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箕作阮甫(1799-1863)の貢献
OKAYAMA University Earth Science Reports, Vol. 16, No. 1, 1-7, (2009) 日本最初の用語「地質学」の成立: 箕作阮甫(1799-1863)の貢献 The first Japanese word “chishitsu-gaku” for the “geology” was proposed by Genpo Mitsukuri (1799-1863) 岡 田 博 有 (Hakuyu OKADA)* 鈴 木 茂 之 (Shigeyuki SUZUKI)** The first Japanese word “chishitsu-gaku” for the “geology” was proposed by Genpo Mitsukuri, a scientific contributor in the Tokugawa regime in the 19th century, who was born in 1799 in Tsuyama in Western Honshu, Japan and had worked for scientific activities of the Tokugawa government from 1839 to 1863. His major works for the first making of the “chishitsu-gaku” for the “geology” have been presented in this paper, also showing his contribution to Japanese sciences. Keywords: Genpo Mitsukuri, “chishitsu-gaku”, 19th century Ⅰ はじめに 図 1 箕作阮甫肖像(津山洋学資料館 にて.岡田博有撮影) * * ** ** 日本の地質学の一般的な表示は今井 功や土 井 正 民 な ど に よ っ て 示 さ れ た が ( 今 井 , 1966, 1970; 土 井 , 1978; 岡 田 , 2002; Okada with Kenyon-Smith, 2005),そ の 具 体 的 な 表 現 の 仕 方 について筆者は帆足万里(ほあし ばんり)の 貢 献 に 敬 意 を 評 し た ( 岡 田 , 2008)。 し か し , そ の と き 分 か っ た こ と は ,日 本 の 用 語「 地 質 学 」 はそれまで帆足万里も重要な貢献をしていた と 思 わ れ て い た が ,実 際 に は 帆 足 万 里 は「 地 質 学 」用 語 の 提 唱 は し て い な か っ た の で あ る( 岡 田 , 2008)。 そ こ で ,帆 足 万 里 に 続 い て 活 躍 を 始 め た 蘭 学 者 箕 作 阮 甫( み つ く り げ ん ぽ )が 具 体 的 な「 地 質 学 」用 語 の 作 成 を 行 い ,そ の 重 要 な 成 果 を は た し て い た こ と を こ こ で 明 ら か に し た い 。現 在 の岡山県津山市にあった津山藩で活躍を始め た 箕 作 阮 甫 は ,当 時 の 日 本 政 府 の 中 心 で あ っ た 江戸の幕府に移って蘭学者としての活動を行 〒 812-0041 福 岡 市 博 多 区 吉 塚 4-8-36-601 4-8-36-601 Yoshizuka, Hakata-ku, Fukuoka 812-0041, Japan 岡 山 大 学 理 学 部 地 球 科 学 科 , 〒 700-8530 岡 山 市 北 区 津 島 中 3-1-1 Department of Earth Sciences, Faculty of Science, Okayama University, Okayama 700-8530, Japan 2 岡田博有・鈴木茂之 い ,幕 府 の 重 要 な 科 学 者 と し て の 研 究 を 行 っ た 。 そ の 貴 重 な 成 果 が ,19 世 紀 の 日 本 の 自 然 科 学 発 展 の 中 で 始 め て「 地 質 学 」の 重 要 性 を 示 し た こ と で あ る 。そ の 実 態 を こ こ で 明 ら か に し て ,「 地 質 学 」用 語 が 箕 作 阮 甫 に よ っ て 作 ら れ た こ と を 示 し た い 。 な お , 後 閑 ( 1970) が , 日 本 に お け る 近 世 前 の 化 石 の 研 究 は 進 ん で い た が ,さ ら に 箕 作 阮 甫 が 1861( 文 久 元 ) 年 に 「 地 質 辦 証 」 書 を 訳 述 し て 地 質 に 関 す る 地 史 を 述 べ た ,と 解 説 し て い る 。こ う し て 作 ら れ た 日 本 の 地 質 学 は 明治時代に最初の専門分野として大発展を遂 げ ( 矢 部 , 1953), そ の 地 質 学 の 研 究 と 教 育 の 機 関 が 1877( 明 治 10) 年 に 東 京 帝 国 大 学 理 学 部 に 創 設 さ れ た の で あ る ( 坪 井 , 1953; 土 井 , 1978)。 さ ら に 驚 い た こ と に , 我 々 も よ く 知 っ て い た 東 京 大 学 地 質 学 科 教 授 坪 井 誠 太 郎( つ ぼ い せ い た ろ う )が 箕 作 阮 甫 の 子 孫 で あ っ た こ と で あ る 。我 々 が 坪 井 誠 太 郎 の 名 前 を よ く 知 っ て い る の は ,偏 光 顕 微 鏡 に よ る 固 態 物 質 の 光 学 的 研 究 法 を 解 説 し た 「 坪 井 誠 太 郎 ( 1959) : 偏 光顕微鏡.岩波書店」からであった。さらに, 日本の地質学の発展に大貢献をした矢部長克 ( 矢 部 ,1970)は ま た 坪 井 誠 太 郎 の 父 で あ っ た 坪 井 正 五 郎( 東 京 大 学 教 授 ,人 類 学 )に も ふ れ ている。 ま た ,日 本 の 地 学 教 育 に つ い て ,1890( 明 治 3) 年 以 後 の 東 京 に お け る 中 学 校 教 育 で は , 箕 作 阮 甫 の「 地 球 説 略 」が 取 り 上 げ ら れ て い る( 倉 林 , 2000)。 こうして大発展を遂げた日本の地質学の形 成 が ,箕 作 阮 甫 に よ る 新 用 語「 地 質 学 」作 成 へ の 貢 献 を 基 に し て い る こ と を ,こ こ に 明 ら か に したい。 Ⅱ 箕作阮甫の生い立ちと自然科学との関係 箕作阮甫の生い立ちと自然科学への貢献に つ い て の 資 料 は , 主 と し て 菊 池 ( 1978), 小 沢 ( 1978), 児 玉 ( 1978), 緒 方 ( 1978), 大 久 保 ( 1978), 土 井 ( 1978), 小 山 ( 1978), 有 坂 ・ 西 川 ( 1985), 津 山 洋 学 資 料 館 ( 1990, 2008) , 木 村 ( 1994) な ど を 参 考 に し て い る 。 箕 作 阮 甫( み つ く り げ ん ぽ ) ( 図 1,2; 表 1) は 1799( 寛 政 11)年 9 月 7 日 に 津 山( つ や ま ) ( 現 在 の 岡 山 県 津 山 市 )で 生 ま れ た 。名 は 虔 儒 ( け ん じ ゅ ),字 は 庠 西( し ょ う せ い ),阮 甫 は 道 称 で あ っ た が( 緒 方 ,1978),1828( 文 政 11) 年 に は 正 式 名 と な っ た( 小 山 ,1978)。さ ら に , 箕 作 阮 甫 に は 津 山 の 地 名 に ち な ん で 紫 川 ,逢 谷 の号があった。 こ の 津 山 は 1603( 慶 長 3)年 に 18 万 6500 石 で 入 封 し た 森 忠 政 が 新 城 を 築 い た 後 ,松 平 宣 富 が 津 山 十 万 石 の 城 主 に な り ,そ の 後 五 万 石 の 城 主 の と き の 1799( 寛 政 11) 年 に 箕 作 阮 甫 の 誕 生 と な っ た 。こ の 時 期 は ,洋 学 が 盛 ん に な っ た と き で ,1801 年 に は 19 世 紀 の 時 代 が 始 ま っ た 。 この時期の日本では文化,文政,天保,弘化, 嘉 永 ,安 政 ,文 久 と 年 代 が 変 わ り ,19 世 紀 初 期 の 日 本 は 政 治 ,社 会 の 動 き が 極 め て 重 要 な 時 代 で あ っ た 。特 に ,外 国 と の 関 係 が 重 要 で ,こ れ に合わせるように長州藩や薩摩藩の活躍が大 き く ,大 成 功 を 続 け て い た 。そ の 中 で ,と く に 鹿児島の薩摩藩藩主の島津斉彬(しまず なり あ き ら )は 西 洋 式 で 箕 作 阮 甫 と 深 い 関 係 が あ っ た よ う だ ( 児 玉 , 1978)。 箕作阮甫の両親としての父は箕作丈庵(貞 固) ( 1759-1802),母 は 清 子 で あ っ た 。父 は 箕 作 家 三 代 目 の 医 師 と し て 評 判 が 高 く ,津 山 藩 の 侍 医も勤めていた。 箕作阮甫はその次男として, す で に 述 べ た よ う に , 1799( 寛 政 11)年 9 月 7 日 に 津 山 の 西 新 町( に し し ん ま ち )で 代 々 町 医 師 を 営 む 家 に 生 ま れ た 。し か し ,阮 甫 が 4 歳 の 時 の 1802( 享 和 2) 年 に 父 「 丈 庵 」 が 44 歳 で 亡 く な っ た 。 そ の 後 , ま も な く 1810( 文 化 7) 年 に 兄 の 「 豊 順 」 も 17 歳 で 没 し , 彼 の 子 供 も い な か っ た の で , 箕 作 阮 甫 が 15 歳 の と き 箕 作 家 を 継 い だ 。さ ら に ,阮 甫 が 25 歳 の と き の 1823 ( 文 政 6)年 9 月 25 日 に は 母 清 子 が 亡 く な っ た 。 箕作阮甫は幼いときに怪我(けが)を患い, 右 の 肘 関 節( ひ じ か ん せ つ )が 利 か な く な っ た 。 こ の た め ,阮 甫 の 母 は 彼 を 武 士 に し な い で ,医 師の道を選ぶことにさせた。 こ う し て , 箕 作 阮 甫 は 1815( 文 化 12) 年 の 17 歳 の と き に ,京 都 で 吉 益 文 輔 の 指 導 で 漢 方 医 学 の 学 業 を 始 め た 。こ の 京 都 で の 箕 作 阮 甫 の 修 業 に は 藩 か ら 年 間 5 両 が 給 付 さ れ て い た 。こ う して蘭学者箕作阮甫の生まれる素地ができた の で あ っ た ( 小 山 , 1978)。 予 定 通 り 三 年 後 の 日本最初の用語「地質学」の成立: 箕作阮甫(1799-1863)の貢献 1819( 文 政 2)年 21 歳 の と き に 阮 甫 は 京 都 か ら 津 山 に 帰 っ た 。 そ し て , こ の 年 の 11 月 に 阮 甫 は 同 藩 の 養 女「 大 村 と い 」 ( 大 村 登 井 )と 結 婚 , 阮甫は箕作家の学問的な根となった(小山, 1978)。 こ の 結 婚 で 3 人 の 女 子 が 生 ま れ た 。 こ の 3 人 の 子 女[ 木 村( 1994)に 依 る と ,実 際 は 4 人の子女であったが,一人の死去により 3 人 と し た ]は 後 に ,次 に 示 す 高 名 な 学 者 達 と 結 婚 した。その様子は,長女「せき」は呉 黄石, 二女「つね」は箕作秋坪,そして三女「ちま」 は 箕 作 省 吾 で あ っ た ( 緒 方 , 1978)。 と く に , こ の 関 係 者 の 貢 献 を 見 る と , 呉 黄 石 ( 1811-1879)は 西 洋 医 学 者 と し て( 木 村 ,1994), 箕 作 秋 坪 ( し ゅ う へ い )( 1825-1886) は 幕 末 の 洋 学 者 と し て 大 活 躍 を お こ な っ た( 佐 藤 ,1985)。 ま た ,箕 作 省 吾 の 一 子 の 箕 作 麟 祥( り ん し ょ う ) ( 1846-1897 ) は 阮 甫 の 初 孫 で 明 治 期 の 法 律 学 者 ・ 法 学 博 士 と し て 活 躍 ( 佐 藤 , 1985; 木 村 , 1994),箕 作 秋 坪 の 長 男 の 箕 作 奎 吾( 1852-1871) は 明 治 新 政 府 の 大 学 校 に 勤 め た( 木 村 ,1994)。 箕 作 秋 坪 の 三 男 の 箕 作 佳 吉 ( か き ち ) ( 1857-1909)が 日 本 人 と し て 初 め て 東 京 帝 国 大 学 動 物 学 教 授 に な り( 鈴 木 ,1985; 木 村 ,1994), さ ら に 箕 作 秋 坪 の 四 男 で あ っ た 箕 作 元 八( げ ん ぱ ち )( 1862-1919) が 東 京 帝 国 大 学 理 学 大 学 を 卒業して東京帝国大学文科の西洋史教授とな っ て い た ( 高 峰 , 1985; 木 村 , 1994)。 箕 作 阮 甫 は ,1821( 文 政 4)年 の 24 歳 の と き に ,津 山 藩 の 藩 侍 医 に な っ た 。箕 作 阮 甫 が 江 戸 参 勤 を は じ め た の は 1823( 文 政 6)年 で ,1827 ( 文 政 10)年 に は 津 山 に 帰 っ た 。と こ ろ が ,1831 ( 天 保 2)年 3 月 5 日 に 家 族 と 共 に 江 戸 へ 移 り , 蘭 学 者 箕 作 阮 甫 の 時 代 と な っ た の で あ る 。1839 ( 天 保 10) 年 6 月 10 日 に 箕 作 阮 甫 は 江 戸 に あ る 幕 府 の 機 関 に 入 り ,幕 府 天 文 台 翻 訳 員 に な っ た 。 こ の と き , 阮 甫 は 41 歳 で あ っ た 。 こ こ で は 多 く の 蘭 学 者 と 一 緒 で ,天 文 関 係 や 洋 書 の 研 究 に 励 む こ と が で き た 。 幕 府 は 1855( 安 政 2) 年 に 天 文 台 を 「 洋 学 所 」 と し た 。 阮 甫 が 56 歳 の と き で あ り ,こ の 洋 学 所 事 務 の 中 心 に な っ た 。 さ ら に , 1856( 安 政 3) 年 に は 阮 甫 は 蕃 書 調 所 ( ば ん し ょ し ら べ し ょ )の 首 席 教 授 職 に な っ た 。 こ の よ う な 阮 甫 の 活 躍 の 様 子 は 小 山 ( 1978), 北 ( 2008) に も よ く 示 さ れ て い る 。 3 箕 作 阮 甫 は 幕 府 の 天 文 台 に 勤 め 始 め た 1839 年 以 来 25 年 に わ た り 幕 府 の 機 関 に 関 係 し な が ら 蘭 学 者 と し て ,ま た 洋 書 の 翻 訳 者 と し て 大 活 躍 を し て い た 。箕 作 阮 甫 の 業 績 は 蘭 学 や オ ラ ン ダ 語 で の 学 識 に 有 名 で あ っ た 。彼 の 翻 訳 と し て は 99 部 , 160 余 冊 に 達 す る と い う 。 阮甫の初期の業績としては医学関係のもの か ら な り , 1836 年 か ら 1848 年 に か け て 刊 行 さ れ た 。医 学 関 係 以 外 の 阮 甫 の 著 作 も 多 種 多 彩 で , 地 理 書 や 歴 史 書 な ど に 加 え て 語 学 書 の 他 ,地 質 , 鉱物,物理,天文,兵器,軍器,造船,電信, 文 芸 ,詩 文 な ど ,驚 く ほ ど 多 彩 な も の で あ っ た 。 歴史書には西欧の歴史への阮甫の興味がよく 含 ま れ て い る 。医 学 関 係 を 除 く 阮 甫 の 科 学・技 術 に 関 す る 著 作 は 次 の 通 り で あ る( 菊 池 ,1978)。 「三兵達吉知幾訳本」 「歩兵使銃動身軌範」 「三兵操治正義」 「煩砲点放軌範」 「軍用火箭考」 「水蒸砲説」 「蒸気砲発明説」 「海上砲術全書」 「水蒸船説略」 「衣米針印刷伝信通票略解」 「消皮説」 「地殻図説」 「密涅刺羅義」 「日阿羅義名目」 「大地マグネチスミュス」 「星学」 「地質辦証」 「失表題」 兵書 同 同 砲術書 同 水蒸気砲説 同発明記 砲術書 造船書 電信機説 (文書なし) 地質書 鉱物書 地質書 磁石説 天文書 地質書 度量衡説 上記の多彩な本の後編には箕作阮甫の地質 学 を 中 心 と し た 活 躍 に な っ て い る が ,こ の 詳 細 は 次 の「 箕 作 阮 甫 の 活 躍 と 日 本 に お け る 地 質 学 誕生との関係」で述べることにする。 最 後 に ,箕 作 阮 甫 の 体 調 に 触 れ て お く 。阮 甫 はすでに述べたように病身の体質を持ってい た 。そ れ は 喘 息 の 持 病 が あ っ た ほ か ,と き ど き 頭 病 ,悪 心 ,腰 痛 ,そ の 他 で 悩 ん で い た と い う 。 このような体調の中で箕作阮甫は洋学者とし 4 岡田博有・鈴木茂之 て,医学,地質学,地理学,歴史学,兵法・軍 器 ,造 船 な ど の 自 然 科 学 系 で 大 活 躍 を し て い た 。 と こ ろ が ,新 洋 学 の 新 時 代 に 箕 作 阮 甫 は 生 涯 を 閉 じ る こ と に な っ て し ま っ た 。箕 作 阮 甫 は 1863 ( 文 久 3)年 6 月 17 日 に 江 戸 で 没 し た の で あ る ( 表 1)。 亨 年 65 歳 で あ っ た 。 Ⅲ 箕作阮甫の活躍と日本における 地質学誕生との関係 箕作阮甫の研究活動のなかで最後の大成果 を挙げた「地質学」という新規の地球科学に ついて明らかにしたい。この解説には石山 ( 1978)に よ る「 箕 作 阮 甫 の 地 理 学 」と 蘭 学 資 料 研 究 会 編( 1978): 「 箕 作 阮 甫 の 研 究 .付 録 」 の中の「箕作阮甫著訳書.2 地質・天文・物理 学 関 係 」な ど の 文 献 を 参 考 に す る と と も に ,津 山 洋 学 資 料 館 の 資 料 ( 津 山 洋 学 資 料 館 , 1990, 2008) も 重 視 し た 。 箕作阮甫の前半は上に述べたように医学関 係 の 著 作 を 中 心 に し て い た が ,後 半 の 江 戸 在 住 時代は地質・地理・歴史・兵事などを中心とす る 著 作 時 代 で あ っ た 。と く に 後 半 時 代 最 後 の 箕 作阮甫は地質学や鉱物学などの自然科学への 関 心 が 極 め て 深 か っ た 。例 え ば ,1839( 天 保 10) 年 6 月 10 日 に 出 仕 し た 幕 府 の 天 文 台 で 海 外 地 理 を 研 究 す る よ う に な っ た 。阮 甫 家 の 大 き い 成 果 に な っ た 自 然 地 理 学 総 論 に 加 え て ,箕 作 阮 甫 の 地 質 学・鉱 物 学 に 関 す る 訳 稿 を 中 心 と す る 著 書 が あ っ た 。 そ れ ら の 主 な 本 と し て ,「 密 涅 刺 羅 義 」( み つ え し ら ぎ ),「 日 阿 羅 義 名 目 」( に ち あ ぎ め い も く ),「 地 殻 図 説 」( ち か く ず せ つ ), 「地質辦証」 ( ち し つ べ ん し ょ う )な ど が あ る 。 こ れ ら の 著 書 に つ い て ,箕 作 阮 甫 の 後 期 を 特 徴 づける主要な地質学書として次に解説したい。 「密涅刺羅義」: ミネラロギー; 片かなまじ り 文 , 7 葉 1 冊 か ら な る 。「 日 本 記 聞 下 」 に 含 ま れ て い る 。1852 年 刊 行 の ド イ ツ 人 ス ク ー ド レ ル の 蘭 訳 本 と し た 鉱 物 学 書 で あ る 。次 に 示 す も の が 原 本 に 由 来 し た も の で あ る : Schoedler, Fr.: Schoedler’s boek der natuur, alcemeene becimselen. Der physica, astronomie, chemie, mineralogie, geologie, physiologie, botanie en zookogie, Naar de vifde hoogduitsche uitgave, bewerkt door J.J. Altheer. Utrecht, W.F. Dannefelser, 1852. xvii, 836 bln. 本書はドイツのスクードレル原著「自然の 本 」の 蘭 訳 で ,物 理 学 ,天 文 学 ,化 学 ,地 質 学 ・ 鉱 物 学 ,植 物 学 ,動 物 学 ,索 引 と 言 う 構 成 か ら な る 。 こ の 原 著 は 箕 作 阮 甫 が 1854( 安 政 元 ) 年に長崎出張の帰途に島津斉彬より借りたと いう。 「日阿羅義名目」: ゲオロギーみょうもく; 片 か な ま じ り 文 ,21 葉 1 冊 か ら な る 。ゲ オ ロ ギ ー は geologie( 地 質 学 ) の こ と 。 Fr. Schoedler の「 ス タ ー ド レ ン 金 石 論 云 」と K.C. von Leonhard の「 ホ ン レ オ ナ ル ド 地 質 説 云 」の 二 編 の 原 著 で 構 成 。「 ホ ン レ オ ナ ル ド 地 質 説 云 」 は 次 の 通 り で あ る : Leonhard, K.C. von.: Geologie, of natuurlijke geschiedenis der aarde; op algemeen bevattelijke wijze voorgesteld. Door K.C. von Leonhard. Uit het hoogduitsch. Amsterdam, G.J.A. Beijerinck, 1845~47, 3 bln. 23 × 14cm. 「地殻図説」: ちかくずせつ; 平かなまじり 文 で ,34 葉 1 冊 か ら な る 。Geologie を 地 質 学 と し た 。地 殻 断 面 図 の 説 明 で ,地 殻 生 成 ,地 殻 の 成分,化石,沈澱および生物に関係する岩石, 地層と初層,第二層,第三層などを述べる。 「地質辦証」: ちしつべんしょう; 平かなま じ り 文 で ,88 葉 3 巻 1 冊 か ら な る( 第 2 巻 が 欠 け て い る )。地 質 弁 證 と も 書 く 。1861( 文 久 元 ) 年 に 出 版 。地 質 学 の 総 論( ゲ オ ロ ギ ー ,ゲ オ ダ ノ シ ー ), 第 一 大 地 流 動 の 時 期 , 第 二 火 鼓 鋳 の 時 期 ,第 三 火 煙 山 の 時 期 ,第 四 史 伝 の 時 期 ,な どの地質概論と地史学が扱われている。特に, 第 1 ペ ー ジ の 表 題 と し て「 第 1 篇 ゲ オ ロ ギ ー . 名義 地質学」を示している。 こ の 本 を 出 し た の は 箕 作 阮 甫 63 歳 の 最 晩 年 で あ っ た 。こ う し て 彼 の 自 然 に 関 す る 研 究 は 最 高になった。 な お ,木 村( 1994)は ,上 に 紹 介 し た 地 質 関 係 4 編 (「 密 涅 刺 羅 義 」,「 日 阿 羅 義 名 目 」,「 地 殻 図 説 」,「 地 質 辦 証 」) に 加 え て 地 球 磁 気 学 書 日本最初の用語「地質学」の成立: 箕作阮甫(1799-1863)の貢献 ( 大 地 マ グ ネ チ ス ミ ュ ス 説 )と 天 文 学 書 1 冊 の ほ か , 地 理 に 関 す る 著 書 と し て 14 編 を 紹 介 し ている。 こ れ ら の 著 作 を 基 に ,石 山( 1978)は 箕 作 阮 甫 が 日 本 で 初 め て「 地 質 学 」の 用 語 を 用 い ,西 洋 地 学 の 内 容 に 立 入 っ た と 言 っ て い る が ,ま さ に そ の 通 り で あ る 。こ こ に あ げ た 箕 作 阮 甫 の 地 質 学 関 係 の 記 述 用 語 の 中 で ,箕 作 阮 甫 は 日 本 で 初 め て「 地 質 学 」用 語 を 使 っ た こ と に な る 。こ の こ と は ,そ の 後 の 日 本 に お け る 地 質 学 発 展 の た め に 極 め て 重 要 で あ り ,箕 作 阮 甫 は 日 本 地 質 学用語を作った最大の貢献者であったと言え る。 Ⅳ あとがき 本 文 で 明 確 に な っ た よ う に ,日 本 に お け る 用 語「 地 質 学 」を 初 め て 使 っ た の は 箕 作 阮 甫 で あ っ た 。 箕 作 阮 甫 は 1850 年 代 の オ ラ ン ダ で の 用 語 “ geologie” を 「 地 質 学 」 と 訳 し て 日 本 で の 使 用 を 始 め た の で あ る 。そ の 後 の 日 本 の 地 質 学 発 展 の 様 子 は 今 井( 1966)や 矢 島( 2008)が 明 ら か に し て い る 。し か し ,日 本 の 新 し い 用 語「 地 質 学 」の 形 成 に 今 井( 1966,1970)は 帆 足 万 里 の 貢 献 を 重 視 し た が ( 岡 田 , 2008), 帆 足 万 里 は 彼 の 著 書 の 中 で 用 語「 地 質 学 」を 使 っ て い な か っ た こ と を 拙 著 で 示 し た ( 岡 田 , 2008)。 こ う し て ,本 書 で は 日 本 の 用 語「 地 質 学 」が 箕 作 阮甫によって初めて使用されたことを明確に することができた。 日 本 の 極 め て 重 要 な 用 語「 地 質 学 」が で き た こ と を こ の 著 書 に な か で 明 確 に し ,箕 作 阮 甫 の 重要な成果を評価することができた。さらに, こ の 前 の 拙 著( 岡 田 ,2008)で 帆 足 万 里 の 貢 献 の 様 子 も 明 確 に し た が ,本 書 出 版 の 機 会 に ,こ れら二つの拙著の重要性を深く強調したい。 ま た ,幕 末 期 の 日 本 で 自 然 科 学 の 進 展 に 大 き い貢献を示した箕作阮甫の成果は岡山県津山 市 に あ る 現 在 の 「 津 山 洋 学 資 料 館 」( 津 山 洋 学 資 料 館 , 1990, 2008) に よ く 示 さ れ て い る が , こ こ で は さ ら に 箕 作 阮 甫 が 用 語「 地 質 学 」の 作 成に大貢献したことも取り上げて欲しい。 以 上 の と お り ,こ こ に 日 本 の 最 初 の「 地 質 学 」 用語の形成を明らかにすることができた。 5 謝 辞: 本書の執筆でも深い関心を寄せられた 故 松 本 達 郎 先 生・故 勘 米 良 亀 齢 先 生・首 藤 次 男 先 生( 九 州 大 学 名 誉 教 授 ),唐 木 田 芳 文 先 生( 西 南 学 院 大 学 名 誉 教 授 ), 故 都 城 秋 穂 先 生 ( ニ ュ - ヨ - ク 州 立 大 学 名 誉 教 授 ),大 森 昌 衛 先 生( 麻 布 大 学 名 誉 教 授 ), 中 沢 圭 二 先 生 ( 京 都 大 学 名 誉 教 授 ),関 陽 太 郎 先 生( 埼 玉 大 学 名 誉 教 授 ), 黒 田 吉 益 先 生 ( 信 州 大 学 名 誉 教 授 ), 橋 本 光 男 先 生( 茨 城 大 学 名 誉 教 授 ),高 橋 清 先 生( 長 崎 大 学 名 誉 教 授 ), 高 柳 洋 吉 先 生 ( 東 北 大 学 名 誉 教 授 ),水 野 篤 行 先 生 ( 元 ,愛 媛 大 学 教 授 ),諏 訪 兼 位 先 生 ( 名 古 屋 大 学 名 誉 教 授 ), 松 本 徰 夫 先 生 ( 山 口 大 学 名 誉 教 授 ), 小 畠 郁 生 先 生 ( 国 立 科 学 博 物 館 名 誉 館 員 ), 島 津 光 夫 先 生 ( 新 潟 大 学 名 誉 教 授 ), 松 田 時 彦 先 生 ( 東 京 大 学 名 誉 教 授 ),志 岐 常 正 先 生( 京 都 大 学 名 誉 教 授 ),水 谷 伸 治 郎 先 生 ( 名 古 屋 大 学 名 誉 教 授 ), 秋 山 雅 彦 先 生( 元 ,信 州 大 学 教 授 )に 厚 く お 礼 申 し あ げ る 。と く に ,東 北 大 学 の 高 柳 洋 吉 名 誉 教 授 に は多数の関係資料をご紹介いただいた。 ま た ,現 在 の 岡 山 県 津 山 市 に お け る 箕 作 阮 甫 の資料確認についてご教示をいただいた津山 市津山洋学資料館下山純正館長と小島 徹学芸 員に大変お世話になった。 図 2 箕作阮甫胸像(津山文化セン タ-前の像.鈴木茂之撮影) 岡田博有・鈴木茂之 6 Ⅴ 引用文献 有 坂 陵 通・西 川 治( 1985): み つ く り げ ん ぽ 箕 作 阮 甫 1799-1863( 寛 政 11- 文 久 3). 平 凡 社 大 百 科 事 典 , 14, 399. 土 井 正 民( 1978): わ が 国 の 19 世 紀 に お け る 近 代地学思想の伝播とその萌芽.広島大学 地 学 研 究 報 告 , No. 21, 1-170. 今 井 功( 1966): 黎 明 期 の 日 本 地 質 学 .ラ テ イ ス 刊 , 193p. 今 井 功 ( 1970) : ほ あ し ば ん り 帆 足 万 里 . 地 団 研 地 学 事 典 編 集 委 員 会 : 地 学 事 典 .平 凡 社 , 1008. 石 山 洋( 1978): 箕 作 阮 甫 の 地 理 学 .蘭 学 資 料 研究会編: 箕作阮甫の研究.思文閣出版, 185-262. 菊 池 俊 彦 ( 1978) : 箕 作 阮 甫 の 自 然 科 学 . 蘭 学 資 料 研 究 会 編 : 箕 作 阮 甫 の 研 究 .思 文 閣 出 版 , 161-184. 北 康 利 ( 2008) : 蘭 学 者 川 村 幸 民 近 代 の 扉 を 開 い た 万 能 科 学 者 の 生 涯 . 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