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成 贋 - 岡山大学学術成果リポジトリ

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成 贋 - 岡山大学学術成果リポジトリ
555 『岡山大学法学会雑誌』第51巻第3号(2002年3月)
理論的枠組み
前史︰メイジャーの政権運営
野党としての保守党
再出発︰リーチ・アウトの模索と挫折
成
贋
六九
孝
﹃ポスト・サッチャリズムの政治︰
二〇〇一年の二つの選挙と保守党政治﹄
序論
目次
1
2
第1章
ヨーロッパ選挙と相対的安定
右旋回︰﹁コモン・センス・レヴォリューション﹂
2
二〇〇〇年給選挙
総選挙前の動きと人種間題の再燃
ポーティロの復帰と二〇〇〇年党大会
総選挙の開始と保守党のキャンペーン
3
1
結果と分析
4
2
第2章
3
語(2)(1)
第3章 保守党党首選挙
党首選の開始
ヨーロッパ問題と党月投票結果
保守党の伝統の崩壊とサッチャー主義の負債
結
開 法(51−3)556
七〇
。ThatisthedecisiOnWefaceiコtWOWeeks︶ュn声WehaくetWOWeekstOSaくethepOuコd.↓wOWeekstOdecide
は、総選挙での大敗の
WhetherJrOm∞June−OureCOnOmyShOu−dberuコinOurOWコiコt
ー
eW
r≡
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Sa
t.
ヨ、
H、
ague
序
二〇〇一年六月八日、イギリス保守党党首ウィリアム∴イグ︵WiロiaヨJeffersOコHague︶
責任を取って辞任することを発表したっ 依然として40歳の若さであるため将来再び党首となる可能性が皆無とはい
えないものの、不人気・指導力不足による大敗のイメージは強烈であり、復活が実現するとは考えにくい。このま
まいくならば二〇世紀に入って以後、一度も首相になれなかった保守党党首としてオーステイン・チェンバレン︵Austiコ
Chambeユain︶以来の不名誉となキ労働党が第二次政権で圧倒的過半数の議席を得たままで孝心して政権運営を行
えるのは、これが初めてのことであるl﹀一九九〇年代に入って顕在化し、二一世紀に入っても保守党を悩ませてい
る党内紛争の根深さを改めて示す事件であった。
選挙はしばしばその政治システムや政治制度がおかれている環境や、直面している問題を露わにする役割を果た
す。選挙において主要な争点がピックアップされ、それを中心に選挙戦がおこなわれ、投票もそれに基づいて行わ
れるというのがその典型的な理由であり、その結果として政権交代、変動が大きな場合になれば支配的な社会的連
合の組み替えまで生じる。また、大規模な変動が生じない場合においても、現代の選挙キャンペーンの場面では、
対立党の政策の矛盾や党内対立を衝くことは当然の一部であり、自然と様々な問題点が浮かび上がることになる。
勿論、重要な間者が隠蔽されたり問われずに放置される場合も多い。選挙を期に、政党内部においても党の方向性
557 ポスト・サ、ソナヤリズムの政治
や政策の主導権を巡る党派的争いが活性化することもしばしばである。本稿は、二〇〇一年イギリスで行われた二
つの選挙Iイギリス議会選挙と保守党党首選挙 − を頂点とする、﹁サッチャー以後﹂をめぐる保守党の政治を
観察し分析を加えることで、現代保守党の直面している問題の照射と理解を試みるとともに、ヨーロッパ統合の国
内政治への影響というテーマに一つの事例を提供することを目的とするものである。
川 理論的枠組み
︵Kitsc訂−こ遥凪︰N澄︶は、八〇年
まず最初に、キッチュルト︵HerbertKitsche三の議論を参考にしながら、簡単に現在の政党間競争と党内政治と
の関係についての枠組みを整理しておきたい。﹃ヨーロッパ社会民主主義の変容﹄
では若干異なる枠組みを用いて、九〇年代に社会民主主義政
代ヨーロッパ社会民主主義諸政党の国勢選挙における成功・失敗を、政党間競争・政党組織の諸要因によって説明
しようとした。さらに五年後の論文︵Kitsche−︷−遥空
党がおかれた政治的環境を論じている。これらの分析は基本的に社会民主主義政党を対象としたものではあるが、
保守政党を含む広い政党政治の分析にも応用可能な議論であると思われる。
キッチュルトによれば、経済的弱者を市場圧力から保護しっつ経済成長をはかる政策パッケージが可能だったの
は一九六〇年代までであり、七〇年代以降の社会民主主義政党は必然的に支持動員と政治経済的戦略の選択とのディ
︵八〇年代・九〇年代に社民に政権を短期的に与えた自由主義的政策・耐乏政策はが長期的には左翼政権の敗北に繋がっ
レンマに直面せぎるを得ない。彼は社会民主主義政党が直面する三つのディレンマとして、①政治・経済的ディレ
ンマ
のトレードオフ︶、を挙げている。
︵2﹂
︵フレキシビリティの高い、有権者の好みに即応できる党組織と、強固な
ていること︶②選挙ディレンマ︵政権をとることは、少なくとも四つの有意な競争者をもつ多党制システムでは、得票のト
﹁コア﹂
レード・オフにつながること︶③組織ディレンマ
忠誠心を持つ
七一
開 法(5ユー3)558
七一山
イギリスにおける第一・第二のディレンマについて考えてみると、イギリスのように単純小選挙区制をとってい
るところでは、左翼リバタリアン政党︵及び極右政党︶の議会政治における比重は非常に小さいものとならぎるを得
︵Kitsche−こ慧亘をとることが合理的といえるだろ
ない。そのような環境では、社会民主主義政党である労働党も、より左にある政党のことはそれほど気にする必要
はなく、中道政策の採用、即ちキッチュルトのいう﹁寡占戦略﹂
である。これは﹁ボトムアップ﹂すなわち革新的な党員が
う。しかし、八〇年代の労働党は、この合理的戦略を採用することが出来なかったり
このことを説明するのが第三の ﹁党組織ディレンマ﹂
主導権を奪い左翼リバタリアン的政策を志向するか、﹁トップダウン﹂すなわち党指導部の自律性があるために、合
理的に中道路線をとることができるか、ということである。イギリス労働党についていえば、八〇年代にボトムア
ップの動きによって左傾化し、八三年給選挙以後漸進的に労働組合の支配を脱してトップダウンの戟略決定が可能
なように党改革を進め、実際にトップダウンの政策転換、中道への移動を実現しえた︵Shaw−芸−︰吉瀬一九九七︰
近藤 l一〇〇一︶。
これに対し、九〇年代の保守党では、キッチュルトの考えたものとはやや異なる事態が生じた。主にヨーロッパ
問題に関する合意が失われ、リーダーの自律性が失われたのである。メイジャー︵JOhnMajOr︶政権は九二年給選挙
で下院での過半数を削られ、バックベンチャーの反乱に苦しめられることになった。﹁ボトムアップ﹂の圧力が少な
い党組織構造をもっていても、議月団レヴュルで対立が大きければ強力なリーダーシップは発拝し得ないことが明
らかになったのである。メイジャーの跡を継いだヘイグは、党首選挙手続きの改革を行い一般党員が党首の選定に
参加できる仕組みを整えると同時に、自らの政策への支持を投票によってとりつけたようとした。ただし、これは
へ3︶
党首がただちに﹁合理的﹂な戦略を採用できるということを意味しなかった。現実にはり−ダーシツプの戦略や世
論調査の動向、中間選挙などの結果が相互に絡み合うため、完全なフリーハンドは存在し碍ない。さらに、労働党
559 ポスト・サッチャリズムの政治
が基本的にサッチャー・メイジャー期の保守党の社会経済政策を継承したため、﹁新﹂労働党に中道を掠め取られた
保守党は、対抗戟略を創出することの困難さに直面することとなった。
キッチュルトは﹃変容﹄の中で、社会民主主義政党が将来直面するであろう新たなイシューを予測し、①﹁シティ
ズンシップの次元﹂すなわち、ヨーロッパ統合による社民とその競争者の間の分裂の可能性︵コスモポリタニズム・
超国家的な原理による支持に対するテクノタラティックな統治形態への抗議、政治参加の分権化、市場競争の生む不平等への
拒否からくる統合拒否など︶、②国際市場における競争を行わねばらないことから来る制約により、経済政策に関して
従来のような目標を設定することが不可能になったこと、③コミュニタリアン的次元・文化的次元でブルジョア政
党と差異化できる可能性、を挙げた。九〇年代以降イギリス政治で顕在化している問題には、この子削が参考とな
る︵Kitsche−こ淫Ⅹ∴∴黒岩︶。しかし、﹁シティズンシップの次元﹂﹁コミュニタリアン的次元・文化的次元﹂での差異化
を迫られたのは、むしろ政権を奪われた保守党の方だった。キッチュルトのいうように、グローバルな国際市場の
制約は一国の経済政策が採りうる幅を狭めており、労働党もその枠から逃れられなかった。しかし、これはサッチ
ャー期にある程度解決済みの問題であり、保守党にとっては逆に得意分野を奪われた形となったのである。
﹁ヨー
︵EurOpeanisati昌︶について概念的整理を試みたLadrech︵N含−︶は、ヨーロッパ統合に伴い政府や政党
﹁シティズンシップの次元﹂は、専らヨーロッパ統合の深化への対応をめぐって顕在化した。国内政治の
ロッパ化﹂
が採ることが出来る政策的オルタナティヴの幅が減少し従来型の政治の有意性が低下するという環境において、ヨー
ロッパ統合の影響に対応して変化する組織としての政党を、①政策・プログラムの内容変化②組織変化③政党間競
﹁ヨーロッパ化﹂プロセスの
争のパタン変化④政党・政府関係の変化⑤国内政治システムを越えた関係の構築、という五つの要素からなるプロ
︵1︶
セスにおいて検討することを提案している。保守党内の変化を、このような意味での
一環としてとらえる視点も必要であろう。本稿が対象とするのは、主に①③の要素となる。イギリスにおいては、
七三
3)560
同 法(5ユ
︹5︶
七四
ヨーロッパをめぐるイシューがl一大主要政党間の対立軸と重なりあうかどうかは、政党内政治の状況に依存してい
=
る。九〇年代以降は、労働党が親ヨーロッパ的姿勢に転じ、緊張を胚胎しながらもその姿勢を継続しているのに対
し、保守党は党内の意見をまとめきれるようなり−ダーシツプが確立されなかった。これは、ヨーロッパ統合をめ
の統
ぐる問題についてのみならず、﹁コミュニタリアン的・文化的な次元﹂においても同様であった。これらの問題は近
年においては複雑にからまりあっているのである。
Lynch︵−淫豆は、文化的な問題やヨーロッパ統合に対する態度などを併せて﹁ネインョンフッドの政治﹂と呼び、
﹁ネインョン﹂とネインョンフッドをめぐる保守党政治の変遷を追って、EU統合、イギリスの﹁ユニオン﹂
の一体性を保持することを目的の一つとし、事実ナショナ
合、移民と多文化社会といった問題群が保守党政治にどのような影響を与えてきたのか検討している。保守党は長
年ネイションと﹁ネインョン・ステイト﹂ ︵natiOnState︶
リズム・愛国主義の党としてのステータスを獲得して、そこから政治的利益を独占的に得てきた。それは反面で、
関税改革やアイルランド問題、脱植民地化、ヨーロッパ統合などのイシューに関して、党内外で原理原則をめぐる
争いを引き起こすというコストにもなったのである。労働党に比べて原理的・理論的問題から自由であるとみられ
ることの多い保守党にとって、最大の原理的問題といっていいだろう。
リンチによれば、サッチャー主義︵Thatcherism︶と彼女のネイションフッドの政治は、パウエル︵EnOChPOWeH︶
の排外主義同様に、イギリスの経済的衰退、大英帝国の終焉、移民の増加、ヨーロッパ統合の深化への対応として
生まれてきたものである。しかしサッチャーは、保守党のネイションフッド政治の伝統的な要素である、国家主権
やエリートの自律性などの問題の多い前提を引き継いでおり、時代の変化に対して新しい一貫したヴィジョンを提
示したわけではなかった。このことが、九〇年代になって保守党のネイションフッドをめぐる対立の再燃を招いた
のである︵Lynch︼鷲道︰Ch一︺︶。
561ポスト・サッチャリズムの政治
筆者の見解は、サッチャー主義のイデオロギーそのものは新しいものではなくとも、ヨーロッパ統合やグローバ
ル化の進展やそれに対応してメイジャー政権期にヨーロッパ懐疑派が組織化を進めたことによって、より一貫した
思考・運動へと転化することになったというものである。そして、それが一九九七年選挙後の党の指針をめぐって、
そしてその政策の多くを引き継ぎ発展させたメイジャー政権においては、イギリスの社会や文化を
より社会や意識の変化に対応することが必要であるという考え方と衝突したのである。
サッチャし
守るという観点から移民や難民志願者の増大を抑制するための度重なる法改正が行われていた。イギリス国内の人
種差別や貧困問題の改善といった問題には概して冷淡であり、それらの問題は基本的に自由市場主義にもとづく機
会の平等に任せておけば改善されるという見解が支配的であったとされる。教育などの場で差別の撲滅や多文化社
︵Lyn c h − 鷲 道 ︰ C h . 空 。
︵7︶
会の啓蒙を訴える動きに対しては、むしろ逆行するような介入が行われよりイギリス文化の価値を強調するような
動きが生じた
こうした諸政策は保守党の基本的な価値観と合致していると同時に、その背景には選挙における支持同面の局面
で、マイノリティの利益になるような政策は白人有権者に不人気であり保守党にプラス、労働党にはマイナスの効
果をもたらすという現実的基盤が存在していたのである。しかし、九〇年代以降生じた変化もあって、現在では赤
裸々に人種的偏見を煽るような言動や政策がそのままで受け入れられる余地は小さ︿なりつつある。また、saggar
︵NO≡︶が指摘しているように、保守党内でも、若手を中心として社会的にリベラルな考え方をとる議員は増加して
︵8︺
おり、黒人・アジア系の票の獲得や、女性を含めたマイノリティ候補のリクルート・擁立・促進するための組織設
置により包括性を演出する必要が訴えられるようになった。そしてこうした問題は麻薬使用や性的マイノリティの
取り扱いなど、伝統的価値観では認められてこなかった文化的問題に対する寛容もしくは承認の姿勢とも結びつい
ている。こうした事情から、人種関係と絡み合う法と秩序政策、移民・難民イシューの取り扱いは、有権者に対し
七五
同 法(51−3)562
︵racecard︶
をきることには〝きわどさ″がつきまとう。
七六
ても党内運営に関しても、保守政党にとって厄介な問題を浮かびあがらせることにもつながりかねない。ゆえに、
所謂﹁人種カード﹂
本稿は、ヨーロッパ問題と文化の問題が相互に絡まりあい保守党の政治に大きな影響を与えていることを検討す
﹁シティズンシップの次元﹂﹁コミュニタリアン的・文化的次元﹂は、﹁ネ
るものであり、ヨーロッパ統合をめぐる問題系と、国民統合・ネインョンフットの問題系、そして文化をめぐる間
︵9︶
の歴史が保守党そのものの歴史と重なり合っているという、その点において必ずしも新奇
題が焦心となる。キ ッ チ ュ ル ト の 述 べ た
イションフッドの政 治 ﹂
な現象ではない。しかし、九〇年代以降の保守党において、この間題が最大の宿病となっていることも事実である。
上述したように、このことは、ヨーロッパ統合の深化が本格化したことと、九〇年代後半中道を労働党に奪われた
からの脱却を志向する動きにつながり、他方ではそれをより徹底
ことにより、必然的に保守党の中にサッチャー主義に代わる新機軸を求める動きが生じていることによるものであ
る。これは一方では ﹁ ネ イ ン ョ ン フ ッ ド の 政 治 ﹂
しょうとする動きにもつながる。ここでは、こうした動きを﹁ポスト・サッチャー主義の政治﹂と呼ぶこととした
い。九〇年代後半以降の保守党政治は、﹁ポスト・サッチャー﹂か﹁サッチャーへの回帰﹂か、をめぐる政治である。
サッチャ1主義の伝統的な﹁ネイションフッド﹂・﹁国家主権﹂・﹁イギリス文化﹂・﹁家族﹂
︵ヨOderコisatiOn︶の
へのこだわりが、保守党
︵10ノ
のあるものにとっては譲ることの出来ない価値となり、それ以外の者にとっては党の﹁現代化﹂
主義は、個人の自 由 を 何 よ り 重 視 す る ﹁ 自 由 至 上 主 義 ﹂
︵リバータリアニズム︶
とも結合しえたからである。
妨げとなる。この亀裂はサッチャーとサッチャー主義がもたらしたものである。サッチャー主義の市場中心的自由
卜
前史︰メイジャーの党内運営
一九九〇年のサッチャー辞任以後、メイジャーに求められたのは、ヨーロッパ政策に関する新たな妥協の形成・
㈲
′l﹂
563 ポスト・サッチャリズムの政治
維持であった、彼の採用した戦略は、ヨーロッパ問題を以前の外交政策同様ハイ・ポリティクスとして扱い、これ
を政党政治上の問題にしないことであり、EUに対してはサッチャーよりはプラグマティックな対応、すなわち﹁建
設的な関与﹂を行いながらイギリスの重要な国益に関しては適用除外を勝ち取ること、経済通貸同盟亭eEcOコ○ヨic
andMOコetaryUコiOn︶ に関しては極力その導入を遅らせること、であった。
しかし、ラモント蔵相︵NOrmaコLaヨ○コt︶やハード外相︵DOug−asHurd︶らの姿勢もあり、メイジャー政権のヨ
︵TheBrugesGr呂P︶などサッチャー主義右派による攻勢が強まることとなった。
ーロッパ政策はヨーロッパ懐疑派からみれば、連邦主義に傾きつつあるという印象を与えるものになった。このた
め、﹁ブリュージュ ・ グ ル ー プ ﹂
メイジャー政権期の五年は、サッチャー主義がヨーロッパ懐疑主義のウェイトを高めつつ組織化・固定化されてい
く過程であった。
からの適用除外を勝ち取り、共通外
九一年一二月、マーストリヒト条約が調印され、メイジャーはEMU設立への流れを止めることには失敗する一
方、イギリスの一九九九年のEMU参加および社会憲章︵theSOCia−Chapter︶
交・安全保障政策や司法・内務協力に関しても、かねてからの主張どおり政府間主義の枠組みを維持した︵↓urコerNO含︰
CF巴。一九九二年総選挙では、ヨーロッパ問題は直接には主要なイシューにはならなかったが、九二年選挙の結果
過半数が二一に減少したのに反比例して、バックベンチャーの叛乱の効果が増大したう、え、しかも新たに下院に入
った新人議月は、サッチャーの影響を強く受けていた。メイジャーの自律性は低下し、保守党が分裂・迷走してい
ると い う イ メ ー ジを強めることになる。
メイジャーの戦略の柱は、とにかくマーストリヒト条約を批准することと、ERM内で経済の安定を勝ち取るこ
とであった。しかし、九二年六月にデンマークがレフェレンダムでマーストリヒト条約を拒否したこともあり、バッ
クベンチャーの反対が相次いだ。さらに、デンマーク・ショック以後金融市場が不安定化し、九月には所謂﹁ブラツ
七七
開 法(51【3)564
︵King e t . a − . N 害 − ︶ 。
七八
ク・ウェンズデー﹂により、イギリスはERM離脱を余儀な︿された。これ以降、保守党は世論調査で常に劣勢に
たつことになる
メイジャーの戟略に反し、マーストリヒト条約批准は最大の問題となり、﹁ヨーロッパ共同体︵修正︶法案﹂︵th2Eur。p2an
cOmmunities︵Ameコdmeコt︶Bi〓︶の審議は困難を極めた。社会条項︵theSOCia−Agreement︶に関する投票では政府
が敗北した。結局、九二年二月、マーストリヒト条約は再上程され、僅か三票差ながら通過することになる。こ
の過程で保守党のファクショナリズムが促進され、議会における反乱は恒常化した。九四年一一月には、八人のバッ
クベンチャーから登院表︵whip︶を引き揚げるまでになった︵TurコerN害○︰Ch.∽︰GOrmaロー藁誓
九五年七月メイジャーは先制的に辞任し、党首選に打って出た。メイジャーの目論見はあたり、親ヨーロッパ派
の大物マイケル・ヘーゼルタイン︵Michae−Hese−tiコe︶の当選を怖れる右派がメイジャーに投票した結果、右派のウェー
ルズ相ジョン・レッドウッド︵JOhコRedw00d︶を二一八票対八九票︵棄権二〇︶で破ったメイジャーが、継続して党
首を務めることになった。しかし、党首選後も狂牛病問題を巡るイギリスとEUとの関係の感化などの要因により、
ヨーロッパ懐疑派はヨーロッパ司法裁判所の権限を制限することを目的とするレフェレンダムを要求する︵九六年五
月︶など、党運営は困難を極めた。こうした中で、メイジャーも次第にヨーロッパに関して懐疑的な姿勢を示さぎる
を得な︿なり、九六年四月単一通貨に参加するにあたっては、必ずレフェレンダムを行うということを決定した︵But−er
andKaくaコagh − 芸 ﹁ N 干 怠 ︰ M a j O r − 志 望 。
九三年七月以来労働党が世論調査において常にリードしていたことから、九七年給選挙での政権交代は必至と見
られていた。当初メイジャーは党の分裂を怖れ、ヨーロッパ問題を前面に押し出すことは避けていたが、ヨーロッ
パ懐疑派が独自にヨーロッパ問題を採り上げ、有権者にはヨーロッパ統合への懐疑的な態度が強いことを鑑みて、
キャンペーン後半にはヨーロッパ問題がキャンペーンの中心的争点として浮上することになった。しかしながら、
565 ポスト・サッチャリズムの政治
国内問題に戻 さ ね ば な ら な く な っ た 。
保守党内で懐疑派と親ヨーロッパ派の意見対立が白日の下にさらされる怖れもあり、メイジャーは最終的に焦点を
︵13︶
結果は労働党の﹁地滑り﹂的勝利であった。保守党は一〇・五%のスイングに見舞われ得票率は三〇・七%、前回
当選の三些二議席の半数以上を失い一六五議席となった。労働党は四三・三%の得票率を得て、四一九議席を獲得し
′1
た。メイジャーのギリギリの綱渡りによる党運営は、多数派形成のための迷走を余儀なくさせた。ヨーロッパ統合
4
の急速な進展は、党内のナショナリズムや経済政策をめぐる対立を露呈させ、不景気やスキャンダルの続発によっ
て生じた支持の低下に対して、有効な対策を発見することを困難にしたのである。
以下、第一章では二〇〇一年総選挙に至るまでのヘイグ指導部の政策の変遷を叙述し、第二章・第三章で二〇〇
野党としての保守党
再出発‖リーチ ・ ア ウ ト の 模 索 と 挫 折
第一草
一年選挙、保守党党首選挙それぞれの展開と結果について分析する。
川
︵KeココethC−arke︶、ヨーロッパ懐疑派からはヘイ
メイジャーの辞任表明に伴って行われることになった一九九七年党首選挙は、一六四名︵一人死亡︶の下院議員に
ょる選挙となった。左 派 ・ 親 ヨ ー ロ ッ パ 派 か ら は 前 蔵 相 ク ラ ー ク
グ、ハワード︵MichaelHOWard︶、リリー︵PeterLi〓ey︶、レッドウッド︵JOhnRedw00d︶が立候補した。懐疑派の
なかではレッドウッドが最も強硬派だった。議月のうち六割がヨーロッパ懐疑派であり、誰が右派をまとめられる
かが焦点となった。クラーク、ヘイグ、レッドウッドで行われた第二回投票でクラークが一位になったことで危機
七九
3)566
同 法(51
八〇
感を覚えた右派がヘイグの下に結集し、サッチャーの支持も勝ち得たヘイグが第三回投票で勝利した︵TurnerN茎○︰
Ch∴∴A−derman− 芸 0 0 ︶ 。
一九九七年党首選でヘイグが懐疑派を基盤にして当選したことで、保守党をヨーロッパ懐疑派が中心になって動
かしていくことが確定した。ヘイグは親ヨーロッパも影の内閣に加える方針を公表したが、クラークやへーゼルタ
インら親ヨーロッパ派は影の内閣に加わらなかった。サッチャー主義者の重鎮ながらスキャンダルもあって九〇年
代に入ってからは要職に就いていなかったパーキンソン卿︵LOrdParkinsOn、八一年から八三年まで党幹事長︶を党幹
事長に据えて党組織の再建を委ね、影の蔵相リリーには医療・教育政策の全面的な見直しを指示した。こうした人
事は、党内穏健派にとっては党を右旋回させる動きとして警戒された。野党となったことで論争的な法案を通過さ
せるために政権維持の努力をする必要はなくなったが、ヘイグの当選は右派に親ヨーロッパ派のクラークに匹敵す
︵16︺
るだけの大物がいないことに依存しており、有権者に党の分裂イメージを与え続けないためには、いずれにせよ閣
内の協調は欠かせなかったのである。ヘイグの船出は初めから大きな困難を抱えていた。
︵theNOttingHi〓Carniくa−︶
︵当時︶
のフィオン ︵FfiOnJenkiコS︶ を
ベラルで﹁包括的﹂︵inc︼usiくe︶
に婚約者
ヘイグの党首としての最初の二年間は、ヨーロッパ懐疑的姿勢を確立していく一方で、それ以外の側面に関して
はノッティング・ヒル ・ カ ー ニ ヴ ァ ル
伴って参加し、ゲイ・パレードへの支援メッセージを送ったことにみられるように、リ
な姿勢を模索していたといえる。これは﹁思いやりのある︵cOmpaSSiOnateOrCaring︶保守主義﹂と呼ばれるもので
あり、以下に見ていくように、福祉国家や公教育の維持や、伝統的家族から離れたライフスタイルへの理解など、
広羽な社会的アジェンダへの関心とソフトなイメージが示された。しかし、この姿勢は次第に変化を余儀なくされ、
より労働党との対立 点 が 強 調 さ れ る よ う に な っ て い ぃ ロ
﹁18﹂
手始めにヘイグはパーキンソンやノーマン︵ArchieNOrman︶を中心に党改革に着手した。これは﹁フレッシュ・
567 ポスト・サッチャリズムの政治
フューチャー﹂︵FrreshFuture︶と呼ばれ、九七年一〇月の党大会において、党組織整備や規律強化、党首選手続き
の変更に関する大幅な変更であったっこれによって、初めて単一の保守党組織が成立した。こうした急激な改革は、
成立することにな っ た 。
アラン・クラーク︵A−aロC−ark︶などから独裁的との批判を受けつつも、党員票の七〇%の支持を背景に、公約通り
︵19︶
は院内幹事を辞して、労働党への鞍替えと考えていたことを公言した。
︵ZO︶
この時点では、ヘイグはユーロ加盟に反対する期間を明言せず、これはダンカン・スミス︵IainDuncanSヨith︶
ら懐疑派には、党首選の際の主張を後退させているように受け取られた。しかし、ヘイグは一〇月中に現政権の聞
及び次回保守党が政権に就いた場合の議会においてユーロに加盟しないという懐疑的な方針を決定した。これに対
︵Peter↓eヨple・MOrris︶
し、クラークやへ1ゼルタイン、元外相ハウは反対の姿勢を示し、これを機に親ヨーロッパでワン・ネーンヨン派
のテンプル・モリス
また、この方針転換により、親ヨーロッパ派で影の北アイルランド相テイラー︵IanTaylOr︶、翌月には影の農業・
︵ChrisPatteコ︶ら親ヨーロッパの重鎮たちから、単一通貨支持への政策転換を
漁業・食糧相カリ1︵DaまdCurry︶が辞任することとなった。翌年一月には、クラーク、ヘーゼルタイン、ハウ、
元香港稔督・元党幹事 長 の バ ッ テ ン
﹂
訴える手紙がヘイグ に 送 ら れ た が 、 ヘ イ グ は こ れ を 一 蹴 し た 。
続いてヘイグは自分のユーロ懐疑的政策の基盤を確立するために、党内レフェレンダムに打って出た。これは九
八年九月にアナウンスされ、指導部の政策への支持もしくは不支持か問われた。九八年党大会の前日一〇月五日に
公表された結果は、ヘイグへの圧倒的支持︵八四%︶であった。ヒース、クラークら親ヨーロッパ派はこの戦略を非
難したが、サッチャー、ポーティロ、ラモントらは支援の声を寄せた。結局党内融和に関しては進展はなかったも
山林爪
のの、高い支持を得た ヘ イ グ の 立 場 は 強 化 さ れ た か に 見 え た 。
しかし、翌一九九九年になってもヘイグに対する叛乱が頻発した。六月に行われるヨーロッパ議会選挙を呪んで、
八一
3)568
開 法(51
八二
ドネリー︵BreコdanDOnコe寺︶ やステイーヴンス ︵JOhコSteくenS︶ら九八年に保守党を脱党したヨーロッパ議会議月
﹁23﹂
が、たとえ単一通貨に賛成しても支持を得られると考えて、親ヨーロッパ保守党として公式に出馬する動きを開始
した。二月には、クラークやへ−ゼルタインが、ブレアのユーロ加盟への意思表明に対して支持を表明した。これ
︵24︶
らの動きに対して指導部は、保守党員に対し叛乱者に対する支持を表明した場合には党から追放するという厳しい
姿勢を示し、実際に二人のヨーロッパ議会議員が除名された。それでも右派からはより強硬な綱領で闘うべき、と
いう圧力が寄せられ続けた。それでもヨーロッパ問題に関しては、基本的に懐疑派の優位が確定していたため、こ
︵25一 の件でヘイグのリーダーシップが揺らぐようなことはなかった。
一方で、ヘイグや副党首兼影の蔵相のリリーは、前の総選挙で大敗を喫した党の政策を建て直すために、サッチャー
主義に代わる新たなイメージを打ち出そうとしていた。これは、貧困に苦しみ福祉に依存せぎるを得ないような階
層、典型的には片親家庭などを支援して、保守党の称揚する家族的価値を実現させることなどを主眼におく、﹁思い
︵GeOrgeW.Bush︶
やりのある保守主義﹂ ︵caringOrCOmpaSSiOnateCOnSerくatism︶であった。ヘイグは一九九九年初頭に北米を視察し、
テキサスでアフリカ系アメリカ人やヒスパニック等の支持も集めて成功を収めていたブッシュ
の打ち出した
﹁コモン・センス・レヴォリューション﹂を参考にして、自
州知事︵当時︶ の﹁思いやりのある保守主義﹂ ︵theCOmpaSSi呂ateCOnSerくatisn土や、オンタリオのカナダ進歩保守
党 ︵thePrOgreSSiくeCロコSerくatiくeParty︶
﹁紬
らの政策を練り上げようとしていた。
ヘイグは九九年三月レディングでの保守党大会における演説で、サッチャー主義とその成果を肯定的に評価しっ
つも、社会変化による状況変化と保守党の対応能力の不足を原因とする失敗を率直に認めて、新たな問題に新たな
へ27︶
アプローチで立ち向かう必要を訴え、教育や医療など公共サーヴィスの充実を中心課題に据えることを表明した。
これは、新たに﹁キッチン・テーブル﹂保守主義︵kitchentab訂COnSerくatism︶と名付けられた。時期を同じくして、
569 ポスト ■サッチャリズムの政治
︵イea−Wi〓iamHague︺
︵AヨandaP−ateH︶
キャンペーンも打ち出された。
反応は必ずしも芳しく な か っ た が 、 新 た に メ デ ィ ア 担 当 に 就 任 し た プ ラ テ ル
リアム・ヘイグ﹂
による、﹁真のウィ
における草稿がリークされた。実際に行われた
しかし、このヘイグの﹁サッチャー以後﹂を求める試みは出だしから拒否反応を招くことになった。四月、リリー
のロバート\ハトラー記念講義︵theRabButすMeヨOria−﹁ecture︶
の放棄がうたわれ、公共サーヴィスに過度に自由市場の原則を適用することが戒められ
演説は数段卜−ンダウンしたものであったが、このドラフトでは、リリー自身も閣僚として推進していた八〇年代
\
以降の﹁民営化エー ト ス ﹂
ていた。のちアンクラム党幹事長らによって、リーク元が特定された。義理の兄で﹃タイムズ﹄記者のへイムズ︵Tim
29ノ
√
であった。シモンズは速やかにその任を解かれた。
レッドウッド、ファウラー︵NOrヨanFOW−er︶、タンカン・スミス、アン・
︵Mi c h a e − S i m ヨ ○ コ d s ︶
Hames︶に電子メールを送ったのは、保守党中央事務局のマーケティングおよび党員管理責任者かつポーティロ支持
者のシモンズ
この演説とり−ク情 報 は 、 ハ ワ ー ド 、
ウィデコム︵AnnWiddecOmbe︶、アラン・ダンカン︵A−anDuncan︶、ヒースコート・エイマリ︵DaまdHeathcOat♭ヨOry︶
ら、影の内閣のサッチャー主義者たちを激怒させた。特にウィデコムとダンカンは、医療に対する民間資金の導入
促進政策を提案したばかりであり、リリーの演説は彼女たちに冷や水を浴びせるものであった。右派はりり−やヘ
﹁偏向﹂を非 難 し た 。
︹30︶
︵﹁OrdTe b b i t 元 通 商 産 業 相 な ど ︶
は、ヘイグの政策転換をブレアの猿真似と切り捨て、ヘイグ側近のアドヴァイ
イグの方針をサッチャー・メイジャーの偉業からの後退とみなしたのである。頑強なサッチャー主義者のテビット
卿
ザーの
ヘイグはこうした右派の攻撃に対して、真意を﹁誤解﹂されたものと弁解しながら慰撫に努めた。ここで明らか
になったのは、経験の浅いヘイグの、リーダーとしての立場の不安定さであり、党内・閣内におけるサッチャー主
義の影響力の強さであった。サッチャー主義者は﹁サッチャー以後﹂を堅固なサッチャー主義の基盤の上に築こう
八三
3)570
開 法(51
︹封︶
八四
としていたのである。この混乱の最中から、既にリリーの更迭や、ハワード、シェパードらの辞任の意向など、内
相対的安定期
閣改造に関する動き が 取 り 沙 汰 さ れ て い た
㈲
へ32︶
五月六日の地方議会選挙と、六月一〇日のヨーロッパ議会選挙はヘイグにとっての試金石となった。一九九五年
の地方議会選挙において、メイジャー政権の不人気によって約二〇〇〇議席が失われていた。ヘイグがこれをどの
程度回復できるか、また、地方議会における第二党を狙う自由民主党を斥けることが出来るかどうか、保守党の復
活のみならずヘイグの党首としての進退がかかっていた。結果として、地方選においては、九七年五月総選挙での
3
3︶
得票率より僅かに高い三一%を獲得した。労働党は三六%、自由民主党は二七%であった。大都市では苦戦したが、
保守党はイングランドで自由民主党をリードし、伝統的支配地域を取り戻した。
これらの選挙にあたって、ヘイグは、右派の要求を容れず、。inEurOpe−butnOtrunbyEurOpe。が国民の大多
︵Pr?EurOCOnSerくatiくeParty︶を﹁ヨーロッ
4
3
ロとこれ以上の権限を渡さないために保守党
数の意思であるとして、保守党としてイギリスのEU加盟そのものへの支持は継続することを確認していた。さら
﹁親ヨーロッパ保守党﹂
に、通常保守党に投票しない有権者に対しても、ブリュッセルにユー
に投票することを訴、 え 、 分 裂 グ ル ー プ で あ る
パ合衆国﹂をつくろうとする狂信者であるとして攻撃した。ブリュッセルに対しては予算の不明瞭な点を攻撃する
の導入を謳うなど、さらなる統合を目指すヨーロッパ社会党連合︵PartyOf
とともに、政策の軸としてEU予算のイギリス負担分を削減することを掲げた。防衛面での協調・ヨーロッパ雇用
協定︵theEurO p e a n E m p − O y m e n t P a c t ︶
EurOpeanSOCia−ists︶のマニフェストの下で闘ったブレアに対しては、重要な国益を放棄するものと非難した。総じ
ていえば、ブレアがユーロ問題を選挙の中心的イシューにしないよう心を配っていたのに対して、保守党はヨ一口
571ポスト・サッチャリズムの政治
︵35︶
る。
ッパ議会選挙を単一通貨などヨーロッパ統合への深化に対する二者択一を迫るものとして積極的に利用したといえ
ヨーロッパ議会選挙の﹁二次的﹂︵secOnd・〇rdered︶性格により、政権政党は敗北する傾向があることが指摘されて
いるが、一九九九年選挙においては、比例制が導入されたことで小規模の政党へも票が流れた。保守党は三五・八%
の得票で前回の一八議席から三六議席に増加、労働党は二八・〇%で六二議席から二九議席に後退、自由民主党は一
二・七%で二議席から一〇議席と躍進した。イングランドで二四%︵全体で三〇%︶という、ヨーロッパ議会選挙始ま
って以来の低投票率であったが、伝統的に労働党支持の強い都市部で低投票率となり、その多くがヨーロッパ懐疑
︵36︺
的態度を持つ保守党支持者が比較的積極的に投票したことで、大幅な議席の変化が起こったのである︵Hi舛N茎○㌔
そして、この選挙結果は、保守党指導部の方針への自身を深めさせた。
しかしながら、ヨーロッパ問題の有権者にとっての重要度は九七年給選挙時で九位に過ぎず、このヨーロッパ議
会選挙での投票率の低さもそれを改めて確認するものであったといえよう。ヘイグ指導部がヨーロッパ懐疑的姿勢
に自信を深める反面で、指導部の動きに危機感を感じてた親ヨーロッパ派、指導部よりも強硬な懐疑派、ともにそ
︵∬一
の活動を強化していく。有権者にとってヨーロッパ問題は、保守党の分裂を連想させるイシューとして機能するこ
とになった。ヨーロッパ議会選挙は、ヘイグの窮地を一時的に救う結果となったが、ヘイグ指導部の目を見返りが
少ないどころかマイナスになりかねないヨーロッパ問題に拘泥させることに繋がったのである。︵WOrCeSterandMOrtiヨOre
N書−︰記・∞竺。
グループを主導して、ブレアとともに単一通貨加盟のための運動を行っていくことを宣言した。また、圧力団体﹁連
︵COnSerヨti扁AgainstaFedera−EurOpe﹀Cafe︶
は、副会長にタンカン・スミ
実際に、八月に入ると親ヨーロッパ派の大物へ−ゼルタインが﹁ヨーロッパの中のイギリス﹂︵theBritaiコinEurOpe︶
︵謂ノ
邦ヨーロッパに反対す る 保 守 主 義 者 ﹂
八五
3)572
同 法(51
八六
スら三人の影の閣僚の名を連ね、フロント・ベンチからラモント卿ら有力上院議月まで、懐疑派の広い支持を受け
︵39︶
ていたが、そのマニフェストにはEU加盟条件の再交渉及びそれが果たせない場合の脱退までを掲げており、指導
部の方針から明らか に 逸 脱 し て い た 。
地方議会選挙、ヨーロッパ議会選挙を乗り切ったヘイグは、影の内閣改造に踏み切るとともに、次回総選挙に向
けた政策構想の提示、政府の諸政策への攻撃、とたて続けに攻勢に出ることとなった。まず以前党内紛争の原因と
なったりり−を更迭し、議場における卓越したパフォーマーであるウィデコムを内相に抜擢、辞任を訴えていたハ
ワードに代わりメイプルズ︵JOhnMap−es︶が防衛相から影の外相に昇任した。その後には、影の社会保障相だった
メイジャー期以来の古株
タンカン・スミスが就任した。そのほかには、九七年初当選で将来の首相候補といわれるアンドリューエフンスリ
ー︵AndrewLaコS−ey︶が影の内閣府大臣として、政策見直しの重責を担うことになったっ
を排した結果、フロント\ヘンチの陣容はいくらかヘイグのリーダーンップを発揮しやすい体勢に整えられたとい
える。
保守党は新たな戦線で政貯攻撃の口火を切ろうとしていた。影の内相となったウィデコムが、難民志願者の増大
を政府の弱腰の結果としてストロー内相︵JackStraw︶を激しく攻撃したのである。七月の難民志望者の数は、前の
月の六〇%増の六六〇〇人強にふくれあがったのである。審査手続きは著しい遅れを見せ、難民の到着する地域で
は人種暴動も懸念されていた。ヘイグもアメリカでの休暇から帰国した八月末からは、自ら政府攻撃の陣頭指揮を
︵州︶
とった。これに続いて、難民問題同様保守党の得意領域である法と秩序に属する麻薬問題に関してもヘイグは厳し
い態度を示し、未成年にハード・ドラッグを売却した売人に対しては自動的に終身刑を課することを訴えた。
さらに、ヘイグは次回の選挙の公約として、好況とブラウンの堅実な財政運営から生み出された財政黒字を用い
て、教師・警察官などの専門職が受益層となる大規模減税を行うことを決めた。これは課税最低限の引き上げと、
573 ポスト・サッチャリズムの政治
の票を奪還するための重要な武器であると考えられたの
最高税率四〇%の引き下げの組み合わせからなるものであった。減税は伝統的に保守党の十八番であり、前回選挙
である。
で労働党に奪われた﹁ ミ ド ル ・ ブ リ テ ン ﹂ ︵ m i d d − e B r i t a i n ︶
︹41︶
の死去に伴い、ケンジントン・アンド・チェルシー選挙
の補欠選挙が行われることになった。有力候補を求める選挙区は、九七年選挙で落選
一方、九月上旬 ア ラ ン ・ ク ラ ー ク ︵ 元 通 商 担 当 国 務 大 臣 ︶
区︵Kensingt O n a n d C h e − s e a ︶
した閣僚の一人で、サッチャーの寵児として将来の保守党候補と目されていたポーティ口元防衛相に白羽の矢を立
てた。ヘイグ指導部も、カリスマ的人気を誇るポーティロの復帰を望んでいた。ただしポーティロには、ケンブリ
ッジの学生時代そして議員になってからも、前副党首リリーとの間にホモセクシュアル関係を結んでいたという噂
時代の経験について公に認めてみせた。このことは、教会など一部を除いて、選挙区の活動家やメディアには比較
がつきまとっていた。ポーティロは候補者として指名されるにあたって、りり−との関係は否定したものの、学生
︵42︺
的好意的に受け取られ、彼は無事候補者としての指名を得ることが出来た。ケンジントン・アンド・チェルシーは
セーフ・シートであり、ポーティロの復帰は確実視された。補欠選拳は一一月下旬に行われ、ポーティロは大差で
右旋回︰﹁コモ ン ■ セ ン ス ・ レ ヴ ォ リ ュ ー シ ョ ン ﹂
下院 議 員 と し て 復 帰 し た 。
㈱
一九九九年一〇月の党大会では、ヨーロッパ問題が前面に押し出されることになった。ヘイグは政権に就いた場
合、﹁柔軟性条項﹂︵適用除外の規定︶を獲得できなければいかなる新条約に対しても拒否権を行使すると述べ、影の
外相メイプルズも、ヨーロッパの新たな立法に対する適用除外を決定する自由が得られるよう、ローマ条約の修正
を交渉することを約した。EUからの脱退こそ否定しているものの、指導部のヨーロッパ政策がいっそう硬化した
八七
3)574
同 法(51
〓
八八
ことは明白であった。さらにはサッチャー、テビット、 ラモント、ヘーゼルタイン、クラークら、ヨーロッパ懐疑
﹁44︺
派・親ヨーロッパ派ともに元閣僚級の大物が入り交じって活発な議論を戦わせた。党大会直前に出版されたメイジャー
の身柄引き渡し問題批判など活発な活動を展開して衆目を集
とラモントの回顧録の中でも場外乱闘もしくは代理戦争が繰り広げられていた。サッチャーはヨーロッパ問題以外
、45ノ
でも、ブレア批判、 ピ ノ シ ュ 将 軍 ︵ G e n e r a − P i n O C h e t ︶
︵COmmOnSenseRe言︼utiOコ︶
のタイトルは、前述
めた。影の内閣府大臣ランスリーの手になるミニ・マニフェスト﹁コモン・センス・レヴォリューション﹂が公表
﹁コモン・センス・レヴォリューション﹂
されたが、ヨーロッ パ 問 題 や サ ッ チ ャ ー の 影 に 隠 れ る 形 と な っ た 。
ヘイグの打ち出し た
したようにカナダ進歩保守党のそれにならったものである。九七年総選挙で労働党の打ち出した公約の形式に従っ
て、五つの政策を﹁保証﹂︵GuaraロteeS︶というかたちで提示するものであった。これは、﹁両親への保証﹂︵TheParernts.
Guaraロte、親に、適切な水準を提供できない学校の経営を入れ替える権限を与える︶、﹁患者への保証﹂︵ThePatieコt㌦Guraコtee、
︵TheTa舛Guarantee、次
︵TheCanWOrk・MustWOrk
NHSの患者を治療上の切迫性に応じた待機時間内に治療できるようにすること︶、﹁税の保証﹂
の保守党政権の間、国民所得の一定割合まで減税すること︶、﹁働けるものを働かせる保証﹂
︵TheSteユiコgGuaraコtee、次期政権の
へ46﹂
︵↓he↓OryRefOrmGrOup︶
の一九九四年の綱領にみいだし、これを四〇代以上のサ
の
Guarantee、労働可能な人間への失業給付を与えないこと︶、﹁スターリング保証﹂
からなるものであった。
やドレルが﹁卜−リー改革グループ﹂
﹁コモン■センス▲レヴォリューション﹂は、党内穏健派からは右旋回として警戒された。大会中から
間には単一通貨に加入 し な い ︶
ヘイグの
既に、元外相のりフキ ン ド ︵ M a − c O − m R i f k i n d ︶
部会において、主導部の政策の右傾化をサッチャー政権の福祉・教育・租税政策への復帰とみなして警告していた。
︵MikeHarris︶
トーリー改革グループのケント︵NichO−asKent︶は、﹁常識の欠如?﹂と題された論文において、指導部の新政策の
起源をカナダ進歩保守 党 の マ イ ク ・ ハ リ ス
575 ポスト・サッチャリズムの政治
ッチャー時代を黄金時代と捉えその時代への復帰を求める有権者グループをターゲットに据えた結果若い有権者を
疎外してしまうものであり、労働党が公共サーヴィスの面で公約を達成していないと見られている好機をみすみす
へ47︶
︵Keコt
逃すものである、と批判した。彼ら穏健派は、右派がアメリカとアメリカ共和党を模範とする傾向を批判し、英米
間の国家観や福祉観の大きな相違を指摘してヨーロッパ型社会モデルを目指すことを主張する傾向があった
andMarsha〓−遥讐。
のキャッチフレーズとともに開始した。これに対
︵BritaininEurOpe︶グループの
BritaiコJ
党大会後、ヘイグは、﹁ポンドを救え﹂ ︵saくethepOu邑︶ キャンペーン・ツアーを、﹁ポンドのための闘い、イギ
リスのための闘い﹂ ︵。ロa邑efOrthe POuコd一Ba三efOr
し、親ヨーロッパ派のクラーク、へ−ゼルタインは、﹁ヨーロッパの中のイギリス﹂
イヴェントに参加し、ブレア、ブラウン、ケネディ ︵ChaユesKeココedy︶自由民主党党首らと並ぶ姿がメディアに報
︵姻︶
じられた。ここでヨーロッパ統合へイギリスがコミットしていくことに関して、保守党の親ヨーロッパ派が超党派
の運動の一翼に加わることが示威されたのである。党の分裂は依然として収まる兆しを見せなかった。
一九九九年末になると、ヘイグは不祥事によるごたごたと文化的問題をめぐる対立に悩まされることになった。
まず、翌年のロンドン市長選挙の候補者として選ばれていたジェフリー・アーチャー︵JeffreyArcher、元議月・作家︶
が、過去の売春疑戒心の際友人に偽証を依頼していたことが露見し、出馬を断念せぎるを得なくなった。その後候補
︵49︶
r馴︶
選出委月会でいったんは選にもれたノリス︵SteくeNOrris︶が、党幹事長アンタラムの介入によって再び候補リスト
に収まるという、混乱ぶりであった。
一二月初めには、党内左派で地方政府法セクション二八の撤廃を主張するショーン・ウッドワード︵ShauコW00dward︶
影のロンドン担当スポークスマンが、フロント・ベンチから更迭された。それも、主席院内幹事アーブスノツト︵James
ArbusthコOt︶がポケベルに送った、﹁六時半までに釈明がなければ更迭﹂というメッセージによるものであった。こ
八九
3)576
開 法(51
九〇
のときウッドワードに与えられた時間は僅か一〇分であった。ウッドワードのリベラルな主張は、子供の悩み相談
電話チャイルドライン︵Chi−dLine︶の副委員長として働いていた経験にも基づいており、彼は学校におけるいじめ
の増大の原因には﹁ホモ嫌い﹂があると確信していた。セクション二八は子供を保護するよりも、むしろ教師がホ
モ嫌いによるいじめを防止することを困難にしていると考えられたのである。彼の主張は指導部の方針に反してい
︵51︶
たが、彼は個人の良心に関わるイシューでの自由投票を主張していた。
指導部は、この更迭は保守党のホモセクシュアルへの非寛容を示すものではないと弁明したが、党内のリベラル
勢力にとっては指導部の右傾化を示すものと受け取られた。ウッドワードが将来有望な若手とみなされていただけ
に、その衝撃も大きかった。彼は指導部の非寛容を非難する演説を行い、反対のフロアに転じた。ヘイグ指導部に
なってからの有力議月の脱党としてはテンプル・モリスに続くものであった。ヘイグの決定に対しては、リベラル
なロンドン市長選候補ノリスからも批判の声が寄せられた。ノリスはセクション二八撤廃賛成派であったが、市長
選挙を前にした指導部は何らの対応もとれず、指導部の方針が一貫性を欠くことが露呈されるかたちとなった。ヘ
イグにしてみればウッドワード更迭は指導力をアピールしようとするものであったが、保守党がヨーロッパに関す
る分裂のみならず、文化的次元でも分裂の危険があることを明るみに出す結果を招いたのである。クラークやメイ
︵52︶
ジャーも、指導部がさらに﹁極端﹂な方向に走っていると、批判を強めた。それでもヘイグ指導部の方針は揺らぐ
ことはなかった。
㈱ ポーティロの復帰
﹁経済アドヴァイザー評議会﹂
︵theCOunCi︼
一九九九年末から翌年初めにかけて、保守党は減税およびそれに付随する福祉国家改革に関する提案を模索し始
め、影の蔵相モードを中心に、保守党の減税・税制改革の策定のための
577 ポスト・サッチャリズムの政治
OfE︹OnOヨicAdvisOrS︶が立ち上げられた。これは、ヘイグ指導部が打ち出してきた﹁税の保証﹂をより現実的なも
のとして提示するためのものであり、コングドン教授︵TiヨCOngOn︶やスキデルスキー卿︵LOrdSkide−sky、ウォリッ
ク大学教授、社会市場ファウンデーション︵theSOCia−MarketFOundatiOn︶会長︶ら経済学者、ホッグ女男爵︵BarOneSS
へ53︶
HOgg、メイジャー期の政策局責任者︶らが集められた。平行してウィレッツ影の社会保障相は、社会保障支出の削減
や廃止、私的セクタの役割増大によって四〇億ポンドの節約が可能であり、これを減税と医療や教育分野での支出
4
5
増に充当する方針を示 し た 。
二月に入ると、ヘイグはさらなる内閣強化に着手した。補欠選挙で下院復帰を果たしたポーティロを影の内閣に
加、え、鉄壁の蔵相ブラウンに対峠させようとしたのである。これは大きな賭であった。ポーティロはサッチャーに
引き立てられ将来のり−ダーと目されてきた。九七年総選挙で落選してなければ、党首選で右派を束ねていたのは
彼だったといわれており、ともすればヘイグの主導権を奪いかねない危険な存在だった。同時に影の蔵相だったフ
︵[禦
レッドウッドとそ
〝策動〟を疑った。メイプルズもまた指導部
った影の環境相レッドウッドが閣外に逢われ、後任は党組織改革を主導したノーマンとなっ管
ランシス・モードが影の外相にスライドした。存在感の薄かったメイプルズ、そしてポーティロの不倶戴天の敵だ
の支持者はヘイグ、そしてプラテルらヘイグ周辺のアドヴァイザーの
の右傾化を批判したため、党内対立が収まらない保守党という印象を深めることになった。
しかし、それ以上に問題だったのはポーティロ自身の変化であった。九七年総選挙で野に下って以降のポーティ
ロは、社会的・文化的な問題に対する意見を大幅に軟化させていたからである。ポーティロはヨーロッパ問題に関
しては懐疑派に属し、ヘイグと大きくは違わなかったが、社会保障などへの支出、難民や麻薬問題、ホモセクシュ
アリティの処遇など文化的問題への態度に関しては、少なくとも二〇〇〇年当時のヘイグと指導部の政策とは大き
な隔たりが存在していたのである。さらに、ポーティロは自らをヘイグと同格と見ておらず、自らの主張を押し通
九一
同 法(51「3)578
九二
すだけの意志と実力、支持基盤をもっていた。さしあたり、ポーティロは、労働党の導入した最低賃金制およびイ
に対しても拘泥しない意向を示したのである。分裂イメージを避けたい
︵舗︶
ングランド銀行への独立性賦与に対するヘイグ指導部の方針を変更させた。また、彼は一九九九年秋の党大会以来
ヘイグが暖めてきた 減 税 政 策 ﹁ 税 の 保 証 ﹂
がロンドンの映画
︵KeepthePOuコd︶キャンペーンを開始した。コピーを側面に描いた単に
ヘイグはポーティロの要求に譲歩を示さぎるを得ず、保守党政権の間減税を続けるという明確なコミットメントを
避けることとした。
内閣改造後、ヘイ グ は ﹁ ポ ン ド を 守 れ ﹂
乗って各地を巡回するという伝統的スタイルによるもので、団体﹁ヨーロッパの中のイギリス﹂
︻J﹂
館で行ったファッショナブルなイヴェントとは好対照をなすように企画されていた。政府は、単一通貨加盟を問う
ためのレフェレンダムを行う時期や条件について明言することが出来ず、単一通貨加盟を目指す運動の中でも方針
の称号をはぎ取ろう
をめぐっての混乱が見られた。ヘイグはその間隙をついたのである。さらにヘイグは三月下旬、労働党が進めてい
る地方への権限委譲を攻撃して、ヨーロッパ問題と対にする形で、ブレアから﹁愛国主義者﹂
﹁
とした。
四月のハロゲイト︵HarrOgate︶での党大会においてもヘイグの攻勢は続き、その目標が労働党に奪われたミドル・
クラスの奪回であることが明確にされた。彼によれば現在イギリスのミドル・クラスは、税制・セクション二八廃
止・ポンド放棄■難民への対処など、多くの労働党の政策に幻滅していた。同時にヘイグは、国民の関心の強いN
HSに関しては完全に民営化するのではなく、民間資金導入によって再生するというメッセージを強調した。これ
に加えて、五月の地方議会選挙に向けて前面に押し出されたのが、法と秩序に関する政策であった。伝統的に保守
党の得意分野であるが、このイシューは難民問題や犯罪と家族の関係、麻薬など、文化をめぐる広範な問題と重な
り合うところが大きいために、党内のリベラル派と衝突する可能性を畢むものであった。
579 ポスト・サッチャリズムの政治
ヘイグがまず取り上げたのは、難民志願者の増加問題であった。これは、難民が到着する地域の住民にとって大
きなアピールになると考、ろられていた。﹁人種カード﹂を用いるものとして労働党・自由民主党のみならず国連高等
へ59︶
に集め、新設の
﹁立ち退き局﹂による迅速
弁務官からの非難を受けつつも、ヘイグは﹁偽の﹂難民を養う納税者へのコストなどをあげつつ、政府の難民政策
の破綻を批判した。ヘイグの代替案は、難民志願者を﹁受入センター﹂
な審査によって、不適格とされた者を速やかに退去させるというものであった。
続いて、四月下旬にはヘイグは犯罪者に対する厳罰化と、強盗に対して自己防衛を行った者に対する法的保護を
訴えた。これは、ノーフォーク地方の農民が自宅に侵入した強次皿を殺害した事件で、殺人罪を宣告され終身刑に処
︵60︶
せられた事件をうけての発言であった。ヘイグは法制度の不備を批判し、将来の保守党政権での改正を示唆するだ
けでなく、犯罪の増加をもたらした労働党政府の法と秩序政策、そしてそれを社会的条件との関連があるかのよう
1h.
に論じるリベラル派の議論に対して挑戦したのである。反応はあまり芳しくなく、他党や警察関係者からは現実的
で、影の内相ウィデコム
代替案を欠いた﹁機会主義﹂﹁ポピユリスト﹂的発言として嘲笑を招いた。保守党地方選挙マニフェストの中の難民
︵
6
政策を批判する団体が、オックスフォードのウォーターストーン書店︵theWaterstOne﹀s︶
にパイをぶつけて逮捕されるという事件も起きた。それでもヘイグはこのイシュ1に関する強硬姿勢を崩さなかっ
た。
五月五日の地方議会選挙では保守党が躍進をみせ、目標を上回る五〇〇議席以上を獲得した反面で、九七年に保
﹁”りノ
に議席を奪われた。これは前年六月に自由民主党党首となり、メディアへの露出による知名度の
守党議月が大差で勝利したハンプシャー州ロムジー選挙区︵ROmSey︶で行われた補欠選挙で、自由民主党のギドリ1
︵SandraGid−ey︶
︵KenLiくingstOne︶
に敗
上昇を求めていたチャールズ・ケネディ︵ChaユesKennedy︶にとっては記念すべき勝利となっか。また、ロンドン
市長選においても、ノリスが、公認を得られなかった労働党左派の闘士リヴィングストン
九三
同 法(513)580
九州
れた。総じてこれらの選挙結果は、労働党政府やヘイグ保守党への支持の動向に関して明確な指針を与えるものと
︵64︺
はいえなかったと思われるが、それでもヘイグとその周辺は、保守党系の世論調査機関ICMリサーチによる内部
﹁65︶
の報告に基づいて、労働党のリードが縮小しっつあるという感触を得ていたといわれる。
︵zerOtO−erance︶
への攻撃を行った。アメリカ流の
の標語の元、刑事手続きを建て直すことを軍言Lた。六月に入
︵−ibera〓hinkiコg︶
勢いに乗ったヘイグは次々と様々なイシューで政府への攻撃を続けた。﹁貧困は犯罪の弁明にならない﹂と述べ、
手法に学び、﹁ゼロ・トレランス﹂
〝リベラル・エスタブリッシュメント″と〝リベラルな思考″
√66
ると、このころニース閣僚理事会に向けた政府間の調整が行われていたこともあり、保守党はヘイグとモードを中
心にヨーロッパ統合への反対を軸にした活動を展開する一方、ヨークシャの億万長者サイクス︵Pau−Sykes︶の支持
と、彼が主導する﹁民主主義運動﹂︵theDeヨOCraCyMO完ヨent︶の支援を得て、﹁ポンドを政、え﹂キャンペーン及び、
二〇〇一年総選挙に向けて人月的・資金的な武器を得ることとなったのであか。
このように、ヘイグ指導部が様々なアイディアを持っており、それを積極的に実行に移す行動力があったことに
は疑う余地がないであろう。ブッシュ・テキサス州知事が宗教右翼的な人々から支持を集めていることをも参考に
するため、そのブレーンの一人マーヴィン・オラスキー教授︵MarまnO︼asky︶をロンドンに招いたのもその一例で
ある。オラスキーの極端な主張をそのまま受け入れたわけではないものの、ヘイグらはそれをプラクティカルに応
用し、妊娠中絶への規制、セクションt一八撤廃への反対、家族や結婚への税制による支援、宗教団体による慈善活
動への国家補助などを提案することになった。これらの主張が、失われた﹁ミドル・ブリテン﹂の票を取り返す戦
︵︶
略をたてるうえで参考になると考えたのである。事実この時期ヘイグは、政府への攻撃や議会での質問におけるパ
フォーマンスを高く評価され、﹁スーパーマン・ヘイグ﹂とも評されるなど、上げ潮ムードに乗っていたといえる。
労働党の側も、自らが保守党のポピュリズム的な攻勢に対して守勢に立っており、総選挙において敗北する可能性
5引 ポスト・サッチャリズムの政治
︹69︶
すらあるという分析を行っていたのである。
労働党への支持率は夏場にいったん回復したが、そこにブレアにとってさらなる打撃を与える問題が浮上した。
一つはミレニアム・ドーム︵theMi−−eniumDOme︶ への多額の出費への批判であり、もう一つは燃料の価格上昇に伴
う道路封鎖であった。後者は軍を導入するほどの騒ぎになったが、政貯の対応が後手後手に回ったことにより労働
党支持は大きく後退し、MORIなどの世論調査ではおよそ八年ぶりに保守党支持が労働党支持を凌駕した。折悪
しく労働党政権が所得税減税を行う反面で燃料などへの課税、所謂﹁ステルス・タックス﹂を導入したことに対す
︵70し
る攻撃が強まっていたところでもあり、この燃料危機はまさに火に抽を注ぐかたちになったのである。
しかし、ウスターとモーティモアの診断によれば、確かに政府への批判は高まったが、それが保守党やヘイグの
政策への積極的支持に転化したとまではいえず、また絵選挙に勝つために必要な接戦選挙区でのスイングは不足し
ていた。結局保守党の優位は一時的な現象にとどまったのである︵W。rC2SterandM邑im。reN芸−︰∽T呂。
二〇〇〇年バーンマス︵BOurコヨ○亡th︶保守党大会は一〇月二日から開催された。一九九九年のミニ÷ニフェス
ト﹃コモン・センス・レヴォリユーンヨン﹄をより具体化した﹃どり−ヴィング・イン・ブリテン﹄︵Be−ieエコginBritain︶
に対応するかたちで、影の閣僚たちによる演説が行われた。この文書では、﹁メインストリームのマジョリティの常
識的価値観・思想﹂の再発見の必要が唱、えられ、維持・回復すべき﹁常識﹂として、他国と競争し得る低税率低規
制の進取に富んだ経済の形成、コミュニティを結びつける家族、慈善事業、宗教団体などの制度の支援、進取に富
︵71︶
んだ社会と良質な公共サーヴィスの共存、法の支配、ネインョンの独立と一体性の擁護、が掲げられた。
より具体的な提案のうち重要なものを列挙すると、経済関係では減税と規制の緩和が主軸であり、公共サーヴィ
ス整備や市民生活に関しては、教育に対する地域コミュニティの統制力の上昇と国家や地方政府による介入の撤廃、
環境保護︵垂亡?Gree亭二γジュンダ︶、犯罪抑制のための警察力増強と厳罰化、自己防衛に関する法制の導入、被害者
九五
3)582
同 法(51
優先の考え方の導入 、 難 民 認 定 手 続 き の 迅 速 化 、 ﹁ 受 入 セ ン タ ー ﹂
九六
への収容と、受入拒否の場合の﹁立ち退き局﹂に
︵theWOrking
よる送還など、地域コミュニティの再生と法と秩序への強硬な姿勢が反映された。福祉国家改革に関しては、労働
可能であるのに就労しない者への失業給付の打ち切り︵。CaコWOrkMustWOrk=︶、﹁勤労家族税控除﹂
FamこiesTa冥Credit︶、年金の増菰の提案からなり、これは、家族的価値の再生・労働のフレキシビリティの増大・
高齢者票の獲得の三つの目的を含むものであった。国際的問題に関しては、EUにおける立法に対する拒否権の保
持、NATOの枠外での自律的なEU防衛力整備への反対、ヨーロッパ司法裁判所によって執行される基本的人権
︹72︶
﹁ゼロ・トレランス﹂演説と影の蔵相ポーティロの
憲章を導入することへの反対、ポンドの保持という提案から、国家主権・議会主権の維持が中心となっているのを
看取することが出来よう。
大会において特に 注 目 を 集 め た の は 、 影 の 内 相 ウ ィ デ コ ム の
演説であった。前者は、ソフト■ドラッグの非犯罪化を明確に否定し、麻薬の所持者は初犯かつどんなに軽微なも
3︺
7
のであろうと即刻一〇〇ポンドの罰金を科すという提案を中心に、保守党の法と秩序政策への強いコミットメント
を相変わらずの弁舌で印象づけた。後者は、社会福祉に関して﹁労働党の地平線の終わるところから保守党の地平
は始まる﹂と述べ、労働党と同等の支出プラス民間医療保険の整備を図ることなど、減税と経済の成長を踏まえた
持続可能な公共サーヴィスの漸進的増強の両立を明言した。また、ポーティロはこの演説の中で、﹁われわれは皆イ
ギリス人である。黒人のイギリス人、イギリスのアジア人、白人のイギリス人である﹂﹁多様な性的傾向をもつ人々
こ/
スの面でも文化的な面でも保守党がより包括的な政党となることを約したのである。
のための党﹂と述べてイギリスの多様性を称容しっつ保守党が右傾化しているという批判に反駁し、公共サーヴィ
﹁.4′
まず問題になったのはウィデコムの演説であった。警察、慈善団体、人権擁護団体はもとより、党内からもウィ
デコムの提案した厳罰政策の実現可能性に対する疑義が呈せられた。ヘイグやポーティロが保守党の右傾化という
583 ポスト・サッチャリズムの政治
批判を交わし包括的なイメージを出そうとしていたこととも平伏があっていなかったことに加えて、影の閣僚のモ
ード、ストラスクライド卿︵LOrdStrathcマde︶、ノーマン、エインスワース︵PeterAinswOrth︶、ウィレッツ︵Daくid
︵ROCkers︼権威主義者︶
ヘイグは﹁ゼロ・トレランス﹂を支持していたが、閣内宥和のためウィデコムの提案をトーンダ
と﹁ロッカー﹂
との争
Wi〓etts︶、レトウイン︵○−iくerLetwin︶らが、大麻使用の経験があることを認め、ウィデコムの政策の非現実性を批
判したのであるっ
ウンせぎるを得なかった。これは﹁モッズ﹂ ︵MOds﹀社会的リベラル︶
︵7︶
5
いと評され、影の内閣内での社会的問題に対する対立の存在を浮き彫りにした。面目を失ったウィデコムは、将来
の党首候補としての芽を摘まれた。
は、八〇年代にサ
一方で、ポーティロの変化も党内に波紋を巻き起こした。党内のサッチャ1王義者が、ついにポーティロと衝突
︵76︶
することになったのであるり ﹁ノー・ターニング・バック﹂グループ ︵NO↓urningBackgrOup︶
ッチャーの自由市場主義を支持する目的で結成された党内圧力団体であり、ポーティロ自身その結成に関わった長
年のメンバーであった。ところが、二月に開かれた夕食会の場で、会長のフォース︵EricFOrt耳元教育担当国務相︶
をはじめとする強硬なサッチャー主義たちが、ポーティロの党大会演説に代表される変化を槍玉にあげ、ポーティ
ロ・モードを断罪するという挙に出たのである。グループは減税政策の徹底を要求し、ポーティロが訴えたホモセ
にリークされ、これを期にポーティロ、モードは、ノー・ターニング・バックとの関係
クシュアルなどのマイノリティへの寛容姿勢を、党を分裂させるものとして指弾した。
この顛末は﹃タイ ム ズ ﹄
を絶った。ポーティロの路線転換は、サッチャー主義右派の離反を招き、彼の党内支持基盤を縮小させたのである。
また、ノー・ターニング∵ハックやフォースとも関係の深いテビット卿も、再びポーティロとそのゲイ支持演説に
対して批判を強めた。二月末、ポーティロは政治への興味も将来党首を目指す意欲もなくなった、と述べるほど
叫㌫Ⅶ乃
に打ちのめされていた。
九七
3)584
開 法(51
九八
に、女性会員を認めるよう要求した。
一方、ヘイグは党大会後も、女惟やマイノりティの支持拡大への努力を続けていた。まず保守党の伝統的なクラ
ブで女性の正会員を認めていなかったカールトン・クラブ ︵theCaユtOnC−ub︶
ヘイグ自身はとりたてて社会的にリベラルとはいえ
一一月にはキリスト教徒に加、え、ムスリム、ヒンドゥ教徒、シーク教徒、ユダヤ人などのエスニック・マイノリテ
、
ィ、そしてゲイな ど 性 的 な マ イ ノ リ テ ィ か ら の 支 持 を 訴 え か り
なかったが、可能な限り支持を拡大する必要を感じており、またポーティロとの直接対決も避けねばならなかった。
こうLたヘイグの日和見的な行動も、保守党の文化的イシューに対する態度の一貫性を損ない、党内に混乱を招い
二〇〇一年総選挙
総選挙前の動き と 人 種 間 題 の 再 燃
第 二章
た一因となったと考、えられる。
川
保守党の総選挙における戦略の中心は、減税・治安問題・ヨーロッパ問題に絞り込まれていたが、ヘイグの文化
政策における日和見的政策は、指導部内の緊張を避けられなかった。保守党全体に、社会的・文化的なリベラリズ
ムと権威主義の軸をめぐって潜在的な対立が生じる可能性が偏在していた。総選挙に向けての数ヶ月、保守党を揺
り動かすことになるのも、このような人種や移民に関わる問題であった。
︵theMacphersOnRepOrt︶及び犯罪
ヘイグは一二月、七年前に起きた黒人のステイーヴン占−レンス︵StephenLawrence︶少年殺害に関するマクファー
︵79︶
ソン ︵Wi≡amMacphersOn︶委眉会の調査報告書、所謂﹁マクファーソン報告﹂
を貧困など社会的要因に還元する﹁リベラル・エリート﹂ニibera−e︼ite︶を非難する演説を行った。彼は、警察の士
585 ポスト・サッチャリズムの政治
気低下、捜査能力の低下とそれに伴う犯罪の増加を、この報告書が採用した警察の﹁慣習的人種差別﹂︵instiどtiOnal
ナ
8
racisヨ︶という考え方と結びつけたのである。ヘイグには﹁人種カード﹂を弄んでいるという批判が浴びせられた。
これは、保守党の中 核 的 支 持 者 の 票 固 め を 狙 っ た も の で あ っ た 。
ハロゲイトでの春季党大会は、保守党にとって選挙戦略の最終確認の場となった。ヘイグは基調講演で、ヨーロッ
に連れて行ってもらえると述べ、ユーロの流通・ブリュッセルから押しっけられ
パ問題や難民問題への強硬姿勢を改めて示した。彼は労働党が続けて政権を担当した場合には、﹁外国の土地への旅﹂
︵︻○ロajOur コ e y t O a f O r e i g n − a n d ︺
は演説において必ずしも移民・難民によるものというニュアンスではなかったと思われ
る増税・犯罪の増加などを警告した。さらに、難民審査に関しては数週間以内で行い、速やかな送還を行うことを
繰り返した。﹁外国 の 土 地 ﹂
るが、ヘイグの声明を発表した記者会見において、スポークスマンのウッド︵NickW00d︶が記者のヨーロッパ問題
と難民の問題を結びつける意思があるのかどうか記者に問われ、肩をすくめるのみで明確に否定しなかったことも
﹁引用のトリック﹂と一蹴したが
︵JOコeSN00−︰焉・∽A︶、ケネディやアシュダウン
あって、論争の的となった。このことは党内の親ヨーロッパ派をうろたえさせた。ポーティロはBBCのテレビ番
組で、批判に対して は メ デ ィ ア の
︵POWe−−esque︶として非難され、ヘイグはウェールズおよびスコットランドでの
党大会では こ の 語 へ の 言 及 を 避 け ぎ る を 得 な か っ た 。
ら自由民主党からは ﹁ パ ウ エ ル 的 ﹂
′机ノ
は、英国農産物の禁輸を
二〇〇一年総選挙及び地方選挙は、当初五月三日に行われる予定であった。しかし、北部や西ミッドランド、ウェー
ルズ、コーンウォールなどを中心に農村地域で拡大した口蹄疫︵F00taコdヨOuthdisease︶
招き農家に多大な損害を与えると共に、家畜の大量屠殺を余儀なくさせた。危機への対処のために、労働党は総選
挙の延期を考慮し始めた。被害の多い地域からは市議会選挙の延期を訴える声が日に日に大きくなった。当初、保
守党は口蹄疫処理にあたっては政府を全面的に支持していたが、三月下旬になると、総選挙・市議開銀選挙の延期
九九
3)586
同 法(51
︵82︶
一〇〇
をめぐって、休戦状態は終わりを迎えた。結局、四月二日、ブレアは政府は選挙を六月七日に延期することを決定
した。これにより、実質的なキャンペーン期間は長期化することとなった。
︵theCOmmissiOコfOrRacia−Equa−ity−
一方、三月末から、無名のバックベンチャーが行った演説が、保守党の人種間題に対する態度と党内分裂への疑
︵墾
に対して、主要五党は、総選挙の運動中、明示的にであろうが暗示的にであろうが人種間の嫌悪・偏見・差別
念を再燃させることになった。三月一四日、﹁人種間の平等のための委月会﹂
CRE︶
︵Brid−iコgtOコ︶
の保守党協会でおこなった演説の内容が掲載さ
を掻き立てるような言動を悼む、という協定を結んでいた。しかし、三月二八目、ジョン・タウネンド議員︵JOhコTOWコeコd
。
MP,YOrkshi r e E a s t ︶ が ひ と 月 ま え に ブ リ ド リ ン ト ン
タウネンドはこの演説の中で、﹁われわれの同質的アングロ・サクソン社会が、大量の移民によって深刻に脅かさ
れている﹂﹁不法移民は新たな策略を練っている。彼らは自らを難民志願者と呼ぶことにしたのである﹂﹁多くの[不
法移民は]暴力的な社会から釆ており、彼らの居住地城では避けがたく犯罪が増加している﹂と述べかq労働党は
この記事を保守党の人種主義の現れとみなして、ヘイグに対してタウネンドの除名を要求した。タイミングも最悪
だった。このときヘイグはブラッドフォードで、エスニック・マイノリティに対して、保守党が彼らの味方である
ことをアピールしようとしていた。彼は、タウネンドの演説内容について﹁全く支持できない﹂と述べるに留まり、
タウネンドが総選挙に出馬せず引退することを理由に、特段の措置を執らなかった︵Wa−tersN含−︰−怠︶。二九日に
は、ラドロウ︵Lud−OW︶選出議員のギル︵ChristOpherG≡︶がタウネンドを支持して、保守党を離党した。彼も.花々
総選挙には出馬する意図がなかったが、反ヨーロッパ政党の英国独立党︵theUnitedKiコgdOm−コdepeコdeコCeParty、
﹁∬し
を応援す る こ と を 表 明 し た 。
UKIP︶
党内にも動揺が見え始めた。総選挙後にクラークがポーティロと組んでヘイグを追い落とそうとし、親ヨ一口ッ
587 ポスト・サッチャリズムの政治
パ派の影響力を強めるとともに、﹁ワン︰ネイション﹂主義への復帰を目指そうとしているという噂も流れた。この
ときサッチャーがヘイグの下に団結することを訴えたり、ポーティロやモードもヘイグへの忠誠を誓うことになる
︹86︶
など、総選挙を前し て 内 紛 の 気 配 は 消 え な か っ た 。
一方、CREの誓約書への署名要請への対応を質問されたアンタラムは、ヘイグが保守党議員・候補者を代表し
て署名したと述べたうえで、各人の署名はそれぞれの自主性に任せる、というメモランダムを党内に回覧していた。
この際彼がキャンペーンにあたって﹁人種主義的な言葉遣い﹂をしないようにという通達を出していたことは、保
守党の人種主義的傾向の存在を裏打ちするものとして批判を受けた。さらに、CREが各党首のみならず各候補に
対して署名を求める方針を定めたことで、この問題が拡大することになった。四月二〇日、三人の保守党議月が署
名を断固として拒んでいることが明らかにされた。タウネンド、クラン︵JamesCran︶、フォースら右派の議員であ
﹁椚ノ
った。しかしCREの署名要求は、よりリベラルな議月たちの一部にとっても人種問題を政争の具にするものとし
て反発を浴びていた。フロント・ベンチからは、ポーティロが署名を拒んでいた。フランコ体制下のスペインを逃
れた共和主義者の息子である自分が差別に反対していることは自明であり、CREの反人種主義についても原則的
完讐
には賛成であるが、しかし自らの発言の自由を拘束されるような署名には政治家として立場から断固反対せねばな
らない、というのがそ の 言 い 分 で あ っ た 。
︵am O n g r e − r a c e ︶
とみなすもの﹂と批判、全ての移民は統合され、英語を話し、英国文化・その歴史
︵89︶
一方タウネンドほ、物議を醸したクック外相の﹁ティッカ・マサラ・チキン﹂琴言に対してもひるまず、イギリ
ス人を﹁混血
︵LOrd↓ay−OrOfWarwickJOhnDaまdBeckettTay−Or︶
である。彼は一九九二年給選挙にあたりチェ
に適応すべき、と述べた︵JOneSN茎−︰⊇・蔓。ここで立ち上がったのが、九六年に保守党初の里天上院議月となっ
たテイラー卿
ルトナム︵Che−tenham︶の保守党候補となろうとした際、保守党協会のメンバーによって黒人であることを理由に妨
一〇一
岡 法(51−3)588
害をうけたことがあった。
一〇二
党内紛争の報道がテイラーの参入でヒートアップしたこともあり、四月の末になってヘイグ指導部は規律回復に
着手した。タウネンドには人種関連発言の撤回、テイラーにはヘイグ批判を止めるよう要求したが、このとき閣内
︵90︶
ではタウネンド追放を訴えるポーティロ、モード、ウィレッツらと、より妥協的なウィデコム、タンカン・スミス
らとの間で意見の対立があった。火種はなかなか消えず、アジア系上院議員のテイラー支持や、タウネンド琴言を
支持するロバートソン︵LaurenceRObertsOn.TewkesburyMP︶のテレビ発言が相次いぎ、ヘイグはり−ダーシツプ、
決断力の弱さをあげつらわれることになった。テイラーは、タウネンドを処分しようとしないヘイグをも非難し、
総選挙の開始と 保 守 党 の キ ャ ン ペ ー ン
︵別︶
さらには労働党への 鞍 替 え す ら 灰 め か す 始 末 で あ っ た 。
榔
五月八日、ブレアはロンドン南東サウスウォークにあるセント・セイヴィアズ・アンド・セント・オレイヴズ中
等学校︵St一SaまOur㌦andStO−aくe︸sSch00−︶ において、一四日に議会を解散することを宣告し、投票は六月七日に
決まった。労働党のマニフェストはこの時点では完成しておらず、その代わりに五項目の﹁公約カード﹂︵theP−edge
Card︶が提示された。これは①経済の公約︵経済的安定、低インフレと健全財政︶②学校の公約︵教員の増員と中等学校
の整備︶③医療の公約︵看護婦と医師の増員︶④犯罪の公約︵警察官の増員︶⑤家族への公約︵冬の燃料税の抑制、最低
﹁92︶
﹃コ
賃金の増頗︶からなるものであった。経済の安定と公共サーヴィス整備に力点が置かれることとなり、ブラウンは増
税しないという約束 を 回 避 し た 。
これに対し、保守党はキャンペーン序盤の焦点を減税問題に据えた。ヘイグは一〇El、保守党マニフェスト
モン・センスの時﹄ ︵TiヨefOrCOmmOnSense︶を公表し、総頗八〇億ポンドの減税、特に二〇〇〇年に注目された
589 ポスト・サッチャリズムの政治
の印象を強めることにあったといえよう。下院では、蔵相の質問時間に
r93一
燃料税については、ブラウンの提案の倍、リッター当たり六ペンスの減税額を提示した。こうした戦術の目的は、
労働党政権による﹁ ス テ ル ス ・ タ ッ ク ス ﹂
質問にたったポーティ ロ が 、 年 金 問 題 に つ い て 論 戟 を 挑 ん だ 。
労働党は、一九九二年選挙で影の蔵相だったスミス︵JOhコSヨith︶が提示した減税案の見積もりの甘さを衝かれて
支持が低下したというトラウマから、歳出と歳入の見通しに関しては慎重であった。一方攻撃側の保守党の算定に
ついては、反対党のみならず党内からも疑念が寄せられていた。例えば支出に携わる影の社会保障相ウィレッツは、
八〇億ポンドのうち七〇億ポンドにしか同意していなかった。さらには一四日、保守党のある影の閣僚の発言とし
︵94し
て、保守党が次期政権の間に二〇〇億ポンドまでの減税を考えている、という報道がなされた。ヘイグはあらため
て八〇億ポンドが正確な公約であることを確認したが、労働党から無責任かつ経済運営能力の欠如の証左であると
︵AmbitiOnSfOr
Britain︶
責めたてられることとなり、一旦は減税問題のアジェンダ・セッティングに成功したかにみえた保守党の出鼻はく
じかれる形になった。
﹃イギリスのための野望﹄
で一人の女性に待ち伏せされ、公共サーヴィスの整備が不十分である
に遊説に訪れマニフェストの公表を行った直後のブレアが、クイーン・エリ
︵LabO亡rPartyN書−︶、同時に二つの偶発的事件に見舞われることになった。バーミンガム・エッジバス
第二週目に入った 五 月 一 六 日 、 労 働 党 は 選 挙 マ ニ フ ェ ス ト
公表したが
トン選挙区︵Birm i n g h a m E d g b a s t ロ コ ︶
ザベス病院︵TheQ 亡 e e n E − i z a b e t h H O S p i t a − ︶
は、一青年に卵を投げつけられ、﹁自衛のため﹂青年の顔面にジャブを叩き込
ために恋人が迅速な治療を受けられないことを直訴されたのである。一方、北ウェールズのフリル︵Rhy−︶を訪れた
副大臣プレスコット︵ J O h n P r e s c O t t ︶
﹁95﹂
んだ。ただし、これらの事件は過度の注目を浴びることはなく、労働党マニフェストに関する情報も充分に報道さ
れていた。保守党の 側 が こ の 機 会 に つ け こ む こ と は で き な か っ た 。
一〇三
を
同 法(51−3)590
一〇四
6
この週、保守党は予定通り難民問題、治安問題に戦線を移した。ヘイグはウィデコムを傍らに、難民が到着する
′9
ことの多いドーヴァーで、携帯電話やネコを飼う資金などNHSが難民に与えるという恩恵を列挙してみせた。し
かし、アジェンダ・セッティングで成功を収めながらも、世論調査の結果はほとんど改善をみせなかった。保守党
事務局の中でも、ランスリーやコリンズらが医療や教育より保守党の得意分野である減税や難民問題に重点を移そ
うとしていたのに対し、世論調査の担当者は、このまま有権者の関心が高い問題から離れて減税・難民そして最終
︵97︶
週に中心となる予定のヨーロッパ問題といった保守党の中核的支持者向けのメッセージに集中するならば、態度を
決めかねている浮動層 の 離 反 を 招 く と 危 倶 し て い た 。
指導部が予定していたより早い五月二二日、ヨーロッパ問題が突如最重要トピックとして浮上することになった。
︵鍋︶
サッチャーがプリマスにおいて行った演説で反ユーロを前面に押し出したのである。それも、ヘイグ指導部の路線
と述べ、ユーロ問題に軸足を移すことになる。しかし、労働党はニューズ・カンファレンス
より厳しく﹁決してポンドを放棄することはない﹂と言ったのである。ヘイグも結局﹁今回の選挙はユーロ加盟を
防ぐ最後のチャンス ﹂
の場で、党員からの情報として、保守党の約八〇人の反ユーロ派候補の主張が指導部の公式の路線と異なっており、
︵99︶
二三名がEU加盟条件の再交渉や脱退までを視野に入れていることを暴露してみせた。サッチャーの﹁決して﹂︵neくer︶
という単語も、党内不 一 致 の 典 型 例 と さ れ た 。
それでもヘイグは最後の攻勢に出る。二五日夜マンチェスターの集会において、これからが﹁ポンドを救う二週
とした。しかし、保守党の訴えは稚拙な見積もりによって説得力を減退させた。保守党はVATの増額を行わない
﹁冊
間﹂であると演説し、﹁イギリスが独立国であり続けるのかヨーロッパ・ブロックの一部になるかの選択の時である﹂
﹂
ことを公約し、EUが所得税制等のハーモナイズを目指しているというり−ク文書を示し、労働党政権になればイ
ギリスは所得税率を決定する能力を失い、大幅な増税がもたらされると訴えていた。しかし、ヨーロッパの税制委
591ポスト・サッチャリズムの政治
月ボルケシュタイン ︵FritN BO−kestein︶ が保守党の解釈を否定し、EUにそうした意図がないことを表明したので
仁
ある。また、ブラウンに対してはユーロ加盟のコストが三六〇億ポンドに上るとして批判していたが、これはポン
︵WimDuisenberg︶
が、イギリスのコストは九〇億ポンドにしか
ド維持派圧力団体の算定をうのみにしたものであり、モードなど内部からも算定の荒さを不安視する声があった。
︵川2︶
案の定、ヨーロッパ 中 央 銀 行 総 裁 ド イ セ ン ベ ル グ
ならないと述べたの で あ る
五月末には事務局内の世論調査︵ICM︶のデータにより、労働党に一九%の差を付けられ、自由民主党にも猛追
ヘイグの反ユーロを強調するアプローチへの批判を行っ加。これらの動きは、既に﹁ヘイグ以後﹂を見越した動き
されていることが明らかになった。こうした状況を見て、親ユーロ派の有力者イアン二丁イラーやドレルなどが、
であった。保守党の戦略通り、この週は確かにユーロ■フェイズになった。しかしながら、提出した数字が不正確
であったことと党内分裂を露呈したために、保守党の支持を回復するには至らなかった。保守党の選挙運動は、明
らかに行き詰まったのである。
保守党は六月に入ると、﹁地滑り﹂によって起きる弊害を警告することで﹁クイーンズランド効果﹂を狙い、敗北
︵川d︺
︵−arOgaコニブレアはネイション・ステイ
の規模を縮小しようとした。サッチャーもこれを援護するかたちで、﹃デイリー・テレグラフ﹄に寄せた文章で、地
滑りが﹁選挙による独裁﹂ ︵立ec︷i完dicta︷OrShip︼︶を出現させ、﹁倣慢な﹂
トとしてのイギリスを次第に消滅させてしまうだろう、と述べた。何れも敗北を前提とした戦術に過ぎなかった。
しかしながら、既に大勢は決していた。保守党はキャンペーンを戦術的にはリードしながら、それによって有権者
の支持を得るまでには至らなかった。これ以後、有権者の興味は次の党首が誰になるか、ということに移ることに
なる。その前に次節では総選挙における保守党の戦略について、世論調査などの結果から分析を試みることとする。
一〇五
同 法(51−3)592
㈱ 結果と分析
一〇六
絶遠挙結果は、九七年の労働党の地滑り的勝利の再演となった。保守党に対するリードは一二議席減少したが︵ス
イングは∵八%︶、依然として一六七議席の差がついた。世論調査の趨勢からすれば、低投票と共に予想された結果
ただし、有権者が労働党の実績と政
へ皿︶
であった。保守党が次回の選挙で優位に立つには一三%近いスイングが必要になるともいわれる。保守党はスコッ
トランドで一議席得た以外ではスコットランド、ウェールズから一掃されたし
と評されることになった
︹︶
川h
︵NOrrisN書二弓hite︼eyet.a−.N含亡。
策を積極的に評価した結果とも呼べず、得票率が五九・四%と低迷したこともあり、﹁無関心による地滑り≒Apathetic
Lands−ide︺
総選挙に置いて通常重視されてきた減税などの経済問題は、持続する好景気とブラウンの堅実な財政運営への信
頼を反映してあまり注目されないままに終わった。インフレはEU平均より低く、雇用も拡大中であり、経済不快
指数も低かった。このため経済運営への注目は重要度六位に留まり、世論調査でも労働党に経済運営を委ねたいと
する回答者が保守党支持を圧倒した。税金は四位に位置づけられたが、労働党支持と保守党支持は桔抗していた。
これらの分野においても、経済運営同様、労働党の政策や運営能力を支持したものの方が
反対に重視されたのは医療・教育すなわち公共サーヴィスの整備や年金であり、有権者は減税よりも財政支出を望
んだものと考えられ る ゥ
︵川7︶
多かった ︵Sanders et.巴.N含−︶。また、公共サーヴィス整備のために増税を訴えた自由民主党が議席を増やしたこ
とからも、有権者の動向が読みとれよう。
最終週の中心テーマとなったヨーロッパ問題も、有権者にとっての優先順位は高くなかったゥ多くの世論調査で、
投票する政党を決めるに当たって考慮するイシューの中で、ヨーロッパ問題は一〇位前後に過ぎなかった。多くの
有権者はポンドを放棄することに反対であるが、将来意見が変化する可能性を留保している者もその四割程度存在
しており、レフェレンダムでの最終決定権が留保された状態でこの間題が保守党支持を押し上げることは望めなかっ
593 ポスト・サッチャリズムの政治
12
46
法と秩序
44
29
31
年 金
35
33
30
税
35
33
30
経済運営
29
17
51
失 業
25
難民・移民
24
公共交通機関
23
32
環境イ呆護
20
18
ヨ一口ッノヾ
18
住 宅
18
動物の福祉
13
7
36
60
14
44
9
38
14
20
40
20
憲法・権限委譲 5
27
29
北アイルランド問題 5
22
37
防 衛
労組間題
9
3
その他
2
なし・わからない
8
49
① これらのイシューの中で投票する政党を決定す
るにあたって非常に重要だと思われるものはどれか。
② 重要だと考えるイシューの中で、いずれの政党
が最適な政党か。
‘PoliticalAttitudesinGreatBritain’,2001.5.17,
MORIArchivesから作成。
︵WOrCeSterandMOrtimOreN書∵いーN︶。
53
たのである
教育
難民志望者など、人種に関わるイシューについては、今回の選挙で新しい傾向が現れたといわれる。Saggar︵N芸亡
49
によれば、七〇年代以降の人種イシュ1は、エスニック・マイノリティの利益に拘泥しすぎるというイメージを持
14
たれがちな労働党にとってマイナスになるというかたちで作用してきており、この傾向は一九九二年選挙において
61
も同様であった。しかし九二年以降、有権者の移民問題に対する態度は相対的に穏健化し、難民問題に対する拒絶
医 療
反応がなくなったわけではないものの、保守党が期待したほどの利益を与えることはなかった。﹃エコノミスト﹄掲
②
保守党(%) 労働党(%)
載のMORI世論調査では、有権者にとっての難民に関する争点の重要度は八位に過ぎず、医療や教育を重要だと
①
(%)
岡 法(51−3)594
一〇八
考える人々のおよそ半分程度にしか重視されていなかったのである。一方、ローレンス事件やマクファーソン報告
に見られるように、このイシューと深い関連を持っていると思われる法と秩序政策の重要度は三位と高いが、この
︵Sanderset.a−.N書︼︶。
︵川8し
分野で最も適切な政策を採っている党とされたのは労働党であり、保守党に対し僅かながら二%のリードを保って
いたのである
︵Diまded︶と回答した割合は二〇〇〇
しかも、これらの政策をめぐって保守党が分裂していると考える有権者は、一九九七年から二〇〇一年にかけて
増加していた。選挙直前のMORIの世論調査では保守党を﹁分裂している﹂
年一〇月の三一%に対し、二〇〇一年五月には三〇%と、ほとんど改善が見られなかった︵MOrtimOreN茎−︶。分裂
のイメージは、党首としてのヘイグと次期政権党としての保守党の信頼度を著しく損ねていたのである︵WOrCeSter
amdMOrtimOreN害︼︰霊⊥∽︶。ヘイグ指導部が九九年以降準備を重ねキャンペーン中にもアジェンダの中心となった
三つのイシューは、いずれも有権者にとっては相対的に関心の低いものであり、保守党への信頼を回復させる役に
は立たなかったばかりか、党内に波風を立てたという点ではマイナスですらあった。
好調な経済を除けば医療・鉄道など公共サーヴィスの劣化や国利改革の停滞など、ブレアの業績自体はそれほど
高い評価を受けていたとはいえない。保守党が勝利するために必要なスイングはあまりにも大きかったため、敗北
したこと自体はむしろ当然といってよかった。しかしながら、有権者からの評価をほとんど改善させないままに二
度の地滑りを許したことは大きな誤算だったであろう。
595 ポスト・サッチャリズムの政治
第三章
印 党首選の開始
保守党党首選挙
党指導部の中には再び党内に混乱がもたらされることへの危倶からヘイグ留任を望む声もあったが、ヘイグは投
票日の翌日、はやばやと辞任を発表してしまう。これに伴って自動的に保守党党首選が行われることになった。た
︵lD9︺
だし、選挙の公示は一九二二年委員会の委員長スパイサ1︵Michae−Spicer︶の選任を待たねばならなかった。今向
の党首選は、前回の九七年党首選におけるヘイグの公約に基づいて九八年一月に導入されたルールに沿って行われ
たっ このルールによれば、二人より多い候補が立候補した場合には、下院議員による選挙により最下位の候補をひ
とりずつ落としていき、二人にまで絞り込んだところで全党員による公選となる。今回の選挙戦は夏休みの休戦を
挟んで九月まで、三ケ月の長きに渡ることとなったっ
最初に名乗りをあげたのはポーティロであり、逸早︿ヘイグの影の閣僚の過半数の支持を得たことで、一歩り−
ドした形となった。立候補を噂されていたウィデコムは、誰もポーチィロに対抗しないなら自分が出馬すると表明
していたが、下院議員の十分な支持を集められず、出馬を断念して最終的にはクラークを支持することとなった。
ポーティロに対して、社会的権威主義派、ヨーロッパ懐疑派を代表する形で、タンカン・スミス影の防衛相が出馬
を表明した。また、同様にヨーロッパ懐疑派のなかから党幹事長を辞任したアンクラム︵Michae−Ancraヨ︶、元ヨー
ロッパ相にして下院会計委員会︵thepub−icaccOuntSCOmヨittee︶の委員長という要職を務めたデイヴィス︵DaくidDaまs︶
が続いた。事業の都合でヴェトナムを訪れていたクラークの立候補は最後になった。前回同様親ヨーロッパ派の候
補はクラークのみとなった。
一〇九
購 法(51−3)596
一一〇
第一回投票は七月一〇目に行われ、アンクラムとデイヴィスが一二二累で最下位を分け合う形となった。第一位は
ポーティロで四九票、タンカン・スミス三九票、クラーク三六票、アンクラムとデイヴィスは共にニー票であったへ︺
最下位が同点の場合の規定がなかったため、スパイサーは再度候補者五人全員を対象にする投票を行うことを決定
した。ダンカン・スミスは予想されていたより︼○票以上も多くの栗を集め、一躍注目を集めることになったじ
ポーティロの得票は票読みと近かったものの、五〇票に届かなかったことは打撃であり、キャンペーンの失敗を
物語るものとされた。ポーティロはメイジャー政権の閣僚であった時期に献金報告を怠った件を注目されており、
党員レヴュルではポーティロへの疑念が弱くないこともあって、本来なら圧倒的多数の議員の支持を得たいところ
であった。MORIの六月二六日の調査では、クラークが保守党員の二九%の支持と全国民の三二%の支持を受け
ているのに対し、ポーティロはそれぞれ二五%と一七%に留まっていた。また、クラークとしても、一九九七年の
卜
党首選において第二ラウンドにおける一位であったことを考えれば、この得票は苦戦といえる。九七年の第一回投
票でも彼は四九票を待ていたり厳しい状況にもかかわらず、ポーティロは自分の政策に関して妥協を見せようとし
なかった。社会的リベラルの姿勢を貫き人種差別に厳しい態度をみせ、自分がそのときに党首だったならタウネン
=
ドを追放していた、と述べた。さらに、大麻の非犯罪化もしくは合法化に対しても、他の候補が背反対もしくは憤
重な姿勢とったのに対し、ひとり容認の構えをみせた。
しかし、メディア担当を辞任したプラテルがチャンネル4のテレビ番組に公表した選挙キャンペーンのドキュメ
ントが、ポーティロに大きな打撃を与えた。プラテルは日々のキャンペーンを無断で撮影しており、それとともに
保守党のドキュメントを製作したのだが、兼ねてから対立することが多かったポーティロへの意趣返しとして、キ
へm︶
ャンペーンの最中においてポーティロやモードがヘイグを裏切るような策動を絶えず行っていたと告発したのであ
る。
597 ポスト・サッチャリズムの政治
この日二度目の投票が行われたが、ポーティロはり−ドを伸ばすことが出来なかった。結果はポーティロは五〇
票と以前首位であったものの、ダンカン・スミス四二票、クラーク三九票と、下位竺一人からの票は二位、三位の
二人に流れた。一八票のデイヴィス、一七票のアンクラムは辞退し、ダンカン・スミス支持を表明することになっ
r‖\
た。この中には、ノー・ターニング・バックからポーティロを追放したフォースも含まれていた。ポーティロの変
﹃サ ン デ 1 二 丁 レ グ ラ フ ﹄
は、サッチャーに近い筋からの情報として、彼女が密かにダンカン・スミ
化は、サッチャー主義者のかつての尊敬を敵意に変えていたのである。
七月一五H
スよりもポーティロを支持すると述べたこと、そしてこのことがダンカン・スミスに思いがけない打撃になるだろ
う、と報じた。記事のなかで、サッチャーは経験に欠けるタンカン・スミスより、カリスマがあり閣僚レヴュルの
経験が豊富なポーティロの方が強力な候補であると考えていると述べた、と伝えられた。こうしたサッチャーの意
帖
の報道を否定し、キャンペ一
向は、右派の保守党議員に対し九七年のヘイグに対する彼女の支持表明がなしたのと同様の、決定的な効果を発揮
︻‖
するものと考、ろられたのである。しかし、その翌日サッチャーは﹁ポーティロ支持﹂
ンに利用されたと怒りを露わにすると共に、改めてダンカン・スミスへの支持を確認した。さらに、デイヴィスが
次回投票への参加を辞退しダンカン・スミス支持を表明したが、彼を支持していた議員のうち四人が、ポーティロ
でなくクラーク支持に加わった。彼らはヨーロッパ懐疑派であったが、党を復活させることが出来るのはクラーク
のみであるとして、意見の異にするクラークの支持にまわったのである。これらの出来事は、ポーティロには大き
な打撃であった。
七月一七日、第三回投票が行われ、首位はクラークで五九票、次点はダンカン・スミスであった。ポーティロは
︵川︶ 五三票となり、一票差で涙をのんだ。結果を知った彼は、もうフロント・ベンチに座ることはない、と表明した。
二位と三位の差はわずか一票、一位と三位ですら六票。票はほぼ1/3ずつに分かれたといえる。ヨーロッパ懐疑
一二
同 法(51−3)598
一一二
派のなかからもクラーク支持者が現れたが、これは閣僚経験のないダンカン・スミスの経験不足にも起因するもの
と考えられる。また、党員レヴュルで知名度が高いポーティロが敗れ、党員栗の行き場が失われたことは、ある程
度の民主化が進んだとはいえ、新制度の限界を明るみに出すものであった。また、残った両者が、双方共にヨーロ
︵Ⅲ
ッパ・イシューヘの過度の集中を戒めていたにもかかわらず、ヨーロッパ問題に関してはっきりした選好の違いが
ヨーロッパ問題 と 党 月 投 票
明白になったことは、この問題が争点化することを避けがたいものにしたといえよう。
㈲
八月に入り党首選におけるヨーロッパ問題を巡る対立の様相が強まっていった。ダンカン・スミスを応援したア
にのぼり、クラーク支持
ンクラムやヘイグは、クラークが党首になれば、党はヨーロッパ問題を巡って分裂を続ける、と警告した。ICM
の世論調査でもクラークが党の分裂を招くと考える者は一八%︵ダンカン・スミスは五%︶
が低下しっつあっか 。
への転
八月二〇日、党員に投票用紙が配られるとともに、ダンカン・スミスのマニフェストが公表された。ダンカン・
スミスは、公共サーヴィスを﹁国家の独占﹂から解き放つことを訴え、個人の自立を重んじる﹁福祉社会﹂
換を訴えた。ヨーロッパに関しては単一通貨、ヨーロッパ防衛軍、﹁ヨーロッパ政府﹂に明確に反対した。また、党
首となった場合ユーロ賛成派も影の閣僚に加えるものの、レフェレンダムに際して﹁イエス﹂の側にたつ場合は、
フロント・ベンチから辞任させることとし、自らは﹁ノー﹂キャンペーンの先頭に立つ、とした︵DuncanSコまhN茎−b︶。
クラークのマニフェストでは、NOP世論調査のデータをもとにダンカン・スミスの倍に上る支持を得ているこ
とや、閣僚としての長年の経験をアピールするとともに、若者票を獲得できる政策をデザインするため、影の内閣
や議員のみならず、広く党内から才能を集めることを提案した。最大の焦点であるヨーロッパ問題に関しては、こ
599 ポスト・サッチャリズムの政治
の問題での党的論争をを抑制することを訴、え、レフェレンダムにあたってはオープンかつ寛容な立場をとり、各人
の自由を重じるとし、ヨーロッパ防衛軍やニース条約への賛成、ヨーロッパ司法裁判所の優越も承認しながら、自
分は連邦主義者ではなく独立の国民団家の議会と国民が主要な決定を行うことを支持していると述べていた︵C−arke
N呈−︶。
に寄せた手紙の中でサッチャーは、ダンカン・スミスヘの支持を再確認するとともに、クラークは一九
しかし、ここで前回の党首選挙でもヘイグ当選に追い風を与えたサッチャーが再び介入してきた。﹃デイリー二丁
レグラフ﹄
九七年選挙での敗北の責任者であり、そして、クラークが党首になれば再びヨーロッパ問題での分裂が露わになる
︵川︶
だろう、と述べた。さらに、タンカン・スミスの経験不足とマーストリヒト条約に対する反乱に対する批判に対し
ても〝インテグリティ″を野心に優先させた結果である、と擁護してみせた。この後、メイジャーやへーゼルタイ
ンもメディア上での論戦に加わったが、サッチャー主義との訣別を訴えるクラーク派と、反ヨーロッパを軸に結集
を謳うタンカン・スミス派との間の溝は拡大するばかりであった。世論調査も、保守党員の主要な関心がヨ一口ッ
の非難を行うに留めた。
︵121︶
︷︶
だった。就任演説においてタン
一一三
ことを約束したが、テロ事件を配慮して政府批判などは避け、ブッシュおよびブレアの対応を支持しテロリストヘ
カン・スミスは、これからの保守党が、国民が関心を持っている医療や教育のようなイシューにもっと目を向ける
がタンカン・スミスに投じられた。クラークヘの投票は一〇〇、八六四票 ︵三九%︶
テロによって党首選への注目が薄れたことは誤算であっただろう。投票率は七九%、うち六一%の一五五、九三三栗
党員捜票は、アメリカでの﹁同時多発テロ﹂によって一口延期され、結果が公表されたのは九月一三日であった。
パ問題にあることを示していか。
刷
一一四
ダンカン・スミスは早速影の内閣を任命、第一回投票後タンカン・スミス支持に回ったデイヴィスを党幹事長、
アンクラムを影の外相に据えた。影の蔵相にはハワードを置くなど、主要なポストはヨーロッパ懐疑派が占めるこ
とになった。敗北後はフロント・ベンチに入らないことを以前から公言していたクラークは影の内閣には入らなかっ
た。結果が判明した直後、彼を含め多くの閣僚級政治家が、新党首の下団結して政権奪取に努力することを表明し
たり
ダンカン・スミスは軍人から民間企業をへて、一九八七年に労働党のセーフ・シートであるブラッドフォード西
一
選挙区︵BradfOrdWest︶で立候補したが落選、九二年テビットが引退する際にナングフォード︵ChiコgfOrd︶を引き
継いだ。披はその政治姿勢においてもテビットを継承しており、サッチャーの勝利に感銘を受け政界人りを決意し
︵川
たことにみられる通り、サッチャー主義すなわち自由市場と強い国家、家族を中心とする伝統的な価値観、そして
ヨーロッパヘの懐疑的姿勢が彼の政治信条の中核である。閣僚経験のないことを除けば、今回の選挙でサッチャー、
テビットの支持を受けたのは自然の成り行きだった。彼は、メイジャー政権期の下院において、マーストリヒト条
約批准などヨーロッパ問題をめぐって混乱を引き起こしていた反乱者たちの一人である。九五年の党首選挙では立
候補寸前で自重したポーティロに失望して最右派のレッドウッドを支持、九七年も同じくレッドウッドを支援した。
彼はサッチャー主義右派・ヨーロッパ懐疑派の牙城である﹁ノ1・ターニング・バック﹂グループの一員である。
外交政策についてはタカ派であり、ヨーロッパの緊急対応部隊︵rapidreactiOnfOr︹e︶やヨーロッパ軍の創設には反
対する一方で、アメリカのミサイル防衛システム構想に賛同する大西洋主義者︵Atrantist︶である︵DuncaコSmithN冨−a︶。
2γ
社会的には権威主義的といってよく、中絶や軍隊内にゲイが加わることに反対し、死刑・鞭打ちの復活に賛同して
こうした彼の政治姿勢には、あまりに狭量すぎるという批判があり、中核的な保守党支持者にしかアピールしな
いる。
1
3)600
岡 法(51
601ポスト・サッチャリズムの政治
いのではないか、と危惧されている。ダンカン・スミス自身も、より広い支持を集める必要を感じたのか、党首選
への支持を再考することを示唆し管また、彼は終始ヨーロッパ問題が
キャンペーン中、タカ派イメージを和らげることに努め、地方政府法の﹁セクション二八﹂ ︵地方当局にホモセクシュ
∴パご
アリティを宣伝・推 奨 す る こ と を 禁 じ た 条 項 ︶
過熱しすぎることを避けることを主張し、中道への復帰と党内融和を訴えた。そのために、前述の通り、ユーロ加
盟レフェレンダムの際、﹁イエス﹂キャンペーンに加わる場合を除いて、フロント・ベンチに新ヨーロッパ派を加え
ることを約束していた 。
しかし、フロント・ベンチの人事はこうした約束の信憑性を疑わせるに充分であった。ポーティロ、モード、ク
︵DamianGreen︶影の教育相、デイヴィス
︵Que邑コDaくies︶
ラーク、ウィデコム、レッドウッドらがフロント・ベンチに入ることを拒否していたこともあるが、影の内閣にお
ける親ヨーロッパ派・ 社 会 的 リ ベ ラ ル 派 は 、 グ リ ー ン
影の北アイルランド相、レイト︵JacquiLait︶影のスコットランド相のわずか三名に留まり、それ以上の要職は与え
︵126︶
︵Bi〓Cash︶やフォース
︵EricFOrth︶
られなかった。これに対して、最終フェイズでダンカン・スミス支持に回ったアンクラム、デイヴィスらが要職を
得たほか、ほとんどの 閣 僚 が ヨ ー ロ ッ パ 懐 疑 派 と な り 、 な か に は キ ャ ッ シ ュ
のように、急進的な反ヨーロッパ派にも役職が与えられたのである。さらに、ダンカン・スミス本人を含め、影の
1
閣僚のうち一二名が、EU加盟条約の再交渉とそれが適わない場合のEUからの脱退を求めるヨーロッパ懐疑派の
団体﹁連邦ヨーロッパに反対する保守主義者﹂の支持者であか。社会的問題に関する態度にも疑問符をつけぎるを
グに弁明を要求さ れ た 人 物 で あ る 。
2月ノ
得ない。院内幹事となったロバートソンは、総選挙前にタウネンドが行った人種差別まがいの発言を支持し、ヘイ
︵1
しかしながら、ダンカン・スミスの勝利は、現在の保守党員が望む保守党の姿を示していることも事実であると
思われる。それは社会的には権威主義で、経済政策的には自由市場支持、そして反ヨーロッパ的な保守党である。
一一五
岡 法(51−3)602
保守党史上初めて党月の投票はそれ相応の権威を党首に与えるであろう。
結語︰保守党の伝統の破壊とサッチャー主義の負債
Kiコg︵−諾亡が保守党における職業的政治家の登場にともなう変化を描いてから二〇年が経過した。Berringt呂and
︵であると さ れ て い た も の ︶
が失われ、さらに議月がイデオロギー的に自由市場や国家主権を主張する傾向も
Hague岳革が示したように、サッチャー登場以後の世代において上位者への謙譲といった保守党議員の旧来のス
タイル
︹闇ノ
増した。一方で、ヘイグより若い世代においては、社会的な問題へのリベラルな考え方も浸透している。そうした
保守党の変化がサッチャー自身の辞任の原因の一つとなり、メイジャーの政権運営を悩ませた√しかしそれはまた、
と﹁社会主義﹂
の二分法を前面に押し出
サッチャー自身のスタイルでもあった。それは﹁エスタブリッシュメント﹂やオックス・ブリッジ出身の官僚制文
化を敵視する一種のラディカリズムと、市場中心主義的﹁リベラリズム﹂
このような﹁サッ
すイデオロギー的な姿勢である︵BeくirandRhOdes−芸00︶。そして、このイデオロギー的側面には、保守党にとって
は本来親欧的態度よりも伝統の中核であった国家主権、ユニオニズムへの拘りが残存していたし
チャリズム﹂と自由市場を越えて政治統合・通貨統合へと進展するヨーロッパ統合がいつか組酷を起こすのは時間
の問題であったと考えられる。サッチャー政権成立以後の下院議員における反ヨーロッパ的傾向の強さが示すよう
に、サッチャーは、この側面に関しては保守党の伝統的価値を再生・強化したのである。マーストリヒト条約によ
るヨーロッパ統合の深化と、条約批准までの時期にERM危機に見舞われたり、狂牛病発生に伴う問題でEUとの
関係が悪化したことは、保守党とヨーロッパの関係を決定的に変化させ、その懐疑的姿勢を強化した。
ヘイグはヨーロッパに関しては懐疑的姿勢を基本に党内の融和を試みたが、世論調査における支持率も低く、指
603 ポスト・サッチャリズムの政治
導部への謙譲を失った保守党を統合できるほどの指導力を発揮できなかった。指導部内で社会問題に関する方針を
めぐって対立が高ま っ た た め で も あ る 。
ダンカン・スミスが議会での反乱を主導していたことについては前述したが、こうした党全体を省みない行動は、
ヨーロッパ懐疑派のみの十八番ではない。親ヨーロッパ派のクラーク・へ−ゼルタインらが、ブレア・ブラウンの
ユーロ導入支持運動に名を連ねたことは前述した。これはのちのちまで党内にしこりを残している。また、脱党・
︵thepr?E亡rOPeanCOコSerくati完S︶グ
鞍替えも絶えない。ダンカン■スミス当選後、一〇月にはスキデルスキー上院議員が保守党を〝反知性主義的ヨー
ロッパ恐怖症″とこき下ろして脱党、一二月には﹁親ヨーロッパ保守主義者﹂
ループの元議月・元ヨーロッパ議会議月一三名が自由民主党への鞍替えを行った。彼らは、ヨーロッパ懐疑派と互
ロッパ派・社会的リベラル派は保守党に留まって闘い続けるだけの意欲も忠誠心も失いつつある。
角な戦いが出来なかったクラーク、ヘーゼルタインら親ヨーロッパ派の大物に対しても失望を隠さなかった。親ヨー
︵川︶
サッチャー主義的アジェンダのうち、安定優先の経済政策、国家介入の縮減は、保守党のみならず新労働党も共
有する前提条件となった。しかし、サッチャー主義が積み残したいくつかの問題は保守党を苦しめ続けている。ユー
ロ・レフェレンダムは、一つの転回点となるだろうが、ヨーロッパ問題との関係をめぐる対立がそれで解消される
わけではない。社会的問題についても然りである。社会の変化に対応して、若手議月のなかには社会的にリベラル
な考え方を持つ者もあらわれているが、ナショナルで排外主義的な思想を持つものも少なくない。現状では伝統主
義的な右派・反ヨーロッパ派がヘゲモニーを握ることが党内安定には欠かせず、そのことが政権の奪回を難しくす
る。保守党がその﹁権力への渇望﹂を満たすには新労働党と戦える強力なリーグ﹂ンツプと戦略を獲得することが
欠かせない。ダンカン・スミスは当面の戦術として、改善されない公共サーヴィス劣化の問題を中心にブレアを攻
撃しているが、このあと彼が一貫した、可能なら左右の合意を得られるような政策パッケージを提出できるか、こ
一一七
3)604
同 法(51
れからも注視していく 必 要 が あ る だ ろ う 。
新聞や政党のl一ユーズリリース、世論調査については、それぞれのウェブサイトから引用を行った。検索を行わなければ読むこ
参考文献
保守党http︰\\ w w w . c O n S e r く a t i 扁 S . C O ヨ \
とが出来ない情報 も あ る が 、 そ れ ぞ れ の U R L は 煩 墳 に な る の で 割 愛 す る 。
労働党http‖\\ w w w J a b O u r . 〇 r g . 亡 k \
http︰\\www.mOri.cOヨ\
LeadershipE−ectiOnOf−写コhぎ訂萱茎官・蕃叫3∽−﹂⊥P
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もndNe〓Carter﹀N含○∵TheLibera−DeヨOCratLeadershipE−ectiOnOf−若輩ニー首ミ叫ミ莞3訂蔓Ll♪育叫誘∽㌣ピT︺N↓.
Baker−D a ま d
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BerringtOn−Hugh﹀ed.﹂涙声hざすざ㌻こ賢こき宗計れ叫穿こざざ打点、隷ヨ邑扇LOndOn︰FrankCass.
厨eまr﹀Mar k
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R.A.W.RhOdes﹂芸∞∴.Narrati扁SOfThatcherisヨ一。inBerringtOnもd.﹂箋戸
厨ackbeコChCOnSerくati扁Party﹂豊N⊥遥モ∴nBerringtOnもd㍉忘器.
出randreth﹀Gyles﹂森澤﹂ぎ竃賢慮二寮C2F一票婆ざき邑曾∴蛍雪.畢LOndOn︰PhOeni舛.
B亡こer一Daくid−ed﹂当∞−COa−itiOnSinBritishpO︼itics.BasingstOke︰Macヨi〓an﹂バトラー、デイヴイッド編、飯坂良明他訳、
厨rOad−RO駕r㍍喜−−巨資喜よ如§官§こ遅訂§戻∵ぎ妄﹂群雲ざ計︺如訂†BasingstOke︰Pa−graくe.
605 ポスト・サッチャリズムの政治
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Of−双岩.BasingstOke︰Macヨi〓an.
andMartinWest−ake﹂変声BritishPO≡icsaコdEurOpeanE︼ectiOn−写ぎBasingstOke︰MacヨiHan.
一九八〇、﹃イギ リ ス 連 合 政 治 へ の 潮 流 ﹄ 、 東 京 大 学 出 版 会 ︶
Da5.d
N芸L
Racere−atiOnSfOrpO−itica−caヨpaigners㌧︸
︵http︰\\
Daまd
TheCOヨヨ仙ssiOnfOrRacia−Equa−ity−N茎−∴虎︼ecti昌COヨpaCt
C−arke−Kenneth∴挙胃﹀ゴ訂C芸詫⊇已叫罠S>訂札白卜昌札箪一きぎ=ロ芸−票3叫訂と訂叫C芸n岩、短寛叶訂声
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Gaヨb−e−Andrew︼︻写ヂゴ訂句訂こど¥箋ぢS乱さ訂如ぎ点∴詳旨∴⊇
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﹃国家学会雑誌﹄一一四巻九二〇号。
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池本大輔、二〇 〇 一 、 ﹁ 欧 州 統 合 と ウ ェ ス ト ミ ン ス タ ー モ デ ル ﹂
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一一九
開 法(51−3)606
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理論的刷新からニュー・レイバーヘ﹄木鐸社。
社会民主主義を越えて﹄
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近藤康史、二〇 〇 一 、 ﹃ 左 派 の 挑 戦
古瀬英輔、一九 九 七 、 ﹃ 英 国 労 働 党
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607 ポスト・サ、ソナヤリズムの政治
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力久昌幸、一九九六、﹃イギリスの選択︰欧州統合と政党政治﹄本澤社。
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Britain㍉N芸︻.㌢−♪MORiArchiくeS.
阪野智一、二〇〇一、﹁イギリスにおける政党組織の変谷 − 党組織改革と人民投票的政党化への動き﹂、﹁神戸大学国際文化学
Saggar−Shaヨit﹀N茎−∴カaceCard﹀Again㌔h灯ミ計S芸訂づ唇音3.竺㌔笠ヨヰ
部国際文化学研究﹂第16号・15一56。
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一二一
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一二l一
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GeOrge︶ と連立し、与党として閣僚を送っていた。l三年可○月、ボールドウイン
を参照。
を参照。
がある。
のクーデタによって
︵COnSerくati完NetwOrk︶、文化局︵︷heCu−tura︻Uロit︶
の
LOndOn︰PO−iticO〆
︵Stan−eyBa−dwiロ︶
︵1︶ オーステイン・チェンバレンの党首であった時期は一九二一年から翌年までと短期間であり、ロイド∴ンヨージ︵DaまdL−Oyd
の増大や、﹁スピン・ドクター﹂へspindOCtOr︶
ロイド・ジョージ自由党との連立が瓦解した際に、党首を辞任せざるを得な︿なった。ただし、第一次大戦後の特殊な時期で
あり、現在の二大政党を中心とした競争とは異なる。また、総選挙も経ていないということで、ヘイグとは大きく状況が異な
る。But−ered.︵忘詔=∼九八〇︶。
活躍に見られるような政治のメディア化・プロフェッショナル化が進んでいる状況で、コアメンバーの減少をそこまで気にす
︵2︶ ただし。階級構造・階級投票の弛緩によるヴォラティリティ ︵言−atェity︶
る必要はあるのか、という疑問はある。私見では、キッチュルトの枠組みほ、新しい社会運動と左異リバタリアン政党の登場
した文脈に大き︿規定されていると思われる。
︵N冨−︶
︵3︶ 保守党および労働党の党組織改革についての理論的なパースペクティヴを提供し、それを﹁人民投票的政党化﹂として把握
するものとして、阪野 ︵二〇〇二。
︵4︶ そのほか ﹁ヨーロッパ化﹂概念の精緻化を試みたものとして、Radae≡
︵一九九六︶
︵二〇〇一︶
︵5︶ サッチャー期以後のイギリスにおいて、ヨーロッパとの関係をめぐる意見対立が政党間競争において整合的な形で表現され
︵N冨−︶、力久
ていないために、ヨーロッパ問題に対する民主的統制を難しくしていることを指摘したものに池本
に﹁保守党ネットワーク﹂
︵7︶ サッチャー政権以外の時期においては、人種政策を委任された地方政府のもとで、反人梗主義政策は大きな成果を上げたと
︵6︶ 労働党内でも、EUとの関係をめぐる問題がないわけではない。BrOad
︵GarbayeN書○︶。
保守党中央事務局︵theCeコtra−Office︶
いわれる
などがおかれ、マイノリティ党員の拡張を担った。また、二〇〇〇年党大会では、右派サッチャー主義者のバーコウ︵JOFコBer︹OW︶
︵8︶
ですら、ナショナリズム・孤立主義レトリックの行き過ぎを指摘し、無人・アジア人の支持を調達する努力が不足しているこ
﹁ネイションフッドの政治﹂に含まれている
とを憂える演説を行った。≡Weha<efai−edethnicヨinOrities∵COnSe∃ati完COnference㌧、The、riヨeS∴童芦−戸山.
とも考えられるが、宗教、女性、性の問題などはその中に収まりきれないため、リンチの枠組にそのままのかたちで依拠する
︵9︶ 本稿の対象とするヘイグ党首期の保守党が中心においた政策の多くはリンチの
609 ポスト・サッチャリズムの政治
明確にするにはそういう分類が重要になると考えられるが、ここではよりシンプルに﹁ヨーロッパ懐疑派﹂︵theE亡rOSCeptics︶
ことは避けたい。また、ヨーロッパ統合に対する態度に関しては、より細かく分類する立場もあり、それぞれの議論の内容を
およびLeOnardandLeOコard︵N00N︶
が参考になるり
と﹁親ヨーロッパ派﹂ ︵thePr?E亡rOpeanS︶ にT一分する。詳細な分類に関しては、pi−kingtOコ︵N書−こ害⊥︶を参照。さまぎ
まなヨーロッパ懐疑論・支持論の概観には、HO−ヨeSed.︵N00N︶
ここではギャンブル ︵Gamb−e忘澄︶らの性格付けにならって、サッチャー主義︵もしくはサッチャリズム、Thatcherisヨ︶
実際は﹁イギリス﹂というよりは﹁イングランド﹂と呼ぶのが適当であろう。
︵二〇〇一︶
に詳しい。
在感の回復を強力に追求する外交政策、両者を追求する際の非妥協的な政治姿勢、伝統的な家族的価値観に基づいた社会観な
を、自由市場中心主義イデオロギーに基づき国家介入を排し小きな国家を志向する経済政策と、イギリスの国益と世界的な存
サッチャー政権におけるヨーロッパをめぐる保守党内の対立は、前掲池本
どの諸要素が混在したものとする。
︵−篭ご、Heath
は大敗のあおりを喰って落選していたり
などり
▼NOrrisandGa<in︵edsし
一九九七年選挙キャンペーンについては、JOneS︵−漂う、creweet.a−.︵−婆誓
一九九七年給選挙については、Kinget.a−.︵−豊∞︶一NOrrisandEくanS︵−遠望
︵二〇〇一︶。
threatened
by
new
TO苛re言−t㌔E−ectrOnic
影の内閣メンバーは、ピーター・りり−︵影の蔵
など、右派∵ヨ一口ソ
Te−egraph−−双岩∵∽﹁N︼.∴.MP denO亡nCeS Hague refOrヨS aS
一二三
︵20︶=TOryMPcOnSidereddefectingO完rEMU㍉,E−ectrOnic↓e−egraphこ転写∵;∴岩−翌六月に離党、労働党へ。二〇〇一年
野
扇ta−inist㌔E−ectrロコicTe−egraph﹂軍〓〓芦㍉TOriesbackHague、srefOrmS㌧E−ectrOnicTe−egraph﹂疫芦−Pり∴前掲阪
︵19︶=Hague
紆COmpany︶ 時代の同僚であり、党組織にビジネスの流儀を徹底させることを期待されていた。
︵18︶ ノーマンほ、スーパーマーケット・チェーンのアスタ︵ASDA︶ の会長であるとともに、ヘイグのマッキンゼー︵McKinsey
Hague㌧﹀E訂ctrOnicTe−egraph﹂嚢芦 − P − 〇 .
︵17︶。Ha讐ejOinscarni昌〓neffOユtOb00Stpartyimage︼。E−ectrOnicTe−egraph−Nミ○∞\︻遥↓∵=New−TOriesarecaring−SayS
パ懐疑派が多かった。
相︶、マイケル・ハワード ︵影の外相︶、ステイーヴン・ドレル ︵StephenDOrre〓、影の教育■雇用相︶
LilleytOreWriteTO苛PartypO−icy㌔E−ectrOコicTe−egraph㍍N\芸\−諾う
︵16︶。Hag亡ebringsbackParkins昌t00完rSeepartyShake占p㍉E−ectrOコic↓e−e叫raph㍍−\宗\−苫↓および。Hag亡edraftsin
︵15︶ 右派を統べるべきポーティロ ︵Michae−Denzi−㍍aまerPOrti〓○︶
et.巴.︵N茎−︶−WOrCeSterandMOrtiヨOre︵−遠望−Creweet一a︼.︵−諾竺
141312
岡 法(51−3)610
〓一四
=HagueisshakenbynewEMUresignatiOn㌔E−ectrOnicTe−egraph﹂汝芦﹂−tN.
叙酌され労働党上院議員となるG
。Hagueca〓sEurOba〓OttOendfeud㍉E−ectrOnicTelegraph﹂篭00.P00.∴hHaguewiコS監pc∃teOコtheeurO㍉E︼ectrOnic
Te−egraph﹂若∞﹂P書Nad−er︵N害○︰N缶空。また、この党大会を期にパーキンソン卿が党幹事長を辞任、後任は副幹事長
。Rebe︼↓Ories︿cOu−dwiコEurOSeatS㍉E−ectrOコicTe−egraph﹂諾∽.N﹂リ
だったアンクラム。
HagueOnSteユing㍉E−ectrOコic
Te−egraph﹂豊平︺.N00.
=HaguethreatenstOeバロe︼C︼arke︶。E−ectrOnicTe︼egraph﹂芸P∽.い.
。Scepticsattack
。NewCOnSe∃atiくeSareCOmpaSSiOnateparty一SaySHague㌔ElectrOnicTe−egraph一−双岩.NJP
。T訂︼etO−etgCandヨ○扁On−SayS Haguea二a亡コChOfゴew−TOries㌔E−ectrOnic↓e︼egraph﹂遥¢.UJN.
︵N害−︰告・山︶
∴−Haguecriticresignsaftereヨai−huコteHpOSeS−eak㍉ElectrOコi︹↓e−egraphこ綾芦ふ.N∞.
。u〓eyurgespriくatisatiOnrethiコk㍉E−ectrOコicTe−egraph﹂変声ム∴芯
=Innercirc−eshie︼dsHaguefrOmRightwing㌔E︼ectrOnic↓e−egraph﹂睦送.心一N︼.ヘイグ側近のフィンケルスタイン︵Danコy
Wa︼ters
JOneS︵NO≡︰−∞u︶
︵theScOtt︼andPaユiaヨent︶議員選挙を含むし
reCOくery㍉−E−ectrOnic↓e︼egraph﹂毎送.∽.り
backs
sOCia−ist
E亡rOpe
aS
Hague
targets the scepticくOte㍉E−ectrOnic
∴■Haguejubこantas言terSdesertLabOur㌔E︼ectrOnic↓e︼egraphL涙声P−㌣。Haguespe〓sOuthis
を模索していた。これは保守党のヨーロッパ議月にとって受け入れられる方針ではなかった。。Haguespe〓sOuthiswinコing
へ37︶ このころヘイグは、ヨーロッパ懐疑派からの圧力もあり、ヨーロッパ譲合においてEPPと手を切り、ゴリストらとの連合
WiココingfOrヨu︻a㌧E−ectrOnicTe︼ e g r a p h ﹂ 涙 声 P ︻ P
︵36︶
Te−egraph﹂嚢声∽﹂声∴虚−airfightstOkeepeur00utOfthepO〓debate一.﹀E−ectrOnic↓e︼egraph﹂遥PPヤ
E︼ectrOnic↓e︼egraph−−若やu.−N. ∴ 虚 − a i r
。HaguesetssightsOn旨eE亡r?SCeptic言te㍉E−ectrOnic↓e−egraph﹂岩PⅥ﹂P。TOryp−edgetOCutEUcOntributiOn︼
前述のステイーヴンス、ドネリーを中心に結成された。多くの候補を擁したが結局一議席も奪うことが出来なかった‖
=Gainsput↓OriesOn−OngrOadtO
ウエールズ議会 ︵theW巴esAsseヨb−y︶ 及びスコットランド議会
。WiddecOヨbetObeヨainwiコnerin Haguereshu塁e。−E︼ectrOコicTe−egraphL嚢準∴.ゾ
rebe︼sarecOコ完コientscapegOatS㌔E−ectrOnicTe−egraph﹂疫芦ム∴ぢ
Fiコke−steiコ︶、クーパー︵AndrewC00Per︶、ナイ︵RickNye︶らが一几社会民主党員であったことも攻撃の対象となったら。SDP
30 29 28 27 26 25 24 23
35 34 33 32 31
引lポスト・サッチャリズムの政治
fOrmu−a−。E︼ectrOnic Te−egraph﹂ま戸P−p
Te−egrapF−岩¢.00.N.
Te−egraph﹂憲p00.ぴ.
−ゴese−tinejOinsB−airガbatt−efOrSing−ecurrenny㌔E■ectrCnic
。Ha警efa︹eSC−ash with正巳remist.EUgrOup∴−E−ectrOnic
=Hague︼eadsasy−umattackinsコubtOWiddecOヨbe㌔E−ectrOninTe︼egraph一−岩¢.∞∴芦∴云aguetakeshardstanceOn
d2gS㍉E−ectrOnic Te︼egrap7忘悪ふ二.
terms∴E−ectrOnic
Te−egraph﹂憲¢.芦㌣二人の回顧録は、LamOnt︵−道草MajOr
Te−egraph﹂鐘声]声u.
。POrti〓○︰︷Iwasgay inヨーノ1yOuth㌔E訂c︵rOnicTe−egraphL石器二㌣P
。Haguemaygi完e−ect訂np−edge︻OCuニOpta只rate㍉E−ectrOnicTe−egraph﹂涙声p−∽.
−Map 訂 s 書 W S t O r e W r i t e E U
︵−若里.
Te︻egraph﹂綾挙﹂声↓
Te︼egraph﹂嚢革−P↓.
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=HijackedbyHrOnLady﹀sagenda㍉E︼ectrOnic
︵DamiaコGreen︶と党の長老格であ
=FOm︼erヨinisterswarnagains二urchtORight㌧.E−ectrOnic
は、トーリー改革グループのパンフレット﹁バランスの回復﹂において、労働党の﹁第三の道﹂が
Kent︵−志望。こうした穏健派の提言は継続して行われていた。閣僚でもあるグリーン
させることを 訴 え た
︵GreenandTay−OrN重○︶︺
の伝統に立ち返り、公共セクタと私的セクタのバランス、
。HaguebegiコSれDOnごmentiOntheeurO−。、BBCNews﹂綾挙−P−ヤ
︵the
LOCa−GO完rnヨent
Act−麗至
ア一子ャーは翌年偽証罪で有罪を宣告され、党を五年間除名された。アーチャーについては、crick︵N書○︶
の第二項 ︵政治的宣伝の禁
に続いて挿入される。﹁2A・仙地方政府は以下のことをなしてはならない。回ホモセクシュアリティの宣伝もし︿はホモ
地方政府法 第 2 8 項 川 以 下 の 条 項 が 一 九 八 六 年 地 方 政 府 法
一二五
PaユiaヨentWOユdWideWebSer<ice一http︰\\www.par−iament.the女atiOコery・〇ffice一COヒk︶.
う宣伝してはならないご一九八八年に導入され、労働党が新しい地方政府法案による廃止を主張していた二theUnitedKingdOm
セクシュアリティの宣伝を意図した出版物の出版㈲公教育において、疑似家族関係としてホモセクシュアリティを受容するよ
止︶
を参照。
個人の自由と集団的責任のバランス、ビジネスの促進と企業の責任のバランス、多様性の維持と子供の安全のバランスを回復
年代に達成で き た こ と で あ る と し 、 現 在 は ﹁ ワ ン ︰ 不 − シ ョ ン 主 義 ﹂
行き詰まっているときこそ、社会的に包括的な政策を望む世論のムードに対応し、伝統的保守主義こそがこれに対応し得るこ
とを再確認させる必要を訴えた。サッチャーが社会主義に対抗して個人主義を強調したことは重要だが、その目的は概ね八〇
るテイラー︵ l a n T a y − O r ︶
47 46 45 44 43 42 41 40 39 38
開 法(5l−3)612
sacked
by
pager㌧﹀E−ectrOnic
一l一六
Te−egraph﹂娠芦−N.A.その他、ウッドワードの個人Webサイト ︵http‖\\
www.shauコW吉dward.cOヨ︶、特にBiOgraphy.SpeechesのSectiOコN加の項を参照。
︵51︶。WOC d w a r d
TOries O く e r ゴ O m O P h O b i n J O W ㌔ E l e c t r O コ i c
Telegraph﹂垣革−N.サ
︵52︶。TOriesdespairasぎck−ess−‡aguesuffersanOtherb︼OW㍉E−ectrOni︹Te−egraph﹂嚢芦−N.NP㍉エagueisattackedby
c−ash On
が辞任し、
︵開︶。T〇riesas紹nJb−etax﹀旨inktank㌧﹀ElectrOnicTe−egraphL蓬¢﹂N.N∽.ただし、この試みはすぐに重大な問題に突き当た
Te︼egraphL童芦−.N.
gurus
った。設置するやいなや、メディア王ルパート÷−ドックのアドヴァイザーでもあるステルザー︵IrwinSte︼Ner︶
pO−icy−。E−ectrOコic
議論に入ると今度はコングドン教授とミンフォード教授が、経済状況の認識をめぐって村立したり。P︷aude一s
ポーティロ自身は、彼自身の変化に対応した教育もし︿は医療の仕事を望んでいたとされる。また、当初モードも更迭され
︵54︶=↓Oriesp訂コれ旨nwe−farecutstOeaSetaXburden㌔E−ectrOコic↓e−egraph﹂嚢挙−N∴芦
る予定であり、これを閣内に留めたのはポーティロであるり、本来サッチャー主義的であった彼は、解任寸前になったことに
︵55︶
N﹂㌣。Partyinfightingharヨーng↓OriesISaySRedw00d一。E−ectrOnicTe︼egraph㍍害P NJ〇.
ょりポティロに接近したといわれる。wa︼ters︵N害−こ†N軍。SackedMap︼eshitsbackat已ague㌔E訂ctrOnicTe−egraph−
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︵56︶=POrtillOU⊥urnOnBankaコdtheヨinimuヨWage㌧E−ectrOコicTe−egraph㍍書〇.N.ヂ=POrtiニ〇Chartsh訂OWnCOurSe
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○くerTOry呵uaranteeStO CuttaXburdeコ∵E︼ectr〇コic
。Hague iコCa〓tO detain i〓ega−ヨigrants∴“E−ectrOnic
Telegraph∴萱亭ム∴挙
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Te−egraph一N茎P凪.Nの.
Carter︵N害至り
︵65︶.−LabOu二eadcutbyHague﹀sattacks∵E−ectrOコicTe訂graph一N茎P㌢〓.
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一九九九 年 自 由 民 主 党 党 首 選 に 関 し て は 、 A − d e r m a n a n d
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613 ポスト・サッチャリズムの政治
Te︻egraph︼N茎PP−サ
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Charge d ㌔ N 書 P ∽ ﹂ P
▲己aguetOCOnSider﹀Christianwe−fare㌧=E︼ectrOコicTelegraphlN茎〇.PNPオラスキーの思想については、○−asky︵N書○︶。
。TOriespickupthescent OfLabO亡rゴanic㍉E︼ectrOnic
はこれをイギリスの文脈にあわせていくらか受け入れられやすいようにアレンジしようとしたものと思われるむ
オラスキーの思想自体は聖書原理主義的で、女性差別・ホモセクシュアルに対する偏見や差別に満ちたものであるが、ヘイグ
︵69︶
減税規模はT一〇〇〇年末に向けて﹁八〇億ポンド﹂に具体化きれていく。。HaguetOp−edgeれ∞bninta舛C亡tS㌔E︼ectrOnic
ヨeヨ○−eak㌔E−ectrロコic Te−e讐aph、N富戸リーリ
︵71︶
︵70︶
Te︼egraph−N害O﹂コ.A.
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ポーティ口演説=LabO亡rha完hithardwロrkiコgfaヨi−ies㌔COコSerくati完PartyCOnferenceN葦戸−〇.︺.
E−ectrOコic
ウィデコム演説h.NerOtO−eranceOndrugs㌧︼COコSerくati完PartyCOnferenceNO芦芦瓜.∴↓OryCraCkdOWnOnCaコnabis∴.
Party︵N含○︶.
ヘイグの演説。WeイereadytOgOくernfOra〓thepeOpF。COn汚rくatiくePartyCOnference㍍芸OJ〇.ひ.TheCOnSerくatiくe
Te︼egraph、N害戸−N.︺.=HaguetOp−edgeれ筈ninta舛CutS㌧1E−ectrOコicTelegraph−N害戸−N一︺.
︵72︶
︵73︶
︵74︶
N︼含P、.E−ectrOnic↓e−egraph∴萎音∵;.リー↓OpTOriesadヨi=OSn岩kingcaコnabis㍉ElectrOnicTe−egraph㌔茎OJP∞.
︵75︶
︵COn汚rくatiくeSAgainstaFedera−E亡rOpe︶
とも関係が深い。フォースも強硬な反ヨーロッパ派である。
ノー・ターニング・バックは、タンカン・スミス指導部内にも会員が多い反EU圧力団体﹁連邦ヨーロッパに反対する保守
=POユiHO︰ldOnJwanttObeleader㍉E−ectrOnicTe−egraph㍍害P〓.NP。NighttheRighthadPOユi〓OfOrdiコner−。The
主義者﹂
︵76︶
︵77︶
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︵78︶
に壬、.
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一二七
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︵79︶
一二八
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ヘイグ演説springFOruヨSpeech−N重−.u.血.。HagueinretreatOくerta︼kOf▲︻Oreign−aコd㌧垣ectrOnic↓e−egraph﹀NO芦
ヘイグ演説∴−COヨヨ○コSenseOコCriヨe㍉theSpeechtOtheCeコtrefOrPO−icyStueies−LOndOn㍍書P−N﹂サ
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スコットランド、ブラッドフォードでも同様の協定が結ばれた。
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︵80︶
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party−eaders
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︵81︶
︵82︶
︵83︶
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Te︼egraph一N00−.Ⅵ.−↓.=PrescO︷t
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︵84︶
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︵85︶
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Te−egraph一N害−.料.NP
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を参照。
︵86︶
Wa−ters︵NO≡こ畠︶∴−POrti〓○︼eadsreく○−tOくerraCep−edge㌔E−ectrOnicTe︼egraph、N芸−.凪.N−.
Hague︶=ElectrOコic
︵87︶
クックはタウネンドの琴言に代表される保守党の牲民政策における右翼的傾向を批判して、経済移民はイギりスの世界的発
表を停止された八人の一人であった﹁、その反対投票の数はトップクラスである。GOrヨan︵−漂空
︵88︶
展の結果であるとともに必要条件であると論じ、ティッカ・マサラも今やイギリスの国民的料理である、と述べたごーCOekargues
︵89︶
N茎−.
ga〓On㍉E︼ectr呂icTe−egraph−N茎−.㌢−P
Te︼egraph一N芸−.㌢−¶.
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。TOries一読pireごOCutta莞SbeyOnd︷heれ等nprOヨise㍉NO芦P−P発言の主は財政担当大臣のレトウインであることが
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fOriヨm−gratiOniコt〇.tikkaヨa玖a︼a Britaiコ。∵E︼ectrOnicTe−egraph﹀N00−.サーP
︵95︶
明らかになった。
94 93 92 9190
引5 ポスト・サッチャリズムの政治
︵冊︶
︵101︶
︵102︶
︵103︶
︵104︶
aspO〓sfai〓OShift∴、E訂ctrOnic↓e−egraph一N書−.∽.NP
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ヘイグの演説=望airwOn−︵waiニOSCrapthePOund−。speechattheMaコCheste二a〓y.㍍害−.∽.Nひ.
甘nes︵N芸︼こ諾﹂NO巴−。Leade二aughsOff↓hatcher㌦■ne完rごOeurO㌧︼E−ectrOnicTe訂graph▼NO≡一∽.NA.
ヘイグの演説。Iwi〓gi扁yOubackyO亡rCOuntry㍉speenhattheBrightOnra寺∴−れ裟bncOStingmaybeinaccurate∴
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↓hatcher、Margaret−。↓OnyB−airisnOmmittedtOthee已iコCtiOnOfBritain㍉E−ectrOnicTe−egraph一N書−.P−.
JOneS︵NO≡︰NN千︺︺︶。Haguefacespartyback−ashO扁reurOCampaign㍉E−ectrOnic↓e−egraph﹀N言−.P芦
戦術的投票については、NOrユset.a︼.︵−苫00︶。
︵tactica︼くOtiコg︶、選挙区の有権者数の不
ただし、労働党の得票率は四〇・七%は、議席の差は小さかったサッチャー・メイジャI期の保守党より劣る。﹁ファースト・
︵NOrrisN芸−︶
バスト・ザ・ポスト﹂によるバイアスは、政党支持の分散、反保守党の戦術的投票
本稿では、詳細な選挙分析を行うことはせず、ヘイグ指導部の採った戦略に関する部分のみを分析する。
均衡などの要因で大きくなっている
。We﹂〓a舛andspend−prOmisesKeココedy㍉ElectrOnic↓e−egraph﹀N書−.の.の.
キャンペーンを主導したランスレーとコリンズ︵↓imCO≡コS︶は、クラークらの批判に反論し、議席は確かにあまり回復し
この時点で既にヨーロッパ懐疑派と親ヨーロッパ派の闘いは始まっていたっ
E−ectrOnic↓e−e雪aph、N茎−.P−A.
afOundati昌fOrthefuture㌧1
スパイサーはマーストリヒト条約に対する叛乱
二一九
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OコRight
chOice㌧−E−ectrOnic
はのちにクラークを支持した親ヨーロッパ
futureヨay
に加わったヨーロッパ懐疑派であり、対立候補のシェパード ︵Gi≡anShephard︶
派だったためであるっ党内の右派が三月から擁立を決めていたり=Hagtle︼s
︵10g︶
復活する堅固な基盤を据えた、とした。Andrew Lans−ey andTimCO≡ns∴WenOWhaくe
る公約を守らなかったことを攻撃していたにもかかわらず、労働党のリードは変化しなかったとして、ヘイグ時代は保守党が
ヴィスに関してもっと主張するべきだったといわれるが、二〇〇一年初めから三月にかけて、ブレアが公共サーヴィスに関す
ン後半に、単一通貨の問題を前面に出したのも、七〇%の有権者が支持しているイシューは他になく、正当だった。公共サー
なかったが、自分たちの政策やキャンペーンの方向性は間違っていなかった、と弁明した。ヘイグやポーティロがキャンペー
︵105︶
E−entrOnic↓e−egraph−NO≡.㌢NP
︵99︶
Thatcher・P−yヨOuthRa〓y∴﹀N芸−.P
98 97 96
岡 法(51二i)616
︵110︶
︵111︶
︵112︶
︵113︶
︵Ⅲ︶
︵115︶
︵116︶
︵117︶
︵m︶
︵119︶
︵12D︶
︵m︶
一三〇
↓e−egraph▼N芸−.∽.リスパィサについてはSpicer︵−憲N︶シ
、ェパードについては、shephard︵N書−︶
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NewsOn−ine﹀N茎−.P∽.
選出
︵http︰\\www.par−iaヨeコt.the・
︵ChingfOrdaコdW00dfOrdGreen︶
。PO〓shOWSEur〇peisthemainissuefOrCOnSer£tives㍉E︼ectrOnicTe−egraph㍍童−.∞.NP
∞BC
へのいっそうの屈服をもたらすものと批判し、
現在では区割り変更によりナングフォード・アンド・ウッドフォード・グリーン
彼の処女演説は、ノイジャー政権のヨ∼ロッパ政策をヨーロッパ 〝超国家〟
議員。
︵122︶
︵123︶
statiOnery〇ffice.cOヒk\pa\cヨ\cヨhansrd.ht旦.Brandreth︵−浩再−宗︶.
物議を醸した。cOヨヨOnS Hansard−HOuSeOfCOmmOnSDebatesCO−uヨn∽岸−憲ド∽∴g
。Rebe−㌦ユsetOthetOp㌧、BBCNEWSOn−ineN含−.P−︺.
の会長
Te−egraph、N芸−.¢.N.
︵theEurOpeFOundati昌︶
。D亡nCanSヨithsigコa−sU⊥亡rnOnSectiOnN∞andcaコnabis−aw一、−E−e︹trOnic
キャッシュはイギリスのEUからの脱退を主張する﹁ヨーロッパ・ファウンデーション﹂
。GapsinDuコCanSmithteamre完a−riftsintheparty㌧TheObser完r㍍害−.¢﹂ヂ=DisruptiくeMPgiくen︼astpOStin
であり、マーストリヒト条約への反対でノイジャーを悩ませた一人である。
︵125︶
︵124︶
︵126︶
︵127︶
。RightwingRObertsOngetSjOb OnneWTOryfrOntbench∵↓heG亡ardian亡nlimited−N茎−.乎−P
Un−imited㌔含−.P−∞.
ShadOWCabinet∵↓heGuardian亡コーimitedN書−一¢﹂リ=DuncanSmithdefendsfrOコtbenchappOintmeコtS㌧、TheG亡ardiaコ
︵128︶
617 ポスト・サッチャリズムの政治
イデオロギー性が強く、保守党の生存と成功が自己規律に依存して
が欲求不満によって
を回顧している。MajOr︵−父這︰U彗︶。ただし、メイジャーの﹁持たぎるもの﹂
−
ジョン・メイジャー元首相も、九二年選挙で引退したなかには親ヨーロッパ派が多く、代わりに下院に入ったのはヨーロッ
−
パ懐疑派だっ た こ と 、 七 九 年 と 九 二 年 の 雰 囲 気 の 変 化
︵129︶
いることを理 解 し な い も の が 増 え た こ と
︵更迭されたもと大臣クラスや、長期政権下で政府の役職を得られなかったバックベンチャーたち︶
は否定的である。その他保守党月のイデオロギー的傾向やヨー
たち
反乱を主導したという見解に、RObertsOnandHague︵−若00︶
Un︼imited−N茎−﹂O﹂ヂ。Pr?EurOpean↓Ories JOin Lib Dems∴
など。
Un︼imited,N芸−﹂NJP
anti・inte〓ectua︼EurOphObes㌔Guardian
ロッパへの支持については、弓hite︼eyet.a−.︵−淫全−Lud−um︵−諾∞︶
Guardia n
︵川︶=↓hey イ e
一三一
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