどもを見出すであろう人も〔卓越性・徳を有する人以
して、その反対概念である「不本意的 ἀκούσιον」であるこ
外の〕他の誰一人でもない。そしてまた、最善のものの
との考察に際して、βία と ἀνάγκη の明瞭化が試みられよう
始源・原理が存在する領域では、卓越性・徳がそれ
〔終極・
としているように見えた(cf. 第一四章冒頭)が、両者の
目的〕を定立するものであることは、理に適ってもいる。
区別は実質的には為されないままという印象が残る。
なぜなら、各々のものは〔終極・目的を〕定立しもすれば
βίᾳ の概念をめぐる『ニコマコス倫理学』の考察に比べ
作り出しもするからである(14)。そこで、何一つ卓越性・
て、本書のこの箇所の議論は(控えめに言っても)不十
徳より善いものはなく(なぜなら卓越性・徳のためにそ
24
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
の他のものどももあるから)
、また、それ
〔=卓越性・徳〕
ことどもの両方に関わるが、後者によりも前者により一
に向かう始源・原理も存在するのであって、
層関わる。
⑹それに向かうものどもは、寧ろそれの為に存在す
③後者に関わること自体は、終極・目的に向かうこと
る。さて、終極・目的は一種の始源・原理に類似しており、
ども(1190 a 13)──終極・目的がそれから生じるもの
各々のものはそれ〔=終極・目的〕のためにある。ところ
(1190 a 18)──を見出し提供するものが「(大工・建築家
で、それ〔=終極・目的〕は然るべき在り方に即して存在
以外の)他の誰でもない」といった表現によって示され
するであろう。従って、卓越性・徳の場合も、それは最
ている。しかしこの発見と提供には、終極・目的が「立
善の原因であるから、それは終極・目的に向かうことど
派に・見事に立て」られる(1190 a 12 -- 13)ということが
もよりも寧ろ終極・目的を的(まと)にすることは明らか
前提条件であり、先ずもって終極・目的が「正しく立て
である。
られなければならない」
(1190 a 17)。このことが、卓越
性・徳が終極・目的に向かうものどもによりも終極・目
1. こ の 箇 所 は 原 文 の 欠 落・錯 簡 が 疑 わ れ(eg.
的により一層関わることの論拠となる。
Armstrong)
、テキストの読み方に正反対の提案がなさ
④卓越性・徳が終極・目的に向かうものどもによりも
れるなど、文意が判然としない部分が少なくなく、研究
終極・目的により一層関わることは、前者を発見し提
者泣かせの箇所である。
供する人が、後者を立てるひと「より他の誰一人でもな
此の箇所の読み難さの原因として、次のような点が挙
い」
(1190 a 13 -- 13 ; a 18)ことと矛盾しない(「より他の
げられる。
誰一人でもない」という表現自体、終極・目的を定立す
⑴卓越性・徳(及び知識)は、終極・目的に関わるのか、
る人との同一性を前提する表現であることは言うを俟
それとも、終極・目的に向かうものどもに関わるのか、
たない)。従って、1190 a 18 の最初の καὶ は、素直に「し
はたまた、それら両者に関わる(但し、それらのどちら
かも」と順接に読んで一向に構わない。Armstrong の様
かにより一層(μᾶ�λον)関わる)のか、それほど判然とし
にその καὶ を無理に yet と逆接に読む必要もなければ、
ない。結論は最後の選択肢だとしても、それを示すため
Johnstone の様にその無理を論拠にして(「逆手にとっ
の議論の構造がどうなっているのか判然としない。
て」)、卓越性・徳は、「知識の場合と異なり」、終極・目
⑵卓越性・徳の場合の解明の為に知識の場合が引き合
的に向かうものどもによりも終極・目的により一層関わ
いに出されその具体例として大工術・建築術の場合が提
ることが主張されていると解釈する必要もない(因みに、
示されるが、この知識の場合が卓越性・徳の場合と同様
Johnstone の解釈の一番の問題点は、彼の解釈では、卓
であると考えられているのか、それとも異なると考えら
越性・徳は終極・目的に向かうものどもによりも終極・
れているのかということについてさえ、論者の見解は分
目的により一層関わるという一番肝心の主張がテキスト
かれている(多くの研究者は「同様」の方向で解している
のどこにも明示されないことになる点であろう)
。
が、例えば Johnstone は二つの場合は異なると解してい
⑤卓越性・徳が終極・目的を定立するものであること
(15)
る
。彼は 1190 a 15 -- 16 の「それゆえ卓越性・徳の場合
が理に適ってもいることを主張する 1190 a 19 -- 26 の議
も同じ様に思われよう」を、本書の著者がそうした理解
論は、以下の様に解釈される。
から自分自身を遠ざけよう(distance)として用いた表現
⒜議論は大きく二つのステップからなる。最初のス
であると、要するに「そう思われようが実はそうではな
テップ(Ⅰ)は、卓越性・徳が(何かを)定立するもの
い」との意と解そうと試みている)
。
(προθητικόν)であることを示すことに関わる。
⑶卓越性・徳が、①一方ではそれ自身が終極・目的で
⒝しかしこのステップでは、定立するものであるこ
あるとされながら、②他方では終極・目的を的にしそれ
とが示されるだけで、「終極・目的を」定立するもので
をめざすもの(=?始まり・原理/原因?)とされてい
あることまでは示されていない。議論の最後の部分
る点にも問題があると考えられる。Armstrong が、卓
(1190 a 24 -- 27)から成る次のステップ(Ⅱ)はこの点の
越性・徳が目標として立てるものとして「美しさ τὸ καλόν」
証示に充てられる。
を想定しているのもそのためである。
(
「美しさ τὸ καλόν」
⒞ 議 論 の 最 初 の ス テ ッ プ(Ⅰ)の 大 前 提 は、
は、本章では一切現れず、次章からの読み込みである)。
1190 a 20 -- 21 の「最善のものの始源・原理がその内にあ
2.こうした困難に満ちた箇所ではあるが、ここでは
るものどもの場合、各々のものは定立しもすれば作り出
一応次のように解して上記の訳を付けてみた。
しもする」である。
①卓越性・徳の場合と知識の場合は同様である。
⒟ステップ(Ⅰ)の小前提は、「何一つ卓越性・徳より
②両者は共に、⒜終極・目的と⒝終極・目的に向かう
善いものはない」
(1190 a 21 -- 22)、及び、「卓越性・徳に
25
新 島 龍 美
向かう始源・原理が存在する」
(1190 a 23)の二つである
obscure passage. Perhaps the meaning is that Virtue,
(「なぜなら卓越性・徳のためにその他のものどももある
whilst herself a τέ�ος, is also the ἀρχή of another τέ�ος, i.e.
から」
(1190 a 22)は、最初の小前提の理由を与える)。
τὸ καλόν, which it is therefore her task to envisage and
これらの大前提と小前提によって、卓越性・徳が(何
pursue. )。
かを)定立するもの(προθητικόν)であることが示される。
4.しかしこれで卓越性・徳の位置づけの両義性が問
(大前提は単に「各々のものは定立する」ということだけ
題 problematic でなくなる訳ではない。卓越性・徳の「習
ではなく、
「作り出しもする」とも言われている。この
得」の脈絡では、卓越性・徳がその習得のための営みの
点には、或いは、卓越性・徳はより一層終極・目的に関
テロスであると言えるかも知れない。しかし、一旦習得
わるが、終極・目的に向かうことどもにも関わるという
された卓越性・徳に則した活動がめざすテロスが次章で
点の示唆が込められているかも知れない。終極・目的に
言われる「美しさ」だとしても、そのような文脈の相違
向かうことどもは、終極・目的の実現のためのものであ
を無視して、卓越性・徳を一方ではテロスに位置付け、
り、それを「作り出」すことに関わるものであるから。)
他方では、テロスのためのアルケー・アイティア(始源・
この場合、
「卓越性・徳に向かう始源・原理」として何
原因)に位置付ける議論を展開することに、どのような
が考えられているかは、この議論では何も語られていな
哲学的意味があるのか、疑問に思わざるを得ない。別の
い。
「卓越性・徳に向かう」
始源・原理と言われている以上、
角度から言うならば、こうした議論をアリストテレスが
次章で扱われる「美しさ καλόν」の様に「卓越性・徳がそれ
やるであろうか。仮に初期の未成熟な時期のアリストテ
を目指し・向かう」終極・目的の様なものではないであ
レスであったとしても。
ろう。卓越性・徳の習得の脈絡を考え、卓越性・徳に向
Ⅳ
かう魂の中の始源・原理のようなものを想定するのが一
案であろうか。
次の箇所は、高邁さの徳
(メガロプシュキア μεγαλοψυχία)
⒠第Ⅱステップでは先ず、終極・目的が始源・原理の
を めぐ る 第 一 巻 第 二 十 五〔二 十 六〕章(16)の 冒 頭 箇 所
一種(目的因)であることが確認される(各々のものは終
(1192 a 21 -- 28)である。
極・目的のため(ἕνεκεν)にある)
。ところがその各々のも
のにとって終極・目的の在り方には然るべき仕方に即し
⑴さて、高邁さは、一方虚栄と卑屈の中間性であるが、
た(κατὰ τρόπον)存り方もあろう。然るに、
(テキストには
他方名誉と不名誉に関わり、しかも多くの人々からの名
明言されていないが、
)その「然るべき仕方」を与えるの
誉ではなく立派な人々からの名誉に関わるのであり、少
は、実は卓越性・徳ではないか。卓越性・徳が働いてい
なくともむしろ後者に関わるのでなければならない。な
る場合に目的は「然るべき仕方」で定立されるのではな
ぜなら、立派な人々は、知った上で正しく判断しながら
いか。つまり、卓越性・徳は終極・目的を定立しそれを
名誉を与えるであろう。そこで、高邁な人は、自分が名
的として目指すものと言えるのではないか。
誉に値することを自分自身のために知ってくれている
3.このようにして何とかこの箇所の議論を斉合的
人々によって名誉を与えられることを望むであろうから
且つ有意味に読もうと試みたが、しかしそれでも十分
である。なぜなら、その人はあらゆる名誉に関わるので
に意味を与えることが出来たかどうかは心許ない。問
もなく、最善の名誉に関わるからである。また、名誉に
題は、やはりこの議論における卓越性・徳の位置づけの
値することは、善にして始源・原理の位階を有するもの
両義性にあると思われる。即ち、仮に「∼へ向かう πρός」
のことである。
と「∼のために ἕνεκεν」は厳密には異なる可能性はあると
しても、1190 a 23 -- 24 の語り方はそれら二つの表現が
1.この箇所の記述については、『ニコマコス倫理学』
類似の意味で用いられていることを示唆することは否
の対応箇所(第四巻第三章 1124 a 1 -- 20)の叙述と斉合す
定できないであろう。すると、ここでは卓越性・徳は終
るのか否かが問題となる。
極・目的の位置に置かれていると解するのが自然であろ
う。他方、結論で主張されているのは、卓越性・徳が
「高邁はもろもろの卓越性・徳の、いわば、飾りのよ
(終極・目的に向かう事どもよりも)終極・目的を目指す
うなものである。即ち、それは卓越性・徳を一層偉大な
ものであることである。即ち、卓越性・徳は、目指され
ものにするが、しかも、それは卓越性・徳を待たずに生
るものとしてと同時に目指すものとして位置付けられ
まれないのである。このゆえに、ひとが本当の意味で高
ていることになるのである。こうした事情から見れば、
邁な人であるのは難しいことである。それは完全な卓越
Armstrong の註も頷けるものであろう; A corrupt and
性・徳(カロカガティア)をまたずにはあり得ないから
26
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
である。こうして、高邁な人は何よりも名誉と不名誉に
・・・・・・・・
Ⅴ
関わるものとなる。そして、かれは、大きな名誉を勝れ
たひとから受けた時でも、これをほどほどに喜ぶであろ
次の箇所は、不正行為をめぐる議論の一部である(第
う。それは、もともと自分に相応しいもの、或いは、そ
一巻第三十三〔三十四〕章第二十七節 1195 b 5 -- 9)
。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・
れより劣るものを得たとみなすからである。なぜなら、
完璧な卓越性・徳に値するような名誉はあり得ないから
(27)さてそれでは、不正行為をされることをめぐっ
である。とはいえ、かれはそれを受け容れるではあろう。
てはどうか。果たして本意から不正行為をされることは
それは、ひとがかれに分け与えるためにそれ以上のもの
可能か。それともそうではないか。〔そうではない。
〕な
を持っていないという理由による。...... 権勢や富は名誉
ぜなら、一方正しいことどもや不正なことどもをわれわ
の故に望ましいものである。とにかく、これらを持って
れがする方は本意からであるが、他方われわれが不正行
いる人はこれらによってひとに尊敬されることを願って
為をされる方はもはや本意からではないからである。と
いるのである。ところで、名誉でさえ小さなものに思わ
いうのは、罰を受けることをわれわれは避けるのであ
れるひとにとっては、その他のものもまた小さなもので
り、従って、われわれが不正行為をされるのは本意から
ある。高邁な人が高慢なひとと思われるのはそのゆえで
ではないことは明らかである。なぜなら、誰一人本意か
(強調引用者)
ある。
」
ら害されるのを我慢することはないから。不正行為をさ
・・・・・・・・・・・・・
・・・・
れることは害されることであるから。
『ニコマコス倫理学』のこの叙述と比べるとき『大道徳
学』の箇所の叙述は、スケールが小さく、μεγαλοψυχία ─
1.本意から不正行為をされることはないということ
─直訳すると「魂が大きいこと」──の名前に相応しい
を主張するこの理由づけは、哲学的に正当であろうか。
のか疑念を生じる。
『大道徳学』
の叙述では、高邁な人は、
(例として挙げられている)
「罰を受ける」ことは、
「不正
自分の価値を知る立派な人によって名誉が与えられるこ
行為をされる」ことであるのか。罰を受けることが害さ
とを望むと言われている。或いは、多くの人々からの名
れることなのかどうかさえ、議論の余地があろう。まし
誉よりも寧ろ立派な人からの名誉に関わるという点と結
てや、罰を受けることが、不正行為をされることである
びつけて言えば、より正確には、高邁な人は、自分の価
のかどうか、議論の対象となろう。
値を知らず正しい判断を下せない多くの人々よりも、自
もし罰を受けることが不正行為をされることであると
分の価値を知る立派な人によって名誉が与えられること
するならば、罰を与えることは不正行為をすることにな
を望む、と述べられていると言うべきかも知れない。
ろう。然るに、不正行為をすることは兎も角も許されて
しかしこの場合でも、立派な人たちから名誉を与えら
はならないことだとしたら、罰を与えることも許される
れることを望むと言われている点は変わらない。それに
ことではないことになろう。
対して、上で引用した『ニコマコス倫理学』の叙述では、
しかしこれは、本当にアリストテレスの議論なのか。
傍点を付した部分で明言されているように、立派な人か
余りにも不用意な議論と言わざるを得ないのではない
ら大きな名誉を受けた場合でも大喜びなどせずほどほど
か。
に喜ぶとともに、名誉でさえ小さなものと見なす高邁な
Ⅵ
人にとっては、権勢や富を持つ者のように、他人から名
誉を受け尊敬されることを望むことは、その性格と寧ろ
次の箇所は、無抑制(アクラシア)をめぐる議論の一
相容れないものとされているように思われる。
部である(第二巻第六章第十六節 1201 b 30 -- 39)
。
(17)
この点
は、本書の著者をアリストテレスとみなす
真作論者が措定する初期作品の想定と斉合するであろう
(16)そこで、知識を持っている人に誤りが以下の場
か。この種の相違は、初期故の考察の未成熟さによるも
合でも生じる。例えば、一方熱がある全ての人を健康に
のというよりも、寧ろ、
『大道徳学』成立時のギリシア
するすべを私は知っている。しかしながらその人が熱が
社会が高邁さの特徴を既に失いつつあることと連動する
あるかどうかは私は知らない。そこで、知識を持ってい
ものであり、
「高邁」の卓越性・徳の現象自体の衰微によ
る無抑制の人の場合も同様に、同じ誤りが生じるであろ
るものと考えられるのではないか。
う。というのは、無抑制の人が、一方これこれの性質の
ものが劣悪で有害であるという一般的な知識は持ってい
るが、しかしそれらのことは劣悪であるということを個
別的には知らないことが可能であり、その結果、この様
27
新 島 龍 美
な仕方で知識を持っていながら誤りを犯すことがあろう
Ⅶ
からである。なぜなら、一般的な知識は持っているが、
他方、個別的な知識は持っていないからである。
次の箇所は、節度の徳を持つ人と、抑制あるひとと
の関係をめぐる議論である(第二巻第六章第三十七節
1.Armstrong は 1201 b 37 の原文を改訂している;
1203 b 12 --b 16、第三十八節 b 16 -- 23)。
Reading ταῦτα τοιαῦτα for ταῦτα φαῦ�α or τὰ φαῦ�α MSS. (18)。確
かに、写本のままの読み方では、例えば「甘いものは健
(37)さて、果たして節度ある人は抑制があるのか、
康に悪い」という一般的知識は持っているが、
「これは
上で(21)疑問が提示されたが、われわれは今語ることに
健康に悪い」という個別的知識は持っていないと言って
しよう。即ち、節度ある人は抑制もある。なぜなら、欲
いることに等しいであろう。しかしこれでは、実践的三
望は内在しているがそれらを理のゆえに抑える人だけで
段論法の大前提は知っているが、結論は知らないという
はなく、たとえ欲望は内在していなくとももし内在して
ことになり、大前提は知っているが小前提は知らないと
いたら抑えるようなそのようであるような人もまた、抑
いうことではない。Armstrong の原文改訂の提案は、
(そ
制ある人であるから。
の理由は何も述べられてはいないが、
)この点を修正し
(38)他方、劣悪な欲望を持たずそれらに関する正し
ようとする試みと解される。
い理を持つ人が節度があるが、抑制ある人の方は、劣悪
勿論、大前提は知っているが小前提は知らないのであ
な欲望とそれらに関する正しい理を持つ人のことであ
れば結論を知っているとは言い難いのであれば、大前提
る。従って、節度ある人には抑制ある人が随伴し、節度
は知っているが結論は知らないということ自体は間違っ
ある〈人は抑制があるが、しかし抑制ある人は節度があ
てはいないと、言えないことはないかも知れない。しか
(22)
であろう。なぜなら、一方節度ある
るわけではない〉
しながら、①熱のある患者の治療という医術知の場合と
人は情念を被らないが、他方抑制ある人は情念を被りな
「同じ様に(ὡσαύτως, 1201 b 33)
」無抑制の場合は考えられ
がらそれらを支配するか、もしくは、少なくとも情念を
ており、しかも医術知の場合の個別的な知識(
「その人
被り得る限りでそうする人である。しかしそれらのいず
は熱がある」
)は結論ではなく小前提であることは明ら
れも節度ある人には属さないからである。それゆえ抑制
かである。②また、この箇所に Armstrong の提案を裏
ある人は節度があるのではない。
付ける様な写本上の異読は報告されていない。
2.すると、どう考えるべきか。内容上の要請に従っ
1.
「混乱し恐らく壊れている confused and probably
て原文を改訂するのも一つの方策ではあろう。しかし写
corrupted」この箇所の意味は、「自己抑制 Self-control は
本上の裏付けのない改訂は最後の手段であろう。では写
魂の中にある、欲望の働きから独立の能力である」こと
本のままで読むとすればどうなるか。そこからどういう
にあり、節度ある人はこの能力を持ってはいるが、劣悪
帰結を引き出しうるか。写本上の異読は存在せず、写本
な欲望およびその可能性を免れているので、その能力を
伝承の上での誤りが存在しないとすれば、元々の原文が
用いるべく呼び出されることはない。なぜなら、抑制あ
書き間違っていたということになろう。しかし、カント
る人と異なり、節度ある人は劣悪な欲望から自由である
をして「論理学はアリストテレス以来何の進歩も出来な
ばかりか、そのような欲望の可能性からも自由であるか
(19)
かった」と言わしめた
──この叙述自身は訂正を要す
ら。但し、その行使が決して見られることのない力の存
るにしても──程に完成された論理学の体系を築いた彼
在を如何に確信できるかという問題は生じる。この様に
のアリストテレスが、
(彼の発見の中でも哲学的に重要
Armstrong は言う(23)。
なものとアンスコムが評した実践的三段論法の)小前提
しかし彼のこの解釈は正しいであろうか。彼が言うよ
と結論を取り違えたりするであろうか。それとも、それ
うな認識論的な問題──「如何に確信できるか」──は本
は単なる「書き間違え a slip of hand」であり、まさしく
当に生じるのであろうか。彼自身が認めているように、
「誤りは行為の内にある」の一事例であると言って済ま
節度あるひとが事実問題として劣悪な欲望を免れている
せられるであろうか。本書の著者は本当にアリストテレ
だけではなく、そうした欲望を持つ可能性からも免れて
スなのか?
(20)
いるとしたら、そうした欲望を抑制する可能性自体が存
在しないことになろう。それならば、存在する可能性が
ないことの存在をどの様に確信できるかという問い自体
が発生する余地はないのではないか。
それにも関わらず、そうした問題が生じると Arm-
28
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
strong が考えたのは何故か。彼がそう考えたのは、「自
ている。先ず(1)b 13 -- 16 で、抑制のある人(ἐγκρατής)の
己抑制 Self-control は魂の中にある、欲望の働きから独
最初の規定(E 1)が与えられる。
立の能力」であり、節度ある人はこの能力を所持してい
ると考えたことに由来するのではないかと考えられる。
E 1:「⒜欲望は内在しているがそれらを理のゆえに抑
劣悪な欲望を持つ可能性を持たないことと自己抑制の能
える人だけではなく、⒝たとえ欲望は内在していなくと
力を持つことを概念上切断した上で、発動の可能性のな
ももし内在していたら抑えるようなそのようであるよう
い自己抑制の能力の存在をどう確信できるかと問うたの
な人もまた、抑制ある人である」
ではないか。寧ろ、劣悪な欲望を持つ可能性が無いとい
う事態それ自身が、自己抑制の能力があるということな
次に、(2)b 16 -- 18 で節度ある人(σώφρων)の最初の規
のではないか。
定(S 1)が提示される。
更に言えば、節度の問題を(自己)抑制の問題と考え
ること自体が問題であると言わなければならない。寧
S 1:
「劣悪な欲望を持たずそれらに関する正しい理(ロ
ろ、節度の問題は抑制の問題ではないと言うべきであ
ゴス)を持つ人が節度がある」
る。節度ある人には、自己抑制という事態はその可能性
も含めて無縁なのではないか。Armstrong が言う様に
自己抑制を「魂の中の欲望の働きから独立の能力」とし
続いて、(3)b 18 --b 19 では抑制ある人の第二の規定
(E 2)が与えられる。
て捉えるという解釈の前提こそが問題なのである。この
捉え方を前提にする限り、節度ある人の場合に、「劣悪
E 2:「抑制ある人は、劣悪な欲望とそれらに関する正
な欲望およびその可能性を免れている」ことと、自己抑
しい理(ロゴス)を持つ人のことである」
制の力とが両立する事態を想定せざるを得なくなり、そ
の結果、Armstrong が言う様な認識論的な問題の発生
この第二の規定(E 2)は、「節度あるひとは抑制があ
が懸念されることにもなるのである。
る」という結論(C 1)と不斉合である。即ち、節度ある
2.一方節度の卓越性・徳が習慣づけによる情念と欲
人は、「劣悪な欲望を持たずそれらに関する正しいロゴ
求の正しい陶冶によって初めて可能となる人柄の性向で
スを持つ」
(S 1)人である以上、その人は、「劣悪な欲望
あるのに対して、他方(自己)抑制は、節度という優れ
とそれらに関する正しいロゴスを持つ」
(E 2)抑制ある
た性向へ向かう途上にあって、無抑制よりも節度に近い
人ではあり得まい。しかし、この箇所の議論の結論は、
とは言え節度にまでは未だ至らない状態と考えるのがア
節度ある人は抑制があること(C 1)であった。ここか
リストテレスの基本的思考であるとするならば、こうし
ら、Johnstone は、b 18 --b 19 の抑制ある人の第二の規定
た疑似問題が発生する余地はない。抑も、自己抑制を「魂
(E 2)の削除を提案している。Johnstone に依れば、α 写
の中の欲望の働きから独立の能力」として解釈すること
本群(即ち CC 写本と Pb 写本(24))ではこの一文が欠けて
自体がアリストテレス的ではないと言うべきであろう。
おり、それは L 写本(25)にも見られない。Dirlmeier は Pb
3.しかし、Armstrong が指摘する問題が疑似問題
写本の後継写本にこの部分がない理由を、同語飛躍(
であることを明らかにすることによって、この箇所に何
)に見ているが、Johnstone は逆に、この一文
の問題もなくなった訳ではない。二つの節を改めて考察
を含む写本に、欄外註のテキスト本文への錯入を疑って
してみよう。
いる。
両節で提示されている結論は、
「劣悪な欲望とそれらに関する正しい理(ロゴス)を持
つ人」という抑制ある人の規定(E 2)と「劣悪な欲望を持
C 1:
「節度ある人は抑制もある」
(b 13)
;
たずそれらに関する正しい理(ロゴス)を持つ人」という
「節度ある人には抑制ある人が随伴し、節度あ
節度ある人の規定(S 1)の二つの規定から、「節度あるひ
る人は抑制がある」
(b 19 -- 20)
とは抑制がある」という結論(C 1)を導出するのは無理
及び、
であろう。E 2 と S 1 には「正しい理(ロゴス)を持つ」と
C 2:
「抑制ある人は節度があるのではない」
いう規定が共通ではあるが、どう見ても、この正しいロ
(b 20 -- 21 , b 23)
ゴスの所持の特徴だけでは、節度あるひと及び抑制あ
るひとの規定にとって不十分であり、欲求の点で両者が
の二つである。議論の前半部(b 13 --b 20)は、明らかに、
どのようにあるのかという点の規定が不可欠である。し
節度あるひとは抑制があること(C 1)を示そうと意図し
かし劣悪な欲望の所持の点では、二人の人のあり方は対
29
新 島 龍 美
照的であり、この点を勘案すると、二つの規定から結論
(C 1)を導出するのは無理筋であろう。
は、一方では「節度あるひとは、情念を被らない」
(S 2)
であり、他方では、抑制あるひとに関する次の第三の規
C
b
4.しかし、仮に E 2 の規定はいくつかの写本(C , P ,
定である。
L)により読まないとしても、問題の不斉合の発生源は
実は他にもある。それは、抑制あるひとの第一の規定と
E 3:「⒞抑制ある人は情念を持ちながらそれらを支配
して既に我々が見た E 1 である。そこでは、抑制あるひ
するか、もしくは、⒟情念を持ち得る人である。
」
とは、その一部において、
「⒜欲望は内在しているがそ
れらを理(ロゴス)のゆえに抑える人」として規定されて
一方節度ある人は、(支配されるべき劣悪な)情念を
いた。この欲望は「劣悪な」と明示的に言われている訳
被らない(S 2)。他方抑制あるひとは、(劣悪な)情念を
ではないが、
「理(ロゴス)のゆえに抑えられる」べきも
持ちながらそれらを支配するか、少なくとも、そうした
のとして、やはり劣悪なものが想定されていると解され
情念を持ち得る人であり、両者はこうした点で互いに異
る。それ故、この選言肢⒜によって特徴付けられたあり
なっている。従って、「抑制ある人は節度があるのでは
方は、
「劣悪な欲望を持たない」
(S 1)と言われ── b 21
ない」
(C 2)。
では「節度あるひとは、情念を被らない」
(S 2)とも言わ
この様に解するならば、もう一つの結論(C 2)につい
(26)
れている
──節度ある人のあり方とは斉合しないと
ても、その導出の経緯を明らかにすることが出来るので
言わざるを得まい。この選言肢の部分を読まない写本の
はないか。
報告はない模様なので、Johnstone がその削除を提案し
7.その限りではそうかも知れない。しかし、実はこ
ていた b 18 --b 19 の抑制ある人の第二の規定(E 2)も、不
こで大きな問題が待ち構えている。
斉合を承知で敢えて残す選択肢も考えられよう。
⑴先ず、節度あるひとの二つの規定を復習しよう。
纏めると、S 1 と比較されるものとして E 2 もしくは
E 1 ⒜を考える限りでは、結論 C 1「節度ある人は抑制も
S 1:
「劣悪な欲望を持たずそれらに関する正しい理(ロ
ある」は出て来そうにない。
ゴス)を持つ人が節度がある」
5.では、
『大道徳学』の作者はどう考えて、この結
S 2 「節度あるひとは、情念を被らない」
論を導出したのか。残る可能性は、E 1 の残りの部分(=
E 1 ⒝)であろう。E 1 の規定は、
「⒜欲望は内在している
S 1 は結論 C 1 導出の前提の一部であり、S 2 は結論 C 2
がそれらを理のゆえに抑える人だけではなく、⒝たとえ
導出の前提の一部であった。S 2 に正しいロゴスの所持
欲望は内在していなくとももし内在していたら抑えるよ
の規定は明示的には与えられていないが、「正しいロゴ
うなそのようであるような人もまた、抑制ある人であ
スの所持」は抑制あるひとにも認められていた(E 2)特
る」というものであった。注目されるのは、後半の選言
徴であり、S 2 ではそれが省略されているだけと考えら
肢⒝である。E 1 ⒝の「たとえ欲望は内在していなくと
れる。また、S 2 と対比されている E 3 の規定の仕方から
ももし内在していたら抑えるような」ひとという特徴付
見て、S 2 の「情念」とは支配されるべき情念であると考
けの中には、
「少なくとも現実には(劣悪な)欲望は[抑
えられる。すると、S 1 の「劣悪な欲望」と S 2 の「
(支配
制あるひとの魂に]内在していない」ことが含意されて
されるべき)情念」は、恐らく類似の特徴を言うものと
いると解することが出来よう。この含意内容は、節度あ
考えられる。それゆえ、節度ある人の二つの規定 S 1 と
るひとの「劣悪な欲望を持たない」という規定(S 1)と内
S 2 は、実は同様の内容を持つものと考えられる。つま
容上重なるものであり、結論(C 1)は、この E 1 ⒝と S 1
り、互いに逆の関係にある二つの結論 C 1 と C 2 の各々
との類似によって導出されたものと考えられる。
において前提の一つになっている「節度ある人」の規定
6.それでは、この様に解することによって、我々は
は同様の内実を持つものであったと解されるのである。
本書の著者に、前提から結論が帰結しない議論を帰属さ
8.すると、C 1 と C 2 が互いに逆の関係にあるような
せずに済んだと言えるのであろうか。そう断定するのは
二つの結論であり、しかも両者を導く議論が前提の一部
実は早計である。
を共有しているとすれば、残りの前提は互いに逆の関
今問題にしている二つの節で提示されている結論は、
係にあるようなものであることが予想される。そこで、
一つではなく、二つあった。もう一つの結論(C 2)とは、
各々の結論の前提になっている「抑制あるひと」の規定
「抑制ある人は節度があるのではない」であった。それ
を並べて見比べてみよう。
は、C 1 とは逆の結論と言えよう。では、この結論(C 2)
はどの様な前提から導き出されているのか。その前提
30
E 1:「⒜欲望は内在しているがそれらを理のゆえに抑
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
える人だけではなく、⒝たとえ欲望は内在していなくと
の各々の前提になっている二つの主張──節度ある人の
ももし内在していたら抑えるようなそのようであるよう
規定と抑制あるひとの規定──は、実は同様の内容を持
な人もまた、抑制ある人である」
つものであったことが判明したのである!!!つまり、
本書の著者は、
(ⅰ)一方「節度ある人は抑制もある」
(C 1)
E 3:
「⒞抑制ある人は情念を持ちながらそれらを支配
と結論する場合には、抑制あるひとの特徴付け(E 1)の
するか、もしくは、⒟情念を持ち得る人である。」
内、可能性の方の選択肢を前面に出し、しかもそれが可
能性であって現実には(劣悪な)欲望は抑制あるひとに
⑴ E 3 が選言の形を取っているのに対して、E 1 は連言
内在していないことに注目しながら、劣悪な欲望を持つ
の形を取ってはいる。しかしながら、この連言は、同時
ことのない節度あるひととの類似性に焦点を当てて C 1
に満たされるべき二つの条件を提示するものではなく、
を結論しながら、他方(ⅱ)
「抑制ある人は節度があるの
抑制あるひとを規定する二つの異なる場合が提示されて
ではない」
(C 2)と結論する場合には、抑制あるひとの特
おり、その意味では、E 3 の選言文による提示方法と同
徴付け(E 3)によって、抑制あるひとは現実に(劣悪な)
様の提示の仕方をしていると言ってよい。
情念を持っていたり、現実には持っていなくとも持つ可
⑵ E 1 では正しいロゴスの内在が明示されているのに
能性があることを通して、劣悪な欲望を持つ可能性もな
対して、E 3 ではロゴスへの言及は含まれていない。し
い節度あるひととの差異性を指摘して C 3 を結論してい
かしながら、抑制あるひとの第二の規定 E 2 では、抑制
るのである(27)。
あるひとによる正しいロゴスの所持は明示されており、
要するに、同じ前提を使いながら、現実性と可能性の
それゆえ、E 3 でもこの点は省略されているだけと考え
二分肢を利用しながら、微妙に焦点をずらすことによっ
られる。
て、互いに逆の関係にある二つの結論を導出しているの
⑶ E 1 では「欲望(ἐπιθυμία)
」の語が、E 3 では「情念を被
である。
る(πάσχειν)
」の語が用いられているが、同様の論点を言
この様に見ると、この二つの節の議論がいかにトリッ
うものと解される。
キーなものであるかが理解できるであろう。ここまで解
⑷ E 1 では
「抑える
(κατέχειν)
」
という表現が、E 3 では「支
釈を押し進めてきた上でなら、次のように端的に問うこ
配する(κράτειν)
」という表現が用いられているが、今の
とも許されよう。果たしてこの様な余りにもトリッキー
文脈では同様の内容を意味すると解される。
な議論をアリストテレスがやったであろうか、と(28)。
⑸ E 3 の二つの選言肢⒞と⒟は、
「情念を持つ」という
10.節度あるひとと抑制あるひとの比較という点で
点では共通である。すると、両者の違いは、⒟では情念
参照されるのは、『ニコマコス倫理学』第七巻第九章
を持ち「得る(οἷος τε ὤν)
」という点に見る他はあるまい。
1151 b 32 -- 1152 a 3 の箇所である。そこでは、⒠抑制の
そして、その「得る」とは可能性のことをいうと考えら
ある人も節度ある人も、身体的な快楽のゆえにロゴスに
れる。つまり、E 3 の二つの選言肢⒞と⒟は、現実に(劣
反して何かをすることはないという点で、両者は類似す
悪な)情念を持っていてそれを支配しているか、現実に
るが、⒡抑制のある人は劣悪な欲望を持つが、節度ある
は情念を持ってはいないが、そうした情念を持つ可能性
人はそうした欲望を持たないこと、及び、⒢節度ある人
があって(その可能性が現実化した場合にはそれを支配
がロゴスに反する快楽を感じないのに対して、抑制ある
する)かの選言肢、要するに現実と可能性という選言肢
人は、そうした快楽を感じながらもそれに引きずられな
ということになろう。
い、という二つの点で、両者は異なっていることが述べ
他方、E 1 の二つの選言肢⒜と⒝の違いは、前者の選
られている。この異なりは、①抑制あるひとは節度ある
言肢では、抑制あるひとは、現実に(劣悪な)欲望が内
ひとではない、ということのみならず、②節度あるひと
在していながら、それを抑制している人であるのに対し
は抑制あるひとではない、ということも含むと考えるの
て、後者の選言肢では、現実にはそうした欲望は内在し
が、自然であろう。それに対して、本書『大道徳学』
では、
ていないが、もし内在した場合にはそれを抑えるかの違
①は第二の結論(C 2)によって認められているが、②は
いということになる。つまり、この選言肢も、現実と可
否定され、節度あるひとは抑制もあることが主張され
能性の選択肢なのである。
ている(C 1)。二種類の人のあり方の間の関係について、
9.すると、話しは一体どうなるのか。これら五つ
『ニコマコス倫理学』と『大道徳学』では明らかに異なる
の論点から考える限り、抑制あるひとについて提示され
ことが述べられている。
ている二つの規定 E 1 と E 3 は、同じ様な内容を含んで
11.この違いの元になったのは、抑制あるひとの二
いるということになる。ということは、結論 C 1 及び C 2
つの規定 E 1 と E 3 である。(劣悪な)欲望が内在してい
31
新 島 龍 美
るかどうか、或いは、
(劣悪な)情念を被っているかど
法といって良いであろう。ここから出てくる可能な想定
うかという、単純な特徴付けではなく、その現実化と
は、本書『大道徳学』の叙述は、一方では『ニコマコス倫
並んで可能性の選択肢も含められていた。この「可能
理学』の規定方法を踏襲しつつ、他方では、独自の規定
性」は哲学的には興味深いものかも知れない。その「可
方法を付け加えようとする、何者かの意図によるものと
能性」とは一体如何なる種類の可能性であるのか。抑制
いう想定であろう。
ある人については、劣悪な欲望が実際には存在していな
Ⅷ
くとも、もしそれが生じたならば──希求法で表現され
、そういう人
ている──抑える(εἰ ἐγγένοιντο κατέχειν(b 16)
次に取り上げるのは、無抑制をめぐる第二巻第六章第
であるのに対して、節度あるひとには、劣悪な欲望が生
四十三∼四十四節の箇所(1204 a 5 -- 18)である。
じる可能性自体が否定されていると解される。しかしな
がら、この可能性の性格について、少なくとも本書の此
(43)ところで、果たして、無抑制の人は知っており
の箇所でこれ以上のことは出てこないと言わざるを得な
理において欺かれていないようなものであり、他方思慮
い。
ある人は正しい理によって個々のものを見て取るような
12.
『ニコマコス倫理学』では、劣悪な欲望・情念につ
ものである以上は、果たして思慮ある人が無抑制である
いては、それを持つか否かという単純な二分法が取られ
のは可能なのか、それともそうではないのか。というの
ているのに対して、先に見たように、本書ではより複雑
は、言われたことどもに疑問を呈する人もいるだろうか
な区分がなされている。それでは、両書のこの違いはど
ら(30)。だがもしわれわれが先に言われたことどもに従
のように理解されるか。
うならば、思慮ある人は無抑制ではないであろう。なぜ
より単純な区分とより複雑な区分の時間的前後関係に
なら、われわれが主張していた(31)ところでは、思慮あ
ついては、両方向の可能性が考えられる。思考の成熟に
る人は正しい理だけが属している人ではなく、理に則し
よって、差異の指摘が単純化されることもあり得よう。
て最善と見えることどもを行為することも属している人
しかし今問題の「劣悪な情念を被る可能性」をめぐる思
であるから。だがもし思慮ある人が最善のことどもを行
考の場合には、より単純な区分からより複雑な区分へと
為するのならば、思慮ある人は無抑制でもないであろう
移行した、と解するのが、より自然と思われる。つま
が、そのような〔無抑制な〕ひとは一方才覚はある。
りは、
『ニコマコス倫理学』の叙述から本書の叙述へと
(44)なぜなら、われわれは上で(32)才覚のある人と思
いう方向が示唆される。では、この方向の移行は、同一
慮ある人を、異なっていると考えるゆえに、区別したか
著者の思考の中の移行と解しうるであろうか。そうでは
らである。なぜなら、一方〔両者は〕同じこと共に関わ
ないと解するのが、より自然ではないか(議論のトリッ
りはするが(33)、しかし、一方はそうすべき事柄に関し
。つまり、本書は、アリストテレ
キーさを想起しよう)
て行為し得るが、もう一方は行為し得ないからである。
ス以外の人物の手になるものである可能性が示唆されて
(そうすべ
そこで、才覚のある人は無抑制であり得る(34)
くるのである。
きでもあることどもに関して〔無抑制な人は〕行為し得
本書の真作性を主張する論者達も、
『大道徳学』を、
『ニ
ないからだ)が、思慮ある人の方は無抑制ではあり得な
コマコス倫理学』及び『エウデモス倫理学』よりも後期の
いのである。
著作と見なすものはいないようである。作品全体の完成
度の点で『大道徳学』が他の二著作に劣ることは否めず、
1.この箇所の議論は分かり難い。①どういう結論が、
本書真作説の場合、本書はそれらの二著作より前の時期
②どういう前提から、③どのような道筋で、明らかにさ
に置かれることが多い。すると、本書の叙述に、『ニコ
れようとしているのか、判然としない。
(29)
マコス倫理学』
(及び『エウデモス倫理学』 )の叙述より
結論として可能性が高いのは、a 12 -- 13 及び a 17 -- 18
も後のものと見なすのが自然な叙述が含まれている場
に二度現れる、「思慮ある人は無抑制では(あり得)
ない」
合、それは取りも直さず、本書が
『ニコマコス倫理学』
(及
という主張Pであろう。
び『エウデモス倫理学』
)の著者とは異なることを意味す
議論の構造を決める小辞(particles)の続き具合は、P
ることになろう。
かつQ、なぜなら(γάρ)、R;なぜなら(γάρ)、S;それ
(劣悪な)欲望との関係による、抑制のある人の三種
ゆえ(οὖν)、TかつP、という構造になっていると考え
類の規定の内、E 2 は、劣悪な欲望を持つことが前提の
られる。
上でそれを抑制する人という規定の仕方であった。この
概略を示せば、
規定方法は、
『ニコマコス倫理学』の規定方法と同じ方
32
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
P:思慮ある人は無抑制では(あり得)ない(1204 a
12 -- 13 ; a 17 -- 18)
。
る者として(ὡς ἑτέρων ὄντων)区別される、と主張されてい
る。しかし、この主張は、正確には、何の主張なのか。
Q:無抑制の人は、才覚はある(1204 a 13)
。
この箇所の議論について上で挙げた解釈が成立するため
R:才覚のある人と思慮ある人は、異なる者として、
には、才覚のある人の外延と思慮ある人の外延とは重な
区別された(1204 a 13 --a 15)
。
S:才覚のある人と思慮ある人は、同一の領域に関わ
らない、言い換えれば、才覚があると同時に思慮もある
ひとは存在しないことを主張していると解する必要があ
るが、為すべきことを後者は為すが、前者は為さ
る(36)。
ない(1204 a 15 --a 16)
。
しかし、実際にはどうなのか。思慮ある人が才覚ある
T:才 覚 あ る 人 は、 無 抑 制 で あ り 得 る(1204 a 16 -a 17)
。
人でもあることはあり得ないのか(或いは、同じことだ
が、才覚のある人が思慮ある人でもあることはあり得な
いのか)。十分あり得るのではないか。
この内、SはRの理由付けであると考えられるので、
4.更に問題になりそうのは、本書第一巻第三十四
〔三
議論全体の構成の上ではRの下位にある、と言えよう。
十五〕章第十九─二十節(1197 b 18 -- 26)の叙述との斉合
すると、議論の一番の骨格として、
「Q&R、故に、P」
性の問題である。念のため採録しよう。
という構造を摘出できよう。今それぞれの命題を構造化
するために、
(19)才覚の場合の事柄もまた同様であると思われよ
「思慮がある」をΦ、
う。なぜなら、才覚および才覚ある人は、一方思慮でも
「才覚がある」をD、
なければ思慮深い人でもないが、しかしながら思慮深い
「抑制がない(=無抑制である)
」をA
人は才覚があり、それゆえ才覚はまた何らかの仕方で思
と記号化すると、PはΦ* ¬ Aと、QはA*Dと、Rは
慮と共に働くからである。
D* ¬ Φと記号化出来る。QとRという二つの前提から
(20)しかし、劣悪な人も一方才覚があるとは言われ
その結論が帰結するために必要な関係*の候補は等号
る、例えばメントール(37)は一方才覚があると思われて
、D= ¬ Φ(R)、
(=)であろう(35)。即ち、A=D(Q)
いたが、しかし思慮深くはなかった。なぜなら、思慮深
故に、A= ¬ Φが帰結し、対偶を取れば、¬¬ Φ= ¬ A、
い人および思慮には、最善の事柄を追求しそれらの事柄
二重否定を肯定化して、Φ= ¬ A、等号(=)が関係*
を選択し行為するのが常であることが属するが、他方才
であったから、Φ* ¬ Aで、ひとまず、QとRからPが
覚と才覚ある人には、行為されることどもの各々が何か
帰結する。
ら生じるかを考察し、それらのことを提供することが属
2.しかし、関係*を等号(=)という強い関係で置
するからである。そこで才覚ある人は、以上のような領
き換えることには、注意が必要である。例えば、A=D
域において、それらの事柄に関わると考えられるであろ
が成立するためには、A⊃DとD⊃Aの両方が成立しな
う。
ければならないが、A⊃DだからといってD⊃Aが保証
されるとは、勿論、限らない。例えば、Q
(無抑制の人は、
つまり、此の箇所では、才覚ある人が、即、思慮深い
才覚はある)からT(才覚ある人は、無抑制である)は、
人であるわけではないが、思慮深い人が才覚があること
自動的には帰結しない。もし当該箇所の議論がこうした
は可能であり、「才覚は何らかの仕方で思慮と共に働く」
推論に基づいているとしたら、誤謬推論の怖れが十分あ
とされている。才覚があるひとは、思慮深い人であるこ
り得よう。しかし、例えば、TはT とは異なり、一種
とも、劣悪な人であることも、共に可能であることが、
の様相命題であり(
「無抑制であり得る」
)
、可能性のレ
明示的に語られているのである(38)。
ベルでは、QからTは帰結すると考えられる。言い換え
5.この様に見て来ると、1204 a 12 --a 18 の叙述と、
れば、無抑制の人は才覚があるからといって、才覚のあ
1197 b 18 --b 26 の叙述とは矛盾を含んでいると考えざる
るひとは無抑制であるとは限らない。しかし、無抑制の
を得まい。しかし、それ程複雑とは思えない内容に関し
人は才覚があるならば、才覚がある人は無抑制であり得
て、アリストテレスがこの様な矛盾に気が付かなかった
る、とは言える。b 16 と b 18 で二度繰り返されている「∼
と考えるのは容易ではあるまい(39)。
であり得る(ἐνδέχεται εἶναι)
」は、本書の著者の可能様相へ
6.今問題にしている箇所は、同じ本書の中の他の叙
の明瞭な意識を示しているとも解され得よう。
述と矛盾するばかりではな。アリストテレスの作品であ
3.以上の解釈の問題は、寧ろ、Rの理解にある。
ることが疑われることは稀な他の倫理学的著作に見られ
1204 a 13 -- 15 では、才覚のある人と思慮ある人は異な
る叙述とも矛盾を孕んでいる。即ち、『ニコマコス倫理
33
新 島 龍 美
学』第六巻第十二章 1144 a 23 --b 1 で才覚の能力について
ぜなら、快楽は生成過程(γένεσις)ではなく、また、すべ
述べられているが、その最初の部分では次のように言わ
ての快楽が生成過程を伴うものでもなく、むしろ、快楽
れている。
「
『才覚』と呼ばれている一つの能力がある。
は活動(ἐνέργεια)であり、目的だからである。また、快
それは、提示された目標に導くことをなしえ、これを手
楽は、何かが生成する過程において結果するものではな
に入れる能力のことである。従って、それは、目標が美
く、むしろ、何かを使用する過程において結果するもの
しい時は、賞賛に値するが、目標が劣悪である時には『老
である。また、目的が快楽〔そのものとは〕異なるもの
獪』である。われわれが才覚のあるひとを思慮あるひと
として存在するのはすべての快楽についてではなく、自
とも老獪なひととも呼ぶことがあるのはこのゆえであ
然の本性の完成へと導かれるにあたって生まれる快楽に
る。思慮はこの能力ではないが、この能力なしにはあり
ついてである。それゆえ、快楽を「感知された生成過程」
得ない ......」
(加藤信朗訳、一部改変)
。思慮が才覚の能力
であると言うのはただしくない。むしろ、快楽とは「自
なしにはあり得ないという指摘は、これまた、今問題の
然の本性にかなった性能の活動」であると言うべきであ
「才覚と思慮は異なる」という主張の線と容易に斉合す
り、「感知された」という代わりに「妨害されない」と言
るものとは言い難い。本書と『ニコマコス倫理学』が同
うべきである。だが、或るひとびとは、快楽は優れた意
一の著者の手になるものなのか、少なからず問題になる
味において善いものであるからこそ、生成過程であると
箇所の一つと言えよう。
考えている。というのは、かれらは活動を生成過程だと
Ⅸ
思っているからである。だが、それは違う(40)。
最後に取り上げるのは、第二巻第七章第七∼八節の箇
2.続く第八節は、第七節の主張の理由を与える小辞
所(1204 b 20 -- 32)である。
によって導入されており、節末でも、「快楽は生成であ
る」と或る人々が考える理由が説明されている。しかし、
(7)さて一般に、いかなる快楽も生成ではない。なぜ
この第八節の中には無視できない主張が見出される。そ
なら、それらの食べることと飲むことからの快楽も生成
れは、「快楽は、それを感じる魂の部分の運動と現実活
ではなく、それらの快楽は生成であると主張する人びと
動(ἡ δὲ κίνησις αὐτοῦ καὶ ἡ ἐνέργεια)」である旨の主張である。
は誤っているからである。というのは、彼らは、〔飲食
ところが、『ニコマコス倫理学』には次のような一文
物の〕摂取が生じる場合に快楽が生じるので、そのこと
が存在する(第十巻第三章 1173 a 29 --b 1)。
のゆえに、
〔快楽は〕生成であると考える。だが、そう
ではないからである。
また、かれらは善を完全なもの、運動(κίνησις)や生成
(8)なぜなら、われわれがそれによって快楽を感じる
(γένεσις)を不完全なものと定め、快楽が運動や生成であ
或る部分は魂に属しているので、われわれがそれに不足
ることを示そうと試みている。だが、かれらの言って
しているものの摂取と同時に、魂のその部分は、それが
いることは当たらず、快楽は運動ではないように思われ
現実活動する限りで、運動しもするが、この部分の運動
る。なぜなら、すべての運動にはそれに固有な性質とし
と現実活動が快楽なのであるから。それゆえ、その摂取
て速さと遅さがあると考えられている。かりに、運動自
と同時に魂のあの部分が現実活動することのゆえに、も
体には速さも遅さもないとしても、たとえば、宇宙の運
しくはその部分の現実活動のゆえに、快楽は生成である
動について言えるように、他のものに対する関係として
と彼らは考えるのだが、これは、摂取は明白であるが、
みればそれがあると考えられている。ところが、快楽に
他方魂の部分は不分明であることによってである。
は速さも遅さもない。というのは、怒りを感ずるに至る
過程が速いということがあるのと同じように、快を感ず
1.第七節の基本的は主張は、
「快楽は生成ではない」
るに至る過程が速いということはありうるが、快を感じ
ということである。この主張は、例えば『ニコマコス倫
ている状態が速いということはないからである。
理学』第七巻第一二章の次の箇所(1153 a 9 -- 17)とも斉
合する様に見える。
『ニコマコス倫理学』の此の箇所では、「快楽は運動で
はない」ことが明言されており、「快楽は運動であり現
或るひとびとの説によれば、目的は生成過程とは異な
実活動である」ことを主張する『大道徳学』の箇所とは斉
るものであって、生成過程よりも善いものであるが、そ
合しないように思われる。
れと同じように、快楽とは異なる或る何ものかが快楽よ
しかも、『ニコマコス倫理学』の此の箇所では、
「生成」
りもより善いものとして存在するという必然はない。な
の概念が、アリストテレスの論敵の主張の中に、
「運動」
34
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
(5)
と並べて用いられている。
1185 b 15 の ἐκ τῶν ἠθικῶν は、Johnstone の提案に従い、
簡単に要約しよう。
『ニコマコス倫理学』では、快楽
ἔξω τῶν ἠθικῶν と読む。その論拠については、次の拙稿
は運動でも生成でもなく、現実活動であるとされている
を参照されたい。
のに対して、
『大道徳学』では、一方で⑴快楽は生成で
新島 龍美、
「古書三語考──伝アリストテレス
はないとされながら、他方では⑵快楽は運動であり現実
、『比較社会文化』第 17 号、
作『大道徳学』の一断面」
活動であるとされているのである。快楽は生成や運動で
はなく現実活動であるという主張は、アリストテレスの
快楽論の基本とされるものであることを勘案すると、両
書のこの相違は容易に無視できない齟齬と言わなければ
(41)
なるまい
。
2011 年、pp. 51 -- 75 .
(6)
1185 b 27 の πάν τ ε ς は、Spengel, Armstrong, John-
stone の提案に従い πάντος と読む(
(7)
Dirlmeier)
。
本章の叙述は前掲拙稿「古書三語考」での考察を踏
襲している。
(8)
おわりに
本書 1183 a 24 -- 27 でも、「明瞭な事柄」及び「不明瞭
な事柄」のそれぞれの位置に置かれていたのは、
「感
我々は、
『大道徳学』の幾つかの箇所を取り上げ、そ
覚されうるものども」及び「知られうるものども」とい
の分析を積み重ねてきた。その結果は、
『大道徳学』は
う異なる種類の事象である。
アリストテレスの真作とは言い難く、その偽作性の蓋然
(9)
前掲拙稿「古書三語考」
、pp. 60 -- 61 参照。
性は高いと言わなければならない。
(10)
アリストテレス『大道徳学、エウデモス倫理学、徳
最初に触れたように、この作品に関しては、真作説及
び偽作説のいずれの説もこれまでに主張されてきた。そ
と悪徳について』、茂手木元蔵訳、岩波書店、1968 年。
(11)
G. C. Armstrong,
の限りでは、我々の結論も、これまでの議論の一方に荷
担する結果に終わったと言わざるを得ない。しかし、こ
Harvard
University Press, 1935 .
れまで偽作説の論拠とされてきたものは、語彙や用語法
(12)
といった修辞的な特徴の指摘の他は、それぞれの研究者
(13)
の印象の域を出るものではなかった。今、我々は、具体
的なテキストとその解析を通して、そうした印象(の少
p. 496 note
『ニコマコス倫理学』第二巻第一章 1103 a 20 -- 22 に
も同様の描写がある。
(14)
1190 a 20 の ἀρετήν の後のコロンはコンマに変え、γὰρ
なくとも一部)を言語化しその内実を与えることが出来
は、幾つかの写本(CC, Pb, A, L, Kb, B)により除き、
たのではないかと思われるのである。
ἐστίν の後のコンマはコロンに変える。また、1190 a 21
の ἕκαστον は、 幾 つ か の 写 本(CC, Pb, A, L)に よ り、
ἕκαστον γὰρ と読む。
註
(15)
(1)
Aristotle,
Johnstone, H. M.,
translated by
St. Hugh College,
Anthony Kenny, Oxford U. P., 2 0 1 1;Aristote,
Thesis submitted for the D. Phil. degree, Oxford
introduction, traduction, notes
par Olivier Bloch et Antoine Leandri, Belles Lettres,
Tennemann, W. G.,
Bemerkungen über
die sogenannte große Ethik des Aristoteles ,
誤ってとばしている為、その後の章付けがずれてい
る。〔〕内はベッカー版の章付けである。
(17)
1,
1799 , SS. 209̶232(als Sonderdruck, Erfurt, 1798 ,
SS. 211̶231)
(3)
現在アリストテレス作品の箇所を指定するための
規準となっているベッカー版の章付けが第二十一章を
2011 .
(2)
University, Hilary Term 1997 .
(16)
予め一言述べておくならば、
『大道徳学』の真偽問
これについて茂手木註解(pp. 152 -- 154)は何も触れ
ていない(茂手木元蔵『(アリストテレス)大道徳論─
─翻訳と研究──』、横浜市立大学、1967 年)
。
(18)
Armstrong,
(19)
Kant, I.,
p. 596 note 1 .
B VIII(
題の考察にとって、他の倫理学書との(表現方法や内
Bd. III, herausgegeben von
容に関する)異同の指摘だけでは、不十分である。問
der Königlich Preußischen Akademie der
題は、析出される議論の特徴が、アリストテレスに帰
属させる蓋然性を有するか否かである。
(4)
訳文中の括弧付き数字は節番号を表す(以下同様)。
Wissenschaften, Berlin, 1911 , S. 7).
(20)
晩年のアリストテレスが「惚けた」という様な証言
の類は残されていない様である。
35
新 島 龍 美
(21)
(22)
本書第二巻第六章 1201 a 9 -- 16 参照。
ていない様である。
<>内は、Bonitz および Susemihl の補筆による。
(23)
p. 610 note
C
(37)
前 385 年頃─前 340 年頃のロドス島出身の傭兵隊
長。ペルシアのアルタクセルクセス三世のフェニキア
(24)
b
C :Cant. U. L. li. 5 . 44(1879)
;P :Vat. gr. 1342 .
およびエジプト遠征で活躍し、小アジア西岸のトロ
(25)
L:Laurentianus 81 , 18 .
アースの太守に任ぜられる。謀略に長け、アリストテ
(26)
S 2 の「情念を被らない」という規定は、S 1 の規定の
レスの義父ヘルメイアスも、欺かれて捕らえられ、処
内「劣悪な欲望を持たない」という規定に相当すると
考えられよう。
(27)
b 22 -- 23 で「それらのいずれも節度ある人には属さ
刑された(前 341 年頃)という。
(38)
cf.『ニコマコス倫理学』第七巻第十章 1152 a 10 -- 14。
(39)
Johnstone は、本書の著者が、『ニコマコス倫理学』
とは、「⒞
ない」
と言われる場合の
「それらのいずれも」
第七巻第十章 1152 a 10 -- 14 の箇所を理解しておらず、
情念を持ちながらそれらを支配する」と「⒟情念を持
これは、その著者がアリストテレスを誤解してナンセ
ち得る」という E 3 の二つの選言肢のどちらも、を意
味する。
(28)
ンスを書いた一つの例だと酷評(?)している。
(40)
この点は、また、他の二つの倫理学書には見られな
い『大道徳学』の特徴を、それぞれの講義が向けられ
加藤信朗訳、『アリストテレス全集 13 ニコマコス
倫理学』、岩波書店、1973 年。
(41)
『大道徳学』の快楽論と『ニコマコス倫理学』のそれ
た聴衆の違い──即ち、
『ニコマコス倫理学』や『エウ
との比較・対照については、次のものを参照;Gosling,
デモス倫理学』は学園内部向けの講義であるのに対し
J. C. B. and Taylor, C. C. W.,
て、
『大道徳学』は学外の一般聴衆向けの講義である
Clarendon Press, 1982 , Appendix B;
『大道徳
こと──によって説明可能であると考えて、
学』をアリストテレスの真作と見なす解釈──例えば、
古くは John Case から、Hans von Arnim、最近では
Peter Simpson など──にとって、看過できない問題
ともなろう。この箇所の議論のトリッキーさの問題点
は、
『大道徳学』を一般聴衆向けの講義と考える場合
には更に増幅しようからである。
(29)
今の脈絡で参照された『ニコマコス倫理学』第七巻
は、
『エウデモス倫理学』の第六巻に相当するもので
ある。両著作は、中央部分の三つの巻を共有している。
即ち、
『ニコマコス倫理学』の第五、六、七巻は、『エ
ウデモス倫理学』の第四、五、六巻である。
(30)
1204 a 8 の εἰρημένα の後ろのコンマは、ピリオドに変
える。
(31)
第一巻第三十四章 1197 b 23 -- 24。
(32)
第一巻第三十四章 1197 b 18 -- 28 , 36 sq。
(33)
1204 a 15 の ταὐτά の後のコロンは、コンマに変える。
(34)
cf.『ニコマコス倫理学』第七巻第十章 1152 a 10。
(35)
ここで前提から結論を導出するための必要最低条件
は、関係*が推移律を満たすことであろう。
(36)
それ故、1204 a 16 の δεῖ を Casaubon に従って δεινός と
修正して読む案は受け入れられない(
Johnstone,
p. 364)
。なぜなら、そのように修正すると、a 16 -- 17
は、
「思慮ある人は、それらについて才覚がある事柄
について行為遂行的(πρακτικός)である」という程の意
味になり、思慮ある人が才覚もあることを認めること
になり、議論全体が毀れることになるからである。幸
い(?)a 16 の δεῖ を δεινός と読む写本の存在は報告され
36
pp. 455 -- 471 .
伝アリストテレス作『大道徳学』の真偽問題
Authenticity Question of the supposedly Aristotelian
Tatsumi Niijima ABSTRACT
This study considers whether the supposedly Aristotelian
can be Aristotle s genuine
work. Several parts of its texts are analyzed to see if this work can be attributed to Aristotle himself.
The result is that it is highly probable that it is not his genuine work.
37
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