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磯部 恵津子 - アイヌ文化振興・研究推進機構

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磯部 恵津子 - アイヌ文化振興・研究推進機構
「アイヌ民族に生まれて」磯部恵津子
アイヌ民族に生まれて
9 月 8 日(木)18:00∼19:30 東京会場
講師
磯部 恵津子
白糠アイヌ文化保存会会長
葉で叱られました。子供はアイヌ語を覚えたらだめだ。和
人にばかにされるから、学校へ行って勉強しろというよう
なことを強い口調で言われました。決して私の前ではアイ
ヌ語を使わなかったのです。明治政府の同化政策で、アイ
ヌ語を話してはいけない、アイヌプリもだめだと言われ、
とても悲しい思いをして日本語を覚えたのだろうと思いま
す。たまにアイヌの友人が来たときはひそひそ声で話をし
て、ときどき大きな声で笑うのです。いまの言い方でいう
と祖母はバイリンガルだったと思います。
今現在、75 歳以上の人たちでエカシやフチと暮らしたこ
とのある人たちは、…エカシやフチというのはお年寄りの
ことです。
アイヌ語を理解できる人が結構いると思います。
白糠でアイヌ語教室の講師をしている増野先生もその一人
です。増野先生に「ばあさんはアイヌ語でしゃべってくれ
なかったのか」
と聞かれ、
「片言の日本語で話をしていただ
けなの」と答えたら、
「そうか、今になってみたらもったい
ないな。あのころは今のようにアイヌ語が大切だとは思わ
なかったもんな」と言われました。
小学校へ入学して友達もできて、毎日学校へ行くのが楽
しみでした。ある日、身体検査があり上半身裸で一列に並
んでいました。友人だと思っていた人たちが私の周りから
離れていきました。指をさして笑ったり、小声で悪口を言
っているのです。外で遊んでいるときも、一、二の三で、
5人なら5人、3人なら3人がぱーっと手をつなぎ輪にな
るゲームのような遊びがあったのですが、私はいつも1人
取り残されました。家に帰って祖母にも母にも父にも言え
ず、だんだん学校に行くのが嫌になりました。おなかが痛
いとうそを言って学校を休みました。
毎日毎日そうでした。
今で言う登校拒否だったと思います。
祖母は私を大変かわいがり、優しくていつも笑っている
とてもいい子だとほめてくれました。
夏のすごく暑い日に長袖のブラウスを着て汗をかいてい
たら、母に半袖のブラウスを着なさいと言われ、絶対に嫌
だと言って母の顔を見たら、一瞬悲しそうな顔をして、す
ぐに怒られました。「いつまでもそうしてはいられない
イランカラプテ。
クアニ アナクネ シラリカコタン ワ ク=エク 磯
部恵津子 アニ ク=レヘ アン。タント アナクネ ポ
ロンノ アウタリ ウイカリ ワ ウコイタク エアシカ
イ ワクス、 シーノ ヤイレンカ ルウェ ネ。アウタリ
オピッタ ヌヤン。
ただいま私はアイヌ語であいさつをいたしました。和訳
いたしますと、私は白糠町から来ました磯部恵津子という
名の者です。きょうはたくさんの仲間が集まってともに話
すことができるので、本当に私はうれしいです。我が仲間
の皆さん、聞いてくださいと言いました。
本日、私がお話しすることは、アイヌに生まれてどのよ
うに生きてきたか、順を追ってお話ししていきたいと思い
ます。アイヌ、また、アイヌ民族とはどんな民族なのか、
私なりに感じたままお話しさせていただきます。
私は 1949 年7月 18 日、父、土井政吉、母、土井カヨの
次女として白糠町に生まれました。白糠町は北海道でも東
の方に位置していて、
釧路の隣町です。
家業は漁師でした。
父も母もアイヌ民族です。私から見た父は、とてもアイヌ
らしいというか、アイヌそのものでした。優しくてシャイ
で、いつもジョークを言って私たち姉妹を笑わせてくれま
した。母はというと、厳しいけれど人情味があり、人の面
倒をよく見る人でした。
私が 3 歳のころから家の隣にポンチセ(小さい家)があ
りまして、アイヌ民族の風習で、子どもは結婚すると隣に
新しい家を建てて独立して住むのですが、そのポンチセが
隣にあって、祖母が一人で住んでいました。私は祖母の係
というか、いつも一緒にいました。祖母の部屋の広さは 8
畳間ぐらいの部屋で、わらが入った分厚い大きな敷き布団
があって、その上に布団を敷いて一緒に寝ていました。薪
ストーブがあり、小さなつば釜でやわらかいご飯を炊き、
たくさんの野菜と魚が入ったチェプオハウという魚汁をつ
くり、父がとってきた小魚を干して焼いていつもおいしい
朝食を食べていました。
昼になると、自分で耕した畑でとれたいもを炊いて、サ
メの油をつけたり、チタタプといって、サケの内臓と頭を
細かくくだいてつくった塩辛のようなものなのですけれど
も、一緒に食べ、春先などはポッチェといって、一冬外で
凍らせたいもを食べさせてくれました。キナござを編んだ
り、縫い物をしたり、畑を耕したり、山へ山菜を採りに行
ったり、アイヌプリ(アイヌの生活習慣)で生活していま
した。
そんなポンチセに祖母の友人が 2、3 人遊びに来て、楽し
そうにアイヌ語でお話をしていました。何を言っているの
か聞こうとすると、日本語とアイヌ語が混じった片言の言
よ。
」
小学校5年生になり、やっと友人ができました。その人
は今でも大切な友達です。
それから中学3年生まで何となく学校へ行きました。勉
強に力を入れるわけでもなくスポーツをするわけでもなく、
中学校を卒業して雑貨店で働きました。
そこはお酒を量り売りで売っているお店で、いわゆるも
っきりというお酒です。小さいカウンターがあって、そこ
で立ったままお酒を一気に飲み干して、
「おい、
もう1杯く
れ、アイヌの姉ちゃん、お前アイヌだべ。字読めるのか」
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「アイヌ民族に生まれて」磯部恵津子
こうと計画を立てました。そうしたら、友人が瀬戸内の小
さな島が自分のふるさとだから行ってみようと言われ、旅
費を計算したら同じぐらいの旅費で北海道に帰ることがで
きたので、北海道へ帰ることにしました。帰ってすぐ阿寒
へ遊びに行きました。そうしたら、また阿寒の友人やたく
さんのアイヌの人たちの中でとても幸せな気分になりまし
た。私はやはりアイヌの中にいることが一番いいなと思っ
て、休みが終わって2カ月くらいまた大阪で働き、北海道
へ帰りました。そして次の年の夏、また阿寒湖へ働きに行
きました。
青春時代を阿寒湖で過ごし、後にアイヌの青年と結婚し
一男をもうけたのですが、生活が貧しくて子育てが思うよ
うにいかず、実家へ戻りました。その次の年の6月、1歳
5カ月で子供が急死してしまいました。何もする事が出来
ずに、ぼーっと毎日を過ごしていました。
それからしばらくして、水産加工場へ働きに行き、そこ
で縁があり夫と結婚し、4人の子供をもうけました。
子供たちが小さいころ、私の母はアイヌ文化を一生懸命
やっていました。着物に刺しゅうをしたりキナござを編ん
だり、文化保存会を立ち上げるのに物すごい努力をして、
あちらこちらと走り回って、阿寒の四宅さんという人にた
どり着き、ウポポやリムセ、踊りや歌を習い、何度も何度
も練習を重ね、四宅さん、弟子シギ子さん、弟子フミさん
という人が白糠まで指導に来てくれました。フンペの踊り
は、…フンペはクジラです。フンペの踊りは白糠の踊りだ
から阿寒では踊らなかったんだよと教えてくれました。そ
して白糠アイヌ文化保存会ができたのです。あのときの母
の頑張りがなければ白糠アイヌ文化保存会はなかったのか
もしれないと私は思っています。
でも、私はそのころ子供たちが小学校へ入学したので、
私のように学校でいじめられないかなと思い、そうなって
はかわいそうだと思って、一時ウポポやリムセをやめまし
た。子供たちが学校を卒業すると同時にまた保存会に入り
ました。
母が 50 歳近くでアイヌ文化保存会を立ち上げ、満 62 歳
で亡くなるまで保存会のことを一生懸命やりました。その
ときの母と同じ年代になり、どんな思いでアイヌ文化を伝
承していたのかよくわかるようになりました。子供のころ
はあんなに嫌だったアイヌのこと、今ではアイヌ民族であ
ることに誇りを持てるようになりました。我々の祖先はす
ばらしい文化を残してくれたと感謝して、伝承することが
私たちの役割だと思っています。今、私はアイヌ語を習っ
ています。頭が悪いのですぐ忘れたりしますが、長く続け
たいと思います。
昨年、アイヌ語の弁論大会「イタカンロー」で、優秀賞
をいただきました。その内容を皆様に聞いていただきたい
と思います。
と聞かれ、だんだん嫌になり、1年くらい勤めて実家に帰
ってきました。
5月になって姉から阿寒湖へ働きに行こうと言われ、一
緒に行きました。そうしたら、私は驚きました。私の一番
嫌いな言葉、アイヌ、アイヌと一日に何回も何回も聞くの
です。
それでも観光地の民芸品店の店員として働きました。
姉は1年早く行っているものだから、すごく慣れていて、
アイヌ衣装もすごく似合って、お客さんからピリカメノコ
(美しい女性)と言われ、私は引き立て役でした。
それでも私は阿寒湖でアイヌの人たちと一緒に働き、ア
イヌの中にいることがとても居心地がよかったのです。い
ろいろなことを教わり、アイヌの人たちと一緒に働いてア
イヌ文化っていいなと思うようになりました。そして、秋
になって観光シーズンも終わり、また実家へ帰って家の手
伝いや水産加工場で働いていました。
お正月に、近所に幼なじみの一つ年上の女の人がいて、
その人は大阪の紡績工場で働いていて、一緒に大阪で働い
てみないかと言われ、すぐに行くことを決めました。汽車
に乗って2日がかりで大阪へ着きました。会社はとても大
きな会社で、じゅうたん、カーペット、特急列車のいすカ
バーとか皇室に敷くじゅうたん、国会議事堂のじゅうたん
などを織っていました。とても大きな寮で、150 名ぐらい
入る寮が3つ、4つありました。
1月に行って、冬はすごく寒くて早く春が来ないかなと
思っていたら、あっという間に5月1日、メーデーに参加
しました。5月なのにこんなに暑いのかとびっくりしまし
た。そうして、夏になるともう暑くて暑くて大変でした。
仕事に慣れてきたころ、いろいろなサークルがあり、何
かしてみなさいと先輩に言われ、フォークダンスのサーク
ルに入りました。寮の屋上で月に2、3回行われます。そ
こで1人の先輩に「お前は何者だ」と聞かれ、びっくりし
ました。
「何ですか」と聞くと、指を4本立てて「これか」
と聞くのです。私は意味がわからなくて「わからない」と
答えたら「どこから来た」と聞かれ、
「北海道から来たアイ
ヌ民族です」と言ったのです。阿寒湖で働いていて、私は
アイヌだということに少し慣れていたものだから、そうし
たら「えー」とびっくりして、今度は「わー、うれしい。
アイヌの人に会った」と言って喜んでくれたのです。私は
自分からアイヌだと言って他人から喜ばれたのは初めてで
す。いつもアイヌには触れないようにして生活してきたの
に、大阪ではすぐ私はアイヌだよと言えました。そして、
その先輩とは友達になりました。
少したってから、
私はその先輩に聞きました。
「私に一番
先に話しかけてくれたとき、指を4本立ててこれかと聞い
たでしょう。あれは何なのですか」と聞きました。そうし
たら、
「ああ、よつとか穢多とか言うんだよ」と嫌な顔つき
で「あいつらとはつき合うな」と言われ、私は何なのかさ
っぱりわかりませんでした。私は小さいころからアイヌ、
アイヌとばかにされ、差別されて生きてきたので、差別さ
れ疎外されている彼らを見ているのがつらくて、同じ立場
かなと思い、考えさせられました。
お盆になって 10 日くらい休みがあって、
どこか旅行に行
<原稿朗読>「ク・コロ アイヌイタク(私のアイヌ語)
」
第 8 回アイヌ語弁論大会報告集(2005 年 2 月、財団法人アイ
ヌ文化振興研究機構)
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「アイヌ民族に生まれて」磯部恵津子
いように伝承していきたいと思っています。勉強していく
たびに、つくづくアイヌ文化ってすばらしい文化だなと思
います。アイヌ文化は、アイヌ民族は決して劣った民族で
はなく、世界有数、まれにみる優しい民族であると、何か
の本で読みました。子供のころからずっと嫌だったアイヌ
として生まれたことが、今では心からアイヌに生まれてよ
かったと思っております。
本日おいでくださいました皆様に少しでも私のこと、ア
イヌのことが伝わったらうれしいなと思います。
ここで、少しムックリの演奏をしたいと思いますので、
ちょっとお時間ください。
ムックリを弾かれたことがある方いらっしゃいますか。
初めて弾かれる方のために、竹のつるつるとした面を自分
の方に向けます。この輪の方を左手で持ちます。小指にか
けてしっかりと固定させます。これでドアをノックするよ
うな感じで、当たったらすぐ戻す、当たったらすぐ戻す。
ここで音が出ないと、口に持っていっても音が出ません。
息を吹きかけると低い音が出ます。口の中で舌を丸めたり
ゆるく息を吹きかけたり強く息を吹きかけたりすることに
よって音が低くなったり高くなったり、いろいろな音色が
出ます。
私もこのムックリを始めてから何年もたってはいないの
ですけれども、私の姉がムックリの会というか、シノッチ
ャの会というのをやっていて、
そこで会長をしております。
今日も、ここに来ているのですけれども、彼女の方がとて
もムックリが上手です。アイヌ文化の先駆者で、常に私を
引きずり回すのです。あっち行こう、こっち行こうって、
ああいうことがあるよ、こういうことがあるよ、こんなこ
としてみなさいと言って、姉はいつも私を引きずり回して
います。
私は今回このように人の前でしゃべるのは初めてなので
すけれども、本当に緊張しています。おなかは臨月のよう
に出ていますけれども、妊娠はしておりません。ちょっと
姉にも弾いていただきたいなと思うのですけれども、すみ
ませんけれど、お願いいたします。
(拍手)
という物語の発表をして優秀賞をいただきました。
この文章やアイヌ語の発音は釧路アイヌ文化懇話会の松
本先生が指導してくださいました。釧路アイヌ文化懇話会
とは、教育者、学校の先生方のOBの方がほとんどで、と
ても熱心な方々ばかりです。心よりアイヌの人たちのこと
を思ってアイヌ文化のことを、言葉や地名研究をされて、
アイヌ文化のことは彼らに聞いた方がすごくわかりやすい
です。私も去年から会員になり、一緒に勉強させてもらっ
ています。
昨年は山本エカシ生誕 100 年の記念誌が発刊され、読ん
だ人から大変喜ばれています。山本エカシは単なる長老で
はなく、民族の誇りを体現し、強い指導力を持った人、民
族の知恵袋でもある道内のアイヌの人たちから真のエカシ
と畏敬されている人です。山本多助の書いた「叙事詩(ユ
ウカラ)
」
の初めに書かれている文の一文にユーカラへの思
いの全てが書き尽くされています。とてもよい文章なので
紹介したいと思います。
アイヌ民族は、自然の子達なのです。自然の恵みに感謝をしな
...
がら自然のおきてに従って自由に生きていたのです。
生活の中心は、山野に出ては狩人で、海に出ては漁労者であり、
採集生活者たちであるのです。自然に生きるという事は、第一に
自然を大切にしなければいけない事であったのです。山野に生き
る鳥や獣類も、海中に生きる魚類でも、山野に繁る草木にも、自
然の物には、これ一切生命がそれぞれあるものだと伝え語ってい
たものです。人間が栄えていくためには、自然と共々栄えていか
なければ、人間はほろび去るものだと言う。寒地寒波のその中で
の自然生活者であったアイヌの人々は、長い間の生活の知恵とし
て、文字こそないのですが、生きる権利や、その歴史や文化及び
いろいろな教訓などを物語によって子孫に伝えるものなのです。
『大自然とアイヌの叙事詩』山本多助、1981 年
と書かれておりました。
私たちの祖先は自由に楽しく暮らしてきました。山へ行
って山菜を刈り、川で魚をとり、動物の肉もとりました。
一度にたくさんはとらずに、後から来る人や動物の分を残
して、必要以上はとらないで、食べるものがなくなってし
まわないようにしていました。私たちが今祖先のアイヌプ
リ、アイヌ文化全体を一生懸命覚えて、なくなることのな
〔髙木喜久恵氏/姉〕
イランカラプテ。
まさかここに出されるとは思わなかったです。本当
は私のムックリはもう大分衰えてきて、姪っ子や甥っ
子とか、私の妹の孫たちの方がずっと上手になってい
ます。教えた私が一番下手なのです。彼女の方が私よ
り上手になってきています。でも、ここで会長なんだ
から弾けと言われると弾かなくてはいかないような気
がして。
<ムックリ演奏>
昔、私が阿寒湖で民芸品店に働いたころに、ずっと
年老いたおばあちゃんがムックリを弾いていて、初め
て見てびっくりしたのですよ。何だろうと思って、竹
でできているというのも知らないで、何だろう、何だ
【 ムックリ 】
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「アイヌ民族に生まれて」磯部恵津子
ムイユカラをやるそうなのです。トゥイタクといって、神
様のではなくて人間の物語、
ペナンペ、
パナンペ物語とか、
基本的にハッピーエンドで終わる物語は子供のために聞か
せるのです。悪い神は戒められる、社会で生きていく上で
の心がけを伝えるものが多いそうです。アイヌの物語はハ
ッピーエンド終わる物語が多いです。
昔、私の祖母は突然、今日からアイヌ語をしゃべっては
いけないと言われて、日本語でしゃべることを大変苦労し
て覚えたと思うのですけれども、そんな中でもちゃんと伝
承して伝えて、今私たちに届いております。私には全然ア
イヌ語を教えてくれなかった祖母が、今生きていたら、私
がこのような着物を着てマタンプシをつけていることにと
っても喜ぶだろうなと思います。そのときに一緒にアイヌ
語を話せたら、どんなに楽しかったかなと思います。アイ
ヌ語は全然まだまだしゃべれませんし、わからない方が多
いのですけれども、これからいっぱい勉強して、神の国に
行って祖母と対話するときにアイヌ語でしゃべりたいなと
いうふうに思っております。
こんなところなのですけれども、何か質問があれば。難
しい質問は避けたいと思います。何か私でもわかるような
質問があればお聞きしたいと思うのですが。
ろうと思って、
そのおばあちゃんに見せてもらったら、
竹でできていて糸がついていて、そのおばあちゃんと
いろいろ話しているうちに、クマの鳴き声とか風の音
とか雨だれの音とか水の流れる音とかやってくれまし
た。私は、初めて聞いたときはみんな同じに聞こえて
わからなかったのですけれども、自分でやっているう
ちに、もしかしてこれが水の音かなと思うのが<ムッ
クリ演奏>とか、雨だれが<ムックリ演奏>とか、こ
れが水の音かなと思って。そのおばあちゃんが<ムッ
クリ演奏>という、私は余り出せないのですけれども、
やっているのが子グマの鳴き声だというんです。<ム
ックリ演奏>、それで、自分がそういうふうに思って
吹くとそういうふうになるからと言うんです。
いまだに、やっぱり風のそよぐ音がこうかなと、自
分でやっています。小学校の子供たちに教えたら、子
供たちの方がずっと上手に出しています。<ムックリ
演奏>
皆さんも鳴らしてみてください。
〔髙木喜久恵氏〕
皆さん上手ですよ。
というわけで、私はこれで失礼します。
(拍手)
〔質問〕 例えば同じ北海道の中で、いろいろ内外からい
らっしゃると思うのですけれども、地域によって
言葉違うのですか。
〔磯部〕 関西弁と東京の言葉が違うように、地域によっ
て違いますね。
〔質問〕 例えば別な地域の人同士がしゃべったら通じな
いぐらいの違いですか。
〔磯部〕 そういうことはない。大体は通じます。大体の
イントネーションというか前後の会話の内容で
わかるのです。ただ、全く違う意味の言葉もあり
ますね。
〔質問〕 1 年前に、新聞で安東ウメ子さんのことが載っ
ていましたけれども、交流はありましたか。
〔磯部〕 隣町に住んでいて、帯広なのですけれども、す
ぐ隣で、演奏は聞いたり会ったりしたことはあり
ますけれども、余りお話ししたことはなかったで
す。とてもすばらしい声で、本当のフチの声なん
ですよね。年とってくるとアイヌの女性はああい
う声になるんです。私もなりたいなと思うんです
けれども、不安です。
ありがとうございました。
私は、今アイヌ語を習っていて、アイヌ語だけでなくユ
カラとか口承文芸も習っております。口承文芸といっても
3 種類ぐらいに分かれていて、大きくは神謡、英雄叙事詩、
散文説話と 3 つのジャンルに分けられています。神謡、カ
ムイの物語は日高とか胆振地方ではカムイユカラといいま
して、他の多くの地方ではオイナと呼ばれています。韻文
で語られ、一つ一つにメロディがあるんです。韻文で語ら
れるのはとても難しいです。私は今、サコロペ、白糠地方
では英雄叙事詩のことをサコロペというのですけれども、
これも韻文で語られ、とても意味が難しいのですが、サコ
ロペの「キツネの妖怪」という物語を習っています。英雄
叙事詩とかカムイのお話は大体が男女の営みから始まると
言われますが、この物語も、キツネに化けた妖怪が、きれ
いなお嫁さんに変身をしてお兄さんをたぶらかしているの
を弟が見つけ、すごく怒って弟は兄に目を覚ませと言うの
ですけれども、兄は目を覚まさない。というところを今習
っていて、先生がそういう状態だということを言うので、
それはどんな状態ですかと聞いたら、わかるでしょう、み
んな大人だからわかるでしょうと、そんなふうに言われる
ぐらい本当にこういうユカラとかサコロペというのは大体
が男女の営みから始まっているということを勉強していま
す。
とても今はサコロペにはヘッチュといって、…サコロペ
とは、節のあるものという意味なのですが、節をつけて物
語を語っていくのに棒、レプニを炉の縁でトントントント
ンいい音を出しながら夜いっぱい語るのです。余り子供が
起きているときではなくて、大人の時間になったらこのカ
では、これで終わらせていただきます。どうも最後まで
聞いてくださいましてありがとうございました。
(拍手)
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「アイヌ民族に生まれて」磯部恵津子
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