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遺伝子情報と生命保険事業

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遺伝子情報と生命保険事業
遺伝子情報と生命保険事業
宮地 朋果
(慶應義塾大学大学院)
1.はじめに
日本を含む世界18カ国が参加しているヒトゲノム計画(Human
l)
GenomeProject)は、1990年10月に、アメリカ国立保健研究所
(NIH)とエネルギー省(DOE)によって、ヒト遺伝子解析に関す
る共同研究計画として開始された。当初、その最終年は2005年と設定
されていたが、加速度的な遺伝子技術進歩によって、終了が2003年に
繰り上がるとみられている。
遺伝子情報は、新たなビジネスチャンスの宝庫と考えられており、
米国メリーランド州にあるセレラ・ジェノミクス社は、大量のコンピュー
ターの動員によって、2000年4月6日現在、遺伝子情報の99%を解読
していると伝えられる。ヒトゲノム計画も解読のスピードを上げて、
セレラ社をはじめとするベンチャー企業に追いつくことを目指してい
る。しかしながら、ベンチャー企業による遺伝子情報の特許申請の動
きに対して、ヒトゲノム計画に携わる研究者等からは懸念の声が出て
おり、遺伝子情報の利用に関する法的整備が急務とされている。
遺伝子学の発展が人々にもたらす影響には、プラスとマイナスの両
−225−
遺伝子情報と生命保険事業
面がある。プラス面には、「オーダーメイドの医療」という言葉に代
表されるような、疾病の予防や治療に関する医学的な貢献が、まず挙
げられる。予防的な外科手術を受けたり、食生活や生活習慣を改善す
ることで、発病を抑えたり、その人の代謝能力にあった量の薬を投与
ご、
することができるようになるとされる。理化学研究所のゲノム研究グ
ループリーダーと東大医科学研究所教授を兼務する榊佳之氏によると、
将来的には、「人は病気で死ぬことが少なくなり、百歳になっても元
.こ.
気、といった世の中になる」という。一方、マイナス面には、遺伝子
診断結果をもとにする、保険加入・雇用・結婚における差別(genet−
icdiscrimination)や情報の悪用、プライバシー問題、診断後に生
じる将来の発病に対する不安やストレス、家族・血縁者への影響等が
考えられている。また、パンチントン舞踏病等、現在の医療では、治
療法が確立していない難病にかかりやすいことが、遺伝子診断結果に
よって判明した場合の精神面でのケアをどのようにしていくべきか、
知らせることが倫理的にみて妥当であるかといった問題もあり、遺伝
子診断の汎用化が進む前に、社会・経済・法律・倫理等、様々なアン
グルから、考えていく必要がある。
筆者の当初の問題意識は、我が国の保険会社が、危険選択において
遺伝子診断結果を用いることは許されるであろうかというものであり、
遺伝子情報が人々の生活、および保険会社の経営に与える様々な影響
を概観したうえで、その利用の是非を問うことを本稿の目的としてい
た。しかしながら、研究を進める過程において、我が国と欧米、特に
米国では、医療保険制度や医療自体の文化的・賃的相違、ならびに国
民性といった、問題を考える上での背景や前提条件が異なっているこ
4)
と、日本は諸外国に比して遺伝病の頻度が低いため、一般の人々の関
心および知識が低いこと、また、遺伝子診断が少なくとも現時点にお
一226−
遺伝子情報と生命保険事業
いて、その費用・精度両面からの制約によって汎用レベルに達してい
ないこと等の理由から、筆者が想定していたほどには、我が国の保険
会社および消費者に、甚大な影響がもたらされないことが明らかとなっ
た。
したがって、本稿は、現在、我々が直面する問題を検討するという
よりは、むしろ、近未来への予測という面が強く、私見の域を出ない
ものであることをまず断っておく必要がある。しかしながら、ヒトゲ
ノム計画をはじめとする、近年の遺伝子学における著しい発展、およ
び遺伝子情報が与える影響の大きさを鑑みれば、遺伝子学の先駆者で
ある欧米諸国の状況を概観し、我が国の生命保険事業における遺伝子
情報のありかたを考察することは不可避であって、有意義といえるだ
ろう。
遺伝子診断が我が国の保険会社の経営に与える数理的影響は、少な
くとも現時点においては、無視できるレベルにあると考えられ、遺伝
子診断受診を保険加入の必要条件と考える保険会社はない。また、一
般の人々の関心もそれほど高いとはいえない。しかしながら、米国で
は、ごく少数とはいえ、遺伝子診断結果による保険加入・雇用・結婚
における差別が、既に現実のものとなっており、多くの論議を惹き起
こしている。それにもかかわらず、米国の生命保険会社の最高経営責
任者、アクチュアリー、および、その他保険の専門家でさえも、遺伝
子診断に対して、最大の関心を払っているとは言い難い。
リンカーン再保険会社(Linc01nRe)は、1998年秋に、生命保険
会社役員を対象として、遺伝子診断に対する態度に関する調査を、電
5)
話により全米で実施した。それによると、遺伝子診断をめぐる諸問題
に関し、生命保険業界において平均的と思われる知識および関心と比
して、自らの知識・関心はどのレベルにあるかという質問に対して、
1227−
遺伝子情報と生命保険事業
「平均以上」であると答えた役員は、36%にすぎなかった。属性別に
見ると、遺伝子診断に対する関心が「平均以上」であると答えた医長
は72%であったが、危険選択査定者は42%、アクチュアリーは24%、
べ
最高経営責任者はわずか15%であった。これらの低い関心の背景には、
遺伝子診断が、少なくとも現在は、検査精度(遺伝的素因と職業、食
生活、生活習慣、喫煙、飲酒等の環境因子が、どのような割合で、羅
患率および死亡率に影響を与えるかは、現在のところ定かでない)お
7)
よび、コストの両面において、普及レベルに達していないこと、それ
ゆえに逆選択の懸念が小さく、保険会社の経営に深刻な影響をもたら
すものではないと考えられているといった事情がある。
しかしながら、近年、米国をはじめとする欧米諸国において、保険
会社が遺伝子診断結果を危険選択に際して利用することを制限する法
律制定が相次ぎ、医師、倫理学者、消費者団体によって、遺伝子情報
とその利用をめぐる諸問題に関するシンポジウム等が多く開催されて
いる。我が国においても、遺伝子情報のプライバシーを守る基準作成
の必要性から、科学技術会議(首相の諮問機関)の生命倫理委員会が、
ヒトゲノム(ヒトの全遺伝子情報)の研究に関する倫理問題を検討す
る小委員会を2000年1月に設置し、同年末までに遺伝子研究の生命倫
8)
理問題に関する指針をまとめるという。これら一連の動きに伴って、
遺伝子診断に対する人々の意識にも少しずつ変化が生じ、関心が高まっ
てくると思われる。
注1) アヒム・レーゲナウアー(1999)「遺伝子検査と生命保険の基礎(上)」『インシュ
アランス 生保版』第3857号,pp.12−15.によれば、ヒトゲノム計画がめざ
す目的は大きく4つ挙げられる。すなわち、①ヒトの細胞の核の中に存在する
ほぼ10万個のゲノムを全て同定すること、②ゲノムを構成する30億個のヌクレ
オチドと呼ばれる塩基配列を識別すること、③ヒトのゲノムとヒト以外の生物
−228−
遺伝子情報と生命保険事業
との配列比較をするということ、④ヒトの病気に関して、新しい知見、新しい
光を当てて、ゲノム機能の解明をするような調査結果のベースを提供すること、
である。
2) 朝日新聞(1999)11月16日朝刊。
3) 朝日新聞(2000)1月1日朝刊。
4) 松田一郎(1999)『動きだした遺伝子医療一差し迫った倫理的問題−』裳華
房,pp.62−63.によると、嚢胞性線維症は、白人に多く保因者は25人に1人、
地中海沿岸に多いβサラセミアは、キプロスでは7人に1人が保因者である。
また、鎌状赤血球症はアフリカやアフリカ系アメリカ人に多く、西アフリカで
は4人に1人が保因者であるといわれる。
5) Donald
C.Chambers(1999)“What
executives
think
about
ge−
netic testing”ノお11LSura77Ce LbPo71er/Fh′Sf6hLa71er,pp.3A9.
6) 遺伝子検査に対する関心のレベルと企業規模にも、相関関係が見られた。例
えば、最小規模の企業(資産1000万ドル以下)で「平均以上」としたのはわず
か11%であったのに対して、最大規模の企業(資産200億ドル以上)では、55
%が「平均以上」と答えた。
7) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.52.によると、「現時点では、遺伝子検査によって同定でき
る疾病は、ほぼ全て単遺伝子型疾病である。実際、現在の所、多遺伝子型疾病
や多因子型疾病に適用できる遺伝子検査は存在しない。環境因子が疾病に対し
て寄与している可能性を考えれば、現時点では、それらの情報は、個々の症例
に対しては、ほんのわずかの予想価値しか無い」という。
8) 日本経済新聞(1999)12月22日朝刊。
−229一
遺伝子情報と生命保険事業
2.遺伝性疾患と遺伝子診断
2.1遺伝性疾患の種菓頁
表1 主な遺伝性疾患
疾 羅 病
患 率
家族性乳癌
1 :30 0
嚢胞性練維症
1 :2,00 0
パ ンチ ン トン舞 踏 病
1 :2 ,00 0
デ ュ シ ャ ン ヌ型 筋 ジ ス トロ フ ィー
1 :3 ,00 0 (男性 )
血友病A
1 :4 ,0 00 (男性 )
鎌状赤血球症
1 :10 ,00 0
フ ェニ ル ケ トン尿 症
1 :2 0,00 0
βサ ラセ ミ ア
1 :2 0,00 0
遺伝惟の悪性神 経芽細胞腫
1 :2 0,00 0
血友病 B
1 :2 5,00 0 (
男性)
テ ィ ・サ ッ ク ス 症 候 群
1 :2 00 ,0 00
出所:Ernst−PererFischerandKerstinBer・berich(1999)
b7tか7Clof.MernGenettCSOnLlfeh75urtlnLle,Publications
OftheCologneRe,p.6.
注)データは、ヨーロッパ白人を対象としたものである。
例えば、パンチントン舞踏病の全人口内の出現頻度は、
1:10,000から1:20,000とされる。
遺伝性疾患には、単一遺伝子疾患と多因子遺伝子疾患、およびダウ
ン症候群を例とする染色体異常による疾患がある。主な遺伝性疾患と
その羅患率は、表1の通りである。単一遺伝子疾患は、単一の遺伝子
の変異が原因で起こる疾患であり、遺伝子異常と発症の因果関係が比
I.
較的明瞭とされており、種類も約6千種類(1998年現在)と多い。しか
しながら、一部の疾患を除いて育少年期に発症する例が多く、しかも
日本では重要疾患の有病率・羅患率が低いので(表2参照)、生命保
】0)
険の医学的危険選択の対象となる疾患は少ないとされる。
−230−
遺伝子情報と生命保険事業
表2 単一遺伝子疾患の頻度(上位10疾患)
1.アデニンホスホリボース転移酵素欠拇症
2.家族性高コレステロール血症
3.グルコースー6−リン酸脱水素酵素欠損症 10
4.嚢胞腎
5.脆弱Ⅹ症候群A
6.神経線経歴症
10
7
5
7,デュシャンヌ型筋ジストロフィー
8.伴性遺伝性魚鱗症
3
9.先天性白内障
10.フアン・デル・フヴェ症候群
2
3
2
出所:遺伝子研究会(1997)「遺伝子検査と生命保険」『日本保険医学会誌』
第95巻,p.177.
多因子遺伝子疾患は、複数の遺伝要因と環境要因が複雑に絡み合っ
て発病に至るもので、糖尿病、癌、動脈硬化症、高血圧、精神分裂病、
先天奇形等がある。単一遺伝子疾患の検査よりも、多因子遺伝子疾患
の検査のほうが、頻度の面から、我が国の医学的危険選択の実務にお
いては、より重要であると考えられており、今後、研究が進み、安い
検査料で多くのことがわかるようになれば、保険の危険選択における、
iD
有効な検査の一つになる可能性があるとされる。しかしながら、現時
点では、遺伝子診断によって同定できる疾病は、ほぼ全て単一遺伝子
疾患である。加えて、環境因子が疾患に対して寄与している可能性を
考えれば、それらの情報は、個々の症例に対して、ほんの僅かの予想
12)
価値しか無いという。
今のところ、パーキンソン病や、早発性の乳癌、ある種の難聴等を
含む、500疾病に関する遺伝子が認識されている。遺伝性疾患に関す
る診断は、1998年11月現在、500種類くらい存在するが、そのほとん
どが研究所でしか入手できず、遺伝子に異常があると診断された家族
−231−
遺伝子情報と生命保険事業
13)
にしか提供されていない。例えば、パンチントン病の発症前診断は25
0∼300米国ドル、アルツハイマー病は、195米国ドルで検査可能であ
り、米国市場規模は、それぞれ3万家族、300∼500万家族になってい
11、
る。臨床に関しては、広範に利用される遺伝子診断は、50種類のみで
15)
ある。
2.2 遺伝子診断とは何か
現在、遺伝子診断には、一般的な定義が存在しない。狭義では、直
接的なDNAテストのみに限定されるが、広義では、身長、体重、コ
レステロール値、血糖値、血圧、既往症、家族歴等、生命保険会社の
16)
危険選択における、伝統的な医的診査も含まれてくる。国立ヒトゲノ
ム研究所が1993年に発行したレポートによると、「原則としての、遺
伝・非遺伝的疾患、遺伝子・非遺伝子情報との区別はますます困難と
なる」とされる。例えば、TheInstituteofMedicineCommittee
On Assessing Geneticsは、家族歴や過去の治療歴等も遺伝子診
断にあたるとしている。参考に、以下の定義を挙げておく。
17)
遺伝子診断(genetic testing)の定義
・ 遺 伝 子 診 断 は 、 疾 患 に 関 連 す る 遺 伝 物 質 の 変 異 を 見 つ け る た め に 、 ヒ トの D N A
や 染色体を分析す ることである
・ 遺 伝 子 診 断 は 、 疾 患 に発 展 す る リス ク の 予 測 を含 む 臨 床 目 的 の た め にな され る
・ 遺 伝 子 診 断 は 、 あ る疾 患 に対 す る 擢 患 性 や 素 因 を決 め う る
、.
人々が遺伝子診断を受ける目的には、以下の4つがある。第1は、
出生前診断である。これは、通常、片方の親か兄弟、あるいは近縁遠
縁の親族に、遺伝子によると思われる疾病の患者がいるため、胎児が
同様な疾患を発現するリスクは大体どの位あるかを、両親が知りたい
−232−
遺伝子情報と生命保険事業
ということから行われる。しかしながら、家系上に顕著な病歴が無く
ても、高齢の母親、流産の経歴、親族間の婚姻等の場合には、遺伝相
談を求めることがある。第2は、発症前診断である。これは、家族の
一員あるいは近縁の親族に、遺伝子による疾病の患者がおり、助言を
求めている本人が将来において同様な疾病を発病するリスクがどの位
なのかを知りたいということが、受診の理由である。第3は、予備的
な臨床的診断の確認である。例えば、パンチントン舞踏病や嚢胞性線
維症に関する、臨床化学検査や免疫検査等を用いた純粋な臨床上の根
拠を基にする診断は、多くの場合、不確実であるが、その様な場合に、
遺伝子診断を受診することで最終的な解明がなされる。第4に、家系
調査、不妊症等、その他の目的に対する適用が挙げられる。
遺伝子診断の種類は図1の通りである。
図1遺伝子診断の主な種類
出所:奥野由美子・日経産業消費研究所編(1999)『遺伝子ビジネス
産業化と倫理問題の最前線』日本経済新聞社,p.66.
一233一
遺伝子情報と生命保険事業
遺伝子診断と保険に関連する、日米欧の主な動きをまとめたものが、
コq、
表3である。
表3 遺伝子診断と保険とに関するおもな動き
1989年9月 米国生命保険協会(ACLI)に、CEOレベルの対策委員会設置
1990年10月 ヒトゲノム計画が開始される
1991年10月 アメリカアクチュアリー会年次大会にてスイスリーグループ、Dr.Robert
Pokorskiが遺伝子検査に関る問題点を紹介
1991年10月 アメリカ連邦議会の政府行政委員会において、American Society of
Human Genetics(ASHG)を代表してDr.Philip Raillyが、保険会社
による遺伝子検査利用の制限を支持する証言をおこなった
1991年 モンタナ州とアリゾナ州にて保険加入時の遺伝子検査を禁止する法律制定
1991年 カリフォルニア州にて保険加入時の遺伝子検査を禁止する法案を審議
1991年 米国生命保険協会(ACLI)−米国健康保険協会(HIAA)が遺伝子検査
作業部会(Task Force on Genetic Testing)設置
1992年10月 米国生命保険協会医務委員会(ACLI MedicalSection)の遺伝子問題
委員会(GeneticIssues Committee)委員長、John Lowdenが、
AmericanJournal of Human Geneticsに、保険会社の主弓長を投稿
1993年2月 ジョージア州アーリントンにて、保険会社の医長等を対象とした遺伝子問
題セミナー(GeneticIssues Seminar)開催
1993年7月 米国生命保険協会(ACLI)会長のRichard Schweukerが、遺伝子検
査が、重大な問題であるとの認識を、会員各社のCEOに対して示した
1994年9月 米国生命保険協会(ACLI)による全米保険監督官協会(NAIC)遺伝子
検査作業部会への報告「危険選択における遺伝子情報の必要性」
1994年11月 日本において、生命保険協会医務委員長の諮問機関として、遺伝子研究会
が発足
1994年12月 英国において、中立の学術機関であるNuffield Council on Bioethics
が遺伝子検査の倫理的問題点・勧告をまとめ、Genetic Screening
EthicalIssuesとして公表
1994年5月 日本保険医学会年次総会にて招請講演「ヒト全遺伝子解明の現状と展望」
1995年3月 米国生命保険協会(ACLI)による全米保険監督官協会(NAIC)遺伝子
検査作業部会への報告
1996年3月 NAIC(全米保険監督官協会)春季大会で、USライフのアクチュアリーが、
遺伝子情報の保険数理上の影響に関するAAA(米国アクチュアリー協会)
−234−
遺伝子情報と生命保険事業
セミナーの参加報告を行った
1996年6月 全米保険監督官協会(NAIC)夏季全国大会で「遺伝学フォーラム」が開催
される
1998年11月 米国において、38州が保険会社の危険選択に際して、遺伝子診断結果を用
いることを何らかの形で制限する法律を制定
1998年目月 日本において、第4回国際生命倫理学会世界会議が催され、遺伝子診断と
生命保険事業に関する報告がなされた
2000年1月 日本において、科学技術会議の生命倫理委員会が、ヒトゲノム(ヒトの全
遺伝子情報)の研究に関する倫理問題を検討する小委員会を設置し、年末
までに遺伝子研究の生命倫理問題に関する指針をまとめる予定
2000年4月 米国のセレラ・ジェノミクス社が遺伝子情報の99%を解読
2003年 ヒトゲノム計画において、個々の遺伝子の機能もよみとる、完全解読を完
了する見通し
2.3 遺伝子診断の限界
L、・、.
遺伝子診断の限界として、以下の2点が挙げられている。第1に、
死亡率や羅患率には、環境や行動など遺伝子以外の影響も及ぶという
ことである。若年者の交通事故による死亡が、その例の1つであり、
また、ある疾病を擢患するリスクが高いとされる素因を有していても、
実際にはその疾病に躍らない人もいる。第2に、遺伝子診断によって
得られる情報のすべて、もしくはいくらかを与えてくれる、他の情報
源が既に存在するということである。親をはじめとする親族の健康状
態が、その例である。危険選択における遺伝子診断の利用が禁じられ
ても、正確かつ詳細な家族歴が入手できれば、大きな問題にはならな
いとする研究報告もある。
また、たとえ診断方法が開発されても、適切な治療方法(例えば、
フェニルケトン尿症は、特殊なミルクを使うことによって発症を予防
できる)が存在しない場合に、結果を知らせることが適切であるかと
いった問題も生じている。実際、遺伝性疾患の多くに、予防法および
一235−
遺伝子情報と生命保険事業
治療法が存在しないため、診断結果を苦に、自殺するケースもみられ、
カウンセリング体制の充実が急務となっている。
保険の危険選択の関連で考えれば、実際に遺伝子診断によって、素
因が確認されうる疾病と、遺伝子診断によって擢患リスクを把握でき
ない疾病間の不公平が指摘されている。また、遺伝子診断の精度面で
の限界から、高リスクであるという診断を誤って受けた場合の不利益
も検討されている。また、遺伝子診断結果を危険選択に利用するため
の要件として、当該疾病に有効な治療法が存在することが、倫理的観
点から挙げられている。
2.4 遺伝子診断の特殊性
遺伝子診断の汎用化が進み、保険経営に有意な影響を及ぼすような
事態が起これば、保険会社の危険選択において、診断結果の利用を求
める動きが、ますます活発化するだろう。この場合、問題となるのは、
遺伝子情報の持つ特殊性である。他の医的情報といかなる点が異なる
のか、また、その違いは、本当に特殊といえるのかということである。
遺伝子情報が、他の医的情報と異なる点は、いくつか挙げられる。
第1に、遺伝子情報は、(突然変異を除き)原則として一生変わるこ
との無い固定情報であるという点である。全ての新生児の内、約5%
ご1、
が遺伝性疾患を持って生まれてくると考えられており、誰しも不都合
..:
な遺伝子を8つぐらいは隠し持っているとされる。例えば、ダウン症
は、理論的には約600分の1の確率で、どの家庭にも発生する可能性
があり、実測値は、日本1/677、デンマーク1/765、アメリカ1/636、
二、i・
イギリス1/666となっている。また、母親の年齢が高いほど発生率も
高い。すなわち、健康な人であっても、皆、異常遺伝子を有し得るが、
稀にしか疾病に帰結しないというだけのことである。しかしながら、
−236−
遺伝子情報と生命保険事業
遺伝病について十分な理解を持つ人は少なく、誤解や偏見が根強く残っ
ている。そのため、一度、ある遺伝病の保因者であるという事実が知
れると、様々な場面で、一生にわたる差別を受ける恐れがある。した
がって、遺伝病に対する誤解や偏見を予防する教育が必要であるとい
えるだろう。第2に、遺伝子診断結果は、受診者本人のみならず、家
族、親戚といった血縁者にも影響を与えるということである。ある人
が何らかの遺伝病の保因者である場合、その血縁者も保因者である可
能性が高いからである。従って、家族カウンセリングの需要が大きい
が、遺伝子に関するカウンセリングは困難であり、保険会社が積極的
な遺伝子診断結果の利用を控える一因となっている。第3に、診断結
果を知ることを望まない人も知らされてしまう可能性があり、自律性
を侵される恐れがある。アメリカ遺伝病基金の会長であり、母親をパ
ンチントン舞踏病で亡くしている、ナンシー・ウェクスラー女史は、
遺伝子診断の受診ならびにその結果を他人に知らせるか否かの選択は、
24)
個人の自由意思によるものであるとしている。第4に、優生思想を助
長する危険性も指摘されている。
これらの特徴により、遺伝子診断は特殊であるとみなされており、
その及ぼす影響の深刻さ、範囲、期間等から、遺伝子情報保護の重要
性が高くなっている。しかしながら、遺伝子診断を特殊とみなし、他
の医的診査と区別することに反対する意見もみられる。これに関して
は、3.遺伝子診断の定義の拡がりに関する懸念で取り上げる。
注9) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.19.
10) 遺伝子研究会(1996)『遺伝子検査と生命保険一遺伝子研究会報告書−』は
じめに
−237一
遺伝子情報と生命保険事業
11) 遺伝子研究会(1996)『遺伝子検査と生命保険一遺伝子研究会報告書−』,
p.36.
12) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,P.52.
13) Lynna Goch(1998)“Reading the Book of Life”&st’s Reuzett)・
L/H・November,pp.25−28.
14) Ernst−Perer Fischer and Kerstin Berberich(1999)Im如Ct OfM)
dem(Je7ldtr5(刀1Lfje血iranCe,Publications of the Cologne Re,p.18.
15) Lynna Goch(1998)“Reading the Book of Life”&st’s Remew・L/
H・November,pp.25−28,
16) 現在、日本において、医学的危険選択として家族歴は課されていない。
17) Ernst−Perer Fischer and Kerstin Berberich(1999)hJl如Ct OfMxJ−
em GmlehrS仇「もjbI7LSura7We,Publications of the C01ogne Re,p.5,
18) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.34.
19)・牧野弘志(1994)「英米におけるGenetic Testingと保険との関係一英米の
保険関連文献のリビューー」日本保険医学会・生命保険文化研究所 保険医
学・危険選択研究会,p.1.
・遺伝子研究会(1996)『遺伝子検査と生命保険一遺伝子研究会報告書−』,
pp.67−68.前記2資料に加筆。
20) Tom
Ross(1997)“Thelikely
industry
and
cornmerce
of
financialeffects
the
use
of
onindividuals,
genetlCinformation”mll−
OSOPhlCal71JallSaCtlO77S Bo10g2CalScleyuleS,Volume352,pp.1103−1106.
21) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.19.「約0.5%は、臨床症状のある染色体異常、約1%は単遺
伝子型の遺伝性疾患を持っている。その他の疾病は、多因子型疾病あるいは、
外部要因によるものである」
22) 加藤一郎・高久史麿編(1996)『遺伝子をめぐる諸問題一倫理的・法的・社
会的側面から一』日本評論社,p.59.
−238一
遺伝子情報と生命保険事業
23) 加藤一郎・高久史麿編(1996)『遺伝子をめぐる諸問題一倫理的・法的・社
会的側面から−』日本評論社,p.86.
24) ロビン・マッキー著、長野敬訳(1992)『遺伝子治療最前線』日経サイエン
ス社
3.遺伝子診断の定義の拡がリに関する懸念
現在の遺伝子診断技術において、診断可能であるのは、ほとんど単
一遺伝子疾患である。単一遺伝子疾患は、嚢胞性線維症やパンチント
ン舞踏病など重篤な症状を伴うものが多いが、我が国における羅患率
は低い。それに比して、多因子遺伝子疾患は頻度の面から、我が国の
危険選択において、より重要な意味を持つ。今後、遺伝子診断の技術
が進み、より多くの多因子遺伝子疾患に関しても診断が可能になれば、
遺伝子診断結果の利用の可否は大きな意味を持ってくるだろう。しか
しながら、少なくとも現時点において、遺伝子診断が生命保険会社の
経営に与える影響は、著しく低い。それにもかかわらず、保険会社が
強い懸念を抱く理由の一つに、遺伝子診断の定義が広まっていくこと
に対する恐れがある。
「全ての医学的検査はある程度遺伝学的影響を検出することができ
こ..1
る」ので、遺伝子診断の一般的な定義を見出すことは、現在に至るま
で不可能であった。したがって、遺伝子診断の定義は、遺伝子の変異
の存在を遺伝物質(DNA)のレベルで検出することという、狭義の
ものから、代謝産物の計測、臨床試験、家族歴、治療歴等を含む広義
のものまで、幅広いものとなっている。遺伝子情報や遺伝子診断に基
づいて危険選択を行うことが制限・禁止され、加えて、遺伝子診断の
定義が広義でとらえられた場合、危険選択における伝統的な医的診査
一239一
遺伝子情報と生命保険事業
やそれに基づく危険分類を行うことができなくなり、極論的には、保
険の技術的基礎を揺るがすような影響が生じるとされる。そのため、
保険会社は遺伝子診断の定義をできうる限り、狭義で考えようとする。
例えば、生命保険協会医務委員長の諮問機関として、1994年11月に、
我が国に発足した遺伝子研究会は、遺伝子診断を「病気の原因である
遺伝子の変化や感染した病原体の遺伝子をみつけだすことで病気を診
断する技術。遺伝子の本体がデオキシリボ核酸(DNA)と名づけら
れた化学物質であることからDNA診断とも呼ばれている」と定義し
ご‘
ている。
危険選択は逆選択の防止を目的として、生命保険事業が17世紀末に
イギリスで誕生して以来、実施されてきた。生命保険発祥当時は、生
命保険会社役員による加入申込者の面接、あるいは、加入申込者から
の誓約書の提出などが、危険選択の唯一の方法であったが、19世紀以
27)
降、医師による診査が危険選択に加えられ、現在に至っている。医学
的選択は、健康状態の申告である告知を中心に行われ、大きく「医師
..バ、
扱」と「面接士扱」と「告知書扱」の3種類に分類される。また、契
約者は、保険契約の際に、正しく告知することを義務づけられている
.1リ、
(告知義務)。
医学的選択の中に遺伝子診断を加えるべきかを考えるにあたり、A
CLI(米国生命保険協会)の1990年MAP調査結果が参考になると
思われる。これによると、生命保険会社が用いる特定危険の分類に対
して、消費者は、個人で、ある程度の選択が可能な危険要素に関して
は公平であると受けとめる傾向があるが、個人ではコントロール不能
な危険要素に関しては、不公平であると考えるという。各危険要素の
使用に対し、公平であるとする回答者の割合は、喫煙(67%)、危険
の多い趣味(57%)、性(51%)、危険職業(46%)、エイズ・ウイ
ー240−
遺伝子情報と生命保険事業
ルス陽性(40%)、心臓麻痺歴(33%)、痺(21%)、痛遺伝子素質
.Ell、
(14%)、となっている。また、「歴史的に、生命保険申込者に対し
てその人の死亡または就業不能に関連する危険に応じた料率を賦課す
る慣行は、社会の大多数の人びとから公平であると考えられてきた。
しかし近年、危険分類を行うことの公平性について社会の受けとめ方
は変わりつつあり、公平であるとする人の割合は低下してきている」
、Il、
という。
上記の調査結果を前提に考えると、エイズを、ホモセクシャルや
IVドラッグのユーザー、血友病患者等の問題とみなし、自らは関係
ないと考えて、生命保険会社がHIV抗体検査を実施することに異
議を唱えなかった人も、遺伝子診断に関しては、異なる態度を示し得
る。
遺伝子は、自ら選択することができず、誰しも多かれ少なかれ遺伝
子に欠陥を持っている。喫煙等とは異なり、自らの意志では如何とも
し難いことで、差別を受けるのは不公正であるとして、保険会社が遺
伝子診断結果を危険選択に用いることを制限しようとする動きが、近
年、数多くみられる。しかしながら、自ら選択できないのは、性別、
および心臓病などの疾患も同様であるため、それらとの公平性という
観点からみて、遺伝子診断のみを特殊とする根拠はないと反論する意
見もある。この点に関しては、遺伝子診断結果が与える影響の大きさ
や、その影響が受診者本人にとどまらず、家族・親族・子孫にまで及
ぶという特殊性を考慮した上で、慎重に議論を進めていく必要がある
だろう。
241−
遺伝子情報と生命保険事業
注25) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.45
26) 遺伝子研究会報告(1997)「遺伝子検査と生命保険」『日本保険医学会誌』
第95巻,P.176.
27) 生命保険新実務講座編集委員会・財団法人生命保険文化研究所編(1990)
『生命保険新実務講座2 経営管理』有斐閣,p.328.によると、生命保険の
危険選択は、以下の5段階に分けられる。すなわち、第1次選択(営業員によ
る面接、質問、観察)、第2次選択(告知、診査、その他の選択制度)、第3
次選択(査定、決定)、第4次選択(契約確認)、第5次選択(保険金および給
付金支払時の査定、決定)、である。
28) 生命保険新実務講座編集委員会・財団法人生命保険文化研究所編(1990)
『生命保険新実務講座2 経営管理』有斐閣,p.340.
1.医師の診査(診断)書による方法…社医、あるいは嘱託医の診査書によ
る方法である。
2.1団体の健康管理の証明書を利用する方法・=いわゆる個別代用診査、一括
代用診査およびその変形として「人間ドック」成績を利用する方法がある。
3.生命保険面接士による方法
4.告知書のみによる方法
29) 木村栄一・近見正彦・安井信夫・黒田奉行著(1993)『保険入門』有斐閣,用
語解説。
告知義務 「保険契約締結の当時、保険契約者または被保険者が保険者に、
重要な事項について不実を告げてはならないという義務。重要な事実または事
項は、危険測定上重要で、もし保険者がこれを知っていれば、契約しなかった
または契約するとしても前と同じ条件では契約しなかったであろう事実または
事項である。悪意または重大な過失によりこれに違反したときは、保険者は契
約を解除することができる(商法644粂1項、678条2項)。解除は将来に向かっ
て効力を生じ、支払った保険料は返還されない。保険事故発生後に解除したと
きでも、保険者は保険金支払義務を負わない(商法645条2項、678粂2項)。た
だし、保険者がその事実を知り、または過失によりこれを知らなかった場合お
よび解除の原因を知ってから1ケ月または契約の時から5年を経過したときは、
解除できない(商法644条1項但書・2項、678粂1項・2項)。」
一242−
遺伝子情報と生命保険事業
30) KBlack,Jr.and H.D.Skipper,Jr.(1996)Lljbl)LSuraWe7ltt,ljth
以1わの7(訳『生命保険第12版』安井信夫監訳 江澤雅彦他訳,財団法人生命
保険文化研究所),p.504.
31) K.Black,Jr.and H.D,Skipper,Jr.(1996)Llfe hLSliranCe77t,eljIh
五戒加〃(訳『生命保険第12版』安井信夫監訳 江澤雅彦他訳,財団法人生命
保険文化研究所),p.504.
4.遺伝子診断をめぐる諸問題
遺伝子診断をめぐり、様々な問題が存在している。表4は保険会社
と消費者それぞれの持つ懸念が、まとめられたものである。以下では、
表4を参考にしながら、遺伝子診断をめぐる主要な問題を論じていき
たい。
表4 保険会社および消費者の主な懸念事項
保 険 会 社
・逆 選 択
(
a d v e r se −
Se le c tio n )
・競 争
・不 必 要 な差 別 の 回 避
・反 対 す る 世論 や 法 制 化 の 回 避
消 費 者
・基 本 的 な 生命 保 険 や 医 療 保 険 を得 るた め に検 査 を 受 け る 重 圧
・高 リス ク の結 果 の 機 密 性 (デ ー タ悪 用 に 関す る 懸念 )
・高 リス ク の結 果 に 伴 う差 別 や ス テ イ グマ
・低 い リ ス ク結 果 を も とに 手 ごろ な 保 険 を入 手 した い と 望 む こ と
出所:Ernst∼PererFischerandKerstinBerberich(1999)hnfklCtOflMml
GenetlCSOnLijbhsuranLTe,PublicationsoftheCologneRe,p.85.
4.1逆選択
遺伝子診断の結果により、羅息や早期死亡のリスクが高いことを知っ
た人には、遺伝子診断結果の不利な情報を告知せずに、新しい保険あ
るいは高額な保険金額を購入するインセンティブが働く。医的情報に
−243−
遺伝子情報と生命保険事業
関して、情報の非対称性が存在し、法律の規制等により適正な危険選
択が不可能な状況下では、生命保険会社がリスクの高い保険申込者を
不適正な低料率に位置付けてしまう恐れが大きい。逆選択の影響が極
端な場合には、非健常者(遺伝子異常を持つ人)による保険金請求が
増加することで、保険料の高騰が起こり、保険市場から多くの健常者
が流出する。ひいては、保険システムの崩壊につながるとされる。
現在、保険会社は、道徳的危険の1つである、いわゆる「逆選択」
による保険計理の悪化に対して、大きく2つの対処法を考えている。
すなわち、1.保険加入に際して遺伝子診断を義務付ける方法と2.
遺伝子診断を受けるなどして、リスクが高いことを知っている場合に、
告知義務を課するという方法である。今のところ、保険会社は全世界
的に、遺伝子診断を保険申込者に対して、積極的には課していない。
しかしながら、公正な危険分類のために、少なくとも過去に受けた検
.1:l
査結果を知りたいと考えており、我が国の生命保険会社もその姿勢を
とっている。したがって、2が保険業界において、現実的な望ましい
対処法とされる。また、乳癌に対して生命保険会社が設けている、待
ち期間(waiting period)のようなものを、採り入れることも検討
されている。
逆選択の議論においては、従来、保険会社の経営に与える影響とい
う論点から多くが論じられてきたが、現在は、正常な遺伝子を持った
人と遺伝子異常を持つ人との間の公平性という問題が、議論の中心に
なっている。なぜなら、少なくとも現時点では、遺伝子診断が臨床に
おいて汎用されてはいないので、その数理的影響が無視できるレベル
にあるからである。
保険会社の主張によれば、遺伝子診断によって多くの人が正常であ
るとみなされ、異常とみなされる結果は、ごく少数である。また、も
1244−
遺伝子情報と生命保険事業
し、診断を受けなければ、謝絶されるであろう人も付保可能になりう
るし(例えば、パンチントン舞踏病の患者を父母の一方に持つ人が、
欠陥遺伝子をもらう可能性は2分の1であるが、欠陥遺伝子がないこ
とがわかれば、標準料率での保険加入が可能になる)、多くの人が、
より自らのリスクに応じた料率で保険を入手することができるとされ
る。低リスクの人には、低い保険料で保険に加入できるというメリッ
トがある。米国生保協会(ACLI)も、保険契約者間の公平性という
観点から、遺伝子診断結果を危険選択に用いることに対して、賛成の
立場をとっている。しかし、真に保障の必要な高リスクの集団が保険
に加入することが困難になりかねないという懸念も生じており、それ
らの人に対するアプローチをいかに考えるかという問題が提起されて
いる。
4.2 遺伝子診断をめぐる大衆の不安と保険会社の対応
遺伝子診断の結果が陽性であった人は、健康(発症前)であるにも
かかわらず、社会の様々な機関により、あたかも高度障害を持ってい
るか、慢性的に病気であるかのように扱われる。しかしながら、たと
え将来、ある疾病(例えば、パンチントン舞踏病。パンチントン舞踏
病は、常染色体優性遺伝形式の単一遺伝子疾患であり、欠陥遺伝子の
持ち主のほぼ全員が発病する。図2を参照。)に躍る素因を持つこと
が遺伝子診断によってわかったとしても、遺伝子診断受診時に発症前
であれば、そのような人は健常者とみなされるべきであるという議論
がある。
245
遺伝子情報と生命保険事業
図2 遺伝病の遺伝形式
常染色体優性遺伝形式
I
AA
AA
AA
AA’ AAr
AA
常染色体劣性遺伝形式
I
Ⅲ
Ⅲ
AA
二
AA. A’A’ AA.
伴性遺伝形式
I
XY
XY
XX’XXL
X’Y
XY
XX.XX
口は男性、○は女性、Aは正常遺伝子、Alは変異遺伝子、
Xは正常遺伝子、X’は変異遺伝子、黒く塗ったのは患者
出所:松田一郎(1999)『動きだした遺伝子医療一差し迫った倫理的問題
−』裳華房,p.42.
注)常染色体劣性遺伝形式の例として、嚢胞性腺維症、フェルニケトン
尿症、サラセミア、鎌状赤血球症などが、挙げられる。Ⅹ染色体に
連鎖した伴性遺伝病の例には、筋ジストロフィー、血友病がある。
これに対して、遺伝子診断結果は危険選択において有意な情報であ
り、保険数理的公平性から鑑みて、その利用は妥当であると保険会社
一246一
遺伝子情報と生命保険事業
は主張する。パンチントン舞踏病の遺伝子を持っている人は、発症前
であるとはいえ、後年必ず発症することがわかっているので、通常の
保険リスク水準にあるとは考えられない。また、癌やアルツハイマー
病等の多因子遺伝子疾患に関しては、環境因子の作用もあり、問題の
疾患に躍らない場合もあるが、その場合においても、通常のリスク水
準とはみなされない。これは、オリンピック選手と高齢者の疾患リス
クが同水準とみなされないのと同じ理論であるとされる。また、保険
加入に際して、遺伝子診断結果による差別を受けるのではないかとい
う一般大衆の不安は、根拠の薄いものであり、一般大衆が生命保険制
度や遺伝子診断を十分に理解していないこと、ならびに生命保険会社
に対する偏見が、そのような不安を喚起していると、主張する保険会
、ほ
社もある。
一般大衆、遺伝子研究者、医師等による反発や立法化措置に対して、
保険会社、特にアクチュアリーは、保険数理的公平性や経営の安定性
34)
という観点から抗しているが、十分な理解を得ているとは言い難い。
保険会社による遺伝子診断結果の利用を制限する法律制定に、賛成の
立場をとる人びとは、遺伝子診断結果による危険選択は不公正であり、
保険会社は、グッドリスクの人のみを保険に加入させる、いわゆる
、−1
“cherry picking”を行うだろうと批判する。加えて、遺伝子診断
結果が及ぼす影響は保険加入のみにとどまらないことや、誰しもいく
つかの遺伝子の欠陥や、ある疾患にかかりやすい素因を有していると
いった理由から、保険会社が遺伝子診断結果を危険選択に用いるとい
うことに対して、心理的な抵抗を感じたり、情緒的に過敏に反応する
ことも考えられる。
遺伝子診断受診を考える人は、受診後も保険を入手できるか、また、
職務上、不当な差別を受けはしないかと懸念する。これは、少数では
一247−
遺伝子情報と生命保険事業
あるが、遺伝子による差別(genetic discrimination)が既に存在
しているからである。医師は、人々が遺伝子差別を恐れ、遺伝子診断
の受診を躊躇するために、予防や早期発見がなされないことを危倶し
ている。
これらの恐れに対して保険会社は、付保可能性に関する懸念はごく
一部の人にしかあたらず、遺伝子診断や治療法に関する理解や進歩の
度合いが高まれば、将来的には、それらの人びとのリスクも軽減され、
引受の範疇に加わっていくだろうと説明している。また、ある疾患
になりやすい素因を持つ人による逆選択のリスクが、医療の監視およ
びライフスタイルの改善による予防効果で相殺される可能性も指摘さ
れている。さらに、自由市場がうまく機能すれば、最大多数の人びと
には、より低い料率で保険を供給することが可能となるであろうし、
保険会社の中には、高リスクの人に向けての戦略を進んで展開すると
36)
ころも出てくるだろうと考えられている。また、遺伝病の家系の人で
あっても、診断結果が陰性であれば、標準料率で保険に加入できると
.1丁.
いう。逆に、保険申込者の遺伝子診断結果が平均を大きく上回る、良
い結果であった場合には、人びとが、自らのリスクに見合った低い保
険料設定を、生命保険会社に要求するのではないかと予測する保険会
.1、
社もある。
以上、遺伝子診断をめぐる大衆の不安と保険会社の対応の現状を概
観した。リスクの高低によって異なる処置を施すことのすべてが、遺
伝子差別につながるというわけではない。また、保険事業が社会的な
重要性を有するとはいえ、保険会社はあくまで民間営利団体であって、
慈善事業団体ではない。しかしながら、たとえ保険数理的には、公平
で合理的な区別であっても、倫理的にみて、受容できない場合も考え
コリ
られる。また、従来、生命保険事業は、遺伝子情報なしに、行われて
−248−
遺伝子情報と生命保険事業
きたし、保険会社が料率算定に用いる数理的基礎にも、既に遺伝病は
反映されているという指摘がある。今後、遺伝子学の発展に伴い、遺
伝子診断技術も高度化し、保険会社の危険選択における遺伝子診断の
位置付けも変わりうる。しかしながら、当面は、従来通りの対応が続
くと予測されているし、遺伝子情報保護、ならびに保険加入を謝絶さ
れる人々に対する、具体的な方針が成立するまでは、それが望ましい
と思われる。
4.3 第三者(保険会社・雇用主)の知る権利とプライバシー問題
表51992年3月の世論調査
あ る人 が 異 常 遺 伝子 も し く は遺 伝 病 を有 して い る こと を 、 他 の 者 が 知 る権 利 を持 つ か
いいえ
わ か らな い
はい
41%
2 %
57 %
誰 が 知 るべ き か
配 偶者 も し く は婚 約 者
他 の親 族
保険会社
雇 用 者
98 %
70%
58 %
33%
出所:Sc糾われA刑の㌢C(〃1994年6月,pp.71−72.
表5は、1992年3月に行われた米国における世論調査である。これ
によると、ある人が異常遺伝子の保有者であること、あるいは、遺伝
病を有していることを、他の者が知る権利を持つと答えた人は57%で
あった。誰が知るべきかという点に関して、配偶者や婚約者、親族は、
高い数値を得たが、第三者である保険会社や雇用者は、比較的低い数
値にとどまった。数値の高低は見られるかもしれないが、我が国で調
査を行っても、同様な結果が得られると思われる。
−2491
遺伝子情報と生命保険事業
表6 経済協力開発機構(OECD)による個人データ保護についてのガイドライン
王 収 集 制 限 の 原 則
… デ ー タ の 収 集 に制 限 を設 け る べ き で あ る と い う原 則 。 適法 か つ 公 正 に お こな う べ き
で あ る と され る。
乏ノ テ 一 夕 内 容 の 原 則
・ デ ー タ は 利 用 目的 に沿 っ た もの で あ る べ きで 、 目 的 に 必 要 な 範 囲 にお い て 、 正 確 、
完 全 、 最 新 の も ので あ る べ き と い う原 則
昔 日的 明 確 化 の 原 則
… デ ー タ の 収 集 目的 は明 確 で な け れ ば な らな い と い う原 則
④ 利用制限の原則
… 対 象 者 の 同 意 また は法 律 の 規 定 に よ る 場 合 以 外 は 、 デ ー タ は 、 明 確 に され た 目 的 以
外 の 目的 に使 用 され て は な らな い とい う原 則
⑤ 安全保護の原則
… デ ー タ が 紛 失 、 破 壊 、 開 示 等 の 危 険 か ら合 理 的 な安 全 措 置 に よ って 守 られ な け れ ば
な らな い と い う原 則
⑥ ・
公開の原則
‥個 人 情 報 に 関 係 す る シ ス テ ム の 開 発 、 運 用 、 政 策 に つ い て は 、 公 開 の 政 策 が と ら れ
な け れ ば な らな い と い う 原 則
⑦ 個人参加の原則
… 個 人 は 、 自己 に 関す る デ ー タ が あ る か 否 か の確 認 を し、 そ の デ ー タ に対 し て 異 議 を
述 べ 、 消 去 、 修 正 、補 正 な どを 求 め る こ とが で き る とい う原 則
⑧ 責任の原則
… 以 上 の 責 任 をデ ー タ管 理 者 が 負 う と い う原 則
出所:木村達也・植田勝博・小谷寛子編(1999)『消費者被害救済の上手な対処法[全訂
増補版]』民事法研究会,pp.462−463
く1980年9月23日採択「プライバシー保護と個人データの国際流通についての
ガイドライン」第2部 国内適用における基本原則(7粂∼14粂)>
遺伝子診断の利用に関して、取り上げられる問題の一つに、保険会
社ならびに雇用主といった第三者の知る権利と受診者本人のプライバ
シーとの関わりをどのように考えるかということがある。第三者によ
る遺伝子診断結果の利用は、遺伝子差別(genetic discrimination)
ならびに、プライバシー問題を惹き起こす危険をはらむことが指摘
−250−
遺伝子情報と生命保険事業
されている。遺伝子情報は、「プライバシーの塊」と言われている。し
たがって、利用に際しては、その十分な保護が必要とされるが、我が
国においては、民間部門で保有されている個人情報を保護するための
法律はまだ制定されていない。そのため、顧客のプライバシーは、各
業界の自主規制に委ねられている。しかしながら、近年、顧客データ
の流出が相次いでおり、法的整備が急がれている。
表6は、OECD による個人データ保護についてのガイドラインで
ある。OECDは、このガイドラインを実質的に遵守していない国に
対するデータの流通を制限することを勧告している。
世界的に見ると、経済協力開発機構(OECD)加盟29カ国中26カ
国で個人情報保護法が制定されており、OECD加盟国ではない香港、
台湾においても、1995年に制定されている。このような、国際的な個
人データ保護動向を受けて、我が国における「金融機関等における個
人データ保護のための取扱指針(「FISC指針」)が1999年4月に大
幅に改定された。生命保険業界も,社団法人生命保険協会を中心に検
討を進め、「FISC指針」に準拠しつつ、生命保険業の特性も踏まえ
て、「生命保険業における個人データ保護のための取扱指針」を改訂
40)
した。
注32) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.48.ABI(英国保険協会)規約(草案)の重要な特徴の一つ
として、「保険申込者は、遺伝子検査を受けることを要求されることは無い。
ただし、その情報提供は要求されないと明記されている場合を除き、保険会社
が適当な回答を求めている時には、既に行われた検査の結果を提出しなければ
ならない」とある。
33) Richard
E.Braun(199g)“Public
fiction’’RelnSuranCe
Repo71eY/Fh/st
fears:Separating
Qliarter,pp.17−22.
一251一
fact
from
遺伝子情報と生命保険事業
34) R・J・ポコルスキー(1995)「世界的に忍びよる生命保険危険選択への脅
威」『インシュアランス 生保版』第3655号,p.9.「遺伝子分野における最
近の科学的進歩は、医学、倫理、社会的に様々な問題を提起することになりま
した。こうした議論のなかで、保険は特に目立った位置におかれています。消
費者側からすると、将来、遺伝情報をもとにした保険会社による引き受け拒否
やプライバシー侵害への懸念があります。医師は、遺伝子検査結果により、保
険加入拒否となる可能性を怖れる患者が検査を受けず、よって予防や早期発見
の妨げとなることを案じています。保険会社は申込者が自己の遺伝的素因を知
りながら保険システムを乱用しようとするのではと懸念しています」
35) Charles
S.Jones(1998)“The
rush
tolegislate’’cmdlngelZCleS
一\1)相川わplノβPCg〝7毎γ,pp.18−24.
36) Richard
E.Braun(1999)“Public
fears:Separating
fact
from
fiction”肋間SILralu:e&PwlajFlγSlGharter,pp.17−22.
37) RobertJ.Pokorski(1998)“A
test
for
theinsuranceindustry”
.\’一1THPE.Vo1391,26February,pp.835−836.
38) アヒム・レーゲナウアー(1999)「遺伝子検査と生命保険の基礎(下)」
『インシュアランス 生保版』,pp.10−13.
39) Onora
some
O’Neill(1997)“GeneticinformatlOn
ethicalissues’’phllosophlCal
Transactl0nS
andinsurance:
Blnlnglral
SclenCeS,
Volume352,pplO87−1093.
40) 「生命保険協会会報1999年第2号」pp.44−46.
5.遺伝子診断と HlV抗体検査との比較
遺伝子診断をめぐる今後の動向を占う際に参考となるのが、米国に
41)
おける HIV抗体検査導入の経緯を検討することである。日本にお
けるエイズ患者届出数が、1999年10月31日現在、2,165人(厚生省ホー
ムページ)であるのに対し、米国では1998年11月15日現在、691,647
人(WHO報告)となっている。今日、エイズ問題が米国の生命保
−252−
遺伝子情報と生命保険事業
険事業に与える影響は、無視できないものとなっている。現時点では、
エイズの方が遺伝子診断よりも、より明白で直接的な影響を生命保険
会社の経営に与えることや、感染の有無をHIV抗体検査以外の方
法で識別できないこと、大衆の意識の相違等も考慮する必要があるが、
基本的には、遺伝子診断への対応も、HIV抗体検査への対応の延長
線上にあると考えられる。
42)
リスクに対する保険医学的対応には、以下の二つがある。すなわち、
(彰新契約時に適切な危険選択を行い、逆選択等の危険の高い契約を排
除する、②保険料値上げにより契約者全体がリスクを負担する、であ
り、前者が望ましいとされる。保険会社が、遺伝子診断やHIV抗
体検査の利用を望むことも、(彰の観点から説明される。
HIV抗体検査を危険選択に最初に導入したのは、米国で1985年で
あった。しかしながら、当初は、高額契約に対してしか行われなかっ
たために、逆選択が多く発生した。また、危険選択におけるHIV抗
体検査利用を禁止する州がみられた。禁止の理由は、抗体検査の精度
に疑問があるということ、ならびに、抗体陽性者すべてが必ずしもエ
イズを発症するとは限らないという誤った認識であった。後の研究で、
HIV感染者のはぼ100%がエイズを発症し、不顕性感染はないと推
測されるに至り、また、検査方法も高度の正確性があり信頼に足るも
のと認められた。
このように、HIVがエイズの原因であることが明らかになったこ
とで、「HIV感染者のみを特別扱いし保険加入を認めることは,際
尿病や心臓病など他の病気で保険加入が出来ない人々を逆差別し,健
康な保険契約者に不当なコスト負担を強いることになる」と考えられ
るようになった。また、抗体検査を禁止していたワシントンDC等
の州から,保険会社が相次いで撤退する動きも見られ、1988年末まで
−253−
遺伝子情報と生命保険事業
には、生命保険の査定に抗体検査を用いることを禁止する州がなくなっ
た。
米国のエイズに対する危険選択(新契約時)の具体策は、①告知受領、
②抗体検査の実施、③情報交換制度の三本柱となっている。米国では
ほとんどの会社で、保険金額10万ドル以上の新契約時に、抗体検査を
実施している。HIV感染者の多い地域では、さらに低い金額(5万
∼7万5千ドル)から実施しており、年齢や保険金額を理由とした検
査を行うことが許されている。しかしながら、性的嗜好や婚姻状況の
ようなライフスタイル、居住地、職業等を理由とする実施は禁じられ
ている。また、医療保険に関しては、その必要度の高さから、現在も
禁止する州がみられる。ヨーロッパにおいても、1986年から1988年頃
にかけてHIV抗体検査が相次いで導入され、現在ではほとんどの国
で実施されている。しかしながら、我が国においては、費用対効果と
いう観点から導入が見送られている。
以上、米国におけるHIV抗体検査導入の経緯を概観したが、遺伝
子診断結果の危険選択における利用に関しても、遺伝子診断の汎用化
が進み、経営に有意な影響を及ぼすような事態が起これば、HIV抗
体検査と同様な経緯を踏襲していく可能性があると思われる。また、
プライバシー問題や、差別問題という観点からも、米国および西欧諸
国におけるHIV抗体検査の扱いは、参考になると思われる。
注41)・日本保険医学会(1993)『日本保険医学会 海外調査報告書』pp.16−19.
・日本保険医学会(1993)『AIDSと保険医学−A研究会報告書−』
・Gene
Held(1998)“Testing
the
watersin
the
Gene
Pool”
C(鋸柄IRt,)7neS November/December,pP.25−29.
42) 日本保険医学会(1993)『日本保険医学会 海外調査報告書』p.は
254−
遺伝子情報と生命保険事業
6.遺伝子情報をめぐる欧米諸国と日本の動向
6.1欧米諸国の現状
欧米では、近年、生命保険、所得補償保険、長期介護保険等への加
43)
入を当然の権利と主張する動きが見られ、生命保険事業に脅威を与え
るものとなっている。これに対して、生命保険業界では、ある一定額
までならば、無審査で保険を提供するということや、リスクに見合っ
た高い保険料率を設定すること、ならびに遺伝子診断を受けた者に、
その結果如何を問わず、強制的に保険加入する義務を持たせるなどの
解決策を考えている。
数カ国で、遺伝子診断と民間保険に関する特別法、ならびに保険協
会等による公式な声明が出されており、各国の姿勢は、大きく以下の
44)
4つに分類される。すなわち、①遺伝子診断ならびに遺伝子情報を利
用することを全面的に禁止する、②危険選択過程において、既に受け
られた遺伝子診断結果は要求するが、一般的には、遺伝子診断を受け
ることを保険会社は要求しない、③危険選択過程において既に受けら
れた遺伝子診断結果の開示を要求しないと同時に、遺伝子診断を受け
ることも要求しない、④危険選択における規制が全くない、というも
のである。
表7は、各国の法律制定年や、業界による公的声明がまとめられた
ものである。
ー255−
遺伝子情報と生命保険事業
表7 各国の法規制と保険業界による公的声明
国 名
法律制定年
ベ ル ギ ー
1 99 2
フ ラ ン ス
オ ー ス トリ ア
ノル ウェー
199 4
デ ンマ ー ク
19 97
オ ラ ン ダ
199 8
イ ギ
ド 足
F F S A (F )199 4
19 97 (199 0)
G D V 19 9 7
(L V C 19 9−
8)
ツ
ス ウェ ー デ ン
ヨー ロッパ レ′
勺レ
補 A B I 19 98
B in d in g C o d e
(199 7)
リ ス
イ 最近 の業 界 によ る
公的声 明
(
最 初 の もの)
1998 ,
B in din g Co d e
199 7
1.C o n v en tio n o n H u m an R ig h ts a n d
B io m e d ic in e (
EC)
2.D raft R ec o m m e n d atio n o n M e d ic al
E x ami n atio n s R e ce d in g E m p lo ym en t
199 8
(19 96 )
o r P riv a te IrB u r a n C e (
E u r op e an
H eal th C o m m itte e ),V e rsio n :10/19 96
ニュージーラン ド
19 93
オ 十ストラリア
L IS A 19 9 7 (19 96)
アメリカ合衆国
A C L I 19 97
(
A C L IT H IA A
19 9 1)
生命 保 険 :
連 邦 レベ ル :法 律 な し
州 レベ ル
:就 業 不 能 保 険 , 長 期 介 護
保 険 に 関す る法 律 が 複 数
あり
医療 保 険 :
連 邦 レベ ル :H IP A A 19 96
州 レベ ル :9 8年 8 月現 在 24州 に 法 律
あり
出所:ErnsLPererFischerandKerstinBerberich(1999)hn卸CtOj.JMern
GenetlCSalLiji,17lSZm17uqe,PublicationsoftheC01ogneRe,P.103.
ー256−
遺伝子情報と生命保険事業
危険選択において、遺伝子情報を利用することに関する一時的なモ
ラトリアム、および他の制限は、ベルギー、フランス、オーストリア、
い・
ノルウェー、オランダ等で既に実施されている。これらの諸国では、
危険選択のために、遺伝子情報の開示を要請することが許されない。
最も厳しい制限がなされているのは、フランスであり、遺伝子研究に
際しても国への届出や審査が必要とされる。また、遺伝子診断の実施
は、裁判所の要請か、医療・医学目的に限られており、保険業連合は、
1994年から5年間、遺伝子診断結果を危険選択に利用しないというモ
46)
ラトリアムを、2004年まで延長した。表8は、各国の遺伝子診断をめ
ぐる現状を概観したものである。
ー257−
遺伝子情報と生命保険事業
表8 危険選択に際して、遺伝子診断を受けることを要求する権利
および遺伝子診断結果を開示する義務に関する概観
国 名
法律制定(
L )/
業界の公式声明(
S)
遺 伝子診断
受 診を要求
す る権 利
詳 述
結果を開示
す る義 務
ベ ル ギ ー
L
なし
なし
フ ラ ン ス
オース トリア
ノル ウ ェー
L
なし
なし
デ ンマ ー ク
L
なし
なし
詳 述
・D N A −R N A に 基
づ く テ ス ト以 外 も含
む。
・家 族 歴 に 関 す る質 問
は 、 ま だ 許 され て い
る
オ ラ ン ダ
S
な し/例 外
あり
例外 :
な し/例外
プ ライ バ シ ー を あ り
侵 害 しな い段 階
まで は可
例外 :
・あ る 制 限 額 を超 え る
場合は、義務が生 じ
る
・あ る 制 限 額 ま で は、
家 族 歴 に 関 す る質 問
は許されな い
イ ギ リ ス
S
なし
あ り/例 外
あり
ド イ ツ
S
なし
あ り
スウェ十デン
S
なし
あ り/例 外
あり
ヨーロヅ てレベル
1.E u r o p e a n
C o u n c i1
1 .な し/(
例
外 あ り)
2 .E u ro p e a n
H e a lth
C o m m itte e
(10/9 6)
2 .な し/(
例
外 あ り)
ニュージ」ランド L
・例 外 は あ り う 1.な し/(例
るが、あま り
外 あ り)
ない
・例 外 :額 に よ 不 明
る制限
なし
あり
オー
ー
ストラリア
S
なし
あり
アメリカ合衆国
S
あり
あり
10 万 ボ ン ドま で の 生 命
保 険 、 住 宅 ロー ン は、
義 務 が 生 じな い
例外 :
・総 額 :約 3 万 2 千米
国 ドル /
年 金 :約 2 千 米 国 ド
ル まで 、 義 務 は な い
・「
差 別 」は 、 定 義 さ れ
て いな い
・例 外 は あ り うる
出所:Erns仁PererFischerandKerstinBerberich(1999)Im如CtOfル緑emGenehcson
LijiJ71SumnCe,PublicationsoftheCologneRe,p.126.
一258一
遺伝子情報と生命保険事業
6.2 イギリスの現状
イギリスにおいては、1948年に誕生した国民保健医療機構(NHS=
NationalHealth Service)によって、疾病予防やリハビリテーショ
ンを含めた包括的な医療サービスが全国民に提供されているため、医
療保険の問題は、米国ほどには大きな懸念事項とならない。したがっ
て、遺伝子診断をめぐる議論においては、日本と同様に生命保険が問
題の中心になっている。
遺伝子診断に関する英国保険業界の方針として、ABI(英国保険協
1T、
会)規約(草案)があり、その重要な特徴は、表9の通りである。
表9 ABl堤約の主な特徴
保険会社は遺伝子診断を強要しない
遺伝子診断の結果は、それが羅患あるいは死亡のリスクを増加させることが明
確な場合にのみ、保険に影響する。少量のリスク増加は、必ずしも保険料に影
響しない
遺伝子診断の結果が保険に及ぼす影響を査定する場合、保険会社は常に医療専
門家の助言を求める
保険会社は、検査結果の信頼性と妥当性が確立した場合のみ、それを考慮する
保険申込者は、遺伝子診断を受けることを要求されることは無い。ただし、遺
伝子診断の結果に関する情報提供は要求されないと明記されている場合を除き、
保険会社が適当な回答を求めている時には、既に行われた検査結果を提出する
必要がある
保険申込者は、本人以外(血縁の者など)の受けた遺伝子診断結果を提示するこ
とを要求されない。一個人の検査情報が、他の個人の保険申込に影響を与える
ことは無い
保険料の増加あるいは、保険申込の拒否の理由は、請求があれば、申込者の担
当医師に提供される
保険会社は、遺伝子診断の結果によって、通常より低い保険料を設定すること
は無い
一259−
遺伝子情報と生命保険事業
英国保険協会(ABI)が、規約(草案)において、保険申込者に遺伝
子診断の受診を強要しないとしたものの、既に行われた診断結果を見
る権利は保留したために、下院特別委員会は、その様な立場は再検討
されるべきだとした。また、人類遺伝学諮問委員会は、保険事業と遺
伝子診断の関わりを検討し、業界は十分な措置を取っていないとの見
解を表明している。それを受けて、ABIは、£100,000(約150,000ユー
ロ)までの住宅ローン関係事業では、過去の遺伝子診断情報は無視す
48)
ることに変更した。一部の業者は、それを超える変更さえもしている。
その後、協会は、既に行われた遺伝子診断結果に関して、1999年か
ら告知義務を謀するという声明を出すに至った。また、政府、保険業
界、諮問委員会共同の、独立した遺伝子診断評価システムが1999年初
に設置され、生命保険会社が使用してもよい遺伝子診断を特定し、認
用)
可する試みが同年4月から開始されているという。
6.3 米国の現状および我が国との相違
米国には、全国民を対象にした包括的な医療保険制度が存在せず、
市場の自由競争や自己責任の精神を原則として、医療システムが市場
原理に委ねられている。公的医療保険制度は、高齢者の医療を保障す
るメディケアと、低所得者への医療扶助であるメディケイドの2つの
みしか存在しない。したがって、大半の人々は,雇用されている企業
・こ・1
を通して、あるいは個人で民間の医療保険に加入している。しかしな
がら、企業が従業員に医療保険を給付する法的義務はなく、保険給付
のない中小企業や不安定な雇用状態にある労働者、および失業者等は
医療保険を得られないことが多い。米国は、医学研究や医療技術にお
.、l
いて世界一の水準を誇っているが、これらの無保険者は医療へのアク
セス自体を保障されない状況にあり、大きな社会問題となっている
−260−
遺伝子情報と生命保険事業
(表10参照)。
表10 米国の医療保障受給実態
・ 雇 用 さ れ て い る 企 業 を 通 じ て 医 療 保 険 に 加 入 し て い る 人 ・= 総 人 口 の 六 割 弱
・ 個 人 で 加 入 し て い る 人 ‥ ・一 割 弱
・メ デ ィ ケ ア の 対 象 と な っ て い る 6 5歳 以 上 の 高 齢 者 と メ デ ィ ケ イ ド の 対 象 と な っ て
い る 低 所 得 者 =合 わ せ て 二 割 弱
・ 無 保 険 者 … 残 り の 約 一 割 五 分 の 人 〈1 9 9 6 年 で 約 4 0 6 0 万 人 〉
出所:児島美都子・中村永司・杉山章子編著(1999)『国際医療福祉最前線』
勤草書房,p.87.
国民全体を対象とした一般的な公的医療保険制度を持たない米国の
人びとにとっては、民間医療保険加入の可否や保険料率が、生活に大
きな影響をもたらす。民間の医療保険に加入できなければ、医療費は
自己負担になるし、保険加入ができなければ、そもそも医療を受ける
こと自体が困難になってくる。したがって、こと医療保険に関しては、
遺伝子診断結果を危険選択に用いるか否かという決定が、我が国にお
けるよりも大きな意味を持っている。
1993年のNIH(アメリカ国立保健研究所)のレポートは、遺伝子
情報の利用により、医療保険を謝絶すべきでないと結論付けている。
また、クリントン大統領も「何人も遺伝子情報によって差別されるべ
きではない」という声明を発表している。1996年8月にクリントン大
統領がサインしたthe Health Coverage Availability and Af−
52)
fordability Actは、団体医療保険に関して、実際に発症していな
い場合に、無症候性の疾病の徴候として、遺伝子情報(遺伝子診断結
果ならびに家族歴)を保険会社が扱うことを禁じている。
−261一
遺伝子情報と生命保険事業
図3 遺伝子診断結果の利用を制限している州
出所:Lynna Goch(1998)“Reading the Book of Life”
Best’s
Review・L/H・November,p.26
全国レベルの法律では、団体医療保険においてのみ、遺伝子情報に
ミ.1.
よる謝絶が禁止されているが、1998年11月現在、米国では、少なくと
も38州(アラバマ、アラスカ、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、
コネティカット、デラウェア、コロンビア特別区、フロリダ、ジョー
ジア、ハワイ、イリノイ、インディアナ、カンザス、ケンタッキー、
ルイジアナ、メーン、メリーランド、ミネソタ、ミズーリ、モンタナ、
ネバダ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューメキシコ、
ニューヨーク、ノースカロライナ、オハイオ、オクラホマ、オレゴン、
ロードアイランド、サウスカロライナ、サウスダコタ、テネシー、テ
キサス、バーモント、バージニア、ウィスコンシン、ワイオミング)
−262−
遺伝子情報と生命保険事業
が、保険会社の遺伝子診断結果利用を、何らかの形で制限する法律を
Tl
制定している(図3参照)。ニュージャージー州は、特に包括的な遺
伝子プライバシー法を通している。それによると、遺伝子情報は私的
なものであり、保険や雇用等のいかなる目的のためにも、書面による
承諾なしには、使用することができない。また、たとえその情報が開
示されても、医療保険加入を謝絶するのに使用することは出来ない、
となっている。
遺伝子診断(genetic testing)の定義は、州によって異なってお
り、法律制定における議論の中心になっている。遺伝子情報と非遺伝
子情報の境界は、今後ますますわかりにくくなることが予想されてい
るため、遺伝子差別を禁じる法律の施行に際しては、これらの境界を
明らかにする必要があるとされる。保険会社は、遺伝病や遺伝子異常
に関する突然変異の有無を検出するためになされる、DNA、RNA、
および染色体の検査のみが含まれる定義を好む傾向にある。そして・、
臨床において汎用されるような、従来の医的診査が含まれると解釈さ
れえない定義を利用することを提唱している。例えば、タンパク質や
代謝産物を含む定義が、保険会社に問題視される理由は、そのような
定義に、コレステロール値の検査等、従来の医的診査が含まれてくる
からである。つまり、保険会社は、遺伝子診断の定義が、危険選択に
おいて伝統的に用いられてきた医的診査の領域にまで拡がり、それを
用いることができなくなることを懸念している。
注43) R・J・ボコルスキー(1995)「世界的に忍びよる生命保険危険選択への脅
威」『インシュアランス 生保版』第3865号,p.9 によると、「例えば、カ
ナダ・プライバシー委員会は、生命保険は基本的人権であり、『カナダ人は、
遺伝あるいは他の制限に拘らず(中略)10万カナダドルまでの基本生命保障を
得られるべきだ』と主張しています。米・英の有力レベルの委員会でも同様の
−263−
遺伝子情報と生命保険事業
声明を出しています。民間保険加入を当然の権利とする考えは、我々の業界に
とって破滅的なことです。危険選択なしに引き受けるということは、生命保険
原理を脅かすものです。消費者からすれば、予定死亡率の上昇につれ料率も上
昇し、よって、より加入しにくくなるということでもあります。」
44) ErnSt−Perer Fischer and Kerstin Berberich(1999)Im如Ct Ofルわd一
mlGe7tetlCS mt Llfe htSltralue,Publications of the Cologne Re,p.102.
45) Onora
some
O’Neill(1997)“Geneticinformation
andinsurance:
ethicalissues”mllosothlCal77JanSaCtlCmS・B10logtcalSclelu・eS,
Vol.352,P.1093.
46) 『日医雑誌』(1999)、第122巻・第12号,p.1795.
47) アヒム・レーゲナウアー/ヨェルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,p.48.
48) アヒム・レーゲナウアー/ヨエルク・シュミットケ(1998)『遺伝子学 21
世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基礎』ミュンヘン再保険
会社出版部,P.48.
49) 『日医雑誌』(1999)、第122巻・第12号,p.1795.
50) 民間の医療保険は、1920年代未、大恐慌の前後に誕生した。まず、ブルーク
ロスやブルーシールドといった非営利の保険団体による保険が、安定した収入
確保を目指す病院や開業医の主導下で、登場した。医療保険市場は、次第に拡
大し、1940年代には営利保険会社が急速に増加した。
・民間非営利入院費給付健康保険(会社)(Blue Cross)
「制度創設は1929年。BC(HospitalService)Planは病院費用について
の保険を提供する。テキサス州ダラスの学校教職員とBaylorUniversity
Hospitalが前払方式prepaid planで締結した契約がBCの原型になっ
ている。米国病院協会AHAが1933年に、米国外科医師会が1934年に、こ
の制度を支持して以来急速に発展した。全米BCは、1980年代に入ってB
S との結合化が進み、B.PlanまたはBluesと称される様にBC/BS両
制度を扱っている」(生命保険用諦英和辞典1998版)
・民間非営利医師治療費給付健康保険(会社)(Blue Shield)
「BS(Medical Care)Planでは、医師の手術等医療技術料に関わる給
付を行う保険を提供する。1939年にカリフォルニア州医師会がカリフオルニ
ー264−
遺伝子情報と生命保険事業
ア医師サービスCalifornia Physicians’service《つまり加入者sub−
scriberは一定の料金ratesの前払いによって医師の診療を保障される一
方、医師は個人診療individual practiceを保障される仕組のサービス》
を始めたのがBSの原型で、1940年代に急速に普及し、各地域に地方単位
の独立組織ができた。1980年代を通じてBC と合体した非営利健保会社、
いわゆるBC/BSが増加した」(生命保険用語英和辞典1998版)
51) 無保険者は大きく2つのグループに分けられる。すなわち、18歳から35歳ま
での比較的健康な人々(不安定雇用の形態で働いており、事業主から医療保険
を給付されていないが、経済的な余裕がないために個人加入の保険を購入して
いない。また、低所得ではあるが、メディケイドの対象になるほど貧しくはな
いので、公的な扶助も受けることができない)と、慢性疾患や既往症をもつ人々
(本人あるいは家族の病気のために加入できる保険がないか、あっても保険料
が高額すぎて購入できない)である。
52) 団体医療保険(group healthinsurance)
「米国では50年代末頃から労働組合の医療給付に対する要求が高まり、これ
に伴って急速に民保によるg.h.Lplanの提供が積極化した。事業者が従業
員に提供するh.i.は、従業員保障型employee coverage/家族保障型fa一
mily coverageの2タイプに分れ、それぞれ通常4つの主要給付(1.災害死
亡/手足切断/完全視力喪失給付AD&D,2.生命保険,3.就業不能保険DI,
4.医療費保険)からなる」(生命保険用語英和辞典1998版)
53) 『日医雑誌』(1999)、第122巻・第12号,p.1795.
54) Lynna Goch(1998)“Reading the Book of Life”&st’s Raww・
L/H・November,pp.25−28.
7.おわリに
現在のところ、生命保険会社は、全世界的に、保険申込者に遺伝子
診断を強制的には課していない。当面は、この姿勢が維持されるだろ
うし、遺伝子診断結果がもたらす影響の大きさを考えると、妥当な選
一265−
遺伝子情報と生命保険事業
択といえる。しかしながら、遺伝子学の進歩はめざましく、遺伝子診
断が一般的な医療技術となった場合、人びとが保険購入時にその情報
を利用することは不可避となり、逆選択の問題も顕在化する恐れがあ
る。逆選択が生命保険会社の経営に影響をもたらすようになれば、か
ってその利用を禁じられていたが、現在は認められている HIV抗
体検査と同様に、遺伝子診断を、危険選択において保険申込者に課す
ことができるようになるかもしれない。1997年12月の遺伝子研究会報
告『遺伝子検査と生命保険』によると、日本国内のある検査業者が行っ
た遺伝子関連検査件数は、1993年には6万件強、1995年には25万件弱、
こ、・、・
1996年には33万件弱と急増している。1999年7月現在、日本国内には
既に10社を超える遺伝子検査会社が存在しており、武部啓・近畿大学
教授は「国内では遺伝子が社会問題として表面化していないが、下地
さh
はすでにある」と述べている。遺伝子診断の利用の是非を問うことは、
最終的に、保険の本質をどのように考えるかという問題につながって
いく。極論ではあるが、遺伝子診断技術の精度が上がり、保険成立の
要件である偶然性がなくなった場合、それは保険といえるのか。また、
たとえ、保険数理的には合理的な区別であっても、倫理的にみて問題
はないのだろうか、といった議論が生じてくる。
遺伝子診断は、「プライバシーの塊」といわれるが、現在、我が国
では、生命保険会社が保険契約者の医的情報を流出しても、法律によ
る罰則はない。したがって、遺伝子診断結果を生命保険会社が危険選
択に利用すべきか否かという議論の前段階として、契約者のプライバ
シーを保護する法制度を早急に整える必要がある。加えて、望ましく
ない遺伝子診断結果を受けた人のカウンセリング体制の充実や、遺伝
病に対する誤解、偏見をとりのぞくための教育、啓蒙活動の活発化も
望まれており、この点に関しては、生命保険会社が果たすことのでき
一一一点吊
遺伝子情報と生命保険事業
る役割も小さくないと思われる。遺伝子診断が与える影響の甚大さを
鑑みると、専門家だけでなく一般大衆も、法律、経済、社会、医学、
倫理等、様々なアングルから問題を認識し、対処法を考察する必要が
あるといえるだろう。さらに、保険や医療に対する考え方を決定する
要因となっている、国民性や倫理観、文化ならびに社会の特徴といっ
たものも、遺伝子情報をめぐる諸問題を検討するに当たり、無視でき
ないように思われる。
注55) 同書によると、「これらの検査のうち、約95%が肝炎や結核などの感染症に
対する起炎菌同定のための検査、5%弱が白血病再発の指標やリンパ節転移の
有無などの癌関連の検査であり、遺伝病関連はわずか0.4%以下である。」
56) 日本経済新聞1999年7月30日朝刊。
主要参考文献
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学 21世紀の医学の為の基礎 遺伝子、疾病、遺伝子検査の基
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−』
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井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編(1996)『病と
医療の社会学』岩波書店
榎原猛編(1991)『プライバシー権の総合的研究』法律文化社
奥野由美子・日経産業消費研究所編(1999)『遺伝子ビジネス 産業
化と倫理問題の最前線』日本経済新聞社
12671
遺伝子情報と生命保険事業
加藤一郎・高久史麿編(1996)『遺伝子をめぐる諸問題一倫理的・法
的・社会的側面から−』日本評論社
木村栄一・近見正彦・安井信夫・黒田泰行(1993)『保険入門』有斐
閣
木村達也・植田勝博・小谷寛子編(1999)『消費者被害救済の上手な対
処法[全訂増補版]』民事法研究会児島美都子・中村永司・杉
山章子編著(1999)『国際医療福祉最前線』勤草書房
近藤喜代太郎・藤本典生編著(1999)『医療・社会・倫理』放送大学教
材
財団法人生命保険協会(1995)『生命保険講座 危険選択』
社団法人商事法務研究会(1984)『情報社会における消費者保護に関
する調査』
社団法人生命保険協会(1986)『欧米各国の医療保険・変額保険(私的
医療保険制度と変額保険に関する欧米調査団報告書)』
生命保険新実務講座編集委員会・財団法人生命保険文化研究所編(19
90)『生命保険新実務講座2 経営管理』有斐閣
高橋隆雄編(1999)『遺伝子の時代の倫理』九州大学出版会
武田泰典訳(1995)『危険区分における遺伝子情報の必要性;NAIC
の遺伝子検査作業部会に提示されたACLIの意見書』
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広井良典(1996)『遺伝子の技術、遺伝子の思想 医療の変容と高齢
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日本医療情報学会・医療情報のプライバシー保護に関する研究会(19
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日本保険医学会(1993)『AIDSと保険医学−A研究会報告書−』
一268一
遺伝子情報と生命保険事業
日本保険医学会(1993)『日本保険医学会 海外調査報告書』
前川寛(1996)『現代保険論入門』中央経済社
松田一郎(1999)『動きだした遺伝子医療一差し迫った倫理的問題−』
裳華房
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