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Vehicle and Ordnance Historical Notes
Vehicle and Ordnance Historical Notes 2 H章 車両と砲兵器ノート ASL ルールブックの H 章における『車両と砲兵器ノート』は,ASL シ ステムで機能するいくつかの特殊な兵器の重要な特徴を述べているばか りでなく,WW2 の戦闘に参加した砲や車両の単一の資料ではベストなも のの1つとして広く知られています。ここでは,ASLSK#3 に登場する車 両と砲兵器ノートを ASL スタンダードそのままに再録していますが, ASLSK#3 では機能しないルールはいくつか省略されています。兵器に与 えられている希少度値(Rarity Factors:RF)と基本価値ポイント(Basic Point Values)は,自作シナリオを作るためのものです。SW にはこのよう なポイントは設定されておらず,自作シナリオで使用する SW は歩兵分隊 の数を基準に決められます。RF は 0.9(最も一般的)から 1.6(最も希少)まで の範囲があります。BPV は,そのユニットの相対的な価値を表します。 ASLSK#3 に登場する車両は 20(伊軍 L3/35)から 105(独軍 PzKpfwIVb: キングタイガー)ポイントまでの評価が設定されています。また,砲は 25(英軍 76mmMTR)から 55(独軍 88mmPAK43)ポイントまでの評価が設 定されています。また,ドイツ軍の 5-4-8 分隊は 13 ポイント,徴収兵 HS は 2 ポイントの BPV が設定されています。 ETO とは European Theater of Operations の略であり,ヨーロッパと 地中海の島々の区域を示します。PTO とは Pacific Theater of Operations の略であり,太平洋の区域を示します。PTO は日本軍との戦いと同義です。 アメリカ軍 車両ノート M4A1: M4A1:シャーマンの最初の量産型 であり,また,設計段階から鋳造の 車体上部構造を持つ唯一の形式でも あった。6 種類の異なる弾薬(AP: M61orM72 HE:M48orMk.I 煙幕 弾:M89 WP 弾:Mk.II)を搭載可能であった。6,281 両が生産された。 M4A1 は米軍が北アフリカで使用した唯一のシャーマンである。ゲームの カウンターには,クライスラー社のデトロイト戦車製造所で作られた 1,676 両の M4 中戦車も含まれている。これらの車両は“ハイブリッド型” として知られており,M4 に M4A1 と同様の車体鋳造構造物を取り付けた ものであった。大戦中の陸軍の規定では,1 個中戦車小隊は 5 両の戦車か ら編成されていた。 †WP7 と s5 は 1944 年 6 月から使用可能である。これはカウンター上で “J4+”と記載されている。 †北アフリカ及び ETO での RF は以下の通りである。1942 年 12 月(1.4), 1943 年 1 月(1.3),1943 年 2-5 月(1.2),1943 年 6 月‐1945 年(0.9)。 PTO における RF は 1943 年 12 月‐1945 年(0.9)である。BPV=70 M4A2( M4A2(L):1944 年の新設計による 車体前面構造の変更が施された, M4A2 の最終生産型である。この変 更は M4 と M4A1 を除くすべてのシ ャーマンに施された。それまでの複 数の装甲板を複雑に組み合わせた車体前面から,すっきりとした 1 枚の装 甲板による構造に変更されたのである。これらのシャーマンの前面装甲は, 47°の傾斜角を付けて取り付けられていた。およそ 1,600 両の M4A2(L) が生産された。“(L)”とは後期生産型の意味である。 †RF は 1944 年 7 月‐1945 年 6 月(1.3)。BPV=72 M4A3 M4A3:M4A3 が他の初期生産型の シャーマンと異なっていたのは,フ ォード V8 エンジンを搭載していた 点であった。このエンジンは高出力, コンパクト,かつ整備が簡便である ことから,M4A3 は陸軍から主力生産型として指定された。しかしながら, 初期生産型は陸軍が要求した数を供給できず,数量的に少数型にとどまっ た。 †WP7 と s5 は 1944 年 6 月から使用可能である。これはカウンター上で “J4+”と記載されている。 †RF は 1943 年 7 月‐1945 年(1.3)。PTO では 1944-45 年に用いられた。 BPV=70 M4A3( M4A3(75) 75)W:1944 年 2 月の始め から,M4A3 の生産は 47°の傾斜を つけた前面車体装甲を持ち,主砲の 砲弾の搭載方法を工夫した改良型に 移行した。その工夫とは,砲弾の搭 載場所を車体側面から砲塔床面に移し,さらにそこをグリセリンによって 不凍結処理を施した水で覆ったことである。これにより,砲弾ケースが被 射撃による断片などで破損した場合でも,不凍液が火災を消火したり,少 なくとも炎上を防ぐことができると考えられた。これは“湿式弾庫”とし て知られており,装甲が貫通した場合にあまりにも容易に炎上しやすい傾 向を持っていたシャーマンを救うこととなった。M4A3(75)W は,他の 75mm 砲搭載型のシャーマンが生産を中止した後も,1945 年の 3 月まで 生産され続けた。最終的には 3,071 両が生産された。 †RF は 1944 年 6 月‐1945 年(1.1)。PTO では 1944 年 10 月-45 年に用い られた。BPV=73 M4A3E2( M4A3E2(L):M4A3E2 は重装甲 の突撃戦車として開発され,1944 年 5 月から 7 月の間に 254 両が生産さ れた。車体前面と側面には 1.5 イン チの追加装甲が施され,新設計の車 体下部のディファレンシャルノーズは 5.5 インチの厚みのある鋳造製とな った。新たな砲塔は 6 インチの厚さの鋳造製で,防盾の厚さは 7 インチに 達した。基本設計はすべて 75mm 砲搭載型(M4A3E2)であったが,1945 年の始めから 76mm 砲への換装(M4A3E2(L))が認められた。この主砲の 換装は大変簡単であったため,1944 年には早くも“非認可の”76mm 砲 搭載型が登場することが可能であった。M4A3E2 は“ジャンボ”と呼ばれ, 大変成功した派生型となった。敵の支配下地域を移動する際には,しばし ば縦隊の先導役を務め,バストーニュ救出の際に重要な役割を果たしたの もの当然のことであった。75mm,76mm 砲のどちらの形式もイタリア戦 線と PTO で用いられていないことは明白である。 †M4A3E2(L)の RF は 1944 年 10 月‐1945 年 3 月(1.6),1945 年 4‐5 月 (1.5)。BPV=82 M4A3( M4A3(76) 76)W:この車両は M4A3 (75)W の車体に新設計の 76mm 砲搭 載型砲塔を乗せたものである。この 形式は他の 76mm 砲搭載型のシャー マンよりも多い,4,542 両が生産さ れた。加えて,その半数以上には新しい HVSS(Horizontal Volute Spring Suspension:水平スプリング型サスペンション)が用いられていた。この サスペンションはそれまでの VVSS(Vertical Volute Spring Suspension: 垂直スプリング型サスペンション)よりも乗り心地が良く,接地圧も低減す ることができた(ゲームシステム上の『低接地圧』を獲得するほどの低減で はない)。HVSS を装備した車両には M4A3E8 の形式番号が与えられ, “イ ージー・エイト”と呼ばれた。戦後の自衛隊にも供給されている。 †RF は 1944 年 7‐10 月(1.1),1944 年 11 月‐1945 年 2 月(1.0),1945 年 3‐5 月(0.9)。BPV=77 M4A3(105): M4A3(105):シャーマンの 75mm 砲搭載型砲塔は,当初より 105mm 榴弾砲を搭載可能なように設計され ていた。M4(105)は 1,641 両が生産 され,そのうちおよそ半数が HVSS を装備していた。M4A3(105)はさらに多くの 3,039 両が生産され,その大 半が HVSS を装備しており,VVSS を装備したのは 500 両余りであった。 榴弾砲搭載型のシャーマンは,動力式砲塔旋回装置,ジャイロスタビライ ザー,そして湿式弾庫を用いていなかった(しかしながら,砲弾は装甲を 施したケースに収められていた)。陸軍中戦車大隊の HQ 中隊にはこの車 両 3 両から構成される突撃砲小隊が配備されていた。また,大隊の各中戦 車中隊における HQ 小隊に 1 両(1945 年には 2 両)ずつ配備されていた。 †M4A3(105)の RF は 1944 年(1.3),1945 年(1.2)。PTO では 1944 年 10 月‐1945 年(1.3)。BPV=73 アメリカ軍 砲兵器ノート M2 60mm 迫撃砲:この軽迫撃砲は,フ ランス製ブラント 60mm 迫撃砲をライセン ス生産した物であり,1940 年にアメリカ陸軍 に採用された。およそ 75,000 門が生産されて いる。陸軍のライフル中隊は,自身に所属する重火器小隊内にこの迫撃砲 を 3 門有していた。機械化騎兵偵察隊は 9 門(1 個小隊につき 3 門:アメ リカ軍車両ノート 54 を参照),各機甲歩兵小隊は 1 門の M2 迫撃砲を装備 3 していた(アメリカ軍車両ノート 28 と 29 を参照)。各空挺歩兵小隊にも 1 門の M2 迫撃砲があり,1944 年の 8 月まではグライダー歩兵小隊でも同 様であった。各グライダー歩兵中隊は,自身に所属する重火器小隊に 2~4 門以上(時期により異なる)の M2 迫撃砲を装備していた。海兵隊のライフ ル中隊が有していたのは 2 門である(正式には 1943 年の 4 月をもって 3 門に増加されている。しかしながら,多くのライフル中隊はより遅い時期 になるまで 3 門目の迫撃砲を受け取ることができなかった)。1944 年の 5 月には,各海兵歩兵大隊の HQ 中隊に 4 門の M2 迫撃砲が配備されている。 海兵襲撃中隊はそれぞれ 3 門の 60mm 迫撃砲を有していた。 †M2 迫撃砲は軽迫撃砲の中でも最長の射程を有していたが,それはその 主たる任務が小隊や中隊を直接射撃で支援することではなく,無線によっ て誘導される中隊向けの“盤外砲撃(OBA)”-間接射撃支援だったため である。したがって,米軍プレイヤーはシナリオ OB で与えられた 60mm 迫撃砲 3 つを 1 つの無線機(あるいは野戦電話)と交換することができる。 この無線機は,4FP の HE 効力射/IR 弾のみ(1945 年には WP 弾も)射 撃可能な OBA モジュール 1 つを誘導することができる。このモジュール は,C1.22 項における無線接触の維持の試みに対して,-2 の DRM を適 用できる。また,使用される“チットの山”は,米軍標準のものを用いる [例外:そのシナリオ OB における米軍部隊が『弾薬僅少』と指示されてい る場合, 『弾薬不足』と考える]。OBA として使用された場合,その最長射 程は米軍の『自軍盤端』から数えて(B11.42 に従う)40 ヘクスとなる。 すなわち,この OBA に関する AR/SR/FFE カウンターは 40 ヘクスを 越えて置かれることも,要求することもできない。偏差によって 40 ヘク スの射程を超えてしまう場合には,偏差の dr を振りなおさなければなら ない。米軍部隊がそのシナリオで『自軍盤端』を持たない場合,この OBA への変更を選択することはできない。(SK では上記のルールは無視) M1 81mm 迫撃砲:この兵器 は古典的なフランス製ブラント 81mm 迫撃砲のコピーであり,ア メリカ軍の標準的な中隊迫撃砲で あった。この迫撃砲は軽量弾(7 ポンド:約 3kg),重量弾(10.75 ポンド:約 5kg)および WP 弾を射撃で きた。大戦中に約 30,000 門生産された。歩兵大隊所属の重火器中隊で主 に使用され,そこでは各々2 門の迫撃砲からなる 3 つの射撃チームから成 る 1 個迫撃砲小隊を編成していた。空挺部隊の迫撃砲小隊は 2 つの射撃チ ームしか有していなかった。また,空挺部隊の 81mm 迫撃砲小隊は重火器 中隊の一部ではなく,大隊の HQ 中隊に属していた。機械化騎兵偵察部隊 や,駆逐戦車(自走砲)大隊は,それぞれ 3 門の 81mm 迫撃砲を有していた。 1944 年までは,海兵隊の大隊所属の重火器中隊は 4 門の 81mm 迫撃砲を 装備していた(それ以降,この小隊は大隊 HQ 中隊に属することになった)。 海兵襲撃部隊の HQ 中隊は,この砲を 8 門装備していた。 †使用期間は 1940‐45 年で,RF は一律 1.1 である。BPV=29 M1 57mm対戦車砲: 57mm対戦車砲:1941 年の段階で,アメリカ陸軍は 37mm 対戦車砲が早くも旧式化したことを 理解していた。新たな砲の開発には 年数がかかるため,イギリス製の 6 ポンド砲をアメリカ仕様に変更を施してコピーする事になった。約 16, 000 門の M1が生産され,ヨーロッパでは 1943 年半ばから 37mm M3A1 に替えて配備されていった。1943 年中旬には,陸軍歩兵師団の再編成も 行われていた。この改編によって,57mm 対戦車砲は師団 HQ 中隊と歩兵 大隊 HQ 中隊所属の対戦車小隊,および歩兵連隊所属の対戦車中隊に配備 されることとなった(先んじて配備されたのは対戦車中隊であり,大隊の 対戦車小隊への配備はより遅かった)。各機甲歩兵中隊は,機甲師団 HQ 中隊に配属されているのと同等の対戦車小隊(M2 ハーフトラックで牽引) を 1 個持っていた。空挺師団では,対戦車砲はグライダー歩兵連隊(1945 年からは大隊),空挺対空大隊,そして野砲大隊に配備されており,それ らはほとんどの場合ジープで牽引されていた。イギリス,ソ連,そしてド イツの大半の師団と異なり,アメリカ陸軍の師団には師団所属の対戦車大 隊がなかった。なぜなら,師団の対戦車支援は1つか,もしくはそれ以上 の駆逐戦車大隊によって得ていたからである。例外として,イタリアで戦 った第 10 山岳歩兵師団には 18 門の 57mm 対戦車砲からなる対戦車大隊 を有しており,空挺師団には通常対空および対戦車大隊が配属されていた。 †HE 弾(弾薬欠乏ナンバー“7”)と APDS 弾(弾薬欠乏ナンバー“4”) は,ヨーロッパ戦域(ETO)では 1944 年 6 月から使用可能となる。HE7 は,太平洋戦域(PTO)では 1945 年以降使用可能となる。この制限は, カウンター上では 6 月(June)をあらわす J と,ETO をあらわす E で示 されている。ETO での使用期間は 43 年 7 月から 45 年 5 月までであり, PTO での使用期間は 44 年から 45 年の終わりまでである。 †ETO における RF は当初の 2 ヶ月(43 年 7~8 月)は 1.3 であるが,以 降 2 ヶ月ごとに 0.1 ポイント減少しつづけ,44 年 1 月からは 1.0 で変化し なくなる。PTO における RF は 1.2 である。BPV=33 M5 3 インチ対戦車砲: インチ対戦車砲:1941 年に M157mm 対戦車砲の開発が 開始されたのと並行して,陸軍は より強力な兵器の開発計画も進行 し始めた。できる限り早く量産に 入れるように意図して,設計者は既存のパーツを用いることにした。3 イ ンチ(76mm)対空砲の砲身と,105mm 榴弾砲の砲架,砲尾,そして反動吸 収機構である。その結果,対戦車砲としては大きすぎ,重すぎる代物とな った(戦闘行動時の重量は,ドイツの 7.5cmPAK40 のおよそ 2 倍に達し た)が,即席で作られた兵器としては期待以上の働きを示すことができた。 M5 は発射頻度が低いのが欠点であった。これは M3 3 インチ対空砲や, M10 駆逐戦車に搭載された M7 3 インチ砲が半自動式の砲尾閉差装置を用 いていたのに対し,M5 は手動式だったためである。1944 年に生産が終了 されるまで,2,500 門の M5 が生産された。M5 は師団付きの対戦車砲と して用いられることはなかったが,牽引式戦車駆逐大隊で使用された。そ こでは M3 ハーフトラックで牽引され,1 個小隊につき 4 門の M5 が配備 されていた。1945 年の初めには,牽引式大隊の多くが自走砲に変わった ため,戦争終結の最後の数ヵ月間では牽引式対戦車砲の存在は珍しいもの となった。戦車駆逐大隊で用いられた M5 は,しばしば対戦車砲ではなく “Tank Destroyer”と呼ばれた。PTO で用いられなかったことは明らか である。 †イタリアでは APCR 使用不可。 †イタリア以外の ETO における RF は,1944 年 6 月‐8 月(1.3),1944 年 9 月‐1945 年 2 月(1.2),1945 年 3 月‐5 月(1.4)である。イタリアにお ける RF は,1944 年 11 月‐1945 年 5 月(1.4)。BPV=40 イギリス軍 車両ノート イギリス軍の編成上の部隊名称は,アメリカ軍のものと異なっています。 「レジメント」はアメリカ軍では複数の大隊からなる「連隊」を表します が,イギリス軍ではアメリカ軍の大隊規模の部隊に相当します。レジメン トは複数の「スコードロン(アメリカ軍の中隊に相当)」から成り,スコ ードロンは複数の「トループ(アメリカ軍の小隊に相当)」から成り立っ ています。 MkVIB 軽戦車: 軽戦車:MkVI シリーズ は,1939-40 年の英軍機甲戦力の大 半を構成していた。これらの車両は 植民地での任務や偵察向けの車両と みなされていたが,しばしば実戦に おいて戦車部隊として用いられた。その場合,甚大な損害を被ることが容 易に予想された。MkVIB は 832 両生産され,MkVI シリーズで最も数が 多かった。武装は 2 丁のビッカース水冷機関銃であり,1 つは 50 口径, もう 1 つは 303 口径であった。MkVI シリーズは全部で 1,180 両が生産さ れた。MkVI シリーズの前にもいくつかの軽戦車が生産されたが,実戦投 入されることはほとんどなかった。MkVI は軽戦車もしくは機甲レジメン トの軽戦車スコードロンを構成する3個トループで用いられた。また, BEF(British Expeditionary Force:イギリス大陸派遣軍)における師団 陸 つきの騎兵レジメントでも使用された。軽戦車スコードロン,もしくは陸 軍戦車大隊の HQ には4両の MkVI が配備されていた。また,各陸軍戦車 陸軍戦車 戦車 中隊の HQ には1両の MkVI が含まれていた。MkVIC 以外の MkVI モデ ルは,ベルギー,フランス,北アフリカで戦い,その他にはギリシャ(1941 年 4 月,第 4 軽騎兵大隊),クレタ島(1941 年 5 月,第 3 軽騎兵大隊の1 個スコードロン),シリア(1941 年 6‐7 月,オーストラリア第 6,第 9 騎兵レジメント),シンガポール(1942 年 2 月,第 18 歩兵師団),ジャワ (1942 年 3 月,第 3 軽騎兵大隊の C スコードロン)でも戦った。 †AP TK 表を用いる場合には,TK DR を 2 回行う。ひとつは 12.7mm(50 口径)で,もうひとつは MG で判定し,射撃側が選択してどちらかひとつ の結果のみを適用する。このことはカウンターの裏面に“2TK DR(1 12.7;1 MG)”と記載されている。 †ETO における RF は,1940 年 5-6 月(ベルギー・フランス;1.0),1941 年 4 月(1.1),1941 年 5 月(1.4)である。北アフリカでは 1940 年 6 月 -1941 年 3 月(1.0),1941 年 4 月(1.1),1941 年 5-6 月(1.2),1941 年 7-8 月(1.3),1941 年 9-10 月(1.4),1941 年 11-12 月(1.5)で ある。1941 年 6-7 月のシリア(1.4)。PTO では 1942 年 2 月(1.5),1942 年 3 月(1.2)である。BPV=35 4 スチュアートⅢ(a) スチュアートⅢ(a): (a):これはアメ リカ製 M3A1 軽戦車に対して与えら れた名称である。中東における戦車 補充の供給源を欲していたイギリス 軍は,M3 が自国の巡航戦車とほぼ 同等の能力を有することを認知し,1941 年の初頭にレンドリースによる 供給をアメリカに要求した。M3-M5A1 までの軽戦車に対して,イギリ ス軍は公式に“スチュアート”の名称を与えたが,その驚異的な信頼性と 扱いやすさから一般には“ハニー”と呼ばれていた。イギリス軍は M3 に 対して若干の仕様変更を施した。固定 BMG(M3 の BMG は固定式であっ た)を取り除いて積載量を増やしたり,乗員の配置を変更したり,あるい はいくつかの車両に煙幕展張器を取り付けたりした。スチュアートはクル セイダー作戦に参加したことにより,WW2 で初めて実戦に参加したアメ リカ製戦車となった。この戦いでは第 7 機甲師団の第 4 旅団の戦車の全て がスチュアートで構成されており,巡航戦車として用いられた。その後の 北アフリカでは,スチュアートの数は減少する。スチュアートをいかに改 良しても,ドイツ戦車の装甲と砲の口径の増大に対抗することが敵わなく なったためである。1942 年の初め,グラント戦車を配備された幾つかの 連隊にはスチュアート 1 個中隊が配備されていたが,その役目はすでに警 戒と索敵任務用となっていた。その他のスチュアートは,護衛/HQ 用の車 両として,さまざまな部隊に配備された。第 2 次エル・アラメインの戦い (1942 年 10 月)以降,北アフリカでスチュアートを使用していたのは第 7 機甲師団の第 4 軽機甲旅団および第 22 機甲旅団,第 2 ニュージーラン ドおよび第 9 オーストラリア師団の騎兵大隊のみであった。PTO では日 本軍戦車と遭遇することはまれであった。スチュアートは日本軍戦車より もあらゆる点で優位性を維持したため,戦闘時に本来よりも大きな役割を 果たすことになった。PTO で最初にスチュアートを使用したのは,ビルマ において,第 7 機甲旅団の第7軽騎兵大隊と王立戦車連隊第 2 大隊によっ てであった。次いで,オーストラリア第 2/6 機甲レジメントの一部によっ てパプアで使用され,さらに後にはインド第 7 軽騎兵レジメントとインド 第 45 騎兵連隊によってビルマで使用された。スチュアートの 1 個トルー プは 3 両で構成されていたが,HQ スコードロンと 1942 年のグラントと の混成部隊においては 4 両で構成されていた。1944-45 年における機甲レ ジメントもしくは戦車大隊における偵察トループは特殊であり,11 ないし は 12 両ものスチュアートで構成されていた。 †1944 年よりも前(すなわち 1943 年以前)では MA の TH#は赤色を使 用する。このことはカウンター裏面に“Red TH#s(Pre44)”と記載されて いる。 †北アフリカにおける試用期間と RF は 1942 年 10 月‐1943 年 5 月(1.4)。 ETO では 1944 年 1‐4 月(1.4),1944 年 5 月‐1945 年(1.3)である。 PTO では 1944 年 3 月‐1945 年(1.2:インド-ビルマでのみ使用)であ る。BPV=46 シャーマン II(a) II(a): (a):1942 年 6 月 21 日にトブルク陥落の知らせを受 けたチャーチルは,ただちにルーズ ベルトに対して新型のシャーマン戦 車をできる限り多数供給してくれる よう依頼した。それを受けて,当初はパットン将軍の第 2 機甲師団をエジ プトに派遣することになった。しかし,移送上の問題が生じたために,こ の命令は破棄されることになった。師団はその年の遅くにならなければ到 着不可能であり,それはあまりに遅すぎた。そのため,アメリカ軍部隊か らシャーマンだけが抽出され,エジプトに送られた。第 2 次エル・アラメ インの戦いの際には第 8 軍は 285 両のシャーマンを保有しており,うち 250 両がただちに行動可能であった。それらの 3 分の 2 がシャーマン II, すなわち M4A1 中戦車であった。イギリスにレンドリースで送られたシャ ーマン II は 942 両のみであり,戦場における名声はすぐに他のタイプの シャーマンにとってかわられた。 †1944 年よりも前(すなわち 1943 年以前)では MA の TH#は赤色を使 用する。このことはカウンター裏面に“Red TH#s(Pre44)”と記載されて いる。 †WP6 は 1944 年 6 月から使用可能である。これはカウンター上で“J4+” と記載されている。 †RF と使用期間は,1942 年 10 月‐1943 年 5 月(1.0),1943 年 9‐12 月(1.1),1944 年 1‐7 月(1.2),1944 年 8 月‐1945 年 5 月(1.3)。BPV=68。 シャーマン IIA(a): IIA(a):これはアメリ カ製 M4A1(76)W のことである。モ ントゴメリーが彼の第 21 軍集団の 追加補充が複雑化するのを避けたい と望んだために,イギリスが受け取 ったこの戦車のほとんどはイタリア戦線に送られることになった。しかし 最終的には,ポーランド第 1 機甲師団の第 2 機甲連隊によって,ヨーロッ パの北西部でも使用された。イタリアでは,当初可能な限り戦車トループ につき 1 両のシャーマン IIA を配備していたが,後にはこの戦車だけでト ループが構成されるようになった。1,330 両のシャーマン IIA がレンドリ ースに供与され,そのすべてがイギリスに送られた。イギリスの名称にお ける“A”は 76mm 砲装備型を示す。 †RF と使用期間は,イタリアでは 1944 年 9‐11 月(1.3),1944 年 12 月‐1945 年 2 月(1.2)。その他の ETO では 1944 年 11 月‐1945 年 5 月 (1.5)である。BPV=75 シャーマン IIC(a): IIC(a):チャレンジャ ーがノルマンディー上陸に間に合わ ないことが明らかになった時点で, 強力な 17 ポンド砲を搭載する代替 戦車としてシャーマンが候補に挙が った。この案の実現は疑問視されたが,部品の一部を改良すれば実際に稼 働することが試験的な導入によって確認された。ただちに急激な換装計画 が実行され,1944 年の 6 月には十分な 17 ポンド型シャーマン(ファイア フライと呼ばれた)を生産することができた。その数は平均して DD タイ プ以外のシャーマン 1 個トループにつき 1 両,第 7 機甲師団の第 22 機甲 旅団のクロムウエル 1 個トループにつき 1 両の割合で配備できるものであ った。ファイアフライは,大半のドイツ軍戦車の砲と同等以上の威力を持 つ砲を備えた,初めてのイギリス戦車となった。それはすなわち,あらゆ るアメリカ製戦車の砲をしのぐ威力を持っているということでもあった。 この戦車はしばしば“見晴らしのよい”位置で使用された。すなわち,背 面の憂いのない後方に陣取り,パンターやティーゲルといったドイツ戦車 から 75mm 型シャーマンの前方を守ったのである。ドイツ軍戦車はファイ アフライを恐れ,これと遭遇した際には優先目標として攻撃した。ファイ アフライには BMG もその操作員もなく,その場所には主砲の砲弾が搭載 されていた。ファイアフライの最も一般的なバージョンは,シャーマン V (M4A4 のこと。2機のエンジンを搭載していたため,車体がほかのシャ ーマンよりも長かった)を基にした VC 型であった(SK3 には含まれてい ない)。次に多いタイプが II(M4A1)とハイブリッド I(M4A1 の車体上 部構造を持った M4)を基にしたタイプで,ゲーム上は両方とも IIC 型と みなされている。イギリスの名称における“C”は 17 ポンド砲装備型を示 “B”は 105mm 砲装備型のことであるが,SK3 には含まれ す。ちなみに, ていない。全部で約 600 両のファイアフライが生産された。 †APCR は 1944 年 9 月から使用可能である。これはカウンター上で “D5S4+”と記載されている。 †RF と使用期間は,イタリア以外の ETO では 1944 年 6‐12 月(1.4), 1945 年 1 月‐5 月(1.1)。イタリアでは 1944 年 10 月‐1945 年 3 月(1.6), 1945 年 4 月‐5 月(1.4)である。BPV=77 ダイムラー装甲車: ダイムラー装甲車:この車両はダ イムラー偵察車の素晴らしい性能に 触発され,より大型の装甲車にする べく作られたものである。そのため, 両車両のデザイン的な特徴は多くの 点で似通っていたが,装甲車タイプの方がより洗練されていた(例えば, 緊急事態に車長が使用するための後進用ハンドルが付けられていた)。火 力の点でも,ダイムラー装甲車はより初期のイギリス軍装甲車よりもはる かに優れていた。1940-41 年当時に,歩兵戦車や巡航戦車に搭載されてい たのと同じ 2 ポンド砲を装備したテトラーク軽戦車(軽戦車として開発さ れ,巡航戦車として受注され,軽戦車としてアフリカに送られたが熱帯向 きではなく,最後には空挺戦車として空挺師団に配備された)と同じ砲塔 を乗せていたのである。不幸なことに,ダイムラー装甲車の生産は,ドイ ツ空軍の空襲のために度々深刻な遅延が生じ,結局 1942 年の半ばまで実 戦には投入されなかった。アフリカでは,国王竜騎兵レジメントと王立竜 騎兵レジメントで使用された。そこでの 1 個トループは,1 両のダイムラ ー装甲車と 2 両のモーマン‐へリントン装甲車(もしくはハンバー装甲車) で構成されていた。チュニジアでは,いくつかの増派装甲車レジメントに ダイムラーが配備されていた。北アフリカ戦役が終わるころ,装甲車レジ メントの編成が変更された。1 個トループが 2 両の装甲車と 2 両の偵察車 から構成されるようになったのである。そしてその両方が『ダイムラー』 5 であった。ダイムラー装甲車は,インド-ビルマ戦域でも第 11(アルバー ト ビクター王子の)騎兵隊においても使用された。2,694 両が生産され, そのうちのいくつかは 1960 年ごろまで現役であった。 †PTO 以外での RF と使用期間は,1942 年 7‐8 月(1.5),1942 年 9‐ 10 月(1.4:マダガスカルでは使用していない),1942 年 11 月‐1943 年 5 月(1.3),1943 年 6 月‐1945 年(1.2)である。インド‐ビルマでの RF と使用期間は 1944 年 6 月‐1945 年(1.3)である。BPV=42 5 月までであり,PTO での使用期間は 44 年から 45 年の終わりまでである。 APDS 弾(弾薬欠乏ナンバー“4”)は,ヨーロッパ戦域(ETO)では 1944 年の 6 月(June)から使用可能であり,このことは“J4E”で表記されて いる。 †PTO を除いた戦域(マダガスカルでは使用していない)での RF と使用 期間は以下のとおり。1942 年 5‐6 月(1.5),7 月(1.4),8 月(1.3),9 月(1.2),10‐12 月(1.1),1943 年 1‐5 月(1.0),1943 年 6 月‐1945 年 5 月(0.9)。PTO では 1943 年 5‐11 月(1.3),1943 年 12 月‐1945 年(1.1)である。BPV=34 イギリス軍 砲兵器ノート OML 3 インチ迫撃砲: 1917 年に配備が始まった『ストックス 3 インチ塹壕迫撃砲』は,近代的な歩 兵迫撃砲の先駆けであった。1939 年には改良型の Mk II が広く配備 されていたが,枢軸国の同等の迫撃砲よりも射程の面で劣っていた。弾薬, および後の迫撃砲自体の改良により,この問題は部分的な解決を見た。 1940 年の歩兵大隊はわずかに 2 門の 3 インチ迫撃砲を有するだけだった が,1941 年には 6 門からなる迫撃砲小隊が増強された。同様に,1941 年 の段階では 2 門の配備にとどまっていた歩兵偵察大隊にも,1942 年には 6 門からなる迫撃砲小隊が増強された。一部の自動車化大隊は,戦争開始時 に各中隊につき 2 門の迫撃砲を有していたが,その他の多くの大隊は 1942 年になるまでこの砲を有していなかったことが明らかである。1944 年の グライダー大隊は,4 門の 3 インチ迫撃砲からなる迫撃砲小隊を持ってい たが,それに加え,4 個の各中隊にはそれぞれこの砲が 2 門以上配備され ていた;1945 年の初めには,全ての大隊レベルの部隊には 4 門編成の迫 撃砲小隊が 3 個配備されていた。3 インチ迫撃砲は,インド/ビルマ戦域で も同様に広く配備されていた:1943 年の軽山岳砲兵連隊およびジャング ル砲兵連隊には,16 門編成の 3 インチ迫撃砲中隊が配属されていたし, 1944 年では対戦車/対空連隊も同様であった。ビルマでは,各チンデット 中隊が公式に 2 門の 3 インチ迫撃砲を装備していた。 †この砲の初期の射程は 6‐36 であるが,1942 年 9 月から 3‐63 となる。 このことはカウンター上では“[3-63]S2”と表記されている。 †PTO 以外での試用期間と RF は以下の通りである。1940 年 4 月-41 年 3 月(1.3),41 年 4 月-10 月(1.2)[例外;41 年 5 月のクレタ島での使 用に関しては 1.3 と見なす],41 年 11 月-45 年 5 月(1.1)。PTO では 41 年 12 月-42 年 10 月(1.3),42 年 11 月-43 年 11 月(1.1),43 年 12 月 -44 年 10 月(1.0),44 年 11 月-45 年(0.9)。BPV=25 OQF 6 ポンド砲: ポンド砲: この砲の設 計は 1938 年には完了していたが, フランス降伏後に 2 ポンド砲の必 要性が急激に高まったため,1941 年の後半まで十分なテストができ ていない状態であった。1942 年 5 月のガザラの戦いに間に合うように北 アフリカの自動車化大隊に配備されたが,その時点では操作員の訓練不足 から衝撃的なデビューとはならなかった。その直後から対戦車レジメント がこの砲を受領し始め,4 門で 1 個トループを編成して使用した。第 2 次 アラメインの戦いのときには,歩兵師団の対戦車レジメントの所有する対 戦車砲の(平均して)4 分の 3 と,機甲師団のすべての対戦車砲が 6 ポン ド砲になっていた(このうちいくつかは後にディーコン自走砲になった)。 北アフリカの対戦車レジメントは,1942 年の末から 43 年にかけて,レン ドリースによってアメリカ製の 57mm 砲も受領している。歩兵大隊では 1943 年から 2 ポンド砲と 6 ポンド砲の切り替えが始まり,北アフリカ戦 役終了時にヨーロッパに派遣されることになった大隊の支援中隊には,6 ポンド砲 6 門から成る対戦車小隊が配備された。北アフリカでは,自動車 化大隊は 16 門(4 個小隊)の 6 ポンド砲を有していたが,1944 年の ETO では 3 個小隊に減少された。1944 年の空挺大隊は 6 門の 6 ポンド砲から 成る対戦車小隊を 2 個有していたが,1945 年の初めには 1 個小隊の門数 は 4 に減らされた。PTO では対戦車レジメントでのみ使用されている。 1945 年のイタリア侵攻時には,6 ポンド砲は“ポーティー(トラックの荷 台に積載した簡易自走砲)”の形式で運用されたが,のちにロイドキャリ アーによる牽引方式に改められた。6 ポンド砲は,1980 年代においても少 数の国でわずかながら現役であった。 †HE 弾(弾薬欠乏ナンバー“7”)は 1943 年 2 月から使用可能となり, このことは“F3”で表されている。 “8”の欠乏ナンバーは 1944-45 年の ものであり,これは“4+”で表されている。カウンターに記載された HE 欠乏ナンバーは,PTO では 3 増加する;すなわち,PTO では HE7 は HE10 に増加するのである。太平洋戦域(PTO)では 1945 年以降使用可能とな る。この制限は,カウンター上では 6 月(June)をあらわす J と,ETO をあらわす E で示されている。ETO での使用期間は 43 年 7 月から 45 年 OQF 25 ポンド砲: ポンド砲:1920 年台 半ばから 18 ポンド砲と 4.5 インチ 榴弾砲を単一の砲に置き換える実 験的な設計が行われてきたが,それ らの努力の結晶である 25 ポンド砲 の認可が完全に下りるのには 1939 年の半ばまで待たねばならなかった。 とはいえ,その年の初めには 18 ポンド砲後期モデルの砲身内管を新型の 87.6mm 口径のものに換装し始めていた。こうした換装は 1000 以上行わ れ,その砲は 25 ポンド砲 Mk I と呼ばれた(一般には 18/25 ポンド砲と呼 ばれた)。それらはフランスの BEF の野砲レジメントに最も多く配備され, そこでは 704 門の Mk I が失われた。Mk I は北アフリカでも使用されたが, PTO では用いられていない。ゲーム上,Mk I と真の 25 ポンド砲である Mk II との違いは,Mk I の最大射程が 275 ヘクスに制限されていること のみである。 25 ポンド砲 Mk II は,ノルウエイで初めて実戦投入されたが,ETO で はその後 1941 年まで使用されなかった。アフリカに初登場したのは 1941 年初頭であった。2 ポンド砲よりも強力な砲の必要性から,北アフリカ戦 役が進むにつれ,25 ポンド砲レジメントは次々と分割され,様々な種類の 部隊や機動コラムに固有の砲兵小隊/中隊として振り分けられた。25 ポン ド砲は対戦車砲としても活躍した(そのために重要な要素である独特な円 形の砲床を備えていたため)が,そのような使用法は,必要なときに集中 砲撃を行うという野砲部隊としての任務に深刻な悪影響を及ぼした。6 ポ ンド砲が登場するに及んで,25 ポンド砲は完全に本来の任務に集中するこ とができるようになった。 量産体制に入ると,25 ポンド砲はあらゆる戦域の野戦レジメントに配備 され,PTO 以外の地域では歩兵師団における標準の(かつ唯一の)砲兵装 備となった。この砲の 1 個トループは 4 門で構成される。12,000 門以上 の Mk II がイギリスで生産され,さらにオーストラリアで 1,527 門,カナ ダではそれ以上の数が生産された。ドイツアフリカ軍団はこの砲を少なか らず鹵獲使用し,ETO ではわずかな米軍砲兵隊が 25 ポンド砲を装備した。 25 ポンド砲は朝鮮戦争にも実践参加し,1967 年までイギリスの 1 線級部 隊にとどまり続けた。1980 年代においても,12 カ国以上の砲兵器工場で 25 ポンド砲が生産されていた。 †ETO での試用期間と RF は以下のとおりである。1940 年 5 月(ノルウ エイ:1.6),1940 年 5‐6 月(ベルギーおよびフランス:1.3),1941 年 4 月(ギリシア:1.3),1941 年 5 月(クレタ島:1.6),1943 年 7 月‐1945 年 5 月(1.3)。北アフリカにおいては 1940 年 6 月‐1941 年 2 月(1.5), 1941 年 3‐4 月(1.4),1941 年 5‐10 月(1.3),1941 年 11 月‐1942 年 12 月(1.2:マダガスカルでは使用していない),1943 年 1‐5 月(1.3) である。PTO では 1941 年 12 月(1.3),1942 年 1 月(1.4),1942 年 2 ‐5 月(1.5),1942 年 6‐10 月(1.4),1942 年 11 月‐1945 年(1.3)。 BPV=42 イタリア軍 車両ノート L3/35: L3/35:この AFV はイギリスの『ガ ーデンロイド Mk VI』から派生した ものであり,1933 年に始めて現れた。 原型は CV33(Carro Veloce;快速戦 車)と呼ばれ,6.5mm 口径機銃を 1 丁装備していた。その後車体に若干の改修(溶接構造からリベット構造に なった)がなされ,後期型ではタンデム配置(縦型 2 連装)の 2 丁の 8mm 口径機銃を装備していた。1935 年から生産された形式は CV35 と呼ばれ, その後もいくつかの小改修が施された(ゲームにおいては改修前後の差は ないものとする)。1938 年に,これらの車両はそれぞれ L3/33 と L3/35 に 呼称変更となった。イタリアが参戦した 1940 年 6 月の時点で,L3 は最も 一般的なイタリア軍 AFV であった。当時のイタリア軍機甲師団で,この AFV を装備していないのは 2 個大隊のみであった。各自動車化師団の戦 車大隊,各 Celere(快速;意味するところは騎兵)師団の軽戦車スコード ロングループ(大隊規模),多数の独立戦車大隊にもこの AFV が配備され ていた。L3 にはいくつかのあだ名があり,その中には“Scatoletta”(小 さいカン)や“Cassa da Morto”(死の小箱)といったものも含まれる。 すべてのタイプを合わせて 2,000‐2,500 両の L3 が生産された。この車両 6 の 1 個小隊は 4 両で構成された。 L3 は,イタリア軍部隊が戦ったあらゆる場所で,幾度となく使用され た。1935 年 10 月‐1936 年 4 月のエチオピア侵略;1937 年 2 月‐1939 年 3 月のスペイン(149 両が送られた);1939 年のバルカン;1940 年 6 月のフランス;北アフリカ(1940 年 6 月で 320 両が存在しており,その 時点で北アフリカの装甲兵力のすべてを構成していた);イタリア領東ア フリカ(1940 年 6 月で 39 両が存在);1941 年 9 月‐1942 年 1 月のロシ ア(第 3Celere 師団の第 3“San Giorgio”軽戦車スコードロングループ); 1943 年 7‐8 月のシシリー島;そして 1943 年 9 月以降においても,イタ リア国内でイタリアファシストとドイツ軍によって使用された。L3 は 1930 年代に輸出され,実戦で使用したのはギリシャ,ハンガリー,そし て中国である。バルカンにおいては,鹵獲/押収された L3 がドイツ,ク ロアチア,そしてユーゴスラビア軍の間で使用されている。 †AP TK 表を用いる場合には,TK DR を 2 回行う。そしてそのうちの一 つを射撃側が選択して実際に適用する。このことはカウンター上に“2TK DR”と記載されている。この車両が『麻痺(stun/STUN)』の結果を受け た場合,いかなる火器も射撃できず,CE になることもできず, 『帰還』せ ねばならない。このことは“Stun=Recall&CE/P NA”と記載されている。 †北アフリカでの使用期間と RF は 1940 年 6‐12 月(0.9),1941 年 1 月 (1.1),2 月(1.2),3 月(1.4),4-11 月(1.2),12 月(1.4),1942 年 1 月(1.5),2 月(1.6)である。東アフリカでは 1940 年 7 月‐1941 年 1 月(1.3),2‐3 月(1.4),4‐6 月(1.6)である。ロシアでは 1941 年 9 ‐10 月(1.2),11 月(1.3),12 月(1.4),1942 年 1 月(1.5)である。 シシリー島では 1943 年 7‐8 月(1.4)である。イタリア国内では 1943 年 9 月(1.2),1944 年‐1945 年 5 月(1.3:ファシストのみ使用)である。 フランスでは 1940 年 6 月(1.1)である。バルカンでは 1940 年 10 月‐ 1941 年 4 月(0.9),1941 年 5 月‐1943 年 9 月(1.1),1944 年‐1945 年 5 月(1.3:ファシストのみ使用)である。BPV=20 M13/40: M13/40:M13/40 は,不十分な能 力しかなかった M11/39 の代替車両 として登場した。この車両は,主た る機械的構造こそ M11 と同じであ るが,全周砲塔に強力な砲を搭載し ていた(M11 は 37mm 砲を車体に固定装備しており,小さな銃塔に 2 丁 の 8mm 機関銃を備えただけの武装であった)。低速と信頼性の欠如,車長 が砲手を兼ねる 2 人用砲塔という欠点を持つにもかかわらず,戦車大隊に おける本車の数量は増加し,1941 年には標準的な装備となった。おそら く,WW2 において最も有名なイタリア戦車であろう。初の実戦参加はリ ビアの『サウルム‐ハルファヤ地区』において,第 3 中戦車大隊の使用に よるものであった。その後,北アフリカの第 132“アリエテ(Ariete:雄 羊)”戦車師団や,1941 年 1‐4 月におけるギリシャ‐ユーゴ戦役では第 131“ケンタウロ( Centaur:ケンタウロス)”および第 133“リットリ オ(Littorio:鞭‐権威の象徴)”戦車師団に配備された。1941 年初頭の 一時期,リビアのイギリス機甲レジメント(第 6 王立戦車レジメント)が 鹵獲した M13/40 を配備していたが,ロンメルの最初の攻勢を受けてその すべてが失われた。1943 年 9 月にイタリアが連合国側についたとき,ド イツは本車両を 22 両押収し,ファシスト兵に与えた。M13/40 の生産数は, その後期モデルが M14/41(機械的な信頼性を増したもの。ゲームでは MP を赤の 11 から黒の 12 にすることで M14/41 となる)として生産されたこ ともあって資料に混乱が見受けられる。最も数値の大きな資料では 1,049 両の生産となっているが,別の資料では 710 両となっている。もっとも一 般的な資料では 785 両である。M13/40(あるいは M14/41)は,1941 年 の 8 月に追加の 5 両目が配備されるまで,1 個小隊 4 両で編成されていた。 †この車両は 1941 年 11 月から無線機を装備する。それより前のシナリオ 期間中では無線機を装備していない(SK では無線機非装備に関するルー ルはない)。 †北アフリカでの使用期間と RF は 1940 年 12 月(1.3),1941 年 1 月(1.2), 2 月(1.0),3 月(1.5),4‐5 月(1.3),6‐10 月(1.5),1941 年 11 月 ‐1942 年 6 月(1.0),7 月(1.1),8‐11 月(1.2),12 月(1.6)である。 バルカンでは 1941 年 1‐4 月(1.3),1941 年 5 月‐1943 年 9 月(1.6) である。イタリア国内では 1943 年 9 月(1.6)で,1944 年‐1945 年 5 月 (1.6:ファシストのみ使用)である。BPV=34 イタリア軍 砲兵器ノート 75/27:この砲は多 Cannone da 75/27: くのイタリア軍師団の砲兵連隊にお ける標準的な軽野砲である。ゲーム のカウンターは,実際にはゲームで の性能や歴史的な役割がほぼ同じで ある 4 種類の異なる WW1 以前の砲をまとめたものである。すなわち 75・ 27(27 口径 75mmm 砲)m06(1906 年型),m11,m12,そして 77/28 である。m06 はドイツ・クルップ社の設計をライセンス生産したもので, そのうちの 51 門がイタリアで改修され m12 となった。m11 はフランスか ら輸入されたもので,世界初の分割式架尾を備えた野砲として有名である。 77/28 はチェコ・スコダ社設計の野砲・山砲である。リビアのイタリア軍 2 個師団に,いくつかの他の砲とともに実戦配備された。1940 年半ばには 3,091 門(リビアの 499 門とイタリア領東アフリカの 24 門を含めて)の 75/27 が陸軍配備されており,加えて 245 門の 77/28 も有していた。1 個 砲兵中隊はこの砲 4 門から構成された。スペイン内戦中,いくつかのナシ ョナリスト部隊が師団砲兵として 75/27 を用いた。 †HEAT は 1942 年 9 月から使用可能となる。このことは“S2+”と記載 されている。 †東アフリカにおける試用期間と RF は 1940 年 6 月‐1941 年 6 月(1.3), 1941 年 7‐11 月(1.4)である。その他の地域では 1940 年 6 月‐1943 年 9 月(1.2),1944 年‐1945 年 5 月(1.4:ファシストのみ使用)である。 BPV=25 ドイツ軍 車両ノート PzKpfw IIF:524 両が生産された。 使用可能期間には,ポーランド戦役 の後に装甲を強化され,ゲーム上は F 型と同等なものになったより初期 の形式を含んでいる。その比較的貧 弱な武装ゆえに,2 号戦車は 1940 年から主に偵察任務に用いられた。こ の目的のために,以下の編成につき 1 個の 2 号戦車小隊が配属された。各 戦車中隊(1942 年に廃止),各戦車大隊,および戦車連隊(1943 年に廃 止)。 †1940‐43 年(1.2) BPV=36 PzKpfw 35(t): 35(t):1936-39 年にか けて,チェコの主力戦車 LT vz35 として 298 両が生産された。この他 に 126 両がルーマニアに輸出され, R-2 の名称で使用された。ドイツが チェコスロバキアを併合した際,219 両が押収され,残りの 79 両は新た な“独立”スロバキア軍に与えられた。ドイツ軍はこの車両を Pzkpfw 35(t) の名称で使用し,ポーランド戦役では第 1 軽師団の第 6 装甲旅団に,その 後のフランス・ロシア戦役では第 6 装甲師団に配備していた。 †1939‐41 年(1.3) BPV=40 PzKpfw 38(t)A: 38(t)A:この車両はもと もとは 1938 年に LT vz35 の代替車 両として発注されたチェコの LT vz38 である。ドイツ軍がチェコを 併合した時点ではまだ配備されて いなかったが,その際立った性能故にドイツは生産の続行を指示した。 PzKpfw 38(t)はポーランドでは第 1 および第 3 軽師団,ノルウエイとフラ ンスでは第 7 および第 8 装甲師団,ロシアでは第 6,7,8,12,16,19, 20,そして 22 装甲師団が使用していた。他の部隊でも使用されていた可 能性もある。1941 年 6 月の時点で,ドイツの装甲兵力の実に 4 分の 1 が チェコ製の戦車であった。A-D 型,および S 型を合わせて 565 両が生産さ れた。 †1939‐42 年(1.1) BPV=43 PzKpfw III F: F:E 型は大量生産 を目的とした形式である。それまで の試行錯誤の走行方式を一新し,ト ーションバー方式の懸架装置が採 用されていた。F 型は車体に若干の 改修を施した,E 型の後期モデルである。ゲームのカウンターと配備時期 は E 型と F 型を合わせたものになっている。E 型は 96 両,F 型は 435 両 が生産された(F 型の後期モデル 100 両程度は 50mm 砲を搭載している。 これらはゲーム上では G 型として扱うが,SK3 には含まれていない。ま た,E 型と F 型の生き残りは後に 50mm 砲装備に換装されている。これ らに増加装甲を施したタイプはゲーム上では H 型として扱う)。1939-40 年における完全戦力の 3 号戦車小隊は,部隊の状況により 3‐5 両の戦車 によって編成されていた。 †1939 年(1.6),1940‐41 年(1.1) BPV=45 7 PzKpfw III H: H:H 型は 308 両の みが生産され,もっとも一般的な 3 号戦車というわけではない。しか しながら,北アフリカではその数以 上にイギリス軍の悪夢となり,名声 を獲得した。なぜなら,イギリス軍の 2 ポンド砲では,この車両の前面装 甲を貫通するのは著しく困難だったためである。また,42 口径 50mm 砲 を装備して 1,549 両が生産された初期の J 型と,50mm 砲に換装され増加 装甲を施した多くの E-F 型も,ゲームでは H 型と同等とみなされる。そ うしてみると,H 型(および同等の形式)は 1941-42 年のドイツ軍戦車 兵力の主力であったと考えられる。アシカ作戦(計画で終わったイギリス 侵攻作戦)のために,いくつかの 3 号戦車に水面下で稼働できるような改 造が施された。これら潜水戦車のうちいくつかは,第 18 戦車連隊が 1941 年 6 月 22 日,パトリンでブーク河を渡河する際に使用された。 †1941 年 1‐2 月(1.5),3‐4 月(1.4),5‐6 月(1.3),7‐8 月(1.2), 9‐10 月(1.1),11‐12 月(1.0),1942 年(0.9) BPV=53 PzKpfw III III N: N: 50mm 戦車砲が 時代遅れの代物になったため,より 強力な HE 弾を射撃できる初期型 4 号戦車に搭載された 24 口径 75 mm 砲を使用して,3 号戦車を支援 用車両に転換して生産することが決定された。1943 年 6 月以前の編成で は,各ティーガー中隊に 10 両の割合で 3 号 N 型が配備されていた。その 他は新規の各装甲擲弾兵師団に含まれる各装甲大隊に配備され,4 号戦車 と同等の任務に就いた。J 型,L 型,M 型からの換装も含め,700 両が生 産された。 †1942‐45 年(1.3) BPV=55 PzKpfw PzKpfw IV D: D:229 両が生産さ れた。フランス侵攻時において,各 戦車大隊は 4 号戦車装備の中戦車 中隊を有するように再編成される はずだったが,実際には 5 両の 4 号戦車からなる小隊が 1,ないし 2 個と,5 両の 2 号戦車が配備されてい ただけであった。 †1940‐42 年(1.4),1943 年(1.5) BPV=50 PzKpfw IV F2: 1941 年 11 月, T34 と KV に対抗するべく,75 mmKwK40L/43 戦車砲を急遽 F 型に搭載するよう指示が出され た。1942 年 6 月に F2 型が登場す ると,それまでの装甲師団の主力であった 3 号戦車は,より強力な砲への 換装が不可能になっていたこともあり,即座に時代遅れのものとなった。 F2 型は F1 型からの換装 25 両を含め,200 両が生産された。ゲームにおい ては,およそ 1,000 両が生産された初期の G 型も同等のものとして含まれ ている。実際,F2 型はその後ドイツ軍内においても G 型に名称変更がな されている。北アフリカでは,イギリス軍はこの車両をマーク IV スペシ ャルと呼称した。 1943 年になると,3 号戦車はその名称とは裏腹にもはや主力戦車とは言 えない性能しか持たなかった。そのため,その年の 9 月には各装甲大隊所 属の中(4 号)戦車中隊を取り除き,4 号戦車中隊のみで構成された 1 個 大隊を編成。3 号戦車はすべて後方に下げ,今まで 3 号戦車によって構成 されていた大隊はパンターによって再編成する旨の指示が出された。しか しながら,この指示を完遂するにはかなりの時間を要したのであった。 †1942 年 6 月(1.5),7‐8 月(1.4),9‐10 月(1.3),11‐12 月(1.2), 1943 年 1‐2 月(1.1),3‐12 月(1.0) BPV=72 PzKpfw IV H: H:3,774 両が生産さ れた。H 型は数量的にも最も重要な 4 号戦車であり,戦争の後半を通じ て装甲師団の主力を担っていた。ゲ ームのカウンターと登場時期には およそ 700 量生産された,G 型の後期モデル(48 口径の 75mm 砲を装備 し,ボルトオンによる増加装甲が車体に取り付けられていた。)も含まれ ている。H 型の初期モデルもボルトオンによる増加装甲によって装甲が強 化されており,G 型との主たる相違点は最終減速機の変更であった。 4 号戦車とパンターD 型,そしてティーガーI の車長用キューポラの内 側には,興味深い射撃支援用の回転式リングが備えられていた。このキュ ーポラには時計と同様の 1~12 までの方向と細かい目盛りが刻まれていた。 砲塔が旋回すると,内側の輪が砲塔と同じ角速度で逆方向に回転し,これ によって車長は車体の中心軸に対する現在の砲塔方向(戦闘中には興奮の あまりしばしば忘れられた)を知ることができた。車長はこれを用いて, 砲撃目標の照準時間を短縮することができた。砲手はそのための時計の文 字盤式の方向指示器を有しており,車長から指示された角度にそれを合わ せるだけで,目標が照準内に収まるようになっていたのである。 完全戦力の 4 号戦車小隊は公式には 5 両編成であったが,慢性的な戦車 不足から,特別な装甲師団を除いては 4 両で編成されるのが通例であった。 †1942 年 8‐12 月(1.5),1943 年 1‐6 月(1.3),1943 年 7 月‐1945 年(0.9) BPV=73 PzKpfw IV J: J:J 型は 4 号戦車の 最終型である。砲塔旋回補助用の発 動機が取り外され,代わりに燃料タ ンクが増設されていた。また,近接 防御兵器を装備し,白兵戦への対抗 力を増していた。1,758 両が生産された。 †1944 年 7 月‐1945 年(1.0) BPV=73 PzKpfw V G: G:パンターD 型の欠 点は最終的には克服され(後期モデ ルのエンジンはいまだ不安定であ ったが),このパンターG 型によっ て,ドイツ軍戦車部隊は,WW2 最 良の戦車の一つを装備することになった。なお,ゲームのカウンターはよ り初期の形式である A 型も含んでいる。その火力,機動性,装甲のバラン スの良さから,この車両は連合軍にとって恐るべき強敵となった。アメリ カ陸軍は,パンター1 両の撃破には 5 両のシャーマンが必要であると判断 していた。およそ 5,000 両以上(A 型がおよそ 2,000,G 型が 3,176 両) が生産され,1944 年の編成では,装甲連隊を構成する 2 個大隊の 1 つが パンター,もう 1 つが長砲身の 4 号戦車を装備していた。通常,パンター 装備の大隊が第 1 大隊となった。連合軍にとっては幸いなことに,この編 成が万度に満たされることは稀であった。パンターも 4 号戦車と同様に, 特別な装甲師団を除き,公式の 5 両編成ではなく 4 両編成で小隊が構成さ れていた。 †パンターG 型が始動のための 1MP を消費するたびに,その車両を指揮 するプレイヤーは DR を行う。その目が 12 の場合,パンターは失速を起 こしたことになり,始動に失敗して移動を開始できない。その場合再び DR を行い,その目が失速時に遅延 MP としてパンターが無為に消費(停 止に必要な 1MP を含むが,始動に用いた 1MP は含まない;例えば,始動 を宣言して DR12 を出し,さらに追加 DR で 5 を出したパンターは,合計 6MP を無為に消費していまだ停止しているのである)してしまった MP として適用する。失速したパンターは,MP が残っていれば再度始動を試 みることができるが,そのたびに失速 DR を行わねばならない。パンター 側のプレイヤーがこの失速 DR を忘れて車両を動かしていることに対戦者 が気づいた場合,パンターの移動が続いているのなら,なんらかの MP を 消費した時点で失速 DR を要求できる。失速した車両も,始動のための 1MP を消費した時点で自身の MPh を開始しているので,臨機射撃の目標 になりえる。ただし,その MPh 中に新たに別のヘクスに移動していない のなら,『移動した目標』とみなされることはない。失速による遅延 MP が,その車両の残りの MP を上回った場合,その車両は残りの MP を遅延 に用いて MPh を終えたものとみなす(超過分は無視する)。 †1943 年 10‐12 月(1.3),1944‐45 年(1.0) BPV=89 PzKpfw VI E: E:ティーガーはお そらく WW2 で最も伝説的な AFV であろう。この車両が投入された当 時,その“88mm 砲”(搭載した初 めての戦車であった)と重装甲によ って,連合軍にとって最も恐るべき敵となった。実際,側面か後面を近距 離で射撃されない限り,ティーガーが撃破されることは極めて稀であった。 もっとも,その有効性はいくつかの欠点により幾分減衰されていた。過大 な重量と機動性の欠如,複雑すぎる走行装置による貧弱な信頼性がそれで ある。ティーガーは戦略予備として独立戦車大隊に配備されていた。ただ し,以下の師団には独自のティーガー中隊/大隊が編成されていた。( ) 内は中隊編成だった時期であり,それ以降は大隊編成である。グロスドイ ッチェランド師団(1943 年 2‐8 月;8 月の後半には大隊戦力が合流して いた),SS 第 1 装甲“ライプシュタンダルテ アドルフ・ヒトラー”師団 (1943 年 1 月‐1944 年 3 月;1943 年の 7 月には SS 第 101 重戦車大隊 が設立されているが,2 個中隊程度の車両しか保有しておらず,1944 年 4 8 月の北フランスでの再編成時に完全な大隊規模となった。9 月に SS 第 501 重戦車大隊に名称変更。12 月にはティーガーII を受領し,ラインの守り 作戦に参加する),SS 第 2 装甲“ダスライヒ”師団(1943 年 2 月‐1944 年 3 月;1944 年 4 月から SS 第 102 重戦車大隊向けの車両が受領され始 めているが,定数を満たしたのは 5 月下旬から 6 月にかけてである。9 月 には SS 第 502 重戦車大隊に名称変更。45 年 2 月にはティーガーII を受 領している),SS 第 3 装甲“トーテンコプフ”師団(1943 年 2 月‐1944 年 3 月?;大隊規模への名称変更は 1943 年 11 月に SS 第 103 重戦車大隊 となっているが,実際に大隊規模の車両を受領したことはない。44 年 11 月には SS 第 503 重戦車大隊に名称変更。明けて 45 年にはティーガーII を受領し,定数不足ながら大隊としての機能を果たすようになっている)。 上記 4 つの師団のティーガー中隊は,すべて 1943 年 2 月におけるハリコ フをめぐる攻防戦に参加している。ティーガー1 個小隊は 4 両のティーガ ーで編成されていた。東部戦線では 1943 年 1 月(試験的実戦投入は 1942 年 9 月にレニングラード方面にて行われている。部隊名は第 502 重戦車大 隊),チュニジアでは 1942 年 12 月から(部隊名は第 501 重戦車大隊)運 用が始まった。 ドイツ軍車両特記事項 K 参照 装を搭載した車両を後期生産型として表している(カウンターに L;後期 生産型と記載されている)。駆逐戦車大隊で使用された場合,突撃砲小隊 は StuG IIIG4 両で編成された。 †CMG は VCA 内にのみ射撃可能である。このことはカウンターに“MG: VCA only”と記載されている。CMG は 1944 年 9 月から使用可能となる。 ドイツ軍車両特記事項 O 参照 †1944 年 7 月‐1945 年(1.5) BPV=64 StuH 42: 42:対人攻撃力を増すため に,3 号突撃砲のうち 1,211 両は leFH 18 野戦榴弾砲を装備して製 造された。突撃砲中隊は 1942 年か ら 10 両編成となっていたが,その うちの 3 両が StuH によって構成されるようになった。ドイツ軍車両特記 事項 P 参照 †1942 年 11‐12 月(1.5),1943‐45 年(1.2) †カウンター裏面の M7 は,戦車の周辺に装着された対人用近接防御兵器 である,地雷射出器の使用ナンバーを表している。これは白兵戦(混戦も 含む)時において,sN と同様に使用できる。ただし火力は 12 であり,煙 幕の射出能力ももたない。 †1942 年 12 月‐1945 年(1.5) BPV=87 PzKpfw VI E( :機械的信頼 E(L) 性の向上と近接防御兵器を備えた, ティーガーの最後期型(L は後期生 産型の意味)である。1944 年 8 月 に生産を終えるまでに,すべての形 式をあわせて 1,354 両のティーガーE が生産された。 ドイツ軍車両特記事項 K 参照 JgtPz 38(t): 38(t): この車両はヘッツ ァー(Hetzer:トラブルメーカー, もしくは扇動屋の意)として知られ ており,PzKpfw38(t)のシャーシを 利用した軽対戦車自走砲であった。 より初期に作られた間に合わせの対戦車自走砲(マルダーなど)の代替車 両として用いられた。およそ 2,500 両が実戦投入されたが,ノルマンディ 戦では姿を見せておらず,投入されたとしてもごく少数だったと思われる。 ヘッツァーは通常,歩兵師団所属の独立駆逐戦車大隊に配備された。1944 年 10 月から 1945 年 1 月にかけて,100 両がハンガリーに供給された。 ド イツ軍車両特記事項 O 参照 †1944 年 8 月‐1945 年(1.1) †1944 年‐1945 年(1.3) BPV=56 BPV=54 BPV=91 PzKpfw VI B: B:ティーガーの後 継車両として,ケーニヒスティーガ ー(またはティーガーII;連合国側 はキングタイガー,もしくはロイヤ ルタイガーと呼称した)はティーガ ーI と同様の運用をされた。しかしながら,その過大な重量によって機動 性と機械的信頼性はさらに低下し,防御時のみ有効性を発揮することがで きた。アルデンヌ攻勢でも使用されたが,効果的な働きはできなかった。 そのあまりの重量故に起伏がちな地形を素早く走破する能力に欠け,さら には回収車両がティーガーII を牽引不能であったがために,些細な故障に よっても損失することになったのである。489 両が生産された。西側連合 軍(イギリス軍)に対して始めて対峙したティーガーII は,第 503 重戦車 大隊の第 1 中隊であった。 †1944 年 6 月‐1945 年(1.4) ロシアでは 6 月,西部戦線では 7 月か ら使用可能となる。 BPV=105 StuG IIIG: IIIG:ソ連軍の T34 と KV の登場によって,ドイツ軍は自軍 AFV の武装を再検討せざるを得な くなった。3 号突撃砲は 4 号戦車 F2 と同じ時期にその搭載砲を強化 した。ドイツ軍がますます防御的な立場に追い込まれていくにつれ,突撃 砲の生産数は増大した。砲塔を有する戦車に比べ,安価で短期間に生産す ることができ,その低い車高によって待ち伏せ攻撃に有利だったためであ る。この車両は突撃砲兵隊と対戦車(駆逐戦車)部隊の両方で使用された。 およそ 8,600 両が生産されたが,その中にはゲームでは G 型と同等である より初期の F 型/F8 型が含まれている。また,1,100 両が 4 号戦車の車台 を利用して生産され,4 号突撃砲と呼称されたが,ゲーム上は同じものと して扱っている。1942 年末のチュニジアに,6 両編成の突撃砲 1 個中隊が 投入された。ドイツ軍車両特記事項 P 参照 †1942 年 6‐12 月(1.3),1943 年(1.0),1944‐45 年(0.9) BPV=61 StuG IIIG(L): IIIG(L):3 号突撃砲 G 型 の後期生産型では,CMG の搭載, 戦闘室天板へのリモコン式機銃の 設置,そして近接防御兵器の搭載と いった改修がなされた。これらの改 修がすべての車両に同時に行われたわけではないが,ゲームでは全追加武 JgtPz IV/70: IV/70:パンターと同じ 75mm 砲を搭載した 4 号駆逐戦車 であり,登場した当時にはごく少数 が実戦投入された。その長砲身と分 厚い前面装甲により前方の荷重が 過多となり,操縦が困難であった。約 1,200 両が生産された。 †1944 年 8‐11 月(1.5),1944 年 12 月‐1945 年(1.2) BPV=66 PSW 232(8rad): 232(8rad):この 8 輪装甲 車はアクトラッド(Achtrads;8 輪 の意)として知られており,8 輪駆 動,8 輪操舵,完全独立懸架,後進 用操縦席を備えた,当時世界最先端 の野外走行装輪車であった。8 輪装甲車は軽装甲車の支援用として使用さ れ,その高い不整地走破力から東部戦線で非常に高く評価された。 PSW232 は原型となる 231 型の無線機増設型であるが,後期には増加装甲 が取り付けられており(同時に砲塔防盾が外装式になった),ゲームのカ ウンターはこちらの特徴を評価したものになっている。8 輪装甲車 231 型 と 232 型を合わせて 607 両が生産された。1942 年には 231 型の生産は停 止したが,232 型の後期生産型は生産が続行された。1943 年の編成では, PSW221/222(4 輪装甲車)を装備する装甲車中隊の 4 番目の小隊(重火 器小隊)には,PSW231/232 が 6 両配備されていた。より後期には,おそ らくこれらの車両は PSW234/1 と同じ運用をされたと思われる。 †1942 年 7 月‐1945 年(1.3) BPV=46 PSW 234/2: 234/2:プーマは,PSW233 の後継車種である PSW234 シリー ズのオリジナルデザインである。 20mm 機関砲搭載型の 234/1 型は プーマより 9 カ月遅れで生産が開 始された。234 型は 231 型の美点を保持したまま,よりすぐれた装甲と空 冷 12 気筒ディーゼルエンジンを搭載していた。101 両が生産され,プー マ 25 両でタイプ A の装甲偵察中隊が編成された。この中隊は 4 個の装甲 師団に配属され,西部戦線でも東部戦線でも実戦に参加した。 †1943 年 10 月‐1945 年(1.5) BPV=59 9 ドイツ軍車両特記事項 †1942 年 1‐3 月(1.5),1942 年 4‐7 月(1.4),1942 年 8‐11 月(1.3), 1942 年 12 月‐1943 年 3 月(1.2),1943 年 4 月‐45 年(1.1)。BPV=43 K.ティーガーの操作班は,戦車部隊の中でも選り抜き中の選り抜きであ った。ゆえに,ティーガーの操作班の士気値は 9 である。このことはカウ ンターに“ML:9”と記載されている。 O.この車両の AAMG はリモートコントロール方式であり,AFV が BU 状態のときにのみ使用できる。 P.この車両の AAMG は VCA 内にのみ射撃可能である。このことはカウ ンターに“MG:VCA only”と記載されている。 ドイツ軍 砲兵器ノート 5cm leGrW36 迫撃砲: 標準的な ドイツ軍の軽迫撃砲で,1 個歩兵中隊に つき 3 門が配備されていた。これらはし ばしば,中隊内の各小隊に対して個別に 配備された。この兵器は小さい割に複雑すぎ,(その他の小口径迫撃砲と 同様に)擲弾筒がややましになった程度の,不十分な射程と破壊力しか有 していなかった。そのため,1942 年以降,この兵器の大半は 2 線級の予 備部隊に配備された。ドイツでは Bulettenschmeisser(肉団子発射機)と 呼ばれていた。 8cm GrW34 迫撃砲: 極一般 的な中迫撃砲で,正確な口径は 81.4 mm であった。これは標準的な大隊 支援兵器であり,大隊所属の機関銃 中隊につき 6 門が配備されていた。 これらの砲は,しばしば各中隊に 2 門ずつ分配された。徒歩の歩兵部隊で は,作戦行動中は人力で運搬し,長距離の行軍時には馬車で運搬されてい た。GrW34 から発射された砲弾の中で興味深いものに, 『跳躍爆弾(バウン シングベティ)』がある。この砲弾は地表に着弾した際に,15‐50 フィー トの高さまで跳ね上がってから爆発するため,弾片による効果が大きかっ た。堅い地面では効果的であったが,軟弱な地面の場合にはほとんど(あ るいは全く)効果が無かったため,1942‐43 年にかけてあまり使用され なくなった。戦争後期になると,GrW34 は,より軽量で短射程の kz GrW42 というバージョンに置き換えられていった。このモデルは当初は空挺部隊 によって使用されていたが,徐々に一般化し,通常の歩兵中隊でもしばし ば見られるようになった。 †1939‐42 年(1.1),1943‐45 年(0.9) BPV=30 5cm PAK38 対戦車砲: 対戦車砲: ドイ ツ軍は PAK35/36 よりも強力な対戦 車砲の必要性を予見しており,その 結果として PAK38 が誕生した。し かしながら,この新型砲が登場した ときに,多くの戦車の装甲が厚くなっていることは予見できなかった。マ チルダ,T-34,それに KV といった相手に対しては,希少な APCR 弾を使 用したときにのみ満足な結果を与えることができた。とはいえ,他の点に 関しては洗練された砲であった。小型で,人力操作が容易であり,革新的 な設計がいくつか導入されていた。この砲は当初対戦車大隊に配備されて いたが,より強力な 7.5‐7.62cm クラスの対戦車砲が登場すると PAK38 はその座を譲り渡し,PAK35/36 に代わって連隊所属の対戦車中隊に配備 された。1942 年に APCR 弾の生産が休止した際,PAK38 の有効性を継続 させるために,この砲の弾薬は一時的に休止命令を免除されていた。1943 年には,牽引式対戦車砲小隊の定数は 4 門から 3 門に減らされていた。 †1941 年 1‐6 月(1.3),1941 年 7‐12 月(1.2),1942 年 1‐6 月(1.1), 1942 年 7 月‐1945 年(1.0) BPV=37 7.5cm PAK40 対戦車砲:5cm PAK38 の次の世代をになう対戦車 砲として計画された。実際,PAK40 は PAK38 の拡大版であり,(無論 より大きく見えることを除いて) 非常に良く似た外観をしていた。PAK40 の設計は 1939 年から始まってい たが,バルバロッサ作戦が始まって T-34 や KV と遭遇する事態になった 時点では,まだ生産は開始されていなかった。ひとたび生産が開始される と,それは 1945 年まで継続された。実戦では,PAK40 は極めて優れた対 戦車砲であった。唯一の欠点はその重量で,そのために人力移動が困難だ った。PAK40 は対戦車大隊の標準装備になっていった。多くの駆逐戦車 に搭載され,IV 号戦車や III 号突撃砲の長砲身 7.5cm 砲の元となった。し ばしば野砲として使用される場合もあったが,その場合には限られた仰角 が欠点となった。 8.8cm 8.8cm PAK43 対戦車砲: 対戦車砲: クル ップ社によって設計されたこの砲 は,WW2 で実戦に参加した対戦車 砲の中で最高のものであり,おそら く,かつて設計されたすべての対戦 車砲の中で最も優れたものであろう。この砲は容易に隠蔽でき(地上高が 1.73m しかなかった),きわめて強力な打撃力を持ち,着荷状態でも射撃 可能で,360°の旋回能力を持ち,正確な長距離射程を有していた。この 素晴らしい砲の車載型は,ティーガーII をはじめ,ナスホルン,ヤクトパ ンター,そしてフェルディナントに搭載された。ゲームのカウンターは, Flak41 対空/対戦車砲も表している。Flak41 は 1943 年のチュニジア(RF: 1.5)に初めて投入された。ただし,Flak41 として扱うときには,着荷状 態であるか否かにかかわらず,B10 として扱う。連続射撃をすると,すぐ に機関部が過熱する傾向があったのである。 †1944-45 年(1.3) BPV=67 ロシア軍 車両ノート BTBT-7 M37: M37:BT-7 シリーズは,BT-5 の近代的改修型である。再設計され た前面装甲,新型砲塔,より多くの 機関銃,そして新しいエンジンと走 行装置が備わっていた。1935 年に生 産が開始された M35 には新型車体が導入され,ついで M37(ロシア側資 料では 1938 年生産開始なので,正しくは M38)では新型砲塔が導入され た。また,逐次後部砲塔機銃と対空機銃が追加された(これら追加武装を 備えたタイプのカウンターは,SK3 には同梱されていない)。この追加武 装を装備した形式を BT-7M と呼称する場合があるが,BT-7M の最大の特 徴は追加武装ではなく,それまでの M17 ガソリンエンジンから V2 ディー ゼルエンジンに換装したことであった。また,この BT-7M を BT-8 と呼称 するのは西側のみであり,ロシア側資料によると BT-8 は 1940 年から生 産開始予定であった別の戦車である。不幸なことに,これらの改修を経て も,前時代的な設計である BT シリーズの生存性を高めることはかなわな かった。2,000 両以上の BT-7 が生産された。BT シリーズの設計の最も重 要な点は,その後いくつかの試作型を経てはいるものの,T-34 の直接の先 祖となったことである。 ロシア軍車両特記事項 M 参照 †1939 年‐1941 年 7 月(1.0),8 月(1.1),9 月(1.2),10 月(1.3), 11 月(1.4),12 月(1.5) BPV=34 T-34 M41: M41:M41 型は,より長砲身 の 41.2 口径の F-34 に換装を新型砲 塔に装備したものであり,当初は小 隊および中隊指揮官用車両として使 用すべく予備とされていた。しかし, 前線からのより強力な砲を求める要請にこたえ,1940 年型に変わって大 量生産されることになった。ゲームのカウンターは,いくつかの小規模改 修が行われた M42 型も表している。ロシア軍の中戦車小隊は一般に 3 両 編成であり,中隊には 10 両の戦車が配備されていた。 ロシア軍車両特記事項 M 参照 †1941 年 6‐7 月(1.5),8‐9 月(1.4),10‐11 月(1.3),12 月‐1942 年 1 月(1.2),2‐3 月(1.1),4‐5 月(1.0),1942 年 6 月‐1944 年(0.9) BPV=55 T-34 M43: M43:M43 型(1942 年から その姿を見せ始める)の特徴は,容 積の大きな 6 角型の新型砲塔の装備 と,駆動系の信頼性が増したことで あった。また,このタイプは T-34/76 シリーズで最も多くの生産されたものであった。1944 年に生産が終了す るまでの間に,各形式を合わせて,35,000 両以上の T-34/76 が生産された。 †1942 年 10‐12 月(1.4),1943 年 1‐2 月(1.3),3‐4 月(1.2),5‐ 6 月(1.1),7‐8 月(1.0),1943 年 9 月‐1945 年(0.9) BPV=59 10 T-34/85: 34/85: 1943 年半ばに,パンタ ーやティーガーといった新世代のド イツ戦車と遭遇したロシア軍は,米 軍と同様に自軍戦車の砲の能力の低 さを知った。この問 題の解決策 が T-34/85 であり,より強力な 85mm 砲を新型の 3 人用砲塔に装備していた。 初の実戦投入は,第 1 親衛戦車軍においてであった。WW2 を通じて,お よそ 29,430 両が生産された。 †この車両の sD は,シナリオ中 1 回のみ煙幕を張ることができる。 †1944 年 4 月(1.5),5 月(1.4),6 月(1.3),7 月(1.2),1944 年 8 月 ‐1945 年(1.1) BPV=76 KVKV-1 M41: M41:KV の装甲強化はバル バロッサ作戦以前より開始されてい た。これは,ドイツ軍がその戦車砲 を大いに強化しているという誤った 報告に基づいてのものだった。加え て,新たなドイツ軍の兵器や弾薬に遭遇したことで,ロシア軍は多くの生 き残った旧式の KV に対し,種々の増加装甲を含めたさらなる改修や改造 を施すことになった。これら各種の追加は重量を増加させ,さらなる機動 力の低下を招いた。前線からはより装甲の薄い軽快な戦車が求められてい たが,重戦車が致命的に不足している状況ゆえに,現行型の生産と便宜的 改修が続けられた。より軽快な T-34 と使用された場合,作戦の妨げにな ることがあったため,KV は 1942 年 7 月から 21 両編成の独立重戦車連隊 として分離されることとなった。 ロシア軍車両特記事項 M 参照 †1940 年 7 月‐1943 年(1.2) BPV=55 KVKV-2:この弩級戦車は,1939 年の 対フィンランド戦で必要性が認めら れた“掩蔽壕破壊兵器(BunkerBuster)”として設計された。固定さ れた砲座などの目標に対しては有効 な兵器であったが,その重鈍な巨体は 1942 年の機動防御線には全く不向 きなものであった。ゆえに,この戦車の生産はすぐに打ち切られたのだっ た。 †KV-2 の砲塔は旋回が大変困難であり,特に丘の上などに上った場合, その傾向が顕著だった。そのため,この戦車は NT AFV として扱われる。 TCA を変更することは可能であるが,適用される DRM が NT の旋回ペナ ルティのものになるのである。 †1941 年(1.3)。1 両のプロトタイプが 1940 年 2 月のフィンランド,ス ーマ近郊の戦いで実戦に投入されている。 BPV=41 ISIS-2:IS(ヨシフ・スターリン)重 戦車は,再設計された KV の車体と 車台に,新設計の 3 人砲塔を搭載し たものである。プロトタイプには 85mm 砲,もしくは新しい 100mm 砲が搭載されていたが,生産型は強力な HE 射撃力と生産性から 122mm 砲が搭載されている。この生産型は西側では今まで一般に JS-1 と呼称さ れていたものである。実際には IS-1 は 85mm 砲搭載型のこと(当初の呼 称は IS-85)で,100 両程度が生産され,実戦にも投入(1944 年 2 月,チ ェルカッシィ)されている。のちに生き残りの IS-1 はすべて砲塔が換装 され,IS-2 に改修された。100mm 砲搭載型はプロトタイプのみであり, IS-100 と呼ばれていた。IS 戦車は当初 21 両編成(中隊は 5 両,小隊は 2 両からなる)の独立重戦車連隊に配備された。 †1943 年 3 月‐1945 年(1.3) BPV=83 ISIS-2m:IS-2m の主な特徴は,傾 斜のついた一体型の車体上部構造で ある。これは操縦手用のバイザーブ ロックという,IS-2 の弱点に対する 改修であった。独立重戦車連隊への 配備の他に,65 両編成の独立重戦車旅団にも配備された。IS-2 は各形式 合わせて 3,854 両が生産された。IS-2m は,西側で今まで JS-2 と呼称し ていたものである。IS シリーズの主な戦術上の欠点は,非常に低い発射頻 度と,28 発の砲弾しか搭載できないが故の弾薬不足であった。 †1944 年 7 月‐1945 年(1.2) ShermanIII: ShermanIII:1942 年 9 月,およ そ 200 両の 75mm 砲型シャーマン III(M4A2)の最初の船積みが行わ れた。その後,1943 年 7 月までは船 積みされなかったが ,それから は 1944 年まで続いた。1944 年 12 月 31 日までの間に合計で 1,991 両の M4A2 と 2 両の M4A4 が届けられた。ロシア軍は当然のごとくシャーマンを T-34 より劣るとみなしていたが,その信頼性には驚嘆せざるを得なかった。な ぜなら,シャーマンには T-34 が機械的故障をせずに走行できる距離の 3 倍を走ることが期待できたからである。 †1944 年よりも前(すなわち 1943 年以前)では MA の TH#は赤色を使 用するが,1944 年以降は黒の TH#を使用する。このことはカウンター裏 面に“Red TH#s(Pre44)”と記載されている。 †1943 年(1.5),1944‐45 年(1.4) BPV=68 M4A2/76(a): M4A2/76(a):ロシア軍は戦争の最 後の 2 年間において,他のどのレン ド‐リース車両よりも多くのシャー マンを使用した。M4A2/76(w)の船積 みは 1944 年 5 月から始まり,最終 的には 2,095 両が送られた。この形式は,ロシアに送られた唯一の 76mm 砲搭載型であった。いくつかの戦車/機械化軍団はシャーマンのみを装備し ていた。その一例が 1945 年における第 1 親衛機械化軍団である。この車 両はジャイロスタビライザー(D11.1)を装備可能であり,2 インチ煙幕 迫撃砲(sM8)を通常装備していた。 †この車両の 76L は黒の TH#を用い,米軍の AP/APCR 弾の TK#を用い る。 †1944 年(1.5),1945 年(1.4) BPV=76 ロシア軍車両特記事項 M.戦争初期におけるロシア軍装軌式 AFV は,悪名高い貧弱な変速機を 搭載していた。故障がちであるばかりでなく,変速切り替えが大変困難だ ったのである。実際,多くの車両が標準装備として大型のハンマーを備え ており,操縦手はシフトレバーに対して動くよう「説得」するためにそれ を使用したのである。このため,これらの車両が機械的信頼性 DR で 11 を出した場合,その AFV は失速もしくは変速機の不調により始動に失敗 したものとみなす。その場合再び DR を行い,その目が失速時に遅延 MP としてその AFV が無為に消費(停止に必要な 1MP を含むが,始動に用い た 1MP は含まない;例えば,始動を宣言して DR11 を出し,さらに追加 DR で 5 を出した AFV は,合計 6MP を無為に消費していまだ停止してい るのである)してしまった MP として適用する。失速した車両は,MP が 残っていれば再度始動を試みることができるが,そのたびに機械的信頼性 (失速)DR を行わねばならない。失速した車両も,始動のための 1MP を消費した時点で自身の MPh を開始しているので,臨機射撃の目標にな りえる。ただし,その MPh 中に新たに別のヘクスに移動していないのな ら,『移動した目標』とみなされることはない。失速による遅延 MP が, その車両の残りの MP を上回った場合,その車両は残りの MP を遅延に用 いて MPh を終えたものとみなす(超過分は無視する)。 ロシア軍 砲兵器ノート 50mm RM obr.40: obr.40:この迫撃砲は,複雑す ぎた 38,および 39 型に代わって,ソ連軍の 標準的中隊迫撃砲となった。その設計は非常 に簡素で,射撃時の仰角は 45°と 75°の 2 つにセットできるだけであった(一部の資料では 82°にもセットできたと ある)。砲身基部に調節可能な排気弁が付いており,発射ガスを逃がすこ とができた。これにより,仰角の調整なしで射程を短くすることができた のである。大量の RM40(およびその後継の 50mm RM obr.41)が生産さ れた。しかし,ドイツ軍と同様に,軽迫撃砲は破壊力にかけるために徐々 に支持を失い,戦争の進展とともに使用されなくなっていった。 82mm BM obr.37 迫撃砲:フラ ンス製ブラント中迫撃砲を,若干の 再設計を施してコピーしたもの。こ の兵器は標準的な大隊支援用に使 用された。より後期のモデル(41 および 43 型)には車輪が取り付けられており,そのため,長距離移動の 際に迫撃砲そのものを分解する必要がなくなった。 BPV=87 †1939‐41 年(1.1),1942 年(1.3),1943‐45 年(0.9)BPV=28 11 57mm 57mm PTP obr.43 対戦車砲: 対戦車砲: この砲は 1941 年春に obr.41 として 登場したが,その数は極めて少なか った。その後,若干の改良を施して 1943 年に再配備され,戦後のソ連 でも幾年にもわたって使用が続けられた。ZIS-2 としても知られている。 †1941‐42 年(1.6),1943‐45 年(1.3) BPV=36 76.2mm 76.2mm PP obr.27 歩兵砲: 歩兵砲:堅 牢で信頼性の高い砲。75-27 として も知られている。6 門編成の砲兵中 隊が,各狙撃兵連隊に支援用として 配備されていた。ドイツ軍は,彼ら の歩兵砲である 7.5cm leIG 18 と比較して,その単純な構造と長射程を評 価していた。ゆえに,この砲はすべての戦線にわたってドイツ軍に鹵獲使 用された。そのうちの多くが,ドイツ軍が特別に生産した照準器と砲弾を 使用していた。 †1939‐45 年(1.0) BPV=30 カウンターへの補足説明 カウンターへの補足説明 SK#1 ・アメリカ軍 HMG に記載されている .50cal は,その MG の口径であ り,他の MG よりも装甲貫通能力に優れていることを示しています。 ・ソ連軍 MMG に記載されている no dm は,その MG が分解できないこ とを示しています(SK では無視)。 ・SK#1 にはターンマーカーが入っていません。 SK#2 ・青い 1/2 捕捉カウンター『B』の表面の ID が『A』になっています(ミ スプリント)。 ・ドイツ軍 Sgt Stahel 8-0 指揮官の混乱面の士気値が 9 になっています(ミ スプリント:後の版で是正との情報あり。未確認)。 ・BAZ45 は弾薬欠乏ナンバー6で WP 弾を射撃できます。WP6 がそれを 表わしています。 ・いくつかの迫撃砲の裏面にある『IR』は照明弾射撃能力を表わしていま す。また,いくつかの砲にある A・D・C は特殊弾薬の略号です(SK では C を無視)。 ・S13 のプレイにはドイツ軍の 548 分隊のカウンターが 1 つ足りません(ミ スプリント)。 76.2mmPTP obr.39 obr.39 榴弾砲: 76‐39 とも呼ばれるこのソ連製 の野砲は,対戦車能力も備わるよ うに設計されていた。より軽量で, 人力による扱いが容易だったため, 76‐36 型への代替として期待されていた。ゲームのカウンターにはより 後期の 42 型(76‐42)が含まれており,これは新しい砲架とマズルブレ ーキを備えたものであった。この 2 つのタイプの砲は,戦争を通じてソビ エトの標準的な軽野砲/中対戦車砲となった。1 個中隊は 4 門の砲から編 成されていた。これらの砲は戦争終結後も何年間も使用され,現在でも幾 つかの軍隊では現役の座にとどまり続けている。高初速の 76mm 砲は,ド イツ軍から“crash‐boom(クラッシュ‐ブーン:破壊‐砲声)”とあだ 名された。超音速の砲弾が目標で爆発した後に,砲弾の飛来音が聞こえる ためである。超音速の砲弾を発射する方は全て“crash‐boom”と呼ばれ ても良いわけだが,このあだ名が付けられたのは初期の 76mm 砲だけだっ た。この砲との遭遇がそれだけ一般的だったからである。 †1939‐42 年(1.1),1943‐45 年(0.9) SK#3 ・麻痺(STUN/stun)カウンターの裏面には+1DRM が適用される事項 が列挙されています。このうち OVR は蹂躙攻撃(オーバーラン)を意味 していますが,SK#3 に蹂躙攻撃のルールは存在しません。 ・走行不能(Immobilized)カウンターに,TC,および D5.5 の表記があ りますが,SK では無視します。 SK#1~3 SK#1~3 共通 ・DC カウンターの射程 1 は,隣接へクスへの攻撃を示唆するものであり, 射撃の射程ではありません。裏面の Thrown:+2/+3 Set:36FP は投げ 込みや設置などの使用に関してです(SK では無視)。FT/DC カウンター の△は,指揮修整値適用不可の記号です。 ・PIN カウンター裏の SF に該当する用語は『散布射撃(SK には存在せ ず)』 『過度の射撃』がありますが,いずれも釘付け状態でも実行可能です。 ミスプリントと思われます。IF は砲の追加射撃のことです。 BPV=35 122mm 122mm P obr.31 榴弾砲: 榴弾砲:この 砲は 122-31 としても知られており, 完全なソ連オリジナルの設計であ った。一時期,152mm 榴弾砲 (152-10/34 型)の砲架が用いられ た。後期型(122-37 もしくは A-19)とともに,この砲は野砲師団,もし くは独立野砲旅団で用いられた。2 門で中隊を構成し,6 門で大隊を構成 していた。A19 にいくつかの改良を施したものが,ISU-122 突撃砲,なら びに IS 重戦車に搭載された。 †1939‐45 年(1.3) BPV=44 H 章への補足について H 章で追加されている青字の補足のほとんどは,訳者自身が AFV マニアであることによる,余計なお世話的内容にすぎませ ん(一部は完全に抜けていたものの補足です:例えば 3 号 F 型の BPV や,M4A2(76)のレンドリース総量など)。ただし,一部は オリジナルの内容への『追加』ではなく, 『変更』になっていま す。例えば TigerI の師団所属中隊の登場時期に関してですが, これの一部が 1943 年の 7 月になっていたのです。これだとチタ デレ作戦からの投入ということになりますが,ここに書かれてい る 4 個師団はいずれも 1943 年 2 月から 3 月のハリコフ攻防戦に 参加しており,そのティーガー中隊は少数ながらも卓越した働き を見せたのです。また,BT,および IS 戦車に関する補足は,ASL が最初に出た当時と今との旧ソ連の情報公開量の違いによるも のです。最新の研究ではまた違う内容になっているかもしれませ ん。ゲームのルールに関する部分ではないので,異なる資料をご 存知の方も「プレイには支障なし」とお考えください。 日本語版翻訳& 日本語版翻訳&校正:JAPAN ASL Enthusiasts 補足コメント 補足コメント& メント&最終責任者:Satoru“66”Kimura ASL STARTER KIT #3 CREDITS デザイン・ディベロップ:Ken Dunn&MMP デザイン・ディベロップ: マップアート:Ken Dunn,Kurt Miller&MMP マップアート: シナリオデザイン:Ken Dunn,Janusz Maxe,Kevin Meyer, Pete Shelling,and Brian Youse プレイテスト:Chris van Wyk,Reid Hutchinson,Steven プレイテスト: McCord,Alan Anderchuk,Wayne Anderchuk,Andres Dunn (YouseHouse イレギュラーズの面々に感謝 Ken Dunn, Kevin Valerien , Darren Emge , Gary Phillips , Derek Spurlock,and Buck Karpowitz) 校正:Hunter Johnson,David Lentini,Ole Boe,Kevin 校正: Valerien,Forrest Atterberry,Jay Richardson,and Mark Pitcavage カウンター凡例 カウンター凡例 表面 砲の名称 着荷状態 (SK では無視) 360°砲架 人力移動ナンバー (M#) 砲身長 修理ナンバー (R#) 目標サイズ 白 =小 赤#=大 黒#=標準 上線 AP 弾射撃不能 下線 HE 弾射撃不能 故障中 (白い×印) 射程 [最小‐最大] 特殊弾薬 IR=照明弾;SK では無視 s#=煙幕弾 除去ナンバー (X#) 迅速配置 (人力移動可能) 低速回転砲塔 (白い四角) 目標サイズ 白丸=小 赤字=大 両方が赤字=巨大 黒=標準 射撃頻度 (ROF) 口径(mm) 砲の種別 AA=対空砲 AT=対戦車砲 MTR=迫撃砲 ART=野砲 INF=歩兵砲 歩兵火力相当 (IFE) 射撃頻度 (ROF) 口径(mm) 裏面 砲身長 ティーガー 操作班士気値:9 AFV の種別 白い楕円=完全装軌式 白い円=装甲車 APDS 欠乏ナンバー(D#) S4=1944 年 9 月/1945 年 近接防御兵器 煙幕射出器使用ナンバー (sN#) 煙幕迫撃砲(sM#) 使用ナンバー ID 前面装甲値 ○=脆弱な砲塔 側面/後面装甲値 □=強固な砲塔 高速回転砲塔 (白い円) 榴弾欠乏ナンバー(HE#) 車両の名称 弾薬欠乏 (B#○) 白い点= 固定式 BMG 接地圧 □=低接地圧 ○=高接地圧 無印=中設置圧 操作班脱出ナンバー (SK では無視) 砲塔後部機銃 (RMG:2FP) 機銃(MG)火力 BMG/CMG/AAMG 追加射撃不可 APCR 欠乏ナンバー(A#) 1942 年/1943 年/1944 年 移動ポイント(MP) 赤字=機械的信頼性 DR 制限付き低速回転砲塔 (白い太線の四角) 無線機非装備 (SK では無視)