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3.パックス・アメリカーナとアメリカ企業の盛衰

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3.パックス・アメリカーナとアメリカ企業の盛衰
パックス・アメリカーナとアメリカ企業の盛衰
(天野・林・加藤編『アメリカ文化の構図』
、松柏社、1996 年5月)
1.パックス・アメリカーナの生成
体制(政治・経済・社会諸システムの総体)としての資本主義は、19世紀には、産業革命の成果をもって生
産力の急速な発展を促し、富の蓄積を実現したが、他方では貪困・労働苦・道徳的堕落などの蓄積を防ぐことが
できなかった。とりわけ1820年代∼70年代に周期的に発生した恐慌は、社会全体に一大災厄をもたらす資
本主義の矛盾の集大成であり、同時にその解決形態でもあったので、これに対するマルクス、エンゲルスらのい
わゆる『科学的社会主義者』たちの批判は根底的であり、資本主義否定(=革命)の主張と行動に行き着くもの
であった。
19世紀末から20世紀初めにかけて、
不治の病ともみなされた恐慌に対する資本のリアクションは、
20年近くの大不況を経由して独占の形成に結果し、資本主義は自由競争段階から独占段段階へと移行した。
独占段階の資本主義は、レーニン『帝国主義論』によれば、五つの標識、すなわち①生産の集積・集中と独占
の形成、②銀行資本の集積・集中と金融資本の形成、③資本輸出、④資本家団体間での世界分割、⑤列強間での
領土分割と植民地の形成、によって特徴づけられる。独占資本主義が帝国主義と呼ばれるのは、帝国主義的拡張
(第5標識)がその重要な特徴として備わっているからである。イギリス、フランス等の先進諸国が既に領土分
割を完了している状況下で、生産力の発展が不均等に行われ、ドイツ、日本等の後発諸国が新たな領土分割を要
求するようになると、帝国主義諸国間の戦争は不可避となる。第一次世界大戦、第二次世界大戦の勃発は、帝国
主義の必然的な帰結であった。
独占資本主義への移行とともに、第二インターナショナルに結集する世界の社会主義(資本主義批判)勢力は、
資本主義の改良(修正)
、祖国防衛を主張する社会民主主義派と、資本主義の革命的廃絶(否定)
、戦争反対(戦
争を内乱へ)を主張する共産主義派に分裂した。レーニンの率いるロシア社会民主党ポリシェビキ派(後のソ連
共産党)は、もとより後者に属していた。
帝国主義段階の資本主義が矛盾を大戦によってしか解決できないことに対する国民の失望と不満の増大する中
で、革命運動は急速に燃え拡がった。特に、君主制の下で半封建的な諸関係を広範に残しつつ工業化を推進し、
後発帝国主義国として列強の仲間入りを果そうとしていたロシアでは、矛盾が最も先鋭に現れただけに、第一次
世界大戦の敗戦国ドイツで革命的な情勢が成熟するよりも遥かに速いスピードで革命的機運が高まっていった。
列強の大戦による疲弊(革命勢力に対する対抗力の劣化)とドイツにおける革命的情勢の高まり(ルクセンブ
ルグ、リープクネヒトらの共産主義派が抹殺されたことにより、カウツキ、ヒルファディングらの社会民主主義
派が政権の座につくことになったが)という歴史的条件の下で、農民(国民の8割を占め、大多数が文盲)の掌
握に成功したロシア社会民主党(ポ)はツァーリの権力を打倒し、ここに史上初の共産党政権が誕生することと
なった。共産党政権は、内戦と戦時共産主義、食糧税の導入とネップ(新経済政策)
、スターリン体制と国有化・
工業化・計画化・農業集団化の強行等を通じて権力基盤を強固にし、ソビエト社会主義の「威容」を全世界に誇
示した。
これに対して資本主義体制の側では、ベルサイユ講和後に訪れた相対的安定期もつかの間、1929年ウォー
ル街の株価大暴落を契機として世界大恐慌が勃発し、暗澹たる1930年代を迎えることになった。そして資本
主義の不治の病である恐慌の大規模な再発は、一方ではドイツ、イタリア、日本等の国々にファシズム政権を誕
生させ、他方ではニューディール政策に代表される国家独占資本主義を生み出した。しかし、そのいずれをもっ
てしても経済的苦境を克服するには至らず、結局は、世界経済のブロック化を通じて第二次世界大戦へ、という
最悪のシナリオが現実のものとなったのである。
ファシズム連合は、イギリス、フランス、アメリカ等の帝国主義列強に対してばかりでなく、社会主義ソ連に
対しても戦争を仕掛けた。
このため第二次世界大戦は、
ファシズム連合対反ファシズム連合という形で戦われた。
しかし、元来ファシズムとは、国家社会主義という看板を掲げてはいたが資本主義体制そのものの否定を目指す
ものではなく、資本主義体制の矛盾を最も暴力的、反民主主義的、反共産主義的方法で解決しようとする試みで
あった。したがって反ファシズム連合の中には、資本主義体制の矛盾は資本主義の枠内で民主主義的に解決され
うるとする自由主義・民主主義勢力と、資本主義体制の矛盾は資本主義の否定によってのみ最終的に解決されう
るとする共産主義勢力とが含まれるところとなった。
大戦は反ファシズム連合の勝利をもって終わったが、異質な勢力の統一である反ファシズム連合の継続は不可
能であった。大戦中に政治的、軍事的、経済的に強大な国家に成長したアメリカとソ連は、大戦後、世界の覇権
をめぐって激しく対峙し始めた。パックス・アメリカーナとパックス・ソビエティカの形成である(1)。
パックス・アメリカーナは、その政治的枠組としてNATO、日米安全保障条約、SEATO(東南アジア条
約機構、77年解散)
、ASEAN(東南アジア諸国連合)
、ANZUS(太平洋安全保障条約)
、OEA(米州機
構)
、OCAS(中米機構)などを擁し、また経済的枠組としては、IMF体制(ドルを基軸通貨とする世界経済
体制の構築)
、GATTを二本柱として、EC、EFTA(欧州自由貿易連合)
、LAFTA(ラテンアメリカ自
由貿易連合)
、CACM(中米共同市場)などの地域経済組織と、世界銀行、地域開発銀行などの世界金融組織を
擁した。それは、政治力、経済力、社会力のすべてにおいて抜きん出た自由世界の盟主を自認するアメリカがそ
の中心に位置し、西ヨーロッパ諸国、日本が内円を構成し、A・A・LA諸国が外円を構成する、まさに対共産
圏包囲網そのものであった。
これに対して、40年代末に相次いで共産党政権の樹立をみたチェコスロバキア、東ドイツなどの東欧諸国を
糾合したパックス・ソビエティカは、政治的枠組としてワルシャワ条約機構を擁し、経済的枠組としてCMEA
(経済相互援助会議)を擁する、ソ連を中心として放射線状に張り巡らされた対「帝国主義」対抗網であった。
ここでは、共産主義体制(政治・経済・社会システム)のソビエト・モデルの強制的移植が追求され、共産党一
党支配の下でイデオロギー的締め付けが行われた。
なお、当初ソ連と友好関係にあった中国、北朝鮮、北べトナムは、60年代初め、国際共産主義運動をめぐる
路線上の対立からソ連と袂を別ち、代わってアメリカ圏を離脱したキューバがパックス・ソビエティカに包含さ
れた。
パックス・アメリカーナ対パックス・ソビエティカの対立は、その中心に位置するアメリカとソ連とがあまり
にも強大になり、しかも核兵器を擁する異常な軍事大国にまで成長したので、周辺諸国がそれぞれの肝煎りで戦
争を行うことはあっても、両者が直接に戦闘行為に及ぶことはなかったという意味で、まさに冷戦構造と呼ばれ
るにふさわしい世界的枠組であった。
したがって冷戦構造とは、イデオロギーとしての社会主義が現実の政治・経済・社会体制として確立し、それ
と資本主義体制との現実的対抗関係が生成・発展する中で構築されてきた国際社会の枠組である。それは単なる
イデオロギー的対決の枠組ではなく、体制の相違に起因して発生し、そのまま放置すれば重大な局面を招来する
かもしれないさまざまな問題を現実の政治的、軍事的な諸制度を動員して処理するための枠組であった。したが
ってそれは、政治的、軍事的対抗関係での優位を第一義的に追求すること、そしてそれを物質的に保証するよう
な経済システムを作り上げ、体制間経済競争に是非とも勝利することを各体制に強要するものであった。
2.アメリカの経済システム
パックス・アメリカーナは、アメリカとの政治的=軍事的同盟関係をテコとして、圏内諸国での共産主義の現
れ・影響力を完全に排除する(50年代前半のアメリカのマッカーシー旋風、在日アメリカ占領軍の命令による
レッド・パージなど)
、あるいは厳しく弾圧する体制(反共産主義政治システム)を構築した。資本主義に矛盾が
存在する限り、その最も急進的な批判者である共産主義を少なくともイデオロギー的には完全に排除することは
不可能だったからであり、アメリカ軍を世界の Military Police(憲兵)として直接展開し、何はともあれ強力な
政治力=軍事力で共産主義の封じ込めが目指されたのである。
同盟諸国は、アメリカの世界戦略に全面的に協力し、その代償としてアメリカから反共産主義政治システムに
対する安全保障(自由主義・民主主義の旗を掲げつつ、反共産主義を党是とする政党への資金援助、外交上の優
遇措置の付与など)をえた。この結果、同盟諸国は経済力の復興、開発に専念できることとなった。
アメリカから同盟諸国への経済復興=開発援助(マーシャル援助、占領地域救済基金、同経済復興援助基金な
ど)は、経済力において資本主義の優位性を確保し、共産主義の発生基盤となっている資本主義の矛盾とそれに
対する国民の不満を「解決」するために有効に利用された。アメリカ軍基地・施設・軍属を通じたドル散布、朝
鮮戦争、ベトナム戦争での特需、アメリカからの資本・技術の輸出、巨大な自国市場の同盟諸国への開放等もま
た、パックス・アメリカーナの経済的発展に大きく貢献した。
以上のような歴史的条件下で創出されたパックス・アメリカーナの世界経済システムは、新植民地主義による
第三世界の資源支配(低価格の原料・エネルギーの確保)
、アメリカの軍事援助、開発援助を通じたドル散布によ
る世界市場の創出、基軸通貨国の立場を利用した放漫な財政支出による広大なアメリカ市場の形成、反共産主義
政治システムの下での労使協調的な労働組合運動の展開、賃金コストと福祉水準の抑制等を特徴とし、総じて、
固定資本の急速な増大、近代化に資する経済システムの形成を促すものであった。そして、このシステムの成功
は、ひとえに世界の流動性需要を充たすためにアメリカから流れ出たドルが再びアメリカに還流するメカニズム
の持続、したがってアメリカ産業の国際競争力の維持とドル価値の安定にかかっていた。
ところでその中心に位置したアメリカは、パックス・アメリカーナの下でどのような経済システムを形成した
のであろうか。
体制間競争での政治的、軍事的優位の確保のためには、それなりの「資源配分=成長パターン」が必要であっ
た。すなわち、①軍事的優位の確保のために国家資金を動員して膨大な軍事技術開発体制を創出する、②開発さ
れた先端技術は、一方ではそのまま軍需産業で活用され、生産された高価な最新兵器は国家市場という保証され
た市場に確実に引き取られる、もちろんその際、国家機密というベールに包まれて高い利益率が保証されること
はいうまでもない、③他方では、それは民需産業技術に転換され、民需産業における生産性の向上と国際競争力
の強化に資する、④軍需生産、生産財生産の優先的発展 → 成長の度合いに応じた所得の増大 → 消費財生産の
増大、という成長パターンが形成される、⑤消費者信用の発達により消費が増大し、消費財生産が過度に膨張す
ると「軍需生産、生産財生産の優先的発展」の壁にぶつかり、不況局面が現れる、⑥軍事支出の一定割合の確保
を前提とした景気刺激=成長政策の追求、これが不断の政策として経済システムの中に構造化される、といった
特徴を有するまさに「冷戦構造的資源配分=成長パターン」の形成である。
アメリカ経済は、この冷戦構造とパックス・アメリカーナの下で最大限の利益を引き出し、またアメリカ企業
と国民は、全体としてこのような経済システムにどっぷりと浸かり、その恩恵を大いに享受してきた。ところが、
80年代半ばを過ぎる頃から、アメリカ国民の将来に対する不安が増大し始めた。一方で、中流階級の崩壊、海
外への仕事の流失、M&A(吸収・合併)の嵐に翻弄される従業員、貧困の蔓延、老朽化した公立学校、医療保
険の不備、ホームレス、貧困者向け無料給食所、凶悪犯罪の多発などが見られ、他方で、世界最大の債務国に転
落したにもかかわらず、機関投資家、ブローカー、投資銀行、企業経営者の一部に異常な富裕化が見られるとい
う具合に、アメリカ経済のあり方の中に何か非常に均衝に欠けたもの(不平等の拡大)があり、それが国民の不
安感を募らせていったのである。
既に、60年代末から70年代前半にかけて、べトナム戦争遂行のつけがアメリカの経済、社会に重くのしか
かってきていた。IMF体制の崩壊に結び付く金=ドル交換停止、いわゆるドル・ショック、そして資源、エネ
ルギーの低価格体制の終焉を意味したオイル・ショック、という一大激震に見舞われたアメリカは、ようやく1
975年になってベトナムヘの軍事介入を断念したが、自国産業の空洞化、国際競争力の喪失、巨額の財政赤字
と経常収支赤字、いわゆる双子の赤字の慢性化等々、総じてドルの弱体化にともなう威信の低下を大いなる悲哀
をもって甘受せざるをえなかった。パックス・アメリカーナは、経済システムとしては破綻の瀬戸際に立たされ
ていたのである。
80年代前半、強いアメリカの復活を目指したレーガン大統領のいわゆるレーガノミックス(供給重視の経済
学、高所得者優遇税制、加速度償却制度、規制緩和、軍事支出を増額する一方での歳出削減、マネーサプライ抑
制など)の下で、アメリカ経済は「繁栄」を謳歌し、ドルヘの信認は回復されたかにみえた。しかし、その「繁
栄」は、同盟諸国、とりわけ巨額の経常収支黒字を計上していた日本の財務省証券買い支え(体制支持金融)に
よってもたらされた虚構であり、また体制支持金融獲得のための高金利政策がドル価値の高値安定、したがって
ドルヘの「信認回復」の背景をなしていた。実際、
「繁栄」の裏側では、経常収支赤字が巨大な規模に膨れ上がり、
財政赤字ももはや限界を超えて進行していたのである。
1985年のプラザ合意は、人為的に維持されていたドル価値を実勢レートに近付け、とりわけ円の対ドルレ
ートを切り上げることによって、対日赤字を早急に解消しようとする措置であった。しかしこれは、アメリカ産
業の国際競争力を為替相場の変更によって「回復」しようとする姑息な措置であり、日本企業の懸命な円高対策
の前ではもとより有効なものとはなりえなかった。
1989年以降の日米構造協議、日米包括経済協議は、日本産業の競争力が日本独特の経済システムに基づい
ているとして、日本型経済システムの「異質性」に批判の矢を放ち、日本にアングロサクソン型の経済システム
を受け入れさせようとするものであるが、この点についてはこれ以上言及しないでおこう。ただ、このような対
日外交の展開は、アメリカ政府ならびに産業界が自国産業の競争力の低下を十分に認識していることを裏付けて
おり、この点は確認しておくべきであろう。
ところでパックス・アメリカーナの生成期には、その経済的威信の止まるところを知らなかったアメリカが、
なぜ『アメリカの没落』
、
『何がアメリカを衰退させたか』
、
『幻想の超大国 ― アメリカの世紀の終わりに ― 』
、
『崩壊する米国経済』等々の書名に象徴されるようなうらぶれた姿になってしまったのか。この問題は、アメリ
カ経済の中心に位置し、パックス・アメリカーナの下で最大限の利益を享受してきたアメリカ企業の盛衰の軌跡
の検証へと私達を向かわせる。
3.アメリカ企業の盛衰
ここではアメリカ製造業の主軸を担ってきた自動車産業と機械製作産業を取り上げ、アメリカ企業の盛衰の軌
跡を検証することにしよう。もっとも、アメリカ経済の軌跡と今日の状態を製造業において検証することには、
異論があるかもしれない。なぜなら製造業は、今日、アメリカのGNPの25%以下、雇用の20%以下を占め
るに過ぎず、産業としての相対的重要性が製造業からサービス産業へとシフトしていることは否めない事実だか
らである。
しかし、アメリカ衰退の原因の一つである経常収支赤字の累積は、国民の旺盛な消費主義に基づく膨大な工業
製品輸入額が、各種商品の輸出額に加えて、世界最大のサービス輸出額をもってしても到底カバーしえない水準
に達していること、つまりアメリカ製造業の空洞化と競争力の低下、に由来しているのであって、アメリカ経済
の再興という点において、さらには「安全保障」という特殊要因からみても(国防総省はアメリカ製造業の生産
額の約21%、ハイテク製造業の三分の一以上を調達していると推定されている)
、製造業の生産性低下の原因を
明らかにしないわけにはいかない。発達したサービス業を擁する経済は、製造業を基幹とする経済を補完するも
のであって、決してそれにとって代わるものではなく、今日の経済において、製造業は依然として中心的機能を
果している。もしアメリカ経済が強力な製造業を欠くなら、国内の貧困、社会正義の失墜、国家の苦難、そして
国際的な不和をすら招くことになろう、とのマックス・ホーランドの警告は正鵠を射るものである。
MIT産業生産性調査委員会編『 Made in America アメリカ再生のための米日欧産業比較』
(草思社、199
0年)は、アメリカ製造業の生産性低下の原因として、アメリカ企業の時代遅れの戦略(汎用規格品の大量生産
システムの固執)
、投資家・金融機関・経営者の近視眼的態度・短期的視野、開発と生産における技術的な弱さ(生
産イノベーションの衰微)
、人的資源の軽視(労働力の質の低下)
、個人間および組織間の協調体制の欠如、政府
(マクロ経済政策をはしめ、教育訓練、研究開発、安全保障、経済的・社会的規制、経済的インフラストラクチ
ャーなどに関するさまざまな政策)と産業界の足並みの乱れを挙げ、アメリカ企業の組織形態と経営姿勢がアメ
リカの生産性問題の根底にある、と指摘している。特に、アメリカの優位が何十年も続いた間に自己満足に陥っ
た企業経営者が、突如襲ってきた海外からの競争に無防備のまま立ち向かい、経営者としての業績と企業の業績
をあげるために行った設備投資で誤りを犯したこと、あまりにも目先の利益目標達成を重視し、生産と市場を軽
視したこと、海外市場にほとんど関心を示さなかったこと、などに言及していることは、アメリカ企業の盛衰を
検証する上で注目されるところである。
自動車産業を長年ウォッチングしてきた産業アナリスト、マリアン・ケラー女史は、
『GM帝国の崩壊』
(草思
社、1990年)の中で、世界最大の自動車メーカーであり、アメリカの代表的な企業であるGMが、80年代
に入って、組織の再編成、トヨタとの合弁企業「NUMMI」の設立、エレクトリック・データ・システムズ社
やヒューズ・エアクラフト社の買収、
「サターン・プロジエクト」
(宇宙時代を思わせる21世紀志向のモデルの
開発計画)の始動、と数々の大改革を断行したにもかかわらず、変わらぬ独善的な経営哲学、官僚主義的なシス
テム、協調性のない労使関係の中で強行される技術偏重と人間軽視の方針の下で悪戦苦闘している様を活写して
いる。そして、GMの経験に依拠しつつ、アメリカの企業文化を蝕む四つの病巣を指摘する。
まず第一の病巣として指摘するのは、
「巨人コンプレックス」である。アメリカ企業は、規模が大きすぎ、重度
のものぐさ病にかかっている(従業員が多すぎ、新しいことをやるには多大な努力を要し、新しいアイデアを生
み出すことより、それを受け入れようとすることにウェートがかかる)だけでなく、新しいタイプのスタイリン
グやエンジニアリングを次々と打ち出して市場を席巻した50年代の成功の影をいつまでも引きずっている(市
場が常に変化するのに、企業の大きさに自己満足し、規模の経済を追求する)のだという。
第二の病巣は、
「視野の狭さ、偏狭な世界観」である。これは、いったん業界のリーダーになったが最後、新し
いトレンドを作るために内部の枠組を超えて未来を構想するという志向も、市場への関心も消え失せること、日
本人が何か重要なものをつかみ、学び、活用しているという見方も、日本のメーカーがそもそもライバルである
などという評価もできないこと(日本人に対する根強いシニシズム、人種的偏見)
、財務担当スタッフと生産担当
スタッフとの間に狭量な役割限定を行い、企業運営のための人材を幅広い基盤から選ぶことができない(会社の
実権は財務担当スタッフによって握られ、最高経営責任者もその中から選ばれる)こと、などに現れる。
第三の病巣は、
「数字によるリーダーシップ」である。これは、財務担当スタッフが会社の実権を握っているこ
とと関係するのだが、彼らは財務諸表上での数字を巧みに操ることによって問題(大規模な投資や主力商品の決
定)を解決しようとする、手っ取り早く成果をあげることや都合のよい数字をはじきだすことに腐心し、長期的
な分析を行ったり、確固たるシステムによって包括的な評価を行い、すべての従業員を一つの目標に向かって動
員するなどということに関心を示さない等々、要するに「数字中心の経営」が行われることを意味する。
そして第四の病巣は、
「傲慢な温情主義、温情主義的な経営」である。これは、生涯雇用(社則を守って平穏に
務めるかぎり仕事の場を保証する)
、年功序列賃金(給与は年功に応じて支払われ、昇進、昇給も勤続年数を主な
基準として決定される)などの形を取るが、意欲的な従業員の士気の低下、エリート主義の蔓延、地位と権力に
対するコンプレックスの形成、タテ割り思考の人間や臆病なリーダーを生み出す土壌の醸成などをもたらす。生
涯雇用や年功序列賃金などは日本型経営システムの特徴でもあるが、アメリカのそれは、ケラー女史の指摘する
第一から第三の病巣と結び付いており、また各部門の間の壁を壊す(調査、デザイン、販売、製造の各スタッフ
は一つのチームとして仕事をし、生産量や使用上の問題点を見越して、製品およびサービス部門が直面するであ
ろう事態にそなえる)という風土の中で実施されているわけでもなく、経営に対する否定的な要因として認識さ
れるものである。
次に、アメリカ工作機械産業の盛衰の軌跡を検証することにしよう。ここでも以下に見るとおり、アメリカ企
業文化を蝕む病巣が検出されることはいうまでもない。
マックス・ホーランドは、
『潰えた野望 ― なぜバーグマスター社は消えたのか
―』
(ダイヤモンド社、1992年)の中で、工作機械メーカーを自宅のガレージから興し、60年代までにミ
シシッピ以西で最大の優良企業に育て上げたチェコスロバキアからの一移民のまさに典型的なアメリカンドリー
ムの成功物語が、なぜ86年にその全工場が公開入札の対象として売りに出されるという形で哀れな結末を迎え
ざるをえなかったのか、という問題を取り上げ、これが単に一企業の物語ではなく、同時にアメリカ産業の崩壊
について語り、企業が革新に失敗し、国際経済の中で行われている激烈な競争を勝ち抜くことができなかった理
由をも解明するものである、とのべている。ホーランドが工作機械メーカーの歴史をこのようにアメリカ産業の
問題として敷衍するのは、あらゆる工業製品は工作機械で造られるか、あるいは工作機械によって造られた機械
で製作されるという意味で、工作機械はすべての機械を造る機械であり、機械の「母」である、それは自動車な
どの機械と違って、自らをも再生産することによって、どこの国ででも、健全な産業の運営の核になっており、
過去何十年もの間アメリカ産業にとってもカナメとなってきた、との認識に基づいている。
ホーランドは、アメリカ経済の成長とアメリカ工作機械産業の隆盛が同時に見られたことは、そしてアメリカ
工作機械産業の衰退が国内産業全体の退潮と時を同じくして起こったことも、
決して偶然ではないという。
実際、
世界一の生産性を誇り、1965年には全世界の生産高の28%のシェアを占めていたアメリカの工作機械産業
が、それから20年余り後の86年にはシェアを10%にまで落とし(破産、買収、規模縮小などにより、81
年から86年のわずか5年間にこの業界の工場数は三分の一に激減した)
、他方、米国市場における外国製工作機
械のシェアが49%に上ったという事実は、アメリカ産業、ひいてはアメリカ経済全体の盛衰の軌跡と完全に軌
を一にするものであろう。
それでは、なぜアメリカの工作機械産業は衰退したのであろうか。
60年代半ばまでは、アメリカ工作機械産業は、他の業界と同様、起業家経営者、従業員の経営参加、生産性
と品質の追求、テクノロジーの不断の革新などによって特徴づけられていた。インフレ率が低く、全般的に堅実
なペースで成長を遂げていた国民経済が、それにとって良好な環境を成していたことは間違いない。
ところがこのような起業家資本主義は、60年代半ば以降、広範囲なM&Aの波に飲み込まれ、管理資本主義
にとって代わられた。コングロマリットによる買収は、大企業の持つ豊富な経営資源が工作機械産業の業績の周
期性の影響を緩和・吸収するであろうとの期待の下で行われた。しかし、起業家的経営から管理主義的経営への
移行は、従業員の経営参加の規制、財務的数値目標の設定と数字に基づく管理、機能・ニーズよりも手続き・権
威の重視などをもたらし、起業家的経営の誇りであった高度の技術開発力を次第に枯渇させることとなった。そ
して、70年代末、10年前に当のアメリカからライセンスを供与された日本の工作機械メーカーが技術的に優
れた製品をもってアメリカ市場に深く侵入してきた時、贅肉のない革新性に満ちた経営システムから遠く離れて
しまったアメリカの工作機械産業には、これを迎え撃つ力はもはや残されていなかったのである。
アメリカ工作機械産業の技術開発力の衰退は、主に二つの理由によって説明されうる。一つは、弁譲士、公認
会計士といった経歴を持つ者が生産部門に精通した者に代わって経営を担当するようになったために、四半期毎
のリポートに追われる短期的業績追求型経営が投資効率を判断することとなり、新しいテクノロジーのための長
期投資が無視されたことである。しかも、80年代にはバブル的経済環境が形成され、M&Aの嵐が再び荒れ狂
う中で、エリート経営者たちは製品とサービスの生産とは掛け離れた投機的金融取引に熱中し、LBO(2)(=会
社の商品化、もちろんこのための税制上の優遇措置が存在した)を通して莫大な利益を上げる道を選んだ。この
ような投機資本主義的環境の下では、まだ使える古い工作機械に固執して、いざという時は首を切れる工員を雇
った方が安全、という考え方が経営の常道になるのは当然であった。
二つ目の理由は、業界に対する軍事支出の影響である。この点についてマックス・ホーランドは実に明快にの
べているので、少し長くなるがここに当該箇所を引用することにしよう。
「経済環境が定まらなかった10年の間、メーカーはペンタゴン詣でを繰り返した。いうまでもなく、利益を保
障された注文をもらうためである。ペンタゴンによる直接、間接の工作機械購入は、平和時でも国内生産の20
∼30%にのぼったが、これが業界の研究開発投資を二つに分裂させる結果になった。そして、最大の配分は注
文生産に向けられたのである。だから、アメリカ企業は依然として技術水準の高さを誇ることはできても、ペン
タゴンの補助金をベースにした特殊な注文システムでは、商業ベースで競争力のある機械はできなかったのであ
る」と。
パックス・アメリカーナの下で隆盛を極めたアメリカ経済、そしてアメリカ企業が、冷戦構造的な対決が頂点
に達したベトナム戦争を分水嶺として、パックス・アメリカーナの奢りの中で退廃し、衰退していった様は、現
代史のシニカルな一断面である。
パックス・ソビエティカが崩壊した今、パックス・アメリカーナもまたその使命を終え、歴史の舞台から退か
ねばならない。
「変革」の旗手として登場したクリントン大統領が、就任演説において世界平和と軍事費削減への
熱い思いを披瀝したのも当然であった。ところが、国民の耳にまだその新鮮で心地よい余韻が残る1993年5
月、彼は、冷戦終結後、戦域ミサイルや核、化学兵器の第三世界への拡散が世界の脅威となり、その対処法が安
全保障での最重要課題になっているとして、海外に展開した米軍部隊や同盟国に向けられた弾道ミサイルを迎撃
するシステム=TMD(戦域ミサイル防衝)構想を提唱し、日本にもこれに参加するよう呼び掛けたのである。
若き大統領に「変化」を託した筈のアメリカは、
「過去」の栄光と「変化」の重圧にいまにも圧し潰されそうで
ある。まさに、
「変化」
、
「変革」の腰砕けともいえる現象であろう。
しかし、はたしてこの道にアメリカの未来はあるであろうか。これまで縷々のべてきたように、パックス・ア
メリカーナとの決別、これ以外にアメリカの経済、産業、企業の再興の道はない。日本もまた、3兆円とも5兆
円ともいわれる費用と引き換えにTMDに参加するなどという道を選ぶべきではない。ポスト冷戦の世界システ
ムの構築とアメリカの再興にとって、当のアメリカはもとより、日本の責務もまた、決して小さくないのである。
注
(1)武力によって全領土に平和を強制するローマ帝国の世界支配体制は、歴史上、
「パックス・ロマーナ」と呼ば
れた。これにならい、大英帝国時代、イギリスの力で実現した平和を「パックス・ブリタニカ」
、第二次世界大戦
後、核を中心としたアメリカならびにソ連の軍事力で維持された平和をそれぞれ「パックス・アメリカーナ」
、
「パ
ックス・ソビエティカ」と呼ぶ。さらに、米ソ協調体制による平和をパックス・ルッソ・アメリカーナ」という
こともある。
(2) Leveraged buyout の略。企業の経営陣をしばしば含む個人あるいはグループが被買収企業の資産や期待され
る利益を引き当てに借り入れをおこし、その資金を使って一般保有株式を購入し、企業を買収する方式。<BR>
主要参考文献
アメリカ民主進歩政策研究所
『変革への提言 ― クリントン政権の基本政策 ― 』
同文書院インターナショナル、
1993年
木村義勝『崩壊する米国経済』PHP研究所、1993年
クリントン、ビル他『アメリカ再生のシナリオ』講談社、1993年
グレイダー、ウィリアム『アメリカ民主主義の裏切り』青土杜、1994年
ケラー、マリアン『激突 ― トヨタ、GM、VWの熾烈な闘い ― 』草思社、1994年
ショアー、ジュリエット『働きすぎのアメリカ人』窓社、1993年
ジョンソン、ヘインズ『崩壊帝国アメリカ 上・下』徳間書店、1991年
シルバー、ジョン『何がアメリカを衰退させたか』イースト・プレス、1993年
進藤栄一『アメリカ ― 黄昏の帝国 ― 』岩波新書、1994年
タイソン、ローラ『誰が誰を叩いているのか』ダイヤモンド社、1993年
タイソン、ローラ他『閉鎖大国ニッボンの構造』日刊工業新聞社、1994年
バーグステン、フレッド他『日米衝突は回避できるか』ダイヤモンド社、1994年
パースタイン、ダニエル『日米株式会社』三田出版会、1993年
バーレツト、ドナルド他『アメリカの没落』ザ・ジャパン・タイムス、1993年
ハルバースタム、ディビッド『ネクスト・センチュリー』TBSブリタニカ、1992年
ハルバースタム、ディビッド『幻想の超大国 ― アメリカの世紀の終わりに ― 』講談社、1993年
日高義樹『アメリカ大暴落』学習研究社、1991年
ブレストウィツツ Jr、クライド『日米逆転』ダイヤモンド社、1988年
松村文武『体制支持金融の世界』青木書店、1993年
水谷研治『日米同時破産』PHP研究所、1994年
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